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阪野 貢/「やまゆり園事件10年」:なぜ殺されなければならなかったのか?―「内なる差別」と共生社会の欺瞞、そして福祉教育の虚構―

〇筆者(阪野)が購読している新聞の2026年7月26日付社説、「やまゆり園事件10年:内なる差別に向き合おう」を読み、私たちのなかに潜む無意識の偏見や差別、優生思想、それらを乗り越えるための公私の施策や取り組み、そして「福祉教育」のあり方などについて、改めて考えさせられた。(⇨参照
〇事件から10年という節目を迎えるいま、被害者家族や施設職員、あるいは支援者の想いはいかばかりか。政府が進める障がい者の地域移行の施策は、実際にどこまで進展しているのか。また、障がい者との「共生」という考え方は、学校や地域・社会に定着してきたのか。とりわけ知的障害や精神障害をもつ人々は、置き去りにされてきたのではないか。そして、これまでの福祉教育は、無意識の偏見を解消するのに有効に機能してこなかったのではないか。偏見や差別の克服は教育だけでなく、社会全体で取り組むべき課題であり、学校における福祉教育に過大な期待を寄せてきた面はなかっただろうか。その学校教育としての福祉教育は、全教科・全領域での展開や、人権教育・道徳教育・平和教育などとの連携に十分な関心を払ってこなかったのではないか――。
〇こうした問いを友人や知人に投げかけたところ、さっそく熱量のこもった2通の回答をいただいた。それぞれの視点から見えてくる福祉教育の現状と課題、そして展望についての一文を、ここに紹介させていただきます(読みやすさを整えるため、文章の構成と語句を一部修正しています)。

【社説】
やまゆり園事件10年―内なる差別に向き合おう
「不幸な存在」と勝手に決めつけられ、命を奪われた重度障害の人たちの鎮魂を願わずにはいられない。相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に起きた入所者19人殺害事件から10年がたった。
事件の記憶が薄れつつある一方、人間の命に優劣をつけて「劣った遺伝子」を後世に残さないとする西洋の優生思想が形を変えて日本の社会に色濃く残る。
ユダヤ人や障害者、同性愛者らを迫害した戦前のナチス・ドイツに多大な影響を与えた優生思想は、「重度障害者はお金と時間を奪う不幸の元だから、必要ない」と凶行に及んだ植松聖死刑囚の発想に通じる。
経済合理性を重視する社会では、生産性や能力の高さで人の価値を測る風潮がはびこり、インターネットの空間は障害者を「役に立たない」「支援は税金の無駄遣い」などとする中傷であふれる。忌まわしい優生思想と地続きだ。
国は、障害者が施設から地域での生活に移行することを推進している。だが現実は、知的・精神障害者向けグループホームなどの新設に近隣住民が反対し、事業者側と対立する「施設コンフリクト」も少なくない。
偏見や差別は、誰もが大なり小なり持ち得る。障害者は不幸なのか。なぜ障害者に恐れを感じるのか。 一人一人が「内なる偏見や差別」に向き合えば、障害や能力主義に対する見方が変わるきっかけになるだろう。
人の価値を経済指標の一つに過ぎない生産性と結びつけるのは、理屈が通らない。仮に生産性で決まるのなら、乳幼児や失業者、寝たきりの人らも価値がないことになる。司法から社会に不要とされたも同然の植松死刑囚も、その一人にくくられよう。
国は障害者権利条約の批准に伴い、障害者の人権を守るための法整備を進めてきたが、福祉施設・事業所における虐待事案は増加し続けている。厚生労働省の調査では24年度に1267件と過去最多を更新し、被害者は2010人に上った。
多くの現場は慢性的な人手不足に悩まされている。職員が心身ともに疲弊し、感情の抑制が利かなくなって虐待に至るのも増加要因の一つだ。
障害福祉事業者の不正受給も拡大の一途をたどっている。指導監督権限を持つ自治体の対応は追い付いていない。ほぼ税金で賄われる障害福祉の総費用は25年度で約4兆3千億円。福祉の理念よりも利益優先の事業者の参入を招いた。
障害者向けグループホーム大手運営会社「恵」が、利用者から食材費を過大に徴収するなどしていたのは「経済的虐待」の典型といえる。
24年施行の改正障害者差別解消法は、障害者の困り事に無理のない範囲で対応する「合理的配慮」を企業に義務付けている。だが障害者への配慮や差別解消に関する研修に取り組む企業は少ない。内閣府の調査では未実施の企業が8割に上る。浸透は不十分と言わざるを得ない。
植松死刑囚が「共生社会を目指すのは間違っている」と言ったのは、差別解消をうわべだけで語る社会の欺瞞を肌で感じていたからではないか。
障害がない人本位に最適化された社会のありようを自分事として見つめ直す。それが共生社会の実現へ一歩踏み出すことにつながる。

【毛見さん】
正直に言うと、この社説を読んで少し落ち込んだ。相模原の事件からもう10年か、という感慨と同時に、自分たちは本当に何か変わったのだろうか、という疑問が拭えなかった。経済合理性、SNS上の中傷、施設コンフリクト、虐待の増加など、記事に挙がっている問題は、どれも社会の歪みの表れであると同時に、たぶん自分自身の心の中にもある何かを映し出しているのだと思う。
こうした問題に向き合うには、これまでのような福祉教育のやり方では正直足りないのではないか、と感じている。以下、思うところを書いてみたい。
まず、今の福祉教育がどうなっているかだが、学校では車椅子体験やブラインドウォーク、当事者を招いての講話といったものが定番になっている。企業でも、障害者差別解消法の施行以降、人権研修やダイバーシティ研修が少しずつ増えてきた。これ自体は悪いことではないし、一定の効果もあったはずだ。
ただ、課題も多い。
一つは、体験学習がどうしても「かわいそう」という同情で終わってしまうことだ。車椅子体験は障害の不便さを一瞬感じさせてはくれるが、下手をすると「障害者は大変で気の毒な存在」「自分は恵まれている」という優越感を裏で強めてしまう。これでは対等な関係を築くどころか、逆効果になりかねない。
もう一つは、学校で学んだ知識が実社会に出た途端に役に立たなくなることだ。内閣府の調査では、差別解消に向けた研修をやっていない企業が8割にのぼるという。学校を出れば、そこはネット上の「税金の無駄」的な言説が渦巻く世界で、教室で学んだことなど簡単に押し流されてしまう。
それから、これは自戒を込めて書くのだが、「生産性」という物差しを子どもの頃から無意識に刷り込まれている、という点も見過ごせない。テストの点数や効率で評価される日々を送っていれば、「福祉教育で優しさを学びました」くらいでは、その根っこにある能力主義的な価値観はびくともしない。
では、これからどうすればいいのか。
一番大事なのは、他人を「学ぶ」教育から、自分自身の中にある恐れや抵抗感を見つめ直す教育への転換だと思う。「なぜ自分は障害者に対してどこか身構えてしまうのか」「自分自身も『役に立たなければ』というプレッシャーに怯えていないか」、こういうことを、対話を通じてじっくりほぐしていく場が必要だ。植松の考え方を「自分とは無縁の異常者の妄想」として切り捨てるのは簡単だが、そこで思考を止めてはいけない気がする。
あと、障害を個人の問題として見る「医学モデル」ではなく、社会の側に障壁があるとする「社会モデル」の視点も、もっと当たり前に教えられるべきだろう。生産性で人を測る発想自体、健常者中心に社会が作られていることの結果でしかないのだから。
一回きりのイベントではなく、日常的に多様な人と関わり続けることも欠かせない。グループホーム建設への反対運動の背景には、結局のところ「よく知らないもの」への漠然とした不安があるのだと思う。子どもの頃から重度障害のある人と共に過ごす経験こそが、一番の土台になるのではないか。
最後に、福祉やケアの仕事の価値をどう捉え直すか、という点も避けて通れない。虐待の増加も人手不足も、結局「ケアという仕事」を社会が軽く見ていることの裏返しだと思う。経済的な生産性だけを「貢献」とみなす社会通念に対して、他者をケアすること、ただ生きていることそのものの尊さを、教育の核に据え直す必要がある。
やまゆり園の事件が突きつけたのは、口では差別解消と言いながら、裏では効率や能力で人を選別し続ける社会の欺瞞だったのだと思う。この欺瞞を超えるための福祉教育は、「障害者に優しくしましょう」という道徳の授業であってはならない。自分たちが知らないうちに飲み込んでしまっている優生思想や能力主義から、自分自身を解き放つための教育でなければ、意味がないと思う。
障害のあるなしにかかわらず、誰もがそのままで存在を肯定される社会へ。自分の中の差別から目をそらさず、問い続けることこそが、犠牲になった方々への一番の弔いになるのではないか。10年が経った今もなお、能力主義や優生思想は形を変えて残っている。ネット上の心ない言葉も、地域の施設コンフリクトも、現場の虐待の増加も、結局は私たちの中にある「内なる差別」の表れなのだと思う。植松の言葉を単なる異端者の妄言として片付けず、健常者中心に組まれた社会の歪みとして受け止め直すこと。そこから始めるしかないのだろう。

【加藤さん】
10年、という数字をどう受け止めればいいのか、よくわかりません。19人の命が奪われたあの事件から、もう10年が経ったのか。それとも、まだ10年しか経っていないのか。
事件のことを思い出すたびに、私は、いつも同じところで立ち止まります。植松死刑囚の言葉を「特殊な異常者の妄想」として片付けてしまえば、話は簡単です。でも、本当にそれでいいのだろうか。彼の言葉に、どこかで頷いてしまう自分がいないだろうか――そこから目をそらさずにいたい、といつも思うのです。
福祉教育とは何か。教科書的に言えば、障害や高齢、貧困といった困難を抱える人々への理解を深め、共に生きる社会を目指す教育、ということになるのでしょう。学校では総合学習や道徳の時間を通じて、障害理解の授業やボランティア体験、施設との交流などが積み重ねられてきました。障害者権利条約や差別解消法の考え方を受けて、インクルーシブ教育という言葉も、以前よりずっと身近になりました。障害者を「守られる存在」から「共に社会をつくる一員」へ――この意識の転換は、確かに前進してきたと思います。
けれども、意識の面でどれだけ言葉が整っても、学校という仕組みそのものは、今なお障害の有無で子どもを分ける「別学」「分離」を前提にしたままです。理念と現実の間には、まだ大きな溝が横たわっている。そのことを、私たちはどれだけ自覚できているでしょうか。
いくつか、心に引っかかっていることを書いてみます。
車椅子体験や高齢者疑似体験。あれは確かに、何かを感じるきっかけにはなります。でも、あの一度きりの体験が、「障害者はいつも助けてもらう側の人」という思い込みを、かえって刷り込んでしまってはいないでしょうか。本当に必要なのは、障害のある人自身の暮らしや思いに、日々のなかで触れ続けること。そして、障害というものが個人の内側にあるのではなく、社会との関係のなかで作られているのだと、体で分かっていくことなのだと思います。
それに、学校で何を学んでも、卒業して社会に出た途端、その学びが宙に浮いてしまうことはないでしょうか。内閣府の調べでは、合理的配慮の研修を行っていない企業が、実に8割にのぼるといいます。教室のなかでどれだけ丁寧に育てた感覚も、その先に受け皿がなければ、簡単に忘れられていく。福祉教育は、子どもたちだけのものではなく、企業や自治体、地域に暮らす大人たち全員の、生涯にわたる学びとして組み直す必要があるのではないでしょうか。
もう一つ、見過ごせないのは、障害者を取り巻く現実そのものが、まだ十分に知られていないということです。福祉施設での虐待は過去最多を更新し続けています。その背後には、慢性的な人手不足と、疲弊しきった職員の姿があります。不正受給や、いわゆる経済的虐待も後を絶ちません。福祉教育というものが、障害への理解にとどまらず、こうした制度の歪みや現場の苦しさにまで踏み込み、「その制度を支える一市民として、自分に何ができるのか」を考えさせるものであってほしい、と願わずにいられません。
では、これから先の福祉教育は、どこに向かえばいいのでしょうか。
まず、「かわいそうだから助ける」という慈善のまなざしを、手放すべきです。目指すべきは、すべての人の権利を守るという意味での人権教育への転換だと思います。障害者は支援を受けるだけの存在ではなく、自らの意思で社会に関わっていく、一人の市民なのですから。この視点に立って初めて、「生産性」という物差しで人の価値を測ろうとすること自体を、問い直せるのだと思います。
そのうえで、特別な機会ではなく、当たり前の日常のなかで関わり合う時間を増やしていくこと。同じ教室で学び、同じ町で暮らし、同じ職場で働く――そういう積み重ねのなかでこそ、「特別な存在」という眼差しは、少しずつ薄れていくものだと思います。偏見の多くは、結局「知らない」ことから生まれるのですから。
そして最後に、これが一番重要なことですが――自分自身のなかにある差別に、気づき、自覚し続けることです。差別は、決して他人だけの問題ではありません。誰の中にも、無意識のうちに能力や生産性で人を測ってしまったり、自分と違うものに不安を覚えたりする瞬間があります。それを恥じて隠すのではなく、「なぜ自分はそう感じたのか」「その感じ方は、誰かを傷つけていないか」と、問い続けること。福祉教育とは、知識を授ける営みである以上に、自分自身を絶えず省みる営みなのだと、私は思います。
やまゆり園の事件は、一人の犯人だけが抱えていた特殊な問題ではなかった。社会のなかに潜んでいた優生思想や能力主義を、私たちの前に映し出した鏡だったのだと思います。だからこそ、この出来事を風化させてはいけない。「命の価値は、生産性で決まるものではない」という、当たり前のはずのことを、これから先の世代へも手渡し続けなければならないと思います。
福祉教育とは、障害者について学ぶための教育、というよりも、自分自身の価値観を問い直し、多様な人々が互いを尊重しながら生きていく社会をつくるための教育なのだと、改めて感じています。一人ひとりが、自分のなかの差別と向き合い続けること。遠回りに見えても、それこそが、この事件を二度と繰り返さないための、確かな道になるのではないでしょうか。こんなことをいま、改めて思っています。

〇毛見さんの回答では、「能力主義」「社会モデル」「内なる差別」が強調されている。加藤さんのそれでは、「学校教育」「生涯学習」「人権教育」が注目されている。2人の考えに共通しているのは、これまでの福祉教育が陥りがちであった「車椅子体験などの一時的な同情」や「差別はいけませんという道徳的スローガン」の限界を厳しく見つめ直している点である。
〇すなわち、福祉教育は、障がい者と関わることによる「感動」や「思いやり」にすり替えることで、無意識の偏見を覆い隠してきたのではないか。車椅子体験などの「アトラクション化」によって、社会構造の問題や構造的な排除を「個人の道徳心」に回収してきたのではないか、という問い直しである。
〇人間の価値を生産性で測る社会構造(経済合理性を重視する社会)のなかで、私たち一人ひとりが抱く「不気味さ」や「恐れ」といった「内なる差別」の存在を隠さず直視すること。そして、「何ができるか(Doing)」ではなく、「ただそこに生きていること(Being)」を尊重し合う人間観に立脚すること。 福祉教育とは、障がい者や高齢者に対する「思いやりの心」を育むための教育にとどまらず、多層的・多角的なアプローチを通じて社会構造そのものについて批判的に言及し、同時に自分自身の人間性を問い直していく、実践的で持続的・総合的な営みである。
〇すなわち、福祉教育とは、社会のあり方や私たち自身の価値観を問い直し、「生産性によって人の価値は決まらない」という人権の理念を社会全体で共有していくための教育に他ならない。その点において、福祉教育は、効率や能力主義に偏りがちな現代教育の原点を問い直し、すべての人の「命」と「生」が保証され、「尊厳」を持って豊かに共に生きられる社会を拓く「学びの基盤」として位置づけられるべきであると、改めて強く認識させられた。
〇「福祉教育」の実践と研究はいまだ道半ばである、と言って立ち止まっている暇はない。福祉教育の実践と研究とは、社会の歪みを告発し、すべての人の命を護り、生を肯定し、人間としての尊厳を無条件に認め合うための、根源的な社会変革のエネルギーそのものでなければならない。したがって、福祉教育は、障害のある人やその家族を支援や学びの対象として捉えるだけでなく、自らの経験や思いを発信し、地域社会のあり方を共に考え創り上げる主体として位置づけることが重要となる。障がい者本人やその家族の声に学び、その参加(参集、参与、参画)を通じて実践を進めることが、共生社会の実現につながるのである。
〇重ねて強調しておきたい。福祉教育とは、「支援する側」と「支援される側」という固定した関係を超えて、誰もが他者との関係性のなかで生きる存在であることを学び直し、人間の価値を生産性ではなく存在そのものに見出す社会、人間の尊厳を基盤とした共生社会を構築するための批判的・共働的実践である。

阪野 貢/中村哲の「平和」考:「平和とは戦争がないことではない」 ―「人間とは命であり、自然と人、人と人の関係性のなかにしか生きられない存在である」―

〇筆者(阪野)の手もとに、中村哲に関する本が4冊ある(それしかない)。
(1)中村哲『中村哲 思索と行動―「ペシャワール会報」現地活動報告集成[上]1983~2001―』(ペシャワール会、2023年6月。以下[1])。
(2)中村哲『中村哲 思索と行動―「ペシャワール会報」現地活動報告集成[下]2002~2019―』(ペシャワール会、2024年6月。以下[2])。
(3)中村哲『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い―』(NHK出版、2013年10月。以下[3])。
(4)山岡純一郎『炎と水―中村哲と名もなき人たちの旅―』(集英社、2026年2月。以下[4])。
〇[1]では、1983年のハンセン病治療から始まり、2000年の大干ばつによる人々の飢えと苦しみ、多数の幼児の死に直面して「百の診療所より一本の用水路」と唱え、命の水を引く灌漑事業を決断するに至るまでの軌跡(1983年〜2001年)が記されている(「ペシャワール会報」1号(1983年12月)~70号(2001年12月))。[2]では、 クナール河からの大用水路(マルワリード用水路)の建設、過酷な政治情勢や治安の悪化、そして2019年12月に凶弾に倒れる直前までの、中村の真骨頂である悪戦苦闘の「行動力」が克明に記されている(「ペシャワール会報」71号(2002年4月)~142号・号外(2019年12月))。[3]は、中村の、生前の最後の著作である。中村はいう。「現地三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです」(5ページ)。「あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう」(246ページ)。[4]は、35年以上にわたり医療支援と灌漑事業(用水路建設)に命を捧げた偉人・中村の信念と足跡、そして彼と出会い、共に関わった「名もなき人たち」の営みを多角的に描いた評伝である。
〇中村は、「平和とは実体であり、観念の問題ではない」([2]332ページ)。「平和とは消極的なものではありません。それは戦争以上に忍耐と努力、強さが要ります。『平和』は、私たちの祖先が血を流して得た結論の筈です。弱い者に拳を振り上げて絶叫するのは、人として卑怯かつ下劣な行為です」([2]74ページ)という。中村が「好む言葉」に「一隅を照らす」([1]254ページ)がある。そして中村は、「私たちの事業は『小さくとも美しい』、『空砲ではなく実弾』〔引用者注:理念より行動を。議論より実のある支援を〕をモットーに進められてきました」([1]300ページ)という。
〇本稿では、[1]と[2]を中心に、留意すべき「平和」や「人間のあり方」についての言説を抽出し、その思想的な核(コア)のいくつかをメモっておくことにする(見出しは筆者)。

「重荷を負いあって生きる」という支援の原点-批判への答弁-
私がパキスタン行きの意志表明をするに当たり、日本では多くの人々の協力・激励と共に、批判もいただきました。(中略)これらの批判を要約すれば、
➀国内でもすべきことは沢山あるのに、なぜ外国までわざわざ出かけようとするのか。
➁現地には現地のやり方があり、彼らが自力で解決すべきで、外国人が親切の押し売りをするのは疑問である。
➂援助は現地の依頼心を助長し、独立性をうばう。
➃現地なりに安定した「平和な」生活を、近代的医療援助は破壊する。
というものであった。その他、極端な意見の中には、「帝国主義の手先である」とか、「人口増加に手をかして貧困を助長する」とかいうものまでありました。また、意地のわるい見方には、「自分の野心やロマンを美化するものだ」というものもあります。(中略)
先ず強調しておきたいことは、人は何処にあっても、どんな立場にあっても、夫々(それぞれ)のやり方で、夫々の重荷を負いあって生きてゆくように召されているという事実であります。これが私たちの出発点であり、くりかえし、たちかえってゆくべき共通点であります。そして、それはあらゆる立場、あらゆる国境を超えて全ての人間に及ぼされるものであります。(中略)
第二に、今日の日本の繁栄に限らず、全ての「繁栄」と名のつくものは、弱者の犠牲の上に築かれてきたことを否定するものはいますまい。悲しいまでに徹底したこの構造は、今日緩和されるどころか、明らかには意識されにくい形で強化されているというのが現状であります。(中略)その中にある私たちが、「自立更生が原則である」といって自ら何もしなければ、それは結局「人のことまでそうかまっておれるか」という態度の別の表現でしかないことがしばしばであります。
第三に、「近代化」というのは発展途上国においては、過去の日本と同様、今や押しとどめることのできない滔々(とうとう)たる歴史の流れであります。「平和なアジアの山村」というのは、われわれの頭の中にある一種の郷愁の産物でしかありません。「近代化」は私たちの想像をはるかにこえて、大規模な形で破壊的に進行している。問題は、いかに良き近代化を彼らと共に模索しあってゆくかということにあります。(中略)われわれの「援助」が「お恵み」ではなく、自助を助けるものであるべきことはいうまでもありません。
ついでに、医療援助が人口増加に手をかして貧困を助長するとか、社会矛盾を隠蔽(いんぺい)するものだとかいう批判について一言。世界最大の医療援助団体たるWHO(世界保健機関)の係官すら、「われわれがそれほどの力をもつことができたら!」というのが嘆きであるのが現実なのです。
最後にもう一度、それでもなお私たちは重荷を負いあい、支えあって生きるという姿勢を捨てるべきではありません。世界が金と力で動かされ、利己主義や敵意、我執(がしゅう)や妬(ねた)みで満ちているとはいえ、この世界をかろうじて破滅から守っているのは、このような「支えあう」という善意の努力かも知れません。([1]17~18ページ)

「哀れな人々に愛の手を」の傲慢 ―共に生きるということ―
ペシャワール会の活動は1992年を以て10年目に入る。(中略)
この間、国際化の声の高まりの中で、ある時は誉めそやされ、ある時は無関心の壁に泣き、ある時は心ない批評に耐え、我々如き取るに足らない一市民団体がよくここまで支えられて来たものだと思う。支える者も、支えられる者も、それぞれの思いを込めて活動に参加してきたに違いない。だが我々は、ただの一度も「哀れな人々に愛の手を」という美辞を並べなかった。それは、現地も日本も大方の者が、支えることによって自らも支えられるという単純な真理に気づいていたからである。([1]230ページ)

「希望」は事実を見据える努力のなかにある―静かで確かな覚悟―
希望や平和もまた、血や汗を流し、身を削って得られるものである。
日本もまた、この17年でずいぶん変化した。現地とは違うが、もっと根深い混乱に陥っているように見えて仕方がない。「人間に本当に希望はあるか」という基本的な問いを我々は共有している。漠たる不安や虚無感がはびこる中で、お手軽な解決策を説く大小の方法や権威に、我々はこと欠かない。人々がやすやすと、これらの餌食になる事情はどこでも、いつでも、同じである。それが政治スローガンであろうと、健康を約束する怪しげな知恵であろうと、幸福と自由を保証する何かの教えであろうと、名利や所有への没入であろうと、享楽による忘我の技術であろうと、科学技術への楽天的な信仰であろうと、同じことである。まして、巧妙な宣伝技術で消費欲をあおり、物質的欲望に耽溺(たんでき)させなければ回転できない経済構造など、見かけ倒しのフィクションである。
だまされてはいけない。希望は、決して捏造(ねつぞう)された思いこみや、野放図な自由の幻覚の中にはない。それは世の常とする虚構を超えて、不安の運動に左右されず、人間と自然の事実を見据えようとする努力の中にある。怪しげな偽りが跳梁(ちょうりょう)する時代の奔流の中で私たちのささやかな活動に何かの意味があるとすれば、困難の上に小さいが確かな憩いの場を築き、見捨てられた人々に慰めを与えてきた、そのことであろう。それによって、自分たちも希望と慰めを得てきたのである。([1]385~386ページ)

「平和は軍事力では達成できない」という教訓―平和憲法の危機―
狂気の時代である。グローバリズムが国際暴力主義と結合して、面妖(めんよう)な世情になってしまった。(中略)
滅びた「正義」に、別の「正義」がとって代わる。時には、「民主主義」や「平和」の仮面をかぶって戦争が正当化される。(中略)私たちは、いとも簡単に市民社会だとか、市民運動だとかを語るが、途上国の一般大衆には先ずもって「市民権」がないことを報告しておきたい。(中略)
平和を語るに消極的な日本の民心を眺めるとき、漠然と「生活と身を守る戦争なら‥‥‥」という無力感と不安が忍び込んでいるのを観る。戦後、日本の民心を正気に連れ戻してきたのは、我々の先人たちの無数の血の犠牲、その記憶たる戦争体験であった。日本は加害者であり、同時に被害者でもあった。そして、その限りにおいて、日本は「平和」の発言者たり得たのである。今まさに、先人の犠牲の結実たる平和憲法の改正が、現実の虚像に基づいて大した抵抗もなく受け入れられようとしているのは、耐え難いことである。(中略)
平和は軍事力で達成できないことを私たちは見てきた。(中略)敵は吾々の内にある。([2]100~101ページ)

「何をすべきか」と「何をしてはいけないか」、その相克―名誉ある孤立-
よく「日本だけが何もしないで良いのか。国際的な孤児になる」ということを耳にします。だが、今熟考すべきは、「先ず、何をしたらいけないか」です。「徳は孤ならず、必ず隣あり」(引用者注:孔子の言葉。正しい行いや道徳を身につけている人は、孤立することはなく、必ず理解し協力してくれる仲間(隣人)が現れるものであると言います。目先の利を離れ、和を唱えて孤立するなら、それは「名誉ある孤立」であり、世界の人々の良心に力強く訴え、真に国民を守る力、平和への国際貢献となるでありましょう。その時、私たちはアジア民衆の友であり、平和日本の国民であることに、胸を張ることができるでしょう。([2]150ページ)

「正気と人間らしさを保つ」ために―欲望と偏見を越える、ひとすじの祈り―
アフガニスタンで起きた出来事から今の世界を眺めるとき、世界は末期的状態にさしかかっているようにさえ見えます。無差別の暴力は過去の自分たちの姿です。敵は外にあるのではありません。私たちの中に潜む欲望や偏見、残虐性が束になるとき、正気を持つ個人が消え、主語のない狂気と臆病が力を振るうことを見てきました。
このような状況だからこそ、人と人、人と自然の和解を訴え、私たちの事業も営々と続けられます。ここは祈りを込め、道を探る以外にありません。祈りがその通りに実現するとは限りませんが、それで正気と人間らしさを保つことはできます。([2]375ページ)

「死んでも撃ち返すな」という信念―「信頼」こそが安全保障―
1992年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。(中略)
私たちPMS(平和医療団・日本)の安全保障は、地域住民との信頼関係である。こちらが本当の友人だと認識されれば、地元住民が保護を惜しまない。
そして、「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。私たちは、いとも容易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、そして本当に守るべきものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。([3]244ページ)

〇以上の言説は、戦乱と干ばつ、飢餓に苦しむアフガニスタンで展開されたものである。そこに通底するのは、「病気どころではない。まず生きておれ!」([1]416ページ)という愚直な 「命」(いのち)と「生」(せい)の肯定であり、「人間とは命であり、自然と人、人と人の関係性のなかにしか生きられない存在である」という、冷徹に現実を見つめた人間観、そして平和観である。そこでは、武器による防衛力や軍事力ではなく、地域住民と利害を超えて築きあげた「信頼こそが安全保障」に他ならないとされる。それは、人間は単独で完結する孤立した存在ではなく、他者と「重荷を負いあう関係性」において初めて人間たり得るという思想に他ならない。
〇従ってそれは、単に「人と人はつながって支えあおう」という情緒的なスローガンとは一線を画す。「他人様を助けることは何かを捨てることです。与えるとは自分の何かを失うことです」([1]127ページ)。自らの内にある欲望や偏見、そして他者の犠牲のうえに成り立つ「偽りの繁栄」の構造を厳しく自覚したうえで、なおも国境や立場を超えて互いに命を支えあうという「静かで確かな覚悟」である。自然と人、人と人との生々しい現実(事実)を凝視するなかで、お互いが「支え、支えられる」という人間の原点に立ち返ること――それこそが、狂気に満ちた世界のなかで正気と人間らしさを保ち、真の平和と希望を紡ぎ出すひとすじの道である。「支え合い」とは、「相手の立場を理解し、そのために心を砕く事」([1]177ページ)である。中村の言葉はこう教えてくれる。
〇別言すれば、中村が取り組んだNGO活動や平和への言説は、(1)「構造的な視点」の獲得:「人道支援」や「命の尊厳」といった情緒的・表層的な綺麗ごとではなく、現代の繁栄は弱者のうえに築かれているという社会構造を直視すること。(2)「内なる狂気」への内省:戦争の原因は、外部(他国や悪人)にあるのではなく、「私たちの内にある欲望や偏見、残虐性」が束になったものであるとする内省的なアプローチ。(3)「正気を保つための営為」としての支援:彼らの活動は、単なる「困っている人を助けるボランティア」ではなく、「人間が人間として正気で生きるための根源的な営み」であるという認識。(4)「共に生きる」ことへの覚悟:現代社会に溢れる形骸化した「絆」や「共生」という言葉と決定的・根源的に異なる、自らの身を削り、痛みを覚えながらも「共に生きる」ということについての「静かで確かな覚悟」、などが提示されているといえる。

付記
〇筆者の手もとに、批評家・作家である東浩紀の著書『平和と愚かさ』(ゲンロン、2025年12月)がある。そこで東は、「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されていることにある」(22~23ページ)と指摘する。
〇一般に「平和」とは、命の危険や生活の保障、あるいは国家の存亡といった深刻な事態を心配することなく、安心して日常生活を送ることのできる状態を指す。これに対して、東のいう「愚かさ」とは、知性や判断力の欠如を意味するのではなく、そうした深刻な問題を日常的に意識せずに暮らせる状態を指す。別言すれば、人々が戦争や国家の危機について考えずに日々の生活を営めることこそが、「愚かでいられる状態」なのである。
〇こうしてみると、「平和」と「愚かさ」は、一見相反する概念のように思えるが、実は表裏一体の関係にあることがわかる。愚かであること(=深刻な問題を考えずに済むこと)が許容される状態こそが平和であり、平和であるからこそ人は愚かでいられるのである。こうした東の逆説的な視点は、単なる言葉遊びではなく、現代の平和観を問い直すひとつの見解として興味深い。付記しておく。

老爺心お節介情報/第88号(2026年7月2日)

「老爺心お節介情報」第88号

〇早いもので、夏至も過ぎ、早7月です。今夏はどんな夏になるのでしょうか。暑さが思いやれます。
〇足の傷が酷く、今年は庭の畑の野菜の作付けができませんでした。足の傷が治った6月下旬、作付けの時期は失しているとは思いながら、せめて何か植えたいと販売店に行きました。最後のナスの苗が残っていたので買い、植えました。お店の人曰く、7月初めにはお盆頃に収穫できるキュウリの苗が入ってくるので、それを待って植えてくださいと言われてしまいました。7月に入り、販売店へ行くとキュウリの苗と枝豆の苗が入荷していたので購入し、植えました。
〇繁茂していた庭の木々も庭師が入ってくれて奇麗になりました。京都風の庭づくりに造詣のある庭師なので、ただ剪定すればいいという手入れではなく、その蘊蓄を聞いているとなるほどと納得することばかりで、“餅屋は餅屋だ”と改めて感心しました。
〇6月下旬から、岩手県、秋田県のCSW研修が始まりました。人口減少、超高齢化地域にあって、まさに「地域の消滅」、「地域の崩壊」が叫ばれている中での“持続可能な地域福祉”の推進ができるのかという悩み多き中でのCSW研修です。地域は、それに輪をかけて“熊騒動”で外にも出られないという危機的状況です。
〇「2040年問題」を見据えて地域福祉、在宅福祉、施設福祉などといった枠を超えて、「オールふくし」で“持続可能な地域づくり”をしていかなければなりません。本当に厳しい状況になりました。
(2026年7月2日記)

Ⅰ 日本地域福祉学会第40回大会が岩手県立大学で行われました

〇日本地域福祉学会が6月20日~21日と岩手県立大学で開催されました。日本地域福祉学会創設40周年という節目の大会です。
〇思い起こせば、1987年に日本地域福祉学会を当時、全国社会福祉協議会の職員だった和田敏明先生と相談しながら創設しました。日本社会福祉学界に置いて、日本社会福祉学会に次いで実質的に2番目の学会でした。
〇当時の日本社会福祉学会の重鎮だった人に、“あなたは私に弓引いて分派活動を行うのか”と叱責されながらの門出でした。大方の予想は200名程度の会員数だろうと思われていたのに、約700名の方が会員になってくれました。その背景には、大学で地域福祉を教える研究者だけでなく、全国社会福祉協議会が主宰していた「地域福祉活動指導員」の修了者である全国各地の社会福祉協議会が数多く会員になってくれました。その学会が、日本学術会議の“学会としての要件”を満たして40年も継続できていることに、学会創設者の一人として感無量でした。
〇学会の40周年事業として、理事会は『リーディングス地域福祉実践研究』を刊行しました。
〇「地域福祉実践研究」という用語は、日本地域福祉研究所が1996年に島根県瑞穂町(現邑南町)で行った第1回地域福祉実践研究セミナーで使用したのが最初です。
〇その後、香川県琴平町が「ふれあいのまちづくる事業」を受託した際に始めた住民向けの「こんぴら地域福祉セミナー」を発展させた「四国地域福祉実践研究セミナー」も「地域福祉実践研究セミナー」という用語を使用し、現在第28回目を迎えている。
〇「地域福祉実践研究」とは、単なる「実践の報告会」ではなく、かつ単なる「地域福祉の研究のセミナー」でもなく、「地域福祉実践の研究」を現場の社会福祉協議会職員や住民と研究者が膝を交えて、「地域福祉の社会生活を分析」し、その地域の社会生活課題を解決するための「問題解決プログラムを作成」し、どういう「実践方法」を駆使し、どういう「地域福祉の理念を実現できるシステム」を構築するのかを学び、研究する場として私は考えた。
〇今回発刊された『リーディングス地域福祉実践研究』では、その「地域福祉実践研究」とは何かが多面的に論じられていて、学会の行く末に期待をしたいと思った。
〇岩手県立大学での学会では、昨年度の武庫川女子大学の大会に引き続いてスペシャルトークセッションに登場することになった。

(註)
武庫川大会では、同志社大学の上野谷加代子先生との対談であったが、主に地域福祉研究のあり方について話をした。
その対談は、『2025年日本地域福祉学会第39回大会(兵庫大会)スペシャル・トークライブ報告集』として刊行されている。

〇昨年の大会に引き続いてのスペシャルトークセッションに登場することになったのは、筆者が1965年から岩手県の「関係人口」の一人として、バッテリー型地域福祉実践研究をしてきた経緯と思いの話をすると同時に、社会福祉協議会への期待を述べるということであった。
〇岩手県は四国と同じ面積を持つ大きな県で、人口112万人、市町村数33で、葛巻町人口4890人、高齢化率52・3%、西和賀町人口4267人、高齢化率56・1%等ご多分にもれず人口減少、超高齢化の中で地域の存続が危ぶまれる“消滅の危機”に直面している市町村がある。そこでの持続可能な地域福祉の推進をどうするのかいう問題意識で、スペシャルトークセッションに臨んだが、時間が足りず、「2040年問題」に向かう中での社会福祉協議会のあり方について、資料は学会要旨集に掲載していただいたにも関わらず話が出来なかったことが心残りであった。
〇第40回大会において、畏友の野口定久先生が理事会で名誉会員に推挙され、学会総会で承認されて名誉会員になられた。長年、地域福祉の推進、学会の運営、大学院での地域福祉研究と教育に携われてきた先生が名誉会員になられて嬉しい限りであった。野口先生の後進を育てる能力は稀有で、多くの研究者を育てられていることに心より敬意を表したい。
〇学会の会場になった岩手県立大学では、大学創設時の初代社会福祉学部長の高澤武司に頼まれて大学設立構想に協力したことや2000年の第14回大会を開催したことが思い出され、かつ久しぶりに学会の仲間たちと懇親ができた楽しい2日間であった。

Ⅱ 「そのときの出逢いが」⑩―2010年代前半

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑩

Ⅰ 2010年代前半――東北福祉大学大学院と(公財)テクノエイド協会

(はじめに)
〇この時期は、何といっても東北福祉大学大学院の生活と(公財)テクノエイド協会理事長としての業務に集約される。
〇前者は、私の教育・研究の集大成で、大学院でのゼミ指導の楽しさを満喫できた。
〇後者は、1960年代から提唱してきた憲法第13条に基づく生活支援の考え方が、(公財)テクノエイド協会の補聴器も含めた福祉機器の利活用により、より可能になることが実感できた時期である。と同時に、その業務を如何に社会福祉界全体に理解してもらうかに情熱を傾けた時期でした。

➀東北福祉大学大学院教授

〇2014年4月、日本社会事業大学大学院特任教授の任を終えて、以前からお世話になりたいと願っていた東北福祉大学大学院教授に就任した。
〇大学行政は一切やらず、大学院の講義及び研究指導だけという条件を飲んで頂いて就任した。にも拘わらず、理学系の先生が使用していた2部屋からなる研究室(実験系の先生だったので、薬品などを入れる冷蔵庫付きの研究室であった)を提供して頂けた。
〇日本社会事業大学の研究室にあった蔵書と自宅の2つの書庫にあった蔵書は、東北福祉大学大学院教務課の青柳勉さんのご尽力で、大学院キャンパスの中に一部屋、「大橋文庫」ともいえる部屋が用意されたので、そこに全て寄贈した。
〇東北福祉大学大学院での授業ではその蔵書は大いに効果を発揮した。東北福祉大学の図書館は大変素晴らしいものであるが、その図書館は東北福祉大学の本部キャンパスにある。大学院生の研究室、ゼミ室は離れたキャンパスにあり、大学院のゼミや院生の研究には使い勝手が悪い。その意味では、通称「大橋文庫」と言われた蔵書の存在はありがたかった。
〇日本社会事業大学を退職するとき、どこで聞きつけてくるのか多くの古本屋が連絡を寄越し、蔵書を譲って欲しいと言ってきた。すべての蔵書を持って行ってくれるのなら、片付ける手間が省けるので、その旨を言うと、皆さん欲しい本だけを売ってくださいという。
〇日本社会事業大学の図書館は、既に満杯で受け入れる余地がなかっただけに、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」は大変助かった。
〇しかしながら、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈する本の選別と移送には大変苦労した。東大大学院の修士論文を書くに当たって、東京神田の古本屋街で探し求めた戦前の資料は紙の材質が悪く、とても移送したのでは本が崩れて使い物にならないので、廃棄処分をすることにしたが、その分量が引っ越し用の段ボールで約50箱になった。その段ボールの山を見て、この本、資料の購入にどれだけお金をつき込んだのかと悲しくなった。
〇2014年4月1日、辞令を頂きに仙台に出かけた。渡辺信英副学長立ち合いの下、萩野浩基学長から辞令を頂いた。その際、大変身勝手であるが、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行きたいので、明日から2か月休暇を頂きたいとお願いした。気持ちよく受け入れて頂いて、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行くことができた。
〇その時、私がわざわざ辞令を頂きに仙台まで行ったことに驚かれ、そういえば自分も東北福祉大学の学長の辞令が今日付けだったのを思い出されたのか、大橋さんがわざわざ来たのなら、私も神奈川県鶴見の曹洞宗総持寺へ辞令を頂きにいかなければならないと言われたことが記憶に残っている。
〇東北福祉大学大学院での生活はとても楽しいの一言に尽きる。すべて渡辺信英副学長が気配りしてくださり、勤務条件、勤務形態はもとより、大学院生のゼミも研究指導も自由にさせて頂いた。
〇私の日本社会事業大学時代のゼミの運営は、ゼミが終わるとよく学生とコンパをした。学生の中には“貧乏学生”も多いので、かといっていつも私が資金を負担していたのでは私のフトコロがもたないので、外に飲みに行かず学内で飲むことが多かった。その為に、研究室に冷蔵庫を置き、お酒を冷やしておいて、つまみは乾きものや干物を買ってきて七輪で焼いて食べることが多かった。いつの間にか、私の研究室の七輪は2つになっていた。
〇東北福祉大学大学院でも同じようなゼミ活動をしたいと思い、研究室でお酒を飲んでいいかと聞くと結構ですと了解してくれた。また、その頃、大学院生で、かつ教務課の事務をしていた中国からの留学生(ソフトボールの選手で、東北福祉大学は全国的な強豪校だった)の張瑛さん(後に日本に帰化し、日本の方と結婚し、根本瑛さんとなる)が研究費の管理などを行ってくれていた。研究費でレンジやガスコンロも買えるというので、買ってもらった。
〇研究室は、大学院のゼミを行う建物とは別の建物で、その建物は理系の研究室があり、薬品なども扱うので出入りは指の指紋認証によるものであった。私も当然登録したが、年老いていて指紋が薄くなっているのか、毎回出入りには時間が掛かり、苦労した。
〇ゼミが終わると研究室に移動してコンパが始まる。研究室には大型の薬品冷蔵庫があり、一升瓶を冷やすのには最適だった。レンジやガスコンロを使ってのコンパは、安がリで、かつ他人の目を気にすることなく、楽しく毎回行われた。いつのころからか、一升瓶は「綿屋」の酒が定番になった。また、中国からの留学生たちが腕を振るってくれて、水餃子パーティーをすることもできた。
〇東北福祉大学大学院では、博士課程の学位授与者8名、修士課程学位授与者11名の院生を育てることができた。東北福祉大学の森明人先生、大石剛史先生、沖縄大学の玉木千賀子先生、中国大連交通大学の陳麗娜先生、桃山学院大学の平野裕司先生、文京学院大学の笹岡眞弓先生、中島修先生、あるいは山形県議会議員、衆議院議員になった原田和広さん等が育ってくれた。
〇中には、理学療法士として、宮城県職員から宮城県介護普及センターに転職して、障害者や高齢者の支援における福祉機器の利活用に関する修士論文を書いた廣島志保さんもいた。彼女の論文は博士論文に匹敵するほどの素晴らしい論文で、かつその実践を見せて頂いたが、障害者支援にいかに福祉機器の利活用が重要であるかを再認識させられた。
〇これらの博士学位授与者は、自らの博士論文を基に、森明人著『市町村社会福祉行政のアドミニストレーション』(中央法規)、玉木千賀子著『ヴァルネラビリティへの支援―ソーシャルワークを問い直す』(相川書房)、原田和広著『実存的貧困とは何か』(青土社)、大石剛史著『ケアリングコミュニティの理論』(学文社)を出版してくれたのも研究指導した者として嬉しい限りである。
〇東北福祉大学大学院の博士学位授与の審査では、公開でのヒヤリングと3人の審査委員による口頭試問、論文審査があるが、渡辺信英先生以外に、雪江先生、菅原秀元先生、
都築光一先生、萩野寛雄先生、三浦剛先生、石附敬先生、高橋誠一先生等多くの先生方が参加され、多角的に論議される状況は大学人、研究者として嬉しかった。
〇東北福祉大学は、スポーツの振興で大学ブランドを高めてきた。1980年代に箱根で行われた日本社会事業学校連盟のセミナーに参加した東北福祉大学の萩野浩基先生と帰りの小田急線のロマンスカーで一緒だった。その時、萩野先生が、これから東北福祉大学はスポーツ振興で大学のブランド化を図ると楽しそうに話をしていたが、まさに野球部、ゴルフ部、バレー―部、ソフト部と全国的な活動をその後展開している。
〇私が赴任した2014年は丁度、ゴルフ部が全国優勝して、その招待状が私にも届いた。私は様子がよく分からないまま、仙台国際ホテルで行われた祝勝会に参加した。日本社会事業大学とは全く違う世界に驚くばかりであった。
〇渡辺信英先生は、東北福祉大学だけのお付き合いではなく、仙台の経済界、大学関係者との会合にも招いて頂き、世間が広いこと、いろいろな見方、考え方があることを教えて頂いた。
〇渡辺信英先生は多彩な人で、芸術関係にも造詣が深く、東北大学の先生方と共同して「感性福祉研究所」、「感性福祉学会」を主宰されていた。その「感性福祉学会」で基調講演をさせられたが、改めて私が社会福祉はサービスを必要としている人の「快・不快」を基軸にケアのあり方を考えるべきだという考え方が実証されるような学会だった。
〇私は全国各地を歩かせて頂いているが、どこの都市がいいかと問われると私は仙台がいいと答えている。仙台は都市もコンパクトにまとまっており、商業施設も整っているし、交通の便もいい。とりわけ、海の幸が美味しいし、お酒も美味しい。近くには、秋保温泉や作並温泉もあり、風光明媚だし、冬の雪があまり降らない、住みやすい街である。

➁公益財団法人テクノエイド協会理事長(2011年7月29日~2025年6月)

〇私は、2011(平成23)年7月29日に(公財)テクノエイド協会理事長に選任され、就任した。
〇畏友の白澤政和先生が、“大橋先生、車の送迎付き、秘書付き高給取りのポスト”ですかと尋ねてきた。残念ながら、私が就任した理事長待遇は、週1回の出勤、手当は日当2万円、退職金なし、秘書もなしの待遇であった(これではあまりにも酷いということで、2年後くらいから1日の日当が3万円になり、退任する2年前から年収300万円以内となった。年収になったのは、後任理事長をお願いするのに、日当ではあまりにも酷く、後任者を選べないので、年収にする必要があったと常務理事が改定してくれた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、1987年3月に設立された。それは障害者の生活支援の福祉機器の開発、普及推進を目的に厚生省更生課の所管の範囲内でという考え方で、更生課青木行雄課長の肝いりで、河野康徳身体障碍者福祉専門官が設立準備の事務局を担い、設立された。初代理事長は、戦後の身体障碍者福祉法制定の立役者である實本博次さんが就き、第2代目理事長を小嶋弘仲元社会局長が担った。
〇その(公財)テクノエイド協会の第3代目の理事長を私が仰せつかることになるが、私が理事長候補に挙がったのは、当時の民主党政権下にあって、厚労省所管の財団などに厚労省出身者がいわゆる天下りすることが禁止される中で浮上した人事だったと推察している。
〇この人事案件については、(公財)テクノエイド協会の当時の常務理事の厚労省出身の一瀬正志さんが起案したと聞かされている。一瀬さんは、厚労省社会局で、日本社会事業大学の移転、その後の委託に関わる業務を担当されていた方で、私も面識があったし、大変お世話になった方であった。
〇一瀬正志さんが、私を候補者として考えた時、日本社会事業大学の卒業生で、国際障害者年関係の業務を厚生省更生課長として取り仕切り、その後日本社会事業大学の専務理事、全国社会福祉協議会の常務理事などを歴任した板山賢治さんに相談したところ、“大橋に頼むのはいいが、仕事が増えるぞ”と言われたと後日教えてくれた。
〇その予言は当たるわけで、私はICF(国際生活機能分類)の日本語版への翻訳の手伝いをしたので厚生労働省統計情報部のICFの啓発普及の手伝いをしてきたが、ICFの普及には(公財)テクノエイド協会が行っている業務をより積極的に展開し、ICFの視点での福祉機器の利活用を関係者、とりわけ狭い意味での福祉機器関係者ではなく、広く介護支援専門員、介護福祉士、社会福祉士などの社会福祉関係分野にも普及発展させることが必要だと考えるようになった。
〇そのために、(公財)テクノエイド協会が社会福祉関係者との橋渡しをするとともに、福祉機器関係者に社会福祉分野のことを理解してもらい、福祉機器の利活用を推進する必要があると考えた。(公財)テクノエイド協会がキー団体として、リハビリテーション関係、社会福祉・介護福祉関係、福祉機器のメーカー、販売店、福祉用具レンタル業界などのプラットホームの機能を担えればと考えた。これを実現するために(公財)テクノエイド協会の業務にいろいろ参画させてもらった。
〇第1には、毎年1月に「福祉機器関係者の新年賀詞交歓会」を開催した。厚生労働省、経済産業省、総務省(障害者の通信機器関係の業務は総務省所管)をお呼びして国の政策動向、予算内訳を説明してもらうと同時に、福祉機器を活用しての実践や関係団体の活動報告をしてもらうことにした。その後、夜は交流懇親を行うという試みをしてきた。毎年120名程度の関係者が集まり、今では全国社会福祉協議会や全国老人福祉施設協議会なども参加し、プラットホーム機能が発揮できるようになっている。
〇第2は、(公財)テクノエイド協会の発足は障害者分野での福祉機器の利活用が中心であったし、発足時には「義肢装具士法」が制定された時でもあった。日本義肢協会から多大の出捐金を頂いていたので、当初の理事会構成はそれらの関係者で占められていた。
〇しかしながら、介護保険制度の実施、障害者総合支援法の実施など時代は変わり、福祉機器の開発分野も広がり、利活用の分野も広がらざるを得なくなってきているので、理事会構成を時代に合うように変更してきた。今では、介護支援専門員協会、言語聴覚士協会、理学療法士協会、作業療法士協会等の団体の方に理事、評議員に就任頂いて、福祉機器の利活用の推進にご協力いただいている。
〇このような取り組みの過程で、私は日本生活支援工学会で基調報告をしたり、介護支援専門員協会の研修などに積極的に参加してきた。
〇(公財)テクノエイド協会設立時の国立障害者リハビリテーションセンターの総長は初山泰弘先生であった。その当時、初山先生とは国立障害者リハビテーションセンターと国立看護大学校と日本社会事業大学とが合併して、看護、リハビリテーション、社会福祉を有機的に結び付け、インタープロフェッショナル教育ができるといいねと話をしていたので、私としては(公財)テクノエイド協会理事長として少しでもその夢に近づけたいと考えた。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、福祉機器の開発、普及推進の他に重要な業務がいくつかある。その業務を通しての「出逢い」は沢山あり、私の研究者履歴に大きな影響を与えている。
〇生活のしづらさを抱えている人の自立生活支援を目的としている社会福祉は、従来の社会福祉行政で規定されたサービスの活用だけでなく、ICFの視点に基づくアセスメントを行い、自立生活を支援するという視点と視野を重視するべきである。その意味もあって、(公財)テクノエイド協会の業務の他の業務も紹介しておきたい。
〇第1は、義肢装具士の国家試験の実施である。厚生労働省の義肢装具士国家試験の指定試験機関の認定を受けて実施している。
〇義肢装具士の国家試験の受験者数は200名前後と決して多くはないが、国家試験の取り扱いには人一倍の神経を使う。国家試験が無事終わり、合格発表が行われるといつもホッとする。自分自身、社会福祉士の国家試験の委員として8年ほど関わってきたので、出題される先生方や事務局の負担は大変で、感謝しかなかった。
〇ただ、(公財)テクノエイド協会としては、採算が取れる業務ではなく、かつ受験生の負担を考えると受験料を値上げすることもできず、頭の痛い業務であった。最近は、義肢装具士の養成校が減ると同時に、養成校が地域偏在していて、かつ入学生も減少していることを危惧している。厚労省の医政局長にもこの旨の深刻さの話をして対策を講じて欲しい旨依頼等してきた。
〇第2は、補聴器関係の業務である。
〇理事長職を引き継いだ時、前理事長の小嶋弘仲さんに私に引き継ぐうえで何かありますかと聞いたら、補聴器関係を充実強化して欲しい旨の引継ぎがあった。それは、(公財)テクノエイド協会の補聴器関係の諸規定を小嶋弘仲さんが一人で整備されたと聞いていたのでさもありなんと考えていたが、補聴器関係のことが分れば分かるほど超高齢社会に入っている日本ではもっと補聴器関係の認識を国民に理解してもらい、補聴器装用の必要性を広め、推進する重要性が理解できた。
〇(公財)テクノエイド協会は、補聴器関係では「認定補聴器技能者」の養成を4年かけて行っており、その試験合格者に(公財)テクノエイド協会理事長名で認定書を交付している。
〇「認定補聴器技能者」の養成には、日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会はじめ、日本補聴器工業会(補聴器を開発、輸入、供給している業界団体)、日本補聴器販売店協会、日本補聴器技能者協会等の絶大なるご協力とご支援がなければ到底養成はできない。しかも、その養成課程と最終試験は他のリハビリテーション職の国家試験と同程度の内容と水準を保つために努力が行われており、義肢装具士の国家試験と同じように緊張を伴う重みのあるものであった。
〇また、日本補聴器工業会が行う3年に一度行う補聴器に関する「Japan Trak(ジャパントラック)」と呼ばれる国際比較研究調査は素晴らしいもので、日本の補聴器の普及率の低さや装用・購買に関する行政支援の低さも明らかになった。
〇従来、日本の厚生行政では、補聴器は障害者の補装具として位置づけられていたが、その支給基準が90デシベルで、ほとんど「聞こえ」ないという状態での支給基準であった。
〇しかしながら、高齢化の進展とともに高齢難聴者が増大し、その方々がうつ病、認知症になるリスクが高いという研究が明らかになるにつれて、今や社会福祉行政も大きく変わろうとしている。
〇新潟県では、県内全ての市町村が補聴器購入の補助をしているし、東京都港区では、耳鼻咽喉科による「聞こえ」の検査、診断と認定補聴器専門店による販売、認定補聴器技能者によるフィッティング(調整)をセットとして組み合わせて補聴器購入を補助している本格的な助成制度も出てきた。補聴器は、集音機器は異なるということを理解してもらい、通信販売ではなく、フィッティングという機能が重要だということを国民に理解してもらうことが大切になっている。
〇補聴器分野の業務では、元帝京大学医学部教授の小寺一興先生、元筑波大学病院長、筑波大学副学長の原晃先生などを始め日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会関係者、日本補聴器販売店協会の佐藤誠元理事長、青戸義彦現理事長、日本補聴器技能者協会の阿部秀美理事長、日本補聴器工業会の赤生秀一元理事長などには格別のご支援とご協力を頂いた。
〇第3は、適切に利活用できる福所用具に関する情報提供を(公財)テクノエイド協会は
TAIS(福祉用具情報システム)として行っており、現在では約1万8千点が登録・掲載されている。福祉機器開発業者から提出される福祉用具を多角的に検討し、適切に使用できるかどうかを判定してTAISに登録している。この福祉用具情報システムについては、元国立障害者リハビリテーションセンターの研究所所長をされた山内繁先生、諏訪基先生に絶大なるご協力、ご支援を長年に亘って頂いている。
〇第4には、実質的に2013年度から始まる介護ロボットの開発、普及に関する業務であり、今やこの業務が最大になっている。介護ロボットを中軸とした国民が求める福祉機器のニーズと開発をする側の資源、シーズとのマッチングする機会である厚労省の「ニーズ・シーズマッチング事業」により、漸く国民のニーズに対応した福祉機器の開発、利活用の考え方が展開されるようになった。
〇私は、このニーズ・シーズマッチング事業は、福祉機器の開発上重要な事業であるが、
国民が開発された福祉機器をICFの視点で使いこなせるようにするためには、ニーズとシーズの間に福祉機器の利活用に関わるコーデネート機能をシステムとして作らなければ、福祉機器の利活用が前進しないことを言い続けてきた。もっとも、分かりやすいのは、全国に約5500か所ある地域包括支援センターに福祉機器のコーディネーターを配属することであると主張してきた。介護支援専門員の研修課程に「福祉用具の利用」が導入されたが、決して十分でなく、実際問題として介護支援専門員の福祉機器の理解度は低く、いわば福祉用具専門相談員に“丸投げ”の状態になっているのが現状である。
〇第5には、介護保険制度が実施されるとき、介護支援専門員制度やケアマネジメントという手法が導入されたが、それと同時に福祉用具のレンタルを担う福祉用具専門相談員制度ができた。
〇しかしながら、(公財)テクノエイド協会はそれも大切な制度ではあるが、福祉サービスを必要としている人の自立を支援するためには福祉用具専門相談員の法定研修時間数では足りないのではないかと考え、介護保険制度が始まる前の1998年度より協会独自に「福祉用具プランナー」の養成とその指導者を養成する「福祉用具プランナー管理指導者」の養成も行っている。現在1万6千人の養成者が修了している。
〇私が(公財)テクノエイド協会の理事長に就任した年の2011年9月に、(公財)テクノエイド協会主催の国際福祉機器調査研修ツアーに参加させてもらった。ドイツのデュッセルドルフの見本市(世界3大福祉機器展の一つ)の見学、フランスでの福祉機器利活用の評価機能などについて調査研修をした。
〇この研修ツアーでは、横浜市総合リハビリテーションセンターの渡邊慎一先生(現在福センター長)にはいろいろお世話になった。
〇この研修の最中に、福祉用具の検討マトリックスを作成したが、日本の場合、福祉用具の開発、普及は社会福祉行政や介護保険制度による法定化された価格での購入、レンタルで何かと制約が多く、福祉機器の自由購入による経済的活動の発展が望めないことが影響しているのか、「福祉機器に関する実証的評価機能」のシステムが確立していない。フランス等では、それが進んでいる。
〇日本の場合は、JISによる認証評価の域を出ていない。(公財)テクノエイド協会で、その点について福祉機器の使い勝手がいい商品を評価する仕組みをつくったが、十分な広がりと社会的承認を得られていない。今後は、日本の家屋などでも使いやすい福祉機器の開発が必要で、必ずしもJISの基準だけでなくていいのではないかと私は考えている(6車輪の小回りがきく車いすなどは日本家屋に適していて、もっと普及できてもいいのではないかと常々考えてきた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、2012年7月に新公益法人へ移行することが認められた。
〇この間、民主党政権のいわゆる「事業仕分け」で、福祉機器開発の助成をする80億円余の基金が取り上げられた。
〇現在、(公財)テクノエイド協会は約7億3000万円の基金(国債運用)と年間5億4千万円の事業規模で運営されている(2024年度現在)。
〇新公益法人移行以前は、厚生労働省の補助金で多くが運営されてきたが、新公益法人移行後は、厚生労働省の事業は競争入札となり、それを落札できなければ、(公財)テクノエイド協会の運営、経営はできない。
〇しかも、それらの事業は6つの公益会計区分で縛られているために、項目間の流用はできない。(公財)テクノエイド協会自身が自由に使える財源は法人会計のみで、それは基金の利子と協会の賛助会員が納めてくれる会費だけという状況である。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、厚生労働省の医政局、老健局、社会・援護局などにまたがっており、かつ補聴器に関してはどこが所管になるのか定まっていない状況である。そのような中、(公財)テクノエイド協会が担っている業務をなくすわけにはいかないわけで、厚労省がどう政策的位置づけるのか大きな課題だと私は思っている。

➂一般社団法人ユニットケア推進センター理事、副会長――外山義著『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』が与えた影響

〇(公財)テクノエイド協会が主宰する福祉用具プランナーの養成課程を社会福祉法人の理事長・施設長自らが受講し、資格を取るだけでなく、その考え方に賛同し、従来の特養で行われていた「抱きかかえの移乗介護」を禁止し、リフトによる介護を徹底化させている社会福祉法人伯耆の国が経営している特別養護老人ホーム「ゆうらく」の存在を知ったのが、一般社団法人ユニットケア推進センターを知る事実上の契機である。
〇「ゆうらく」は鳥取県南部町にある施設で、天皇・皇后両陛下の行啓幸も仰いでいる施設で、私は早速、(公財)テクノエイド協会理事長として視察に行かせて頂いた。
〇利用定員97名の特養で、利用者の認知症率は98%くらいになるという施設であったが、施設にはカギがかかっていない。ロビーで新聞を読んでいた(?)高齢者の方がいらしたが、手に持っている新聞はさかさまであった。
〇この「ゆうらく」の職員の離職率は、結婚により町外へ出る人を除けば、事実上0%だという。
〇これだけの素晴らしいケア実践をしている社会福祉法人の理事長、施設長が山野良夫さんで、一般社団法人ユニットケア推進センターの会長もされていた。
〇その山野良夫会長の依頼で、一般社団法人ユニットケア推進センターの業務をお手伝いするようになったのがきっかけである。
〇一般社団法人ユニットケア推進センターは、特別養護老人ホーム施設最低基準が2003年に改訂され、ユニットケアという考え方とそれを支える居室の個室化が進む。そのユニットケアの考え方を推進するために志を同じくする人たちで設立したのが一般社団法人ユニットケア推進センターで、当初は恩賜財団社会福祉法人浴風会に事務局があったが、後に独立して現在はお茶の水駅近くのYAWACAのビルに入っている。
〇「ユニットケア」という考え方は、京都大学建築学・生活空間論専攻の外山義教授の影響が大きい。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国した。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になる。
〇外山義先生の著書『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』(2003年、医学書院、1800円)で述べられている考え方が、引き金になって、特別養護老人ホーム施設最低基準が改訂された。それを契機に日本ユニットケア推進センターが設立されていく。
〇筆者は、1990年代に外山義先生が設計した富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学し、感動したことがある。外山先生の哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動した。
〇筆者自身も、1978年論文「施設の社会化と福祉実践」で、社会福祉施設ケアは画一的で、集団的でいいのかと疑問を投げかけ、社会福祉施設で提供しているサービス、ケアを分節化させて、生活環境を整備してあげれば後は自分で自立できる人、困ったときにすぐに相談援助してあげれば済む人、常に生活全般において直接的支援が必要な人に分節化できるし、それに応じた生活空間を整備するべきだという論文を書いていたので、外山先生の考え方には大賛成であった。
〇しかしながら、当時は地域福祉についての理論化、体系化に忙殺されており、社会福祉施設のあり方まで研究領域を広げることができずにいた。それでも、1970年頃、コミュニティづくりに必要な施設として、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることが必要でないかと考えた。
〇また、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えた。それらについての筆者の論文は以下の通りである。

➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学界紀要19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要34号』、1988年所収)

〇一般社団法人ユニットケア推進センターが推進している「ユニットケア」を実際に実習体験できる社会福祉施設が全国に80か所くらいあるが、それの施設でのケアは“百聞は一見に如かず”で、是非見学して欲しいものである。
〇その実習施設での考え方と実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)である。

➃日本福祉大学大学院特別講義

〇日本福祉大学の客員教授には、2011年4月に就任し、現在も続けている。
〇畏友の野口定久先生が日本福祉大学大学院研究科長の時に、客員教授の特別講義、セミナーが開催されるようになった。
〇そのセミナーの際に行われる日本福祉大学の二木立元学長、児玉前学長、丸山悟理事長などとの会食・懇談はとても楽しい時間で、大学院特別講義は毎年楽しみの一つであった。
〇野口定久先生の定年退職後は、その特別講義の際に野口典子先生も交えての飲み会もまたこれ楽しい時間であった。
〇全国の社会福祉系大学に大学院が設置されているが、設立時にはそれなりに教員の審査がある。しかしながら、完成年度を終えると“事実上”、教員審査は各大学に任されるために、大学院の研究指導の質は恐ろしく落ちていると、筆者は危惧している。目先の大学の生き残りが優先されて、長い目で見たら日本学問体系の中での社会福祉学の地盤沈下が起こり、他分野から評価されないようになるのではないかと危惧している。
〇野口定久・典子(中京大学)夫妻や同志社大学の上野谷加代子先生と自分の所属する大学院の壁を越えて共同研究する「猪苗代塾」を猪苗代や裏蔵王で行い、研究指導とともに温泉、スキーを楽しんだ。
〇このような大学の壁を越えて、協働して研究指導できる環境を作らないと大学院の研究指導の質は落ちていく。
〇筆者の恩師である小川利夫先生からは、“カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る”のと同じで、意識して自分の(指導者)の枠を広げるようにしないと教え子は恩師より小粒になり、それでは学問は発展しないと常に怒られてきた。
〇そのような意味でも、日本福祉大学大学院のセミナーは、外部の先生方の謦咳に触れられる訳で、院生にとってもいい刺激になる機会であり、かつ担当する客員教授も緊張する時間であった。

➄2012年 厚生労働統計協会理事(~2021年)

〇(公財)テクノエイド協会理事長をしている時、高原享治厚生労働統計協会理事長(厚労省で障害保健福祉部長、健康局長を歴任。医師、後に上智大学教授、高知県立大学学長)から会いたいという連絡を受けた。
〇高原亨治理事長の行きつけの神楽坂のすし屋で一献を傾けながら、厚生労働統計協会の理事になって欲しい旨の要請を受けた。
〇厚生労働統計協会は、社会福祉士国家試験を受験する受験生には“必携の書”と言われている『国民の福祉と介護の動向』などを出版している、厚生労働統計全般を扱っている協会である。今までの理事会構成で、社会福祉分野の研究者が一人もいないので就任して欲しいとのことであった。
〇高原理事長には厚生労働省時代から面識があり、お世話になっていたのでお断りはできないが、筆者は統計学のことは良く分かりませんが、それでもいいのですかと聞くとそれでいいというので理事に就任した。
〇厚生労働統計協会の理事には、人口問題の研究者や慶応大学の経済学の研究者、あるいは日本看護協会の専務理事など、社会福祉界ではあまり会う機会がない方々とご一緒でき、ここでも自分の視野を広げることができた。

➅一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会理事

〇どういう経緯で理事の就任要請を受けたが定かでないが、多分私が(公財)テクノエイド協会理事長をしていることがあったのであろう、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会の理事に就任して欲しい旨の要請があった。しかも、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会がこれから実施する事業「介護福祉経営士」の養成、試験に関わる委員会の委員長をして欲しいとのことであった。その試験委員の中に、元厚生労働省の専門官をされていた島津先生(東海大学教授)がいたから、その人の推薦かもしれなかった。
〇一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会は、産経新聞記者だった林諄さんが起こした株式会社日本医療企画の肝いりで設立された協会である。私の推測するに、今までは医療サイドの出版などを手掛けてきたが、その領域を介護分野にまで拡大しようとの思いがあったのではないかと考えている。
〇協会の会長は、多田宏厚生省元事務次官で、理事には北島正樹国際医療福祉大学学長(元慶応大学医学部長)や社会福祉法人小田原潤生園の時田純理事長なども名を連ねていた。
〇介護福祉経営士という資格やその為の養成、資格取得後の研修、介護福祉経営士の全国組織化等経済界の視点からのアプローチ―には目を見晴らされた。行政の枠の中だけで社会福祉界はまわっていたので、医療の世界、経営の世界の発想には戸惑いと同時に学ぶことが多かった。
〇介護福祉経営士の養成課程に福祉機器の利活用を入れて頂き、(公財)テクノエイド協会の職員に執筆してもらって『新しい福祉機器と介護サービス革命』(介護福祉経営士テキスト、医療企画、2014年)を刊行することができた。これからの介護福祉経営を考えるならば、福祉機器の利活用は不可欠と思ったからである。

 

老爺心お節介情報/第87号(2026年6月9日)

「老爺心お節介情報」第87号

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇もう、今年も6月になってしまいました。各地のCSW研修が始まる月になりました。今年度も各地のCSW研修で東奔西走する様です。
〇庭のアジサイが色鮮やかに咲いて、雨に濡れている風情はいいですね。また、私が大好きなクチナシの花も咲き始めました。残念なのは、門脇に植えた沙羅の樹が虫に食われ、幹が枯れ、一部残ったものの、今年は花を咲かせません。庭師が夏椿を植えたのを、沙羅に替えて欲しいとお願いした樹なのに元気がなく残念です。沙羅は、「平家物語」の冒頭に出てくる樹で、世の儚さとともに、“栄枯盛衰”、奢るべからずの気持ちを確認するために植えてもらっただけに、樹が枯れないか“一喜一憂”しています。沙羅が花を咲かせている様は本当に清楚で、一日で花が散ります。
(2026年6月9日記)

Ⅰ 3回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」に参加

〇皆さんは、2001年に導入されたWHOのICF(国際生活機能分類)について学んでいるでしょうし、学生さんに教えていることと思います。
〇しかしながら、様々な生活のしづらさを抱えている人に対する支援において、アセスメントを行う際や支援方針を作成する際に、どれだけ実際的に福祉機器の利活用を考えていますか。
〇富山県福祉カレッジの「介護テクノロジー普及推進センター」は富山県の委託を受けて、福祉機器の展示、福祉機器の利活用支援、介護技術の向上に関する研修などを富山県社会福祉総合センター「サンシップ」を拠点に行っています。
〇普段は、その「サンシップ」で福祉機器を展示し、相談に応じているのですが、それだと社会福祉関係職員か、あるいは家族が要介護の状態になって相談に来られる方等利活用者が限定されてしまいます。
〇「2040年問題」に向けて、介護人材の不足が叫ばれている中、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では、自己満足的な仕事の仕方ではないかと考え、広く富山県民に福祉機器のことを知って頂く機会として、「サンシップ」から外に出ようということになり、北陸新幹線富山駅のコンコースを活用しての福祉機器展の開催になりました。
〇福祉機器の利活用は、➀福祉サービス利用者の求めるケアの向上につながること、②ケアワーカー等の従事者の腰痛予防と合理的業務の省力化につながること、③介護の技術、技法、あるいは福祉サービス利用者の状態像を可視化することによりケアの科学化が進むこと等の効果が期待できます。
〇それにより、「3K職場」と言われた介護のイメージを払しょくできますし、介護の職場を希望する中高校生に夢を与えることができると考えました。中高校生たちが介護の仕事に就きたいと思っても、両親や教師たちが反対するという事例は沢山あります。そのようなことを考えると、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では駄目だと考え、広く一般の方々に知って頂く機会として、またその場所として富山駅のコンコースを考えました。
〇出店する企業さんには、直接的な利益がないかもしれないので、どれだけの企業さんが出店してくれるのか危ぶまれましたが、多くの企業さんが気持ちよく協力してくれました。
〇三回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」は、2026年6月6日に行われました。今回は以前にもましていくつかの特色がありました。
〇第一は、富山県内の介護福祉士会等の社会福祉専門職団体、理学療法士、作業療法士などのリハ職の専門職団体、看護協会など7団体が会場で相談コーナーを設置してくれたことです。
〇第二には、介護を学ぶ龍谷富山高校の生徒さん7名が参加してくれ、出店してくれた企業の福祉機器などについて突撃インタビューをしてくれたことです。そのインタビューの様子は大型モニターで他の場所に居ても見れるようにしたことです。
〇第三には、富山短期大学の学生さんが自らが学んだスウエーデンの認知症ケアとして開発された「タクティールケア」の体験コーナーを開設してくれたことです。
〇第四には、ITを活用した業務の省力化、生産性向上の相談コーナーを設置したことです。
〇第五には、eスポーツコーナーや「ロボットカフェ」を開設すると同時に、出店した企業に立ち寄って相談や福祉機器を見学された方に、景品付きのスタンプラリーをしたことです。
〇第六には、この「とやま介護テクノロジー展示会2026」の開催に当たって、「介護テクノロジー普及推進センター」の職員だけが企画・運営に当たったのではなく、福祉カレッジの教務部門、福祉人材センターの職員等も企画、運営に参加してくれ、富山県社会福祉協議会事務局内部のタテ割りが少し改善されたことです。
〇今回の展示会には、県社協の他の部署の職員も家族連れで見学に来てくれました。中には3世代で来てくれました。また、富山県厚生部の職員も高齢福祉課長を始め多くの職員が参加してくれました。
〇補聴器販売店さんが2社出店してくれていたのですが、昨年よりも相談者が多かったと言ってくれたのを聞いて、継続は力なりと実感しました。
〇私自身は、(公財)テクノエイド協会理事長に長らく就任していましたので、目新しいものはさほどなかったのですが、2件話題提供したいと思います。
〇新型コロナで旅行客が減り、業績が厳しくなっていた日本旅行社さんがIT関係の業者と共同開発した「脳力トレーナーCogEvo」が興味深かったです。
〇私も実際に体験させて頂きましたが、自動車運転免許証更新の際に受ける高齢者向けの認知症検査よりも、認知機能を図るのにはいいのではないかと思いました。この機器は、体験者の「注意力」、「空間認識力」、「記憶力」、「計画力」、「見当識」について能力を図り、訓練するもので、とてもゲーム性もあり、面白いと感じました。
〇また、この機器は1台購入すると、子機は何代でも無料で使用できるというシステムなので、介護予防教室や老人クラブでの活用、あるいはデイサービスなどでも活用できるのではないかと思いました。
〇この他では、NTTDATAさんが開発している「ボイスタ!」と呼ばれる機器で、高齢者の日常生活で行う動作に関し、その時間が来ると福祉機器から音声で声掛けするなどして高齢者の日常生活での自立を支援するとともに、必要なら家族などへも状況を転送できるというもので、生活のリズム感が薄れ、失念しがちになる高齢者の生活リズムを支援するという点で今後が期待できる機器だと思いました。

