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老爺心お節介情報/第87号(2026年6月9日)

「老爺心お節介情報」第87号

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇もう、今年も6月になってしまいました。各地のCSW研修が始まる月になりました。今年度も各地のCSW研修で東奔西走する様です。
〇庭のアジサイが色鮮やかに咲いて、雨に濡れている風情はいいですね。また、私が大好きなクチナシの花も咲き始めました。残念なのは、門脇に植えた沙羅の樹が虫に食われ、幹が枯れ、一部残ったものの、今年は花を咲かせません。庭師が夏椿を植えたのを、沙羅に替えて欲しいとお願いした樹なのに元気がなく残念です。沙羅は、「平家物語」の冒頭に出てくる樹で、世の儚さとともに、“栄枯盛衰”、奢るべからずの気持ちを確認するために植えてもらっただけに、樹が枯れないか“一喜一憂”しています。沙羅が花を咲かせている様は本当に清楚で、一日で花が散ります。
(2026年6月9日記)

Ⅰ 3回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」に参加

〇皆さんは、2001年に導入されたWHOのICF(国際生活機能分類)について学んでいるでしょうし、学生さんに教えていることと思います。
〇しかしながら、様々な生活のしづらさを抱えている人に対する支援において、アセスメントを行う際や支援方針を作成する際に、どれだけ実際的に福祉機器の利活用を考えていますか。
〇富山県福祉カレッジの「介護テクノロジー普及推進センター」は富山県の委託を受けて、福祉機器の展示、福祉機器の利活用支援、介護技術の向上に関する研修などを富山県社会福祉総合センター「サンシップ」を拠点に行っています。
〇普段は、その「サンシップ」で福祉機器を展示し、相談に応じているのですが、それだと社会福祉関係職員か、あるいは家族が要介護の状態になって相談に来られる方等利活用者が限定されてしまいます。
〇「2040年問題」に向けて、介護人材の不足が叫ばれている中、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では、自己満足的な仕事の仕方ではないかと考え、広く富山県民に福祉機器のことを知って頂く機会として、「サンシップ」から外に出ようということになり、北陸新幹線富山駅のコンコースを活用しての福祉機器展の開催になりました。
〇福祉機器の利活用は、➀福祉サービス利用者の求めるケアの向上につながること、②ケアワーカー等の従事者の腰痛予防と合理的業務の省力化につながること、③介護の技術、技法、あるいは福祉サービス利用者の状態像を可視化することによりケアの科学化が進むこと等の効果が期待できます。
〇それにより、「3K職場」と言われた介護のイメージを払しょくできますし、介護の職場を希望する中高校生に夢を与えることができると考えました。中高校生たちが介護の仕事に就きたいと思っても、両親や教師たちが反対するという事例は沢山あります。そのようなことを考えると、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では駄目だと考え、広く一般の方々に知って頂く機会として、またその場所として富山駅のコンコースを考えました。
〇出店する企業さんには、直接的な利益がないかもしれないので、どれだけの企業さんが出店してくれるのか危ぶまれましたが、多くの企業さんが気持ちよく協力してくれました。
〇三回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」は、2026年6月6日に行われました。今回は以前にもましていくつかの特色がありました。
〇第一は、富山県内の介護福祉士会等の社会福祉専門職団体、理学療法士、作業療法士などのリハ職の専門職団体、看護協会など7団体が会場で相談コーナーを設置してくれたことです。
〇第二には、介護を学ぶ龍谷富山高校の生徒さん7名が参加してくれ、出店してくれた企業の福祉機器などについて突撃インタビューをしてくれたことです。そのインタビューの様子は大型モニターで他の場所に居ても見れるようにしたことです。
〇第三には、富山短期大学の学生さんが自らが学んだスウエーデンの認知症ケアとして開発された「タクティールケア」の体験コーナーを開設してくれたことです。
〇第四には、ITを活用した業務の省力化、生産性向上の相談コーナーを設置したことです。
〇第五には、eスポーツコーナーや「ロボットカフェ」を開設すると同時に、出店した企業に立ち寄って相談や福祉機器を見学された方に、景品付きのスタンプラリーをしたことです。
〇第六には、この「とやま介護テクノロジー展示会2026」の開催に当たって、「介護テクノロジー普及推進センター」の職員だけが企画・運営に当たったのではなく、福祉カレッジの教務部門、福祉人材センターの職員等も企画、運営に参加してくれ、富山県社会福祉協議会事務局内部のタテ割りが少し改善されたことです。
〇今回の展示会には、県社協の他の部署の職員も家族連れで見学に来てくれました。中には3世代で来てくれました。また、富山県厚生部の職員も高齢福祉課長を始め多くの職員が参加してくれました。
〇補聴器販売店さんが2社出店してくれていたのですが、昨年よりも相談者が多かったと言ってくれたのを聞いて、継続は力なりと実感しました。
〇私自身は、(公財)テクノエイド協会理事長に長らく就任していましたので、目新しいものはさほどなかったのですが、2件話題提供したいと思います。
〇新型コロナで旅行客が減り、業績が厳しくなっていた日本旅行社さんがIT関係の業者と共同開発した「脳力トレーナーCogEvo」が興味深かったです。
〇私も実際に体験させて頂きましたが、自動車運転免許証更新の際に受ける高齢者向けの認知症検査よりも、認知機能を図るのにはいいのではないかと思いました。この機器は、体験者の「注意力」、「空間認識力」、「記憶力」、「計画力」、「見当識」について能力を図り、訓練するもので、とてもゲーム性もあり、面白いと感じました。
〇また、この機器は1台購入すると、子機は何代でも無料で使用できるというシステムなので、介護予防教室や老人クラブでの活用、あるいはデイサービスなどでも活用できるのではないかと思いました。
〇この他では、NTTDATAさんが開発している「ボイスタ!」と呼ばれる機器で、高齢者の日常生活で行う動作に関し、その時間が来ると福祉機器から音声で声掛けするなどして高齢者の日常生活での自立を支援するとともに、必要なら家族などへも状況を転送できるというもので、生活のリズム感が薄れ、失念しがちになる高齢者の生活リズムを支援するという点で今後が期待できる機器だと思いました。

Ⅱ 本の紹介―『地方が溶けるーふるさと再生の光と影』(神山典士著、光文社新書、920円)

〇本書は、大きく2つの話題について書かれています。
〇一つは、広島県安芸高田市の市長をされていた石丸伸二氏がSNSを活用して安芸高田市の市長に当選した事案で、SNSの活用のあり方やそれに依拠した石丸伸二氏の言動について書かれた部分です。
〇もう一つは、著者が全国で実践している一般社団法人ふるさと大好き全国作文協議会の全国での取り組みとその波及効果についての部分です。北海道東川町の地域づくりにおける住民の街の魅力発見から、地域おこし協力隊制度を積極的に活用してのまちづくりへの展開等が著者の実際の取り組みを通して書かれています。
〇著者が言う「何もない田舎」の街で、住民自身が作文を書くという実践を通して、街の魅力を再発見し、「ふるさと愛を醸成する」ことや「ふるさとキャリア教育」等の実践は、静岡県掛川市の榛村純一元市長が提案した「選択的土着民の養成を目指す生涯学習活動」とよく似ている実践だと思いました。
〇と同時に、この著者の地域との関り方について、「関係人口」のあり方や地域福祉研究者の地域との関り方について学ぶべきことが多いと感じました。

Ⅲ 「その時の出逢いが⑨―2000年代後半」

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑨

Ⅰ 2000年代後半

(はじめに)
〇2000年代後半は、筆者は既に60歳代に入っており、残りの人生をどう送ろうかいろいろ考えていた時期である。
〇そんな折、同志社大学の黒木保博先生から同志社大学へ来ないかとお誘いを頂いた。私は歴史のある、かつ社会福祉教育でも伝統のある同志社大学への転籍に大きく心が揺らいだが、結婚以降一度も引っ越しがなく(多摩ニュータウンの区画整理で3年ほど稲城市大丸の地域で貸家住いをしたことがある)、地域活動もしていた妻の強い反対もあり、転籍を断念し、日本社会事業大学で定年まで勤める覚悟をした矢先に、2005年日本社会事業大学の学長に選出された。
〇他方、2008年には厚生労働省社会・援護局長所管の検討会「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」の座長を仰せつかり、いままで取り組んできた地域福祉の考え方、システム、方法について提案し、受け入れられ、報告書として出すことができた。
〇前者は、日本社会事業大学で教育を受け、その継承を託された教育理念を学長としてどう発展させるかという、いわば日本社会事業大学での教育・研究の集大成の時期でもあった。
〇後者は、大橋謙策の地域福祉研究は、“社会福祉のプロパーでない”と揶揄されながら頑張ってきた地域福祉の実践と研究がいよいよ厚生労働省の政策の俎上に上ることになった契機であり、筆者の地域福祉の実践と研究が評価、認められたことで、これまでやってきて良かったと感慨深いものがあった。

➀日本社会事業大学の学長(2005年~2010年)

〇2005年4月、日本社会事業大学学長に就任した。61歳であった。
〇日本社会事業大学は、オーソドックスな教授会自治を伝統的に守ってきていたので、学長に選出されたからといって、学長主導でなんでもできるわけではないし、かつ厚生労働省の委託で大学運営がなされているので、補助金の“目的外使用”はできないという経営上の制約がある。
〇そのような中で、学長として心掛けたことは、日本社会事業大学が厚生労働省が委託の根拠にしている「指導的社会福祉従事者の養成」という命題にどう応えているかということである。
〇その内訳、内容はいろいろと解釈できるであろうが、私としては➀社会福祉士の国家試験の合格率をせめて70%台にしたい。ただし、合格率を高める受験勉強を教員にも、学生にも強制化することはしたくないという虫のいい考え方で進めたいと思っていた。②厚生労働省の委託金が厳しくなっていた状況の中、科学研究費で社会福祉学の細目が認められたのだから、教員全員が科学研究費に申請、採択できるようにするということでした。③大学は教員だけで成り立っているのではなく、事務職員も重要な役割を担っている。したがって、事務職員で一定の権限と責任を有している人には学長選挙に参加できるようなシステムをつくること、④指導的社会福祉従事者の養成という委託に応えるために、日本はもとより国際的に日本を代表してソーシャルワーク教育、ケアワーク教育の拠点になるということを考えた。
〇仲村優一先生からは、日本社会事業大学の教員・学長は日本社会福祉学会の会長、日本社会事業教育学校連盟の会長に選ばれなければ駄目だと言われていたので、取り敢えずはその3要件(日本社会福祉学会会長(1999年~2004年)、日本社会事業学校連盟会長(2007年~2011年)、学長(2005年~2010年))はクリアーしたことで、日本社会事業大学の恩師の先生方から求められていた日本社会事業大学卒業生に“求められた教員・研究者像”は実現できたと思った。
〇学長として提起した➀社会福祉士国家試験の合格率は残念ながら60%強程度に留まり、目標の70%には届かなかった。②教員の科学研究費の採択率は最高で37%に上り、文部科学省の高等教育局長からもお褒めのお言葉を頂いた。理工系ではないので、採択された科学研究費の総額は多くはないが、教員の科研費の採択率では日本のトップレベルとなり、それなりの成果を出せた。中でも科学研究費の大型助成金である科学研究費(S)とか(A)が採択されたのは大きかった。
〇その大型科学研究費を活用して、「アジア型ソーシャルワーク教育の標準化と国家資格の互換性に関する研究」(2009年度~2011年度)を中国、韓国の東北アジア3か国で行った。
〇この取り組みは、ヨーロッパ諸国が1999年に「ボローニャ宣言」を出したことに触発されて取り組んでみたものである。
〇「ボローニャ宣言」とは、世界最古の大学「ボローニャ大学」(1088年創設)があるイタリア・ボローニャで、ヨーロッパ29か国の教育大臣が署名した「ヨーロッパの高等教育制度を共通の枠組みで構築し、学位認定の質と水準を国が違っても同じレベルのものとして扱う世界に通用する高等教育制度」である。
〇イギリスで出会ったソーシャルワーカーはスペインで資格を取り、イギリスで認定されたソーシャルワーカーとして働いている。そのようなグローバルな規模でのソーシャルワーク教育を東北アジア諸国でも考えられないかという思いだった。
〇採択された大型科研費を活用して日本、中国、韓国3か国のソーシャルワーク教育のカリキュラムの比較や国家試験の内容などについて翻訳したりして、比較研究を行った。
〇他方、イギリスのサザンプトン大学や北京大学との姉妹校協定も結び、国際的に通用する日本社会事業大学にしようとした。その考え方の一環として、「アジア福祉創造センター」を日本社会事業大学社会事業研究所に設置し、「アジア太平洋地域会議」でお世話になった秋元樹先生を日本社会事業大学社会事業研究所の教授にお招きして、研究や国際交流を推進した。
〇その一環として行ったシンポジュウムでは、中国からは北京大学のワン・シビン先生、韓国からは梨花女子大学のキム・ソンイ先生、タイからはタマサート大学のデチャ・サングクワン先生に参加して頂いた。

(註)後日、東北アジアのソーシャルワークに関して、東北福祉大学がワンアジア財団の助成を頂き、「高齢社会をめぐる諸課題とアジア共同体」というテーマでの連続講義が2013年度、2014年度に開講された。筆者はその一コマを担当したが、その講義録が萩野浩基東北大学学長の手で編集され、『高齢社会の課題とアジア共同体』(芦書房、2014年)として刊行されている。筆者の講義録は、科研費での研究を基にしたもので、「コミュニティソーシャルワークの視点からみた高齢社会とアジア共同体―社会発展の触媒としてのソーシャルワークー」として収録されているので参照して欲しい。

〇日本社会事業大学学長退任の2010年3月13日に「大橋謙策学長最終講義」を開催して頂いた。
〇日本社会事業大学としての矜恃を創り、品格を高めたいという思いもあって最終講義を行うことにした。テーマは「『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」である。多くの卒業生や社会福祉関係者が集まって下さり、教員・研究者としての冥利に尽きる時間と空間であった。
〇日本地域福祉研究所でも日本社会事業大学学長の退任を契機に、安部晴美事務局長が尽力してくれて、目白の椿山荘で『大橋謙策先生地域福祉論継承・発展の集い』を開催してくれた。
〇畏友である和田敏明先生、上野谷加代子先生、小林良二先生(東京都立大学、東洋大学教授)がシンポジストとして登壇してくれた。和田先生が「大橋謙策地域福祉理論は1979年の「ボランティア活動の構造図」にあると指摘された。上野谷先生は大橋理論の真髄は『求めと必要と合意』という考え方にあると言って頂いた。まさに、自分でもそれらの考え方を大切にしてきたので大変嬉しかったのを覚えている。
〇私が出している毎年の年賀状には前年の出来事を簡潔に記載しているので分かったのでしょう、学長就任後のお正月に、東京大学教育学部の大先輩である元明治大学教授の北田耕也先生から、日本酒の入った角樽が届いた。先生曰く、宮原誠一教室出身者から初めて大学の学長が誕生したので大いに祝いたい旨のメッセージが添付されていた。嬉しい限りであったが、角樽には面はゆい感がした。
〇東大大学院の院生仲間(筆者の1年先輩と1年後輩)の9名で、「苦楽会」という研究会を立ち上げ、東京と関西(9名のうち3名が関西の大学に就職)の中間地点の蒲郡にある国家公務員共済の宿舎で合宿し、川島書店から本の出版を企画したのだが、残念ながらそれは実現しなかった。その「苦楽会」のメンバーの中から、後に大東文化大学学長の太田政男さん、佐賀女子短期大学学長の南里悦史さんを輩出したが、宮原研究室からは私が最初ということであった。
〇ちなみに、「苦楽会」のメンバーには、母校の東大教育学部の教授になった佐藤一子さんがおり、佐藤一子さんは東京大学出版会から『イタリア学習社会の歴史像―社会連帯にねざす生涯学習の協働』(東京大学出版会)という素晴らしい本を書いている。

➁「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」座長

〇2007年10月3日に、厚生労働省社会・援護局長所管の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が立ち上がった。社会援護・局長は、老健局長を歴任した中村秀一局長であった。
〇この研究会が開催されるまでに、ルーテル学院大学の和田敏明先生が中心になって勉強会が持たれていた。筆者も、その勉強会に呼ばれ、今まで自分が行ってきた地域福祉研究・実践の考え方などを既に述べていた。
〇この研究会には、筆者の教え子で神奈川県城山町社会福祉協議会の職員、神奈川県立保健福祉大学の助手を歴任していた中村美安子さん(後に同大学教授)が、厚生労働省所の地域福祉担当専門官として事務局を担っていた。
〇中村秀一局長は、精力的に全国の素晴らしい実践をしているところを視察し、研究会を支えてくれた。
〇研究会報告書のタイトル「地域における『新たな支え合い』を求めて―住民と行政の協働による新たな地域づくり」は、何と研究会の最終日の3月31日に、会議で一任を取り付けたあとで、中村局長と筆者が協議をして決定した。
〇この報告書の考え方は、ある意味、従来の厚生労働省の考え方、枠組みを超えて「住民と行政との協働」がなければ、これからの社会福祉問題、地域福祉は展開できないことを謳ったもので、画期的なものだと思っている。
〇従来は、国民が抱える生活問題は、厚生労働省が制度を創って問題解決を図るということで、住民参加とか、住民の協力とかいう視点は殆どなかった。
〇それは憲法第89条の規定とも関わって、国民の生活問題は行政が国家責任において解決するという「福祉国家論」が背景にあった。国民の中にも行政がボランティア活動の推進とか住民の協力とかと言えば、それは行政の責任回避であると断じてきた風潮があったし、そのような考え方は社会福祉研究者の中にも、社会福祉従事者の中にも根強くあった。
〇しかしながら、国民が求める、地域で自立生活を送り、最期まで自分らしく暮らしたいという願いを実現させることを理念としている地域福祉の展開においては、地域住民の参加、協力がなくては実現しない。そのことが検討会の中でも論議され、かつ承認されて、本報告は公表された。
〇この報告書は、戦後の社会福祉政策を変える大きな転換点になったと自負している。また、この報告書の内容は、後に厚生労働省が打ち出す「地域共生社会政策」の前史とも位置付けられる内容の報告書でもあると自負している。
〇この報告書に基づき、その考え方を具現化させる国の補助事業が2009年度から「安心生活創造事業」として展開されるが、それを担った地域福祉専門官は、日本社会事業大学の学部、大学院の教え子である中島修さん(現文京学院大学教授)であった。
〇その補助事業は新しいサービスと財源を自分たちで創り出すというねらいと他分野との協働が指向された。従来の社会福祉にはない、新たしいサービスと財源を作り出すというソーシャルワーク機能がある意味初めて厚生労働省の政策で求められた画期的な取組であった。
〇筆者が「関係人口」として関わっている香川県琴平町の「ガーリック娘」という市場に出せないニンニクとオリーブオイルの商品、千葉県鴨川市の夏ミカンを活用してのマーマレードやポン酢等の商品が社会福祉協議会の手によって開発された。

➂同志社大学大学院、東京大学大学院、淑徳大学大学院の講義と研究者の養成

〇筆者は、1989年以降、日本社会事業大学で大学院修士課程を教えることになるが、1990年代は日本社会事業大学以外に、淑徳大学大学院等でも教えることになる。
〇日本社会事業大学の院生以外に教えることは多様な意味で楽しみであったし、多様な研究課題に関心を持つ院生を教えることで、自分自身が成長する機会でもあった。
〇日本社会事業大学以外の大学院教育で思い出に残るのは、東京大学大学院と同志社大学大学院、淑徳大学大学院での指導が思い出深い。
〇少し遡るが、1990年代初めに、東京大学教育学部助教授の鈴木眞理先生の依頼を受けて、大学院教育学研究科社会教育専攻の「社会教育と地域福祉」の特別講義を3年間担当したことがある。神戸大学の松岡広路先生や津田英二先生、宇都宮大学の佐々木英和先生、横浜国立大学の矢野泉先生などが育った。佐々木英和先生や矢野泉先生には、東京都稲城市の生涯学習計画策定をお手伝いしてもらい、フィールドに関わる重要性を教えた。
〇丁度、その頃淑徳大学も大学院を設置するということで、仲村優一先生や阿部志郎先生等と一緒に非常勤講師に名前を連ねることになった。淑徳大学大学院では、それ以降筆者が70歳になるまで勤めさせて頂いた。
〇同時に、私が出講する講義科目は、事実上オープンキャンパス扱いをして頂き、千葉県社会福祉協議会職員を始め、千葉県内の社会福祉協議職員などに呼び掛けて参加してもらい、後に「千葉県地域福祉研究会」を組織していくことになる。
〇淑徳大学では台湾の徐嘉隆先生や東洋大学の早坂聡久先生、千葉県立看護大学の安部能成先生などを教えた。
〇同志社大学大学院では、転籍のお話を頂いた時からだと記憶しているが、専任で駄目なら非常勤でということで、これは喜んで引き受けさせて頂いた。かれこれ10年余の非常勤であったが、思い出深いものがある。
〇毎月1回の1日半の集中講義での出講であるが、ゼミが終われば馴染みのお店屋さんに行き、京都のお酒・玉の光の純米酒1升を皆で飲むのが楽しみであった。同志社大学への転籍を拒否した妻も、院生のお誘いで葵祭見学には喜んで参加してくれたのも楽しい思い出である。
〇同志社大学の黒木保博先生、上野谷加代子先生、埋橋孝文先生、野村由美子先生等の先生方との懇親の機会も楽しい思い出である。
〇同志社大学大学院生との論議は、日本社会事業大学のような一種の専門分野に特化した思考傾向を持っている院生とは異なり、まさに伝統のある、ユニバーサルの大学での院生の考え方にとても面白みを感じていた。
〇同志社大学大学院では、大分大学の教員になり、その後母校へ戻った同志社大学の廣野俊輔先生、武庫川女子大学の堀善昭先生、長野大学の羅珉京先生、日本福祉大学の梅本聡子先生、桃山学院大学の南友二郎先生等と一緒に学べたのは楽しい思い出であると同時に、皆さんよく学んで、教員・研究者として巣立ってくれたのも嬉しい限りである。
〇1990年代に筆者が、日本社会福祉教育学校連盟の活動を精力的にしていたせいか、東北福祉大学院でも非常勤講師を勤めることになった。これが伏線で、日本社会事業大学の特任教授を70歳で終えた2014年4月から東北福祉大学大学院教授を勤めることになる。東北福祉大学の件については、項目を別に立てて記述したい。

➃富山県福祉カレッジ学長

〇富山県社会福祉協議会とのつながりは既に1980年代前半からあったが、富山県行政との関わりは確か1990年頃が最初ではなかったかと記憶している。三浦文夫先生が当時の中沖知事の依頼を受けて、富山県の総合計画策定に関わるようになり、手伝えと言われていろいろ作業、意見を述べたのが始まりである。
〇その後、富山県福祉カレッジが設立され、三浦文夫先生が学長をされる際、お前も客員教授として手伝えと言われ客員教授になったが、取り立てて業務があったわけではない。講師として呼ばれ研修を担当する程度であった。三浦文夫先生は、学長として「三浦ゼミ」を開設し、年間6回程度富山へ通っていた。
〇2009年10月に、筆者は富山県福祉カレッジの学長に就任した。県社協の専務理事をはじめ関係者からは、「三浦ゼミ」を継承して欲しいと言われたが、“ゼミ生”が20人程度の方のみを対象にして“学長職”としての務めを果たすのは嫌だと拒否した。その代わり、広く社会福祉従事者の研修を担当するし、県内の市町村へ出張講座を企画して出歩くことを提案し、了解して頂いた。
〇多くの都道府県社会福祉協議会が、行政から委託されて社会福祉研修センターを運営していたが、1990年の「社会福祉関係8法」改正以降、社会福祉行政の地方分権化が進み、各都道府県の社会福祉研修センターの位置と役割が弱体化していった。

〇2000年の介護保険、2005年の障害者総合サービスの提供以降、その傾向はより強まり、全国の都道府県の社会福祉従事者の研修体制はぜい弱化していった。この変化を行政も社会福祉研究者も、全国社会福祉協議会も必ずしも警鐘を鳴らしてこなかった。
〇筆者は、1980年代後半から、青森県、秋田県、山口県等の社会福祉研修センターに深く関わってきていたが、社会福祉行政が地方分権化されて以降の社会福祉研修システムの脆弱化は大きい。
〇現在、富山県福祉カレッジは年間53講座を行い、約5500人が受講している。また、富山県は1990年初頭に設置された介護実習普及センターを改組して、「介護テクノロジー普及推進センター」を開設している。これからは、介護人材の確保が容易ではないし、介護の科学化が必要だし、何より福祉サービス利用者へのケアの質的向上が求められており、その普及推進を図っている。
〇富山県福祉カレッジ、介護テクノロジー普及推進センターでは、北陸新幹線の富山駅のコンコースを会場にして福祉機器展を行い、広く県民のケア観の見直し、福祉機器の利活用推進に貢献しようとしている。
〇2026年度には、その福祉機器展に社会福祉系専門職団体がブースを開設して、県民の福祉・介護相談にも応じるように取り組んでいる。
〇富山県福祉カレッジの学長として、富山県社会福祉協議会に働きかけて、毎年4月末に富山県社会福祉関係者の集いを開催している。新田県知事、県副知事、県の福祉行政部局の管理職をはじめ、県内社会福祉関係専門職団体、社会福祉施設経営の社会福祉法人の理事長、施設長、民生・児童委員など100名を超える参加者が一堂に会し、交流、懇親を深めている様はとても大事である。この社会福祉関係者の集いは、香川県社会福祉協議会でも取り組んでくれたが、当時の平井知事などが参加してくれた。

➄世田谷区地域福祉保健福祉審議会会長の職務と区社会福祉協議会へのテコ入れ

〇私は、2008年10月に東京都世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任した。
〇2006年に前任の会長であった三浦文夫先生が退任された時、後任会長として打診を受けたが、その時は審議会委員の中に元日本社会事業大学教授であり、白梅大学の学長をされている石井哲夫先生が在任されていたので、石井哲夫先生に会長を一期引き受けて頂きたいと固辞した。そのような経緯の中で、私は2008年に会長に就任した(~2016年9月)。
〇世田谷区は人口91万人(現在は95万人)で、鳥取県や島根県よりも多く、一種の厚生省の新しい社会福祉政策の“アンテナショップ”的な性格を有していた。多様な、新しい政策を世田谷区で実証し、その成果を基に厚生省がそれを全国化させる面があった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の委員は20名程度であるが、審議会の際に、事務局として陪席する人は30人くらいいる。筆者は、埼玉県社会福祉審議会の会長もしたが、世田谷区ほどには事務局職員は陪席していなかった。東京都社会福祉審議会や東京都児童福祉審議会でも見かけたことがない数の事務局職員の陪席であった。
〇私は、世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任するに当たって、事務局にこの案件を実施してくれるなら会長を引き受けましょうと提案した。それは、私が行政アドバイザーとして提案し、作られた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムと同じようなものをつくるということであった。
〇長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムは、茅野市を4つの圏域に分け、圏域ごとに保健福祉サービスセンターを設置し、診療所を併設して医療・保健・福祉の連携を強化しつつ、保健福祉サービスセンターに保健師、福祉事務所にいたソーシャルワーク機能を持つことが期待されている職員、社会福祉協議会の職員を配置して、チームで生活のしづらさを抱えている人を発見し、支えるシステムで、個別支援とそれを支える地域づくりとを統合的、一体的に展開するシステムであった。
〇しかも、その保健福祉サービスセンターは、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めて全世代対応型の福祉総合相談窓口であり、地域に出張って生活のしづらさを抱えている人を発見・把握するアウトリーチ機能も持つシステムであった。
〇この茅野市の保健福祉サービスセンターを視察に来た厚生労働省老健局の課長が、茅野市保健福祉サービスセンターに学んで、2006年に介護保険制度に導入したのが「地域包括支援センター」である。
〇私は、世田谷区に27ある地域包括支援センターを茅野市と同じように、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めた、住民の立場から考えて、福祉アクセシビリティの良いシステムを構築する意思があるのなら会長に就任していいと言って会長になった。
〇その時の保健福祉部長が秋山由美子さん(後の世田谷区副区長、その後日本地域福祉研究所の理事をして下さり、現在は児童養護施設を運営する社会福祉法人福音寮の理事長)で、その時の課長が瓜生さん(定年時には高齢福祉部長)で、私が会長の任期終了(世田谷区は委員の任期を最長10年としている)で退任する際に、27ある地域包括支援センターを高齢者のみならず全世代対応型の総合相談窓口へ変えてくれ、大橋先生とのお約束は守れましたと言ってくれたことが嬉しかった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の会長を退任したら、ある時保坂典人区長から、今度は世田谷区社会福祉協議会を何とか立て直して欲しいという要請がきた。世田谷区議会で、数年にわたり、決算審議の区議会で世田谷区社会福祉協議会の補助金をなくすべきではないかという類の質問が出、対応に苦慮しているという。その対策をしてくれという願いであった。
〇早速、世田谷区社会福祉協議会職員のCSW研修をすることにして、生活のしづらさを抱えている人への支援で困っている事例を出して欲しいと言ったところ事例は皆無であった。
〇社会福祉協議会職員は直接地域の住民が抱える困難事例に対応し、その人たちを支える地域づくりをしていないことが分った。この点を区議会では指摘されていて、住民のニーズに対応した活動、地域づくりをしていないのだから区からの補助金をなくすべきという論旨で批判されていることが判明した。
〇全国各地で行っているCSWの研修プログラムに基づき研修を行った。その後、困難事例にどう対応したかの実践発表会を公開で行い、区長や区の部長たち、区議会議員、民生委員などに聞いてもらい、評価を頂きながら社会福祉協議会の体質改善に3年間取り組んだ。この過程で、世田谷区の保健福祉部長をされた金澤弘道さんが区社会福祉協議会の常務理事・事務局に就任され、力を発揮してくれたたことは大きかった。
〇この取り組みの過程で、住民に社会福祉協議会は見えていないのだから、可視的にもみえるようにしようと提案し、社会福祉協議会の名前とマークが入った黄色のベストを着て、区内を歩こうと提案したら、当時の労働組合委員長から“それを着るかどうかは労使の交渉事項です”と言われ驚いた。
〇私は、そのユニホームを着る気概がないのなら社会福祉協議会が生き残れなくても知らないよと言って着てもらった。
〇社会福祉協議会は行政以上に“役所的で、官僚的だ”と言われることがよくわかったし、都合の悪い時は“自分の組織は民間だ”と言い逃れをする体質を持っている。
〇現在の世田谷区社会福祉協議会はかなり改善され頑張ってくれている。金安博明さんが事務局次長になり、山本学さんが総務課長、松田京子さんが地域福祉課長、遠藤慧さんが自立生活支援課長になり、清水明子さんや尾崎一美さんたちが地域福祉担当の責任者になり、少なくともコミュニティソーシャルワーク機能の重要性を理解している職員が中枢を占めるようになってきているので、これからが楽しみである。
〇ただ、指定管理制度等の問題もあるのかもしれないが、区社会福祉協議会はいまだ地域包括支援センターを一つも受託できていないし、コミュニティソーシャルワーク機能を統合的に展開する社会福祉協議会組織の「地域担当制」の組織改革は未だ十分とは言えない。

➅念願の第1回通し歩きお遍路―2010年9月~11月

〇高校時代の“人生如何にいきるべきか”で悩んでいた時からの夢であった「四国通し歩きお遍路」に2010年9月20日出立した。
〇日本社会事業大学の学長任期を終えた後、大学から大学院博士課程の指導教員が手薄になるので「特任教授」として残ってくれと言われ承諾した。ただし、大学行政は一切せず、大学院指導のみを条件にした。と同時に、2か月間の休暇を頂きたいといい、大学院の指導が落ち着く9月から休暇をもらい、「四国通し歩きお遍路」に出立した。
〇大橋が四国お遍路を歩くというので、前夜、徳島市で関係者が壮行会をしてくれた。明日からは精進料理で、お酒も飲めないのだからということで大いに飲んだ。日本社会事業大学の先輩で徳島県庁の保健福祉部長をやり、その後徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた俳人の丸川悦司先生、元徳島県社会福祉協議会職員で、当時四国大学短期学部教授の日開野博先生、徳島県社会福祉協議会の佐伯局長、琴平町社会福祉協議会の越智和子さん、真言宗御室派の願成寺住職の大西智城さん(社会福祉法人阿波老人会の常務理事)等が参加してくれた。
〇元徳島県社会福祉協議会職員、元全国社会福祉協議会ボランティセンター長で、元福山平成大学教授の木谷宜弘先生は所用があり参加できなかったが、俳句の吟行の用具一式をプレゼントしてくれた。四国お遍路の道中で、毎日一句は詠めというお達しで付きであった。
〇翌朝、第一番札所の霊山寺で、お遍路の装束一式を購入し、聖なるお遍路を緊張して歩き始めた。杖を突き、鈴を鳴らして歩くので、お遍路さんが歩いているということが分るのであろう、途中、“お遍路さん”と呼び止められて、家から出てきた人からお接待を受けた。
〇こんな情景が約40日間続くのかと思いつつ、1日目の宿所の7番札所の十楽寺に着く。お風呂に浸かり、さっぱりして食堂に行くと生ビールは如何ですかと進められる。お遍路ですから、精進潔斎して、お酒を飲めないのではないですかと聞くと、これから長旅です。疲れをいやすのに生ビールを飲んではいけないということはありませんといわれ、いっぺんに緊張のタガが緩んでしまった。しかも、夕食のお膳にはとんかつが出ていて、再度精進潔斎でなくていいのですかと聞くと、長旅ですから体力を落としていけません。とんかつを食べてくださいといわれ食べた。
〇前夜、明日からお酒は飲めない、食事も精進料理だからと言って飲んだ意味が全くなくなってしまい、これ以降毎晩飲むことになる。
〇ちなみに、第2回目の歩きお遍路は2014年4月に行ったのだが、その時は39日間一切お酒は飲まずに歩き通した。
〇丸川悦司先生と木谷宜弘先生の厳命で、ただひたすら575の俳句ともいえないものを書き連ねていたが、後日私の『大橋謙策四国お遍路紀行』を北田耕也先生に送ったところ、俳人でもある北田耕也先生は、私が2010年10月13日に、高知県三原村で詠んだ「残された案山子侘しく秋の冷」が一番いいと言ってくれた。

(註)三原村は、急な山道を登ると、あたかも山の中の桃源郷かと思えるような視界が広がり、きれいな、平坦な田園風景が連なる村で、良質の木材を産出している豊かな村。

〇3回挙行した「四国通し歩きお遍路」については、各回とも紀行文を書いているのでそれを参照して欲しい。紀行文に就いては、阪野貢先生が主宰されている「市民福祉教育研究所」のブログに全て収録されているので、興味のある方は見て頂きたい。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の研究 ―その思想的系譜と変革の実践原理―

 

 


 

目 次

 


 

はじめに

 


 

本書の背景
〇私は、1980(昭和55)年前後から「福祉教育」を主要な研究領域と定め、微力ながら一貫してその理論と実践の体系化に尽力してきました。今あらためて振り返ると、長年取り組んできた自負はありつつも、いまだ道半ばであることを痛感し、当時の、そしてこれまでの自身の未熟さを顧みると、今さらながら恥ずかしさに身が縮む思いがします。
〇そんななかで唯一誇れるのは、希代の師に巡り合い、格別のご指導をいただいたこと。そして類まれな機会と場に恵まれたことです。この出会いと環境こそが、浅学菲才な私にとっては何よりの幸せであったと確信しています。
■伊藤・大橋先生は「産みの親と育ての親」
〇当時は福祉教育について研究し、発表する場は日本社会福祉学会しかありませんでした。でもそこで発表したことによって、いろいろな先生方に声をかけていただくことになりました。研究テーマを設定する苦しみを味わっていた頃に、神戸大学にいた伊藤隆二先生や「誕生日ありがとう運動」の創始者である藤本隆先生、それに佛教大学の村上尚三郎先生たちに出会いました。伊藤先生は、『「福祉教育」の研究』(柏樹社)の出版にあたって、私の拙稿を参考資料として掲載してくださいました。そのことが私にとって、その後の福祉教育研究の大きなきっかけになりました。その意味で伊藤先生は、私の福祉教育研究の“産みの親”であると思っています。
〇私が本格的に福祉教育について考え始めたきっかけは、全社協の福祉教育研究委員の末席に加えていただいたことでした。1982(昭和57)年から1985(昭和60)年にかけての第2次福祉教育研究委員会では、大橋謙策先生や木谷宜弘先生といった諸先生方とご一緒させていただき、多くの研鑽を積む機会を得ました。
〇私は大橋先生の門下生ではありませんが、後輩だということもあり、これまで長年に渡ってご指導をいただいてきました。大橋先生は私にとって福祉教育研究と実践の「育ての親」だと思っています。年齢的には「親」ではなく、「兄」という関係性でしょうが。
〇1982(昭和57)年から始まった全社協の福祉教育セミナーでは、大橋先生の講演をテープにとって、それを繰り返し聞いて学びました。懐かしく、いろいろなことが思い出されます。
■狛江市社協で実践のフィールドへ
〇福祉教育の実践や実践的研究として、本格的にフィールドとして関わったのは、大橋先生からお声掛けをいただいた狛江市社協です。狛江市社協では1990(平成2)年から「あいとぴあ推進計画」(地域福祉活動計画)にもとづいて、「あいとぴあカレッジ」を立ち上げ、その常任講師を務めさせていただきました。市民を対象にした体系的な福祉教育の場でした。市民が自分たちのまちの福祉について学ぶという連続講座で、原田正樹先生には学習支援者としてのチューターを務めていただきました。原田先生とはそれ以来、今日に至るまでご厚誼をいただいております。
〇狛江市社協ではまた、就学前の子どもたち向けに福祉絵本(「幼児のあいとぴあ」)の実践も行いました。市内の保育園、幼稚園に協力してもらい、絵本の発刊、読み聞かせ、保育・教育関係者に対する研修などをしてきました。
〇1997(平成9)年から、NHK社会福祉セミナーのなかで、「福祉教育」や「福祉のまちづくり」、「ボランティア」などのテーマが設けられ、その講義も担当させていただきました。市民にどう福祉を伝えるかをいろいろと考えさせられた実践であり、研究のヒントをもらったと感謝しています。
■「市民福祉教育」「ふくし」という考え方
〇1990(平成2)年ごろ、狛江市のあいとぴあカレッジの講義などでは、「市民的教養」という言い方をしていました。それが「市民福祉教育」へと発展したのです。
〇当時、福祉教育や高校福祉科教育との関連で、「国民的福祉教養」や「国民的教養としての福祉」という言い方や考え方がありました。それに対して私は、福祉教育は国や行政が上から社会福祉に関する考え方をすり込む、知識を注入するというのではなく、一人ひとりの住民や市民が下から、日常の暮らしのなかから切り拓き、創り上げていくものであるという思いで、「市民的教養」という言い方をしていました。たしか2003(平成15)年のNHKの社会福祉セミナーでは、「市民福祉教育」という言葉を使っていたと思います。
〇また私は、1990年代中頃から、あえてひらがなの「ふくし」という言葉を使ってきました。「ふくし」は「“ふだんの くらしの しあわせ”について、みんなで考え、みんなで汗をながすことである」という言い方です。福祉に関心のない、あるいは関係がないと思っている方々にも、その本質がスッと届くよう、日々の暮らしに寄り添う言葉選びを大切にしてきました。
〇地域へ足を運び、住民の皆さんの声を聞き、一緒に考え、一緒に行動することを通して市民福祉教育という発想になってきたといえると思います。私は岐阜県の関市に引っ越してきてから、関市社協や関市の地域福祉(活動)計画を策定する際、またその後も市内のすべての「地域ふくし懇談会」に出席さてもらっています。そういう場で住民の皆さんの話を聞いていると、われわれが福祉をいかに狭くとらえているかがわかります。
〇例えば、防災マップを一緒に作っていると、一人暮らし高齢者や障がい者などの要援護者のことだけでなく、あそこには外国籍の方がいるとか、あの家は最近空き家になったとか、通学路のあそこには子どものための見守りが必要だとか、あの地区は買い物難民が多くなったとか、まさに地域の生活マップなんです。住民の目線に立てば、福祉は生活そのものだと考えることができるのです。
〇こうした地域の人たちが、いかに主体的で能動的、自律的な「市民」に成熟していくか、それが地域福祉には大事だと思います。
■福祉教育はもっと学際的に研究を!
〇まちづくりに焦点化した福祉教育についての考え方は、これまで大きくはぶれていないと思っています。「まちづくりと市民福祉教育」は、まさにその集大成です。
〇大橋先生からは地域福祉全体から福祉教育を考えないと狭くなると指摘されてきましたが、福祉教育を軸にして地域福祉を考えるのもあっていいのではないかと思ってきました。〇ただ、私自身の研究の弱さとして、福祉の世界から教育を語っている、私が教育学を修めていないという弱さ、もろさは痛感しています。福祉教育が学校の先生や保護者に十分に伝わらない、根付いていかないのは、福祉と教育の真の融合が果たせていない、そのせいなのだろうかと反省することもありました。
〇もう少し厳しく言えば、われわれは「対策」としての福祉教育を言ってきたのではないか。つまり、高齢化社会の担い手を育成するための福祉教育、あるいは非行対策、児童健全育成策としての福祉教育という側面です。問題解決に向けた「対策」と人間形成を図る「教育」は異なります。この混同を整理しないまま、とりわけ学校福祉教育の推進を図ってきたのではないでしょうか。
〇福祉教育は学際的に研究が進められていくことはとても重要なことですから、ぜひ教育学や教育関係者と共同研究ができるようにしていってほしいと思います。
■理論研究には歴史研究が不可欠
〇福祉教育学という学問が成り立つかどうかわかりませんが、いずれにしてもそれをめざすには歴史研究は必要不可欠だと思っています。
〇今後の理論研究をより確かなものにするためには、明治期の地方改良運動にみられる福祉教育的実践をはじめ、敗戦後、平岡国市が創案した徳島県の子供民生委員制度や、神奈川県の社会福祉研究普及校制度、それに木谷宜弘先生の福祉教育実践や研究、こうした取り組みを整理する歴史研究が大事だと思うのです。
〇いささか僭越ですが、日本福祉教育・ボランティア学習学会はこの理論研究、とりわけ歴史研究に今少し力を注ぐ必要があるのではないかと思います。実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される。実践は歴史と理論によって支えられる、などといわれます。歴史研究というのは、文献や史料に当たるだけではなく、私は歴史研究にも現地主義というか、フィールドワークを大切にしてきました。昭和20年代の福祉教育の草創期の取り組み、その一つである徳島県三好郡の西岡小学校(子供民生委員)や、鳥取県八頭郡の八東(部)中学校(社会福祉事業普及校)などにも実際に足を運びました。現地に行って関係者に話を聞くことで、史料だけではわからなかったこともたくさん知ることができました。やはり現地に足を運ぶことが歴史研究には重要だと思っています。
〇もう一つ学会の研究に期待したいのは、実践研究です。この学会は全社協の福祉教育セミナーで実践の検討を積み重ねるなかで、理論化が必要だということで創設に至ったという系譜もあると思っています。現場の人が、日常の具体的な福祉教育実践をどう理論化し、一般化していくかが大事なことで、そのことを学会としてどう支援していくか、連携・協働するか、それに尽きると思います。つまりこの学会は実践とつながることに意味があると思います。
〇この点に関して私は、大橋先生の1986(昭和61)年の『地域福祉の展開と福祉教育』(全社協)のなかで記されている、「実践的研究書」という言葉に導かれてきたと思っています。
■まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり
〇「まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり」という言葉も大切にしてきました。「ふくし」は市民が切り拓き、創り上げていくものですから、学校の福祉教育だけではだめなわけです。学校福祉教育と住民・市民による地域福祉教育が融合する形で、それを「市民福祉教育」として構築し、推進することが求められます。市民社会の創造やガバナンスの実現、新しい公共や市民主権などが叫ばれています。そのことは今後ますます、市民福祉教育の実践と研究が必要かつ重要になるということではないでしょうか。
■ウェブサイトで若者との議論を望む
〇福祉教育の実践者、研究者として、私には3つの大きな夢がありました。1つは福祉教育の入門書を刊行すること。2つめは大学の、福祉教育に関する学科や専攻・コースの創設に関わりをもてればということ。3つめは福祉教育学会の創設に関わりをもたせてもらうことでした。
〇福祉教育は、その実践が広がってこそ意味があります。そのために私は福祉教育の入門書が必要だと思っていました。村上先生、原田先生とご一緒に編集をさせていただいた北大路書房の『福祉教育論』は、1998(平成10)年に、福祉教育の最初の入門書として上梓することができました。伊藤先生と大橋先生には玉稿を寄稿していただいています。2つめの夢は、中部学院大学の開設時に「福祉教育コース」が設けられ、そこで私が主担当になることでかなえられました。実はその時にも、大橋先生には格別のお世話になりました。いま、「福祉教育」(「福祉教育論Ⅰ・Ⅱ」「福祉教育方法論Ⅰ・Ⅱ」、各2単位)を学んだ多くの学生たちが、各地でその実践を大切にしてくれています。
〇そして3つめの夢であった福祉教育学会の設立にも携わることができました。結果的には、到底かないそうになかった3つの夢をすべて実現できたことは、私にとってこの上ない幸せです。これもひとえに支えてくださった皆様のおかげであり、心より感謝しています。
〇来年2013(平成25)年3月の定年後は、今年6月に立ち上げたウェブサイト(「市民福祉教育研究所」)を通じて、可能ならば市民福祉教育に関する拙い考えなどを発信し、また若い方々とも議論できればと念じています。(取材日:2012年10月1日)

本研究の背景と目的
〇筆者は1980(昭和55)年前後より、「福祉教育」を主要な研究領域と定め、半世紀近くにわたりその理論と実践の体系化に努めてきた。この間、全国社会福祉協議会をはじめ東京都・埼玉県・静岡県・富山県・岐阜県・三重県等の社会福祉協議会における福祉教育研究委員会等での研鑽や、東京都狛江市や岐阜県関市をはじめとする各地のフィールドにおける住民との共働を通じ、一貫して「福祉教育とは何か」「福祉教育はいかにあるべきか」を問い続けてきた。
〇本研究の目的は、これまで断片的にしか語られることのなかった福祉教育の歴史的実践を、明治期の地方改良運動から戦間期の生活綴方教育運動、戦後初期の子供民生委員制度、神奈川県の社会福祉研究普及校制度に至るまで遡及的に掘り起こし、その思想的源流を明らかにすることにある。そのうえで、筆者が提唱してきた「まちづくりと市民福祉教育」の概念を、単なる知識の伝達ではなく、地域社会を住民自らの手で創り替えていく「社会変革モデル」として論理的に再構築することをめざすものである。

福祉教育研究における今日的課題―「対策」から「教育」への転換―
〇現代の福祉教育におけるひとつの大きな課題は、それが多分に「対策」としての側面に終始してきた点にある。すなわち、少子高齢社会の担い手の育成や、非行防止、児童健全育成といった社会福祉問題を解決するための「手段」として福祉教育が位置づけられてきたことである。しかも、この「対策」と「教育」の混同を整理しないまま、道徳的な「思いやり教育」に傾斜してきたことにある。いま、求められるのは、従来の「思いやり教育」がいかに現代社会の構造的課題(生産性、自己責任論)を補完・温存してきたかを批判的に検討し、これに代わる「権利と構造変革の教育」(一人ひとりの尊厳を守り、そのために社会を編み直す教育)としての可能性を提示することである。これが本研究が取り組むべき核心的な課題である。

本書の構成と研究方法―歴史的検証と実践分析の統合―
〇本書では、理論研究の基盤には歴史研究が不可欠であるとの立場から、歴史的検証と実践分析を統合したアプローチを採用する。歴史的検証では、文献史料の分析に留まらず、検証作業を通して現代の「まちづくりと市民福祉教育」への示唆を考察する。実践分析については、筆者が強く関わった狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあカレッジ」の事例を対象に、「市民福祉教育」がいかに「まちづくり」の基盤として機能したかを分析する。
〇本書は3部9章で構成され、福祉教育の歴史的検証(第1部、第2部)から現代における理論的再構築、そして実践的なまちづくりへの展開までを論じる(第3部)。

第1章:明治後期の地方改良運動にみる「自治民育」の実践
〇「福祉教育」を地方自治や地域振興の視点から捉え直し、その原点を1910年前後以降、内務省主導で展開された「地方改良運動」に見出す。当時の諸史料を紐解き、官製運動がいかにその後の思想の素地となったかを検証する。

第2章:昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相
〇昭和初期の「郷土教育運動」における「社会奉仕」概念を分析する。地域に根ざした住民参加の重要性を評価しつつ、一方で情緒的な郷土愛が体制補完的な役割に陥る危うさを指摘し、現代の「市民福祉教育」への示唆を考察する。

第3章:戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
〇1930年代の「生活綴方教育運動」に福祉教育の思想的源流を探る。指導者・国分一太郎が1936年に発表した2論文を翻刻・解題し、彼が提唱した「社会事業的教師」の現代的意義を考究する。また、その精神が戦後の無着成恭の『山びこ学校』等へ伏流として継承された可能性を指摘し、戦前・戦後の歴史的連続性を提示する。

第4章:徳島県・平岡国市による「子供民生委員」制度にみる「民生村造り」
〇1946年に平岡国市によって創案された徳島県の「子供民生委員制度」を取り上げる。平岡の生涯と制度の変遷を明らかにすることで、子どもによる民生委員活動(福祉活動)の本質を考察し、現代の実践・研究における課題を明確化する。

第5章:神奈川県における「社会福祉研究普及校」制度にみる福祉教育実践
〇1950年度より神奈川県が実施した「社会福祉研究普及校(社会事業教育実施校)」制度を検証する。各学校の実践内容とその成果を追究し、戦後初期における福祉教育の歴史的な特質と限界を浮き彫りにする。

第6章:「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相
〇「まちづくり」の言説について、パラダイムシフトをもたらした玉野井芳郎と田村明、山崎亮、そして山下祐介のそれを再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示する。

第7章:福祉教育論の再考と現代的展望
〇形骸化・定型化が進む現代の福祉教育の実践・研究について、大橋謙策の「福祉教育原理論」を基軸に据えて再考する。大橋の「価値変革」、原田正樹の「関係変革」、そして筆者が主張する「市民自治による社会変革」を高次元に止揚(アウフヘーベン)し、「まちづくりと市民福祉教育」を真の「社会変革モデル」として再定義する。

第8章:「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開
〇1990年代初頭の東京都狛江市社協の「あいとぴあカレッジ」を事例に、教育がいかにまちづくりの基盤として構造化されたかを分析する。一過性のイベントに終わらせないための「See-Plan-Do-See」サイクルの提示とともに、それを支える「ヒト・モノ・カネ・シゴト」の4要素を体系化し、現代における展望を論じる。

第9章:「まちづくりと市民福祉教育」が拓く新たな地平
〇従来の「思いやり教育」を批判的に検討し、社会構造そのものに働きかける「権利と構造変革の教育」への転換を提唱する。小松理虔の「共事者」、奥田知志の「不可解性の受容」といった思想を援用し、自立を「依存先を増やすこと」と捉える「依存の権利化」に基づく理論的再定位を試みる。

〇なお、本書を纏めるきっかけとなったのは、今年の1月5日に大橋謙策先生より拝受した一通のメールである。そのメールに溢れる、先生のあくなき実践的研究者としての真摯な姿勢に強く触発され、改めて深甚なる敬意を抱いた次第である。
〇本書は、筆者がこれまで草してきた拙稿に加筆修正を試み、一部の書き下ろしを加えて集成したものである。本年1月から4月末に及んだその作業期間は、執筆の苦しさに身を焦がしながらも、何ものかに衝き動かされるかのような不可思議な力に支えられ、文字通り没入した日々であった。この間、大橋先生には格別のご助言とご懇篤なるご指導を賜った。ここに深く感謝の意を表し、厚くお礼申し上げたい。

2026年6月1日/阪野 貢

【初出】
「本書の背景」は、阪野貢・原田正樹「この人に聞く⑬ 『市民福祉教育』として構築し、推進することが求められている」『ふくしと教育』通巻14号、大学図書出版、2013年2月、38~41頁の記事に加筆・修正を行ったものである。

 


第1部

近代日本福祉教育実践の展開
―戦前における遡及的原点の検証―


第1章
明治後期の地方改良運動にみる「自治民育」の実践
―「福祉教育」の遡及的原点を求めて―

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はじめに

〇実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される。実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である、といわれる。
〇福祉教育の歴史と理論と実践は、相互の関係にあり、歴史研究と理論研究と実践研究は互いを無視しては成り立たない。とりわけ歴史研究は、福祉教育研究の基本に据えられるべきものである。しかし、福祉教育研究は、これまで、福祉教育の歴史に無関心であったといわざるを得ない。
〇例えば、日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会(1996〈平成8〉年10月)から第13回大会(2007〈平成19〉年11月)までにおける「自由研究発表」(実践報告を除く)は393本を数えるが、そのうち歴史に関する発表はわずか10本(2.5%)に過ぎない。また、学会の機関誌である『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』の創刊号(1996〈平成8〉年7月発行)から第12号(2007〈平成19〉年11月発行)までに掲載されている論文(基調論文、解説論文、特集論文、研究論文、研究ノート)は95本を数えるが、歴史に関するものは皆無である。ここに、福祉教育の理論研究や実践研究の進展があまりみられないひとつの要因があるといえる。
〇いうまでもなく、福祉教育研究における歴史研究は、福祉教育の歴史的事実を実証的に解明することからはじまる。すなわち、それは、たんに福祉教育の変遷を押さえるだけでなく、その変遷の意味を明らかにすることである。その際、その史実を社会的・経済的・政治的・文化的諸条件との相互関連のなかで捉えることが肝要となる。それを通じて科学的・客観的に今日の福祉教育の到達点を押さえ、それが抱える問題点や課題を発見し、その本質を把握する。そして、それを解決し克服するための適切な方向を見定め、具体的な解決策を見出す。
〇ここに、福祉教育史研究の意義と課題があり、研究の重要性を指摘することができる。要するに、現在を読み解き、未来を拓くための有効な方法のひとつに歴史があり、歴史研究があるのである。
〇福祉教育の変遷を分析、把握するためには、先ずその原点や源流を探求することが求められる。それをどこに見出すかは、福祉教育研究の視点や枠組みの設定をはじめ、そこから得られる福祉教育の対象、主体、方法などについての知見、そしてそれらを総合化・体系化してその意味内容を確定しようとする福祉教育の概念規定などによって異なる。
〇これまで、第二次世界大戦後における福祉教育の源流は、例えば、1946〈昭和21〉年に平岡国市によって創案された徳島県の子供民生委員制度や、1950〈昭和25〉年度から実施された神奈川県の社会事業教育実施校(社会福祉研究普及校)制度などに求められてきた(1)。また、村上尚三郎は、福祉教育の「遡及的原点」として、「大正デモクラシーが教育界に及ぼした所産とも目される1920年代の、いわゆる新教育運動の勃興に焦点をあて」、「池袋児童の村小学校」の訓導・野村芳兵衛の生活教育や修身教育の実践に着目している(2)。
〇本稿では、福祉教育を「地方自治」や「地域振興」の視点から捉え、その「遡及的原点」は明治40年代以降に内務省主導で展開された「地方改良運動」の取り組みのなかに見出すことができる、という仮説を設定する。そして、それを諸史料から検証することにする。
〇周知の通り、地方改良運動では、地方(地域)すなわち町村の振興を図るために「人心の開発」が重視され、町村民に対する教育と教化が推進された。そこには、今日でいう福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたと考えられる。
〇そこで、以下では、具体的にはその教育・教化活動に関する史料について紹介し、検討を加える。それを通してその福祉教育実践としての側面や要素を明らかにする。そして、それを今日の福祉教育実践やその課題につなげて考え、そこから課題解決のための手がかりや示唆を得ることにしたい。

Ⅰ 地方改良運動とその推進方策

〇地方改良運動は、日露戦争(1904〈明治37〉年~1905〈明治38〉年)後のいわゆる「戦後経営」の一環として、内務省地方局の主導のもとに推進された。すなわち、それは、戦争による国家財政の危機的状況を打開するとともに、帝国主義列強諸国に伍する地位を獲得するために、国力の充実・発展と国家的統合を図る官製運動であった。この最重要の国策のもとで、地方改良運動では、具体的には「生産事業の振励」をはじめ「地方自治の振興」「公共心の育成」などの諸施策が展開され、地方(町村)の自発的・自立的振興が促された(3)。こうした運動が強力に推進されたのは、第2次桂太郎内閣が成立し内務大臣に平田東助が就任した1908〈明治41〉年から、1914〈大正3〉年頃にかけてであった。それ以後、地方振興は、それまでの総合的な施策から農事の改良・発達を中心にした個別的な施策として展開されることになる(4)。
〇こうした地方改良運動の推進を図るに当たって、内務省地方局は次のような政策手法を採った。(1)啓蒙書や実践事例集の刊行・配布、(2)「地方改良事業講習会」の開催、(3)中央報徳会の機関誌『斯民』の発刊、(4)「模範村」の表彰、などがそれである(5)。
〇(1)については、啓蒙書として『地方自治ノ指針』(1904〈明治37〉年)、『地方自治要鑑』(1907〈明治40〉年)、『地方改良の要項』(1912〈明治45〉年)、実践事例集として『地方資料(第1編~第15編)』(1907〈明治40〉年)、『地方改良実例』(1912〈明治45〉年)などがある。
〇(2)は、1909〈明治42〉年に、地方改良運動の監督・指導に当たる全国の地方吏員を主な対象として、第1回講習会が東京市の国学院大学で開催された。この講習会は1923〈大正12〉年頃まで継続開催されたが、ほぼ同時期の1908〈明治41〉年から1922〈大正11〉年にかけて、内務省地方局によって「感化救済事業講習会」が雁行して開催されている(6)。注目されるところである。
〇(3)に関しては、1906〈明治39〉年に内務官僚の床次竹二郎(地方局長)や井上友一(府県課長)らによって、半官半民の「報徳会」(1912〈大正元〉年に「中央報徳会」と改称)が結成され、報徳運動が展開された。この運動では、二宮尊徳の報徳思想(至誠・勤労・分度・推譲)に基づいた、主として地主層に対する教化善導が行われた。しかも、それは、内務省の地方行政事務に組み入れられていった。1906〈明治39〉年には機関誌『斯民』が発刊され、報徳思想についての再評価や研究が行われた。とともに、報徳思想は、地方改良運動の中心的なイデオロギーとして全国の各町村レベルにまで波及した(7)。要するに、地方改良運動はこの報徳会を推進母体として全国展開されたのである。
〇(4)については、1905〈明治38〉年に表彰された「明治の三大模範村」(静岡県賀茂郡稲取村、千葉県山武郡源村、宮城県名取郡生出村)が注目される。この表彰施策は、1910〈明治43〉年以降、中央(内務省)だけでなく地方でも本格的に展開された。そのねらいは、顕著な業績をあげた団体や個人に対して表彰を行うとともに、地方(町村)振興に取り組む団体や個人の自発的意識を喚起し、地方改良の機運を促進することにあった。

Ⅱ 町村振興のための教育・教化と福祉教育実践

〇地方改良運動の実質的な発案者であり、主導者であった井上友一は、町村振興には「経済の開発」と「人心の開発」が重要であり、また国力の充実・発展を図るための地方自治の振興には、町村民の「自治心」の喚起が必要不可欠である、と説いた(8)。そこで、地方改良運動は、「自治民育」(「自治民」の育成)というひとつのスローガンのもとで、教育・教化運動的な色彩の濃いものとして展開された。例えば、小学校では、町村振興の地域的課題が教育活動に採り入れられ、町村の実情や、児童や町村民の実際の日常生活に即した「教授の実際化と郷土化(9)」が志向された。また、小学校を卒業した在村青年や町村民に対しては、町村振興に向けていわゆる「補習教育」が推進された。そこでは、小学校教育の補習と農業教育などの実業教育、それに勤倹貯蓄などを軸とした生活様式(生活規範と生活態度)の改良・改善を図るための教化活動(生活教育)などが行われた(10)。
〇教育・教化活動の展開に際しては、教育勅語(1890〈明治23〉年)と戊辰詔書(1908〈明治41〉年)の趣旨の徹底や浸透が図られ、報徳思想(主義)が基調とされたことはいうまでもない。周知の通り、教育勅語では、儒教的道徳思想を基礎に、忠君愛国が教育の基本であることが強調された。戊辰詔書は、国民の個人主義・享楽的傾向の是正を諭し、国民に勤労と節約を求めた。
〇こうした町村振興の教育・教化活動や運動に動員されたのは、地域の中核機関である小学校と、地方の有力者である小学校教員であった。

1 小学校における「自治民育」の実践
〇ここで、内務省が刊行した前述の『地方資料』『地方改良の要項』『地方改良実例』に収録されている地方改良実践事例から、小学校における「自治民育」の教育活動の一端を紹介する。

害虫駆除と学童貯金(史料①)
〇小学校生徒の実業思想を養成するの一事は、愛知県に於て著く其功を収めり。就中、渥美郡の施設は最も見るへきものあり。即ち教授の際を以て、或は箒掃衛生の業を行はしめ、或は害虫の駆除に従はしめ、或は花卉の栽培を為さしむる等、実用に習はしめんとして、最も其意を用る。更に家庭との連絡を通し、種々の業務を撰ひて、労働に習はしめ、又廃物利用の念を養ふことに勉めたり。かくて勤労と節約とに依りて得たる金員は、其出所を明にして之を学童貯金と為すことを奨励せるに、其効を奏せること殆と意表に出てたり。例へは、福岡小学校の如きは生徒間に於ける勤勉の風よりして、延きて其父兄を化し、一村漸く勤勉力行の俗に嚮ひ、日を逐うて旧時貧困の状より脱せんとするに至れり(11)。

出征軍人家族の慰安と小学校生徒の裁縫(史料②)
〇愛知県額田郡なる北部高等小学校(当時岩津村細川村学校組合立)及岩津村(当時大樹寺村)立大樹寺尋常高等小学に於ては曩に戦役に際し出征軍人家族に労力を供し、且慰安の一方法として無料裁縫の依頼に応したり。最初両校職員に於て、軍人家族の衣服は一切無料を以て裁縫の依頼に応し、慰安の実を挙けんことを志し、其旨を女生徒に告くるや何れも喜んて之を迎へ、誓て夜を以て日に継くも此作業を遂行すへき旨を答へたり。依て村役場より各区区長総代等に其旨を伝へ、又は年長生徒をして軍人各戸に就き材料を取集めて之を裁縫したり。されは軍人家族中此の好意に感泣せしものありと云ふ。而して其裁縫等は新古を問はす又種類を択はさりしを以て、中には洗濯洗張の上裁縫したるものも亦少なからさりしと云ふ(12)。

害虫駆除(史料③)
〇児童の勤倹の美風を喚起せしめ、併せて愛郷の心を養はしめるが為め、滋賀県甲賀郡にては、学童をして害虫駆除の事に当らしむ。且作業の当日は、教員をして兼て編纂したる郷土誌を携帯せしめ、郷土に於ける地理、歴史、博物等に就きて、一々実地の教授をなさしむ(13)。

小学校施設の老人慰藉会(史料④)
〇宮崎県西諸県郡紙屋尋常高等小学校に於ては其附帯事業として毎年一回年齢六十歳以上の老人を集めて児童の成績品書画の類を陳列縦覧に供し或は児童をして読方、話方、唱歌、遊戯等を試みしめ或は音楽隊を編制して演奏せしめ以て老人に慰藉を与ふることゝせり又平素に於ても屢々児童の成績品又は珍らしき物を老人に回送して之を慰さめつゝあり而して其の接待及回送の労は何れも児童をして之に当らしめ以て自ら老人を尊敬するの念を深からしむといふ(14)

小学校生徒の教科以外の作業(史料⑤)
〇宮城県に於ては県下の小学児童に対し勤労を重んするの観念を養成する方法として地方適切の作業を選ひ教科以外之に従事せしむることを奨励したるに今や県下各小学校に於て実行するに至れり其の概要左の如し
〇学校に理髪機械を備付け児童相互に理髪を為さしむるもの頗る多し其の方法は学校に依りて多少異なれりと雖も多くは最初教師の指導に依りて年長の児童に練習せしめ休憩時間を利用し或は放課後に於て相互に又は幼年児童の為めに理髪し其の賃金を一回二銭内外と定め之を共同貯金として蓄積し或は学校に寄附し或は学用品共同購買の資金に利用せるものあり今や僻陬の地にして理髪店なき所に於ては父兄の請に応して理髪を為すものあるに至れりといふ(中略)
〇毎朝出校前の作業として牛乳配達、新聞配達、納豆売、豆腐売、飴売等の行商に従事せる児童市街地に最も多数なり又午後の放課後及休日には菓子売、薪炭売等に従事せるものあり其の他学校に於ては学用品の共同販売を実施し其の購入、販売、記帳等の取扱を練習せしめ収益は共同貯金と為し以て商業の実習と勤倹自治の精神とを養成するに努め居れり(中略)
〇小学校に於て養鶏、養豚、養兎の業を課し以て其の飼育方法を教ふると同時に之か趣味の養成に努めたる結果家庭に於ても養蓄又は養禽を楽むもの追々其の数を増せり(15)

教師生徒及有志者より成れる長寿者慰藉会(史料⑥)
〇静岡県周智郡飯田村睦実区には睦実尋常高等小学校職員生徒及区内有志者を以て組織せる長寿者慰藉会なるものあり長上を敬ふの主旨に依り長寿者に接するに常に赤誠懇篤を以てし又年二回区内七十歳以上の老人を招待して之を慰藉す而して之に要する費用は会員の寄附金を以て支弁せり四十二年十一月三日天長の佳節に際し本会総会を同小学校内に開催したる時の如き区内七十歳以上の老人十八名は一名の漏なく或は杖に縋り或は孫児に擁せられて来会し先つ遥拝式を挙行して聖寿の万歳を祝し引続き唱歌、余興等あり又児童の手工品を縦覧せしめ記念撮影を為し特志者の寄贈に係る扇子(祝寿の文字模様あり)を配与する等会員総出にて歓待の労を採れり斯くて来会の翁媼は何れも喜色面に溢れ和気靄々の内に散会したりといふ(16)

〇史料①は、清掃、害虫駆除、花卉栽培などの勤労と、廃物利用などの節約を通して学童貯金を行うことを奨励した実践である。史料②は、出征軍人家族を慰安するために、小学校生徒が無料で裁縫の依頼に応じた実践である。史料③は、害虫駆除の保健衛生活動を通して勤倹と愛郷の意識・態度を養うとともに、郷土理解の促進を図った実践である。史料④は、敬老の精神を養うために、小学校で、生徒が中心になって行った老人慰藉会の実践である。史料⑤は、相互理髪をはじめ、牛乳・新聞配達や納豆売りなどの行商、養鶏や養豚の業などの教科外の作業を通して、勤倹自治の精神の育成を図った実践である。史料⑥は、小学校の生徒のみならず、教員や地元の有志者などによって組織された長寿者慰藉会の敬老活動の実践である。
〇要するに、これらの教育実践は、「勤勉力行」「勤倹自立」「慰安」「慰藉」「愛郷」などの規範意識や生活態度を育成し、それを通して町村振興を図るという意図のもとに実施・展開された。そして、そのための手段や方法のひとつとして取り組まれたのが、害虫駆除の保健衛生活動や高齢者を慰藉するための敬老(会)活動などであったのである。
〇前者の保健衛生活動については、1897〈明治30〉年に制定された伝染病予防法に基づいて、その後、明治・大正・昭和と時代の変遷に伴って地区衛生組織活動の推進が図られることになる。そのなかの住民各層に対する広報・教育活動の実践に、福祉教育のひとつの原型を見出すことができる。また、後者の敬老(会)活動については、時代性は異なるものの、現象的には今日の福祉教育の主要な体験活動(体験学習)のひとつである高齢者理解や高齢者との交流・共生活動に通じるものである、といえよう。

2 大阪府生野村における「自治民育」の実践
〇ここに、村田宇一郎が1910〈明治43〉年に著した『学校中心自治民育要義』(宝文館発行)と題する本がある。村田は、大阪府天王寺師範学校長として、1907〈明治40〉年から大阪府東成郡生野村において「自治民育」に関する実践・研究を行った。村田のこの著書は、自治民育の「意見」と生野村での「実験」成績をまとめたものであった。その内容は、内務省の教育・教化要求に応えるものであり、内務省によって推奨されるところとなった。生野村での実践が自治民育の「モデル(17)」や「公民教育」の「原型(18)」などと評される所以であり、各地に大きな影響を与えたことは推察に難くない。
〇以下では、生野村における村田の自治民育の実践(内容と方法)とその特徴を把握するために、上述の彼の著書のなかから注目すべき叙述部分を摘記する。

忠君愛国と富国の手段(所論①)
〇我国方今の趨勢は(中略)、一等国の地位に上つたと云つても、他の七ヶ国に比すれば金力の程度に於ては顔色がないのである。(中略)こんな貧乏世帯で世界列強の間に介在して、能く国の面目を保ち得るであらうか憂慮に堪へないのである。そこで吾々国民はどこ迄も奮発して富を作らねばならぬ、併し国を富ましても忠君愛国の思想を失ふてはならぬ、忠君愛国の思想を益々強盛ならしめると共に国を富ましむるやうな働きある国民を造成することは、我国方今の急務にして吾々国民教育者の任務も亦茲に存するのである(19)。
〇忠君愛国の思想を強盛ならしむると同時に国を富ましめんとするには、如何なる手段が必要であるかと云へば(中略)、立憲思想を普及せしむることが何よりも急務である(20)。
〇此立憲思想の普及を謀らんとするには、之が根底をなす地方自治の思想から普及してかゝらねばならぬ(21)。

公共心共同心の養成(所論②)
〇国民教育者はこの町村自治の何たることを了解して教育に従事せねばならぬ。而して更に我国自治体の現状を省みて、其病根のあるところを察すれば、自治の発展に最も肝要であると云はれて居る公共心共同心が、他の徳義心に比して割合に発達が後れて、或は英国に於ける百年以前のことを実現しつゝあるのではなからうかと思はれるのは甚だ遺憾の次第である。それで吾々教育者は小学校時代から、この公共心共同心の養成には一層の努力を要することを自覚せねばならぬ(22)。

小学校本来の立場(所論③)
〇小学校に従事せる教員達は(中略)各自の奉職して居る市町村の歴史的構造や、法律的構造や、社会的構造などを了解して、将来その市町村公民となつて各自の市町村を手塩にかけて育てるやうな人間を造るべく、その預かれる子弟に対して基礎的教育を施(す必要がある――筆者注)(23)。
〇元来小学校は、どこ迄も町村自治体に於ける文化の中心となり、その町村の程度、民風事業方針等を参照して将来并に現在の自治民を造成するの道を講ずるところとならねばならぬ(24)。

庶民教育系統の建設(所論④)
〇小学校教育に次ぐに青年団体教育を以てし、青年団体教育に次ぐに自治体教育を以てして、小供も青年も戸主も主婦も老爺老媼も永年の間にそれぞれに訓練して、一家の一員たり、市町村の自治民たるに適当する資格を養ひ、市町村そのものを秩序的に系統的に整理せねばならぬ(25)

