市民福祉教育の実践と研究において、「市民性」と同じほどに、地域社会に形成・創出される「公共性」についての議論は重要である。
今日、「公」が「官」(=政府・行政)によって独占されてきた社会構造が大きく揺らぎ、公共性の意味の転換過程が進行している。具体的には、1980年代以降、新自由主義的な行政改革が推進されるなかで、「新しい公共」をめぐる議論が活発化してきた。ここ10年の動向を一瞥するだけでも、たとえば次のような報告などが注目される。
2000〈平成12〉年12月、厚生省に設置された「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」が『報告書』を公表した。そこでは、近年における社会経済環境の変化にともなって、「心身の障害・不安」「社会的排除や摩擦」「社会的孤立や孤独」といった問題が重複・複合化し、「新たな福祉課題」への対応が求められている。そうした現状を踏まえて、「社会福祉協議会、自治会、NPO、生協・農協、ボランティアなど地域社会における様々な制度、機関・団体の連携・つながりを築くことによって、新たな『公』を創造していくことが望まれよう」、と論じられた。
2004〈平成16〉年5月に発行された『国民生活白書(平成16年版)』は、「人のつながりが変える暮らしと地域―新しい『公共』への道」というタイトルのもとに、地域における住民の活動に焦点をあて、その意義について考察するとともに、地域の活動の受け皿となる組織・団体の状況や、行政やNPO、企業等との連携・協働のあり方などについて報告した。
2005〈平成17〉年3月、総務省に設置された「分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会」が『分権型社会における自治体経営の刷新戦略―新しい公共空間の形成を目指して―』を報告した。そこでは、「人が生き生きとして地域社会に関わり、また、自治体運営を持続可能にしていくためには、もはや公共を行政のみによって担うという考え方から脱しなければならない」。「地域の様々な主体が自治体と協働して公共を担う『新しい公共空間』の形成こそが、これからの自治体運営の基本理念となるのではないか」、と説いた。
2008〈平成20〉年3月、厚生労働省社会・援護局長のもとに設けられた「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が『地域における「新たな支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新しい福祉―』を報告した。そこでは、「地域における多様なニーズへの的確な対応を図る上で、成熟した社会における自立した個人が主体的に関わり、支え合う、『新たな支え合い』(共助)の拡大、強化が求められている」。「ボランティアやNPO、住民団体など多様な民間主体が担い手となり、地域の生活課題を解決したり、地域福祉計画策定に参加したりすることは、地域に『新たな公』を創出するものといえる」、とした。
2010〈平成22〉年6月、内閣総理大臣によって設置・開催された「新しい公共」円卓会議が「新しい公共」宣言を行った。そこでは、「新しい公共」とは、「支え合いと活気のある社会」を作るための当事者たちの「協働の場」である。「『国民、市民団体や地域組織』、『企業やその他の事業体』、『政府』等が、一定のルールとそれぞれの役割をもって当事者として参加し、協働する」ことが期待される。「新しい公共」の主役は国民である。国民自身が、「当事者として、自分たちこそが幸福な社会を作る主役であるという気概を新たにし」、「一人ひとりが、人の役に立ちたいという気持ちで、小さな一歩を踏み出す」ことこそが「新しい公共」の基本である、とされた。