Ⅱ 本の紹介―『地方が溶けるーふるさと再生の光と影』(神山典士著、光文社新書、920円)

〇本書は、大きく2つの話題について書かれています。
〇一つは、広島県安芸高田市の市長をされていた石丸伸二氏がSNSを活用して安芸高田市の市長に当選した事案で、SNSの活用のあり方やそれに依拠した石丸伸二氏の言動について書かれた部分です。
〇もう一つは、著者が全国で実践している一般社団法人ふるさと大好き全国作文協議会の全国での取り組みとその波及効果についての部分です。北海道東川町の地域づくりにおける住民の街の魅力発見から、地域おこし協力隊制度を積極的に活用してのまちづくりへの展開等が著者の実際の取り組みを通して書かれています。
〇著者が言う「何もない田舎」の街で、住民自身が作文を書くという実践を通して、街の魅力を再発見し、「ふるさと愛を醸成する」ことや「ふるさとキャリア教育」等の実践は、静岡県掛川市の榛村純一元市長が提案した「選択的土着民の養成を目指す生涯学習活動」とよく似ている実践だと思いました。
〇と同時に、この著者の地域との関り方について、「関係人口」のあり方や地域福祉研究者の地域との関り方について学ぶべきことが多いと感じました。

Ⅲ 「その時の出逢いが⑨―2000年代後半」

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑨

Ⅰ 2000年代後半

(はじめに)
〇2000年代後半は、筆者は既に60歳代に入っており、残りの人生をどう送ろうかいろいろ考えていた時期である。
〇そんな折、同志社大学の黒木保博先生から同志社大学へ来ないかとお誘いを頂いた。私は歴史のある、かつ社会福祉教育でも伝統のある同志社大学への転籍に大きく心が揺らいだが、結婚以降一度も引っ越しがなく(多摩ニュータウンの区画整理で3年ほど稲城市大丸の地域で貸家住いをしたことがある)、地域活動もしていた妻の強い反対もあり、転籍を断念し、日本社会事業大学で定年まで勤める覚悟をした矢先に、2005年日本社会事業大学の学長に選出された。
〇他方、2008年には厚生労働省社会・援護局長所管の検討会「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」の座長を仰せつかり、いままで取り組んできた地域福祉の考え方、システム、方法について提案し、受け入れられ、報告書として出すことができた。
〇前者は、日本社会事業大学で教育を受け、その継承を託された教育理念を学長としてどう発展させるかという、いわば日本社会事業大学での教育・研究の集大成の時期でもあった。
〇後者は、大橋謙策の地域福祉研究は、“社会福祉のプロパーでない”と揶揄されながら頑張ってきた地域福祉の実践と研究がいよいよ厚生労働省の政策の俎上に上ることになった契機であり、筆者の地域福祉の実践と研究が評価、認められたことで、これまでやってきて良かったと感慨深いものがあった。

➀日本社会事業大学の学長(2005年~2010年)

〇2005年4月、日本社会事業大学学長に就任した。61歳であった。
〇日本社会事業大学は、オーソドックスな教授会自治を伝統的に守ってきていたので、学長に選出されたからといって、学長主導でなんでもできるわけではないし、かつ厚生労働省の委託で大学運営がなされているので、補助金の“目的外使用”はできないという経営上の制約がある。
〇そのような中で、学長として心掛けたことは、日本社会事業大学が厚生労働省が委託の根拠にしている「指導的社会福祉従事者の養成」という命題にどう応えているかということである。
〇その内訳、内容はいろいろと解釈できるであろうが、私としては➀社会福祉士の国家試験の合格率をせめて70%台にしたい。ただし、合格率を高める受験勉強を教員にも、学生にも強制化することはしたくないという虫のいい考え方で進めたいと思っていた。②厚生労働省の委託金が厳しくなっていた状況の中、科学研究費で社会福祉学の細目が認められたのだから、教員全員が科学研究費に申請、採択できるようにするということでした。③大学は教員だけで成り立っているのではなく、事務職員も重要な役割を担っている。したがって、事務職員で一定の権限と責任を有している人には学長選挙に参加できるようなシステムをつくること、④指導的社会福祉従事者の養成という委託に応えるために、日本はもとより国際的に日本を代表してソーシャルワーク教育、ケアワーク教育の拠点になるということを考えた。
〇仲村優一先生からは、日本社会事業大学の教員・学長は日本社会福祉学会の会長、日本社会事業教育学校連盟の会長に選ばれなければ駄目だと言われていたので、取り敢えずはその3要件(日本社会福祉学会会長(1999年~2004年)、日本社会事業学校連盟会長(2007年~2011年)、学長(2005年~2010年))はクリアーしたことで、日本社会事業大学の恩師の先生方から求められていた日本社会事業大学卒業生に“求められた教員・研究者像”は実現できたと思った。
〇学長として提起した➀社会福祉士国家試験の合格率は残念ながら60%強程度に留まり、目標の70%には届かなかった。②教員の科学研究費の採択率は最高で37%に上り、文部科学省の高等教育局長からもお褒めのお言葉を頂いた。理工系ではないので、採択された科学研究費の総額は多くはないが、教員の科研費の採択率では日本のトップレベルとなり、それなりの成果を出せた。中でも科学研究費の大型助成金である科学研究費(S)とか(A)が採択されたのは大きかった。
〇その大型科学研究費を活用して、「アジア型ソーシャルワーク教育の標準化と国家資格の互換性に関する研究」(2009年度~2011年度)を中国、韓国の東北アジア3か国で行った。
〇この取り組みは、ヨーロッパ諸国が1999年に「ボローニャ宣言」を出したことに触発されて取り組んでみたものである。
〇「ボローニャ宣言」とは、世界最古の大学「ボローニャ大学」(1088年創設)があるイタリア・ボローニャで、ヨーロッパ29か国の教育大臣が署名した「ヨーロッパの高等教育制度を共通の枠組みで構築し、学位認定の質と水準を国が違っても同じレベルのものとして扱う世界に通用する高等教育制度」である。
〇イギリスで出会ったソーシャルワーカーはスペインで資格を取り、イギリスで認定されたソーシャルワーカーとして働いている。そのようなグローバルな規模でのソーシャルワーク教育を東北アジア諸国でも考えられないかという思いだった。
〇採択された大型科研費を活用して日本、中国、韓国3か国のソーシャルワーク教育のカリキュラムの比較や国家試験の内容などについて翻訳したりして、比較研究を行った。
〇他方、イギリスのサザンプトン大学や北京大学との姉妹校協定も結び、国際的に通用する日本社会事業大学にしようとした。その考え方の一環として、「アジア福祉創造センター」を日本社会事業大学社会事業研究所に設置し、「アジア太平洋地域会議」でお世話になった秋元樹先生を日本社会事業大学社会事業研究所の教授にお招きして、研究や国際交流を推進した。
〇その一環として行ったシンポジュウムでは、中国からは北京大学のワン・シビン先生、韓国からは梨花女子大学のキム・ソンイ先生、タイからはタマサート大学のデチャ・サングクワン先生に参加して頂いた。

(註)後日、東北アジアのソーシャルワークに関して、東北福祉大学がワンアジア財団の助成を頂き、「高齢社会をめぐる諸課題とアジア共同体」というテーマでの連続講義が2013年度、2014年度に開講された。筆者はその一コマを担当したが、その講義録が萩野浩基東北大学学長の手で編集され、『高齢社会の課題とアジア共同体』(芦書房、2014年)として刊行されている。筆者の講義録は、科研費での研究を基にしたもので、「コミュニティソーシャルワークの視点からみた高齢社会とアジア共同体―社会発展の触媒としてのソーシャルワークー」として収録されているので参照して欲しい。

〇日本社会事業大学学長退任の2010年3月13日に「大橋謙策学長最終講義」を開催して頂いた。
〇日本社会事業大学としての矜恃を創り、品格を高めたいという思いもあって最終講義を行うことにした。テーマは「『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」である。多くの卒業生や社会福祉関係者が集まって下さり、教員・研究者としての冥利に尽きる時間と空間であった。
〇日本地域福祉研究所でも日本社会事業大学学長の退任を契機に、安部晴美事務局長が尽力してくれて、目白の椿山荘で『大橋謙策先生地域福祉論継承・発展の集い』を開催してくれた。
〇畏友である和田敏明先生、上野谷加代子先生、小林良二先生(東京都立大学、東洋大学教授)がシンポジストとして登壇してくれた。和田先生が「大橋謙策地域福祉理論は1979年の「ボランティア活動の構造図」にあると指摘された。上野谷先生は大橋理論の真髄は『求めと必要と合意』という考え方にあると言って頂いた。まさに、自分でもそれらの考え方を大切にしてきたので大変嬉しかったのを覚えている。
〇私が出している毎年の年賀状には前年の出来事を簡潔に記載しているので分かったのでしょう、学長就任後のお正月に、東京大学教育学部の大先輩である元明治大学教授の北田耕也先生から、日本酒の入った角樽が届いた。先生曰く、宮原誠一教室出身者から初めて大学の学長が誕生したので大いに祝いたい旨のメッセージが添付されていた。嬉しい限りであったが、角樽には面はゆい感がした。
〇東大大学院の院生仲間(筆者の1年先輩と1年後輩)の9名で、「苦楽会」という研究会を立ち上げ、東京と関西(9名のうち3名が関西の大学に就職)の中間地点の蒲郡にある国家公務員共済の宿舎で合宿し、川島書店から本の出版を企画したのだが、残念ながらそれは実現しなかった。その「苦楽会」のメンバーの中から、後に大東文化大学学長の太田政男さん、佐賀女子短期大学学長の南里悦史さんを輩出したが、宮原研究室からは私が最初ということであった。
〇ちなみに、「苦楽会」のメンバーには、母校の東大教育学部の教授になった佐藤一子さんがおり、佐藤一子さんは東京大学出版会から『イタリア学習社会の歴史像―社会連帯にねざす生涯学習の協働』(東京大学出版会)という素晴らしい本を書いている。

➁「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」座長

〇2007年10月3日に、厚生労働省社会・援護局長所管の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が立ち上がった。社会援護・局長は、老健局長を歴任した中村秀一局長であった。
〇この研究会が開催されるまでに、ルーテル学院大学の和田敏明先生が中心になって勉強会が持たれていた。筆者も、その勉強会に呼ばれ、今まで自分が行ってきた地域福祉研究・実践の考え方などを既に述べていた。
〇この研究会には、筆者の教え子で神奈川県城山町社会福祉協議会の職員、神奈川県立保健福祉大学の助手を歴任していた中村美安子さん(後に同大学教授)が、厚生労働省所の地域福祉担当専門官として事務局を担っていた。
〇中村秀一局長は、精力的に全国の素晴らしい実践をしているところを視察し、研究会を支えてくれた。
〇研究会報告書のタイトル「地域における『新たな支え合い』を求めて―住民と行政の協働による新たな地域づくり」は、何と研究会の最終日の3月31日に、会議で一任を取り付けたあとで、中村局長と筆者が協議をして決定した。
〇この報告書の考え方は、ある意味、従来の厚生労働省の考え方、枠組みを超えて「住民と行政との協働」がなければ、これからの社会福祉問題、地域福祉は展開できないことを謳ったもので、画期的なものだと思っている。
〇従来は、国民が抱える生活問題は、厚生労働省が制度を創って問題解決を図るということで、住民参加とか、住民の協力とかいう視点は殆どなかった。
〇それは憲法第89条の規定とも関わって、国民の生活問題は行政が国家責任において解決するという「福祉国家論」が背景にあった。国民の中にも行政がボランティア活動の推進とか住民の協力とかと言えば、それは行政の責任回避であると断じてきた風潮があったし、そのような考え方は社会福祉研究者の中にも、社会福祉従事者の中にも根強くあった。
〇しかしながら、国民が求める、地域で自立生活を送り、最期まで自分らしく暮らしたいという願いを実現させることを理念としている地域福祉の展開においては、地域住民の参加、協力がなくては実現しない。そのことが検討会の中でも論議され、かつ承認されて、本報告は公表された。
〇この報告書は、戦後の社会福祉政策を変える大きな転換点になったと自負している。また、この報告書の内容は、後に厚生労働省が打ち出す「地域共生社会政策」の前史とも位置付けられる内容の報告書でもあると自負している。
〇この報告書に基づき、その考え方を具現化させる国の補助事業が2009年度から「安心生活創造事業」として展開されるが、それを担った地域福祉専門官は、日本社会事業大学の学部、大学院の教え子である中島修さん(現文京学院大学教授)であった。
〇その補助事業は新しいサービスと財源を自分たちで創り出すというねらいと他分野との協働が指向された。従来の社会福祉にはない、新たしいサービスと財源を作り出すというソーシャルワーク機能がある意味初めて厚生労働省の政策で求められた画期的な取組であった。
〇筆者が「関係人口」として関わっている香川県琴平町の「ガーリック娘」という市場に出せないニンニクとオリーブオイルの商品、千葉県鴨川市の夏ミカンを活用してのマーマレードやポン酢等の商品が社会福祉協議会の手によって開発された。

➂同志社大学大学院、東京大学大学院、淑徳大学大学院の講義と研究者の養成

〇筆者は、1989年以降、日本社会事業大学で大学院修士課程を教えることになるが、1990年代は日本社会事業大学以外に、淑徳大学大学院等でも教えることになる。
〇日本社会事業大学の院生以外に教えることは多様な意味で楽しみであったし、多様な研究課題に関心を持つ院生を教えることで、自分自身が成長する機会でもあった。
〇日本社会事業大学以外の大学院教育で思い出に残るのは、東京大学大学院と同志社大学大学院、淑徳大学大学院での指導が思い出深い。
〇少し遡るが、1990年代初めに、東京大学教育学部助教授の鈴木眞理先生の依頼を受けて、大学院教育学研究科社会教育専攻の「社会教育と地域福祉」の特別講義を3年間担当したことがある。神戸大学の松岡広路先生や津田英二先生、宇都宮大学の佐々木英和先生、横浜国立大学の矢野泉先生などが育った。佐々木英和先生や矢野泉先生には、東京都稲城市の生涯学習計画策定をお手伝いしてもらい、フィールドに関わる重要性を教えた。
〇丁度、その頃淑徳大学も大学院を設置するということで、仲村優一先生や阿部志郎先生等と一緒に非常勤講師に名前を連ねることになった。淑徳大学大学院では、それ以降筆者が70歳になるまで勤めさせて頂いた。
〇同時に、私が出講する講義科目は、事実上オープンキャンパス扱いをして頂き、千葉県社会福祉協議会職員を始め、千葉県内の社会福祉協議職員などに呼び掛けて参加してもらい、後に「千葉県地域福祉研究会」を組織していくことになる。
〇淑徳大学では台湾の徐嘉隆先生や東洋大学の早坂聡久先生、千葉県立看護大学の安部能成先生などを教えた。
〇同志社大学大学院では、転籍のお話を頂いた時からだと記憶しているが、専任で駄目なら非常勤でということで、これは喜んで引き受けさせて頂いた。かれこれ10年余の非常勤であったが、思い出深いものがある。
〇毎月1回の1日半の集中講義での出講であるが、ゼミが終われば馴染みのお店屋さんに行き、京都のお酒・玉の光の純米酒1升を皆で飲むのが楽しみであった。同志社大学への転籍を拒否した妻も、院生のお誘いで葵祭見学には喜んで参加してくれたのも楽しい思い出である。
〇同志社大学の黒木保博先生、上野谷加代子先生、埋橋孝文先生、野村由美子先生等の先生方との懇親の機会も楽しい思い出である。
〇同志社大学大学院生との論議は、日本社会事業大学のような一種の専門分野に特化した思考傾向を持っている院生とは異なり、まさに伝統のある、ユニバーサルの大学での院生の考え方にとても面白みを感じていた。
〇同志社大学大学院では、大分大学の教員になり、その後母校へ戻った同志社大学の廣野俊輔先生、武庫川女子大学の堀善昭先生、長野大学の羅珉京先生、日本福祉大学の梅本聡子先生、桃山学院大学の南友二郎先生等と一緒に学べたのは楽しい思い出であると同時に、皆さんよく学んで、教員・研究者として巣立ってくれたのも嬉しい限りである。
〇1990年代に筆者が、日本社会福祉教育学校連盟の活動を精力的にしていたせいか、東北福祉大学院でも非常勤講師を勤めることになった。これが伏線で、日本社会事業大学の特任教授を70歳で終えた2014年4月から東北福祉大学大学院教授を勤めることになる。東北福祉大学の件については、項目を別に立てて記述したい。

➃富山県福祉カレッジ学長

〇富山県社会福祉協議会とのつながりは既に1980年代前半からあったが、富山県行政との関わりは確か1990年頃が最初ではなかったかと記憶している。三浦文夫先生が当時の中沖知事の依頼を受けて、富山県の総合計画策定に関わるようになり、手伝えと言われていろいろ作業、意見を述べたのが始まりである。
〇その後、富山県福祉カレッジが設立され、三浦文夫先生が学長をされる際、お前も客員教授として手伝えと言われ客員教授になったが、取り立てて業務があったわけではない。講師として呼ばれ研修を担当する程度であった。三浦文夫先生は、学長として「三浦ゼミ」を開設し、年間6回程度富山へ通っていた。
〇2009年10月に、筆者は富山県福祉カレッジの学長に就任した。県社協の専務理事をはじめ関係者からは、「三浦ゼミ」を継承して欲しいと言われたが、“ゼミ生”が20人程度の方のみを対象にして“学長職”としての務めを果たすのは嫌だと拒否した。その代わり、広く社会福祉従事者の研修を担当するし、県内の市町村へ出張講座を企画して出歩くことを提案し、了解して頂いた。
〇多くの都道府県社会福祉協議会が、行政から委託されて社会福祉研修センターを運営していたが、1990年の「社会福祉関係8法」改正以降、社会福祉行政の地方分権化が進み、各都道府県の社会福祉研修センターの位置と役割が弱体化していった。

〇2000年の介護保険、2005年の障害者総合サービスの提供以降、その傾向はより強まり、全国の都道府県の社会福祉従事者の研修体制はぜい弱化していった。この変化を行政も社会福祉研究者も、全国社会福祉協議会も必ずしも警鐘を鳴らしてこなかった。
〇筆者は、1980年代後半から、青森県、秋田県、山口県等の社会福祉研修センターに深く関わってきていたが、社会福祉行政が地方分権化されて以降の社会福祉研修システムの脆弱化は大きい。
〇現在、富山県福祉カレッジは年間53講座を行い、約5500人が受講している。また、富山県は1990年初頭に設置された介護実習普及センターを改組して、「介護テクノロジー普及推進センター」を開設している。これからは、介護人材の確保が容易ではないし、介護の科学化が必要だし、何より福祉サービス利用者へのケアの質的向上が求められており、その普及推進を図っている。
〇富山県福祉カレッジ、介護テクノロジー普及推進センターでは、北陸新幹線の富山駅のコンコースを会場にして福祉機器展を行い、広く県民のケア観の見直し、福祉機器の利活用推進に貢献しようとしている。
〇2026年度には、その福祉機器展に社会福祉系専門職団体がブースを開設して、県民の福祉・介護相談にも応じるように取り組んでいる。
〇富山県福祉カレッジの学長として、富山県社会福祉協議会に働きかけて、毎年4月末に富山県社会福祉関係者の集いを開催している。新田県知事、県副知事、県の福祉行政部局の管理職をはじめ、県内社会福祉関係専門職団体、社会福祉施設経営の社会福祉法人の理事長、施設長、民生・児童委員など100名を超える参加者が一堂に会し、交流、懇親を深めている様はとても大事である。この社会福祉関係者の集いは、香川県社会福祉協議会でも取り組んでくれたが、当時の平井知事などが参加してくれた。

➄世田谷区地域福祉保健福祉審議会会長の職務と区社会福祉協議会へのテコ入れ

〇私は、2008年10月に東京都世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任した。
〇2006年に前任の会長であった三浦文夫先生が退任された時、後任会長として打診を受けたが、その時は審議会委員の中に元日本社会事業大学教授であり、白梅大学の学長をされている石井哲夫先生が在任されていたので、石井哲夫先生に会長を一期引き受けて頂きたいと固辞した。そのような経緯の中で、私は2008年に会長に就任した(~2016年9月)。
〇世田谷区は人口91万人(現在は95万人)で、鳥取県や島根県よりも多く、一種の厚生省の新しい社会福祉政策の“アンテナショップ”的な性格を有していた。多様な、新しい政策を世田谷区で実証し、その成果を基に厚生省がそれを全国化させる面があった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の委員は20名程度であるが、審議会の際に、事務局として陪席する人は30人くらいいる。筆者は、埼玉県社会福祉審議会の会長もしたが、世田谷区ほどには事務局職員は陪席していなかった。東京都社会福祉審議会や東京都児童福祉審議会でも見かけたことがない数の事務局職員の陪席であった。
〇私は、世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任するに当たって、事務局にこの案件を実施してくれるなら会長を引き受けましょうと提案した。それは、私が行政アドバイザーとして提案し、作られた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムと同じようなものをつくるということであった。
〇長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムは、茅野市を4つの圏域に分け、圏域ごとに保健福祉サービスセンターを設置し、診療所を併設して医療・保健・福祉の連携を強化しつつ、保健福祉サービスセンターに保健師、福祉事務所にいたソーシャルワーク機能を持つことが期待されている職員、社会福祉協議会の職員を配置して、チームで生活のしづらさを抱えている人を発見し、支えるシステムで、個別支援とそれを支える地域づくりとを統合的、一体的に展開するシステムであった。
〇しかも、その保健福祉サービスセンターは、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めて全世代対応型の福祉総合相談窓口であり、地域に出張って生活のしづらさを抱えている人を発見・把握するアウトリーチ機能も持つシステムであった。
〇この茅野市の保健福祉サービスセンターを視察に来た厚生労働省老健局の課長が、茅野市保健福祉サービスセンターに学んで、2006年に介護保険制度に導入したのが「地域包括支援センター」である。
〇私は、世田谷区に27ある地域包括支援センターを茅野市と同じように、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めた、住民の立場から考えて、福祉アクセシビリティの良いシステムを構築する意思があるのなら会長に就任していいと言って会長になった。
〇その時の保健福祉部長が秋山由美子さん(後の世田谷区副区長、その後日本地域福祉研究所の理事をして下さり、現在は児童養護施設を運営する社会福祉法人福音寮の理事長)で、その時の課長が瓜生さん(定年時には高齢福祉部長)で、私が会長の任期終了(世田谷区は委員の任期を最長10年としている)で退任する際に、27ある地域包括支援センターを高齢者のみならず全世代対応型の総合相談窓口へ変えてくれ、大橋先生とのお約束は守れましたと言ってくれたことが嬉しかった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の会長を退任したら、ある時保坂典人区長から、今度は世田谷区社会福祉協議会を何とか立て直して欲しいという要請がきた。世田谷区議会で、数年にわたり、決算審議の区議会で世田谷区社会福祉協議会の補助金をなくすべきではないかという類の質問が出、対応に苦慮しているという。その対策をしてくれという願いであった。
〇早速、世田谷区社会福祉協議会職員のCSW研修をすることにして、生活のしづらさを抱えている人への支援で困っている事例を出して欲しいと言ったところ事例は皆無であった。
〇社会福祉協議会職員は直接地域の住民が抱える困難事例に対応し、その人たちを支える地域づくりをしていないことが分った。この点を区議会では指摘されていて、住民のニーズに対応した活動、地域づくりをしていないのだから区からの補助金をなくすべきという論旨で批判されていることが判明した。
〇全国各地で行っているCSWの研修プログラムに基づき研修を行った。その後、困難事例にどう対応したかの実践発表会を公開で行い、区長や区の部長たち、区議会議員、民生委員などに聞いてもらい、評価を頂きながら社会福祉協議会の体質改善に3年間取り組んだ。この過程で、世田谷区の保健福祉部長をされた金澤弘道さんが区社会福祉協議会の常務理事・事務局に就任され、力を発揮してくれたたことは大きかった。
〇この取り組みの過程で、住民に社会福祉協議会は見えていないのだから、可視的にもみえるようにしようと提案し、社会福祉協議会の名前とマークが入った黄色のベストを着て、区内を歩こうと提案したら、当時の労働組合委員長から“それを着るかどうかは労使の交渉事項です”と言われ驚いた。
〇私は、そのユニホームを着る気概がないのなら社会福祉協議会が生き残れなくても知らないよと言って着てもらった。
〇社会福祉協議会は行政以上に“役所的で、官僚的だ”と言われることがよくわかったし、都合の悪い時は“自分の組織は民間だ”と言い逃れをする体質を持っている。
〇現在の世田谷区社会福祉協議会はかなり改善され頑張ってくれている。金安博明さんが事務局次長になり、山本学さんが総務課長、松田京子さんが地域福祉課長、遠藤慧さんが自立生活支援課長になり、清水明子さんや尾崎一美さんたちが地域福祉担当の責任者になり、少なくともコミュニティソーシャルワーク機能の重要性を理解している職員が中枢を占めるようになってきているので、これからが楽しみである。
〇ただ、指定管理制度等の問題もあるのかもしれないが、区社会福祉協議会はいまだ地域包括支援センターを一つも受託できていないし、コミュニティソーシャルワーク機能を統合的に展開する社会福祉協議会組織の「地域担当制」の組織改革は未だ十分とは言えない。

➅念願の第1回通し歩きお遍路―2010年9月~11月

〇高校時代の“人生如何にいきるべきか”で悩んでいた時からの夢であった「四国通し歩きお遍路」に2010年9月20日出立した。
〇日本社会事業大学の学長任期を終えた後、大学から大学院博士課程の指導教員が手薄になるので「特任教授」として残ってくれと言われ承諾した。ただし、大学行政は一切せず、大学院指導のみを条件にした。と同時に、2か月間の休暇を頂きたいといい、大学院の指導が落ち着く9月から休暇をもらい、「四国通し歩きお遍路」に出立した。
〇大橋が四国お遍路を歩くというので、前夜、徳島市で関係者が壮行会をしてくれた。明日からは精進料理で、お酒も飲めないのだからということで大いに飲んだ。日本社会事業大学の先輩で徳島県庁の保健福祉部長をやり、その後徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた俳人の丸川悦司先生、元徳島県社会福祉協議会職員で、当時四国大学短期学部教授の日開野博先生、徳島県社会福祉協議会の佐伯局長、琴平町社会福祉協議会の越智和子さん、真言宗御室派の願成寺住職の大西智城さん(社会福祉法人阿波老人会の常務理事)等が参加してくれた。
〇元徳島県社会福祉協議会職員、元全国社会福祉協議会ボランティセンター長で、元福山平成大学教授の木谷宜弘先生は所用があり参加できなかったが、俳句の吟行の用具一式をプレゼントしてくれた。四国お遍路の道中で、毎日一句は詠めというお達しで付きであった。
〇翌朝、第一番札所の霊山寺で、お遍路の装束一式を購入し、聖なるお遍路を緊張して歩き始めた。杖を突き、鈴を鳴らして歩くので、お遍路さんが歩いているということが分るのであろう、途中、“お遍路さん”と呼び止められて、家から出てきた人からお接待を受けた。
〇こんな情景が約40日間続くのかと思いつつ、1日目の宿所の7番札所の十楽寺に着く。お風呂に浸かり、さっぱりして食堂に行くと生ビールは如何ですかと進められる。お遍路ですから、精進潔斎して、お酒を飲めないのではないですかと聞くと、これから長旅です。疲れをいやすのに生ビールを飲んではいけないということはありませんといわれ、いっぺんに緊張のタガが緩んでしまった。しかも、夕食のお膳にはとんかつが出ていて、再度精進潔斎でなくていいのですかと聞くと、長旅ですから体力を落としていけません。とんかつを食べてくださいといわれ食べた。
〇前夜、明日からお酒は飲めない、食事も精進料理だからと言って飲んだ意味が全くなくなってしまい、これ以降毎晩飲むことになる。
〇ちなみに、第2回目の歩きお遍路は2014年4月に行ったのだが、その時は39日間一切お酒は飲まずに歩き通した。
〇丸川悦司先生と木谷宜弘先生の厳命で、ただひたすら575の俳句ともいえないものを書き連ねていたが、後日私の『大橋謙策四国お遍路紀行』を北田耕也先生に送ったところ、俳人でもある北田耕也先生は、私が2010年10月13日に、高知県三原村で詠んだ「残された案山子侘しく秋の冷」が一番いいと言ってくれた。

(註)三原村は、急な山道を登ると、あたかも山の中の桃源郷かと思えるような視界が広がり、きれいな、平坦な田園風景が連なる村で、良質の木材を産出している豊かな村。

〇3回挙行した「四国通し歩きお遍路」については、各回とも紀行文を書いているのでそれを参照して欲しい。紀行文に就いては、阪野貢先生が主宰されている「市民福祉教育研究所」のブログに全て収録されているので、興味のある方は見て頂きたい。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の研究 ―その思想的系譜と変革の実践原理―

 

 


 

目 次

 


 

はじめに

 


 

本書の背景と目的 
〇筆者は1980(昭和55)年前後より、「福祉教育」を主要な研究領域と定め、半世紀近くにわたりその理論と実践の体系化に努めてきた。この間、全国社会福祉協議会をはじめ東京都・埼玉県・静岡県・富山県・岐阜県・三重県等の社会福祉協議会における福祉教育研究委員会等での研鑽や、東京都狛江市や岐阜県関市をはじめとする各地のフィールドにおける住民との共働を通じ、一貫して「福祉教育とは何か」「福祉教育はいかにあるべきか」を問い続けてきた。
〇本研究の目的は、これまで断片的にしか語られることのなかった福祉教育の歴史的実践を、明治期の地方改良運動から戦間期の生活綴方教育運動、戦後初期の子供民生委員制度、神奈川県の社会福祉研究普及校制度に至るまで遡及的に掘り起こし、その思想的源流を明らかにすることにある。そのうえで、筆者が提唱してきた「まちづくりと市民福祉教育」の概念を、単なる知識の伝達ではなく、地域社会を住民自らの手で創り替えていく「社会変革モデル」として論理的に再構築することをめざすものである。

福祉教育研究における今日的課題―「対策」から「教育」への転換―
〇現代の福祉教育におけるひとつの大きな課題は、それが多分に「対策」としての側面に終始してきた点にある。すなわち、少子高齢社会の担い手の育成や、非行防止、児童健全育成といった社会福祉問題を解決するための「手段」として福祉教育が位置づけられてきたことである。しかも、この「対策」と「教育」の混同を整理しないまま、道徳的な「思いやり教育」に傾斜してきたことにある。いま、求められるのは、従来の「思いやり教育」がいかに現代社会の構造的課題(生産性、自己責任論)を補完・温存してきたかを批判的に検討し、これに代わる「権利と構造変革の教育」(一人ひとりの尊厳を守り、そのために社会を編み直す教育)としての可能性を提示することである。これが本研究が取り組むべき核心的な課題である。

本書の構成と研究方法―歴史的検証と実践分析の統合―
〇本書では、理論研究の基盤には歴史研究が不可欠であるとの立場から、歴史的検証と実践分析を統合したアプローチを採用する。歴史的検証では、文献史料の分析に留まらず、検証作業を通して現代の「まちづくりと市民福祉教育」への示唆を考察する。実践分析については、筆者が強く関わった狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあカレッジ」の事例を対象に、「市民福祉教育」がいかに「まちづくり」の基盤として機能したかを分析する。
〇本書は3部9章で構成され、福祉教育の歴史的検証(第1部、第2部)から現代における理論的再構築、そして実践的なまちづくりへの展開までを論じる(第3部)。

〇第1章:明治後期の地方改良運動にみる「自治民育」の実践
〇「福祉教育」を地方自治や地域振興の視点から捉え直し、その原点を1910年前後以降、内務省主導で展開された「地方改良運動」に見出す。当時の諸史料を紐解き、官製運動がいかにその後の思想の素地となったかを検証する。

〇第2章:昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相
〇昭和初期の「郷土教育運動」における「社会奉仕」概念を分析する。地域に根ざした住民参加の重要性を評価しつつ、一方で情緒的な郷土愛が体制補完的な役割に陥る危うさを指摘し、現代の「市民福祉教育」への示唆を考察する。

〇第3章:戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
〇1930年代の「生活綴方教育運動」に福祉教育の思想的源流を探る。指導者・国分一太郎が1936年に発表した2論文を翻刻・解題し、彼が提唱した「社会事業的教師」の現代的意義を考究する。また、その精神が戦後の無着成恭の『山びこ学校』等へ伏流として継承された可能性を指摘し、戦前・戦後の歴史的連続性を提示する。

〇第4章:徳島県・平岡国市による「子供民生委員」制度にみる「民生村造り」
〇1946年に平岡国市によって創案された徳島県の「子供民生委員制度」を取り上げる。平岡の生涯と制度の変遷を明らかにすることで、子どもによる民生委員活動(福祉活動)の本質を考察し、現代の実践・研究における課題を明確化する。

〇第5章:神奈川県における「社会福祉研究普及校」制度にみる福祉教育実践
〇1950年度より神奈川県が実施した「社会福祉研究普及校(社会事業教育実施校)」制度を検証する。各学校の実践内容とその成果を追究し、戦後初期における福祉教育の歴史的な特質と限界を浮き彫りにする。

〇第6章:「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相
〇「まちづくり」の言説について、パラダイムシフトをもたらした玉野井芳郎と田村明、山崎亮、そして山下祐介のそれを再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示する。

〇第7章:福祉教育論の再考と現代的展望
〇形骸化・定型化が進む現代の福祉教育の実践・研究について、大橋謙策の「福祉教育原理論」を基軸に据えて再考する。大橋の「価値変革」、原田正樹の「関係変革」、そして筆者が主張する「市民自治による社会変革」を高次元に昇華し、「まちづくりと市民福祉教育」を真の「社会変革モデル」として再定義する。

〇第8章:「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開
〇1990年代初頭の東京都狛江市社協の「あいとぴあカレッジ」を事例に、教育がいかにまちづくりの基盤として構造化されたかを分析する。一過性のイベントに終わらせないための「See-Plan-Do-See」サイクルの提示とともに、それを支える「ヒト・モノ・カネ・シゴト」の4要素を体系化し、現代における展望を論じる。

〇第9章:「まちづくりと市民福祉教育」が拓く新たな地平
〇従来の「思いやり教育」を批判的に検討し、社会構造そのものに働きかける「権利と構造変革の教育」への転換を提唱する。小松理虔の「共事者」、奥田知志の「不可解性の受容」といった思想を援用し、自立を「依存先を増やすこと」と捉える「依存の権利化」に基づく理論的再定位を試みる。

「歴史・哲学・原理」の構造的連関―本書を貫く方法論的視座―
〇本書が、第1部・第2部における歴史的検証と、第3部における理論的再構築という二段構えの構成を採るのには、ひとつの明確な方法論的信念がある。市民福祉教育を学問として体系化するにあたって、最も排すべきは「歴史なき哲学」「哲学なき原理」「原理なき歴史」という断絶である、というのがそれである。
〇第1に、「歴史」の継承と検証である。市民福祉教育を構想する出発点は、歴史に学ぶことである。市民福祉教育の歴史とは、記録された過去の教育的実践の単なる羅列ではない。それは、各時代の社会矛盾に対し、先人たちがどのような思想と実践によって応答してきたか、その闘争の軌跡である。例えば、戦前期に国分一太郎が「1936年論文」で求めた「社会事業的教師」は、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」を再定義する試みであった。また、大橋謙策が1980年代に提示した福祉教育の概念規定は、高度経済成長期の歪みが生み出した「社会福祉問題」という歴史的文脈から析出されたものである。こうした歴史を遡及的に検討する意義は、現代の「地域共生社会」という標榜が、かつての思想を脱色した単なる「お守り言葉」(鶴見俊輔)へと形骸化していないか、あるいは不条理な社会構造を編み直そうとする社会変革を志向しているのかを批判的・創造的に見極めることにある。そこで本書は、第1部・第2部において、明治期の地方改良運動から戦後初期の子供民生委員制度、社会福祉研究普及校制度に至るまでの実践を丹念に検証する。
〇第2に、「哲学」の深化と再構築である。歴史の検証から得られた知見は、現代にも通用する価値や人間観として再構築されなければならない。それが本書のいう「哲学」である。哲学は、実践者が目先の成果や制度的要請に流され、活動を単なる技法や手段へと矮小化することを防ぐ価値的基盤となる。とりわけ効率性や生産性、・成果主義が重視される現代社会では、人間を「役に立つか否か」という尺度のみで評価する発想が教育にも浸透している。こうした状況に対し、人間の尊厳と他者と共に生きることの意味を根底に据える哲学を構築することは、教育実践を支えるだけでなく、社会のあり方そのものを批判的に問い直す営みでもある。そこで本書は、第3部において、大橋謙策と原田正樹の福祉教育論を批判的に継承し、その到達点と限界を踏まえながら、「まちづくりと市民福祉教育」の哲学的基盤を再構築することを試みる。
〇第3に、「原理」の理論化と実践的検証である。哲学という抽象的な思考は、具体的な「原理」として理論化さることで、初めて実践の指針となり得る。原理は、一度定式化されれば完成するものではなく、実践を通して不断に検証され、修正され、鍛え直される動的なものである。優れた原理は、多様な現場において一定の再現性を持ちながらも、地域性や歴史性、住民の生活実態に応じて柔軟に適用されなければならない。再現性だけを重視すれば原理は硬直したマニュアルとなり、個別性だけを重視すれば理論としての普遍性を失う。この緊張関係をいかに調停するかが、市民福祉教育の原理論に課された課題である。そこで本書は、狛江市社会福祉協議会の“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスや、小松理虔や奥田知志の現代的な実践との対話を通じて、この原理の妥当性と可能性、そして限界を実証的に検証する。
〇要するに、本書は、「歴史」のなかで培われた「哲学」が実践を支える「原理」を導き、その原理に基づく実践が新たな「歴史」を創り出すという循環を、本書全体の構成を通して示そうとする試みである。「哲学なき実践は凶器であり、実践なき哲学は遊戯である」という認識を本書全体の基調に据えたい。このような「歴史・哲学・原理」の動的な循環を志向することこそが、現代の「まちづくりと市民福祉教育」の研究に課せられた課題であり、本書はその道筋を模索するひとつの試みである。

 2026年6月1日

                              阪野 貢

 


第1部

近代日本福祉教育実践の展開
―戦前における遡及的原点の検証―


第1章
明治後期の地方改良運動にみる「自治民育」の実践
―「福祉教育」の遡及的原点を求めて―

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はじめに

〇実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される。実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である、といわれる。
〇福祉教育の歴史と理論と実践は、相互の関係にあり、歴史研究と理論研究と実践研究は互いを無視しては成り立たない。とりわけ歴史研究は、福祉教育研究の基本に据えられるべきものである。しかし、福祉教育研究は、これまで、福祉教育の歴史に無関心であったといわざるを得ない。
〇例えば、日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会(1996〈平成8〉年10月)から第13回大会(2007〈平成19〉年11月)までにおける「自由研究発表」(実践報告を除く)は393本を数えるが、そのうち歴史に関する発表はわずか10本(2.5%)に過ぎない。また、学会の機関誌である『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』の創刊号(1996〈平成8〉年7月発行)から第12号(2007〈平成19〉年11月発行)までに掲載されている論文(基調論文、解説論文、特集論文、研究論文、研究ノート)は95本を数えるが、歴史に関するものは皆無である。ここに、福祉教育の理論研究や実践研究の進展があまりみられないひとつの要因があるといえる。
〇いうまでもなく、福祉教育研究における歴史研究は、福祉教育の歴史的事実を実証的に解明することからはじまる。すなわち、それは、たんに福祉教育の変遷を押さえるだけでなく、その変遷の意味を明らかにすることである。その際、その史実を社会的・経済的・政治的・文化的諸条件との相互関連のなかで捉えることが肝要となる。それを通じて科学的・客観的に今日の福祉教育の到達点を押さえ、それが抱える問題点や課題を発見し、その本質を把握する。そして、それを解決し克服するための適切な方向を見定め、具体的な解決策を見出す。
〇ここに、福祉教育史研究の意義と課題があり、研究の重要性を指摘することができる。要するに、現在を読み解き、未来を拓くための有効な方法のひとつに歴史があり、歴史研究があるのである。
〇福祉教育の変遷を分析、把握するためには、先ずその原点や源流を探求することが求められる。それをどこに見出すかは、福祉教育研究の視点や枠組みの設定をはじめ、そこから得られる福祉教育の対象、主体、方法などについての知見、そしてそれらを総合化・体系化してその意味内容を確定しようとする福祉教育の概念規定などによって異なる。
〇これまで、第二次世界大戦後における福祉教育の源流は、例えば、1946〈昭和21〉年に平岡国市によって創案された徳島県の子供民生委員制度や、1950〈昭和25〉年度から実施された神奈川県の社会事業教育実施校(社会福祉研究普及校)制度などに求められてきた(1)。また、村上尚三郎は、福祉教育の「遡及的原点」として、「大正デモクラシーが教育界に及ぼした所産とも目される1920年代の、いわゆる新教育運動の勃興に焦点をあて」、「池袋児童の村小学校」の訓導・野村芳兵衛の生活教育や修身教育の実践に着目している(2)。
〇本稿では、福祉教育を「地方自治」や「地域振興」の視点から捉え、その「遡及的原点」は明治40年代以降に内務省主導で展開された「地方改良運動」の取り組みのなかに見出すことができる、という仮説を設定する。そして、それを諸史料から検証することにする。
〇周知の通り、地方改良運動では、地方(地域)すなわち町村の振興を図るために「人心の開発」が重視され、町村民に対する教育と教化が推進された。そこには、今日でいう福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたと考えられる。
〇そこで、以下では、具体的にはその教育・教化活動に関する史料について紹介し、検討を加える。それを通してその福祉教育実践としての側面や要素を明らかにする。そして、それを今日の福祉教育実践やその課題につなげて考え、そこから課題解決のための手がかりや示唆を得ることにしたい。

Ⅰ 地方改良運動とその推進方策

〇地方改良運動は、日露戦争(1904〈明治37〉年~1905〈明治38〉年)後のいわゆる「戦後経営」の一環として、内務省地方局の主導のもとに推進された。すなわち、それは、戦争による国家財政の危機的状況を打開するとともに、帝国主義列強諸国に伍する地位を獲得するために、国力の充実・発展と国家的統合を図る官製運動であった。この最重要の国策のもとで、地方改良運動では、具体的には「生産事業の振励」をはじめ「地方自治の振興」「公共心の育成」などの諸施策が展開され、地方(町村)の自発的・自立的振興が促された(3)。こうした運動が強力に推進されたのは、第2次桂太郎内閣が成立し内務大臣に平田東助が就任した1908〈明治41〉年から、1914〈大正3〉年頃にかけてであった。それ以後、地方振興は、それまでの総合的な施策から農事の改良・発達を中心にした個別的な施策として展開されることになる(4)。
〇こうした地方改良運動の推進を図るに当たって、内務省地方局は次のような政策手法を採った。(1)啓蒙書や実践事例集の刊行・配布、(2)「地方改良事業講習会」の開催、(3)中央報徳会の機関誌『斯民』の発刊、(4)「模範村」の表彰、などがそれである(5)。
〇(1)については、啓蒙書として『地方自治ノ指針』(1904〈明治37〉年)、『地方自治要鑑』(1907〈明治40〉年)、『地方改良の要項』(1912〈明治45〉年)、実践事例集として『地方資料(第1編~第15編)』(1907〈明治40〉年)、『地方改良実例』(1912〈明治45〉年)などがある。
〇(2)は、1909〈明治42〉年に、地方改良運動の監督・指導に当たる全国の地方吏員を主な対象として、第1回講習会が東京市の国学院大学で開催された。この講習会は1923〈大正12〉年頃まで継続開催されたが、ほぼ同時期の1908〈明治41〉年から1922〈大正11〉年にかけて、内務省地方局によって「感化救済事業講習会」が雁行して開催されている(6)。注目されるところである。
〇(3)に関しては、1906〈明治39〉年に内務官僚の床次竹二郎(地方局長)や井上友一(府県課長)らによって、半官半民の「報徳会」(1912〈大正元〉年に「中央報徳会」と改称)が結成され、報徳運動が展開された。この運動では、二宮尊徳の報徳思想(至誠・勤労・分度・推譲)に基づいた、主として地主層に対する教化善導が行われた。しかも、それは、内務省の地方行政事務に組み入れられていった。1906〈明治39〉年には機関誌『斯民』が発刊され、報徳思想についての再評価や研究が行われた。とともに、報徳思想は、地方改良運動の中心的なイデオロギーとして全国の各町村レベルにまで波及した(7)。要するに、地方改良運動はこの報徳会を推進母体として全国展開されたのである。
〇(4)については、1905〈明治38〉年に表彰された「明治の三大模範村」(静岡県賀茂郡稲取村、千葉県山武郡源村、宮城県名取郡生出村)が注目される。この表彰施策は、1910〈明治43〉年以降、中央(内務省)だけでなく地方でも本格的に展開された。そのねらいは、顕著な業績をあげた団体や個人に対して表彰を行うとともに、地方(町村)振興に取り組む団体や個人の自発的意識を喚起し、地方改良の機運を促進することにあった。

Ⅱ 町村振興のための教育・教化と福祉教育実践

〇地方改良運動の実質的な発案者であり、主導者であった井上友一は、町村振興には「経済の開発」と「人心の開発」が重要であり、また国力の充実・発展を図るための地方自治の振興には、町村民の「自治心」の喚起が必要不可欠である、と説いた(8)。そこで、地方改良運動は、「自治民育」(「自治民」の育成)というひとつのスローガンのもとで、教育・教化運動的な色彩の濃いものとして展開された。例えば、小学校では、町村振興の地域的課題が教育活動に採り入れられ、町村の実情や、児童や町村民の実際の日常生活に即した「教授の実際化と郷土化(9)」が志向された。また、小学校を卒業した在村青年や町村民に対しては、町村振興に向けていわゆる「補習教育」が推進された。そこでは、小学校教育の補習と農業教育などの実業教育、それに勤倹貯蓄などを軸とした生活様式(生活規範と生活態度)の改良・改善を図るための教化活動(生活教育)などが行われた(10)。
〇教育・教化活動の展開に際しては、教育勅語(1890〈明治23〉年)と戊辰詔書(1908〈明治41〉年)の趣旨の徹底や浸透が図られ、報徳思想(主義)が基調とされたことはいうまでもない。周知の通り、教育勅語では、儒教的道徳思想を基礎に、忠君愛国が教育の基本であることが強調された。戊辰詔書は、国民の個人主義・享楽的傾向の是正を諭し、国民に勤労と節約を求めた。
〇こうした町村振興の教育・教化活動や運動に動員されたのは、地域の中核機関である小学校と、地方の有力者である小学校教員であった。

1 小学校における「自治民育」の実践
〇ここで、内務省が刊行した前述の『地方資料』『地方改良の要項』『地方改良実例』に収録されている地方改良実践事例から、小学校における「自治民育」の教育活動の一端を紹介する。

害虫駆除と学童貯金(史料①)
〇小学校生徒の実業思想を養成するの一事は、愛知県に於て著く其功を収めり。就中、渥美郡の施設は最も見るへきものあり。即ち教授の際を以て、或は箒掃衛生の業を行はしめ、或は害虫の駆除に従はしめ、或は花卉の栽培を為さしむる等、実用に習はしめんとして、最も其意を用る。更に家庭との連絡を通し、種々の業務を撰ひて、労働に習はしめ、又廃物利用の念を養ふことに勉めたり。かくて勤労と節約とに依りて得たる金員は、其出所を明にして之を学童貯金と為すことを奨励せるに、其効を奏せること殆と意表に出てたり。例へは、福岡小学校の如きは生徒間に於ける勤勉の風よりして、延きて其父兄を化し、一村漸く勤勉力行の俗に嚮ひ、日を逐うて旧時貧困の状より脱せんとするに至れり(11)。

出征軍人家族の慰安と小学校生徒の裁縫(史料②)
〇愛知県額田郡なる北部高等小学校(当時岩津村細川村学校組合立)及岩津村(当時大樹寺村)立大樹寺尋常高等小学に於ては曩に戦役に際し出征軍人家族に労力を供し、且慰安の一方法として無料裁縫の依頼に応したり。最初両校職員に於て、軍人家族の衣服は一切無料を以て裁縫の依頼に応し、慰安の実を挙けんことを志し、其旨を女生徒に告くるや何れも喜んて之を迎へ、誓て夜を以て日に継くも此作業を遂行すへき旨を答へたり。依て村役場より各区区長総代等に其旨を伝へ、又は年長生徒をして軍人各戸に就き材料を取集めて之を裁縫したり。されは軍人家族中此の好意に感泣せしものありと云ふ。而して其裁縫等は新古を問はす又種類を択はさりしを以て、中には洗濯洗張の上裁縫したるものも亦少なからさりしと云ふ(12)。

害虫駆除(史料③)
〇児童の勤倹の美風を喚起せしめ、併せて愛郷の心を養はしめるが為め、滋賀県甲賀郡にては、学童をして害虫駆除の事に当らしむ。且作業の当日は、教員をして兼て編纂したる郷土誌を携帯せしめ、郷土に於ける地理、歴史、博物等に就きて、一々実地の教授をなさしむ(13)。

小学校施設の老人慰藉会(史料④)
〇宮崎県西諸県郡紙屋尋常高等小学校に於ては其附帯事業として毎年一回年齢六十歳以上の老人を集めて児童の成績品書画の類を陳列縦覧に供し或は児童をして読方、話方、唱歌、遊戯等を試みしめ或は音楽隊を編制して演奏せしめ以て老人に慰藉を与ふることゝせり又平素に於ても屢々児童の成績品又は珍らしき物を老人に回送して之を慰さめつゝあり而して其の接待及回送の労は何れも児童をして之に当らしめ以て自ら老人を尊敬するの念を深からしむといふ(14)

小学校生徒の教科以外の作業(史料⑤)
〇宮城県に於ては県下の小学児童に対し勤労を重んするの観念を養成する方法として地方適切の作業を選ひ教科以外之に従事せしむることを奨励したるに今や県下各小学校に於て実行するに至れり其の概要左の如し
〇学校に理髪機械を備付け児童相互に理髪を為さしむるもの頗る多し其の方法は学校に依りて多少異なれりと雖も多くは最初教師の指導に依りて年長の児童に練習せしめ休憩時間を利用し或は放課後に於て相互に又は幼年児童の為めに理髪し其の賃金を一回二銭内外と定め之を共同貯金として蓄積し或は学校に寄附し或は学用品共同購買の資金に利用せるものあり今や僻陬の地にして理髪店なき所に於ては父兄の請に応して理髪を為すものあるに至れりといふ(中略)
〇毎朝出校前の作業として牛乳配達、新聞配達、納豆売、豆腐売、飴売等の行商に従事せる児童市街地に最も多数なり又午後の放課後及休日には菓子売、薪炭売等に従事せるものあり其の他学校に於ては学用品の共同販売を実施し其の購入、販売、記帳等の取扱を練習せしめ収益は共同貯金と為し以て商業の実習と勤倹自治の精神とを養成するに努め居れり(中略)
〇小学校に於て養鶏、養豚、養兎の業を課し以て其の飼育方法を教ふると同時に之か趣味の養成に努めたる結果家庭に於ても養蓄又は養禽を楽むもの追々其の数を増せり(15)

教師生徒及有志者より成れる長寿者慰藉会(史料⑥)
〇静岡県周智郡飯田村睦実区には睦実尋常高等小学校職員生徒及区内有志者を以て組織せる長寿者慰藉会なるものあり長上を敬ふの主旨に依り長寿者に接するに常に赤誠懇篤を以てし又年二回区内七十歳以上の老人を招待して之を慰藉す而して之に要する費用は会員の寄附金を以て支弁せり四十二年十一月三日天長の佳節に際し本会総会を同小学校内に開催したる時の如き区内七十歳以上の老人十八名は一名の漏なく或は杖に縋り或は孫児に擁せられて来会し先つ遥拝式を挙行して聖寿の万歳を祝し引続き唱歌、余興等あり又児童の手工品を縦覧せしめ記念撮影を為し特志者の寄贈に係る扇子(祝寿の文字模様あり)を配与する等会員総出にて歓待の労を採れり斯くて来会の翁媼は何れも喜色面に溢れ和気靄々の内に散会したりといふ(16)

〇史料①は、清掃、害虫駆除、花卉栽培などの勤労と、廃物利用などの節約を通して学童貯金を行うことを奨励した実践である。史料②は、出征軍人家族を慰安するために、小学校生徒が無料で裁縫の依頼に応じた実践である。史料③は、害虫駆除の保健衛生活動を通して勤倹と愛郷の意識・態度を養うとともに、郷土理解の促進を図った実践である。史料④は、敬老の精神を養うために、小学校で、生徒が中心になって行った老人慰藉会の実践である。史料⑤は、相互理髪をはじめ、牛乳・新聞配達や納豆売りなどの行商、養鶏や養豚の業などの教科外の作業を通して、勤倹自治の精神の育成を図った実践である。史料⑥は、小学校の生徒のみならず、教員や地元の有志者などによって組織された長寿者慰藉会の敬老活動の実践である。
〇要するに、これらの教育実践は、「勤勉力行」「勤倹自立」「慰安」「慰藉」「愛郷」などの規範意識や生活態度を育成し、それを通して町村振興を図るという意図のもとに実施・展開された。そして、そのための手段や方法のひとつとして取り組まれたのが、害虫駆除の保健衛生活動や高齢者を慰藉するための敬老(会)活動などであったのである。
〇前者の保健衛生活動については、1897〈明治30〉年に制定された伝染病予防法に基づいて、その後、明治・大正・昭和と時代の変遷に伴って地区衛生組織活動の推進が図られることになる。そのなかの住民各層に対する広報・教育活動の実践に、福祉教育のひとつの原型を見出すことができる。また、後者の敬老(会)活動については、時代性は異なるものの、現象的には今日の福祉教育の主要な体験活動(体験学習)のひとつである高齢者理解や高齢者との交流・共生活動に通じるものである、といえよう。

2 大阪府生野村における「自治民育」の実践
〇ここに、村田宇一郎が1910〈明治43〉年に著した『学校中心自治民育要義』(宝文館発行)と題する本がある。村田は、大阪府天王寺師範学校長として、1907〈明治40〉年から大阪府東成郡生野村において「自治民育」に関する実践・研究を行った。村田のこの著書は、自治民育の「意見」と生野村での「実験」成績をまとめたものであった。その内容は、内務省の教育・教化要求に応えるものであり、内務省によって推奨されるところとなった。生野村での実践が自治民育の「モデル(17)」や「公民教育」の「原型(18)」などと評される所以であり、各地に大きな影響を与えたことは推察に難くない。
〇以下では、生野村における村田の自治民育の実践(内容と方法)とその特徴を把握するために、上述の彼の著書のなかから注目すべき叙述部分を摘記する。

忠君愛国と富国の手段(所論①)
〇我国方今の趨勢は(中略)、一等国の地位に上つたと云つても、他の七ヶ国に比すれば金力の程度に於ては顔色がないのである。(中略)こんな貧乏世帯で世界列強の間に介在して、能く国の面目を保ち得るであらうか憂慮に堪へないのである。そこで吾々国民はどこ迄も奮発して富を作らねばならぬ、併し国を富ましても忠君愛国の思想を失ふてはならぬ、忠君愛国の思想を益々強盛ならしめると共に国を富ましむるやうな働きある国民を造成することは、我国方今の急務にして吾々国民教育者の任務も亦茲に存するのである(19)。
〇忠君愛国の思想を強盛ならしむると同時に国を富ましめんとするには、如何なる手段が必要であるかと云へば(中略)、立憲思想を普及せしむることが何よりも急務である(20)。
〇此立憲思想の普及を謀らんとするには、之が根底をなす地方自治の思想から普及してかゝらねばならぬ(21)。

公共心共同心の養成(所論②)
〇国民教育者はこの町村自治の何たることを了解して教育に従事せねばならぬ。而して更に我国自治体の現状を省みて、其病根のあるところを察すれば、自治の発展に最も肝要であると云はれて居る公共心共同心が、他の徳義心に比して割合に発達が後れて、或は英国に於ける百年以前のことを実現しつゝあるのではなからうかと思はれるのは甚だ遺憾の次第である。それで吾々教育者は小学校時代から、この公共心共同心の養成には一層の努力を要することを自覚せねばならぬ(22)。

小学校本来の立場(所論③)
〇小学校に従事せる教員達は(中略)各自の奉職して居る市町村の歴史的構造や、法律的構造や、社会的構造などを了解して、将来その市町村公民となつて各自の市町村を手塩にかけて育てるやうな人間を造るべく、その預かれる子弟に対して基礎的教育を施(す必要がある――筆者注)(23)。
〇元来小学校は、どこ迄も町村自治体に於ける文化の中心となり、その町村の程度、民風事業方針等を参照して将来并に現在の自治民を造成するの道を講ずるところとならねばならぬ(24)。

庶民教育系統の建設(所論④)
〇小学校教育に次ぐに青年団体教育を以てし、青年団体教育に次ぐに自治体教育を以てして、小供も青年も戸主も主婦も老爺老媼も永年の間にそれぞれに訓練して、一家の一員たり、市町村の自治民たるに適当する資格を養ひ、市町村そのものを秩序的に系統的に整理せねばならぬ(25)

自己の町村の了解(所論⑤)
〇町村の事情を町村民一般が知らないやうなことでは、町村に対する愛の心即ち愛町村心と云ふものが起らぬ。町村の面目の為めに町村に対する義務の為めに、自己の行動を慎まねばならぬと云ふ心持が出来ないから、是非共これ等のことを了得せしめねばならぬ(26)。
〇一般村民をして「我が村」を了解して之を愛し之を保護するの道を悟らしめたこと(27)。
〇自村の情態が分れば分る程、村民一般の公共心共同心が発揮されて、自治体の面目を思ふ観念が出来なければならぬのである(28)

公民的知識の教授(所論⑥)
〇(小学校教育の――筆者注)高等科に入りては、市町村政の大要から郡制府県制の大要に及ぼし、名誉職の何たることより自治団体の理事機関や執行機関のことを概説し、自治体に対し各自が負ふ所、并にそのために尽すべき義務を挙げ、社会の秩序を重ずべきこと、社会の進歩に貢献すべきこと(中略)なども教へられて居るのである(29)。
〇(青年団体教育の実業補習学校の修身科にありては――筆者注)町村自治のこと(代議機関、行政機関、土木衛生教育産業の状態、財政の状態、産業組合、報徳結社、商工組合、農会、在郷軍人会、神社、寺院、町村是のこと、民風興起のこと)を、各自の町村の材料について説示し、我家を理解し我村を理解せしめて、孝道の貴きこと、友愛の重ずべきことから、正直になけらねばならぬ、勤勉でなけらねばならぬ、秩序を守らねばならぬ、公共心共同心がなけらねばならぬことを知らしめ、進んでは(中略)我国の国勢の大要を知らしめて国家に対する奉公心を喚起せしめ、土地の状況によりては、対外観念を与へて海外に移住発展するやうな考を与へることも必要である(30)。

事業上における指導(所論⑦)
〇青年を指導するには、只彼等の頭を肥やしたばかりではいかない。事業をやらせて、筋骨を労せしめる其間に、実地上から指導を加へて行かねばならぬ(31)。

村民の自発性の尊重(所論⑧)
余りに故意的に急速に改善策を立てんよりも、自然に緩々と、彼等(村民――筆者注)の仲間から適切な改善策の出でんことを望む(32)

〇所論①では、日露戦争後のわが国の重要課題は国家富強(経済力の強化)と忠君愛国(愛国心の涵養)である。そのためには立憲思想の普及が急務であり、さらにその根底をなすのは地方自治の思想の普及である、と説いている。地方自治の思想の普及が愛郷心と愛国心を喚起し、町村振興と国力充実をもたらす、というのである。所論②では、町村自治の発展には公共心共同心を育成するための教育の推進が重要である、と説いている。その担い手は国民教育者である。所論③では、小学校と小学校教員は、市町村の歴史的・法律的・社会的構造などの了解に基づいて、自治民育の基礎的教育を施す必要がある、と説いている。当時、自治民育の担い手は、小学校と小学校教員以外にはなかったし、いなかったのである。所論④では、秩序ある市町村を建設するためには、小学校教育―青年団体教育(青年教育)―自治体教育(成人教育)という庶民教育系統を建設しなければならない、と説いている。子どもから大人までの総ての市町村民を対象にした庶民教育によって、自治民育が考えられたのである(33)。この系統的・継続的な庶民教育は、今日でいう生涯教育(生涯学習)に通じるものでもある。所論⑤では、公共心共同心や自治心の育成を図るためには、先ず自己の町村の状態について了解することが必要かつ重要となる、と説いている。自治民育の教育内容の基軸に自己の町村を了解することが据えられていたのである(34)。所論⑥では、小学校教育や青年団体教育では公民的知識の教授が重要である、と説いている。自治民育の教育内容のひとつとして地方自治に関する知識が重視されたのである。所論⑦では、青年を指導するには知識の教授のみならず、事業上での実地指導が必要であり、所論⑧では、村民や生徒の自発性を引き出すことが重要である、と説いている。いわば現場主義・臨地主義の教育方法と、従来の命令―服従の教育方法ではない、協議や討論などの自発性を尊重した教育方法が活用されたのである(35)。
〇以上の、村田が説く町村振興と国力充実のための自治民育の構想と実践(内容と方法)を大胆に要約するとすれば、およそ次のようになろう。すなわち、(1)小学校と小学校教員による自治民育に基づく町村社会の形成、(2)小学校教育―青年教育―成人教育という継続的・一貫的教育の促進と町村民の教化、(3)町村の歴史的・法律的・社会的構造理解(町村理解)に基づく教育内容の構成、(4)町村自治に関する法制的・公民的知識の教授、(5)実際的・実地的指導や自発性を引き出すための多様な教育方法の活用、などがそれである。
〇そして、これらは、その歴史的背景や意義、質的内容は異なるものの、今日の福祉教育が抱えるいくつかの課題に思い至らせる。住民主体・住民参加による福祉のまちづくり、ローカル・ガバナンスの地域福祉、地域再生の生涯学習、などと地域特性を生かした多様な福祉教育実践のあり方についてのそれである。

Ⅲ 自治民育と福祉教育実践の課題

〇イギリスの歴史家であるE.H.カーは、その著『歴史とは何か』(1961年)で、歴史とは「現在と過去との対話(36)」であるとした。これを引くまでもなく、歴史研究は、現在に残る史料をもとに過去の事 実について多角的・総合的な視点から検証・考察し、それを通して現在を読み解くとともに新しい歴史を築いていく指針を見出す試みである。福祉教育の歴史研究についていえば、いわゆる「歴史主義の貧困」に陥らないためにも、歴史的事実としてのその実践活動から何を学び、今後の福祉教育実践のあり方の追究に「使える」どのような、新たな着想や有益な示唆を得るかが問われることになる。
〇本稿では、福祉教育の遡及的原点を地方改良運動期における自治民育の教育・教化活動に求め、その史料の紹介と若干の考察を行った。それによって、自治民育の実践に、今日の福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたことを明らかにすることができた。ただ、その論述は、史料と紙幅の制約から限定的なものにならざるを得ず、残された課題は多い。改めて全国各自治体における地域(町村)振興策と自治民育活動に関する史料を掘り起こし、それを丹念に検証し、福祉教育の視点・視座から分析・検討することが必要となる。
〇最後に、今後に向けて、自治民育と福祉教育実践の課題をめぐって次の2点について再確認し、若干の考察を加える。それをもって本稿のむすびにかえることにする。
〇(1)地方改良運動は、行政町村の自主的・自立的振興を促し、町村を「国家のための共同体(37)」に転化させるための運動であった。したがって、それは、国家による「上から」の社会的・政策的運動として、しかも国民の指導教化に力点を置いた自治民育運動として展開された。
〇自治民育という言葉は村田が用いたターム(用語)である。前述の著書を題して「学校中心自治民育要義と云つたのは、教育者の立場から学校を中心として自治民を造成せんことを論述したからである(38)」と述べている。村田はまた、自治民育を、町村自治の担い手である公民を造ることであるとした。しかも、それは、町村振興と国力の前提的基礎となるものであり、町村や国家のために貢献する能動的な主体(公民)形成を図るものであった。いいかえれば、町村や国家が求めたのは「義務としての自治」「義務としての公共心共同心」であり、村田の自治民育論はそれに応えるものであったのである(39)。
〇福祉教育は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。また、それは、平和・民主主義・人権とともに、自立・共生・自治が基本的価値としてその根底に据えられるべき活動である。しかも、その際の市民とは、人間の尊厳と自由・平等・友愛に絶対的な価値をおく、権利・義務を有する民主主義の担い手をいう。そこから、福祉教育は、自治民育の教育・教化活動が「上から」の、あくまでも国家的・社会的責任=義務としてのそれであったのとは異なり、自立・共生・自治の意識に基づいた「下から」の、権利としての教育活動でなければならない、といってよい。とすれば、その権利をどのようなものとして、どのように獲得するか。また、その権利が保障されるためには、どのような社会的義務を、どのように引き受けなければならないか。地方分権が進み、市民社会の再構築が叫ばれるなかで問われるところである。
〇(2)地方改良運動の第一の課題は、地方自治体の再編策であった。この官製の国民運動は、第一次世界大戦後の社会不安に対処するための民力涵養運動(1918<大正7>年~1922<大正11>年)に継承され、昭和恐慌期における農山魚村の経済的困窮・社会的混乱を収拾するための農山魚村経済更生運動(1932<昭和7>年~1934<昭和9>年)へと、それぞれが異質な側面をもつ運動として連続する(40)。1937<昭和12>年には戦時体制化のもとで国民精神総動員運動がはじまり、ファシズム体制の確立をめざすことになる。
〇今日、国民保護法(2004〈平成16〉年)などの有事法制のもとで有事への準備が進み、国民の統制や動員が予定されている。社会福祉界では高齢者や障害者の自己責任が問われ、自立が強制されるなかで、社会福祉の後退と切り捨てが進んでいる。その一方で、地域における住民相互の「つながり」や「新たな支え合い(41)」に過度の期待がかけられている。教育界では2006〈平成18〉年の教育基本法改正の強行などにみられるように、子ども・青年の生きる力や学力が強調され、愛国心が強要されるなかで、教育の能力主義化の推進と国家統制の強化が図られている。福祉教育に関していえば、官製(的)奉仕活動の展開が推進されている。
〇このように市民生活や住民生活が脅かされ、国家による強要や統制が進むなかで、戦前の轍を踏まないためにも、「地方改良運動にみる福祉教育実践」の構造や特質を解明し、歴史的問題点や課題を明らかにすることを通して、地域・住民主権の福祉教育の可能性や方向性について追究する意義は大きいといえよう。なお、地域・住民主権の福祉教育とは、住民の生活課題や福祉課題を素材に、地域特性を踏まえた内発型の地域振興や自立的で能動的な住民自治を志向する教育活動である。そこでは「地域理解」「生活理解」を不可欠とする。

おわりに
―「義務としての自治」から「権利としての自治」へ―

〇本稿では、明治後期における地方改良運動、とりわけ「自治民育」の諸実践を分析対象とし、現代の福祉教育の遡及的原点としての歴史的性格を検討してきた。
〇通史的な視座に立てば、当時の小学校を拠点とした郷土教育や、敬老・清掃といった諸活動には、現代の福祉教育にも通じる具体的な活動形態の雛形を見出すことができる。しかし、その通底をなす思想的基盤は、国家の富強と国民統合を最終目的とした「上からの教化」に依拠しており、自治や公共心は国家に対する「義務」という形態をとって要請されたものであった。こうした歴史的位相は、現代の福祉教育が「規格化された市民」や「動員型ボランティア」を創出するための統治技術へと矮小化されるリスクを内包していることを示唆している。
〇今日、地域コミュニティの再編や互助機能の強化が喧伝される背景には、公的扶助の漸次的な後退や自己責任論の趨勢といった構造的課題が潜在している。地方改良運動の歴史的経験から得られる真の教訓は、教育実践の形式的模倣に終始することではなく、教育実践における「主体」のあり方を批判的に再定位することに他ならない。
〇今後の福祉教育の展望を拓く要諦は、かつての「義務としての自治」というパラダイムを超克し、生活者が自らの生活課題を正当な「権利」として表象し、自律的に地域社会を構想・編み直していく「権利としての自治」への転換にある。歴史的実践の批判的継承を通じて、住民主権に立脚した内発的な福祉教育を構築すること――それこそが、戦前の国民動員的な構造を峻別し、個人の尊厳を基軸に据えた現代の福祉教育に課せられた喫緊の学術的・実践的課題である。