自己の町村の了解(所論⑤)
〇町村の事情を町村民一般が知らないやうなことでは、町村に対する愛の心即ち愛町村心と云ふものが起らぬ。町村の面目の為めに町村に対する義務の為めに、自己の行動を慎まねばならぬと云ふ心持が出来ないから、是非共これ等のことを了得せしめねばならぬ(26)。
〇一般村民をして「我が村」を了解して之を愛し之を保護するの道を悟らしめたこと(27)。
〇自村の情態が分れば分る程、村民一般の公共心共同心が発揮されて、自治体の面目を思ふ観念が出来なければならぬのである(28)

公民的知識の教授(所論⑥)
〇(小学校教育の――筆者注)高等科に入りては、市町村政の大要から郡制府県制の大要に及ぼし、名誉職の何たることより自治団体の理事機関や執行機関のことを概説し、自治体に対し各自が負ふ所、并にそのために尽すべき義務を挙げ、社会の秩序を重ずべきこと、社会の進歩に貢献すべきこと(中略)なども教へられて居るのである(29)。
〇(青年団体教育の実業補習学校の修身科にありては――筆者注)町村自治のこと(代議機関、行政機関、土木衛生教育産業の状態、財政の状態、産業組合、報徳結社、商工組合、農会、在郷軍人会、神社、寺院、町村是のこと、民風興起のこと)を、各自の町村の材料について説示し、我家を理解し我村を理解せしめて、孝道の貴きこと、友愛の重ずべきことから、正直になけらねばならぬ、勤勉でなけらねばならぬ、秩序を守らねばならぬ、公共心共同心がなけらねばならぬことを知らしめ、進んでは(中略)我国の国勢の大要を知らしめて国家に対する奉公心を喚起せしめ、土地の状況によりては、対外観念を与へて海外に移住発展するやうな考を与へることも必要である(30)。

事業上における指導(所論⑦)
〇青年を指導するには、只彼等の頭を肥やしたばかりではいかない。事業をやらせて、筋骨を労せしめる其間に、実地上から指導を加へて行かねばならぬ(31)。

村民の自発性の尊重(所論⑧)
余りに故意的に急速に改善策を立てんよりも、自然に緩々と、彼等(村民――筆者注)の仲間から適切な改善策の出でんことを望む(32)

〇所論①では、日露戦争後のわが国の重要課題は国家富強(経済力の強化)と忠君愛国(愛国心の涵養)である。そのためには立憲思想の普及が急務であり、さらにその根底をなすのは地方自治の思想の普及である、と説いている。地方自治の思想の普及が愛郷心と愛国心を喚起し、町村振興と国力充実をもたらす、というのである。所論②では、町村自治の発展には公共心共同心を育成するための教育の推進が重要である、と説いている。その担い手は国民教育者である。所論③では、小学校と小学校教員は、市町村の歴史的・法律的・社会的構造などの了解に基づいて、自治民育の基礎的教育を施す必要がある、と説いている。当時、自治民育の担い手は、小学校と小学校教員以外にはなかったし、いなかったのである。所論④では、秩序ある市町村を建設するためには、小学校教育―青年団体教育(青年教育)―自治体教育(成人教育)という庶民教育系統を建設しなければならない、と説いている。子どもから大人までの総ての市町村民を対象にした庶民教育によって、自治民育が考えられたのである(33)。この系統的・継続的な庶民教育は、今日でいう生涯教育(生涯学習)に通じるものでもある。所論⑤では、公共心共同心や自治心の育成を図るためには、先ず自己の町村の状態について了解することが必要かつ重要となる、と説いている。自治民育の教育内容の基軸に自己の町村を了解することが据えられていたのである(34)。所論⑥では、小学校教育や青年団体教育では公民的知識の教授が重要である、と説いている。自治民育の教育内容のひとつとして地方自治に関する知識が重視されたのである。所論⑦では、青年を指導するには知識の教授のみならず、事業上での実地指導が必要であり、所論⑧では、村民や生徒の自発性を引き出すことが重要である、と説いている。いわば現場主義・臨地主義の教育方法と、従来の命令―服従の教育方法ではない、協議や討論などの自発性を尊重した教育方法が活用されたのである(35)。
〇以上の、村田が説く町村振興と国力充実のための自治民育の構想と実践(内容と方法)を大胆に要約するとすれば、およそ次のようになろう。すなわち、(1)小学校と小学校教員による自治民育に基づく町村社会の形成、(2)小学校教育―青年教育―成人教育という継続的・一貫的教育の促進と町村民の教化、(3)町村の歴史的・法律的・社会的構造理解(町村理解)に基づく教育内容の構成、(4)町村自治に関する法制的・公民的知識の教授、(5)実際的・実地的指導や自発性を引き出すための多様な教育方法の活用、などがそれである。
〇そして、これらは、その歴史的背景や意義、質的内容は異なるものの、今日の福祉教育が抱えるいくつかの課題に思い至らせる。住民主体・住民参加による福祉のまちづくり、ローカル・ガバナンスの地域福祉、地域再生の生涯学習、などと地域特性を生かした多様な福祉教育実践のあり方についてのそれである。

Ⅲ 自治民育と福祉教育実践の課題

〇イギリスの歴史家であるE.H.カーは、その著『歴史とは何か』(1961年)で、歴史とは「現在と過去との対話(36)」であるとした。これを引くまでもなく、歴史研究は、現在に残る史料をもとに過去の事 実について多角的・総合的な視点から検証・考察し、それを通して現在を読み解くとともに新しい歴史を築いていく指針を見出す試みである。福祉教育の歴史研究についていえば、いわゆる「歴史主義の貧困」に陥らないためにも、歴史的事実としてのその実践活動から何を学び、今後の福祉教育実践のあり方の追究に「使える」どのような、新たな着想や有益な示唆を得るかが問われることになる。
〇本稿では、福祉教育の遡及的原点を地方改良運動期における自治民育の教育・教化活動に求め、その史料の紹介と若干の考察を行った。それによって、自治民育の実践に、今日の福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたことを明らかにすることができた。ただ、その論述は、史料と紙幅の制約から限定的なものにならざるを得ず、残された課題は多い。改めて全国各自治体における地域(町村)振興策と自治民育活動に関する史料を掘り起こし、それを丹念に検証し、福祉教育の視点・視座から分析・検討することが必要となる。
〇最後に、今後に向けて、自治民育と福祉教育実践の課題をめぐって次の2点について再確認し、若干の考察を加える。それをもって本稿のむすびにかえることにする。
〇(1)地方改良運動は、行政町村の自主的・自立的振興を促し、町村を「国家のための共同体(37)」に転化させるための運動であった。したがって、それは、国家による「上から」の社会的・政策的運動として、しかも国民の指導教化に力点を置いた自治民育運動として展開された。
〇自治民育という言葉は村田が用いたターム(用語)である。前述の著書を題して「学校中心自治民育要義と云つたのは、教育者の立場から学校を中心として自治民を造成せんことを論述したからである(38)」と述べている。村田はまた、自治民育を、町村自治の担い手である公民を造ることであるとした。しかも、それは、町村振興と国力の前提的基礎となるものであり、町村や国家のために貢献する能動的な主体(公民)形成を図るものであった。いいかえれば、町村や国家が求めたのは「義務としての自治」「義務としての公共心共同心」であり、村田の自治民育論はそれに応えるものであったのである(39)。
〇福祉教育は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。また、それは、平和・民主主義・人権とともに、自立・共生・自治が基本的価値としてその根底に据えられるべき活動である。しかも、その際の市民とは、人間の尊厳と自由・平等・友愛に絶対的な価値をおく、権利・義務を有する民主主義の担い手をいう。そこから、福祉教育は、自治民育の教育・教化活動が「上から」の、あくまでも国家的・社会的責任=義務としてのそれであったのとは異なり、自立・共生・自治の意識に基づいた「下から」の、権利としての教育活動でなければならない、といってよい。とすれば、その権利をどのようなものとして、どのように獲得するか。また、その権利が保障されるためには、どのような社会的義務を、どのように引き受けなければならないか。地方分権が進み、市民社会の再構築が叫ばれるなかで問われるところである。
〇(2)地方改良運動の第一の課題は、地方自治体の再編策であった。この官製の国民運動は、第一次世界大戦後の社会不安に対処するための民力涵養運動(1918<大正7>年~1922<大正11>年)に継承され、昭和恐慌期における農山魚村の経済的困窮・社会的混乱を収拾するための農山魚村経済更生運動(1932<昭和7>年~1934<昭和9>年)へと、それぞれが異質な側面をもつ運動として連続する(40)。1937<昭和12>年には戦時体制化のもとで国民精神総動員運動がはじまり、ファシズム体制の確立をめざすことになる。
〇今日、国民保護法(2004〈平成16〉年)などの有事法制のもとで有事への準備が進み、国民の統制や動員が予定されている。社会福祉界では高齢者や障害者の自己責任が問われ、自立が強制されるなかで、社会福祉の後退と切り捨てが進んでいる。その一方で、地域における住民相互の「つながり」や「新たな支え合い(41)」に過度の期待がかけられている。教育界では2006〈平成18〉年の教育基本法改正の強行などにみられるように、子ども・青年の生きる力や学力が強調され、愛国心が強要されるなかで、教育の能力主義化の推進と国家統制の強化が図られている。福祉教育に関していえば、官製(的)奉仕活動の展開が推進されている。
〇このように市民生活や住民生活が脅かされ、国家による強要や統制が進むなかで、戦前の轍を踏まないためにも、「地方改良運動にみる福祉教育実践」の構造や特質を解明し、歴史的問題点や課題を明らかにすることを通して、地域・住民主権の福祉教育の可能性や方向性について追究する意義は大きいといえよう。なお、地域・住民主権の福祉教育とは、住民の生活課題や福祉課題を素材に、地域特性を踏まえた内発型の地域振興や自立的で能動的な住民自治を志向する教育活動である。そこでは「地域理解」「生活理解」を不可欠とする。

おわりに
―「義務としての自治」から「権利としての自治」へ―

〇本稿では、明治後期における地方改良運動、とりわけ「自治民育」の諸実践を分析対象とし、現代の福祉教育の遡及的原点としての歴史的性格を検討してきた。
〇通史的な視座に立てば、当時の小学校を拠点とした郷土教育や、敬老・清掃といった諸活動には、現代の福祉教育にも通じる具体的な活動形態の雛形を見出すことができる。しかし、その通底をなす思想的基盤は、国家の富強と国民統合を最終目的とした「上からの教化」に依拠しており、自治や公共心は国家に対する「義務」という形態をとって要請されたものであった。こうした歴史的位相は、現代の福祉教育が「規格化された市民」や「動員型ボランティア」を創出するための統治技術へと矮小化されるリスクを内包していることを示唆している。
〇今日、地域コミュニティの再編や互助機能の強化が喧伝される背景には、公的扶助の漸次的な後退や自己責任論の趨勢といった構造的課題が潜在している。地方改良運動の歴史的経験から得られる真の教訓は、教育実践の形式的模倣に終始することではなく、教育実践における「主体」のあり方を批判的に再定位することに他ならない。
〇今後の福祉教育の展望を拓く要諦は、かつての「義務としての自治」というパラダイムを超克し、生活者が自らの生活課題を正当な「権利」として表象し、自律的に地域社会を構想・編み直していく「権利としての自治」への転換にある。歴史的実践の批判的継承を通じて、住民主権に立脚した内発的な福祉教育を構築すること――それこそが、戦前の国民動員的な構造を峻別し、個人の尊厳を基軸に据えた現代の福祉教育に課せられた喫緊の学術的・実践的課題である。

   注
(1)阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年。
(2)村上尚三郎編著『福祉教育を考える』勁草書房、1994年、3~16頁。
(3)斉藤利彦「地方改良運動と公民教育の成立」『東京大学教育学部紀要』第22  巻、東京大学、1983年、172~176頁。
(4)笠間賢二『地方改良運動期における小学校と地域社会―「教化ノ中心」としての小学校―』日本図書センター、2003年、32頁(注(2))。
(5)平塚眞樹「地方改良運動下の教育制度論に関する検討―その『生活』改善の側面に着目して―」『東京大学教育学部教育行政学研究室紀要』第9号、1989年、91頁。
(6)   菊地正治・ 阪野貢『日本近代社会事業教育史の研究』相川書房、1980年、35~54頁。
第1回地方改良事業講習会は、1909 (明治42)年7月11日から31日にかけて、国学院大学において開催された。
第1回感化救済事業講習会は、1908 (明治41)年9月1日から10月7日にかけて、国学院大学において開催された。開会式の席上、内務大臣・平田東助は、「感化事業なり救済事業は唯仁恵的に一個 人を救ひ又は恤むといふの目的に止まるもの」ではなく、「此等の人を能く教へ能く導きまして人の人たる道を履ましめ国家の良民たらしめん」とする事業である。 この事業は、「一人でも多く有用の人間を造り一人でも多く自営の良民となして社会の利益国民の経済を進めんとするのてありますされは此の事業は単に一人一己の救済事業ではなくて寧ろ世の公利公益を理想とすへき重大の事業てある」と「訓示演説」している (内務省地方局編 『感化救済事業講演集』上巻、1909年、1~2頁)。
(7)田口有希夫・岡部守「地方改良運動と模範村・稲取村」『農村計画論文集』 第3集、 農村計画学会、2001年、230頁。
(8)笠間賢二『前掲書』43頁。
(9)笠間賢二『前掲書』226~227頁。
(10)平塚眞樹「前掲論文」95~97頁。
笠間賢二『前掲書』80~94頁。
(11)内務省地方局編『地方資料』第1編、1907年、3~4頁。
神谷慶治監修『地方改良運動史資料集成』第3巻、柏書房、1986年、6頁。
(12)内務省地方局編『地方資料』第13編、1907年、44頁。
神谷慶治監修 『前掲書』第3巻、246頁。
(13)    内務省地方局編 『地方改良の要項』1912年、76頁。
神谷慶治監修 『前掲書』第2巻、1986年、239頁。
(14)内務省地方局編 『地方改良実例』1912年、81~82頁。
神谷慶治監修『前掲書』第5卷、1986年、27~28頁。
(15)內務省地方局編『前掲書』84~86頁。
神谷慶治監修『前揭書』第5卷、28~29頁。
(16)內務省地方局編『前揭書』93~94頁。
神谷慶治監修『前掲書』第5卷、30~31頁。
(17)笠間賢二『前揭書』38頁。
(18)斉藤利彥「前揭論文」177頁。
(19)   村田宇一郎『学校中心自治民育要義』宝文館、1910年、49百。
(20)   同上書、49~50頁。
(21)   同上書、51頁。
(22)   同上書、110頁。
(23)   同上書、51~52頁。
(24)   同上書、272頁。
(25)   同上書、398頁。
   (26)   同上書、251頁。
(27)   同上書、343頁。
   (28)   同上書、393頁。
(29)  同上書、183頁。
(30)  同上書、222~223頁。
(31)  同上書、228頁。
   (32)  同上書、382頁
(33)  笠間賢二『前揭書』52~54頁。
   (34)  斎藤利彦「前揭論文」178~179頁
笠間賢二『前揭書』56~57頁。
(35)  笠間賢二『前揭書』59頁。
斉藤利彦「前揭論文」179頁。
   (36)  E. H. 力一、清水幾太郎沢『歴史とは何か』岩波新書、1962年、40頁。
   (37)   宮地正人『日露戦後政治史の研究』東京大学出版会、1973年、106頁。
   (38)   村田宇一郎『前揭書』1頁。
   (39)   冨江直子『救貧のなかの日本近代―生存の義務―』ミネルヴァ書房、2007
年、1~11頁参照。
(40)山本悠三「民力涵養運動と社会局」『東北福祉大学紀要』第15巻、東北福祉大学、1991年、15頁。
(41) 『地域における「新たな支え合いを求めて―住民と行政の協働による新しい福祉―』(これからの地域福祉のあり方に関する研究会報告)全国社会福祉協議会、2008年。

【初出】
「地方改良運動にみる福祉教育実践―福祉教育の遡及的原点を求めて―」『年報』Vol.13、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2008年11月、120~129頁。
本稿は、この論考を改題し「おわりに」を加筆したものである。

 


第2章
昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相
―「郷土の教育化」にみる科学的認識と精神主義化の分岐―

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はじめに

〇昭和初期に隆盛した「郷土教育運動」は、師範学校と小学校の教育現場を中心に、文部省の提唱・主導のもとに推進された。当時の教育界は、形式的・画一的な知識注入型教育から脱却し、生活実態に即した「教育の実際化」を求めていた。他方、社会経済的には昭和恐慌による農村の疲弊が深刻化しており、郷土の再建は喫緊の課題であった。このような歴史的状況のもとで展開された郷土教育は、単なる愛郷心の育成に留まらず、地域社会の実態を科学的に把握し、社会奉仕を通じて地域改善に寄与しようとする実践的志向を内包していた。すなわち、そこには、今日的な観点からみれば「福祉教育」に通じる側面や要素が萌芽的に含まれていたといえる。
〇当時の運動は、疲弊する農村社会の再生(地域福祉的課題)に対して、教育の側からいかなる実践を提示したのか、またそれが戦時体制の進展のなかでいかに変質し、何を喪失したのか。その点を考察することは、現代の「まちづくりと市民福祉教育」における住民主体形成のあり方を問ううえで、ひとつの示唆を与えるものである。
〇本稿では、郷土教育連盟が示したひとつの指導案の分析を通じて、当時の教育実践がめざした「郷土認識」の実態と、その限界を明らかにしたい。

Ⅰ 文部省と郷土教育連盟による郷土教育運動

〇文部省は、次のような諸施策を通して、郷土教育の振興と郷土研究の確立を図ろうとした。すなわち、1927〈昭和2〉年8月、「郷土教授ニ関スル件」について照会し、全国の師範学校付属小学校を主な対象に郷土教育の実態調査を実施した。1930・31〈昭和5・6〉年度には、師範学校に対して、郷土研究施設を整備・充実するために「郷土研究施設費」を交付した。また、1932〈昭和7〉年5月に「郷土教育資料の陳列と講話」、1932〈昭和7〉年の8月から1937〈昭和12〉年の2月にかけて「郷土教育講習会」をそれぞれ主催した。さらには、1935〈昭和10〉年から1939〈昭和14〉年にかけて、山梨県をはじめ秋田県、茨城県、香川県における女子師範学校を中心とした郷土教育の取り組みを各『綜合郷土研究』として編纂した。これらがそれである。
〇文部省が、このように郷土教育に積極的・主導的に取り組んだ背景のひとつには、教育を取り巻く時代状況があった。当時の小・中学校教育が抱えていた知識偏重教育を打破し、形式的・画一的教育を是正して、実際生活や地方の実情に沿った「教育の実際化、地方化」(外池2004:48頁)の実現が要請されたのがそれである。いまひとつには、体制的危機の経済社会状況があった。1929〈昭和4〉年10月にはじまる世界恐慌と1930〈昭和5〉年1月の金解禁による昭和恐慌が深刻化した1930年代において、農村でも深刻な農業恐慌がおこり、経済的困窮と社会的不安・混乱が拡大・深刻化したのがそれである。
〇そこで、政府(農林省)は、1932〈昭和7〉年から1941〈昭和16〉年にかけて、疲弊した農村(郷土)の復興・再生をめざし、「自力更生」と「隣保共助」の精神を育成する方策として農山漁村経済更生運動を推進した。文部省が主導した郷土教育(農村教育)は、この農山漁村経済更生運動をひとつの契機として、またそれと密接にかかわりながら郷土(農村)の地域改良や地域振興への教育的対応を内実とするものであった。
〇こうした状況のなかで、郷土教育運動の普及・啓蒙に大きな役割は果たした民間教育団体が、1930〈昭和5〉年9月に結成された。「郷土教育連盟」がそれである。連盟では、「郷土教育並郷土研究ノ徹底ヲ期スル」(連盟規約第2条)ことを目的に、月刊雑誌『郷土』をはじめとした図書の編集・発行、郷土教育ならびに郷土研究に関する調査・研究、講演会や講習会の開催などの事業を実施・展開した。1930〈昭和5〉年11月に創刊された連盟の機関誌『郷土』(1931〈昭和6〉年5月『郷土科学』、1932〈昭和7〉年4月『郷土教育』と誌名を変更し、1934〈昭和9〉年5月に廃刊)は、「現代の日本」は「極度の行き詰りに瀕し」、「思想的に生活的に、一大方向転換を画さねばならぬ重大な時機に際会して居」る。そこで、「土地と勤労と民族との三ツの綜合体であり、慈愛に充ちた伝統と希望に燃える人間の生活場」である「郷土」について「正しき認識を体得」する「一大教育運動」の促進を期す必要がある、と「宣言」した。そこには、郷土についての客観的ならびに心情的な、2つの認識が示されていた。また、この創刊の辞では、「土地と住民との交互作用に鋭き科学的認識を進め、経済と社会との相関々係に正しき体験を持つ為めに、『郷土』の合唱が高らかに響き渡らねばなりません」と、郷土を認識する方法として「科学的認識」と「体験」が提示された(伊藤2008:172~174頁)。
〇こうした郷土教育に中心的に関わった人物は、文部省普通学務局嘱託、郷土教育連盟理事を務めた小田内通敏であった(外池2004:200)。
〇以上を要するに、「昭和初期の郷土教育は、官民ともに取り組み、そして『全国的』に『一般化』された郷土教育」(外池2004:39頁)として位置づけられ、展開されたのである。そして、伊藤純郎が指摘するように、文部省の郷土教育運動は「先行研究が説くような愛郷心愛国心の涵養を目的としたものではなく、教育の郷土化、郷土の教育化といった教授上の要求を背景に、現実の郷土を正しく認識理解し、郷土の再編を志向した『郷土認識建設運動』」(伊藤2008:416頁)であった。
〇また、先行研究では「文部省系」の郷土教育論を主観的・心情的、「郷土教育連盟系」のそれを客観的・科学的として、官民の郷土教育論は対立的に捉えられてきた。しかし、両者は「けっして対立するようなものではなく、むしろ連盟は文部省と協力するなかで運動の啓蒙、普及徹底」を図り、「愛郷心愛国心の涵養を主張したのは文部省ではなく、むしろ連盟であった」(伊藤:416頁)。すなわち、両者は相互補完的な関係にあり、郷土教育連盟もまた愛郷心の涵養を重視していた点に留意する必要がある。したがって、昭和初期の郷土教育は、「教育の郷土化」と「郷土の教育化」を志向する総体的な教育運動として把握されるべきである。

Ⅱ 郷土教育と「社会奉仕」実践

〇郷土教育連盟は、1932〈昭和7〉年4月、『郷土学習指導方案』(以下、『方案』)を刊行した。『方案』は、「郷土教育をいかに実施するかに就ての具体的提案であり、実際的指導案」を編んだものであり、連盟の委嘱を受けてその編纂と執筆に関する一切の労を執ったのは雑誌『近代教育』主幹の志垣寛であった。その「第二編 各学年月次郷土学習案」では、尋常一学年から高等二学年までの8学年毎に、総計88の「題材」(単元)についての指導案が示されている。これに基づいて、全国の学校では「各地方の状況並に受特(ママ)(持)児童の心理程度に適合するやう工夫」され、授業が展開されたであろうことは推察に難くない。
〇以下に、高等一学年十月「郷土生活と社会奉仕」の指導案を紹介する(『方案』:185~189頁)。

「郷土生活と社会奉仕」の指導案

〇この指導案の「主旨」は、「郷土生活に於ける社会奉仕の実現状況を調査し、其の精神を高むると共に更に新なる奉仕への出発を促す」ことにある。「学習事項」には、「郷土に於ける社会事業」「学童或は少年団青年団の奉仕事業」が含まれ、具体的な「取扱方」として次のような実査活動が挙げられている。

・社会事業の調査:図書館、学校、病院、養老院、孤児院などの公益施設の実状把
 握。
・公徳心の実態把握:交通道徳、公共営造物(神社、公園、共同井戸、共同便所
 等)の愛護状況、落書きの有無などの点検。
・職業活動の連関:農業・工業・交通運搬業・商業の活動、知識階級(医師・弁護
 士等)の活動が「互に相もちもたれて」いる社会構造の図示。

〇すなわち、この指導案は、(1)郷土生活における社会事業や社会奉仕の現状を客観的に理解するとともに、公徳心の実態を把握するための「実査」(調査)活動が重視された。これは、地域課題を客観的に把握させようとする点で、現代の「まちづくり」教育(学習)に通じるところがある。(2)調査項目は、郷土の生産活動(職業活動)や生産関係を重視し、それを明らかにしようとする視点から編成された。これは、職業を通じた社会貢献を強調し、社会を「共同協力体」として捉えさせる視点を持つものである。しかし、ここでの社会奉仕や職業活動は、あくまでも(3)郷土生活のための社会的規範や公徳心、道徳心を説き、その育成を図ろうとするものであった。したがって、(4)郷土教育は「涙なしに直視する事は出来ない」現代農村の窮乏に着目し、郷土を再建・再生しようとするものであったが、指導案では態度や行動が強調され、問題の根本的な解決をめざす理論的裏付けを欠いた情感的・修養的な実践に留まった、といえよう。要するに、この指導案は、資本主義の全般的危機が進行する経済社会状況(郷土生活)を深くえぐりだす社会科学的なものとはなり得なかったのである。

Ⅲ 郷土教育と「まちづくりと市民福祉教育」

〇以上の考察を踏まえ、現代における「まちづくりと市民福祉教育」に対する示唆として、次の3点に集約する。
〇(1)1930年代・昭和初期に隆盛した郷土教育は、経済不況と社会不安が深刻化し、1931〈昭和6〉年9月の満州事変にはじまる戦況が進展するなかで、郷土についての客観的・科学的理解よりも、愛郷心ひいては愛国心の涵養を図ることが優先されがちであった。そうしたなかで、郷土の実態を歴史的・社会的に認識・理解する視点が希薄化し、郷土の諸事象や諸問題に深く切り込み、「地域再生」「地域振興」を図るような教育・学習を展開していくには限界があったといわざるを得ない。
〇とはいうものの、「郷土学習」や「郷土人の生活姿態」についての調査活動の教育方法論には、その目的や内容などをめぐる時代性は異なるものの、「まちづくり」を企図する「市民福祉教育」にとって学ぶべき歴史的教訓がある。
〇(2)郷土教育は、今日いわれるところの「地域に根ざす教育実践」のひとつであった。『方案』は、「郷土学習は郷土それ自体を以て教材とし、教室とする」として「郷土の各官公署団体特(ママ)(篤)志家との連絡」を重視した。たとえば、「人の側から云へば各種公人、学者、医師、芸術家、篤農家、古老等々を学校の講師として予め嘱託して置く必要がある」とした(『方案』:64頁)。また、郷土学習では「社会の実務に参加し、或は又一つの運動を起すが如き事もあるべきである」としている(『方案』:89頁)。要するに、郷土教育は、官製のそれであったとはいえ、住民自治的観点をもちつつ教育への住民参加(「郷土の教育化」)や住民主体形成を促す原初的な形態をなす教育実践であった、といってよい。ここに、官製「自治」意識の育成を図るひとつの教育的方途としての、「上から」の郷土教育の歴史的意義を見いだすことができる。それは、ガバナンスや地域主権・住民主権に基づく地域振興を推進するための、「下から」の「市民福祉教育」が留意すべき点でもある。
〇(3)周知のように、郷土教育運動は、戦時体制化が進み、国民精神総動員運動がはじまる1937〈昭和12〉年を境に、当初の、郷土を正しく認識・理解し郷土の再生をめざす実践的な教育運動から、郷土愛を愛国心・「尽忠報国ノ精神」にまで涵養・高揚させることを目的とする観念的な精神運動に変質する。そして、それは、日本のファシズム体制の確立を促すことになる。こうした歴史的認識を踏まえて、今日、「市民福祉教育」の推進を図るに際しては、地域社会(郷土)についての確かな理性的認識に基づく感性的認識や、するどい客観的批判や社会的抵抗をともなう「市民」参加が必要かつ重要となる。

おわりに
―歴史的限界の超克と「市民」形成の課題―

〇本稿では、昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相を、郷土教育連盟の指導案分析を通じて考察してきた。 当時の運動は、疲弊する農村の現実を「実査」という科学的手法で捉えようとした点において、極めて先駆的な地域教育の実践であった。しかし、その認識が社会構造の根本的な批判へと向かわず、個人の「公徳心」や「奉仕精神」という情感的・修養的な次元へと回収された点に、その歴史的限界がある。この「科学的認識の精神主義化」こそが、のちに運動が戦時体制下の国家奉仕へと純化していく分岐点となったといえる。
〇この歴史的経験は、現代の「まちづくりと市民福祉教育」に対しても重大な示唆を与えている。地域課題の解決に向けた住民主体の形成において、単なる「郷土愛」や「ボランティア精神」の強調は、時として無批判な体制補完に陥る危うさを孕んでいる。今後は、本稿で扱った指導案が実際の教育現場でどのように受容・変容されたのか、地域ごとの具体的実践例の掘り下げが必要である。郷土教育が残した「地域に根ざす教育」という遺産を、いかにして批判的・主体的な「市民」の形成へと繋ぎ直すか。この課題の解明こそが、現代の「まちづくりと市民福祉教育」に課された責務である。

引用・参考文献
(1) 郷土教育連盟(1932年)『郷土学習指導方案』刀江書院。
(2) 外池智(2004年)『昭和初期における郷土教育の施策と実践に関する研究』NSK出版。
(3) 伊藤純郎(2008年)『増補 郷土教育運動の研究』思文閣出版。

【初出】
「郷土教育運動にみる福祉教育実践―市民福祉教育をめぐる断章―」『ふくしと教育』第7号、大学図書出版、2010年4月、46~49頁。
本稿は、この論考を改題し加筆・修正を行ったものである。

 


第3章
戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

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福祉教育の歴史は終戦直後から始まると捉えるのが通説である。しかし、それは戦前の福祉教育に関する歴史をふまえたものではない。戦前に関しては、更なる検討が必要とされる2つの説があるにすぎない。それは福祉教育の遡及的原点を大正デモクラシー期の新教育運動に見出す説と、地方改良運動に見出す説である。前者に関しては村上(1994)が、大正デモクラシー期の新教育運動の中でも、とりわけ「池袋児童の村小学校」の野村芳兵衛による生活教育や修身教育の実践を、福祉教育の遡及的原点として紹介している。後者に関しては、大橋(1997)が地方改良運動の諸実践の中には今日の福祉教育と同じような実践がみられると述べている。(三ツ石行宏「<解題>福祉教育史研究の課題と展望―阪野論文に導かれて―」日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸~学際性と変革性~』大学図書出版、2014年10月、52頁)

はじめに

〇筆者は、福祉教育の歴史研究において、1930年代の生活綴方教育の実践や運動のなかに、今日の福祉教育実践に通底する側面や要素が含まれていたのではないか、との仮説を立てている。その実証的検討の端緒として、本稿では太郎良信「国分一太郎による生活綴方教育批判の検討―1936年から1939年における―」(『文教大学教育学部紀要』第45集、文教大学、2011年12月)を取り上げる。
〇太郎良はその論考において、国分一太郎(1911年3月~1985年2月)の軌跡を次のように指摘している。すなわち、1930年から1935年にかけては綴方を通して生活の現実に学ぶ教育実践(「生活勉強」)を説いていた国分が、1936年から1939年にかけては生活綴方教育批判へと転じ、綴方教師たちに対して地域における啓蒙活動への参画を呼びかけるようになった、という点である。太郎良は、生活綴方教育批判を主題とする国分の論考を時系列に沿って精緻に分析・検討することで、この変遷を明らかにしている。

Ⅰ 1936年における国分一太郎と生活綴方教育運動の時代背景

〇1936年は、二・二六事件が発生した年である。また、思想犯の意見・表現の自由を制限した「思想犯保護観察法」の制定など、教員への圧迫が構造化された年でもある。それは、1929年10月に始まる世界恐慌をひとつの契機に経済的・政治的・社会的矛盾と混乱が深刻化するなかで、日本が軍国主義化・ファシズム化を進め、日中戦争(1937年7月勃発)と太平洋戦争(1941年12月勃発)への道を辿るターニングポイントとなった。1936年はまた、国分にとっても特筆されるべき年である。国分がその重要な担い手であった北方性教育運動(生活綴方教育運動)が衰退傾向を示し、その運動の拠点であった北方教育社(1929年6月、秋田市に創立)が同年8月に閉鎖に追い込まれている。それは、「視学などの圧力と、内部的な脆弱性」(津田道夫『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社、2010年1月、150頁)によるものであった。なお、1936年の前年1月に、国分がその中心的役割を果たした北日本国語教育連盟(秋田市)が正式発足し、8月には国分がその組織強化活動に関わった北海道綴方教育連盟(釧路市)が設立されている。
〇ここで注目すべきは、1930年代半ばにおける「社会事業」概念の変容である。当時の日本社会は、国家総動員体制に向けた「厚生事業」へと舵を切る過渡期にあった。国分が「社会事業」という用語を用いた背景には、単なる慈善救済への関心を超え、疲弊する農村共同体を教育の力でいかに再編し、国家の矛盾に抗し得る「生活主体」を形成するかという、教育と社会事業の境界領域における模索があったと解釈できる。
〇本稿では、太郎良が紹介・検討した論文群のなかから、国分が「社会事業」に関心を持ち、生活綴方教育と社会事業の関係や、社会事業がもつ教育的効果に言及した次の2本の論文(以下、「1936年論文」と総称)を対象とし、その翻刻と解題(史料紹介)を行う。

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」『日本文化と国民教育』第2巻第5号、東宛書房、1936年8月、74~79頁。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・国語教育』第6巻第10号、厚生閣書店、1936年10月、152~157頁。

〇この作業は、単に福祉教育の遡及的原点を追究するに留まらず、冒頭に記した三ツ石が指摘する課題、すなわち「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続を検討する必要性」(三ツ石「前掲論文」54頁)に応えるための端緒を開くことを企図している。また、未開拓の史資料を収集・分析・評価することを通じて、既存の福祉教育像をより豊かに再構成することをめざすものである。なお、対象とする論文は福祉教育史研究においても貴重な史料であるため、その文脈と詳細を忠実に再現すべく、引用が長大にわたることをあらかじめ付言しておきたい。翻刻にあたっては、原文の表記を尊重し、旧仮名遣いは原則としてそのまま用いた。

Ⅱ 史料翻刻と解題
―「社会事業的教師」の提唱―

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」
かうした困難なる生活を生きる子供をかゝへて青年教師は何とするか。或る人は歴史の秩序を信ずる事によつて、この現実の中に真実を、砂の中の砂金のかけら程でもいいからみつけさせて行かうと精神的になる。ある人はこの困惑は薬だといふ。この困難にまけぬやうな意志だけが大切だと説教する。乞食根性をもつなといふ。困難はやがて幸福のもとと出世美談みたいな真理を活用する。
ある青年教師は、子供とはそんな現実主義者ではない。夢の人だといつて、のびのびと、ゆるやかに魂と身を伸さうと賢明なことを言ふ。だがその子は家に帰ると、あまりにも多産な我が母のために、その弟妹をおばねばならぬ。そして背柱湾曲と統計表に計算される。
ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番だ。あとは何も出来ないと言ふ。真実をかけ真実をみよといふ。見てどうするかと言へば答はない。あるとしても「真実のみが、未来をはらんでゐる」と深遠だ。あとはどうにもならぬとアナーキーになり、更に虚無におちいる。そこである若者どもは生活意欲をもたせようといふ。それには自分がもつ事だといふ。所が、その生活意欲とは何ぞやと質問をする先生が出る。生活意欲とは貧乏でなくなりたいといふだけものではないと答へられると、そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び出したと叱る。もう一人はこんご、多分に空想的だと度々いふ。(76~77頁)

そこで小学教師よ。青年教師よ。如何に生きんとするや――とせつぱつまつて来た。
曰く社会事業的教師とならん。曰く文化事業的教師とならん――とこの際答へたい。だが僕たち一人でそんな事をされるとは限らない自分の生活は困らぬから社会事業にしたがふといふわけにはいかないのが薄給中の薄給の青年教師だ。壮丁の検査成績がわるいとすぐ、保健省設置を提議できる陸軍とは何といふ羨しい熱心な存在だらう。我々教員は一番村に近くゐて、村の人々とも一番近い所にゐて、その子等の上にその人々の生活を知りつくしながら、医療国営一つ、生活安定一つの徹底をも、建議できない人間共である。漢字の存在や歴史的仮名遣ひが、如何に国民生活を不便にし子供を苦しめつゝありと知りながら、それが廃止の建議案をすら、直ちには出す事が出来ない。それをなし得る団結がほしい。
社会事業にしても、今の担当者は村の有力者や教育者の古手であつて、青年教師の手中にはない。だが、社会事業的出発のし方は大小とりまぜて色々ある。その小さい所からはじめて、日本の青年教師が手をつないで大きな社会事業をなし得る機会をまつことが大切ではないだらうか。託児所が論ぜられ、実践され、校外教育が再吟味され、地域中心の学校施設が問題とされ、生産学校が行はれはじめたのもみな、教育が社会事業の側にうごいて来た証明できる。紙芝居の教育的実践さへもがそれである。
社会事業には、解釈の浅さはあつても、行動の重要さをとらねばならぬ。よい社会事業は、よい社会改造を目標としてゐる筈だ、歴史がゆがめる社会事業があるにはあるにしても、それを駄目だと解釈して、貧しきものは貧しきまゝにして置いていい筈はない。文化の大衆への浸透、それもまたその不可能や困難をかこつより、よい文化合理化されたそれを、小刻みに与へて行く必要は十分にあるのだ。老年教師を啓蒙することもひとつだ。
じつとしてゐるよりは行動をした方がいい。行動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的だとしたら、青年教師はそこへ行くだらう。それをきらつて、「生活を描け描け(くの字点―引用者」とばかりいつてるのは、「貧しい事がなくなると、よい綴方が出なくなる」と心配する事の愚に等しい。
といつて、教室からとび出し、学校をはなれて、防貧や救貧事業にのり出せとか、保健衛生事業にでかろといふのではない。「純粋の情熱」や「きれいな知性」をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬのだ。
かういふ物の考へ方を先生がもつことがそもそも大事な生き方の精神となるのだ。僕らが育てた国民が大きくなつたら、すべての代議士が退職積立金法案には賛成を無条件にするように、農業保健法は立派に制定してくれるやうにとか、小作法はにぎりつぶさぬやうにとねがひたいならば、まことに気永な話ではあるが、社会政策的見地にたつ考へ方を国民に充満させねばならぬ。それの尖兵隊は社会事業家であらう。その尖兵の行動を見習ふこともなくして、意欲がどうの態度がどうの、リアリズムがどうのといつた所で、それが単なる精神的な「覚悟」に終らなかつたら御目出度うだ。
僕達青年教師は、小さい頃、人道主義的見知で育てられたらしい。その頃の青年教師に。だが真にヒユーマニストとして生きてゐる人間は何人ゐよう。前述の如く孤立して僅かに情熱をセンチと化するが落ちではないか。逆に封建的な精神で人間、子供を律しようとしてゐないとは言へぬ。
青年教師が、意欲をいひ、モーラルをいふ若さは悪いといはぬ。それはよい。だが現実とそれでは、まだまだ(くの字点―引用者)距離があるやうに出来てゐるといふ方が正直だ。その距離をうづめる手段も持たないでは困るのだ。
社会を愛し、文化を愛する青年教師の全日本的聯結が、それぞれの報告にもとづいて社会事業的、文化啓蒙的教育の行動形態を建設するの急務が叫ばれて欲しい。(77~79頁)

〇本論文は、当時25歳の国分が「青年訓導の立場から」書いたものである。
〇国分は、絶対的貧困にあえぎ、「社会の矛盾」にさらされている東北農村の子どもたちの「現実生活」と、それに向き合う青年教師の状況を述べる。その際、「情熱と知性」を本質とする青年教師の教育実践(生活綴方教育)を、「自嘲的」「揶揄的」に描いている(太郎良「前掲論文」28頁)。そのうえで、国分は、自分たちが育てられた「人道主義的見地」ではなく、「社会政策的見地」に立って、青年教師に「社会事業的教師」になるよう呼びかける。「『純粋の情熱』や『きれいな知性』をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬ」。「よい社会改造を目標」とする「よい社会事業」の行動は、「一番今のところ進歩的」である、と国分はいう。しかし、その言説は、青年教師に対して「社会事業家の生き方のその態度」の必要性を説くに留まっている。国分自身の社会事業的教師として、具体的な教育実践に裏づけられたものにはなっていない、といえよう。
〇しかし、国分が「情熱」を単なる感傷や主観的な同情論に矮小化させず、「社会政策的見地」を求めた点は、教育の「内面化」に対する痛烈な自己批判であった。これは、子どもを「救済の対象」としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する「連帯の主体」として捉え直そうとする、福祉教育における「主体形成論」の先駆的形態として位置づけられる。
〇なお、「教育が社会事業の側にうごいて来た証明」についての指摘は、「教育福祉」の視点を示すものとして留意しておきたい。

(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」
主観的なものを客観的なものへ、個人的なものを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの道は、つねに「現実生活」の把握によつて「現実生活」で証明し、現実生活にとかしこんで導かねばならぬ。自然発生的な社会認識をもつた子供を科学的な社会認識に導くことも、生物的人間を社会的人間にひきあげることも、すべて「生活」によつて証明しつゝ、あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあるひは子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ。(156頁)

人間教育とか、純粋感情の教育とか(情操陶冶)といふレツテルを張つてやつて来た綴方教育が、産業の発達による社会的情勢の変化によつて、漸次、より広範囲な生活教育として、その直接的な武器として、生活態度の陶冶と、生活技術の鍛錬とにまで進展したことによるともいへるであらう。そして社会事業の方が、概念的な小学教育よりは、より教育的感化をもたらすといはれる如く、概念的な知的学科や、観念的な情操教科に比して、より現実的な綴方の方が有意義なものとされ、それには昔さながらの文壇的ひとりよがりの指導よりは、より教壇的な協働生活関係としての、生活組織器関(ママ)として役立つやうに吟味されるに至つたのである。(157頁)

僕達の綴方も、あらゆる教科が、生活を証明材料として引つさげて来り、綴方の道をゆたかにしてくれる限りは喜んでむかへるであらう。それらによつて生活の知性がたかまり、生活が充実し、生活行動が真摯になるならば、綴方にとつて其れはこのましき限りである。
それよりも却つて、綴方が綴方の垣の中にとぢこもる如きは、その機能を衰微させる自己矛盾として、むしろ警戒するに価することなのである。貧しさを深刻にかいた綴方があつてくれるやうに、貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ――等といふのは綴方の望む処ではない。貧しさのなくなるやうに、防貧事業や救貧事業が、あるひはもつと根本的な社会事業が、学校の周囲でどしどし(くの字点―引用者)と行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である。即ち、綴方の局外よ。他教科にとどまらず、学校全般、社会全般の批判も、どしどし(くの字点―引用者)と綴方の垣を越えて来てほしいのである。かくしてこそ、綴方はますます(くの字点―引用者)生活組織としての機能を発揮するに便利であらう。(157頁)

〇本論文は、国分によると、「世代の綴方論」としては「消極的駄文」であり、「児童作品批評に於ける若干の解剖」を行う「警告的駄文」(153頁)である。
〇国分は、子どもの綴方に対する教師の批評は、「文芸評論」の影響を受けて、優秀な、見本となる作品などをよしとする「文壇的批評」の傾向にある。そうではなく、個々の子どもの「現実生活」や生活認識などに留意した「教壇的批評」が重要である、と説く。加えて国分は、現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であり、「子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ」という。
〇そして、国分は、生活綴方と社会事業の関係について言及する。国分にあっては、社会事業によって感化されたことを綴方(作文)に書くことは、現実生活から学び、生活行動に生かすことであり、概念的・観念的な教育に比して教育的であり有意義である。すなわち、生活を綴ることで生き方を変えていくのである。また、生活綴方は国語教育にとどまらず、学校教育や校外教育への広がりをもつことによって、子どもたちの社会事業への関心を促すことになる。すなわち、「社会事業が、学校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である」。

〇以上の「1936年論文」において、国分は、当時の文壇的批評に流れる綴方教育の現状に対し、批判的あるいは警告的な立場から論じている。その際、その論拠は必ずしも明確であるとはいえない。また、社会事業による教育・啓蒙とその教育的効果への関心と期待を示している。その際の社会事業の言辞については、観念的・抽象的なものに留まっている。とはいえ、当時、国分は、生活綴方教育の実践や運動において指導的役割を担っていた。そういうなかで、国分の社会事業に関する関心や発言は、青年教師(綴方教師)たちにどのような影響を与え、どのような取り組みを生み出したのか。その前提として、国分がよしとする綴方教師としての「教師像」はどのようなもので、どのような特質をもつものであったか。今後の研究課題とすべきところである。
〇太郎良は、前掲の論考で、「視学等から監視や干渉を受けて、つねに弾圧をおそれていた」国分にあっては、生活綴方教育批判は「視学等の心証を良くするためのものであった可能性がある」(36頁)という。そうだとすれば、国分の社会事業への関心は単に、そのためのものであったのか。そうではなく、ファシズムの常態である公権力による教育の支配・統制が強化されるなかで、それに対抗する教育実践として、「社会改造」を目標とする社会事業に期待したのか。興味のあるところである。
〇なお、国分は、1938年3月に教職を免ぜられた。1941年10月には、左翼的傾向をもつ北方性教育運動(「抵抗としての生活綴方運動」)の関係で警察に逮捕されている。そもそも、軍国主義ファシズム最頂期の1940(昭和15)年には、「治安維持法」(1925年4月公布、5月施行)によって全国で300人を超える生活綴方教育運動の指導的立場にあった教師たちが検挙・投獄されるという大規模な弾圧が起きていた(乙訓稔「国分一太郎の生活綴方教育の理念」『実践女子大学生活科学部紀要』第50号、実践女子大学、2013年3月、52頁)。また、1938年1月に健民健兵政策を推進するために厚生省が創設され、同年4月には人的・物的資源を統制運用するために「国家総動員法」が公布、5月に施行された。それを契機に、社会事業は戦時厚生事業へと変質し、戦時体制の枠組みに組み込まれていく。
〇いずれにしろ、国分が社会事業の教育的効果に関心を示したことについては、個人的にも時代的にも厳しい状況に追い込まれていったこととの歴史的文脈・関係性のなかで考究する必要があろう。国分は、1943年7月に判決が下される過程で「転向」を余儀なくされている。国分の社会事業への関心とその呼びかけは、生活綴方教育批判を行うなかでの、「抵抗」「転向」あるいは「偽装転向」としてのそれであったのか。綴方教師たちはその点をどのように受け止め、どのような社会事業的な教育実践に取り組んだのか。それとも、綴方教師に対する弾圧が強まるなかで、取り組むことができなかったのか。あるいは、教育現場の綴方教師たちは、国分の呼びかけに対して端(はな)から一顧だにしなかったのか。それらを歴史的・実証的に明らかにすることが求められよう。

〇周知のように、敗戦後の生活綴方教育は、1950年7月の「日本綴方の会」(1951年9月「日本作文の会」と改称)の発足や、国分の『新しい綴方教室』(日本評論社、1951年2月)、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)等の刊行などを契機に復活・興隆する。そして、1950年代前半にひとつの頂点を迎える。それは、戦後の新しい教育(教育の民主化)のなかで、戦前の生活綴方教育を継承・発展させようとするものであったと評される。そこでは、貧困からの脱出が最重要課題とされたが、具体的に「現実生活」がどのように把握され、「生活教育」がどのように規定されていったのか。綴方教師によって「社会事業的」な教育実践は展開されたのか。「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続」に関する研究課題のひとつである。

〇以上の考察を踏まえ、本史料の今日的な位置づけを総括すれば、こうである。すなわち、本稿で翻刻・解題した国分の「1936年論文」は、生活綴方教育運動がファシズムという外部圧力と内部的な閉塞感に直面する時期の苦悶を象徴する史料である。国分が提唱した「社会事業的教師」への転換は、単なる綴方指導の技術論ではなく、冷厳な社会矛盾に直面する子どもたちの「現実」を前に、教育がいかにして実効性を持ち得るかという、教育の存立根拠(教育の社会的責任)を問う切実な叫びであったといえる。
〇特筆すべきは、国分が「情熱」や「知性」といった内面的な人道主義を「自嘲的」に退け、社会政策的見地に基づく「行動」と「社会改造」を強調した点である。これは、教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続させようとする「教育福祉」的な視座の萌芽を明確に示している。通説では戦後を起点とする福祉教育の歴史に対し、本史料は、戦前の北方性教育運動のなかに今日の福祉教育に通底する「実践の深層」(思想的伏流)が存在したことを実証的に基礎づけるものであろう。
〇今後の課題は、この国分の呼びかけが、当時の草の根の綴方教師たちによっていかに受容され、あるいは変質し、戦時厚生事業へと回収されていったのか、その「変容のプロセス」を実証的に追うことにある。さらに、戦後の生活綴方教育の興隆期において、これらの「社会事業的」視点がどのように継承・再編されたのかを明らかにすることで、戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続性を体系化しなければならない。
〇政治と教育の距離が再び緊密化し、社会の分断が深化する現代において、80余年前の国分の問いかけは看過できない重みを持っている。教育が「社会の矛盾がなせる業」を直視し、単なる精神論に陥ることなく、いかにして具体的な「社会の改善」に寄与し得るか。この歴史的教訓を掘り起こし、現代の「まちづくりと市民福祉教育」のあり方へと還元していく作業こそが、本研究が真にめざすべき地平である。

Ⅲ 生活教育論争の止揚

〇周知のように、1937年5月に「教育科学研究会」を結成した城戸幡太郎と留岡清男は、雑誌『教育』(第5巻第10号、岩波書店、1937年10月)において生活綴方教育批判を行った(1938年「生活教育論争」の発端)。「綴方教育は児童の生活を理解し、生活態度を自覚せしむることはできるが、彼等の生活力を涵養することはできぬ。彼等の生活力を涵養するには彼等の生活問題を解決することのできる生活方法を教へねばならぬ」(城戸幡太郎「生活学校巡礼」48頁)。「生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教師の鑑賞に始まつて感傷に終るに過ぎない」(留岡清男「酪聯と酪農義塾」60頁)、がそれである。こうした手厳しい批判に対して、「社会事業的教師」(綴方教師)たちはどのように反応し、どのような新しい教育課題を見出し、またどのような教育実践を展開したであろうか。
〇1930年代後半に展開された「生活教育論争」をめぐって、一言するとこうである。まず、城戸や留岡が提唱した「生活方法の教育」は、科学的・合理的な知性によって生活上の困難を克服する「技術」や「組織化」を重視するものであった。留岡の酪農教育実践に象徴されるように、それは貧困という客観的課題に対し、いかに生産性を高め、合理的な生活習慣を確立するかという「生活力の涵養」に力点が置かれている。福祉的観点からいえば、これは「自立助長」のための機能的アプローチであり、現代の社会福祉における「エンパワメント」や「社会資源の活用術」の先駆形態と評価できる。
〇それに対して、国分が提唱した「社会事業的教師」は、そのベクトルが異なる。国分は、生活綴方教育が陥っていた「鑑賞」や「感傷」を自嘲的に退けつつも、城戸らが批判した「現実の凝視」をあえて社会事業の「態度」へと接続させた。ここでの「福祉的」独自性は、以下の2点に集約される。
(1)社会矛盾の構造的覚知としての綴方
〇城戸らが生活の「改善(技術)」を求めたのに対し、国分は綴方を通じて「社会の矛盾がなせる業」を直視し、それを「社会政策的見地」へと昇華させることを求めた。これは、単なる生活技術の習得を超え、自己の苦難を社会構造の問題として捉え直す「意識化」のプロセスである。
(2)伴走者としての教師像
〇 「生活方法の教育」における教師が指導者・技術伝達者であるのに対し、国分の説く「社会事業的教師」は、村の貧困と矛盾のなかに身を置き、子どもとともに苦悩を共有しながら、社会制度の不備を告発しようとする「アドボカシー(権利擁護)」の萌芽を含んでいる。
〇すなわち、城戸らが「生活の科学的解決」をめざす合理的・システム的な福祉に近い立場であったとすれば、国分は綴方というメディアを介して、生活者の沈黙を社会的な声へと変えていく草の根のエンパワメント・モデルを模索していたといえる。この相違こそが、社会の矛盾を直視し、子どもの生活実態を記述することで自己や社会を変革しようとした国分らの独自性であり、現代の「まちづくりと市民福祉教育」へと通底する重要な源泉となっている。

Ⅳ おわりに
―戦前と戦後を貫く伏流―

〇本稿では、国分が1936年に示した「社会事業的教師」という概念に焦点を当て、その思想的背景と福祉教育史における意義を検討してきた。ここで改めて強調すべきは、国分が求めた「社会事業家としての態度」が、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)の再定義であったという点である。
〇国分は、教室という閉鎖的な空間で「内面的な真実」を綴らせることに安住する教師のあり方を、あえて「自嘲」という形で否定した。彼が「社会政策的見地」を呼びかけた背景には、子どもたちの背柱湾曲や多産・貧困といった「身体的・経済的剥き出しの現実」に対し、既存の教育学が十分な回答を持ち得なかったことへの危機感があった。この「教育の無力」を直視したところから、地域の社会構造へと介入しようとする「社会事業的」な志向が芽生えた事実は、後の福祉教育にも通底する「学習の外化(社会化)」への鋭い感受性が、すでにこの時期の国分のなかに備わっていたことを示唆している。これは、当時の社会事業側からの教育への接近ではなく、教育側からの社会事業への主体的越境である。
〇また、本稿で触れた城戸・留岡らとの「生活教育論争」の視点から言えば、国分の独自性は「生活方法(技術)」の提供に留まらず、綴ることを通じて自己の生活を「社会的な文脈」で読み解き、社会構造の変革を図る変革主体へと脱皮していくプロセスの萌芽を宿していた点に求められよう。これは現代の福祉教育が掲げるべき「まちづくりと市民福祉教育」のテーマに近接している。今後の課題は、この国分の「叫び」が、当時の現場教師たちにいかなる「沈黙の抵抗」あるいは「実践の変容」をもたらしたかを、より具体的に実証することである。戦時下の「厚生事業」への回収という歴史的断絶がある一方で、戦後の『山びこ学校』等に見られる「村を綴る」営みのなかに、いかなる形でこの「社会事業的視座」が潜流として継承されていたのか。
〇戦後80年を過ぎ、今また「教育の政治的中立」や「自己責任論」が強調されるなかで、教育が社会の矛盾を「自分事」として引き受ける態度は、一層の重要性を増している。国分が1936年に示した、弱者の傍らに立つ「伴走者」としての教師像を掘り起こす作業は、単なる懐古的な歴史研究ではない。それは、現代における「市民福祉教育」が、単なるボランティア体験の推奨を超え、いかにして「社会を変革する主体」を育み得るかという地平を切り拓くための、不可欠な知的営為なのである。
〇以上を総じて言えば、本稿の検討から明らかになった点は次の通りである。 第1に、「社会事業的教師」とは、単なる教育技術の行使者に留まらず、社会の矛盾に対する構造的な認識に基づき行動する主体として構想されていた点である。 第2に、そこには戦後の福祉教育に通底する「変革主体」としての主体形成論の萌芽が見て取れる。 したがって、国分の「1936年論文」は、断絶として語られがちな戦前と戦後を、福祉教育思想の地平において架橋するものである。それは同時に、現代における「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を探究するための、不可欠な歴史的準拠枠を提供するものであると言えよう。

補 遺
―歴史的具体的生活課題と向き合う「主体」の原像―

〇戦後の生活綴方教育の金字塔と評されるものに、前述した無着成恭のいわゆる「山びこ」実践がある。「『山びこ』実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。(中略)『山びこ』実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった」(奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会、2016年2月、70頁)。
〇本稿の補遺としてあえて、無着成恭編『山びこ学校』に収められている江口俊一の生活綴方「父の思い出」の一節を引いておきたい。

みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいのかわからなかった。(28頁)

〇ここで綴られた「誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」という困惑は、個人の内面に閉ざされた悲しみではない。それは、自身の生活を破壊した不条理な力(戦争・国家・政治)の正体を突き止めようとする、切実な「認識の萌芽」である。

引用・参考文献
(1)奥平康照(2016)『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会。
(2)国分一太郎(1951)『新しい綴方教室』日本評論社。
(3)佐野眞一(1992)『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』文藝春秋。
(4)津田道夫(2010)『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社。
(5)中内敏夫(1970)『生活綴方成立史研究』明治図書。
(6)無着成恭編(1951)『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』青銅社。

【初出】
阪野貢「『生活綴方教育と福祉教育』に関する研究への端緒:国分一太郎の1936年論文―資料紹介―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2015年5月12日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第2部

戦後初期福祉教育実践の展開
―特定地域における先駆的実践の位相―


第4章
徳島県・平岡国市による「子供民生委員」制度にみる「民生村造り」
―地域コミュニティ再建のための平和と自治の教育実践―

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はじめに

〇第二次世界大戦後における福祉教育実践の源流のひとつは、 1946(昭和21)年12月、 平岡国市によって創案された徳島県の子供民生委員制度に求められる。 平岡のあとを受け継いで制度・活動の推進に取り組み、また 1977(昭和52)年度から始まった「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(「社会福祉協力校」) の制度化に尽力したひとりに木谷宜弘がいる。 木谷は、「子供民生会と子供民生委員は、地域では子供会のルーツであり、 学校では福祉協力校のルーツとして、児童生徒のボランティア活動の先駆であった((1))」と評している。また、木谷は、「子供民生委員の真価は地域活動にあった」として、「子供民生委員の地域実践」について次のように述べている((2))。 この指摘は、 総括的ではあるが、 長年にわたる福祉教育やボランティアについての実践と研究に基づく幅広い見識に裏づけられた見解として、よく理解できるところである。

〇子供民生委員は地域での生活に根ざした活動で、子どもたちが問題を発見すると、 子供民生会で話し合い、解決策を検討し、 実践できるものから取り組むということですから、 子どものうちから自治体験を積み重ねているということになります。
〇その点、現在の福祉協力校やボランティア学習校では、子どもたちが学校の授業の一環としてとらえ、教員主導の実践で終わる危険があります。大事なことは、子どもたちが地域を拠点として自発的に行動すること その中で子ども同士、また異世代との交わりを通じて自治体験のできる生活の場を構築することではないでしょうか。子供民生委員の実践はまさにそのモデルということができます。

〇木谷は、森依顕らとともに、子供民生委員制度についての歴史的研究と子供民生活動の掘り起こしの作業を進めている((3))。しかし、それは、平岡の生涯の概観や子供民生委員制度の概説にとどまりがちで、個別具体的な子供民生活動を丹念に分析・検討し、それを通してその構造や特質を解明するまでには至っていない。

〇そこで、本稿では、子供民生委員制度や子供民生活動についての体系的・ 実証的な研究に向けて、先ず次の原資料の紹介と子供民生活動の分析・検討を行う。そのうえで、今後地域に根ざした豊かな福祉教育実践を展開するために、子供民生委員制度や子供民生活動から学ぶべき点を整理し、実践・研究課題の明確化を図る。その際、単なる懐古主義に陥ることのないよう留意するとともに、木谷が指摘するように、子供民生活動を子どもたちの自発的な地域活動 自治体験として検討することが必要かつ重要であるということをさしあたりの分析視角とする。

①栗田善吉 『子供民生委員の手引』 平岡国市、1953(昭和28)年10 月発行、76頁。 (以下、「資料①」と略す)
〇徳島県民生委員連盟会長・徳島県教育委員の粟田善吉によって著された子供民生委員の指導者用手引書である。「児童委員及師導者用」と付記されている。発行者と発行所は平岡国市となっている。
②平岡国市『子ども民生活動』子供民生事業研究会、1955(昭和30)年10月発行、163頁。 (以下、「資料②」と略す)
〇子ども向けに書かれた子供民生活動の参考書である。発行所は平岡が1955(昭和30) 年に創設・ 主宰した「子供民生事業研究会」となっている。平岡が子供民生委員制度を創案した際の「精神」「考え方」を残し、伝えるために書いたものである。
③平岡国市 『子供民生委員とその指導』(改訂版)子供民生事業研究会、1957(昭和32) 年12月発行、168頁。 (以下、「資料③」と略す)
〇学校の教師や民生委員などを対象にした子供民生活動の指導書である。1956(昭和31)年の初版本を「訂正増補」したものであり、「子供民生活動における指導者の地位」「子供民生活動をいかに指導すべきか―子供民生委員指導一二ヵ条―」などについて述べられ ている。
④平岡国市『富士居先生と大西先生』 子供民生事業研究会、 1958(昭和33)年6月発行、 163 頁。 (以下、「資料④」と略す)
〇平岡が師事した富士居力次郎と大西静枝の、大人と子ども向けの伝記である。平岡にあっては、富士居と大西は「徳島県が生んだ男女の代表的社会事業家」であり、「人間の太陽」と評すべき人物である。その感化は大きく、子供民生委員制度創設のひとつの要因と なった。
⑤徳島県社会福祉協議会 『伸びゆく子供民生委員』 (第十回徳島県子供民生委員大会記念号) 徳島県社会福祉協議会、 1958(昭和 33 ) 年3月発行、 21頁。 (以下、「資料⑤」と略す)
〇「第十回徳島県子供民生委員大会要綱」「子供民生委員十二年小史」などがおさめられている。県大会は1948(昭和23)年11月にその第1回が開催されて以来、継続的に開催されたが、第10回大会の内容を知ることができる。
⑥徳島県社会福祉協議会『子ども民生委員指導ノート』徳島県社会福祉協議会、1959(昭和34)年7月発行、 21頁。 (以下、「資料⑥」と略す)
〇徳島県社会福祉協議会によって編集・発行された指導者用の「ノー ト」であり、子供民生委員について簡潔にまとめられている。 その記述の一部は資料③ がベースになっている。
⑦平岡国市「山の子人生記』 (私家版) 1984 (昭和59)年1月発行、 140頁。(以下、「資料⑦」と略す)
〇平岡自身の回想録であり、 逝去する1年前に自費出版されたものである。平岡の苦難に満ちた生きざまや人となり、子供民生委員制度創設の背景や経緯などを知ることができる。

Ⅰ 平岡国市の生涯と子供民生委員制度

〇平岡国市が子供民生委員制度を創案し、子供民生活動の推進に心血を注いだ背景や要因は何か。それを理解するためには、その苦難に満ちた生涯について把握する必要があろう。ここでは、資料⑦に基づいて、平岡の生い立ちや生きざまについてその画期に留意しながら概括する。

1 結核との闘争
〇平岡国市は、1897(明治30)年3月16日、 徳島県名西郡神山町阿川に平岡八百蔵の長男として生まれた。両親は不便な山村で農業を営み、きょうだいは弟1人、姉1人、妹4人の7人であった。
〇平岡は、子供の頃は虚弱体質であり、吃音であった。平岡は、「ドモリの苦難」から逃避するために中学校への進学を諦めるが、その後の苦学生活を思うと「最大の不覚((4))」であったという。しかし、向学心は強く、中学校の講義録や早稲田大学出版部の政治経済学講義録などを勉強するなかで、政治家を志望するようになった。 平岡にとって、 読書が 「青春時代の唯一の楽しみでありとりえでもあった((5))」。
〇1916(大正5)年に2人の姉妹が相次いで肺結核で死亡した。 その後に母親、そして1929(昭和4) 年には平岡本人も肺結核に倒れた。当時、 平岡は立身出世を夢みて1925(大正14)年に上京し、仕事と勉学に励んでいたが、断腸の思いで東京を離れ郷里で7年間の療養生活を送ることになった。家族のうち6人までもが結核に罹り、それが20年間にもわたるという、平岡家の生活はまさに「結核との闘争史((6))」であった。平岡は、健康な一家が結核に襲われることになった原因について、次のように述べている((7))。

〇その頃 〔1916 (大正5)年に2人の姉妹が肺結核で死亡した。〕の徳島県の農家は長い間繁栄してきた阿波藍がドイツの化学染料に押されて殆ど自滅の悲境に陥り、これに変わったのが養蚕で藍畑は桑園に変わり、やがて県下各地に大小の製糸工場が新設されて、俄然女工の需要が旺盛になり、当時現金収入に窮していた一般農家の娘たちが自然にこの収入の多い女工見習に雇われる様になった。
〇私の近くにも親しい農家の娘さんが二人この工場の女工生活で相当の収入をあげていたのがあって (中略)、 私の姉妹も自力で結婚費を稼ぎたいとの希望からこの娘さんたちの工場に行くことになりそれが、 健康な一家に結核を移入する原因となったのであった。

〇青少年期の吃音とそれ以降の結核との闘争史は、平岡のパーソナリティーや思想形成に多大な影響を及ぼすことになった。

2 政治的野心に燃える
〇平岡は、女工であった2人の姉妹を結核で失い、また後年、細井和喜蔵の『女工哀史』 (1925 (大正14)年) などを読むにつれ、「堪らない義憤を感じ」「政治に堪え難い不満を感ずる((8))」ようになった。それが政治家志望を強くし、 そのためには先ず役人になることであった。 平岡は、「役人で生活しながら勉強し行政に通じて政治家になる実力をつくることだ((9))」と決意し、1920(大正9)年のシベリア出征から徳島に戻ってからは木炭焼きの仕事などをしながら一心不乱に勉学に励んだ。その甲斐あって1922(大正11)年に普通文官試験 (普文) に合格し、 翌1923(大正12)年9 月には知人の紹介で徳島県内務部地方課に臨時雇として勤めることになった。 後に、常雇から判任官になる機会に恵まれ、板野郡役所の書記に任命されて「念願の役人生活の足場((10))」ができることになった。「政治的野心を「持つ」その頃の平岡は、「専検 (専門学校入学者試験検定) に一日も早く合格し高文 [高等文官試験〕の準備のため上京して、私大の夜学に学びたい一念にかられていた時だけに、この有利なポストに定着しようなどと言う考えなどは毛頭なかったから腰の落ちつかぬこと甚だしかった((11))」。その後、県職員を辞して上京する。

3 血のにじむ苦学
〇1925(大正14)年に上京した平岡は、東京地方裁判所の臨時雇をはじめ、浴風会や内務省、 東京府などに雇員や「事業手」として情実採用され、1929 (昭和4)年には東京府の属官に任命された。昼の勤務の後、平岡は専検に合格するために寸暇を惜しんで夜学で勉強し、同年6月に文部省の合格証書を得た。この専検を取るために費やした5カ年は、平岡にとってはまさに「血のにじむ苦学の頃((12))」であった。その後早速、早稲田大学政治経済科の夜間の聴講生から試験を受けて正科の2年に編入し、長年の念願であった大学での勉強がようやく軌道に乗ることになった。しかしそれも束の間、その夏8月に「宿敵」 結核に倒れ、郷里での療養生活を余儀なくされることになった。 平岡は、「五年前青雲の志を抱いて上京した希望に溢れた青年が、数年後にこうした惨めな都落ちをしようとは誰が予期した事であろうか((13))」と悲嘆し、次のようにも述べている((14))。

〇殊に地方課の仕事も東京府ともなれば、徳島県などの比ではなく、(中略)真面目に本職一筋に勤めてもまだ努力不足であるのに、夜学に力を割くのであるから仕事に対する研究不足は否み難いものがあった。仕事一筋で行けるのであれば、この難関こそ貴重な研究の場であり実力を磨く絶好の機会であったが、何分にも夜学の勉強に追い立てられ、腹背に強敵を受けた苦しい戦いは遂に大切な健康に破綻を来す日が訪れたが思えばこの運命は私としては宿命的なものであった。

4 療養生活による一大変革
〇徳島に戻った平岡は、失意のなかで療養に努めた。 1934 (昭和9)年には思い立って3回目の四国遍路の旅をし、それが健康への不安を一掃して新しい生活への自信を取り戻すことになった。平岡にとって、徳島での長い療養生活は「一大変革」「人生修養」「人間的な生長」をもたらした。若い日の政治家志望は「はかない夢」と消え去り、「偉い人より正しい人」という 「地道の生き方((15))」がその後の生活目標となり、生活設計が新しく立て直されることになった。 その点について、平岡は次のように述べている((16))。

〇私の七年に亘った療養生活は何と言っても私の人生にとっては一大変革でありまたこれが為に私は少なからぬ人生修養と、ささやかながら人間的な生長を体得したことは否定出来ない。もし私がこの長い苦難がなくて、世の中の幸運児のように易々として人生の初心が貫かれ 出世主義が渾沌に成功していたら苦難の多い下積み生活にあえぐ人々の生活などは知る由もなかったであろう。

〇その後、健康を回復した平岡は、再起を期して就職活動を続け、1936(昭和11)年4月、知人の紹介により東京府社会課に書記として採用されることになった。不況による就職難の時代にあって、しかも「四十歳に手のとどいた中年者」「社会から一番恐れ嫌われている結核の回復者((17))」であった平岡にとっては、幸運であった。

5 社会事業主事・主事補として
〇東京府に再就職した平岡は、1937(昭和12)年、社会課から新設の軍事援護課に移り、 属官に復帰した。そこでは、社会事業主事補((18))として、軍人遺家族の援護事業の仕事に無我夢中になり、「新調の革靴を三か月で踏み破る((19))」ほどであった。平岡にとっては、「以前の様な高文の夢もなく真に仕事一筋に打ち込めた愉快な時代であった((20))」。また、「苦難の多い下積み生活にあえぐ人々の生活」を知ることになった。その後、平岡は、徳島県の社会事業主事に欠員があることを聞き及び、知人の尽力により、1941(昭和16)年4月、 「古巣の徳島県庁へ十八年目に帰任((21))」することになる。
〇徳島県に帰参した平岡は、社会課で社会事業主事として要保護家庭の救済や方面委員の設置・指導に当たった。方面委員を未設置の町村長を訪問・説得して設置を完了させ、 徳島県方面委員連盟の結成にも尽力し、連盟初代の主事を兼務した。この点について、 『支えあう明日へ―徳島県社会福祉協議会40年のあゆみ―』 (徳島県社会福祉協議会発行) は、「東京府庁から、徳島県の社会事業主事として着任した平岡国市氏は、その設置組織化に幾多の困難を克服、努力され、1942年(昭和17年)4月には全県下の市町村に方面委員の設置をみて地域福祉活動を実現することができた((22))」と記している。
〇いよいよ戦局が苛烈になった頃、平岡の「指導や言動が戦時態勢に即応せず、反国家的で所謂『赤』と言う意味に誤解せられ県刑事課から呼ばれて取り調べを受けたり、特高課長から直接注意を受ける((23))」こともあった。
〇平岡は、民生事業と児童関係の仕事を担当するなかで、3人の社会事業家に出会った。少年教護事業の富士居力次郎、婦人更生事業の大西静枝、同和事業の前田治である。富士居と大西については、平岡は、その後資料④を自費出版するほどに強く師事していた。とりわけ教護施設徳島学院長であった富士居とは、 仕事上、接触する機会が多く、大きな感化を受けた。また、子供会の普及を図ることを富士居と約束したり、富士居から後任の院長に推薦されるほどであった。子供会普及の約束は子供民生委員となって実を結ぶことになる。
〇1945(昭和20)年7月、徳島市街も空襲を受けて市内の約8割が焦土と化した。翌8月、わが国は敗戦を迎えた。平岡は、敗戦直後の混乱期、過労のために肺炎を患うほどに戦後処理の仕事に取り組んだ。翌1946(昭和21)年3月、県職員の人員整理による退職勧告を受け、平岡によると「終戦後反骨気質の私の役人勤めもとかく不遇のうちに最後は勝名地方事務所の援護課長と言う処で終わ((24))」ることになった。