こうした政策的な提唱・提言や宣言などを受けて、今日、国や地方自治体の行政改革と財政再建が焦眉の課題とされるなかで、「新しい公共」の創出や「新たな支え合い」の強化が叫ばれ、住民(市民)やボランティア、NPO、地域組織・団体などと行政の「協働」が推進されている。しかし、上述のそれらは、またそれに基づく取り組みの多くは、自治体主導・自治体優位の、「上から」の「新しい公共」であるといわざるを得ない。真に求められるのは、主体的・能動的・自律的な住民による住民主導・住民優位の、「下から」の「新しい公共」である。それは、「新しい公共」の創出にとって、新しい「私」の育成(住民の主体形成)が大きな課題となることを意味する。ここで、次の言説に留意しておきたい。「阪神・淡路大震災が一気に開いて見せた市民ボランティアの力は、日本の潜在力をあらためて再認識させるとともに、既成の日本人観を完全に覆した。行政と市民の関係が逆転し、行政による公共の独占がいかに虚構であるかも明らかになった」(林泰義)。
公共性は、教育とともに、福祉においても極めて基本的な概念でありながら、これまで必ずしも十分に議論されてきたとはいえない。教育の世界では、教育の私事化(個人や企業の利益追求のための教育)の進行のもとで、子どもの学習権保障などを媒介にしながら、教育の公共性をめぐる論争が広範に展開されている。それに比して、福祉の世界では、公助・共助・自助について、その理論検証がなされないままに議論が提唱・展開され、一面ではその連携・協働による福祉のまちづくりのあり方や方向性を単に指摘するにとどまっている、といわざるを得ない。
公共性はまた、豊穣かつ多義的な概念であり、その定義は難しい。それゆえにか、「新しい公共」をめぐっては、公・私の二分論をはじめ、公・共・私の三分論、官・公・私・民の四分論、あるいは共を公と私の中間・隙間として捉える中間論・隙間論や、公と私は共同性のうえに成り立っているという共同性根底論(田中重好)等々、議論は多様である。
いうまでもなく、住民の日常的な地域生活は、私的であるとともに、集合的であり、共同的である。田中の言説によれば、現代では、その集合性と共同性は2つの方向に向かって乖離してきた。現代都市に代表される「共同性なき集合性」と、近代国民国家に代表される「集合性なき共同性」がそれである。こうした集合性と共同性の乖離、とりわけ「共同性なき集合性」は、都市に限らず農村地域社会においても拡大している。平易にいえば、かつては伝統的・強制的な「向こう三軒両隣」のつながりや支え合いがあった。それが、今日では、「隣は何をする人ぞ」といわれるほどに、住民の地域帰属意識の希薄化や共同性の衰退が深刻なものとなっている。そういうなかで、いま改めて求められるのは、自治的・自律的な新しい「向こう三軒両隣」の集合性と共同性である。
田中はいう。地域社会における「共同性が形成されるためには、潜在的な共同性が自覚され、さらにそれが一定の目的を持った共同性へと鋳直されることが必要となる。その時初めて、地域の共同課題の解決へと人々は動き出すことになり、その最終的な『共同の解決策』をささえるものとして公共性を作りだすことになる」。現代日本社会は、「地域社会のなかから公共性が生み出される可能性を獲得した」。「それを具体的に進めるためには、地域社会内部で公共性を創造する仕組みを自らつくり出すことが必要である」。
それぞれの地域において、地域独自の「小さな公」(林)や「地域的公共性」(田中)を形成・創造するのは、そこに暮らす生活主体・権利主体としての、自立的・自律的な住民(市民)である。福祉のまちづくりは、典型的な新しい「小さな公」「地域的公共性」を創りだすことであり、その担い手の育成・確保がいま、喫緊の課題となっている。その課題解決のためには、まずは住民による、草の根の参加デモクラシーと討議デモクラシーの創出・強化が肝要となる。また、行政(地方自治体)や専門家、NPO等の相互連携による包括的な基盤整備や具体的支援が必要となる。そして、福祉のまちづくりを推進するための行政による財源保障や、住民の寄付文化の創造・定着も重要となる。
なお、ここでいう住民には、子どもをはじめ、高齢者や障がい者、外国籍住民などの社会的弱者や福祉サービス利用者が含まれることはいうまでもない。福祉サービスの利用者やその家族、支援者などによって集合性と共同性が創りあげられ、そこから「小さな公」「地域的公共性」が生みだされるとき、福祉のまちづくりはその力量を高めることになる。
以上は、地域住民はもちろんのこと、自治体やNPOの職員、専門家などを対象にした市民福祉教育が存立し、そのあり方が問われるところである。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、82~87ページ)