   注
(1)阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年。
(2)村上尚三郎編著『福祉教育を考える』勁草書房、1994年、3~16頁。
(3)斉藤利彦「地方改良運動と公民教育の成立」『東京大学教育学部紀要』第22  巻、東京大学、1983年、172~176頁。
(4)笠間賢二『地方改良運動期における小学校と地域社会―「教化ノ中心」としての小学校―』日本図書センター、2003年、32頁(注(2))。
(5)平塚眞樹「地方改良運動下の教育制度論に関する検討―その『生活』改善の側面に着目して―」『東京大学教育学部教育行政学研究室紀要』第9号、1989年、91頁。
(6)   菊地正治・ 阪野貢『日本近代社会事業教育史の研究』相川書房、1980年、35~54頁。
第1回地方改良事業講習会は、1909 (明治42)年7月11日から31日にかけて、国学院大学において開催された。
第1回感化救済事業講習会は、1908 (明治41)年9月1日から10月7日にかけて、国学院大学において開催された。開会式の席上、内務大臣・平田東助は、「感化事業なり救済事業は唯仁恵的に一個 人を救ひ又は恤むといふの目的に止まるもの」ではなく、「此等の人を能く教へ能く導きまして人の人たる道を履ましめ国家の良民たらしめん」とする事業である。 この事業は、「一人でも多く有用の人間を造り一人でも多く自営の良民となして社会の利益国民の経済を進めんとするのてありますされは此の事業は単に一人一己の救済事業ではなくて寧ろ世の公利公益を理想とすへき重大の事業てある」と「訓示演説」している (内務省地方局編 『感化救済事業講演集』上巻、1909年、1~2頁)。
(7)田口有希夫・岡部守「地方改良運動と模範村・稲取村」『農村計画論文集』 第3集、 農村計画学会、2001年、230頁。
(8)笠間賢二『前掲書』43頁。
(9)笠間賢二『前掲書』226~227頁。
(10)平塚眞樹「前掲論文」95~97頁。
笠間賢二『前掲書』80~94頁。
(11)内務省地方局編『地方資料』第1編、1907年、3~4頁。
神谷慶治監修『地方改良運動史資料集成』第3巻、柏書房、1986年、6頁。
(12)内務省地方局編『地方資料』第13編、1907年、44頁。
神谷慶治監修 『前掲書』第3巻、246頁。
(13)    内務省地方局編 『地方改良の要項』1912年、76頁。
神谷慶治監修 『前掲書』第2巻、1986年、239頁。
(14)内務省地方局編 『地方改良実例』1912年、81~82頁。
神谷慶治監修『前掲書』第5卷、1986年、27~28頁。
(15)內務省地方局編『前掲書』84~86頁。
神谷慶治監修『前揭書』第5卷、28~29頁。
(16)內務省地方局編『前揭書』93~94頁。
神谷慶治監修『前掲書』第5卷、30~31頁。
(17)笠間賢二『前揭書』38頁。
(18)斉藤利彥「前揭論文」177頁。
(19)   村田宇一郎『学校中心自治民育要義』宝文館、1910年、49百。
(20)   同上書、49~50頁。
(21)   同上書、51頁。
(22)   同上書、110頁。
(23)   同上書、51~52頁。
(24)   同上書、272頁。
(25)   同上書、398頁。
   (26)   同上書、251頁。
(27)   同上書、343頁。
   (28)   同上書、393頁。
(29)  同上書、183頁。
(30)  同上書、222~223頁。
(31)  同上書、228頁。
   (32)  同上書、382頁
(33)  笠間賢二『前揭書』52~54頁。
   (34)  斎藤利彦「前揭論文」178~179頁
笠間賢二『前揭書』56~57頁。
(35)  笠間賢二『前揭書』59頁。
斉藤利彦「前揭論文」179頁。
   (36)  E. H. 力一、清水幾太郎沢『歴史とは何か』岩波新書、1962年、40頁。
   (37)   宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会、1973年、106頁。
   (38)   村田宇一郎『前揭書』1頁。
   (39)   冨江直子『救貧のなかの日本近代―生存の義務―』ミネルヴァ書房、2007
年、1~11頁参照。
(40)山本悠三「民力涵養運動と社会局」『東北福祉大学紀要』第15巻、東北福祉大学、1991年、15頁。
(41) 『地域における「新たな支え合いを求めて―住民と行政の協働による新しい福祉―』(これからの地域福祉のあり方に関する研究会報告)全国社会福祉協議会、2008年。

【初出】
「地方改良運動にみる福祉教育実践―福祉教育の遡及的原点を求めて―」『年報』Vol.13、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2008年11月、120~129頁。
本稿は、この論考を改題し「おわりに」を加筆したものである。

 


第2章
昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相
―「郷土の教育化」にみる科学的認識と精神主義化の分岐―

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はじめに

〇昭和初期に隆盛した「郷土教育運動」は、師範学校と小学校の教育現場を中心に、文部省の提唱・主導のもとに推進された。当時の教育界は、形式的・画一的な知識注入型教育から脱却し、生活実態に即した「教育の実際化」を求めていた。他方、社会経済的には昭和恐慌による農村の疲弊が深刻化しており、郷土の再建は喫緊の課題であった。このような歴史的状況のもとで展開された郷土教育は、単なる愛郷心の育成に留まらず、地域社会の実態を科学的に把握し、社会奉仕を通じて地域改善に寄与しようとする実践的志向を内包していた。すなわち、そこには、今日的な観点からみれば「福祉教育」に通じる側面や要素が萌芽的に含まれていたといえる。
〇当時の運動は、疲弊する農村社会の再生(地域福祉的課題)に対して、教育の側からいかなる実践を提示したのか、またそれが戦時体制の進展のなかでいかに変質し、何を喪失したのか。その点を考察することは、現代の「まちづくりと市民福祉教育」における住民主体形成のあり方を問ううえで、ひとつの示唆を与えるものである。
〇本稿では、郷土教育連盟が示したひとつの指導案の分析を通じて、当時の教育実践がめざした「郷土認識」の実態と、その限界を明らかにしたい。

Ⅰ 文部省と郷土教育連盟による郷土教育運動

〇文部省は、次のような諸施策を通して、郷土教育の振興と郷土研究の確立を図ろうとした。すなわち、1927〈昭和2〉年8月、「郷土教授ニ関スル件」について照会し、全国の師範学校付属小学校を主な対象に郷土教育の実態調査を実施した。1930・31〈昭和5・6〉年度には、師範学校に対して、郷土研究施設を整備・充実するために「郷土研究施設費」を交付した。また、1932〈昭和7〉年5月に「郷土教育資料の陳列と講話」、1932〈昭和7〉年の8月から1937〈昭和12〉年の2月にかけて「郷土教育講習会」をそれぞれ主催した。さらには、1935〈昭和10〉年から1939〈昭和14〉年にかけて、山梨県をはじめ秋田県、茨城県、香川県における女子師範学校を中心とした郷土教育の取り組みを各『綜合郷土研究』として編纂した。これらがそれである。
〇文部省が、このように郷土教育に積極的・主導的に取り組んだ背景のひとつには、教育を取り巻く時代状況があった。当時の小・中学校教育が抱えていた知識偏重教育を打破し、形式的・画一的教育を是正して、実際生活や地方の実情に沿った「教育の実際化、地方化」(外池2004:48頁)の実現が要請されたのがそれである。いまひとつには、体制的危機の経済社会状況があった。1929〈昭和4〉年10月にはじまる世界恐慌と1930〈昭和5〉年1月の金解禁による昭和恐慌が深刻化した1930年代において、農村でも深刻な農業恐慌がおこり、経済的困窮と社会的不安・混乱が拡大・深刻化したのがそれである。
〇そこで、政府(農林省)は、1932〈昭和7〉年から1941〈昭和16〉年にかけて、疲弊した農村(郷土)の復興・再生をめざし、「自力更生」と「隣保共助」の精神を育成する方策として農山漁村経済更生運動を推進した。文部省が主導した郷土教育(農村教育)は、この農山漁村経済更生運動をひとつの契機として、またそれと密接にかかわりながら郷土(農村)の地域改良や地域振興への教育的対応を内実とするものであった。
〇こうした状況のなかで、郷土教育運動の普及・啓蒙に大きな役割は果たした民間教育団体が、1930〈昭和5〉年9月に結成された。「郷土教育連盟」がそれである。連盟では、「郷土教育並郷土研究ノ徹底ヲ期スル」(連盟規約第2条)ことを目的に、月刊雑誌『郷土』をはじめとした図書の編集・発行、郷土教育ならびに郷土研究に関する調査・研究、講演会や講習会の開催などの事業を実施・展開した。1930〈昭和5〉年11月に創刊された連盟の機関誌『郷土』(1931〈昭和6〉年5月『郷土科学』、1932〈昭和7〉年4月『郷土教育』と誌名を変更し、1934〈昭和9〉年5月に廃刊)は、「現代の日本」は「極度の行き詰りに瀕し」、「思想的に生活的に、一大方向転換を画さねばならぬ重大な時機に際会して居」る。そこで、「土地と勤労と民族との三ツの綜合体であり、慈愛に充ちた伝統と希望に燃える人間の生活場」である「郷土」について「正しき認識を体得」する「一大教育運動」の促進を期す必要がある、と「宣言」した。そこには、郷土についての客観的ならびに心情的な、2つの認識が示されていた。また、この創刊の辞では、「土地と住民との交互作用に鋭き科学的認識を進め、経済と社会との相関々係に正しき体験を持つ為めに、『郷土』の合唱が高らかに響き渡らねばなりません」と、郷土を認識する方法として「科学的認識」と「体験」が提示された(伊藤2008:172~174頁)。
〇こうした郷土教育に中心的に関わった人物は、文部省普通学務局嘱託、郷土教育連盟理事を務めた小田内通敏であった(外池2004:200)。
〇以上を要するに、「昭和初期の郷土教育は、官民ともに取り組み、そして『全国的』に『一般化』された郷土教育」(外池2004:39頁)として位置づけられ、展開されたのである。そして、伊藤純郎が指摘するように、文部省の郷土教育運動は「先行研究が説くような愛郷心愛国心の涵養を目的としたものではなく、教育の郷土化、郷土の教育化といった教授上の要求を背景に、現実の郷土を正しく認識理解し、郷土の再編を志向した『郷土認識建設運動』」(伊藤2008:416頁)であった。
〇また、先行研究では「文部省系」の郷土教育論を主観的・心情的、「郷土教育連盟系」のそれを客観的・科学的として、官民の郷土教育論は対立的に捉えられてきた。しかし、両者は「けっして対立するようなものではなく、むしろ連盟は文部省と協力するなかで運動の啓蒙、普及徹底」を図り、「愛郷心愛国心の涵養を主張したのは文部省ではなく、むしろ連盟であった」(伊藤:416頁)。すなわち、両者は相互補完的な関係にあり、郷土教育連盟もまた愛郷心の涵養を重視していた点に留意する必要がある。したがって、昭和初期の郷土教育は、「教育の郷土化」と「郷土の教育化」を志向する総体的な教育運動として把握されるべきである。

Ⅱ 郷土教育と「社会奉仕」実践

〇郷土教育連盟は、1932〈昭和7〉年4月、『郷土学習指導方案』(以下、『方案』)を刊行した。『方案』は、「郷土教育をいかに実施するかに就ての具体的提案であり、実際的指導案」を編んだものであり、連盟の委嘱を受けてその編纂と執筆に関する一切の労を執ったのは雑誌『近代教育』主幹の志垣寛であった。その「第二編 各学年月次郷土学習案」では、尋常一学年から高等二学年までの8学年毎に、総計88の「題材」(単元)についての指導案が示されている。これに基づいて、全国の学校では「各地方の状況並に受特(ママ)(持)児童の心理程度に適合するやう工夫」され、授業が展開されたであろうことは推察に難くない。
〇以下に、高等一学年十月「郷土生活と社会奉仕」の指導案を紹介する(『方案』:185~189頁)。

「郷土生活と社会奉仕」の指導案

〇この指導案の「主旨」は、「郷土生活に於ける社会奉仕の実現状況を調査し、其の精神を高むると共に更に新なる奉仕への出発を促す」ことにある。「学習事項」には、「郷土に於ける社会事業」「学童或は少年団青年団の奉仕事業」が含まれ、具体的な「取扱方」として次のような実査活動が挙げられている。

・社会事業の調査:図書館、学校、病院、養老院、孤児院などの公益施設の実状把
 握。
・公徳心の実態把握:交通道徳、公共営造物(神社、公園、共同井戸、共同便所
 等)の愛護状況、落書きの有無などの点検。
・職業活動の連関:農業・工業・交通運搬業・商業の活動、知識階級(医師・弁護
 士等)の活動が「互に相もちもたれて」いる社会構造の図示。

〇すなわち、この指導案は、(1)郷土生活における社会事業や社会奉仕の現状を客観的に理解するとともに、公徳心の実態を把握するための「実査」(調査)活動が重視された。これは、地域課題を客観的に把握させようとする点で、現代の「まちづくり」教育(学習)に通じるところがある。(2)調査項目は、郷土の生産活動(職業活動)や生産関係を重視し、それを明らかにしようとする視点から編成された。これは、職業を通じた社会貢献を強調し、社会を「共同協力体」として捉えさせる視点を持つものである。しかし、ここでの社会奉仕や職業活動は、あくまでも(3)郷土生活のための社会的規範や公徳心、道徳心を説き、その育成を図ろうとするものであった。したがって、(4)郷土教育は「涙なしに直視する事は出来ない」現代農村の窮乏に着目し、郷土を再建・再生しようとするものであったが、指導案では態度や行動が強調され、問題の根本的な解決をめざす理論的裏付けを欠いた情感的・修養的な実践に留まった、といえよう。要するに、この指導案は、資本主義の全般的危機が進行する経済社会状況(郷土生活)を深くえぐりだす社会科学的なものとはなり得なかったのである。

Ⅲ 郷土教育と「まちづくりと市民福祉教育」

〇以上の考察を踏まえ、現代における「まちづくりと市民福祉教育」に対する示唆として、次の3点に集約する。
〇(1)1930年代・昭和初期に隆盛した郷土教育は、経済不況と社会不安が深刻化し、1931〈昭和6〉年9月の満州事変にはじまる戦況が進展するなかで、郷土についての客観的・科学的理解よりも、愛郷心ひいては愛国心の涵養を図ることが優先されがちであった。そうしたなかで、郷土の実態を歴史的・社会的に認識・理解する視点が希薄化し、郷土の諸事象や諸問題に深く切り込み、「地域再生」「地域振興」を図るような教育・学習を展開していくには限界があったといわざるを得ない。
〇とはいうものの、「郷土学習」や「郷土人の生活姿態」についての調査活動の教育方法論には、その目的や内容などをめぐる時代性は異なるものの、「まちづくり」を企図する「市民福祉教育」にとって学ぶべき歴史的教訓がある。
〇(2)郷土教育は、今日いわれるところの「地域に根ざす教育実践」のひとつであった。『方案』は、「郷土学習は郷土それ自体を以て教材とし、教室とする」として「郷土の各官公署団体特(ママ)(篤)志家との連絡」を重視した。たとえば、「人の側から云へば各種公人、学者、医師、芸術家、篤農家、古老等々を学校の講師として予め嘱託して置く必要がある」とした(『方案』:64頁)。また、郷土学習では「社会の実務に参加し、或は又一つの運動を起すが如き事もあるべきである」としている(『方案』:89頁)。要するに、郷土教育は、官製のそれであったとはいえ、住民自治的観点をもちつつ教育への住民参加(「郷土の教育化」)や住民主体形成を促す原初的な形態をなす教育実践であった、といってよい。ここに、官製「自治」意識の育成を図るひとつの教育的方途としての、「上から」の郷土教育の歴史的意義を見いだすことができる。それは、ガバナンスや地域主権・住民主権に基づく地域振興を推進するための、「下から」の「市民福祉教育」が留意すべき点でもある。
〇(3)周知のように、郷土教育運動は、戦時体制化が進み、国民精神総動員運動がはじまる1937〈昭和12〉年を境に、当初の、郷土を正しく認識・理解し郷土の再生をめざす実践的な教育運動から、郷土愛を愛国心・「尽忠報国ノ精神」にまで涵養・高揚させることを目的とする観念的な精神運動に変質する。そして、それは、日本のファシズム体制の確立を促すことになる。こうした歴史的認識を踏まえて、今日、「市民福祉教育」の推進を図るに際しては、地域社会(郷土)についての確かな理性的認識に基づく感性的認識や、するどい客観的批判や社会的抵抗をともなう「市民」参加が必要かつ重要となる。

おわりに
―歴史的限界の超克と「市民」形成の課題―

〇本稿では、昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相を、郷土教育連盟の指導案分析を通じて考察してきた。 当時の運動は、疲弊する農村の現実を「実査」という科学的手法で捉えようとした点において、極めて先駆的な地域教育の実践であった。しかし、その認識が社会構造の根本的な批判へと向かわず、個人の「公徳心」や「奉仕精神」という情感的・修養的な次元へと回収された点に、その歴史的限界がある。この「科学的認識の精神主義化」こそが、のちに運動が戦時体制下の国家奉仕へと純化していく分岐点となったといえる。
〇この歴史的経験は、現代の「まちづくりと市民福祉教育」に対しても重大な示唆を与えている。地域課題の解決に向けた住民主体の形成において、単なる「郷土愛」や「ボランティア精神」の強調は、時として無批判な体制補完に陥る危うさを孕んでいる。今後は、本稿で扱った指導案が実際の教育現場でどのように受容・変容されたのか、地域ごとの具体的実践例の掘り下げが必要である。郷土教育が残した「地域に根ざす教育」という遺産を、いかにして批判的・主体的な「市民」の形成へと繋ぎ直すか。この課題の解明こそが、現代の「まちづくりと市民福祉教育」に課された責務である。

引用・参考文献
(1) 郷土教育連盟(1932年)『郷土学習指導方案』刀江書院。
(2) 外池智(2004年)『昭和初期における郷土教育の施策と実践に関する研究』NSK出版。
(3) 伊藤純郎(2008年)『増補 郷土教育運動の研究』思文閣出版。

【初出】
「郷土教育運動にみる福祉教育実践―市民福祉教育をめぐる断章―」『ふくしと教育』第7号、大学図書出版、2010年4月、46~49頁。
本稿は、この論考を改題し加筆・修正を行ったものである。

 


第3章
戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

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福祉教育の歴史は終戦直後から始まると捉えるのが通説である。しかし、それは戦前の福祉教育に関する歴史をふまえたものではない。戦前に関しては、更なる検討が必要とされる2つの説があるにすぎない。それは福祉教育の遡及的原点を大正デモクラシー期の新教育運動に見出す説と、地方改良運動に見出す説である。前者に関しては村上(1994)が、大正デモクラシー期の新教育運動の中でも、とりわけ「池袋児童の村小学校」の野村芳兵衛による生活教育や修身教育の実践を、福祉教育の遡及的原点として紹介している。後者に関しては、大橋(1997)が地方改良運動の諸実践の中には今日の福祉教育と同じような実践がみられると述べている。(三ツ石行宏「<解題>福祉教育史研究の課題と展望―阪野論文に導かれて―」日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸~学際性と変革性~』大学図書出版、2014年10月、52頁)

はじめに

〇筆者は、福祉教育の歴史研究において、1930年代の生活綴方教育の実践や運動のなかに、今日の福祉教育実践に通底する側面や要素が含まれていたのではないか、との仮説を立てている。その実証的検討の端緒として、本稿では太郎良信「国分一太郎による生活綴方教育批判の検討―1936年から1939年における―」(『文教大学教育学部紀要』第45集、文教大学、2011年12月)を取り上げる。
〇太郎良はその論考において、国分一太郎(1911年3月~1985年2月)の軌跡を次のように指摘している。すなわち、1930年から1935年にかけては綴方を通して生活の現実に学ぶ教育実践(「生活勉強」)を説いていた国分が、1936年から1939年にかけては生活綴方教育批判へと転じ、綴方教師たちに対して地域における啓蒙活動への参画を呼びかけるようになった、という点である。太郎良は、生活綴方教育批判を主題とする国分の論考を時系列に沿って精緻に分析・検討することで、この変遷を明らかにしている。

Ⅰ 1936年における国分一太郎と生活綴方教育運動の時代背景

〇1936年は、二・二六事件が発生した年である。また、思想犯の意見・表現の自由を制限した「思想犯保護観察法」の制定など、教員への圧迫が構造化された年でもある。それは、1929年10月に始まる世界恐慌をひとつの契機に経済的・政治的・社会的矛盾と混乱が深刻化するなかで、日本が軍国主義化・ファシズム化を進め、日中戦争(1937年7月勃発)と太平洋戦争(1941年12月勃発)への道を辿るターニングポイントとなった。1936年はまた、国分にとっても特筆されるべき年である。国分がその重要な担い手であった北方性教育運動(生活綴方教育運動)が衰退傾向を示し、その運動の拠点であった北方教育社(1929年6月、秋田市に創立)が同年8月に閉鎖に追い込まれている。それは、「視学などの圧力と、内部的な脆弱性」(津田道夫『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社、2010年1月、150頁)によるものであった。なお、1936年の前年1月に、国分がその中心的役割を果たした北日本国語教育連盟(秋田市)が正式発足し、8月には国分がその組織強化活動に関わった北海道綴方教育連盟(釧路市)が設立されている。
〇ここで注目すべきは、1930年代半ばにおける「社会事業」概念の変容である。当時の日本社会は、国家総動員体制に向けた「厚生事業」へと舵を切る過渡期にあった。国分が「社会事業」という用語を用いた背景には、単なる慈善救済への関心を超え、疲弊する農村共同体を教育の力でいかに再編し、国家の矛盾に抗し得る「生活主体」を形成するかという、教育と社会事業の境界領域における模索があったと解釈できる。
〇本稿では、太郎良が紹介・検討した論文群のなかから、国分が「社会事業」に関心を持ち、生活綴方教育と社会事業の関係や、社会事業がもつ教育的効果に言及した次の2本の論文(以下、「1936年論文」と総称)を対象とし、その翻刻と解題(史料紹介)を行う。

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」『日本文化と国民教育』第2巻第5号、東宛書房、1936年8月、74~79頁。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・国語教育』第6巻第10号、厚生閣書店、1936年10月、152~157頁。

〇この作業は、単に福祉教育の遡及的原点を追究するに留まらず、冒頭に記した三ツ石が指摘する課題、すなわち「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続を検討する必要性」(三ツ石「前掲論文」54頁)に応えるための端緒を開くことを企図している。また、未開拓の史資料を収集・分析・評価することを通じて、既存の福祉教育像をより豊かに再構成することをめざすものである。なお、対象とする論文は福祉教育史研究においても貴重な史料であるため、その文脈と詳細を忠実に再現すべく、引用が長大にわたることをあらかじめ付言しておきたい。翻刻にあたっては、原文の表記を尊重し、旧仮名遣いは原則としてそのまま用いた。

Ⅱ 史料翻刻と解題
―「社会事業的教師」の提唱―

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」
かうした困難なる生活を生きる子供をかゝへて青年教師は何とするか。或る人は歴史の秩序を信ずる事によつて、この現実の中に真実を、砂の中の砂金のかけら程でもいいからみつけさせて行かうと精神的になる。ある人はこの困惑は薬だといふ。この困難にまけぬやうな意志だけが大切だと説教する。乞食根性をもつなといふ。困難はやがて幸福のもとと出世美談みたいな真理を活用する。
ある青年教師は、子供とはそんな現実主義者ではない。夢の人だといつて、のびのびと、ゆるやかに魂と身を伸さうと賢明なことを言ふ。だがその子は家に帰ると、あまりにも多産な我が母のために、その弟妹をおばねばならぬ。そして背柱湾曲と統計表に計算される。
ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番だ。あとは何も出来ないと言ふ。真実をかけ真実をみよといふ。見てどうするかと言へば答はない。あるとしても「真実のみが、未来をはらんでゐる」と深遠だ。あとはどうにもならぬとアナーキーになり、更に虚無におちいる。そこである若者どもは生活意欲をもたせようといふ。それには自分がもつ事だといふ。所が、その生活意欲とは何ぞやと質問をする先生が出る。生活意欲とは貧乏でなくなりたいといふだけものではないと答へられると、そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び出したと叱る。もう一人はこんご、多分に空想的だと度々いふ。(76~77頁)

そこで小学教師よ。青年教師よ。如何に生きんとするや――とせつぱつまつて来た。
曰く社会事業的教師とならん。曰く文化事業的教師とならん――とこの際答へたい。だが僕たち一人でそんな事をされるとは限らない自分の生活は困らぬから社会事業にしたがふといふわけにはいかないのが薄給中の薄給の青年教師だ。壮丁の検査成績がわるいとすぐ、保健省設置を提議できる陸軍とは何といふ羨しい熱心な存在だらう。我々教員は一番村に近くゐて、村の人々とも一番近い所にゐて、その子等の上にその人々の生活を知りつくしながら、医療国営一つ、生活安定一つの徹底をも、建議できない人間共である。漢字の存在や歴史的仮名遣ひが、如何に国民生活を不便にし子供を苦しめつゝありと知りながら、それが廃止の建議案をすら、直ちには出す事が出来ない。それをなし得る団結がほしい。
社会事業にしても、今の担当者は村の有力者や教育者の古手であつて、青年教師の手中にはない。だが、社会事業的出発のし方は大小とりまぜて色々ある。その小さい所からはじめて、日本の青年教師が手をつないで大きな社会事業をなし得る機会をまつことが大切ではないだらうか。託児所が論ぜられ、実践され、校外教育が再吟味され、地域中心の学校施設が問題とされ、生産学校が行はれはじめたのもみな、教育が社会事業の側にうごいて来た証明できる。紙芝居の教育的実践さへもがそれである。
社会事業には、解釈の浅さはあつても、行動の重要さをとらねばならぬ。よい社会事業は、よい社会改造を目標としてゐる筈だ、歴史がゆがめる社会事業があるにはあるにしても、それを駄目だと解釈して、貧しきものは貧しきまゝにして置いていい筈はない。文化の大衆への浸透、それもまたその不可能や困難をかこつより、よい文化合理化されたそれを、小刻みに与へて行く必要は十分にあるのだ。老年教師を啓蒙することもひとつだ。
じつとしてゐるよりは行動をした方がいい。行動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的だとしたら、青年教師はそこへ行くだらう。それをきらつて、「生活を描け描け(くの字点―引用者」とばかりいつてるのは、「貧しい事がなくなると、よい綴方が出なくなる」と心配する事の愚に等しい。
といつて、教室からとび出し、学校をはなれて、防貧や救貧事業にのり出せとか、保健衛生事業にでかろといふのではない。「純粋の情熱」や「きれいな知性」をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬのだ。
かういふ物の考へ方を先生がもつことがそもそも大事な生き方の精神となるのだ。僕らが育てた国民が大きくなつたら、すべての代議士が退職積立金法案には賛成を無条件にするように、農業保健法は立派に制定してくれるやうにとか、小作法はにぎりつぶさぬやうにとねがひたいならば、まことに気永な話ではあるが、社会政策的見地にたつ考へ方を国民に充満させねばならぬ。それの尖兵隊は社会事業家であらう。その尖兵の行動を見習ふこともなくして、意欲がどうの態度がどうの、リアリズムがどうのといつた所で、それが単なる精神的な「覚悟」に終らなかつたら御目出度うだ。
僕達青年教師は、小さい頃、人道主義的見知で育てられたらしい。その頃の青年教師に。だが真にヒユーマニストとして生きてゐる人間は何人ゐよう。前述の如く孤立して僅かに情熱をセンチと化するが落ちではないか。逆に封建的な精神で人間、子供を律しようとしてゐないとは言へぬ。
青年教師が、意欲をいひ、モーラルをいふ若さは悪いといはぬ。それはよい。だが現実とそれでは、まだまだ(くの字点―引用者)距離があるやうに出来てゐるといふ方が正直だ。その距離をうづめる手段も持たないでは困るのだ。
社会を愛し、文化を愛する青年教師の全日本的聯結が、それぞれの報告にもとづいて社会事業的、文化啓蒙的教育の行動形態を建設するの急務が叫ばれて欲しい。(77~79頁)

〇本論文は、当時25歳の国分が「青年訓導の立場から」書いたものである。
〇国分は、絶対的貧困にあえぎ、「社会の矛盾」にさらされている東北農村の子どもたちの「現実生活」と、それに向き合う青年教師の状況を述べる。その際、「情熱と知性」を本質とする青年教師の教育実践(生活綴方教育)を、「自嘲的」「揶揄的」に描いている(太郎良「前掲論文」28頁)。そのうえで、国分は、自分たちが育てられた「人道主義的見地」ではなく、「社会政策的見地」に立って、青年教師に「社会事業的教師」になるよう呼びかける。「『純粋の情熱』や『きれいな知性』をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬ」。「よい社会改造を目標」とする「よい社会事業」の行動は、「一番今のところ進歩的」である、と国分はいう。しかし、その言説は、青年教師に対して「社会事業家の生き方のその態度」の必要性を説くに留まっている。国分自身の社会事業的教師として、具体的な教育実践に裏づけられたものにはなっていない、といえよう。
〇しかし、国分が「情熱」を単なる感傷や主観的な同情論に矮小化させず、「社会政策的見地」を求めた点は、教育の「内面化」に対する痛烈な自己批判であった。これは、子どもを「救済の対象」としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する「連帯の主体」として捉え直そうとする、福祉教育における「主体形成論」の先駆的形態として位置づけられる。
〇なお、「教育が社会事業の側にうごいて来た証明」についての指摘は、「教育福祉」の視点を示すものとして留意しておきたい。

(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」
主観的なものを客観的なものへ、個人的なものを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの道は、つねに「現実生活」の把握によつて「現実生活」で証明し、現実生活にとかしこんで導かねばならぬ。自然発生的な社会認識をもつた子供を科学的な社会認識に導くことも、生物的人間を社会的人間にひきあげることも、すべて「生活」によつて証明しつゝ、あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあるひは子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ。(156頁)

人間教育とか、純粋感情の教育とか(情操陶冶)といふレツテルを張つてやつて来た綴方教育が、産業の発達による社会的情勢の変化によつて、漸次、より広範囲な生活教育として、その直接的な武器として、生活態度の陶冶と、生活技術の鍛錬とにまで進展したことによるともいへるであらう。そして社会事業の方が、概念的な小学教育よりは、より教育的感化をもたらすといはれる如く、概念的な知的学科や、観念的な情操教科に比して、より現実的な綴方の方が有意義なものとされ、それには昔さながらの文壇的ひとりよがりの指導よりは、より教壇的な協働生活関係としての、生活組織器関(ママ)として役立つやうに吟味されるに至つたのである。(157頁)

僕達の綴方も、あらゆる教科が、生活を証明材料として引つさげて来り、綴方の道をゆたかにしてくれる限りは喜んでむかへるであらう。それらによつて生活の知性がたかまり、生活が充実し、生活行動が真摯になるならば、綴方にとつて其れはこのましき限りである。
それよりも却つて、綴方が綴方の垣の中にとぢこもる如きは、その機能を衰微させる自己矛盾として、むしろ警戒するに価することなのである。貧しさを深刻にかいた綴方があつてくれるやうに、貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ――等といふのは綴方の望む処ではない。貧しさのなくなるやうに、防貧事業や救貧事業が、あるひはもつと根本的な社会事業が、学校の周囲でどしどし(くの字点―引用者)と行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である。即ち、綴方の局外よ。他教科にとどまらず、学校全般、社会全般の批判も、どしどし(くの字点―引用者)と綴方の垣を越えて来てほしいのである。かくしてこそ、綴方はますます(くの字点―引用者)生活組織としての機能を発揮するに便利であらう。(157頁)

〇本論文は、国分によると、「世代の綴方論」としては「消極的駄文」であり、「児童作品批評に於ける若干の解剖」を行う「警告的駄文」(153頁)である。
〇国分は、子どもの綴方に対する教師の批評は、「文芸評論」の影響を受けて、優秀な、見本となる作品などをよしとする「文壇的批評」の傾向にある。そうではなく、個々の子どもの「現実生活」や生活認識などに留意した「教壇的批評」が重要である、と説く。加えて国分は、現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であり、「子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ」という。
〇そして、国分は、生活綴方と社会事業の関係について言及する。国分にあっては、社会事業によって感化されたことを綴方(作文)に書くことは、現実生活から学び、生活行動に生かすことであり、概念的・観念的な教育に比して教育的であり有意義である。すなわち、生活を綴ることで生き方を変えていくのである。また、生活綴方は国語教育にとどまらず、学校教育や校外教育への広がりをもつことによって、子どもたちの社会事業への関心を促すことになる。すなわち、「社会事業が、学校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である」。

〇以上の「1936年論文」において、国分は、当時の文壇的批評に流れる綴方教育の現状に対し、批判的あるいは警告的な立場から論じている。その際、その論拠は必ずしも明確であるとはいえない。また、社会事業による教育・啓蒙とその教育的効果への関心と期待を示している。その際の社会事業の言辞については、観念的・抽象的なものに留まっている。とはいえ、当時、国分は、生活綴方教育の実践や運動において指導的役割を担っていた。そういうなかで、国分の社会事業に関する関心や発言は、青年教師(綴方教師)たちにどのような影響を与え、どのような取り組みを生み出したのか。その前提として、国分がよしとする綴方教師としての「教師像」はどのようなもので、どのような特質をもつものであったか。今後の研究課題とすべきところである。
〇太郎良は、前掲の論考で、「視学等から監視や干渉を受けて、つねに弾圧をおそれていた」国分にあっては、生活綴方教育批判は「視学等の心証を良くするためのものであった可能性がある」(36頁)という。そうだとすれば、国分の社会事業への関心は単に、そのためのものであったのか。そうではなく、ファシズムの常態である公権力による教育の支配・統制が強化されるなかで、それに対抗する教育実践として、「社会改造」を目標とする社会事業に期待したのか。興味のあるところである。
〇なお、国分は、1938年3月に教職を免ぜられた。1941年10月には、左翼的傾向をもつ北方性教育運動(「抵抗としての生活綴方運動」)の関係で警察に逮捕されている。そもそも、軍国主義ファシズム最頂期の1940(昭和15)年には、「治安維持法」(1925年4月公布、5月施行)によって全国で300人を超える生活綴方教育運動の指導的立場にあった教師たちが検挙・投獄されるという大規模な弾圧が起きていた(乙訓稔「国分一太郎の生活綴方教育の理念」『実践女子大学生活科学部紀要』第50号、実践女子大学、2013年3月、52頁)。また、1938年1月に健民健兵政策を推進するために厚生省が創設され、同年4月には人的・物的資源を統制運用するために「国家総動員法」が公布、5月に施行された。それを契機に、社会事業は戦時厚生事業へと変質し、戦時体制の枠組みに組み込まれていく。
〇いずれにしろ、国分が社会事業の教育的効果に関心を示したことについては、個人的にも時代的にも厳しい状況に追い込まれていったこととの歴史的文脈・関係性のなかで考究する必要があろう。国分は、1943年7月に判決が下される過程で「転向」を余儀なくされている。国分の社会事業への関心とその呼びかけは、生活綴方教育批判を行うなかでの、「抵抗」「転向」あるいは「偽装転向」としてのそれであったのか。綴方教師たちはその点をどのように受け止め、どのような社会事業的な教育実践に取り組んだのか。それとも、綴方教師に対する弾圧が強まるなかで、取り組むことができなかったのか。あるいは、教育現場の綴方教師たちは、国分の呼びかけに対して端(はな)から一顧だにしなかったのか。それらを歴史的・実証的に明らかにすることが求められよう。

〇周知のように、敗戦後の生活綴方教育は、1950年7月の「日本綴方の会」(1951年9月「日本作文の会」と改称)の発足や、国分の『新しい綴方教室』(日本評論社、1951年2月)、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)等の刊行などを契機に復活・興隆する。そして、1950年代前半にひとつの頂点を迎える。それは、戦後の新しい教育(教育の民主化)のなかで、戦前の生活綴方教育を継承・発展させようとするものであったと評される。そこでは、貧困からの脱出が最重要課題とされたが、具体的に「現実生活」がどのように把握され、「生活教育」がどのように規定されていったのか。綴方教師によって「社会事業的」な教育実践は展開されたのか。「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続」に関する研究課題のひとつである。

〇以上の考察を踏まえ、本史料の今日的な位置づけを総括すれば、こうである。すなわち、本稿で翻刻・解題した国分の「1936年論文」は、生活綴方教育運動がファシズムという外部圧力と内部的な閉塞感に直面する時期の苦悶を象徴する史料である。国分が提唱した「社会事業的教師」への転換は、単なる綴方指導の技術論ではなく、冷厳な社会矛盾に直面する子どもたちの「現実」を前に、教育がいかにして実効性を持ち得るかという、教育の存立根拠(教育の社会的責任)を問う切実な叫びであったといえる。
〇特筆すべきは、国分が「情熱」や「知性」といった内面的な人道主義を「自嘲的」に退け、社会政策的見地に基づく「行動」と「社会改造」を強調した点である。これは、教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続させようとする「教育福祉」的な視座の萌芽を明確に示している。通説では戦後を起点とする福祉教育の歴史に対し、本史料は、戦前の北方性教育運動のなかに今日の福祉教育に通底する「実践の深層」(思想的伏流)が存在したことを実証的に基礎づけるものであろう。
〇今後の課題は、この国分の呼びかけが、当時の草の根の綴方教師たちによっていかに受容され、あるいは変質し、戦時厚生事業へと回収されていったのか、その「変容のプロセス」を実証的に追うことにある。さらに、戦後の生活綴方教育の興隆期において、これらの「社会事業的」視点がどのように継承・再編されたのかを明らかにすることで、戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続性を体系化しなければならない。
〇政治と教育の距離が再び緊密化し、社会の分断が深化する現代において、80余年前の国分の問いかけは看過できない重みを持っている。教育が「社会の矛盾がなせる業」を直視し、単なる精神論に陥ることなく、いかにして具体的な「社会の改善」に寄与し得るか。この歴史的教訓を掘り起こし、現代の「まちづくりと市民福祉教育」のあり方へと還元していく作業こそが、本研究が真にめざすべき地平である。

Ⅲ 生活教育論争の昇華

〇周知のように、1937年5月に「教育科学研究会」を結成した城戸幡太郎と留岡清男は、雑誌『教育』(第5巻第10号、岩波書店、1937年10月)において生活綴方教育批判を行った(1938年「生活教育論争」の発端)。「綴方教育は児童の生活を理解し、生活態度を自覚せしむることはできるが、彼等の生活力を涵養することはできぬ。彼等の生活力を涵養するには彼等の生活問題を解決することのできる生活方法を教へねばならぬ」(城戸幡太郎「生活学校巡礼」48頁)。「生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教師の鑑賞に始まつて感傷に終るに過ぎない」(留岡清男「酪聯と酪農義塾」60頁)、がそれである。こうした手厳しい批判に対して、「社会事業的教師」(綴方教師)たちはどのように反応し、どのような新しい教育課題を見出し、またどのような教育実践を展開したであろうか。
〇1930年代後半に展開された「生活教育論争」をめぐって、一言するとこうである。まず、城戸や留岡が提唱した「生活方法の教育」は、科学的・合理的な知性によって生活上の困難を克服する「技術」や「組織化」を重視するものであった。留岡の酪農教育実践に象徴されるように、それは貧困という客観的課題に対し、いかに生産性を高め、合理的な生活習慣を確立するかという「生活力の涵養」に力点が置かれている。福祉的観点からいえば、これは「自立助長」のための機能的アプローチであり、現代の社会福祉における「エンパワメント」や「社会資源の活用術」の先駆形態と評価できる。
〇それに対して、国分が提唱した「社会事業的教師」は、そのベクトルが異なる。国分は、生活綴方教育が陥っていた「鑑賞」や「感傷」を自嘲的に退けつつも、城戸らが批判した「現実の凝視」をあえて社会事業の「態度」へと接続させた。ここでの「福祉的」独自性は、以下の2点に集約される。
(1)社会矛盾の構造的覚知としての綴方
〇城戸らが生活の「改善(技術)」を求めたのに対し、国分は綴方を通じて「社会の矛盾がなせる業」を直視し、それを「社会政策的見地」へと昇華させることを求めた。これは、単なる生活技術の習得を超え、自己の苦難を社会構造の問題として捉え直す「意識化」のプロセスである。
(2)伴走者としての教師像
〇 「生活方法の教育」における教師が指導者・技術伝達者であるのに対し、国分の説く「社会事業的教師」は、村の貧困と矛盾のなかに身を置き、子どもとともに苦悩を共有しながら、社会制度の不備を告発しようとする「アドボカシー(権利擁護)」の萌芽を含んでいる。
〇すなわち、城戸らが「生活の科学的解決」をめざす合理的・システム的な福祉に近い立場であったとすれば、国分は綴方というメディアを介して、生活者の沈黙を社会的な声へと変えていく草の根のエンパワメント・モデルを模索していたといえる。この相違こそが、社会の矛盾を直視し、子どもの生活実態を記述することで自己や社会を変革しようとした国分らの独自性であり、現代の「まちづくりと市民福祉教育」へと通底する重要な源泉となっている。

Ⅳ おわりに
―戦前と戦後を貫く伏流―

〇本稿では、国分が1936年に示した「社会事業的教師」という概念に焦点を当て、その思想的背景と福祉教育史における意義を検討してきた。ここで改めて強調すべきは、国分が求めた「社会事業家としての態度」が、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)の再定義であったという点である。
〇国分は、教室という閉鎖的な空間で「内面的な真実」を綴らせることに安住する教師のあり方を、あえて「自嘲」という形で否定した。彼が「社会政策的見地」を呼びかけた背景には、子どもたちの背柱湾曲や多産・貧困といった「身体的・経済的剥き出しの現実」に対し、既存の教育学が十分な回答を持ち得なかったことへの危機感があった。この「教育の無力」を直視したところから、地域の社会構造へと介入しようとする「社会事業的」な志向が芽生えた事実は、後の福祉教育にも通底する「学習の外化(社会化)」への鋭い感受性が、すでにこの時期の国分のなかに備わっていたことを示唆している。これは、当時の社会事業側からの教育への接近ではなく、教育側からの社会事業への主体的越境である。
〇また、本稿で触れた城戸・留岡らとの「生活教育論争」の視点から言えば、国分の独自性は「生活方法(技術)」の提供に留まらず、綴ることを通じて自己の生活を「社会的な文脈」で読み解き、社会構造の変革を図る変革主体へと脱皮していくプロセスの萌芽を宿していた点に求められよう。これは現代の福祉教育が掲げるべき「まちづくりと市民福祉教育」のテーマに近接している。今後の課題は、この国分の「叫び」が、当時の現場教師たちにいかなる「沈黙の抵抗」あるいは「実践の変容」をもたらしたかを、より具体的に実証することである。戦時下の「厚生事業」への回収という歴史的断絶がある一方で、戦後の『山びこ学校』等に見られる「村を綴る」営みのなかに、いかなる形でこの「社会事業的視座」が潜流として継承されていたのか。
〇戦後80年を過ぎ、今また「教育の政治的中立」や「自己責任論」が強調されるなかで、教育が社会の矛盾を「自分事」として引き受ける態度は、一層の重要性を増している。国分が1936年に示した、弱者の傍らに立つ「伴走者」としての教師像を掘り起こす作業は、単なる懐古的な歴史研究ではない。それは、現代における「市民福祉教育」が、単なるボランティア体験の推奨を超え、いかにして「社会を変革する主体」を育み得るかという地平を切り拓くための、不可欠な知的営為なのである。
〇以上を総じて言えば、本稿の検討から明らかになった点は次の通りである。 第1に、「社会事業的教師」とは、単なる教育技術の行使者に留まらず、社会の矛盾に対する構造的な認識に基づき行動する主体として構想されていた点である。 第2に、そこには戦後の福祉教育に通底する「変革主体」としての主体形成論の萌芽が見て取れる。 したがって、国分の「1936年論文」は、断絶として語られがちな戦前と戦後を、福祉教育思想の地平において架橋するものである。それは同時に、現代における「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を探究するための、不可欠な歴史的準拠枠を提供するものであると言えよう。

補 遺
―歴史的具体的生活課題と向き合う「主体」の原像―

〇戦後の生活綴方教育の金字塔と評されるものに、前述した無着成恭のいわゆる「山びこ」実践がある。「『山びこ』実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。(中略)『山びこ』実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった」(奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会、2016年2月、70頁)。
〇本稿の補遺としてあえて、無着成恭編『山びこ学校』に収められている江口俊一の生活綴方「父の思い出」の一節を引いておきたい。

みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいのかわからなかった。(28頁)

〇ここで綴られた「誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」という困惑は、個人の内面に閉ざされた悲しみではない。それは、自身の生活を破壊した不条理な力(戦争・国家・政治)の正体を突き止めようとする、切実な「認識の萌芽」である。

引用・参考文献
(1)奥平康照(2016)『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会。
(2)国分一太郎(1951)『新しい綴方教室』日本評論社。
(3)佐野眞一(1992)『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』文藝春秋。
(4)津田道夫(2010)『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社。
(5)中内敏夫(1970)『生活綴方成立史研究』明治図書。
(6)無着成恭編(1951)『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』青銅社。

【初出】
阪野貢「『生活綴方教育と福祉教育』に関する研究への端緒:国分一太郎の1936年論文―資料紹介―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2015年5月12日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第2部

戦後初期福祉教育実践の展開
―特定地域における先駆的実践の位相―


第4章
徳島県・平岡国市による「子供民生委員」制度にみる「民生村造り」
―地域コミュニティ再建のための平和と自治の教育実践―

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はじめに

〇第二次世界大戦後における福祉教育実践の源流のひとつは、 1946(昭和21)年12月、 平岡国市によって創案された徳島県の子供民生委員制度に求められる。 平岡のあとを受け継いで制度・活動の推進に取り組み、また 1977(昭和52)年度から始まった「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(「社会福祉協力校」) の制度化に尽力したひとりに木谷宜弘がいる。 木谷は、「子供民生会と子供民生委員は、地域では子供会のルーツであり、 学校では福祉協力校のルーツとして、児童生徒のボランティア活動の先駆であった((1))」と評している。また、木谷は、「子供民生委員の真価は地域活動にあった」として、「子供民生委員の地域実践」について次のように述べている((2))。 この指摘は、 総括的ではあるが、 長年にわたる福祉教育やボランティアについての実践と研究に基づく幅広い見識に裏づけられた見解として、よく理解できるところである。

〇子供民生委員は地域での生活に根ざした活動で、子どもたちが問題を発見すると、 子供民生会で話し合い、解決策を検討し、 実践できるものから取り組むということですから、 子どものうちから自治体験を積み重ねているということになります。
〇その点、現在の福祉協力校やボランティア学習校では、子どもたちが学校の授業の一環としてとらえ、教員主導の実践で終わる危険があります。大事なことは、子どもたちが地域を拠点として自発的に行動すること その中で子ども同士、また異世代との交わりを通じて自治体験のできる生活の場を構築することではないでしょうか。子供民生委員の実践はまさにそのモデルということができます。

〇木谷は、森依顕らとともに、子供民生委員制度についての歴史的研究と子供民生活動の掘り起こしの作業を進めている((3))。しかし、それは、平岡の生涯の概観や子供民生委員制度の概説にとどまりがちで、個別具体的な子供民生活動を丹念に分析・検討し、それを通してその構造や特質を解明するまでには至っていない。

〇そこで、本稿では、子供民生委員制度や子供民生活動についての体系的・ 実証的な研究に向けて、先ず次の原資料の紹介と子供民生活動の分析・検討を行う。そのうえで、今後地域に根ざした豊かな福祉教育実践を展開するために、子供民生委員制度や子供民生活動から学ぶべき点を整理し、実践・研究課題の明確化を図る。その際、単なる懐古主義に陥ることのないよう留意するとともに、木谷が指摘するように、子供民生活動を子どもたちの自発的な地域活動 自治体験として検討することが必要かつ重要であるということをさしあたりの分析視角とする。

①栗田善吉 『子供民生委員の手引』 平岡国市、1953(昭和28)年10 月発行、76頁。 (以下、「資料①」と略す)
〇徳島県民生委員連盟会長・徳島県教育委員の粟田善吉によって著された子供民生委員の指導者用手引書である。「児童委員及師導者用」と付記されている。発行者と発行所は平岡国市となっている。
②平岡国市『子ども民生活動』子供民生事業研究会、1955(昭和30)年10月発行、163頁。 (以下、「資料②」と略す)
〇子ども向けに書かれた子供民生活動の参考書である。発行所は平岡が1955(昭和30) 年に創設・ 主宰した「子供民生事業研究会」となっている。平岡が子供民生委員制度を創案した際の「精神」「考え方」を残し、伝えるために書いたものである。
③平岡国市 『子供民生委員とその指導』(改訂版)子供民生事業研究会、1957(昭和32) 年12月発行、168頁。 (以下、「資料③」と略す)
〇学校の教師や民生委員などを対象にした子供民生活動の指導書である。1956(昭和31)年の初版本を「訂正増補」したものであり、「子供民生活動における指導者の地位」「子供民生活動をいかに指導すべきか―子供民生委員指導一二ヵ条―」などについて述べられ ている。
④平岡国市『富士居先生と大西先生』 子供民生事業研究会、 1958(昭和33)年6月発行、 163 頁。 (以下、「資料④」と略す)
〇平岡が師事した富士居力次郎と大西静枝の、大人と子ども向けの伝記である。平岡にあっては、富士居と大西は「徳島県が生んだ男女の代表的社会事業家」であり、「人間の太陽」と評すべき人物である。その感化は大きく、子供民生委員制度創設のひとつの要因と なった。
⑤徳島県社会福祉協議会 『伸びゆく子供民生委員』 (第十回徳島県子供民生委員大会記念号) 徳島県社会福祉協議会、 1958(昭和 33 ) 年3月発行、 21頁。 (以下、「資料⑤」と略す)
〇「第十回徳島県子供民生委員大会要綱」「子供民生委員十二年小史」などがおさめられている。県大会は1948(昭和23)年11月にその第1回が開催されて以来、継続的に開催されたが、第10回大会の内容を知ることができる。
⑥徳島県社会福祉協議会『子ども民生委員指導ノート』徳島県社会福祉協議会、1959(昭和34)年7月発行、 21頁。 (以下、「資料⑥」と略す)
〇徳島県社会福祉協議会によって編集・発行された指導者用の「ノー ト」であり、子供民生委員について簡潔にまとめられている。 その記述の一部は資料③ がベースになっている。
⑦平岡国市「山の子人生記』 (私家版) 1984 (昭和59)年1月発行、 140頁。(以下、「資料⑦」と略す)
〇平岡自身の回想録であり、 逝去する1年前に自費出版されたものである。平岡の苦難に満ちた生きざまや人となり、子供民生委員制度創設の背景や経緯などを知ることができる。

Ⅰ 平岡国市の生涯と子供民生委員制度

〇平岡国市が子供民生委員制度を創案し、子供民生活動の推進に心血を注いだ背景や要因は何か。それを理解するためには、その苦難に満ちた生涯について把握する必要があろう。ここでは、資料⑦に基づいて、平岡の生い立ちや生きざまについてその画期に留意しながら概括する。

1 結核との闘争
〇平岡国市は、1897(明治30)年3月16日、 徳島県名西郡神山町阿川に平岡八百蔵の長男として生まれた。両親は不便な山村で農業を営み、きょうだいは弟1人、姉1人、妹4人の7人であった。
〇平岡は、子供の頃は虚弱体質であり、吃音であった。平岡は、「ドモリの苦難」から逃避するために中学校への進学を諦めるが、その後の苦学生活を思うと「最大の不覚((4))」であったという。しかし、向学心は強く、中学校の講義録や早稲田大学出版部の政治経済学講義録などを勉強するなかで、政治家を志望するようになった。 平岡にとって、 読書が 「青春時代の唯一の楽しみでありとりえでもあった((5))」。
〇1916(大正5)年に2人の姉妹が相次いで肺結核で死亡した。 その後に母親、そして1929(昭和4) 年には平岡本人も肺結核に倒れた。当時、 平岡は立身出世を夢みて1925(大正14)年に上京し、仕事と勉学に励んでいたが、断腸の思いで東京を離れ郷里で7年間の療養生活を送ることになった。家族のうち6人までもが結核に罹り、それが20年間にもわたるという、平岡家の生活はまさに「結核との闘争史((6))」であった。平岡は、健康な一家が結核に襲われることになった原因について、次のように述べている((7))。

〇その頃 〔1916 (大正5)年に2人の姉妹が肺結核で死亡した。〕の徳島県の農家は長い間繁栄してきた阿波藍がドイツの化学染料に押されて殆ど自滅の悲境に陥り、これに変わったのが養蚕で藍畑は桑園に変わり、やがて県下各地に大小の製糸工場が新設されて、俄然女工の需要が旺盛になり、当時現金収入に窮していた一般農家の娘たちが自然にこの収入の多い女工見習に雇われる様になった。
〇私の近くにも親しい農家の娘さんが二人この工場の女工生活で相当の収入をあげていたのがあって (中略)、 私の姉妹も自力で結婚費を稼ぎたいとの希望からこの娘さんたちの工場に行くことになりそれが、 健康な一家に結核を移入する原因となったのであった。

〇青少年期の吃音とそれ以降の結核との闘争史は、平岡のパーソナリティーや思想形成に多大な影響を及ぼすことになった。

2 政治的野心に燃える
〇平岡は、女工であった2人の姉妹を結核で失い、また後年、細井和喜蔵の『女工哀史』 (1925 (大正14)年) などを読むにつれ、「堪らない義憤を感じ」「政治に堪え難い不満を感ずる((8))」ようになった。それが政治家志望を強くし、 そのためには先ず役人になることであった。 平岡は、「役人で生活しながら勉強し行政に通じて政治家になる実力をつくることだ((9))」と決意し、1920(大正9)年のシベリア出征から徳島に戻ってからは木炭焼きの仕事などをしながら一心不乱に勉学に励んだ。その甲斐あって1922(大正11)年に普通文官試験 (普文) に合格し、 翌1923(大正12)年9 月には知人の紹介で徳島県内務部地方課に臨時雇として勤めることになった。 後に、常雇から判任官になる機会に恵まれ、板野郡役所の書記に任命されて「念願の役人生活の足場((10))」ができることになった。「政治的野心を「持つ」その頃の平岡は、「専検 (専門学校入学者試験検定) に一日も早く合格し高文 [高等文官試験〕の準備のため上京して、私大の夜学に学びたい一念にかられていた時だけに、この有利なポストに定着しようなどと言う考えなどは毛頭なかったから腰の落ちつかぬこと甚だしかった((11))」。その後、県職員を辞して上京する。

3 血のにじむ苦学
〇1925(大正14)年に上京した平岡は、東京地方裁判所の臨時雇をはじめ、浴風会や内務省、 東京府などに雇員や「事業手」として情実採用され、1929 (昭和4)年には東京府の属官に任命された。昼の勤務の後、平岡は専検に合格するために寸暇を惜しんで夜学で勉強し、同年6月に文部省の合格証書を得た。この専検を取るために費やした5カ年は、平岡にとってはまさに「血のにじむ苦学の頃((12))」であった。その後早速、早稲田大学政治経済科の夜間の聴講生から試験を受けて正科の2年に編入し、長年の念願であった大学での勉強がようやく軌道に乗ることになった。しかしそれも束の間、その夏8月に「宿敵」 結核に倒れ、郷里での療養生活を余儀なくされることになった。 平岡は、「五年前青雲の志を抱いて上京した希望に溢れた青年が、数年後にこうした惨めな都落ちをしようとは誰が予期した事であろうか((13))」と悲嘆し、次のようにも述べている((14))。

〇殊に地方課の仕事も東京府ともなれば、徳島県などの比ではなく、(中略)真面目に本職一筋に勤めてもまだ努力不足であるのに、夜学に力を割くのであるから仕事に対する研究不足は否み難いものがあった。仕事一筋で行けるのであれば、この難関こそ貴重な研究の場であり実力を磨く絶好の機会であったが、何分にも夜学の勉強に追い立てられ、腹背に強敵を受けた苦しい戦いは遂に大切な健康に破綻を来す日が訪れたが思えばこの運命は私としては宿命的なものであった。

4 療養生活による一大変革
〇徳島に戻った平岡は、失意のなかで療養に努めた。 1934 (昭和9)年には思い立って3回目の四国遍路の旅をし、それが健康への不安を一掃して新しい生活への自信を取り戻すことになった。平岡にとって、徳島での長い療養生活は「一大変革」「人生修養」「人間的な生長」をもたらした。若い日の政治家志望は「はかない夢」と消え去り、「偉い人より正しい人」という 「地道の生き方((15))」がその後の生活目標となり、生活設計が新しく立て直されることになった。 その点について、平岡は次のように述べている((16))。

〇私の七年に亘った療養生活は何と言っても私の人生にとっては一大変革でありまたこれが為に私は少なからぬ人生修養と、ささやかながら人間的な生長を体得したことは否定出来ない。もし私がこの長い苦難がなくて、世の中の幸運児のように易々として人生の初心が貫かれ 出世主義が渾沌に成功していたら苦難の多い下積み生活にあえぐ人々の生活などは知る由もなかったであろう。

〇その後、健康を回復した平岡は、再起を期して就職活動を続け、1936(昭和11)年4月、知人の紹介により東京府社会課に書記として採用されることになった。不況による就職難の時代にあって、しかも「四十歳に手のとどいた中年者」「社会から一番恐れ嫌われている結核の回復者((17))」であった平岡にとっては、幸運であった。

5 社会事業主事・主事補として
〇東京府に再就職した平岡は、1937(昭和12)年、社会課から新設の軍事援護課に移り、 属官に復帰した。そこでは、社会事業主事補((18))として、軍人遺家族の援護事業の仕事に無我夢中になり、「新調の革靴を三か月で踏み破る((19))」ほどであった。平岡にとっては、「以前の様な高文の夢もなく真に仕事一筋に打ち込めた愉快な時代であった((20))」。また、「苦難の多い下積み生活にあえぐ人々の生活」を知ることになった。その後、平岡は、徳島県の社会事業主事に欠員があることを聞き及び、知人の尽力により、1941(昭和16)年4月、 「古巣の徳島県庁へ十八年目に帰任((21))」することになる。
〇徳島県に帰参した平岡は、社会課で社会事業主事として要保護家庭の救済や方面委員の設置・指導に当たった。方面委員を未設置の町村長を訪問・説得して設置を完了させ、 徳島県方面委員連盟の結成にも尽力し、連盟初代の主事を兼務した。この点について、 『支えあう明日へ―徳島県社会福祉協議会40年のあゆみ―』 (徳島県社会福祉協議会発行) は、「東京府庁から、徳島県の社会事業主事として着任した平岡国市氏は、その設置組織化に幾多の困難を克服、努力され、1942年(昭和17年)4月には全県下の市町村に方面委員の設置をみて地域福祉活動を実現することができた((22))」と記している。
〇いよいよ戦局が苛烈になった頃、平岡の「指導や言動が戦時態勢に即応せず、反国家的で所謂『赤』と言う意味に誤解せられ県刑事課から呼ばれて取り調べを受けたり、特高課長から直接注意を受ける((23))」こともあった。
〇平岡は、民生事業と児童関係の仕事を担当するなかで、3人の社会事業家に出会った。少年教護事業の富士居力次郎、婦人更生事業の大西静枝、同和事業の前田治である。富士居と大西については、平岡は、その後資料④を自費出版するほどに強く師事していた。とりわけ教護施設徳島学院長であった富士居とは、 仕事上、接触する機会が多く、大きな感化を受けた。また、子供会の普及を図ることを富士居と約束したり、富士居から後任の院長に推薦されるほどであった。子供会普及の約束は子供民生委員となって実を結ぶことになる。
〇1945(昭和20)年7月、徳島市街も空襲を受けて市内の約8割が焦土と化した。翌8月、わが国は敗戦を迎えた。平岡は、敗戦直後の混乱期、過労のために肺炎を患うほどに戦後処理の仕事に取り組んだ。翌1946(昭和21)年3月、県職員の人員整理による退職勧告を受け、平岡によると「終戦後反骨気質の私の役人勤めもとかく不遇のうちに最後は勝名地方事務所の援護課長と言う処で終わ((24))」ることになった。

6 子供民生委員の執念
〇徳島県を辞した平岡は、 1946 (昭和21)年9月に改組された徳島県民生委員連盟で常務理事として民生委員の指導や活動支援に当たった。それに引き続き、1951(昭和26)年10月に設立された徳島県社会福祉協議会(民生事業部)で地域の組織化や関係団体の結集に力を注いだ。

〇「私の子供民生委員の執念は敗戦直後の混乱期に始まった((25))」と平岡はいう。敗戦によって全ての国民が飢餓と虚脱の状態に陥り 戦争の最大の犠牲者として孤児や浮浪児などがまちにあふれるという悲惨な状況をみるなかで、平岡は次のような信念のもとに子供民生委員を草案した((26))。1946(昭和21)年12月のことである。

〇「何れの国家、何れの民族も人間の幸福と言うものは平和であってこそ得らるるものである。」
〇従って日本民族の永遠且つ最大の幸福は、この平和を確保する事であり、平和を確保すると言うことはまず平和を愛する国民をつくることである。総ての子供たちが平和を愛する活動を不断に自然に身につけて生長することであると思った。
〇この意味に於て平和を愛する教育やしつけこそ子供生活の基盤とならねばならぬものであり、こうしたことから子供の生活指導を、
〇「すべてのお友だちを幸福に」
と言う処に置いて、子供たちの社会に子供民生委員をつくり、子供民生活動の組織網を打ち立てたのであった。

〇要するに、戦争のある限り人類の平和も子どもたちの幸福も守ることはできない。子どもと平和を結びつけた運動こそが最も大切な仕事である。これが子供民生委員を考えた根本である、というのである。
〇子供民生委員を計画した際、平岡は、平和を愛する子供会の創設について徳島県の学務課や教育会などを訪ね協力を要請したが、 一蹴された。そこで、「たとえ平和を育てる大切な子供会でも畑ちがいから呼びかけたのでは到底協力は得られない。最初の種子蒔 〔き〕 は自分の畑でして小苗を育てた上で協力を呼びかけるのでなくてはものにならない」と考え、「私の仕事畑の民生委員連盟で発足さすことにした((27))」のである。なお、当時はアメリカの占領下にあり、当初は軍政部の関係者の理解を得ることは至難であったが、説得を重ねた結果、子供民生委員の発展に力となった。
〇こうして、平岡は、戦後の混乱期に人類の平和と幸福 (福祉)の根幹を培う教育・運動としての子供民生委員活動を創始し、その推進に努めた。その後、子供民生委員活動は小・中学校教育の一環として県下に普及することになり、その功績で1954 (昭和29)年11月、県教育委員会から社会教育功労者として表彰された。 平岡にとっては「恵まれぬ私の人生にも此処だけは一つの光彩を添えることが出来たのであった((28))」。その後も平岡は、子供民生委員活動の推進にいのちを燃やし続けたが、 1957 (昭和32)年3月に徳島県社会福祉協議会で定年を迎え、その活動に終止符を打つことになった((29))。
〇退職後、平岡は、1958(昭和33)年6月に前述の資料④を自費出版した。「年来の主張である子供民生事業ののびゆく一つの足場ともなれば、この書物で、せめても先生へのご恩返しの万分の一((30))」と思ってのことであった。その後、平岡は、徳島市内の自宅で静かに暮らし、信仰と読書と執筆が終生変わらぬ主な日課であったという。
〇平岡国市は、1984 (昭和59)年1月に資料⑦を著し、それを残して翌1985(昭和60)年12月26日に死去した。享年88であった。資料⑦奥付には穏やかな顔をした平岡の写真が掲載されている。

〇以上が平岡国市の生涯である。 平岡を知る人は、その人柄について 「正義と真理を愛する生一本な男」「権力に抵抗する気骨を感じさせる不思議な男((31))」などと述懐している。 常に向学心に燃え、社会に対して批判的かつ建設的で、率直に意見表明し、妥協を許さない性格は、文献上(資料⑦) からもうかがい知ることができる。それゆえにか平岡の生涯は波乱万丈であり、劇的でさえあった。
〇平岡が子供民生委員制度を創設しその推進に情熱を傾けたのは、敗戦直後の「子供」の悲惨な生活実態と「平和」に対する絶対的な希求、それに国民大衆の生活に根づいた「社会事業」の発展についての信念や誠意であったといってよい。しかもそれは、ひとつは、戦時体制と戦後混乱という時代状況のもとで、 戦前に社会事業主事・主事補として軍事援護事業や方面委員事業に携わり、戦後は徳島県の民生委員連盟や社会福祉協議会において地域の組織化活動に取り組んだことなどによる平岡自身の歴史・社会認識に基づくものであった。 いまひとつは、 平岡が「人間の太陽((32))」と評した偉大な社会事業家であり教育者であった富士居力次郎と大西静枝、それに「小学校に於ける同和教育の大家((33))」と評した前田治の3人の指導と感化によるものであった、といってよかろう。さらには、平岡の思想形成に少なからぬ影響を与えたものに四国遍路の徳島の風土、なかでも隣人愛や助け合いの精神文化があったといってよい。 平岡自身、3回の遍路の旅を行う信仰の人であり、 そのきっかけのひとつに「結核との闘争」があった。それは平岡の思想形成に甚大な精神的影響を及ぼした。
〇これらが渾然一体となって、子どもの平和教育 運動や「社会事業的教育((34))」・社会事業実践の一翼として創案され、子どもの生活や社会すなわち学校生活や地域生活に根づかせようとしたのが子供民生委員制度であったのである。

Ⅱ 子供民生委員制度の概要と子供民生活動

〇子供民生活動 (運動)を構造的に明らかにし、その分析的評価を行うためには、先ず子供民生委員制度そのものについて理解しておく必要があろう。 資料①②③に基づいて要約的に整理する。

1 子供民生活動の目標と精神
〇子供民生活動の目標は「すべてのお友達を幸福にし困った人のない社会をつくる」ことにあった。 それは「すべてのお友達を幸福にしましょう」という言葉で表現され、その言葉は子供民生委員の「民生」を意味した。この点から、「子供の民生事業というものは大人の今やっている援護を中心と考えた民生事業よりもさらに広範囲に亘るものであって、 今の民生委員を小さくしたものが子供民生委員ではない((35))」ことが分かる。そのことは、次の「子供民生委員の五つの精神」によってより明瞭になる。

一、お友達は皆仲よく致しましょう。
一、困った人は助けましょう。
一、先生の教えは必ず守りましょう。
一、丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
一、世の中のためになる人になりましょう。

〇この「すべてのお友達を幸福にする」ための実践方法である5項目について、平岡は、資料②で子どもに分かりやすく説いている。要約すると次のようになる((36))。

(1) お友達は皆仲よく致しましょう。
〇人間は友達と一緒に社会をつくって皆で暮すことによって、はじめて幸福な暮しができる。人の親切ほど共同生活を明るくなごやかにするものはない。親切にすることが仲よしのもとである。子供の時から仲よしの習慣を身につけていくことは、やがては世界から戦争をなくし、人類の平和を築きあげるもとである。
(2) 困った人は助けましょう。
〇困っている人をなくすことは国が行うべき仕事であるが、国の手が届かないところは、民間の人の親切で救っていかねばならない。困った人のいる社会は、本当に平和な民生の社会ではない。困った人を助けるやさしい気持がなくては、どうしてもこの人間の社会か ら戦争をなくすことはできない。
(3) 先生の教えは必ず守りましょう。
〇子供たちが成人して賢くなることは、何といっても教育すなわち 先生のおかげである。 この教育のもとは先生に対する子供たちの尊敬と信頼である。先生とは学校の先生ばかりでなく、自分よりさきにすぐれたことを知っている人たちのことであるが、その人たちを 尊敬して自分たちのよい修養の上に取りあげていくことは大切なことである。
(4) 丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
〇人間の幸福は何といってもまず健康であり、健康で毎日を気持よく働けるということである。世の中の不幸な出来事は大方は病気と失業から起っている。子供のころから健康と勤労に気をつけて、働くことを尊ぶよい習慣をつけることは、その人を幸せにするばかりでなく、明るい社会をうちたてるもとである。
(5) 世の中のためになる人になりましょう。
〇世の中が明るくなるのも、暗くなるのもそこに住む人々の一人一人の生活の仕方によって決まる。よい子の活動は、社会に迷惑をかけないことから、だんだんと進んで社会のために役立つ奉仕のよい習慣を身につけることでなくてはならない。そこにはじめてよい大人、よい市民、よい社会が生れてくるのである。

〇平岡によると、以上の「五つの精神」をキーワードで示せば (1)「平和」、(2)「助け合〔い〕」、(3)「尊敬」、 (4)「健康、 勤勉」(5) 「奉仕」となる。さらにそれは、「親切」と「修養」の2つに集約されるが、これらは「千古不滅の真理」「子供の円満な人格形成の根本」であり、子どもの基本的・普遍的な「生活規範」であるという((37))。世界の平和と人類の幸福(福祉)を創造するために、こうした価値・規範を育成・獲得することをめざしたのが子供民生活動であった。 その点において、子供民生活動は平和教育の一翼であるとともに、価値教育(学習) のそれとしての意味をもつものであったといってよい。しかも、子どもの地域や学校における日常の生活問題や葛藤と切り結び、その具体的な解決活動の展開を通して価値・規範の内面化を図ろうとしたところに大きな特色があったといえよう。それゆえに、子供民生活動では地域に根ざした自主的主体的な実践活動や体験学習が重視されたのである。さらに、こうした子供民生委員の「修養」と 「体験」を通してこそはじめて「よい大人の民生 (児童) 委員をつくる」ことになり、「子供民生事業の育成こそ大人の民生事業の基盤であり」、「全社会福祉に通ずる重大な問題((38))」であると認識されていた。注目すべきところである。
〇なお、子供民生活動の目標と精神が簡潔明瞭に示され、「むつかしい理屈や理論が少しもない」のは、「子供なら誰でもいつでも、そして何処でも即座実行が出来るもので、 たとえ幼児でもすぐわかるようないわば平凡そのものであり常識そのものでなくてはならぬ((39))」 という平岡の念願によるものであった。

2 子供民生委員の組織
〇子供民生委員の組織について、平岡は資料③で次のように述べている。子供民生活動を理解するうえで重要であり、少し長いが引用する((40))。

〇子供民生活動というのは部落や町内の皆の子供で作った子供民生会(或は子供民生会 〔民生子供会〕) と、そこから選出された男女の代表各一人の子供民生委員が結成した学校子供民生委員会との二つの活動を総称したものであります。
〇いわば民生子供会は学校子供民生委員会の下部組織で委員の選出母体であります。この子供民生委員会は郡市で連絡会を持ち県でまた連絡会をもつ組織になっています。
〇そしてこの部落や町内の民生子供会はその地元の児童委員や青年、 婦人会の有志の人々がその第一線指導に当り学校子供民生委員会の指導には校長の下に担任の先生が置かれてこれに当るようになっています。とくにこの子供民生活動の指導のためには、郡市の小、中学校長会に一人の指導校長を委嘱してその管内の総合的指導に当るような組織になって、この校長が随時集合して指導に対する各種の打合せ研究をすることになっています。また学校の子供民生委員担任の先生のために県単位で研修会が行われ、市町村では部落指導者の研修が学校で行われています外郡市の子供民生委員の研究協議会も行われています。
〇何といっても子供民生委員会の在り方は飽くまでも子供たちの会である事で、県の総合した指導を社協がしている事は臨時的なもので、子供民生委員が郡市に発展してきた際は連盟或は連合会が結成され、ここで自主的な指導が打ち立てられ、 社協は参加団体としての在り方でなくてはならないので、この本質を忘れると子供会としての真の発展はあり得ないのであります。

〇以上に多少補足すると次のようになる。子供民生活動の基盤となる第一線の組織は、部落や町内の小地域ごとに設けられた「子供民生会」(「民生子供会」) であった。小地域の子どもたちによって組織された子供民生会から、その代表として、 小・中学生別にそれぞれ男女各1名の「子供民生委員」が選挙によって選ばれた。 通常は小・中学生ともに最高学年の子どもが子供民生委員に選出された。子供民生委員は各小・中学校で「学校子供民生委員会」を結成した。 そこでは活動の方針や具体策などが協議・決定され、それが子供民生委員によって小地域ごとの子供民生会に持ち帰られ、各地域で実践に移されていった。子供民生活動は、こうした子供民生会と学校子供民生委員会での活動を総称したものであり、子どもの地域社会や地域生活に基づいた実践であった。また、子供民生委員は、子供民生会から選挙によって選出されるという代表者制を採っていた点において、民主主義的な組織であった。
〇地域によっては、いくつかの学校子供民生委員会が集まって「学校子供民生委員連合会」が組織された。そこでは、子供民生活動の連絡・調整や協力・支援が行われた。こうして、子供民生活動は、「子供民生会」→「学校子供民生委員会」→「学校子供民生委員連合会」という段階的に積み上げられた組織のもとに展開されていたのである。さらには、郡市レベルで 「子供民生委員連盟」や「子供民生委員連合会」が結成されたところもあっ た。
〇子供民生活動の指導・助言は、小地域の子供民生会においては地元の民生委員・児童委員や青年団、婦人会などの関係者によって行われた。学校子供民生委員会では校長の下に担当教員が指導・相談にあたった。「部落担任の先生は学校教育と地域の子供生活とのかけ橋的存在となって校外における子供社会の直接指導は主として部落の指導者で進められる((41))」ことが期待された。郡市レベルでは小・中学校長会から委嘱された指導校長がその管内の総合的指導と連絡・調整に当たった。こうして子どもの自主的・主体的な地域活動としての子供民生活動は、学校経営の観点から、学校教育活動の一環として取り組まれていた。民生委員・児童委員や教師などの指導者・支援者に対しては、子供民生活動に関するそれぞれの組織に基づいた段階的な研修や研究協議が重ねられた。とりわけ小地域の子供民生会における大人の指導者が重視され、「この部落のよき指導者こそ民生会の至宝でありこの指導者を育てることこそ子供民生活動発展の根本」であると考えられた。
〇なお、徳島県社会福祉協議会は、県の関係部局や教育委員会などと連携・ 協力して、子供民生活動を推進するための組織運営や連絡・調整、指導者への指導・援助などを行った。
〇以上から分かるように、子どもの生活と社会に根ざした子供民生活動は、「子どもと大人」「地域と学校」「福祉と教育」を限りなく接近させ、その組織的なつながりのなかで活動の究極の目標である「民生村造り((43))」すなわち福祉コミュニティづくりを進めたのである。子供民生活動の大きな特色のひとつであった。