6 子供民生委員の執念
〇徳島県を辞した平岡は、 1946 (昭和21)年9月に改組された徳島県民生委員連盟で常務理事として民生委員の指導や活動支援に当たった。それに引き続き、1951(昭和26)年10月に設立された徳島県社会福祉協議会(民生事業部)で地域の組織化や関係団体の結集に力を注いだ。

〇「私の子供民生委員の執念は敗戦直後の混乱期に始まった((25))」と平岡はいう。敗戦によって全ての国民が飢餓と虚脱の状態に陥り 戦争の最大の犠牲者として孤児や浮浪児などがまちにあふれるという悲惨な状況をみるなかで、平岡は次のような信念のもとに子供民生委員を草案した((26))。1946(昭和21)年12月のことである。

〇「何れの国家、何れの民族も人間の幸福と言うものは平和であってこそ得らるるものである。」
〇従って日本民族の永遠且つ最大の幸福は、この平和を確保する事であり、平和を確保すると言うことはまず平和を愛する国民をつくることである。総ての子供たちが平和を愛する活動を不断に自然に身につけて生長することであると思った。
〇この意味に於て平和を愛する教育やしつけこそ子供生活の基盤とならねばならぬものであり、こうしたことから子供の生活指導を、
〇「すべてのお友だちを幸福に」
と言う処に置いて、子供たちの社会に子供民生委員をつくり、子供民生活動の組織網を打ち立てたのであった。

〇要するに、戦争のある限り人類の平和も子どもたちの幸福も守ることはできない。子どもと平和を結びつけた運動こそが最も大切な仕事である。これが子供民生委員を考えた根本である、というのである。
〇子供民生委員を計画した際、平岡は、平和を愛する子供会の創設について徳島県の学務課や教育会などを訪ね協力を要請したが、 一蹴された。そこで、「たとえ平和を育てる大切な子供会でも畑ちがいから呼びかけたのでは到底協力は得られない。最初の種子蒔 〔き〕 は自分の畑でして小苗を育てた上で協力を呼びかけるのでなくてはものにならない」と考え、「私の仕事畑の民生委員連盟で発足さすことにした((27))」のである。なお、当時はアメリカの占領下にあり、当初は軍政部の関係者の理解を得ることは至難であったが、説得を重ねた結果、子供民生委員の発展に力となった。
〇こうして、平岡は、戦後の混乱期に人類の平和と幸福 (福祉)の根幹を培う教育・運動としての子供民生委員活動を創始し、その推進に努めた。その後、子供民生委員活動は小・中学校教育の一環として県下に普及することになり、その功績で1954 (昭和29)年11月、県教育委員会から社会教育功労者として表彰された。 平岡にとっては「恵まれぬ私の人生にも此処だけは一つの光彩を添えることが出来たのであった((28))」。その後も平岡は、子供民生委員活動の推進にいのちを燃やし続けたが、 1957 (昭和32)年3月に徳島県社会福祉協議会で定年を迎え、その活動に終止符を打つことになった((29))。
〇退職後、平岡は、1958(昭和33)年6月に前述の資料④を自費出版した。「年来の主張である子供民生事業ののびゆく一つの足場ともなれば、この書物で、せめても先生へのご恩返しの万分の一((30))」と思ってのことであった。その後、平岡は、徳島市内の自宅で静かに暮らし、信仰と読書と執筆が終生変わらぬ主な日課であったという。
〇平岡国市は、1984 (昭和59)年1月に資料⑦を著し、それを残して翌1985(昭和60)年12月26日に死去した。享年88であった。資料⑦奥付には穏やかな顔をした平岡の写真が掲載されている。

〇以上が平岡国市の生涯である。 平岡を知る人は、その人柄について 「正義と真理を愛する生一本な男」「権力に抵抗する気骨を感じさせる不思議な男((31))」などと述懐している。 常に向学心に燃え、社会に対して批判的かつ建設的で、率直に意見表明し、妥協を許さない性格は、文献上(資料⑦) からもうかがい知ることができる。それゆえにか平岡の生涯は波乱万丈であり、劇的でさえあった。
〇平岡が子供民生委員制度を創設しその推進に情熱を傾けたのは、敗戦直後の「子供」の悲惨な生活実態と「平和」に対する絶対的な希求、それに国民大衆の生活に根づいた「社会事業」の発展についての信念や誠意であったといってよい。しかもそれは、ひとつは、戦時体制と戦後混乱という時代状況のもとで、 戦前に社会事業主事・主事補として軍事援護事業や方面委員事業に携わり、戦後は徳島県の民生委員連盟や社会福祉協議会において地域の組織化活動に取り組んだことなどによる平岡自身の歴史・社会認識に基づくものであった。 いまひとつは、 平岡が「人間の太陽((32))」と評した偉大な社会事業家であり教育者であった富士居力次郎と大西静枝、それに「小学校に於ける同和教育の大家((33))」と評した前田治の3人の指導と感化によるものであった、といってよかろう。さらには、平岡の思想形成に少なからぬ影響を与えたものに四国遍路の徳島の風土、なかでも隣人愛や助け合いの精神文化があったといってよい。 平岡自身、3回の遍路の旅を行う信仰の人であり、 そのきっかけのひとつに「結核との闘争」があった。それは平岡の思想形成に甚大な精神的影響を及ぼした。
〇これらが渾然一体となって、子どもの平和教育 運動や「社会事業的教育((34))」・社会事業実践の一翼として創案され、子どもの生活や社会すなわち学校生活や地域生活に根づかせようとしたのが子供民生委員制度であったのである。

Ⅱ 子供民生委員制度の概要と子供民生活動

〇子供民生活動 (運動)を構造的に明らかにし、その分析的評価を行うためには、先ず子供民生委員制度そのものについて理解しておく必要があろう。 資料①②③に基づいて要約的に整理する。

1 子供民生活動の目標と精神
〇子供民生活動の目標は「すべてのお友達を幸福にし困った人のない社会をつくる」ことにあった。 それは「すべてのお友達を幸福にしましょう」という言葉で表現され、その言葉は子供民生委員の「民生」を意味した。この点から、「子供の民生事業というものは大人の今やっている援護を中心と考えた民生事業よりもさらに広範囲に亘るものであって、 今の民生委員を小さくしたものが子供民生委員ではない((35))」ことが分かる。そのことは、次の「子供民生委員の五つの精神」によってより明瞭になる。

一、お友達は皆仲よく致しましょう。
一、困った人は助けましょう。
一、先生の教えは必ず守りましょう。
一、丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
一、世の中のためになる人になりましょう。

〇この「すべてのお友達を幸福にする」ための実践方法である5項目について、平岡は、資料②で子どもに分かりやすく説いている。要約すると次のようになる((36))。

(1) お友達は皆仲よく致しましょう。
〇人間は友達と一緒に社会をつくって皆で暮すことによって、はじめて幸福な暮しができる。人の親切ほど共同生活を明るくなごやかにするものはない。親切にすることが仲よしのもとである。子供の時から仲よしの習慣を身につけていくことは、やがては世界から戦争をなくし、人類の平和を築きあげるもとである。
(2) 困った人は助けましょう。
〇困っている人をなくすことは国が行うべき仕事であるが、国の手が届かないところは、民間の人の親切で救っていかねばならない。困った人のいる社会は、本当に平和な民生の社会ではない。困った人を助けるやさしい気持がなくては、どうしてもこの人間の社会か ら戦争をなくすことはできない。
(3) 先生の教えは必ず守りましょう。
〇子供たちが成人して賢くなることは、何といっても教育すなわち 先生のおかげである。 この教育のもとは先生に対する子供たちの尊敬と信頼である。先生とは学校の先生ばかりでなく、自分よりさきにすぐれたことを知っている人たちのことであるが、その人たちを 尊敬して自分たちのよい修養の上に取りあげていくことは大切なことである。
(4) 丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
〇人間の幸福は何といってもまず健康であり、健康で毎日を気持よく働けるということである。世の中の不幸な出来事は大方は病気と失業から起っている。子供のころから健康と勤労に気をつけて、働くことを尊ぶよい習慣をつけることは、その人を幸せにするばかりでなく、明るい社会をうちたてるもとである。
(5) 世の中のためになる人になりましょう。
〇世の中が明るくなるのも、暗くなるのもそこに住む人々の一人一人の生活の仕方によって決まる。よい子の活動は、社会に迷惑をかけないことから、だんだんと進んで社会のために役立つ奉仕のよい習慣を身につけることでなくてはならない。そこにはじめてよい大人、よい市民、よい社会が生れてくるのである。

〇平岡によると、以上の「五つの精神」をキーワードで示せば (1)「平和」、(2)「助け合〔い〕」、(3)「尊敬」、 (4)「健康、 勤勉」(5) 「奉仕」となる。さらにそれは、「親切」と「修養」の2つに集約されるが、これらは「千古不滅の真理」「子供の円満な人格形成の根本」であり、子どもの基本的・普遍的な「生活規範」であるという((37))。世界の平和と人類の幸福(福祉)を創造するために、こうした価値・規範を育成・獲得することをめざしたのが子供民生活動であった。 その点において、子供民生活動は平和教育の一翼であるとともに、価値教育(学習) のそれとしての意味をもつものであったといってよい。しかも、子どもの地域や学校における日常の生活問題や葛藤と切り結び、その具体的な解決活動の展開を通して価値・規範の内面化を図ろうとしたところに大きな特色があったといえよう。それゆえに、子供民生活動では地域に根ざした自主的主体的な実践活動や体験学習が重視されたのである。さらに、こうした子供民生委員の「修養」と 「体験」を通してこそはじめて「よい大人の民生 (児童) 委員をつくる」ことになり、「子供民生事業の育成こそ大人の民生事業の基盤であり」、「全社会福祉に通ずる重大な問題((38))」であると認識されていた。注目すべきところである。
〇なお、子供民生活動の目標と精神が簡潔明瞭に示され、「むつかしい理屈や理論が少しもない」のは、「子供なら誰でもいつでも、そして何処でも即座実行が出来るもので、 たとえ幼児でもすぐわかるようないわば平凡そのものであり常識そのものでなくてはならぬ((39))」 という平岡の念願によるものであった。

2 子供民生委員の組織
〇子供民生委員の組織について、平岡は資料③で次のように述べている。子供民生活動を理解するうえで重要であり、少し長いが引用する((40))。

〇子供民生活動というのは部落や町内の皆の子供で作った子供民生会(或は子供民生会 〔民生子供会〕) と、そこから選出された男女の代表各一人の子供民生委員が結成した学校子供民生委員会との二つの活動を総称したものであります。
〇いわば民生子供会は学校子供民生委員会の下部組織で委員の選出母体であります。この子供民生委員会は郡市で連絡会を持ち県でまた連絡会をもつ組織になっています。
〇そしてこの部落や町内の民生子供会はその地元の児童委員や青年、 婦人会の有志の人々がその第一線指導に当り学校子供民生委員会の指導には校長の下に担任の先生が置かれてこれに当るようになっています。とくにこの子供民生活動の指導のためには、郡市の小、中学校長会に一人の指導校長を委嘱してその管内の総合的指導に当るような組織になって、この校長が随時集合して指導に対する各種の打合せ研究をすることになっています。また学校の子供民生委員担任の先生のために県単位で研修会が行われ、市町村では部落指導者の研修が学校で行われています外郡市の子供民生委員の研究協議会も行われています。
〇何といっても子供民生委員会の在り方は飽くまでも子供たちの会である事で、県の総合した指導を社協がしている事は臨時的なもので、子供民生委員が郡市に発展してきた際は連盟或は連合会が結成され、ここで自主的な指導が打ち立てられ、 社協は参加団体としての在り方でなくてはならないので、この本質を忘れると子供会としての真の発展はあり得ないのであります。

〇以上に多少補足すると次のようになる。子供民生活動の基盤となる第一線の組織は、部落や町内の小地域ごとに設けられた「子供民生会」(「民生子供会」) であった。小地域の子どもたちによって組織された子供民生会から、その代表として、 小・中学生別にそれぞれ男女各1名の「子供民生委員」が選挙によって選ばれた。 通常は小・中学生ともに最高学年の子どもが子供民生委員に選出された。子供民生委員は各小・中学校で「学校子供民生委員会」を結成した。 そこでは活動の方針や具体策などが協議・決定され、それが子供民生委員によって小地域ごとの子供民生会に持ち帰られ、各地域で実践に移されていった。子供民生活動は、こうした子供民生会と学校子供民生委員会での活動を総称したものであり、子どもの地域社会や地域生活に基づいた実践であった。また、子供民生委員は、子供民生会から選挙によって選出されるという代表者制を採っていた点において、民主主義的な組織であった。
〇地域によっては、いくつかの学校子供民生委員会が集まって「学校子供民生委員連合会」が組織された。そこでは、子供民生活動の連絡・調整や協力・支援が行われた。こうして、子供民生活動は、「子供民生会」→「学校子供民生委員会」→「学校子供民生委員連合会」という段階的に積み上げられた組織のもとに展開されていたのである。さらには、郡市レベルで 「子供民生委員連盟」や「子供民生委員連合会」が結成されたところもあっ た。
〇子供民生活動の指導・助言は、小地域の子供民生会においては地元の民生委員・児童委員や青年団、婦人会などの関係者によって行われた。学校子供民生委員会では校長の下に担当教員が指導・相談にあたった。「部落担任の先生は学校教育と地域の子供生活とのかけ橋的存在となって校外における子供社会の直接指導は主として部落の指導者で進められる((41))」ことが期待された。郡市レベルでは小・中学校長会から委嘱された指導校長がその管内の総合的指導と連絡・調整に当たった。こうして子どもの自主的・主体的な地域活動としての子供民生活動は、学校経営の観点から、学校教育活動の一環として取り組まれていた。民生委員・児童委員や教師などの指導者・支援者に対しては、子供民生活動に関するそれぞれの組織に基づいた段階的な研修や研究協議が重ねられた。とりわけ小地域の子供民生会における大人の指導者が重視され、「この部落のよき指導者こそ民生会の至宝でありこの指導者を育てることこそ子供民生活動発展の根本」であると考えられた。
〇なお、徳島県社会福祉協議会は、県の関係部局や教育委員会などと連携・ 協力して、子供民生活動を推進するための組織運営や連絡・調整、指導者への指導・援助などを行った。
〇以上から分かるように、子どもの生活と社会に根ざした子供民生活動は、「子どもと大人」「地域と学校」「福祉と教育」を限りなく接近させ、その組織的なつながりのなかで活動の究極の目標である「民生村造り((43))」すなわち福祉コミュニティづくりを進めたのである。子供民生活動の大きな特色のひとつであった。

Ⅲ 子供民生活動の実際と評価

〇1956(昭和31)年当時、 徳島県下のほとんどの小、中学校で子供民生活動が展開され、 子供民生委員の数はおよそ1万人を数えた((44))。では、地域の子供民生会や学校の子供民生委員会において、どのような活動の展開が期待され、実際に行われたか。また、それを支援するためにどのような事業・活動が実施されたか。 さらには、子供民生活動の教育的効果(成果) はいかなるものであったか。その点について資料を紹介し、分析・検討する。

1 子供民生活動の実際
〇資料①は「五つの精神」別の「子供民生委員活動の実際」例と「子供民生活動の月割計画」を例示している。 資料②は、資料①と同じく、「五つの精神」別の「子供民生委員の活動のいろいろ」と「子供民生活動の月割けいかく」を子どもに分かりやすく説いている。資料③では 「五つの精神とくに、自主とか協力、 勤労とか奉仕を頭に置いての 〔毎月の〕 予定表」と、子供民生活動は 「教養的な面の活動」と「親切な奉仕的な面の活動」に分けられるとして、その活動例を掲載している。
〇いうまでもなく、子供民生活動の展開は「子供民生委員の五つの精神」を実行することであった。上記の「月割計画」は季節的・年間行事的な活動の例示にとどまっている。そこで、日常的・具体的な子供民生活動の実際を知るために、やや詳細にわたるが資料①のそれを紹介することにする((45))。

(1)お友達は皆仲よく致しましょう。
〇低学年のお友達を可愛がって上げること。特に新入生のお世話。登校下校時の誘い合い。 お友達を仲間はずれにしたり、いじ悪をしないこと。公園や遊び場では遊具を独り占めにしないこと。私の所有する遊具も、つとめて貸してあげること。借りたものは大切にしていつも感謝して使い感謝してお返しすること。 女の子はいつも針や糸、櫛などを用意してほころび縫いや小さいお友達の頭髪のお世話をしてあげること。男の子は友愛ポストの収入などで理髪具を買い共同理髪をすること。病気の先生やお友達は度々皆で見舞ってあげること。死亡した先生やお友達のお墓参りをすること。村や町の伝染病院でお友達で絵を贈ってかべに張〔貼〕ってお慰めをする。選挙の後では候補者のビラを早くはぎとって対立感情をやわらげること。夏休みに部落対抗の野球や運動競技をして互に親しみ合う。他の部落や村のお友達が来てもいたずらをせず進んで親切にしてあげること。子供の喧嘩をなくする申合せをして努力する。修学旅行に行かれなかったお友達の為めに旅行先きからお土産を持ち帰ってあげる。皆で修学旅行する為に共同作業をする。
(2)困った人は助けましょう。
〇友愛ポストを活用すること。友愛ゾーリ 〔草履 〕。雨傘の購入や雨傘の保管をする。 正月のお餅集め。引揚者をお迎えして慰問品をお贈りする。風水害火災地へお見舞品を集めて贈る。小さな子供たちに雨ふりに下駄の鼻緒をすげてあげる。家が貧しい為学校に来られぬお家を訪問してお手伝をしたり生活扶助をするよう大人の民生委員に連絡依頼する。 皆で修学旅行の出来るように映画会や学芸会やバザーなどを開催する。お気〔の〕 毒より薯一つ。 桑皮はぎのお金やシジミ取りのお金を困ったお友達に贈った。吉野川の空地で甘 藷を作って食料に困っている戦災地のお友達に差し上げた。同情週間に一品奉仕運動をして困っているお家へ贈った。村芝居に小さな売店を出して利益を困っているお友達に贈った。キリスト教の日曜学校から日曜献金を受けたので雨カサのないお友達にカサを差し上 げた。共同募金に協力。子供民生委員の店の経営。
(3)先生の教えは必ず守りましょう。
〇中学生の禁火〔禁煙〕運動に成功。買食いの悪い習慣をなくして貯金と友愛ポストの運動に効果をあげた。休日(地方のお祭りお盆)の前日に子供民生委員会を開いてお小遣いの節約を申合す。夏は特に水泳に注意をする。学校でもお家でも食事時の挨拶をして食器は自分で洗う習慣をつける。学校と家庭の連絡の役目をつとめる。お友達の声を先生に伝える。部落別に子供民生会を開いて夏休みの注 意を申合す (①宿題は早目にかたずける、②  お家の手伝〔い〕はよろこんでする、③水泳はきめられた通りにする、④かけ事をせぬ、 ⑤作物を荒さぬようにする、⑥夜ふかしをせぬ)。社会調査をして困った人の発見に努める。 一日一善を忘れぬこと。先生やお友達に綽名をつけぬ。汽車やバス等の乗物の中では席をゆずる。
(4)丈夫で勉強しましょう。働きましょう。
〇夏休みの早起会や共同学習、自習会をする。ハエ退治蚊やネズミ 退治に協力する。子供の掲示板、回覧板の設置。土曜日の反省会をする。ゾーリ作りナワ〔縄〕ない、木炭や製材所の手伝いなどをして書物を買ったり勤労習慣をつける。勉強のサイレン。炭俵をあん で友愛ポストや貯金をする。害虫駆除に協力する。暴飲暴食はせぬようよい習慣をつける。 冷水摩擦を夏休みから始める。
(5)世の中のためになる人になりましょう。
〇農繁期に託児所のお世話をする。農繁期のお手伝い留守番お使い子守をしてあげる。山路の草かり道しるべを建てる。共同耕作をして出来たお野菜を貧しいお家に差し上げる。 子供銀行、購買部、給食の世話役をする。運動会の時チリ〔塵〕集めをして会場美化をはかったり自転車無料預り場をする。遠足の時や旅行先きで昼食時の後始末をきちんとする。 お母さんの会に臨時保育所の開設。火の用心をして方々で感謝されている。子供図書館を充実して勉強を助ける。落書消しをして町や村の美化をする。道路や校庭に安全箱を作ってガラスのかげ 〔け〕らを入れる。町の共同便所、学校便所の清掃を率先して実行する。 社会奉仕日、民生週間の設定。大人の週間行事に協力する。選挙を正しくする運動や棄権防止に協力する。落穂拾いで毎年多量の麦や米を集めて困っている家庭の年越しの贈物にする。 毎年敬老会をする。 鉄道の事故防止や道路の交通禍からお友達を守る活動をする。 他人のいやがる仕事は進んでするようにする。神社や公会堂など人の集〔ま〕る処は常にきれいにする。

〇以上を大胆に要約すれば、子供民生活動は、「すべてのお友達を幸福にする」(民生)ために、①基本的な生活習慣・しつけの習得と主体的・自律的行動の展開、②日常生活に根ざした道徳的心情の陶冶と道徳的実践の展開、③歴史的・社会的な日常生活の経験や地域社会の現実生活のなかでの課題の発見と解決、④学校や地域における自治能力の育成と自治的活動の展開、などが期待され、また実践されていたといえようか。
〇こうした子供民生活動の推進を図るためには、①活動の目標と「五つの精神」に対する信念を確立する、②地域に適切な指導者をつくる、③大人の民生委員についての理解と関係を促進する、④子どもの自主性と協同性、社会性を育成する、⑤子どもの遊び (生活) のなかに活動を生かす、⑥活動のための経費を会費や寄付などで賄う、⑦活動に計画性や一貫性をもたせる、⑧活動を堅実に展開する、⑨後進の子供民生委員を育成する、⑩小・ 中学校の活動を緊密にする、⑪活動を学校経営の一環として採りあげる、⑫活動に興味をもたす工夫をする、ことなどが求められた。資料③ではこの点を「子供民生委員指導一二ヵ条」として整理し、説述している((46))。これらは、地域を基盤にその展開が求められている今日の福祉教育にも該当し、その実践的課題でもある。また福祉教育活動を支援する人材 (福祉教育指導者、福祉学習サポーター)のあり方や指導・支援の内容・方法にも通じる点である、といえよう。
〇子供民生活動の基盤は、小地域における子どもの日常の生活と社会であった。そのうえに、子供民生委員は平和と民生 (福祉) に関する社会的運動を展開した。「子供平和記念塔」の建設、知的障害児施設「あさひ学園」(1951(昭和26)年) や肢体不自由児施設「ひのみね学園」(1952(昭和 27)年)の設置促進、徳島市内400名の欠食児童問題の解決 (1954(昭和29)年)、国際子供親善文化展覧会の開催 (1955(昭和30)年)、徳島駅に「阿波時間」をなくすための大時計 (「子ども民生時計」)の設置(1956 (昭和31)年)、それに歳末助け合い運動や子どもの遊び場づくり運動の推進、などがそれである((47))。注目されるところである。
〇子供平和記念塔(小便小僧)は、「『世界の平和は子供から』という日本の子供たちの燃〔え〕るような平和愛好の精神を何らかの形の上に現して世界へ呼びかけては、という子供たちの声((48))」に基づくものであった。子供民生委員の手によって世界の子どもたちから「平和の小石」が集められ、県下の16万人の小・中学生から36万8,000円の献金((49))を得て、 1948(昭和23)年11月、徳島公園内に建設された。塔には「子供平和記念塔の由緒 子供はいつも平和を愛します平和国家として新しい出発をした私達日本の子供は世界の平和がいつまでも続くようにと願って平和を愛する子供達に呼びかけ世界の各地から小石を集めてこの子供平和記念塔をつくりました 昭和二十三年十一月三日 徳島県子供民生委員」 という文章が彫られている。1950(昭和25)年3月には昭和天皇が四国巡行の際、子供平和記念塔に行幸した。その時の様子は『天皇陛下奉迎記』(徳島県発行) に詳しいが、徳島市助任小学校5年生の山本多恵子が天皇に「子供平和記念塔について」説明している((50))。 参考に供しておく。

子供平和記念塔について
御説明者 助任小学校第五学年 山本多恵子
〇『世界の平和がいつまでも続きますように。』と、 私達子供民生委員が世界のお友達によびかけまして、世界各国の小石を集めて作ったものが、この塔でございます。幾十万もの小石が各国から集りましたが、中でも、皇太子さまは和歌山県御旅行中、那知〔智〕の滝から、また義宮さまは、お庭の小石の中から、それぞれ珍らしいものをお選び下さいまして御送り下さいました。あの小石で丸くかこまれた黒色の石が皇太子さまから送られたものでございます。
〇アメリカの少年赤十字団からは、六百万年の昔、セントヘレナ山が爆発した時、埋没して出来たといわれる有名な化石が送られて参りました。中程の向って左、鳩のとまっている、やや大きな石がその化石でございます。この塔の竣工は一昨年十一月三日の文化の日で総工費は三十六万八千円でございましたが、全部県下十六万のお友達からの献金でございます。その他正面の 『子供平和記念塔』の文字も、その下の邦文、英文の碑文もすべてお友達から募集したものでございます。
〇私達子供民生委員は、こうして出来上った子供平和記念塔を、平和の象徴とし、愛のシンボルと致しまして、益々、世の為、人の為につくしたいと思っております。
〇大へん、簡単でございますが、これで御説明を終らせていただきます。

〇子供平和記念塔の設置をはじめとする子供民生運動は、小地域の子供民生会から郡市レベルの子供民生委員連盟 (子供民生委員連合会)、それに1948(昭和23)年以来毎年開催された県子供民生委員大会などで協議・ 決定されて実施・展開された。その際、子どもたちが小遣いを拠金する方法として各学校に設けられた「友愛ポスト」や、各地の活動実例などを紹介した「徳島こども民生新聞」などが運動の推進に大きな役割を果した。徳島こども民生新聞は、1953 (昭和28)年5月より徳島県の費用で、県社会福祉協議会が年4回発行し、当初の発行部数は約1万5,000部を数え た。
〇いずれにしろ、子供民生運動は、①子どもたちの日常の生活や社会が抱える課題に対する歴史的・社会的認識や連帯意識に基づいた運動、②問題の発見や解決に主体的・創造的、民主的・組織的に取り組んだ運動、そして③小地域を超えた広域、さらには全県的レベルにおいて展開された運動、 などの特色をもつものであった。要するに、子供民生運動は子どもたちによる平和運動であるとともに、自立・共生・自治運動であったといえよう。

2 子供民生活動の支援
〇子供民生活動(運動)を支援するために、徳島県社会福祉協議会は各種事業・活動を実施した。 資料⑤は、「昭和三十二年度の足あと」と題して、子供民生活動に関する徳島県社会福祉協議会事務局の事業報告を掲載している((51))。子供民生活動に対する年間の支援事業・活動の一端を知ることができる。

五月
児童図書寄贈運動に協力「若草文庫」が生れる。「若草文庫」は恵まれない施設のお友達に巡回文庫として喜ばれている。
六月二十五日
第一回指導校長会
八月七日
第二回指導校長会
九月二十六日
津田中学校子供民生委員会参観
十月十五日
子供民生委員活動実態調查
十二月六日
和歌山橋本市から民生委員代表八名来徳、板野東小学校を見学。
十二月二十日
第三回指導校長会。大会の開催や今後の方針について打合わせる。
一月、二月
新旧才末〔歳末〕子供民生活動実施。才末 〔歳末〕助けあい運動に協力。お餅一五、〇〇〇個、お金一二、六一八円県下四三福祉施設並びに恵まれない子供に贈る。
一月二十四日
岡山県玉野市民生委員など十一名津田中学校子供民生委員会を見学。
一月三十日
木谷主事、長生小学校を訪問、子供民生委員と座談会を持つ。
二月七日
子供民生新聞編集委員会。
三月一日
徳島子ども民生新聞発刊。
三月六、七日
全国地域子ども会連絡会議 (東京)に鳴門市里浦小学校細川教諭、田上PTA教育部長、半田小学校三好教諭以上三名と木谷主事参加。
三月十三日
県下社会福祉大会で第七回才末〔歳末〕助け合い運動協力校日野谷小学校子供民生委員会外二十三校に感謝状贈呈。

〇子供民生委員「指導校長会」が年3回開催され、また担当主事が学校に出向いて子供民生委員会を参観したり、活動の実態調査を行っていることなどが注目される。さらには、他県の民生委員の視察研修が行われたことにも留意しておきたい。

3 子供民生活動の評価
〇子供民生活動(運動)は、世界の平和と人類の幸福 (福祉)を創造するための、子どもたちの自主的活動であった。それはまた民主教育の実践活動であり、その過程でもあった。 1947 (昭和22) 年3月に公布・施行された教育基本法はその「前文」で「世界の平和と人類の福祉 (中略)の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と謳ったが、子供民生活動はその教育理念に基づくものであったといってよい。
〇子供民生活動を通じて子どもたちはどのように変容したか。子どもたちの知識や思考、興味・関心や意欲、態度、行動などがどう変わったか。こうした子供民生活動の教育的効果 (成果) について、資料① は子供民生活 動に熱心な小学校の報告を載せている((52))。

名西郡阿川小学校 (幸田正惠校長)
一、自治活動が旺盛になり子供の社会性が昂まってきたこと。
二、五日制の土日活動が計画的になった。
三、学習や出席状況が目に見えて向上された。
四、子供らに連帯責任感が盛〔ん〕になった。
五、 通学中や家庭での悪戯や危険が著しく減少してきた。従って家庭から感謝されている。
六、社会奉仕の気持ちが強くなった。
七、学校と地方〔地域〕との連絡が迅速で確実になった。
八、要保護家庭の発見に便利になった。
九、長欠児童がなくなった。

阿波郡柿原小学校 (佐藤岩雄校長)
一、子供の喧嘩が減って泣いている子供が非常に減少したこと。
二、通学中や家庭に居る時お宮やお社にいたづ〔ず〕ら書きをしていた子供が方々の落書きを消すようになった。
三、同和教育と銘打った教育時代以上に子供たちの間で同和の効果があがるようになった。
四、学習態度がよくなり、出席率も非常に改善され全体的に学力が充実してきた。
五、困っているお友達などに対して真剣に同情して何かしてあげねばというやさしい気持が昂まってきた。
六、先生や父兄などのいうことを真面目に素直に実行するようになった。

那賀郡橘小学校 (太田健次郎校長)
一、道路で野球をしなくなった。
二、自動車の後にすがる子供がなくなった。
三、作物を荒す子供がなくなった。
四、買い食いする子〔供〕がなくなった。
五、夜遊びする子供がなくなった。
六、勝負事をしなくなった。
七、映画や芝居に行く子供が非常に減った。
八、部落毎に善行をきそうようになった。

〇要するに、子供民生活動を通して子どもたちの生活や学習に関する意識 や態度が変容し、連帯意識や責任感の育成・高揚が図られ、自立的・自治的な生活態度・行動がとれるようになった、というのである。そして、資料①は、子供民生活動が「子供たちの新しい教育に投げかけた効果は県内各地の教育者によって立証されている((53))」とした。 しかし、 それはやや狭隘な評価であったといわざるを得ない。以上の諸点は、活動の効果 (成果) に関する評価であり、しかも教師による子どもの評価であった。
〇子供民生活動についての評価実践は、子供民生活動を積み重ね、点検・ 修正や発展・向上を図るための有効な手段となり、活動の自主化や構造化を促進するためにも不可避であった。しかし、資料①②③ には、子供民生活動のための条件整備や活動の内容や方法・形態などに関する評価の記述はない。また、子どもたち自身が自らの活動の修正や改善、あるいは方向づけを行うための自己評価や相互評価、教師や大人の民生委員などの指導者や支援者がその指導・支援活動をより効果的なものにするための評価、などについての記述も見当たらない。その点において、子供民生活動の評価実践は子供民生会や学校子供民生委員会、あるいは県子供民生委員大会などで行われていたであろうが、そこでの評価活動は必ずしも多面的・多角的・総合的なものであったとはいえないであろう。そこから、教育活動としての子供民生活動は、一面において体験活動至上主義に陥りがちで、いわゆる「はいまわる経験主義」のそしりをまぬがれないものでもあったといえようか。

Ⅳ 子供民生活動の消長と福祉・教育実践

〇平岡は、「県下各小・中学校に普及し中央及び全国的に認められつつあった子供民生委員も私が退職して福祉大学出の後任者が就任したが数年にして元も子もなく、亡くしてしまった((54))」という。子供民生委員が亡くなったことについては、後任者のあり様にも影響を及ぼしたであろう時代状況に注目すべきである。戦後混乱期の歴史的・社会的状況のもとで生み出された子供民生活動は、その歴史的。社会的状況の展開を基盤として、消長の過程を辿ったのである。こうした視点から整理し考察する。

1 子供民生活動の消長
〇子供民生活動がそのトップを切って産声をあげたのは、1946 (昭和21)年7月、三好郡西祖谷山村の西岡小学校においてであった。平岡は「『子供民生委員』の誕生」 は 1946 (昭和21)年12月であるとするが((55))、その5カ月前のことであった。西祖谷山村では、西岡小学校教頭・大西延明の指導によって1953(昭和28)年8月に「西岡青年民生委員会」が結成され、子どもと大人の中間にあって青年らしい活動が展開された。翌1954(昭和29)年には村内の全小・中学校(小学校6校、中学校1校)に子供民生委員が揃い、村ぐるみの子供民生活動が展開された。 この点について『西祖谷山村史』(徳島県三好郡西祖谷山村発行)は次のように記している((56))。

西岡小学校
(4)その他
⑱昭和二十八年六月、西岡小学校教頭大西延明の補〔指〕導によって西岡青年民生委員会が組織せられ、次いで同年八月、児童生徒もこれにならって西岡こども民生委員会を組織した。
⑳昭和三十二年三月、大西延明主催のもとに「子供民生の華」という冊子を刊行してこれを村内各校に配布した。
(6)教育状況
②社会教育
イ、民生委員会
1、子供民生委員会
徳島県子供民生委員会のトップを切り、昭和二十一年に初〔産〕声を挙〔上〕げて生まれてから十周年に及び、その間多数の好事績を残し、度々表彰状、感謝状を授与されている。
2、青年民生委員会
昭和二十八年八月に結成されて子供民生委員会の指導または活動に協力する傍ら、地域社会の主体となっている。
初代会長 古泉清富、 二代笹本博章、 三代平山宜雄

〇また、平岡は、資料③の「はしがき」で、1956、57(昭和31、32)年当時の子供民生委員の実態について次のように述べている((57))。子供民生委員の動向を知ることができる。

〇子供民生委員も一進一退というよりも、アメリカ兵が全部引きあげてからは、その応援もなくなったせいか一時子供民生委員の活動も引き潮になり、県外に方々出来ていた子供民生委員の影も、その数を減じて行くしまつで、私も手の打ちようがなく、県内でも学校数が相当減少するのが見られました。所謂、子供民生委員もけん怠期に入ったというわけでした。(中略)
〇それがたまたま今日の状態に向ったのは、子供民生委員を学校経営の一環としての行き方に力を入れ各郡市の小中学校長会の中に指導校長を委嘱して、この先生の手で学校教育に民生活動を採り入れるあっせん役を願ったことと、民生委員を地域の指導者にお願いしたようなことが落ち目の子供民生活動に方向転換を与えた動機となることが出来たのでした。
〇こうして県下の小中学校をほとんど傘下に納めその数も一万になることが出来たのであります。

〇子供民生活動は、1952 (昭和27)年4月の対日平和条約の発効によって日本の独立が回復し、占領軍(軍政部厚生課)の協力・支援がなくなると「引き潮」になり、「けん怠期」に入った。そこで、子供民生活動の組織的展開や支援体制の整備などを図った。 その結果、 1956、57(昭和31、32)年頃には全県的な活動展開をみることになった、と平岡はいうのである。その後、1960(昭和35)年前後以降、高度経済成長政策が推進されるなかで子どもを取り巻く生活環境や福祉・教育状況が激変し、子供民生活動は衰退の過程をたどることになった。そして、1960年代後半(昭和40年代)になると子供民生活動は次々とその姿を消していった。西岡小学校では、1968(昭和43)年度の『学校要覧』から「子ども民生委員」に関する記載がなくなっている。

2 子供民生活動消長の背景と要因
〇子供民生活動の消長の背景には、 1955(昭和30)年から1973 (昭和48)年にかけての経済の高度成長による急激な社会経済変動があった。高度経済成長は、子どもの生活と社会を大きく変質させ、その諸側面において多種多様な歪みを生み出した。例えば、1960年代を迎えると、子どもの生活や発達に関して 「三無主義」(無気力、無関心、無責任) や 「不器用」「不均衡」などが指摘されるようになった。高度経済成長はまた、農村的な性格を維持してきた地域社会を都市的社会へと変貌させ、住民の地域帰属意識の希薄化や連帯感の喪失などをもたらした。こうしたことが徳島においてどれほどであったかは定かではないが、子どもの生活や発達の歪みが子ども自身の子供民生活動への関心や参加を少なくすることになり、地域共同体の崩壊が地域住民の子供民生活動への協力や支援を弱くしたであろうことは推察に難くない。
〇こうした動きを政府の報告でみると、例えば文部省が、1962(昭和37)年11月、第1回の教育白書『日本の成長と教育』を刊行した。それは、タイトルからも分かるように経済成長政策との関わりで教育のあり方をとらえようとしたものであり、経済の発展に貢献する「能力主義」の考え方が登場した。白書は、「将来の経済発展のためには、現在の諸資源を開発するための投資が必要であって、その資源のひとつとしての人的能力を開発するために、教育もまた一つの重要な投資部門を形成するとみることができる。」「生産の増加において『人的能力』 の効果が大きく評価されるならば、人間の能力の高度化が積極的に意図されるべきことは当然である。このための主役を果たすものこそ教育にほかならない((58))。」と述べた。 以後、わが国では、産学協同と能力主義の原理を中心にすえた経済界主導の教育政策が展開されることになり、その過程で学校教育現場からは多くの矛盾が吹き出すことになった。
〇また、1963 (昭和38)年5月には、厚生省が児童福祉法施行15周年記念として『児童福祉白書」を刊行した。そこでは、経済成長の目標とするところは、もちろん人間の福祉を増進し向上させるところにあるのであるが実際にはそれが逆の作用を結果し、そのことがむしろ児童の福祉を阻害しつつある(中略)。最近における児童の非行事犯、情緒障害や神経症、自殺その他による死傷の激増、婦人労働の進出傾向に伴う保育努力の欠如、 母性愛の喪失、年間170万~180万件と推計される人工妊娠中絶、精薄児、心身障害児や奇型児の増加現象などからみて、わが国の児童は、いまや天国は愚〔疎〕か危機的段階におかれている((59))」と認識された。
〇以上を大胆に要約すると、子供民生活動は、戦後初期の絶対的貧困状況のなかで、しかも占領軍(軍政部厚生課)の後ろ盾を得て促進された。また、平岡自身の取り組みは必ずしも組織的ではなく、一面では独善的でさえあった。それゆえに、子供民生活動は、その後の「世界の奇跡」といわれた高度経済成長や、それによる社会生活環境や福祉・教育状況の激変という時代状況に制度的・組織的に対応することができなかった。こうしたことが子供民生活動消長の背景・要因であるといえよう。
〇子どもの生活や社会、福祉や教育をめぐる以上の状況を背景として、子供民生活動の消長に少なからぬ影響を与えたものに地域活動としての子ども会活動と学校教育における初期社会科教育実践があった。以下、この点に限って言及する。

1 子供民生活動と子ども会活動
〇戦後の子ども会活動はまず、1945(昭和20)年9月の文部次官通達「青少年団体ノ設置並ニ育成ニ関スル件」や1946(昭和21)年10月の文部省社会教育局長通牒 「『児童愛護班』結成活動に関する件」などによってその促進が図られた。 前者は、従来の「官製的」 「軍国主義的」色彩を一掃した「郷土的団体」としての青少年団体 (青年団体、女子青年団体、少年団体)の設置を呼びかけた。少年団体 (子ども会) は、国民学校在籍児童を年齢範囲とし、その設立に関しては「国民学校教職員ニ於テ主トシテ之ヲ斡旋シ適宜有識者、 優秀ナル少年ト協議スルコト」とされた。 後者は、地方長官と師範学校長・女子専門学校長に対して、師範学校や女子専門学校の生徒有志などに「児童愛護班」を結成させ、公園や盛り場、街頭などにおいて子どもの組織化と非行化防止、保護育成に努めるよう指示した((60))。こうした動きのなかで、「地域子ども会」づくりが進行し、農山村部の子ども会では夏季のラジオ体操や冬季の火災予防活動(夜回り)、都市部では紙芝居や人形劇、ゲームなどの児童文化活動などが行われるようになった((61))。
〇1955(昭和30)年6月には、文部次官通達「青少年団体活動の促進について」が出された。 これは、「青少年自身がそれぞれの校下又は地域を中心とする青少年の団体を自発的に結成して、団体共同生活を通じて友愛、相互扶助、協同奉仕、規律節制、郷土愛等の精神を体得するような運動が全国的に促進されることが必要である」とするものであった((62))。その結果、例えば1957(昭和32)年2月末現在、「子供会」6万6,580 団体、342万8,182 人、「児童指導班」7,234班、5万7,185人が組織化された。児童指導班は、1946(昭和21) 年11月、厚生省児童局長から結成促進が通達されたものである。
〇その後、1964(昭和39)年には、青少年非行が社会問題化するなかで、非行対策とも関わって民間レベルの全国組織である「全国子ども会連合会」が結成された((64))。
〇徳島県における子ども会活動は地域の子供民生会において展開され、いわゆる地域子ども会の結成は他県に比して出遅れていた。当初の子ども会は、①子供民生活動を中心とするもの、②PTAの校外補導を中核とするもの、③町内の有志や警察官などが育成するもの、 などとその性格も多種多様であり、混然とした状態であった((65))。1960(昭和35)年前後から、 国や全国社会福祉協議会などの施策と連動・協力して、徳島県においても地域子ども会の育成と組織化が急速に進んだ。具体的には、1962(昭和37)年度以降、県母子課と県教育委員会それに県社会福祉協議会の3者によって、地域子ども会推進特別地区の指定や地域子ども会指導者研修会の開催、県下子ども会指導者育成への講師派遣などの事業が展開された。1962(昭和37)年4月には、子ども会の指導者の自主的組織である「徳島県子ども会育成みつばちクラブ((66))」が結成され、地域子ども会の組織化と質的向上に大きな役割を果たした。当時、県下では約3,500の子ども会が結成され、小・中学生の約7割が子ども会に参加し、教師や親を中心にした地域ぐるみの住民の強い連帯意識に支えられた活動が展開された。そうした背景には、1951 (昭和26)年の第1次に次いで、1964(昭和39)年に第2次のピークを迎えた青少年非行の全国的な増大傾向があった。徳島県もその例外ではなかった。
〇その後、1967(昭和42)年12月に「徳島県子ども会指導者連絡協議会」、翌1968(昭和43)年5月に「徳島県子ども会連合会」が結成された((67))。
〇ところで、平岡は、戦後の多種多様な地域子ども組織とその活動に関して、資料③で次のように述べている((68))。

〇現代における子供会の活動は国際的に見ても、国内的に見ても実に枚挙にいとまなしという程、色々雑多なものがあります。そしてそれぞれの目標、使命に向って進んでいます。
〇然しそんな雨後の筍然たる雑多な子供会の活動もこれを要約すればただ「よい子をつくる」ということに終るのであります。然らば一体その「よい子」とはどんな子かということになりますが、これはもともと主観的な問題で見る人により、考え方によって異るでしょう。(中略)
〇然し、何といっても人間は共同生活をせねば活〔生〕きて行かれないいわゆる、社会的動物である以上この事実を否定してはどんな哲学も倫理もこの人間の社会では成り立たないはずであります。そうだとすれば共存共栄の根本であるすべての人間を幸福にするという〔民生〕活動、この運動を実行する子供こそ最もすぐれた子供であり、この子供以上のよい子があるとは考えられないのであります。
〇日本の戦争前の子供会の自主性のなかったことも、いわば子供会そのものが日本的なよさ日本の子供の生活にぴったりと来ぬ、ちぐはぐな借衣の哀しさにも大きな原因があったといえるでしょう。
〇ボーイスカウトや、ガールスカウトから少年赤十字にしても、外国でできたものは、何となく、日本の子供の生活にはぴったりと来ぬ処があるのではなかろうか。それらの子供会のすぐれた点はもちろん沢山あります。しかし (中略) それを全体的に見ると舶来品は結局、舶来品であってパン食は米食に代り難く、日本人は単なる滋養の点のみで食事をわりきることができぬのではないでしょうか。

〇こうした平岡の考えとは裏腹に、地域子ども組織の結成が進み、地域子ども会活動が伸展するなかで、子供民生会や子供民生活動はその動きに飲み込まれ、一体化していった。 それを促進させたものに「みつばちクラブ」による「みつばち運動」の展開があった。それは、「子ども会の理想像を追求し、永久性のある子ども会の育成助成と、子どもの幸せを願う明るい社会実現に努めるために、志を同じくする青年やおとなたちが、仲間つ 〔づ〕 くりをすすめていく運動((69))」であった。運動は、徳島県社会福祉協議会主事であった木谷宜弘によって提唱され、組織的に展開された。
〇また、1960年代後半以降になると、学歴偏重の社会的風潮や受験競争の激化、知識重視の詰め込み型の教育の促進などが図られるなかで、子どもたちの現実生活についての認識が曖昧なものになっていった。とともに、子どもたちは地域から疎遠になり、地域における子ども社会が崩壊し、地域活動(子供民生活動)も奪われていった。

2 子供民生活動と初期社会科教育実践
〇周知の通り、新しい教科としての「社会科」は、1947 (昭和22)年3 月に発行された 『学習指導要領 一般編 (試案)』によって教科の名称と授業時間数が示され、同年5月に公布された学校教育法施行規則に基づいて教科として成立した。 授業は同年9月、2学期から実施された。同年5月に発行された1947(昭和22)年度版の『学習指導要領 社会科編I(試 案)』によると、「今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、その進展に力を致す態度や能力を養成することである。そして、そのために青少年の社会的経験を、今までよりも、もっと豊かにもっと深いものに発展させて行こうとすることがたいせつなのである」。従って 「その学習は青少年の生活における具体的な問題を中心とし、その解決に向かっての諸種の自発的活動を通じて行わなければならない」とされた((70))。
〇「初期社会科」とは、昭和20年代の社会科をいうが、1951 (昭和26)年7月の『小学校学習指導要領 社会科編(試案)』の発行をもって「社会科は教科論的にも、学習方法論的にも、一つの完成形態に到達したとみることができる」。しかも、 初期社会科教育実践は、1951(昭和26)年の第1次社会科学習指導要領改訂を境に、前後に画期することができる、といわれる。前期は、地域や子どもの実情に即した 「独自のカリキュラムを開発することに、 教師の熱意が傾けられた時期」であり、 また 「生活学習 (児童が生活上の問題を主体的に調べて、社会生活を理解する学習) が、社会科の学習方法とされていた時期」でもあった。後期は、「前期のようなカリキュラム開発はあまり行われず、社会科の学習指導法を綿密に研究することに教師の熱意が注がれ」、「社会科における問題解決学習の実践研究が盛んに行われ」た時期であった((71))。
〇徳島県における初期社会科教育実践は、他県の先進的な取り組みを参考にし、また社会科教育に関する教育学者などの指導を受けながら、全国的には後進的ともいえる状況下で展開された。長井明福によると徳島県における初期社会科教育の展開過程は4つの時期に区分できる。第1期は1947(昭和22)年9月から1948(昭和23)年の「模索期」で、「社会科教育に対する誤解も含みながら、 実践といっても、まさに試行錯誤の状態であった」。第2期は1949(昭和24)年から1950(昭和25)年の「カリキュ ラム作成期」で、「全国的なカリキュラム構成のブーム的な動き」のなかでカリキュラム作成が研究の中心になっていた。第3期は1951 (昭和26)年から1952 (昭和27)年の「前進期」で、それまでの「指定研究的なもの」から、教師自らが積極的・主体的に実践・研究に取り組み、「1951 (昭和26)年1月に徳島県小学校社会科教育同好会を結成し、実践・研究の内実をつくり出して」 いった。 第4期は1953(昭和28)年から1955(昭和30)年の「反省期」で、「『はいまわる社会科』 『学力の低下』『道徳性の欠落』 といった社会科教育に対する批判が累積され、 社会科教育を実践・ 研究している教師にも、改めて社会科教育を考え直す」ことが求められた((72))。
〇また、長井は、徳島県における初期社会科教育の実態から、諸学校の社会科教育実践を次の3類型に分類している。 第1類型―コア・カリキュラム型、第2類型―教科カリキュラム型、第3類型―地域教育型、がそれである((73))。そのうち、第3類型―地域教育型については、その代表事例として徳島市佐古小学校のプラン・実践を紹介し、分析・考察する。 そして長井は、その結果を次のように「佐古プランの特徴」としてまとめている((74))。

①コミュニティ・スクール理論に裏付けされた「全町学園」という佐古小学校独自の教育理念によってプランが作成されている。その教育理念とは、教育を社会改造の一環としてとらえて、単に学校教育という範疇で考えておらず、子供を通して社会を改造していこうということである。
②カリキュラムの形態としては、理科と社会科との中心学習をコアとしたコア・カリキュラムになっている。つまり、社会科を1つの教科としてだけて〔で〕とらえておらず、それを超えた考え方に立脚している。
③カリキュラム構成についても、教師集団によるだけでなく、広く地域社会の住民が参加していると言える。
④文部省の教科という枠をあまり意識しておらず、それよりもカリキュラムの目標・内容・方法それぞれに地域が深くかかわりをもっている。
⑤実践では、児童の興味関心から出発し、何々がしたいという欲求(問題意識)を実現させていくという過程をふまえている。常に、児童自身の意識の連続を図りながら学習が展開されている。
⑥学習問題は、児童の身近な地域の現実生活の中から児童が解決でき得るものをとりあげている。また小さな問題解決の輪を展開させながら学習が進んでいる。
⑦経験を重視した学習活動を多く用いている。
⑧地域社会に開かれた学校教育の中で、総合的に社会科が実践されていた。
⑨地域社会におけるさまざまな生活の問題を具体的に解決していくことによって、社会改造のための知識や技能・態度を育成していこうとしている。つまり、方法としての生活学習という性格をもっている。

〇以上からわかるように、 佐古小学校での取り組みは、地域に根ざした、地域ぐるみの教育実践であり、地域の現実生活のさまざまな問題を具体的に解決し、地域社会の改善・創造を図ろうとする実践的教育であった。そこには、子供民生活動の理念や実践内容・方法と相通じる点が数多く見いだされる。また、佐古小学校では、社会科教育の計画・実践のための組織として、公民館部とPTA部という2つの組織を構成・運営し、下部組織には庶務・会計・公報とともに修養・厚生・事業・保健・社会・図書・青年・科学それに「民生」の各部委員会が設けられていた((75))。これらから、佐古小学校における社会科教育実践には子供民生活動が多かれ少なかれ取り込まれていたであろうことは推察に難くない。長井によると、「佐古プラン」 に代表される地域教育型の社会科教育実践は「学校数としては、極めて少数ではあるが、注目する実践が多い((76))」。いずれにしろ、徳島県における初期社会科教育実践は、地域教育型の実践を中心に、子供民生活動との関わりをさまざまな形でもちながら展開されていたといえよう。
〇周知の通り、初期社会科教育は1955(昭和30)年12月 (小学校、高等学校)と翌年2月 (中学校)に改訂された『学習指導要領 社会科編』によって終焉となる。徳島県における初期社会科教育実践も、全国的動向と軌を一にして、政治的右傾化とその教育現場への影響を背景に、また「はいまわる経験主義」に代表される初期社会科教育批判などを受けて学習方法論の転換が図られることになった。すなわち、1947(昭和22)年発行の学習指導要領に基づく「生活学習」から1951(昭和26)年の学習指導要領の改訂に基づく「問題解決学習((77))」へと転換し、さらに1955(昭和30)年と1958(昭和33)年の学習指導要領の改訂によって社会科の学習方法は「系統学習」へと転換した。とりわけ昭和30年代以降の社会科は、それまでの「生活主義・総合主義の社会科から、系統主義・分野別に分化された社会科に変質した((78))」。問題解決学習から系統学習への転換は、初期社会科教育にとってはまさに「挫折((79))」 であり、それによって社会科教育は子供民生活動との関わりをなくしていった、といえよう。
〇また、1958(昭和33)年の学習指導要領の改訂から、その提示方法が参考基準としての 「試案」から法的拘束力を有する「告示」に変わり、教師(学校現場) による自主的な教育内容編成の活動が規制されることになった。それは、系統学習の全国的・画一的推進を図ろうとするものであり、学校教育における子供民生活動を制限し、衰退させることになった、といえよう。

おわりに
―子供民生活動と福祉教育の課題―

〇以上、平岡国市と子供民生活動に関する原資料の紹介と整理、そして若干の分析・考察を行った。子供民生活動 (運動) の取り組みは、福祉教育の今日的意義を包含しているとともに、今日の福祉教育実践や研究に多くの課題を提起しているといってよい。そのうちの主要なものについて述べる。

1 「生きる力」「社会力」の育成と福祉教育実践
〇子供民生活動では、福祉コミュニティづくりをめざして、地域に根ざした自主的・主体的な地域活動が重視された。また、地域・地元の民生委員や学校の教師などの大人と出会い、交わる機会や場が準備され、大人によって支えられていた。こうしたことから、子供民生活動は、子どもたちの、今日いわれるところの「生きる力」 (文部科学省) や 「社会力」(門脇厚司) を育てることにつながる実践であったといってよい。
〇文部科学省がいう「生きる力」は、「自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決するための資質や能力」などの「確かな学力」と「他人を思いやる心や感動する心」などの「豊かな人間性」、それに「たくましく生きる」ための「健康や体力」 によって構成される((80))。
〇門脇厚司によると、社会力とは「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」、すなわち「人と人がつながる力」「社会を作っていく力((81))」である。その社会力の原基(おおもと)は他者への関心と愛着と信頼感であり、それは多様な他者(とりわけ大人たち)との相互行為の繰り返しによって育まれる、とする。また、門脇にあっては、社会力は「生きる力の核」ともいえる((82))。
〇今日の福祉教育実践では相変わらず、高齢や障害の疑似体験活動、高齢者や障害者などとの訪問交流活動などにとどまりがちである。しかも、訪問・交流活動に際しては、社会的弱者(時には弱者)への一方的な思いやり行動として位置づけられ、「大人」としての高齢者や障害者などとの相互行為という視点が欠落している場合が多い。また、高齢者や障害者などの「生活」理解の視点も弱い。生きる力や社会力を形成するための福祉教育実践のあり方が問われるところである。その際、生きる力とは、社会的存在としての自分を、他者との相互行為と豊かな人間性などのもとに主体的・自律的に築き上げていくための資質や能力のことをいう。従ってそれは、「自分を生きる力」と他者と「共に生きる力」によって構成される。
〇また、生きる力や社会力の形成は、学校教育においては一部の児童・生徒や「総合的な学習の時間」に限らず、すべての児童・生徒と全教科・全領域において取り組まれるべきである。しかもそれは、生涯にわたるものでもあり、生涯学習の一環として展開されるべきである。こうした視点からの福祉教育実践のあり方が問われよう。

2 福祉教育のネットワーク化と推進組織・機構
〇子供民生活動は、子供民生会をはじめ学校子供民生委員会や学校子供民生委員連合会、 子供民生委員連盟 (子供民生委員連合会) などの段階的に積み上げられた組織のもとに展開された。小地域ごとに設けられた子供民生会では、地元の民生委員・児童委員や青年団、 婦人会などの関係者、学校の教師などによって指導・支援が行われた。また、徳島県社会福祉協議会は、県の関係部局や教育委員会などと連携・協力して、子供民生活動を推進するための連絡・調整や指導・援助などを行った。こうした縦横のネッ トワークが豊かな子供民生活動の展開を可能にしたといえる。
〇地域に根ざした、豊かな福祉教育実践の展開を図るためには、ネットワー クの形成が必要かつ重要となることはいうまでもない。かつて全国社会福祉協議会は福祉教育推進のための「福祉教育連絡協議会」の設置の必要性を説いた((83))。しかし、その設置や組織化はいっこうに進んでいない。設置されている組織もその多くが単なる連絡調整の機能を果たしたり、行事的事業を実施するだけにとどまりがちである、といってよい。
〇福祉教育のネットワークは、 社会福祉に関する学習要求や学習必要の共有化や一般化のためのネットワークをはじめ、福祉教育の事業・活動の共有化や総合化、情報・資料のデータベース化やオンライン化、施設・設備や学習資料・用具の共有化や相互利用、学習者や指導者・支援者の共有化や相互受け入れなどのためのネットワーク、そしてこれらを内在化した地域の学校や社会福祉協議会、社会福祉施設、公民館、ボランティア・市民活動関係機関などのネットワーク、こうした構成要素・局面を総合的・重層的にもつものでなければならない。また、福祉教育が展開される家庭・学校・地域のいわばヨコのネットワークと、生涯学習の一環として推進されるためのいわばタテのネットワークの形成も肝要となる。
〇要するに、今後、地域を基盤にした総合的・統合的、体系的・組織的な福祉教育実践を展開するためには、単なる福祉教育「連絡」協議会ではなく、ネットワーク組織としての福祉教育推進組織・機構 (「福祉教育推進協議会」)の設置と組織化を図る必要がある。そこでは、福祉教育についての研究協議をはじめ、福祉教育推進計画の策定や実践プログラムの開発、学習・研修機会の提供、情報の収集・整理・提供、具体的実践の指導・援助・評価などが行われることが期待されよう。

3 福祉教育指導主事の設置と福祉教育アドバイザー・サポーター
〇子供民生活動の指導・助言は、学校(学校子供民生委員会)においては校長の下に担当教員によって行われた。郡市レベルでは、小・中学校長会から委嘱された指導校長が総合的指導と連絡・調整に当たった。子供民生活動が組織的・計画的に展開され、全県的に普及した要因のひとつはここにあったといってよい。
〇既述の通り、今日の福祉教育が全国的に制度化されるのは、国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」が始まる1977(昭和52)年度である。それに先立って、厚生省は、1977(昭和52)年2月、社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について (要望)」を提出した。これは、社会福祉の世界から提唱された福祉教育のより一層の推進を図るために、教育行政の主体的・積極的な取り組みを要望するものであった。そこでは、「小・中学校における福祉教育の改善に当たり考慮すべき事項」のうちの「制度的事項」のひとつとして、「小・中学校における福祉教育を充実強化するため、教育委員会に社会福祉指導主事 (仮称) を置き、管下の学校の指導を担当させること」が要望された。
〇2002 (平成14)年度から小・中学校に「総合的な学習の時間」が設けられ(高等学校は2003 (平成15)年度から学年進行で実施)、翌 2003(平成15)年度には高等学校に専門教育に関する教科「福祉」が新設された。 2004(平成16)年8月現在、福祉に関する学科等を設置する高等学校は約600 校、福祉を学ぶ高校生は約3万5,000人を数えている (文部科学省 調べ)。こうした学校における福祉教育をめぐる動向を考えると、厚生省が要望した福祉教育担当の指導主事に当たる人を都道府県や市町村レベルに配属することが、いま改めて、しかも強く求められよう。今日、社会福祉協議会のなかには元教員を配置して、 福祉教育やボランティアについての指導・援助に当たらせているところがある。しかし、 それは質・量ともに多くの問題を抱えているといわざるを得ない。福祉教育担当の指導主事をはじめ、福祉教育アドバイザーやサポーターなどによる指導・援助体制の整備が急務とされる。

4 福祉情報の提供と住民啓発・教育
〇子供民生活動(運動)が全県的に拡大・普及した要因のひとつに、「徳島こども民生新聞」 の発行による情報提供や各地の活動実例の紹介などがあった。また、子供民生委員の指導者用手引書や子ども向け参考書の刊行も一定の役割を果した、といってよい。しかし、子どもや学校教員に対する情報提供や研修・学習、啓発に比して、子どもの地域活動としての子供民生活動を小地域で支えた地域の民生委員や関係者、一般住民などに対する働きかけは、必ずしも十分ではなかった。それが子供民生活動の消長に大きく影響したといえよう。
〇今日、高度情報化が急激に進展するなかで、情報・啓発活動は人びとの社会生活を豊かにし、便利なものにしている。しかし、その一方でさまざまな歪みや問題も生じている。 例えば、福祉サービスを必要とするあるいは利用する人びとにとっては、必ずしも必要かつ有用な福祉情報が的確かつ円滑に提供されているとはいえない。福祉サービス利用者の自己選択・自己決定・自己責任が求められながら、福祉情報を主体的・積極的に獲得・選択・利用する能力も十分に習得されているわけではない。また、福祉のまちづくりをめざして、 住民自らが地域の社会福祉問題を発見し、主体的に判断し、その問題解決を図ろうとする意識・意欲も稀薄であり、問題解決のための社会資源や解決方法などについての情報も十分にもち得ていない。
〇福祉のまちづくりの主体形成や住民参画を動機づけ、方向づけるためには、福祉情報が必要かつ重要となる。その際、福祉情報は福祉教育なくしては生きない。また、福祉教育は福祉情報なくしては成り立たない。こうした視点に立った福祉教育実践の展開が必要とされる。

5 集団的実践主体の形成と福祉教育運動
〇子供民生委員は、地元での日常的な民生(福祉) 活動にとどまらず、小地域を超えた広域や全県的レベルで、子供平和記念塔設置の平和運動をはじめ、児童福祉施設の設置や子どもの遊び場づくり、欠食児童問題の解決、それに歳末助け合いなどの自立・共生・自治運動を展開した。それは、平和な社会と福祉社会づくりをめざした、平和と福祉を築く人間を育成するための教育運動でもあった。すなわち、子供民生運動は、平和(教育)運 動と福祉(教育) 運動の性格を併せもっていた、といえよう。
〇福祉教育は、人権思想を基盤に、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む住民主体形成を図るための教育活動である。いうまでもなく、福祉文化の創造や福祉のまちづくりは、集団的・組織的かつ運動としての取り組みによって可能となる。そこから、多様で異質な属性をもつ個々の住民 (個人的実践主体)を、いかにして集団的実践主体や運動主体へと形成・発展させるかが問われることになる。
〇今日の福祉教育実践や研究において、こうした運動(論)的視点は必ずしも明確ではない。 福祉教育運動は、暮らしと育ちの拠点としての地域を基盤に、地域社会との関連で組織化され、子どもや大人、高齢者や障害者などの地域住民によって自主的・主体的に展開される、手づくりの運動でなければならない。しかも、それは、地域の福祉力や教育力、共生力などの形成や発展・強化を通して、福祉文化の地域・社会づくりをめざす。また、福祉教育運動は、平和(教育)運動などの地域における各種の運動との交流や連帯を視野に入れることが必要かつ重要となる。いずれにしろ、福祉教育実践における福祉教育運動の創出・展開と、 福祉教育研究における福祉教育運動論の形成が求められる。

6 子ども会等の地域組織活動と福祉教育実践
〇子供民生活動の消長に大きな影響を与えたものに子ども会があった。1960年代以降になると、子供民生会や子供民生活動は地域子ども会の活動に包摂され、一体化していった。
〇今日、子どもの成長発達や生活、社会をめぐってその歪みが指摘され、校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊などの学校病理現象はいまだ収まっていない。それは、社会的存在としての自分を、豊かな人間性のもとに主体的・自律的に築き上げていくための資質や能力 (「生きる力」)が現代の子どもに育っていないことによるものである。こうしたなかで、1996 (平成8)年7月に第15期中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に「生きる力」と「ゆとり」を―」が出され、子どもたちの「生きる力」を育むための体験活動の必要性や重要性が指摘された。それ以降、その答申を受けて教育改革の推進とその具体的実践化が図られている。
〇いま改めて、子どもの健全育成を図るための地域活動組織としての子ども会の積極的・主体的な活動が希求され、その社会的役割の重要性が指摘されている。全国子ども会連合会の調査によると、2003 (平成15)年10 月現在、全国の子ども会の組織数は12万2,596 、会員数 (幼児・小学生・中学生・高校生)は441万5,880人を数えている。会員の約8割は小学生である。全国子ども会連合会では、「地域の子どもは、地域ではぐくむ」「子どもの手による子ども会」をスローガンに、子ども会活動を学校外教育活動として位置づけ、子どもたちが企画・実践する地域体験活動の推進を図っている。なかでも地域清掃・美化や挨拶運動などの日常生活活動や、地域の生活課題や地域行事に取り組むまちづくり運動の展開などが注目される。福祉教育との連携・共働が期待されるとともに、その実践のあり方が問われるところである。

7 教育福祉の問題状況と福祉教育実践・研究
〇子供民生委員は、当時の時代状況のなかで、貧困ゆえに就学 (修学)の困難や生活上の諸問題を抱える子どもたちに対する支援活動を行った。そのひとつに長欠児や欠食児童などに対するものがあり、それは学校をめぐる教育福祉の問題状況に対する取り組みであったといえる。
〇最近の学校教育における問題として、1970年代からの「校内暴力」をはじめ、1980年代後半からクローズアップされてきた「いじめ」、1990年 代にとりわけ顕著になった「不登校」、そして1990年代後半からの「学級崩壊」など、いわゆる学校病理現象が広がっている。また、子どもに「無気力化」や「非社会化」が進行している。さらに、1990年代のバブル崩壊から続く長期不況のもとで、現代的貧困による修学(就学)困難な子どもが増えている。これらは、社会生活上の困難や問題を抱える子どもの教育・学習(権)保障に関わる問題、すなわち教育福祉問題としてその具体的解決に向けた制度的・実践的対応が求められる。そして、それは、ユネスコ(UNESCO)の「学習権宣言」(1985(昭和60) 年3月) にいう「学習権」の保障に通じることになる。
〇いずれにしろ、学校をめぐる子どもたちの今日的な問題状況は、教育福祉問題としての解明・理解とそれを解決するための具体的方策の検討を要請している。その際、子どもの生存と発達、生活と社会を統合的にとらえるとともに、教育と福祉、教育福祉と福祉教育のそれぞれのあり方と相互の関連性、そして両者の実践的統合について理論的および実践的に追究することが求められる((84))。

8 「市民」的資質の育成と「市民福祉教育」
〇子供民生活動は、子どもたちに民主主義の考え方や生活を身につけさせるための活動であった。すなわち、そのねらいは、小地域における子どもの日常の生活と社会を基盤に、自主的・主体的な民生(福祉)活動を通して「市民」的資質を育成することにあった、といってよい。それはまた、子供民生活動は民主的社会を担う人間を育成するための民主主義教育の実践であったといえるところでもある。
〇初期社会科の最終目標も民主的社会の担い手の育成にあった。1948(昭和23)年9月に出された『小学校社会科学習指導要領 補説』 は、「社会科の主要目標〔は〕、できるだけりっぱな公民〔市民〕的資質を発展させることであり」、その中味として子どもたちに「その住んでいる世界を理解させること」「社会的な目〔を開かせ〕、社会的な関心 〔をもたせること]」 「共同生活をするのに不可欠なさまざまな技能や習慣や態度〔を養うこと〕」をあげている((85))。ここに、子供民生活動が学校教育活動の一環として取り組まれ、初期社会科の授業に取り込まれたであろう根拠のひとつを見いだすことができる。
〇今日、「小さな政府」と有事に備えた「強い国家」の構築をめざして、「社会福祉の基礎構造改革」と「教育の構造改革」が推進されている。そうしたなかで、「市民」的教養としての社会福祉に関する科学的で実践的な知識・理解と社会福祉の増進に寄与する創造的で主体的な能力・態度を修得・育成するための福祉教育 (「市民福祉教育」) のあり方が問われている、といってよい。その際の市民とは、人間の尊厳と自由・平等という絶対的な価値のもとに、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想を体現した、福祉文化の創造主体や福祉のまちづくりの実践主体としての人間をいう こうした人間を育成するための福祉教育実践と研究がいま、歴史的・社会的に要請されている。