Ⅲ 子供民生活動の実際と評価

〇1956(昭和31)年当時、 徳島県下のほとんどの小、中学校で子供民生活動が展開され、 子供民生委員の数はおよそ1万人を数えた((44))。では、地域の子供民生会や学校の子供民生委員会において、どのような活動の展開が期待され、実際に行われたか。また、それを支援するためにどのような事業・活動が実施されたか。 さらには、子供民生活動の教育的効果(成果) はいかなるものであったか。その点について資料を紹介し、分析・検討する。

1 子供民生活動の実際
〇資料①は「五つの精神」別の「子供民生委員活動の実際」例と「子供民生活動の月割計画」を例示している。 資料②は、資料①と同じく、「五つの精神」別の「子供民生委員の活動のいろいろ」と「子供民生活動の月割けいかく」を子どもに分かりやすく説いている。資料③では 「五つの精神とくに、自主とか協力、 勤労とか奉仕を頭に置いての 〔毎月の〕 予定表」と、子供民生活動は 「教養的な面の活動」と「親切な奉仕的な面の活動」に分けられるとして、その活動例を掲載している。
〇いうまでもなく、子供民生活動の展開は「子供民生委員の五つの精神」を実行することであった。上記の「月割計画」は季節的・年間行事的な活動の例示にとどまっている。そこで、日常的・具体的な子供民生活動の実際を知るために、やや詳細にわたるが資料①のそれを紹介することにする((45))。

(1)お友達は皆仲よく致しましょう。
〇低学年のお友達を可愛がって上げること。特に新入生のお世話。登校下校時の誘い合い。 お友達を仲間はずれにしたり、いじ悪をしないこと。公園や遊び場では遊具を独り占めにしないこと。私の所有する遊具も、つとめて貸してあげること。借りたものは大切にしていつも感謝して使い感謝してお返しすること。 女の子はいつも針や糸、櫛などを用意してほころび縫いや小さいお友達の頭髪のお世話をしてあげること。男の子は友愛ポストの収入などで理髪具を買い共同理髪をすること。病気の先生やお友達は度々皆で見舞ってあげること。死亡した先生やお友達のお墓参りをすること。村や町の伝染病院でお友達で絵を贈ってかべに張〔貼〕ってお慰めをする。選挙の後では候補者のビラを早くはぎとって対立感情をやわらげること。夏休みに部落対抗の野球や運動競技をして互に親しみ合う。他の部落や村のお友達が来てもいたずらをせず進んで親切にしてあげること。子供の喧嘩をなくする申合せをして努力する。修学旅行に行かれなかったお友達の為めに旅行先きからお土産を持ち帰ってあげる。皆で修学旅行する為に共同作業をする。
(2)困った人は助けましょう。
〇友愛ポストを活用すること。友愛ゾーリ 〔草履 〕。雨傘の購入や雨傘の保管をする。 正月のお餅集め。引揚者をお迎えして慰問品をお贈りする。風水害火災地へお見舞品を集めて贈る。小さな子供たちに雨ふりに下駄の鼻緒をすげてあげる。家が貧しい為学校に来られぬお家を訪問してお手伝をしたり生活扶助をするよう大人の民生委員に連絡依頼する。 皆で修学旅行の出来るように映画会や学芸会やバザーなどを開催する。お気〔の〕 毒より薯一つ。 桑皮はぎのお金やシジミ取りのお金を困ったお友達に贈った。吉野川の空地で甘 藷を作って食料に困っている戦災地のお友達に差し上げた。同情週間に一品奉仕運動をして困っているお家へ贈った。村芝居に小さな売店を出して利益を困っているお友達に贈った。キリスト教の日曜学校から日曜献金を受けたので雨カサのないお友達にカサを差し上 げた。共同募金に協力。子供民生委員の店の経営。
(3)先生の教えは必ず守りましょう。
〇中学生の禁火〔禁煙〕運動に成功。買食いの悪い習慣をなくして貯金と友愛ポストの運動に効果をあげた。休日(地方のお祭りお盆)の前日に子供民生委員会を開いてお小遣いの節約を申合す。夏は特に水泳に注意をする。学校でもお家でも食事時の挨拶をして食器は自分で洗う習慣をつける。学校と家庭の連絡の役目をつとめる。お友達の声を先生に伝える。部落別に子供民生会を開いて夏休みの注 意を申合す (①宿題は早目にかたずける、②  お家の手伝〔い〕はよろこんでする、③水泳はきめられた通りにする、④かけ事をせぬ、 ⑤作物を荒さぬようにする、⑥夜ふかしをせぬ)。社会調査をして困った人の発見に努める。 一日一善を忘れぬこと。先生やお友達に綽名をつけぬ。汽車やバス等の乗物の中では席をゆずる。
(4)丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
〇夏休みの早起会や共同学習、自習会をする。ハエ退治蚊やネズミ 退治に協力する。子供の掲示板、回覧板の設置。土曜日の反省会をする。ゾーリ作りナワ〔縄〕ない、木炭や製材所の手伝いなどをして書物を買ったり勤労習慣をつける。勉強のサイレン。炭俵をあん で友愛ポストや貯金をする。害虫駆除に協力する。暴飲暴食はせぬようよい習慣をつける。 冷水摩擦を夏休みから始める。
(5)世の中のためになる人になりましょう。
〇農繁期に託児所のお世話をする。農繁期のお手伝い留守番お使い子守をしてあげる。山路の草かり道しるべを建てる。共同耕作をして出来たお野菜を貧しいお家に差し上げる。 子供銀行、購買部、給食の世話役をする。運動会の時チリ〔塵〕集めをして会場美化をはかったり自転車無料預り場をする。遠足の時や旅行先きで昼食時の後始末をきちんとする。 お母さんの会に臨時保育所の開設。火の用心をして方々で感謝されている。子供図書館を充実して勉強を助ける。落書消しをして町や村の美化をする。道路や校庭に安全箱を作ってガラスのかげ 〔け〕らを入れる。町の共同便所、学校便所の清掃を率先して実行する。 社会奉仕日、民生週間の設定。大人の週間行事に協力する。選挙を正しくする運動や棄権防止に協力する。落穂拾いで毎年多量の麦や米を集めて困っている家庭の年越しの贈物にする。 毎年敬老会をする。 鉄道の事故防止や道路の交通禍からお友達を守る活動をする。 他人のいやがる仕事は進んでするようにする。神社や公会堂など人の集〔ま〕る処は常にきれいにする。

〇以上を大胆に要約すれば、子供民生活動は、「すべてのお友達を幸福にする」(民生)ために、①基本的な生活習慣・しつけの習得と主体的・自律的行動の展開、②日常生活に根ざした道徳的心情の陶冶と道徳的実践の展開、③歴史的・社会的な日常生活の経験や地域社会の現実生活のなかでの課題の発見と解決、④学校や地域における自治能力の育成と自治的活動の展開、などが期待され、また実践されていたといえようか。
〇こうした子供民生活動の推進を図るためには、①活動の目標と「五つの精神」に対する信念を確立する、②地域に適切な指導者をつくる、③大人の民生委員についての理解と関係を促進する、④子どもの自主性と協同性、社会性を育成する、⑤子どもの遊び (生活) のなかに活動を生かす、⑥活動のための経費を会費や寄付などで賄う、⑦活動に計画性や一貫性をもたせる、⑧活動を堅実に展開する、⑨後進の子供民生委員を育成する、⑩小・ 中学校の活動を緊密にする、⑪活動を学校経営の一環として採りあげる、⑫活動に興味をもたす工夫をする、ことなどが求められた。資料③ではこの点を「子供民生委員指導一二ヵ条」として整理し、説述している((46))。これらは、地域を基盤にその展開が求められている今日の福祉教育にも該当し、その実践的課題でもある。また福祉教育活動を支援する人材 (福祉教育指導者、福祉学習サポーター)のあり方や指導・支援の内容・方法にも通じる点である、といえよう。
〇子供民生活動の基盤は、小地域における子どもの日常の生活と社会であった。そのうえに、子供民生委員は平和と民生 (福祉) に関する社会的運動を展開した。「子供平和記念塔」の建設、知的障害児施設「あさひ学園」(1951(昭和26)年) や肢体不自由児施設「ひのみね学園」(1952(昭和 27)年)の設置促進、徳島市内400名の欠食児童問題の解決 (1954(昭和29)年)、国際子供親善文化展覧会の開催 (1955(昭和30)年)、徳島駅に「阿波時間」をなくすための大時計 (「子ども民生時計」)の設置(1956 (昭和31)年)、それに歳末助け合い運動や子どもの遊び場づくり運動の推進、などがそれである((47))。注目されるところである。
〇子供平和記念塔(小便小僧)は、「『世界の平和は子供から』という日本の子供たちの燃〔え〕るような平和愛好の精神を何らかの形の上に現して世界へ呼びかけては、という子供たちの声((48))」に基づくものであった。子供民生委員の手によって世界の子どもたちから「平和の小石」が集められ、県下の16万人の小・中学生から36万8,000円の献金((49))を得て、 1948(昭和23)年11月、徳島公園内に建設された。塔には「子供平和記念塔の由緒 子供はいつも平和を愛します平和国家として新しい出発をした私達日本の子供は世界の平和がいつまでも続くようにと願って平和を愛する子供達に呼びかけ世界の各地から小石を集めてこの子供平和記念塔をつくりました 昭和二十三年十一月三日 徳島県子供民生委員」 という文章が彫られている。1950(昭和25)年3月には昭和天皇が四国巡行の際、子供平和記念塔に行幸した。その時の様子は『天皇陛下奉迎記』(徳島県発行) に詳しいが、徳島市助任小学校5年生の山本多恵子が天皇に「子供平和記念塔について」説明している((50))。 参考に供しておく。

子供平和記念塔について
御説明者 助任小学校第五学年 山本多恵子
〇『世界の平和がいつまでも続きますように。』と、 私達子供民生委員が世界のお友達によびかけまして、世界各国の小石を集めて作ったものが、この塔でございます。幾十万もの小石が各国から集りましたが、中でも、皇太子さまは和歌山県御旅行中、那知〔智〕の滝から、また義宮さまは、お庭の小石の中から、それぞれ珍らしいものをお選び下さいまして御送り下さいました。あの小石で丸くかこまれた黒色の石が皇太子さまから送られたものでございます。
〇アメリカの少年赤十字団からは、六百万年の昔、セントヘレナ山が爆発した時、埋没して出来たといわれる有名な化石が送られて参りました。中程の向って左、鳩のとまっている、やや大きな石がその化石でございます。この塔の竣工は一昨年十一月三日の文化の日で総工費は三十六万八千円でございましたが、全部県下十六万のお友達からの献金でございます。その他正面の 『子供平和記念塔』の文字も、その下の邦文、英文の碑文もすべてお友達から募集したものでございます。
〇私達子供民生委員は、こうして出来上った子供平和記念塔を、平和の象徴とし、愛のシンボルと致しまして、益々、世の為、人の為につくしたいと思っております。
〇大へん、簡単でございますが、これで御説明を終らせていただきます。

〇子供平和記念塔の設置をはじめとする子供民生運動は、小地域の子供民生会から郡市レベルの子供民生委員連盟 (子供民生委員連合会)、それに1948(昭和23)年以来毎年開催された県子供民生委員大会などで協議・ 決定されて実施・展開された。その際、子どもたちが小遣いを拠金する方法として各学校に設けられた「友愛ポスト」や、各地の活動実例などを紹介した「徳島こども民生新聞」などが運動の推進に大きな役割を果した。徳島こども民生新聞は、1953 (昭和28)年5月より徳島県の費用で、県社会福祉協議会が年4回発行し、当初の発行部数は約1万5,000部を数え た。
〇いずれにしろ、子供民生運動は、①子どもたちの日常の生活や社会が抱える課題に対する歴史的・社会的認識や連帯意識に基づいた運動、②問題の発見や解決に主体的・創造的、民主的・組織的に取り組んだ運動、そして③小地域を超えた広域、さらには全県的レベルにおいて展開された運動、 などの特色をもつものであった。要するに、子供民生運動は子どもたちによる平和運動であるとともに、自立・共生・自治運動であったといえよう。

2 子供民生活動の支援
〇子供民生活動(運動)を支援するために、徳島県社会福祉協議会は各種事業・活動を実施した。 資料⑤は、「昭和三十二年度の足あと」と題して、子供民生活動に関する徳島県社会福祉協議会事務局の事業報告を掲載している((51))。子供民生活動に対する年間の支援事業・活動の一端を知ることができる。

五月
児童図書寄贈運動に協力「若草文庫」が生れる。「若草文庫」は恵まれない施設のお友達に巡回文庫として喜ばれている。
六月二十五日
第一回指導校長会
八月七日
第二回指導校長会
九月二十六日
津田中学校子供民生委員会参観
十月十五日
子供民生委員活動実態調查
十二月六日
和歌山橋本市から民生委員代表八名来徳、板野東小学校を見学。
十二月二十日
第三回指導校長会。大会の開催や今後の方針について打合わせる。
一月、二月
新旧才末〔歳末〕子供民生活動実施。才末 〔歳末〕助けあい運動に協力。お餅一五、〇〇〇個、お金一二、六一八円県下四三福祉施設並びに恵まれない子供に贈る。
一月二十四日
岡山県玉野市民生委員など十一名津田中学校子供民生委員会を見学。
一月三十日
木谷主事、長生小学校を訪問、子供民生委員と座談会を持つ。
二月七日
子供民生新聞編集委員会。
三月一日
徳島子ども民生新聞発刊。
三月六、七日
全国地域子ども会連絡会議 (東京)に鳴門市里浦小学校細川教諭、田上PTA教育部長、半田小学校三好教諭以上三名と木谷主事参加。
三月十三日
県下社会福祉大会で第七回才末〔歳末〕助け合い運動協力校日野谷小学校子供民生委員会外二十三校に感謝状贈呈。

〇子供民生委員「指導校長会」が年3回開催され、また担当主事が学校に出向いて子供民生委員会を参観したり、活動の実態調査を行っていることなどが注目される。さらには、他県の民生委員の視察研修が行われたことにも留意しておきたい。

3 子供民生活動の評価
〇子供民生活動(運動)は、世界の平和と人類の幸福 (福祉)を創造するための、子どもたちの自主的活動であった。それはまた民主教育の実践活動であり、その過程でもあった。 1947 (昭和22) 年3月に公布・施行された教育基本法はその「前文」で「世界の平和と人類の福祉 (中略)の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と謳ったが、子供民生活動はその教育理念に基づくものであったといってよい。
〇子供民生活動を通じて子どもたちはどのように変容したか。子どもたちの知識や思考、興味・関心や意欲、態度、行動などがどう変わったか。こうした子供民生活動の教育的効果 (成果) について、資料① は子供民生活 動に熱心な小学校の報告を載せている((52))。

名西郡阿川小学校 (幸田正惠校長)
一、自治活動が旺盛になり子供の社会性が昂まってきたこと。
二、五日制の土日活動が計画的になった。
三、学習や出席状況が目に見えて向上された。
四、子供らに連帯責任感が盛〔ん〕になった。
五、 通学中や家庭での悪戯や危険が著しく減少してきた。従って家庭から感謝されている。
六、社会奉仕の気持ちが強くなった。
七、学校と地方〔地域〕との連絡が迅速で確実になった。
八、要保護家庭の発見に便利になった。
九、長欠児童がなくなった。

阿波郡柿原小学校 (佐藤岩雄校長)
一、子供の喧嘩が減って泣いている子供が非常に減少したこと。
二、通学中や家庭に居る時お宮やお社にいたづ〔ず〕ら書きをしていた子供が方々の落書きを消すようになった。
三、同和教育と銘打った教育時代以上に子供たちの間で同和の効果があがるようになった。
四、学習態度がよくなり、出席率も非常に改善され全体的に学力が充実してきた。
五、困っているお友達などに対して真剣に同情して何かしてあげねばというやさしい気持が昂まってきた。
六、先生や父兄などのいうことを真面目に素直に実行するようになった。

那賀郡橘小学校 (太田健次郎校長)
一、道路で野球をしなくなった。
二、自動車の後にすがる子供がなくなった。
三、作物を荒す子供がなくなった。
四、買い食いする子〔供〕がなくなった。
五、夜遊びする子供がなくなった。
六、勝負事をしなくなった。
七、映画や芝居に行く子供が非常に減った。
八、部落毎に善行をきそうようになった。

〇要するに、子供民生活動を通して子どもたちの生活や学習に関する意識 や態度が変容し、連帯意識や責任感の育成・高揚が図られ、自立的・自治的な生活態度・行動がとれるようになった、というのである。そして、資料①は、子供民生活動が「子供たちの新しい教育に投げかけた効果は県内各地の教育者によって立証されている((53))」とした。 しかし、 それはやや狭隘な評価であったといわざるを得ない。以上の諸点は、活動の効果 (成果) に関する評価であり、しかも教師による子どもの評価であった。
〇子供民生活動についての評価実践は、子供民生活動を積み重ね、点検・ 修正や発展・向上を図るための有効な手段となり、活動の自主化や構造化を促進するためにも不可避であった。しかし、資料①②③ には、子供民生活動のための条件整備や活動の内容や方法・形態などに関する評価の記述はない。また、子どもたち自身が自らの活動の修正や改善、あるいは方向づけを行うための自己評価や相互評価、教師や大人の民生委員などの指導者や支援者がその指導・支援活動をより効果的なものにするための評価、などについての記述も見当たらない。その点において、子供民生活動の評価実践は子供民生会や学校子供民生委員会、あるいは県子供民生委員大会などで行われていたであろうが、そこでの評価活動は必ずしも多面的・多角的・総合的なものであったとはいえないであろう。そこから、教育活動としての子供民生活動は、一面において体験活動至上主義に陥りがちで、いわゆる「はいまわる経験主義」のそしりをまぬがれないものでもあったといえようか。

Ⅳ 子供民生活動の消長と福祉・教育実践

〇平岡は、「県下各小・中学校に普及し中央及び全国的に認められつつあった子供民生委員も私が退職して福祉大学出の後任者が就任したが数年にして元も子もなく、亡くしてしまった((54))」という。子供民生委員が亡くなったことについては、後任者のあり様にも影響を及ぼしたであろう時代状況に注目すべきである。戦後混乱期の歴史的・社会的状況のもとで生み出された子供民生活動は、その歴史的。社会的状況の展開を基盤として、消長の過程を辿ったのである。こうした視点から整理し考察する。

1 子供民生活動の消長
〇子供民生活動がそのトップを切って産声をあげたのは、1946 (昭和21)年7月、三好郡西祖谷山村の西岡小学校においてであった。平岡は「『子供民生委員』の誕生」 は 1946 (昭和21)年12月であるとするが((55))、その5カ月前のことであった。西祖谷山村では、西岡小学校教頭・大西延明の指導によって1953(昭和28)年8月に「西岡青年民生委員会」が結成され、子どもと大人の中間にあって青年らしい活動が展開された。翌1954(昭和29)年には村内の全小・中学校(小学校6校、中学校1校)に子供民生委員が揃い、村ぐるみの子供民生活動が展開された。 この点について『西祖谷山村史』(徳島県三好郡西祖谷山村発行)は次のように記している((56))。

西岡小学校
(4)その他
⑱昭和二十八年六月、西岡小学校教頭大西延明の補〔指〕導によって西岡青年民生委員会が組織せられ、次いで同年八月、児童生徒もこれにならって西岡こども民生委員会を組織した。
⑳昭和三十二年三月、大西延明主催のもとに「子供民生の華」という冊子を刊行してこれを村内各校に配布した。
(6)教育状況
②社会教育
イ、民生委員会
1、子供民生委員会
徳島県子供民生委員会のトップを切り、昭和二十一年に初〔産〕声を挙〔上〕げて生まれてから十周年に及び、その間多数の好事績を残し、度々表彰状、感謝状を授与されている。
2、青年民生委員会
昭和二十八年八月に結成されて子供民生委員会の指導または活動に協力する傍ら、地域社会の主体となっている。
初代会長 古泉清富、 二代笹本博章、 三代平山宜雄

〇また、平岡は、資料③の「はしがき」で、1956、57(昭和31、32)年当時の子供民生委員の実態について次のように述べている((57))。子供民生委員の動向を知ることができる。

〇子供民生委員も一進一退というよりも、アメリカ兵が全部引きあげてからは、その応援もなくなったせいか一時子供民生委員の活動も引き潮になり、県外に方々出来ていた子供民生委員の影も、その数を減じて行くしまつで、私も手の打ちようがなく、県内でも学校数が相当減少するのが見られました。所謂、子供民生委員もけん怠期に入ったというわけでした。(中略)
〇それがたまたま今日の状態に向ったのは、子供民生委員を学校経営の一環としての行き方に力を入れ各郡市の小中学校長会の中に指導校長を委嘱して、この先生の手で学校教育に民生活動を採り入れるあっせん役を願ったことと、民生委員を地域の指導者にお願いしたようなことが落ち目の子供民生活動に方向転換を与えた動機となることが出来たのでした。
〇こうして県下の小中学校をほとんど傘下に納めその数も一万になることが出来たのであります。

〇子供民生活動は、1952 (昭和27)年4月の対日平和条約の発効によって日本の独立が回復し、占領軍(軍政部厚生課)の協力・支援がなくなると「引き潮」になり、「けん怠期」に入った。そこで、子供民生活動の組織的展開や支援体制の整備などを図った。 その結果、 1956、57(昭和31、32)年頃には全県的な活動展開をみることになった、と平岡はいうのである。その後、1960(昭和35)年前後以降、高度経済成長政策が推進されるなかで子どもを取り巻く生活環境や福祉・教育状況が激変し、子供民生活動は衰退の過程をたどることになった。そして、1960年代後半(昭和40年代)になると子供民生活動は次々とその姿を消していった。西岡小学校では、1968(昭和43)年度の『学校要覧』から「子ども民生委員」に関する記載がなくなっている。

2 子供民生活動消長の背景と要因
〇子供民生活動の消長の背景には、 1955(昭和30)年から1973 (昭和48)年にかけての経済の高度成長による急激な社会経済変動があった。高度経済成長は、子どもの生活と社会を大きく変質させ、その諸側面において多種多様な歪みを生み出した。例えば、1960年代を迎えると、子どもの生活や発達に関して 「三無主義」(無気力、無関心、無責任) や 「不器用」「不均衡」などが指摘されるようになった。高度経済成長はまた、農村的な性格を維持してきた地域社会を都市的社会へと変貌させ、住民の地域帰属意識の希薄化や連帯感の喪失などをもたらした。こうしたことが徳島においてどれほどであったかは定かではないが、子どもの生活や発達の歪みが子ども自身の子供民生活動への関心や参加を少なくすることになり、地域共同体の崩壊が地域住民の子供民生活動への協力や支援を弱くしたであろうことは推察に難くない。
〇こうした動きを政府の報告でみると、例えば文部省が、1962(昭和37)年11月、第1回の教育白書『日本の成長と教育』を刊行した。それは、タイトルからも分かるように経済成長政策との関わりで教育のあり方をとらえようとしたものであり、経済の発展に貢献する「能力主義」の考え方が登場した。白書は、「将来の経済発展のためには、現在の諸資源を開発するための投資が必要であって、その資源のひとつとしての人的能力を開発するために、教育もまた一つの重要な投資部門を形成するとみることができる。」「生産の増加において『人的能力』 の効果が大きく評価されるならば、人間の能力の高度化が積極的に意図されるべきことは当然である。このための主役を果たすものこそ教育にほかならない((58))。」と述べた。 以後、わが国では、産学協同と能力主義の原理を中心にすえた経済界主導の教育政策が展開されることになり、その過程で学校教育現場からは多くの矛盾が吹き出すことになった。
〇また、1963 (昭和38)年5月には、厚生省が児童福祉法施行15周年記念として『児童福祉白書」を刊行した。そこでは、経済成長の目標とするところは、もちろん人間の福祉を増進し向上させるところにあるのであるが実際にはそれが逆の作用を結果し、そのことがむしろ児童の福祉を阻害しつつある(中略)。最近における児童の非行事犯、情緒障害や神経症、自殺その他による死傷の激増、婦人労働の進出傾向に伴う保育努力の欠如、 母性愛の喪失、年間170万~180万件と推計される人工妊娠中絶、精薄児、心身障害児や奇型児の増加現象などからみて、わが国の児童は、いまや天国は愚〔疎〕か危機的段階におかれている((59))」と認識された。
〇以上を大胆に要約すると、子供民生活動は、戦後初期の絶対的貧困状況のなかで、しかも占領軍(軍政部厚生課)の後ろ盾を得て促進された。また、平岡自身の取り組みは必ずしも組織的ではなく、一面では独善的でさえあった。それゆえに、子供民生活動は、その後の「世界の奇跡」といわれた高度経済成長や、それによる社会生活環境や福祉・教育状況の激変という時代状況に制度的・組織的に対応することができなかった。こうしたことが子供民生活動消長の背景・要因であるといえよう。
〇子どもの生活や社会、福祉や教育をめぐる以上の状況を背景として、子供民生活動の消長に少なからぬ影響を与えたものに地域活動としての子ども会活動と学校教育における初期社会科教育実践があった。以下、この点に限って言及する。

1 子供民生活動と子ども会活動
〇戦後の子ども会活動はまず、1945(昭和20)年9月の文部次官通達「青少年団体ノ設置並ニ育成ニ関スル件」や1946(昭和21)年10月の文部省社会教育局長通牒 「『児童愛護班』結成活動に関する件」などによってその促進が図られた。 前者は、従来の「官製的」 「軍国主義的」色彩を一掃した「郷土的団体」としての青少年団体 (青年団体、女子青年団体、少年団体)の設置を呼びかけた。少年団体 (子ども会) は、国民学校在籍児童を年齢範囲とし、その設立に関しては「国民学校教職員ニ於テ主トシテ之ヲ斡旋シ適宜有識者、 優秀ナル少年ト協議スルコト」とされた。 後者は、地方長官と師範学校長・女子専門学校長に対して、師範学校や女子専門学校の生徒有志などに「児童愛護班」を結成させ、公園や盛り場、街頭などにおいて子どもの組織化と非行化防止、保護育成に努めるよう指示した((60))。こうした動きのなかで、「地域子ども会」づくりが進行し、農山村部の子ども会では夏季のラジオ体操や冬季の火災予防活動(夜回り)、都市部では紙芝居や人形劇、ゲームなどの児童文化活動などが行われるようになった((61))。
〇1955(昭和30)年6月には、文部次官通達「青少年団体活動の促進について」が出された。 これは、「青少年自身がそれぞれの校下又は地域を中心とする青少年の団体を自発的に結成して、団体共同生活を通じて友愛、相互扶助、協同奉仕、規律節制、郷土愛等の精神を体得するような運動が全国的に促進されることが必要である」とするものであった((62))。その結果、例えば1957(昭和32)年2月末現在、「子供会」6万6,580 団体、342万8,182 人、「児童指導班」7,234班、5万7,185人が組織化された。児童指導班は、1946(昭和21) 年11月、厚生省児童局長から結成促進が通達されたものである。
〇その後、1964(昭和39)年には、青少年非行が社会問題化するなかで、非行対策とも関わって民間レベルの全国組織である「全国子ども会連合会」が結成された((64))。
〇徳島県における子ども会活動は地域の子供民生会において展開され、いわゆる地域子ども会の結成は他県に比して出遅れていた。当初の子ども会は、①子供民生活動を中心とするもの、②PTAの校外補導を中核とするもの、③町内の有志や警察官などが育成するもの、 などとその性格も多種多様であり、混然とした状態であった((65))。1960(昭和35)年前後から、 国や全国社会福祉協議会などの施策と連動・協力して、徳島県においても地域子ども会の育成と組織化が急速に進んだ。具体的には、1962(昭和37)年度以降、県母子課と県教育委員会それに県社会福祉協議会の3者によって、地域子ども会推進特別地区の指定や地域子ども会指導者研修会の開催、県下子ども会指導者育成への講師派遣などの事業が展開された。1962(昭和37)年4月には、子ども会の指導者の自主的組織である「徳島県子ども会育成みつばちクラブ((66))」が結成され、地域子ども会の組織化と質的向上に大きな役割を果たした。当時、県下では約3,500の子ども会が結成され、小・中学生の約7割が子ども会に参加し、教師や親を中心にした地域ぐるみの住民の強い連帯意識に支えられた活動が展開された。そうした背景には、1951 (昭和26)年の第1次に次いで、1964(昭和39)年に第2次のピークを迎えた青少年非行の全国的な増大傾向があった。徳島県もその例外ではなかった。
〇その後、1967(昭和42)年12月に「徳島県子ども会指導者連絡協議会」、翌1968(昭和43)年5月に「徳島県子ども会連合会」が結成された((67))。
〇ところで、平岡は、戦後の多種多様な地域子ども組織とその活動に関して、資料③で次のように述べている((68))。

〇現代における子供会の活動は国際的に見ても、国内的に見ても実に枚挙にいとまなしという程、色々雑多なものがあります。そしてそれぞれの目標、使命に向って進んでいます。
〇然しそんな雨後の筍然たる雑多な子供会の活動もこれを要約すればただ「よい子をつくる」ということに終るのであります。然らば一体その「よい子」とはどんな子かということになりますが、これはもともと主観的な問題で見る人により、考え方によって異るでしょう。(中略)
〇然し、何といっても人間は共同生活をせねば活〔生〕きて行かれないいわゆる、社会的動物である以上この事実を否定してはどんな哲学も倫理もこの人間の社会では成り立たないはずであります。そうだとすれば共存共栄の根本であるすべての人間を幸福にするという〔民生〕活動、この運動を実行する子供こそ最もすぐれた子供であり、この子供以上のよい子があるとは考えられないのであります。
〇日本の戦争前の子供会の自主性のなかったことも、いわば子供会そのものが日本的なよさ日本の子供の生活にぴったりと来ぬ、ちぐはぐな借衣の哀しさにも大きな原因があったといえるでしょう。
〇ボーイスカウトや、ガールスカウトから少年赤十字にしても、外国でできたものは、何となく、日本の子供の生活にはぴったりと来ぬ処があるのではなかろうか。それらの子供会のすぐれた点はもちろん沢山あります。しかし (中略) それを全体的に見ると舶来品は結局、舶来品であってパン食は米食に代り難く、日本人は単なる滋養の点のみで食事をわりきることができぬのではないでしょうか。

〇こうした平岡の考えとは裏腹に、地域子ども組織の結成が進み、地域子ども会活動が伸展するなかで、子供民生会や子供民生活動はその動きに飲み込まれ、一体化していった。 それを促進させたものに「みつばちクラブ」による「みつばち運動」の展開があった。それは、「子ども会の理想像を追求し、永久性のある子ども会の育成助成と、子どもの幸せを願う明るい社会実現に努めるために、志を同じくする青年やおとなたちが、仲間つ 〔づ〕 くりをすすめていく運動((69))」であった。運動は、徳島県社会福祉協議会主事であった木谷宜弘によって提唱され、組織的に展開された。
〇また、1960年代後半以降になると、学歴偏重の社会的風潮や受験競争の激化、知識重視の詰め込み型の教育の促進などが図られるなかで、子どもたちの現実生活についての認識が曖昧なものになっていった。とともに、子どもたちは地域から疎遠になり、地域における子ども社会が崩壊し、地域活動(子供民生活動)も奪われていった。

2 子供民生活動と初期社会科教育実践
〇周知の通り、新しい教科としての「社会科」は、1947 (昭和22)年3 月に発行された 『学習指導要領 一般編 (試案)』によって教科の名称と授業時間数が示され、同年5月に公布された学校教育法施行規則に基づいて教科として成立した。 授業は同年9月、2学期から実施された。同年5月に発行された1947(昭和22)年度版の『学習指導要領 社会科編I(試 案)』によると、「今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成することである。そして、そのために青少年の社会的経験を、今までよりも、もっと豊かにもっと深いものに発展させて行こうとすることがたいせつなのである」。従って 「その学習は青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない」とされた((70))。
〇「初期社会科」とは、昭和20年代の社会科をいうが、1951 (昭和26)年7月の『小学校学習指導要領 社会科編(試案)』の発行をもって「社会科は教科論的にも、学習方法論的にも、一つの完成形態に到達したとみることができる」。しかも、 初期社会科教育実践は、1951(昭和26)年の第1次社会科学習指導要領改訂を境に、前後に画期することができる、といわれる。前期は、地域や子どもの実情に即した 「独自のカリキュラムを開発することに、 教師の熱意が傾けられた時期」であり、 また 「生活学習 (児童が生活上の問題を主体的に調べて、社会生活を理解する学習) が、社会科の学習方法とされていた時期」でもあった。後期は、「前期のようなカリキュラム開発はあまり行われず、社会科の学習指導法を綿密に研究することに教師の熱意が注がれ」、「社会科における問題解決学習の実践研究が盛んに行われ」た時期であった((71))。
〇徳島県における初期社会科教育実践は、他県の先進的な取り組みを参考にし、また社会科教育に関する教育学者などの指導を受けながら、全国的には後進的ともいえる状況下で展開された。長井明福によると徳島県における初期社会科教育の展開過程は4つの時期に区分できる。第1期は1947(昭和22)年9月から1948(昭和23)年の「模索期」で、「社会科教育に対する誤解も含みながら、 実践といっても、まさに試行錯誤の状態であった」。第2期は1949(昭和24)年から1950(昭和25)年の「カリキュ ラム作成期」で、「全国的なカリキュラム構成のブーム的な動き」のなかでカリキュラム作成が研究の中心になっていた。第3期は1951 (昭和26)年から1952 (昭和27)年の「前進期」で、それまでの「指定研究的なもの」から、教師自らが積極的・主体的に実践・研究に取り組み、「1951 (昭和26)年1月に徳島県小学校社会科教育同好会を結成し、実践・研究の内実をつくり出して」 いった。 第4期は1953(昭和28)年から1955(昭和30)年の「反省期」で、「『はいまわる社会科』 『学力の低下』『道徳性の欠落』 といった社会科教育に対する批判が累積され、 社会科教育を実践・ 研究している教師にも、改めて社会科教育を考え直す」ことが求められた((72))。
〇また、長井は、徳島県における初期社会科教育の実態から、諸学校の社会科教育実践を次の3類型に分類している。 第1類型―コア・カリキュラム型、第2類型―教科カリキュラム型、第3類型―地域教育型、がそれである((73))。そのうち、第3類型―地域教育型については、その代表事例として徳島市佐古小学校のプラン・実践を紹介し、分析・考察する。 そして長井は、その結果を次のように「佐古プランの特徴」としてまとめている((74))。

①コミュニティ・スクール理論に裏付けされた「全町学園」という佐古小学校独自の教育理念によってプランが作成されている。その教育理念とは、教育を社会改造の一環としてとらえて、単に学校教育という範疇で考えておらず、子供を通して社会を改造していこうということである。
②カリキュラムの形態としては、理科と社会科との中心学習をコアとしたコア・カリキュラムになっている。つまり、社会科を1つの教科としてだけて〔で〕とらえておらず、それを超えた考え方に立脚している。
③カリキュラム構成についても、教師集団によるだけでなく、広く地域社会の住民が参加していると言える。
④文部省の教科という枠をあまり意識しておらず、それよりもカリキュラムの目標・内容・方法それぞれに地域が深くかかわりをもっている。
⑤実践では、児童の興味関心から出発し、何々がしたいという欲求(問題意識)を実現させていくという過程をふまえている。常に、児童自身の意識の連続を図りながら学習が展開されている。
⑥学習問題は、児童の身近な地域の現実生活の中から児童が解決でき得るものをとりあげている。また小さな問題解決の輪を展開させながら学習が進んでいる。
⑦経験を重視した学習活動を多く用いている。
⑧地域社会に開かれた学校教育の中で、総合的に社会科が実践されていた。
⑨地域社会におけるさまざまな生活の問題を具体的に解決していくことによって、社会改造のための知識や技能・態度を育成していこうとしている。つまり、方法としての生活学習という性格をもっている。

〇以上からわかるように、 佐古小学校での取り組みは、地域に根ざした、地域ぐるみの教育実践であり、地域の現実生活のさまざまな問題を具体的に解決し、地域社会の改善・創造を図ろうとする実践的教育であった。そこには、子供民生活動の理念や実践内容・方法と相通じる点が数多く見いだされる。また、佐古小学校では、社会科教育の計画・実践のための組織として、公民館部とPTA部という2つの組織を構成・運営し、下部組織には庶務・会計・公報とともに修養・厚生・事業・保健・社会・図書・青年・科学それに「民生」の各部委員会が設けられていた((75))。これらから、佐古小学校における社会科教育実践には子供民生活動が多かれ少なかれ取り込まれていたであろうことは推察に難くない。長井によると、「佐古プラン」 に代表される地域教育型の社会科教育実践は「学校数としては、極めて少数ではあるが、注目する実践が多い((76))」。いずれにしろ、徳島県における初期社会科教育実践は、地域教育型の実践を中心に、子供民生活動との関わりをさまざまな形でもちながら展開されていたといえよう。
〇周知の通り、初期社会科教育は1955(昭和30)年12月 (小学校、高等学校)と翌年2月 (中学校)に改訂された『学習指導要領 社会科編』によって終焉となる。徳島県における初期社会科教育実践も、全国的動向と軌を一にして、政治的右傾化とその教育現場への影響を背景に、また「はいまわる経験主義」に代表される初期社会科教育批判などを受けて学習方法論の転換が図られることになった。すなわち、1947(昭和22)年発行の学習指導要領に基づく「生活学習」から1951(昭和26)年の学習指導要領の改訂に基づく「問題解決学習((77))」へと転換し、さらに1955(昭和30)年と1958(昭和33)年の学習指導要領の改訂によって社会科の学習方法は「系統学習」へと転換した。とりわけ昭和30年代以降の社会科は、それまでの「生活主義・総合主義の社会科から、系統主義・分野別に分化された社会科に変質した((78))」。問題解決学習から系統学習への転換は、初期社会科教育にとってはまさに「挫折((79))」 であり、それによって社会科教育は子供民生活動との関わりをなくしていった、といえよう。
〇また、1958(昭和33)年の学習指導要領の改訂から、その提示方法が参考基準としての 「試案」から法的拘束力を有する「告示」に変わり、教師(学校現場) による自主的な教育内容編成の活動が規制されることになった。それは、系統学習の全国的・画一的推進を図ろうとするものであり、学校教育における子供民生活動を制限し、衰退させることになった、といえよう。

おわりに
―子供民生活動と福祉教育の課題―

〇以上、平岡国市と子供民生活動に関する原資料の紹介と整理、そして若干の分析・考察を行った。子供民生活動 (運動) の取り組みは、福祉教育の今日的意義を包含しているとともに、今日の福祉教育実践や研究に多くの課題を提起しているといってよい。そのうちの主要なものについて述べる。

1 「生きる力」「社会力」の育成と福祉教育実践
〇子供民生活動では、福祉コミュニティづくりをめざして、地域に根ざした自主的・主体的な地域活動が重視された。また、地域・地元の民生委員や学校の教師などの大人と出会い、交わる機会や場が準備され、大人によって支えられていた。こうしたことから、子供民生活動は、子どもたちの、今日いわれるところの「生きる力」 (文部科学省) や 「社会力」(門脇厚司) を育てることにつながる実践であったといってよい。
〇文部科学省がいう「生きる力」は、「自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決するための資質や能力」などの「確かな学力」と「他人を思いやる心や感動する心」などの「豊かな人間性」、それに「たくましく生きる」ための「健康や体力」 によって構成される((80))。
〇門脇厚司によると、社会力とは「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」、すなわち「人と人がつながる力」「社会を作っていく力((81))」である。その社会力の原基(おおもと)は他者への関心と愛着と信頼感であり、それは多様な他者(とりわけ大人たち)との相互行為の繰り返しによって育まれる、とする。また、門脇にあっては、社会力は「生きる力の核」ともいえる((82))。
〇今日の福祉教育実践では相変わらず、高齢や障害の疑似体験活動、高齢者や障害者などとの訪問交流活動などにとどまりがちである。しかも、訪問・交流活動に際しては、社会的弱者(時には弱者)への一方的な思いやり行動として位置づけられ、「大人」としての高齢者や障害者などとの相互行為という視点が欠落している場合が多い。また、高齢者や障害者などの「生活」理解の視点も弱い。生きる力や社会力を形成するための福祉教育実践のあり方が問われるところである。その際、生きる力とは、社会的存在としての自分を、他者との相互行為と豊かな人間性などのもとに主体的・自律的に築き上げていくための資質や能力のことをいう。従ってそれは、「自分を生きる力」と他者と「共に生きる力」によって構成される。
〇また、生きる力や社会力の形成は、学校教育においては一部の児童・生徒や「総合的な学習の時間」に限らず、すべての児童・生徒と全教科・全領域において取り組まれるべきである。しかもそれは、生涯にわたるものでもあり、生涯学習の一環として展開されるべきである。こうした視点からの福祉教育実践のあり方が問われよう。

2 福祉教育のネットワーク化と推進組織・機構
〇子供民生活動は、子供民生会をはじめ学校子供民生委員会や学校子供民生委員連合会、 子供民生委員連盟 (子供民生委員連合会) などの段階的に積み上げられた組織のもとに展開された。小地域ごとに設けられた子供民生会では、地元の民生委員・児童委員や青年団、 婦人会などの関係者、学校の教師などによって指導・支援が行われた。また、徳島県社会福祉協議会は、県の関係部局や教育委員会などと連携・協力して、子供民生活動を推進するための連絡・調整や指導・援助などを行った。こうした縦横のネッ トワークが豊かな子供民生活動の展開を可能にしたといえる。
〇地域に根ざした、豊かな福祉教育実践の展開を図るためには、ネットワー クの形成が必要かつ重要となることはいうまでもない。かつて全国社会福祉協議会は福祉教育推進のための「福祉教育連絡協議会」の設置の必要性を説いた((83))。しかし、その設置や組織化はいっこうに進んでいない。設置されている組織もその多くが単なる連絡調整の機能を果たしたり、行事的事業を実施するだけにとどまりがちである、といってよい。
〇福祉教育のネットワークは、 社会福祉に関する学習要求や学習必要の共有化や一般化のためのネットワークをはじめ、福祉教育の事業・活動の共有化や総合化、情報・資料のデータベース化やオンライン化、施設・設備や学習資料・用具の共有化や相互利用、学習者や指導者・支援者の共有化や相互受け入れなどのためのネットワーク、そしてこれらを内在化した地域の学校や社会福祉協議会、社会福祉施設、公民館、ボランティア・市民活動関係機関などのネットワーク、こうした構成要素・局面を総合的・重層的にもつものでなければならない。また、福祉教育が展開される家庭・学校・地域のいわばヨコのネットワークと、生涯学習の一環として推進されるためのいわばタテのネットワークの形成も肝要となる。
〇要するに、今後、地域を基盤にした総合的・統合的、体系的・組織的な福祉教育実践を展開するためには、単なる福祉教育「連絡」協議会ではなく、ネットワーク組織としての福祉教育推進組織・機構 (「福祉教育推進協議会」)の設置と組織化を図る必要がある。そこでは、福祉教育についての研究協議をはじめ、福祉教育推進計画の策定や実践プログラムの開発、学習・研修機会の提供、情報の収集・整理・提供、具体的実践の指導・援助・評価などが行われることが期待されよう。

3 福祉教育指導主事の設置と福祉教育アドバイザー・サポーター
〇子供民生活動の指導・助言は、学校(学校子供民生委員会)においては校長の下に担当教員によって行われた。郡市レベルでは、小・中学校長会から委嘱された指導校長が総合的指導と連絡・調整に当たった。子供民生活動が組織的・計画的に展開され、全県的に普及した要因のひとつはここにあったといってよい。
〇既述の通り、今日の福祉教育が全国的に制度化されるのは、国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」が始まる1977(昭和52)年度である。それに先立って、厚生省は、1977(昭和52)年2月、社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について (要望)」を提出した。これは、社会福祉の世界から提唱された福祉教育のより一層の推進を図るために、教育行政の主体的・積極的な取り組みを要望するものであった。そこでは、「小・中学校における福祉教育の改善に当たり考慮すべき事項」のうちの「制度的事項」のひとつとして、「小・中学校における福祉教育を充実強化するため、教育委員会に社会福祉指導主事 (仮称) を置き、管下の学校の指導を担当させること」が要望された。
〇2002 (平成14)年度から小・中学校に「総合的な学習の時間」が設けられ(高等学校は2003 (平成15)年度から学年進行で実施)、翌 2003(平成15)年度には高等学校に専門教育に関する教科「福祉」が新設された。 2004(平成16)年8月現在、福祉に関する学科等を設置する高等学校は約600 校、福祉を学ぶ高校生は約3万5,000人を数えている (文部科学省 調べ)。こうした学校における福祉教育をめぐる動向を考えると、厚生省が要望した福祉教育担当の指導主事に当たる人を都道府県や市町村レベルに配属することが、いま改めて、しかも強く求められよう。今日、社会福祉協議会のなかには元教員を配置して、 福祉教育やボランティアについての指導・援助に当たらせているところがある。しかし、 それは質・量ともに多くの問題を抱えているといわざるを得ない。福祉教育担当の指導主事をはじめ、福祉教育アドバイザーやサポーターなどによる指導・援助体制の整備が急務とされる。

4 福祉情報の提供と住民啓発・教育
〇子供民生活動(運動)が全県的に拡大・普及した要因のひとつに、「徳島こども民生新聞」 の発行による情報提供や各地の活動実例の紹介などがあった。また、子供民生委員の指導者用手引書や子ども向け参考書の刊行も一定の役割を果した、といってよい。しかし、子どもや学校教員に対する情報提供や研修・学習、啓発に比して、子どもの地域活動としての子供民生活動を小地域で支えた地域の民生委員や関係者、一般住民などに対する働きかけは、必ずしも十分ではなかった。それが子供民生活動の消長に大きく影響したといえよう。
〇今日、高度情報化が急激に進展するなかで、情報・啓発活動は人びとの社会生活を豊かにし、便利なものにしている。しかし、その一方でさまざまな歪みや問題も生じている。 例えば、福祉サービスを必要とするあるいは利用する人びとにとっては、必ずしも必要かつ有用な福祉情報が的確かつ円滑に提供されているとはいえない。福祉サービス利用者の自己選択・自己決定・自己責任が求められながら、福祉情報を主体的・積極的に獲得・選択・利用する能力も十分に習得されているわけではない。また、福祉のまちづくりをめざして、 住民自らが地域の社会福祉問題を発見し、主体的に判断し、その問題解決を図ろうとする意識・意欲も稀薄であり、問題解決のための社会資源や解決方法などについての情報も十分にもち得ていない。
〇福祉のまちづくりの主体形成や住民参画を動機づけ、方向づけるためには、福祉情報が必要かつ重要となる。その際、福祉情報は福祉教育なくしては生きない。また、福祉教育は福祉情報なくしては成り立たない。こうした視点に立った福祉教育実践の展開が必要とされる。

5 集団的実践主体の形成と福祉教育運動
〇子供民生委員は、地元での日常的な民生(福祉) 活動にとどまらず、小地域を超えた広域や全県的レベルで、子供平和記念塔設置の平和運動をはじめ、児童福祉施設の設置や子どもの遊び場づくり、欠食児童問題の解決、それに歳末助け合いなどの自立・共生・自治運動を展開した。それは、平和な社会と福祉社会づくりをめざした、平和と福祉を築く人間を育成するための教育運動でもあった。すなわち、子供民生運動は、平和(教育)運 動と福祉(教育) 運動の性格を併せもっていた、といえよう。
〇福祉教育は、人権思想を基盤に、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む住民主体形成を図るための教育活動である。いうまでもなく、福祉文化の創造や福祉のまちづくりは、集団的・組織的かつ運動としての取り組みによって可能となる。そこから、多様で異質な属性をもつ個々の住民 (個人的実践主体)を、いかにして集団的実践主体や運動主体へと形成・発展させるかが問われることになる。
〇今日の福祉教育実践や研究において、こうした運動(論)的視点は必ずしも明確ではない。 福祉教育運動は、暮らしと育ちの拠点としての地域を基盤に、地域社会との関連で組織化され、子どもや大人、高齢者や障害者などの地域住民によって自主的・主体的に展開される、手づくりの運動でなければならない。しかも、それは、地域の福祉力や教育力、共生力などの形成や発展・強化を通して、福祉文化の地域・社会づくりをめざす。また、福祉教育運動は、平和(教育)運動などの地域における各種の運動との交流や連帯を視野に入れることが必要かつ重要となる。いずれにしろ、福祉教育実践における福祉教育運動の創出・展開と、 福祉教育研究における福祉教育運動論の形成が求められる。

6 子ども会等の地域組織活動と福祉教育実践
〇子供民生活動の消長に大きな影響を与えたものに子ども会があった。1960年代以降になると、子供民生会や子供民生活動は地域子ども会の活動に包摂され、一体化していった。
〇今日、子どもの成長発達や生活、社会をめぐってその歪みが指摘され、校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊などの学校病理現象はいまだ収まっていない。それは、社会的存在としての自分を、豊かな人間性のもとに主体的・自律的に築き上げていくための資質や能力 (「生きる力」)が現代の子どもに育っていないことによるものである。こうしたなかで、1996 (平成8)年7月に第15期中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に「生きる力」と「ゆとり」を―」が出され、子どもたちの「生きる力」を育むための体験活動の必要性や重要性が指摘された。それ以降、その答申を受けて教育改革の推進とその具体的実践化が図られている。
〇いま改めて、子どもの健全育成を図るための地域活動組織としての子ども会の積極的・主体的な活動が希求され、その社会的役割の重要性が指摘されている。全国子ども会連合会の調査によると、2003 (平成15)年10 月現在、全国の子ども会の組織数は12万2,596 、会員数 (幼児・小学生・中学生・高校生)は441万5,880人を数えている。会員の約8割は小学生である。全国子ども会連合会では、「地域の子どもは、地域ではぐくむ」「子どもの手による子ども会」をスローガンに、子ども会活動を学校外教育活動として位置づけ、子どもたちが企画・実践する地域体験活動の推進を図っている。なかでも地域清掃・美化や挨拶運動などの日常生活活動や、地域の生活課題や地域行事に取り組むまちづくり運動の展開などが注目される。福祉教育との連携・共働が期待されるとともに、その実践のあり方が問われるところである。

7 教育福祉の問題状況と福祉教育実践・研究
〇子供民生委員は、当時の時代状況のなかで、貧困ゆえに就学 (修学)の困難や生活上の諸問題を抱える子どもたちに対する支援活動を行った。そのひとつに長欠児や欠食児童などに対するものがあり、それは学校をめぐる教育福祉の問題状況に対する取り組みであったといえる。
〇最近の学校教育における問題として、1970年代からの「校内暴力」をはじめ、1980年代後半からクローズアップされてきた「いじめ」、1990年 代にとりわけ顕著になった「不登校」、そして1990年代後半からの「学級崩壊」など、いわゆる学校病理現象が広がっている。また、子どもに「無気力化」や「非社会化」が進行している。さらに、1990年代のバブル崩壊から続く長期不況のもとで、現代的貧困による修学(就学)困難な子どもが増えている。これらは、社会生活上の困難や問題を抱える子どもの教育・学習(権)保障に関わる問題、すなわち教育福祉問題としてその具体的解決に向けた制度的・実践的対応が求められる。そして、それは、ユネスコ(UNESCO)の「学習権宣言」(1985(昭和60) 年3月) にいう「学習権」の保障に通じることになる。
〇いずれにしろ、学校をめぐる子どもたちの今日的な問題状況は、教育福祉問題としての解明・理解とそれを解決するための具体的方策の検討を要請している。その際、子どもの生存と発達、生活と社会を統合的にとらえるとともに、教育と福祉、教育福祉と福祉教育のそれぞれのあり方と相互の関連性、そして両者の実践的統合について理論的および実践的に追究することが求められる((84))。

8 「市民」的資質の育成と「市民福祉教育」
〇子供民生活動は、子どもたちに民主主義の考え方や生活を身につけさせるための活動であった。すなわち、そのねらいは、小地域における子どもの日常の生活と社会を基盤に、自主的・主体的な民生(福祉)活動を通して「市民」的資質を育成することにあった、といってよい。それはまた、子供民生活動は民主的社会を担う人間を育成するための民主主義教育の実践であったといえるところでもある。
〇初期社会科の最終目標も民主的社会の担い手の育成にあった。1948(昭和23)年9月に出された『小学校社会科学習指導要領 補説』 は、「社会科の主要目標〔は〕、できるだけりっぱな公民〔市民〕的資質を発展させることであり」、その中味として子どもたちに「その住んでいる世界を理解させること」「社会的な目〔を開かせ〕、社会的な関心 〔をもたせること]」 「共同生活をするのに不可欠なさまざまな技能や習慣や態度〔を養うこと〕」をあげている((85))。ここに、子供民生活動が学校教育活動の一環として取り組まれ、初期社会科の授業に取り込まれたであろう根拠のひとつを見いだすことができる。
〇今日、「小さな政府」と有事に備えた「強い国家」の構築をめざして、「社会福祉の基礎構造改革」と「教育の構造改革」が推進されている。そうしたなかで、「市民」的教養としての社会福祉に関する科学的で実践的な知識・理解と社会福祉の増進に寄与する創造的で主体的な能力・態度を修得・育成するための福祉教育 (「市民福祉教育」) のあり方が問われている、といってよい。その際の市民とは、人間の尊厳と自由・平等という絶対的な価値のもとに、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想を体現した、福祉文化の創造主体や福祉のまちづくりの実践主体としての人間をいう こうした人間を育成するための福祉教育実践と研究がいま、歴史的・社会的に要請されている。


(1)木谷宜弘『ボランティアの風』筒井書房、2000年、218頁。
(2)木谷宜弘『前掲書』218~220頁。
(3)木谷宜弘・森依顕「子供民生委員制度―徳島県における福祉教育・ボランティア学習に関する歴史的研究―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会発表要旨集』日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会実行委員会、2000年、159〜166頁。
森依顕・木谷宜弘「平岡国市と子供民生活動─戦後初期における福祉教育実践の展開―」 (私家版) 2002年。
森依顕『子供を主人公にした民主主義教育の実践―平岡国市と子供民生活動に学ぶ―』 徳島文理大学家政学部、1997年。
(4)資料⑦、4頁。
(5)資料⑦、8頁。
(6)資料⑦、10頁。
(7)資料⑦、30~31頁。
(8)資料⑦、31頁。
(9)資料⑦、29頁。
(10)資料⑦、54頁。
(11)資料⑦、53頁。
(12)資料⑦、64~66頁。
(13)資料⑦、76頁。
(14)資料⑦、63頁。
(15)資料⑦、99~100頁。
(16)資料⑦、99頁。
(17)資料⑦、98頁。
(18)社会事業主事・主事補は、地方の社会課、後になって職業課、住宅課などに設置されたいわば社会事業行政の専門職であり、1925(大正14)年12月12 日付勅令第323号 「地方社会事業職員制」等をもって設けられた。1942(昭和17)年11月1日付勅令第768号「行政簡素化実施ノ為ニスル警視庁官制外九勅令中改正ノ件」の附則第3項をもって廃止された。詳しくは、藤田貴恵子・阪野貢「戦前社会事業教育に関する研究報告 (中間報告)」 「社会事業研究所年報』 第21号、日本社会事業大学社会事業研究所、1985年、75~123頁を参照されたい。
また、日本社会事業大学社会事業研究所発行の『戦前社会事業主事 (補) 名簿』 によると、平岡国市は、1937 (昭和12)年から1938 (昭和13)年にかけて東京府の社会事業主事補、1941 (昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて徳島県の社会事業主事にそれぞれ就いている。
(19)資料⑦、107頁。
(20)資料⑦、111頁。
(21)資料⑦、112頁。
(22)徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編 「支えあう明日へ―徳島県社会福祉協議会40年のあゆみ―』 徳島県社会福祉協議会、1992年、8頁。
(23)資料⑦、117頁。
(24)資料⑦、130頁。
(25)資料⑦、134頁。
(26)資料⑦、134~135頁
(27)資料⑦、135頁。
(28)資料⑦、133~134頁。
(29)平岡は、「子供民生委員相互間の連絡調整発展」を図るために 1957(昭和32)年7月に「徳島県子供民生委員連盟」を結成し、徳島県社会福祉協議会から独立させようと画策したが、失敗に終わった。それに関して平岡は次のように述べている。
「子供民生委員が社協の中で消えて、それから先きが行方不明になるのではなく、社協は独立する迄のお世話役であり、自主的な連盟の結成を見るまでのいわば産婆役であって、 子供が生れた後は連絡統制という社協本来の仕事に帰るべきで、この産婆役の感違〔勘違い〕をしたのが山口氏〔徳島県社会福祉協議会第2代会長 (1955 (昭和30)年7月~1964(昭和39)年3月)の山口一雄] で [ある。〕」「子供民生委員連盟の会長は子供で勤まるべきことではなく、(中略) 大人の適当な人が会長になってよいので 〔ある。]」 (資料③、157~159頁)。
(30)資料④、9頁。
(31)森依顕・木谷宜弘「前掲論文」9頁。
(32)資料④、「まえがき」。
(33)資料⑦、116頁。
(34)徳島県教育会編『徳島県教育沿革史 (続編)』徳島県教育会、1959年、954 頁。
(35)資料①、18頁。
(36)資料②、30~46頁。
子供民生委員の精神をあらわした「子供民生委員の歌」 (作詞・市橋友月、作曲・中山晋平、振付け・三橋都美子) が作られている (資料③、160頁)。
(37)資料③、47~48頁。
(38)資料①、19~20頁。
(39)資料①、18頁。
(40)資料③、58~59頁。
(41)資料③、67頁。
(42)資料③、68頁。
(43)資料③、94頁。
(44)資料③、92頁。
(45)資料①、48~56頁。
資料①ではさらに、「県子供民生委員全体を対象とする行事」として次の事業・活動が記されている (資料①、59頁)。
一、子供民生委員の郡市別研究協議会
二、子供民生委員県大会 (十一月三日)
三、県大会と同時に行う子供民生事業絵の展覧会
四、子供民生新聞の発行(約一万五千部)
五、校長さんに子供民生委員を知ってもらう会(認定講習利用)
六、子供民生事業の紙芝居と童話の発表
七、子供民生事業功労者の表彰
八、社会施設の慰問 等
(46)資料③、60~101頁。
(47)資料③、53~58頁。
徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編 『前掲書』 12頁。
(48)資料①、11頁。
(49)資料⑦ では、「当時三十八万六千円が県下の小、中学校の子供たち十六万人の献金であり工事は日和佐町に疎開されていた有名な彫刻家太田三郎先生の御指導によるものであった」 (137頁) と記されている。ここでは、『天皇陛下奉迎記』 (徳島県発行) によることにした。
(50)徳島県編 『天皇陛下奉迎記』徳島県、1951年、23頁。
「子供平和記念塔の歌」 (作詞・ 高井宏子〈和歌山大附属中二〉、 作曲・ 今川幹夫)が作られている (資料③、161頁)。
(51)資料⑤、15~16頁。
(52)資料①、29~31頁。
(53)資料①、31頁。
(54)資料⑦、134頁。
(55)資料⑦、136頁。
平岡は、資料③で、子供民生委員制度は「アメリカの残した制度であるとか、或はこれを初めて実践した三好郡西岡小学校の発案にかかるものであるなど、僅かに十年程の歳月しか閲しない明かなこの歴史を故意に誤らしめる宣伝をなしていたことで、社協会長として非人格も甚しい」(53頁)と、徳島県社会福祉協議会第2代会長山口一雄を痛烈に批判している。
(56)西祖谷山村史編纂委員会編『西祖谷山村史』徳島県三好郡西祖谷山村、1985年、619、622~623頁。
(57)資料③、「はしがき」。
(58)宮原誠・丸木政臣・伊ヶ崎暁生・ 藤岡貞彦『資料日本現代教育史』(3)、三省堂、 1979年、43、46頁。
(59)厚生省児童局編 『児童福祉白書』厚生問題研究会、1963年、2頁。
(60)石川謙(近代日本教育制度史料編纂会代表) 『近代日本教育制度史料』第 27 巻、講談社、1964年、405~408、434~437頁。
(61)白井愼・小木美代子・姥貝荘一編著『子どもの地域生活と社会教育」学文社、 1996年、189~192頁。
(62)宮原誠一・丸木政臣・伊ヶ崎暁生・藤岡貞彦『前掲書』(2)、1979年、577~578頁。
(63) 厚生省大臣官房企画室編『厚生白書』(昭和33年度版) 大蔵省印刷局、1958年、221頁。
(64)「子ども会の歴史」については中村拡三『子ども会の歴史と現状(解放教育教科書3)』明治図書、1978年、27~41頁参照。
(65)徳島県子ども会連合会編『青い未来』(徳島県子ども会連合会20周年記念誌) 徳島県子ども会連合会、1990年、12頁。
(66)徳島県社会福祉協議会編『みつばち運動と子ども会』 徳島県社会福祉協議会、1963年。本書には「みつばちの願い」と題して、次のような一文が記されている。
「春が来て、一度に咲きはじめた野花のように、地域子ども会が日ごとに増加している。でも、これらの地域子ども会が本当に実を結び、翌年ふたたび花を咲かせるには、はげしい風雨の洗礼を受けなければならない。全く、子ども会は理論も技術も確立していない未開拓地の荒野に咲いた花のよう。今必要なのは、こまめに花から花へ飛び歩いて一つずつ確実に実を結ばせてゆく働き蜂のような人達の存在だ(中略)。私たちは、すすんでこのみつばちとなり、仲間が集って蜂の巣を営み、よろこびと、かなしみを分ちあい、子ども達のしあわせと、宇宙をかけめぐる子どもの未来像を求めてはげましあっていきたい」。
徳島県子ども会連合会編 『前掲書』 は、「みつばち運動」について次のよう に概説している。
「『みつばち運動』とは、児童集団指導の技術を身につけた指導者が、花から花へ飛び移り、実を結ばしていく蜜蜂のように、子ども会から子ども会へかけ回り、永続する子ども会を育て、楽しい子どもの世界の実現をめざして努力するというもので、小地域で6人前後の同志がグループとなって、蜂の巣をつくり、それを基点として、運動を推進しようと意図したものでした」(14頁)。
(67)徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編『前掲書』51~57、235~236頁。
(68)資料③、2、43頁。
(69)徳島県社会福祉協議会編『前掲書』4頁。
(70)石川謙(近代日本教育制度史料編纂会代表)『前掲書』第29巻、1964年、458、467頁。
(71)平田嘉三・初期社会科実践史研究会編 『初期社会科実践史研究』冬至書房、1986年、 49~50頁。
小原友行『初期社会科授業論の展開』風間書房 1998年、参照。
(72)長井明福「徳島県における初期社会科教育実践史研究」(1991年度 鳴門教育大学大学院修士論文) 1992年、24~29頁。
(73)長井明福「前掲論文」31~37頁。
(74)長井明福「前掲論文」67頁。
(75)長井明福「前掲論文」61頁。
(76)長井明福「前掲論文」37頁。
(77)小原友行によると「問題解決」を方法原理とする初期社会科教育実践は次の4類型に分けられる。すなわち、①子どもの問題の実践的解決学習 ( 「生活学習」)、②子どもの問題の知的解決学習 (「生活問題解決学習」)、 ③社会の問題の実践的解決学習(「社会問題解決学習」)、④社会の問題の知的解決学習(「研究問題解決学習」) がそれである。 ①と②は自主的・自立的な個人の育成をめざし、③と④は社会の民主化に貢献する人間の育成をめざすものであった。また、①と③は市民的資質の育成、②と④は社会認識の形成にそれぞれ重点をおいていた (小原友行『前掲書」32~33頁)。
この類型に従えば、 社会科教育実践において子供民生活動は、①と②の問題解決学習を発展的あるいは統一的に実施・展開するものとして期待され、また実際に行われていたといえようか。その際、その教育実践は子供民生活動を通しての社会生活の理解と、子どもが直面している現実生活のなかの具体的問題を解決するための主体的・実践的な態度の育成にとどまりがちであり、必ずしも科学的な歴史・社会認識や系統的な知識に基づくものではなかったといえよう。そこに、社会科教育実践における子供民生活動や、子供民生活動そのものの問題や限界があったといえようか。
(78)長井明福「前掲論文」83頁。
(79)長井明福「前掲論文」84頁。
(80)文部科学省編『文部科学白書』(平成15年度) 国立印刷局、2004年、148頁。
(81)門脇厚司『子どもの社会力』岩波書店、1999年、61頁。
(82)門脇厚司『親と子の社会力』朝日新聞社、2003年、159~161、174頁。
(83)全国ボランティア活動振興センター編 『福祉教育連絡会資料集』全国社会福祉協議会、1990年。
(84)小川利夫・高橋正教編著『教育福祉論入門』光生館、2001 年、225〜244頁参照。
(85)石川謙 (近代日本教育制度史料編纂会代表)『前掲書』第29巻, 518~519 頁。

【初出】
『子供民生委員と市民福祉教育』中部学院大学、2005年4月、7~60頁。
本稿は、この論考を改題したものである。

【参考】
阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、13~65頁。

 


第5章
神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―制度的内在化による統治と地域変革への志向の相克―

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はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校                               発表題目
江陽中学校                     本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒句中学校                     社会福祉教育実施内容について
秦野中学校                     本校における社会福祉教育の実態について
池上中学校                 社会事業に関する学習指導について
栗田谷中学校            社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一中学校           我が校の実施状況について
鶴嶺中学校                     本校における社会福祉思想の普及について
富士見中学校                社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘高等学校           社会福祉事業に関する世論調査
津久井高等学校           社会福祉研究委員会の活動について
江南高等学校                社会福祉教育の実際 (公開授業)
山北高等学校                高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原高等学校           本校の活動状況について
翠嵐高等学校                社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校      本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿では、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質について検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。
〇この意味において、戦後初期福祉教育実践は、今日の地域共生社会や地域福祉計画、さらには住民主体のまちづくり――「まちづくりと市民福祉教育」へと連なる歴史的源流として再評価される必要があろう。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。

 


第3部

「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究の展開
―その現代的意義と展望―


第6章
「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相
―思想・実践・技法・認識のダイナミズム―

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はじめに

〇日本社会における「まちづくり」という営為は、高度経済成長がもたらした深刻な産業公害や都市問題、地域社会の崩壊などに対する異議申し立てとして、1960年代後半から70年代にかけて本格化した。かつての都市計画は、「中央」による画一的な国土開発(ハード・モノづくり)を主眼としていた。それに対し、平仮名で表記される「まちづくり」は、そこに暮らす「生活者」の視点から、人間らしい生活環境の回復をめざす運動として生み出された。
〇しかし、今日、まちづくりをめぐる状況は一層の複雑さを増している。少子高齢化の進展に伴う「限界集落」の頻出、2014年の「増田レポート」に端を発した「地方消滅」論の席捲、さらには格差社会の固定化による地域連帯の希薄化など、地域・社会は内側と外側の双方から崩壊の危機に直面している。こうしたなかで、まちづくりは単なる環境整備の域を超え、人口減少という所与の条件を受け入れつつ、いかにして住民の生活の質を充実させるかという「縮充」(山崎亮:2016年)への挑戦が叫ばれて久しい。
〇本稿が考察の対象とするのは、こうした半世紀に及ぶ「まちづくり」の底流に流れる「思想」と「方法」の系譜である。具体的には、1970年代に内発的発展論の「地域主義」を説いた経済学者・玉野井芳郎、「まちづくり」という言葉を一般に広めた、自治体プランニングの草分けである田村明、現代の「コミュニティデザイン」を牽引するコミュニティデザイナーの山崎亮、そして「地域学」のもつ構築を試みる社会学者・山下祐介、これら4人の言説を相互に交差・対比させる。
〇「まちづくり」という概念が多義的である理由は、それが「思想」(あるべき姿)であり、「実践」(変えるための活動)であり、同時に「認識」(現実をどう捉えるか)であるという、三位一体の性質をもつからに他ならない。
〇玉野井が提唱した「地域主義」は、市場経済的な「市民社会」を突き抜け、自然や生態系と共生する「新たな市民」の再生を説く、根源的な「思想」を提示した。一方、田村は、横浜市における行政改革を通じ、まちづくりを「市民の政府」による地域経営の実践へと結実させ、制度的・構造的な基盤を整備した。さらに、山崎は「コミュニティデザイン」という手法を用い、モノをつくらないデザイナーとして、人と人の関係性を編み直すプロセスを確立した。そして山下は、「地方消滅」という国家的言説の罠を暴き、足元の生活基盤を学び直す「地域学」を、中央集権に対する「抵抗」としての認識運動として位置づけたのである。
〇これら4人の言説は、時代背景こそ異なるものの、一貫して「住民」(与えられる存在)から「市民」(自律的に参加し自治を担う主体)への転換を要請している。この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の根幹である。
〇ひるがえって、これまでの「まちづくり」論は、都市計画論、コミュニティデザイン論、地域社会学など、それぞれの領域で個別に議論されがちであった。しかし、それらが内包する主体形成のプロセスを包括的に捉えた議論は必ずしも十分とはいえない。そこで本稿では、玉野井、田村、山崎、山下の言説を再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示することを目的とする。

Ⅰ 玉野井芳郎と「地域主義」の思想

〇1970年代は、日本社会にとって決定的な転換点であった。1955年から1973年まで続いた高度経済成長は国民生活に物質的な豊かさもたらしたが、その一方で、深刻な公害問題の発生、過疎・過密の激化、そして伝統的な地域コミュニティの解体などの「ひずみ」を引き起こした。また、経済合理性と中央集権的な資源配分が優先されるなかで、各地の「自然・歴史・風土」は収奪の対象となり、住民の地域に対する帰属意識は希薄化の一途を辿っていた。このような状況下で、経済学者・思想家である玉野井芳郎が提唱した「地域主義(regionalism)」は、単なる地方振興の策ではなく、近代西欧的な価値観や市場経済システムそのものに対する根源的な「知の組み替え」を迫るものであった。その思想の核心的な特徴は、次の諸点に見出される。

1 エコロジーと「生活づくり」
〇玉野井の地域主義において最も独創的な点は、経済システムの基盤に「エコロジー(生態学)」を据えたことにある。玉野井にあっては、「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟を導入することにひとしい」([2]60頁)のである。近代経済学が、自然環境を「外部経済」として系の外側に置いたのに対し、大気、水、土壌といった生態系こそが、人間の生存と生産を規定する不可欠な「コモンズ(共有財・共有圏)」である。
〇この視点に立てば、地域主義における「地域」とは、単なる行政区分としての空間ではなく、空間的な「地域性」と時間的な「季節性」によって特徴づけられる「人間の生活=生産の場所」([3]10頁)である。こうした地域主義は地域共同体の構築をめざすが、その本質的な課題は、市場原理に主導された「ものづくり」から、生命の再生産を優先する「生活づくり」への価値転換を図ることにある([4]9頁)。これらの認識は、現代の「サステナビリティ(持続可能性)」の議論を先取りする先見性を備えている。

2 「内発的地域主義」の理念
〇玉野井は、国が権力と資金によって地方を牽引しようとする「官製地域主義(上からの地域主義)」に対し、明確な限界を指摘した。中央からの画一的な資源投入は、むしろ地域の混乱と荒廃を招くというのである。これに対置されたのが「内発的地域主義(下からの地域主義)」である。
〇「内発的地域主義」は、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」([3]19頁)。ここでいう「経済的自立」とは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。土地、水、労働という生存の基本要素を地域単位での共同性と自立性として確保し、資本の論理(市場)による無制限な浸食を制御しようとするものである。また、「政治的・行政的自律」は住民自治の強調を意味し、「一体感」は地域というトータルな人間活動の場への能動的な帰属を意味している。

3 「開かれた共同体」と住民中心主義
〇玉野井は、地域主義の議論が陥りやすい「閉鎖的な共同体主義」への批判に対し、明確に「開かれた共同体」を掲げた。「わたしたちのまち」を代表する市町村は、「『下から上へ』の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきもの」([3]124頁)である。とはいえ、地域間の横の繋がりを重視するこのモデルは、中央を否定して無政府状態をつくりだすものではない。むしろ、自立した諸地域が中央を「あるべき姿へと復位させる」試みなのである([3]17頁)。
〇また玉野井は、自治体行政と住民の関係についても、「住民への行政参加」という主客転倒の論理を提示した([3]119頁)。これは、行政が設けた枠組みに住民が参加する「行政への住民参加」ではなく、住民の自律的な活動のなかに、行政が「資源」として介入していくという、徹底した住民中心主義の表明であった。

4 「新たな市民」の再生と社会変革
〇玉野井の思想がめざした地平は、単なる地域の存続ではなく、地域主義を通じた新たな人間像の構築であった。それは、「市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平に登場するであろう新たな『市民』(Bürger)の再生」である([1]ⅲ頁)。
〇近代の「市民」は、抽象的な権利と義務を背負う「国家の一員」として規定されがちであるが、玉野井のいう「市民」は、具体的な地域の風土に根ざし、そこで展開される生産と生活に責任をもつ「生活者」である。この「市民」は、非政治的な市民文化の勃興を担う主体であり、その市民が地域共同体を実践的に構築していく過程こそが、玉野井のいう社会変革の本質であった。

5 「地域分権」と「諸地域の時代」
〇玉野井にあっては、「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」と言い換えられなければならない。単数の「地方」は、常に「国」を頂点としたピラミッド構造における末端という上下関係を示唆する。これに対し、複数の個性として語られる「地域」は、それぞれの歴史と伝統を誇る自律した主体の集合体である([3]14~15頁)。
〇この「諸地域の時代」において、玉野井が実効性を期待したのが自治体独自の「憲章」や「条例」の制定であった。たとえ形式上は法律の下位規範であっても、「何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よきしきたり』をうちたてることを意味する」。これが「自治体の自己革新」である、と玉野井は説く([3]38頁)。これは2000年代以降に広がる「自治基本条例」の制定運動を20年以上先取りした、極めて先駆的な制度論であった。

〇以上、玉野井が説いた「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動に対し、強力な理論的・思想的バックボーンを提供した。一方で、その議論が多分に「規範的(べき論)」であったため、後の研究者からは実証的分析の欠如や方法論の不明確さを指摘されることにもなった。しかし、玉野井が残した「ものづくりから生活づくりへ」という転換、そして「地域に生きる生活者」を主体とする共同体構築の視座は、現代のまちづくり論において色褪せることはない。以下で詳述する田村明の実践、あるいは山崎亮のコミュニティデザイン、山下祐介の地域学という系譜は、玉野井が遺したこの地域主義の思想を、いかにして具体的な「社会の仕組み」へと結実させるか、その過程として捉えることができよう。

Ⅱ 田村明と「まちづくり」の実践

〇玉野井が地域主義を「思想」として打ち立てた同時期に、行政の内部から都市のあり方を根本的に変革しようとした人物がいた。それが田村である。田村は、建築家や行政官という枠組みを超え、自らを「都市プランナー」「自治体プランナー」と称した。田村が1960年代後半から横浜市で展開した実践は、それまでの「都市計画」という官僚主導のハードウェア整備に対し、住民の主体的関与を前提とした「まちづくり」という平仮名の概念を社会に定着させる決定的な役割を果たした。田村にとって「まちづくり」とは、単なる建設行政ではない。それは「一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである」。その「共同の場」こそが「まち」である([5]52~53頁)。
〇ここで、近代日本を規定してきた「都市計画」と、田村らが主唱した「まちづくり」の概念的相違を一般論的に整理しておくことにする。従来の「都市計画」は、国家や行政が主導し、法律(都市計画法等)に基づき、インフラ整備や用途地域設定を行うハードウェアのコントロールを主眼としていた。そこでは住民は計画の客体であり、開発による利便性の享受者、あるいは立ち退き等の補償対象に過ぎなかった。これに対し、平仮名で開かれた「まちづくり」は、土地や建物の物理的配置に留まらず、そこに展開される生活空間の持続性を、住民自らが主体となって形成していくプロセスのデザインである。つまり、都市計画が「空間の機能的秩序化」をめざすのに対し、まちづくりは「人間の共同生活の自治化」をめざすのである(表1参照。[6]7頁)。

表1 まちづくりと日本型都市計画のアプローチの違い

1 「共同の場」としての「まち」の構造
〇田村によれば、こうした「まち」の構築対象は、物理的な(1)モノづくり、に留まらず、(2)シゴトづくり、(3)クラシづくり、(4)シクミづくり、(5)ルールづくり、(6)ヒトづくり、そして(7)コトおこし(イベントを起こす)、の7つをあげることができる。これを別の切り口から考えると、(a)機能づくり、(b)個性づくり、(c)魅力づくり、(d)活力づくり、(e)意識づくり、(f)イメージづくり、となる([5]54頁)。
〇また、田村は、「まちづくり」の「つくる」という意味について、「見えるまちづくり(ハード)」と「見えないまちづくり(ソフト)」の不即不離の関係として捉えた。さらに田村は、無用な開発を抑制する「つくらない/つくらせない」こともまた、まちづくりの重要な構成要素であると説き、自然保全や歴史的遺産の破壊阻止に論理的根拠を与えたのである([5]87頁)。この点は特筆に値する。

2 まちづくりの基本理念
〇田村にあっては、「まちづくり」は「共同の場」を市民が共同してつくりあげていくことであるが、その「共同の場」は、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化、などの総称である。これらの「共同の場」をつくる際には、次のような基本理念をもってのぞむことが必要となる。(1)トータルの理念(まちは、個々ばらばらではなく、全体としてひとつである)。(2)システムの理念(まちは、複雑な要素が相互に絡みあい関係しあっている)。(3)共有環境の理念(まちは、市民の共有の空間であり環境である)。(4)市民共用・共益の理念(まちは、特定の人々のためではなく、市民全体に利用され、その共同利益のためにある)。(5)市民共存・共生の理念(まちは、多数の異なる人々が矛盾をもちつつも、互いの相違を認めあって生活する場である)。(6)市民協働・共責の理念(まちは、一人の手ではなく、市民の共同作業により、共同責任でつくられるものである)。(7)市民共感・共愛の理念(まちは、市民が共通した誇りと愛情をもてるものである)。(8)相互交流の理念(まちは、市民相互はもちろん、他の多くの人々、外国の人々を含めた交流の場である)。(9)内発性の理念(まちは、他からの強制ではなく、市民や自治体の自発的な発想と行動を主力にしてつくられるものである)、がそれである([5]121~122頁)。
〇田村は、こうした「まちづくり」観に基づき、単なる都市整備の枠を超え、住民自らが「共同の場」を主体的に形成し維持していくための具体的な実践プロセスを、行政の内部から構築したのである。

3 市民参加の階梯と「協働」
〇田村は、「まちづくりと市民参加」についてこういう。「『まちづくり』には、市民が主導し協働して行うルートが重要である」。「行政の都合による市民参加は、『みせかけ』あるいは『「宥(なだ)めすかし』という意味になりかねない」。「市民協働の動きが活性化することは、市民が市民としての自覚をもって自治体を他治体から本来の市民政府へと変えてゆく動きになろう」。「市民政府は、市民参加の到達点でもある」([7]158~159頁)。
〇すなわち、田村にあっては、市民参加は単なる「意見聴取」の儀礼ではない。田村は、アメリカの社会学者アーンスタインが1969年に発表した8つの「市民参加の階梯」を参考に、「市民参加の理論的9段階」の参加モデルを提示した(図1参照。[8]134~141頁)。このモデルにおいて重要視されたのは、行政への「住民参加」ではなく、住民の自発的活動への「行政参加」という、主客を転倒させた協働のあり方である。これは玉野井の地域主義とも深く共鳴する視点であり、行政を「市民の事務局」([9]55頁)として再定義する試みであった。

図1 田村明の市民参加の段階論

4 市民自治の思想と「市民の政府」論
〇田村の理論の頂点にあるのが「市民の政府」論である。「市民の」政府とは、「政府が市民の所有物である」という意味である([9]74頁)。すなわち、田村は、自治体を単なる「国の下請け機関」や「中央の出先機関」とみなす従来の地方自治観(「官治」)を真っ向から否定した。田村が理想としたのは、市民が自立・自律して自らの政府を所有し、運営する「民治」([9]85頁)の場としての自治体である(「官治」から「民治」へ)。
〇田村は「市民の政府」が成立するための条件として、外部条件(中央統制や関与の排除、財政自主権の確立)、内部条件(市民の参画、情報公開、説明責任の遂行、政策立案の自主的能力)、そして市民条件(市民の信頼、共同意識、市民としての自己責任)の3層を挙げた([9]75頁)。特に「市民の」という所有格を強調したのは、住民が自治体を「お上」ではなく「自分たちの所有物」として認識することを求めたためである。この徹底した自治の精神は、後に全国の自治体に広がる「自治基本条例(自治体の憲法)」の先駆的モデルとなるのである。

〇以上、田村が説いた「まちづくり」論は、「まちづくり」のプランナーとしての豊富な経験(横浜市における行政経験)と全国各地の実践例の検証に基づいた、帰納的で未来志向型の思考によるものである。とともに、多様な地域現場の歴史的風土や文化を踏まえた、総合的な発想による、市民主導・市民主体の「まちづくり」論である。それは、地方自治(「市民の政府」)の問題として論じられる。
〇田村の言説を要約すれば、まちづくりとは「ヒトづくり」に行き着く。どれほど優れた「モノ」や「シクミ」を整えても、それを使いこなし、共同責任を負う「市民」がいなければ、「まち」は持続しない。田村が横浜で闘い、著作を通じて説き続けたのは、自律した市民が都市の未来(あす)を展望し、創造的な意志をもって主体的に「まち」に関わる姿であった。玉野井が思想として描いた「新たな市民」は、田村の実践によって「自律的市民」という具体的な主体として顕在化したのである。この市民主体をいかに組織化し、地域の課題解決に繋げていくか、その手法のひとつが山崎が説く「コミュニティデザイン」である。

Ⅲ 山崎亮と「コミュニティデザイン」の技法

〇2000年代以降、急速な人口減少と少子高齢化、さらには地方自治体の財政難に直面するなかで、既存の「ハコモノ行政」は限界を露呈する。そこに登場したのが、山崎が提唱する「コミュニティデザイン」である。山崎は、自らを「モノをつくらないデザイナー」と定義する。その仕事は、広場や建物の形状を設計することではなく、「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくる」ことにある。これは、まちづくりのパラダイムを「施設(ストック)」の完成から、そこを使いこなす「人間関係(フローとネットワーク)」の構築へと決定的にシフトさせた。コミュニティデザインとは、いわば地域の人間関係を観察し、地域資源を掘り起こし、住民自らが課題を乗り越えるための「しくみ」をデザインする方法の体系である。コミュニティデザイナーは、地域の課題を住民自らが解決するための「場」をデザインするファシリテーターである。

1 コミュニティデザインの4段階
〇山崎にあっては、コミュニティデザインの方法は、基本的には次の4段階によって進められる。第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」である([10]180~195頁)。

第1段階:ヒアリング(情報の深掘り)
〇単なるアンケート調査ではなく、地域のキーマンや「面白い活動」をしている個人の話を直接聴くことで、目に見えない地域の人間関係や資源を可視化する。
第2段階:ワークショップ(課題の共有と拡散)
〇ブレーンストーミングやワールドカフェなどの手法を用い、フラットな対話の場を創出する。ここで重要なのは「正しい結論」を出すことではなく、多様な意見が混ざり合い、住民同士の「共感」が生まれるプロセスそのものである。
第3段階:チームビルディング(主体の組織化)
〇出されたアイデアを実現するために、誰が何を担うのかを決定し、実行チームを構築する。この際、リーダーシップをデザイナーが振るうのではなく、住民が自発的に役割を引き受けるよう促す。
第4段階:活動支援(伴走と自立)
〇チームの初動期を支えつつ、徐々にデザイナーの介入を減らしていく。最終的にデザイナーがいなくなっても、住民たちが自立して活動を継続できる状態(自律的運営)がゴールとなる。

〇こうしたプロセスを実践するうえで、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」という4つの「読み取り能力」と、そのうえでどう行動するかという能力、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力、がそれである([10]219~220頁)。

2 「縮充社会」における参加の論理
〇山崎の言説における重要なキーワードのひとつに、「縮充」がある。これは、人口や税収が「縮小」しながらも、地域の営みや住民の生活が「充実」していく状態をいう([11]17頁)。この縮充を実現するための最大のエンジンが、主体的・創造的な活動を行う「市民」の「参加」である。 参加には、「参加」→「参画」→「協働」(コラボレーション)の発展性がある([11]68頁)。この参加を確かなものにし、課題解決の道を開くのは、地域現場での「学び」である。「地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得すことに勝る教育はない」([11]355頁)、と山崎はいう。
〇そして、行政への住民参加(住民活動の原動力)には、「住民がやりたいこと」「住民ができること」「行政が求めていること」の3つがある。この3つ輪が重なるところに、縮充の時代に求められる「参加」「参画」「協働」のヒントがある([11]146頁)。山崎によれば、この3つの輪を「自分がやりたいこと」「自分にできること」「社会が求めていること」と書き換えれば、人生を傾けて取り組める活動を探り当てることができるのである([1]426頁)。
〇また、山崎は、「楽しさなくして参加なし」「参加なくして未来なし」と断言する([11]18~19頁)。「楽しさ」は参加型社会の重要なキーワードである([11]36頁)。かつての住民運動が「反対」や「防衛」という悲壮感を伴う正義感に支えられていたのに対し、山崎が説く参加は「楽しさ(喜び)」を原動力とする。どんなに正しい取り組みであっても、つまらなければ継続しない。活動そのものが個人の生活や人生を豊かにし、他者との交流と協働のなかに価値を見出せる「活動」へと発展したとき、「参加」は社会変革の有効な手段となるのである。

〇ここで、小滝敏之の「縮減社会」に関する言説について付記しておく。小滝は、人口減少に伴う「縮減社会」の到来を単なる量的縮小として捉えるのではなく、その背景にある社会の質的変化と、それに対抗するための「地域自治・生活者自治」の理念を歴史的・理論的に論述する。
〇小滝はいう。縮減社会について論じるにあたって危惧すべきは、質的縮減の側面である。すなわち、家族機能や地域における共助機能の縮減であり、社会的連帯やコミュニティ意識の縮減である。こうした地域社会をどうしていくのか、どう変えていくのかを決める主役は、政治家や行政官などではなく、地域社会の生活者住民に他ならない。地域で暮らす生活者住民(小さき民)の「内発性と自治」こそが、自らの基盤である地域社会を守り育てていく根幹である(「生活者自治」)。共助や連帯の精神を再生・創造するのは、中央や地方の政府の権限や責務以上に、住民自身の責務であり、生活者住民の主体的努力と自治意識である([12]133、188頁)。
〇この生活者住民の生活世界を考えていくにあたっては、「他律」対「自律」、「統治」対「自治」、「競争」対「協力」という対立図式ではなく、また一方的に「自律」や「自治」の優位性を説くのみではなく、最終的には、「他律」と「自律」の両立・共存をめざし得る「相互律(アレロノミー)」の観点が必要となってくる([12](ⅵ~ⅶ頁)。

〇このように、山崎が提示したコミュニティデザインや小滝が理論化した「生活者自治」の思想は、玉野井や田村が追求した「地域主義」や「市民自治」を、現代の「縮小・縮減の時代」においていかにして「充実」へと転換させるかという、ひとつの回答である。 「縮充する時代の行方には、正解もなければゴールもない。『学び』というインプットと『活動』というアウトプットを、つねに市民が繰り返している状態にこそ大きな意味がある」([11]440頁)と、山崎は結論づける。まちづくりは終わりのないプロセスである。このプロセスにおいて形成される「活動する市民」のあり様が次の山下によって問われる。

Ⅳ 山下祐介の「地域学」と抵抗の認識論

〇人口の高齢化によって「限界集落」(大野晃、1991年)はいずれ消滅する、とその危機が声高に叫ばれるようになったのは2007年頃からである。2014年、増田寛也らによるいわゆる「増田レポート」が公表され、「地方消滅」という言葉が日本中を席捲した。若年女性人口の減少率を指標に、2040年までに全国の約半数の自治体が消滅の危機に瀕するという予測は、地方自治体にパニックに近い衝撃を与えた。
〇そうしたなかで山下は、「高齢化によって消滅した集落」はなく、「限界集落」問題はいわば「つくられた」ものである。増田レポートが説く「極点社会」(大都市圏に人々が凝集し、高密度のなかで生活している社会)におけるひとつの道筋である「選択と集中」は、国家の繁栄のために地方(地域)や農家の切り捨てに帰結する。地方消滅の “警鐘” にこそ地方消滅の “罠” がある、としてそのレポートが孕む欺瞞性を暴いた。以後、山下は、この国家的プロジェクトに抗うために、住民が自らの地域を「消滅するもの」としてではなく、「生き続けてきた場所」として捉え直す、根本的な「認識の転換」が必要であると説く。そして、生身の人間の暮らしや個々の地域の歴史や現在の実像を明らかにし、そこからの学びの作業を通して「地域学」を描くのである。

1 「地域の殻」と地域を捉える3つの層
〇山下にあっては、地域は人間の生存の基盤であり、「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」。自分の足元にある地域について学ぶこと、それが「地域学」である([13]11頁)。山下が提唱する「地域学」の核心は、地域をひとつの「殻」として捉える視座にある。この殻は、外部(国家や市場)からの過渡な干渉を遮断し、内部の生命活動を守るための防壁である。近代化の過程で、地域はこの殻を剥ぎ取られ、国家という巨大なシステムのなかに直接組み込まれてしまった。その結果、地域特有の知恵や慣習、自治の能力は「非効率」として切り捨てられた。山下は、「地域の殻を破らせまいと補修し、地域を外側の圧力から守り、内側の体制を固める運動」が地域学(「抵抗としての地域学」)である、と主張する([13]301頁)。それは閉鎖的な排除ではなく、自らの生活基盤を自ら決定するという「自己決定権」の奪還に他ならない。
〇そして山下は、地域の実像を、「生命」「社会」「歴史と文化」の3つの切り口(認識の層)から捉える([13]11頁)。「生命」では、環境社会学の視点・視座から、地域を、一定の環境のなかで育まれる生命の営み(生態)として切り出す。地域は人間が食べて寝て、生命を維持する基盤であり、生命の再生産の場である。「社会」では、農村社会学や都市社会学、家族社会学の視点から、地域を、そこで展開される人々の集団の営みとして描き出す。地域は、相互扶助の構造と機能をもつ場である。「歴史と文化」では、歴史社会学や文化社会学などの視点から、地域を、連綿と続く歴史と文化の蓄積の営みのなかに見出す。地域は時間的・空間的なつながりによって確立される場である。これら3層の認識を深める方法が「地域学」であり、それは「上(中央)」からの統計値に依存しない、自律的な知の構築である。

2 学校教育の分岐点と「地域学」の意義
〇山下は、学校教育のあり方が「国家・国際競争への貢献」と「地域社会の継承」という二項対立の分岐点にあることを指摘し、真の学びの意義を問い直す。現代の学校では、国際競争に勝ち抜くための経済的・生産的戦力となる国家人や国際人の育成が最優先され、地域社会の視点が軽視されている。学校は単なる人材供給装置である以上に、一人ひとりが自律的な人生を送れるよう「人としての成熟」を促す場であるべきである。人々の暮らしが地域と国家の双方で成り立っている以上、地域を担う人材を育てることは学校にとって不可欠な役割である([13]287~288頁)。
〇教育が「国家・国際社会への人材供給」に偏るなかで、山下が提唱する「地域学」は、抽象的な言語や普遍的な理論を学ぶものではなく、具体的な時空にいる私を、地域のうちに “生きているもの”として浮かび上がらせ、見定めていく、そんな学びの作業である」([13]16頁)。

3 国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへ
〇現在の日本社会では、弱者批判や地方の切り捨て、挙国一致体制の強化を容認するような、全体主義的・専制主義的な言説が広がっている。しかし、国家とは本来、地域の現実や国民の力によって「下から」形成されるべきものであり、排除や分裂を伴う国家体制は危うい([13]295頁)。
〇国家と個人の関係のみを重視する「ナショナリズム(国家主義)」には根本的な欠陥がある。一方で、国家そのものを否定しようとする、超個人主義=脱国家主義的な「コスモポリタニズム(世界市民主義)」も、現実的な解決策にはなり得ない。両者には、人々が実際に生活を営む基盤である「地域」という視点が欠落しているからである([13]296、297頁)。
〇危険な一国ナショナリズムの暴走を食い止め、社会を変革する鍵は、コスモポリタニズムではなく、国家の内部に「地域主義(地域ナショナリズム)」を確立することにある。地域という具体的な現場から国家を捉え直すことで、現在の閉塞した国家体制を克服できるのである([13]297~298頁)。

〇山下の地域学は、「認識」の主権を取り戻すことを迫る。国・中央が決めた「消滅」のカウントダウンに従うのか、それとも足元の土に根ざした「生存」の物語を紡ぎ直すのか、である。山下の説く「抵抗」とは、暴力的な拒絶ではなく、自らの足元の地域について知ること、考えることに基づく自治の表明である。国家と個人の二極化が招く全体主義的な危うさを回避するためには、抽象的な世界市民をめざすのではなく、地に足のついた「地域の自律」こそが、不健全なナショナリズムへの有効な対抗手段になるのである。

〇ここで、山下が提唱する「地域学」の認識運動を、より住民の日常的な実践へと引き寄せた先駆的試みとして、吉本哲郎や結城登美雄らによる「地元学」の言説を交差させておく必要がある。吉本らの「地元学」は、「ないものねだり」の地域づくりから「あるもの探し」への転換を提唱し、住民自らが地域の自然、文化、そして人々の「暮らしの技」を「聞き書き」等によって調査・再発見していく活動である([14][15])。これは山下のいう「生命・社会・歴史と文化」の3つの層を、行政や研究者の統計データとしてではなく、住民自身が五感を使って身体化していく「土着の認識運動」に他ならない。とりわけ、地域の高齢者が持つ生活の知恵や歴史を「地域の資源」として光を当てるプロセスは、高齢者を単なる「福祉の客体(要介護者)」から「地域の主体・表現者」へと反転させる。このように、「地域学」が提示するマクロな抵抗の認識論は、「地元学」というミクロな生活現場の技法を媒介することによって、住民自らが主体的・能動的に取り組む持続可能な地域づくり(コミュニティデザイン)の実践へと接続されるのである。

Ⅴ 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル
―「楽しさ」と「抵抗」が拓く「ふくし」―

1 4つの理論の限界と統合
〇以上のように、従来の「まちづくり」研究は、多様な領域において蓄積されてきた。しかし、その多くは個別領域ごとの議論に留まり、相互の理論的接続は必ずしも十分ではなかったといえる。玉野井らによって提唱された「地域主義」論は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その要因のひとつは、地域共同体が消滅していくなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、いかにして「地域主義」の実現を図るかという方法論が必ずしも明確ではなかったことにあった。
〇田村らによって論究されてきた「まちづくり」論は、都市計画論や地域計画論を中心に展開される傾向が強く、土地利用、景観形成、インフラ整備、制度設計といった「空間管理」の問題に重点が置かれてきた。住民参加や協働の重要性が指摘されているものの、行政計画への参加手法として位置づけられるに留まり、「地域を担う主体がいかに形成されるのか」という市民形成の問題については十分に掘り下げられているとはいえない。
〇一方、山崎らによって展開される「コミュニティデザイン」論は、人口減少社会における地域再生の具体的方法論として大きな影響力をもってきた。ワークショップ、対話、チームビルディングなどを通じて住民参加を促し、地域課題の解決を図るその実践は、従来のハード中心型のまちづくりを転換する重要な契機となった。しかしその反面、参加を促進する技法やファシリテーションの側面に議論が集中しやすく、その実践を支える思想的・政治的基盤、あるいは主体形成論との接続については十分に理論化されているとは言い難い。
〇また、山下らによる「地域学」論は、「地方消滅」論への批判や、地域を足元から学び直す認識運動として重要な意義をもっている。地域を「生命」「社会」「歴史と文化」の重層的空間として捉えるその視座は、中央集権的な地域認識を問い直す強力な批判性を有している。しかし、地域学論においても、その学びがどのように地域自治や実践的市民形成へと接続されるのかという教育的・組織論的視点は、なお十分に展開されているとはいえない。

〇このように、これら4人に代表される「地域主義」「まちづくり」「コミュニティデザイン」「地域学」に関する言説は、それぞれ固有の領域において多大な成果を蓄積してきた。しかしその一方で、地域を支える自律的市民の形成という核心的な共通の課題に対しては、部分的なアプローチに留まり、包括的・横断的に論じる視座は必ずしも十分ではなかったといえる。そこで、4人の言説を単なる個別の理論としてではなく、「思想/玉野井」「実践/田村」「技法/山崎」「認識/山下」という相互補完的な要素として捉え直し、その動的な結びつきに焦点を当てて整理する。これにより、それぞれの立論展開の限界を互いに補い合いながら市民形成を促す「『まちづくり』と自律的市民形成の循環モデル」(図2)として構造化することが可能となる。 

図2 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル

 

 循環モデルの具体的な構造
〇まず、外円(外層)は、玉野井が提唱した「地域主義」である。これは、地域の自然・風土・生命の再生産を支える思想であり、すべての営みが立脚する「基盤」を象徴している。この基盤の上に位置する中円(中層)は、田村が説いた「まちづくり」である。これは、市民が主体的かつ共同的に「実践(活動)」を展開する「土俵」であり、学びや実践が一時的な流行に終わらず、自治の制度化を志向する枠組みを意味している。そして、この自治の円環内部で展開される2つの動的な矢印が、本稿の核心である。左側の上昇する矢印は、山下が説く「地域学」による「インプット(認識・学び)」のプロセスである。地域の方向性(行方)や持続可能性(持続)、消滅の是非(限界)などに抗う「知」を構築する。一方、右側の下降する矢印は、山崎が提示した「コミュニティデザイン」による「アウトプット(実践・活動)」のプロセスである。ワークショップなどを通じて関係性を編み、具体的な課題解決を形にする。
〇この「学び」と「実践」が、自治の土俵の上で絶えず往復し、円環状に結ばれるプロセスそのものが、筆者の提唱する「市民福祉教育」の実体である。そして、この絶え間ない循環の「核(中心)」において形成されるものこそが、自らの生と地域を自律的に構築する主体としての「自律的市民」に他ならない。
〇また、この循環モデルにおいて、4人の言説を底流で結びつける共通のキーワードは「コモンズ」である。玉野井の「生態系」、田村の「共同の場」、山崎の「関係性」、山下の「地域の殻」は、いずれも国家や市場に囲い込まれない「地域社会の共有財」に他ならない。本モデルが示す自治の円環とは、住民自らがこのコモンズを共同で管理・運営していくプロセスである。すなわち「自律的市民」とは、共有財への能動的な責任を引き受け、その維持発展を担う主体として定義されよう。
〇同時に、これら4人の言説は、時代背景やアプローチこそ異なるものの、その深部において「自律的主体の形成」と「地域の再生」という共通の地平をめざしている。玉野井が求めた「新たな市民」は、市場経済の抽象的な個人を超え、エコロジーと風土に根ざした「生活者」であった。その思想を受け、田村は行政の内部から「市民の政府」を提唱し、住民が自治の責任を負うための具体的な制度的枠組みを提示した。さらに山崎は、縮充社会という現代的課題に対し、「コミュニティデザイン」という手法を用いて、楽しさを媒介とした「関係性の再構築」を実現した。そして山下は、国家主導の「消滅論」という認識の罠を暴き、足元からの「地域学」を抵抗の知として再定義したのである。これら4人に共通するのは、地域を単なる「管理の対象」や「サービスの享受場所」とみなす客体化を拒絶し、そこを「人間が自らの生を自律的に構築する舞台」として奪還しようとする強烈な意志である。
〇本稿で探究する「まちづくりと市民福祉教育」は、これら4人の言説が交差する点に立ち上がる、新たな教育・実践のパラダイムである。それは、既存の学校教育や福祉制度の枠内で行われる「知識の伝達」ではない。市民福祉教育とは「自分たちの暮らしの幸せを、自分たちの手で創り出すための知識と技能を、地域という現場での実践を通じて学び合うプロセス」そのものである。
〇山下が説く「地域学」というインプットの場と、山崎が説く「コミュニティデザイン」の場が、田村が整えた「自治の制度」の上で円環状に結ばれるとき、住民は「教えられる存在」から、自らの生活圏をデザインする「市民」へと脱皮する。この「学び」と「実践」の不断の往復こそが、市民福祉教育の本質に他ならない。

3 本モデルがめざす実践と「ふくし」
〇現代日本が直面する人口減少や資源の制約は、一見すると「福祉の後退」を意味するように見える。しかし、本稿が考察してきた言説を補助線に引けば、それは一面では、真の「ふくし」へ立ち返る好機であると捉え直すこともできる。外部資本や公的制度に過度に依存するのではなく、地域にある未利用の資源を「発見」し(山下)、住民同士の「関係性を編み直し」(山崎)、それを支える「自治のルールを創設」し(田村)、その営みのなかに「自然との共生という倫理」を組み込む(玉野井)。このプロセスは、経済的な拡大を至上命題としてきた近代モデルからの決別であり、豊かさの質を「縮充」へと転換させる試みである。
〇「まちづくりと市民福祉教育」がめざす地平は、誰かに守られるだけの弱者を見出し支援する場所ではない。互いの弱さを認め合いながら、ともに「共同の場」(コモンズ)を創造・運営していく強さをもった市民・主体を育む場所である。そこでは、住民一人ひとりが自らの足元を学び直し、住民同士が対話を重ね、みんなで小さな実践を積み重ねることによって共通認識や信頼関係(ネットワーク)という土台を築くことが肝要となる。「まちづくり」とは終わりのない認識運動である。
〇「楽しさ」と「抵抗」を胸に、自律的な市民が「ふだんの  くらしの  しあわせ」を語り合い、形にしていく。その連鎖・共働の先にこそ、消滅することのない、真に持続可能な地域社会の姿があるのである。

「まちづくり」における市民性教育の諸位相
―市民性教育から市民福祉教育への昇華―

1 市民性教育の展開と限界
〇「市民福祉教育」は、突如として現れた固有の教育実践ではない。それは、近代以降の国家・社会が要請してきた「市民性教育(シチズンシップ教育)」のパラダイム転換と、本稿で系譜化した「まちづくり」言説のダイナミズムが交差する地平において必然化した実践的学問領域である。その際の市民性教育とは、民主的な社会の一員として主体的に生きるために必要な資質や能力(「市民性」)の育成・形成を図る教育をいう。ここで、本モデルの核となる「自律的市民」の形成プロセスを教育学的な側面からさらに精緻化するために、市民性教育の現代的位相について論究しておくことにする。
〇従来の日本社会における市民性教育(あるいは学校教育における公民教育、主権者教育)は、多分に国家ナショナリズムの補完や既存の法秩序の維持を前提とした「良き国民」の育成に主眼が置かれてきた。そこでの理想像は、国家が定めた法や制度の仕組みをその求めに応じて正しく認識し、与えられた権利と義務を適正に行使する「従順で秩序を乱さない主体」であり、社会の構造的課題に批判的に介入し、それを主体的に変革していくような能動性はむしろ抑制される傾向にあった。山下が厳しく批判したように、現代の学校教育が「国家・国際競争への人材供給装置」へと純化し、地域社会の継承という視点を切り捨てていくプロセスは、まさにこの「上からの市民性教育」の最たる例であるといえる。
〇しかし、1990年代以降のグローバル化の進展や市場原理の徹底化、さらには少子高齢化に伴う地域コミュニティの機能不全などによって、こうした近代型の他律的な市民性教育の限界が露呈している。国家という単一の枠組みや行政の施策だけでは捉えきれない、格差の固定化や社会的孤立といった複合的課題に直面するなかで、「アクティブ・シチズンシップ(能動的市民性)」を育む教育への転換が強く叫ばれるようになっている。思考を停止した従順な市民ではなく、社会問題の構造的原因を批判的に分析し社会変革をめざす市民の育成がそれである。

2 4人の言説における市民性の内包
〇このアクティブ・シチズンシップの要請は、本稿で系譜化してきた4人の「まちづくり」言説の深部に内包されていた市民像と共鳴する。すなわち、「まちづくり」のこれまでの歩みは、そのまま市民性教育がその対象を「学校」という閉ざされた空間から「地域・生活現場」という開かれた空間へと拡張し、その質を「他律的な制度学習」から「自律的な実践学習」へと深化させてきたプロセスとして再定義することができるのである。
〇4人の言説を「市民性」の観点から再読すると、そこに明確な主体形成の契機を見出すことができる。第1に、玉野井の「地域主義」が求めた市場経済的市民社会を突き抜けた地平に位置する「新たな市民」とは、抽象的な権利義務の背後にある「国家の一員」ではない。それは、地域の自然・歴史・風土という具体の生活世界に責任をもつ「地域生活者としての市民」の復権であった。第2に、田村が「市民の政府」論で展開した「民治」の思想は、自治体を「お上」や「他治体」から自分たちの所有物へと奪還する運動であった。それは、行政の客体としての住民を、自らルールやシクミを創設し自治の経営を担う市民、すなわち「統治主体としての市民」へと反転させる実践的シチズンシップの提示であった。第3に、山崎の「コミュニティデザイン」は、ワークショップやチームビルディングという対話の手法を通じて、個人の「楽しさ(喜び)」を原動力としながら、それを公共的な課題解決への連帯へと接続する「関係性の教育技法」を確立した。そこに描き出されるのは、他者と結びつき行動する「連帯・共働する市民」である。そして第4に、山下の「地域学」は、「地方消滅」という国家的プロジェクトが孕む欺瞞性を暴き、足元の生身の暮らしや歴史から「知」を再構築する市民性教育のあり方を明示した。それは、与えられた言説を疑い、足もとから知を編み直す「批判的探究者としての市民」の提示であった。このように、4人の言説はそれぞれ、市民性教育が備えるべき「風土の思想」「制度への参画」「関係性の実践」「批判的認識」という不可欠な構成要素を、まちづくりの文脈において精緻に体現しているのである。

3  自律的市民を形成する4つのプロセス
〇では、これら4つの要素を統合した「まちづくりにおける市民性教育」は、いかなる構造によって住民を「自律的市民」へと変容させ、本章の主題である「市民福祉教育への昇華」を成し遂げるのだろうか。その根底やプロセスには、住民が主体的・創造的な「市民」へと生まれ変わるための、次のような「教育的契機」が存在する。そしてそれは、住民が主体的に向き合う「教育の内容」と、その学びや変容を保障する具体的な学習・実践プロセスである「教育の方法」が有機的に一体化することで機能する。以下では、教育内容と教育方法が不可分に結びついては「教育的契機(内容と方法)」として4つのプロセスを整理する。
〇第1は、地域の歴史や住民の地域生活の知恵・技術を学び直すプロセスである。これは単なる過去の回顧ではなく、玉野井のいう「風土に根ざした生活世界」の回復を通じて、近代化の過程で剥奪されかけた地域の自律性と、そこに生きる固有の「生」の価値を再発見するプロセスに他ならない。第2は、田村が提示したルールや仕組みを通じた自治の制度化のプロセスである。住民自らが条例制定などの制度構築に主体的に関わり、「社会は自分たちの手で変えられる」という自治能力を高めることで、一過性の活動ではない持続可能な自治システムを確立する。第3は、山崎のコミュニティデザインが実践する、対話を通じた社会的連帯(ソーシャル・キャピタル)の醸成プロセスである。孤立を排し、住民同士がフラットに共感し共働する場(公共圏)を創り出すことで、希薄化した地域社会のつながりを編み直していく。第4は、山下の地域学や吉本らの地元学にみる、政治的リテラシーと批判的思考力の獲得プロセスである。地域の危機を運命として受動的に受け入れるのではなく、その構造的背景を問い直し、提示された言説に依存せず足もとから知を編み直す。それによって、住民自身が地域の課題を自分事として捉え返す、地域の課題に主体的に関与する市民へと成長する契機となる(表2参照)。
〇これら4つの教育的契機(内容と方法)、すなわち「地位の歴史や生活世界の学び直し」「自治の制度化への参画」「関係性の編み直し」「批判的思考力の獲得」は、孤立したものではなく、相互に関連し合いながら連動している。この有機的な連動のプロセスにおいて、「住民」は単なる地域社会の構成員から、自らの地域生活世界を自律的に統治する「市民」へと変容する。そしてこの自律的市民による地域社会の創造が、まさに「ふくし=ふだんの くらしの しあわせ」を根底から支える「市民福祉教育」の地平へと接続され、高次へと昇華される。すなわち、これら4つの教育的契機(内容と方法)の有機的な連動プロセスそのものが、市民福祉教育の核心的な内容と実践的な論理を担保する強固なフレームワークを形づくるのである。
〇したがって、市民福祉教育とは、地域に生きる人々が地域生活世界を起点として自治・連帯・批判的思考を往還しながら「ふくし」を共働創造していくための主体形成の営みである。すなわち、市民福祉教育は、市民性教育が育成してきた主体形成を継承しつつ、その目的を民主社会への参加から地域生活世界の「ふくし」の創造へと拡張するものである。その意味において、市民性教育は市民福祉教育へと昇華されるのである。

表2 4人の言説と昇華される市民像

おわりに

〇本稿で考察した「まちづくりと自律的市民形成の循環モデル」を机上の空論に終わらせず、実際の地域社会で機能させるためには、今後いくつかの重要な課題に対応することが求められよう。ひとつは、「まちづくり」の活動や担い手の固定化を防ぐために、如何にして多様な市民を巻き込み、連携・共働していくかという点である。一部の層に依存しない、多様な主体が緩やかにつながる仕組みづくりが不可欠となる。いまひとつは、住民の主体性・自律性を引き出し、それを側面から支える「伴走型」の支援体制を如何に確立するか、である。行政や専門職には、主導ではなく、市民の力を如何に引き出し、共働するかという役割転換が求められる。今後は、これらの課題を踏まえ、SNSを用いた多様な主体のネットワーク化や、AIの利活用による地域課題の可視化や効率的な伴走支援など、デジタル技術の進展に伴う時代変化に対応した持続可能な仕組みへと本モデルをアップデートしていく必要がある。

引用・参考文献
(1)玉野井芳郎(1977)『地域分権の思想』東洋経済新報社(本文[1])。
(2)玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房(本文[2])。
(3)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会(本文[3])。
(4)玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司編(1978)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』学陽書房(本文[4])。
(5)田村明(1987)『まちづくりの発想』岩波新書(本文[5])。
(6)西村幸夫編(2007)『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店(本文[6])
(7)田村明(1999)『まちづくりの実践』岩波新書(本文[7])。
(8)鈴木伸治編(2016)『今、田村明を読む―田村明著作選集―』春風社(本文[8])。
(9)田村明(2006)『「市民の政府」論―「都市の時代」の自治体学―』生活社(本文[9])。
(10)山崎亮(2012)『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書(本文[10])。
(11)山崎亮(2016)『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所(本文[11])。
(12)小滝敏之(2016)『縮減社会の地域自治・生活者自治―その時代背景と改革理念―』第一法規(本文[12])。
(13)山下祐介(2021)『地域学入門』ちくま新書(本文[13])。
(14)吉本哲郎(2008)『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書(本文[14])。
(15)結城登美雄(2009)『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』農山漁村文化協会(本文[15])。

【初出】
阪野貢「追記『まちづくりの思想としての地域主義』を考える―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2021年5月20日公開)
阪野貢「改めて、田村明を読む―『まちづくり3部作』について―」(同、2017年10月1日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第7章
福祉教育論の再考と現代的展望
―大橋謙策の思想的源流から―

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はじめに

〇「福祉教育」実践と研究はこれまで、一面では、子どもと高齢者、健常者と障がい者、ICIDH(国際障害分類)とICF(国際生活機能分類)、排除と包摂、対立と共生、などの二項対立的な分かりやすさのなかで論じられ、取り組まれてきた。その際、「協同実践」(参加者が相互に学び合う関係性)の重要性が指摘されながらも、主体と客体の関係性を前提にしがちであった。しかも、包摂や共生の概念的・抽象的な思考や理解にとどまり、日常の地域生活場面においてその感覚化や生活化、行動化を促すことに必ずしも主体的・積極的であったとはいえない。
〇そして、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現が叫ばれるようになって久しいが、包摂や共生が未だ「お守り言葉」(鶴見俊輔)として使用されている感がある。それは、人々を思考停止に陥らせたり、ある種の刷り込みを可能にする恐れなしとしない。その要因や背景については、(1)福祉教育がその存立基盤となる原理論や思想・哲学への探究を等閑視してきたこと。(2)福祉教育の実践科学としての側面、すなわちハウツーや手法の提供に偏重してきたこと。(3)福祉教育がその固有性や自律性を十分に追究せず、学習内容や方法が確固たるものになっていないこと。(4)福祉教育が「政治」(福祉政治と教育政治)と対峙せず、「政治的リテラシー」(政治的判断力や批判力)についてほとんど言及してこなかったこと、などを挙げることができる。
〇その結果、福祉教育は、政府・行政主導による福祉・教育改革の推進が図られるなかで、以前にも増して統制的で定型化された実践活動となりつつある。その弊害は、筆者が耳にする次のような声にも顕著に表れている。すなわち、「他地域の実践事例を見聞しても、以前のように『ワクワク感』が沸かなくなってきた」「福祉教育が学校現場の課題やニーズに即した形で十分な進展を見せているとはいい難い」「現場実践と研究活動は不可分であり、両者の往還関係を構築することが肝要であるが、両者の間に乖離が生じている」などの指摘がそれである。
〇そういうなかで、いま求められるのは、歴史的視点や哲学的思考を重視しながら、福祉教育の原理論を探求し、福祉教育とは「そもそも何か」、それは「いかにあるべきか」、「いかに取り組むべきか」を、混迷する現場のリアリティや実践と切り結びながら、本質的・根源的に問い直すことである。
〇そこで本稿では、日本における福祉教育研究の草分けであり泰斗である大橋謙策の「福祉教育論」を再考の基軸に据え、その解説的考察を通して「大橋福祉教育論」の継承と新たな福祉教育論展開の課題や方向性を見出すことを目的とする。

Ⅰ 「大橋福祉教育論」の思想的基盤と理論構造

〇福祉教育とは、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(「学校外における福祉教育のあり方と推進―福祉教育研究委員会中間報告―」全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、15頁)。

1 福祉教育の概念規定
〇これは、周知の通り、福祉教育の「原理論」と評される大橋謙策による福祉教育の概念規定である。40年以上も前のものであるが、今日においてもしばしば引用される。この概念規定以外にも、「福祉教育とは何か」について論考したものは複数、捉え方によっては多数あるが、大橋のそれがよく援用される。それは、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因するといってよい。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的な定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのであろう。
〇周知のように、全社協・全国ボランティア活動振興センターが1980年9月、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を設置し、翌1981年11月に「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」について研究の中間成果を報告した。委員会の設置は、全国各地で福祉教育実践の進展が図られ、学校における福祉教育のあり方について一定の理論的整理が求められるようになってきたことへの対応であった。次いで、1982年9月に第2次の「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設置され、翌1983年9月に「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告がなされた。
〇大橋の福祉教育の定義は、第1次ではなく、「第2次福祉教育研究委員会」(在京研究委員会)報告のなかで記されている。そこではまた、次のように述べられている。「社会教育行政における福祉教育の促進には二つの視点が『車の両輪』としてなければならない。第一は、国民が社会福祉問題を学習し、それへの関心と理解を促進させる福祉教育活動の促進であり、第二には、今日の社会福祉問題の中心的課題を担っている障害者、高齢者の社会教育(学習、文化、スポーツ活動)の促進である」(15頁)というのがそれである。後者(「第二」)に関してはさらに、「今日の社会福祉サービスの主たる対象である障害者、高齢者の学習、文化、スポーツ活動を豊かに促進させることが、国民の障害者観、老人観を変え、ひいては社会福祉観を変えて、ともに生きていく街づくりをすすめる上で重要」(16頁)であるとされた。
〇ところで、大橋のこの概念規定は、全社協の「第2次福祉教育研究委員会」報告以前の1982年3月、神奈川県の「ともしび運動促進研究会」(委員長・大橋謙策)が編集し、「ともしび運動をすすめる県民会議」が発行した『ともしび運動促進研究会中間報告』で述べられている(4頁)。「ともしび運動」は、当時の長洲一二県知事の提唱によって、1976年10月から展開された行政・県民協働の福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動である。具体的には、「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」などをその目標とし、「『ともしび運動』によって進められるべき課題の第一は “福祉教育の促進” である」(4頁)とされた。
〇以上を要するに、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて高齢者や障がい者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視座に注目しないと、その定義や言説を読み解くことはできないということである。

1)福祉教育と「社会福祉問題」
〇先に記した大橋の福祉教育の概念規定について、その構成要素を弁別すると次のようになる。(1)憲法第13条、第25条等に基づく人権思想をベースにする。(2)歴史的・社会的存在としての社会福祉問題を素材とする。(3)社会福祉問題との切り結びを通して、社会福祉制度や活動への関心と理解を進める。(4)社会福祉問題を解決する実践力を身につけるために、実践に基づく体験学習を重視する。(5)「自立と連帯の社会・地域づくり」の主体形成を図る、などがそれである。
〇大橋の概念規定における鍵概念のひとつは「社会福祉問題」である。大橋は、1981年2月に刊行された吉田久一編『社会福祉の形成と課題』(川島書店)所収の論文「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加―」(231~249頁)で、高度経済成長期以降、「社会福祉問題の国民化と地域化」(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、3~11頁)が進んでいる。そうしたなかで、地域の福祉問題を解決するためには、それができる「住民の形成とネットワークづくり、とりわけそこにおける住民参加の問題」(238頁)が重要であり、焦眉の課題であるとする。そのうえで、地域福祉の主体形成のための福祉教育の必要性と、福祉行政の「地方分権主義」への転換を図り、地方自治体が自律性をもって「地域社会福祉計画」を住民参加のもとに策定することの必要性を指摘している。
〇福祉教育が学習素材とする「社会福祉問題」、とりわけ高度経済成長期以降のそれは、大橋にあっては「戦前の大河内一男の社会政策と社会事業という整理や戦後の孝橋正一の社会問題と社会的問題という整理でも、包含できない課題として創出されてきた」(231頁)。公害・環境問題と外的な生活破壊、過疎問題と家庭破壊、過密問題と生活の共同的集団的再生産機能の減退と不安定化、合理化・機械化による生活リズムの破壊や老人福祉問題の深刻化などが、「従来の問題にくわえてあらわれてきた」ものである(232~234頁)。
〇地域住民のこれらの具体的な生活破壊の「状況」については、簡潔明瞭にカテゴライズしても、また他の領域や次元の「状況」で説明するだけではその本質に迫ることはできない。社会福祉問題の分析は、それを現代社会の仕組みと運動法則によって必然的に生み出される歴史的・構造的な「社会問題」として、社会科学的に捉えることによってはじめて可能となる。そうした分析のうえで、その問題解決に向けて、批判的・論理的かつ創造的に思考・判断・実践する「力」の育成・向上をいかにして図るか。そのための福祉教育実践の具体的展開について検討することが求められる。
〇この点を別言すれば、福祉教育における「社会福祉問題」の本質は、社会構造に起因する歴史的側面と、個々の住民が直面する具体的な地域生活上の課題という、重層的な視点から把握されなければならない、ということである。
〇以下に、上記の論文から、「福祉教育と地域福祉の主体形成」に関する記述を抜粋(引用)する。これにより、大橋の「福祉教育の理念と実践の構造」についての言説の基本的部分(論理的特質)を概観・俯瞰することができる。

福祉教育は、国民が社会福祉を自らの課題として認識し、福祉問題の解決こそが社会・地域づくりの重要なバロメーターとして考え、共に生きるための福祉計画づくり、福祉活動への参加を促すことを目的に行なわれる教育活動である。したがって、福祉教育は少なくとも次の諸点を構成要件として意識的に行なわれてこそ意味がある。
第一は、差別、偏見を排除し、人間性に対する豊かな愛情と信頼をもち、人間をつねに“発達の視点”でとらえられる人間観の養成、第二に社会福祉のもつ劣等処遇観、スティグマ(恥辱)をなくすことが必要で、そのためには国民の文化観、生活観を豊かにすることに他ならないこと、第三に、人間は人々との豊かな交流の中で生きる以上、生活圏の狭い障害者等の社会福祉サービス受給者の生活がいかに非人間的であるかをコミュニケーションの手段も含めてとらえられること、第四に複雑な社会における歴史的、社会的存在としての福祉問題を分析できる社会科学的認識が必要なこと、第五に今日の福祉は、福祉行政の中でも細分化されているが、その解決には関連行政たる労働行政、教育行政、保健衛生行政などを含めて地域的課題を総体的にとらえる力が必要であること、の五つを基本に、情報の周知徹底、体験・交流などによって感覚として体得することなどが方法論的にも加味されて、はじめて福祉教育の実践といえる。
福祉教育は、住民の福祉意識を変え、福祉問題をトータルにとらえ、問題解決のための福祉計画づくり、具体的解決のための実践などを行なえる住民の形成であり、それこそ地域福祉の主体形成といえよう。(243頁)

2)福祉教育と「地域福祉の主体形成」
〇大橋は、岡本栄一によって「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」と評されるように、「地域福祉の主体形成」を重視する。その点について、大橋は、前記の著書『地域福祉の展開と福祉教育』において、「地域福祉の主体形成のしかたと主体として形成されるべき力量には、次のような7つのことが考えられる」とした。(1)社会福祉に関する情報提供による関心と理解の深化。(2)地域福祉計画策定への参加と政策立案能力。(3)社会福祉行政のレイマンコントロール(政治や行政の一部を一般市民に委ねること:引用者注)。(4)社会福祉施設運営への参加。(5)意図的、計画的な福祉教育の推進。(6)地域の社会福祉サービスへの参加(ボランティア活動)による体験化と感覚化。(7)社会福祉問題をかかえた当事者の組織化と当事者のピア(仲間、peer)としての援助、がそれである(46頁)。その後、大橋は、この「地域福祉の主体形成」(「住民の主体形成」)の7つの「枠組み」を整理し、「『地域福祉の主体』形成には、4つの課題がある」として、4つの主体形成の枠組みを提示する。すなわち、(1)地域福祉計画策定主体の形成、(2)地域福祉実践主体の形成、(3)社会福祉サービス利用主体の形成、(4)社会保険制度契約主体の形成、である(大橋謙策『地域福祉論』放送大学教育振興会、1995年3月、75~82頁)。それは同時に、福祉教育の課題でもある。
〇この大橋の4つの主体形成については、7つから4つに綺麗に整理・集約された故にか、4つの側面が並列的に理解されがちで、その内的・構造的な相互関連性の把握を困難なものにしている。主体としての「住民」は、基本的には労働主体と(労働以外の)生活主体の統一的存在であろうが、政治主体・経済主体・文化主体であり、また地域の自治主体や変革・創造主体でもある。「住民」はこれらの側面を重層構造的にもつ存在である。地域の自治主体や変革・創造主体に関していえば、住民主体の社会福祉問題の解決や「自立と連帯の社会・地域づくり」を推進するためには、個人的主体形成のみならず集合行為主体や運動主体の形成が必要かつ重要となる。こうしたことを踏まえたうえで、地域福祉(住民)の主体形成を促進する福祉教育実践の内容や方法について具体的に検討することが肝要となる。

3)福祉教育と「ケアリングコミュニティ」
〇大橋の福祉教育論の基底に「ケアリングコミュニティ論」(大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房、2014年4月)がある。「ケアリングコミュニティ」(caring community)とは、看護の領域で用いられてきたケアリング(「世話をする」「面倒を見る」「思いやる」といった行動)の考え方をコミュニティにまで広げて展開しようという考え方である。
〇大橋のケアリングコミュニティ論を大胆に要約すれば、次のようになる。(1)人間存在の本質に「ケアする」「ケアされる」関係性がある。(2)ケアは自己実現を図ることに関わる営みである。(3)ケアの考え方の構成要素として「6つの自立」がある(① 労働的自立・経済的自立、② 精神的・文化的自立、③ 身体的・健康的自立、④ 生活技術的・家政管理的自立、⑤ 社会関係的・人間関係的自立、⑥ 自律的意見表出的・契約的自立)。(4)ケアリングコミュニティをつくる考え方を「コミュニティソーシャルワーク」という。(5)ケアリングコミュニティの実現には「地域福祉の4つの主体形成」(前述)が重要になる。(6)地域福祉の“主体形成に向けての学習”が必要である、がそれである。これらのうち、特に(6)について、大橋は次のように述べる。

(地域福祉の)主体形成や市民活動は自然発生的にはつくれない。そこには“主体形成に向けての学習”が必要である。フランス市民革命が、「博愛」という哲学、あるいは社会契約という理念を具現化させていく上で、成人の“理性”が重要で、その“理性”を身につけるために成人の社会教育を公費で行うべきであるとした点は注目に値する。(中略)住民が生活者としてのエゴイスティックなままでなく、地方自治体のあり方に参画できる「市民」としての力量、あるいは国のあり方も含めて「博愛」と「社会契約主体」を身につけて行動できる「公民」としての主体形成が今求められている。(15~16頁)

〇大橋が指摘するように、「主体形成」や市民活動は自然発生的なものではなく、それに向けての目的意識的な「学習」が必要になる。地域福祉の主体形成は、(1)地域住民が地域の社会福祉問題を発見する・気づくことから始まる。(2)その問題や課題を「ひとごと」ではなく「自分ごと」として認識する。(3)それを「みんなごと」として共有し、共通認識を深める。(4)その問題や課題の本質をみんなで認識し理解する。(5)組織的かつ変革的・創造的に課題解決を図ることのできる「力」を獲得する。(6)それを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。(7)そしてその過程を振り返り(リフレクション)、(8)そこから得た知見をもとに次の新たなアプローチを試みる(主体形成のサイクル)。こうした主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる「善行」にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することにもなる。また、主体形成の強調は、その一方で国や行政の責任や役割の矮小化、地域住民への「丸投げ」を招くことにもなる。福祉教育は「両刃の剣」になりかねない、といわれるところである。留意したい。

4)福祉教育と「博愛の精神」
〇大橋は、『新訂 社会福祉入門』(放送大学教育振興会、2008年3月)において、住民と行政との関係についてこういう。それは、「上下の関係で捉えるのではなく、住民の自立と連帯を前提にし、対等の立場で問題解決を図る新たな社会哲学、社会システムが求められ、社会福祉のような歴史的に国の『社会の制度』として発展してきたものも従来にない発想が求められている」(30頁)。そして、次の3つの「思想」を取りあげる。(1)フランスの近代市民革命の際にうたわれた「博愛」の思想(「自由」と「平等」を担保する「博愛」)。(2)ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンといった思想(「社会的包摂」)。(3)自分たちで相互扶助組織をつくり、対応しようとする考え方(「協同組合方式」)、がそれである(28~30頁)。
〇そして大橋は、ソーシャルワークの根底にある価値観について次のようにいう。「ソーシャルワークを展開する際の価値の1つは、人間性を尊重し、社会正義と公正を守ることであり、人々の自由と平等を保障することであるが、それらを標榜すればするほど、人々が社会的にも、個人的にも“博愛”という社会の神聖な責務を遂行することが求められる。(そのためには)伝統的な意識と行動を尊重しつつも、新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(227頁)。ここで強調されるのは、戦後日本の教育や社会システムが「自由」と「平等」の追求に偏り、3本目の柱である「博愛」を看過してきたという視点である。それゆえに、現代社会において人間性を回復させるためには、「博愛の精神」を育む福祉教育の充実が不可欠となるのである。「大橋福祉教育論」のポイントのひとつである。
〇ここで併せて、「博愛」に関しては次の諸点にも留意しておきたい。(1)フランス革命は、新興の「ブルジョワジー」(有産階級、中産階級)による革命である。(2)その理念は、「自由、平等、友愛」であり、「自由、平等、博愛」ではない。(3)「自由」は、多様性を保障するが、放置すればアナーキズム(無政府主義)に行き着く。(4)「平等」は、突き詰めれば全体主義や共産主義になり、不自由を生む。(5)「友愛」は、友を愛するのであり、他の宗教や民族は除外される。(6)「博愛」には、「慈善」と同様に、階級差別的な意味合いがある、などである(中川淳一郎・適菜収『博愛のすすめ』講談社、2017年6月、35、98頁参照)。
〇たとえそうした側面があるにせよ、大橋の「博愛の精神」の涵養という主張は、単なる倫理的な呼びかけに留まらない。大橋は、日本の文化的・歴史的背景、特に閉鎖性や儒教的な排除の論理が福祉の理念形成に与える負の影響を深く見据え、その克服のために「博愛」という普遍的価値観を福祉教育の根幹に据える必要性を論じるのである。これは、福祉教育は単なる知識や技術・技能の伝達や個人の意識変革を図るだけではない。社会全体の文化や規範を「博愛の精神」に基づいて再構築することを通じて、社会の根深い構造的差別や排除の論理に抗する「価値観の変革」をめざすべきだという、極めて本質的で哲学的な課題提起なのである。この点において、大橋の主張は、中川らが懸念する博愛の限定性や排他性を超克するものであり、彼らの言説をも包摂する深みを持っている。

2 「大橋福祉教育論」批判
〇以上が、「社会福祉問題」「地域福祉の主体形成」「ケアリングコミュニティ」「博愛の精神」などの鍵概念を中心にみた「大橋福祉教育論」の概括である。こうした大橋の言説に対してこれまで、「地域福祉と福祉教育」を説く地域福祉や福祉教育の研究者からの系統的な批判はあまりみられない。それは、大橋の言説が一定の理論体系を作りあげていることによるが、大橋のそれが「福祉教育原理論」として前提され、そのうえで立論されていることにもよるといってよい。そういうなかで、生涯学習やESD(持続可能な開発のための教育)の研究者である松岡広路が、論文「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」(日本福祉教育・ボランティア学習学会『研究紀要』第14号、2009年11月、8~23頁)において、大橋の言説に批判的考察を加えている。
〇松岡の大橋批判は、大橋の福祉教育の定義は「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、<未分化な学習者像>、<社会福祉活動の内実の曖昧さ>、<楽観的な社会形成ビジョン>、<教育概念の曖昧さ>と約言できる」(13頁)、というものである。そして、松岡は、「脆弱性の高い『福祉教育』の定義に基づいてしまうと、時代の大きな物語に押し流され、重要と思われる要素が外延化され、体制的要素を内包とする対象化(理論化)と実践化が、当然のごとく進んでいく。福祉教育が、現実と理想の拮抗関係の中に位置することを意識し、従来の枠組みを等閑視しないという批判的な姿勢を保つことが、今まさに重要である」(16頁)として、「批判的創造性」の観点の必要性と重要性を説いている。松岡の批判は必ずしも、「大橋福祉教育論」をその理論的体系化の過程も視野に入れて、総合的・体系的に行うものにはなっていない。とはいえ、「社会的・福祉的課題の解決に不可欠な『批判的創造性』が、実践における学びの目標・内容(いわゆる『学びのベクトル』)から排除されている」(16頁)という指摘は、首肯されるところである。
〇いま少し具体的にいえば、「未分化な学習者像」という松岡の批判は、大橋にあっては、社会福祉問題の解決やケアリングコミュニティの形成についての言及が先行するあまり、学習者を単に「子ども・青年・成人」という属性で定義・議論するに留まり、学習主体としての具体性や固有性が等閑視されているという指摘であろう。また、「批判的創造性」の欠如という批判は、福祉教育は本来、学習者が自己の価値観を揺さぶられ、既存の社会構造に疑問を抱き、社会変革を志向するという、「内的な変容」を伴うべきものである。その点の言及を大橋に期待しているのであろう。
〇いずれにしろ、こうした批判的視座は、未来(あす)の社会変革をめざすだけではない。現在(いま)の生活実態を直視し、現実的で具体的な地域生活課題の解決に根ざしてこそ、実践はその脆弱性を克服し、真に持続可能な深化を遂げるのである。

Ⅱ 「大橋福祉教育論」の批判的継承と理論的展開

1 原田正樹の福祉教育論―「協同実践」と「相互依存的自己実現」をめぐって―
〇「大橋福祉教育論」の正統な発展的継承者に原田正樹がいる。原田は、地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究法について考察し、その理論化・体系化を図っている。その著作『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』(中央法規出版、2014年10月)は、大橋の前記の著作『地域福祉の展開と福祉教育』の「今日的な続編でありたい」とするものでもある。福祉教育については、原田は、福祉教育の理論と実践の乖離を指摘し、それを克服するために、学際的・総合的かつ実践的なアプローチによって福祉教育の新たな理念の構築と実践構造の再検討を進める。原田にあっては、「共に生きること、共に学び合うこと」は、福祉教育が大切にしてきた・大切にすべきメッセージである。加えて、原田の、全国社会福祉協議会主催の「全国福祉教育推進委員会」などでの取り組みは特筆されるべきものである。
〇ここで、原田の福祉教育論を素描する。原田にあっては、地域ぐるみの福祉教育が必要かつ重要となるなかで、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動」である(福祉教育推進検討委員会(委員長:大橋謙策)『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』全国社会福祉協議会、2005年11月、5頁)。
〇この規定における鍵概念のひとつ、すなわち原田福祉教育論のそれは「協同実践」である。原田はいう。「福祉教育における『協同実践』においては、専門的な知識や技術の伝達ではなく、福祉の魅力や難しさをみんなで考える。その時には、子ども同士だけではなく、福祉教育実践に関わる大人も含めて相互の学び合いが必要になってくる」(原田正樹『福祉教育の理論と実践方法―共に生きる力を育むために―』全国社会福祉協議会、2022年3月、66頁)。さらにそれは、学校や地域だけでなく、また障がい者や高齢者、地域のボランティアだけでなく、さまざまな関係者や関係機関・団体を福祉教育に巻き込み、「サービスラーニング」の視点による福祉教育実践を協同実践として成立させための組織(「福祉教育推進プラットホーム」)やコーディネーター(「福祉教育推進員」)を求める。とともに、その実践を「内省」(かえりみて見直すこと)し「省察」(ふりかえり考えめぐらすこと)する効果的・総合的かつ創造的なふりかえり(「リフレクション」)を不可欠とする。
〇原田福祉教育論のもうひとつの鍵概念に「相互依存的自己実現」がある。これは、人間の脆弱性を前提としたうえで、個人の自立や自己実現だけでなく、それを乗り越え、関係性のなかで互いに支え合いながらより良く生きること、社会全体の「共に生きる力」の育成を図ることをめざす視点である。すなわちそれは、福祉教育は地域福祉の下位概念・従属概念ではなく、個人の福祉意識を変革させ(「貧困的な福祉観の再生産」の克服)、地域を変革する力の育成を図る営為である、という主張に通底するものである。要するに、「相互依存的自己実現」という概念は、超少子高齢人口減少問題をはじめ多様で複雑な福祉課題を抱える現代社会において、従来の自立支援の限界を乗り越え、より包括的で持続可能な地域社会を構築するための新たなパラダイムを提供するものである。
〇この点を別言すれば、原田は、その主著『地域福祉の基盤づくり』で、「地域福祉を福祉教育によって支えあうことができる社会、ケアリングコミュニティをどう構築していくことができるかを問うことが『地域福祉の基盤づくり』である」(「はじめに」)という。これは、福祉教育と地域福祉が単なる補完関係ではなく、相互に影響し合い、変革を促すダイナミックな関係にあることを示唆するものである。すなわち、福祉教育は地域変革の主体化を図り、個人の意識変革を促す一方で、地域福祉の実践はその意識変革をさらに深化させるのである。そして、ここでいう「ケアリングコミュニティ」とは、原田にあっては、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。それは、地域福祉の基盤づくりである。そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されることを不可欠とする。
〇こうした原田の言説において、「協同実践」は、地域福祉の住民主体形成を説く大橋の主体形成論に、パートナーシップや共創的な意味合いを強めたものである。「相互依存的自己実現」は、大橋が説く「地域自立生活支援の体制づくり」を継承しつつ、その理念を「その体制のなかで誰もが頼り合い支え合う関係づくり」へて深化・発展させたものである、といえよう。

2 阪野貢の福祉教育論―「まちづくりと市民福祉教育」と「共働活動」をめぐって―
〇筆者も、「大橋福祉教育論」を継承する立場の一人である(少なくとも筆者はそう認識している)。筆者は、福祉教育の歴史研究を基盤にしながら、大橋の福祉教育論を継承し発展させつつ、「まちづくりと市民福祉教育」という概念を提示してその理論化・体系化を図ってきた。そのひとつの集大成でもある『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』(みらい、2009年10月)は、従来の学校福祉教育や地域を基盤とした福祉教育の枠を超え、「まちづくり」とそのための「市民性教育」(市民的資質・能力の育成)をめざす福祉教育、すなわち「市民福祉教育」のあり方を探究したものである。
〇筆者は、「市民福祉教育」を次のように規定する。「市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」(70~71頁)。
〇すなわち、市民福祉教育は、「人間の尊厳」「自由・平等・友愛」「平和・民主主義・人権」といった普遍的な人間観と社会観に基づいている。また、現代社会において子どもと大人、障がい者や高齢者などすべての人々の「自立・共生・自治」が問われるなかで、「まちづくり」に参加(参集、参与、参画)する主体的・自律的な「市民」の育成を図る市民福祉教育の重要性を認識し指摘する。それは、「ふくし」は社会的支援を要求する・必要とする人や専門家だけの問題ではなく、市民一人ひとりの日常生活(「ふだんの、くらしの、しあわせ」)と社会全体の平和・安寧・福祉(「みんなが、満足していて、楽しいこと」)に関わる普遍的な課題であるという視点・視座に基づくものである。それはまた、大橋が指摘する「博愛」の欠如や社会の閉鎖性といった問題意識を、より普遍的な市民社会の形成という視点から継承・発展させるものでもある。なお、ここで、「福祉」をあえて「ふくし」と平仮名で表記するのは、それが専門的な制度やサービスに留まらず、住民一人ひとりの日常的な実感(感覚化・生活化)に根ざしたものであることを強調するためである。
〇また筆者は、「福祉文化」の概念を、一番ヶ瀬康子の言説を引用し「福祉の文化化」と「文化の福祉化」が統合されたものとして捉える。前者は、社会福祉は質・量ともに豊かで快適な人間らしい生活を保障するものであること、後者は、障がい者や高齢者を含むすべての人々が文化創造の担い手であることを含意する。そのうえで、「福祉」が単なるサービス提供や社会的支援に留まらず(憲法第25条)、人々の生活そのものを豊かに快適にし(憲法第13条)、社会全体の文化、人間の豊かな感性と創造性を育む福祉文化として根付かせるべきものであると主張する。これはまさに、憲法25条の生存権のみならず、13条の幸福追求権の重要性を説く大橋の「福祉原理」と通底する・共鳴するものである。
〇いまひとつ筆者は、「協働」(collaboration)と「共働」(co-action)の概念を明確に区別し、「対抗」から「共働」へのプロセスを支援学の視点から提示して市民自治とまちづくりの立ち位置とプロセスを考察してきた(詳細は、筆者ブログ『市民福祉教育研究所』2017年6月1日公開記事「『支援学』ノート―『相互支援』『相互実現』に関する基本的な視点―」を参照されたい)。
〇「協働」は往々にして、行政主導や専門家主導の枠組みのなかで行われる「協力」に近いニュアンスを持つ。それに対して「共働」は、市民が主体的・自律的に、対等な立場で互いに働きかけ、共に新たな価値を創造していく能動的な関係性を意味すると考える。この区別は、単に市民を行政の活動に「参加させる」だけでなく、市民自身が「主体」として福祉を「創りあげる」という、市民参加(参画)の質的向上への強い志向性を示すものである。これは、福祉教育が市民のエンパワーメントを通じて、真の市民社会を構築するための重要な手段(「思想的武器」)となる・ならなければならないという思想に基づくものである。なお、「共働」を平易に換言すれば、市民や行政、専門家などが同じ土俵(フラットな場)を新たに創ってそこに上がり、相互信頼に基づく対等な関係のもとで共通のゴールに向かって同じ汗を流すこと、といえる。
〇この「共働」は、既存の枠組みを追認する「協調」とも異なる。それは、現状の矛盾や不条理に対する「対抗」を不可欠な起点とする。すなわち、「共働」とは、現実の課題に真摯に向き合い、論理的に対抗し、民主的な熟議を重ねることで、既存の枠組みを乗り越えるエネルギーを獲得していくプロセスに他ならない。この過程こそが市民自治を形成する本質であり、地域変革の原動力となるのである。
〇以上のような思想的背景をもつ「市民福祉教育の理念と構造」は、管見によると図1のように整理される。ここでの要点は次の通りである。
〇(1)市民福祉教育は、当初から福祉教育そのものを目的として実施される事業・活動である①「福祉教育事業」(意図的・直接的営為)と、福祉教育そのものを第一の目的としてはいないが、結果的に福祉教育事業・活動になる②「福祉教育機能」(非意図的・間接的営為)に分けられる。市民福祉教育ではこの2つの側面の推進を重視する。
〇(2)教育の形態は一般的には、①「定型教育」、②「不定型教育」、③「非定型教育」の3つに大別される。市民福祉教育においては、これらに加えて、日常生活上の市民・文化活動(運動)などが展開されるなかで生じる教育的営為として④「市民・文化活動(運動)等」を考えることができる。これは、非意図的・間接的、あるいは偶発的な学びを含むものである。同時に、それは単なる知識の習得に留まらず、参加者が社会創造や変革のプロセスを実体験として学習していく点に特質がある。
〇(3)市民福祉教育(福祉教育事業)は、①理念・目的・目標、②学習者、③指導者・支援者、④素材・教材、⑤教育内容・方法、⑥教育評価などによって構造化される。教育は、その理念や目的・目標の明確化なくして、学習者の主体的・創造的な学習活動や指導者の意欲的・積極的な指導は促進されず、その成果を期待することはできない。そこから、教育の「理念・目的・目標」は、市民福祉教育の構造を成す重要な内部要素であり、「理念・目的・目標」「学習者」「指導者」「教材」などは、相互に作用・影響し合い、相乗効果を生み出すものとして存在する。
〇ひるがえって、(4)市民福祉教育を広義に捉えるならば、その根底にある「形成」「学習」「教育」をめぐる概念そのものを再検討する必要がある。形成(広義の教育)は、人間が地域・社会生活の営為そのものによって「形づくられる」過程である。この形成は学習なしには成り立たず、学習は形成に不可欠な営為として位置づけられる。一方、教育(狭義)とは、組織的・体系的な制度のもとで展開される目的意識的な過程を指す。勝田守一が「学習のないところに教育はない」「教育とは学習の指導である」と述べたように(『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150頁)、教育と学習は密接不可分である。したがって、形成とは教育と学習の相互作用(共鳴や葛藤)が生み出す、動的な自己変革のプロセスであるといえる。