(1)木谷宜弘『ボランティアの風』筒井書房、2000年、218頁。
(2)木谷宜弘『前掲書』218~220頁。
(3)木谷宜弘・森依顕「子供民生委員制度―徳島県における福祉教育・ボランティア学習に関する歴史的研究―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会発表要旨集』日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会実行委員会、2000年、159〜166頁。
森依顕・木谷宜弘「平岡国市と子供民生活動─戦後初期における福祉教育実践の展開―」 (私家版) 2002年。
森依顕『子供を主人公にした民主主義教育の実践―平岡国市と子供民生活動に学ぶ―』 徳島文理大学家政学部、1997年。
(4)資料⑦、4頁。
(5)資料⑦、8頁。
(6)資料⑦、10頁。
(7)資料⑦、30~31頁。
(8)資料⑦、31頁。
(9)資料⑦、29頁。
(10)資料⑦、54頁。
(11)資料⑦、53頁。
(12)資料⑦、64~66頁。
(13)資料⑦、76頁。
(14)資料⑦、63頁。
(15)資料⑦、99~100頁。
(16)資料⑦、99頁。
(17)資料⑦、98頁。
(18)社会事業主事・主事補は、地方の社会課、後になって職業課、住宅課などに設置されたいわば社会事業行政の専門職であり、1925(大正14)年12月12 日付勅令第323号 「地方社会事業職員制」等をもって設けられた。1942(昭和17)年11月1日付勅令第768号「行政簡素化実施ノ為ニスル警視庁官制外九勅令中改正ノ件」の附則第3項をもって廃止された。詳しくは、藤田貴恵子・阪野貢「戦前社会事業教育に関する研究報告 (中間報告)」 「社会事業研究所年報』 第21号、日本社会事業大学社会事業研究所、1985年、75~123頁を参照されたい。
また、日本社会事業大学社会事業研究所発行の『戦前社会事業主事 (補) 名簿』 によると、平岡国市は、1937 (昭和12)年から1938 (昭和13)年にかけて東京府の社会事業主事補、1941 (昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて徳島県の社会事業主事にそれぞれ就いている。
(19)資料⑦、107頁。
(20)資料⑦、111頁。
(21)資料⑦、112頁。
(22)徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編 「支えあう明日へ―徳島県社会福祉協議会40年のあゆみ―』 徳島県社会福祉協議会、1992年、8頁。
(23)資料⑦、117頁。
(24)資料⑦、130頁。
(25)資料⑦、134頁。
(26)資料⑦、134~135頁
(27)資料⑦、135頁。
(28)資料⑦、133~134頁。
(29)平岡は、「子供民生委員相互間の連絡調整発展」を図るために 1957(昭和32)年7月に「徳島県子供民生委員連盟」を結成し、徳島県社会福祉協議会から独立させようと画策したが、失敗に終わった。それに関して平岡は次のように述べている。
「子供民生委員が社協の中で消えて、それから先きが行方不明になるのではなく、社協は独立する迄のお世話役であり、自主的な連盟の結成を見るまでのいわば産婆役であって、 子供が生れた後は連絡統制という社協本来の仕事に帰るべきで、この産婆役の感違〔勘違い〕をしたのが山口氏〔徳島県社会福祉協議会第2代会長 (1955 (昭和30)年7月~1964(昭和39)年3月)の山口一雄] で [ある。〕」「子供民生委員連盟の会長は子供で勤まるべきことではなく、(中略) 大人の適当な人が会長になってよいので 〔ある。]」 (資料③、157~159頁)。
(30)資料④、9頁。
(31)森依顕・木谷宜弘「前掲論文」9頁。
(32)資料④、「まえがき」。
(33)資料⑦、116頁。
(34)徳島県教育会編『徳島県教育沿革史 (続編)』徳島県教育会、1959年、954 頁。
(35)資料①、18頁。
(36)資料②、30~46頁。
子供民生委員の精神をあらわした「子供民生委員の歌」 (作詞・市橋友月、作曲・中山晋平、振付け・三橋都美子) が作られている (資料③、160頁)。
(37)資料③、47~48頁。
(38)資料①、19~20頁。
(39)資料①、18頁。
(40)資料③、58~59頁。
(41)資料③、67頁。
(42)資料③、68頁。
(43)資料③、94頁。
(44)資料③、92頁。
(45)資料①、48~56頁。
資料①ではさらに、「県子供民生委員全体を対象とする行事」として次の事業・活動が記されている (資料①、59頁)。
一、子供民生委員の郡市別研究協議会
二、子供民生委員県大会 (十一月三日)
三、県大会と同時に行う子供民生事業絵の展覧会
四、子供民生新聞の発行(約一万五千部)
五、校長さんに子供民生委員を知ってもらう会(認定講習利用)
六、子供民生事業の紙芝居と童話の発表
七、子供民生事業功労者の表彰
八、社会施設の慰問 等
(46)資料③、60~101頁。
(47)資料③、53~58頁。
徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編 『前掲書』 12頁。
(48)資料①、11頁。
(49)資料⑦ では、「当時三十八万六千円が県下の小、中学校の子供たち十六万人の献金であり工事は日和佐町に疎開されていた有名な彫刻家太田三郎先生の御指導によるものであった」 (137頁) と記されている。ここでは、『天皇陛下奉迎記』 (徳島県発行) によることにした。
(50)徳島県編 『天皇陛下奉迎記』徳島県、1951年、23頁。
「子供平和記念塔の歌」 (作詞・ 高井宏子〈和歌山大附属中二〉、 作曲・ 今川幹夫)が作られている (資料③、161頁)。
(51)資料⑤、15~16頁。
(52)資料①、29~31頁。
(53)資料①、31頁。
(54)資料⑦、134頁。
(55)資料⑦、136頁。
平岡は、資料③で、子供民生委員制度は「アメリカの残した制度であるとか、或はこれを初めて実践した三好郡西岡小学校の発案にかかるものであるなど、僅かに十年程の歳月しか閲しない明かなこの歴史を故意に誤らしめる宣伝をなしていたことで、社協会長として非人格も甚しい」(53頁)と、徳島県社会福祉協議会第2代会長山口一雄を痛烈に批判している。
(56)西祖谷山村史編纂委員会編『西祖谷山村史』徳島県三好郡西祖谷山村、1985年、619、622~623頁。
(57)資料③、「はしがき」。
(58)宮原誠・丸木政臣・伊ヶ崎暁生・ 藤岡貞彦『資料日本現代教育史』(3)、三省堂、 1979年、43、46頁。
(59)厚生省児童局編 『児童福祉白書』厚生問題研究会、1963年、2頁。
(60)石川謙(近代日本教育制度史料編纂会代表) 『近代日本教育制度史料』第 27 巻、講談社、1964年、405~408、434~437頁。
(61)白井愼・小木美代子・姥貝荘一編著『子どもの地域生活と社会教育」学文社、 1996年、189~192頁。
(62)宮原誠一・丸木政臣・伊ヶ崎暁生・藤岡貞彦『前掲書』(2)、1979年、577~578頁。
(63) 厚生省大臣官房企画室編『厚生白書』(昭和33年度版) 大蔵省印刷局、1958年、221頁。
(64)「子ども会の歴史」については中村拡三『子ども会の歴史と現状(解放教育教科書3)』明治図書、1978年、27~41頁参照。
(65)徳島県子ども会連合会編『青い未来』(徳島県子ども会連合会20周年記念誌) 徳島県子ども会連合会、1990年、12頁。
(66)徳島県社会福祉協議会編『みつばち運動と子ども会』 徳島県社会福祉協議会、1963年。本書には「みつばちの願い」と題して、次のような一文が記されている。
「春が来て、一度に咲きはじめた野花のように、地域子ども会が日ごとに増加している。でも、これらの地域子ども会が本当に実を結び、翌年ふたたび花を咲かせるには、はげしい風雨の洗礼を受けなければならない。全く、子ども会は理論も技術も確立していない未開拓地の荒野に咲いた花のよう。今必要なのは、こまめに花から花へ飛び歩いて一つずつ確実に実を結ばせてゆく働き蜂のような人達の存在だ(中略)。私たちは、すすんでこのみつばちとなり、仲間が集って蜂の巣を営み、よろこびと、かなしみを分ちあい、子ども達のしあわせと、宇宙をかけめぐる子どもの未来像を求めてはげましあっていきたい」。
徳島県子ども会連合会編 『前掲書』 は、「みつばち運動」について次のよう に概説している。
「『みつばち運動』とは、児童集団指導の技術を身につけた指導者が、花から花へ飛び移り、実を結ばしていく蜜蜂のように、子ども会から子ども会へかけ回り、永続する子ども会を育て、楽しい子どもの世界の実現をめざして努力するというもので、小地域で6人前後の同志がグループとなって、蜂の巣をつくり、それを基点として、運動を推進しようと意図したものでした」(14頁)。
(67)徳島県社会福祉協議会総合企画委員会記念誌編纂委員会編『前掲書』51~57、235~236頁。
(68)資料③、2、43頁。
(69)徳島県社会福祉協議会編『前掲書』4頁。
(70)石川謙(近代日本教育制度史料編纂会代表)『前掲書』第29巻、1964年、458、467頁。
(71)平田嘉三・初期社会科実践史研究会編 『初期社会科実践史研究』冬至書房、1986年、 49~50頁。
小原友行『初期社会科授業論の展開』風間書房 1998年、参照。
(72)長井明福「徳島県における初期社会科教育実践史研究」(1991年度 鳴門教育大学大学院修士論文) 1992年、24~29頁。
(73)長井明福「前掲論文」31~37頁。
(74)長井明福「前掲論文」67頁。
(75)長井明福「前掲論文」61頁。
(76)長井明福「前掲論文」37頁。
(77)小原友行によると「問題解決」を方法原理とする初期社会科教育実践は次の4類型に分けられる。すなわち、①子どもの問題の実践的解決学習 ( 「生活学習」)、②子どもの問題の知的解決学習 (「生活問題解決学習」)、 ③社会の問題の実践的解決学習(「社会問題解決学習」)、④社会の問題の知的解決学習(「研究問題解決学習」) がそれである。 ①と②は自主的・自立的な個人の育成をめざし、③と④は社会の民主化に貢献する人間の育成をめざすものであった。また、①と③は市民的資質の育成、②と④は社会認識の形成にそれぞれ重点をおいていた (小原友行『前掲書」32~33頁)。
この類型に従えば、 社会科教育実践において子供民生活動は、①と②の問題解決学習を発展的あるいは統一的に実施・展開するものとして期待され、また実際に行われていたといえようか。その際、その教育実践は子供民生活動を通しての社会生活の理解と、子どもが直面している現実生活のなかの具体的問題を解決するための主体的・実践的な態度の育成にとどまりがちであり、必ずしも科学的な歴史・社会認識や系統的な知識に基づくものではなかったといえよう。そこに、社会科教育実践における子供民生活動や、子供民生活動そのものの問題や限界があったといえようか。
(78)長井明福「前掲論文」83頁。
(79)長井明福「前掲論文」84頁。
(80)文部科学省編『文部科学白書』(平成15年度) 国立印刷局、2004年、148頁。
(81)門脇厚司『子どもの社会力』岩波書店、1999年、61頁。
(82)門脇厚司『親と子の社会力』朝日新聞社、2003年、159~161、174頁。
(83)全国ボランティア活動振興センター編 『福祉教育連絡会資料集』全国社会福祉協議会、1990年。
(84)小川利夫・高橋正教編著『教育福祉論入門』光生館、2001 年、225〜244頁参照。
(85)石川謙 (近代日本教育制度史料編纂会代表)『前掲書』第29巻, 518~519 頁。

【初出】
『子供民生委員と市民福祉教育』中部学院大学、2005年4月、7~60頁。
本稿は、この論考を改題したものである。

【参考】
阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、13~65頁。

 


第5章
神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―制度的内在化による統治と地域変革への志向の相克―

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はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校                               発表題目
江陽中学校                     本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒句中学校                     社会福祉教育実施内容について
秦野中学校                     本校における社会福祉教育の実態について
池上中学校                 社会事業に関する学習指導について
栗田谷中学校            社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一中学校           我が校の実施状況について
鶴嶺中学校                     本校における社会福祉思想の普及について
富士見中学校                社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘高等学校           社会福祉事業に関する世論調査
津久井高等学校           社会福祉研究委員会の活動について
江南高等学校                社会福祉教育の実際 (公開授業)
山北高等学校                高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原高等学校           本校の活動状況について
翠嵐高等学校                社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校      本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿では、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質について検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。

 


第3部

「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究の展開
―その現代的意義と展望―


第6章
「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相
―思想・実践・技法・認識のダイナミズム―

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はじめに

〇日本社会における「まちづくり」という営為は、高度経済成長がもたらした深刻な産業公害や都市問題、地域社会の崩壊などに対する異議申し立てとして、1960年代後半から70年代にかけて本格化した。かつての都市計画は、「中央」による画一的な国土開発(ハード・モノづくり)を主眼としていた。それに対し、平仮名で表記される「まちづくり」は、そこに暮らす「生活者」の視点から、人間らしい生活環境の回復をめざす運動として生み出された。
〇しかし、今日、まちづくりをめぐる状況は一層の複雑さを増している。少子高齢化の進展に伴う「限界集落」の頻出、2014年の「増田レポート」に端を発した「地方消滅」論の席捲、さらには格差社会の固定化による地域連帯の希薄化など、地域・社会は内側と外側の双方から崩壊の危機に直面している。こうしたなかで、まちづくりは単なる環境整備の域を超え、人口減少という所与の条件を受け入れつつ、いかにして住民の生活の質を充実させるかという「縮充」(山崎亮:2016年)への挑戦が叫ばれて久しい。
〇本稿が考察の対象とするのは、こうした半世紀に及ぶ「まちづくり」の底流に流れる「思想」と「方法」の系譜である。具体的には、1970年代に内発的発展論の「地域主義」を説いた経済学者・玉野井芳郎、「まちづくり」という言葉を一般に広めた、自治体プランニングの草分けである田村明、現代の「コミュニティデザイン」を牽引するコミュニティデザイナーの山崎亮、そして「地域学」のもつ構築を試みる社会学者・山下祐介、これら4人の言説を相互に交差・対比させる。
〇「まちづくり」という概念が多義的である理由は、それが「思想」(あるべき姿)であり、「実践」(変えるための活動)であり、同時に「認識」(現実をどう捉えるか)であるという、三位一体の性質をもつからに他ならない。
〇玉野井が提唱した「地域主義」は、市場経済的な「市民社会」を突き抜け、自然や生態系と共生する「新たな市民」の再生を説く、根源的な「思想」を提示した。一方、田村は、横浜市における行政改革を通じ、まちづくりを「市民の政府」による地域経営の実践へと昇華させ、制度的・構造的な基盤を整備した。さらに、山崎は「コミュニティデザイン」という手法を用い、モノをつくらないデザイナーとして、人と人の関係性を編み直すプロセスを確立した。そして山下は、「地方消滅」という国家的言説の罠を暴き、足元の生活基盤を学び直す「地域学」を、中央集権に対する「抵抗」としての認識運動として位置づけたのである。
〇これら4人の言説は、時代背景こそ異なるものの、一貫して「住民」(与えられる存在)から「市民」(自律的に参加し自治を担う主体)への転換を要請している。この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の根幹である。
〇ひるがえって、これまでの「まちづくり」論は、都市計画論、コミュニティデザイン論、地域社会学など、それぞれの領域で個別に議論されがちであった。しかし、それらが内包する主体形成のプロセスを包括的に捉えた議論は必ずしも十分とはいえない。そこで本稿では、玉野井、田村、山崎、山下の言説を再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示することを目的とする。

Ⅰ 玉野井芳郎と「地域主義」の思想

〇1970年代は、日本社会にとって決定的な転換点であった。1955年から1973年まで続いた高度経済成長は国民生活に物質的な豊かさもたらしたが、その一方で、深刻な公害問題の発生、過疎・過密の激化、そして伝統的な地域コミュニティの解体などの「ひずみ」を引き起こした。また、経済合理性と中央集権的な資源配分が優先されるなかで、各地の「自然・歴史・風土」は収奪の対象となり、住民の地域に対する帰属意識は希薄化の一途を辿っていた。このような状況下で、経済学者・思想家である玉野井芳郎が提唱した「地域主義(regionalism)」は、単なる地方振興の策ではなく、近代西欧的な価値観や市場経済システムそのものに対する根源的な「知の組み替え」を迫るものであった。その思想の核心的な特徴は、次の諸点に見出される。

1 エコロジーと「生活づくり」
〇玉野井の地域主義において最も独創的な点は、経済システムの基盤に「エコロジー(生態学)」を据えたことにある。玉野井にあっては、「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟を導入することにひとしい」([2]60頁)のである。近代経済学が、自然環境を「外部経済」として系の外側に置いたのに対し、大気、水、土壌といった生態系こそが、人間の生存と生産を規定する不可欠な「コモンズ(共有財・共有圏)」である。
〇この視点に立てば、地域主義における「地域」とは、単なる行政区分としての空間ではなく、空間的な「地域性」と時間的な「季節性」によって特徴づけられる「人間の生活=生産の場所」([3]10頁)である。こうした地域主義は地域共同体の構築をめざすが、その本質的な課題は、市場原理に主導された「ものづくり」から、生命の再生産を優先する「生活づくり」への価値転換を図ることにある([4]9頁)。これらの認識は、現代の「サステナビリティ(持続可能性)」の議論を先取りする先見性を備えている。

2 「内発的地域主義」の理念
〇玉野井は、国が権力と資金によって地方を牽引しようとする「官製地域主義(上からの地域主義)」に対し、明確な限界を指摘した。中央からの画一的な資源投入は、むしろ地域の混乱と荒廃を招くというのである。これに対置されたのが「内発的地域主義(下からの地域主義)」である。
〇「内発的地域主義」は、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」([3]19頁)。ここでいう「経済的自立」とは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。土地、水、労働という生存の基本要素を地域単位での共同性と自立性として確保し、資本の論理(市場)による無制限な浸食を制御しようとするものである。また、「政治的・行政的自律」は住民自治の強調を意味し、「一体感」は地域というトータルな人間活動の場への能動的な帰属を意味している。

3 「開かれた共同体」と住民中心主義
〇玉野井は、地域主義の議論が陥りやすい「閉鎖的な共同体主義」への批判に対し、明確に「開かれた共同体」を掲げた。「わたしたちのまち」を代表する市町村は、「『下から上へ』の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきもの」([3]124頁)である。とはいえ、地域間の横の繋がりを重視するこのモデルは、中央を否定して無政府状態をつくりだすものではない。むしろ、自立した諸地域が中央を「あるべき姿へと復位させる」試みなのである([3]17頁)。
〇また玉野井は、自治体行政と住民の関係についても、「住民への行政参加」という主客転倒の論理を提示した([3]119頁)。これは、行政が設けた枠組みに住民が参加する「行政への住民参加」ではなく、住民の自律的な活動のなかに、行政が「資源」として介入していくという、徹底した住民中心主義の表明であった。

4 「新たな市民」の再生と社会変革
〇玉野井の思想がめざした地平は、単なる地域の存続ではなく、地域主義を通じた新たな人間像の構築であった。それは、「市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平に登場するであろう新たな『市民』(Bürger)の再生」である([1]ⅲ頁)。
〇近代の「市民」は、抽象的な権利と義務を背負う「国家の一員」として規定されがちであるが、玉野井のいう「市民」は、具体的な地域の風土に根ざし、そこで展開される生産と生活に責任をもつ「生活者」である。この「市民」は、非政治的な市民文化の勃興を担う主体であり、その市民が地域共同体を実践的に構築していく過程こそが、玉野井のいう社会変革の本質であった。

5 「地域分権」と「諸地域の時代」
〇玉野井にあっては、「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」と言い換えられなければならない。単数の「地方」は、常に「国」を頂点としたピラミッド構造における末端という上下関係を示唆する。これに対し、複数の個性として語られる「地域」は、それぞれの歴史と伝統を誇る自律した主体の集合体である([3]14~15頁)。
〇この「諸地域の時代」において、玉野井が実効性を期待したのが自治体独自の「憲章」や「条例」の制定であった。たとえ形式上は法律の下位規範であっても、「何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よきしきたり』をうちたてることを意味する」。これが「自治体の自己革新」である、と玉野井は説く([3]38頁)。これは2000年代以降に広がる「自治基本条例」の制定運動を20年以上先取りした、極めて先駆的な制度論であった。

〇以上、玉野井が説いた「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動に対し、強力な理論的・思想的バックボーンを提供した。一方で、その議論が多分に「規範的(べき論)」であったため、後の研究者からは実証的分析の欠如や方法論の不明確さを指摘されることにもなった。しかし、玉野井が残した「ものづくりから生活づくりへ」という転換、そして「地域に生きる生活者」を主体とする共同体構築の視座は、現代のまちづくり論において色褪せることはない。以下で詳述する田村明の実践、あるいは山崎亮のコミュニティデザイン、山下祐介の地域学という系譜は、玉野井が遺したこの地域主義の思想を、いかにして具体的な「社会の仕組み」へと結実させるか、その過程として捉えることができよう。

Ⅱ 田村明と「まちづくり」の実践

〇玉野井が地域主義を「思想」として打ち立てた同時期に、行政の内部から都市のあり方を根本的に変革しようとした人物がいた。それが田村である。田村は、建築家や行政官という枠組みを超え、自らを「都市プランナー」「自治体プランナー」と称した。田村が1960年代後半から横浜市で展開した実践は、それまでの「都市計画」という官僚主導のハードウェア整備に対し、住民の主体的関与を前提とした「まちづくり」という平仮名の概念を社会に定着させる決定的な役割を果たした。田村にとって「まちづくり」とは、単なる建設行政ではない。それは「一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである」。その「共同の場」こそが「まち」である([5]52~53頁)。
〇ここで、近代日本を規定してきた「都市計画」と、田村らが主唱した「まちづくり」の概念的相違を一般論的に整理しておくことにする。従来の「都市計画」は、国家や行政が主導し、法律(都市計画法等)に基づき、インフラ整備や用途地域設定を行うハードウェアのコントロールを主眼としていた。そこでは住民は計画の客体であり、開発による利便性の享受者、あるいは立ち退き等の補償対象に過ぎなかった。これに対し、平仮名で開かれた「まちづくり」は、土地や建物の物理的配置に留まらず、そこに展開される生活空間の持続性を、住民自らが主体となって形成していくプロセスのデザインである。つまり、都市計画が「空間の機能的秩序化」をめざすのに対し、まちづくりは「人間の共同生活の自治化」をめざすのである(表1参照。[6]7頁)。

表1 まちづくりと日本型都市計画のアプローチの違い

1 「共同の場」としての「まち」の構造
〇田村によれば、こうした「まち」の構築対象は、物理的な(1)モノづくり、に留まらず、(2)シゴトづくり、(3)クラシづくり、(4)シクミづくり、(5)ルールづくり、(6)ヒトづくり、そして(7)コトおこし(イベントを起こす)、の7つをあげることができる。これを別の切り口から考えると、(a)機能づくり、(b)個性づくり、(c)魅力づくり、(d)活力づくり、(e)意識づくり、(f)イメージづくり、となる([5]54頁)。
〇また、田村は、「まちづくり」の「つくる」という意味について、「見えるまちづくり(ハード)」と「見えないまちづくり(ソフト)」の不即不離の関係として捉えた。さらに田村は、無用な開発を抑制する「つくらない/つくらせない」こともまた、まちづくりの重要な構成要素であると説き、自然保全や歴史的遺産の破壊阻止に論理的根拠を与えたのである([5]87頁)。この点は特筆に値する。

2 まちづくりの基本理念
〇田村にあっては、「まちづくり」は「共同の場」を市民が共同してつくりあげていくことであるが、その「共同の場」は、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化、などの総称である。これらの「共同の場」をつくる際には、次のような基本理念をもってのぞむことが必要となる。(1)トータルの理念(まちは、個々ばらばらではなく、全体としてひとつである)。(2)システムの理念(まちは、複雑な要素が相互に絡みあい関係しあっている)。(3)共有環境の理念(まちは、市民の共有の空間であり環境である)。(4)市民共用・共益の理念(まちは、特定の人々のためではなく、市民全体に利用され、その共同利益のためにある)。(5)市民共存・共生の理念(まちは、多数の異なる人々が矛盾をもちつつも、互いの相違を認めあって生活する場である)。(6)市民協働・共責の理念(まちは、一人の手ではなく、市民の共同作業により、共同責任でつくられるものである)。(7)市民共感・共愛の理念(まちは、市民が共通した誇りと愛情をもてるものである)。(8)相互交流の理念(まちは、市民相互はもちろん、他の多くの人々、外国の人々を含めた交流の場である)。(9)内発性の理念(まちは、他からの強制ではなく、市民や自治体の自発的な発想と行動を主力にしてつくられるものである)、がそれである([5]121~122頁)。
〇田村は、こうした「まちづくり」観に基づき、単なる都市整備の枠を超え、住民自らが「共同の場」を主体的に形成し維持していくための具体的な実践プロセスを、行政の内部から構築したのである。

3 市民参加の階梯と「協働」
〇田村は、「まちづくりと市民参加」についてこういう。「『まちづくり』には、市民が主導し協働して行うルートが重要である」。「行政の都合による市民参加は、『みせかけ』あるいは『「宥(なだ)めすかし』という意味になりかねない」。「市民協働の動きが活性化することは、市民が市民としての自覚をもって自治体を他治体から本来の市民政府へと変えてゆく動きになろう」。「市民政府は、市民参加の到達点でもある」([7]158~159頁)。
〇すなわち、田村にあっては、市民参加は単なる「意見聴取」の儀礼ではない。田村は、アメリカの社会学者アーンスタインが1969年に発表した8つの「市民参加の階梯」を参考に、「市民参加の理論的9段階」の参加モデルを提示した(図1参照。[8]134~141頁)。このモデルにおいて重要視されたのは、行政への「住民参加」ではなく、住民の自発的活動への「行政参加」という、主客を転倒させた協働のあり方である。これは玉野井の地域主義とも深く共鳴する視点であり、行政を「市民の事務局」([9]55頁)として再定義する試みであった。

図1 田村明の市民参加の段階論

4 市民自治の思想と「市民の政府」論
〇田村の理論の頂点にあるのが「市民の政府」論である。「市民の」政府とは、「政府が市民の所有物である」という意味である([9]74頁)。すなわち、田村は、自治体を単なる「国の下請け機関」や「中央の出先機関」とみなす従来の地方自治観(「官治」)を真っ向から否定した。田村が理想としたのは、市民が自立・自律して自らの政府を所有し、運営する「民治」([9]85頁)の場としての自治体である(「官治」から「民治」へ)。
〇田村は「市民の政府」が成立するための条件として、外部条件(中央統制や関与の排除、財政自主権の確立)、内部条件(市民の参画、情報公開、説明責任の遂行、政策立案の自主的能力)、そして市民条件(市民の信頼、共同意識、市民としての自己責任)の3層を挙げた([9]75頁)。特に「市民の」という所有格を強調したのは、住民が自治体を「お上」ではなく「自分たちの所有物」として認識することを求めたためである。この徹底した自治の精神は、後に全国の自治体に広がる「自治基本条例(自治体の憲法)」の先駆的モデルとなるのである。

〇以上、田村が説いた「まちづくり」論は、「まちづくり」のプランナーとしての豊富な経験(横浜市における行政経験)と全国各地の実践例の検証に基づいた、帰納的で未来志向型の思考によるものである。とともに、多様な地域現場の歴史的風土や文化を踏まえた、総合的な発想による、市民主導・市民主体の「まちづくり」論である。それは、地方自治(「市民の政府」)の問題として論じられる。
〇田村の言説を要約すれば、まちづくりとは「ヒトづくり」に行き着く。どれほど優れた「モノ」や「シクミ」を整えても、それを使いこなし、共同責任を負う「市民」がいなければ、「まち」は持続しない。田村が横浜で闘い、著作を通じて説き続けたのは、自律した市民が都市の未来(あす)を展望し、創造的な意志をもって主体的に「まち」に関わる姿であった。玉野井が思想として描いた「新たな市民」は、田村の実践によって「自律的市民」という具体的な主体として顕在化したのである。この市民主体をいかに組織化し、地域の課題解決に繋げていくか、その手法のひとつが山崎が説く「コミュニティデザイン」である。

Ⅲ 山崎亮と「コミュニティデザイン」の技法

〇2000年代以降、急速な人口減少と少子高齢化、さらには地方自治体の財政難に直面するなかで、既存の「ハコモノ行政」は限界を露呈する。そこに登場したのが、山崎が提唱する「コミュニティデザイン」である。山崎は、自らを「モノをつくらないデザイナー」と定義する。その仕事は、広場や建物の形状を設計することではなく、「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくる」ことにある。これは、まちづくりのパラダイムを「施設(ストック)」の完成から、そこを使いこなす「人間関係(フローとネットワーク)」の構築へと決定的にシフトさせた。コミュニティデザインとは、いわば地域の人間関係を観察し、地域資源を掘り起こし、住民自らが課題を乗り越えるための「しくみ」をデザインする方法の体系である。コミュニティデザイナーは、地域の課題を住民自らが解決するための「場」をデザインするファシリテーターである。

1 コミュニティデザインの4段階
〇山崎にあっては、コミュニティデザインの方法は、基本的には次の4段階によって進められる。第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」である([10]180~195頁)。

第1段階:ヒアリング(情報の深掘り)
〇単なるアンケート調査ではなく、地域のキーマンや「面白い活動」をしている個人の話を直接聴くことで、目に見えない地域の人間関係や資源を可視化する。
第2段階:ワークショップ(課題の共有と拡散)
〇ブレーンストーミングやワールドカフェなどの手法を用い、フラットな対話の場を創出する。ここで重要なのは「正しい結論」を出すことではなく、多様な意見が混ざり合い、住民同士の「共感」が生まれるプロセスそのものである。
第3段階:チームビルディング(主体の組織化)
〇出されたアイデアを実現するために、誰が何を担うのかを決定し、実行チームを構築する。この際、リーダーシップをデザイナーが振るうのではなく、住民が自発的に役割を引き受けるよう促す。
第4段階:活動支援(伴走と自立)
〇チームの初動期を支えつつ、徐々にデザイナーの介入を減らしていく。最終的にデザイナーがいなくなっても、住民たちが自立して活動を継続できる状態(自律的運営)がゴールとなる。

〇こうしたプロセスを実践するうえで、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」という4つの「読み取り能力」と、そのうえでどう行動するかという能力、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力、がそれである([10]219~220頁)。

2 「縮充社会」における参加の論理
〇山崎の言説における重要なキーワードのひとつに、「縮充」がある。これは、人口や税収が「縮小」しながらも、地域の営みや住民の生活が「充実」していく状態をいう([11]17頁)。この縮充を実現するための最大のエンジンが、主体的・創造的な活動を行う「市民」の「参加」である。 参加には、「参加」→「参画」→「協働」(コラボレーション)の発展性がある([11]68頁)。この参加を確かなものにし、課題解決の道を開くのは、地域現場での「学び」である。「地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得すことに勝る教育はない」([11]355頁)、と山崎はいう。
〇そして、行政への住民参加(住民活動の原動力)には、「住民がやりたいこと」「住民ができること」「行政が求めていること」の3つがある。この3つ輪が重なるところに、縮充の時代に求められる「参加」「参画」「協働」のヒントがある([11]146頁)。山崎によれば、この3つの輪を「自分がやりたいこと」「自分にできること」「社会が求めていること」と書き換えれば、人生を傾けて取り組める活動を探り当てることができるのである([1]426頁)。
〇また、山崎は、「楽しさなくして参加なし」「参加なくして未来なし」と断言する([11]18~19頁)。「楽しさ」は参加型社会の重要なキーワードである([11]36頁)。かつての住民運動が「反対」や「防衛」という悲壮感を伴う正義感に支えられていたのに対し、山崎が説く参加は「楽しさ(喜び)」を原動力とする。どんなに正しい取り組みであっても、つまらなければ継続しない。活動そのものが個人の生活や人生を豊かにし、他者との交流と協働のなかに価値を見出せる「活動」へと昇華されたとき、「参加」は社会変革の有効な手段となるのである。

〇ここで、小滝敏之の「縮減社会」に関する言説について付記しておく。小滝は、人口減少に伴う「縮減社会」の到来を単なる量的縮小として捉えるのではなく、その背景にある社会の質的変化と、それに対抗するための「地域自治・生活者自治」の理念を歴史的・理論的に論述する。
〇小滝はいう。縮減社会について論じるにあたって危惧すべきは、質的縮減の側面である。すなわち、家族機能や地域における共助機能の縮減であり、社会的連帯やコミュニティ意識の縮減である。こうした地域社会をどうしていくのか、どう変えていくのかを決める主役は、政治家や行政官などではなく、地域社会の生活者住民に他ならない。地域で暮らす生活者住民(小さき民)の「内発性と自治」こそが、自らの基盤である地域社会を守り育てていく根幹である(「生活者自治」)。共助や連帯の精神を再生・創造するのは、中央や地方の政府の権限や責務以上に、住民自身の責務であり、生活者住民の主体的努力と自治意識である([12]133、188頁)。
〇この生活者住民の生活世界を考えていくにあたっては、「他律」対「自律」、「統治」対「自治」、「競争」対「協力」という対立図式ではなく、また一方的に「自律」や「自治」の優位性を説くのみではなく、最終的には、「他律」と「自律」の両立・共存をめざし得る「相互律(アレロノミー)」の観点が必要となってくる([12](ⅵ~ⅶ頁)。

〇このように、山崎が提示したコミュニティデザインや小滝が理論化した「生活者自治」の思想は、玉野井や田村が追求した「地域主義」や「市民自治」を、現代の「縮小・縮減の時代」においていかにして「充実」へと転換させるかという、ひとつの回答である。 「縮充する時代の行方には、正解もなければゴールもない。『学び』というインプットと『活動』というアウトプットを、つねに市民が繰り返している状態にこそ大きな意味がある」([11]440頁)と、山崎は結論づける。まちづくりは終わりのないプロセスである。このプロセスにおいて形成される「活動する市民」のあり様が次の山下によって問われる。

Ⅳ 山下祐介の「地域学」と抵抗の認識論

〇人口の高齢化によって「限界集落」(大野晃、1991年)はいずれ消滅する、とその危機が声高に叫ばれるようになったのは2007年頃からである。2014年、増田寛也らによるいわゆる「増田レポート」が公表され、「地方消滅」という言葉が日本中を席捲した。若年女性人口の減少率を指標に、2040年までに全国の約半数の自治体が消滅の危機に瀕するという予測は、地方自治体にパニックに近い衝撃を与えた。
〇そうしたなかで山下は、「高齢化によって消滅した集落」はなく、「限界集落」問題はいわば「つくられた」ものである。増田レポートが説く「極点社会」(大都市圏に人々が凝集し、高密度のなかで生活している社会)におけるひとつの道筋である「選択と集中」は、国家の繁栄のために地方(地域)や農家の切り捨てに帰結する。地方消滅の “警鐘” にこそ地方消滅の “罠” がある、としてそのレポートが孕む欺瞞性を暴いた。以後、山下は、この国家的プロジェクトに抗うために、住民が自らの地域を「消滅するもの」としてではなく、「生き続けてきた場所」として捉え直す、根本的な「認識の転換」が必要であると説く。そして、生身の人間の暮らしや個々の地域の歴史や現在の実像を明らかにし、そこからの学びの作業を通して「地域学」を描くのである。

1 「地域の殻」と地域を捉える3つの層
〇山下にあっては、地域は人間の生存の基盤であり、「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」。自分の足元にある地域について学ぶこと、それが「地域学」である([13]11頁)。山下が提唱する「地域学」の核心は、地域をひとつの「殻」として捉える視座にある。この殻は、外部(国家や市場)からの過渡な干渉を遮断し、内部の生命活動を守るための防壁である。近代化の過程で、地域はこの殻を剥ぎ取られ、国家という巨大なシステムのなかに直接組み込まれてしまった。その結果、地域特有の知恵や慣習、自治の能力は「非効率」として切り捨てられた。山下は、「地域の殻を破らせまいと補修し、地域を外側の圧力から守り、内側の体制を固める運動」が地域学(「抵抗としての地域学」)である、と主張する([13]301頁)。それは閉鎖的な排除ではなく、自らの生活基盤を自ら決定するという「自己決定権」の奪還に他ならない。
〇そして山下は、地域の実像を、「生命」「社会」「歴史と文化」の3つの切り口(認識の層)から捉える([13]11頁)。「生命」では、環境社会学の視点・視座から、地域を、一定の環境のなかで育まれる生命の営み(生態)として切り出す。地域は人間が食べて寝て、生命を維持する基盤であり、生命の再生産の場である。「社会」では、農村社会学や都市社会学、家族社会学の視点から、地域を、そこで展開される人々の集団の営みとして描き出す。地域は、相互扶助の構造と機能をもつ場である。「歴史と文化」では、歴史社会学や文化社会学などの視点から、地域を、連綿と続く歴史と文化の蓄積の営みのなかに見出す。地域は時間的・空間的なつながりによって確立される場である。これら3層の認識を深める方法が「地域学」であり、それは「上(中央)」からの統計値に依存しない、自律的な知の構築である。

2 学校教育の分岐点と「地域学」の意義
〇山下は、学校教育のあり方が「国家・国際競争への貢献」と「地域社会の継承」という二項対立の分岐点にあることを指摘し、真の学びの意義を問い直す。現代の学校では、国際競争に勝ち抜くための経済的・生産的戦力となる国家人や国際人の育成が最優先され、地域社会の視点が軽視されている。学校は単なる人材供給装置である以上に、一人ひとりが自律的な人生を送れるよう「人としての成熟」を促す場であるべきである。人々の暮らしが地域と国家の双方で成り立っている以上、地域を担う人材を育てることは学校にとって不可欠な役割である([13]287~288頁)。
〇教育が「国家・国際社会への人材供給」に偏るなかで、山下が提唱する「地域学」は、抽象的な言語や普遍的な理論を学ぶものではなく、具体的な時空にいる私を、地域のうちに “生きているもの”として浮かび上がらせ、見定めていく、そんな学びの作業である」([13]16頁)。

3 国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへ
〇現在の日本社会では、弱者批判や地方の切り捨て、挙国一致体制の強化を容認するような、全体主義的・専制主義的な言説が広がっている。しかし、国家とは本来、地域の現実や国民の力によって「下から」形成されるべきものであり、排除や分裂を伴う国家体制は危うい([13]295頁)。
〇国家と個人の関係のみを重視する「ナショナリズム(国家主義)」には根本的な欠陥がある。一方で、国家そのものを否定しようとする、超個人主義=脱国家主義的な「コスモポリタニズム(世界市民主義)」も、現実的な解決策にはなり得ない。両者には、人々が実際に生活を営む基盤である「地域」という視点が欠落しているからである([13]296、297頁)。
〇危険な一国ナショナリズムの暴走を食い止め、社会を変革する鍵は、コスモポリタニズムではなく、国家の内部に「地域主義(地域ナショナリズム)」を確立することにある。地域という具体的な現場から国家を捉え直すことで、現在の閉塞した国家体制を克服できるのである([13]297~298頁)。

〇山下の地域学は、「認識」の主権を取り戻すことを迫る。国・中央が決めた「消滅」のカウントダウンに従うのか、それとも足元の土に根ざした「生存」の物語を紡ぎ直すのか、である。山下の説く「抵抗」とは、暴力的な拒絶ではなく、自らの足元の地域について知ること、考えることに基づく自治の表明である。国家と個人の二極化が招く全体主義的な危うさを回避するためには、抽象的な世界市民をめざすのではなく、地に足のついた「地域の自律」こそが、不健全なナショナリズムへの有効な対抗手段になるのである。

〇ここで、山下が提唱する「地域学」の認識運動を、より住民の日常的な実践へと引き寄せた先駆的試みとして、吉本哲郎や結城登美雄らによる「地元学」の言説を交差させておく必要がある。吉本らの「地元学」は、「ないものねだり」の地域づくりから「あるもの探し」への転換を提唱し、住民自らが地域の自然、文化、そして人々の「暮らしの技」を「聞き書き」等によって調査・再発見していく活動である([14][15])。これは山下のいう「生命・社会・歴史と文化」の3つの層を、行政や研究者の統計データとしてではなく、住民自身が五感を使って身体化していく「土着の認識運動」に他ならない。とりわけ、地域の高齢者が持つ生活の知恵や歴史を「地域の資源」として光を当てるプロセスは、高齢者を単なる「福祉の客体(要介護者)」から「地域の主体・表現者」へと反転させる。このように、「地域学」が提示するマクロな抵抗の認識論は、「地元学」というミクロな生活現場の技法を媒介することによって、住民自らが主体的・能動的に取り組む持続可能な地域づくり(コミュニティデザイン)の実践へと接続・昇華されるのである。

Ⅴ 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル
―「楽しさ」と「抵抗」が拓く「ふくし」―

1 4つの理論の限界と統合
〇以上のように、従来の「まちづくり」研究は、多様な領域において蓄積されてきた。しかし、その多くは個別領域ごとの議論に留まり、相互の理論的接続は必ずしも十分ではなかったといえる。玉野井らによって提唱された「地域主義」論は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その要因のひとつは、地域共同体が消滅していくなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、いかにして「地域主義」の実現を図るかという方法論が必ずしも明確ではなかったことにあった。
〇田村らによって論究されてきた「まちづくり」論は、都市計画論や地域計画論を中心に展開される傾向が強く、土地利用、景観形成、インフラ整備、制度設計といった「空間管理」の問題に重点が置かれてきた。住民参加や協働の重要性が指摘されているものの、行政計画への参加手法として位置づけられるに留まり、「地域を担う主体がいかに形成されるのか」という市民形成の問題については十分に掘り下げられているとはいえない。
〇一方、山崎らによって展開される「コミュニティデザイン」論は、人口減少社会における地域再生の具体的方法論として大きな影響力をもってきた。ワークショップ、対話、チームビルディングなどを通じて住民参加を促し、地域課題の解決を図るその実践は、従来のハード中心型のまちづくりを転換する重要な契機となった。しかしその反面、参加を促進する技法やファシリテーションの側面に議論が集中しやすく、その実践を支える思想的・政治的基盤、あるいは主体形成論との接続については十分に理論化されているとは言い難い。
〇また、山下らによる「地域学」論は、「地方消滅」論への批判や、地域を足元から学び直す認識運動として重要な意義をもっている。地域を「生命」「社会」「歴史と文化」の重層的空間として捉えるその視座は、中央集権的な地域認識を問い直す強力な批判性を有している。しかし、地域学論においても、その学びがどのように地域自治や実践的市民形成へと接続されるのかという教育的・組織論的視点は、なお十分に展開されているとはいえない。

〇このように、これら4人に代表される「地域主義」「まちづくり」「コミュニティデザイン」「地域学」に関する言説は、それぞれ固有の領域において多大な成果を蓄積してきた。しかしその一方で、地域を支える自律的市民の形成という核心的な共通の課題に対しては、部分的なアプローチに留まり、包括的・横断的に論じる視座は必ずしも十分ではなかったといえる。そこで、4人の言説を単なる個別の理論としてではなく、「思想/玉野井」「実践/田村」「技法/山崎」「認識/山下」という相互補完的な要素として捉え直し、その動的な結びつきに焦点を当てて整理する。これにより、それぞれの立論展開の限界を互いに補い合いながら市民形成を促す「『まちづくり』と自律的市民形成の循環モデル」(図2)として構造化することが可能となる。 

図2 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル

 

 循環モデルの具体的な構造
〇まず、外円(外層)は、玉野井が提唱した「地域主義」である。これは、地域の自然・風土・生命の再生産を支える思想であり、すべての営みが立脚する「基盤」を象徴している。この基盤の上に位置する中円(中層)は、田村が説いた「まちづくり」である。これは、市民が主体的かつ共同的に「実践(活動)」を展開する「土俵」であり、学びや実践が一時的な流行に終わらず、自治の制度化を志向する枠組みを意味している。そして、この自治の円環内部で展開される2つの動的な矢印が、本稿の核心である。左側の上昇する矢印は、山下が説く「地域学」による「インプット(認識・学び)」のプロセスである。地域の方向性(行方)や持続可能性(持続)、消滅の是非(限界)などに抗う「知」を構築する。一方、右側の下降する矢印は、山崎が提示した「コミュニティデザイン」による「アウトプット(実践・活動)」のプロセスである。ワークショップなどを通じて関係性を編み、具体的な課題解決を形にする。
〇この「学び」と「実践」が、自治の土俵の上で絶えず往復し、円環状に結ばれるプロセスそのものが、筆者の提唱する「市民福祉教育」の実体である。そして、この絶え間ない循環の「核(中心)」において形成されるものこそが、自らの生と地域を自律的に構築する主体としての「自律的市民」に他ならない。
〇また、この循環モデルにおいて、4人の言説を底流で結びつける共通のキーワードは「コモンズ」である。玉野井の「生態系」、田村の「共同の場」、山崎の「関係性」、山下の「地域の殻」は、いずれも国家や市場に囲い込まれない「地域社会の共有財」に他ならない。本モデルが示す自治の円環とは、住民自らがこのコモンズを共同で管理・運営していくプロセスである。すなわち「自律的市民」とは、共有財への能動的な責任を引き受け、その維持発展を担う主体として定義されよう。
〇同時に、これら4人の言説は、時代背景やアプローチこそ異なるものの、その深部において「自律的主体の形成」と「地域の再生」という共通の地平をめざしている。玉野井が求めた「新たな市民」は、市場経済の抽象的な個人を超え、エコロジーと風土に根ざした「生活者」であった。その思想を受け、田村は行政の内部から「市民の政府」を提唱し、住民が自治の責任を負うための具体的な制度的枠組みを提示した。さらに山崎は、縮充社会という現代的課題に対し、「コミュニティデザイン」という手法を用いて、楽しさを媒介とした「関係性の再構築」を実現した。そして山下は、国家主導の「消滅論」という認識の罠を暴き、足元からの「地域学」を抵抗の知として再定義したのである。これら4人に共通するのは、地域を単なる「管理の対象」や「サービスの享受場所」とみなす客体化を拒絶し、そこを「人間が自らの生を自律的に構築する舞台」として奪還しようとする強烈な意志である。
〇本稿で探究する「まちづくりと市民福祉教育」は、これら4人の言説が交差する点に立ち上がる、新たな教育・実践のパラダイムである。それは、既存の学校教育や福祉制度の枠内で行われる「知識の伝達」ではない。市民福祉教育とは「自分たちの暮らしの幸せを、自分たちの手で創り出すための知識と技能を、地域という現場での実践を通じて学び合うプロセス」そのものである。
〇山下が説く「地域学」というインプットの場と、山崎が説く「コミュニティデザイン」の場が、田村が整えた「自治の制度」の上で円環状に結ばれるとき、住民は「教えられる存在」から、自らの生活圏をデザインする「市民」へと脱皮する。この「学び」と「実践」の不断の往復こそが、市民福祉教育の本質に他ならない。

3 本モデルがめざす実践と「ふくし」
〇現代日本が直面する人口減少や資源の制約は、一見すると「福祉の後退」を意味するように見える。しかし、本稿が考察してきた言説を補助線に引けば、それは一面では、真の「ふくし」へ立ち返る好機であると捉え直すこともできる。外部資本や公的制度に過度に依存するのではなく、地域にある未利用の資源を「発見」し(山下)、住民同士の「関係性を編み直し」(山崎)、それを支える「自治のルールを創設」し(田村)、その営みのなかに「自然との共生という倫理」を組み込む(玉野井)。このプロセスは、経済的な拡大を至上命題としてきた近代モデルからの決別であり、豊かさの質を「縮充」へと転換させる試みである。
〇「まちづくりと市民福祉教育」がめざす地平は、誰かに守られるだけの弱者を見出し支援する場所ではない。互いの弱さを認め合いながら、ともに「共同の場」(コモンズ)を創造・運営していく強さをもった市民・主体を育む場所である。そこでは、住民一人ひとりが自らの足元を学び直し、住民同士が対話を重ね、みんなで小さな実践を積み重ねることによって共通認識や信頼関係(ネットワーク)という土台を築くことが肝要となる。「まちづくり」とは終わりのない認識運動である。
〇「楽しさ」と「抵抗」を胸に、自律的な市民が「ふだんの  くらしの  しあわせ」を語り合い、形にしていく。その連鎖・共働の先にこそ、消滅することのない、真に持続可能な地域社会の姿があるのである。

おわりに

〇本稿で考察した「まちづくりと自律的市民形成の循環モデル」を机上の空論に終わらせず、実際の地域社会で機能させるためには、今後いくつかの重要な課題に対応することが求められよう。ひとつは、「まちづくり」の活動や担い手の固定化を防ぐために、如何にして多様な市民を巻き込み、連携・共働していくかという点である。一部の層に依存しない、多様な主体が緩やかにつながる仕組みづくりが不可欠となる。いまひとつは、住民の主体性・自律性を引き出し、それを側面から支える「伴走型」の支援体制を如何に確立するか、である。行政や専門職には、主導ではなく、市民の力を如何に引き出し、共働するかという役割転換が求められる。今後は、これらの課題を踏まえ、SNSを用いた多様な主体のネットワーク化や、AIの利活用による地域課題の可視化や効率的な伴走支援など、デジタル技術の進展に伴う時代変化に対応した持続可能な仕組みへと本モデルをアップデートしていく必要がある。

引用・参考文献
(1)玉野井芳郎(1977)『地域分権の思想』東洋経済新報社(本文[1])。
(2)玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房(本文[2])。
(3)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会(本文[3])。
(4)玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司編(1978)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』学陽書房(本文[4])。
(5)田村明(1987)『まちづくりの発想』岩波新書(本文[5])。
(6)西村幸夫編(2007)『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店(本文[6])
(7)田村明(1999)『まちづくりの実践』岩波新書(本文[7])。
(8)鈴木伸治編(2016)『今、田村明を読む―田村明著作選集―』春風社(本文[8])。
(9)田村明(2006)『「市民の政府」論―「都市の時代」の自治体学―』生活社(本文[9])。
(10)山崎亮(2012)『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書(本文[10])。
(11)山崎亮(2016)『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所(本文[11])。
(12)小滝敏之(2016)『縮減社会の地域自治・生活者自治―その時代背景と改革理念―』第一法規(本文[12])。
(13)山下祐介(2021)『地域学入門』ちくま新書(本文[13])。
(14)吉本哲郎(2008)『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書(本文[14])。
(15)結城登美雄(2009)『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』農山漁村文化協会(本文[15])。

【初出】
阪野貢「追記『まちづくりの思想としての地域主義』を考える―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2021年5月20日公開)
阪野貢「改めて、田村明を読む―『まちづくり3部作』について―」(同、2017年10月1日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第7章
福祉教育論の再考と現代的展望
―大橋謙策の思想的源流から―

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はじめに

〇「福祉教育」実践と研究はこれまで、一面では、子どもと高齢者、健常者と障がい者、ICIDH(国際障害分類)とICF(国際生活機能分類)、排除と包摂、対立と共生、などの二項対立的な分かりやすさのなかで論じられ、取り組まれてきた。その際、「協同実践」(参加者が相互に学び合う関係性)の重要性が指摘されながらも、主体と客体の関係性を前提にしがちであった。しかも、包摂や共生の概念的・抽象的な思考や理解にとどまり、日常の地域生活場面においてその感覚化や生活化、行動化を促すことに必ずしも主体的・積極的であったとはいえない。
〇そして、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現が叫ばれるようになって久しいが、包摂や共生が未だ「お守り言葉」(鶴見俊輔)として使用されている感がある。それは、人々を思考停止に陥らせたり、ある種の刷り込みを可能にする恐れなしとしない。その要因や背景については、(1)福祉教育がその存立基盤となる原理論や思想・哲学への探究を等閑視してきたこと。(2)福祉教育の実践科学としての側面、すなわちハウツーや手法の提供に偏重してきたこと。(3)福祉教育がその固有性や自律性を十分に追究せず、学習内容や方法が確固たるものになっていないこと。(4)福祉教育が「政治」(福祉政治と教育政治)と対峙せず、「政治的リテラシー」(政治的判断力や批判力)についてほとんど言及してこなかったこと、などを挙げることができる。
〇その結果、福祉教育は、政府・行政主導による福祉・教育改革の推進が図られるなかで、以前にも増して統制的で定型化された実践活動となりつつある。その弊害は、筆者が耳にする次のような声にも顕著に表れている。すなわち、「他地域の実践事例を見聞しても、以前のように『ワクワク感』が沸かなくなってきた」「福祉教育が学校現場の課題やニーズに即した形で十分な進展を見せているとはいい難い」「現場実践と研究活動は不可分であり、両者の往還関係を構築することが肝要であるが、両者の間に乖離が生じている」などの指摘がそれである。
〇そういうなかで、いま求められるのは、歴史的視点や哲学的思考を重視しながら、福祉教育の原理論を探求し、福祉教育とは「そもそも何か」、それは「いかにあるべきか」、「いかに取り組むべきか」を、混迷する現場のリアリティや実践と切り結びながら、本質的・根源的に問い直すことである。
〇そこで本稿では、日本における福祉教育研究の草分けであり泰斗である大橋謙策の「福祉教育論」を再考の基軸に据え、その解説的考察を通して「大橋福祉教育論」の継承と新たな福祉教育論展開の課題や方向性を見出すことを目的とする。

Ⅰ 「大橋福祉教育論」の思想的基盤と理論構造

〇福祉教育とは、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(「学校外における福祉教育のあり方と推進―福祉教育研究委員会中間報告―」全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、15頁)。

1 福祉教育の概念規定
〇これは、周知の通り、福祉教育の「原理論」と評される大橋謙策による福祉教育の概念規定である。40年以上も前のものであるが、今日においてもしばしば引用される。この概念規定以外にも、「福祉教育とは何か」について論考したものは複数、捉え方によっては多数あるが、大橋のそれがよく援用される。それは、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因するといってよい。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的な定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのであろう。
〇周知のように、全社協・全国ボランティア活動振興センターが1980年9月、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を設置し、翌1981年11月に「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」について研究の中間成果を報告した。委員会の設置は、全国各地で福祉教育実践の進展が図られ、学校における福祉教育のあり方について一定の理論的整理が求められるようになってきたことへの対応であった。次いで、1982年9月に第2次の「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設置され、翌1983年9月に「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告がなされた。
〇大橋の福祉教育の定義は、第1次ではなく、「第2次福祉教育研究委員会」(在京研究委員会)報告のなかで記されている。そこではまた、次のように述べられている。「社会教育行政における福祉教育の促進には二つの視点が『車の両輪』としてなければならない。第一は、国民が社会福祉問題を学習し、それへの関心と理解を促進させる福祉教育活動の促進であり、第二には、今日の社会福祉問題の中心的課題を担っている障害者、高齢者の社会教育(学習、文化、スポーツ活動)の促進である」(15頁)というのがそれである。後者(「第二」)に関してはさらに、「今日の社会福祉サービスの主たる対象である障害者、高齢者の学習、文化、スポーツ活動を豊かに促進させることが、国民の障害者観、老人観を変え、ひいては社会福祉観を変えて、ともに生きていく街づくりをすすめる上で重要」(16頁)であるとされた。
〇ところで、大橋のこの概念規定は、全社協の「第2次福祉教育研究委員会」報告以前の1982年3月、神奈川県の「ともしび運動促進研究会」(委員長・大橋謙策)が編集し、「ともしび運動をすすめる県民会議」が発行した『ともしび運動促進研究会中間報告』で述べられている(4頁)。「ともしび運動」は、当時の長洲一二県知事の提唱によって、1976年10月から展開された行政・県民協働の福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動である。具体的には、「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」などをその目標とし、「『ともしび運動』によって進められるべき課題の第一は “福祉教育の促進” である」(4頁)とされた。
〇以上を要するに、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて高齢者や障がい者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視座に注目しないと、その定義や言説を読み解くことはできないということである。

1)福祉教育と「社会福祉問題」
〇先に記した大橋の福祉教育の概念規定について、その構成要素を弁別すると次のようになる。(1)憲法第13条、第25条等に基づく人権思想をベースにする。(2)歴史的・社会的存在としての社会福祉問題を素材とする。(3)社会福祉問題との切り結びを通して、社会福祉制度や活動への関心と理解を進める。(4)社会福祉問題を解決する実践力を身につけるために、実践に基づく体験学習を重視する。(5)「自立と連帯の社会・地域づくり」の主体形成を図る、などがそれである。
〇大橋の概念規定における鍵概念のひとつは「社会福祉問題」である。大橋は、1981年2月に刊行された吉田久一編『社会福祉の形成と課題』(川島書店)所収の論文「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加―」(231~249頁)で、高度経済成長期以降、「社会福祉問題の国民化と地域化」(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、3~11頁)が進んでいる。そうしたなかで、地域の福祉問題を解決するためには、それができる「住民の形成とネットワークづくり、とりわけそこにおける住民参加の問題」(238頁)が重要であり、焦眉の課題であるとする。そのうえで、地域福祉の主体形成のための福祉教育の必要性と、福祉行政の「地方分権主義」への転換を図り、地方自治体が自律性をもって「地域社会福祉計画」を住民参加のもとに策定することの必要性を指摘している。
〇福祉教育が学習素材とする「社会福祉問題」、とりわけ高度経済成長期以降のそれは、大橋にあっては「戦前の大河内一男の社会政策と社会事業という整理や戦後の孝橋正一の社会問題と社会的問題という整理でも、包含できない課題として創出されてきた」(231頁)。公害・環境問題と外的な生活破壊、過疎問題と家庭破壊、過密問題と生活の共同的集団的再生産機能の減退と不安定化、合理化・機械化による生活リズムの破壊や老人福祉問題の深刻化などが、「従来の問題にくわえてあらわれてきた」ものである(232~234頁)。
〇地域住民のこれらの具体的な生活破壊の「状況」については、簡潔明瞭にカテゴライズしても、また他の領域や次元の「状況」で説明するだけではその本質に迫ることはできない。社会福祉問題の分析は、それを現代社会の仕組みと運動法則によって必然的に生み出される歴史的・構造的な「社会問題」として、社会科学的に捉えることによってはじめて可能となる。そうした分析のうえで、その問題解決に向けて、批判的・論理的かつ創造的に思考・判断・実践する「力」の育成・向上をいかにして図るか。そのための福祉教育実践の具体的展開について検討することが求められる。
〇この点を別言すれば、福祉教育における「社会福祉問題」の本質は、社会構造に起因する歴史的側面と、個々の住民が直面する具体的な地域生活上の課題という、重層的な視点から把握されなければならない、ということである。
〇以下に、上記の論文から、「福祉教育と地域福祉の主体形成」に関する記述を抜粋(引用)する。これにより、大橋の「福祉教育の理念と実践の構造」についての言説の基本的部分(論理的特質)を概観・俯瞰することができる。

福祉教育は、国民が社会福祉を自らの課題として認識し、福祉問題の解決こそが社会・地域づくりの重要なバロメーターとして考え、共に生きるための福祉計画づくり、福祉活動への参加を促すことを目的に行なわれる教育活動である。したがって、福祉教育は少なくとも次の諸点を構成要件として意識的に行なわれてこそ意味がある。
第一は、差別、偏見を排除し、人間性に対する豊かな愛情と信頼をもち、人間をつねに“発達の視点”でとらえられる人間観の養成、第二に社会福祉のもつ劣等処遇観、スティグマ(恥辱)をなくすことが必要で、そのためには国民の文化観、生活観を豊かにすることに他ならないこと、第三に、人間は人々との豊かな交流の中で生きる以上、生活圏の狭い障害者等の社会福祉サービス受給者の生活がいかに非人間的であるかをコミュニケーションの手段も含めてとらえられること、第四に複雑な社会における歴史的、社会的存在としての福祉問題を分析できる社会科学的認識が必要なこと、第五に今日の福祉は、福祉行政の中でも細分化されているが、その解決には関連行政たる労働行政、教育行政、保健衛生行政などを含めて地域的課題を総体的にとらえる力が必要であること、の五つを基本に、情報の周知徹底、体験・交流などによって感覚として体得することなどが方法論的にも加味されて、はじめて福祉教育の実践といえる。
福祉教育は、住民の福祉意識を変え、福祉問題をトータルにとらえ、問題解決のための福祉計画づくり、具体的解決のための実践などを行なえる住民の形成であり、それこそ地域福祉の主体形成といえよう。(243頁)

2)福祉教育と「地域福祉の主体形成」
〇大橋は、岡本栄一によって「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」と評されるように、「地域福祉の主体形成」を重視する。その点について、大橋は、前記の著書『地域福祉の展開と福祉教育』において、「地域福祉の主体形成のしかたと主体として形成されるべき力量には、次のような7つのことが考えられる」とした。(1)社会福祉に関する情報提供による関心と理解の深化。(2)地域福祉計画策定への参加と政策立案能力。(3)社会福祉行政のレイマンコントロール(政治や行政の一部を一般市民に委ねること:引用者注)。(4)社会福祉施設運営への参加。(5)意図的、計画的な福祉教育の推進。(6)地域の社会福祉サービスへの参加(ボランティア活動)による体験化と感覚化。(7)社会福祉問題をかかえた当事者の組織化と当事者のピア(仲間、peer)としての援助、がそれである(46頁)。その後、大橋は、この「地域福祉の主体形成」(「住民の主体形成」)の7つの「枠組み」を整理し、「『地域福祉の主体』形成には、4つの課題がある」として、4つの主体形成の枠組みを提示する。すなわち、(1)地域福祉計画策定主体の形成、(2)地域福祉実践主体の形成、(3)社会福祉サービス利用主体の形成、(4)社会保険制度契約主体の形成、である(大橋謙策『地域福祉論』放送大学教育振興会、1995年3月、75~82頁)。それは同時に、福祉教育の課題でもある。
〇この大橋の4つの主体形成については、7つから4つに綺麗に整理・集約された故にか、4つの側面が並列的に理解されがちで、その内的・構造的な相互関連性の把握を困難なものにしている。主体としての「住民」は、基本的には労働主体と(労働以外の)生活主体の統一的存在であろうが、政治主体・経済主体・文化主体であり、また地域の自治主体や変革・創造主体でもある。「住民」はこれらの側面を重層構造的にもつ存在である。地域の自治主体や変革・創造主体に関していえば、住民主体の社会福祉問題の解決や「自立と連帯の社会・地域づくり」を推進するためには、個人的主体形成のみならず集合行為主体や運動主体の形成が必要かつ重要となる。こうしたことを踏まえたうえで、地域福祉(住民)の主体形成を促進する福祉教育実践の内容や方法について具体的に検討することが肝要となる。

3)福祉教育と「ケアリングコミュニティ」
〇大橋の福祉教育論の基底に「ケアリングコミュニティ論」(大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房、2014年4月)がある。「ケアリングコミュニティ」(caring community)とは、看護の領域で用いられてきたケアリング(「世話をする」「面倒を見る」「思いやる」といった行動)の考え方をコミュニティにまで広げて展開しようという考え方である。
〇大橋のケアリングコミュニティ論を大胆に要約すれば、次のようになる。(1)人間存在の本質に「ケアする」「ケアされる」関係性がある。(2)ケアは自己実現を図ることに関わる営みである。(3)ケアの考え方の構成要素として「6つの自立」がある(① 労働的自立・経済的自立、② 精神的・文化的自立、③ 身体的・健康的自立、④ 生活技術的・家政管理的自立、⑤ 社会関係的・人間関係的自立、⑥ 自律的意見表出的・契約的自立)。(4)ケアリングコミュニティをつくる考え方を「コミュニティソーシャルワーク」という。(5)ケアリングコミュニティの実現には「地域福祉の4つの主体形成」(前述)が重要になる。(6)地域福祉の“主体形成に向けての学習”が必要である、がそれである。これらのうち、特に(6)について、大橋は次のように述べる。

(地域福祉の)主体形成や市民活動は自然発生的にはつくれない。そこには“主体形成に向けての学習”が必要である。フランス市民革命が、「博愛」という哲学、あるいは社会契約という理念を具現化させていく上で、成人の“理性”が重要で、その“理性”を身につけるために成人の社会教育を公費で行うべきであるとした点は注目に値する。(中略)住民が生活者としてのエゴイスティックなままでなく、地方自治体のあり方に参画できる「市民」としての力量、あるいは国のあり方も含めて「博愛」と「社会契約主体」を身につけて行動できる「公民」としての主体形成が今求められている。(15~16頁)

〇大橋が指摘するように、「主体形成」や市民活動は自然発生的なものではなく、それに向けての目的意識的な「学習」が必要になる。地域福祉の主体形成は、(1)地域住民が地域の社会福祉問題を発見する・気づくことから始まる。(2)その問題や課題を「ひとごと」ではなく「自分ごと」として認識する。(3)それを「みんなごと」として共有し、共通認識を深める。(4)その問題や課題の本質をみんなで認識し理解する。(5)組織的かつ変革的・創造的に課題解決を図ることのできる「力」を獲得する。(6)それを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。(7)そしてその過程を振り返り(リフレクション)、(8)そこから得た知見をもとに次の新たなアプローチを試みる(主体形成のサイクル)。こうした主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる「善行」にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することにもなる。また、主体形成の強調は、その一方で国や行政の責任や役割の矮小化、地域住民への「丸投げ」を招くことにもなる。福祉教育は「両刃の剣」になりかねない、といわれるところである。留意したい。

4)福祉教育と「博愛の精神」
〇大橋は、『新訂 社会福祉入門』(放送大学教育振興会、2008年3月)において、住民と行政との関係についてこういう。それは、「上下の関係で捉えるのではなく、住民の自立と連帯を前提にし、対等の立場で問題解決を図る新たな社会哲学、社会システムが求められ、社会福祉のような歴史的に国の『社会の制度』として発展してきたものも従来にない発想が求められている」(30頁)。そして、次の3つの「思想」を取りあげる。(1)フランスの近代市民革命の際にうたわれた「博愛」の思想(「自由」と「平等」を担保する「博愛」)。(2)ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンといった思想(「社会的包摂」)。(3)自分たちで相互扶助組織をつくり、対応しようとする考え方(「協同組合方式」)、がそれである(28~30頁)。
〇そして大橋は、ソーシャルワークの根底にある価値観について次のようにいう。「ソーシャルワークを展開する際の価値の1つは、人間性を尊重し、社会正義と公正を守ることであり、人々の自由と平等を保障することであるが、それらを標榜すればするほど、人々が社会的にも、個人的にも“博愛”という社会の神聖な責務を遂行することが求められる。(そのためには)伝統的な意識と行動を尊重しつつも、新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(227頁)。ここで強調されるのは、戦後日本の教育や社会システムが「自由」と「平等」の追求に偏り、3本目の柱である「博愛」を看過してきたという視点である。それゆえに、現代社会において人間性を回復させるためには、「博愛の精神」を育む福祉教育の充実が不可欠となるのである。「大橋福祉教育論」のポイントのひとつである。
〇ここで併せて、「博愛」に関しては次の諸点にも留意しておきたい。(1)フランス革命は、新興の「ブルジョワジー」(有産階級、中産階級)による革命である。(2)その理念は、「自由、平等、友愛」であり、「自由、平等、博愛」ではない。(3)「自由」は、多様性を保障するが、放置すればアナーキズム(無政府主義)に行き着く。(4)「平等」は、突き詰めれば全体主義や共産主義になり、不自由を生む。(5)「友愛」は、友を愛するのであり、他の宗教や民族は除外される。(6)「博愛」には、「慈善」と同様に、階級差別的な意味合いがある、などである(中川淳一郎・適菜収『博愛のすすめ』講談社、2017年6月、35、98頁参照)。
〇たとえそうした側面があるにせよ、大橋の「博愛の精神」の涵養という主張は、単なる倫理的な呼びかけに留まらない。大橋は、日本の文化的・歴史的背景、特に閉鎖性や儒教的な排除の論理が福祉の理念形成に与える負の影響を深く見据え、その克服のために「博愛」という普遍的価値観を福祉教育の根幹に据える必要性を論じるのである。これは、福祉教育は単なる知識や技術・技能の伝達や個人の意識変革を図るだけではない。社会全体の文化や規範を「博愛の精神」に基づいて再構築することを通じて、社会の根深い構造的差別や排除の論理に抗する「価値観の変革」をめざすべきだという、極めて本質的で哲学的な課題提起なのである。この点において、大橋の主張は、中川らが懸念する博愛の限定性や排他性を超克するものであり、彼らの言説をも包摂する深みを持っている。

2 「大橋福祉教育論」批判
〇以上が、「社会福祉問題」「地域福祉の主体形成」「ケアリングコミュニティ」「博愛の精神」などの鍵概念を中心にみた「大橋福祉教育論」の概括である。こうした大橋の言説に対してこれまで、「地域福祉と福祉教育」を説く地域福祉や福祉教育の研究者からの系統的な批判はあまりみられない。それは、大橋の言説が一定の理論体系を作りあげていることによるが、大橋のそれが「福祉教育原理論」として前提され、そのうえで立論されていることにもよるといってよい。そういうなかで、生涯学習やESD(持続可能な開発のための教育)の研究者である松岡広路が、論文「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」(日本福祉教育・ボランティア学習学会『研究紀要』第14号、2009年11月、8~23頁)において、大橋の言説に批判的考察を加えている。
〇松岡の大橋批判は、大橋の福祉教育の定義は「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、<未分化な学習者像>、<社会福祉活動の内実の曖昧さ>、<楽観的な社会形成ビジョン>、<教育概念の曖昧さ>と約言できる」(13頁)、というものである。そして、松岡は、「脆弱性の高い『福祉教育』の定義に基づいてしまうと、時代の大きな物語に押し流され、重要と思われる要素が外延化され、体制的要素を内包とする対象化(理論化)と実践化が、当然のごとく進んでいく。福祉教育が、現実と理想の拮抗関係の中に位置することを意識し、従来の枠組みを等閑視しないという批判的な姿勢を保つことが、今まさに重要である」(16頁)として、「批判的創造性」の観点の必要性と重要性を説いている。松岡の批判は必ずしも、「大橋福祉教育論」をその理論的体系化の過程も視野に入れて、総合的・体系的に行うものにはなっていない。とはいえ、「社会的・福祉的課題の解決に不可欠な『批判的創造性』が、実践における学びの目標・内容(いわゆる『学びのベクトル』)から排除されている」(16頁)という指摘は、首肯されるところである。
〇いま少し具体的にいえば、「未分化な学習者像」という松岡の批判は、大橋にあっては、社会福祉問題の解決やケアリングコミュニティの形成についての言及が先行するあまり、学習者を単に「子ども・青年・成人」という属性で定義・議論するに留まり、学習主体としての具体性や固有性が等閑視されているという指摘であろう。また、「批判的創造性」の欠如という批判は、福祉教育は本来、学習者が自己の価値観を揺さぶられ、既存の社会構造に疑問を抱き、社会変革を志向するという、「内的な変容」を伴うべきものである。その点の言及を大橋に期待しているのであろう。
〇いずれにしろ、こうした批判的視座は、未来(あす)の社会変革をめざすだけではない。現在(いま)の生活実態を直視し、現実的で具体的な地域生活課題の解決に根ざしてこそ、実践はその脆弱性を克服し、真に持続可能な深化を遂げるのである。

Ⅱ 「大橋福祉教育論」の批判的継承と理論的展開

1 原田正樹の福祉教育論―「協同実践」と「相互依存的自己実現」をめぐって―
〇「大橋福祉教育論」の正統な発展的継承者に原田正樹がいる。原田は、地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究法について考察し、その理論化・体系化を図っている。その著作『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』(中央法規出版、2014年10月)は、大橋の前記の著作『地域福祉の展開と福祉教育』の「今日的な続編でありたい」とするものでもある。福祉教育については、原田は、福祉教育の理論と実践の乖離を指摘し、それを克服するために、学際的・総合的かつ実践的なアプローチによって福祉教育の新たな理念の構築と実践構造の再検討を進める。原田にあっては、「共に生きること、共に学び合うこと」は、福祉教育が大切にしてきた・大切にすべきメッセージである。加えて、原田の、全国社会福祉協議会主催の「全国福祉教育推進委員会」などでの取り組みは特筆されるべきものである。
〇ここで、原田の福祉教育論を素描する。原田にあっては、地域ぐるみの福祉教育が必要かつ重要となるなかで、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動」である(福祉教育推進検討委員会(委員長:大橋謙策)『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』全国社会福祉協議会、2005年11月、5頁)。
〇この規定における鍵概念のひとつ、すなわち原田福祉教育論のそれは「協同実践」である。原田はいう。「福祉教育における『協同実践』においては、専門的な知識や技術の伝達ではなく、福祉の魅力や難しさをみんなで考える。その時には、子ども同士だけではなく、福祉教育実践に関わる大人も含めて相互の学び合いが必要になってくる」(原田正樹『福祉教育の理論と実践方法―共に生きる力を育むために―』全国社会福祉協議会、2022年3月、66頁)。さらにそれは、学校や地域だけでなく、また障がい者や高齢者、地域のボランティアだけでなく、さまざまな関係者や関係機関・団体を福祉教育に巻き込み、「サービスラーニング」の視点による福祉教育実践を協同実践として成立させための組織(「福祉教育推進プラットホーム」)やコーディネーター(「福祉教育推進員」)を求める。とともに、その実践を「内省」(かえりみて見直すこと)し「省察」(ふりかえり考えめぐらすこと)する効果的・総合的かつ創造的なふりかえり(「リフレクション」)を不可欠とする。
〇原田福祉教育論のもうひとつの鍵概念に「相互依存的自己実現」がある。これは、人間の脆弱性を前提としたうえで、個人の自立や自己実現だけでなく、それを乗り越え、関係性のなかで互いに支え合いながらより良く生きること、社会全体の「共に生きる力」の育成を図ることをめざす視点である。すなわちそれは、福祉教育は地域福祉の下位概念・従属概念ではなく、個人の福祉意識を変革させ(「貧困的な福祉観の再生産」の克服)、地域を変革する力の育成を図る営為である、という主張に通底するものである。要するに、「相互依存的自己実現」という概念は、超少子高齢人口減少問題をはじめ多様で複雑な福祉課題を抱える現代社会において、従来の自立支援の限界を乗り越え、より包括的で持続可能な地域社会を構築するための新たなパラダイムを提供するものである。
〇この点を別言すれば、原田は、その主著『地域福祉の基盤づくり』で、「地域福祉を福祉教育によって支えあうことができる社会、ケアリングコミュニティをどう構築していくことができるかを問うことが『地域福祉の基盤づくり』である」(「はじめに」)という。これは、福祉教育と地域福祉が単なる補完関係ではなく、相互に影響し合い、変革を促すダイナミックな関係にあることを示唆するものである。すなわち、福祉教育は地域変革の主体化を図り、個人の意識変革を促す一方で、地域福祉の実践はその意識変革をさらに深化させるのである。そして、ここでいう「ケアリングコミュニティ」とは、原田にあっては、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。それは、地域福祉の基盤づくりである。そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されることを不可欠とする。
〇こうした原田の言説において、「協同実践」は、地域福祉の住民主体形成を説く大橋の主体形成論に、パートナーシップや共創的な意味合いを強めたものである。「相互依存的自己実現」は、大橋が説く「地域自立生活支援の体制づくり」を継承しつつ、その理念を「その体制のなかで誰もが頼り合い支え合う関係づくり」へて深化・発展させたものである、といえよう。