図1 市民福祉教育の理念と構造
〇図2は、市民福祉教育の領域(構成要素)とその連関性を視覚化したものである。市民福祉教育は、これら4つの領域(教育形態)を重層的に包摂し、相互に連関し合うひとつの総体として構成される。

図2 市民福祉教育の領域

 

〇図3は、本文の論述に基づき、市民福祉教育の構造を可視化したものである。ここでは、市民福祉教育が意図的なプログラム(福祉教育事業)と地域・社会生活のなかでの学び(福祉教育機能)の両面から構成され、両者が「形成」「学習」「教育」という3つのプロセスを介して、相互に規定し合いながら動的に連動していることを示している。

図3 市民福祉教育の構造(相互作用モデル)

〇以上の考察を踏まえ、大橋・原田両氏の理論と筆者の福祉教育論における特質を対照させると、表1の通り整理できる。

表1 大橋謙策、原田正樹、阪野貢の福祉教育論の特質

Ⅲ 福祉教育の現代的課題と創造的継承

〇「大橋福祉教育論」の特質は、それが単なる個人の意識改革や情操教育に留まるものではなく、社会構造への問い直しを含む「実践科学」としての枠組みを持つものである。今日、地域共生社会の実現が叫ばれるなかで、福祉教育は「頼り合い、分かち合い、支え合う」担い手の育成という狭隘な枠組みに回収されつつある。そういうなかで、大橋が強調する「博愛の精神」は、人間の尊厳を保障する社会システムそのものを変革する「力」を内包するものであり、そうでなければならない。
〇また、松岡による「大橋福祉教育論」への批判、とりわけ「未分化な学習者像」や「批判的創造性の欠如」は、福祉教育が学習素材論に偏重し、学習主体論への言及が必ずしも十分なものではないという指摘である。この批判は、福祉教育が単なる体制順応や動員の手段として機能するリスクを孕んでいることを意味するものでもある。そこで筆者の管見では、(1)福祉教育の学習者は、個々人が抱える生活課題を地域・社会構造の課題へと連結し普遍化させるプロセスを通して、生活主体や政治主体である「市民」として再規定されることが肝要となる。(2)学習素材である「社会福祉問題」については、固定的な対象・素材として捉えるのではなく、それに対する「対抗」や「共働」のプロセスに位置づけるべきである。そこに「批判的創造性」が醸成され活用されることになる。さらに松岡が批判する(3)「教育概念の曖昧さ」については、福祉教育は単なる体験学習やその手法(ハウツー)の提供ではなく、原田がいうリフレクション(省察)を通して、市民自治を形成するプロセスが重視されなければならない。これらによって、冒頭に記した現場の閉塞感を打破し、実践の「ワクワク感(ダイナミズム)」を取り戻すことができるのである。
〇原田が説く「協同実践」についていえば、それは、複数の人間が地域の社会福祉問題について共有化・共通認識し、それぞれの立場の違いを大切にしながら、問題解決に向けての、双方向的な「学び合う関係性」「学びの関係づくり」(原田)を大切にした実践方法である、と理解できる。しかし、協同実践の構造や性質をはじめ協同実践が生みだす効果やそれを成功させるための方法や条件などについては、これまで必ずしも理論的かつ具体的に言及・議論されてきたとはいえない。そこで例えば、協同実践であっても、実践そのものは基本的には一人ひとりの人間のなかで営まれる。そこから、協同実践のあり方について検討する際には、一人ひとりの実践(個別性)といろいろな人たちとの実践(協同性、共同性)、そしていろいろな内容や方法の実践(多様性)という視点が必要かつ重要となる。実践の協同(共同)性を強調するあまり、その個別性とそれに基づく多様性を軽視することがあってはならない。この点についてどう考えるか、疑義なしとしない。
〇こうした批判的視座を共有しつつも、大橋と原田、そして筆者の福祉教育論は、基底において共通の志向性を有している。すなわち、「地域福祉と福祉教育の不可分性と有機的連携」「主体形成の重視と市民参加の促進」「まちづくり・社会変革の推進と地域共生社会の実現」「実践と理論の往還的関係の重視と実践研究の推進」といった視座である。これらは、断絶した個別の研究ではなく、相互に影響し合い、継続的に取り組まれ、学術的な系譜を形成してきた(している)といいたい。しかし、残された課題は多い。それを本稿の「はじめに」指摘した問題意識に立ち返り、根源的な理念から具体的な地域実践へと昇華させていく階層的なプロセスとして整理・体系化すると、表2のようになる。また、その内容は以下の通りである。

表2 「まちづくりと市民福祉教育」の課題の階層構造

 (1)核心化(根源の探究):人間存在の再定義と深遠な哲学性の探究

〇大橋の「博愛の精神」や原田の「相互依存的自己実現」、筆者が提唱する「まちづくりと市民福祉教育」といった理念は、福祉教育が単なる知識や技術・技能の伝達に留まらず、地域変革(まちづくり)や社会全体の価値観の変革、人間のあり方を問い直す哲学的な営為であるという深遠な視点を提供する。これは、福祉教育の意義を再認識するうえでも重要であり、根源的な探究を必要とする。すなわち、福祉教育は、支援・受援という固定的な役割を超越し、共生社会の構成員としての「人間存在」を再定義することを迫られる。そして、福祉教育を根源的な思想教育として捉え直すことは、混迷する現代社会において、人間としての尊厳をいかに守り抜き、連帯や共働の哲学をいかに構築するかという、最も本質的な探究へと繋がっていくのである。
(2)構造化(理論の構築):多角的視座による福祉教育理論の再構築
〇福祉教育学界では、教育方法・技術論的な観点からの研究は盛んであるが、福祉教育の本質に迫る理論的・歴史的論考はいまだに少ない。そうした福祉教育研究の現状と課題、その背景(要因)を明らかにするとともに、福祉教育実践・研究の新たな展開の方向性と可能性を探ることが、いま、改めて問われている。具体的には、先駆的な実践や思想がいかに形成され、変容してきたかを辿ることで現代的課題の根源を浮き彫りにする。格差や排除の社会構造のなかで、福祉教育が果たすべき連帯や共働の機能を再定義する。教える・教えられるという二元論を脱し、多様な生を生きる当事者との対話を通じて共生の本質を理論化する、などがそれである。それらに応えるためには、多面的・多角的な視座に基づく福祉教育理論の構築や刷新に関する総合的な研究が求められる。
(3)架橋化(理論と実践の往還):理論と実践の融合に向けた「バッテリー型実践・研究」の推進
〇福祉教育ではこれまで、一面では理念が高尚すぎたり、概念が抽象的・情感的すぎたりすることで実践への落とし込みが難しいという課題が指摘されてきた。この課題を克服し、実践の場で生きた理論を構築するための有効なアプローチに、大橋がいう「バッテリー型実践・研究」(研究者と実践家との協働研究方法)がある。これは、研究者が客観的な視点から分析を行う一方で、実践家は主観的な現場感覚と個別の事象への洞察を持ち寄り、両者が対等なパートナーシップのもとで理論と実践の往還を繰り返す動態的な方法論である。このプロセスを通じて、理論は現場の事実によって検証・洗練され、実践は理論的な裏付けを得ることで普遍性を持つモデルへと体系化される。このように、学問的探究と現場の変革を地続きのものとして捉え直すことで、福祉教育は単なる情操教育の枠を超え、誰もが当事者として参画する社会変革のプロセスへと進化させることになる。
(4)止揚化(時代への最適化):AI・新グローバル時代における新次元の展開
〇AI、デジタル技術の進展や気候変動・貧困・紛争といったグローバルな社会課題は、従来の福祉のあり方や教育の枠組みを大きく変えつつある。こうしたなかで、福祉教育は、AI時代におけるデジタル技術を活用した新たな学習方法や、深刻で多様な課題が浮き彫りになっている新グローバル時代(多極化と相互依存)における異文化間理解をどう促進するかが問われる。とりわけAIについては、アルゴリズム(自動的・形式的な手順)による最適解の提示が葛藤を伴う合意形成のプロセスを省略させ、思考停止や体制順応型の主体形成を促す危うさがあり、高度なリテラシーが求められる。逆にいえば、だからこそ対面での「共働」を通じた合意形成のプロセスが肝要となるのである。例えば、AIがデータに基づいて提示する「最短・最適ルート」の効率性をあえて保留し、寄り道や遠回りから生じる偶然の出会いのなかにこそ、効率性には還元できない人間存在の深遠な意味を見出す視点が必要である。
(5)変革化(社会の共創):多様なアクターとの連携とソーシャルアクション機能の強化
〇福祉教育は単なる学習活動に留まるものではない。福祉教育は、個々の地域生活課題を社会全体の課題として捉え直し、その社会を変革していくための「思想的武器」とならなければならない。そのためには、福祉関係者のみならず、企業、NPO、行政、教育機関といった多様な主体(アクター)との重層的な連携を深めることが不可欠となる。その連携においては、福祉の専門性を軸にしつつ、異分野の知見を融合させる「プラットフォーム型」のモデルが求められる。こうした多様なアクターとの共働は、福祉教育に新たな視点をもたらし、市民一人ひとりが「自分事」として社会課題に向き合う土壌を耕すことになる。さらに、福祉教育による学びや気づきを、単なる「個人の感想」で終わらせるのではなく、制度の不備を是正するための政策提言や、困難を抱える人々の声を可視化する権利擁護(アドボカシー)へと結実させていく必要がある。

〇では、これらの視点・枠組みは、実際の福祉教育の現場にどのような変容をもたらすか。この5項目を、例えば「車椅子体験」という具体的な福祉教育活動に照射してみると、こうである。それは、従来の枠組みを解体し、真の意味で社会変革を志向する「新たな車椅子体験を創り出す」試みに他ならない。
〇車椅子体験に参加する障がい者は、単なる「講師」ではなく、筆者がいう「共働」の「パートナー」として位置づけられる。参加する子どもや障がい者は、段差という物理的障壁に直面した際、それを個人の心身機能の欠損に帰属させるのではない。大橋の「博愛」や原田の「相互依存」の理念に基づき、解消すべき課題は「社会の側」にあることを認識する。この活動には、社協職員等の専門職や地域活動家が参画し、大橋のいう「バッテリー型実践・研究」の手法を導入する。これにより、参加者の主観的な意識変革や発見された個別の困りごとを、地域全体の共通課題へと「翻訳」することが可能となる。さらに、その調査過程では、AIやデジタル技術を積極的に利活用して、歩行空間の危険性や安全性、利便性を客観的にデータ化・評価し、例えばバリアフリーマップや行政への要望書などを作成する。その際、AIが導き出す「合理的な移動」を目的化するのではなく、車椅子を利用するパートナーと共にあえて時間をかけて地域を歩くという非効率的なプロセスのなかで、身体を通じた気づきや共感的な対話を深めていく。そして、これらのエビデンスを基に行政や関係機関へ政策提言を行い、具体的なソーシャルアクションを展開していく。このように、従来の車椅子体験が陥りがちであった「利用者の不便さを知る」「善意を喚起する」という同情的な理解の枠組みを超え、参加者一人ひとりが地域共生社会を共創する主体へと変革するのである。

おわりに
-「まちづくりと市民福祉教育」の地平と今後の展望-

〇本稿の主張のひとつは、大橋が唱える「博愛による価値変革」、原田が提唱する「相互依存的な関係変革」、そして筆者が主張する「市民自治による社会変革」を統合・昇華させ、「市民福祉教育を真の「社会変革モデル」として再定義することにある。これは、単なる知識の伝達や「福祉の心」の醸成といった既存の枠組みを超え、市民としてのリテラシー(批判的創造性)を研ぎ澄ます「動態的な融合プロセス」の構築を意味する。ここで立ち現れるのは、構造的な課題の解決に向けて既存の社会システムを問い直し、自律的にデザインし直す「変革主体」としての市民像である。それは、「ふだんの、くらしの、しあわせ」を自らの手で紡ぎ出す、子どもから大人までを包摂する存在に他ならない。
〇こうした「社会変革」を確固たる社会体系として根付かせるためには、福祉教育そのものの学問的基盤を問い直す作業が不可欠である。しかし、昨今の福祉教育における実践や研究の動向を見渡すと、一抹の危機感を禁じ得ない。その根底にあるのは、福祉教育を支える「歴史・哲学・原理」という三位一体の洞察が等閑視されているのではないか、という懸念である。具体的には、例えば、福祉教育は「いかなる歴史的・社会的背景によって生み出されたのか」「いかなる変遷を経て今日に至ったのか」など、その歩みについて検証してきたか(歴史)。「福祉教育とはいかなる教育的営為か」「共生の本質とは何か」など、根源的な問いを設定しそれに応答してきたか(哲学)。「人と人の繋がりはいかにして形成されるのか」「地域社会のエンパワメントはどのようなプロセスで生じるのか」など、そのメカニズムの理論化を図ってきたか(原理)、等々についてである。
〇本来、これらは独立したパーツではない。「歴史」から「哲学」が析出され、その「哲学」が実践の「原理」を導き、「原理」に基づいた実践が次なる「歴史」を創り出す。この循環的な連動性(構造)こそが、福祉教育を単なる手法に留めず、学問たらしめる生命線(条件・要諦)である。
〇本稿の主題に据えた「福祉教育論の再考と現代的展望」とは、単なる学術的な回顧に留まるものでも、根拠のない理想を語るものでもない。それは、真に持続可能な豊かな地域共生社会を市民が自律的・主体的にデザインし直すための、科学的で哲学的な営みである。既存の枠組みを超えた新たな理論構築と、現場に即した多角的な実践展開、そして「まちづくりと市民福祉教育」の新たな地平を切り拓く今後の研究に期待したい。
〇その探究の途上において、常に立ち返るべき座標軸(指針)がある。出典の真偽はさておき、「実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される」「実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である」「哲学なき実践は凶器であり、実践なき哲学は遊戯である」、そして「独りで歩めば速いが、共に歩めば遠くまで行ける」「地球規模で考え、足元から行動せよ」などともいわれるのがそれである。

引用・参考文献
(1)大橋謙策(1986)『地域福祉の展開と福祉教育』全国社会福祉協議会。
(2)大橋謙策(1995)『地域福祉論』放送大学教育振興会。
(3)大橋謙策(2008)『新訂 社会福祉入門』放送大学教育振興会。
(4)大橋謙策編著(2014)『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房。
(5)大橋謙策(2022)『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版。
(6)阪野貢・他編著(1998)『福祉教育論―「共に生きる力」を育む教育実践の創造―』北大路書房。
(7)阪野貢監修、新崎国広・他編著(2006)『福祉教育のすすめ―理論・歴史・実践―』ミネルヴァ書房。
(8)阪野貢(2009)『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい。
(9)原田正樹(2009)『共に生きること 共に学びあうこと―福祉教育が大切にしてきたメッセージ―』大学図書出版。
(10)原田正樹(2014)『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版。
(11)原田正樹(2022)『福祉教育の理論と実践方法―共に生きる力を育むために―』全国社会福祉協議会。
(12)中川淳一郎・適菜収(2017)『博愛のすすめ』講談社。
(13)松岡広路(2006)『生涯学習論の探究』学文社。
(14)松岡広路(2009)「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」『研究紀要』第14号、日本福祉教育・ボランティア学習学会。

【初出】
阪野貢「『大橋福祉教育論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2014年11月4日公開)
阪野貢「『まちづくりと市民福祉教育』論の体系化に向けて―大橋謙策の『福祉教育原論』に関する研究メモ―」(同、2022年10月25日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第8章
「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開
―“ あいとぴあカレッジ ” における立案プロセスとプログラム編成の視座―

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はじめに

〇「市民福祉教育」の理論を空理空論に終わらせず、実効性のある「まちづくり」へと結び付け、実践知へと昇華させるためには、科学的・体系的な「計画化」のプロセスが不可欠である。
〇筆者が本格的に「福祉教育」実践と研究に足を踏み入れた嚆矢は、東京都狛江市の社会福祉協議会(以下、「社協」と略す)における取り組みであった。それは、地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」)の策定(1990年3月)であり、その中核事業である “あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代という早い段階で福祉教育を「まちづくり」の不可欠な基盤として位置づけたものであった。この計画策定と「成人を対象にした体系的福祉教育実践」を主導したのは、大橋謙策である。大橋は、その取り組みについて次のように評価する。

狛江市の実践は、東京という大都市のベットタウンである狛江市の地域属性、市民属性を考えて、機能的な生涯学習の視点から福祉教育実践を進めようとして試みである。この実践は東京都三多摩地区で1960年代から70年代において豊かな実践を展開した「市民大学構想」に学んだもので、それを単なる言語能力を媒介とした知的認識を高めための内容にせず、できれば問題発見・問題解決型の学習方法を取り入れることにより、新しい福祉教育実践の展望を切り開こうと考えて、基礎課程、実技課程、専門課程といった体系化が考えられた。その方法も、社会教育実践で展開されてきたシステムを活用した。成人に対する福祉教育といえば、単発の福祉講演会が中心の中で、このような体系的、組織的実践が展開されていることは高く評価されてよい(『福祉教育モデル事例集 地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1996年3月、85頁)。

〇本稿では、狛江市社協における“あいとぴあカレッジ”の実践を事例として、「市民福祉教育」がいかに計画化され、「福祉のまちづくり」の基盤として構造化されていったのかを実証的に解明することを目的とする。研究手法は、ケーススタディ(事例研究)に依拠し、分析対象である“あいとぴあカレッジ”を地域福祉計画に基づく体系的な福祉教育実践として位置づけ、その立案過程および実施過程に関する一次資料(会議記録、事業計画書、学習プログラム等)に基づき分析を行った。また、本研究は単なる記述的分析に留まらず、実践の過程に内在する計画原理や構造を抽出し、理論化を試みる実践研究としての性格を併せもつものである。
〇本研究の位置づけをより明確にするために、いま少し、先行研究との関係を整理しておきたい。従来の福祉教育研究は、大きく①実践事例の記述的蓄積、②教育内容・方法に関する実践論的検討、③地域福祉との関連を論じる理論的研究、の3つの系譜に整理することができる。しかしながら、これらの研究の多くは、福祉教育を「事業」あるいは「活動」として把握するに留まり、それがいかに計画化され、地域福祉計画のなかで構造化されるのかという「計画過程」そのものの分析は必ずしも十分ではなかった。とりわけ、住民の生活課題や学習要求が、いかなるプロセスを経て学習プログラムへと編成され、さらにそれが「まちづくり」実践へと接続されるのかという動態的連関については、理論的にも実証的にも未解明な部分が多い。このような問題関心に基づき、本研究では、“あいとぴあカレッジ”の実践を対象として、①福祉教育がいかに計画化されたのか、②その計画化プロセスはいかなる構造をもったのか、③それがいかに地域における「まちづくり」へと展開されたのか、という3点を中心的な分析課題として設定する。これにより、市民福祉教育を単なる教育実践ではなく、地域変革を志向する計画的・構造的プロセスとして理論化することを試みる。
〇なお、「あいとぴあ推進計画」の策定は、1988年7月4日開催の第1回運営委員会、同年7月19日開催の第1回作業委員会からスタートした。また、 “あいとぴあカレッジ”の「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われたのは、1991年5月9日であった。翌1992年度から、「実務課程」がカウンセリング(相談活動者)コース、ホームヘルプ(家事・介護援助者)コース、コミュニケーション(初級・中級手話)コースの3コース制で開講された。基礎課程は、2000年度第11期で終了し、修了者は累計209名を数えた。実務課程は1999年度をもって終了した。その後、狛江市社協は、2002年度に小地域福祉活動の推進を企図した“あいとぴあカレッジ”の地域版を実施し、また2004年度から2009年度にかけてマネジメントコース(課題解決実践講座)を展開した。2018年度からは、市委託事業として「福祉カレッジ」を運営している。
〇ちなみに、“あいとぴあ”とは、7万市民の“であい” “ふれあい” “ささえあい”を示す三つの“あい”とユートピア(理想郷)の合成語で、狛江市民が主体となって進める「福祉のまちづくり」の基本精神の意味が込められている。

 Ⅰ 福祉教育計画の意義と役割

〇福祉教育は、すべての地域住民の生命と生活を守り、人間的な発達と自立を保障する地域・社会を創造するために、住民がその主体となって家庭・学校・企業・地域などの場で展開する教育・学習活動の総体をいう。したがって、福祉教育活動は、単なる社会福祉に関する知識や技術の伝達活動ではない。啓蒙や宣伝活動でもない。また、教化活動でもないし、そうであってはならない。それは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした、住民の内発的な意欲に基づいた、住民による自己教育・相互教育活動として展開される。その際、住民は、学習主体であるとともに教育主体でもあり、学ぶことを通して教え、教えることを通して学ぶ。換言すれば、住民は、相互に学びかつ教え、教えかつ学ぶという関係を通じて福祉文化の創造や福祉のまちづくりを進めるのである。福祉教育計画とは、地域住民がこのような福祉教育活動を自発的・主体的に創造し、展開していくための計画をいう。そして、計画そのものを練りあげていく主体は、あくまでも地域住民である。また、その取り組みは、そのまま同時に福祉教育の実践であり、運動でもある。
〇ところで、例えば、社協による福祉教育事業・活動は、従来、無計画に、あるいは単なる思いつきや経験などによって、しかもせいぜい単年度計画によって実施・展開されてきたといってもよい。そういった事業・活動に科学性・客観性・体系性を与え、また事業・活動を継続的に安定化させるものが福祉教育計画である。また、福祉教育計画は、一定地域内での福祉教育事業・活動を計画化の対象とする地域計画であり、かつ総合的な計画である。その際、福祉教育計画は、あくまでも地域計画としての福祉教育計画であり、地域の総合計画ではない。また、「総合的」とは、①計画内容として、事業計画、施設整備計画、マンパワー計画、財政計画を含む。②教育の3領域と呼ばれる家庭教育、学校教育、社会教育を生涯学習の視点から有機化・再編成する。③行政をはじめ、地域内の公的機関や民間機関、それに住民団体などとの連携・協働を図る。④福祉・教育・保健・医療などの関係行政、施設、機関の連携・統合化を図る。⑤長期・中期・短期あるいは単年度計画など、一定の見通しを立てる、といった意味である。
〇以上を要するに、福祉教育計画の策定の意義は、福祉教育事業・活動の総合化、科学化、体系化、継続化、それに合意形成などにある。また、その主な役割は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした住民の自発的・主体的な福祉教育活動を担保することにあるといえよう。

Ⅱ 福祉教育計画の内容と策定方法

1 福祉教育計画の内容
〇福祉教育計画は、一般的・基本的には、①事業計画、②施設整備計画、③マンパワー計画、それに④財政計画の4つの計画から内容構成される。①事業計画は、福祉講座・講演会・行事などの諸事業の開催や福祉広報・啓発事業の実施に関する計画、②施設整備計画は、施設、設備、教材・教具などの開発、整備、活用に関する計画、③マンパワー計画は、福祉・教育・保健・医療などの関係職員、社会福祉サービス利用者、一般市民、ボランティアなどの開発、育成、活用に関する計画、④財政計画は、財源の確保や運用に関する計画、をそれぞれいう。これらのうち、基本をなすのは事業計画である。そして、福祉教育計画は、まず事業計画が策定され、次いでその事業展開に必要な施設整備計画とマンパワー計画が策定され、その3つの計画を裏うちするための財政計画が策定されて計画が構造化される。
〇①事業計画(シゴト)の策定は、単なる思いつきや経験、勘(かん)、あるいはこれまでの慣習などによって立案した福祉教育事業を羅列することではない。また、事業数の多さや事業の種類の多様さを誇るものでもない。福祉教育の目標に照らした有意義な事業を精選し、それら各事業の相互の関連づけを行うとともに、重点的な事業を中核に事業の構造化を図ることが肝要となる。
〇②施設整備計画(モノ)は、住民の生活実態や学習要求、地域の教育や社会福祉に関する将来構想に裏づけられたものでなければならない。しかも、福祉教育振興についての長期的なビジョンのもとに策定されなければならない。その際、学校、公民館、社協、社会福祉施設などで現に行われている福祉教育の諸事業・活動や諸形態を生涯学習の視点で捉え、見直し、再編成し、その有機化・統合化を図ることが必要かつ重要となる。
〇③マンパワー計画(ヒト)については、まず、自分のもっている知識や技術、能力や経験を地域住民のために提供しようという住民――“まちのために自分の知恵や腕を貸そう”という住民を発掘、確保し、またそういった住民を助言者や援助者として養成・研修するための計画が必要かつ重要となる。また、社協職員は、側面から住民の福祉教育活動を助長・奨励し、方法論的・技術論的に助言・援助することを本務とするが、その際、側面的援助活動の中枢をなすものは学習情報の提供と学習相談である。社協職員には、学習情報の収集・処理・提供に関する知識と技術を有し、学習の内容や方法について専門的に助言・援助しうる能力が求められる。そして、こういった知識や能力をもつ社協職員の養成・研修計画や配置計画が必要となる。
〇④財政計画(カネ)は、福祉教育計画に現実性・実質性を与えるものとして、計画を空文化させないためにも必要不可欠である。その際、継続的・安定的な財源確保を図るために、科学的な現状分析と長期的な見通しをもった財政計画を立てることが求められる。すなわち、財政計画は、長期的に健全な財政構造が維持されながら、事業・活動が円滑に、効率的・目的的・生産的に経営され、その目標が達成されていくものでなければならない。
〇なお、こういった内容をもつ福祉教育計画は、単年度で完結されるものではない。一般的には中・長期にわたるものが策定され、その複数年度計画のなかから各年度の単年度計画が策定されることになる。中・長期の見通しを欠いた単年度の福祉教育計画は、体系性や計画性、必然性や説得性の弱いものになる。

2 福祉教育計画の策定主体
〇以上のような福祉教育計画の策定主体は、種々の学習要求や学習必要をもつ地域住民である。住民主体による計画策定がなされない限り、いかに建設的で理想的な計画が策定されたとしても、それは決して本来の意味での福祉教育計画であるとはいえない。しかし、福祉教育計画の主体は地域住民であるとはいえ、一部に傑出した住民が存在するものの、計画策定のための力量を備えた住民は極めて少ないといわざるをえない。そこで、現実的、実質的には、計画策定に際して社協が中核的・先導的役割を担うことになる。また、行政には、住民が主体的・能動的・自律的に福祉教育計画を策定することができるよう環境醸成や条件整備を図り、側面的援助を行うことが求められる。とりわけ社協職員には、計画策定に当たって、住民の主体性・自律性を損なわないように専門的・技術的に助言・援助するとともに、個々の住民の声が実質的に計画に反映されるよう配慮する特別重大な役割を果たすことが期待される。しかし、社協職員は、必ずしも計画策定についての科学的・専門的な知識や技術を有しているとはいえない。そこで、計画策定能力をもつ社協職員の養成・研修や適正配置が焦眉の課題となる。

3 福祉教育計画の策定過程と方法
〇計画は、通常、Plan→Do→See という手順で進められる。教育計画とりわけ福祉教育計画に関する限りは、そうした考え方ではその計画は空論化し、画餅に帰しやすい。福祉教育計画は、See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)というサイクルで進められなければ実効性のあるものとはならない。
〇すなわち、福祉教育計画を策定する場合、まず現行の福祉教育事業・活動を洗い出して現状と課題を明らかにするとともに、住民の福祉意識や社会福祉に関する学習要求や学習必要について調査検討することからはじまる。そのうえで、次に、目標の設定を行う。目標は、単に夢や理想を語ったものではない。また、スローガンを掲げたものでもない。目標を設定する際には、そのシゴト(事業)の実現可能性をはじめ重要性、緊急性、効率性などを考慮して設定されなければならない。目標が設定されれば、その目標を達成するために必要なモノ、ヒト、そしてカネなどの手段が選択され、その組み合わせについて検討されることになる。以上をより具体的・実際的にいえば、福祉教育計画は、①目的の設定、②目標の明確化、③現状に関するデータの収集、④目標達成のための合理的な手段の選定、⑤事業・活動の展開、そして⑥計画の評価、というプロセスをたどるのである。
〇①福祉教育における目的は、最終の到達点をいうが、一般的には曖昧で抽象的・理念的なものにならざるをえない。しかし、目的を具体的に表現した②目標は、抽象度を下げ、明確化を図ることが必要かつ重要となる。さもないと具体的な計画策定が不可能となり、また目標を達成するための手段の選定が困難になる。また、計画目標は、実現可能なものであり、焦点化され、しかも構造化されていなければならない。すなわち、抽象的・総花的で焦点の定まらない、しかも実現性の乏しい目標の設定は問題があり、無意味でもある。③現状に関するデータの収集については、意図的・計画的・系統的に計画策定のための基礎的データを収集することが肝要となる。しかも、数量的調査のみならず、多様な形態と方法を駆使して地域住民の生活課題や学習要求などを捉えることが必要である。単発的なアンケート調査だけによる資料収集では、内実をともなった福祉教育計画の策定は困難である。④目標達成のための手段は、目的合理的に選定・決定されなければならない。単なる思いつきや先進地域での実践例の模倣では意味がない。福祉教育計画は、本来、地域の歴史や特性を基盤に、地域住民自らの創意と工夫、そして努力によって策定される個性的なものである。⑤各種の事業・活動には、個々ばらばらにではなく、常に相互の関連性のもとで展開されることによって有意義な成果を期待することができる。そして⑥計画の評価は、目的や目標と裏はらの関係にあり、計画策定過程上、極めて重要である。そして、まずは設定した目標がどの程度達成され、どのような結果・成果があったかを見極めることがポイントになる。また、評価は、より整備された次の段階の計画策定を動機づけ、方向づけるために行われるものである。
〇以上の①から⑥のうち、福祉教育計画の策定過程上その心臓部分にあたるのは、②目標の明確化である。計画目標の設定に際しては、①地域住民の生活実態と生活課題や地域課題、②住民の学習要求と学習必要、それに③地域のさまざまな学習機会の供給実態などについて的確に把握することが必要かつ重要となる。
〇まず、①住民の生活実態については、地域の歴史や特性に留意し、地域を展望し、将来予測を含めた生活実態を把握する必要がある。生活課題や地域課題については、それを生み出す生活構造や社会構造とのかかわりで把握すべきである。②住民の学習要求は、現実的には住民の学習関心や学習の傾向について把握するなかで捉えることができる。その際、住民の生活実態や生活課題・地域課題とのかかわりで把握することが肝要となる。また、学習要求は、今日、高学歴化や情報化の進展によってますます多様化し、高度化しているが、住民自身によってまだ意識化、課題化されていないものもあることに留意する必要がある。そして、その学習要求の内容をいかに実証的に明らかにするかが問われることになる。一方、学習必要は、住民にとって社会的・発達的・教育的に学習が必要とされるものをいう。何を学ぶべきかについては、福祉のまちづくりや福祉教育、その計画策定などについての基本的な考えが問われることになる。この学習要求や学習必要は、そのすべてがそのまま現実の事業計画の内容とはならない。両者は福祉教育というフィルターを通して整理され、重要性・緊急性・日常性・共通性・適時性などの視点からプライオリティ(優先度)をつけて選択・精選され、課題化され、そして事業化されることになる。また、仮に学習必要だけで事業計画が立案された場合は、住民に強制感や疎外感を与え、住民に支持されるものとはならないことに留意する必要がある。③地域の学習機会の供給実態については、社協や社会福祉施設などによる福祉講座や講演会などの開催状況、公民館や図書館などにおける社会教育活動の現状、それにカルチャー・センターをはじめとする教育・文化産業の動向などについて総合的に明らかにする必要がある。そして、それらの相互の連絡・調整を含めた計画策定が求められる。

Ⅲ 福祉教育事業計画の立案の手順と視点

〇福祉教育事業計画とは、福祉教育の全体計画(総合計画)の基本を構成するものであり、例えば福祉学級・講座や福祉講演会、福祉映画会、福祉祭りなどの実施計画をいう。それは、事業の名称をはじめ実施目的、実施主体、実施期間や時間、実施場所、学習者や参加者、講師や指導・助言者、学習目標、学習内容や方法、それに経費などを構成要素とする。それぞれの福祉教育事業計画のなかで学習課題(主題)や学習内容・方法、学習の展開過程などについて詳細に計画・立案したものを、福祉教育における学習プログラムという。それは、学校教育に即していえば、カリキュラムや学習指導案に相当する。そして、福祉教育計画と事業計画、それに学習プログラムの3者は、密接不可分の関係にあり、また福祉教育計画→事業計画→学習プログラムという順に具体化、実体化される。
〇ところで、狛江市社協が策定した“あいとぴあ推進計画”では、重点事業のひとつとして“あいとぴあカレッジ”の開講が構想された。それは、住民が“あいとぴあ”のまちづくりを主体的・創造的に展開するための、その善意の気持ちを有効に活かすための学習(福祉教育)の場として位置づけられた。ここでは、“あいとぴあ推進計画”策定後、“あいとぴあカレッジ”開講に至るまでの狛江市社協や住民の取り組みについて、とりわけ事業計画や学習プログラム立案の手順と視点に焦点をあてて概観し、若干の考察を加えることにする。

1 ボランティア活動推進委員会の設置
〇1990年3月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会によって策定された“あいとぴあ推進計画”が、社協の理事会・評議員会において報告され、狛江市社協が今後取り組んでいく基本計画として承認された。そして、1990年度は、“あいとぴあ”元年として、推進計画そのものの住民への周知・浸透と計画の実施・推進体制づくりが基本方針として定められた。
〇1990年8月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会の発展的解散の後をうけて、在宅福祉推進委員会の組織化について検討する在宅福祉サービス関連事業連絡会とともに、ボランティア活動推進委員会(以下、「推進委員会」と略す)が設置された。推進委員会は、ボランティア活動・福祉教育推進事業の企画・立案を主な任務とし、学識経験者をはじめボランティア、地域住民団体、福祉施設・団体、地域産業、教育機関、行政機関、それに社協などの各関係者27名によって構成された。
〇推進委員会の委員に幅広く関連分野からの参加を求めたのは、各委員のそれぞれの分野での働きかけを通して、“あいとぴあ”市民運動の拡大と深化を期待してのことであった。例えば、ボランティアの生(なま)の声を伝えるために、狛江ボランティア連絡会(1984年4月結成)から3名のボランティアが委員として参加した。その3名は、推進委員会と狛江ボランティア連絡会とのパイプ役を果たした。また、教育の分野では、小・中・高等学校の校長や教頭、それに教育委員会の参加を得て、それが学校における福祉教育推進へのひとつの重要な契機にもなった。推進委員会は、1990年度においては通算3回開催されたが、委員が多人数ということもあってか、積極的に協議するというよりは一面では承認機関的なものにとどまった。協議が積極的に行われたのは、推進委員会のもとに設けられたボランティア活動推進委員会企画小委員会(以下、「企画小委員会」と略す)の場であった。

2 “あいとぴあカレッジ”開講のための準備活動
〇第1回推進委員会において、“あいとぴあカレッジ”に関する諸事項の素案づくりを主な任務とする企画小委員会が設置された。企画小委員会は、推進委員会委員長(1名)、同副委員長(2名)、ボランティア(1名)、福祉団体関係者(1名)、中学校長(1名)、教育委員会関係者(2名)、福祉事務所長(1名)、それに社協理事(1名)の計10名の委員によって構成された。そこで検討された事項は推進委員会にもちあげられ、そこでの協議を通して合意形成が図られた。
〇1990年9月には、企画小委員会のなかに作業委員会が設けられた。それは、学識経験者(推進委員会副委員長)と社協事務局職員の4名の委員によって構成され、通算4回開催された。そこでは、“あいとぴあカレッジ”に関する事業計画や学習プログラム立案の基礎的・具体的な作業が、主としてブレイン・ストーミングの討議法で行われた。
〇以下では、各回の企画小委員会において検討・協議されたことを、社協事務局の記録から概観することにする。

1)第1回企画小委員会(1990年9月)
〇“あいとぴあカレッジ”は、狛江という地域で、住民が寄り合って創るカレッジであるという点が再確認され、その考え方をベースにいろいろな意見が出された。例えば、福祉のまちづくりは住民の生活(暮らし)から出発しなければならない。したがって、その担い手の育成・確保を図ろうとする“あいとぴあカレッジ”は、住民の暮らしに密着したものであることが求められる。そこで、講師(指導者)は狛江市内の人材に求め、住民の生きざまに学ぶ。学習資料は、地域の実態や住民の生活現実に根ざした生(なま)の資料に基づく、手づくりのものとする。学習場所(会場)は、市内の小学校の空き教室を有効利用する方向で考えることにし、住民が下駄履きで気軽に参加できるよう配慮する、などが決定された。

2)第2回企画小委員会(1990年12月)
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムを中心に協議された。また、住民の・住民による・住民のためのカレッジであるという視点を生かすために、学習者もカレッジの運営に積極的にかかわれるような「運営委員会」の設置について検討された。その他、学習者が主体的・創造的にかかわれる体制づくりという視点から、開講式以前に第1回の学習日を設け、オリエンテーションを行う。聴講生制度の導入については、聞きたい講座だけ参加する「つまみ食い学習」では福祉のまちづくりは担えないという考えのもとに、見送る。カレッジの学長については、遊び心をもって市内の最高齢者などが候補にあげられたが、“あいとぴあ推進計画”の産婆役を務めた狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会委員長(学識経験者)に依頼する、ことなどが協議、決定された。

3)第3回企画小委員会(1991年1月)
〇“あいとぴあカレッジ”での学習内容や学習方法についての協議、講師団の絞り込み、それにカレッジ案内・募集要項(「あいとぴあカレッジ――入学のご案内」)についての検討などが行われた。席上、市内の人材による講師の講話内容や方法に関し、とりわけ講師が人前で話をすることや現実生活についての自分の思いや願い、悩みや苦しみなどの内面をさらけ出すことの戸惑いなど、いくつかの疑義が提示された。しかし、“あいとぴあカレッジ”は住民が相互に学び合う場であり、講師は、自分の生きざまを話すことによって学習者に住民としての生き方の素材を提供するとともに、自分自身も一人の住民として地域社会に貢献し、また自己実現・自己向上を図る、という基本的理念が再確認された。また、今回の企画小委員会では、学習評価の視点と方法についての検討もなされた。

4)第4回企画小委員会(1991年2月)
〇“あいとぴあカレッジ”の協賛団体の募集や学習者の修了レポートのあり方などについて検討された。また、学習プログラムの具体的な詰めの作業が行われた。そして、企画小委員会としての成案を得た。

〇1991年2月、第3回推進委員会が開催された。そこでは4回にわたる企画小委員会での検討結果が報告され、協議を経てほぼ原案通り“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムが決定された。
〇“あいとぴあカレッジ”の事業計画案や学習プログラム案は、以上のように、作業委員会、企画小委員会、推進委員会のあいだを何度となく往復し、そのなかで練りあげられ、内容の深化が図られていった。また、4つの委員会は、住民参加の場として、あるいは関係機関・団体との連携・協働や合意形成の場としても有効に機能したといえる。さらにまた、各委員にとっては、委員会は学習の場であり、自己実現や自己変革の場であったともいえよう。“あいとぴあカレッジ”の開講にかかわった委員の変革や変容が、“あいとぴあ”のまちづくりの「はじめの一歩」となったのである。

Ⅳ 福祉教育の学習プログラム立案の方法と留意点

〇地域住民による福祉教育において、その学習プログラムの立案は難しい。その主な理由のひとつは、学習者の属性や生活の実状、それに基づく発達課題や生活課題、学習要求や学習必要などがそれぞれ異なるところにある。その点では福祉教育の学習プログラムには定型はなく、学習者の数と同じだけの学習プログラムが準備されなければならないことになる。しかし、現実的には、地域社会の実態や動向などが反映される個々の学習者の多様な生活実態やニーズから、共通する、統合されるプログラムを立案・編成することになる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムの立案に際しては、“あいとぴあ”のまちづくりのための学習の方向づけや内容づけがなされたことはいうまでもない。しかし、その際、住民に対する学習要求調査に基づいて住民が必要とする学習項目や学習課題を探り出すという手法は採られなかった。また、主な、中心的な学習者(参加者)を想定・決定し、そのうえで学習者の生活実態や学習要求を把握するということもなされなかった。その点においては、限界のあるプログラムであったといわざるをえない。とはいうものの、立案・編成に際して、基本的なところではとりわけ次の4点について認識され、留意されたことについては注目しておきたい。

〇(1)学習プログラムの立案に際しては、「はじめに学習者ありき」という認識が重要である。しかも、その学習者を地域生活主体として捉え、その立場に即したプログラムの立案・編成が求められる。すなわち、個々の住民が現実的に抱える生活課題や学習要求、それに狛江市の歴史的社会性や地域性に基づく生活課題や地域課題などに焦点をあてた、実際的で実践的な学習活動の展開が必要かつ重要となる。
〇(2)学習プログラムは学習活動の単なる日程表や予定表ではない。それは、学習者のモラールを引き起こし、高めることができるものでなければならない。学習プログラムづくりとは、地域住民の生活や学習に関する考えや思い、願いなどをプログラムという形に具体的に表現することに他ならない。その際、手づくりの、手のこんだ学習活動が自主的、主体的、そして自律的に展開されるよう工夫し、配慮することが求められる。
〇(3)地域住民による学習は、地域生活に発し、地域生活に帰す。“あいとぴあカレッジ”における学習は、個々の住民に始まって個々の住民に帰るだけでなく、その成果が地域に還元されることが期待される。その際、地域への還元は、学習者自身の高まりや深まりなくしてはありえない。知識の単なる蓄積は態度の変容を促さないともいわれる。その意味からも、関心と感動を引き起こすプログラムの編成が求められる。
〇(4)“あいとぴあカレッジ”は、狛江市に暮らす住民を対象とするカレッジ(講座)ではなく、住民を主体とするものである。また、その学習プログラムは、住民の・住民による・住民のための、手づくりのものである。したがって、学習プログラムを立案・編成する過程そのものが重要となる。それ自体がすでに学習すなわち福祉教育の過程であり、“あいとぴあ”のまちづくりの過程でもある。

〇ところで、福祉教育の学習プログラムには、社会教育におけるそれと同様に、一般的には、「事業名」「主催者」「学習対象」「学習期間」「学習時間」「学習回数」「学習場所」「学習目標」「学習テーマ」「学習内容」「学習方法」「学習資料・用具」「指導・援助者」、それに「予算」などの諸事項が内容として含まれる。ここでは、“あいとぴあカレッジ”に関するそのうちのいくつかについて、その立案の方法や留意点などをめぐって論じることにする。

1 学習目標の設定
〇学習目標――学習プログラム全体のねらいは、到達可能なものを具体的に、焦点化して設定し、かつ魅力的なものであることが求められる。抽象的で総花的な学習目標は、学習目標を曖昧なものにし、学習プログラムの編成そのものを困難にする。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習目標は表1のように設定された。そこには、学習活動そのものが福祉のまちづくりの実践や運動の一環であり、またそれへの具体的な参加が自らの生活をより豊かなものにすることに繋がることが示されていた。学習者が学習目標を身近に感じ、学習意欲を高めるためのひとつの工夫であった。

表1 “あいとぴあカレッジ”の学習目標

2 学習学習テーマの設定
〇学習テーマは、学習プログラムの「顔」にあたるものであり、学習日ごとの学習内容を包括的に表現したものである。それは、学習者に対しては学習する概要を示すものであり、指導・援助者に対しては指導・援助すべき概要を提示するものである。そこで、学習テーマは、学習内容を的確に要約しているとともに、学習者が親近感や学習意欲をもちうるような、また学習の内容や方向を容易に想起し理解しうるようなものでなければならない。そして、また、学習者の属性や生活の実状などに適合し、指導・援助者には具体的な指導・援助活動の助けになるようなものであることが望まれる。すなわち、学習テーマは、課題性、親密性、それに具体性の高いものが望ましいといえる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習テーマは表2のように設定された。それは、“あいとぴあ推進計画”策定過程で、1989年9月に開催された第1回市民懇談会における分科会テーマをベースにしていた。その設定に際しては慎重を期し、とりわけその表現には工夫を凝らした。すなわち、学習者を引きつけ、学習者に受け入れられるよう、日常的、具体的、魅力的で平易な表現に心をくだいたのである。

表2 “あいとぴあカレッジ”の学習テーマおよび学習内容

3 学習内容の選定
〇学習内容は学習目標を具現化したものである。プログラムに盛り込む学習内容の選定に際しては、いわれるように学習内容の種類の単純化と分量の少量化を図ることが肝要となる。多様な種類の学習内容が多量に盛り込まれると、学習者は消化不良をおこし、学習の疎外感や挫折感を味わうことにもなる。学習内容の種類と分量の単純化、少量化によって、学習者は成就感や達成感、充実感などを味わい、学習活動への取り組みを積極的なものにする。さらにまた、次の学習活動への参加を促すことにもなるのである。
〇学習内容がもたらす教育的効果は、その配列の仕方によって左右される。学習内容の配列は学習活動を持続、発展させるうえで重要である。そこで、まず、学習活動への導入をスムーズに行うために、学習者に身近な、日常的・経験的・実際的な学習内容をもつものが配置される。そのうえで、内容配列には連続性と発展性、系統性、それに常に流動的に対処しうる弾力性、柔軟性などをもたせることが肝要となる。また、適切なところに「遊び」や「ヤマ場」の部分をバランスよく配列することが求められる。それによって、プログラムはより豊かなものになり、立体化・構造化する。そして、また、学習者にはゆとりや充実感、向上心などを与え、積極性を生むことにもなる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習内容は表2のように選定、配列された。その学習プログラムは、単なる「福祉のまちづくり概論」や「社会福祉概論」を講じるための、いわゆる一般教養的学習を行うためのものではなかった。福祉のまちづくりの主体形成をいかにして図るかという観点に立ち、大きな学習課題のもとに立案・編成された。そして、その内容は、福祉のまちづくりについて歴史的・社会的に学習する「総論」、現実の個々の生活場面に即して学習する「各論」、それにまちづくりのための具体的な方法や技術について考え、その習得を図る「方法論」の3つの部分から成っていた。その結果、それは、学習内容が広範囲にわたり、一面では総花的なものになった。また、必ずしも十分には学習成果を日常生活につなげ、現実の生活課題の解決にせまりうるものにはならなかった。すなわち、学習成果の実践化や生活化への配慮が不十分であったともいえる。“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムは、学習の深まりに応じて基礎課程→実務課程→専攻課程と進む段階別編成がなされ、累進的体系化・構造化が図られていたが、上述の点は基礎課程における学習プログラムのひとつの限界であった、といえようか。

4 学習方法の選択
〇学習方法は、現実的には、学習の目標や内容をはじめ、学習者の属性や意識・意欲、指導・援助者の関心や能力、学習資料や用具、学習の時間や場所など種々の条件によって選定、決定される。学習の効果を高めるためには、単一の学習方法にこだわらず、多様な学習方法を有機的・立体的に活用・多用し、場合によっては視聴覚的手法などを併用することも求められる。学習方法には「講義」「討議」「話し合い」「発表」「実技」「実習」「調査」などがあるが、適切な学習方法を選択することは学習者の学習内容の理解を助け、認識を深め、学習効果を高めるだけでなく、学習者の学習への興味や関心、意欲などを持続させたり学習集団を維持させるためにも必要かつ重要となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、「講義」「討議」それに「実習」を中心にしながらも、「見学」や「話し合い」「発表」など学習者の主体的・能動的な活動を促す方法が採用された。また、学習を補強し、学習内容の高度化を図るために、ビデオでの視聴も組み込まれた。それらのうち、例えば「見学」は、現実生活に直面しながら学習課題にせまることができるという点においてメリットがあった。「話し合い」では、学習者の体験や主観・実感のレベルにとどまらないよう留意された。また、「発表」は、学習者が「胸におちてわかる」「身体でわかる」ためにも必要かつ重要であった。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、集会学習として公開の講演会を2回開催した。それは、学習に対する学習者の家族の理解と住民へのPRを意図したものであった。

5 学習資料・用具の選定
〇学習資料(教材)や学習用具(教具)は、学習効果を高めるための重要な要件のひとつである。学習資料や用具の選定に際しては、学習の目標や内容、方法に対する適切度、学習者の属性や日常的な地域生活との緊密度、それに指導・援助者の学習資料や用具に対する熟知度などとの関連が重視される。そして、種々の学習資料や用具を整備し、有効に活用することが求められる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習資料に関しては、まず指導者(講師)に、指導者相互の事前打ち合わせを通してレジュメと資料の提示を求めた。そして、それを、「受講生便覧」「学習ノート」「学習資料」から成る冊子(『AITOPIA COLLEGE』B5判、52ページ)にまとめ、学習者に第1回開講日の「オリエンテーション」時に配布した。また、学習者に対しても、新聞・雑誌・広報紙などの関連記事や身近な住民の「生きざま」など、地域のさまざまな、生(なま)の資料を入手し、それを学習資料化することが求められた。その作業は、学習者にとってはそれ自体がすでに学習活動であり、また学習に迫力をもたせることを意図してなされた。

6 指導・援助者の活用
〇学習活動の展開とその深化・高度化には指導・援助者は欠かせない。学習目標を達成するためには、そのための意欲と能力をもつ指導・援助者が必要不可欠となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、講師(指導者)については、原則的には著名度や専門度で選定することは避けた。また、できる限り狛江市内から人材を発掘することにし、とりわけ福祉のまちづくりのための実践や運動に参加している一般住民の活用を図った。その理由のひとつは、学習内容の生活性や地域性を期待するとともに、学習者の学習活動やその成果の体験化、生活化、地域化を容易にすることにあった。講師の講話(レクチュア)については、学習活動の方向を定めるものではなく、あくまでも学習者の自主的・主体的な学習活動を誘発させ、持続、発展させるための補助的な役割を果たすものとして位置づけられた。すなわち、講師にはいわば話題提供者としての役割が期待され、学習を結実させ、具体化するのはあくまでも学習者自身であるとされた。また、講師は、一人の住民として、その活動を通して社会的貢献と自己実現・自己向上を図ることが期待された。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、学習者の学習活動が自主的・自発的に展開され、講師への依存度を少なくするよう、学習活動全般にわたって集団的あるいは個別的な助言・援助を行うチューター(学習援助者)を配置した。チューターには社会福祉系大学院の学生3名に依頼し、学習者と講師のあいだにあって、個々の学習者に対して、あるいは学習者内のリーダーを有効に活用して、たえずその援助性を発揮することが求められた。
〇なお、講師とチューターには、学習者が自主的・創造的な学習活動を展開しうるよう、学習内容や方法などについて協議を重ねることが求められた。また、彼・彼女らには、それぞれの学習指導・援助過程でいかにして「人間」や「生活」、「地域」や「まちづくり」にせまり、切り込んでいくかが問われた。

7 学習時間・場所等の決定
〇学習プログラムを企画・立案する際、時間的要素として、学習の時期、期間、時刻(時間帯)、回数(時間数)などについて検討することが求められる。それらは、地域の特性をはじめ、学習の目標や内容・方法、学習者の属性や生活実態、学習場所の学習条件や地理的条件などとのかかわりにおいて検討され、設定される。また、学習日と学習日の間隔(学習のインターバル)は、学習の習熟度や達成度との関連を考慮して設定される。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習時期を5月から8月までの第Ⅰ期と10月から2月までの第Ⅱ期に分け、それぞれ15回の学習日を設定した。学習日は、原則として毎週木曜日の午後6時30分から8時30分の2時間とし、公開講演や体験学習、施設見学などは土曜日の午後に組み込まれた。それらは、学習者の時間的制約をできる限り緩和・解消するための配慮であった。また、週1回の学習は、学習日と学習日とのあいだに、学習者によって個人学習や自主的な活動が展開されることを期待してのことでもあった。表3は、1日の学習日の学習の流れ(「展開プログラム」)を示したものである。「学習活動」に連続性をもたせていた。「講話」と「討議」にそれぞれ50分の時間が配分されていた。また、「学習のねらい」に受講生とともに講師のそれが明示されていた、ことなどが注目されよう。

表3 “あいとぴあカレッジ”における学習の流れ

〇学習場所(会場)の決定にあたっては、学習の目標や内容・方法に十分に対応できる施設・設備を有する場所が考慮されなければならない。また、地理的条件については、原則的には、学習場所への所要時間が徒歩で15分から20分程度以内が望ましいとされている。
〇“あいとぴあカレッジ”では、狛江市と狛江市教育委員会の理解と協力をえて、市のほぼ中央に位置する小学校(図書室)を学習会場とした。学校を学習会場としたねらいのひとつは、学校(教育)と社協(福祉)との連携強化を図り、地域の福祉教育関連諸資源のネットワーク化を促進することにあった。また、小学校(教員)をはじめとする学校における福祉教育の推進が期待された。

〇“あいとぴあカレッジ”開講のねらいは、福祉のまちづくりの担い手を育成し、その量的拡大と質的向上を図ることにあった。しかも、その基礎課程は、住民に対して、福祉のまちづくりのための実践や運動を動機づける学習課程であった。そこでの学習をひとつの契機に、多くの住民がさらに学習活動を続けるとともに、地域福祉活動やボランティア活動へ参加・協力することが期待された。そういった“あいとぴあカレッジ”の基礎課程の学習プログラムは、その立案に際して、以上のほかに次の諸点が留意された。
〇(1)一定以上の学習成果を得るためには、学習集団の規模の適正化を図る必要がある。そこで、定員制を採用し、第Ⅰ期、第Ⅱ期ともに募集人員を30名とし、さらにそれを15名ずつの2グループと、7~8名ずつの4つの班に分けた。それによって、学習者の人間関係の緊密化とコミュニケーションの効率化を図った。
〇(2)学習者の自発的な学習活動を触発するとともに、学習者がそれぞれの能力を発揮し、役割と責任を分担するよう班活動や係活動の展開を学習者に求めた。すなわち、各班より1名、計4名の班長が選出され、班長には各班の取りまとめと、“あいとぴあカレッジ”の運営に関する諸事項について協議・決議し、執行する「運営委員会」活動への参加が求められた。また、「学級通信」の編集と発行を行う「広報委員会」に8名の学習者が選ばれた。なお、「運営委員会」は、学長(1名)、常任講師(2名)、チューター(3名)、学習者代表(4名)、それに“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムなどの企画・立案に当たったボランティア活動推進委員会委員(2名)の計12名によって構成された。
〇(3)学習活動の修正や向上・発展、よりすぐれた学習活動の創造を図るために、学習評価を重視した。すなわち、学習者の評価活動を学習活動の一環として位置づけ、学習者に慣習化、定着化させることに努めた。また、学習修了者には、学習活動の総括と自己評価のために、簡単な、1人1編のレポートの作成と提出を求めた。
〇(4)学習者から、特別の学習資料や学習者の自主的活動のための費用として、受講料3,000円を徴収した。それによって、学習者の中途脱落を防ぎ、自主的・主体的な活動の積極的展開を期待するとともに、参加責任をもたせた。
〇(5)賞賛と激励、学習の継続と福祉のまちづくりへの参加・協力への期待を込めて、学習日10回以上の正規の修了者には修了証を授与した。学習日が10回未満の学習者については、不足分を第Ⅱ期で補うことによって正規の修了とした。

〇いずれにしろ、学習プログラムは、計画された活動が予定通り、「静かに」展開されることをよしとするものではない。学習者に能動的・創造的な活動を促す動的なものでなければならない。それによって、学習の深化や高度化を期待することができるのである。
〇1991年5月9日、“あいとぴあカレッジ”「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われた。学習者は募集定員の30名を数えた。その内訳をみると、性別では男性6名(20%)、女性24(80%)、年齢別では10歳代1名、70歳代1名、40歳代と50歳代がそれぞれ9名ずつで最も多く、全体の6割を占めた。また、職業別では、主婦を中心にしながらも、教員、学生(高校生、大学院生)、施設職員など多種多様であった。居住区別では全市的であり、狛江市に移住して4~5年になる者が多かった。地域に関心をもちはじめる居住年数なのであろうか。
〇講師は24名、チューターは3名、その他に社協事務局職員3名もカレッジの運営などにかかわった。計30名、学習者と同数であった。1991年8月29日、第Ⅰ期生の学習発表会と閉講式が開催された。修了者は28名を数えた。修了者の学習活動への出席率は、土曜日の体験活動や公開講演以外は、常に90%前後の高率を示した。続いて、9月19日には、修了者主催の「卒業記念パーティー」が開催され、また交流活動をはじめ学習活動やボランティア活動などを行うための自主的なグループ――「一期生の会」が発足した。
〇以上の検討から明らかなように、“あいとぴあカレッジ”の事業計画および学習プログラムの立案過程は、単なる企画作業ではなく、多様な主体間の相互作用を通じた合意形成と意味生成のプロセスであった。とりわけ、作業委員会―企画小委員会―推進委員会という多層的な検討構造は、計画の精緻化と同時に、住民参加の実質化を担保する装置として機能していたと評価できる。また、ブレイン・ストーミングなどの手法を用いた討議過程は、単なるアイデア創出に留まらず、参加者の問題認識を深化させ、個別の経験や価値観を共有知へと転換する契機となっていた。すなわち、計画策定過程そのものが、すでに福祉教育の実践であり、「まちづくり」の萌芽的段階であったといえる。

Ⅴ 「まちづくりと市民福祉教育」の構造化と現代的転換

〇本稿が、30年以上も前の“あいとぴあカレッジ”の実践をいま、あえて再評価するのは、単なるノスタルジーによる記録の整理ではない。SNSやAI が普及し、その一方で格差の固定化や社会的分断が進み、孤独や孤立が深刻化する現代においてこそ、当時の実践が示した「人間を真ん中に据えた計画の立案」「生活者としての市民・住民を主役にしたまちづくり」が、不可欠な処方箋になると確信するからである。
〇現代社会では、デジタル・プラットフォームによって利便性を手に入れた反面、地域・住民が抱える個別具体的な生活課題を地域・社会課題として編み直すことが難しくなり、住民同士の「共感」の回路も寸断されつつある。そんななかで、いま求められているのは、過去の成功モデルをそのまま繰り返すことではなく、当時の「熱量」と「仕組み」の本質を現代のデジタル社会に合わせて再起動(アップデート)することにある。

1 「まちづくりと市民福祉教育」の「統合モデル」とその核心
〇上述のⅠからⅣまでの各章は、狛江市社協の“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスと学習プログラムの編成原理について叙述し、概観したものである。図1は、市民福祉教育を実効性のある「まちづくり」へと昇華させるための、プロセスとリソースの相補的連関(統合モデル)を示したものである。その核心は、地域・住民の生活課題や学習要求・学習必要を「見る」ことから始まる「See→Plan→Do→See」の循環サイクルにある。この動態的なプロセスを支える基盤として、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」の4要素がある。そして、これを有機的に構造化することによって、市民福祉教育は一過性のイベントではなく、地域変革(「まちづくり」)に向けた持続的な計画化・構造化のエンジンとして機能することになる。

図1 「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開のプロセス

注:1990年代の計画策定モデル。現代においては「モノ」の概念にオンラインプラットフォームが含まれる(Ⅴ章参照)。

〇1990年代初頭に展開された“あいとぴあカレッジ”の実践の軌跡は、今日の「まちづくりと市民福祉教育」においても色あせない、重要な理論的示唆を内包している。本稿での分析を通じて明らかになったことは、市民福祉教育は単なる知識や技術・技能の「伝達」活動ではなく、地域・住民の生活課題を学習課題へと再編成し、それを「まちづくり」運動へと繋げる動態的なプロセスである、という点である。具体的には、次の諸点について留意したい。

〇(1)本実践では、従来の計画策定手順である「Plan→Do→See」を逆転させ、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」へと再構成した。住民のニーズや地域課題を徹底的に「見る(See)」ことから始めるこのサイクルは、計画の空論化を防ぐための必須条件である。統計調査という数字の裏側に隠れた、住民の「生活の実感」を汲み取ることを起点とした。
〇(2)「あいとぴあカレッジ」では、住民の「学習要求(学びたい)」と「学習必要(学ぶべき)」を地域福祉のフィルターを通して精選し、具体的な事業・活動へと昇華させた。これは、確かなまちづくりを推進するための基盤であり、同時に住民間の合意形成を構築するプロセスとして位置づけた。
〇(3)「あいとぴあカレッジ」では、その運営にあたり、住民や大学院生を講師やチューター(学習援助者)として確保・養成する「ヒト」、小学校の図書室を拠点とする「モノ」、受益者負担による参加責任を明確にした「カネ」、そして手づくりのプログラムを企画・実施する「シゴト」の4要素を体系化した。これにより、福祉教育を一過性のイベントに留めず、地域に根ざした共働的・持続的な「まちづくり」の実践として構造化した。
〇(4)「あいとぴあカレッジ」では、「福祉の知識を教える」「ボランティア精神を養う」といった教育者から学習者への一方的な知識伝達(パウロ・フレイレが批判した「銀行型教育」)ではなく、福祉教育を「住民による自己教育・相互教育活動」として捉え直した。 ここでは、住民を単に「学ぶ者」ではなく、学ぶことを通じて自らの生活を見つめ直し、地域の課題を自らの課題として再構成する「教育主体」(フレイレの提唱する「問題提起型教育」)として再定義した。
〇(5)「あいとぴあカレッジ」では、学習テーマを「児童福祉」「高齢者福祉」といった制度的な枠組みではなく、「あなたは一人で子どもを育てられますか」「あなたの老後の暮らしは誰がみますか」といった、個人の内面に深く問いかけるものとした。これによって、福祉(ふくし)を「他人事」から、切実な「自分事」へと引き戻すことを意図した。
〇(6)「あいとぴあカレッジ」では、講師選定において著名度や専門度をあえて優先せず、地域の人材や「自身の生きざま」を語れる住民を登用した。住民が自らの苦労や願いを語り、それを他の住民が聴く。この「語りと傾聴の連鎖」こそが「共感」のネットワークを紡ぎ出し、講師自身もまた一人の住民として自己実現を図るという、双方向の関係性を重視した。
〇(7)「あいとぴあカレッジ」では、学習プログラムに「遊び」や「ヤマ場」を配列し、学習者のモチベーションの維持を図った。「車椅子で歩く狛江の街」「楽しい仲間とティータイム」といった実習や交流活動などは、教室内の座学を「身体的な体験」へと変換する装置である。感動や驚きを伴う体験(ヤマ場)が、知識を「知恵」へと昇華させ、地域を変える力へと変容させると考えた。
〇(8)「あいとぴあカレッジ」では、学習者自身が班活動や広報活動を担う仕組みを設け、カレッジ自体を「小さな地域コミュニティ」として機能させた。運営委員会や広報委員会の場での議論や葛藤、合意形成のプロセスそのものが、民主的なまちづくりのトレーニング(福祉教育)となることを期待した。
〇(9)「あいとぴあカレッジ」では、社協職員の役割を、主導権を握る立場ではなく、住民の主体性を引き出すための「触媒」(カタリスト)と規定した。情報提供や相談、コーディネートといった「側面的援助」は、高度な専門技術を要する。住民を信じて待つという忍耐強い伴走こそが、住民の内発的なパワーを引き出し、同時に職員自身の専門性を高めると考えた。
〇(10)「あいとぴあカレッジ」では、最終的な評価指標を受講生の数や満足度ではなく、修了後にどれだけの住民が「ふだんの、くらし」のなかで新たな行動を起こしたかに設定した。 「一期生の会」の発足に象徴されるように、学習が集団的なアクションへと発展し、地域のインフォーマルな支え合い組織へと脱皮していく過程こそが、本実践の最大の成果である。

2 社会変容に伴う計画モデルの構造的転換
〇“あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代のそれである。「格差社会」や「分断社会」「監視社会」、あるいは「新・階級社会」などといわれる現代社会において、地縁の希薄化や価値観の多様化、さらには生活困窮の重層化といった変数がある。かつて地域コミュニティの核であった「学校」もまた、閉鎖性の打破や地域開放が叫ばれるなど、大きな変容の渦中にある。そして、“あいとぴあカレッジ”の学習テーマに据えられた高齢者や障がい者などの問題に加えて、精神疾患を抱える当事者やその家族、社会的孤立者、外国籍住民、性的マイノリティ、あるいはデジタル弱者などの問題が重要な課題として突きつけられている。さらには、“あいとぴあカレッジ”の会場とされた小学校の図書室が果たした役割を、現代ではLINEやFacebookに代表されるSNSや、インターネット上の情報や交流の基盤・広場(オンラインプラットホーム)がその一部を代替・補完しつつある。
〇こうした社会変容のなかで、図1に示した計画化モデルは、サイクルの起点となる「See(現状分析・評価)」や「ヒト(マンパワー)」などのあり方に構造的な転換を迫られている。 ひとつは、「See」の多層化である。従来、現状分析や評価の多くは、地域・住民に対するアンケート調査や懇談会といった物理的な空間(アナログ空間)を基盤として行われてきた。しかし、地縁の希薄化やSNSの普及に伴って、地域・住民の生活課題や学習要求は、ネット上の不可視なコミュニティへと潜在化・断片化する傾向にある。現代の「See」においては、従来の地域診断を継承しつつも、デジタル空間に表出される切実な生活実態や潜在的な要求をいかに捕捉するかが問われている。すなわち、計画化プロセスを起動させるためには、アナログとデジタルのハイブリッドな多層的視点が不可欠である。このプロセスを実効的なものとするためには、膨大なデータの整理・分析におけるAIの利活用と、それを受け止めて価値判断を行う「ヒト」との機能的な役割分担を構造化することが求められる。AI が「客観的なデータ」「冷たい知性」によって地域を可視化し、「ヒト」が「主観的な価値」「温かい感性」によって地域を編み直す。この相補的な関係を計画化のプロセスに組み込むことで、市民福祉教育はより緻密で、かつ人間味のある「まちづくり」のエンジンへと進化を遂げるのである。
〇ただし、SNS やAI の利活用にあたっては、それらの情報技術を無批判に受け入れるのではなく、その限界やリスクを構造的に問い直していく必要がある。デジタル空間を、単なる利便性の追求ではなく、客観的状況を批判的・創造的に検討する「省察の場」、かつ誰もが疎外されない「対話の場」として再構築していくことが肝要となる。
〇計画化プロセスにおけるAIの機能的役割は、例えばこうである。See:ビッグデータから潜在的なニーズや社会的傾向を可視化する。→ Plan:多様なシミュレーションに基づき、客観的な選択肢(オプション)を提示する。→ Do:推奨された学習情報やリソースを最適に配信し、実行プロセスを支援する。→ See:実行結果を定量的データとして評価し、普遍的な課題を抽出する。こうしたAIの役割をより効果的に活用するために、「ヒト」に求められる具体的な役割は、例えばこうである。See:生活上の生きづらさや切実な願い(要求、必要)を言語化する。→ Plan:AIの提示した選択肢に自らの価値観や地域・生活実態を重ね合わせ、ビジョン(将来像)を描く。→ Do:静的な計画を、他者との対話や相互作用を通じて固有の意味をもつ実践へと変換し、新たな価値を共創する。→ See:データ化されない情動や生活の変化を感知し、次のビジョンを構想する。図2は、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」という地域資源が、「AIとヒト」の手によって「See→Plan→Do→See」という活動に変換し、そのすべてのエネルギーが「ふくし」へと注ぎ込まれていくことを表示したものである。別言すれば、AIの本質は、膨大なデータを基にした「分析」と「効率化」にある。ヒトの本質は、数値化できない「共感」と「価値判断」にある。この両者の相互補完によって、計画化の循環サイクルが駆動するのである。

図2 AIとヒトの相補的役割分担による計画化の構造図

〇転換を迫られるいまひとつは、「ヒト」の再定義である。格差社会や分断社会の進展は、地域・住民の学習要求や学習必要を個別化・細分化し、地域における共通のゴール設定や価値形成を困難にしている。こうしたなかで、本稿が提示した学習指導者や援助者、あるいは社協職員などには、単なる「調整役」ではなく、従来の画一的な学習指導や援助の枠組みを超えて、分断された住民をいかにして個別具体的に繋ぎ直し、指導・援助するかという「媒介者」としての機能が強く求められている。とりわけ、地域で孤立状態にある住民を、いかにして「学び」の場に緩やかに誘い出し、包摂していくかが問われている。
〇さらにもうひとつは、「モノ」と「カネ」の再配分である。「モノ」(施設、空間)については、“あいとぴあカレッジ”では、地元小学校の図書室が「学習会場」として活用された。これは、学校の地域開放、あるいは「まちづくり」における共働のプラットフォーム(場)として評価できよう。現代社会においては、こうした場を家庭(第1の場所)や職場・学校(第2の場所)とは異なる、心理的安全性の担保された第3の「居場所」(「サードプレイス」)として位置づけることが肝要である。そこは、誰もが自発的に立ち寄り、リラックスした交流のなかで相互研鑽を図る「学びの場」であると同時に、コミュニティにおける役割期待の受容と遂行を通じ、他者からの承認を得て自己の存在意義を再確認できる「要場所」(いばしょ)へと昇華されることが期待される。
〇「カネ」については、“あいとぴあカレッジ”では受益者負担による参加責任の明確化が図られた。今日では、クラウドファンディングや社会的投資といった住民自身が「まちづくり」の資金循環に直接的に関与する仕組みが検討される余地がある。これによって、「まちづくりと市民福祉教育」の継続性は、行政や社協の補助金への依存から脱却し、住民の思いや願いを可視化する社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の蓄積へと転換される。
〇そして最後には、「シゴト」における「学習課題」の再構成である。“あいとぴあカレッジ”では、学習プログラムのテーマ設定に際しては、福祉(「ふくし」)を「他人事」から「自分事」へと引き戻すことに留意した。この視点は、現代においても依然として重要である。しかし、生産性の原理や自己責任の論理が追求される現代社会にあって、今後の学習プログラムの編成においては、パウロ・フレイレが提唱した「問題提起型教育」を重視し、地域・社会の社会構造を批判的に分析・検討する視点を組み込むことが肝要となる。
〇先述の図1のモデルは、現代においても有効なものである。加えて、「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開において避けて通れない変数が、孤立・孤独の深刻化や、SNSやAIに代表される情報技術の加速度的な進展である。これらの新たな社会変数を図1のモデルに不断に取り込み、問い直すプロセスを通じて、地域・住民の自己変革と社会変革のエネルギーが生成されることになる。換言すれば、「市民福祉教育はまちづくりのエンジンであり、まちづくりは市民福祉教育の教材である」。この双方向的な関係性を改めて教育実践の核に据え、地域社会の動態そのものを「学びの資源」へと転換していくことこそが、今、強く求められているのである。