2 阪野貢の福祉教育論―「まちづくりと市民福祉教育」と「共働活動」をめぐって―
〇筆者も、「大橋福祉教育論」を継承する立場の一人である(少なくとも筆者はそう認識している)。筆者は、福祉教育の歴史研究を基盤にしながら、大橋の福祉教育論を継承し発展させつつ、「まちづくりと市民福祉教育」という概念を提示してその理論化・体系化を図ってきた。そのひとつの集大成でもある『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』(みらい、2009年10月)は、従来の学校福祉教育や地域を基盤とした福祉教育の枠を超え、「まちづくり」とそのための「市民性教育」(市民的資質・能力の育成)をめざす福祉教育、すなわち「市民福祉教育」のあり方を探究したものである。
〇筆者は、「市民福祉教育」を次のように規定する。「市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」(70~71頁)。
〇すなわち、市民福祉教育は、「人間の尊厳」「自由・平等・友愛」「平和・民主主義・人権」といった普遍的な人間観と社会観に基づいている。また、現代社会において子どもと大人、障がい者や高齢者などすべての人々の「自立・共生・自治」が問われるなかで、「まちづくり」に参加(参集、参与、参画)する主体的・自律的な「市民」の育成を図る市民福祉教育の重要性を認識し指摘する。それは、「ふくし」は社会的支援を要求する・必要とする人や専門家だけの問題ではなく、市民一人ひとりの日常生活(「ふだんの、くらしの、しあわせ」)と社会全体の平和・安寧・福祉(「みんなが、満足していて、楽しいこと」)に関わる普遍的な課題であるという視点・視座に基づくものである。それはまた、大橋が指摘する「博愛」の欠如や社会の閉鎖性といった問題意識を、より普遍的な市民社会の形成という視点から継承・発展させるものでもある。なお、ここで、「福祉」をあえて「ふくし」と平仮名で表記するのは、それが専門的な制度やサービスに留まらず、住民一人ひとりの日常的な実感(感覚化・生活化)に根ざしたものであることを強調するためである。
〇また筆者は、「福祉文化」の概念を、一番ヶ瀬康子の言説を引用し「福祉の文化化」と「文化の福祉化」が統合されたものとして捉える。前者は、社会福祉は質・量ともに豊かで快適な人間らしい生活を保障するものであること、後者は、障がい者や高齢者を含むすべての人々が文化創造の担い手であることを含意する。そのうえで、「福祉」が単なるサービス提供や社会的支援に留まらず(憲法第25条)、人々の生活そのものを豊かに快適にし(憲法第13条)、社会全体の文化、人間の豊かな感性と創造性を育む福祉文化として根付かせるべきものであると主張する。これはまさに、憲法25条の生存権のみならず、13条の幸福追求権の重要性を説く大橋の「福祉原理」と通底する・共鳴するものである。
〇いまひとつ筆者は、「協働」(collaboration)と「共働」(co-action)の概念を明確に区別し、「対抗」から「共働」へのプロセスを支援学の視点から提示して市民自治とまちづくりの立ち位置とプロセスを考察してきた(詳細は、筆者ブログ『市民福祉教育研究所』2017年6月1日公開記事「『支援学』ノート―『相互支援』『相互実現』に関する基本的な視点―」を参照されたい)。
〇「協働」は往々にして、行政主導や専門家主導の枠組みのなかで行われる「協力」に近いニュアンスを持つ。それに対して「共働」は、市民が主体的・自律的に、対等な立場で互いに働きかけ、共に新たな価値を創造していく能動的な関係性を意味すると考える。この区別は、単に市民を行政の活動に「参加させる」だけでなく、市民自身が「主体」として福祉を「創りあげる」という、市民参加(参画)の質的向上への強い志向性を示すものである。これは、福祉教育が市民のエンパワーメントを通じて、真の市民社会を構築するための重要な手段(「思想的武器」)となる・ならなければならないという思想に基づくものである。なお、「共働」を平易に換言すれば、市民や行政、専門家などが同じ土俵(フラットな場)を新たに創ってそこに上がり、相互信頼に基づく対等な関係のもとで共通のゴールに向かって同じ汗を流すこと、といえる。
〇この「共働」は、既存の枠組みを追認する「協調」とも異なる。それは、現状の矛盾や不条理に対する「対抗」を不可欠な起点とする。すなわち、「共働」とは、現実の課題に真摯に向き合い、論理的に対抗し、民主的な熟議を重ねることで、既存の枠組みを乗り越えるエネルギーを獲得していくプロセスに他ならない。この過程こそが市民自治を形成する本質であり、地域変革の原動力となるのである。
〇以上のような思想的背景をもつ「市民福祉教育の理念と構造」は、管見によると図1のように整理される。ここでの要点は次の通りである。
〇(1)市民福祉教育は、当初から福祉教育そのものを目的として実施される事業・活動である①「福祉教育事業」(意図的・直接的営為)と、福祉教育そのものを第一の目的としてはいないが、結果的に福祉教育事業・活動になる②「福祉教育機能」(非意図的・間接的営為)に分けられる。市民福祉教育ではこの2つの側面の推進を重視する。
〇(2)教育の形態は一般的には、①「定型教育」、②「不定型教育」、③「非定型教育」の3つに大別される。市民福祉教育においては、これらに加えて、日常生活上の市民・文化活動(運動)などが展開されるなかで生じる教育的営為として④「市民・文化活動(運動)等」を考えることができる。これは、非意図的・間接的、あるいは偶発的な学びを含むものである。同時に、それは単なる知識の習得に留まらず、参加者が社会創造や変革のプロセスを実体験として学習していく点に特質がある。
〇(3)市民福祉教育(福祉教育事業)は、①理念・目的・目標、②学習者、③指導者・支援者、④素材・教材、⑤教育内容・方法、⑥教育評価などによって構造化される。教育は、その理念や目的・目標の明確化なくして、学習者の主体的・創造的な学習活動や指導者の意欲的・積極的な指導は促進されず、その成果を期待することはできない。そこから、教育の「理念・目的・目標」は、市民福祉教育の構造を成す重要な内部要素であり、「理念・目的・目標」「学習者」「指導者」「教材」などは、相互に作用・影響し合い、相乗効果を生み出すものとして存在する。
〇ひるがえって、(4)市民福祉教育を広義に捉えるならば、その根底にある「形成」「学習」「教育」をめぐる概念そのものを再検討する必要がある。形成(広義の教育)は、人間が地域・社会生活の営為そのものによって「形づくられる」過程である。この形成は学習なしには成り立たず、学習は形成に不可欠な営為として位置づけられる。一方、教育(狭義)とは、組織的・体系的な制度のもとで展開される目的意識的な過程を指す。勝田守一が「学習のないところに教育はない」「教育とは学習の指導である」と述べたように(『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150頁)、教育と学習は密接不可分である。したがって、形成とは教育と学習の相互作用(共鳴や葛藤)が生み出す、動的な自己変革のプロセスであるといえる。

図1 市民福祉教育の理念と構造
〇図2は、市民福祉教育の領域(構成要素)とその連関性を視覚化したものである。市民福祉教育は、これら4つの領域(教育形態)を重層的に包摂し、相互に連関し合うひとつの総体として構成される。

図2 市民福祉教育の領域

 

〇図3は、本文の論述に基づき、市民福祉教育の構造を可視化したものである。ここでは、市民福祉教育が意図的なプログラム(福祉教育事業)と地域・社会生活のなかでの学び(福祉教育機能)の両面から構成され、両者が「形成」「学習」「教育」という3つのプロセスを介して、相互に規定し合いながら動的に連動していることを示している。

図3 市民福祉教育の構造(相互作用モデル)

〇以上の考察を踏まえ、大橋・原田両氏の理論と筆者の福祉教育論における特質を対照させると、表1の通り整理できる。

表1 大橋謙策、原田正樹、阪野貢の福祉教育論の特質

Ⅲ 福祉教育の現代的課題と創造的継承

〇「大橋福祉教育論」の特質は、それが単なる個人の意識改革や情操教育に留まるものではなく、社会構造への問い直しを含む「実践科学」としての枠組みを持つものである。今日、地域共生社会の実現が叫ばれるなかで、福祉教育は「頼り合い、分かち合い、支え合う」担い手の育成という狭隘な枠組みに回収されつつある。そういうなかで、大橋が強調する「博愛の精神」は、人間の尊厳を保障する社会システムそのものを変革する「力」を内包するものであり、そうでなければならない。
〇また、松岡による「大橋福祉教育論」への批判、とりわけ「未分化な学習者像」や「批判的創造性の欠如」は、福祉教育が学習素材論に偏重し、学習主体論への言及が必ずしも十分なものではないという指摘である。この批判は、福祉教育が単なる体制順応や動員の手段として機能するリスクを孕んでいることを意味するものでもある。そこで筆者の管見では、(1)福祉教育の学習者は、個々人が抱える生活課題を地域・社会構造の課題へと連結し普遍化させるプロセスを通して、生活主体や政治主体である「市民」として再規定されることが肝要となる。(2)学習素材である「社会福祉問題」については、固定的な対象・素材として捉えるのではなく、それに対する「対抗」や「共働」のプロセスに位置づけるべきである。そこに「批判的創造性」が醸成され活用されることになる。さらに松岡が批判する(3)「教育概念の曖昧さ」については、福祉教育は単なる体験学習やその手法(ハウツー)の提供ではなく、原田がいうリフレクション(省察)を通して、市民自治を形成するプロセスが重視されなければならない。これらによって、冒頭に記した現場の閉塞感を打破し、実践の「ワクワク感(ダイナミズム)」を取り戻すことができるのである。
〇原田が説く「協同実践」についていえば、それは、複数の人間が地域の社会福祉問題について共有化・共通認識し、それぞれの立場の違いを大切にしながら、問題解決に向けての、双方向的な「学び合う関係性」「学びの関係づくり」(原田)を大切にした実践方法である、と理解できる。しかし、協同実践の構造や性質をはじめ協同実践が生みだす効果やそれを成功させるための方法や条件などについては、これまで必ずしも理論的かつ具体的に言及・議論されてきたとはいえない。そこで例えば、協同実践であっても、実践そのものは基本的には一人ひとりの人間のなかで営まれる。そこから、協同実践のあり方について検討する際には、一人ひとりの実践(個別性)といろいろな人たちとの実践(協同性、共同性)、そしていろいろな内容や方法の実践(多様性)という視点が必要かつ重要となる。実践の協同(共同)性を強調するあまり、その個別性とそれに基づく多様性を軽視することがあってはならない。この点についてどう考えるか、疑義なしとしない。
〇こうした批判的視座を共有しつつも、大橋と原田、そして筆者の福祉教育論は、基底において共通の志向性を有している。すなわち、「地域福祉と福祉教育の不可分性と有機的連携」「主体形成の重視と市民参加の促進」「まちづくり・社会変革の推進と地域共生社会の実現」「実践と理論の往還的関係の重視と実践研究の推進」といった視座である。これらは、断絶した個別の研究ではなく、相互に影響し合い、継続的に取り組まれ、学術的な系譜を形成してきた(している)といいたい。しかし、残された課題は多い。それを本稿の「はじめに」指摘した問題意識に立ち返り、根源的な理念から具体的な地域実践へと昇華させていく階層的なプロセスとして整理・体系化すると、表2のようになる。また、その内容は以下の通りである。

表2 「まちづくりと市民福祉教育」の課題の階層構造

 (1)核心化(根源の探究):人間存在の再定義と深遠な哲学性の探究

〇大橋の「博愛の精神」や原田の「相互依存的自己実現」、筆者が提唱する「まちづくりと市民福祉教育」といった理念は、福祉教育が単なる知識や技術・技能の伝達に留まらず、地域変革(まちづくり)や社会全体の価値観の変革、人間のあり方を問い直す哲学的な営為であるという深遠な視点を提供する。これは、福祉教育の意義を再認識するうえでも重要であり、根源的な探究を必要とする。すなわち、福祉教育は、支援・受援という固定的な役割を超越し、共生社会の構成員としての「人間存在」を再定義することを迫られる。そして、福祉教育を根源的な思想教育として捉え直すことは、混迷する現代社会において、人間としての尊厳をいかに守り抜き、連帯や共働の哲学をいかに構築するかという、最も本質的な探究へと繋がっていくのである。
(2)構造化(理論の構築):多角的視座による福祉教育理論の再構築
〇福祉教育学界では、教育方法・技術論的な観点からの研究は盛んであるが、福祉教育の本質に迫る理論的・歴史的論考はいまだに少ない。そうした福祉教育研究の現状と課題、その背景(要因)を明らかにするとともに、福祉教育実践・研究の新たな展開の方向性と可能性を探ることが、いま、改めて問われている。具体的には、先駆的な実践や思想がいかに形成され、変容してきたかを辿ることで現代的課題の根源を浮き彫りにする。格差や排除の社会構造のなかで、福祉教育が果たすべき連帯や共働の機能を再定義する。教える・教えられるという二元論を脱し、多様な生を生きる当事者との対話を通じて共生の本質を理論化する、などがそれである。それらに応えるためには、多面的・多角的な視座に基づく福祉教育理論の構築や刷新に関する総合的な研究が求められる。
(3)架橋化(理論と実践の往還):理論と実践の融合に向けた「バッテリー型実践・研究」の推進
〇福祉教育ではこれまで、一面では理念が高尚すぎたり、概念が抽象的・情感的すぎたりすることで実践への落とし込みが難しいという課題が指摘されてきた。この課題を克服し、実践の場で生きた理論を構築するための有効なアプローチに、大橋がいう「バッテリー型実践・研究」(研究者と実践家との協働研究方法)がある。これは、研究者が客観的な視点から分析を行う一方で、実践家は主観的な現場感覚と個別の事象への洞察を持ち寄り、両者が対等なパートナーシップのもとで理論と実践の往還を繰り返す動態的な方法論である。このプロセスを通じて、理論は現場の事実によって検証・洗練され、実践は理論的な裏付けを得ることで普遍性を持つモデルへと体系化される。このように、学問的探究と現場の変革を地続きのものとして捉え直すことで、福祉教育は単なる情操教育の枠を超え、誰もが当事者として参画する社会変革のプロセスへと進化させることになる。
(4)止揚化(時代への最適化):AI・新グローバル時代における新次元の展開
〇AI、デジタル技術の進展や気候変動・貧困・紛争といったグローバルな社会課題は、従来の福祉のあり方や教育の枠組みを大きく変えつつある。こうしたなかで、福祉教育は、AI時代におけるデジタル技術を活用した新たな学習方法や、深刻で多様な課題が浮き彫りになっている新グローバル時代(多極化と相互依存)における異文化間理解をどう促進するかが問われる。とりわけAIについては、アルゴリズム(自動的・形式的な手順)による最適解の提示が葛藤を伴う合意形成のプロセスを省略させ、思考停止や体制順応型の主体形成を促す危うさがあり、高度なリテラシーが求められる。逆にいえば、だからこそ対面での「共働」を通じた合意形成のプロセスが肝要となるのである。例えば、AIがデータに基づいて提示する「最短・最適ルート」の効率性をあえて保留し、寄り道や遠回りから生じる偶然の出会いのなかにこそ、効率性には還元できない人間存在の深遠な意味を見出す視点が必要である。
(5)変革化(社会の共創):多様なアクターとの連携とソーシャルアクション機能の強化
〇福祉教育は単なる学習活動に留まるものではない。福祉教育は、個々の地域生活課題を社会全体の課題として捉え直し、その社会を変革していくための「思想的武器」とならなければならない。そのためには、福祉関係者のみならず、企業、NPO、行政、教育機関といった多様な主体(アクター)との重層的な連携を深めることが不可欠となる。その連携においては、福祉の専門性を軸にしつつ、異分野の知見を融合させる「プラットフォーム型」のモデルが求められる。こうした多様なアクターとの共働は、福祉教育に新たな視点をもたらし、市民一人ひとりが「自分事」として社会課題に向き合う土壌を耕すことになる。さらに、福祉教育による学びや気づきを、単なる「個人の感想」で終わらせるのではなく、制度の不備を是正するための政策提言や、困難を抱える人々の声を可視化する権利擁護(アドボカシー)へと結実させていく必要がある。

〇では、これらの視点・枠組みは、実際の福祉教育の現場にどのような変容をもたらすか。この5項目を、例えば「車椅子体験」という具体的な福祉教育活動に照射してみると、こうである。それは、従来の枠組みを解体し、真の意味で社会変革を志向する「新たな車椅子体験を創り出す」試みに他ならない。
〇車椅子体験に参加する障がい者は、単なる「講師」ではなく、筆者がいう「共働」の「パートナー」として位置づけられる。参加する子どもや障がい者は、段差という物理的障壁に直面した際、それを個人の心身機能の欠損に帰属させるのではない。大橋の「博愛」や原田の「相互依存」の理念に基づき、解消すべき課題は「社会の側」にあることを認識する。この活動には、社協職員等の専門職や地域活動家が参画し、大橋のいう「バッテリー型実践・研究」の手法を導入する。これにより、参加者の主観的な意識変革や発見された個別の困りごとを、地域全体の共通課題へと「翻訳」することが可能となる。さらに、その調査過程では、AIやデジタル技術を積極的に利活用して、歩行空間の危険性や安全性、利便性を客観的にデータ化・評価し、例えばバリアフリーマップや行政への要望書などを作成する。その際、AIが導き出す「合理的な移動」を目的化するのではなく、車椅子を利用するパートナーと共にあえて時間をかけて地域を歩くという非効率的なプロセスのなかで、身体を通じた気づきや共感的な対話を深めていく。そして、これらのエビデンスを基に行政や関係機関へ政策提言を行い、具体的なソーシャルアクションを展開していく。このように、従来の車椅子体験が陥りがちであった「利用者の不便さを知る」「善意を喚起する」という同情的な理解の枠組みを超え、参加者一人ひとりが地域共生社会を共創する主体へと変革するのである。

おわりに
-「まちづくりと市民福祉教育」の地平と今後の展望-

〇本稿の主張のひとつは、大橋が唱える「博愛による価値変革」、原田が提唱する「相互依存的な関係変革」、そして筆者が主張する「市民自治による社会変革」を高次元に止揚し、「市民福祉教育を真の「社会変革モデル」として再定義することにある。これは、単なる知識の伝達や「福祉の心」の醸成といった既存の枠組みを超え、市民としてのリテラシー(批判的創造性)を研ぎ澄ます「動態的な融合プロセス」への昇華を意味する。ここで立ち現れるのは、構造的な課題の解決に向けて既存の社会システムを問い直し、自律的にデザインし直す「変革主体」としての市民像である。それは、「ふだんの、くらしの、しあわせ」を自らの手で紡ぎ出す、子どもから大人までを包摂する存在に他ならない。
〇こうした「社会変革」を確固たる社会体系として根付かせるためには、福祉教育そのものの学問的基盤を問い直す作業が不可欠である。しかし、昨今の福祉教育における実践や研究の動向を見渡すと、一抹の危機感を禁じ得ない。その根底にあるのは、福祉教育を支える「歴史・哲学・原理」という三位一体の洞察が等閑視されているのではないか、という懸念である。具体的には、例えば、福祉教育は「いかなる歴史的・社会的背景によって生み出されたのか」「いかなる変遷を経て今日に至ったのか」など、その歩みについて検証してきたか(歴史)。「福祉教育とはいかなる教育的営為か」「共生の本質とは何か」など、根源的な問いを設定しそれに応答してきたか(哲学)。「人と人の繋がりはいかにして形成されるのか」「地域社会のエンパワメントはどのようなプロセスで生じるのか」など、そのメカニズムの理論化を図ってきたか(原理)、等々についてである。
〇本来、これらは独立したパーツではない。「歴史」から「哲学」が析出され、その「哲学」が実践の「原理」を導き、「原理」に基づいた実践が次なる「歴史」を創り出す。この循環的な連動性(構造)こそが、福祉教育を単なる手法に留めず、学問たらしめる生命線(条件・要諦)である。
〇本稿の主題に据えた「福祉教育論の再考と現代的展望」とは、単なる学術的な回顧に留まるものでも、根拠のない理想を語るものでもない。それは、真に持続可能な豊かな地域共生社会を市民が自律的・主体的にデザインし直すための、科学的で哲学的な営みである。既存の枠組みを超えた新たな理論構築と、現場に即した多角的な実践展開、そして「まちづくりと市民福祉教育」の新たな地平を切り拓く今後の研究に期待したい。
〇その探究の途上において、常に立ち返るべき座標軸(指針)がある。出典の真偽はさておき、「実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される」「実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である」「哲学なき実践は凶器であり、実践なき哲学は遊戯である」、そして「独りで歩めば速いが、共に歩めば遠くまで行ける」「地球規模で考え、足元から行動せよ」などともいわれるのがそれである。

引用・参考文献
(1)大橋謙策(1986)『地域福祉の展開と福祉教育』全国社会福祉協議会。
(2)大橋謙策(1995)『地域福祉論』放送大学教育振興会。
(3)大橋謙策(2008)『新訂 社会福祉入門』放送大学教育振興会。
(4)大橋謙策編著(2014)『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房。
(5)大橋謙策(2022)『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版。
(6)阪野貢・他編著(1998)『福祉教育論―「共に生きる力」を育む教育実践の創造―』北大路書房。
(7)阪野貢監修、新崎国広・他編著(2006)『福祉教育のすすめ―理論・歴史・実践―』ミネルヴァ書房。
(8)阪野貢(2009)『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい。
(9)原田正樹(2009)『共に生きること 共に学びあうこと―福祉教育が大切にしてきたメッセージ―』大学図書出版。
(10)原田正樹(2014)『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版。
(11)原田正樹(2022)『福祉教育の理論と実践方法―共に生きる力を育むために―』全国社会福祉協議会。
(12)中川淳一郎・適菜収(2017)『博愛のすすめ』講談社。
(13)松岡広路(2006)『生涯学習論の探究』学文社。
(14)松岡広路(2009)「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」『研究紀要』第14号、日本福祉教育・ボランティア学習学会。

【初出】
阪野貢「『大橋福祉教育論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2014年11月4日公開)
阪野貢「『まちづくりと市民福祉教育』論の体系化に向けて―大橋謙策の『福祉教育原論』に関する研究メモ―」(同、2022年10月25日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

 


第8章
「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開
―“ あいとぴあカレッジ ” における立案プロセスとプログラム編成の視座―

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はじめに

〇「市民福祉教育」の理論を空理空論に終わらせず、実効性のある「まちづくり」へと結び付け、実践知へと昇華させるためには、科学的・体系的な「計画化」のプロセスが不可欠である。
〇筆者が本格的に「福祉教育」実践と研究に足を踏み入れた嚆矢は、東京都狛江市の社会福祉協議会(以下、「社協」と略す)における取り組みであった。それは、地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」)の策定(1990年3月)であり、その中核事業である “あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代という早い段階で福祉教育を「まちづくり」の不可欠な基盤として位置づけたものであった。この計画策定と「成人を対象にした体系的福祉教育実践」を主導したのは、大橋謙策である。大橋は、その取り組みについて次のように評価する。

狛江市の実践は、東京という大都市のベットタウンである狛江市の地域属性、市民属性を考えて、機能的な生涯学習の視点から福祉教育実践を進めようとして試みである。この実践は東京都三多摩地区で1960年代から70年代において豊かな実践を展開した「市民大学構想」に学んだもので、それを単なる言語能力を媒介とした知的認識を高めための内容にせず、できれば問題発見・問題解決型の学習方法を取り入れることにより、新しい福祉教育実践の展望を切り開こうと考えて、基礎課程、実技課程、専門課程といった体系化が考えられた。その方法も、社会教育実践で展開されてきたシステムを活用した。成人に対する福祉教育といえば、単発の福祉講演会が中心の中で、このような体系的、組織的実践が展開されていることは高く評価されてよい(『福祉教育モデル事例集 地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1996年3月、85頁)。

〇本稿では、狛江市社協における“あいとぴあカレッジ”の実践を事例として、「市民福祉教育」がいかに計画化され、「福祉のまちづくり」の基盤として構造化されていったのかを実証的に解明することを目的とする。研究手法は、ケーススタディ(事例研究)に依拠し、分析対象である“あいとぴあカレッジ”を地域福祉計画に基づく体系的な福祉教育実践として位置づけ、その立案過程および実施過程に関する一次資料(会議記録、事業計画書、学習プログラム等)に基づき分析を行った。また、本研究は単なる記述的分析に留まらず、実践の過程に内在する計画原理や構造を抽出し、理論化を試みる実践研究としての性格を併せもつものである。
〇本研究の位置づけをより明確にするために、いま少し、先行研究との関係を整理しておきたい。従来の福祉教育研究は、大きく①実践事例の記述的蓄積、②教育内容・方法に関する実践論的検討、③地域福祉との関連を論じる理論的研究、の3つの系譜に整理することができる。しかしながら、これらの研究の多くは、福祉教育を「事業」あるいは「活動」として把握するに留まり、それがいかに計画化され、地域福祉計画のなかで構造化されるのかという「計画過程」そのものの分析は必ずしも十分ではなかった。とりわけ、住民の生活課題や学習要求が、いかなるプロセスを経て学習プログラムへと編成され、さらにそれが「まちづくり」実践へと接続されるのかという動態的連関については、理論的にも実証的にも未解明な部分が多い。このような問題関心に基づき、本研究では、“あいとぴあカレッジ”の実践を対象として、①福祉教育がいかに計画化されたのか、②その計画化プロセスはいかなる構造をもったのか、③それがいかに地域における「まちづくり」へと展開されたのか、という3点を中心的な分析課題として設定する。これにより、市民福祉教育を単なる教育実践ではなく、地域変革を志向する計画的・構造的プロセスとして理論化することを試みる。
〇なお、「あいとぴあ推進計画」の策定は、1988年7月4日開催の第1回運営委員会、同年7月19日開催の第1回作業委員会からスタートした。また、 “あいとぴあカレッジ”の「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われたのは、1991年5月9日であった。翌1992年度から、「実務課程」がカウンセリング(相談活動者)コース、ホームヘルプ(家事・介護援助者)コース、コミュニケーション(初級・中級手話)コースの3コース制で開講された。基礎課程は、2000年度第11期で終了し、修了者は累計209名を数えた。実務課程は1999年度をもって終了した。その後、狛江市社協は、2002年度に小地域福祉活動の推進を企図した“あいとぴあカレッジ”の地域版を実施し、また2004年度から2009年度にかけてマネジメントコース(課題解決実践講座)を展開した。2018年度からは、市委託事業として「福祉カレッジ」を運営している。
〇ちなみに、“あいとぴあ”とは、7万市民の“であい” “ふれあい” “ささえあい”を示す三つの“あい”とユートピア(理想郷)の合成語で、狛江市民が主体となって進める「福祉のまちづくり」の基本精神の意味が込められている。

 Ⅰ 福祉教育計画の意義と役割

〇福祉教育は、すべての地域住民の生命と生活を守り、人間的な発達と自立を保障する地域・社会を創造するために、住民がその主体となって家庭・学校・企業・地域などの場で展開する教育・学習活動の総体をいう。したがって、福祉教育活動は、単なる社会福祉に関する知識や技術の伝達活動ではない。啓蒙や宣伝活動でもない。また、教化活動でもないし、そうであってはならない。それは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした、住民の内発的な意欲に基づいた、住民による自己教育・相互教育活動として展開される。その際、住民は、学習主体であるとともに教育主体でもあり、学ぶことを通して教え、教えることを通して学ぶ。換言すれば、住民は、相互に学びかつ教え、教えかつ学ぶという関係を通じて福祉文化の創造や福祉のまちづくりを進めるのである。福祉教育計画とは、地域住民がこのような福祉教育活動を自発的・主体的に創造し、展開していくための計画をいう。そして、計画そのものを練りあげていく主体は、あくまでも地域住民である。また、その取り組みは、そのまま同時に福祉教育の実践であり、運動でもある。
〇ところで、例えば、社協による福祉教育事業・活動は、従来、無計画に、あるいは単なる思いつきや経験などによって、しかもせいぜい単年度計画によって実施・展開されてきたといってもよい。そういった事業・活動に科学性・客観性・体系性を与え、また事業・活動を継続的に安定化させるものが福祉教育計画である。また、福祉教育計画は、一定地域内での福祉教育事業・活動を計画化の対象とする地域計画であり、かつ総合的な計画である。その際、福祉教育計画は、あくまでも地域計画としての福祉教育計画であり、地域の総合計画ではない。また、「総合的」とは、①計画内容として、事業計画、施設整備計画、マンパワー計画、財政計画を含む。②教育の3領域と呼ばれる家庭教育、学校教育、社会教育を生涯学習の視点から有機化・再編成する。③行政をはじめ、地域内の公的機関や民間機関、それに住民団体などとの連携・協働を図る。④福祉・教育・保健・医療などの関係行政、施設、機関の連携・統合化を図る。⑤長期・中期・短期あるいは単年度計画など、一定の見通しを立てる、といった意味である。
〇以上を要するに、福祉教育計画の策定の意義は、福祉教育事業・活動の総合化、科学化、体系化、継続化、それに合意形成などにある。また、その主な役割は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした住民の自発的・主体的な福祉教育活動を担保することにあるといえよう。

Ⅱ 福祉教育計画の内容と策定方法

1 福祉教育計画の内容
〇福祉教育計画は、一般的・基本的には、①事業計画、②施設整備計画、③マンパワー計画、それに④財政計画の4つの計画から内容構成される。①事業計画は、福祉講座・講演会・行事などの諸事業の開催や福祉広報・啓発事業の実施に関する計画、②施設整備計画は、施設、設備、教材・教具などの開発、整備、活用に関する計画、③マンパワー計画は、福祉・教育・保健・医療などの関係職員、社会福祉サービス利用者、一般市民、ボランティアなどの開発、育成、活用に関する計画、④財政計画は、財源の確保や運用に関する計画、をそれぞれいう。これらのうち、基本をなすのは事業計画である。そして、福祉教育計画は、まず事業計画が策定され、次いでその事業展開に必要な施設整備計画とマンパワー計画が策定され、その3つの計画を裏うちするための財政計画が策定されて計画が構造化される。
〇①事業計画(シゴト)の策定は、単なる思いつきや経験、勘(かん)、あるいはこれまでの慣習などによって立案した福祉教育事業を羅列することではない。また、事業数の多さや事業の種類の多様さを誇るものでもない。福祉教育の目標に照らした有意義な事業を精選し、それら各事業の相互の関連づけを行うとともに、重点的な事業を中核に事業の構造化を図ることが肝要となる。
〇②施設整備計画(モノ)は、住民の生活実態や学習要求、地域の教育や社会福祉に関する将来構想に裏づけられたものでなければならない。しかも、福祉教育振興についての長期的なビジョンのもとに策定されなければならない。その際、学校、公民館、社協、社会福祉施設などで現に行われている福祉教育の諸事業・活動や諸形態を生涯学習の視点で捉え、見直し、再編成し、その有機化・統合化を図ることが必要かつ重要となる。
〇③マンパワー計画(ヒト)については、まず、自分のもっている知識や技術、能力や経験を地域住民のために提供しようという住民――“まちのために自分の知恵や腕を貸そう”という住民を発掘、確保し、またそういった住民を助言者や援助者として養成・研修するための計画が必要かつ重要となる。また、社協職員は、側面から住民の福祉教育活動を助長・奨励し、方法論的・技術論的に助言・援助することを本務とするが、その際、側面的援助活動の中枢をなすものは学習情報の提供と学習相談である。社協職員には、学習情報の収集・処理・提供に関する知識と技術を有し、学習の内容や方法について専門的に助言・援助しうる能力が求められる。そして、こういった知識や能力をもつ社協職員の養成・研修計画や配置計画が必要となる。
〇④財政計画(カネ)は、福祉教育計画に現実性・実質性を与えるものとして、計画を空文化させないためにも必要不可欠である。その際、継続的・安定的な財源確保を図るために、科学的な現状分析と長期的な見通しをもった財政計画を立てることが求められる。すなわち、財政計画は、長期的に健全な財政構造が維持されながら、事業・活動が円滑に、効率的・目的的・生産的に経営され、その目標が達成されていくものでなければならない。
〇なお、こういった内容をもつ福祉教育計画は、単年度で完結されるものではない。一般的には中・長期にわたるものが策定され、その複数年度計画のなかから各年度の単年度計画が策定されることになる。中・長期の見通しを欠いた単年度の福祉教育計画は、体系性や計画性、必然性や説得性の弱いものになる。

2 福祉教育計画の策定主体
〇以上のような福祉教育計画の策定主体は、種々の学習要求や学習必要をもつ地域住民である。住民主体による計画策定がなされない限り、いかに建設的で理想的な計画が策定されたとしても、それは決して本来の意味での福祉教育計画であるとはいえない。しかし、福祉教育計画の主体は地域住民であるとはいえ、一部に傑出した住民が存在するものの、計画策定のための力量を備えた住民は極めて少ないといわざるをえない。そこで、現実的、実質的には、計画策定に際して社協が中核的・先導的役割を担うことになる。また、行政には、住民が主体的・能動的・自律的に福祉教育計画を策定することができるよう環境醸成や条件整備を図り、側面的援助を行うことが求められる。とりわけ社協職員には、計画策定に当たって、住民の主体性・自律性を損なわないように専門的・技術的に助言・援助するとともに、個々の住民の声が実質的に計画に反映されるよう配慮する特別重大な役割を果たすことが期待される。しかし、社協職員は、必ずしも計画策定についての科学的・専門的な知識や技術を有しているとはいえない。そこで、計画策定能力をもつ社協職員の養成・研修や適正配置が焦眉の課題となる。

3 福祉教育計画の策定過程と方法
〇計画は、通常、Plan→Do→See という手順で進められる。教育計画とりわけ福祉教育計画に関する限りは、そうした考え方ではその計画は空論化し、画餅に帰しやすい。福祉教育計画は、See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)というサイクルで進められなければ実効性のあるものとはならない。
〇すなわち、福祉教育計画を策定する場合、まず現行の福祉教育事業・活動を洗い出して現状と課題を明らかにするとともに、住民の福祉意識や社会福祉に関する学習要求や学習必要について調査検討することからはじまる。そのうえで、次に、目標の設定を行う。目標は、単に夢や理想を語ったものではない。また、スローガンを掲げたものでもない。目標を設定する際には、そのシゴト(事業)の実現可能性をはじめ重要性、緊急性、効率性などを考慮して設定されなければならない。目標が設定されれば、その目標を達成するために必要なモノ、ヒト、そしてカネなどの手段が選択され、その組み合わせについて検討されることになる。以上をより具体的・実際的にいえば、福祉教育計画は、①目的の設定、②目標の明確化、③現状に関するデータの収集、④目標達成のための合理的な手段の選定、⑤事業・活動の展開、そして⑥計画の評価、というプロセスをたどるのである。
〇①福祉教育における目的は、最終の到達点をいうが、一般的には曖昧で抽象的・理念的なものにならざるをえない。しかし、目的を具体的に表現した②目標は、抽象度を下げ、明確化を図ることが必要かつ重要となる。さもないと具体的な計画策定が不可能となり、また目標を達成するための手段の選定が困難になる。また、計画目標は、実現可能なものであり、焦点化され、しかも構造化されていなければならない。すなわち、抽象的・総花的で焦点の定まらない、しかも実現性の乏しい目標の設定は問題があり、無意味でもある。③現状に関するデータの収集については、意図的・計画的・系統的に計画策定のための基礎的データを収集することが肝要となる。しかも、数量的調査のみならず、多様な形態と方法を駆使して地域住民の生活課題や学習要求などを捉えることが必要である。単発的なアンケート調査だけによる資料収集では、内実をともなった福祉教育計画の策定は困難である。④目標達成のための手段は、目的合理的に選定・決定されなければならない。単なる思いつきや先進地域での実践例の模倣では意味がない。福祉教育計画は、本来、地域の歴史や特性を基盤に、地域住民自らの創意と工夫、そして努力によって策定される個性的なものである。⑤各種の事業・活動には、個々ばらばらにではなく、常に相互の関連性のもとで展開されることによって有意義な成果を期待することができる。そして⑥計画の評価は、目的や目標と裏はらの関係にあり、計画策定過程上、極めて重要である。そして、まずは設定した目標がどの程度達成され、どのような結果・成果があったかを見極めることがポイントになる。また、評価は、より整備された次の段階の計画策定を動機づけ、方向づけるために行われるものである。
〇以上の①から⑥のうち、福祉教育計画の策定過程上その心臓部分にあたるのは、②目標の明確化である。計画目標の設定に際しては、①地域住民の生活実態と生活課題や地域課題、②住民の学習要求と学習必要、それに③地域のさまざまな学習機会の供給実態などについて的確に把握することが必要かつ重要となる。
〇まず、①住民の生活実態については、地域の歴史や特性に留意し、地域を展望し、将来予測を含めた生活実態を把握する必要がある。生活課題や地域課題については、それを生み出す生活構造や社会構造とのかかわりで把握すべきである。②住民の学習要求は、現実的には住民の学習関心や学習の傾向について把握するなかで捉えることができる。その際、住民の生活実態や生活課題・地域課題とのかかわりで把握することが肝要となる。また、学習要求は、今日、高学歴化や情報化の進展によってますます多様化し、高度化しているが、住民自身によってまだ意識化、課題化されていないものもあることに留意する必要がある。そして、その学習要求の内容をいかに実証的に明らかにするかが問われることになる。一方、学習必要は、住民にとって社会的・発達的・教育的に学習が必要とされるものをいう。何を学ぶべきかについては、福祉のまちづくりや福祉教育、その計画策定などについての基本的な考えが問われることになる。この学習要求や学習必要は、そのすべてがそのまま現実の事業計画の内容とはならない。両者は福祉教育というフィルターを通して整理され、重要性・緊急性・日常性・共通性・適時性などの視点からプライオリティ(優先度)をつけて選択・精選され、課題化され、そして事業化されることになる。また、仮に学習必要だけで事業計画が立案された場合は、住民に強制感や疎外感を与え、住民に支持されるものとはならないことに留意する必要がある。③地域の学習機会の供給実態については、社協や社会福祉施設などによる福祉講座や講演会などの開催状況、公民館や図書館などにおける社会教育活動の現状、それにカルチャー・センターをはじめとする教育・文化産業の動向などについて総合的に明らかにする必要がある。そして、それらの相互の連絡・調整を含めた計画策定が求められる。

Ⅲ 福祉教育事業計画の立案の手順と視点

〇福祉教育事業計画とは、福祉教育の全体計画(総合計画)の基本を構成するものであり、例えば福祉学級・講座や福祉講演会、福祉映画会、福祉祭りなどの実施計画をいう。それは、事業の名称をはじめ実施目的、実施主体、実施期間や時間、実施場所、学習者や参加者、講師や指導・助言者、学習目標、学習内容や方法、それに経費などを構成要素とする。それぞれの福祉教育事業計画のなかで学習課題(主題)や学習内容・方法、学習の展開過程などについて詳細に計画・立案したものを、福祉教育における学習プログラムという。それは、学校教育に即していえば、カリキュラムや学習指導案に相当する。そして、福祉教育計画と事業計画、それに学習プログラムの3者は、密接不可分の関係にあり、また福祉教育計画→事業計画→学習プログラムという順に具体化、実体化される。
〇ところで、狛江市社協が策定した“あいとぴあ推進計画”では、重点事業のひとつとして“あいとぴあカレッジ”の開講が構想された。それは、住民が“あいとぴあ”のまちづくりを主体的・創造的に展開するための、その善意の気持ちを有効に活かすための学習(福祉教育)の場として位置づけられた。ここでは、“あいとぴあ推進計画”策定後、“あいとぴあカレッジ”開講に至るまでの狛江市社協や住民の取り組みについて、とりわけ事業計画や学習プログラム立案の手順と視点に焦点をあてて概観し、若干の考察を加えることにする。

1 ボランティア活動推進委員会の設置
〇1990年3月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会によって策定された“あいとぴあ推進計画”が、社協の理事会・評議員会において報告され、狛江市社協が今後取り組んでいく基本計画として承認された。そして、1990年度は、“あいとぴあ”元年として、推進計画そのものの住民への周知・浸透と計画の実施・推進体制づくりが基本方針として定められた。
〇1990年8月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会の発展的解散の後をうけて、在宅福祉推進委員会の組織化について検討する在宅福祉サービス関連事業連絡会とともに、ボランティア活動推進委員会(以下、「推進委員会」と略す)が設置された。推進委員会は、ボランティア活動・福祉教育推進事業の企画・立案を主な任務とし、学識経験者をはじめボランティア、地域住民団体、福祉施設・団体、地域産業、教育機関、行政機関、それに社協などの各関係者27名によって構成された。
〇推進委員会の委員に幅広く関連分野からの参加を求めたのは、各委員のそれぞれの分野での働きかけを通して、“あいとぴあ”市民運動の拡大と深化を期待してのことであった。例えば、ボランティアの生(なま)の声を伝えるために、狛江ボランティア連絡会(1984年4月結成)から3名のボランティアが委員として参加した。その3名は、推進委員会と狛江ボランティア連絡会とのパイプ役を果たした。また、教育の分野では、小・中・高等学校の校長や教頭、それに教育委員会の参加を得て、それが学校における福祉教育推進へのひとつの重要な契機にもなった。推進委員会は、1990年度においては通算3回開催されたが、委員が多人数ということもあってか、積極的に協議するというよりは一面では承認機関的なものにとどまった。協議が積極的に行われたのは、推進委員会のもとに設けられたボランティア活動推進委員会企画小委員会(以下、「企画小委員会」と略す)の場であった。

2 “あいとぴあカレッジ”開講のための準備活動
〇第1回推進委員会において、“あいとぴあカレッジ”に関する諸事項の素案づくりを主な任務とする企画小委員会が設置された。企画小委員会は、推進委員会委員長(1名)、同副委員長(2名)、ボランティア(1名)、福祉団体関係者(1名)、中学校長(1名)、教育委員会関係者(2名)、福祉事務所長(1名)、それに社協理事(1名)の計10名の委員によって構成された。そこで検討された事項は推進委員会にもちあげられ、そこでの協議を通して合意形成が図られた。
〇1990年9月には、企画小委員会のなかに作業委員会が設けられた。それは、学識経験者(推進委員会副委員長)と社協事務局職員の4名の委員によって構成され、通算4回開催された。そこでは、“あいとぴあカレッジ”に関する事業計画や学習プログラム立案の基礎的・具体的な作業が、主としてブレイン・ストーミングの討議法で行われた。
〇以下では、各回の企画小委員会において検討・協議されたことを、社協事務局の記録から概観することにする。

1)第1回企画小委員会(1990年9月)
〇“あいとぴあカレッジ”は、狛江という地域で、住民が寄り合って創るカレッジであるという点が再確認され、その考え方をベースにいろいろな意見が出された。例えば、福祉のまちづくりは住民の生活(暮らし)から出発しなければならない。したがって、その担い手の育成・確保を図ろうとする“あいとぴあカレッジ”は、住民の暮らしに密着したものであることが求められる。そこで、講師(指導者)は狛江市内の人材に求め、住民の生きざまに学ぶ。学習資料は、地域の実態や住民の生活現実に根ざした生(なま)の資料に基づく、手づくりのものとする。学習場所(会場)は、市内の小学校の空き教室を有効利用する方向で考えることにし、住民が下駄履きで気軽に参加できるよう配慮する、などが決定された。

2)第2回企画小委員会(1990年12月)
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムを中心に協議された。また、住民の・住民による・住民のためのカレッジであるという視点を生かすために、学習者もカレッジの運営に積極的にかかわれるような「運営委員会」の設置について検討された。その他、学習者が主体的・創造的にかかわれる体制づくりという視点から、開講式以前に第1回の学習日を設け、オリエンテーションを行う。聴講生制度の導入については、聞きたい講座だけ参加する「つまみ食い学習」では福祉のまちづくりは担えないという考えのもとに、見送る。カレッジの学長については、遊び心をもって市内の最高齢者などが候補にあげられたが、“あいとぴあ推進計画”の産婆役を務めた狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会委員長(学識経験者)に依頼する、ことなどが協議、決定された。

3)第3回企画小委員会(1991年1月)
〇“あいとぴあカレッジ”での学習内容や学習方法についての協議、講師団の絞り込み、それにカレッジ案内・募集要項(「あいとぴあカレッジ――入学のご案内」)についての検討などが行われた。席上、市内の人材による講師の講話内容や方法に関し、とりわけ講師が人前で話をすることや現実生活についての自分の思いや願い、悩みや苦しみなどの内面をさらけ出すことの戸惑いなど、いくつかの疑義が提示された。しかし、“あいとぴあカレッジ”は住民が相互に学び合う場であり、講師は、自分の生きざまを話すことによって学習者に住民としての生き方の素材を提供するとともに、自分自身も一人の住民として地域社会に貢献し、また自己実現・自己向上を図る、という基本的理念が再確認された。また、今回の企画小委員会では、学習評価の視点と方法についての検討もなされた。

4)第4回企画小委員会(1991年2月)
〇“あいとぴあカレッジ”の協賛団体の募集や学習者の修了レポートのあり方などについて検討された。また、学習プログラムの具体的な詰めの作業が行われた。そして、企画小委員会としての成案を得た。

〇1991年2月、第3回推進委員会が開催された。そこでは4回にわたる企画小委員会での検討結果が報告され、協議を経てほぼ原案通り“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムが決定された。
〇“あいとぴあカレッジ”の事業計画案や学習プログラム案は、以上のように、作業委員会、企画小委員会、推進委員会のあいだを何度となく往復し、そのなかで練りあげられ、内容の深化が図られていった。また、4つの委員会は、住民参加の場として、あるいは関係機関・団体との連携・協働や合意形成の場としても有効に機能したといえる。さらにまた、各委員にとっては、委員会は学習の場であり、自己実現や自己変革の場であったともいえよう。“あいとぴあカレッジ”の開講にかかわった委員の変革や変容が、“あいとぴあ”のまちづくりの「はじめの一歩」となったのである。

Ⅳ 福祉教育の学習プログラム立案の方法と留意点

〇地域住民による福祉教育において、その学習プログラムの立案は難しい。その主な理由のひとつは、学習者の属性や生活の実状、それに基づく発達課題や生活課題、学習要求や学習必要などがそれぞれ異なるところにある。その点では福祉教育の学習プログラムには定型はなく、学習者の数と同じだけの学習プログラムが準備されなければならないことになる。しかし、現実的には、地域社会の実態や動向などが反映される個々の学習者の多様な生活実態やニーズから、共通する、統合されるプログラムを立案・編成することになる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムの立案に際しては、“あいとぴあ”のまちづくりのための学習の方向づけや内容づけがなされたことはいうまでもない。しかし、その際、住民に対する学習要求調査に基づいて住民が必要とする学習項目や学習課題を探り出すという手法は採られなかった。また、主な、中心的な学習者(参加者)を想定・決定し、そのうえで学習者の生活実態や学習要求を把握するということもなされなかった。その点においては、限界のあるプログラムであったといわざるをえない。とはいうものの、立案・編成に際して、基本的なところではとりわけ次の4点について認識され、留意されたことについては注目しておきたい。

〇(1)学習プログラムの立案に際しては、「はじめに学習者ありき」という認識が重要である。しかも、その学習者を地域生活主体として捉え、その立場に即したプログラムの立案・編成が求められる。すなわち、個々の住民が現実的に抱える生活課題や学習要求、それに狛江市の歴史的社会性や地域性に基づく生活課題や地域課題などに焦点をあてた、実際的で実践的な学習活動の展開が必要かつ重要となる。
〇(2)学習プログラムは学習活動の単なる日程表や予定表ではない。それは、学習者のモラールを引き起こし、高めることができるものでなければならない。学習プログラムづくりとは、地域住民の生活や学習に関する考えや思い、願いなどをプログラムという形に具体的に表現することに他ならない。その際、手づくりの、手のこんだ学習活動が自主的、主体的、そして自律的に展開されるよう工夫し、配慮することが求められる。
〇(3)地域住民による学習は、地域生活に発し、地域生活に帰す。“あいとぴあカレッジ”における学習は、個々の住民に始まって個々の住民に帰るだけでなく、その成果が地域に還元されることが期待される。その際、地域への還元は、学習者自身の高まりや深まりなくしてはありえない。知識の単なる蓄積は態度の変容を促さないともいわれる。その意味からも、関心と感動を引き起こすプログラムの編成が求められる。
〇(4)“あいとぴあカレッジ”は、狛江市に暮らす住民を対象とするカレッジ(講座)ではなく、住民を主体とするものである。また、その学習プログラムは、住民の・住民による・住民のための、手づくりのものである。したがって、学習プログラムを立案・編成する過程そのものが重要となる。それ自体がすでに学習すなわち福祉教育の過程であり、“あいとぴあ”のまちづくりの過程でもある。

〇ところで、福祉教育の学習プログラムには、社会教育におけるそれと同様に、一般的には、「事業名」「主催者」「学習対象」「学習期間」「学習時間」「学習回数」「学習場所」「学習目標」「学習テーマ」「学習内容」「学習方法」「学習資料・用具」「指導・援助者」、それに「予算」などの諸事項が内容として含まれる。ここでは、“あいとぴあカレッジ”に関するそのうちのいくつかについて、その立案の方法や留意点などをめぐって論じることにする。

1 学習目標の設定
〇学習目標――学習プログラム全体のねらいは、到達可能なものを具体的に、焦点化して設定し、かつ魅力的なものであることが求められる。抽象的で総花的な学習目標は、学習目標を曖昧なものにし、学習プログラムの編成そのものを困難にする。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習目標は表1のように設定された。そこには、学習活動そのものが福祉のまちづくりの実践や運動の一環であり、またそれへの具体的な参加が自らの生活をより豊かなものにすることに繋がることが示されていた。学習者が学習目標を身近に感じ、学習意欲を高めるためのひとつの工夫であった。

表1 “あいとぴあカレッジ”の学習目標

2 学習学習テーマの設定
〇学習テーマは、学習プログラムの「顔」にあたるものであり、学習日ごとの学習内容を包括的に表現したものである。それは、学習者に対しては学習する概要を示すものであり、指導・援助者に対しては指導・援助すべき概要を提示するものである。そこで、学習テーマは、学習内容を的確に要約しているとともに、学習者が親近感や学習意欲をもちうるような、また学習の内容や方向を容易に想起し理解しうるようなものでなければならない。そして、また、学習者の属性や生活の実状などに適合し、指導・援助者には具体的な指導・援助活動の助けになるようなものであることが望まれる。すなわち、学習テーマは、課題性、親密性、それに具体性の高いものが望ましいといえる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習テーマは表2のように設定された。それは、“あいとぴあ推進計画”策定過程で、1989年9月に開催された第1回市民懇談会における分科会テーマをベースにしていた。その設定に際しては慎重を期し、とりわけその表現には工夫を凝らした。すなわち、学習者を引きつけ、学習者に受け入れられるよう、日常的、具体的、魅力的で平易な表現に心をくだいたのである。

表2 “あいとぴあカレッジ”の学習テーマおよび学習内容

3 学習内容の選定
〇学習内容は学習目標を具現化したものである。プログラムに盛り込む学習内容の選定に際しては、いわれるように学習内容の種類の単純化と分量の少量化を図ることが肝要となる。多様な種類の学習内容が多量に盛り込まれると、学習者は消化不良をおこし、学習の疎外感や挫折感を味わうことにもなる。学習内容の種類と分量の単純化、少量化によって、学習者は成就感や達成感、充実感などを味わい、学習活動への取り組みを積極的なものにする。さらにまた、次の学習活動への参加を促すことにもなるのである。
〇学習内容がもたらす教育的効果は、その配列の仕方によって左右される。学習内容の配列は学習活動を持続、発展させるうえで重要である。そこで、まず、学習活動への導入をスムーズに行うために、学習者に身近な、日常的・経験的・実際的な学習内容をもつものが配置される。そのうえで、内容配列には連続性と発展性、系統性、それに常に流動的に対処しうる弾力性、柔軟性などをもたせることが肝要となる。また、適切なところに「遊び」や「ヤマ場」の部分をバランスよく配列することが求められる。それによって、プログラムはより豊かなものになり、立体化・構造化する。そして、また、学習者にはゆとりや充実感、向上心などを与え、積極性を生むことにもなる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習内容は表2のように選定、配列された。その学習プログラムは、単なる「福祉のまちづくり概論」や「社会福祉概論」を講じるための、いわゆる一般教養的学習を行うためのものではなかった。福祉のまちづくりの主体形成をいかにして図るかという観点に立ち、大きな学習課題のもとに立案・編成された。そして、その内容は、福祉のまちづくりについて歴史的・社会的に学習する「総論」、現実の個々の生活場面に即して学習する「各論」、それにまちづくりのための具体的な方法や技術について考え、その習得を図る「方法論」の3つの部分から成っていた。その結果、それは、学習内容が広範囲にわたり、一面では総花的なものになった。また、必ずしも十分には学習成果を日常生活につなげ、現実の生活課題の解決にせまりうるものにはならなかった。すなわち、学習成果の実践化や生活化への配慮が不十分であったともいえる。“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムは、学習の深まりに応じて基礎課程→実務課程→専攻課程と進む段階別編成がなされ、累進的体系化・構造化が図られていたが、上述の点は基礎課程における学習プログラムのひとつの限界であった、といえようか。

4 学習方法の選択
〇学習方法は、現実的には、学習の目標や内容をはじめ、学習者の属性や意識・意欲、指導・援助者の関心や能力、学習資料や用具、学習の時間や場所など種々の条件によって選定、決定される。学習の効果を高めるためには、単一の学習方法にこだわらず、多様な学習方法を有機的・立体的に活用・多用し、場合によっては視聴覚的手法などを併用することも求められる。学習方法には「講義」「討議」「話し合い」「発表」「実技」「実習」「調査」などがあるが、適切な学習方法を選択することは学習者の学習内容の理解を助け、認識を深め、学習効果を高めるだけでなく、学習者の学習への興味や関心、意欲などを持続させたり学習集団を維持させるためにも必要かつ重要となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、「講義」「討議」それに「実習」を中心にしながらも、「見学」や「話し合い」「発表」など学習者の主体的・能動的な活動を促す方法が採用された。また、学習を補強し、学習内容の高度化を図るために、ビデオでの視聴も組み込まれた。それらのうち、例えば「見学」は、現実生活に直面しながら学習課題にせまることができるという点においてメリットがあった。「話し合い」では、学習者の体験や主観・実感のレベルにとどまらないよう留意された。また、「発表」は、学習者が「胸におちてわかる」「身体でわかる」ためにも必要かつ重要であった。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、集会学習として公開の講演会を2回開催した。それは、学習に対する学習者の家族の理解と住民へのPRを意図したものであった。

5 学習資料・用具の選定
〇学習資料(教材)や学習用具(教具)は、学習効果を高めるための重要な要件のひとつである。学習資料や用具の選定に際しては、学習の目標や内容、方法に対する適切度、学習者の属性や日常的な地域生活との緊密度、それに指導・援助者の学習資料や用具に対する熟知度などとの関連が重視される。そして、種々の学習資料や用具を整備し、有効に活用することが求められる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習資料に関しては、まず指導者(講師)に、指導者相互の事前打ち合わせを通してレジュメと資料の提示を求めた。そして、それを、「受講生便覧」「学習ノート」「学習資料」から成る冊子(『AITOPIA COLLEGE』B5判、52ページ)にまとめ、学習者に第1回開講日の「オリエンテーション」時に配布した。また、学習者に対しても、新聞・雑誌・広報紙などの関連記事や身近な住民の「生きざま」など、地域のさまざまな、生(なま)の資料を入手し、それを学習資料化することが求められた。その作業は、学習者にとってはそれ自体がすでに学習活動であり、また学習に迫力をもたせることを意図してなされた。

6 指導・援助者の活用
〇学習活動の展開とその深化・高度化には指導・援助者は欠かせない。学習目標を達成するためには、そのための意欲と能力をもつ指導・援助者が必要不可欠となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、講師(指導者)については、原則的には著名度や専門度で選定することは避けた。また、できる限り狛江市内から人材を発掘することにし、とりわけ福祉のまちづくりのための実践や運動に参加している一般住民の活用を図った。その理由のひとつは、学習内容の生活性や地域性を期待するとともに、学習者の学習活動やその成果の体験化、生活化、地域化を容易にすることにあった。講師の講話(レクチュア)については、学習活動の方向を定めるものではなく、あくまでも学習者の自主的・主体的な学習活動を誘発させ、持続、発展させるための補助的な役割を果たすものとして位置づけられた。すなわち、講師にはいわば話題提供者としての役割が期待され、学習を結実させ、具体化するのはあくまでも学習者自身であるとされた。また、講師は、一人の住民として、その活動を通して社会的貢献と自己実現・自己向上を図ることが期待された。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、学習者の学習活動が自主的・自発的に展開され、講師への依存度を少なくするよう、学習活動全般にわたって集団的あるいは個別的な助言・援助を行うチューター(学習援助者)を配置した。チューターには社会福祉系大学院の学生3名に依頼し、学習者と講師のあいだにあって、個々の学習者に対して、あるいは学習者内のリーダーを有効に活用して、たえずその援助性を発揮することが求められた。
〇なお、講師とチューターには、学習者が自主的・創造的な学習活動を展開しうるよう、学習内容や方法などについて協議を重ねることが求められた。また、彼・彼女らには、それぞれの学習指導・援助過程でいかにして「人間」や「生活」、「地域」や「まちづくり」にせまり、切り込んでいくかが問われた。

7 学習時間・場所等の決定
〇学習プログラムを企画・立案する際、時間的要素として、学習の時期、期間、時刻(時間帯)、回数(時間数)などについて検討することが求められる。それらは、地域の特性をはじめ、学習の目標や内容・方法、学習者の属性や生活実態、学習場所の学習条件や地理的条件などとのかかわりにおいて検討され、設定される。また、学習日と学習日の間隔(学習のインターバル)は、学習の習熟度や達成度との関連を考慮して設定される。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習時期を5月から8月までの第Ⅰ期と10月から2月までの第Ⅱ期に分け、それぞれ15回の学習日を設定した。学習日は、原則として毎週木曜日の午後6時30分から8時30分の2時間とし、公開講演や体験学習、施設見学などは土曜日の午後に組み込まれた。それらは、学習者の時間的制約をできる限り緩和・解消するための配慮であった。また、週1回の学習は、学習日と学習日とのあいだに、学習者によって個人学習や自主的な活動が展開されることを期待してのことでもあった。表3は、1日の学習日の学習の流れ(「展開プログラム」)を示したものである。「学習活動」に連続性をもたせていた。「講話」と「討議」にそれぞれ50分の時間が配分されていた。また、「学習のねらい」に受講生とともに講師のそれが明示されていた、ことなどが注目されよう。

表3 “あいとぴあカレッジ”における学習の流れ

〇学習場所(会場)の決定にあたっては、学習の目標や内容・方法に十分に対応できる施設・設備を有する場所が考慮されなければならない。また、地理的条件については、原則的には、学習場所への所要時間が徒歩で15分から20分程度以内が望ましいとされている。
〇“あいとぴあカレッジ”では、狛江市と狛江市教育委員会の理解と協力をえて、市のほぼ中央に位置する小学校(図書室)を学習会場とした。学校を学習会場としたねらいのひとつは、学校(教育)と社協(福祉)との連携強化を図り、地域の福祉教育関連諸資源のネットワーク化を促進することにあった。また、小学校(教員)をはじめとする学校における福祉教育の推進が期待された。

〇“あいとぴあカレッジ”開講のねらいは、福祉のまちづくりの担い手を育成し、その量的拡大と質的向上を図ることにあった。しかも、その基礎課程は、住民に対して、福祉のまちづくりのための実践や運動を動機づける学習課程であった。そこでの学習をひとつの契機に、多くの住民がさらに学習活動を続けるとともに、地域福祉活動やボランティア活動へ参加・協力することが期待された。そういった“あいとぴあカレッジ”の基礎課程の学習プログラムは、その立案に際して、以上のほかに次の諸点が留意された。
〇(1)一定以上の学習成果を得るためには、学習集団の規模の適正化を図る必要がある。そこで、定員制を採用し、第Ⅰ期、第Ⅱ期ともに募集人員を30名とし、さらにそれを15名ずつの2グループと、7~8名ずつの4つの班に分けた。それによって、学習者の人間関係の緊密化とコミュニケーションの効率化を図った。
〇(2)学習者の自発的な学習活動を触発するとともに、学習者がそれぞれの能力を発揮し、役割と責任を分担するよう班活動や係活動の展開を学習者に求めた。すなわち、各班より1名、計4名の班長が選出され、班長には各班の取りまとめと、“あいとぴあカレッジ”の運営に関する諸事項について協議・決議し、執行する「運営委員会」活動への参加が求められた。また、「学級通信」の編集と発行を行う「広報委員会」に8名の学習者が選ばれた。なお、「運営委員会」は、学長(1名)、常任講師(2名)、チューター(3名)、学習者代表(4名)、それに“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムなどの企画・立案に当たったボランティア活動推進委員会委員(2名)の計12名によって構成された。
〇(3)学習活動の修正や向上・発展、よりすぐれた学習活動の創造を図るために、学習評価を重視した。すなわち、学習者の評価活動を学習活動の一環として位置づけ、学習者に慣習化、定着化させることに努めた。また、学習修了者には、学習活動の総括と自己評価のために、簡単な、1人1編のレポートの作成と提出を求めた。
〇(4)学習者から、特別の学習資料や学習者の自主的活動のための費用として、受講料3,000円を徴収した。それによって、学習者の中途脱落を防ぎ、自主的・主体的な活動の積極的展開を期待するとともに、参加責任をもたせた。
〇(5)賞賛と激励、学習の継続と福祉のまちづくりへの参加・協力への期待を込めて、学習日10回以上の正規の修了者には修了証を授与した。学習日が10回未満の学習者については、不足分を第Ⅱ期で補うことによって正規の修了とした。

〇いずれにしろ、学習プログラムは、計画された活動が予定通り、「静かに」展開されることをよしとするものではない。学習者に能動的・創造的な活動を促す動的なものでなければならない。それによって、学習の深化や高度化を期待することができるのである。
〇1991年5月9日、“あいとぴあカレッジ”「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われた。学習者は募集定員の30名を数えた。その内訳をみると、性別では男性6名(20%)、女性24(80%)、年齢別では10歳代1名、70歳代1名、40歳代と50歳代がそれぞれ9名ずつで最も多く、全体の6割を占めた。また、職業別では、主婦を中心にしながらも、教員、学生(高校生、大学院生)、施設職員など多種多様であった。居住区別では全市的であり、狛江市に移住して4~5年になる者が多かった。地域に関心をもちはじめる居住年数なのであろうか。
〇講師は24名、チューターは3名、その他に社協事務局職員3名もカレッジの運営などにかかわった。計30名、学習者と同数であった。1991年8月29日、第Ⅰ期生の学習発表会と閉講式が開催された。修了者は28名を数えた。修了者の学習活動への出席率は、土曜日の体験活動や公開講演以外は、常に90%前後の高率を示した。続いて、9月19日には、修了者主催の「卒業記念パーティー」が開催され、また交流活動をはじめ学習活動やボランティア活動などを行うための自主的なグループ――「一期生の会」が発足した。
〇以上の検討から明らかなように、“あいとぴあカレッジ”の事業計画および学習プログラムの立案過程は、単なる企画作業ではなく、多様な主体間の相互作用を通じた合意形成と意味生成のプロセスであった。とりわけ、作業委員会―企画小委員会―推進委員会という多層的な検討構造は、計画の精緻化と同時に、住民参加の実質化を担保する装置として機能していたと評価できる。また、ブレイン・ストーミングなどの手法を用いた討議過程は、単なるアイデア創出に留まらず、参加者の問題認識を深化させ、個別の経験や価値観を共有知へと転換する契機となっていた。すなわち、計画策定過程そのものが、すでに福祉教育の実践であり、「まちづくり」の萌芽的段階であったといえる。

Ⅴ 「まちづくりと市民福祉教育」の構造化と現代的転換

〇本稿が、30年以上も前の“あいとぴあカレッジ”の実践をいま、あえて再評価するのは、単なるノスタルジーによる記録の整理ではない。SNSやAI が普及し、その一方で格差の固定化や社会的分断が進み、孤独や孤立が深刻化する現代においてこそ、当時の実践が示した「人間を真ん中に据えた計画の立案」「生活者としての市民・住民を主役にしたまちづくり」が、不可欠な処方箋になると確信するからである。
〇現代社会では、デジタル・プラットフォームによって利便性を手に入れた反面、地域・住民が抱える個別具体的な生活課題を地域・社会課題として編み直すことが難しくなり、住民同士の「共感」の回路も寸断されつつある。そんななかで、いま求められているのは、過去の成功モデルをそのまま繰り返すことではなく、当時の「熱量」と「仕組み」の本質を現代のデジタル社会に合わせて再起動(アップデート)することにある。

1 「まちづくりと市民福祉教育」の「統合モデル」とその核心
〇上述のⅠからⅣまでの各章は、狛江市社協の“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスと学習プログラムの編成原理について叙述し、概観したものである。図1は、市民福祉教育を実効性のある「まちづくり」へと昇華させるための、プロセスとリソースの相補的連関(統合モデル)を示したものである。その核心は、地域・住民の生活課題や学習要求・学習必要を「見る」ことから始まる「See→Plan→Do→See」の循環サイクルにある。この動態的なプロセスを支える基盤として、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」の4要素がある。そして、これを有機的に構造化することによって、市民福祉教育は一過性のイベントではなく、地域変革(「まちづくり」)に向けた持続的な計画化・構造化のエンジンとして機能することになる。

図1 「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開のプロセス

注:1990年代の計画策定モデル。現代においては「モノ」の概念にオンラインプラットフォームが含まれる(Ⅴ章参照)。

〇1990年代初頭に展開された“あいとぴあカレッジ”の実践の軌跡は、今日の「まちづくりと市民福祉教育」においても色あせない、重要な理論的示唆を内包している。本稿での分析を通じて明らかになったことは、市民福祉教育は単なる知識や技術・技能の「伝達」活動ではなく、地域・住民の生活課題を学習課題へと再編成し、それを「まちづくり」運動へと繋げる動態的なプロセスである、という点である。具体的には、次の諸点について留意したい。

〇(1)本実践では、従来の計画策定手順である「Plan→Do→See」を逆転させ、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」へと再構成した。住民のニーズや地域課題を徹底的に「見る(See)」ことから始めるこのサイクルは、計画の空論化を防ぐための必須条件である。統計調査という数字の裏側に隠れた、住民の「生活の実感」を汲み取ることを起点とした。
〇(2)「あいとぴあカレッジ」では、住民の「学習要求(学びたい)」と「学習必要(学ぶべき)」を地域福祉のフィルターを通して精選し、具体的な事業・活動へと昇華させた。これは、確かなまちづくりを推進するための基盤であり、同時に住民間の合意形成を構築するプロセスとして位置づけた。
〇(3)「あいとぴあカレッジ」では、その運営にあたり、住民や大学院生を講師やチューター(学習援助者)として確保・養成する「ヒト」、小学校の図書室を拠点とする「モノ」、受益者負担による参加責任を明確にした「カネ」、そして手づくりのプログラムを企画・実施する「シゴト」の4要素を体系化した。これにより、福祉教育を一過性のイベントに留めず、地域に根ざした共働的・持続的な「まちづくり」の実践として構造化した。
〇(4)「あいとぴあカレッジ」では、「福祉の知識を教える」「ボランティア精神を養う」といった教育者から学習者への一方的な知識伝達(パウロ・フレイレが批判した「銀行型教育」)ではなく、福祉教育を「住民による自己教育・相互教育活動」として捉え直した。 ここでは、住民を単に「学ぶ者」ではなく、学ぶことを通じて自らの生活を見つめ直し、地域の課題を自らの課題として再構成する「教育主体」(フレイレの提唱する「問題提起型教育」)として再定義した。
〇(5)「あいとぴあカレッジ」では、学習テーマを「児童福祉」「高齢者福祉」といった制度的な枠組みではなく、「あなたは一人で子どもを育てられますか」「あなたの老後の暮らしは誰がみますか」といった、個人の内面に深く問いかけるものとした。これによって、福祉(ふくし)を「他人事」から、切実な「自分事」へと引き戻すことを意図した。
〇(6)「あいとぴあカレッジ」では、講師選定において著名度や専門度をあえて優先せず、地域の人材や「自身の生きざま」を語れる住民を登用した。住民が自らの苦労や願いを語り、それを他の住民が聴く。この「語りと傾聴の連鎖」こそが「共感」のネットワークを紡ぎ出し、講師自身もまた一人の住民として自己実現を図るという、双方向の関係性を重視した。
〇(7)「あいとぴあカレッジ」では、学習プログラムに「遊び」や「ヤマ場」を配列し、学習者のモチベーションの維持を図った。「車椅子で歩く狛江の街」「楽しい仲間とティータイム」といった実習や交流活動などは、教室内の座学を「身体的な体験」へと変換する装置である。感動や驚きを伴う体験(ヤマ場)が、知識を「知恵」へと昇華させ、地域を変える力へと変容させると考えた。
〇(8)「あいとぴあカレッジ」では、学習者自身が班活動や広報活動を担う仕組みを設け、カレッジ自体を「小さな地域コミュニティ」として機能させた。運営委員会や広報委員会の場での議論や葛藤、合意形成のプロセスそのものが、民主的なまちづくりのトレーニング(福祉教育)となることを期待した。
〇(9)「あいとぴあカレッジ」では、社協職員の役割を、主導権を握る立場ではなく、住民の主体性を引き出すための「触媒」(カタリスト)と規定した。情報提供や相談、コーディネートといった「側面的援助」は、高度な専門技術を要する。住民を信じて待つという忍耐強い伴走こそが、住民の内発的なパワーを引き出し、同時に職員自身の専門性を高めると考えた。
〇(10)「あいとぴあカレッジ」では、最終的な評価指標を受講生の数や満足度ではなく、修了後にどれだけの住民が「ふだんの、くらし」のなかで新たな行動を起こしたかに設定した。 「一期生の会」の発足に象徴されるように、学習が集団的なアクションへと発展し、地域のインフォーマルな支え合い組織へと脱皮していく過程こそが、本実践の最大の成果である。

2 社会変容に伴う計画モデルの構造的転換
〇“あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代のそれである。「格差社会」や「分断社会」「監視社会」、あるいは「新・階級社会」などといわれる現代社会において、地縁の希薄化や価値観の多様化、さらには生活困窮の重層化といった変数がある。かつて地域コミュニティの核であった「学校」もまた、閉鎖性の打破や地域開放が叫ばれるなど、大きな変容の渦中にある。そして、“あいとぴあカレッジ”の学習テーマに据えられた高齢者や障がい者などの問題に加えて、精神疾患を抱える当事者やその家族、社会的孤立者、外国籍住民、性的マイノリティ、あるいはデジタル弱者などの問題が重要な課題として突きつけられている。さらには、“あいとぴあカレッジ”の会場とされた小学校の図書室が果たした役割を、現代ではLINEやFacebookに代表されるSNSや、インターネット上の情報や交流の基盤・広場(オンラインプラットホーム)がその一部を代替・補完しつつある。
〇こうした社会変容のなかで、図1に示した計画化モデルは、サイクルの起点となる「See(現状分析・評価)」や「ヒト(マンパワー)」などのあり方に構造的な転換を迫られている。 ひとつは、「See」の多層化である。従来、現状分析や評価の多くは、地域・住民に対するアンケート調査や懇談会といった物理的な空間(アナログ空間)を基盤として行われてきた。しかし、地縁の希薄化やSNSの普及に伴って、地域・住民の生活課題や学習要求は、ネット上の不可視なコミュニティへと潜在化・断片化する傾向にある。現代の「See」においては、従来の地域診断を継承しつつも、デジタル空間に表出される切実な生活実態や潜在的な要求をいかに捕捉するかが問われている。すなわち、計画化プロセスを起動させるためには、アナログとデジタルのハイブリッドな多層的視点が不可欠である。このプロセスを実効的なものとするためには、膨大なデータの整理・分析におけるAIの利活用と、それを受け止めて価値判断を行う「ヒト」との機能的な役割分担を構造化することが求められる。AI が「客観的なデータ」「冷たい知性」によって地域を可視化し、「ヒト」が「主観的な価値」「温かい感性」によって地域を編み直す。この相補的な関係を計画化のプロセスに組み込むことで、市民福祉教育はより緻密で、かつ人間味のある「まちづくり」のエンジンへと進化を遂げるのである。
〇ただし、SNS やAI の利活用にあたっては、それらの情報技術を無批判に受け入れるのではなく、その限界やリスクを構造的に問い直していく必要がある。デジタル空間を、単なる利便性の追求ではなく、客観的状況を批判的・創造的に検討する「省察の場」、かつ誰もが疎外されない「対話の場」として再構築していくことが肝要となる。
〇計画化プロセスにおけるAIの機能的役割は、例えばこうである。See:ビッグデータから潜在的なニーズや社会的傾向を可視化する。→ Plan:多様なシミュレーションに基づき、客観的な選択肢(オプション)を提示する。→ Do:推奨された学習情報やリソースを最適に配信し、実行プロセスを支援する。→ See:実行結果を定量的データとして評価し、普遍的な課題を抽出する。こうしたAIの役割をより効果的に活用するために、「ヒト」に求められる具体的な役割は、例えばこうである。See:生活上の生きづらさや切実な願い(要求、必要)を言語化する。→ Plan:AIの提示した選択肢に自らの価値観や地域・生活実態を重ね合わせ、ビジョン(将来像)を描く。→ Do:静的な計画を、他者との対話や相互作用を通じて固有の意味をもつ実践へと変換し、新たな価値を共創する。→ See:データ化されない情動や生活の変化を感知し、次のビジョンを構想する。図2は、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」という地域資源が、「AIとヒト」の手によって「See→Plan→Do→See」という活動に変換し、そのすべてのエネルギーが「ふくし」へと注ぎ込まれていくことを表示したものである。別言すれば、AIの本質は、膨大なデータを基にした「分析」と「効率化」にある。ヒトの本質は、数値化できない「共感」と「価値判断」にある。この両者の相互補完によって、計画化の循環サイクルが駆動するのである。

図2 AIとヒトの相補的役割分担による計画化の構造図

〇転換を迫られるいまひとつは、「ヒト」の再定義である。格差社会や分断社会の進展は、地域・住民の学習要求や学習必要を個別化・細分化し、地域における共通のゴール設定や価値形成を困難にしている。こうしたなかで、本稿が提示した学習指導者や援助者、あるいは社協職員などには、単なる「調整役」ではなく、従来の画一的な学習指導や援助の枠組みを超えて、分断された住民をいかにして個別具体的に繋ぎ直し、指導・援助するかという「媒介者」としての機能が強く求められている。とりわけ、地域で孤立状態にある住民を、いかにして「学び」の場に緩やかに誘い出し、包摂していくかが問われている。
〇さらにもうひとつは、「モノ」と「カネ」の再配分である。「モノ」(施設、空間)については、“あいとぴあカレッジ”では、地元小学校の図書室が「学習会場」として活用された。これは、学校の地域開放、あるいは「まちづくり」における共働のプラットフォーム(場)として評価できよう。現代社会においては、こうした場を家庭(第1の場所)や職場・学校(第2の場所)とは異なる、心理的安全性の担保された第3の「居場所」(「サードプレイス」)として位置づけることが肝要である。そこは、誰もが自発的に立ち寄り、リラックスした交流のなかで相互研鑽を図る「学びの場」であると同時に、コミュニティにおける役割期待の受容と遂行を通じ、他者からの承認を得て自己の存在意義を再確認できる「要場所」(いばしょ)へと昇華されることが期待される。
〇「カネ」については、“あいとぴあカレッジ”では受益者負担による参加責任の明確化が図られた。今日では、クラウドファンディングや社会的投資といった住民自身が「まちづくり」の資金循環に直接的に関与する仕組みが検討される余地がある。これによって、「まちづくりと市民福祉教育」の継続性は、行政や社協の補助金への依存から脱却し、住民の思いや願いを可視化する社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の蓄積へと転換される。
〇そして最後には、「シゴト」における「学習課題」の再構成である。“あいとぴあカレッジ”では、学習プログラムのテーマ設定に際しては、福祉(「ふくし」)を「他人事」から「自分事」へと引き戻すことに留意した。この視点は、現代においても依然として重要である。しかし、生産性の原理や自己責任の論理が追求される現代社会にあって、今後の学習プログラムの編成においては、パウロ・フレイレが提唱した「問題提起型教育」を重視し、地域・社会の社会構造を批判的に分析・検討する視点を組み込むことが肝要となる。
〇先述の図1のモデルは、現代においても有効なものである。加えて、「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開において避けて通れない変数が、孤立・孤独の深刻化や、SNSやAIに代表される情報技術の加速度的な進展である。これらの新たな社会変数を図1のモデルに不断に取り込み、問い直すプロセスを通じて、地域・住民の自己変革と社会変革のエネルギーが生成されることになる。換言すれば、「市民福祉教育はまちづくりのエンジンであり、まちづくりは市民福祉教育の教材である」。この双方向的な関係性を改めて教育実践の核に据え、地域社会の動態そのものを「学びの資源」へと転換していくことこそが、今、強く求められているのである。

おわりに
―住民主体の計画原理とデジタル時代の展開可能性―

〇最後に、いま一度、本研究で得られた知見と理論的・実践的含意、ならびに今後の課題について再確認しておきたい。
〇第1に、本研究の知見として、市民福祉教育の計画化は、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」という循環的プロセスを基軸として成立することが明らかとなった。とりわけ重要なのは、①このプロセスが住民の生活実態や生活課題、学習要求・学習必要を出発点とする点にあり、計画が行政や社協・専門家主導のものではなく、地域・住民の生活に根ざした課題の再編成として構築される点である。また、②市民福祉教育の実践は、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」という諸要素の有機的統合によって支えられ、これらの構造化を通じて一過性の事業ではなく持続的な地域実践へと転化することが確認された。そして、③“あいとぴあカレッジ”における学習過程は、知識伝達型ではなく、住民を学習主体かつ教育主体として位置づける自己教育・相互教育の過程として展開され、そのことが主体形成と「まちづくり」への行動変容を媒介する契機となった点が注目される。
〇第2に、本稿の理論的貢献は、市民福祉教育を単なる教育活動としてではなく、地域課題の認識・再編成・実践を包含する「動態的プロセス」として再定義した点にある。従来の福祉教育研究が、事業内容や実践事例の記述にとどまりがちであったのに対し、本研究は計画過程そのものに内在する構造と原理を抽出し、「まちづくりと市民福祉教育」の統合モデルとして提示した。また、住民の「学習要求」と「学習必要」を媒介する計画論的視座や、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」の資源構造の体系化は、地域福祉計画および社会教育計画の接合領域に新たな分析枠組みを提示するものである。さらに、現代的文脈においてAIやデジタル技術との相補的関係を視野に入れた点も、計画論の拡張として位置づけられる。
〇第3に、以上の検討から得られる実践的含意として、地域における市民福祉教育の展開にあたっては、①住民の生活実態に根ざした課題設定、②多様な主体の参加と共働による計画形成、③学習過程そのものを主体形成の契機とするプログラム設計、④学習成果を地域活動へと接続する仕組みづくり、が不可欠であることが示唆される。とりわけ、社協職員や専門職は、計画の担い手ではなく住民主体の活動を支える「触媒」としての役割を担う必要があり、そのための専門性の再構築が求められる。また、現代社会においては、オンライン空間やデジタル資源を含めた多層的な学習基盤の整備が重要となる。
〇第4に、本稿の限界と今後の課題として、まず、本研究は1990年代の単一事例に依拠した分析であり、その知見の一般化には慎重である必要がある。今後は、現代の他地域における実践との比較研究を通じて、計画原理の普遍性と固有性を検証することが求められる。次に、“あいとぴあカレッジ”における学習成果とその後の行動変容については、長期的・追跡的なデータに基づく検証が不十分であり、今後の重要な研究課題として残されている。さらに、現代におけるデジタル技術やAIの導入が、住民主体の学習といかに接合しうるのかについては、具体的な実践研究の蓄積が求められる。
〇以上のように、本研究は、市民福祉教育を「まちづくり」の基盤として再定位し、その計画化と実践的展開の構造を明らかにした。今後は、本稿で提示した理論枠組みを基盤として、現代社会における新たな「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に期待したい。

引用・参考文献
(1)大槻宏樹編(1986)『コミュニティづくりと社会教育』全日本社会教育連合会。
(2)大橋謙策(1986)『地域福祉の展開と福祉教育』全国社会福祉協議会。
(3)大橋謙策(2022)『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版。
(4)小川利夫・大橋謙策編著(1987)『社会教育の福祉教育実践』(「シリーズ福祉教育」第5巻)光生館。
(5)岡本包治・山本恒夫編著(1975)『社会教育計画』第一法規出版。
(6)岡本包治編著(1980)『学習プログラム』(講座「現代の社会教育」第3巻)ぎょうせい。
(7)岡本包治(1984)『社会教育における学習プログラムの研究』全日本社会教育連合会。
(8)岡本包治・山本恒夫編(1985)『生涯教育のアイディアと実際』(「生涯教育対策実践シリーズ」第4巻)ぎょうせい。
(9)岡本包治・小山忠弘・福留強編著(1987)『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合会。
(10)木全力夫編著(1988)『社会教育計画論』東洋館出版。
(11)原田正樹(2014)『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版。
(12)日高幸男・岡本包治編著(1984)『社会教育のプログラム』全日本社会教育連合会。
(13)藤岡貞彦編(1980)『社会教育の計画と施設』(「日本の社会教育」第24集)東洋館出版社。
(14)松下拡(1990)『健康学習とその展開』勁草書房。
(15)矢野真和・荒井克弘編(1990)『生涯学習化社会の教育計画』(「日本の教育」第1巻)教育開発研究所。

【初出】
「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月、84~106頁。
本稿のⅠ〜Ⅳ章は、一部を除き原則として発表当時のままとし、それ以外は新たに加筆したものである。

 


第9章
「まちづくりと市民福祉教育」が拓く新たな地平
―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」への転換―

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はじめに

〇「福祉教育」実践と研究はいま、大きな転換期を迎えている。従来の福祉教育は、ともすれば高齢者や障がい者に対する福祉の心の育成を図ろうと、子どもたちの個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」に重きが置かれてきた。また、福祉教育活動が、①高齢や障害による不自由や困難についての疑似体験や、②車椅子利用者や視覚障がい者などの生活を支援するためのガイドヘルプ技術の習得、③福祉施設などに暮らす高齢者や障がい者との訪問・交流活動、という3つの形態に限定されがちであった。そこには、少なくとも3つの深刻な課題が見出される。
〇第1の理論的課題は、「依存を否定する自立観の超克」である。福祉教育は「支援する側の優越感」(思いやりが思いあがり)を育むことになり、高齢者や障がい者の「依存する権利」や「自立は依存先を増やすこと」(熊谷晋一郎)という考え方を不可視化させていないか、という点である。 第2の実践的課題は、「まちづくりとの乖離の解消」である。福祉教育は教室内での知識学習や一過性の体験学習に留まり、日常生活が営まれる地域・社会そのものを変革しようとする志向性が脆弱である、という点である。そして第3の哲学的課題は、「主体変革としての教育観の確立」である。福祉教育を単なる知識や技術・技能の習得や情動的な共感教育に終わらせるのではなく、学習者が地域・社会の課題を自らの問題として捉え直し、地域・社会を創り変える主体(変革主体)へと成長していくプロセスを、いかなる人間観や教育観(理念的・哲学的な根拠)に基づいて構築していくべきか、という点である。
〇これら3つの課題は、個別に存在するものではない。新しい自立観という「理論」を携え、地域・社会の変革という「実践」を積み重ねるプロセスを経て、子どもから大人までを含む地域住民は、真の変革主体という「哲学」を体現する主体へと成長を遂げる。すなわち、「まちづくりと市民福祉教育」を一体的に捉えるための分析枠組み(視座)こそが、地域共生社会を共創する鍵となる。ここでいう「まちづくり」とは、単なるインフラの整備やハード面の構築を指すのではない。その「まち」に住む人々が互いの権利をどのように認め合い、どのようなルールで共に暮らすかいう地域共生社会の設計そのものである。一方、「市民福祉教育」とは、単なる知識や技術・技能の習得ではなく、その設計に主体的・自律的に参加(参集・参与・参画)するための自治力と共生力を育成するための教育的営為をいう。つまり、教育によって市民のパラダイムの転換を図ることは、暮らしの社会的基盤や共生の作法を書き換えることを意味し、それが結果として地域・社会の仕組み(構造)の変革を促すのである。
〇そこでまず、1980年前後から「福祉で町づくり」を説き、福祉教育とボランティア活動のあり方を追究してきた大橋謙策の言説の原点に立ち返り、2010年代以降は「福祉はまちづくり」の時代にあることを認識することが肝要となる。そして、そこでは、「市民福祉教育はまちづくりの基盤であり、まちづくりは市民福祉教育の実践の場である」という考え方が重要になる。すなわち、「まちづくり」と「市民福祉教育」は、車の両輪の関係にある。前者は、誰もが排除されない仕組み(ハード・ソフト)を構築する営みである。後者は、その仕組みを動かし、更新する主体(市民)を育む営みである。そして、両者を媒介するのは、学習を個人の内面に留めず、地域の変革へと開いていく「学習の外化(社会化)」の概念である。従来の福祉教育は学校の子どもたちを中心とした領域に留まりがちであったのに対し、本稿が提起するモデルは、単なる社会参加ではなく、地域・社会の不条理や生活課題そのものを生きた教材とし、その解決のプロセス(まちづくり)そのものを学習過程として位置づける点にその構造的な特質を見出すのである。
〇本稿では、文献研究(文献解釈・思想分析)を通じて、「まちづくりと市民福祉教育」の理論的再定位を試みる。具体的には、下記の2人の著作を一次資料とし、中心的な概念についてその語義や文脈、背景を総合的に解釈し、それを手がかりに思想の構造的特質を抽出する。そのうえで、両者の言説を横断的に分析し、共通する問題意識や理論構造を明らかにすることで、「市民福祉教育」を「まちづくり」と一体的に捉えるための分析視角を構築したい。
〇別言すれば、本稿の課題は、従来の「思いやり教育」がいかに現代社会の構造的課題(生産性、自己責任論)を補完・温存してきたかを批判的に検討し、これに代わる「権利と構造変革の教育」(一人ひとりの尊厳を守り、そのために社会を編み直す教育)としての可能性を提示することにある。ここでいう「構造変革」とは、単なる政治・行政主導の「改革」という名のシステム変更に留まらない。それは、生きづらさを抱える当事者をはじめ、住民、専門家、行政などの多様な主体が、権利としての参加を草の根から実践し、社会の仕組みを主体的に再構築していく意識的・関係的「変革」のプロセスを指す。すなわち、個人の善意に頼る「思いやり教育」の限界からの脱却である。
〇なお、2人の言説を選定するに際しては、最近の著作で、「依存」「関係性」「共生」などをめぐる課題を主題的に扱っていることを基準とした。また、これまでの福祉教育研究が積み残してきた「情緒的共感への偏重」や「当事者性の固定化」(支援・受援の固定化)という2つの空白に対し、2人の思想が有効なオルタナティブを提示している点に、本稿で両者を検討する意義がある。両者の思想は、特異なフィールド(被災地、困窮者支援)から生まれたものであるが、そこには「自己責任論」や「関係性の断絶」といった現代社会共通の構造的課題が露呈している。本稿では、こうした課題を乗り越える視座として、小松理虔の「共事者の連帯」、奥田知志の「不可解性の受容」に注目する。

(1)小松理虔著『小名浜ピープルズ』(里山社、2025年5月。以下[1])
(2)奥田知志著『わたしがいる   あなたがいる  なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた』(西日本新聞社、2025年8月。以下[2])

Ⅰ 小松理虔:共事者の連帯
―「中途半端さ」と「共事者」が“弱い紐帯の強み”を生む―

〇ここでは、「はじめに」提示した「まちづくりとの乖離の解消」という実践的課題に対し、小松の「共事者」概念がいかなる回答を提示し得るかについて検討する。

[思想的分析]
〇地域活動家である小松が描くのは、2021年つまり東日本大震災から10年を経た後の小名浜で生きる人たち(「小名浜ピープルズ」)と「ぼく」(小松)が交わした生の声、すなわちリアリティである(19~20頁)。その内容について[1]の“帯”は、こう記す。「東北にも関東にも、東北随一の漁業の町にも観光地にもなりきれない。東日本大震災と原発事故後、傷ついたまちで放射能に恐怖し、風評被害は受けたが直接の被害は比較的少なかった、福島県いわき市小名浜。著者はこの地で生まれ育ち〈中途半端〉さに悶えながら地域活動をしてきた。当事者とは、復興とは、原発とは、ふるさととは――10年を経た『震災後』を地元の人々はどう暮らしてきたのか。魅力的な市井の人々の話を聞き、綴った、災害が絶えない世界に光を灯す人物録」。そこで小松が問いかけるのは、今後も、どこかで起こりうる災害や出来事を、いかにして「自分事」として捉え、関わっていくことができるか(183頁)、という点である。
〇[1]にしばしば登場する言葉に「中途半端さ」と「共事者」がある。「中途半端さ」についていえば、こうである。小松にあっては、東日本大震災で直接的な被害を免れたものの、被災地に住む者として当事者というレッテル(「被災地でがんばっている男性」)を貼られ、そのことが中途半端な当事者としての葛藤であった。そのような状況下で、地元でのさまざまな活動や人々との関わりを通して、この「中途半端さ」を否定するのではなく、それを受け容れ、むしろそこに意味を見出すようになる。すなわち、当事者と非当事者との間で揺れ動く存在を肯定的に認める。しかし、その立ち位置は、当事者でも専門家でもないという中途半端で曖昧なものである。またそれゆえに、それは多様な視点から物事を捉え、異なる立場の人々を結びつけ、新たな価値や役割(「新たな世界」)を生み出す。その存在を小松は「共事者」と名付ける。
〇「共事者」とは、「当事者の周囲にいて、関心を寄せたり、興味を持ったり、事の推移を見守ったりしている。つまり『事を共に』する」人のことである(177頁)。小松はいう。「被災者とは言えないけど被災地に生きている。被災地に生きているわけではないけどその土地に思いを寄せている。被災とは別の、でも似たような悲しみや苦しみを感じている。そんな『中途半端な人たち』が、ぼくたちの身近なところにたくさんいるということを忘れてはいけない」(18頁)。
〇このように、小松が提唱する「中途半端さ」とは、ある出来事において直接的な当事者ではないものの、無関係でもないという複雑で曖昧な立ち位置にある状態を指す。葛藤を経て紡がれた「共事者」の概念は、当事者か非当事者(部外者、傍観者)かという二項対立を超え、より多角的で多様な「当事者性」や「共事者性」を認める視点・視座を提供する。

[実践的意義]
〇この「中途半端さ」を肯定する視点・視座は、「まちづくり」において大きな意味を持つ。それは、特定の専門家や一部の熱心な地域活動家だけでなく、それぞれが抱える「中途半端さ」や「曖昧さ」を認め合い、緩やかな連帯や共感のネットワークを構築しようとするなかで「事を共にする」という、新たなコミュニティ形成のあり方を提示する。これは、ロバート・パットナム(Rober D. Putnam)が説いた、異なる属性を持つ人々をつなぎ、互酬性の規範を醸成する「橋渡し型」の社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の現代的な再構築に他ならない(『孤独なボウリング』(柴内康文訳、柏書房、2006年4月))。そして、関わり続けることが、社会的分断を溶かす基盤となる。
〇加えて、市民福祉教育においても重要な意味を持つ。例えば、「中途半端さ」は、それを否定するのではなく、その姿勢を受け容れ、意味づけることを通して自己肯定感を醸成する。「共事者」は、他者への無関心を乗り越え、他者と「事を共にする」という連携・協働の姿勢を促す。そして、「寄り添えなさ」は、他者理解の限界を認めながらも、継続的な傾聴と対話を通じて真摯に向き合う心構えや態度を習得するのである。
〇一方で、小松の言説にはひとつの限界も見て取れる。それは、個々人の内面的な変容や緩やかなネットワーク形成に重きを置くあまり、既存の不当な権力構造や硬直化した制度と具体的に対峙し、それらを変革していくための「政治的運動論」としての側面が弱い点である。

Ⅱ 奥田知志:不可解性の受容
―「不可解性の受容」と「なんとかなる」が“希望のまち”を創る―

〇ここでは、「はじめに」提示した「主体変革としての教育観の確立」という哲学的課題に関し、不可解な他者を受容することこそが主体のあり方を根底から変容させるという奥田の視座から、その理論的含意を明らかにする。

[思想的分析]
〇奥田は、生活困窮者(ホームレス等)に対して、信仰(神学)に支えられた深い洞察とそれに基づく個別的で包括的かつ持続的な「人生支援」を行っている。奥田の有名な言葉に、「自己責任論の社会が私たちから奪ったものがある。それは『助けて』という一言である」(奥田知志『「助けて」と言おう』日本キリスト教団出版局、2012年8月、37頁)がある。奥田は[2]で、その活動の歩みから、支援の現場で培われた思想・哲学、そして誰も取り残さない「まち」をめざす未来への提言までを綴る。それは、北九州市の特定危険指定暴力団の本部事務所の跡地という「怖いまち」の象徴だった場所を、「なんとかなる」「希望のまち」に再生する物語である。
〇奥田が指摘するまでもなく、いま、孤立と分断、困窮と格差、偏見と差別が常態化している。自己責任や身内の責任が必要以上に強要され、「助けて」といえない人が増えている。自分の利得のみを優先させる「自分病」(79頁)が蔓延している。そのような構造的な問題を抱える現代社会にあって、奥田が理事長を務める認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」では、人と人との横の「つながり」を大切にし、「出会いから看取りまで」という伴走型支援を実施してきた。そしていま、「誰もひとりにしない」まち、「なんちゃって家族」のまち、「助けて」といえるまち、の実現をめざして、(「なんとかする」ではなく)「なんとかなる」を合言葉(モットー・哲学)に「希望のまち」プロジェクトの推進を図っている。奥田はいう。「『希望のまち』は、『縦の成長』を羨望しつつも『横の成長』で共存するまちでありたい」(235頁)。
〇「誰もひとりにしない」まちは、経済的困窮(ハウスレス)だけでなく、社会的孤立(ホームレス)の解消を最大の目標とする(174頁)。「なんちゃって家族」のまちは、家族機能を社会化し、他人同士が緩やかに関わり合う新しい共同の暮らしを創る場をめざす(224~226頁)。「助けて」といえるまちは、誰もが互いに「助けて」といえる相互扶助・支援の関係性が機能する社会の実現をめざす(240頁)。そして、「希望のまち」は、「助ける」と「助けられる」という営みが「いいかげん(ちょうど良い加減)」になるなかで創られ、どんな人も取り残すことのない「地域共生社会」をいう(245頁)。
〇その「地域共生社会」について奥田は次のようにいう。これは奥田からの愛あるメッセージであり、奥田の確かな覚悟である。

われわれは、お互いが「共感不可能」の中に生きている。それを認めることが「共生」の始まりだ。いわば「共感不可能性の共感」である。
今、世界は「わかりやすさ」を軽薄に求めているように見える。「敵か味方か」「白人か有色人種か」。性的マイノリティーを侮辱し、多様性を否定し、他の民族や文化をヘイトする。「意味のないいのちと意味のあるいのち」と簡単に言う。「わかりやすい分類」は「分断」に過ぎない。(中略)
「別の人間」が「別の人間」として共存する。そのとき「別の人間である」あなたを尊重し、出会いを喜ぶことができるか。「わかりにくさ」、つまり「不可解性への耐性」が今求められている。それこそが相互豊穣の契機となる。
抱樸が創る「希望のまち」は「別の人間」が集まる場所。「別人」であることを喜べる場所。自分は自分のまま生きていてよい場所。わかりにくいが、面白い場所。(中略)そんなまちを創りたい。(267~268頁)

〇奥田にあっては、人はその複雑さゆえに、互いの存在を完全に理解するには限界がある。人を安易に二項対立的に分類したり、ある概念に押し込めることはできない。それぞれが、それぞれの違いを認め合い、理解できないそれぞれの部分も受け容れることが真の共生の基盤となる。

[実践的意義]
〇この考え方を市民福祉教育の観点から捉え直せば、真の共生を実現するための市民福祉教育は、この「不可解性」を学ぶ教育でなければならない。その目的は、自分にとって「不可解」な他者を排除せず、その存在を尊重できる市民的資質・能力を育成すること(市民性形成)にある。これは、「多様性」や「共生」を表面上・抽象的に語る姿勢を超え、生きづらさが社会構造的に常態化している現実と対峙することにつながる。そして、この「不可解性の受容」を出発点として、誰もが生きやすい土壌を地域に耕し、構造的な変革としての「まちづくり」を推進することが、いま、真に求められているのである。「対峙」とはただ向き合うことだけではない。自分をつくり変え(再構築)、「まち」をつくり変える(再設計)、創造のプロセスをいう。
〇奥田はいま、「誰もひとりにしないまち」の実現をめざして、「希望のまち」づくりを進める。建物・施設としての「希望のまち」は、救護施設や交流スペースなどの複合的な機能を内包しながら、「地域の中に施設がある。施設の中に地域がある」(259頁)という、日常に開かれた空間をめざすものである。この「まち」の重要な機能は、「なんちゃって家族」の関係性の創出であり、「助けて」といい合えるコミュニティを地域に根差した日常の生活圏で構築することにある。この思想は、特別な活動ではなく、誰もが孤立しない何気ない日常を創り出すことにある。この点を市民福祉教育に落とし込むならば、そのための教育的営為は、特定の施設・機関や活動のなかだけにあるのではなく、日常の生活圏全体を学びのフィールドとして、みんなの生涯にわたる“ふだんのくらし”のなかでこそ育まれるべきものである。
〇また、奥田がいう「なんとかなる」は、無責任・無批判な楽観論ではない。また、「なんとかする」という自己完結的な責任論でもない。それは、「わたしがいる、あなたがいる」から「なんとかなる」という、他者への信頼を基盤とし、人と人との関係性(「つながり」)のなかで共同体的な問題解決を志向するものである。市民福祉教育の文脈では、市民一人ひとりが困難に直面した際に、自己責任論に陥ることなく、誰かとつながっていれば「なんとかなる」と信じられる地域的な安心感を醸成する営みといえる。この安心感こそが、誰もが「助けて」といえる「希望のまち」(みんながつながるまち)を築く土台となるのである。
〇一方で、奥田の主張は、キリスト教的隣人愛に由来する個人的な倫理観や精神的紐帯に依拠した理論構成という側面が強く、一定の限界を抱えている。それは、個人の献身的な支援を美化し、本来行政が担うべき公的扶助の不備を看過させる恐れなしとしない点である。

〇ここで、小松の提示する「共事者の連帯」と奥田の説く「不可解性の受容」の関連性について一言しておきたい。これら両概念の交差点にこそ、本稿がめざす「構造変革」の真髄があるからである。
〇従来の福祉教育における「共感」は、相手を「理解できる存在」として前提に置いてきた。しかし、奥田が指摘するように、他者は本質的に「不可解」な存在である。この「分からなさ」に直面したとき、多くの市民は自らを門外漢や部外者の枠に閉じ込め、当事者との間に境界線を引いてしまう。ここで、小松の「共事者」概念が補助線として機能する。
〇「共事者」とは、中途半端なまま、未完成なまま「事を共にする」主体である。相手を完全に理解(コントロール)できないという「不可解性」を絶望の理由にするのではなく、むしろ「分からないからこそ、隣で共に居続ける」という、積極的な保留の姿勢へと転換させるのである。
〇この両者が結合することで、市民福祉教育は「思いやり」という情緒的満足を脱し、不可解な他者と共に、理不尽な構造(「まち」)を書き換えるという共創の実践へと昇華される。それは、互いの「不全」(弱さ・分からなさ)を排除せず、むしろそれを紐帯として、既存の生産主義や能力主義を至上命題とする社会構造を揺さぶる「不全の連帯」の創出に他ならない。この「弱さ」「分からなさ」を抱えたままの連帯こそが、自己責任論を解体し、真の地域共生社会を支える構造変革のエネルギーとなるのである。

Ⅲ パラダイムシフトと「構造変革」の推進
―「自立」の解体と「依存の権利化」による共生社会の再設計―

〇教育には、学習者の認識を進化させるための「教材」が欠かせない。本稿で小松と奥田の言説を取り上げるのは、それらが単なる体験談に留まらず、従来の社会通念(自立の定義や共感の欺瞞)を揺さぶり、自己変革を迫る「思想的教材」となるからである。これは、パウロ・フレイレ(Paulo Freire)が『被抑圧者の教育学』(新訳版、三砂ちづる訳、亜紀書房、2011年1月)で提示した、教育者が学習者に知識を一方的に注入する「銀行型教育」からの脱却と、現実を批判的に捉え直し変革を試みる「問題提起型教育」への転換という志向性を、現代の福祉教育において具現化しようとする試みでもある。また、かつて玉野井芳郎が「地域主義」(『地域主義の思想』農山漁村文化協会、1979年12月)において提唱した、中央集権的な生産性至上主義から生活圏の自律を取り戻そうとする思想的営為を、現代の福祉教育の文脈で発展的に継承するものでもある。
〇また、本稿において「当事者性」を強調する意図は、単に相手の立場に立って同情したり、思いやったりする感情移入の促進ではない。当事者の発する「助けて」という声を、個人の困りごとを超えて社会の不備を告発する権利の訴え、すなわち「構造的欠陥の証言」として捉え直し、教材化することにある。こうした教材化による認識の進化こそが、従来の「自立」概念を解体し、「相互依存」へと再構築するパラダイムシフト(枠組みの転換)の契機となるのである。
〇そして、この転換を実践へと接続し、社会構造に働きかける学習デザインを、本稿では「権利と構造変革の教育」と提唱する。そのフィールドは学校に限定されない。主たるフィールドは、住民自治組織や社協、NPO、福祉施設、企業・事業者、そして行政などが、地域社会という枠組みのなかで共に学び合う「プラットフォーム」である。そこでの主体は、子どもから大人までを含む地域住民のみならず、社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーカーやNPOスタッフ、福祉施設職員、医師・看護師、行政職員、そして教員といった専門職たちである。彼らには、「教える側」という特権的な立場を脱ぎ捨て、自らも地域の不条理に直面する「共事者」として、住民と共に課題を教材化することが求められる。ここで重要なのは、専門職が単なる伴走者に留まるのではなく、「専門性を持った共事者」として、地域住民が抱く生きづらさ(不条理)を権利へと「翻訳」し社会化する「アドボカシー」(権利擁護、代弁)の機能を果たすことである。併せて、それと並行して、他者の権利擁護のみならず、専門職自身が抱える「生きづらさ」を社会化していく「専門職によるセルフ・アドボカシー」の実践も不可欠となる。
〇そこで以下では、こうした教材化の実践が、従来の「自立」概念をいかに「相互依存」へと再構築し、「当事者性」の捉え方を「構造変革」へとつなげていくのか、そのパラダイムシフトの諸相を明らかにする。

自立から相互依存へ
〇上述の小松と奥田の言説を横断的に分析すると、そこには「自立」を至上命題とする近代的人間像を根本的に覆す、新たな教育哲学的基盤が立ち現れる。小松は、「中途半端さ」を否定するのではなく、そこに新しい価値が見出されると説く。奥田は、「非効率・非生産的」とされる人々の「生」のなかにこそ人間の根源的な尊厳があると説く。これらに通底するのは、個の「弱さ」や「依存」を排除するのではなく、むしろそれを他者とつながるための不可欠な「紐帯」と捉え直す思想である。これは生産主義の原理や自己責任の論理へのアンチテーゼであり、社会のあり方を「自立」から「相互依存的な共生」へと組み替える試みといえる。
〇ここで重要となるのが、「依存の権利化」という視点である。従来の福祉教育が、依存を「克服すべき課題」あるいは「温情的に受け入れられるべき状態」と見なしてきたのに対し、本稿が提唱するモデルでは、他者に頼り、委ねることを人間存在の本質に根ざした普遍的な「権利」として再定義する。熊谷が説くように、「自立は依存先を増やすこと」であるならば、多様な依存先を社会のなかに確保することはもはや個人の努力の問題ではなく、社会が保障すべき正当な権利となる。すなわち、この「依存の権利化」は、憲法13条の個人の尊厳(自己決定権)と25条の生存権を基盤とする。そして、障害者差別解消法の7条および8条が規定する「合理的配慮」を単なる義務的・受動的な対応ではなく、誰もが相互に依存し合える地域共生社会を構築するための構造的・能動的な権利へと昇華させるものである。
〇その「依存の権利」を行使する対象は、第一義的には国家や行政であるが、同時に、依存を「自己責任」として切り捨てない地域社会の「承認の作法」をも包含する。制度的サービスと地域住民との関係的な依存を往還させ、それらを個人の引け目ではなく、「市民の権利」として位置づける。これを教育の核に据えることによって、学習者は支援を必要とする人々を「同情や善意」の客体ではなく、共に権利を行使し、日常を創り合う主体として認識し直すことになるのである。
〇ここにおいて教育は、単なる知識や技術・技能を獲得する手段ではなく、他者の弱さや依存に呼応し合う「関係性の技法」として捉え直されることになる。この技法の根底にあるべきは、現状を追認することに留まる静的で慈恵的な「思いやり」ではない。それは、他者の尊厳を阻害する不条理な社会構造に対峙し、当事者と共にその構造を編み直そうとする、動的で変革的な実践としての「愛」、すなわちフレイレが説いた抑圧者からの解放を志向する「闘争的な愛」である。
〇この私的な情緒的な感情である「思いやり」を、社会的な連帯を伴う共働的な「愛」へと高めることが、教育の公共性を担保する原動力となる。この「闘争的な愛」「共働的な愛」が向けられるべき、教育現場における象徴的かつ具体的な対象のひとつに、障害の有無や能力の多寡によって学習の場を分断してきた「分離教育」がある。この制度的格差・差別を批判的に検討し、誰もが「共に在り、共に学び、共に育つ」ことを前提としたインクルーシブ教育へと再編していく。この実践的なプロセス(「思いやり」から「共働的な愛」へ)が、社会の構造的不条理を変革する「市民福祉教育」の論理を支える不可欠な要素として組み込まれなければならない。
〇さらに小松と奥田の言説に通底するのは、専門家が非専門家を導くという教育構造への懐疑、すなわち専門家支配からの脱却である。小松は、専門家ではなく、当事者の周囲にいて個人的な「好き」の感情や「面白がり」の精神を基盤にして、地域課題に興味・関心を持つ「共事者」の大切さを説く。奥田は、専門家によってプログラム化された支援以上に、「助けて」といえる関係性や「伴走者」としてのあり方について説く。これらは専門的な知識や技術・技能によって対象者を操作するのではなく、教育の核に、対等な関係性のなかで実現する「相互」を据えているのである。
〇この「相互」のあり方を実質化させる内面的な契機として、いまひとつ「共感」がある。「まちづくり」において「共感」は不可欠な要素である。それは、単なる感情的な同調ではなく、地域・社会に生きる主体の「多様性」を前提とする。そして、それらを排除せずに「共働」するための関係形成の基盤である。そのため「まちづくり」においては、効率的な課題解決や安易な合意形成を目的化するのではなく、互いの「わからなさ」を尊重し合い、差別を考える習慣(作法)を身に付け、その文化化を図って地域に根付かせることが重要となる。市民福祉教育は、他者を「わかる」ためではなく、他者との差異を抱えたまま、それでも共に生きるための知識や技法、価値観を育む営みである。この教育は、「まちづくり」の前提条件であり、その過程そのものである。
〇ここで、「多様性」という言葉の危うさについて言及しておきたい。現在の「多様性」の語りは、しばしばマジョリティ側の論理に変質し、マジョリティによる、マジョリティのための「免罪符」と化している側面がある。それは、社会に構造化された差別や不平等を解消する取り組みを封じ込め、後景化・後退させるような作用をもたらしかねない。つまり、無批判な多様性の尊重や奨励は、結果として差別や不平等を再生産し、マジョリティによる包摂と管理を強化することにつながる。真の多様性とは、単なる個別性の尊重に留まるものではない。それは構造化された差別を直視し、無意識にその構造に加担している「特権的な自分」を認識する実践である。したがって、「まちづくりと市民福祉教育」に求められるのは、情緒的な「共感」を超え、他者に対して共に・関わり・関心を持ち続ける「共関」意識の醸成である(岩渕功一『多様性とどう向き合うか―違和感から考える―』(岩波新書、2025年12月、130頁)。

当事者性と構造変革
〇この「共関」を単なる他者への関心に留めず、自らの問題として自覚し、社会変革への責任を具体化していくうえで重要な概念として、「当事者性」がある。これは、単に問題に直面しているという事実を指すだけではない。その問題への関わり方や主体的な意識のあり方を質的に表現する概念である。例えば、障がい者やその家族は第一義的な当事者であるが、「障害の社会モデル」の視点に立てば、障害は社会構造や環境が生み出す不全(社会的不備、障壁)である。したがって、社会を構成するすべての個人がその問題の当事者であり、等しく責任を引き受けるべき存在となる。しかし、この「すべての人が当事者である」という普遍化は、各々が固有の視点・視座を持つ異なる存在であるという「他者性」の認識を欠いてはならない。当事者性と他者性の両義性を認識することで、安易な同情や画一的な共感の押し付けを排し、異質な他者との対等な関係性における深い相互理解が可能となるのである。
〇ここでさらに、「当事者性」と「他者性」に併せて、鯨岡峻が提唱する「相互主体性」に言及しておきたい(鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性―』ミネルヴァ書房、2006年7月)。鯨岡にあっては、相互主体性とは、複数の主体(個人)が互いを単なる客体(対象)としてではなく、「私」と「あなた」が主体として存在することを認め合い、影響し合い、共に変革していく能動的で発展的な関係性をいう。その関係性が深まる過程を通して、「私」と「あなた」が共に新たな主体性を形成し、「私は私」という閉塞的な主体から「私は私たち」という開放的な関係性へと開かれることになる。この視点を福祉教育に適用すれば、例えば子どもと障がい者の交流活動は、主体(子ども)が客体(障がい者)を「知る・支援する」といった一方的な働きかけの対立的なモデルを脱し、双方が主体性を持ち、互いを尊重し合い、共に学び、共に生きる地域・社会を築いていくための重要なアプローチとなる。
〇上述の「当事者性」「他者性」「相互主体性」の概念は、三位一体となって市民福祉教育を支える概念であることに留意したい。すなわち、市民福祉教育は、個人の意識改革(当事者性の深化)のみならず、他者との関係性の質的向上(相互主体性の構築)を経て、社会構造の変革へと連動していくべきものである。
〇こうした認識に立てば、改めて、従来の福祉教育が個人の内面や道徳心に訴える「思いやり教育」に終始してきたことの限界がより鮮明に浮き彫りになる。個人の善意のみに依拠するアプローチは、既存の社会構造を補完・温存させ、かえって「助ける側(強者)」と「助けられる側(弱者)」の分断を固定化しかねない。市民福祉教育は、単なる「思いやり」や「優しさ」を教えること(学習の内面化)に留まるのではなく、「まち」に暮らす他者の不可侵の尊厳(権利)に触れる際の、緊張感を学ぶ場であるべきである。すなわち、市民福祉教育は、個人の「弱さ」やさまざまな「依存」を人間存在の普遍的な姿として捉え直す。そして、その条件のままに生きられるよう地域・社会の基礎構造的な「分母」(生産性の原理、自己責任の論理)を問い直す。そのなかで、新しい価値観を創造する「権利と構造変革の教育」(学習の外化)へと転換していくことが求められるのである(図1参照)。

図1 「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ
〇別言すれば、市民福祉教育がめざす構造変革とは、奥田がいう「助けて」といえる関係性が個人の勇気に依存するのではなく、地域の仕組み(構造)として保障される状態を創出することに他ならない。それは、行政主導によるシステムの改編や単なる個人の意識の改革ではなく、教育的実践を通して地域・社会の「分母」を書き換えていく草の根の民主主義的な社会変革である。それは、具体的には、①個人の生きづらさを自己責任にせず、社会の不備として地域課題へと押しあげる「可視化・共有化」、②当事者と住民が対等に話し合い、地域のルールや支援のあり方を共に決め直す場を日常のなかに創る「対話化・民主化」、③既存の制度に頼るだけでなく、互いの弱さを認め合い、共に助け合える新たな居場所や仕組みを草の根から実践する「行動化・共働化」、などによって駆動する。それを通じて住民(学習者)は社会の「受け手」から、地域の文脈を書き換える「創り手」へと変革するのである。

〇以上を要するに、市民福祉教育とは、①「思いやり」という内面的なアプローチから脱却し、生産性の原理や自己責任の論理に基づく社会構造を問い直す権利意識を育むこと。②小松がいう誠実な葛藤を指針として、情動的な「共感」を論理的・多元的な思考と連携させ、誰もが安心して依存できる「まち」を再設計すること。③奥田がいう「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」という確信を、個人の内面的な感情に留めるのではなく、地域の「構造」そのものに根付かせること。この構造変革こそが「ふだんの、くらしの、しあわせ」を真に支える土台となる。こうしたパラダイムの転換を提示することが、「まちづくりと市民福祉教育」の本質に他ならない。
〇なお、②と③の議論に関しては、それが内包する両義性について留意したい。確かに、「中途半端さ」や「なんとかなる」といった寛容や楽観は、包摂社会を構想するうえで重要な契機となり得る。しかしその一方で、これらは責任の所在や立場の境界を曖昧化させるリスクを孕んでいる。小松がいう「共事者」は、単なる(共感的な)傍観に留まる懸念を生み、奥田がいう「なんとかなる」は、構造的課題に対する批判精神や組織的な共働への意志を希薄化させる恐れなしとしない。それゆえに、このリスクを回避し、真の構造変革に結びつけるためのプロセス、すなわち「曖昧な善意」を社会変革に向けた「共働意識」へと昇華させていくプロセスを必要とする。
〇では、いかにしてこのリスクをコントロールし、プロセスを実質化させるのか。そこには、「省察的対話(リフレクション)」の導入という教育学的な手続きが不可欠である。具体的には、単に「共事者」として寄り添う体験に終始するのではなく、その関わりのなかで生じた「割り切れなさ」や「自身の特権性」を批判的に振り返る場を設定することである。学習者が自身の「曖昧な善意」が、既存の構造的な差別や不平等を温存させていないかを問い直す。この自己との対峙を学習過程の核心に据えることで、単なる情緒的な連帯を、社会の理不尽に対する自覚的な「共働意識」へと練り上げることが可能となる。この「問い」の継続こそが、無批判な楽観論を退け、真の構造変革へと向かう教育的営為の核心をなすのである。
〇ここで、以上で取りあげた2人の思想を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて整理すると、およそ次のようになろう(表1参照)。小松と奥田は、フィールドやアプローチを異にするが、両者の思想には「弱さ」や「依存」を肯定し、孤立を防ぎ、地域共生社会を創るという共通の底流があるのである。

表1 小松理虔と奥田知志の思想比較

Ⅳ 持続可能な「まちづくりと市民福祉教育」の展開
―「依存の権利化」を具現化する4つの実践的プロセス―

〇本稿では、小松と奥田の2人による言説を補助線にして、「まちづくりと市民福祉教育」の新たな視点・視座について検討してきた。これらの論考を横断的に捉え直すと、これまでの福祉教育観を転回させる必要性が浮かびあがってくる。そこで、ここでは、小松(「共事者の連帯」)と奥田(「不可解性の受容」)の思想を止揚し、「依存を権利として承認する教育」へと至る構造的モデルを提示する。そして、冒頭の「はじめに」に掲げた3つの課題に対応させる形で、新たな福祉教育の地平を展望したい。

理論的転回(3つのパラダイムシフト)
〇「まちづくりと市民福祉教育」は、これまでの福祉教育に、単に新たな知識や技術・技能を付け加える教育的営為ではない。それは、社会を支える「当たり前」というルールそのものを書き換えるそれであり、以下の点において、従来の福祉教育観を止揚し、新たな次元へと導く役割を担う。
〇第1の理論的課題である「依存を否定する自立観の超克」についてである。これまでの福祉教育は、高齢者や障がい者を弱者として、一方的な「思いやりの客体」として固定化してきた。人間は本質的に依存的な存在であり、真の自立とは「孤立した自立」ではなく、「相互依存的な自立」である。「まちづくりと市民福祉教育」は、個人の「弱さ」を固有のものとして認め、その依存を権利として保障する社会理論へと脱皮しなければならない。「依存の権利化」という視点は、決定的なパラダイムシフトをもたらす。
〇第2の実践的課題である「まちづくりとの乖離の解消」についてである。まちづくりと福祉教育の乖離は、小松の「共事者」の概念によって解消される。また、小松の「中途半端な」自分を肯定する視点は、子どもから大人までを含む地域住民(市民)を「まちづくり」の主体へと変革させる。この主体変革こそが、多様な主体による多層的な地域ガバナンスを構築する原動力となる。「まちづくりと市民福祉教育」は、学校の「内」や学校の「外」の地域・社会で学ぶものではなく、地域・社会というフィールドの「文脈」を書き換える実践そのものとして再定義される必要がある。
〇第3の哲学的課題である「主体変革としての教育観の確立」についてである。それは、奥田が説く「不可解性の受容」によって結実する。共生とは、単に相手を理解し共感することによるのではなく、「わたしがいる、あなたがいる」ことによって「なんとかなる」という信頼の関係性の構築である。「まちづくりと市民福祉教育」は、生産性や能力によって人間の価値を測る優生思想的な力学を否定する。そして、自己を「助ける/助けられる」という二項対立的な関係から開放し、地域・社会の「分母」そのものを組み替える「変革主体」へと再規定する教育に切り替えていかなければならない。

実践的プロセス(4つのステップ)
〇「まちづくりと市民福祉教育」は、この理論的視座を地域社会において具現化するために、従来の「思いやり教育」の枠組みを超え、社会構造そのものを書き換える営為へと深化を遂げる。
〇この構造変革への歩みは、表2および図2に示す通り、「存在肯定(在る)」→「共働参加(関わる)」→「相互依存(動く)」→「共生共創(創る)」へと至る4段階のプロセスとして体系化される。それは、個人の抱える「生きづらさ」を単なる個人的な問題に留めず、社会構造への「問い」へと転換し、他者との関係性を編み直し、新たな社会のあり方を構想する具体的なロードマップである。
〇表2は、小松と奥田の言説における用語と、「思いやり教育」と「権利と構造変革の教育」における用語を各ステップに対応させて整理したものである。図2に示すプロセスは、単なる直線的な進歩ではなく、ステップ(1)から(4)を往還しながら深化する「螺旋状の成長」をモデル化したものである。特にステップ(3)の「相互依存」において、自立を「依存を排除すること」ではなく「他者に依存する権利」として再定義・内面化したとき、初めてステップ(4)の「共生共創」は、マジョリティによる一方的な主導を脱し、双方向的な共働による「まちづくり」へと高められ、結実するのである。

表2 小松理虔と奥田知志の言説と
「思いやり教育」と
「権利と構造変革の教育」の構造

図2 「まちづくりと市民福祉教育」のプロセス

ステップ(1)存在肯定(在る):発見と価値観の再構成
〇存在をありのままに受け容れることは、単なる現状肯定に留まらない。個人が抱える「生きづらさ」や「特性」を、克服し排除すべきマイナスの課題として捉えるのではない。むしろそれを、社会のあり方や構造的な欠陥を厳しく問い直すものとして再認識し、無意識のうちに内面化している効率性や生産性という価値観を根本から揺さぶるプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する「中途半端さ」という人間の本質を寛容に受け容れることが求められる。同時に、奥田が説く「助けて」という一言を、弱さの露呈ではなく、他者と共働して社会を編み直すための「新たな価値」や「希望」として見出すことで、硬直化した自己と社会を再定義していく。そのステップである。それは、「そのままのあなたでいい」という全肯定のメッセージへとつながる。
ステップ(2)共働参加(関わる):共働と関係性の再構築
〇共働は、互いの「中途半端さ」や「曖昧さ」を、正すべき欠点として否定するのではない。個々人が抱える不可避なものとして、それを丸ごと認め合うことが出発点となる。自分とは異なる背景を持つ他者と、答えのない問いに対して多元的な視点で思考を深め合い、共に試行錯誤しながら、共働の経験を通じて分断された関係性を編み直していくプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する「寄り添えなさ」を認めることで、相手を自分の管理下や理解の枠に当てはめようとする独善的な支援の構図を打ち破ることになる。また、奥田が説く「わたしがいる、あなたがいる」という、個と個がそのままの姿で対峙し、互いの存在を等身大に認め合う相互承認の関係へと踏み出していく。そのステップである。それは、「できることから一緒にやればいい」という連帯の姿勢に象徴される。
ステップ(3)相互依存(動く):自立と依存の再定義
〇他者に依存することは、人間の尊厳に根ざしたひとつの豊かな生き方である。ここでの「真の自立」とは、一人で抱え込むことではなく、むしろ頼れる依存先を増やし、分散させることをいう。そして、「他者に依存する権利」はすべての人に等しく備わっていることを学習し、自分と他者の双方の尊厳を尊重する感性を養う。それを通して、一面では「困ったときはお互いさま」という情緒的で恣意的な(あるいは互酬性に縛られた)互助を超えていくプロセスである。
〇ここでは、小松のいう「事を共にする」という実践を通じ、依存を肯定することで、奥田が説く「何とかなる」という抽象的な希望が、確信を伴った実感へと変わる。そしてその実感を、具体的な支え合いの実践へとつなげていく。そのステップである。それは、「困ったときは助け合えばいい」という権利の承認に帰結する。
ステップ(4)共生共創(創る):共創と地域生活の再編成
〇共生は、理解できない他者や自分とは異なる属性を持つ存在を排除するのではなく、その差異を抱えたまま共に生き、互いに頼り合い・支え合うことをいう。その循環のなかで、「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」と確信できる「希望のまち(みんながつながるまち)」を、他人事(ひとごと)とせず、市民一人ひとりが主体となって共に創りあげていくプロセスである。
〇ここでは、小松が提唱する、既存の枠組みを超えた「新たな世界」を具体的に構想する。そして、依存を自立の対極ではなく、「生の基盤」として捉え直すことで、奥田が説く孤立のない「希望のまち」を現実のものとして構築していく。そのステップである。それは、「あしたをみんなで創っていこう」という希望の宣言となる。

〇これら4つのステップを地域における「高齢者介護」に落とし込むと、以下のようになる。それは、介護を単なる「管理」や「解決」の対象から解き放ち、誰もが互いの弱さを認め合いながら共生する「福祉はまちづくり」(大橋)の実践そのものである。大橋が提起するこの命題を「権利と構造変革」の観点から捉え直せば、個人の困りごとを社会全体が向き合うべき課題として「外化(社会化)」していくプロセスに他ならない。その一連の過程を教育学的な論理として体系化することに、「まちづくりと市民福祉教育」を探究する歴史的・社会的意義を見出すことができる。
〇(1)要介護高齢者を憐憫の対象としての弱者、あるいは排除すべき課題とみるのではなく、その存在をありのままに受け容れる。ここでは、介護をめぐる「生きづらさ」を社会構造への問いとして発見する視座が重要となる。(2)介護を専門職だけの閉ざされた領域に留めず、地域住民がそれぞれの「中途半端さ」(できる範囲のこと)を持ち寄って、ケアを介した他者との関係性を編み直す。これは、専門職支配からケアを市民の手に取り戻す試みである。(3)頼ることを自立の喪失ではなく、尊厳ある生き方として肯定する。「依存を権利化」することで、要介護状態になっても地域で生き続けることを保障する感性を養う。(4)要介護状態の有無に関わらず、相互依存を基盤とした共同体意識を醸成し、相互扶助が内面化された地域社会を再構築する。このように、「まちづくりと市民福祉教育」には、これらのステップを単なる理念としてではなく、プロセスとして共有し、日々の暮らしのなかで市民が主体的に体現できるよう、その学びと気づきの機会をデザインしていく役割が求められるのである。
〇いまひとつ、行政が策定する「地域福祉計画」などが単なるサービスの供給計画(「分子」)から、地域・社会全体の「分母」を書き換える実践へと進化するプロセスを描くと、こうなろう。
〇(1)計画の策定にあたって、子どもから大人までを含む地域住民が抱える「生きづらさ」や「声なき声」を社会の構造的欠陥の証言としてありのままに受け容れ、可視化する。(2)計画の策定を専門職や一部の協力者に限定せず、多様な住民が行政などと「事を共にする」関係性を、策定プロセスそのものに組み込む。(3)支援・受援の固定化を招く従来の自立支援観を解体し、住民が他者に頼ることを尊厳ある生き方(権利)として肯定し合える仕組みを計画の根幹に据える。(4)単なる施設の整備や予算の配分(「分子」の調整)に留まらず、誰もが「助けて」といい合える関係性を制度(構造)として保障し、住民一人ひとりが地域の文脈を書き換える変革主体として機能する社会をデザインする。このように、自治体の地域福祉計画は、管理のための文書から、多様な住民が「共事者」として地域の文脈を書き換え、地域の未来を共創するための社会変革のロードマップへと再規定されるのである。この再規定を実現する原動力こそが、市民福祉教育に他ならない。「地域福祉計画策定のプロセスは福祉教育の実践過程である」「地域福祉は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」といわれる所以であり、市民福祉教育が「まちづくり」の基盤であることの証左である。

おわりに
―市民福祉教育の再定位と今後の課題―

〇最後に、いま一度、本稿で提示した「権利と構造変革の教育」の輪郭を実践的な文脈で再確認しておきたい。それは、単に他者への情緒的な理解を深める学習活動を指すのではない。それは、生産性の原理や自己責任の論理の、既存の地域・社会を規定する「分母」を問い直し、人間の「依存」(他者に委ねること)と「受援」(助けを受けること)を権利として再定義するプロセスである。ここでの教育的営為とは、学習者が「共事者」として地域の不条理や他者の不可解性に直面し、その葛藤を糧に、差別や排除の構造を温存する社会システムを草の根から創り変えていく「変革主体」へと自己を再構築することを指す。すなわち、「思いやり」から「共働的な愛」へ、「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ、その転換において、注視すべきは学習のベクトルの質的変化である。前者が、学習者の内面に働きかけ、道徳的な「同情や善意」を求める「内面化のベクトル」であるのに対し、後者は、個人の気づきを地域の不条理の発見へとつなげ、具体的な社会制度やルールの変革へと向かわせる「外化のベクトル」を有するのである。このベクトルの転換こそが、教育を既存の秩序を維持する役割から、社会の構造そのものを変革する営為へと転換させる鍵となる。「まちづくりと市民福祉教育」は、個人の内面を耕すという次元を超え、誰もが安心して依存し受援し合える地域共生社会を共創するための、自治的・共働的な社会変革の実践である。
〇なお、本稿で提示した理論的枠組みは、あくまでも分析視角の提示に留まっている。今後はこの枠組みを用い、「まちづくりと市民福祉教育」の具体的な実践を分析することで、子どもから大人までを含む地域住民が「思いやりの主体」から「構造変革の主体」へと自己を再規定していくプロセスを実証的に明らかにする必要がある。特に、学習者が「共事者」としての葛藤を経て、いかにして「依存の権利化」に向けた社会的・政治的認識を高めていくのか。また、社会構造を問い直すためのアドボカシーや政策提言にどう関わっていくのか。これらの検証を通じ、「構造変革」という抽象的概念を、教育によって駆動される具体的な「社会設計の作法(メソッド)」へと具現化していくこと。それこそが、本研究が切り拓くべき次なる地平である。
〇さらにいえば、「構造変革の教育」モデルの実効性について、例えば次のような課題が残されている。ひとつは、教育現場における「評価」の困難性である。内面的な道徳心とは異なり、社会構造の変革という長期的かつ多因子による事象を、いかに教育的成果として測定するかという方法論の確立である。具体的には、リフレクション・ログ(振り返りの記録)の質的分析を通じて、学習者の語彙が「情緒的な共感」から「社会構造への批判」へと変容するプロセスを評価指標として定式化することも考えられる。その際、個々人が抱える固有の課題を権利の主張へとつなげるアドボカシーの展開や、共通の課題を持つ人々が連帯して集団的な力を組織し社会に働きかける「コミュニティ・オーガナイジング」の成立過程を、「学び」が社会変革の「力」へと結実した「実践的成果」として評価体系に組み込む視点も有効であろう。
〇いまひとつは、学校という公教育の場において、既存の社会構造を批判的に問い直す「変革主体」の育成が、学習指導要領や行政的枠組みといかなる緊張関係のなかで共存し得るかという点である。これについては、それを「対立」としてではなく、学校教育等の既存システムの再定義を促すための創造的な摩擦として位置づけることが重要となる。教育現場において、社会の不条理を所与の条件として受け入れさせるのではなく、それを変革すべき教材として提示することは、「主権者教育」としての「まちづくりと市民福祉教育」の本来の姿である。
〇すなわち、「市民福祉教育」は、「まちづくり」のための単なる地域貢献活動やボランティア活動、そのためのサービスラーニングに留まるものではない。主権者・政治主体としての子どもの社会参加の促進と政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)の育成・向上を図る教育をいう。それは、地域の課題を通じて地域政治や地域行政のあり方などについて学び、考えることから始まる。そのためには、学校を地域に開き、多様な人々や組織・機関などとネットワークを形成し、共働する場(プラットフォーム)とすることが肝要となる。それを通して、「市民」としての資質・能力の育成(市民性教育)が図られ、地域の課題解決に向けて具体的に働きかけていく政治的運動としての「まちづくり」が展開されることになる。それは、人権と思想・信条の自由(人権教育)を前提とした、「対話と共働」の運動である。
〇また、教育行政や関係機関についても、単なる管理・指導の主体に留まるのではなく、地域が抱える不条理を市民と共に担う「共事者」へとその役割を再定義し、相互補完的なガバナンスへと転換していくことが求められる。とりわけ学校は、教育基本法1条が謳う「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育む場であり、学校教育法21条が示す「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」を養う場である。それゆえに、子どもから地域の大人までの市民が構造的な地域生活課題に向き合い、「連帯と共働」を通じて解決を模索する、地域共生社会の「ハブ」(結節点)ないし「プラットフォーム」としての機能を十全に果たすことが期待される。そこでは、当然のことながら、教員の専門性のあり方も問い直されることになる。
〇ここでいう教育の専門性とは、教育現場における「政治的中立性」の真義を問い直すものでもある。それは、特定の党派や政治団体(政党政治)への加担を排することであり、政治という社会的営為に対する沈黙や回避を意味するものではない。むしろ、安易に「中立」を標榜して沈黙することは、社会に潜む不条理や既存の抑圧構造を追認し、結果として現状維持に加担してしまうリスクを孕んでいる。教育の本質は、社会に厳然と存在する不条理や構造的課題を「生きた教材」として提示し、多様な価値観が交錯するなかで「対話と共働」を継続させる場を保障することにある。教員に求められるのは、中立という名の思考停止に陥ることでも、特定のイデオロギーを注入することでもない。自らも地域社会の一員であり、市民の一人であるという自覚を持ち、自らの価値観を絶対視することなく、子どもをはじめ地域住民や多様な専門職、行政などと共に社会を編み直すための「市民的作法」を探究し続ける。その謙虚で理性的な構えこそが、主権者教育としての市民福祉教育を担う教員の新たな専門性として確立されなければならない。これは、地域課題を自分事として捉え直す政治的リテラシーの育成・向上を図る「まちづくりと市民福祉教育」において、極めて重要な課題である。

引用・参考文献
(1)岩渕功一(2025)『多様性とどう向き合うか―違和感から考える』岩波書店。
(2)奥田知志(2025)『わたしがいる あなたがいる なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた』西日本新聞社。
(3)鎌田華乃子(2020)『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』英治出版。
(4)鯨岡峻(2006)『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房。
(5)小松理虔(2025)『小名浜ピープルズ』里山社。
(6)志水宏吉・他編著(2025)『社会関係資本を活かした学校づくり―事例とデータでみる子どもたちの「つながり」―』ミネルヴァ書房。
(7)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会。
(8)パウロ・フレイレ、三砂ちづる訳(2011)『被抑圧者の教育学』(新訳版)亜紀書房。
(9)パウロ・フレイレ、里見実訳(2001)『希望の教育学』太郎次郎社エディタス。
(10)ロバート・D・パットナム、柴内康文訳(2006)『孤独なボウリング』柏書房。

 


 

おわりに

 


 

〇本書では、福祉教育の歩みを、歴史的遡及と実践的分析の両面から検証してきた。その最大の知見は、福祉教育を市民自治による社会変革のプロセスとして再定義したことにある。また、福祉教育の理論的検討の到達点は、大橋謙策の「価値変革」(博愛の精神)や原田正樹の「関係変革」(相互依存的自己実現)を踏まえながら、「まちづくりと市民福祉教育」へと止揚(昇華)させた点にある。そこでは、福祉教育を単なる道徳教育や共感教育の枠から解き放ち、地域社会の構造的課題を問い直す「権利と構造変革の教育」の理論的枠組みを提示した。
〇本書はひとつの集大成である。しかし、「まちづくりと市民福祉教育」という広大な領域においてはいまだ「道半ば」である。特に、デジタル技術の浸透やAIの普及が急速に進む現代社会において、かつて存在した「みんなで考え みんなで汗をながす」ようなコミュニティの紐帯をいかに再生し、それを教育の場として再構造化していくか。この喫緊の課題は、まさに次代の福祉教育に託されている。
〇本書の「おわりに」、改めて次の2点に限って確認しておきたい。ひとつは、市民福祉教育における「歴史・哲学・原理」の構造的連関についてであり、いまひとつは、「権利と構造変革の教育」における今後の検討課題についてである。

市民福祉教育における「歴史・哲学・原理」の構造的連関
〇市民福祉教育を学問的に体系化する際、最も排すべきは「歴史なき哲学」「哲学なき原理」「原理なき歴史」という断絶である。具体的には次の通りである。
〇第1に、「歴史」の継承と検証である。市民福祉教育の歴史とは、記録された過去の教育的実践の単なる羅列ではない。それは、各時代の社会矛盾に対し、先人たちがどのような思想的武器を持って対峙してきたかという応答(闘争)の軌跡である。例えば、戦前期に国分一太郎が「1936年論文」で求めた「社会事業的教師」「社会事業家としての態度」は、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)を再定義する試みであった。また、大橋謙策が1980年代に提示した概念規定は、高度経済成長期の歪みが生み出した「社会福祉問題」という歴史的文脈から析出されたものである。
〇こうした歴史を遡及的に検討する意義は、現代の「地域共生社会」という標榜が、かつての思想を脱色した単なる「お守り言葉」(鶴見俊輔)へと形骸化していないか。あるいは、不条理な社会構造を編み直そうとする社会変革を志向しているか。こうした点を、批判的あるいは創造的に峻別することにある。歴史を学ぶことは、現代の立ち位置を相対化し、未来への展望を記述するための不可欠な作法に他ならない。
〇第2に、「哲学」の深化と再構築である。歴史から析出された知見は、普遍的な「哲学」へと昇華されなければならない。大橋の「博愛」、原田の「相互依存」、筆者の「自治・共働」といった概念は、いずれも「人間とは何か」「共に生きるとはどういうことか」という根源的な問いへの応答(対峙)である。哲学は、混迷する現場において、活動が小手先のハウツーに流されるのを防ぐ防波堤となる。特に、効率性や生産性が至上命題とされる現代社会において、人間存在の根幹に据える哲学の構築は、既存の社会システムを根底から問い直す批判的機能を果たすものである。
〇第3に、「原理」の理論化と有効性の検証である。哲学という抽象的な思考は、具体的な「原理」として理論化されることで、初めて実践の指針となり得る。大橋の「主体形成」の枠組み、原田の「協同実践」や筆者の「共働」の原理は、哲学を具体的な社会変革のプロセスへと落とし込むための論理的装置である。原理は、実践を通じて常に試される。優れた原理は、多様な現場において再現性を担保しつつ、同時に個別具体の状況に応じた柔軟な適用を可能にする。そして、この「原理」の精度を高めることこそが、研究者と実践家による「バッテリー型研究」の中核的課題である。
〇要するに、「歴史」によって研ぎ澄まされた「哲学」が、実践を支える「原理」を導き、その原理に基づいた「協同実践」や「共働」が、次なる「歴史」を創り出す。「哲学なき実践は凶器であり、実践なき哲学は遊戯である」という認識を改めて重く捉え、「歴史・哲学・原理」の動的な循環を志向することこそが、現代の「まちづくりと市民福祉教育」に課せられた責務である。

「権利と構造変革の教育」における今後の検討課題
〇本書では、市民福祉教育を個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」から、社会の「分母」を書き換える「権利と構造変革の教育」へと再定義し、その理論的・哲学的基盤を提示した。しかし、このパラダイムシフトを現実の地域社会や教育現場において実質化・具現化し、持続的な運動へと昇華させるためには、例えば次の3つの課題が残されている。
〇第1に、「共事者」および「変革主体」への変容プロセスにおける心理的・教育学的メカニズムの解明である。本書では「省察的対話(リフレクション)」の重要性を指摘したが、マジョリティ側にある学習者が、自らの「特権性」や「無意識の加担」という不快な事実に直面した際、防御的な拒絶反応(例えば「自己責任論」への回帰)をいかに乗り越え、建設的な「共働意識」へと転換し得るのか。この内面的な葛藤から社会変革への行動に至る「認識の変容プロセス」を実証的に追跡し、その学習モデルの有効性を検証する必要がある。
〇第2に、「構造変革の成果」を可視化・評価するための新たな指標の策定である。従来の福祉教育が「意識の変化」という主観的指標に頼ってきたのに対し、本モデルが志向するのは「社会の仕組み(構造)の変革」である。したがって、評価の対象は個人の内面に留まらず、地域における「依存の権利化」を支えるルール(条例や計画)の策定、あるいは「助けて」と言い合える関係性の密度や、排除を生まないインクルーシブな場の創出といった「関係的・構造的な成果」にまで拡張されなければならない。教育的実践が、いかなるプロセスを経て具体的・制度的な「まちづくり」の成果へと結実するのか、その因果の連鎖を評価体系として定式化することが求められる。
〇第3に、「専門職の再専門化」と「官民共創ガバナンス」の構築である。本書で触れた「専門性を持った共事者」としての教員や福祉専門職のあり方は、従来の「指導者・支援者」というアイデンティティを根本から揺さぶるものである。彼らが専門的知見を「特権」としてではなく、住民の声を権利へと「翻訳」するリソースとして再定義するための養成・研修プログラムの確立が不可欠である。AIが標準的な解を瞬時に提示する時代だからこそ、専門職には、データ化できない住民の「痛み」や「沈黙」を汲み取り、対話を通じて新たな意味を共に創り出す実践知が求められる。
〇また、草の根から生まれる社会変革が、既存の行政システムと対立するのではなく、いかに公的責任を補完し、強化できるか。さらには、それが新しい「共生社会の設計図」として、いかに制度のなかに取り込まれていくのか。その政治的・行政学的な制度設計のあり方についても、福祉教育の枠を超えた隣接諸科学との学際的な探究が待たれる。
〇以上の課題に応えることは、これまでの福祉教育を特定の領域から解放し、民主主義を支える「主権者教育」の核心へと据え直すことに他ならない。主権者たる市民が主体的・自律的に社会構造を問い直し、社会変革に関与していく姿――それこそが、「まちづくりと市民福祉教育」が結実した真の姿であり、めざすべき地平である。

〇思えば、1980年頃に福祉教育を自らの生涯のテーマと定めて以来、筆者の歩みは常に優れた師との出会い、そして地域で懸命に生きる住民の方々との対話や共働に支えられてきた。師との出会いにおいて、とりわけ大橋謙策先生との出会いが、その後の私の歩みを決定づけたことは言を俟たない。科学的・学際的な研究の深化を願いつつも、自身の未熟さを痛感し続けた歳月であった。とはいえ、福祉教育の実践と研究のさまざまな時間や空間での苦悩や葛藤こそが、「ふくし」や「まちづくりと市民福祉教育」の本質を問い直す原動力となったことも事実である。
〇また筆者は、1990年代中頃から、「ふくし」とは「ふだんの くらしの しあわせ」について「みんなで考え みんなで汗をながすこと」。「しあわせ」とは「みんなが 満足していて楽しいこと」、と言ってきた。そのきっかけは、茨城県社協主催の福祉教育セミナーに参加したときの、一人の実践者の一言であった。「福祉教育が変えるのは、特別の誰かの人生ではなく、いま、隣りにいる人の『当たり前』なんですね――」、がそれである。いま思い返せば、「ふくし」の本質が、単なる「ふつうの くらし」の平穏を願うことではなく、一人ひとりが日々営む「ふだんの くらしの しあわせ」を構造的に捉え、みんなで創り上げていくことであると確信したのは、まさにあの一言であった。その後、筆者は、「まちづくりと市民福祉教育」とそのための「共働」について論究することになる。
〇筆者はまた、2012年6月に「市民福祉教育研究所」(オンライン組織)を設立した。これは、筆者が地域で学んできた事柄を次代へ還元し、これからの社会を担う若者たちと自由闊達に議論するための「対話の広場」を創出する試みでもあった。幸いにして、いま、多くの共同研究者や読者に恵まれている。
〇本書が、かつて筆者が諸先輩方から受け取った灯火を、未来(あす)の市民社会を拓く若い研究者や実践者たちへと繋ぐ一助となれば、これに勝る幸せはない。

著者紹介
阪野 貢(さかの みつぐ):MItsugu  Sakano
市民福祉教育研究所顧問
日本福祉教育・ボランティア学習学会名誉会員(2023年)