おわりに
―住民主体の計画原理とデジタル時代の展開可能性―

〇最後に、いま一度、本研究で得られた知見と理論的・実践的含意、ならびに今後の課題について再確認しておきたい。
〇第1に、本研究の知見として、市民福祉教育の計画化は、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」という循環的プロセスを基軸として成立することが明らかとなった。とりわけ重要なのは、①このプロセスが住民の生活実態や生活課題、学習要求・学習必要を出発点とする点にあり、計画が行政や社協・専門家主導のものではなく、地域・住民の生活に根ざした課題の再編成として構築される点である。また、②市民福祉教育の実践は、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」という諸要素の有機的統合によって支えられ、これらの構造化を通じて一過性の事業ではなく持続的な地域実践へと転化することが確認された。そして、③“あいとぴあカレッジ”における学習過程は、知識伝達型ではなく、住民を学習主体かつ教育主体として位置づける自己教育・相互教育の過程として展開され、そのことが主体形成と「まちづくり」への行動変容を媒介する契機となった点が注目される。
〇第2に、本稿の理論的貢献は、市民福祉教育を単なる教育活動としてではなく、地域課題の認識・再編成・実践を包含する「動態的プロセス」として再定義した点にある。従来の福祉教育研究が、事業内容や実践事例の記述にとどまりがちであったのに対し、本研究は計画過程そのものに内在する構造と原理を抽出し、「まちづくりと市民福祉教育」の統合モデルとして提示した。また、住民の「学習要求」と「学習必要」を媒介する計画論的視座や、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」の資源構造の体系化は、地域福祉計画および社会教育計画の接合領域に新たな分析枠組みを提示するものである。さらに、現代的文脈においてAIやデジタル技術との相補的関係を視野に入れた点も、計画論の拡張として位置づけられる。
〇第3に、以上の検討から得られる実践的含意として、地域における市民福祉教育の展開にあたっては、①住民の生活実態に根ざした課題設定、②多様な主体の参加と共働による計画形成、③学習過程そのものを主体形成の契機とするプログラム設計、④学習成果を地域活動へと接続する仕組みづくり、が不可欠であることが示唆される。とりわけ、社協職員や専門職は、計画の担い手ではなく住民主体の活動を支える「触媒」としての役割を担う必要があり、そのための専門性の再構築が求められる。また、現代社会においては、オンライン空間やデジタル資源を含めた多層的な学習基盤の整備が重要となる。
〇第4に、本稿の限界と今後の課題として、まず、本研究は1990年代の単一事例に依拠した分析であり、その知見の一般化には慎重である必要がある。今後は、現代の他地域における実践との比較研究を通じて、計画原理の普遍性と固有性を検証することが求められる。次に、“あいとぴあカレッジ”における学習成果とその後の行動変容については、長期的・追跡的なデータに基づく検証が不十分であり、今後の重要な研究課題として残されている。さらに、現代におけるデジタル技術やAIの導入が、住民主体の学習といかに接合しうるのかについては、具体的な実践研究の蓄積が求められる。
〇以上のように、本研究は、市民福祉教育を「まちづくり」の基盤として再定位し、その計画化と実践的展開の構造を明らかにした。今後は、本稿で提示した理論枠組みを基盤として、現代社会における新たな「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に期待したい。

引用・参考文献
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(5)岡本包治・山本恒夫編著(1975)『社会教育計画』第一法規出版。
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(10)木全力夫編著(1988)『社会教育計画論』東洋館出版。
(11)原田正樹(2014)『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版。
(12)日高幸男・岡本包治編著(1984)『社会教育のプログラム』全日本社会教育連合会。
(13)藤岡貞彦編(1980)『社会教育の計画と施設』(「日本の社会教育」第24集)東洋館出版社。
(14)松下拡(1990)『健康学習とその展開』勁草書房。
(15)矢野真和・荒井克弘編(1990)『生涯学習化社会の教育計画』(「日本の教育」第1巻)教育開発研究所。

【初出】
「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月、84~106頁。
本稿のⅠ〜Ⅳ章は、一部を除き原則として発表当時のままとし、それ以外は新たに加筆したものである。

 


第9章
「まちづくりと市民福祉教育」が拓く新たな地平
―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」への転換―

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はじめに

〇「福祉教育」実践と研究はいま、大きな転換期を迎えている。従来の福祉教育は、ともすれば高齢者や障がい者に対する福祉の心の育成を図ろうと、子どもたちの個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」に重きが置かれてきた。また、福祉教育活動が、①高齢や障害による不自由や困難についての疑似体験や、②車椅子利用者や視覚障がい者などの生活を支援するためのガイドヘルプ技術の習得、③福祉施設などに暮らす高齢者や障がい者との訪問・交流活動、という3つの形態に限定されがちであった。そこには、少なくとも3つの深刻な課題が見出される。
〇第1の理論的課題は、「依存を否定する自立観の超克」である。福祉教育は「支援する側の優越感」(思いやりが思いあがり)を育むことになり、高齢者や障がい者の「依存する権利」や「自立は依存先を増やすこと」(熊谷晋一郎)という考え方を不可視化させていないか、という点である。 第2の実践的課題は、「まちづくりとの乖離の解消」である。福祉教育は教室内での知識学習や一過性の体験学習に留まり、日常生活が営まれる地域・社会そのものを変革しようとする志向性が脆弱である、という点である。そして第3の哲学的課題は、「主体変革としての教育観の確立」である。福祉教育を単なる知識や技術・技能の習得や情動的な共感教育に終わらせるのではなく、学習者が地域・社会の課題を自らの問題として捉え直し、地域・社会を創り変える主体(変革主体)へと成長していくプロセスを、いかなる人間観や教育観(理念的・哲学的な根拠)に基づいて構築していくべきか、という点である。
〇これら3つの課題は、個別に存在するものではない。新しい自立観という「理論」を携え、地域・社会の変革という「実践」を積み重ねるプロセスを経て、子どもから大人までを含む地域住民は、真の変革主体という「哲学」を体現する主体へと成長を遂げる。すなわち、「まちづくりと市民福祉教育」を一体的に捉えるための分析枠組み(視座)こそが、地域共生社会を共創する鍵となる。ここでいう「まちづくり」とは、単なるインフラの整備やハード面の構築を指すのではない。その「まち」に住む人々が互いの権利をどのように認め合い、どのようなルールで共に暮らすかいう地域共生社会の設計そのものである。一方、「市民福祉教育」とは、単なる知識や技術・技能の習得ではなく、その設計に主体的・自律的に参加(参集・参与・参画)するための自治力と共生力を育成するための教育的営為をいう。つまり、教育によって市民のパラダイムの転換を図ることは、暮らしの社会的基盤や共生の作法を書き換えることを意味し、それが結果として地域・社会の仕組み(構造)の変革を促すのである。
〇そこでまず、1980年前後から「福祉で町づくり」を説き、福祉教育とボランティア活動のあり方を追究してきた大橋謙策の言説の原点に立ち返り、2010年代以降は「福祉はまちづくり」の時代にあることを認識することが肝要となる。そして、そこでは、「市民福祉教育はまちづくりの基盤であり、まちづくりは市民福祉教育の実践の場である」という考え方が重要になる。すなわち、「まちづくり」と「市民福祉教育」は、車の両輪の関係にある。前者は、誰もが排除されない仕組み(ハード・ソフト)を構築する営みである。後者は、その仕組みを動かし、更新する主体(市民)を育む営みである。そして、両者を媒介するのは、学習を個人の内面に留めず、地域の変革へと開いていく「学習の外化(社会化)」の概念である。従来の福祉教育は学校の子どもたちを中心とした領域に留まりがちであったのに対し、本稿が提起するモデルは、単なる社会参加ではなく、地域・社会の不条理や生活課題そのものを生きた教材とし、その解決のプロセス(まちづくり)そのものを学習過程として位置づける点にその構造的な特質を見出すのである。
〇本稿では、文献研究(文献解釈・思想分析)を通じて、「まちづくりと市民福祉教育」の理論的再定位を試みる。具体的には、下記の2人の著作を一次資料とし、中心的な概念についてその語義や文脈、背景を総合的に解釈し、それを手がかりに思想の構造的特質を抽出する。そのうえで、両者の言説を横断的に分析し、共通する問題意識や理論構造を明らかにすることで、「市民福祉教育」を「まちづくり」と一体的に捉えるための分析視角を構築したい。
〇別言すれば、本稿の課題は、従来の「思いやり教育」がいかに現代社会の構造的課題(生産性、自己責任論)を補完・温存してきたかを批判的に検討し、これに代わる「権利と構造変革の教育」(一人ひとりの尊厳を守り、そのために社会を編み直す教育)としての可能性を提示することにある。ここでいう「構造変革」とは、単なる政治・行政主導の「改革」という名のシステム変更に留まらない。それは、生きづらさを抱える当事者をはじめ、住民、専門家、行政などの多様な主体が、権利としての参加を草の根から実践し、社会の仕組みを主体的に再構築していく意識的・関係的「変革」のプロセスを指す。すなわち、個人の善意に頼る「思いやり教育」の限界からの脱却である。
〇なお、2人の言説を選定するに際しては、最近の著作で、「依存」「関係性」「共生」などをめぐる課題を主題的に扱っていることを基準とした。また、これまでの福祉教育研究が積み残してきた「情緒的共感への偏重」や「当事者性の固定化」(支援・受援の固定化)という2つの空白に対し、2人の思想が有効なオルタナティブを提示している点に、本稿で両者を検討する意義がある。両者の思想は、特異なフィールド(被災地、困窮者支援)から生まれたものであるが、そこには「自己責任論」や「関係性の断絶」といった現代社会共通の構造的課題が露呈している。本稿では、こうした課題を乗り越える視座として、小松理虔の「共事者の連帯」、奥田知志の「不可解性の受容」に注目する。

(1)小松理虔著『小名浜ピープルズ』(里山社、2025年5月。以下[1])
(2)奥田知志著『わたしがいる   あなたがいる  なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた』(西日本新聞社、2025年8月。以下[2])

Ⅰ 小松理虔:共事者の連帯
―「中途半端さ」と「共事者」が“弱い紐帯の強み”を生む―

〇ここでは、「はじめに」提示した「まちづくりとの乖離の解消」という実践的課題に対し、小松の「共事者」概念がいかなる回答を提示し得るかについて検討する。

[思想的分析]
〇地域活動家である小松が描くのは、2021年つまり東日本大震災から10年を経た後の小名浜で生きる人たち(「小名浜ピープルズ」)と「ぼく」(小松)が交わした生の声、すなわちリアリティである(19~20頁)。その内容について[1]の“帯”は、こう記す。「東北にも関東にも、東北随一の漁業の町にも観光地にもなりきれない。東日本大震災と原発事故後、傷ついたまちで放射能に恐怖し、風評被害は受けたが直接の被害は比較的少なかった、福島県いわき市小名浜。著者はこの地で生まれ育ち〈中途半端〉さに悶えながら地域活動をしてきた。当事者とは、復興とは、原発とは、ふるさととは――10年を経た『震災後』を地元の人々はどう暮らしてきたのか。魅力的な市井の人々の話を聞き、綴った、災害が絶えない世界に光を灯す人物録」。そこで小松が問いかけるのは、今後も、どこかで起こりうる災害や出来事を、いかにして「自分事」として捉え、関わっていくことができるか(183頁)、という点である。
〇[1]にしばしば登場する言葉に「中途半端さ」と「共事者」がある。「中途半端さ」についていえば、こうである。小松にあっては、東日本大震災で直接的な被害を免れたものの、被災地に住む者として当事者というレッテル(「被災地でがんばっている男性」)を貼られ、そのことが中途半端な当事者としての葛藤であった。そのような状況下で、地元でのさまざまな活動や人々との関わりを通して、この「中途半端さ」を否定するのではなく、それを受け容れ、むしろそこに意味を見出すようになる。すなわち、当事者と非当事者との間で揺れ動く存在を肯定的に認める。しかし、その立ち位置は、当事者でも専門家でもないという中途半端で曖昧なものである。またそれゆえに、それは多様な視点から物事を捉え、異なる立場の人々を結びつけ、新たな価値や役割(「新たな世界」)を生み出す。その存在を小松は「共事者」と名付ける。
〇「共事者」とは、「当事者の周囲にいて、関心を寄せたり、興味を持ったり、事の推移を見守ったりしている。つまり『事を共に』する」人のことである(177頁)。小松はいう。「被災者とは言えないけど被災地に生きている。被災地に生きているわけではないけどその土地に思いを寄せている。被災とは別の、でも似たような悲しみや苦しみを感じている。そんな『中途半端な人たち』が、ぼくたちの身近なところにたくさんいるということを忘れてはいけない」(18頁)。
〇このように、小松が提唱する「中途半端さ」とは、ある出来事において直接的な当事者ではないものの、無関係でもないという複雑で曖昧な立ち位置にある状態を指す。葛藤を経て紡がれた「共事者」の概念は、当事者か非当事者(部外者、傍観者)かという二項対立を超え、より多角的で多様な「当事者性」や「共事者性」を認める視点・視座を提供する。

[実践的意義]
〇この「中途半端さ」を肯定する視点・視座は、「まちづくり」において大きな意味を持つ。それは、特定の専門家や一部の熱心な地域活動家だけでなく、それぞれが抱える「中途半端さ」や「曖昧さ」を認め合い、緩やかな連帯や共感のネットワークを構築しようとするなかで「事を共にする」という、新たなコミュニティ形成のあり方を提示する。これは、ロバート・パットナム(Robert D. Putnam)が説いた、異なる属性を持つ人々をつなぎ、互酬性の規範を醸成する「橋渡し型」の社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の現代的な再構築に他ならない(『孤独なボウリング』(柴内康文訳、柏書房、2006年4月))。そして、関わり続けることが、社会的分断を溶かす基盤となる。
〇加えて、市民福祉教育においても重要な意味を持つ。例えば、「中途半端さ」は、それを否定するのではなく、その姿勢を受け容れ、意味づけることを通して自己肯定感を醸成する。「共事者」は、他者への無関心を乗り越え、他者と「事を共にする」という連携・協働の姿勢を促す。そして、「寄り添えなさ」は、他者理解の限界を認めながらも、継続的な傾聴と対話を通じて真摯に向き合う心構えや態度を習得するのである。
〇一方で、小松の言説にはひとつの限界も見て取れる。それは、個々人の内面的な変容や緩やかなネットワーク形成に重きを置くあまり、既存の不当な権力構造や硬直化した制度と具体的に対峙し、それらを変革していくための「政治的運動論」としての側面が弱い点である。

Ⅱ 奥田知志:不可解性の受容
―「不可解性の受容」と「なんとかなる」が“希望のまち”を創る―

〇ここでは、「はじめに」提示した「主体変革としての教育観の確立」という哲学的課題に関し、不可解な他者を受容することこそが主体のあり方を根底から変容させるという奥田の視座から、その理論的含意を明らかにする。

[思想的分析]
〇奥田は、生活困窮者(ホームレス等)に対して、信仰(神学)に支えられた深い洞察とそれに基づく個別的で包括的かつ持続的な「人生支援」を行っている。奥田の有名な言葉に、「自己責任論の社会が私たちから奪ったものがある。それは『助けて』という一言である」(奥田知志『「助けて」と言おう』日本キリスト教団出版局、2012年8月、37頁)がある。奥田は[2]で、その活動の歩みから、支援の現場で培われた思想・哲学、そして誰も取り残さない「まち」をめざす未来への提言までを綴る。それは、北九州市の特定危険指定暴力団の本部事務所の跡地という「怖いまち」の象徴だった場所を、「なんとかなる」「希望のまち」に再生する物語である。
〇奥田が指摘するまでもなく、いま、孤立と分断、困窮と格差、偏見と差別が常態化している。自己責任や身内の責任が必要以上に強要され、「助けて」といえない人が増えている。自分の利得のみを優先させる「自分病」(79頁)が蔓延している。そのような構造的な問題を抱える現代社会にあって、奥田が理事長を務める認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」では、人と人との横の「つながり」を大切にし、「出会いから看取りまで」という伴走型支援を実施してきた。そしていま、「誰もひとりにしない」まち、「なんちゃって家族」のまち、「助けて」といえるまち、の実現をめざして、(「なんとかする」ではなく)「なんとかなる」を合言葉(モットー・哲学)に「希望のまち」プロジェクトの推進を図っている。奥田はいう。「『希望のまち』は、『縦の成長』を羨望しつつも『横の成長』で共存するまちでありたい」(235頁)。
〇「誰もひとりにしない」まちは、経済的困窮(ハウスレス)だけでなく、社会的孤立(ホームレス)の解消を最大の目標とする(174頁)。「なんちゃって家族」のまちは、家族機能を社会化し、他人同士が緩やかに関わり合う新しい共同の暮らしを創る場をめざす(224~226頁)。「助けて」といえるまちは、誰もが互いに「助けて」といえる相互扶助・支援の関係性が機能する社会の実現をめざす(240頁)。そして、「希望のまち」は、「助ける」と「助けられる」という営みが「いいかげん(ちょうど良い加減)」になるなかで創られ、どんな人も取り残すことのない「地域共生社会」をいう(245頁)。
〇その「地域共生社会」について奥田は次のようにいう。これは奥田からの愛あるメッセージであり、奥田の確かな覚悟である。

われわれは、お互いが「共感不可能」の中に生きている。それを認めることが「共生」の始まりだ。いわば「共感不可能性の共感」である。
今、世界は「わかりやすさ」を軽薄に求めているように見える。「敵か味方か」「白人か有色人種か」。性的マイノリティーを侮辱し、多様性を否定し、他の民族や文化をヘイトする。「意味のないいのちと意味のあるいのち」と簡単に言う。「わかりやすい分類」は「分断」に過ぎない。(中略)
「別の人間」が「別の人間」として共存する。そのとき「別の人間である」あなたを尊重し、出会いを喜ぶことができるか。「わかりにくさ」、つまり「不可解性への耐性」が今求められている。それこそが相互豊穣の契機となる。
抱樸が創る「希望のまち」は「別の人間」が集まる場所。「別人」であることを喜べる場所。自分は自分のまま生きていてよい場所。わかりにくいが、面白い場所。(中略)そんなまちを創りたい。(267~268頁)

〇奥田にあっては、人はその複雑さゆえに、互いの存在を完全に理解するには限界がある。人を安易に二項対立的に分類したり、ある概念に押し込めることはできない。それぞれが、それぞれの違いを認め合い、理解できないそれぞれの部分も受け容れることが真の共生の基盤となる。

[実践的意義]
〇この考え方を市民福祉教育の観点から捉え直せば、真の共生を実現するための市民福祉教育は、この「不可解性」を学ぶ教育でなければならない。その目的は、自分にとって「不可解」な他者を排除せず、その存在を尊重できる市民的資質・能力を育成すること(市民性形成)にある。これは、「多様性」や「共生」を表面上・抽象的に語る姿勢を超え、生きづらさが社会構造的に常態化している現実と対峙することにつながる。そして、この「不可解性の受容」を出発点として、誰もが生きやすい土壌を地域に耕し、構造的な変革としての「まちづくり」を推進することが、いま、真に求められているのである。「対峙」とはただ向き合うことだけではない。自分をつくり変え(再構築)、「まち」をつくり変える(再設計)、創造のプロセスをいう。
〇奥田はいま、「誰もひとりにしないまち」の実現をめざして、「希望のまち」づくりを進める。建物・施設としての「希望のまち」は、救護施設や交流スペースなどの複合的な機能を内包しながら、「地域の中に施設がある。施設の中に地域がある」(259頁)という、日常に開かれた空間をめざすものである。この「まち」の重要な機能は、「なんちゃって家族」の関係性の創出であり、「助けて」といい合えるコミュニティを地域に根差した日常の生活圏で構築することにある。この思想は、特別な活動ではなく、誰もが孤立しない何気ない日常を創り出すことにある。この点を市民福祉教育に落とし込むならば、そのための教育的営為は、特定の施設・機関や活動のなかだけにあるのではなく、日常の生活圏全体を学びのフィールドとして、みんなの生涯にわたる“ふだんのくらし”のなかでこそ育まれるべきものである。
〇また、奥田がいう「なんとかなる」は、無責任・無批判な楽観論ではない。また、「なんとかする」という自己完結的な責任論でもない。それは、「わたしがいる、あなたがいる」から「なんとかなる」という、他者への信頼を基盤とし、人と人との関係性(「つながり」)のなかで共同体的な問題解決を志向するものである。市民福祉教育の文脈では、市民一人ひとりが困難に直面した際に、自己責任論に陥ることなく、誰かとつながっていれば「なんとかなる」と信じられる地域的な安心感を醸成する営みといえる。この安心感こそが、誰もが「助けて」といえる「希望のまち」(みんながつながるまち)を築く土台となるのである。
〇一方で、奥田の主張は、キリスト教的隣人愛に由来する個人的な倫理観や精神的紐帯に依拠した理論構成という側面が強く、一定の限界を抱えている。それは、個人の献身的な支援を美化し、本来行政が担うべき公的扶助の不備を看過させる恐れなしとしない点である。

〇ここで、小松の提示する「共事者の連帯」と奥田の説く「不可解性の受容」の関連性について一言しておきたい。これら両概念の交差点にこそ、本稿がめざす「構造変革」の真髄があるからである。
〇従来の福祉教育における「共感」は、相手を「理解できる存在」として前提に置いてきた。しかし、奥田が指摘するように、他者は本質的に「不可解」な存在である。この「分からなさ」に直面したとき、多くの市民は自らを門外漢や部外者の枠に閉じ込め、当事者との間に境界線を引いてしまう。ここで、小松の「共事者」概念が補助線として機能する。
〇「共事者」とは、中途半端なまま、未完成なまま「事を共にする」主体である。相手を完全に理解(コントロール)できないという「不可解性」を絶望の理由にするのではなく、むしろ「分からないからこそ、隣で共に居続ける」という、積極的な保留の姿勢へと転換させるのである。
〇この両者が結合することで、市民福祉教育は「思いやり」という情緒的満足を脱し、不可解な他者と共に、理不尽な構造(「まち」)を書き換えるという共創の実践へと昇華される。それは、互いの「不全」(弱さ・分からなさ)を排除せず、むしろそれを紐帯として、既存の生産主義や能力主義を至上命題とする社会構造を揺さぶる「不全の連帯」の創出に他ならない。この「弱さ」「分からなさ」を抱えたままの連帯こそが、自己責任論を解体し、真の地域共生社会を支える構造変革のエネルギーとなるのである。

Ⅲ パラダイムシフトと「構造変革」の推進
―「自立」の解体と「依存の権利化」による共生社会の再設計―

〇教育には、学習者の認識を進化させるための「教材」が欠かせない。本稿で小松と奥田の言説を取り上げるのは、それらが単なる体験談に留まらず、従来の社会通念(自立の定義や共感の欺瞞)を揺さぶり、自己変革を迫る「思想的教材」となるからである。これは、パウロ・フレイレ(Paulo Freire)が『被抑圧者の教育学』(新訳版、三砂ちづる訳、亜紀書房、2011年1月)で提示した、教育者が学習者に知識を一方的に注入する「銀行型教育」からの脱却と、現実を批判的に捉え直し変革を試みる「問題提起型教育」への転換という志向性を、現代の福祉教育において具現化しようとする試みでもある。また、かつて玉野井芳郎が「地域主義」(『地域主義の思想』農山漁村文化協会、1979年12月)において提唱した、中央集権的な生産性至上主義から生活圏の自律を取り戻そうとする思想的営為を、現代の福祉教育の文脈で発展的に継承するものでもある。
〇また、本稿において「当事者性」を強調する意図は、単に相手の立場に立って同情したり、思いやったりする感情移入の促進ではない。当事者の発する「助けて」という声を、個人の困りごとを超えて社会の不備を告発する権利の訴え、すなわち「構造的欠陥の証言」として捉え直し、教材化することにある。こうした教材化による認識の進化こそが、従来の「自立」概念を解体し、「相互依存」へと再構築するパラダイムシフト(枠組みの転換)の契機となるのである。
〇そして、この転換を実践へと接続し、社会構造に働きかける学習デザインを、本稿では「権利と構造変革の教育」と提唱する。そのフィールドは学校に限定されない。主たるフィールドは、住民自治組織や社協、NPO、福祉施設、企業・事業者、そして行政などが、地域社会という枠組みのなかで共に学び合う「プラットフォーム」である。そこでの主体は、子どもから大人までを含む地域住民のみならず、社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーカーやNPOスタッフ、福祉施設職員、医師・看護師、行政職員、そして教員といった専門職たちである。彼らには、「教える側」という特権的な立場を脱ぎ捨て、自らも地域の不条理に直面する「共事者」として、住民と共に課題を教材化することが求められる。ここで重要なのは、専門職が単なる伴走者に留まるのではなく、「専門性を持った共事者」として、地域住民が抱く生きづらさ(不条理)を権利へと「翻訳」し社会化する「アドボカシー」(権利擁護、代弁)の機能を果たすことである。併せて、それと並行して、他者の権利擁護のみならず、専門職自身が抱える「生きづらさ」を社会化していく「専門職によるセルフ・アドボカシー」の実践も不可欠となる。
〇そこで以下では、こうした教材化の実践が、従来の「自立」概念をいかに「相互依存」へと再構築し、「当事者性」の捉え方を「構造変革」へとつなげていくのか、そのパラダイムシフトの諸相を明らかにする。

自立から相互依存へ
〇上述の小松と奥田の言説を横断的に分析すると、そこには「自立」を至上命題とする近代的人間像を根本的に覆す、新たな教育哲学的基盤が立ち現れる。小松は、「中途半端さ」を否定するのではなく、そこに新しい価値が見出されると説く。奥田は、「非効率・非生産的」とされる人々の「生」のなかにこそ人間の根源的な尊厳があると説く。これらに通底するのは、個の「弱さ」や「依存」を排除するのではなく、むしろそれを他者とつながるための不可欠な「紐帯」と捉え直す思想である。これは生産主義の原理や自己責任の論理へのアンチテーゼであり、社会のあり方を「自立」から「相互依存的な共生」へと組み替える試みといえる。
〇ここで重要となるのが、「依存の権利化」という視点である。従来の福祉教育が、依存を「克服すべき課題」あるいは「温情的に受け入れられるべき状態」と見なしてきたのに対し、本稿が提唱するモデルでは、他者に頼り、委ねることを人間存在の本質に根ざした普遍的な「権利」として再定義する。熊谷が説くように、「自立は依存先を増やすこと」であるならば、多様な依存先を社会のなかに確保することはもはや個人の努力の問題ではなく、社会が保障すべき正当な権利となる。すなわち、この「依存の権利化」は、憲法13条の個人の尊厳(自己決定権)と25条の生存権を基盤とする。そして、障害者差別解消法の7条および8条が規定する「合理的配慮」を単なる義務的・受動的な対応ではなく、誰もが相互に依存し合える地域共生社会を構築するための構造的・能動的な権利へと昇華させるものである。
〇その「依存の権利」を行使する対象は、第一義的には国家や行政であるが、同時に、依存を「自己責任」として切り捨てない地域社会の「承認の作法」をも包含する。制度的サービスと地域住民との関係的な依存を往還させ、それらを個人の引け目ではなく、「市民の権利」として位置づける。これを教育の核に据えることによって、学習者は支援を必要とする人々を「同情や善意」の客体ではなく、共に権利を行使し、日常を創り合う主体として認識し直すことになるのである。
〇ここにおいて教育は、単なる知識や技術・技能を獲得する手段ではなく、他者の弱さや依存に呼応し合う「関係性の技法」として捉え直されることになる。この技法の根底にあるべきは、現状を追認することに留まる静的で慈恵的な「思いやり」ではない。それは、他者の尊厳を阻害する不条理な社会構造に対峙し、当事者と共にその構造を編み直そうとする、動的で変革的な実践としての「愛」、すなわちフレイレが説いた抑圧者からの解放を志向する「闘争的な愛」である。
〇この私的な情緒的な感情である「思いやり」を、社会的な連帯を伴う共働的な「愛」へと高めることが、教育の公共性を担保する原動力となる。この「闘争的な愛」「共働的な愛」が向けられるべき、教育現場における象徴的かつ具体的な対象のひとつに、障害の有無や能力の多寡によって学習の場を分断してきた「分離教育」がある。この制度的格差・差別を批判的に検討し、誰もが「共に在り、共に学び、共に育つ」ことを前提としたインクルーシブ教育へと再編していく。この実践的なプロセス(「思いやり」から「共働的な愛」へ)が、社会の構造的不条理を変革する「市民福祉教育」の論理を支える不可欠な要素として組み込まれなければならない。
〇さらに小松と奥田の言説に通底するのは、専門家が非専門家を導くという教育構造への懐疑、すなわち専門家支配からの脱却である。小松は、専門家ではなく、当事者の周囲にいて個人的な「好き」の感情や「面白がり」の精神を基盤にして、地域課題に興味・関心を持つ「共事者」の大切さを説く。奥田は、専門家によってプログラム化された支援以上に、「助けて」といえる関係性や「伴走者」としてのあり方について説く。これらは専門的な知識や技術・技能によって対象者を操作するのではなく、教育の核に、対等な関係性のなかで実現する「相互」を据えているのである。
〇この「相互」のあり方を実質化させる内面的な契機として、いまひとつ「共感」がある。「まちづくり」において「共感」は不可欠な要素である。それは、単なる感情的な同調ではなく、地域・社会に生きる主体の「多様性」を前提とする。そして、それらを排除せずに「共働」するための関係形成の基盤である。そのため「まちづくり」においては、効率的な課題解決や安易な合意形成を目的化するのではなく、互いの「わからなさ」を尊重し合い、差別を考える習慣(作法)を身に付け、その文化化を図って地域に根付かせることが重要となる。市民福祉教育は、他者を「わかる」ためではなく、他者との差異を抱えたまま、それでも共に生きるための知識や技法、価値観を育む営みである。この教育は、「まちづくり」の前提条件であり、その過程そのものである。
〇ここで、「多様性」という言葉の危うさについて言及しておきたい。現在の「多様性」の語りは、しばしばマジョリティ側の論理に変質し、マジョリティによる、マジョリティのための「免罪符」と化している側面がある。それは、社会に構造化された差別や不平等を解消する取り組みを封じ込め、後景化・後退させるような作用をもたらしかねない。つまり、無批判な多様性の尊重や奨励は、結果として差別や不平等を再生産し、マジョリティによる包摂と管理を強化することにつながる。真の多様性とは、単なる個別性の尊重に留まるものではない。それは構造化された差別を直視し、無意識にその構造に加担している「特権的な自分」を認識する実践である。したがって、「まちづくりと市民福祉教育」に求められるのは、情緒的な「共感」を超え、他者に対して共に・関わり・関心を持ち続ける「共関」意識の醸成である(岩渕功一『多様性とどう向き合うか―違和感から考える―』(岩波新書、2025年12月、130頁)。

当事者性と構造変革
〇この「共関」を単なる他者への関心に留めず、自らの問題として自覚し、社会変革への責任を具体化していくうえで重要な概念として、「当事者性」がある。これは、単に問題に直面しているという事実を指すだけではない。その問題への関わり方や主体的な意識のあり方を質的に表現する概念である。例えば、障がい者やその家族は第一義的な当事者であるが、「障害の社会モデル」の視点に立てば、障害は社会構造や環境が生み出す不全(社会的不備、障壁)である。したがって、社会を構成するすべての個人がその問題の当事者であり、等しく責任を引き受けるべき存在となる。しかし、この「すべての人が当事者である」という普遍化は、各々が固有の視点・視座を持つ異なる存在であるという「他者性」の認識を欠いてはならない。当事者性と他者性の両義性を認識することで、安易な同情や画一的な共感の押し付けを排し、異質な他者との対等な関係性における深い相互理解が可能となるのである。
〇ここでさらに、「当事者性」と「他者性」に併せて、鯨岡峻が提唱する「相互主体性」に言及しておきたい(鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性―』ミネルヴァ書房、2006年7月)。鯨岡にあっては、相互主体性とは、複数の主体(個人)が互いを単なる客体(対象)としてではなく、「私」と「あなた」が主体として存在することを認め合い、影響し合い、共に変革していく能動的で発展的な関係性をいう。その関係性が深まる過程を通して、「私」と「あなた」が共に新たな主体性を形成し、「私は私」という閉塞的な主体から「私は私たち」という開放的な関係性へと開かれることになる。この視点を福祉教育に適用すれば、例えば子どもと障がい者の交流活動は、主体(子ども)が客体(障がい者)を「知る・支援する」といった一方的な働きかけの対立的なモデルを脱し、双方が主体性を持ち、互いを尊重し合い、共に学び、共に生きる地域・社会を築いていくための重要なアプローチとなる。
〇上述の「当事者性」「他者性」「相互主体性」の概念は、三位一体となって市民福祉教育を支える概念であることに留意したい。すなわち、市民福祉教育は、個人の意識改革(当事者性の深化)のみならず、他者との関係性の質的向上(相互主体性の構築)を経て、社会構造の変革へと連動していくべきものである。
〇こうした認識に立てば、改めて、従来の福祉教育が個人の内面や道徳心に訴える「思いやり教育」に終始してきたことの限界がより鮮明に浮き彫りになる。個人の善意のみに依拠するアプローチは、既存の社会構造を補完・温存させ、かえって「助ける側(強者)」と「助けられる側(弱者)」の分断を固定化しかねない。市民福祉教育は、単なる「思いやり」や「優しさ」を教えること(学習の内面化)に留まるのではなく、「まち」に暮らす他者の不可侵の尊厳(権利)に触れる際の、緊張感を学ぶ場であるべきである。すなわち、市民福祉教育は、個人の「弱さ」やさまざまな「依存」を人間存在の普遍的な姿として捉え直す。そして、その条件のままに生きられるよう地域・社会の基礎構造的な「分母」(生産性の原理、自己責任の論理)を問い直す。そのなかで、新しい価値観を創造する「権利と構造変革の教育」(学習の外化)へと転換していくことが求められるのである(図1参照)。

図1 「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ
〇別言すれば、市民福祉教育がめざす構造変革とは、奥田がいう「助けて」といえる関係性が個人の勇気に依存するのではなく、地域の仕組み(構造)として保障される状態を創出することに他ならない。それは、行政主導によるシステムの改編や単なる個人の意識の改革ではなく、教育的実践を通して地域・社会の「分母」を書き換えていく草の根の民主主義的な社会変革である。それは、具体的には、①個人の生きづらさを自己責任にせず、社会の不備として地域課題へと押しあげる「可視化・共有化」、②当事者と住民が対等に話し合い、地域のルールや支援のあり方を共に決め直す場を日常のなかに創る「対話化・民主化」、③既存の制度に頼るだけでなく、互いの弱さを認め合い、共に助け合える新たな居場所や仕組みを草の根から実践する「行動化・共働化」、などによって駆動する。それを通じて住民(学習者)は社会の「受け手」から、地域の文脈を書き換える「創り手」へと変革するのである。

〇以上を要するに、市民福祉教育とは、①「思いやり」という内面的なアプローチから脱却し、生産性の原理や自己責任の論理に基づく社会構造を問い直す権利意識を育むこと。②小松がいう誠実な葛藤を指針として、情動的な「共感」を論理的・多元的な思考と連携させ、誰もが安心して依存できる「まち」を再設計すること。③奥田がいう「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」という確信を、個人の内面的な感情に留めるのではなく、地域の「構造」そのものに根付かせること。この構造変革こそが「ふだんの、くらしの、しあわせ」を真に支える土台となる。こうしたパラダイムの転換を提示することが、「まちづくりと市民福祉教育」の本質に他ならない。
〇なお、②と③の議論に関しては、それが内包する両義性について留意したい。確かに、「中途半端さ」や「なんとかなる」といった寛容や楽観は、包摂社会を構想するうえで重要な契機となり得る。しかしその一方で、これらは責任の所在や立場の境界を曖昧化させるリスクを孕んでいる。小松がいう「共事者」は、単なる(共感的な)傍観に留まる懸念を生み、奥田がいう「なんとかなる」は、構造的課題に対する批判精神や組織的な共働への意志を希薄化させる恐れなしとしない。それゆえに、このリスクを回避し、真の構造変革に結びつけるためのプロセス、すなわち「曖昧な善意」を社会変革に向けた「共働意識」へと昇華させていくプロセスを必要とする。
〇では、いかにしてこのリスクをコントロールし、プロセスを実質化させるのか。そこには、「省察的対話(リフレクション)」の導入という教育学的な手続きが不可欠である。具体的には、単に「共事者」として寄り添う体験に終始するのではなく、その関わりのなかで生じた「割り切れなさ」や「自身の特権性」を批判的に振り返る場を設定することである。学習者が自身の「曖昧な善意」が、既存の構造的な差別や不平等を温存させていないかを問い直す。この自己との対峙を学習過程の核心に据えることで、単なる情緒的な連帯を、社会の理不尽に対する自覚的な「共働意識」へと練り上げることが可能となる。この「問い」の継続こそが、無批判な楽観論を退け、真の構造変革へと向かう教育的営為の核心をなすのである。
〇ここで、以上で取りあげた2人の思想を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて整理すると、およそ次のようになろう(表1参照)。小松と奥田は、フィールドやアプローチを異にするが、両者の思想には「弱さ」や「依存」を肯定し、孤立を防ぎ、地域共生社会を創るという共通の底流があるのである。

表1 小松理虔と奥田知志の思想比較

Ⅳ 持続可能な「まちづくりと市民福祉教育」の展開
―「依存の権利化」を具現化する4つの実践的プロセス―

〇本稿では、小松と奥田の2人による言説を補助線にして、「まちづくりと市民福祉教育」の新たな視点・視座について検討してきた。これらの論考を横断的に捉え直すと、これまでの福祉教育観を転回させる必要性が浮かびあがってくる。そこで、ここでは、小松(「共事者の連帯」)と奥田(「不可解性の受容」)の思想を昇華し、「依存を権利として承認する教育」へと至る構造的モデルを提示する。そして、冒頭の「はじめに」に掲げた3つの課題に対応させる形で、新たな福祉教育の地平を展望したい。

理論的転回(3つのパラダイムシフト)
〇「まちづくりと市民福祉教育」は、これまでの福祉教育に、単に新たな知識や技術・技能を付け加える教育的営為ではない。それは、社会を支える「当たり前」というルールそのものを書き換えるそれであり、以下の点において、従来の福祉教育観を昇華し、新たな次元へと導く役割を担う。
〇第1の理論的課題である「依存を否定する自立観の超克」についてである。これまでの福祉教育は、高齢者や障がい者を弱者として、一方的な「思いやりの客体」として固定化してきた。人間は本質的に依存的な存在であり、真の自立とは「孤立した自立」ではなく、「相互依存的な自立」である。「まちづくりと市民福祉教育」は、個人の「弱さ」を固有のものとして認め、その依存を権利として保障する社会理論へと脱皮しなければならない。「依存の権利化」という視点は、決定的なパラダイムシフトをもたらす。
〇第2の実践的課題である「まちづくりとの乖離の解消」についてである。まちづくりと福祉教育の乖離は、小松の「共事者」の概念によって解消される。また、小松の「中途半端な」自分を肯定する視点は、子どもから大人までを含む地域住民(市民)を「まちづくり」の主体へと変革させる。この主体変革こそが、多様な主体による多層的な地域ガバナンスを構築する原動力となる。「まちづくりと市民福祉教育」は、学校の「内」や学校の「外」の地域・社会で学ぶものではなく、地域・社会というフィールドの「文脈」を書き換える実践そのものとして再定義される必要がある。
〇第3の哲学的課題である「主体変革としての教育観の確立」についてである。それは、奥田が説く「不可解性の受容」によって結実する。共生とは、単に相手を理解し共感することによるのではなく、「わたしがいる、あなたがいる」ことによって「なんとかなる」という信頼の関係性の構築である。「まちづくりと市民福祉教育」は、生産性や能力によって人間の価値を測る優生思想的な力学を否定する。そして、自己を「助ける/助けられる」という二項対立的な関係から開放し、地域・社会の「分母」そのものを組み替える「変革主体」へと再規定する教育に切り替えていかなければならない。

実践的プロセス(4つのステップ)
〇「まちづくりと市民福祉教育」は、この理論的視座を地域社会において具現化するために、従来の「思いやり教育」の枠組みを超え、社会構造そのものを書き換える営為へと深化を遂げる。
〇この構造変革への歩みは、表2および図2に示す通り、「存在肯定(在る)」→「共働参加(関わる)」→「相互依存(動く)」→「共生共創(創る)」へと至る4段階のプロセスとして体系化される。それは、個人の抱える「生きづらさ」を単なる個人的な問題に留めず、社会構造への「問い」へと転換し、他者との関係性を編み直し、新たな社会のあり方を構想する具体的なロードマップである。
〇表2は、小松と奥田の言説における用語と、「思いやり教育」と「権利と構造変革の教育」における用語を各ステップに対応させて整理したものである。図2に示すプロセスは、単なる直線的な進歩ではなく、ステップ(1)から(4)を往還しながら深化する「螺旋状の成長」をモデル化したものである。特にステップ(3)の「相互依存」において、自立を「依存を排除すること」ではなく「他者に依存する権利」として再定義・内面化したとき、初めてステップ(4)の「共生共創」は、マジョリティによる一方的な主導を脱し、双方向的な共働による「まちづくり」へと高められ、結実するのである。

表2 小松理虔と奥田知志の言説と
「思いやり教育」と
「権利と構造変革の教育」の構造

図2 「まちづくりと市民福祉教育」のプロセス

ステップ(1)存在肯定(在る):発見と価値観の再構成
〇存在をありのままに受け容れることは、単なる現状肯定に留まらない。個人が抱える「生きづらさ」や「特性」を、克服し排除すべきマイナスの課題として捉えるのではない。むしろそれを、社会のあり方や構造的な欠陥を厳しく問い直すものとして再認識し、無意識のうちに内面化している効率性や生産性という価値観を根本から揺さぶるプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する「中途半端さ」という人間の本質を寛容に受け容れることが求められる。同時に、奥田が説く「助けて」という一言を、弱さの露呈ではなく、他者と共働して社会を編み直すための「新たな価値」や「希望」として見出すことで、硬直化した自己と社会を再定義していく。そのステップである。それは、「そのままのあなたでいい」という全肯定のメッセージへとつながる。
ステップ(2)共働参加(関わる):共働と関係性の再構築
〇共働は、互いの「中途半端さ」や「曖昧さ」を、正すべき欠点として否定するのではない。個々人が抱える不可避なものとして、それを丸ごと認め合うことが出発点となる。自分とは異なる背景を持つ他者と、答えのない問いに対して多元的な視点で思考を深め合い、共に試行錯誤しながら、共働の経験を通じて分断された関係性を編み直していくプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する「寄り添えなさ」を認めることで、相手を自分の管理下や理解の枠に当てはめようとする独善的な支援の構図を打ち破ることになる。また、奥田が説く「わたしがいる、あなたがいる」という、個と個がそのままの姿で対峙し、互いの存在を等身大に認め合う相互承認の関係へと踏み出していく。そのステップである。それは、「できることから一緒にやればいい」という連帯の姿勢に象徴される。
ステップ(3)相互依存(動く):自立と依存の再定義
〇他者に依存することは、人間の尊厳に根ざしたひとつの豊かな生き方である。ここでの「真の自立」とは、一人で抱え込むことではなく、むしろ頼れる依存先を増やし、分散させることをいう。そして、「他者に依存する権利」はすべての人に等しく備わっていることを学習し、自分と他者の双方の尊厳を尊重する感性を養う。それを通して、一面では「困ったときはお互いさま」という情緒的で恣意的な(あるいは互酬性に縛られた)互助を超えていくプロセスである。
〇ここでは、小松のいう「事を共にする」という実践を通じ、依存を肯定することで、奥田が説く「何とかなる」という抽象的な希望が、確信を伴った実感へと変わる。そしてその実感を、具体的な支え合いの実践へとつなげていく。そのステップである。それは、「困ったときは助け合えばいい」という権利の承認に帰結する。
ステップ(4)共生共創(創る):共創と地域生活の再編成
〇共生は、理解できない他者や自分とは異なる属性を持つ存在を排除するのではなく、その差異を抱えたまま共に生き、互いに頼り合い・支え合うことをいう。その循環のなかで、「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」と確信できる「希望のまち(みんながつながるまち)」を、他人事(ひとごと)とせず、市民一人ひとりが主体となって共に創りあげていくプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する、既存の枠組みを超えた「新たな世界」を具体的に構想する。そして、依存を自立の対極ではなく、「生の基盤」として捉え直すことで、奥田が説く孤立のない「希望のまち」を現実のものとして構築していく。そのステップである。それは、「あしたをみんなで創っていこう」という希望の宣言となる。

〇これら4つのステップを地域における「高齢者介護」に落とし込むと、以下のようになる。それは、介護を単なる「管理」や「解決」の対象から解き放ち、誰もが互いの弱さを認め合いながら共生する「福祉はまちづくり」(大橋)の実践そのものである。大橋が提起するこの命題を「権利と構造変革」の観点から捉え直せば、個人の困りごとを社会全体が向き合うべき課題として「外化(社会化)」していくプロセスに他ならない。その一連の過程を教育学的な論理として体系化することに、「まちづくりと市民福祉教育」を探究する歴史的・社会的意義を見出すことができる。
〇(1)要介護高齢者を憐憫の対象としての弱者、あるいは排除すべき課題とみるのではなく、その存在をありのままに受け容れる。ここでは、介護をめぐる「生きづらさ」を社会構造への問いとして発見する視座が重要となる。(2)介護を専門職だけの閉ざされた領域に留めず、地域住民がそれぞれの「中途半端さ」(できる範囲のこと)を持ち寄って、ケアを介した他者との関係性を編み直す。これは、専門職支配からケアを市民の手に取り戻す試みである。(3)頼ることを自立の喪失ではなく、尊厳ある生き方として肯定する。「依存を権利化」することで、要介護状態になっても地域で生き続けることを保障する感性を養う。(4)要介護状態の有無に関わらず、相互依存を基盤とした共同体意識を醸成し、相互扶助が内面化された地域社会を再構築する。このように、「まちづくりと市民福祉教育」には、これらのステップを単なる理念としてではなく、プロセスとして共有し、日々の暮らしのなかで市民が主体的に体現できるよう、その学びと気づきの機会をデザインしていく役割が求められるのである。
〇いまひとつ、行政が策定する「地域福祉計画」などが単なるサービスの供給計画(「分子」)から、地域・社会全体の「分母」を書き換える実践へと進化するプロセスを描くと、こうなろう。
〇(1)計画の策定にあたって、子どもから大人までを含む地域住民が抱える「生きづらさ」や「声なき声」を社会の構造的欠陥の証言としてありのままに受け容れ、可視化する。(2)計画の策定を専門職や一部の協力者に限定せず、多様な住民が行政などと「事を共にする」関係性を、策定プロセスそのものに組み込む。(3)支援・受援の固定化を招く従来の自立支援観を解体し、住民が他者に頼ることを尊厳ある生き方(権利)として肯定し合える仕組みを計画の根幹に据える。(4)単なる施設の整備や予算の配分(「分子」の調整)に留まらず、誰もが「助けて」といい合える関係性を制度(構造)として保障し、住民一人ひとりが地域の文脈を書き換える変革主体として機能する社会をデザインする。このように、自治体の地域福祉計画は、管理のための文書から、多様な住民が「共事者」として地域の文脈を書き換え、地域の未来を共創するための社会変革のロードマップへと再規定されるのである。この再規定を実現する原動力こそが、市民福祉教育に他ならない。「地域福祉計画策定のプロセスは福祉教育の実践過程である」「地域福祉は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる所以であり、市民福祉教育が「まちづくり」の基盤であることの証左である。

おわりに
―市民福祉教育の再定位と今後の課題―

〇最後に、いま一度、本稿で提示した「権利と構造変革の教育」の輪郭を実践的な文脈で再確認しておきたい。それは、単に他者への情緒的な理解を深める学習活動を指すのではない。それは、生産性の原理や自己責任の論理の、既存の地域・社会を規定する「分母」を問い直し、人間の「依存」(他者に委ねること)と「受援」(助けを受けること)を権利として再定義するプロセスである。ここでの教育的営為とは、学習者が「共事者」として地域の不条理や他者の不可解性に直面し、その葛藤を糧に、差別や排除の構造を温存する社会システムを草の根から創り変えていく「変革主体」へと自己を再構築することを指す。すなわち、「思いやり」から「共働的な愛」へ、「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ、その転換において、注視すべきは学習のベクトルの質的変化である。前者が、学習者の内面に働きかけ、道徳的な「同情や善意」を求める「内面化のベクトル」であるのに対し、後者は、個人の気づきを地域の不条理の発見へとつなげ、具体的な社会制度やルールの変革へと向かわせる「外化のベクトル」を有するのである。このベクトルの転換こそが、教育を既存の秩序を維持する役割から、社会の構造そのものを変革する営為へと転換させる鍵となる。「まちづくりと市民福祉教育」は、個人の内面を耕すという次元を超え、誰もが安心して依存し受援し合える地域共生社会を共創するための、自治的・共働的な社会変革の実践である。
〇なお、本稿で提示した理論的枠組みは、あくまでも分析視角の提示に留まっている。今後はこの枠組みを用い、「まちづくりと市民福祉教育」の具体的な実践を分析することで、子どもから大人までを含む地域住民が「思いやりの主体」から「構造変革の主体」へと自己を再規定していくプロセスを実証的に明らかにする必要がある。特に、学習者が「共事者」としての葛藤を経て、いかにして「依存の権利化」に向けた社会的・政治的認識を高めていくのか。また、社会構造を問い直すためのアドボカシーや政策提言にどう関わっていくのか。これらの検証を通じ、「構造変革」という抽象的概念を、教育によって駆動される具体的な「社会設計の作法(メソッド)」へと具現化していくこと。それこそが、本研究が切り拓くべき次なる地平である。
〇さらにいえば、「構造変革の教育」モデルの実効性について、例えば次のような課題が残されている。ひとつは、教育現場における「評価」の困難性である。内面的な道徳心とは異なり、社会構造の変革という長期的かつ多因子による事象を、いかに教育的成果として測定するかという方法論の確立である。具体的には、リフレクション・ログ(振り返りの記録)の質的分析を通じて、学習者の語彙が「情緒的な共感」から「社会構造への批判」へと変容するプロセスを評価指標として定式化することも考えられる。その際、個々人が抱える固有の課題を権利の主張へとつなげるアドボカシーの展開や、共通の課題を持つ人々が連帯して集団的な力を組織し社会に働きかける「コミュニティ・オーガナイジング」の成立過程を、「学び」が社会変革の「力」へと結実した「実践的成果」として評価体系に組み込む視点も有効であろう。
〇いまひとつは、学校という公教育の場において、既存の社会構造を批判的に問い直す「変革主体」の育成が、学習指導要領や行政的枠組みといかなる緊張関係のなかで共存し得るかという点である。これについては、それを「対立」としてではなく、学校教育等の既存システムの再定義を促すための創造的な摩擦として位置づけることが重要となる。教育現場において、社会の不条理を所与の条件として受け入れさせるのではなく、それを変革すべき教材として提示することは、「主権者教育」としての「まちづくりと市民福祉教育」の本来の姿である。
〇すなわち、「市民福祉教育」は、「まちづくり」のための単なる地域貢献活動やボランティア活動、そのためのサービスラーニングに留まるものではない。主権者・政治主体としての子どもの社会参加の促進と政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)の育成・向上を図る教育をいう。それは、地域の課題を通じて地域政治や地域行政のあり方などについて学び、考えることから始まる。そのためには、学校を地域に開き、多様な人々や組織・機関などとネットワークを形成し、共働する場(プラットフォーム)とすることが肝要となる。それを通して、「市民」としての資質・能力の育成(市民性教育)が図られ、地域の課題解決に向けて具体的に働きかけていく政治的運動としての「まちづくり」が展開されることになる。それは、人権と思想・信条の自由(人権教育)を前提とした、「対話と共働」の運動である。
〇また、教育行政や関係機関についても、単なる管理・指導の主体に留まるのではなく、地域が抱える不条理を市民と共に担う「共事者」へとその役割を再定義し、相互補完的なガバナンスへと転換していくことが求められる。とりわけ学校は、教育基本法1条が謳う「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育む場であり、学校教育法21条が示す「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」を養う場である。それゆえに、子どもから地域の大人までの市民が構造的な地域生活課題に向き合い、「連帯と共働」を通じて解決を模索する、地域共生社会の「ハブ」(結節点)ないし「プラットフォーム」としての機能を十全に果たすことが期待される。そこでは、当然のことながら、教員の専門性のあり方も問い直されることになる。
〇ここでいう教育の専門性とは、教育現場における「政治的中立性」の真義を問い直すものでもある。それは、特定の党派や政治団体(政党政治)への加担を排することであり、政治という社会的営為に対する沈黙や回避を意味するものではない。むしろ、安易に「中立」を標榜して沈黙することは、社会に潜む不条理や既存の抑圧構造を追認し、結果として現状維持に加担してしまうリスクを孕んでいる。教育の本質は、社会に厳然と存在する不条理や構造的課題を「生きた教材」として提示し、多様な価値観が交錯するなかで「対話と共働」を継続させる場を保障することにある。教員に求められるのは、中立という名の思考停止に陥ることでも、特定のイデオロギーを注入することでもない。自らも地域社会の一員であり、市民の一人であるという自覚を持ち、自らの価値観を絶対視することなく、子どもをはじめ地域住民や多様な専門職、行政などと共に社会を編み直すための「市民的作法」を探究し続ける。その謙虚で理性的な構えこそが、主権者教育としての市民福祉教育を担う教員の新たな専門性として確立されなければならない。これは、地域課題を自分事として捉え直す政治的リテラシーの育成・向上を図る「まちづくりと市民福祉教育」において、極めて重要な課題である。
〇併せて、この「変革主体」としての専門性の再定義は、教員という職種に限定されるものではない。ソーシャルワーカーもまた、そのアイデンティティの根幹に「社会変革」を据えた、数少ない専門職のひとつである。国際ソーシャルワーカー連盟(IFSW)と国際ソーシャルワーク教育学校連盟(IASSW)が2014年7月に採択した「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」は、ソーシャルワークを次のように規定している。「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」、がそれである。また、この規定の趣旨は、2020年6月に改定(採択)された日本社会福祉士会の「社会福祉士の倫理綱領」、その前文においても明文化されている。すなわち「われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する。われわれは平和を擁護し、社会正義、人権、集団的責任、多様性尊重および全人的存在の原理に則り、人々がつながりを実感できる社会への変革と社会的包摂の実現をめざす専門職であり、多様な人々や組織と協働することを言明する」、がそれである。
〇すなわち、ソーシャルワーカーにとって、社会変革を促すことは、業務上の付随的な機能ではなく、専門職としての存在理由そのものに位置づけられているのである。この点で、教員が「主権者教育」を通じて子どもを「変革主体」へと育てる役割を担うのだとすれば、ソーシャルワーカーは自らが直接「変革主体」として、排除され孤立した人々との関わりのなかで社会そのものを問い直し、その改良と変化を促進する存在として位置づけられるのである。
〇この意味において、教員とソーシャルワーカーはともに、対象となる人々(子ども、クライエント)を「支援される客体」としてではなく、地域の不条理に共に向き合い、社会を編み直していく変革の当事者・共働者として位置づけ直そうとする点で、その専門性の核心を共有しているといえる。この共有された専門性は、単なる理念に留まらず、「まちづくり」の具現化を図るに際して、教員とソーシャルワーカーの連携と共働のあり方において厳しく問われるのである。

引用・参考文献
(1)岩渕功一(2025)『多様性とどう向き合うか―違和感から考える』岩波書店。
(2)奥田知志(2025)『わたしがいる あなたがいる なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた』西日本新聞社。
(3)鎌田華乃子(2020)『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』英治出版。
(4)鯨岡峻(2006)『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房。
(5)小松理虔(2025)『小名浜ピープルズ』里山社。
(6)志水宏吉・他編著(2025)『社会関係資本を活かした学校づくり―事例とデータでみる子どもたちの「つながり」―』ミネルヴァ書房。
(7)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会。
(8)中島康晴(2019)『「出逢い直し」の地域共生社会―ソーシャルワークにおけるこれからの「社会変革」のかたち』(上巻・下巻)批評社。
(9)パウロ・フレイレ、三砂ちづる訳(2011)『被抑圧者の教育学』(新訳版)亜紀書房。
(10)ロ・フレイレ、里見実訳(2001)『希望の教育学』太郎次郎社エディタス。
(11)ロバート・D・パットナム、柴内康文訳(2006)『孤独なボウリング』柏書房。

 


 

おわりに

 


 

〇本書では、福祉教育の歩みを、歴史的遡及と実践的分析の両面から検証してきた。その最大の知見は、福祉教育を市民自治による社会変革のプロセスとして再定義したことにある。また、その理論的検討の到達点は、大橋謙策の「価値変革」(博愛の精神)や原田正樹の「関係変革」(相互依存的自己実現)の議論を踏まえ、「まちづくりと市民福祉教育」という新たな理論的枠組みとして提示した点にある。本書を通して論じてきた内容が、福祉教育研究と実践の新たな地平を切り拓く一助となれば幸いである。
〇本書は、筆者にとってひとつの集大成である。しかし、「まちづくりと市民福祉教育」という広大な研究領域においては、なお道半ばである。デジタル技術やAIの急速な普及が社会の姿を大きく変えつつある今日だからこそ、かつて地域社会に息づいていた「みんなで考え、みんなで汗をながす」営みを、いかに新しい時代のコミュニティへと継承し、教育の場として再構築していくか。その問いは、これからの市民福祉教育に課せられた重要な課題である。
〇思えば、1980年頃に福祉教育を自らの生涯の研究テーマと定めて以来、筆者の歩みは、常に優れた師との出会いと、地域で懸命に生きる住民の方々との対話や共働に支えられてきた。なかでも、大橋謙策先生との出会いは、その後の研究と実践の方向性を決定づけるものであった。科学的・学際的な研究の深化を志しながらも、自らの未熟さを痛感し続けた歳月であった。しかし、その実践と研究の過程で経験した数多くの苦悩や葛藤こそが、「ふくし」とは何か、「まちづくりと市民福祉教育」とは何かを問い続ける原動力となった。
〇また筆者は、1990年代半ば頃から、「ふくし」とは「ふだんの くらしの しあわせ」について「みんなで考え みんなで汗をながすこと」であり、「しあわせ」とは「みんなが満足していて楽しいこと」であると語ってきた。その契機となったのは、茨城県社会福祉協議会主催の福祉教育セミナーに参加したときの、一人の実践者の一言であった。「福祉教育が変えるのは、特別の誰かの人生ではなく、いま、隣りにいる人の『当たり前』なんですね――」、がそれである。いま思い返せば、「ふくし」の本質が、単なる「ふつうの くらし」の平穏を願うことではなく、一人ひとりが日々営むその「しあわせ」を構造的に捉え、みんなで創り上げていくことであると確信したのは、まさにあの一言であった。その後、筆者は、「まちづくりと市民福祉教育」とそのための「共働」について探究することになる。
〇さらに筆者は、2012年6月に「市民福祉教育研究所」(オンライン組織)を設立した。それは、地域で学び続けてきた経験を次代へ還元するとともに、未来を担う若い研究者や実践者と自由闊達に語り合う「対話の広場」を築きたいとの願いからであった。幸いにも現在では、多くの共同研究者や読者との出会いに恵まれ、研究の歩みをともに進めることができている。
〇本書が、かつて筆者が諸先輩方から受け取った灯火を、未来(あす)の市民社会を拓く若い研究者や実践者へとつないでいく一助となれば、これに勝る喜びはない。
〇もっとも、本書で提示した理論的枠組みは、なお発展途上にある。今後の課題についてはすでに論じたところであるが、本書全体を総括する意味から、あえて重複を承知のうえで、次の4点を改めて指摘しておきたい。
〇第1に、「認識変容プロセスの実証的研究」である。すなわち、市民が「共事者」、さらには社会変革の主体へと成長していく学習過程において、いかなる心理的・教育学的メカニズムを経て認識を変容させ、社会変革へと向かう実践主体へと成長していくのかを実証的に解明することである。
〇第2に、「構造変革を評価する新指標の開発」である。すなわち、本書がめざすのは、個人の意識変革に留まらず、地域社会の制度や関係性を変革する「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究である。そのために、教育実践がいかなるプロセスを経て条例や地域計画の策定、包摂的な関係性や地域コミュニティの形成などの構造的成果へと結実するのかを可視化し、その成果を適切に評価し得る新たな指標を構築することが求められる。
〇第3に、「専門職の再専門化」である。すなわち、教員やソーシャルワーカーなどが専門性を備えた「共事者」として、その専門知を、子どもや高齢者、障がい者を含むすべての住民の声を権利へと翻訳する公共的資源として再定位するとともに、そのための養成・研修のあり方を探究することである。とりわけ、AIをはじめとするデジタル技術が標準的な知識や解決策を容易に提示する時代にあって、専門職には、データ化できない住民の「痛み」や「沈黙」に耳を傾け、対話を通して新たな意味と価値を共に創造する実践知が、これまで以上に求められるであろう。
〇第4に、「官民共創ガバナンスの学際的研究」である。すなわち、住民・行政・専門職が対等なパートナーとして共働し、草の根から生まれる社会変革を公的責任の強化へと結び付ける「官民共創ガバナンス」の制度設計と、その実現に向けた教育学、社会福祉学、行政学をはじめとする学際的研究を一層深化させることである。
〇これらの課題への挑戦は、「市民福祉教育」を特定領域の教育に留めるのではなく、民主主義を支える主権者教育の中核へと位置づけ直す営みに他ならない。また、本書を通底する思想のひとつである「地域共生社会」の「共生」は、単なる理念やスローガンとして語られるもの(「お守り言葉」)ではなく、自らの身を削り、ときに痛みを引き受けながらも、他者と「共に生きる」という静かで確かな覚悟である。こうした主権者たる市民が、主体的・自律的に社会構造を問い直し、対話と共働を通して地域社会を創り変えていくこと──その営みとしての「まちづくりと市民福祉教育」が未来へと受け継がれていくことを願い、本書の結びとしたい。

 


 

著者紹介
阪野 貢(さかの みつぐ):MItsugu  Sakano
市民福祉教育研究所顧問
日本福祉教育・ボランティア学習学会名誉会員(2023年)

宝仙学園短期大学保育科  専任講師・助教授・教授(1973年4月~1997年3月)
中部学院大学人間福祉学部人間福祉学科  教授(1997年4月~2013年3月)
中部学院大学大学院人間福祉学研究科 教授(2003年4月~2013年3月)
日本社会事業大学附属社会事業研究所 研究員(1983年4月~1986年3月)
NHK「社会福祉セミナー」講師(福祉教育等担当)(1997年8月~2009年1月)
皇學館大学大学院社会福祉学研究科 非常勤講師(2002年4月~2011年3月)
福井県立大学大学院看護福祉学研究科 非常勤講師(2003年4月~2021年3月)
文教大学生活科学研究所  客員研究員(2013年4月~2021年3月)
市民福祉教育研究所  主宰(2012年6月~2020年12月)
市民福祉教育研究所  顧問(2021年1月~)
横浜市立大学、日本女子大学、東京学芸大学、佛教大学、名古屋女子大学、名古屋学院大学等の非常勤講師
日本福祉教育・ボランティア学習学会事務局長・副会長、日本福祉文化学会理事、全社協・東京都社協・埼玉県社協・静岡県社協・富山県社協・岐阜県社協・三重県社協等の福祉教育・ボランティア等委員会の委員および委員長を歴任
東京都狛江市・豊島区・板橋区・目黒区・武蔵村山市、神奈川県相模原市、静岡県焼津市・藤枝市、岐阜県関市・八幡町(郡上市)・海津町(海津市)・可児市・下呂市、富山県入善町、愛知県豊田市等の地域福祉活動計画(社協)や地域福祉計画(行政)の策定委員および委員長を歴任

著書
『福祉教育論』(編著)北大路書房、1998年
『戦後初期福祉教育実践史の研究』(単著)角川学芸出版、2006年
『福祉教育のすすめ』(監修)ミネルヴァ書房、2006年
『市民福祉教育の探究』(単著)みらい、2009年 など多数

 


 

「まちづくりと市民福祉教育」の研究
―その思想的系譜と変革の実践原理―

発 行:2026年6月1日
著 者:阪野 貢
発行者:田村禎章・三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第86号(2026年5月28日)

「老爺心お節介情報」第86号

〇早いもので、もう5月の下旬です。今や、日本には四季がなくなったのでしょうか、夏日、真夏日が続き、夏の気候になってしまいました。それでも、自然の営み、時は流れて、チョウゲンボウが営巣のために飛来してきましたし、時鳥(ホトトギス)が“トウキョウ、トッキョ、キョカキョク”と鳴き始めました。
〇私の足の具合はだいぶ良くなり、傷口も塞がり、5月22日には医者から治療は終わったという宣告を頂きました。治療薬を塗り、包帯を巻くということはなくなりましたが、足のはれと痛みは未だ残っており、まだ足を引きずりながら外を歩いています。やはり全治1か月では完治しませんでした。
〇この間の出来事を綴ります。
(2026年5月28日記)

Ⅰ 足の負傷に伴う羽田空港での車いす体験

〇5月11日、香川県社会福祉協議会の「2040年に向けた社会福祉協議会のあり方」検討会に参加しました。
〇南武線の稲城長沼駅の始発電車に乗れば、座って川崎駅まで行けると思い、タクシーを予約していきました。
〇前夜までの予約は、運転手がいないので夜の11時から朝方の6時までなら予約できるのですが、6時を過ぎるとできないというのを足が悪いからと言って頼み込んできてもらいました。タクシー運賃は通常の距離による運賃の他に予約料金700円、送迎料500円を上乗せで支払いました。
〇JR川崎駅から京急川崎駅まではよろよろと歩きました。問題は羽田空港内の歩行です。四国方面行のANAのボーディングブリッジ(ゲート50番前後)は遠く、普段使うチェックインカウンター後の保安検査場からは約1キロあります。
〇チェックインの際に、電動カーの予約をしたら、運転手付きの電動カーを手配してくれました。乗ってみて驚いたのは、電動カーがクラクションを鳴らしながら走行しているにも関わらず、注意を払う歩行者は皆無と言っていい状況で、電動カーは衝突を避けてしょっちゅう停止をしました。
〇12日の帰りの便では、羽田空港のボーディングブリッジから出口までは、電動カーが使えないという。帰りの通路が出口まで同じフロア―でなく、上下の階へ異動しなければならないというので、車いすを人が押してくれることになりました。2か所、エレベーターで上下階へ移動しなければなりませんでした。車いすを押してくれた担当職員は、しっかり研修を受けているのか、気配りも声掛けも適切で安心して乗っていることができました。
〇次いで、5月14日から16日にかけて、宮崎県都城市社会福祉協議会が出版した『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)の「出版記念セミナー」に招聘され出かけました。飛行機の便はJALでした。
〇JALのチェックインカウンターはすべて機械化されていて、QRコードを翳すだけ。したがって相談しようにも、私の時には近くに職員がいません。止むを得ず、足を引きずり、チェックインし、保安検査場の手続きをしました。保安検査場を出たところに電動カーがあったので、乗ろうとしたのですが、許可が必要なのか、使用方法はどうするのか相談しようにも職員がいません。職務を終えた保安検査員が通りかかったので呼び止めて、使用していいのか、使用方法はどうするのか聞いたが分からないという。後から来た人がこう使うのではないですかと教えてくれたので、自動車のナビゲーターと同じようにバスターミナルの番号を打ち込んで始動させてもらった。無人の電動カーは人や障害物を避けて、目的地まで無事運んでくれました。何となく不安だったが、乗ってみると便利なものだと感心しました。
〇いずれは、公道でもこのような無人の電動カーがタクシー代わりに人は使用することになるのでしょう。そうすれば、高齢者や障害者の移動サービス問題も解決するとは思いますが、高齢者や障害者が使いこなせるでしょうか。フランスのコンドルセが1789年に提言したように、実際生活に関する「大人の義務教育」が必要ですね。

Ⅱ 都城市社会福祉協議会の実践と出版記念セミナーの開催

〇上述したように、都城市社会福祉協議会の地域福祉実践の成果が『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)として刊行されました。
〇その記念セミナーが5月15日~16日と全国から150名の参加者で開催されました。懐かしい社協職員と出会えて、とても楽しい、嬉しい時間を過ごすことができました。
〇都城市社会福祉協議会の地域福祉実践は、上野谷加代子先生が1990年代以降「関係人口」の中軸に座り、上野谷先生の教え子や同志社大学の先生、院生も関わって、都城市社会福祉協議会職員ともども作り上げてきた実践です。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、1980年代末の「ボラントピア事業」、1990年代の「ふれあいのまちづくり事業」により大きく発展をします。その実践の特色の一つである福祉教育や、最近の重層的支援体制整備事業までの取組がコンパクトに本にまとめられています。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、公立地区公民館15館及び297館ある「自治公民館」(土地も建物も地域住民がお金を出し合って獲得している自治性が強い自治会)を基盤とした社会教育と15地区に組織化されている地区社会福祉協議会の活動とが特色であり、それらを基盤としたいろとりどりの綾なす実践が豊かに展開されてきました。
〇都城市は、1200年前後から「島津の庄」と言われた荘園で、鎌倉13人衆の一人である惟宗忠久が地頭職、下司職として派遣され土着化した地域で、地形的には盆地です。
〇惟宗忠久は、「島津の庄」にちなんで島津姓を名乗るようになります。
〇島津家4代目の忠宗の時代に、忠宗の子どもの資忠が戦功を挙げ、足利幕府から都城の支配を命じられ、事実上鹿児島島津家から独立した形で、戦国時代、徳川時代を経て今日にまで至ります。したがって、都城島津家は鹿児島島津家の分家筋ではありますが、一種独立した形の4万5千石も領する領主です。しかしながら、徳川幕府から大名としてみとめられていないので、参勤交代もありません。鹿児島島津家からは家老が派遣されていたとは言うものの、徳川幕府の天領にも似た、独立性の強い独特の位置づけが代々認められてきたようです。

註➀ 鹿児島島津家は、惟宗忠久の名にちなんで当主は「忠」を付け、都城島津家は同じく「久」を付けることが習わしになっているとのことでした。

〇このような特殊の支配構造が、鹿児島島津藩とは異なる文化を生み出したのでしょう、それが現在でも継承され、ある意味自由な、闊達な文化を生み出しているのかもしれないと思いました。
〇戦後いち早く、自治公民館による地域づくり、社会教育を振興していくのは、このような歴史的、文化的背景があったからであろうと推察しました。
〇現在の都城島津家の第29代当主は島津久友氏で、都城市社会福祉協議会の会長に就任されています。3日間、島津久友氏と歴史も含めていろいろお話が出来たのは僥倖でした。
〇数年前に、富山県氷見市の地域福祉実践を『福来の挑戦』(「福来」(フクラギ)とは出世魚の「鰤」の手前の名称、これから「鰤」になる気概をしめしたもの)として刊行し、盛大に出版記念セミナーを開催しましたが、全国各地で自らの市町村の地域福祉実践を本として出版し、世に問える実践が“目白押し”になって欲しいと「実践の記録化」の重要性を再認識したセミナーでした。

Ⅲ 日本地域福祉研究所の春季セミナー

〇日本地域福祉研究所の春季セミナーが2026年5月23日に、大正大学で行なわれました。
〇日本地域福祉研究所の理事長を退任してからははじめての参加です。理事長職を法政大学の宮城孝先生に引き継いだ時、数年は日本地域福祉研究所の行事などには参加しないと自分で決めました。
〇とういうのは、自分の性分として、疑問や意見を述べたくなると、我慢できずに話をしてしまうので、まして宮城先生は私の教え子でもあるので、自分の言動にブレーキが利かなくなると考えたので、参加しないことが大事だと考えました。
〇参加しない間に、日本地域福祉研究所の活動を客観化できるようになったら、かつての永田幹夫先生のように“よう”といって出かけ、研究所の所員の皆さんと楽しく飲めるようにしたいと自分で勝手に決めていました。
〇今回は、その客観化ができるようになったかどうかは分かりませんが、教え子の金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、修士課程の大橋ゼミ生)が、2025年11月に韓国社会福祉協議会の会長選挙で当選し、この1月から会長に就任したお祝いの会もあるということで、久しぶりに参加しました。
〇金玄勲さんには、1997年から6回行った(釜山、大邱、光州、大田、ソウル)韓国地域福祉研究セミナーの開催に当たって、大変お世話になりました。
〇その後、金玄勲さんは社会福祉法人幸福創造を設立し、特別養護老人ホーム、高齢者のデイサービス、保育所などを多角的に福祉サービス事業を展開するとともに、モンゴルの子どもたちを中心とした国際青少年交流活動を行ったり、福祉系大学で教鞭を執る等多面的に活動を展開してきました。
〇6年前には、ソウル市社会福祉協議会の会長に就任し、住民が求めているニーズに応えるサービスをプログラム化して、その事業の協賛企業を募り、プログラムの実施をしています。ソウル市社会福祉協議会は殆どソウル市からの補助金等の助成はありません。自分たちが企画したプログラムの実現に協賛する企業などからの協賛金、寄付金で運営をしています。日本の社会福祉協議会関係者は、この姿勢に大いに学ぶべきだと思います。
〇韓国からは金玄勲会長を始め10名の方が今回来日されました。中に、日本地域福祉研究所が1997年にソウルで行った第1回日韓地域福祉研究セミナーの開催を支えてくれた趙南畝さんも参加してくれていました。趙南畝さんは、“私は韓国の大橋謙策先生の教え子”と言って憚らない程、陰に陽に私と金玄勲さんを支えてくれています。その趙南畝さんがソウル市社会福祉協議会の会長に就任したと聞いて二重の喜びでした。
〇金玄勲さんの韓国社会福祉協議会の会長就任のお祝いと一緒に、東北福祉大学の大石剛史さんの損保ジャパンの社会福祉学術文献賞受賞のお祝いも行われました。
〇大石剛史さんが受賞した文献『ケアリングコミュニティの理論』(学文社、2024年、5610円)は、東北福祉大学院の博士論文を基にしたものです。
〇私が2014年に編著として刊行した『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房、5500円)で提起した私の考え方の“ケアリングコミュニティ”を基にして、心理学、哲学、教育学、看護学等の他分野の見識と比較研究してまとめたものです。久しぶりに哲学的考察をきちんとしてくれた論文を書いてくれて、教師としてはとても嬉しかったです。後に続く人が待ち望まれます。

Ⅳ 日本地域福祉学会「アーカイブ研究会」による「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」

〇日本地域福祉研究所の中島修さんや菱沼幹男さん、岡村英雄さんたちが中心になって、上記の研究会を組織し、「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」ともいえる研究会が5月24日に、文京学院大学本郷キャンパスで行われました。
〇同じ試みが2025年11月に行われましたが、その時はあまりにも準備不足なのを私が怒り、事実上、流会になりました。
〇研究者になり、論文を書くということは、“先行研究の批判検討に始まり、先行研究の批判検討に終わる”と言われるほど、先行研究を丁寧に、批判的に検討することが求められます。
〇その中で、自分が依拠してもいいと思える研究者の論文を発見できれば、自分の研究は半ば達成の道が見えてきます。筆者の場合で言えば、それは日本社会事業大学の学部時代に小川利夫論文、江口英一論文に出逢ったことが大きいです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」は、そのような先行研究を丁寧に読み、問題点を探り、かつ関係する研究者の理論、思想と比較しつつ、新たな視点と構想でこれからの日本の地域福祉研究と実践の方向性を探ることだと筆者は心得ています。
〇今回の「アーカイブ研究会」では、大橋謙策地域福祉論の中の➀地域福祉の概念、②地域福祉の主体形成、③コミュニティソーシャルワーク、④福祉教育、⑤6つの自立論、⑤施設の社会化と地域化、⑦災害支援ソーシャルワークなどについて、他の先生方との比較研究を踏まえた上での疑問についての質問を受けました。
〇正直、これだけ丁寧に研究し、質問できるならば、これを基にして『大橋謙策地域福祉論の批判と継承』という本をすぐに上梓できると嬉しくなりました。是非、実現して欲しいものです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」では、私だけでなく、阿部志郎先生や岡本栄一先生を第1弾として取り上げるということでした。
〇そこで思い出したのは、筆者が日本社会福祉学会にデビューした1974年の大正大学で行われた学会でのエピソードです。
〇その時、筆者は学会主宰のシンポジュウムのシンポジストに選ばれ、「社会福祉施設の社会化と地域化」について報告をしました。
〇シンポジュウムが終わり、帰路についた時、大正大学のイチョウ並木のところで、岡本栄一先生と早瀬昇さん(大阪ボランティア協会)に呼び止められ、とてもシンポジュウムの報告は良かったと評価してもらいました。
〇その後、岡本栄一先生は、「なぎさ理論」と称する考え方を披歴することになります。しかし、それは既に筆者が1974年段階で示した考え方です。「アーカイブ研究」の難しさは、本人が書いた論文だけに焦点化したのでは全体を鳥瞰できないというものです。

註➁ 筆者の報告は、翌年の1975年の日本社会福祉学会の紀要に掲載されます。「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
 ➂ 岡本栄一先生の「なぎさ理論」と称する論文は、「岡村『地域福祉論』と『地域社会関係』――入所型福祉施設と『なぎさ』の福祉コミュニティ論」(『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収)等参照。

〇「アーカイブ研究」は、取り上げる研究者の論文、思想のみを取り上げて論じるのではなく、それと関わる研究者の論文、思想などとの比較研究も行う、先行研究における大事な学問上の営みです。
〇かつて、日本福祉大学の元学長の二木立先生が、なぜ岡村重夫理論の批判論文がないのかおかしいではないかと言われ、筆者が『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収の拙著「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」という論文の中で岡村重夫理論を批判した際に喜んでくれ、これこそが学問なのだと言われたことが記憶に残っています。
〇「アーカイブ研究会」の終了後には、東北福祉大学大学院時代の院生が結婚した夫が日本橋で「鮨処 ほしの」を開店したので皆で行き,旧交を温めつつ大いに飲みました。とても楽しい夜でした。

Ⅴ 本の紹介―『自宅でない在宅―高齢者の生活有漢論』(外山義著、医学書院)

〇筆者の地域福祉研究・実践の足跡になる『その時の出逢いが』の2010年代を記述するに当たって、かつて読んだ本を改めて読み直しました。その本を多くの社会福祉関係者に読んで貰いたいと改めてここに紹介します。
〇その本は、建築学の生活空間論を専攻した外山義先生が書かれた『自宅でない在宅―高齢者の生活空間論』(医学書院、2003年刊、1800円)です。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国します。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になります。
〇私は、1990年代に外山義先生が設計された富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学しましたが、その哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動しました。
〇外山義先生の理念を基にした施設設計とケアの考え方を2003年以降具現化する取組を行っているのが一般社団法人ユニットケア推進センターです。このセンターが実習施設として認定している特別養護老人ホームは、皆さん出来れば見学してください。
〇その実習施設での実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)です。
〇外山義先生の考え方までに整理されていませんが、筆者も同じようなことを考えて論文を書いてきました。
〇当時、コミュニティづくりに必要な施設とは、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることではないかとか、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えてきました。それらについての筆者の論文は以下の通りです。ご参照ください。
➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要第34号』所収、1988年)

阪野 貢/「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相―思想・実践・技法・認識のダイナミズム―

はじめに

〇日本社会における「まちづくり」という営為は、高度経済成長がもたらした深刻な産業公害や都市問題、地域社会の崩壊などに対する異議申し立てとして、1960年代後半から70年代にかけて本格化した。かつての都市計画は、「中央」による画一的な国土開発(ハード・モノづくり)を主眼としていた。それに対し、平仮名で表記される「まちづくり」は、そこに暮らす「生活者」の視点から、人間らしい生活環境の回復をめざす運動として生み出された。
〇しかし、今日、まちづくりをめぐる状況は一層の複雑さを増している。少子高齢化の進展に伴う「限界集落」の頻出、2014年の「増田レポート」に端を発した「地方消滅」論の席捲、さらには格差社会の固定化による地域連帯の希薄化など、地域・社会は内側と外側の双方から崩壊の危機に直面している。こうしたなかで、まちづくりは単なる環境整備の域を超え、人口減少という所与の条件を受け入れつつ、いかにして住民の生活の質を充実させるかという「縮充」(山崎亮:2016年)への挑戦が叫ばれて久しい。
〇本稿が考察の対象とするのは、こうした半世紀に及ぶ「まちづくり」の底流に流れる「思想」と「方法」の系譜である。具体的には、1970年代に内発的発展論の「地域主義」を説いた経済学者・玉野井芳郎、「まちづくり」という言葉を一般に広めた、自治体プランニングの草分けである田村明、現代の「コミュニティデザイン」を牽引するコミュニティデザイナーの山崎亮、そして「地域学」のもつ構築を試みる社会学者・山下祐介、これら4人の言説を相互に交差・対比させる。
〇「まちづくり」という概念が多義的である理由は、それが「思想」(あるべき姿)であり、「実践」(変えるための活動)であり、同時に「認識」(現実をどう捉えるか)であるという、三位一体の性質をもつからに他ならない。
〇玉野井が提唱した「地域主義」は、市場経済的な「市民社会」を突き抜け、自然や生態系と共生する「新たな市民」の再生を説く、根源的な「思想」を提示した。一方、田村は、横浜市における行政改革を通じ、まちづくりを「市民の政府」による地域経営の実践へと昇華させ、制度的・構造的な基盤を整備した。さらに、山崎は「コミュニティデザイン」という手法を用い、モノをつくらないデザイナーとして、人と人の関係性を編み直すプロセスを確立した。そして山下は、「地方消滅」という国家的言説の罠を暴き、足元の生活基盤を学び直す「地域学」を、中央集権に対する「抵抗」としての認識運動として位置づけたのである。
〇これら4人の言説は、時代背景こそ異なるものの、一貫して「住民」(与えられる存在)から「市民」(自律的に参加し自治を担う主体)への転換を要請している。この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の根幹である。
〇ひるがえって、これまでの「まちづくり」論は、都市計画論、コミュニティデザイン論、地域社会学など、それぞれの領域で個別に議論されがちであった。しかし、それらが内包する主体形成のプロセスを包括的に捉えた議論は必ずしも十分とはいえない。そこで本稿では、玉野井、田村、山崎、山下の言説を再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示することを目的とする。

Ⅰ 玉野井芳郎と「地域主義」の思想

〇1970年代は、日本社会にとって決定的な転換点であった。1955年から1973年まで続いた高度経済成長は国民生活に物質的な豊かさもたらしたが、その一方で、深刻な公害問題の発生、過疎・過密の激化、そして伝統的な地域コミュニティの解体などの「ひずみ」を引き起こした。また、経済合理性と中央集権的な資源配分が優先されるなかで、各地の「自然・歴史・風土」は収奪の対象となり、住民の地域に対する帰属意識は希薄化の一途を辿っていた。このような状況下で、経済学者・思想家である玉野井芳郎が提唱した「地域主義(regionalism)」は、単なる地方振興の策ではなく、近代西欧的な価値観や市場経済システムそのものに対する根源的な「知の組み替え」を迫るものであった。その思想の核心的な特徴は、次の諸点に見出される。

1 エコロジーと「生活づくり」
〇玉野井の地域主義において最も独創的な点は、経済システムの基盤に「エコロジー(生態学)」を据えたことにある。玉野井にあっては、「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟を導入することにひとしい」([2]60頁)のである。近代経済学が、自然環境を「外部経済」として系の外側に置いたのに対し、大気、水、土壌といった生態系こそが、人間の生存と生産を規定する不可欠な「コモンズ(共有財・共有圏)」である。
〇この視点に立てば、地域主義における「地域」とは、単なる行政区分としての空間ではなく、空間的な「地域性」と時間的な「季節性」によって特徴づけられる「人間の生活=生産の場所」([3]10頁)である。こうした地域主義は地域共同体の構築をめざすが、その本質的な課題は、市場原理に主導された「ものづくり」から、生命の再生産を優先する「生活づくり」への価値転換を図ることにある([4]9頁)。これらの認識は、現代の「サステナビリティ(持続可能性)」の議論を先取りする先見性を備えている。

2 「内発的地域主義」の理念
〇玉野井は、国が権力と資金によって地方を牽引しようとする「官製地域主義(上からの地域主義)」に対し、明確な限界を指摘した。中央からの画一的な資源投入は、むしろ地域の混乱と荒廃を招くというのである。これに対置されたのが「内発的地域主義(下からの地域主義)」である。
〇「内発的地域主義」は、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」([3]19頁)。ここでいう「経済的自立」とは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。土地、水、労働という生存の基本要素を地域単位での共同性と自立性として確保し、資本の論理(市場)による無制限な浸食を制御しようとするものである。また、「政治的・行政的自律」は住民自治の強調を意味し、「一体感」は地域というトータルな人間活動の場への能動的な帰属を意味している。

3 「開かれた共同体」と住民中心主義
〇玉野井は、地域主義の議論が陥りやすい「閉鎖的な共同体主義」への批判に対し、明確に「開かれた共同体」を掲げた。「わたしたちのまち」を代表する市町村は、「『下から上へ』の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきもの」([3]124頁)である。とはいえ、地域間の横の繋がりを重視するこのモデルは、中央を否定して無政府状態をつくりだすものではない。むしろ、自立した諸地域が中央を「あるべき姿へと復位させる」試みなのである([3]17頁)。
〇また玉野井は、自治体行政と住民の関係についても、「住民への行政参加」という主客転倒の論理を提示した([3]119頁)。これは、行政が設けた枠組みに住民が参加する「行政への住民参加」ではなく、住民の自律的な活動のなかに、行政が「資源」として介入していくという、徹底した住民中心主義の表明であった。

4 「新たな市民」の再生と社会変革
〇玉野井の思想がめざした地平は、単なる地域の存続ではなく、地域主義を通じた新たな人間像の構築であった。それは、「市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平に登場するであろう新たな『市民』(Bürger)の再生」である([1]ⅲ頁)。
〇近代の「市民」は、抽象的な権利と義務を背負う「国家の一員」として規定されがちであるが、玉野井のいう「市民」は、具体的な地域の風土に根ざし、そこで展開される生産と生活に責任をもつ「生活者」である。この「市民」は、非政治的な市民文化の勃興を担う主体であり、その市民が地域共同体を実践的に構築していく過程こそが、玉野井のいう社会変革の本質であった。

5 「地域分権」と「諸地域の時代」
〇玉野井にあっては、「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」と言い換えられなければならない。単数の「地方」は、常に「国」を頂点としたピラミッド構造における末端という上下関係を示唆する。これに対し、複数の個性として語られる「地域」は、それぞれの歴史と伝統を誇る自律した主体の集合体である([3]14~15頁)。
〇この「諸地域の時代」において、玉野井が実効性を期待したのが自治体独自の「憲章」や「条例」の制定であった。たとえ形式上は法律の下位規範であっても、「何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よきしきたり』をうちたてることを意味する」。これが「自治体の自己革新」である、と玉野井は説く([3]38頁)。これは2000年代以降に広がる「自治基本条例」の制定運動を20年以上先取りした、極めて先駆的な制度論であった。

〇以上、玉野井が説いた「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動に対し、強力な理論的・思想的バックボーンを提供した。一方で、その議論が多分に「規範的(べき論)」であったため、後の研究者からは実証的分析の欠如や方法論の不明確さを指摘されることにもなった。しかし、玉野井が残した「ものづくりから生活づくりへ」という転換、そして「地域に生きる生活者」を主体とする共同体構築の視座は、現代のまちづくり論において色褪せることはない。以下で詳述する田村明の実践、あるいは山崎亮のコミュニティデザイン、山下祐介の地域学という系譜は、玉野井が遺したこの地域主義の思想を、いかにして具体的な「社会の仕組み」へと結実させるか、その過程として捉えることができよう。

Ⅱ 田村明と「まちづくり」の実践

〇玉野井が地域主義を「思想」として打ち立てた同時期に、行政の内部から都市のあり方を根本的に変革しようとした人物がいた。それが田村である。田村は、建築家や行政官という枠組みを超え、自らを「都市プランナー」「自治体プランナー」と称した。田村が1960年代後半から横浜市で展開した実践は、それまでの「都市計画」という官僚主導のハードウェア整備に対し、住民の主体的関与を前提とした「まちづくり」という平仮名の概念を社会に定着させる決定的な役割を果たした。田村にとって「まちづくり」とは、単なる建設行政ではない。それは「一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである」。その「共同の場」こそが「まち」である([5]52~53頁)。
〇ここで、近代日本を規定してきた「都市計画」と、田村らが主唱した「まちづくり」の概念的相違を一般論的に整理しておくことにする。従来の「都市計画」は、国家や行政が主導し、法律(都市計画法等)に基づき、インフラ整備や用途地域設定を行うハードウェアのコントロールを主眼としていた。そこでは住民は計画の客体であり、開発による利便性の享受者、あるいは立ち退き等の補償対象に過ぎなかった。これに対し、平仮名で開かれた「まちづくり」は、土地や建物の物理的配置に留まらず、そこに展開される生活空間の持続性を、住民自らが主体となって形成していくプロセスのデザインである。つまり、都市計画が「空間の機能的秩序化」をめざすのに対し、まちづくりは「人間の共同生活の自治化」をめざすのである(表1参照。[6]7頁)。

表1 まちづくりと日本型都市計画のアプローチの違い

1 「共同の場」としての「まち」の構造
〇田村によれば、こうした「まち」の構築対象は、物理的な(1)モノづくり、に留まらず、(2)シゴトづくり、(3)クラシづくり、(4)シクミづくり、(5)ルールづくり、(6)ヒトづくり、そして(7)コトおこし(イベントを起こす)、の7つをあげることができる。これを別の切り口から考えると、(a)機能づくり、(b)個性づくり、(c)魅力づくり、(d)活力づくり、(e)意識づくり、(f)イメージづくり、となる([5]54頁)。
〇また、田村は、「まちづくり」の「つくる」という意味について、「見えるまちづくり(ハード)」と「見えないまちづくり(ソフト)」の不即不離の関係として捉えた。さらに田村は、無用な開発を抑制する「つくらない/つくらせない」こともまた、まちづくりの重要な構成要素であると説き、自然保全や歴史的遺産の破壊阻止に論理的根拠を与えたのである([5]87頁)。この点は特筆に値する。

2 まちづくりの基本理念
〇田村にあっては、「まちづくり」は「共同の場」を市民が共同してつくりあげていくことであるが、その「共同の場」は、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化、などの総称である。これらの「共同の場」をつくる際には、次のような基本理念をもってのぞむことが必要となる。(1)トータルの理念(まちは、個々ばらばらではなく、全体としてひとつである)。(2)システムの理念(まちは、複雑な要素が相互に絡みあい関係しあっている)。(3)共有環境の理念(まちは、市民の共有の空間であり環境である)。(4)市民共用・共益の理念(まちは、特定の人々のためではなく、市民全体に利用され、その共同利益のためにある)。(5)市民共存・共生の理念(まちは、多数の異なる人々が矛盾をもちつつも、互いの相違を認めあって生活する場である)。(6)市民協働・共責の理念(まちは、一人の手ではなく、市民の共同作業により、共同責任でつくられるものである)。(7)市民共感・共愛の理念(まちは、市民が共通した誇りと愛情をもてるものである)。(8)相互交流の理念(まちは、市民相互はもちろん、他の多くの人々、外国の人々を含めた交流の場である)。(9)内発性の理念(まちは、他からの強制ではなく、市民や自治体の自発的な発想と行動を主力にしてつくられるものである)、がそれである([5]121~122頁)。
〇田村は、こうした「まちづくり」観に基づき、単なる都市整備の枠を超え、住民自らが「共同の場」を主体的に形成し維持していくための具体的な実践プロセスを、行政の内部から構築したのである。

3 市民参加の階梯と「協働」
〇田村は、「まちづくりと市民参加」についてこういう。「『まちづくり』には、市民が主導し協働して行うルートが重要である」。「行政の都合による市民参加は、『みせかけ』あるいは『「宥(なだ)めすかし』という意味になりかねない」。「市民協働の動きが活性化することは、市民が市民としての自覚をもって自治体を他治体から本来の市民政府へと変えてゆく動きになろう」。「市民政府は、市民参加の到達点でもある」([7]158~159頁)。
〇すなわち、田村にあっては、市民参加は単なる「意見聴取」の儀礼ではない。田村は、アメリカの社会学者アーンスタインが1969年に発表した8つの「市民参加の階梯」を参考に、「市民参加の理論的9段階」の参加モデルを提示した(図1参照。[8]134~141頁)。このモデルにおいて重要視されたのは、行政への「住民参加」ではなく、住民の自発的活動への「行政参加」という、主客を転倒させた協働のあり方である。これは玉野井の地域主義とも深く共鳴する視点であり、行政を「市民の事務局」([9]55頁)として再定義する試みであった。

図1 田村明の市民参加の段階論

4 市民自治の思想と「市民の政府」論
〇田村の理論の頂点にあるのが「市民の政府」論である。「市民の」政府とは、「政府が市民の所有物である」という意味である([9]74頁)。すなわち、田村は、自治体を単なる「国の下請け機関」や「中央の出先機関」とみなす従来の地方自治観(「官治」)を真っ向から否定した。田村が理想としたのは、市民が自立・自律して自らの政府を所有し、運営する「民治」([9]85頁)の場としての自治体である(「官治」から「民治」へ)。
〇田村は「市民の政府」が成立するための条件として、外部条件(中央統制や関与の排除、財政自主権の確立)、内部条件(市民の参画、情報公開、説明責任の遂行、政策立案の自主的能力)、そして市民条件(市民の信頼、共同意識、市民としての自己責任)の3層を挙げた([9]75頁)。特に「市民の」という所有格を強調したのは、住民が自治体を「お上」ではなく「自分たちの所有物」として認識することを求めたためである。この徹底した自治の精神は、後に全国の自治体に広がる「自治基本条例(自治体の憲法)」の先駆的モデルとなるのである。

〇以上、田村が説いた「まちづくり」論は、「まちづくり」のプランナーとしての豊富な経験(横浜市における行政経験)と全国各地の実践例の検証に基づいた、帰納的で未来志向型の思考によるものである。とともに、多様な地域現場の歴史的風土や文化を踏まえた、総合的な発想による、市民主導・市民主体の「まちづくり」論である。それは、地方自治(「市民の政府」)の問題として論じられる。
〇田村の言説を要約すれば、まちづくりとは「ヒトづくり」に行き着く。どれほど優れた「モノ」や「シクミ」を整えても、それを使いこなし、共同責任を負う「市民」がいなければ、「まち」は持続しない。田村が横浜で闘い、著作を通じて説き続けたのは、自律した市民が都市の未来(あす)を展望し、創造的な意志をもって主体的に「まち」に関わる姿であった。玉野井が思想として描いた「新たな市民」は、田村の実践によって「自律的市民」という具体的な主体として顕在化したのである。この市民主体をいかに組織化し、地域の課題解決に繋げていくか、その手法のひとつが山崎が説く「コミュニティデザイン」である。

Ⅲ 山崎亮と「コミュニティデザイン」の技法

〇2000年代以降、急速な人口減少と少子高齢化、さらには地方自治体の財政難に直面するなかで、既存の「ハコモノ行政」は限界を露呈する。そこに登場したのが、山崎が提唱する「コミュニティデザイン」である。山崎は、自らを「モノをつくらないデザイナー」と定義する。その仕事は、広場や建物の形状を設計することではなく、「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくる」ことにある。これは、まちづくりのパラダイムを「施設(ストック)」の完成から、そこを使いこなす「人間関係(フローとネットワーク)」の構築へと決定的にシフトさせた。コミュニティデザインとは、いわば地域の人間関係を観察し、地域資源を掘り起こし、住民自らが課題を乗り越えるための「しくみ」をデザインする方法の体系である。コミュニティデザイナーは、地域の課題を住民自らが解決するための「場」をデザインするファシリテーターである。

1 コミュニティデザインの4段階
〇山崎にあっては、コミュニティデザインの方法は、基本的には次の4段階によって進められる。第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」である([10]180~195頁)。

第1段階:ヒアリング(情報の深掘り)
〇単なるアンケート調査ではなく、地域のキーマンや「面白い活動」をしている個人の話を直接聴くことで、目に見えない地域の人間関係や資源を可視化する。
第2段階:ワークショップ(課題の共有と拡散)
〇ブレーンストーミングやワールドカフェなどの手法を用い、フラットな対話の場を創出する。ここで重要なのは「正しい結論」を出すことではなく、多様な意見が混ざり合い、住民同士の「共感」が生まれるプロセスそのものである。
第3段階:チームビルディング(主体の組織化)
〇出されたアイデアを実現するために、誰が何を担うのかを決定し、実行チームを構築する。この際、リーダーシップをデザイナーが振るうのではなく、住民が自発的に役割を引き受けるよう促す。
第4段階:活動支援(伴走と自立)
〇チームの初動期を支えつつ、徐々にデザイナーの介入を減らしていく。最終的にデザイナーがいなくなっても、住民たちが自立して活動を継続できる状態(自律的運営)がゴールとなる。

〇こうしたプロセスを実践するうえで、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」という4つの「読み取り能力」と、そのうえでどう行動するかという能力、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力、がそれである([10]219~220頁)。

2 「縮充社会」における参加の論理
〇山崎の言説における重要なキーワードのひとつに、「縮充」がある。これは、人口や税収が「縮小」しながらも、地域の営みや住民の生活が「充実」していく状態をいう([11]17頁)。この縮充を実現するための最大のエンジンが、主体的・創造的な活動を行う「市民」の「参加」である。 参加には、「参加」→「参画」→「協働」(コラボレーション)の発展性がある([11]68頁)。この参加を確かなものにし、課題解決の道を開くのは、地域現場での「学び」である。「地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得すことに勝る教育はない」([11]355頁)、と山崎はいう。
〇そして、行政への住民参加(住民活動の原動力)には、「住民がやりたいこと」「住民ができること」「行政が求めていること」の3つがある。この3つ輪が重なるところに、縮充の時代に求められる「参加」「参画」「協働」のヒントがある([11]146頁)。山崎によれば、この3つの輪を「自分がやりたいこと」「自分にできること」「社会が求めていること」と書き換えれば、人生を傾けて取り組める活動を探り当てることができるのである([1]426頁)。
〇また、山崎は、「楽しさなくして参加なし」「参加なくして未来なし」と断言する([11]18~19頁)。「楽しさ」は参加型社会の重要なキーワードである([11]36頁)。かつての住民運動が「反対」や「防衛」という悲壮感を伴う正義感に支えられていたのに対し、山崎が説く参加は「楽しさ(喜び)」を原動力とする。どんなに正しい取り組みであっても、つまらなければ継続しない。活動そのものが個人の生活や人生を豊かにし、他者との交流と協働のなかに価値を見出せる「活動」へと昇華されたとき、「参加」は社会変革の有効な手段となるのである。

〇ここで、小滝敏之の「縮減社会」に関する言説について付記しておく。小滝は、人口減少に伴う「縮減社会」の到来を単なる量的縮小として捉えるのではなく、その背景にある社会の質的変化と、それに対抗するための「地域自治・生活者自治」の理念を歴史的・理論的に論述する。
〇小滝はいう。縮減社会について論じるにあたって危惧すべきは、質的縮減の側面である。すなわち、家族機能や地域における共助機能の縮減であり、社会的連帯やコミュニティ意識の縮減である。こうした地域社会をどうしていくのか、どう変えていくのかを決める主役は、政治家や行政官などではなく、地域社会の生活者住民に他ならない。地域で暮らす生活者住民(小さき民)の「内発性と自治」こそが、自らの基盤である地域社会を守り育てていく根幹である(「生活者自治」)。共助や連帯の精神を再生・創造するのは、中央や地方の政府の権限や責務以上に、住民自身の責務であり、生活者住民の主体的努力と自治意識である([12]133、188頁)。
〇この生活者住民の生活世界を考えていくにあたっては、「他律」対「自律」、「統治」対「自治」、「競争」対「協力」という対立図式ではなく、また一方的に「自律」や「自治」の優位性を説くのみではなく、最終的には、「他律」と「自律」の両立・共存をめざし得る「相互律(アレロノミー)」の観点が必要となってくる([12](ⅵ~ⅶ頁)。

〇このように、山崎が提示したコミュニティデザインや小滝が理論化した「生活者自治」の思想は、玉野井や田村が追求した「地域主義」や「市民自治」を、現代の「縮小・縮減の時代」においていかにして「充実」へと転換させるかという、ひとつの回答である。 「縮充する時代の行方には、正解もなければゴールもない。『学び』というインプットと『活動』というアウトプットを、つねに市民が繰り返している状態にこそ大きな意味がある」([11]440頁)と、山崎は結論づける。まちづくりは終わりのないプロセスである。このプロセスにおいて形成される「活動する市民」のあり様が次の山下によって問われる。

Ⅳ 山下祐介の「地域学」と抵抗の認識論

〇人口の高齢化によって「限界集落」(大野晃、1991年)はいずれ消滅する、とその危機が声高に叫ばれるようになったのは2007年頃からである。2014年、増田寛也らによるいわゆる「増田レポート」が公表され、「地方消滅」という言葉が日本中を席捲した。若年女性人口の減少率を指標に、2040年までに全国の約半数の自治体が消滅の危機に瀕するという予測は、地方自治体にパニックに近い衝撃を与えた。
〇そうしたなかで山下は、「高齢化によって消滅した集落」はなく、「限界集落」問題はいわば「つくられた」ものである。増田レポートが説く「極点社会」(大都市圏に人々が凝集し、高密度のなかで生活している社会)におけるひとつの道筋である「選択と集中」は、国家の繁栄のために地方(地域)や農家の切り捨てに帰結する。地方消滅の “警鐘” にこそ地方消滅の “罠” がある、としてそのレポートが孕む欺瞞性を暴いた。以後、山下は、この国家的プロジェクトに抗うために、住民が自らの地域を「消滅するもの」としてではなく、「生き続けてきた場所」として捉え直す、根本的な「認識の転換」が必要であると説く。そして、生身の人間の暮らしや個々の地域の歴史や現在の実像を明らかにし、そこからの学びの作業を通して「地域学」を描くのである。

1 「地域の殻」と地域を捉える3つの層
〇山下にあっては、地域は人間の生存の基盤であり、「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」。自分の足元にある地域について学ぶこと、それが「地域学」である([13]11頁)。山下が提唱する「地域学」の核心は、地域をひとつの「殻」として捉える視座にある。この殻は、外部(国家や市場)からの過渡な干渉を遮断し、内部の生命活動を守るための防壁である。近代化の過程で、地域はこの殻を剥ぎ取られ、国家という巨大なシステムのなかに直接組み込まれてしまった。その結果、地域特有の知恵や慣習、自治の能力は「非効率」として切り捨てられた。山下は、「地域の殻を破らせまいと補修し、地域を外側の圧力から守り、内側の体制を固める運動」が地域学(「抵抗としての地域学」)である、と主張する([13]301頁)。それは閉鎖的な排除ではなく、自らの生活基盤を自ら決定するという「自己決定権」の奪還に他ならない。
〇そして山下は、地域の実像を、「生命」「社会」「歴史と文化」の3つの切り口(認識の層)から捉える([13]11頁)。「生命」では、環境社会学の視点・視座から、地域を、一定の環境のなかで育まれる生命の営み(生態)として切り出す。地域は人間が食べて寝て、生命を維持する基盤であり、生命の再生産の場である。「社会」では、農村社会学や都市社会学、家族社会学の視点から、地域を、そこで展開される人々の集団の営みとして描き出す。地域は、相互扶助の構造と機能をもつ場である。「歴史と文化」では、歴史社会学や文化社会学などの視点から、地域を、連綿と続く歴史と文化の蓄積の営みのなかに見出す。地域は時間的・空間的なつながりによって確立される場である。これら3層の認識を深める方法が「地域学」であり、それは「上(中央)」からの統計値に依存しない、自律的な知の構築である。

2 学校教育の分岐点と「地域学」の意義
〇山下は、学校教育のあり方が「国家・国際競争への貢献」と「地域社会の継承」という二項対立の分岐点にあることを指摘し、真の学びの意義を問い直す。現代の学校では、国際競争に勝ち抜くための経済的・生産的戦力となる国家人や国際人の育成が最優先され、地域社会の視点が軽視されている。学校は単なる人材供給装置である以上に、一人ひとりが自律的な人生を送れるよう「人としての成熟」を促す場であるべきである。人々の暮らしが地域と国家の双方で成り立っている以上、地域を担う人材を育てることは学校にとって不可欠な役割である([13]287~288頁)。
〇教育が「国家・国際社会への人材供給」に偏るなかで、山下が提唱する「地域学」は、抽象的な言語や普遍的な理論を学ぶものではなく、具体的な時空にいる私を、地域のうちに “生きているもの”として浮かび上がらせ、見定めていく、そんな学びの作業である」([13]16頁)。

3 国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへ
〇現在の日本社会では、弱者批判や地方の切り捨て、挙国一致体制の強化を容認するような、全体主義的・専制主義的な言説が広がっている。しかし、国家とは本来、地域の現実や国民の力によって「下から」形成されるべきものであり、排除や分裂を伴う国家体制は危うい([13]295頁)。
〇国家と個人の関係のみを重視する「ナショナリズム(国家主義)」には根本的な欠陥がある。一方で、国家そのものを否定しようとする、超個人主義=脱国家主義的な「コスモポリタニズム(世界市民主義)」も、現実的な解決策にはなり得ない。両者には、人々が実際に生活を営む基盤である「地域」という視点が欠落しているからである([13]296、297頁)。
〇危険な一国ナショナリズムの暴走を食い止め、社会を変革する鍵は、コスモポリタニズムではなく、国家の内部に「地域主義(地域ナショナリズム)」を確立することにある。地域という具体的な現場から国家を捉え直すことで、現在の閉塞した国家体制を克服できるのである([13]297~298頁)。

〇山下の地域学は、「認識」の主権を取り戻すことを迫る。国・中央が決めた「消滅」のカウントダウンに従うのか、それとも足元の土に根ざした「生存」の物語を紡ぎ直すのか、である。山下の説く「抵抗」とは、暴力的な拒絶ではなく、自らの足元の地域について知ること、考えることに基づく自治の表明である。国家と個人の二極化が招く全体主義的な危うさを回避するためには、抽象的な世界市民をめざすのではなく、地に足のついた「地域の自律」こそが、不健全なナショナリズムへの有効な対抗手段になるのである。

〇ここで、山下が提唱する「地域学」の認識運動を、より住民の日常的な実践へと引き寄せた先駆的試みとして、吉本哲郎や結城登美雄らによる「地元学」の言説を交差させておく必要がある。吉本らの「地元学」は、「ないものねだり」の地域づくりから「あるもの探し」への転換を提唱し、住民自らが地域の自然、文化、そして人々の「暮らしの技」を「聞き書き」等によって調査・再発見していく活動である([14][15])。これは山下のいう「生命・社会・歴史と文化」の3つの層を、行政や研究者の統計データとしてではなく、住民自身が五感を使って身体化していく「土着の認識運動」に他ならない。とりわけ、地域の高齢者が持つ生活の知恵や歴史を「地域の資源」として光を当てるプロセスは、高齢者を単なる「福祉の客体(要介護者)」から「地域の主体・表現者」へと反転させる。このように、「地域学」が提示するマクロな抵抗の認識論は、「地元学」というミクロな生活現場の技法を媒介することによって、住民自らが主体的・能動的に取り組む持続可能な地域づくり(コミュニティデザイン)の実践へと接続・昇華されるのである。

Ⅴ 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル
―「楽しさ」と「抵抗」が拓く「ふくし」―

1 4つの理論の限界と統合
〇以上のように、従来の「まちづくり」研究は、多様な領域において蓄積されてきた。しかし、その多くは個別領域ごとの議論に留まり、相互の理論的接続は必ずしも十分ではなかったといえる。玉野井らによって提唱された「地域主義」論は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その要因のひとつは、地域共同体が消滅していくなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、いかにして「地域主義」の実現を図るかという方法論が必ずしも明確ではなかったことにあった。
〇田村らによって論究されてきた「まちづくり」論は、都市計画論や地域計画論を中心に展開される傾向が強く、土地利用、景観形成、インフラ整備、制度設計といった「空間管理」の問題に重点が置かれてきた。住民参加や協働の重要性が指摘されているものの、行政計画への参加手法として位置づけられるに留まり、「地域を担う主体がいかに形成されるのか」という市民形成の問題については十分に掘り下げられているとはいえない。
〇一方、山崎らによって展開される「コミュニティデザイン」論は、人口減少社会における地域再生の具体的方法論として大きな影響力をもってきた。ワークショップ、対話、チームビルディングなどを通じて住民参加を促し、地域課題の解決を図るその実践は、従来のハード中心型のまちづくりを転換する重要な契機となった。しかしその反面、参加を促進する技法やファシリテーションの側面に議論が集中しやすく、その実践を支える思想的・政治的基盤、あるいは主体形成論との接続については十分に理論化されているとは言い難い。
〇また、山下らによる「地域学」論は、「地方消滅」論への批判や、地域を足元から学び直す認識運動として重要な意義をもっている。地域を「生命」「社会」「歴史と文化」の重層的空間として捉えるその視座は、中央集権的な地域認識を問い直す強力な批判性を有している。しかし、地域学論においても、その学びがどのように地域自治や実践的市民形成へと接続されるのかという教育的・組織論的視点は、なお十分に展開されているとはいえない。

〇このように、これら4人に代表される「地域主義」「まちづくり」「コミュニティデザイン」「地域学」に関する言説は、それぞれ固有の領域において多大な成果を蓄積してきた。しかしその一方で、地域を支える自律的市民の形成という核心的な共通の課題に対しては、部分的なアプローチに留まり、包括的・横断的に論じる視座は必ずしも十分ではなかったといえる。そこで、4人の言説を単なる個別の理論としてではなく、「思想/玉野井」「実践/田村」「技法/山崎」「認識/山下」という相互補完的な要素として捉え直し、その動的な結びつきに焦点を当てて整理する。これにより、それぞれの立論展開の限界を互いに補い合いながら市民形成を促す「『まちづくり』と自律的市民形成の循環モデル」(図2)として構造化することが可能となる。 

図2 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル

 

 循環モデルの具体的な構造
〇まず、外円(外層)は、玉野井が提唱した「地域主義」である。これは、地域の自然・風土・生命の再生産を支える思想であり、すべての営みが立脚する「基盤」を象徴している。この基盤の上に位置する中円(中層)は、田村が説いた「まちづくり」である。これは、市民が主体的かつ共同的に「実践(活動)」を展開する「土俵」であり、学びや実践が一時的な流行に終わらず、自治の制度化を志向する枠組みを意味している。そして、この自治の円環内部で展開される2つの動的な矢印が、本稿の核心である。左側の上昇する矢印は、山下が説く「地域学」による「インプット(認識・学び)」のプロセスである。地域の方向性(行方)や持続可能性(持続)、消滅の是非(限界)などに抗う「知」を構築する。一方、右側の下降する矢印は、山崎が提示した「コミュニティデザイン」による「アウトプット(実践・活動)」のプロセスである。ワークショップなどを通じて関係性を編み、具体的な課題解決を形にする。
〇この「学び」と「実践」が、自治の土俵の上で絶えず往復し、円環状に結ばれるプロセスそのものが、筆者の提唱する「市民福祉教育」の実体である。そして、この絶え間ない循環の「核(中心)」において形成されるものこそが、自らの生と地域を自律的に構築する主体としての「自律的市民」に他ならない。
〇また、この循環モデルにおいて、4人の言説を底流で結びつける共通のキーワードは「コモンズ」である。玉野井の「生態系」、田村の「共同の場」、山崎の「関係性」、山下の「地域の殻」は、いずれも国家や市場に囲い込まれない「地域社会の共有財」に他ならない。本モデルが示す自治の円環とは、住民自らがこのコモンズを共同で管理・運営していくプロセスである。すなわち「自律的市民」とは、共有財への能動的な責任を引き受け、その維持発展を担う主体として定義されよう。
〇同時に、これら4人の言説は、時代背景やアプローチこそ異なるものの、その深部において「自律的主体の形成」と「地域の再生」という共通の地平をめざしている。玉野井が求めた「新たな市民」は、市場経済の抽象的な個人を超え、エコロジーと風土に根ざした「生活者」であった。その思想を受け、田村は行政の内部から「市民の政府」を提唱し、住民が自治の責任を負うための具体的な制度的枠組みを提示した。さらに山崎は、縮充社会という現代的課題に対し、「コミュニティデザイン」という手法を用いて、楽しさを媒介とした「関係性の再構築」を実現した。そして山下は、国家主導の「消滅論」という認識の罠を暴き、足元からの「地域学」を抵抗の知として再定義したのである。これら4人に共通するのは、地域を単なる「管理の対象」や「サービスの享受場所」とみなす客体化を拒絶し、そこを「人間が自らの生を自律的に構築する舞台」として奪還しようとする強烈な意志である。
〇本稿で探究する「まちづくりと市民福祉教育」は、これら4人の言説が交差する点に立ち上がる、新たな教育・実践のパラダイムである。それは、既存の学校教育や福祉制度の枠内で行われる「知識の伝達」ではない。市民福祉教育とは「自分たちの暮らしの幸せを、自分たちの手で創り出すための知識と技能を、地域という現場での実践を通じて学び合うプロセス」そのものである。
〇山下が説く「地域学」というインプットの場と、山崎が説く「コミュニティデザイン」の場が、田村が整えた「自治の制度」の上で円環状に結ばれるとき、住民は「教えられる存在」から、自らの生活圏をデザインする「市民」へと脱皮する。この「学び」と「実践」の不断の往復こそが、市民福祉教育の本質に他ならない。

3 本モデルがめざす実践と「ふくし」
〇現代日本が直面する人口減少や資源の制約は、一見すると「福祉の後退」を意味するように見える。しかし、本稿が考察してきた言説を補助線に引けば、それは一面では、真の「ふくし」へ立ち返る好機であると捉え直すこともできる。外部資本や公的制度に過度に依存するのではなく、地域にある未利用の資源を「発見」し(山下)、住民同士の「関係性を編み直し」(山崎)、それを支える「自治のルールを創設」し(田村)、その営みのなかに「自然との共生という倫理」を組み込む(玉野井)。このプロセスは、経済的な拡大を至上命題としてきた近代モデルからの決別であり、豊かさの質を「縮充」へと転換させる試みである。
〇「まちづくりと市民福祉教育」がめざす地平は、誰かに守られるだけの弱者を見出し支援する場所ではない。互いの弱さを認め合いながら、ともに「共同の場」(コモンズ)を創造・運営していく強さをもった市民・主体を育む場所である。そこでは、住民一人ひとりが自らの足元を学び直し、住民同士が対話を重ね、みんなで小さな実践を積み重ねることによって共通認識や信頼関係(ネットワーク)という土台を築くことが肝要となる。「まちづくり」とは終わりのない認識運動である。
〇「楽しさ」と「抵抗」を胸に、自律的な市民が「ふだんの  くらしの  しあわせ」を語り合い、形にしていく。その連鎖・共働の先にこそ、消滅することのない、真に持続可能な地域社会の姿があるのである。

おわりに

〇本稿で考察した「まちづくりと自律的市民形成の循環モデル」を机上の空論に終わらせず、実際の地域社会で機能させるためには、今後いくつかの重要な課題に対応することが求められよう。ひとつは、「まちづくり」の活動や担い手の固定化を防ぐために、如何にして多様な市民を巻き込み、連携・共働していくかという点である。一部の層に依存しない、多様な主体が緩やかにつながる仕組みづくりが不可欠となる。いまひとつは、住民の主体性・自律性を引き出し、それを側面から支える「伴走型」の支援体制を如何に確立するか、である。行政や専門職には、主導ではなく、市民の力を如何に引き出し、共働するかという役割転換が求められる。今後は、これらの課題を踏まえ、SNSを用いた多様な主体のネットワーク化や、AIの利活用による地域課題の可視化や効率的な伴走支援など、デジタル技術の進展に伴う時代変化に対応した持続可能な仕組みへと本モデルをアップデートしていく必要がある。

引用・参考文献
(1)玉野井芳郎(1977)『地域分権の思想』東洋経済新報社(本文[1])。
(2)玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房(本文[2])。
(3)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会(本文[3])。
(4)玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司編(1978)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』学陽書房(本文[4])。
(5)田村明(1987)『まちづくりの発想』岩波新書(本文[5])。
(6)西村幸夫編(2007)『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店(本文[6])
(7)田村明(1999)『まちづくりの実践』岩波新書(本文[7])。
(8)鈴木伸治編(2016)『今、田村明を読む―田村明著作選集―』春風社(本文[8])。
(9)田村明(2006)『「市民の政府」論―「都市の時代」の自治体学―』生活社(本文[9])。
(10)山崎亮(2012)『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書(本文[10])。
(11)山崎亮(2016)『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所(本文[11])。
(12)小滝敏之(2016)『縮減社会の地域自治・生活者自治―その時代背景と改革理念―』第一法規(本文[12])。
(13)山下祐介(2021)『地域学入門』ちくま新書(本文[13])。
(14)吉本哲郎(2008)『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書(本文[14])。
(15)結城登美雄(2009)『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』農山漁村文化協会(本文[15])。

【初出】
阪野貢「追記『まちづくりの思想としての地域主義』を考える―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2021年5月20日公開)
阪野貢「改めて、田村明を読む―『まちづくり3部作』について―」(同、2017年10月1日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

阪野 貢/神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校:発表題目
江 陽  中学校:本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒 句  中学校:社会福祉教育実施内容について
秦 野  中学校:本校における社会福祉教育の実態について
池 上  中学校:社会事業に関する学習指導について
栗田谷      中学校:社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一 中学校:我が校の実施状況について
鶴 嶺  中学校: 本校における社会福祉思想の普及について
富士見  中学校: 社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘 高等学校:社会福祉事業に関する世論調査
津久井 高等学校:社会福祉研究委員会の活動について
江 南 高等学校:社会福祉教育の実際 (公開授業)
山 北 高等学校:高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原 高等学校:本校の活動状況について
翠 嵐 高等学校: 社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校:本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿は、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質を検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。

 

老爺心お節介情報/第85号(2026年5月6日)

「老爺心お節介情報」第85号

〇皆さんは、ゴールデンウィークをどう過ごされていますか。
〇私は、足の傷が痛く、歩けず、家に蟄居していました。童謡の「みよちゃん」ではありませんが、“ケンちゃんはおんもに出たいと泣いている” 日々のゴールデンウィークです。足が痛いと何もする意欲が沸きません。でもやることがないので、「その時の出逢い」の第85号を少しづつ書いていました。
〇ゴールデンウィーク中にする予定だった小さな庭の畑の野菜の作付も延期です。庭木も繁茂し始めていますが、今はなるようにしかなりません。 来週から出張が始まるのですが、歩いていけるか心配です。
〇皆さん、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
(2026年5月6日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑧

Ⅰ 2000年前半―社会福祉学界の代表としての矜恃と不安、プレッシャー

〇2000年代前半は、1990年代までの研究が評価された結果なのか、社会的な活動が求められるようになり、個人の教育・研究の関心事のみならず、日本の社会福祉学界の代表としての立ち振る舞い、矜恃が求められた時代でした。
〇私自身の器、度量、力量を越える役割が求められ、自信のなさに押しつぶされそうなプレッシャーとそれらの役割が自分を成長させてくれているということが実感できる活動時期でした。
〇2000年代前半の活動の主なものは、➀日本社会福祉学会会長の職務、②日本学術会議会員としての職務、③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務、④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟・アジア・太平洋会議の日本大会の実行委員長の職務、⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務、⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務である。

➀日本社会福祉学会の会長としての職務

〇1998年10月に行われた日本社会福祉学会の理事選挙でトップ当選をし、会長に選出された(1998年~2003年、連続2期)。前会長の阿部志郎先生とは18歳の年齢差であった。
〇それまでの日本社会福祉学会の会長は、一番ケ瀬康子先生(通算4期)、浦辺史先生(通算3期)、仲村優一先生(2期)等が重任してきた他、磯村英一先生、岡村重夫先生、若林龍夫先生、木田徹郎先生、三浦文夫先生たちで、1954年の日本社会福祉学会創設時の会員(会員196名)であり、その後の日本の社会福祉学界を牽引してきた重鎮ばかりであった。創設時の会員以外で会長になったのは、筆者が最初である。
〇筆者は、1989年に公選理事になり、関東部会を担当したが、1992年の公選理事で選ばれた2期目は事務局長を仰せつかった。その際、「社会福祉学会ニュース」の刊行(小松源助先生が事務局長時代にニュースが2号出ているが、その後は発行されていない。それを復刊継続して3号として定期化させた)と公選理事のマンネリ化と理事の若返りを進めるための規約改正をした。当時の日本社会福祉学会は会員数が4000名を超える学会になっていたので、多様な会員の意見が反映されるようにすべきだと考えたからである。
〇規約改正は「理事の多選を禁止し、理事は通算4期まで、かつ理事は連続2期までは継続できる」とする内容である。したがって、理事を連続して2期まではできるが、連続2期したらいったんは理事を退き、3年間は役職に就けないという規約改正であった。
〇当然、筆者も2期で退き、3年間の間隔をおいて、1998年に再度理事に選ばれ、会長に就任した。
〇この若返りを進める規約改正により、新たな新進気鋭の理事たちが登場してくる。白澤政和先生、黒木保博先生、高橋重宏先生、上野谷加代子先生等が当初は推薦理事で理事会に入り、その後公選理事として選ばれ、学会としてなくてはならない活動を展開してくれた。
〇日本社会福祉学会の会長として行ったことは、(ⅰ)学会創設50周年行事、(ⅱ)日本社会福祉学会文献賞の創設、(ⅲ)『社会福祉学会研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(ミネルヴァ書房)の刊行、(ⅳ)韓国社会福祉学会(当時の韓国社会福祉学会会長は梨花女子大学の金聖二教授(前出)との学術交流協定の締結である。
〇社会福祉学分野における優秀な論文、著作を表彰する制度は、既に三浦文夫先生のご尽力で損保ジャパン(旧安田火災記念財団)が行ってくれていたが、日本社会福祉学会としても優秀な著作について表彰することにより、会員の研究意欲を高めたいと考えて日本社会福祉学会文献賞を創設した。
〇韓国社会福祉学会会長の車興奉先生(後に韓国保健福祉部長官に就任、日本の厚生労働大臣に該当)から、「感謝牌」が贈られた(「感謝牌」の銘文は「先生は日本社会福祉学会会長に在職していた際に韓国社会福祉学会に対する多大な関心と愛情を持ち、活発な学術ならびに人的交流を推進し、これをもって両国の社会福祉の発展とともに相互友好増進に大きく貢献しましたので、韓国社会福祉学会会員の心を込めて感謝の意を伝えたいと思います。」2015年4月29日、韓国社会福祉学会長車興奉)。
〇韓国の社会福祉界とは、社会福祉学会の学術交流だけでなく、日本地域福祉学会との学術交流も行われるようになり、その端緒を切り開くことができたと喜んでいる。
〇2026年1月には、筆者の教え子が韓国社会福祉協議会の会長に選出され、就任している。これからも韓国と日本の友好関係が継続していくことを切に願うものである。

②日本学術会議会員(2000年~2005年)

〇日本学術会議は、全国に87万人いると言われている科学者、研究者の中から、当時は会員定数210人が7部門に分かれている会員の定数毎に、関連する学会が選挙をして会員候補者を選出し、それを内閣総理大臣が任命する組織である。
〇日本学術会議は政府の諮問に応える政策提言とともに独自に政府に対して勧告できる権限を有している、いわば科学者、研究者の“国会”とも称される組織である。
〇日本社会福祉学界をはじめとした社会福祉関係学会は、会員選出の枠を持っていなかった。
〇日本学術会議には、社会福祉学界からは小川政亮先生、一番ケ瀬康子先生、仲村優一先生が選出されていたが、小川政亮先生は社会保障法の、いわば法学系の会員として選出されていた。一番ケ瀬康子先生が、社会学の分野の会員枠を一人譲ってもらって、社会福祉学界が推薦して会員になっていた。したがって、その当時の科学研究費は社会福祉学としての独立した細目を持たず、社会学分野へ申請し、採択されれば科学研究費が得られる仕組みで、結果的に社会福祉学界の科学研究費の採択率は低かった。
〇筆者は、既に1990年の時に、日本社会福祉学会選出の会員推薦人(1990年)に選ばれていたし、1994年には日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡会委員・幹事に任命されていたので、日本学術会議についてはそれなりの関わりを持っていた。東洋大学の山手茂先生や日本女子大学の田端輝美先生などと一緒に日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会の「対外報告書」(「社会福祉に関する研究・教育体制の拡充・強化についてー高齢社会に対応する社会サービスの総合化対策の一環として(1997年)、「社会サービスに関する研究・教育の推進について」(2000年))を起草していた。
〇しかしながら、いざ日本学術会議の210名の一人に選ばれるとそのプレッシャーに押しつぶされそうであった。約87万人いると言われている科学者の中から210名が会員に選ばれて日本の科学技術のあり方について論議するということは、余ほど多面的、多角的論議できる知見、博識がなければならないわけで、相当に緊張していたことが自分でも分かった。他の会員は、錚々たるキャリア、名望のある方々で、直接話をするのも憚れるような緊張感であった。
〇とりわけ、筆者が会員の時に出した対外報告「ソーシャルワークが展開できる社会システムづくりへの提案」(2003年)についての幹部会での質疑は今でも冷や汗が出る。
〇日本学術会議の対外報告は、幹部会と呼ばれる日本学術会議の会長、副会長、7部会の部会長、副部会長から構成される会議で、そこで報告し、質疑応答を受けて「対外報告」として出していいかが決まる。いわば、社会福祉学界を代表して、時の社会福祉に関わる学術、教育・研究体制、政策のあり方に関して、今後のあり方を示し、各分野の学術、教育・研究体制との整合性があるか、対外報告としてのインパクト、必要性が問われる機会であった。
〇幹部会議では、いろいろ質問を受けたが、ありがたかったのは、工学系の会員で、日本製鉄に勤めている会員が、この対外報告はとても重要で、今まさに求められている政策課題であり、学術研究課題であるという趣旨の“応援発言”をしてくれた。幹部会議が終わった後も是非頑張って欲しいと励ましてくれた。
〇当時の日本学術会議は、会長が東大総長を務めた、工学系の吉川会長であったこともあり、日本の学術体系全体の見直しが検討されていたことも“追い風”になったのであろう(日本学術会議は、2003年に『人間と社会のための新しい学術体系』を発表。そのことに関わって、筆者は「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」を2004年に執筆(『社会福祉学研究の50年――日本社会福祉学会のあゆみ』ミネルヴァ書房、2004年11月所収)。
〇このように、仲村優一会員の時から、毎期毎に必ず「対外報告」を出し、ソーシャルワークの必要性と社会福祉学の固有性を訴えてきたこともあって、2003年度から日本学術振興会の科学研究費において、社会福祉分野が社会学から独立して「細目」で認められるという、日本社会福祉学界の長年の“悲願”が実現できた。
〇社会福祉分野は、長年、大学の教育現場でも「社会福祉論」という用語を使っており、「社会福祉学」ではなかった。これ以降、「社会福祉論」ではなく、「社会福祉学」という用語の使い方が定着していく。それは、私にとっても日本社会事業大学入学時からの疑問に対する回答になった。
〇筆者は、その時から何年か科学研究費の審査委員を仰せつかった。ちなみに、その当時は看護学もリハビテーション分野も科学研究費としての独立は認められていなかった。
〇筆者が日本学術会議の「福祉研連」の委員・幹事の際の1999年9月に『福祉研連ニュース』を発刊し、日本学術会議の学会として認定登録されている社会福祉系学会の会員に配布した。
〇それら『福祉研連ニュース』を含めて、社会福祉関連の対外報告などを収録した『社会福祉・社会保障研究連絡委員会 韓国・対外報告・報告集』を2005年9月に刊行しているので参照願いたい。
〇筆者が会員に選出されていた当時、第1部会員の中には万葉集の研究で文化勲章を受けた中西進先生や東京大学名誉教授で出土した農具の分析から、縄文文化と弥生文化の地域分布の違いを明らかに、歴史的に縄文時代を経て弥生時代になるという歴史観の誤りを指摘した先生で、かつ文部科学省文化財保護審議会会長もされている藤本強先生等の斯界の権威ある先生方との交流は、緊張したけれど楽しかった。

③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務

〇日本の社会福祉関係者が長年求めてきた社会福祉専門職化、国家資格化は1987年の「社会福祉法及び介護福祉法」の制定により実現した。この法律が成立する背景には、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」に代表されるように、急激な高齢化に伴う介護人材の質・量の問題が大きな課題だった。
〇他方、1986年に行われた国際ソーシャルワーク会議、国際社会業学校連盟会議での論議を基にした斎藤十郎厚生大臣の強いリーダーシップがあった。
〇1987年成立の「社会福祉士及び介護福祉士法」の時代は、いまだ在宅福祉サービスは成熟しておらず、入所型社会福祉施設サービスの時代であった。しかも、当時は、中央集権的機関委任事務の時代であり、福祉サービス利用の可否は都道府県の福祉事務所か市レベルの福祉事務所が担っていたので、そこではソーシャルワーク機能は全くといっていいほど関心を持たれず、社会福祉研究者の一部が声高にソーシャルワークを言っていたにすぎない時代だった。厚生労働省は殆ど関心を寄せていなかった。
〇当時、筆者は「ソーシャルワーク」、「ソーシャルワーカー」と言ってもその必要性を分かってもらえないので、筆者は「ソーシャルワーク機能」という言い方を敢えてした。「ソーシャルワーク機能」は教師も、弁護士も保健婦も持っているが、それらを総体的に集中的に機能として持っているのが、ソーシャルワーカーで、在宅の障害者、とりわけ、精神障害者や高齢者の支援には、これからソーシャルワーク機能が求められることを言ってきた。
〇1990年の社会福祉関係8法改正で、在宅福祉サービスが法定化され、かつ1990年代後半になると「介護の社会化」が叫ばれ、介護保険制度の導入が決まってくる。
〇そのような状況のなかで、在宅福祉サービスの推進には、ケアワークとソーシャルワークとの連携、有機化が必要ではないかと筆者は考え、仲村優一先生や田端輝美先生などと相談する。当時、神川県立保健福祉大学(学長阿部志郎先生)は「ヒューマンケア」という考え方を標榜して大学教育を行っていたが、我々は日本学術会議などの検討も踏まえながら、イギリスが1998年に「ソーシャルケア研修協議会」を設立したことを参考に「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を2000年に立ち上げた。
〇この「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」には、日本社会福祉学界をはじめ社会福祉系学会、日本社会福祉士会等の社会福祉士専門職団体、日本社会事業学校連盟などの養成機関の他に、日本介護福祉学会、日本介護福祉士養成校協議会、日本介護福祉士会等の関連する17学会、団体が加盟して発足した。まさに社会福祉界の「大団円」と言っていい組織である。
〇この組織の発足式で、仲村優一先生が、“戦後50年間、このような大同団結した組織を創ろうとしてできなかったことが出来、本当に嬉しいとの挨拶をしてくれた。
〇各々の団体の特色、違いを超えて、日本の社会福祉界の向上、日本の社会福祉教育、介護福祉教育の発展、日本の社会福祉・介護福祉の専門職化の向上に寄与できる一石を投ずることができた。発足当初は、仲村優一先生が日本学術会議の会員だったので、会長職をお願いしたが、筆者は副会長として、その後2代目会長として、この協議会の運営に当たった。

④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟及び国際ソーシャルワーク連盟のアジア・太平洋地域会議の日本大会の実行委員長の職務

〇筆者が提起して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を立ち上げたこともあり、2003年に日本の長崎で行う第17回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議の実行委員長を仰せつけられた。
〇第17回大会は、長崎国際大学の高橋信幸先生、綿裕二先生が精力的に事務局を担ってくださり、ハウステンボスなどを会場に第1回大会を開催する予定で、印刷物をはじめあらかた準備が整った段階で、国際的な感染症SARS(中国で拡大、重症急性呼吸器症候群)が蔓延の兆しを示したことから、厚生労働省から国際会議を自粛するようにとの連絡が入り、急遽中止せざるを得なくなった。約2000万円の損失が出たが、実行委員会の加盟団体に分担負担をして頂き決算することができた。
〇その後、筆者は韓国・ソウルで行われた第18回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で「ソーシャルワークの挑戦と対応―アジア太平洋地域における新しいパラダイムの開発」、マレーシアのペナンで行われた第19回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で、「ソーシャルワーク・発展のための触媒」と題して基調報告をさせて頂いている。
〇日本でのアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を開催したことがなかったので、国内外からアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議をして欲しいとの要請を受けて、再度日本は第21回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を2011年に行うことになった。
〇この時も実行委員会委員長を仰せつかり、早稲田大学の田中英樹先生を中心に事務局を担っていただき、早稲田大学を会場に行うことができた。
〇どういう訳か、この第21回大会の時も、MERS(中東呼吸器症候群)が感染し始め、シンガポールなどの国から開催中止の要請があったが、流行の状況を考えて実施することにした。国内外から25か国、約700名(国外200名余、国内460名余)が参加してくれた。参加者の参加費だけでは開催費用が賄えないので、広く協賛金を募り約4000万円を集めた。
〇筆者は、実行委員長として『「ソーシャルワークと社会開発のためのグローバルアジェンダ」への日本からの提案」をさせて頂いた。
〇この大会の開催に当たっては、秋元樹先生、岩崎浩三先生、高橋重宏先生、白澤政和先生などに大きな役割をになって頂いたし、医療ソーシャルワーカー協会や日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士会等の専門職団体が大きな役割を発揮してくれた。
〇その後、2007年に日本社会事業学校連盟の会長になり、加盟校の「理事長・学長」会議を開催し、厚生労働省社会・援護局長へ、ソーシャルワーク教育のカリキュラム、国家試験の出題基準を改正するべきだという申し入れをしたりする。それらの活動の中から、教員中心の日本社会事業学校連盟では、ソーシャルワークやケアワークの質の向上に向けてのソーシャルアクションは効き目が薄いと考えて、日本社会事業大学の長尾立子理事長や日本福祉大学の丸山悟理事長に働きかけて、「社会福祉系大学経営者協議会」を結成して頂いた。
〇そうこうするうちに、大学受験18歳人口の減少、3K職場という負のイメージを払しょくできず、社会福祉系大学の受験者数が激減し、経営が厳しくなっていった。

⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務

〇東京都生涯学習審議会の委員には1996年から任命されている。しかしながら、審議会会長に任命されたのは2001年(~2009年)からである。
〇東京都生涯学習審議会会長は、従来社会教育委員の会議の会長も併任するようで、筆者も2002年に東京都社会教育委員の会議の会長を兼ねることになった。
〇更に、東京都社会教育委員の会議の会長は、一般社団法人全国社会教育委員連合の会長を兼ねるということであったが、それは組織が違うのだからと当初は固辞した。しかしながら、その役職をする人がいないとかで、2003年には就任させられた。
〇筆者は、いろいろな地方自治体の委員を任命された時、単なる委員の時には左程主張しないが、部会長や委員長、会長を仰せつかった際には、事務局案に対して意見を述べるだけではなく、また、事務局の諮問に応えるだけではなく、事務局に対し常に建設的提案をし、委員会としての建議の権限を大切に委員会、審議会の運営を心掛けてきた。
〇東京都生涯学習審議会でも、審議会の場だけではなく、事務局との打ち合わせの際にも新たな提案を常にしてきた。
〇会長になった1期目、2期目は、生涯学習を個々人の自己充足的な生涯学習のレベルに留めず、社会参画型の生涯学習の必要性を打ち出した。とりわけ、中高年層が社会参画する「新しい公共」の創生とコミュニティづくりに関しての答申を出した。
〇第3期目、4期目は、筆者が日本社会教育学会などで1970年代に研究していた「学校外教育」の組織化の考え方を基に、「地域教育プラットホーム」構想を打ち出した。この考え方は文部科学省の社会教育課にも影響を与え、政策として「学校支援地域対策事業」や「地域学校協働事業」として展開されている。
〇第5期、6期目は「教育行政」を振興するための社会教育行政の在り方について、社会教育行政がもっと中学、高校の教育を支援するあり方の必要性を提起している。
〇この間、東京都生涯学習部梶野光信社会教育主事が筆者の考え方に共鳴してくれ、行政内部で受け入れやすいような提案の形式を整えてくれた(梶野光信著『ユースソーシャルワーク』(生活書院、2025年)参照。梶野さんは主任社会教育主事を経て、現在は日本大学の教授をされている。梶野さんは東京学芸大学の小林文人先生の教え子である)。
〇全国社会教育委員連合会長としては、主に年1回行われる全国社会教育研究大会の実施である。全国をブロックごとに巡回するこの社会教育研究大会で、時には基調講演を行ったり、時には開催県の知事との対談などを行ってきた。大分県は江戸時代三浦梅園や廣瀬淡窓等の学者を輩出しており、それらの県の歴史を学びながら、当時の大分県知事の広瀬知事が広瀬淡窓の末裔であったこともあり、そのような話題を引き出しながら、その県の社会教育の振興策と地域づくりについて話をしてきた。
〇全国社会教育委員連合会長を15年間務めたこともあり、全国各地に出かけることができた。
〇ただし、この組織の悩みの種は、文部科学省からの補助金がなく、大会開催の費用の捻出、連合会事務局の維持管理に頭を悩ませたことである。
〇とはいうものの、全国の都道府県で社会教育委員として地域づくりに、手弁当で奮闘されている方々にお会いでき、それらの方々の社会教育振興への情熱、地域づくりへの情熱に触れられたのはとても幸せであった。中でも、香川大学の清國祐二先生、大分大学の山崎清男先生、八戸学院大学の内海隆先生、島根大学の島田雅治先生、有馬毅一郎先生等本当にお世話になると同時に、お互いの意見交換ができたことが嬉しかった。
〇また、事務局を担ってくれた元国立社会教育研修所課長をされた坂本登先生や宮崎大学の教授をされた上条秀元先生、あるいは事務局を手伝ってくれた林洋子さん親子(事務局にお金がないものだから、アルバイトを雇う代わりに林さんは息子さんにいろいろ手伝わせていた)との出逢いは楽しいものであった。
〇更には、文部科学省生涯学習局長が主宰する雑誌「生涯学習政策」等にも執筆の機会が与えられ、生涯学習、社会教育について論議をすることができたのもいい経験であった。

⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務

〇筆者、仲村優一先生や三浦文夫先生が担っていた各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務を後任として任されることが多かった。
〇日本経済界は1990年頃から社会貢献活動(CPI)を重視し、会社の創立周年行事などの際に福祉財団を設立するのが当時はやった。
〇これらの財団の機能を積極的に活用し、日本の社会福祉界へ新風を吹き込んだのが三浦文夫先生であった。
〇筆者は、1994年に大和証券福祉財団の評議員(後に理事)、選考委員、1999年に公益財団法人日本生命財団・高齢社会助成選考委員(後に選考委員長、理事)、2003年に損保ジャパン福祉財団・社会福祉文献賞選考委員長(~2017年)、みずほ福祉財団評議員などを務めている。この他にも、NHK厚生文化事業団、朝日新聞厚生文化事業団などにも関わらせて頂いた。
〇中でも、印象的な役割は、日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長を仰せつかったことと、損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞選考委員長を仰せつかったことである。
〇いずれも、前任の委員長は三浦文夫先生で、この財団活動の礎を構築された先生である。日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長は初代が岡村重夫先生、2代目が三浦文夫先生で、3代目が筆者である。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会は、急速に高齢化が進展する中で、新たな福祉サービスの開発事業に積極的に助成をし、日本の高齢者福祉政策に多大の影響を与えた。当初は、特別養護老人ホームを経営している社会福祉法人に助成していたが、1990年代後半には、在宅福祉サービスが法定化されたこともあり、地域福祉の推進の視点も盛り込まれ、市町村社会福祉協議会などへの助成も行われた。
〇日本生命財団は、この助成事業の成果を発表するシンポジュウム並びに講演会を東京・有楽町のニッセイ劇場と大阪の会場とで行ってきた。時には、1000名の聴衆を集めて、それらのシンポジュウム並びに講演会が行われた。高齢社会助成選考委員会の委員長は、そのシンポジュウムの司会進行を担ったり、時には講演を引き受けなければならず、それはとても名誉なことと感じるとともに、その重責は大変なものであった。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の活動は、『地域包括ケアの実践と展望』(大橋謙策・白澤政和共編、中央法規、2014年)が刊行されているので参照願いたい。この本の巻頭言を三浦文夫先生が「地域包括ケアシステムの源流」と題して書いているが、地域包括ケアの考え方と日本生命財団が果たしてきた役割、位置が簡潔に述べられている。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、損保ジャパン福祉財団の前身の財団法人安田火災記念財団から日本地域福祉学会が助成をうけて、1993年に『地域福祉史序説』を上梓していたこともあり、地域福祉研究、活動支援団体として馴染みのある財団であった。筆者は、1993年当時、日本地域福祉学会の事務局長で、地域福祉史研究会を総括する立場だったので、そのような機会を与えて頂いた財団に“恩義”を感じていた。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、その財団の後継財団が創設してくれたので、かつその当時は社会福祉学分野での文献表彰制度は事実上皆無だったので、非常に嬉しかった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、毎年前年度まで刊行された単著を対象に選考する。毎年、30冊程の著書が選考対象になり、5人の選考委員が第1次、第2次、第3次審査を行い、文献賞候補を決め、理事会の承認を得て、文献賞が授与される。文献賞には賞金100万円と副賞としてヴァン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈呈される。選考委員長は、選考の経過と選考した著書へのコメントを出すことが求められる。ある意味、博士論文の審査と似ている。
〇選考委員長の職務は重いが、自分では掴んでいなかった著書を読む機会となり、大変勉強させられる。京都大学の金沢周作著『イギリス近代とチャリティ』とか、福岡大学の廣澤孝之著『フランス「福祉国家」体制の形成』等、学ぶことが多かった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、ある時から授賞式だけではなく、受賞作に関わるテーマでのシンポジュウムを開催し、より研究課題を深める取り組みもしている。
〇これらの財団の活動に参加して学ぶことは、我々はどうしても社会福祉界の関係者や福祉行政の関係者とのみ交流していて、普段日本の経済界を牽引している方々との交流は殆どない。いわば、一種の“視野狭窄”の世界で生きている。しかしながら、財団の理事会や評議員会に参加している方々はいろいろな経済界の分野の業務に携わっている方々が多く、食事をしながらのさりげない会話の中に、あるいは人とのお付き合いの仕方の中に学ぶ点は多い。丸紅の社長、みずほ銀行の頭取、日本生命の会長、大和証券の会長、近畿鉄道の社長などとの会話・交流は、まさに日本経済界を牽引している人たちだとういう重厚感と存在感を感じる機会であり、人格的に尊敬できる方々ばかりである。
〇「井の中の蛙」とはよくいったもので、社会福祉関係者だけの世界で生きて、分かったつもりになっている自分が恥ずかしいと反省する機会が多々あった。
(2026年5月5日記)

大橋謙策/大橋謙策研究 第11巻:中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

 

 































 

大橋謙策研究 第11巻
中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

発 行:2026年4月30日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所