宝仙学園短期大学保育科  専任講師・助教授・教授(1973年4月~1997年3月)
中部学院大学人間福祉学部人間福祉学科  教授(1997年4月~2013年3月)
中部学院大学大学院人間福祉学研究科 教授(2003年4月~2013年3月)
NHK「社会福祉セミナー」講師(福祉教育等担当)(1997年8月~2009年1月)
皇學館大学大学院社会福祉学研究科 非常勤講師(2002年4月~2011年3月)
福井県立大学大学院看護福祉学研究科 非常勤講師(2003年4月~2021年3月)
文教大学生活科学研究所  客員研究員(2013年4月~2021年3月)
市民福祉教育研究所  主宰(2012年6月~2020年12月)
市民福祉教育研究所  顧問(2021年1月~)
横浜市立大学、日本女子大学、東京学芸大学、佛教大学、名古屋女子大学、名古屋学院大学等の非常勤講師
日本福祉教育・ボランティア学習学会事務局長・副会長、日本福祉文化学会理事、全社協・東京都社協・埼玉県社協・静岡県社協・富山県社協・岐阜県社協・三重県社協等の福祉教育・ボランティア等委員会委員・委員長等を歴任
著書
『福祉教育論』(編著)北大路書房、1998年
『戦後初期福祉教育実践史の研究』(単著)角川学芸出版、2006年
『福祉教育のすすめ』(監修)ミネルヴァ書房、2006年
『市民福祉教育の探究』(単著)みらい、2009年 など多数

 


 

「まちづくりと市民福祉教育」の研究
―その思想的系譜と変革の実践原理―

発 行:2026年6月1日
著 者:阪野 貢
発行者:田村禎章・三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第86号(2026年5月28日)

「老爺心お節介情報」第86号

〇早いもので、もう5月の下旬です。今や、日本には四季がなくなったのでしょうか、夏日、真夏日が続き、夏の気候になってしまいました。それでも、自然の営み、時は流れて、チョウゲンボウが営巣のために飛来してきましたし、時鳥(ホトトギス)が“トウキョウ、トッキョ、キョカキョク”と鳴き始めました。
〇私の足の具合はだいぶ良くなり、傷口も塞がり、5月22日には医者から治療は終わったという宣告を頂きました。治療薬を塗り、包帯を巻くということはなくなりましたが、足のはれと痛みは未だ残っており、まだ足を引きずりながら外を歩いています。やはり全治1か月では完治しませんでした。
〇この間の出来事を綴ります。
(2026年5月28日記)

Ⅰ 足の負傷に伴う羽田空港での車いす体験

〇5月11日、香川県社会福祉協議会の「2040年に向けた社会福祉協議会のあり方」検討会に参加しました。
〇南武線の稲城長沼駅の始発電車に乗れば、座って川崎駅まで行けると思い、タクシーを予約していきました。
〇前夜までの予約は、運転手がいないので夜の11時から朝方の6時までなら予約できるのですが、6時を過ぎるとできないというのを足が悪いからと言って頼み込んできてもらいました。タクシー運賃は通常の距離による運賃の他に予約料金700円、送迎料500円を上乗せで支払いました。
〇JR川崎駅から京急川崎駅まではよろよろと歩きました。問題は羽田空港内の歩行です。四国方面行のANAのボーディングブリッジ(ゲート50番前後)は遠く、普段使うチェックインカウンター後の保安検査場からは約1キロあります。
〇チェックインの際に、電動カーの予約をしたら、運転手付きの電動カーを手配してくれました。乗ってみて驚いたのは、電動カーがクラクションを鳴らしながら走行しているにも関わらず、注意を払う歩行者は皆無と言っていい状況で、電動カーは衝突を避けてしょっちゅう停止をしました。
〇12日の帰りの便では、羽田空港のボーディングブリッジから出口までは、電動カーが使えないという。帰りの通路が出口まで同じフロア―でなく、上下の階へ異動しなければならないというので、車いすを人が押してくれることになりました。2か所、エレベーターで上下階へ移動しなければなりませんでした。車いすを押してくれた担当職員は、しっかり研修を受けているのか、気配りも声掛けも適切で安心して乗っていることができました。
〇次いで、5月14日から16日にかけて、宮崎県都城市社会福祉協議会が出版した『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)の「出版記念セミナー」に招聘され出かけました。飛行機の便はJALでした。
〇JALのチェックインカウンターはすべて機械化されていて、QRコードを翳すだけ。したがって相談しようにも、私の時には近くに職員がいません。止むを得ず、足を引きずり、チェックインし、保安検査場の手続きをしました。保安検査場を出たところに電動カーがあったので、乗ろうとしたのですが、許可が必要なのか、使用方法はどうするのか相談しようにも職員がいません。職務を終えた保安検査員が通りかかったので呼び止めて、使用していいのか、使用方法はどうするのか聞いたが分からないという。後から来た人がこう使うのではないですかと教えてくれたので、自動車のナビゲーターと同じようにバスターミナルの番号を打ち込んで始動させてもらった。無人の電動カーは人や障害物を避けて、目的地まで無事運んでくれました。何となく不安だったが、乗ってみると便利なものだと感心しました。
〇いずれは、公道でもこのような無人の電動カーがタクシー代わりに人は使用することになるのでしょう。そうすれば、高齢者や障害者の移動サービス問題も解決するとは思いますが、高齢者や障害者が使いこなせるでしょうか。フランスのコンドルセが1789年に提言したように、実際生活に関する「大人の義務教育」が必要ですね。

Ⅱ 都城市社会福祉協議会の実践と出版記念セミナーの開催

〇上述したように、都城市社会福祉協議会の地域福祉実践の成果が『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)として刊行されました。
〇その記念セミナーが5月15日~16日と全国から150名の参加者で開催されました。懐かしい社協職員と出会えて、とても楽しい、嬉しい時間を過ごすことができました。
〇都城市社会福祉協議会の地域福祉実践は、上野谷加代子先生が1990年代以降「関係人口」の中軸に座り、上野谷先生の教え子や同志社大学の先生、院生も関わって、都城市社会福祉協議会職員ともども作り上げてきた実践です。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、1980年代末の「ボラントピア事業」、1990年代の「ふれあいのまちづくり事業」により大きく発展をします。その実践の特色の一つである福祉教育や、最近の重層的支援体制整備事業までの取組がコンパクトに本にまとめられています。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、公立地区公民館15館及び297館ある「自治公民館」(土地も建物も地域住民がお金を出し合って獲得している自治性が強い自治会)を基盤とした社会教育と15地区に組織化されている地区社会福祉協議会の活動とが特色であり、それらを基盤としたいろとりどりの綾なす実践が豊かに展開されてきました。
〇都城市は、1200年前後から「島津の庄」と言われた荘園で、鎌倉13人衆の一人である惟宗忠久が地頭職、下司職として派遣され土着化した地域で、地形的には盆地です。
〇惟宗忠久は、「島津の庄」にちなんで島津姓を名乗るようになります。
〇島津家4代目の忠宗の時代に、忠宗の子どもの資忠が戦功を挙げ、足利幕府から都城の支配を命じられ、事実上鹿児島島津家から独立した形で、戦国時代、徳川時代を経て今日にまで至ります。したがって、都城島津家は鹿児島島津家の分家筋ではありますが、一種独立した形の4万5千石も領する領主です。しかしながら、徳川幕府から大名としてみとめられていないので、参勤交代もありません。鹿児島島津家からは家老が派遣されていたとは言うものの、徳川幕府の天領にも似た、独立性の強い独特の位置づけが代々認められてきたようです。

註➀ 鹿児島島津家は、惟宗忠久の名にちなんで当主は「忠」を付け、都城島津家は同じく「久」を付けることが習わしになっているとのことでした。

〇このような特殊の支配構造が、鹿児島島津藩とは異なる文化を生み出したのでしょう、それが現在でも継承され、ある意味自由な、闊達な文化を生み出しているのかもしれないと思いました。
〇戦後いち早く、自治公民館による地域づくり、社会教育を振興していくのは、このような歴史的、文化的背景があったからであろうと推察しました。
〇現在の都城島津家の第29代当主は島津久友氏で、都城市社会福祉協議会の会長に就任されています。3日間、島津久友氏と歴史も含めていろいろお話が出来たのは僥倖でした。
〇数年前に、富山県氷見市の地域福祉実践を『福来の挑戦』(「福来」(フクラギ)とは出世魚の「鰤」の手前の名称、これから「鰤」になる気概をしめしたもの)として刊行し、盛大に出版記念セミナーを開催しましたが、全国各地で自らの市町村の地域福祉実践を本として出版し、世に問える実践が“目白押し”になって欲しいと「実践の記録化」の重要性を再認識したセミナーでした。

Ⅲ 日本地域福祉研究所の春季セミナー

〇日本地域福祉研究所の春季セミナーが2026年5月23日に、大正大学で行なわれました。
〇日本地域福祉研究所の理事長を退任してからははじめての参加です。理事長職を法政大学の宮城孝先生に引き継いだ時、数年は日本地域福祉研究所の行事などには参加しないと自分で決めました。
〇とういうのは、自分の性分として、疑問や意見を述べたくなると、我慢できずに話をしてしまうので、まして宮城先生は私の教え子でもあるので、自分の言動にブレーキが利かなくなると考えたので、参加しないことが大事だと考えました。
〇参加しない間に、日本地域福祉研究所の活動を客観化できるようになったら、かつての永田幹夫先生のように“よう”といって出かけ、研究所の所員の皆さんと楽しく飲めるようにしたいと自分で勝手に決めていました。
〇今回は、その客観化ができるようになったかどうかは分かりませんが、教え子の金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、修士課程の大橋ゼミ生)が、2025年11月に韓国社会福祉協議会の会長選挙で当選し、この1月から会長に就任したお祝いの会もあるということで、久しぶりに参加しました。
〇金玄勲さんには、1997年から6回行った(釜山、大邱、光州、大田、ソウル)韓国地域福祉研究セミナーの開催に当たって、大変お世話になりました。
〇その後、金玄勲さんは社会福祉法人幸福創造を設立し、特別養護老人ホーム、高齢者のデイサービス、保育所などを多角的に福祉サービス事業を展開するとともに、モンゴルの子どもたちを中心とした国際青少年交流活動を行ったり、福祉系大学で教鞭を執る等多面的に活動を展開してきました。
〇6年前には、ソウル市社会福祉協議会の会長に就任し、住民が求めているニーズに応えるサービスをプログラム化して、その事業の協賛企業を募り、プログラムの実施をしています。ソウル市社会福祉協議会は殆どソウル市からの補助金等の助成はありません。自分たちが企画したプログラムの実現に協賛する企業などからの協賛金、寄付金で運営をしています。日本の社会福祉協議会関係者は、この姿勢に大いに学ぶべきだと思います。
〇韓国からは金玄勲会長を始め10名の方が今回来日されました。中に、日本地域福祉研究所が1997年にソウルで行った第1回日韓地域福祉研究セミナーの開催を支えてくれた趙南畝さんも参加してくれていました。趙南畝さんは、“私は韓国の大橋謙策先生の教え子”と言って憚らない程、陰に陽に私と金玄勲さんを支えてくれています。その趙南畝さんがソウル市社会福祉協議会の会長に就任したと聞いて二重の喜びでした。
〇金玄勲さんの韓国社会福祉協議会の会長就任のお祝いと一緒に、東北福祉大学の大石剛史さんの損保ジャパンの社会福祉学術文献賞受賞のお祝いも行われました。
〇大石剛史さんが受賞した文献『ケアリングコミュニティの理論』(学文社、2024年、5610円)は、東北福祉大学院の博士論文を基にしたものです。
〇私が2014年に編著として刊行した『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房、5500円)で提起した私の考え方の“ケアリングコミュニティ”を基にして、心理学、哲学、教育学、看護学等の他分野の見識と比較研究してまとめたものです。久しぶりに哲学的考察をきちんとしてくれた論文を書いてくれて、教師としてはとても嬉しかったです。後に続く人が待ち望まれます。

Ⅳ 日本地域福祉学会「アーカイブ研究会」による「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」

〇日本地域福祉研究所の中島修さんや菱沼幹男さん、岡村英雄さんたちが中心になって、上記の研究会を組織し、「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」ともいえる研究会が5月24日に、文京学院大学本郷キャンパスで行われました。
〇同じ試みが2025年11月に行われましたが、その時はあまりにも準備不足なのを私が怒り、事実上、流会になりました。
〇研究者になり、論文を書くということは、“先行研究の批判検討に始まり、先行研究の批判検討に終わる”と言われるほど、先行研究を丁寧に、批判的に検討することが求められます。
〇その中で、自分が依拠してもいいと思える研究者の論文を発見できれば、自分の研究は半ば達成の道が見えてきます。筆者の場合で言えば、それは日本社会事業大学の学部時代に小川利夫論文、江口英一論文に出逢ったことが大きいです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」は、そのような先行研究を丁寧に読み、問題点を探り、かつ関係する研究者の理論、思想と比較しつつ、新たな視点と構想でこれからの日本の地域福祉研究と実践の方向性を探ることだと筆者は心得ています。
〇今回の「アーカイブ研究会」では、大橋謙策地域福祉論の中の➀地域福祉の概念、②地域福祉の主体形成、③コミュニティソーシャルワーク、④福祉教育、⑤6つの自立論、⑤施設の社会化と地域化、⑦災害支援ソーシャルワークなどについて、他の先生方との比較研究を踏まえた上での疑問についての質問を受けました。
〇正直、これだけ丁寧に研究し、質問できるならば、これを基にして『大橋謙策地域福祉論の批判と継承』という本をすぐに上梓できると嬉しくなりました。是非、実現して欲しいものです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」では、私だけでなく、阿部志郎先生や岡本栄一先生を第1弾として取り上げるということでした。
〇そこで思い出したのは、筆者が日本社会福祉学会にデビューした1974年の大正大学で行われた学会でのエピソードです。
〇その時、筆者は学会主宰のシンポジュウムのシンポジストに選ばれ、「社会福祉施設の社会化と地域化」について報告をしました。
〇シンポジュウムが終わり、帰路についた時、大正大学のイチョウ並木のところで、岡本栄一先生と早瀬昇さん(大阪ボランティア協会)に呼び止められ、とてもシンポジュウムの報告は良かったと評価してもらいました。
〇その後、岡本栄一先生は、「なぎさ理論」と称する考え方を披歴することになります。しかし、それは既に筆者が1974年段階で示した考え方です。「アーカイブ研究」の難しさは、本人が書いた論文だけに焦点化したのでは全体を鳥瞰できないというものです。

註➁ 筆者の報告は、翌年の1975年の日本社会福祉学会の紀要に掲載されます。「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
 ➂ 岡本栄一先生の「なぎさ理論」と称する論文は、「岡村『地域福祉論』と『地域社会関係』――入所型福祉施設と『なぎさ』の福祉コミュニティ論」(『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収)等参照。

〇「アーカイブ研究」は、取り上げる研究者の論文、思想のみを取り上げて論じるのではなく、それと関わる研究者の論文、思想などとの比較研究も行う、先行研究における大事な学問上の営みです。
〇かつて、日本福祉大学の元学長の二木立先生が、なぜ岡村重夫理論の批判論文がないのかおかしいではないかと言われ、筆者が『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収の拙著「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」という論文の中で岡村重夫理論を批判した際に喜んでくれ、これこそが学問なのだと言われたことが記憶に残っています。
〇「アーカイブ研究会」の終了後には、東北福祉大学大学院時代の院生が結婚した夫が日本橋で「鮨処 ほしの」を開店したので皆で行き,旧交を温めつつ大いに飲みました。とても楽しい夜でした。

Ⅴ 本の紹介―『自宅でない在宅―高齢者の生活有漢論』(外山義著、医学書院)

〇筆者の地域福祉研究・実践の足跡になる『その時の出逢いが』の2010年代を記述するに当たって、かつて読んだ本を改めて読み直しました。その本を多くの社会福祉関係者に読んで貰いたいと改めてここに紹介します。
〇その本は、建築学の生活空間論を専攻した外山義先生が書かれた『自宅でない在宅―高齢者の生活空間論』(医学書院、2003年刊、1800円)です。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国します。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になります。
〇私は、1990年代に外山義先生が設計された富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学しましたが、その哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動しました。
〇外山義先生の理念を基にした施設設計とケアの考え方を2003年以降具現化する取組を行っているのが一般社団法人ユニットケア推進センターです。このセンターが実習施設として認定している特別養護老人ホームは、皆さん出来れば見学してください。
〇その実習施設での実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)です。
〇外山義先生の考え方までに整理されていませんが、筆者も同じようなことを考えて論文を書いてきました。
〇当時、コミュニティづくりに必要な施設とは、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることではないかとか、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えてきました。それらについての筆者の論文は以下の通りです。ご参照ください。
➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要第34号』所収、1988年)

阪野 貢/「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相―思想・実践・技法・認識のダイナミズム―

はじめに

〇日本社会における「まちづくり」という営為は、高度経済成長がもたらした深刻な産業公害や都市問題、地域社会の崩壊などに対する異議申し立てとして、1960年代後半から70年代にかけて本格化した。かつての都市計画は、「中央」による画一的な国土開発(ハード・モノづくり)を主眼としていた。それに対し、平仮名で表記される「まちづくり」は、そこに暮らす「生活者」の視点から、人間らしい生活環境の回復をめざす運動として生み出された。
〇しかし、今日、まちづくりをめぐる状況は一層の複雑さを増している。少子高齢化の進展に伴う「限界集落」の頻出、2014年の「増田レポート」に端を発した「地方消滅」論の席捲、さらには格差社会の固定化による地域連帯の希薄化など、地域・社会は内側と外側の双方から崩壊の危機に直面している。こうしたなかで、まちづくりは単なる環境整備の域を超え、人口減少という所与の条件を受け入れつつ、いかにして住民の生活の質を充実させるかという「縮充」(山崎亮:2016年)への挑戦が叫ばれて久しい。
〇本稿が考察の対象とするのは、こうした半世紀に及ぶ「まちづくり」の底流に流れる「思想」と「方法」の系譜である。具体的には、1970年代に内発的発展論の「地域主義」を説いた経済学者・玉野井芳郎、「まちづくり」という言葉を一般に広めた、自治体プランニングの草分けである田村明、現代の「コミュニティデザイン」を牽引するコミュニティデザイナーの山崎亮、そして「地域学」のもつ構築を試みる社会学者・山下祐介、これら4人の言説を相互に交差・対比させる。
〇「まちづくり」という概念が多義的である理由は、それが「思想」(あるべき姿)であり、「実践」(変えるための活動)であり、同時に「認識」(現実をどう捉えるか)であるという、三位一体の性質をもつからに他ならない。
〇玉野井が提唱した「地域主義」は、市場経済的な「市民社会」を突き抜け、自然や生態系と共生する「新たな市民」の再生を説く、根源的な「思想」を提示した。一方、田村は、横浜市における行政改革を通じ、まちづくりを「市民の政府」による地域経営の実践へと昇華させ、制度的・構造的な基盤を整備した。さらに、山崎は「コミュニティデザイン」という手法を用い、モノをつくらないデザイナーとして、人と人の関係性を編み直すプロセスを確立した。そして山下は、「地方消滅」という国家的言説の罠を暴き、足元の生活基盤を学び直す「地域学」を、中央集権に対する「抵抗」としての認識運動として位置づけたのである。
〇これら4人の言説は、時代背景こそ異なるものの、一貫して「住民」(与えられる存在)から「市民」(自律的に参加し自治を担う主体)への転換を要請している。この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の根幹である。
〇ひるがえって、これまでの「まちづくり」論は、都市計画論、コミュニティデザイン論、地域社会学など、それぞれの領域で個別に議論されがちであった。しかし、それらが内包する主体形成のプロセスを包括的に捉えた議論は必ずしも十分とはいえない。そこで本稿では、玉野井、田村、山崎、山下の言説を再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示することを目的とする。

Ⅰ 玉野井芳郎と「地域主義」の思想

〇1970年代は、日本社会にとって決定的な転換点であった。1955年から1973年まで続いた高度経済成長は国民生活に物質的な豊かさもたらしたが、その一方で、深刻な公害問題の発生、過疎・過密の激化、そして伝統的な地域コミュニティの解体などの「ひずみ」を引き起こした。また、経済合理性と中央集権的な資源配分が優先されるなかで、各地の「自然・歴史・風土」は収奪の対象となり、住民の地域に対する帰属意識は希薄化の一途を辿っていた。このような状況下で、経済学者・思想家である玉野井芳郎が提唱した「地域主義(regionalism)」は、単なる地方振興の策ではなく、近代西欧的な価値観や市場経済システムそのものに対する根源的な「知の組み替え」を迫るものであった。その思想の核心的な特徴は、次の諸点に見出される。

1 エコロジーと「生活づくり」
〇玉野井の地域主義において最も独創的な点は、経済システムの基盤に「エコロジー(生態学)」を据えたことにある。玉野井にあっては、「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟を導入することにひとしい」([2]60頁)のである。近代経済学が、自然環境を「外部経済」として系の外側に置いたのに対し、大気、水、土壌といった生態系こそが、人間の生存と生産を規定する不可欠な「コモンズ(共有財・共有圏)」である。
〇この視点に立てば、地域主義における「地域」とは、単なる行政区分としての空間ではなく、空間的な「地域性」と時間的な「季節性」によって特徴づけられる「人間の生活=生産の場所」([3]10頁)である。こうした地域主義は地域共同体の構築をめざすが、その本質的な課題は、市場原理に主導された「ものづくり」から、生命の再生産を優先する「生活づくり」への価値転換を図ることにある([4]9頁)。これらの認識は、現代の「サステナビリティ(持続可能性)」の議論を先取りする先見性を備えている。

2 「内発的地域主義」の理念
〇玉野井は、国が権力と資金によって地方を牽引しようとする「官製地域主義(上からの地域主義)」に対し、明確な限界を指摘した。中央からの画一的な資源投入は、むしろ地域の混乱と荒廃を招くというのである。これに対置されたのが「内発的地域主義(下からの地域主義)」である。
〇「内発的地域主義」は、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」([3]19頁)。ここでいう「経済的自立」とは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。土地、水、労働という生存の基本要素を地域単位での共同性と自立性として確保し、資本の論理(市場)による無制限な浸食を制御しようとするものである。また、「政治的・行政的自律」は住民自治の強調を意味し、「一体感」は地域というトータルな人間活動の場への能動的な帰属を意味している。

3 「開かれた共同体」と住民中心主義
〇玉野井は、地域主義の議論が陥りやすい「閉鎖的な共同体主義」への批判に対し、明確に「開かれた共同体」を掲げた。「わたしたちのまち」を代表する市町村は、「『下から上へ』の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきもの」([3]124頁)である。とはいえ、地域間の横の繋がりを重視するこのモデルは、中央を否定して無政府状態をつくりだすものではない。むしろ、自立した諸地域が中央を「あるべき姿へと復位させる」試みなのである([3]17頁)。
〇また玉野井は、自治体行政と住民の関係についても、「住民への行政参加」という主客転倒の論理を提示した([3]119頁)。これは、行政が設けた枠組みに住民が参加する「行政への住民参加」ではなく、住民の自律的な活動のなかに、行政が「資源」として介入していくという、徹底した住民中心主義の表明であった。

4 「新たな市民」の再生と社会変革
〇玉野井の思想がめざした地平は、単なる地域の存続ではなく、地域主義を通じた新たな人間像の構築であった。それは、「市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平に登場するであろう新たな『市民』(Bürger)の再生」である([1]ⅲ頁)。
〇近代の「市民」は、抽象的な権利と義務を背負う「国家の一員」として規定されがちであるが、玉野井のいう「市民」は、具体的な地域の風土に根ざし、そこで展開される生産と生活に責任をもつ「生活者」である。この「市民」は、非政治的な市民文化の勃興を担う主体であり、その市民が地域共同体を実践的に構築していく過程こそが、玉野井のいう社会変革の本質であった。

5 「地域分権」と「諸地域の時代」
〇玉野井にあっては、「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」と言い換えられなければならない。単数の「地方」は、常に「国」を頂点としたピラミッド構造における末端という上下関係を示唆する。これに対し、複数の個性として語られる「地域」は、それぞれの歴史と伝統を誇る自律した主体の集合体である([3]14~15頁)。
〇この「諸地域の時代」において、玉野井が実効性を期待したのが自治体独自の「憲章」や「条例」の制定であった。たとえ形式上は法律の下位規範であっても、「何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よきしきたり』をうちたてることを意味する」。これが「自治体の自己革新」である、と玉野井は説く([3]38頁)。これは2000年代以降に広がる「自治基本条例」の制定運動を20年以上先取りした、極めて先駆的な制度論であった。

〇以上、玉野井が説いた「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動に対し、強力な理論的・思想的バックボーンを提供した。一方で、その議論が多分に「規範的(べき論)」であったため、後の研究者からは実証的分析の欠如や方法論の不明確さを指摘されることにもなった。しかし、玉野井が残した「ものづくりから生活づくりへ」という転換、そして「地域に生きる生活者」を主体とする共同体構築の視座は、現代のまちづくり論において色褪せることはない。以下で詳述する田村明の実践、あるいは山崎亮のコミュニティデザイン、山下祐介の地域学という系譜は、玉野井が遺したこの地域主義の思想を、いかにして具体的な「社会の仕組み」へと結実させるか、その過程として捉えることができよう。

Ⅱ 田村明と「まちづくり」の実践

〇玉野井が地域主義を「思想」として打ち立てた同時期に、行政の内部から都市のあり方を根本的に変革しようとした人物がいた。それが田村である。田村は、建築家や行政官という枠組みを超え、自らを「都市プランナー」「自治体プランナー」と称した。田村が1960年代後半から横浜市で展開した実践は、それまでの「都市計画」という官僚主導のハードウェア整備に対し、住民の主体的関与を前提とした「まちづくり」という平仮名の概念を社会に定着させる決定的な役割を果たした。田村にとって「まちづくり」とは、単なる建設行政ではない。それは「一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである」。その「共同の場」こそが「まち」である([5]52~53頁)。
〇ここで、近代日本を規定してきた「都市計画」と、田村らが主唱した「まちづくり」の概念的相違を一般論的に整理しておくことにする。従来の「都市計画」は、国家や行政が主導し、法律(都市計画法等)に基づき、インフラ整備や用途地域設定を行うハードウェアのコントロールを主眼としていた。そこでは住民は計画の客体であり、開発による利便性の享受者、あるいは立ち退き等の補償対象に過ぎなかった。これに対し、平仮名で開かれた「まちづくり」は、土地や建物の物理的配置に留まらず、そこに展開される生活空間の持続性を、住民自らが主体となって形成していくプロセスのデザインである。つまり、都市計画が「空間の機能的秩序化」をめざすのに対し、まちづくりは「人間の共同生活の自治化」をめざすのである(表1参照。[6]7頁)。

表1 まちづくりと日本型都市計画のアプローチの違い

1 「共同の場」としての「まち」の構造
〇田村によれば、こうした「まち」の構築対象は、物理的な(1)モノづくり、に留まらず、(2)シゴトづくり、(3)クラシづくり、(4)シクミづくり、(5)ルールづくり、(6)ヒトづくり、そして(7)コトおこし(イベントを起こす)、の7つをあげることができる。これを別の切り口から考えると、(a)機能づくり、(b)個性づくり、(c)魅力づくり、(d)活力づくり、(e)意識づくり、(f)イメージづくり、となる([5]54頁)。
〇また、田村は、「まちづくり」の「つくる」という意味について、「見えるまちづくり(ハード)」と「見えないまちづくり(ソフト)」の不即不離の関係として捉えた。さらに田村は、無用な開発を抑制する「つくらない/つくらせない」こともまた、まちづくりの重要な構成要素であると説き、自然保全や歴史的遺産の破壊阻止に論理的根拠を与えたのである([5]87頁)。この点は特筆に値する。

2 まちづくりの基本理念
〇田村にあっては、「まちづくり」は「共同の場」を市民が共同してつくりあげていくことであるが、その「共同の場」は、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化、などの総称である。これらの「共同の場」をつくる際には、次のような基本理念をもってのぞむことが必要となる。(1)トータルの理念(まちは、個々ばらばらではなく、全体としてひとつである)。(2)システムの理念(まちは、複雑な要素が相互に絡みあい関係しあっている)。(3)共有環境の理念(まちは、市民の共有の空間であり環境である)。(4)市民共用・共益の理念(まちは、特定の人々のためではなく、市民全体に利用され、その共同利益のためにある)。(5)市民共存・共生の理念(まちは、多数の異なる人々が矛盾をもちつつも、互いの相違を認めあって生活する場である)。(6)市民協働・共責の理念(まちは、一人の手ではなく、市民の共同作業により、共同責任でつくられるものである)。(7)市民共感・共愛の理念(まちは、市民が共通した誇りと愛情をもてるものである)。(8)相互交流の理念(まちは、市民相互はもちろん、他の多くの人々、外国の人々を含めた交流の場である)。(9)内発性の理念(まちは、他からの強制ではなく、市民や自治体の自発的な発想と行動を主力にしてつくられるものである)、がそれである([5]121~122頁)。
〇田村は、こうした「まちづくり」観に基づき、単なる都市整備の枠を超え、住民自らが「共同の場」を主体的に形成し維持していくための具体的な実践プロセスを、行政の内部から構築したのである。

3 市民参加の階梯と「協働」
〇田村は、「まちづくりと市民参加」についてこういう。「『まちづくり』には、市民が主導し協働して行うルートが重要である」。「行政の都合による市民参加は、『みせかけ』あるいは『「宥(なだ)めすかし』という意味になりかねない」。「市民協働の動きが活性化することは、市民が市民としての自覚をもって自治体を他治体から本来の市民政府へと変えてゆく動きになろう」。「市民政府は、市民参加の到達点でもある」([7]158~159頁)。
〇すなわち、田村にあっては、市民参加は単なる「意見聴取」の儀礼ではない。田村は、アメリカの社会学者アーンスタインが1969年に発表した8つの「市民参加の階梯」を参考に、「市民参加の理論的9段階」の参加モデルを提示した(図1参照。[8]134~141頁)。このモデルにおいて重要視されたのは、行政への「住民参加」ではなく、住民の自発的活動への「行政参加」という、主客を転倒させた協働のあり方である。これは玉野井の地域主義とも深く共鳴する視点であり、行政を「市民の事務局」([9]55頁)として再定義する試みであった。

図1 田村明の市民参加の段階論

4 市民自治の思想と「市民の政府」論
〇田村の理論の頂点にあるのが「市民の政府」論である。「市民の」政府とは、「政府が市民の所有物である」という意味である([9]74頁)。すなわち、田村は、自治体を単なる「国の下請け機関」や「中央の出先機関」とみなす従来の地方自治観(「官治」)を真っ向から否定した。田村が理想としたのは、市民が自立・自律して自らの政府を所有し、運営する「民治」([9]85頁)の場としての自治体である(「官治」から「民治」へ)。
〇田村は「市民の政府」が成立するための条件として、外部条件(中央統制や関与の排除、財政自主権の確立)、内部条件(市民の参画、情報公開、説明責任の遂行、政策立案の自主的能力)、そして市民条件(市民の信頼、共同意識、市民としての自己責任)の3層を挙げた([9]75頁)。特に「市民の」という所有格を強調したのは、住民が自治体を「お上」ではなく「自分たちの所有物」として認識することを求めたためである。この徹底した自治の精神は、後に全国の自治体に広がる「自治基本条例(自治体の憲法)」の先駆的モデルとなるのである。

〇以上、田村が説いた「まちづくり」論は、「まちづくり」のプランナーとしての豊富な経験(横浜市における行政経験)と全国各地の実践例の検証に基づいた、帰納的で未来志向型の思考によるものである。とともに、多様な地域現場の歴史的風土や文化を踏まえた、総合的な発想による、市民主導・市民主体の「まちづくり」論である。それは、地方自治(「市民の政府」)の問題として論じられる。
〇田村の言説を要約すれば、まちづくりとは「ヒトづくり」に行き着く。どれほど優れた「モノ」や「シクミ」を整えても、それを使いこなし、共同責任を負う「市民」がいなければ、「まち」は持続しない。田村が横浜で闘い、著作を通じて説き続けたのは、自律した市民が都市の未来(あす)を展望し、創造的な意志をもって主体的に「まち」に関わる姿であった。玉野井が思想として描いた「新たな市民」は、田村の実践によって「自律的市民」という具体的な主体として顕在化したのである。この市民主体をいかに組織化し、地域の課題解決に繋げていくか、その手法のひとつが山崎が説く「コミュニティデザイン」である。

Ⅲ 山崎亮と「コミュニティデザイン」の技法

〇2000年代以降、急速な人口減少と少子高齢化、さらには地方自治体の財政難に直面するなかで、既存の「ハコモノ行政」は限界を露呈する。そこに登場したのが、山崎が提唱する「コミュニティデザイン」である。山崎は、自らを「モノをつくらないデザイナー」と定義する。その仕事は、広場や建物の形状を設計することではなく、「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくる」ことにある。これは、まちづくりのパラダイムを「施設(ストック)」の完成から、そこを使いこなす「人間関係(フローとネットワーク)」の構築へと決定的にシフトさせた。コミュニティデザインとは、いわば地域の人間関係を観察し、地域資源を掘り起こし、住民自らが課題を乗り越えるための「しくみ」をデザインする方法の体系である。コミュニティデザイナーは、地域の課題を住民自らが解決するための「場」をデザインするファシリテーターである。

1 コミュニティデザインの4段階
〇山崎にあっては、コミュニティデザインの方法は、基本的には次の4段階によって進められる。第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」である([10]180~195頁)。

第1段階:ヒアリング(情報の深掘り)
〇単なるアンケート調査ではなく、地域のキーマンや「面白い活動」をしている個人の話を直接聴くことで、目に見えない地域の人間関係や資源を可視化する。
第2段階:ワークショップ(課題の共有と拡散)
〇ブレーンストーミングやワールドカフェなどの手法を用い、フラットな対話の場を創出する。ここで重要なのは「正しい結論」を出すことではなく、多様な意見が混ざり合い、住民同士の「共感」が生まれるプロセスそのものである。
第3段階:チームビルディング(主体の組織化)
〇出されたアイデアを実現するために、誰が何を担うのかを決定し、実行チームを構築する。この際、リーダーシップをデザイナーが振るうのではなく、住民が自発的に役割を引き受けるよう促す。
第4段階:活動支援(伴走と自立)
〇チームの初動期を支えつつ、徐々にデザイナーの介入を減らしていく。最終的にデザイナーがいなくなっても、住民たちが自立して活動を継続できる状態(自律的運営)がゴールとなる。

〇こうしたプロセスを実践するうえで、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」という4つの「読み取り能力」と、そのうえでどう行動するかという能力、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力、がそれである([10]219~220頁)。

2 「縮充社会」における参加の論理
〇山崎の言説における重要なキーワードのひとつに、「縮充」がある。これは、人口や税収が「縮小」しながらも、地域の営みや住民の生活が「充実」していく状態をいう([11]17頁)。この縮充を実現するための最大のエンジンが、主体的・創造的な活動を行う「市民」の「参加」である。 参加には、「参加」→「参画」→「協働」(コラボレーション)の発展性がある([11]68頁)。この参加を確かなものにし、課題解決の道を開くのは、地域現場での「学び」である。「地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得すことに勝る教育はない」([11]355頁)、と山崎はいう。
〇そして、行政への住民参加(住民活動の原動力)には、「住民がやりたいこと」「住民ができること」「行政が求めていること」の3つがある。この3つ輪が重なるところに、縮充の時代に求められる「参加」「参画」「協働」のヒントがある([11]146頁)。山崎によれば、この3つの輪を「自分がやりたいこと」「自分にできること」「社会が求めていること」と書き換えれば、人生を傾けて取り組める活動を探り当てることができるのである([1]426頁)。
〇また、山崎は、「楽しさなくして参加なし」「参加なくして未来なし」と断言する([11]18~19頁)。「楽しさ」は参加型社会の重要なキーワードである([11]36頁)。かつての住民運動が「反対」や「防衛」という悲壮感を伴う正義感に支えられていたのに対し、山崎が説く参加は「楽しさ(喜び)」を原動力とする。どんなに正しい取り組みであっても、つまらなければ継続しない。活動そのものが個人の生活や人生を豊かにし、他者との交流と協働のなかに価値を見出せる「活動」へと昇華されたとき、「参加」は社会変革の有効な手段となるのである。

〇ここで、小滝敏之の「縮減社会」に関する言説について付記しておく。小滝は、人口減少に伴う「縮減社会」の到来を単なる量的縮小として捉えるのではなく、その背景にある社会の質的変化と、それに対抗するための「地域自治・生活者自治」の理念を歴史的・理論的に論述する。
〇小滝はいう。縮減社会について論じるにあたって危惧すべきは、質的縮減の側面である。すなわち、家族機能や地域における共助機能の縮減であり、社会的連帯やコミュニティ意識の縮減である。こうした地域社会をどうしていくのか、どう変えていくのかを決める主役は、政治家や行政官などではなく、地域社会の生活者住民に他ならない。地域で暮らす生活者住民(小さき民)の「内発性と自治」こそが、自らの基盤である地域社会を守り育てていく根幹である(「生活者自治」)。共助や連帯の精神を再生・創造するのは、中央や地方の政府の権限や責務以上に、住民自身の責務であり、生活者住民の主体的努力と自治意識である([12]133、188頁)。
〇この生活者住民の生活世界を考えていくにあたっては、「他律」対「自律」、「統治」対「自治」、「競争」対「協力」という対立図式ではなく、また一方的に「自律」や「自治」の優位性を説くのみではなく、最終的には、「他律」と「自律」の両立・共存をめざし得る「相互律(アレロノミー)」の観点が必要となってくる([12](ⅵ~ⅶ頁)。

〇このように、山崎が提示したコミュニティデザインや小滝が理論化した「生活者自治」の思想は、玉野井や田村が追求した「地域主義」や「市民自治」を、現代の「縮小・縮減の時代」においていかにして「充実」へと転換させるかという、ひとつの回答である。 「縮充する時代の行方には、正解もなければゴールもない。『学び』というインプットと『活動』というアウトプットを、つねに市民が繰り返している状態にこそ大きな意味がある」([11]440頁)と、山崎は結論づける。まちづくりは終わりのないプロセスである。このプロセスにおいて形成される「活動する市民」のあり様が次の山下によって問われる。

Ⅳ 山下祐介の「地域学」と抵抗の認識論

〇人口の高齢化によって「限界集落」(大野晃、1991年)はいずれ消滅する、とその危機が声高に叫ばれるようになったのは2007年頃からである。2014年、増田寛也らによるいわゆる「増田レポート」が公表され、「地方消滅」という言葉が日本中を席捲した。若年女性人口の減少率を指標に、2040年までに全国の約半数の自治体が消滅の危機に瀕するという予測は、地方自治体にパニックに近い衝撃を与えた。
〇そうしたなかで山下は、「高齢化によって消滅した集落」はなく、「限界集落」問題はいわば「つくられた」ものである。増田レポートが説く「極点社会」(大都市圏に人々が凝集し、高密度のなかで生活している社会)におけるひとつの道筋である「選択と集中」は、国家の繁栄のために地方(地域)や農家の切り捨てに帰結する。地方消滅の “警鐘” にこそ地方消滅の “罠” がある、としてそのレポートが孕む欺瞞性を暴いた。以後、山下は、この国家的プロジェクトに抗うために、住民が自らの地域を「消滅するもの」としてではなく、「生き続けてきた場所」として捉え直す、根本的な「認識の転換」が必要であると説く。そして、生身の人間の暮らしや個々の地域の歴史や現在の実像を明らかにし、そこからの学びの作業を通して「地域学」を描くのである。

1 「地域の殻」と地域を捉える3つの層
〇山下にあっては、地域は人間の生存の基盤であり、「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」。自分の足元にある地域について学ぶこと、それが「地域学」である([13]11頁)。山下が提唱する「地域学」の核心は、地域をひとつの「殻」として捉える視座にある。この殻は、外部(国家や市場)からの過渡な干渉を遮断し、内部の生命活動を守るための防壁である。近代化の過程で、地域はこの殻を剥ぎ取られ、国家という巨大なシステムのなかに直接組み込まれてしまった。その結果、地域特有の知恵や慣習、自治の能力は「非効率」として切り捨てられた。山下は、「地域の殻を破らせまいと補修し、地域を外側の圧力から守り、内側の体制を固める運動」が地域学(「抵抗としての地域学」)である、と主張する([13]301頁)。それは閉鎖的な排除ではなく、自らの生活基盤を自ら決定するという「自己決定権」の奪還に他ならない。
〇そして山下は、地域の実像を、「生命」「社会」「歴史と文化」の3つの切り口(認識の層)から捉える([13]11頁)。「生命」では、環境社会学の視点・視座から、地域を、一定の環境のなかで育まれる生命の営み(生態)として切り出す。地域は人間が食べて寝て、生命を維持する基盤であり、生命の再生産の場である。「社会」では、農村社会学や都市社会学、家族社会学の視点から、地域を、そこで展開される人々の集団の営みとして描き出す。地域は、相互扶助の構造と機能をもつ場である。「歴史と文化」では、歴史社会学や文化社会学などの視点から、地域を、連綿と続く歴史と文化の蓄積の営みのなかに見出す。地域は時間的・空間的なつながりによって確立される場である。これら3層の認識を深める方法が「地域学」であり、それは「上(中央)」からの統計値に依存しない、自律的な知の構築である。

2 学校教育の分岐点と「地域学」の意義
〇山下は、学校教育のあり方が「国家・国際競争への貢献」と「地域社会の継承」という二項対立の分岐点にあることを指摘し、真の学びの意義を問い直す。現代の学校では、国際競争に勝ち抜くための経済的・生産的戦力となる国家人や国際人の育成が最優先され、地域社会の視点が軽視されている。学校は単なる人材供給装置である以上に、一人ひとりが自律的な人生を送れるよう「人としての成熟」を促す場であるべきである。人々の暮らしが地域と国家の双方で成り立っている以上、地域を担う人材を育てることは学校にとって不可欠な役割である([13]287~288頁)。
〇教育が「国家・国際社会への人材供給」に偏るなかで、山下が提唱する「地域学」は、抽象的な言語や普遍的な理論を学ぶものではなく、具体的な時空にいる私を、地域のうちに “生きているもの”として浮かび上がらせ、見定めていく、そんな学びの作業である」([13]16頁)。

3 国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへ
〇現在の日本社会では、弱者批判や地方の切り捨て、挙国一致体制の強化を容認するような、全体主義的・専制主義的な言説が広がっている。しかし、国家とは本来、地域の現実や国民の力によって「下から」形成されるべきものであり、排除や分裂を伴う国家体制は危うい([13]295頁)。
〇国家と個人の関係のみを重視する「ナショナリズム(国家主義)」には根本的な欠陥がある。一方で、国家そのものを否定しようとする、超個人主義=脱国家主義的な「コスモポリタニズム(世界市民主義)」も、現実的な解決策にはなり得ない。両者には、人々が実際に生活を営む基盤である「地域」という視点が欠落しているからである([13]296、297頁)。
〇危険な一国ナショナリズムの暴走を食い止め、社会を変革する鍵は、コスモポリタニズムではなく、国家の内部に「地域主義(地域ナショナリズム)」を確立することにある。地域という具体的な現場から国家を捉え直すことで、現在の閉塞した国家体制を克服できるのである([13]297~298頁)。

〇山下の地域学は、「認識」の主権を取り戻すことを迫る。国・中央が決めた「消滅」のカウントダウンに従うのか、それとも足元の土に根ざした「生存」の物語を紡ぎ直すのか、である。山下の説く「抵抗」とは、暴力的な拒絶ではなく、自らの足元の地域について知ること、考えることに基づく自治の表明である。国家と個人の二極化が招く全体主義的な危うさを回避するためには、抽象的な世界市民をめざすのではなく、地に足のついた「地域の自律」こそが、不健全なナショナリズムへの有効な対抗手段になるのである。

〇ここで、山下が提唱する「地域学」の認識運動を、より住民の日常的な実践へと引き寄せた先駆的試みとして、吉本哲郎や結城登美雄らによる「地元学」の言説を交差させておく必要がある。吉本らの「地元学」は、「ないものねだり」の地域づくりから「あるもの探し」への転換を提唱し、住民自らが地域の自然、文化、そして人々の「暮らしの技」を「聞き書き」等によって調査・再発見していく活動である([14][15])。これは山下のいう「生命・社会・歴史と文化」の3つの層を、行政や研究者の統計データとしてではなく、住民自身が五感を使って身体化していく「土着の認識運動」に他ならない。とりわけ、地域の高齢者が持つ生活の知恵や歴史を「地域の資源」として光を当てるプロセスは、高齢者を単なる「福祉の客体(要介護者)」から「地域の主体・表現者」へと反転させる。このように、「地域学」が提示するマクロな抵抗の認識論は、「地元学」というミクロな生活現場の技法を媒介することによって、住民自らが主体的・能動的に取り組む持続可能な地域づくり(コミュニティデザイン)の実践へと接続・昇華されるのである。

Ⅴ 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル
―「楽しさ」と「抵抗」が拓く「ふくし」―

1 4つの理論の限界と統合
〇以上のように、従来の「まちづくり」研究は、多様な領域において蓄積されてきた。しかし、その多くは個別領域ごとの議論に留まり、相互の理論的接続は必ずしも十分ではなかったといえる。玉野井らによって提唱された「地域主義」論は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その要因のひとつは、地域共同体が消滅していくなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、いかにして「地域主義」の実現を図るかという方法論が必ずしも明確ではなかったことにあった。
〇田村らによって論究されてきた「まちづくり」論は、都市計画論や地域計画論を中心に展開される傾向が強く、土地利用、景観形成、インフラ整備、制度設計といった「空間管理」の問題に重点が置かれてきた。住民参加や協働の重要性が指摘されているものの、行政計画への参加手法として位置づけられるに留まり、「地域を担う主体がいかに形成されるのか」という市民形成の問題については十分に掘り下げられているとはいえない。
〇一方、山崎らによって展開される「コミュニティデザイン」論は、人口減少社会における地域再生の具体的方法論として大きな影響力をもってきた。ワークショップ、対話、チームビルディングなどを通じて住民参加を促し、地域課題の解決を図るその実践は、従来のハード中心型のまちづくりを転換する重要な契機となった。しかしその反面、参加を促進する技法やファシリテーションの側面に議論が集中しやすく、その実践を支える思想的・政治的基盤、あるいは主体形成論との接続については十分に理論化されているとは言い難い。
〇また、山下らによる「地域学」論は、「地方消滅」論への批判や、地域を足元から学び直す認識運動として重要な意義をもっている。地域を「生命」「社会」「歴史と文化」の重層的空間として捉えるその視座は、中央集権的な地域認識を問い直す強力な批判性を有している。しかし、地域学論においても、その学びがどのように地域自治や実践的市民形成へと接続されるのかという教育的・組織論的視点は、なお十分に展開されているとはいえない。

〇このように、これら4人に代表される「地域主義」「まちづくり」「コミュニティデザイン」「地域学」に関する言説は、それぞれ固有の領域において多大な成果を蓄積してきた。しかしその一方で、地域を支える自律的市民の形成という核心的な共通の課題に対しては、部分的なアプローチに留まり、包括的・横断的に論じる視座は必ずしも十分ではなかったといえる。そこで、4人の言説を単なる個別の理論としてではなく、「思想/玉野井」「実践/田村」「技法/山崎」「認識/山下」という相互補完的な要素として捉え直し、その動的な結びつきに焦点を当てて整理する。これにより、それぞれの立論展開の限界を互いに補い合いながら市民形成を促す「『まちづくり』と自律的市民形成の循環モデル」(図2)として構造化することが可能となる。 

図2 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル

 

 循環モデルの具体的な構造
〇まず、外円(外層)は、玉野井が提唱した「地域主義」である。これは、地域の自然・風土・生命の再生産を支える思想であり、すべての営みが立脚する「基盤」を象徴している。この基盤の上に位置する中円(中層)は、田村が説いた「まちづくり」である。これは、市民が主体的かつ共同的に「実践(活動)」を展開する「土俵」であり、学びや実践が一時的な流行に終わらず、自治の制度化を志向する枠組みを意味している。そして、この自治の円環内部で展開される2つの動的な矢印が、本稿の核心である。左側の上昇する矢印は、山下が説く「地域学」による「インプット(認識・学び)」のプロセスである。地域の方向性(行方)や持続可能性(持続)、消滅の是非(限界)などに抗う「知」を構築する。一方、右側の下降する矢印は、山崎が提示した「コミュニティデザイン」による「アウトプット(実践・活動)」のプロセスである。ワークショップなどを通じて関係性を編み、具体的な課題解決を形にする。
〇この「学び」と「実践」が、自治の土俵の上で絶えず往復し、円環状に結ばれるプロセスそのものが、筆者の提唱する「市民福祉教育」の実体である。そして、この絶え間ない循環の「核(中心)」において形成されるものこそが、自らの生と地域を自律的に構築する主体としての「自律的市民」に他ならない。
〇また、この循環モデルにおいて、4人の言説を底流で結びつける共通のキーワードは「コモンズ」である。玉野井の「生態系」、田村の「共同の場」、山崎の「関係性」、山下の「地域の殻」は、いずれも国家や市場に囲い込まれない「地域社会の共有財」に他ならない。本モデルが示す自治の円環とは、住民自らがこのコモンズを共同で管理・運営していくプロセスである。すなわち「自律的市民」とは、共有財への能動的な責任を引き受け、その維持発展を担う主体として定義されよう。
〇同時に、これら4人の言説は、時代背景やアプローチこそ異なるものの、その深部において「自律的主体の形成」と「地域の再生」という共通の地平をめざしている。玉野井が求めた「新たな市民」は、市場経済の抽象的な個人を超え、エコロジーと風土に根ざした「生活者」であった。その思想を受け、田村は行政の内部から「市民の政府」を提唱し、住民が自治の責任を負うための具体的な制度的枠組みを提示した。さらに山崎は、縮充社会という現代的課題に対し、「コミュニティデザイン」という手法を用いて、楽しさを媒介とした「関係性の再構築」を実現した。そして山下は、国家主導の「消滅論」という認識の罠を暴き、足元からの「地域学」を抵抗の知として再定義したのである。これら4人に共通するのは、地域を単なる「管理の対象」や「サービスの享受場所」とみなす客体化を拒絶し、そこを「人間が自らの生を自律的に構築する舞台」として奪還しようとする強烈な意志である。
〇本稿で探究する「まちづくりと市民福祉教育」は、これら4人の言説が交差する点に立ち上がる、新たな教育・実践のパラダイムである。それは、既存の学校教育や福祉制度の枠内で行われる「知識の伝達」ではない。市民福祉教育とは「自分たちの暮らしの幸せを、自分たちの手で創り出すための知識と技能を、地域という現場での実践を通じて学び合うプロセス」そのものである。
〇山下が説く「地域学」というインプットの場と、山崎が説く「コミュニティデザイン」の場が、田村が整えた「自治の制度」の上で円環状に結ばれるとき、住民は「教えられる存在」から、自らの生活圏をデザインする「市民」へと脱皮する。この「学び」と「実践」の不断の往復こそが、市民福祉教育の本質に他ならない。

3 本モデルがめざす実践と「ふくし」
〇現代日本が直面する人口減少や資源の制約は、一見すると「福祉の後退」を意味するように見える。しかし、本稿が考察してきた言説を補助線に引けば、それは一面では、真の「ふくし」へ立ち返る好機であると捉え直すこともできる。外部資本や公的制度に過度に依存するのではなく、地域にある未利用の資源を「発見」し(山下)、住民同士の「関係性を編み直し」(山崎)、それを支える「自治のルールを創設」し(田村)、その営みのなかに「自然との共生という倫理」を組み込む(玉野井)。このプロセスは、経済的な拡大を至上命題としてきた近代モデルからの決別であり、豊かさの質を「縮充」へと転換させる試みである。
〇「まちづくりと市民福祉教育」がめざす地平は、誰かに守られるだけの弱者を見出し支援する場所ではない。互いの弱さを認め合いながら、ともに「共同の場」(コモンズ)を創造・運営していく強さをもった市民・主体を育む場所である。そこでは、住民一人ひとりが自らの足元を学び直し、住民同士が対話を重ね、みんなで小さな実践を積み重ねることによって共通認識や信頼関係(ネットワーク)という土台を築くことが肝要となる。「まちづくり」とは終わりのない認識運動である。
〇「楽しさ」と「抵抗」を胸に、自律的な市民が「ふだんの  くらしの  しあわせ」を語り合い、形にしていく。その連鎖・共働の先にこそ、消滅することのない、真に持続可能な地域社会の姿があるのである。

おわりに

〇本稿で考察した「まちづくりと自律的市民形成の循環モデル」を机上の空論に終わらせず、実際の地域社会で機能させるためには、今後いくつかの重要な課題に対応することが求められよう。ひとつは、「まちづくり」の活動や担い手の固定化を防ぐために、如何にして多様な市民を巻き込み、連携・共働していくかという点である。一部の層に依存しない、多様な主体が緩やかにつながる仕組みづくりが不可欠となる。いまひとつは、住民の主体性・自律性を引き出し、それを側面から支える「伴走型」の支援体制を如何に確立するか、である。行政や専門職には、主導ではなく、市民の力を如何に引き出し、共働するかという役割転換が求められる。今後は、これらの課題を踏まえ、SNSを用いた多様な主体のネットワーク化や、AIの利活用による地域課題の可視化や効率的な伴走支援など、デジタル技術の進展に伴う時代変化に対応した持続可能な仕組みへと本モデルをアップデートしていく必要がある。

引用・参考文献
(1)玉野井芳郎(1977)『地域分権の思想』東洋経済新報社(本文[1])。
(2)玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房(本文[2])。
(3)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会(本文[3])。
(4)玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司編(1978)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』学陽書房(本文[4])。
(5)田村明(1987)『まちづくりの発想』岩波新書(本文[5])。
(6)西村幸夫編(2007)『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店(本文[6])
(7)田村明(1999)『まちづくりの実践』岩波新書(本文[7])。
(8)鈴木伸治編(2016)『今、田村明を読む―田村明著作選集―』春風社(本文[8])。
(9)田村明(2006)『「市民の政府」論―「都市の時代」の自治体学―』生活社(本文[9])。
(10)山崎亮(2012)『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書(本文[10])。
(11)山崎亮(2016)『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所(本文[11])。
(12)小滝敏之(2016)『縮減社会の地域自治・生活者自治―その時代背景と改革理念―』第一法規(本文[12])。
(13)山下祐介(2021)『地域学入門』ちくま新書(本文[13])。
(14)吉本哲郎(2008)『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書(本文[14])。
(15)結城登美雄(2009)『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』農山漁村文化協会(本文[15])。

【初出】
阪野貢「追記『まちづくりの思想としての地域主義』を考える―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2021年5月20日公開)
阪野貢「改めて、田村明を読む―『まちづくり3部作』について―」(同、2017年10月1日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

阪野 貢/神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校:発表題目
江 陽  中学校:本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒 句  中学校:社会福祉教育実施内容について
秦 野  中学校:本校における社会福祉教育の実態について
池 上  中学校:社会事業に関する学習指導について
栗田谷      中学校:社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一 中学校:我が校の実施状況について
鶴 嶺  中学校: 本校における社会福祉思想の普及について
富士見  中学校: 社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘 高等学校:社会福祉事業に関する世論調査
津久井 高等学校:社会福祉研究委員会の活動について
江 南 高等学校:社会福祉教育の実際 (公開授業)
山 北 高等学校:高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原 高等学校:本校の活動状況について
翠 嵐 高等学校: 社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校:本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿は、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質を検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。

 

老爺心お節介情報/第85号(2026年5月6日)

「老爺心お節介情報」第85号

〇皆さんは、ゴールデンウィークをどう過ごされていますか。
〇私は、足の傷が痛く、歩けず、家に蟄居していました。童謡の「みよちゃん」ではありませんが、“ケンちゃんはおんもに出たいと泣いている” 日々のゴールデンウィークです。足が痛いと何もする意欲が沸きません。でもやることがないので、「その時の出逢い」の第85号を少しづつ書いていました。
〇ゴールデンウィーク中にする予定だった小さな庭の畑の野菜の作付も延期です。庭木も繁茂し始めていますが、今はなるようにしかなりません。 来週から出張が始まるのですが、歩いていけるか心配です。
〇皆さん、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
(2026年5月6日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑧

Ⅰ 2000年前半―社会福祉学界の代表としての矜恃と不安、プレッシャー

〇2000年代前半は、1990年代までの研究が評価された結果なのか、社会的な活動が求められるようになり、個人の教育・研究の関心事のみならず、日本の社会福祉学界の代表としての立ち振る舞い、矜恃が求められた時代でした。
〇私自身の器、度量、力量を越える役割が求められ、自信のなさに押しつぶされそうなプレッシャーとそれらの役割が自分を成長させてくれているということが実感できる活動時期でした。
〇2000年代前半の活動の主なものは、➀日本社会福祉学会会長の職務、②日本学術会議会員としての職務、③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務、④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟・アジア・太平洋会議の日本大会の実行委員長の職務、⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務、⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務である。

➀日本社会福祉学会の会長としての職務

〇1998年10月に行われた日本社会福祉学会の理事選挙でトップ当選をし、会長に選出された(1998年~2003年、連続2期)。前会長の阿部志郎先生とは18歳の年齢差であった。
〇それまでの日本社会福祉学会の会長は、一番ケ瀬康子先生(通算4期)、浦辺史先生(通算3期)、仲村優一先生(2期)等が重任してきた他、磯村英一先生、岡村重夫先生、若林龍夫先生、木田徹郎先生、三浦文夫先生たちで、1954年の日本社会福祉学会創設時の会員(会員196名)であり、その後の日本の社会福祉学界を牽引してきた重鎮ばかりであった。創設時の会員以外で会長になったのは、筆者が最初である。
〇筆者は、1989年に公選理事になり、関東部会を担当したが、1992年の公選理事で選ばれた2期目は事務局長を仰せつかった。その際、「社会福祉学会ニュース」の刊行(小松源助先生が事務局長時代にニュースが2号出ているが、その後は発行されていない。それを復刊継続して3号として定期化させた)と公選理事のマンネリ化と理事の若返りを進めるための規約改正をした。当時の日本社会福祉学会は会員数が4000名を超える学会になっていたので、多様な会員の意見が反映されるようにすべきだと考えたからである。
〇規約改正は「理事の多選を禁止し、理事は通算4期まで、かつ理事は連続2期までは継続できる」とする内容である。したがって、理事を連続して2期まではできるが、連続2期したらいったんは理事を退き、3年間は役職に就けないという規約改正であった。
〇当然、筆者も2期で退き、3年間の間隔をおいて、1998年に再度理事に選ばれ、会長に就任した。
〇この若返りを進める規約改正により、新たな新進気鋭の理事たちが登場してくる。白澤政和先生、黒木保博先生、高橋重宏先生、上野谷加代子先生等が当初は推薦理事で理事会に入り、その後公選理事として選ばれ、学会としてなくてはならない活動を展開してくれた。
〇日本社会福祉学会の会長として行ったことは、(ⅰ)学会創設50周年行事、(ⅱ)日本社会福祉学会文献賞の創設、(ⅲ)『社会福祉学会研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(ミネルヴァ書房)の刊行、(ⅳ)韓国社会福祉学会(当時の韓国社会福祉学会会長は梨花女子大学の金聖二教授(前出)との学術交流協定の締結である。
〇社会福祉学分野における優秀な論文、著作を表彰する制度は、既に三浦文夫先生のご尽力で損保ジャパン(旧安田火災記念財団)が行ってくれていたが、日本社会福祉学会としても優秀な著作について表彰することにより、会員の研究意欲を高めたいと考えて日本社会福祉学会文献賞を創設した。
〇韓国社会福祉学会会長の車興奉先生(後に韓国保健福祉部長官に就任、日本の厚生労働大臣に該当)から、「感謝牌」が贈られた(「感謝牌」の銘文は「先生は日本社会福祉学会会長に在職していた際に韓国社会福祉学会に対する多大な関心と愛情を持ち、活発な学術ならびに人的交流を推進し、これをもって両国の社会福祉の発展とともに相互友好増進に大きく貢献しましたので、韓国社会福祉学会会員の心を込めて感謝の意を伝えたいと思います。」2015年4月29日、韓国社会福祉学会長車興奉)。
〇韓国の社会福祉界とは、社会福祉学会の学術交流だけでなく、日本地域福祉学会との学術交流も行われるようになり、その端緒を切り開くことができたと喜んでいる。
〇2026年1月には、筆者の教え子が韓国社会福祉協議会の会長に選出され、就任している。これからも韓国と日本の友好関係が継続していくことを切に願うものである。

②日本学術会議会員(2000年~2005年)

〇日本学術会議は、全国に87万人いると言われている科学者、研究者の中から、当時は会員定数210人が7部門に分かれている会員の定数毎に、関連する学会が選挙をして会員候補者を選出し、それを内閣総理大臣が任命する組織である。
〇日本学術会議は政府の諮問に応える政策提言とともに独自に政府に対して勧告できる権限を有している、いわば科学者、研究者の“国会”とも称される組織である。
〇日本社会福祉学界をはじめとした社会福祉関係学会は、会員選出の枠を持っていなかった。
〇日本学術会議には、社会福祉学界からは小川政亮先生、一番ケ瀬康子先生、仲村優一先生が選出されていたが、小川政亮先生は社会保障法の、いわば法学系の会員として選出されていた。一番ケ瀬康子先生が、社会学の分野の会員枠を一人譲ってもらって、社会福祉学界が推薦して会員になっていた。したがって、その当時の科学研究費は社会福祉学としての独立した細目を持たず、社会学分野へ申請し、採択されれば科学研究費が得られる仕組みで、結果的に社会福祉学界の科学研究費の採択率は低かった。
〇筆者は、既に1990年の時に、日本社会福祉学会選出の会員推薦人(1990年)に選ばれていたし、1994年には日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡会委員・幹事に任命されていたので、日本学術会議についてはそれなりの関わりを持っていた。東洋大学の山手茂先生や日本女子大学の田端輝美先生などと一緒に日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会の「対外報告書」(「社会福祉に関する研究・教育体制の拡充・強化についてー高齢社会に対応する社会サービスの総合化対策の一環として(1997年)、「社会サービスに関する研究・教育の推進について」(2000年))を起草していた。
〇しかしながら、いざ日本学術会議の210名の一人に選ばれるとそのプレッシャーに押しつぶされそうであった。約87万人いると言われている科学者の中から210名が会員に選ばれて日本の科学技術のあり方について論議するということは、余ほど多面的、多角的論議できる知見、博識がなければならないわけで、相当に緊張していたことが自分でも分かった。他の会員は、錚々たるキャリア、名望のある方々で、直接話をするのも憚れるような緊張感であった。
〇とりわけ、筆者が会員の時に出した対外報告「ソーシャルワークが展開できる社会システムづくりへの提案」(2003年)についての幹部会での質疑は今でも冷や汗が出る。
〇日本学術会議の対外報告は、幹部会と呼ばれる日本学術会議の会長、副会長、7部会の部会長、副部会長から構成される会議で、そこで報告し、質疑応答を受けて「対外報告」として出していいかが決まる。いわば、社会福祉学界を代表して、時の社会福祉に関わる学術、教育・研究体制、政策のあり方に関して、今後のあり方を示し、各分野の学術、教育・研究体制との整合性があるか、対外報告としてのインパクト、必要性が問われる機会であった。
〇幹部会議では、いろいろ質問を受けたが、ありがたかったのは、工学系の会員で、日本製鉄に勤めている会員が、この対外報告はとても重要で、今まさに求められている政策課題であり、学術研究課題であるという趣旨の“応援発言”をしてくれた。幹部会議が終わった後も是非頑張って欲しいと励ましてくれた。
〇当時の日本学術会議は、会長が東大総長を務めた、工学系の吉川会長であったこともあり、日本の学術体系全体の見直しが検討されていたことも“追い風”になったのであろう(日本学術会議は、2003年に『人間と社会のための新しい学術体系』を発表。そのことに関わって、筆者は「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」を2004年に執筆(『社会福祉学研究の50年――日本社会福祉学会のあゆみ』ミネルヴァ書房、2004年11月所収)。
〇このように、仲村優一会員の時から、毎期毎に必ず「対外報告」を出し、ソーシャルワークの必要性と社会福祉学の固有性を訴えてきたこともあって、2003年度から日本学術振興会の科学研究費において、社会福祉分野が社会学から独立して「細目」で認められるという、日本社会福祉学界の長年の“悲願”が実現できた。
〇社会福祉分野は、長年、大学の教育現場でも「社会福祉論」という用語を使っており、「社会福祉学」ではなかった。これ以降、「社会福祉論」ではなく、「社会福祉学」という用語の使い方が定着していく。それは、私にとっても日本社会事業大学入学時からの疑問に対する回答になった。
〇筆者は、その時から何年か科学研究費の審査委員を仰せつかった。ちなみに、その当時は看護学もリハビテーション分野も科学研究費としての独立は認められていなかった。
〇筆者が日本学術会議の「福祉研連」の委員・幹事の際の1999年9月に『福祉研連ニュース』を発刊し、日本学術会議の学会として認定登録されている社会福祉系学会の会員に配布した。
〇それら『福祉研連ニュース』を含めて、社会福祉関連の対外報告などを収録した『社会福祉・社会保障研究連絡委員会 韓国・対外報告・報告集』を2005年9月に刊行しているので参照願いたい。
〇筆者が会員に選出されていた当時、第1部会員の中には万葉集の研究で文化勲章を受けた中西進先生や東京大学名誉教授で出土した農具の分析から、縄文文化と弥生文化の地域分布の違いを明らかに、歴史的に縄文時代を経て弥生時代になるという歴史観の誤りを指摘した先生で、かつ文部科学省文化財保護審議会会長もされている藤本強先生等の斯界の権威ある先生方との交流は、緊張したけれど楽しかった。

③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務

〇日本の社会福祉関係者が長年求めてきた社会福祉専門職化、国家資格化は1987年の「社会福祉法及び介護福祉法」の制定により実現した。この法律が成立する背景には、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」に代表されるように、急激な高齢化に伴う介護人材の質・量の問題が大きな課題だった。
〇他方、1986年に行われた国際ソーシャルワーク会議、国際社会業学校連盟会議での論議を基にした斎藤十郎厚生大臣の強いリーダーシップがあった。
〇1987年成立の「社会福祉士及び介護福祉士法」の時代は、いまだ在宅福祉サービスは成熟しておらず、入所型社会福祉施設サービスの時代であった。しかも、当時は、中央集権的機関委任事務の時代であり、福祉サービス利用の可否は都道府県の福祉事務所か市レベルの福祉事務所が担っていたので、そこではソーシャルワーク機能は全くといっていいほど関心を持たれず、社会福祉研究者の一部が声高にソーシャルワークを言っていたにすぎない時代だった。厚生労働省は殆ど関心を寄せていなかった。
〇当時、筆者は「ソーシャルワーク」、「ソーシャルワーカー」と言ってもその必要性を分かってもらえないので、筆者は「ソーシャルワーク機能」という言い方を敢えてした。「ソーシャルワーク機能」は教師も、弁護士も保健婦も持っているが、それらを総体的に集中的に機能として持っているのが、ソーシャルワーカーで、在宅の障害者、とりわけ、精神障害者や高齢者の支援には、これからソーシャルワーク機能が求められることを言ってきた。
〇1990年の社会福祉関係8法改正で、在宅福祉サービスが法定化され、かつ1990年代後半になると「介護の社会化」が叫ばれ、介護保険制度の導入が決まってくる。
〇そのような状況のなかで、在宅福祉サービスの推進には、ケアワークとソーシャルワークとの連携、有機化が必要ではないかと筆者は考え、仲村優一先生や田端輝美先生などと相談する。当時、神川県立保健福祉大学(学長阿部志郎先生)は「ヒューマンケア」という考え方を標榜して大学教育を行っていたが、我々は日本学術会議などの検討も踏まえながら、イギリスが1998年に「ソーシャルケア研修協議会」を設立したことを参考に「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を2000年に立ち上げた。
〇この「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」には、日本社会福祉学界をはじめ社会福祉系学会、日本社会福祉士会等の社会福祉士専門職団体、日本社会事業学校連盟などの養成機関の他に、日本介護福祉学会、日本介護福祉士養成校協議会、日本介護福祉士会等の関連する17学会、団体が加盟して発足した。まさに社会福祉界の「大団円」と言っていい組織である。
〇この組織の発足式で、仲村優一先生が、“戦後50年間、このような大同団結した組織を創ろうとしてできなかったことが出来、本当に嬉しいとの挨拶をしてくれた。
〇各々の団体の特色、違いを超えて、日本の社会福祉界の向上、日本の社会福祉教育、介護福祉教育の発展、日本の社会福祉・介護福祉の専門職化の向上に寄与できる一石を投ずることができた。発足当初は、仲村優一先生が日本学術会議の会員だったので、会長職をお願いしたが、筆者は副会長として、その後2代目会長として、この協議会の運営に当たった。

④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟及び国際ソーシャルワーク連盟のアジア・太平洋地域会議の日本大会の実行委員長の職務

〇筆者が提起して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を立ち上げたこともあり、2003年に日本の長崎で行う第17回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議の実行委員長を仰せつけられた。
〇第17回大会は、長崎国際大学の高橋信幸先生、綿裕二先生が精力的に事務局を担ってくださり、ハウステンボスなどを会場に第1回大会を開催する予定で、印刷物をはじめあらかた準備が整った段階で、国際的な感染症SARS(中国で拡大、重症急性呼吸器症候群)が蔓延の兆しを示したことから、厚生労働省から国際会議を自粛するようにとの連絡が入り、急遽中止せざるを得なくなった。約2000万円の損失が出たが、実行委員会の加盟団体に分担負担をして頂き決算することができた。
〇その後、筆者は韓国・ソウルで行われた第18回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で「ソーシャルワークの挑戦と対応―アジア太平洋地域における新しいパラダイムの開発」、マレーシアのペナンで行われた第19回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で、「ソーシャルワーク・発展のための触媒」と題して基調報告をさせて頂いている。
〇日本でのアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を開催したことがなかったので、国内外からアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議をして欲しいとの要請を受けて、再度日本は第21回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を2011年に行うことになった。
〇この時も実行委員会委員長を仰せつかり、早稲田大学の田中英樹先生を中心に事務局を担っていただき、早稲田大学を会場に行うことができた。
〇どういう訳か、この第21回大会の時も、MERS(中東呼吸器症候群)が感染し始め、シンガポールなどの国から開催中止の要請があったが、流行の状況を考えて実施することにした。国内外から25か国、約700名(国外200名余、国内460名余)が参加してくれた。参加者の参加費だけでは開催費用が賄えないので、広く協賛金を募り約4000万円を集めた。
〇筆者は、実行委員長として『「ソーシャルワークと社会開発のためのグローバルアジェンダ」への日本からの提案」をさせて頂いた。
〇この大会の開催に当たっては、秋元樹先生、岩崎浩三先生、高橋重宏先生、白澤政和先生などに大きな役割をになって頂いたし、医療ソーシャルワーカー協会や日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士会等の専門職団体が大きな役割を発揮してくれた。
〇その後、2007年に日本社会事業学校連盟の会長になり、加盟校の「理事長・学長」会議を開催し、厚生労働省社会・援護局長へ、ソーシャルワーク教育のカリキュラム、国家試験の出題基準を改正するべきだという申し入れをしたりする。それらの活動の中から、教員中心の日本社会事業学校連盟では、ソーシャルワークやケアワークの質の向上に向けてのソーシャルアクションは効き目が薄いと考えて、日本社会事業大学の長尾立子理事長や日本福祉大学の丸山悟理事長に働きかけて、「社会福祉系大学経営者協議会」を結成して頂いた。
〇そうこうするうちに、大学受験18歳人口の減少、3K職場という負のイメージを払しょくできず、社会福祉系大学の受験者数が激減し、経営が厳しくなっていった。

⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務

〇東京都生涯学習審議会の委員には1996年から任命されている。しかしながら、審議会会長に任命されたのは2001年(~2009年)からである。
〇東京都生涯学習審議会会長は、従来社会教育委員の会議の会長も併任するようで、筆者も2002年に東京都社会教育委員の会議の会長を兼ねることになった。
〇更に、東京都社会教育委員の会議の会長は、一般社団法人全国社会教育委員連合の会長を兼ねるということであったが、それは組織が違うのだからと当初は固辞した。しかしながら、その役職をする人がいないとかで、2003年には就任させられた。
〇筆者は、いろいろな地方自治体の委員を任命された時、単なる委員の時には左程主張しないが、部会長や委員長、会長を仰せつかった際には、事務局案に対して意見を述べるだけではなく、また、事務局の諮問に応えるだけではなく、事務局に対し常に建設的提案をし、委員会としての建議の権限を大切に委員会、審議会の運営を心掛けてきた。
〇東京都生涯学習審議会でも、審議会の場だけではなく、事務局との打ち合わせの際にも新たな提案を常にしてきた。
〇会長になった1期目、2期目は、生涯学習を個々人の自己充足的な生涯学習のレベルに留めず、社会参画型の生涯学習の必要性を打ち出した。とりわけ、中高年層が社会参画する「新しい公共」の創生とコミュニティづくりに関しての答申を出した。
〇第3期目、4期目は、筆者が日本社会教育学会などで1970年代に研究していた「学校外教育」の組織化の考え方を基に、「地域教育プラットホーム」構想を打ち出した。この考え方は文部科学省の社会教育課にも影響を与え、政策として「学校支援地域対策事業」や「地域学校協働事業」として展開されている。
〇第5期、6期目は「教育行政」を振興するための社会教育行政の在り方について、社会教育行政がもっと中学、高校の教育を支援するあり方の必要性を提起している。
〇この間、東京都生涯学習部梶野光信社会教育主事が筆者の考え方に共鳴してくれ、行政内部で受け入れやすいような提案の形式を整えてくれた(梶野光信著『ユースソーシャルワーク』(生活書院、2025年)参照。梶野さんは主任社会教育主事を経て、現在は日本大学の教授をされている。梶野さんは東京学芸大学の小林文人先生の教え子である)。
〇全国社会教育委員連合会長としては、主に年1回行われる全国社会教育研究大会の実施である。全国をブロックごとに巡回するこの社会教育研究大会で、時には基調講演を行ったり、時には開催県の知事との対談などを行ってきた。大分県は江戸時代三浦梅園や廣瀬淡窓等の学者を輩出しており、それらの県の歴史を学びながら、当時の大分県知事の広瀬知事が広瀬淡窓の末裔であったこともあり、そのような話題を引き出しながら、その県の社会教育の振興策と地域づくりについて話をしてきた。
〇全国社会教育委員連合会長を15年間務めたこともあり、全国各地に出かけることができた。
〇ただし、この組織の悩みの種は、文部科学省からの補助金がなく、大会開催の費用の捻出、連合会事務局の維持管理に頭を悩ませたことである。
〇とはいうものの、全国の都道府県で社会教育委員として地域づくりに、手弁当で奮闘されている方々にお会いでき、それらの方々の社会教育振興への情熱、地域づくりへの情熱に触れられたのはとても幸せであった。中でも、香川大学の清國祐二先生、大分大学の山崎清男先生、八戸学院大学の内海隆先生、島根大学の島田雅治先生、有馬毅一郎先生等本当にお世話になると同時に、お互いの意見交換ができたことが嬉しかった。
〇また、事務局を担ってくれた元国立社会教育研修所課長をされた坂本登先生や宮崎大学の教授をされた上条秀元先生、あるいは事務局を手伝ってくれた林洋子さん親子(事務局にお金がないものだから、アルバイトを雇う代わりに林さんは息子さんにいろいろ手伝わせていた)との出逢いは楽しいものであった。
〇更には、文部科学省生涯学習局長が主宰する雑誌「生涯学習政策」等にも執筆の機会が与えられ、生涯学習、社会教育について論議をすることができたのもいい経験であった。

⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務

〇筆者、仲村優一先生や三浦文夫先生が担っていた各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務を後任として任されることが多かった。
〇日本経済界は1990年頃から社会貢献活動(CPI)を重視し、会社の創立周年行事などの際に福祉財団を設立するのが当時はやった。
〇これらの財団の機能を積極的に活用し、日本の社会福祉界へ新風を吹き込んだのが三浦文夫先生であった。
〇筆者は、1994年に大和証券福祉財団の評議員(後に理事)、選考委員、1999年に公益財団法人日本生命財団・高齢社会助成選考委員(後に選考委員長、理事)、2003年に損保ジャパン福祉財団・社会福祉文献賞選考委員長(~2017年)、みずほ福祉財団評議員などを務めている。この他にも、NHK厚生文化事業団、朝日新聞厚生文化事業団などにも関わらせて頂いた。
〇中でも、印象的な役割は、日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長を仰せつかったことと、損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞選考委員長を仰せつかったことである。
〇いずれも、前任の委員長は三浦文夫先生で、この財団活動の礎を構築された先生である。日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長は初代が岡村重夫先生、2代目が三浦文夫先生で、3代目が筆者である。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会は、急速に高齢化が進展する中で、新たな福祉サービスの開発事業に積極的に助成をし、日本の高齢者福祉政策に多大の影響を与えた。当初は、特別養護老人ホームを経営している社会福祉法人に助成していたが、1990年代後半には、在宅福祉サービスが法定化されたこともあり、地域福祉の推進の視点も盛り込まれ、市町村社会福祉協議会などへの助成も行われた。
〇日本生命財団は、この助成事業の成果を発表するシンポジュウム並びに講演会を東京・有楽町のニッセイ劇場と大阪の会場とで行ってきた。時には、1000名の聴衆を集めて、それらのシンポジュウム並びに講演会が行われた。高齢社会助成選考委員会の委員長は、そのシンポジュウムの司会進行を担ったり、時には講演を引き受けなければならず、それはとても名誉なことと感じるとともに、その重責は大変なものであった。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の活動は、『地域包括ケアの実践と展望』(大橋謙策・白澤政和共編、中央法規、2014年)が刊行されているので参照願いたい。この本の巻頭言を三浦文夫先生が「地域包括ケアシステムの源流」と題して書いているが、地域包括ケアの考え方と日本生命財団が果たしてきた役割、位置が簡潔に述べられている。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、損保ジャパン福祉財団の前身の財団法人安田火災記念財団から日本地域福祉学会が助成をうけて、1993年に『地域福祉史序説』を上梓していたこともあり、地域福祉研究、活動支援団体として馴染みのある財団であった。筆者は、1993年当時、日本地域福祉学会の事務局長で、地域福祉史研究会を総括する立場だったので、そのような機会を与えて頂いた財団に“恩義”を感じていた。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、その財団の後継財団が創設してくれたので、かつその当時は社会福祉学分野での文献表彰制度は事実上皆無だったので、非常に嬉しかった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、毎年前年度まで刊行された単著を対象に選考する。毎年、30冊程の著書が選考対象になり、5人の選考委員が第1次、第2次、第3次審査を行い、文献賞候補を決め、理事会の承認を得て、文献賞が授与される。文献賞には賞金100万円と副賞としてヴァン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈呈される。選考委員長は、選考の経過と選考した著書へのコメントを出すことが求められる。ある意味、博士論文の審査と似ている。
〇選考委員長の職務は重いが、自分では掴んでいなかった著書を読む機会となり、大変勉強させられる。京都大学の金沢周作著『イギリス近代とチャリティ』とか、福岡大学の廣澤孝之著『フランス「福祉国家」体制の形成』等、学ぶことが多かった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、ある時から授賞式だけではなく、受賞作に関わるテーマでのシンポジュウムを開催し、より研究課題を深める取り組みもしている。
〇これらの財団の活動に参加して学ぶことは、我々はどうしても社会福祉界の関係者や福祉行政の関係者とのみ交流していて、普段日本の経済界を牽引している方々との交流は殆どない。いわば、一種の“視野狭窄”の世界で生きている。しかしながら、財団の理事会や評議員会に参加している方々はいろいろな経済界の分野の業務に携わっている方々が多く、食事をしながらのさりげない会話の中に、あるいは人とのお付き合いの仕方の中に学ぶ点は多い。丸紅の社長、みずほ銀行の頭取、日本生命の会長、大和証券の会長、近畿鉄道の社長などとの会話・交流は、まさに日本経済界を牽引している人たちだとういう重厚感と存在感を感じる機会であり、人格的に尊敬できる方々ばかりである。
〇「井の中の蛙」とはよくいったもので、社会福祉関係者だけの世界で生きて、分かったつもりになっている自分が恥ずかしいと反省する機会が多々あった。
(2026年5月5日記)

大橋謙策/大橋謙策研究 第11巻:中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

 

 































 

大橋謙策研究 第11巻
中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

発 行:2026年4月30日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第84号(2026年4月30日)

「老爺心お節介情報」第84号

〇新緑が目に眩しい季節になりました。皆様には、新たな気持ちで新年度を迎えられ、元気に業務に励まれていることと推察いたします。
〇私は、4回目の「四国通し歩きお遍路」を断念した変わりに、この4月5日から中山道約530キロの通し歩きを企てました。しかしながら、4月19日、足の裏のまめが化膿し、歩けなくなりリタイアしました。長野県妻籠宿まではどうにか歩いてきましたが、美濃路には歩いては入れませんでした。
〇中山道の道中記は、「中山道69次 よろよろへとへと道中記」(⇨本編)としてまとめました。この「老爺心お節介情報」と一緒にファイルを添付してありますのでご笑覧下さい。
〇歩いてみて、いろいろ考えましたが、いくつか今後我々が地域福祉を推進するに当たって考えなければならないことを取り敢えず列挙しておきます。

2026年4月30日   大橋 謙策


〇地域の成り立ちや地域属性は違う市町村が「平成の合併」で市長村域を拡大した結果、旧市町村の教育と地域福祉はどうなるかを、合併後20年経った今、改めて検討しないと「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」等といった用語の目新しさにごまかされて、本質を失いかねない状況が多々あることに気が付きました。
〇かつて、私は長野県茅野市の福祉行政アドバイザーをしている時に、当時の市長である矢崎市長に、画一的に広域化を進めるのではなく、広域化する部門とより分権化する部門とがあることを提言しました。
〇消防、建設土木、清掃環境は広域化する必要があるが、教育と社会福祉はより住民の身近な圏域に分権化させ、住民参加で運営しないとうまくいかないと提言をし、「福祉21ビーナスプラン」を作り、分権化した地域福祉システムを創りました。
〇茅野市の地域福祉システムは分権化でき、効果を発揮できたのですが、介護保険は長野県の強い指導があり、それに抗せず茅野市は諏訪・岡谷などとの広域組合立になりました。茅野市の「主権者」としての位置は事実上発揮できなくなりました。
〇中山道を歩いていて、すごく広域化した市町村の福祉サービス、介護サービス等の需要と供給がうまくいっているのか、合併後の周辺地域の生活のしづらさはどうなったのかを改め検証しないと地域福祉研究者としての責任が問われるとつくづく思いました。


〇「2040年問題」は既にいろいろな形で我々の認識を超える形で実体化してきています。社会福祉法人の売買収の動きや多面的な要因によるサービス提供が困難になってきている社会福祉施設、社会福祉法人の譲渡、買収問題はこれからの地域福祉の大きな課題です。
〇そのような中、市レベルの社会福祉法人監査能力の問題や経営形態が異なる広域組合立、公設民営社会福祉法人、純粋な民間設立社会福祉法人等の連携・合併・吸収に関わる知識、ノウハウがない状況の中で、民間サイドの動きは活発になっています。しかしながら、それらの課題に関する論議は、地域福祉システム、地域福祉計画の視点からは全くと言っていいほど論議がされていません。
〇木曽圏域6町村では、「松本・塩尻・木曽広域組合」立の特別養護老人ホームの経営が難しくなり、かつ築後経年劣化もあり、閉鎖が検討されています。しかし、それは単なる「松本・塩尻・木曽広域組合」の問題ではありません。木曽6町村の住民の介護サービスの総量を今後どう確保していくかという問題でもあります。
〇しかしながら、木曽6町村の介護保険は「6町村の広域組合」立であり、町村毎の地域福祉システム、地域福祉計画との関係でどう考えるべきかの町村の「主権者」としての役割を十分発揮できない状況にあります。
〇木曽地域では福祉サービス提供の「主権者」が分散し、いわば「無責任体制」にもなりかねない状況の中で、何が「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」なのか研究者は回答を求められています。
〇「2040年問題」は深刻で、かつこのような状況の中で、日本地域福祉学会や地域福祉研究者はこれらの問題にどう対応しようとしているのでしょうか。


〇かつて、私は社会福祉法の改正で、「地域の生活課題」の文言が組み込まれた際に、それは社会福祉法の趣旨からいえば、「地域生活課題」ではなく、「地域の社会生活課題」なのではないかと問題提起しました。
〇今、問題になっているのは、個々の住民の生活上のしづらさの問題だけではなく、地域生活における社会関係、人間関係が絶たれ、住民が「孤立」、「孤独」になり、社会生活が成り立たなくなっていて、その結果としての地域機能の保全維持が困難になってきていることの問題です。
〇結果としての「孤独」、「孤立」問題というより、社会的に「孤独」、「孤立」を作り出している構造を考え、それへの対応策を地域福祉の視点からシステムづくりをする必要性を強く感じてきました。


〇中山道歩きの泊まった宿々で、多くの、長期に滞在している労働者と会いました。かつての「出稼ぎ労働者」という、プレハブの「飯場」で寝起きして働くというイメージは少なくなりましたが、例えビジネスホテルで寝泊まりしていても、長期出稼ぎの状況は変わっていないのだと思いました。
〇それらの多くの人は、契約社員であったり、派遣社員であったりと「不安定就業」に従事しているとみられます。
〇“現象的”に「貧困」が把握しづらくなっているのだと思いますが、我々が忘れてはならない原点です。
(2026年4月30日記)

阪野 貢/戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践 ―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

福祉教育の歴史は終戦直後から始まると捉えるのが通説である。しかし、それは戦前の福祉教育に関する歴史をふまえたものではない。戦前に関しては、更なる検討が必要とされる2つの説があるにすぎない。それは福祉教育の遡及的原点を大正デモクラシー期の新教育運動に見出す説と、地方改良運動に見出す説である。前者に関しては村上(1994)が、大正デモクラシー期の新教育運動の中でも、とりわけ「池袋児童の村小学校」の野村芳兵衛による生活教育や修身教育の実践を、福祉教育の遡及的原点として紹介している。後者に関しては、大橋(1997)が地方改良運動の諸実践の中には今日の福祉教育と同じような実践がみられると述べている。(三ツ石行宏「<解題>福祉教育史研究の課題と展望―阪野論文に導かれて―」日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸~学際性と変革性~』大学図書出版、2014年10月、52頁)

はじめに

〇筆者は、福祉教育の歴史研究において、1930年代の生活綴方教育の実践や運動のなかに、今日の福祉教育実践に通底する側面や要素が含まれていたのではないか、との仮説を立てている。その実証的検討の端緒として、本稿では太郎良信「国分一太郎による生活綴方教育批判の検討―1936年から1939年における―」(『文教大学教育学部紀要』第45集、文教大学、2011年12月)を取り上げる。
〇太郎良はその論考において、国分一太郎(1911年3月~1985年2月)の軌跡を次のように指摘している。すなわち、1930年から1935年にかけては綴方を通して生活の現実に学ぶ教育実践(「生活勉強」)を説いていた国分が、1936年から1939年にかけては生活綴方教育批判へと転じ、綴方教師たちに対して地域における啓蒙活動への参画を呼びかけるようになった、という点である。太郎良は、生活綴方教育批判を主題とする国分の論考を時系列に沿って精緻に分析・検討することで、この変遷を明らかにしている。

Ⅰ 1936年における国分一太郎と生活綴方教育運動の時代背景

〇1936年は、二・二六事件が発生した年である。また、思想犯の意見・表現の自由を制限した「思想犯保護観察法」の制定など、教員への圧迫が構造化された年でもある。それは、1929年10月に始まる世界恐慌をひとつの契機に経済的・政治的・社会的矛盾と混乱が深刻化するなかで、日本が軍国主義化・ファシズム化を進め、日中戦争(1937年7月勃発)と太平洋戦争(1941年12月勃発)への道を辿るターニングポイントとなった。1936年はまた、国分にとっても特筆されるべき年である。国分がその重要な担い手であった北方性教育運動(生活綴方教育運動)が衰退傾向を示し、その運動の拠点であった北方教育社(1929年6月、秋田市に創立)が同年8月に閉鎖に追い込まれている。それは、「視学などの圧力と、内部的な脆弱性」(津田道夫『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社、2010年1月、150頁)によるものであった。なお、1936年の前年1月に、国分がその中心的役割を果たした北日本国語教育連盟(秋田市)が正式発足し、8月には国分がその組織強化活動に関わった北海道綴方教育連盟(釧路市)が設立されている。
〇ここで注目すべきは、1930年代半ばにおける「社会事業」概念の変容である。当時の日本社会は、国家総動員体制に向けた「厚生事業」へと舵を切る過渡期にあった。国分が「社会事業」という用語を用いた背景には、単なる慈善救済への関心を超え、疲弊する農村共同体を教育の力でいかに再編し、国家の矛盾に抗し得る「生活主体」を形成するかという、教育と社会事業の境界領域における模索があったと解釈できる。
〇本稿では、太郎良が紹介・検討した論文群のなかから、国分が「社会事業」に関心を持ち、生活綴方教育と社会事業の関係や、社会事業がもつ教育的効果に言及した次の2本の論文(以下、「1936年論文」と総称)を対象とし、その翻刻と解題(史料紹介)を行う。

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」『日本文化と国民教育』第2巻第5号、東宛書房、1936年8月、74~79頁。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・国語教育』第6巻第10号、厚生閣書店、1936年10月、152~157頁。

〇この作業は、単に福祉教育の遡及的原点を追究するに留まらず、冒頭に記した三ツ石が指摘する課題、すなわち「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続を検討する必要性」(三ツ石「前掲論文」54頁)に応えるための端緒を開くことを企図している。また、未開拓の史資料を収集・分析・評価することを通じて、既存の福祉教育像をより豊かに再構成することをめざすものである。なお、対象とする論文は福祉教育史研究においても貴重な史料であるため、その文脈と詳細を忠実に再現すべく、引用が長大にわたることをあらかじめ付言しておきたい。翻刻にあたっては、原文の表記を尊重し、旧漢字・旧かな遣いは原則としてそのまま用いた。

Ⅱ 史料翻刻と解題
―「社会事業的教師」の提唱―

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」
かうした困難なる生活を生きる子供をかゝへて青年教師は何とするか。或る人は歴史の秩序を信ずる事によつて、この現実の中に真実を、砂の中の砂金のかけら程でもいいからみつけさせて行かうと精神的になる。ある人はこの困惑は薬だといふ。この困難にまけぬやうな意志だけが大切だと説教する。乞食根性をもつなといふ。困難はやがて幸福のもとと出世美談みたいな真理を活用する。
ある青年教師は、子供とはそんな現実主義者ではない。夢の人だといつて、のびのびと、ゆるやかに魂と身を伸さうと賢明なことを言ふ。だがその子は家に帰ると、あまりにも多産な我が母のために、その弟妹をおばねばならぬ。そして背柱湾曲と統計表に計算される。
ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番だ。あとは何も出来ないと言ふ。真実をかけ真実をみよといふ。見てどうするかと言へば答はない。あるとしても「真実のみが、未来をはらんでゐる」と深遠だ。あとはどうにもならぬとアナーキーになり、更に虚無におちいる。そこである若者どもは生活意欲をもたせようといふ。それには自分がもつ事だといふ。所が、その生活意欲とは何ぞやと質問をする先生が出る。生活意欲とは貧乏でなくなりたいといふだけものではないと答へられると、そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び出したと叱る。もう一人はこんご、多分に空想的だと度々いふ。(76~77頁)

そこで小学教師よ。青年教師よ。如何に生きんとするや――とせつぱつまつて来た。
曰く社会事業的教師とならん。曰く文化事業的教師とならん――とこの際答へたい。だが僕たち一人でそんな事をされるとは限らない自分の生活は困らぬから社会事業にしたがふといふわけにはいかないのが薄給中の薄給の青年教師だ。壮丁の検査成績がわるいとすぐ、保健省設置を提議できる陸軍とは何といふ羨しい熱心な存在だらう。我々教員は一番村に近くゐて、村の人々とも一番近い所にゐて、その子等の上にその人々の生活を知りつくしながら、医療国営一つ、生活安定一つの徹底をも、建議できない人間共である。漢字の存在や歴史的仮名遣ひが、如何に国民生活を不便にし子供を苦しめつゝありと知りながら、それが廃止の建議案をすら、直ちには出す事が出来ない。それをなし得る団結がほしい。
社会事業にしても、今の担当者は村の有力者や教育者の古手であつて、青年教師の手中にはない。だが、社会事業的出発のし方は大小とりまぜて色々ある。その小さい所からはじめて、日本の青年教師が手をつないで大きな社会事業をなし得る機会をまつことが大切ではないだらうか。託児所が論ぜられ、実践され、校外教育が再吟味され、地域中心の学校施設が問題とされ、生産学校が行はれはじめたのもみな、教育が社会事業の側にうごいて来た証明できる。紙芝居の教育的実践さへもがそれである。
社会事業には、解釈の浅さはあつても、行動の重要さをとらねばならぬ。よい社会事業は、よい社会改造を目標としてゐる筈だ、歴史がゆがめる社会事業があるにはあるにしても、それを駄目だと解釈して、貧しきものは貧しきまゝにして置いていい筈はない。文化の大衆への浸透、それもまたその不可能や困難をかこつより、よい文化合理化されたそれを、小刻みに与へて行く必要は十分にあるのだ。老年教師を啓蒙することもひとつだ。
じつとしてゐるよりは行動をした方がいい。行動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的だとしたら、青年教師はそこへ行くだらう。それをきらつて、「生活を描け描け(くの字点―引用者」とばかりいつてるのは、「貧しい事がなくなると、よい綴方が出なくなる」と心配する事の愚に等しい。
といつて、教室からとび出し、学校をはなれて、防貧や救貧事業にのり出せとか、保健衛生事業にでかろといふのではない。「純粋の情熱」や「きれいな知性」をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬのだ。
かういふ物の考へ方を先生がもつことがそもそも大事な生き方の精神となるのだ。僕らが育てた国民が大きくなつたら、すべての代議士が退職積立金法案には賛成を無条件にするように、農業保健法は立派に制定してくれるやうにとか、小作法はにぎりつぶさぬやうにとねがひたいならば、まことに気永な話ではあるが、社会政策的見地にたつ考へ方を国民に充満させねばならぬ。それの尖兵隊は社会事業家であらう。その尖兵の行動を見習ふこともなくして、意欲がどうの態度がどうの、リアリズムがどうのといつた所で、それが単なる精神的な「覚悟」に終らなかつたら御目出度うだ。
僕達青年教師は、小さい頃、人道主義的見知で育てられたらしい。その頃の青年教師に。だが真にヒユーマニストとして生きてゐる人間は何人ゐよう。前述の如く孤立して僅かに情熱をセンチと化するが落ちではないか。逆に封建的な精神で人間、子供を律しようとしてゐないとは言へぬ。
青年教師が、意欲をいひ、モーラルをいふ若さは悪いといはぬ。それはよい。だが現実とそれでは、まだまだ(くの字点―引用者)距離があるやうに出来てゐるといふ方が正直だ。その距離をうづめる手段も持たないでは困るのだ。
社会を愛し、文化を愛する青年教師の全日本的聯結が、それぞれの報告にもとづいて社会事業的、文化啓蒙的教育の行動形態を建設するの急務が叫ばれて欲しい。(77~79頁)

〇本論文は、当時25歳の国分が「青年訓導の立場から」書いたものである。
〇国分は、絶対的貧困にあえぎ、「社会の矛盾」にさらされている東北農村の子どもたちの「現実生活」と、それに向き合う青年教師の状況を述べる。その際、「情熱と知性」を本質とする青年教師の教育実践(生活綴方教育)を、「自嘲的」「揶揄的」に描いている(太郎良「前掲論文」28頁)。そのうえで、国分は、自分たちが育てられた「人道主義的見地」ではなく、「社会政策的見地」に立って、青年教師に「社会事業的教師」になるよう呼びかける。「『純粋の情熱』や『きれいな知性』をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬ」。「よい社会改造を目標」とする「よい社会事業」の行動は、「一番今のところ進歩的」である、と国分はいう。しかし、その言説は、青年教師に対して「社会事業家の生き方のその態度」の必要性を説くに留まっている。国分自身の社会事業的教師として、具体的な教育実践に裏づけられたものにはなっていない、といえよう。
〇しかし、国分が「情熱」を単なる感傷や主観的な同情論に矮小化させず、「社会政策的見地」を求めた点は、教育の「内面化」に対する痛烈な自己批判であった。これは、子どもを「救済の対象」としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する「連帯の主体」として捉え直そうとする、福祉教育における「主体形成論」の先駆的形態として位置づけられる。
〇なお、「教育が社会事業の側にうごいて来た証明」についての指摘は、「教育福祉」の視点を示すものとして留意しておきたい。

(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」
主観的なものを客観的なものへ、個人的なものを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの道は、つねに「現実生活」の把握によつて「現実生活」で証明し、現実生活にとかしこんで導かねばならぬ。自然発生的な社会認識をもつた子供を科学的な社会認識に導くことも、生物的人間を社会的人間にひきあげることも、すべて「生活」によつて証明しつゝ、あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあるひは子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ。(156頁)

人間教育とか、純粋感情の教育とか(情操陶冶)といふレツテルを張つてやつて来た綴方教育が、産業の発達による社会的情勢の変化によつて、漸次、より広範囲な生活教育として、その直接的な武器として、生活態度の陶冶と、生活技術の鍛錬とにまで進展したことによるともいへるであらう。そして社会事業の方が、概念的な小学教育よりは、より教育的感化をもたらすといはれる如く、概念的な知的学科や、観念的な情操教科に比して、より現実的な綴方の方が有意義なものとされ、それには昔さながらの文壇的ひとりよがりの指導よりは、より教壇的な協働生活関係としての、生活組織器関(ママ)として役立つやうに吟味されるに至つたのである。(157頁)

僕達の綴方も、あらゆる教科が、生活を証明材料として引つさげて来り、綴方の道をゆたかにしてくれる限りは喜んでむかへるであらう。それらによつて生活の知性がたかまり、生活が充実し、生活行動が真摯になるならば、綴方にとつて其れはこのましき限りである。
それよりも却つて、綴方が綴方の垣の中にとぢこもる如きは、その機能を衰微させる自己矛盾として、むしろ警戒するに価することなのである。貧しさを深刻にかいた綴方があつてくれるやうに、貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ――等といふのは綴方の望む処ではない。貧しさのなくなるやうに、防貧事業や救貧事業が、あるひはもつと根本的な社会事業が、学校の周囲でどしどし(くの字点―引用者)と行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である。即ち、綴方の局外よ。他教科にとどまらず、学校全般、社会全般の批判も、どしどし(くの字点―引用者)と綴方の垣を越えて来てほしいのである。かくしてこそ、綴方はますます(くの字点―引用者)生活組織としての機能を発揮するに便利であらう。(157頁)

〇本論文は、国分によると、「世代の綴方論」としては「消極的駄文」であり、「児童作品批評に於ける若干の解剖」を行う「警告的駄文」(153頁)である。
〇国分は、子どもの綴方に対する教師の批評は、「文芸評論」の影響を受けて、優秀な、見本となる作品などをよしとする「文壇的批評」の傾向にある。そうではなく、個々の子どもの「現実生活」や生活認識などに留意した「教壇的批評」が重要である、と説く。加えて国分は、現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であり、「子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ」という。
〇そして、国分は、生活綴方と社会事業の関係について言及する。国分にあっては、社会事業によって感化されたことを綴方(作文)に書くことは、現実生活から学び、生活行動に生かすことであり、概念的・観念的な教育に比して教育的であり有意義である。すなわち、生活を綴ることで生き方を変えていくのである。また、生活綴方は国語教育にとどまらず、学校教育や校外教育への広がりをもつことによって、子どもたちの社会事業への関心を促すことになる。すなわち、「社会事業が、学校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である」。

〇以上の「1936年論文」において、国分は、当時の文壇的批評に流れる綴方教育の現状に対し、批判的あるいは警告的な立場から論じている。その際、その論拠は必ずしも明確であるとはいえない。また、社会事業による教育・啓蒙とその教育的効果への関心と期待を示している。その際の社会事業の言辞については、観念的・抽象的なものに留まっている。とはいえ、当時、国分は、生活綴方教育の実践や運動において指導的役割を担っていた。そういうなかで、国分の社会事業に関する関心や発言は、青年教師(綴方教師)たちにどのような影響を与え、どのような取り組みを生み出したのか。その前提として、国分がよしとする綴方教師としての「教師像」はどのようなもので、どのような特質をもつものであったか。今後の研究課題とすべきところである。
〇太郎良は、前掲の論考で、「視学等から監視や干渉を受けて、つねに弾圧をおそれていた」国分にあっては、生活綴方教育批判は「視学等の心証を良くするためのものであった可能性がある」(36頁)という。そうだとすれば、国分の社会事業への関心は単に、そのためのものであったのか。そうではなく、ファシズムの常態である公権力による教育の支配・統制が強化されるなかで、それに対抗する教育実践として、「社会改造」を目標とする社会事業に期待したのか。興味のあるところである。
〇なお、国分は、1938年3月に教職を免ぜられた。1941年10月には、左翼的傾向をもつ北方性教育運動(「抵抗としての生活綴方運動」)の関係で警察に逮捕されている。そもそも、軍国主義ファシズム最頂期の1940(昭和15)年には、「治安維持法」(1925年4月公布、5月施行)によって全国で300人を超える生活綴方教育運動の指導的立場にあった教師たちが検挙・投獄されるという大規模な弾圧が起きていた(乙訓稔「国分一太郎の生活綴方教育の理念」『実践女子大学生活科学部紀要』第50号、実践女子大学、2013年3月、52頁)。また、1938年1月に健民健兵政策を推進するために厚生省が創設され、同年4月には人的・物的資源を統制運用するために「国家総動員法」が公布、5月に施行された。それを契機に、社会事業は戦時厚生事業へと変質し、戦時体制の枠組みに組み込まれていく。
〇いずれにしろ、国分が社会事業の教育的効果に関心を示したことについては、個人的にも時代的にも厳しい状況に追い込まれていったこととの歴史的文脈・関係性のなかで考究する必要があろう。国分は、1943年7月に判決が下される過程で「転向」を余儀なくされている。国分の社会事業への関心とその呼びかけは、生活綴方教育批判を行うなかでの、「抵抗」「転向」あるいは「偽装転向」としてのそれであったのか。綴方教師たちはその点をどのように受け止め、どのような社会事業的な教育実践に取り組んだのか。それとも、綴方教師に対する弾圧が強まるなかで、取り組むことができなかったのか。あるいは、教育現場の綴方教師たちは、国分の呼びかけに対して端(はな)から一顧だにしなかったのか。それらを歴史的・実証的に明らかにすることが求められよう。

〇周知のように、敗戦後の生活綴方教育は、1950年7月の「日本綴方の会」(1951年9月「日本作文の会」と改称)の発足や、国分の『新しい綴方教室』(日本評論社、1951年2月)、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)等の刊行などを契機に復活・興隆する。そして、1950年代前半にひとつの頂点を迎える。それは、戦後の新しい教育(教育の民主化)のなかで、戦前の生活綴方教育を継承・発展させようとするものであったと評される。そこでは、貧困からの脱出が最重要課題とされたが、具体的に「現実生活」がどのように把握され、「生活教育」がどのように規定されていったのか。綴方教師によって「社会事業的」な教育実践は展開されたのか。「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続」に関する研究課題のひとつである。

〇以上の考察を踏まえ、本史料の今日的な位置づけを総括すれば、こうである。すなわち、本稿で翻刻・解題した国分の「1936年論文」は、生活綴方教育運動がファシズムという外部圧力と内部的な閉塞感に直面する時期の苦悶を象徴する史料である。国分が提唱した「社会事業的教師」への転換は、単なる綴方指導の技術論ではなく、冷厳な社会矛盾に直面する子どもたちの「現実」を前に、教育がいかにして実効性を持ち得るかという、教育の存立根拠(教育の社会的責任)を問う切実な叫びであったといえる。
〇特筆すべきは、国分が「情熱」や「知性」といった内面的な人道主義を「自嘲的」に退け、社会政策的見地に基づく「行動」と「社会改造」を強調した点である。これは、教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続させようとする「教育福祉」的な視座の萌芽を明確に示している。通説では戦後を起点とする福祉教育の歴史に対し、本史料は、戦前の北方性教育運動のなかに今日の福祉教育に通底する「実践の深層」(思想的伏流)が存在したことを実証的に基礎づけるものであろう。
〇今後の課題は、この国分の呼びかけが、当時の草の根の綴方教師たちによっていかに受容され、あるいは変質し、戦時厚生事業へと回収されていったのか、その「変容のプロセス」を実証的に追うことにある。さらに、戦後の生活綴方教育の興隆期において、これらの「社会事業的」視点がどのように継承・再編されたのかを明らかにすることで、戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続性を体系化しなければならない。
〇政治と教育の距離が再び緊密化し、社会の分断が深化する現代において、80余年前の国分の問いかけは看過できない重みを持っている。教育が「社会の矛盾がなせる業」を直視し、単なる精神論に陥ることなく、いかにして具体的な「社会の改善」に寄与し得るか。この歴史的教訓を掘り起こし、現代の「まちづくりと市民福祉教育」のあり方へと還元していく作業こそが、本研究が真にめざすべき地平である。

Ⅲ 生活教育論争の止揚

〇周知のように、1937年5月に「教育科学研究会」を結成した城戸幡太郎と留岡清男は、雑誌『教育』(第5巻第10号、岩波書店、1937年10月)において生活綴方教育批判を行った(1938年「生活教育論争」の発端)。「綴方教育は児童の生活を理解し、生活態度を自覚せしむることはできるが、彼等の生活力を涵養することはできぬ。彼等の生活力を涵養するには彼等の生活問題を解決することのできる生活方法を教へねばならぬ」(城戸幡太郎「生活学校巡礼」48頁)。「生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教師の鑑賞に始まつて感傷に終るに過ぎない」(留岡清男「酪聯と酪農義塾」60頁)、がそれである。こうした手厳しい批判に対して、「社会事業的教師」(綴方教師)たちはどのように反応し、どのような新しい教育課題を見出し、またどのような教育実践を展開したであろうか。
〇1930年代後半に展開された「生活教育論争」をめぐって、一言するとこうである。まず、城戸や留岡が提唱した「生活方法の教育」は、科学的・合理的な知性によって生活上の困難を克服する「技術」や「組織化」を重視するものであった。留岡の酪農教育実践に象徴されるように、それは貧困という客観的課題に対し、いかに生産性を高め、合理的な生活習慣を確立するかという「生活力の涵養」に力点が置かれている。福祉的観点からいえば、これは「自立助長」のための機能的アプローチであり、現代の社会福祉における「エンパワメント」や「社会資源の活用術」の先駆形態と評価できる。
〇それに対して、国分が提唱した「社会事業的教師」は、そのベクトルが異なる。国分は、生活綴方教育が陥っていた「鑑賞」や「感傷」を自嘲的に退けつつも、城戸らが批判した「現実の凝視」をあえて社会事業の「態度」へと接続させた。ここでの「福祉的」独自性は、以下の2点に集約される。
(1)社会矛盾の構造的覚知としての綴方
〇城戸らが生活の「改善(技術)」を求めたのに対し、国分は綴方を通じて「社会の矛盾がなせる業」を直視し、それを「社会政策的見地」へと昇華させることを求めた。これは、単なる生活技術の習得を超え、自己の苦難を社会構造の問題として捉え直す「意識化」のプロセスである。
(2)伴走者としての教師像
〇 「生活方法の教育」における教師が指導者・技術伝達者であるのに対し、国分の説く「社会事業的教師」は、村の貧困と矛盾のなかに身を置き、子どもとともに苦悩を共有しながら、社会制度の不備を告発しようとする「アドボカシー(権利擁護)」の萌芽を含んでいる。
〇すなわち、城戸らが「生活の科学的解決」をめざす合理的・システム的な生活改善(自立助長)に近い立場であったとすれば、国分は綴方というメディアを介して、生活者の沈黙を社会的な声へと変えていく草の根のエンパワメント・モデル(主体形成)を模索していたといえる。この相違こそが、社会の矛盾を直視し、子どもの生活実態を記述することで自己や社会を変革しようとした国分らの独自性であり、現代の「まちづくりと市民福祉教育」へと通底する重要な源泉となっている。

Ⅳ おわりに
―戦前と戦後を貫く伏流―

〇本稿では、国分が1936年に示した「社会事業的教師」という概念に焦点を当て、その思想的背景と福祉教育史における意義を検討してきた。ここで改めて強調すべきは、国分が求めた「社会事業家としての態度」が、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)の再定義であったという点である。
〇国分は、教室という閉鎖的な空間で「内面的な真実」を綴らせることに安住する教師のあり方を、あえて「自嘲」という形で否定した。彼が「社会政策的見地」を呼びかけた背景には、子どもたちの背柱湾曲や多産・貧困といった「身体的・経済的剥き出しの現実」に対し、既存の教育学が十分な回答を持ち得なかったことへの危機感があった。この「教育の無力」を直視したところから、地域の社会構造へと介入しようとする「社会事業的」な志向が芽生えた事実は、後の福祉教育にも通底する「学習の外化(社会化)」への鋭い感受性が、すでにこの時期の国分のなかに備わっていたことを示唆している。これは、当時の社会事業側からの教育への接近ではなく、教育側からの社会事業への主体的越境である。
〇また、本稿で触れた城戸・留岡らとの「生活教育論争」の視点から言えば、国分の独自性は「生活方法(技術)」の提供に留まらず、綴ることを通じて自己の生活を「社会的な文脈」で読み解き、社会構造の変革を図る変革主体へと脱皮していくプロセスの萌芽を宿していた点に求められよう。これは現代の福祉教育が掲げるべき「まちづくりと市民福祉教育」のテーマに近接している。今後の課題は、この国分の「叫び」が、当時の現場教師たちにいかなる「沈黙の抵抗」あるいは「実践の変容」をもたらしたかを、より具体的に実証することである。戦時下の「厚生事業」への回収という歴史的断絶がある一方で、戦後の『山びこ学校』等に見られる「村を綴る」営みのなかに、いかなる形でこの「社会事業的視座」が潜流として継承されていたのか。
〇戦後80年を過ぎ、今また「教育の政治的中立」や「自己責任論」が強調されるなかで、教育が社会の矛盾を「自分事」として引き受ける態度は、一層の重要性を増している。国分が1936年に示した、弱者の傍らに立つ「伴走者」としての教師像を掘り起こす作業は、単なる懐古的な歴史研究ではない。それは、現代における「市民福祉教育」が、単なるボランティア体験の推奨を超え、いかにして「社会を変革する主体」を育み得るかという地平を切り拓くための、不可欠な知的営為なのである。
〇以上を総じて言えば、本稿の検討から明らかになった点は次の通りである。 第1に、「社会事業的教師」とは、単なる教育技術の行使者に留まらず、社会の矛盾に対する構造的な認識に基づき行動する主体として構想されていた点である。 第2に、そこには戦後の福祉教育に通底する「変革主体」としての主体形成論の萌芽が見て取れる。 したがって、国分の「1936年論文」は、断絶として語られがちな戦前と戦後を、福祉教育思想の地平において架橋するものである。それは同時に、現代における「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を探究するための、不可欠な歴史的準拠枠を提供するものであると言えよう。

補 遺
―歴史的具体的生活課題と向き合う「主体」の原像―

〇戦後の生活綴方教育の金字塔と評されるものに、前述した無着成恭のいわゆる「山びこ」実践がある。「『山びこ』実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。(中略)『山びこ』実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった」(奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会、2016年2月、70頁)。
〇本稿の補遺としてあえて、無着成恭編『山びこ学校』に収められている江口俊一の生活綴方「父の思い出」の一節を引いておきたい。

みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいのかわからなかった。(28頁)

〇ここで綴られた「誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」という困惑は、個人の内面に閉ざされた悲しみではない。それは、自身の生活を破壊した不条理な力(戦争・国家・政治)の正体を突き止めようとする、切実な「認識の萌芽」である。

引用・参考文献
(1)奥平康照(2016)『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会。
(2)国分一太郎(1951)『新しい綴方教室』日本評論社。
(3)佐野眞一(1992)『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』文藝春秋。
(4)津田道夫(2010)『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社。
(5)中内敏夫(1970)『生活綴方成立史研究』明治図書。
(6)無着成恭編(1951)『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』青銅社。

【初出】
阪野貢「『生活綴方教育と福祉教育』に関する研究への端緒:国分一太郎の1936年論文―資料紹介―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2015年5月12日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論 その体系化に向けて―その哲学的思考に関する研究メモ―

 


 

目 次

はじめに―哲学のある教育実践―
01  「ふくし」の哲学
02  「正義感覚」の育成
03  「人間的連帯」の言説
04  「自己決定」の実相
05  「世間」からの解放
06  「しょうがい」と疑似体験の陥穽
07  「生」の倫理
08  「しんがり」の姿勢
09  「助けて」の表明
10  「愛郷心」の相克
11  「差別」の本質
12  「共感」の功罪
13  「利他」の学問
14 “Well-being”  の視点
15  「自前」の思想
16  「生きづらさ」の正体
17  「相互支援」の人間学
18  「ふつう」の功罪
19  「批判的教育」の使命
20  「対話」の技術
21  「 弱さ」のデザイン
22  「 共同体」の教育的営為
23  「贈与」の意義
24  「共事者」の実践的態度
25  「思いやり」の暴力
26  「哲学対話」の方法
27  「地域共生社会」の模索
28  「まちづくりの哲学」の構築
むすびにかえて―支配に抗する思想―

 


はじめに―哲学のある教育実践―


<文献>
(1)高久清吉哲学のある教育実践―「総合的な学習」は大丈夫か―』教育出版、2000年4月、以下[1]。

〇2019年11月、日本福祉教育・ボランティア学習学会第25回北海道大会が北星学園大学(札幌市)で開催された。大会テーマは、「未来へつなぐ、みんなでつなぐ。~多文化共生社会を育む福祉教育とボランティア学習~」であった。圧巻で感動的だったのは、本田優子による「アイヌ文化からみる多文化共生社会の創造」と題する「基調講演」であった。アイヌ語に「ヤイコシラㇺスイェ」という言葉がある。「ヤイ」は「自分」、「コ」は「に対して」、「シ」は「自分」、「ラㇺ」は「心」、「スイェ」は「を揺らす」、「ヤイコシラㇺスイェ」で「自分に対して自分の心を揺らす」となる。それは日本語の「考える」という意味である。「考える」とは「心を揺らす」こと、筆者にとって目から鱗(うろこ)が落ちる一言であった。
〇「自由研究発表」や「課題別研究」報告などでは、ひとえに筆者の浅学菲才によるものであるが、「心を揺らす」報告はさほど多くはなかった。新味のない(使い古された)テーマについて、場所や組織、人を替えただけの、あるいは横文字や権威づけられた(古めかしい)過去の言説を多用した議論では、福祉教育実践や研究の推進は望むべくもない。歴史的・社会的・文化的実践であるはずの福祉教育実践をめぐって、その現場から乖離(かいり)した抽象的な言葉・概念や思考をこねくり回すのも、然りである。そこからは、原理や理論のない、視野が狭く定型化され、矮小化された実践が生み出されるだけである。そうした福祉教育実践さえも、厳しい時代状況に押しつぶされようとしている(されている)。意図的にか無意識的にか、それを理解・認識しない実践者(あるいは実務家)や研究者がいる。また、そうした状況に抗することなく早々に諦め、受け入れ、慰め合っている人たちもいる。そこからは、福祉教育実践や研究の「展望」や「未来」は見出せない。
〇そこで、いま求められるのは、歴史的視点や哲学的思考を重視しながら、福祉教育とは「そもそも何か」、それは「いかにあるべきか」「いかに取り組むべきか」を、危機的な現場や生々しい実践とのかかわりのなかで本質的・根源的に問い直すことである。「理論と実践」の関係性について探究することなく、単なる「実践(事例)」研究にとどまりがちな福祉教育研究の現状も気にかかる。
〇そんな思いのなかで、高久清吉の[1]で、筆者なりに再確認・再認識しておきたい論点と言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「哲学のある教育実践」という言葉
「哲学のある教育実践」という言葉に接した時、ある人は、教育についての確固とした信念や信条をもった教師による実践とか、教育の理念や理想に基づく明確な思想に貫かれた実践を思い浮かべるかも知れない。また、人によっては、考え方や判断の筋道がすっきりとした実践、教師の体系的な見方や考え方が際立っているような実践をイメージするかも知れない。いずれにしても、「哲学のある教育実践」が意味するものは、だれにも共通一様に理解されるというのはあり得ないようである。(108~109ページ)

「哲学」の意味
「哲学」の意味は、通常、大きく次のような二つに分けられる。一つは、「哲学すること」(Philosophieren)、もう一つは、「哲学」(Philosophie)である。
「哲学すること」とは筋道の通った知的活動そのもの、この活動の「過程」にこそ哲学の本質があると見る立場である。それに対し、「哲学」とは知的活動の「結果」または「所産」として導き出された内容の体系、それが本来の哲学であるとする立場である。この二つの意味は、よく「過程としての哲学」と「結果としての哲学」という言葉で表現されている。この二つを切り離して別々のものと見なすことはできないが、「哲学」の意味を、一応、この二つに分けるのは妥当である。(109~110ページ)

「哲学のある教育実践」の意味
「哲学」の意味を二つに分けるとすると、これに対応して、「哲学のある教育実践」の意味も二つに分けられる。「哲学のある教育実践」の「哲学」を「過程としての哲学」と理解すれば、「哲学のある教育実践」とは、哲学的な見方や考え方が大きく作用する教育の実践、言い換えれば、教育実践上のさまざまな問題や事柄が哲学的な見方や考え方に基づいて吟味され、判断され、構想される実践ということになる。これに対し、「哲学」を「結果としての哲学」と理解すれば、「哲学のある教育実践」とは、哲学的な思考から生まれた内容、つまり、教育に関する明確な「思想」に基づく実践ということになる。
「哲学のある教育実践」のこのような二つの意味は、実は、一方がなければ、他方も成り立たないという表裏の関係にある。哲学的な考え方によって明確な思想が導き出されるし、明確な思想が前提となって、実践上のさまざまな問題や事柄についての哲学的な考え方も行われることになるわけである。(110ページ)

〇以上を簡潔に言えば、高久にあっては、「哲学」とは「いわゆる学問領域としての哲学やその学説内容ではない。いつでも、全体的・根本的なものを踏まえながら、実践や実際上の個々の問題を筋道立てて主体的・構造的にとらえていこうとする思考の働きそのもの」(まえがき、ⅵページ)をいう。そして、「哲学のある教育実践」は、「教育の理論または哲学と結び付き、これによって支えられ、方向づけられた教育実践」(97ページ)と定義づけられる。
〇そのうえで高久は、教育現場と教師について、次のように指摘する。「哲学をもたないで教育の実際の仕事に従事している教師たちに共通して認められる欠点は、本質と現象、全体と部分、本と末、重と軽との間の区別がはっきりせず、これらを簡単に混同してしまうことである」。「さまざまな問題や事柄への対応に追いまくられる教育現場において、教師のものの見方や考え方は強力に狭められてしまい、現象に振り回される本末軽重の見分けもできなくなってしまう」(112ページ)。そこで、現場教師に求められるのは、「教育の理論または哲学と、教育実践との生きた結び付きを求める問題意識」である(97ページ)。「教育現場にとって何よりも必要なのは、『普遍的理念』、つまり、教育の本質的・原理的なものをしっかりと踏まえ、これに基づく哲学的な考え方を展開していくことである」(112ページ)。
〇こうした指摘は、学校現場を含めた地域・社会における福祉教育(「市民福祉教育」)にも通底する。福祉教育学界(学会)が探究すべきものは、福祉教育の場当たり的な、対処療法的な方法・技術ではない。哲学的思考によって生み出される「福祉教育思想」(「福祉教育哲学」)と、それに貫(つらぬ)かれた福祉教育の「理論と実践」である。その際の哲学的思考は言うまでもなく、自律的で理性的、批判的な思考であり、その論理化と体系化が「哲学する」ということでもある。
〇今日、行政主体のまちづくりや福祉の公的責任の縮減、教育の国家統制の強化などが進むなかで、市民の要求や構想に基づく「まちづくり改革」や高齢者や障がい者などの真のニーズに基づく「福祉改革」、子ども・青年から出発する下からの「教育改革」が強く求められている。そこで何にもまして必要なのは、それらに関する思想と哲学である。筆者は、「まちづくりと市民福祉教育」について思考する際、歴史的視点とともに哲学的思考が必要かつ重要であることを指摘してきた。その際とりあえず、大雑把であるが、「思想」を物事についてのまとまった思考、「哲学」を物事の根源のあり方についての探究、そして「倫理」を社会において人が守るべき物事の規範、と考えてきた。本稿は、その点に多少なりとも留意しながら草してきた拙稿(論点や言説についてのメモ)の一部を集成したものである。

【初出】
<雑感>(98)阪野 貢/歴史的視点や哲学的思考を欠いた福祉教育:「福祉教育哲学」の必要性を問う―高久清吉著『哲学のある教育実践』再読メモ―/2019年12月12日/本文

 


01  「ふくし」の哲学


<文献>
(1)三谷尚澄『哲学しててもいいですか? ―文系学部不要論へのささやかな反論―』ナカニシヤ出版、2017年3月、以下[1]。
(2)広井良典『福祉の哲学とは何か―ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想―』ミネルヴァ書房、2017年3月、以下[2]。
(3)糸賀一雄『福祉の思想』日本放送出版協会、1968年2月、以下[3]。
(4)阿部志郎『福祉の哲学』誠信書房、1997年4月、以下[4]。
(5)伊藤隆二『この子らは世の光なり』樹心社、1988年9月、以下[5]。
(6)仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―<贈与のパラドックス>の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、以下[6]。
(7)大橋謙策『社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、以下[7]。

〇文部科学省によって、「大学改革」という名のもとで、教員養成系・人文社会科学系「学問」の「不要論」が謳(うた)われている。また、「学問」ではなく、「実践力」の養成に特化した職業訓練機関(「専門職大学」)や資格取得機関への転換が図られている。それは、「社会」的要請によるものであるというが、その際の「社会」は(政治に大きな影響力を持つ)「財界」のことを意味する。ちなみに、2023年度開学予定を含む専門職大学・短期大学は22校(大学19校、短期大学3校)、専門職学科は1学科を数えている。
〇こうした潮流に対して、[1]で三谷尚澄はいう。「頼るもののない時代のただなかに、拠って立つべき足場をもたないままに放り出された人間は、どうやって日々をしのいでいけばよいのだろう。(中略)そんなときだからこそ、それほど立派でも力強くもない人間にも届くことのできる倫理の言葉を探しておく必要があるのではないか。そして、その点において、(中略)哲学と呼ばれてきた知的営みがきわめて大きな知的貢献を行なうことができるのではないか」(81~82ページ)。「論理的・批判的に思考する」能力と「箱の外に出て思考する」能力の育成(120、151ページ)、「市民的器量(civic virtue)」すなわち「哲学の器量を備えた市民」の育成(105、195ページ)などを目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならない、と。「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を問う際の根源的な問題のひとつでもある。強く認識したい。なお、「箱の外に出て思考する」能力とは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」、さまざまな状況に柔軟に対応するために必要とされる「器量」をいう(151ページ)。
〇政治と社会の右傾化、福祉の私事化と教育の国家統制が進んでいる。こうした現在の社会情勢のなかで、「いつか来た道」論が唱導される。しかし、その「危機」は、「時代の繰り返し」であり、歴史の繰り返しではない(吉田久一『日本社会事業思想小史―社会事業の成立と挫折―』勁草書房、2015年10月、はしがき、ⅴページ)。新しい歴史をつくるのは、草の根の民主主義であり、歴史的で社会的な内容を失うことのない「市民」による組織的・体系的な実践(援助・支援、活動)や運動である。
〇[2]の広井良典にあっては、「ポスト成長時代」の日本社会は、(1)政府の借金の際限なき累積と将来世代へのツケ回し、(2)人々の「社会的孤立」の高さ(「無言社会」)、の “危機” 状況にある。と同時に、「新たなつながり」やネットワーク化を志向する動き(「関係性の進化」「関係性の組み換え」)がみられる。このような状況においてこそ、「人々の行動や判断の導きの糸となるような、新たな価値原理や社会構想が求められている」。いま、「福祉の哲学とは何か」が問われるところである(まえがき、ⅱ~ⅲページ)。
〇なお、[2]では、「福祉」を積極的ないしポジティブな営みとしてとらえ、「幸福」や「公共性」「宗教」「コミュニティ」「生命」などとのかかわりについて多面的・多角的な思考を展開している。それは、これまでの「福祉思想」や「福祉思想研究」とは異なる「新たな視点」からのアプローチであり、「独自の考察と構想」を提起するものでもある。
〇ところで、「福祉の思想や哲学」といえば筆者はまず、「この子らを世の光に」「発達保障」の糸賀一雄と、「ボランティアの互酬性」「コミュニティ重視志向の地域福祉」の阿部志郎を思い出す。糸賀は、「福祉の実現は、その根底に、福祉の思想をもっている。実現の過程でその思想は常に吟味(ぎんみ)される。(中略)福祉の思想は行動的な実践のなかで、常に吟味され、育つのである」([3]64ページ)という。阿部は、「福祉の哲学は、机上の理屈や観念ではなく、ニードに直面する人の苦しみを共有し、悩みを分ちあいながら、その人びとのもつ「呻き」(うめき)への応答として深い思索を生みだす努力であるところに特徴がある」([4]9ページ)と主張する。二人はともに「実践的思想家」であり、それは、先駆的な現場実践(キリスト教福祉実践)を通して形成された幅の広い、奥行きの深い「福祉の思想」であり「福祉の哲学」である。なお、周知のように、「世の光」とは新約聖書(「マタイによる福音書」)の「山上の垂訓(説教)」のひとつである(「あなたがたは世の光である」)。「互酬」とは「贈与と返礼」の社会的相互行為を意味する。
〇ここでは、糸賀の「この子らを世の光に」と阿部の「ボランティアの互酬性」について、その論点と言説を改めて[3]と[4]から確認することにする(抜き書きと要約)。

糸賀一雄:「この子らを世の光に」([3])
(精神薄弱児の教育は)彼らについて何を知っているか、彼らにたいして、また、彼らのために何をしてやったかということが問われるのでなく、彼らとともにどういう生きかたをしたかが問われてくるような世界である。(51ページ)

この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。「この子らに世の光を」あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。「この子らを世の光に」である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである。障害をもった子どもたちは、その障害と戦い、障害を克服していく努力のなかに、その人格がゆたかに伸びていく。3才の精神発達でとまっているように見えるひとも、その3才という発達段階の中味が無限に豊かに充実していく生きかたがあると思う。生涯かかっても、その3才を充実させていく値打ちがじゅうぶんにあると思う。(177ページ)

この子たちは、自己実現という生産活動ばかりではなく、もうひとつ別な新しい生産活動をしている。心身障害をもつすべてのひとたちの生産的生活がそこにあるというそのことによって、社会が開眼され、思想の変革までが生産されようとしているということである。ひとがひとを理解するということの深い意味を探究し、その価値にめざめ、理解を中核とした社会形成の理念をめざすならば、それはどんなにありがたいことであろうか。(178ページ)

阿部志郎:「ボランティアの互酬性」([4])
哲学という言葉は、「知恵の探求」という意味である。哲学は、答えそのものによってよりも、むしろ問いによって性格づけられる。哲学は学問の一分野であるが、「学問」が「問いを学ぶ」「問われて学ぶ」という字で構成されているのは興味深い。(9ページ)

福祉の哲学とは、福祉とはなにか、福祉はなにを目的とするか、さらに人間の生きる意味はなにか、その生の営みにとって福祉の果たすべき役割はなにかを、根源的かつ総体的に理解することであるが、それには、福祉が投げかける問いを学び、考えることである。それはニードの発する問いかけに耳を傾けることからはじまる。(9ページ)

互酬は、親族・地域共同体を維持するための不可欠な行為で、今でもアジアの共同体は互酬で成り立っている。戦後の日本社会では、共同体は封建遺制として否定され崩壊の途をたどったのに、目標とするコミュニティは未だつくられていない。でも、互酬は生き続ける。香典、

香典返し、結婚祝い金、引き出物、中元、歳暮の風習は、ヨーロッパ社会ではまったくみられない。しかし、共同体を維持する機能としての互酬は失われ、かつアジアの互酬を支える宗教性も日本社会にはないのが実態だ。(92ページ)

互酬制と近代型福祉、さらに伝統的ボランティアと有償型サービスとのあいだに深いギャップがあり、ときおり、雑音が聞こえぬわけでもない。アジアの共同体のなかにたくましく息づいている互酬制――分かち合いの相互扶助――に今ひとたび目を向け、そして日本の地域社会の現実を見直したうえで、自立と連帯の福祉社会を創出する発想に切り換えるのが望ましいのではないか。時代とともにニードが変わるから対応が多様化するのは当然である。その態様はどうであれ、住民が福祉を学習し、理解し、実践に参加するまちづくりを推進する必要を痛感せずにはいられない。(126~127ページ)

〇「福祉の思想や哲学」の探究は、実証的・実践的なものでなければならない。それによってその思想や哲学は広め、深められ、また新たな思想や哲学の形成が図られることになる。ここでは、筆者の姿勢が評論家的なそれであることを承知のうえで、糸賀の「この子らを世の光に」に対して伊藤隆二の「この子らは世の光なり」、阿部の「ボランティアの互酬性」に対して仁平典宏の「贈与のパラドックス」についての言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

伊藤隆二:「この子らは世の光なり」([5])
糸賀一雄氏は戦後、最初の公立福祉施設「近江学園」をつくり、この子らの教育福祉に邁進(まいしん)し、ついに「この子らに世の光を」を「この子らを世の光に」に転回させたのである。「この子らを」というとき、われ(または、われわれ)は主体で、「この子ら」は客体になる。主体が客体に働きかけ(あるいは操作し)、「世の光に」まで高めてやるのだという発想には、ある種の傲慢(ごうまん)さがあるし、「この子ら」の本質への誤解がある。また、「この子らを世の光に」というとき、まだこの子らが「世の光」であることを認めていない。そこで教育し、きたえ、みがきをかけて、やっと世の光になりうるのだという見方である。わたくしは、この子らと長く深くかかわっているが、この子らは生まれながらにして「世の光」だと知った。正確にいうと、生まれたときから死ぬときまで、いや死んでもなお世の光でありつづける。「この子らは(そのままで)世の光である」。「この子ら」は主体であって、世を照らしつづけているのである。(223~224ページ)

仁平典宏:「贈与のパラドックス」([6])
阿部志郎も「互酬性」を基盤に据えたボランティア論の担い手の一人である。阿部は1973年の時点では、ボランティアの報酬性を明確に否定していたが、1994年には態度を180度と言ってもいいほど「軟化」させている。彼はまず、共同体や地域社会において不可欠な行為として「互酬性」を取り上げ、「香典―香典返し、結婚祝い金―引き出物、中元、歳暮の風習」を例示する反面、その基盤は失われてきているという。その一方で、新たに登場してきた「相互に有料で利用し、有償でサービスを提供する」「市民参加型福祉サービス」に、「互酬の近代化・組織化」を見る。彼によると、これらは「(1)会員の自主性にもとづく、(2)友愛・協同の思想にたつ、(3)有償とはいえ実費弁償的性質のもので収益を目的としない、(4)グループとして、ボランタリー・アソシエーションの性格を保つ」ことから「広義のボランティアの原則からはずれていない」と述べる。このように、ここで「互酬性」という思想財を獲得することによって、「ボランティア」という言葉は高い汎用可能性を配備することが可能になった。担い手にとって効用があると言えるなら、経験・楽しさ・友達づくり・評価・金銭的対価などを、区別なく堂々と「ボランティア」として肯定できる。<贈与のパラドックス>は、このような形で「解決」されるべきこととなった。(381~382ページ)

〇仁平の「贈与のパラドックス」(paradox、逆説・矛盾)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味であろう。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。ボランティアについての言説の歴史は、こうした「贈与のパラドックス」を如何に解決するかの歴史であった、と言ってよい。
〇いま改めて「福祉の哲学」の必要性を強調する一人に、「実践的研究者」である大橋謙策がいる(注①)。大橋は[7]で、「住民と行政との関係を上下の関係で捉えるのではなく、住民の自立と連帯を前提にし、対等の立場で問題解決を図る新たな社会哲学、社会システムが求められ、社会福祉のような歴史的に国の『社会の制度』として発展してきたものも従来にない発想が求められている」(30ページ)として、次の3つの「思想」を取りあげる。(1)フランスの近代市民革命の際にうたわれた「博愛」の思想(自由と平等を担保する「博愛」)。(2)ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンといった思想(「社会的包摂」)。(3)自分たちで相互扶助組織をつくり、対応しようとする考え方(「協同組合方式」)、がそれである(28~30ページ)。そして大橋はいう。「ソーシャルワークを展開する際の価値の1つは、人間性を尊重し、社会正義と公正を守ることであり、人々の自由と平等を保障することであるが、それらを標榜すればするほど、人々が社会的にも、個人的にも “博愛” という社会の神聖な責務を遂行することが求められる。(そのためには)伝統的な意識と行動を尊重しつつも、新たな社会システムに必要な価値、意識として “博愛” の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(227ページ)。再認識したい。
〇なお、大橋は、全国各地における草の根の地域福祉実践の向上と「バッテリー型研究」に取り組んでいるが、最近の政策動向に関して、「地域福祉が“我が事”になり、その危険性を警鐘すべきである。戦前の歴史を忘れた政策は恐ろしい」という(筆者への書簡)。地域共生社会が「上から」の押しつけ(「教化」)によるものであってはならない、という指摘である。「バッテリー型研究」については、大橋謙策『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク―』中央法規出版、2022年4月、ⅱページを参照されたい。
〇また、「博愛」に関しては、次の諸点にも留意しておきたい。(1)フランス革命は、新興の「ブルジョワジー」(有産階級、中産階級)による革命である。(2)その理念は、「自由、平等、友愛」であり、「自由、平等、博愛」ではない。(3)「自由」は、多様性を保障するが、不平等を生むことにもなる。(4)「平等」は、突き詰めれば全体主義や不自由を生む。(5)「友愛」とは、他者を自分の本当の兄弟のように愛すること(社会秩序)を意味する。(6)「博愛」には、「慈善」と同様に、階級差別的な意味合いがある、などである(注②)


①「福祉を哲学する」ひとりに秋山智久がいる。秋山は、「福祉哲学の必要性」を次の8点に要約している。(1)平和・人権・安全の希求、(2)人間尊重の確認、(3)社会福祉の進む方向の示唆、(4)社会福祉的人間観の確立、(5)「倫理綱領」の検討、(6)実践の価値観の探求、(7)社会福祉利用者の人間としての不幸、人生の不条理の解明、(8)実践の拠り所としての価値観・人生観の提供。これらの必要性は、秋山にあっては、将来より広義の「福祉哲学」が体系化されるときに、その主要な「構成要素」ともなるものである(秋山智久・平塚良子・横山穫『人間福祉の哲学』ミネルヴァ書房、2004年6月、45~47ページ)。
②フランス革命の理念は「自由、平等、友愛」である。「自由」は放置すればアナーキズム(無政府主義)に行き着く。「平等」は突き詰めたら全体主義や共産主義になる。「友愛」は友を愛するであり、他の宗教や民族は除外される。「博愛」とは違う(中川淳一郎・適菜収『博愛のすすめ』講談社、2017年6月、35、98ページ)。

【初出】
<雑感>(59)阪野 貢/引き続き「福祉教育」してもいいですか?―“福祉を哲学する”はじめの一歩:「世の光」(糸賀一雄)と「互酬性」(阿部志郎)、そして「博愛」(大橋謙策)/補遺:大橋謙策「最終講義」(レジュメ)(2010年3月13日)―/2018年1月25日/本文

 


02  「正義感覚」の育成


 <文献>
(1)伊藤恭彦『さもしい人間―正義をさがす哲学―』新潮新書、2012年7月、以下[1]。

 さもしい:①見苦しい。みすぼらしい。②いやしい。卑劣である。心がきたない。
正義:①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。②正しい意義または注解。③(justice)㋐社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。 ㋑社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。(新村出編『広辞苑』(第六版)岩波書店、2008年1月)

〇周知のように、2015年6月、選挙権年齢を満18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が成立した(施行は2016年6月)。そしていま、高校生らの政治や選挙への関心を高め、政治的教養を育む教育のあり方が問われている。
〇「まちづくりと市民福祉教育」について考えてきた筆者は、これまで、「政治」(とりわけ地方政治)を重要な検討課題のひとつとして位置づけてきた。また、各地のまちづくりにかかわるなかで、地域における政治的・社会的権力や地元住民(「有力者」)の言動に戸惑ったこともあった。そのとき、正義感をひけらかすわけではないが、「さもしい」や「正義」という言葉が脳裏に浮かんだのも偽らざる事実である。
〇[1]で伊藤恭彦は、政治「哲学的思考を思い切り『低空飛行』させ」(18ページ)、わかりやすく、ユーモアを交え、ときには自虐ネタをふりかけながら「さもしさ」の正体を追う。そして、伊藤の主張(結論)は、シンプルでクリアである。「私はいろいろな考え方や生き方をする人々が、ゆるやかに共存している社会が望ましいと思う。正義という言葉を使って一人一人をお説教するのではなく、最低限の正しい制度についてみんなで考え、合意し、それを形作ることを目指した方がいい。正義は制度を通して実現される。制度とは、すべての人間を架け橋でつなぐ最低限の絆でもある」(205ページ)、というのがそれである。
〇以下に、(1)「さもしさ」と「正しさ」、(2)「お互い様」の倫理と制度化、(2)「私憤」と「公憤」、という項目を設けて、伊藤の論点や言説の要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

(1)「さもしさ」と「正しさ」
私たちは既に十分豊かであるにもかかわらず、他の人をさしおいて貪欲に利益を追求しているかもしれない。さらには誰かの不幸の上に自分の豊かな生活を作り上げているかもしれない。こうした態度を「さもしい」と呼びたい。(14ページ)

「さもしさ」が人と人との関係を意味しているとするならば、その反対語は「正しさ」になる。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは倫理の体系の中に「正しさ」(正義)を位置付け、それが人間関係においてとても重要であることを説いた。「不正な人と思われているのは、(1)法律に反する人と、(2)貪欲な人、すなわち、不平等な人である」という。(57ページ)

「さもしい」とは倫理的に言うと不正な人間関係を意味している。不正だと言う理由は、自分の「分」を超えて何かを得ようとするからである。一人一人が「分」を超えて欲望を追求すると、すごく不平等な人間関係ができあがってしまう。これを押さえ込むためには、一人一人の「分」を確定する基準が必要だ。しかし、この基準を確定できるほど、私たちの社会は単純ではない。そこで生きている人間はみな違い、おかれた環境もみな違うからである。(71~72ページ)

「分」とは、ある人がもっている価値であり、その人の必要性や功績や長所などにあったその人にふさわしいものをいう。不正とは自分の「分」を守らないことであり、正義とは「その人にふさわしいものを与える」ことを意味する。各人の「分」を決めるにあたり、分かりやすい基準は、自由な行動と自己責任である。(59~62、72ページ)

自由社会(市場社会)は、競争社会である。市場社会の競争は全員に参加を強制する。競争である以上、順位がつく。かくして市場競争は必然的に不平等を生み出す。不平等の発生を必然と捉えた上で、問題を含んでいない不平等とは何か。別の言い方をすれば、許される(倫理的に許される)不平等とは何か。これが不平等と格差(不平等が、ある限度を超し、問題を含んでいる場合の表現)を検討するときに中心に据えられなければならない問いだ。不平等に対してこうした問いを『正義論』の著者ジョン・ロールズも立てている。ロールズは現代社会にふさわしい正義として、①「基本的な自由を全員に保障すること」、②「機会(ライフチャンス)の実質的平等をはかること」、そして、③「それでも残る不平等は社会の最も不利な人々の利益になること」、という三点を指摘している。不平等はあってもよいが、社会で最も不遇な人々の状況改善に役立たなくてはならないというわけだ。
不平等や格差を捉えるときには、視点を不平等の底辺にいる人々に定めなければならない。もし、不平等の底辺にいる人々が過酷な状態に放置されているならば、その不平等は問題だと言える。(98~99、101~102ページ)

(2)「お互い様」の倫理と制度化
共同体社会の名残として、私たちの社会には「お互い様」という考えが残っている。「困った時はお互い様」である。(106ページ)

「お互い様」は、日本的共同体関係に源をもつ言葉だと思われる。共同体的なもたれ合いという互酬性がここには含まれている。ただ、同時に「お互い様」には、相手の立場になってみるという大切な洞察が含まれている。つまり、自分の視点と他人の視点を入れ替えてみるわけだ。共同体的な倫理と正義は異なるかもしれないが、「お互い様」の倫理には公平さや正義につながる視点が含まれている。そう考えてみると、「お互い様」という美しい発想を、制度の中に組み込んでいくことは正義を満たす一つのルートになるだろう。できることなら困っている人を助けたいとほとんどの人は思うだろう。ただ、助けることを個人に任せると、同じ苦境に立ちながらも、助けられる人と助けられない人という不公平が生じる。だから、市場社会の底辺で苦しむ人々を助けるための基本的な仕組みは、社会制度にした方がよい。(113~114ページ)

お互いに助け合うという制度は、自己責任を曖昧にするものではない。不運な人を助けることは、その人がまた自己責任に基づいて行動していく途を確保することでもある。つまり、自由な選択とか自己責任とかいった価値を、助け合いの制度は損なうのではなく、逆に輝かすことになるのだ。(123ページ)

不平等の底辺で苦しむ人々を助けることは、最低限の正義だと思う。私たちはこのような正義感を制度にきちんと組み込む必要がある。そして、そんな制度をつくり、制度の維持に貢献したならば、後は自由に自分の欲望を追求しても「さもしい」とは言われない。(137ページ)

(3)「私憤」と「公憤」
正義は、人を苦しめる構造、人を食い物にして利益を得てしまう構造、この構造を改革することである。正義が求めるのは、構造を規制する制度の形成や制度の改革である。(159~160ページ)

社会の中で苦しんでいる人を助けることが、正義の優先課題である。正義という規範に従って社会を構想してみること、これが今、私たちに求められることだ。正義はそれを支える感情も必要としている。それは「むかつき」といった私憤ではない。「私が公平に扱われていない」という怒りを、同じように社会で不公平に扱われている人々の境遇と重ねあわせることで生じる「これはおかしいだろう」という感情だ。私的なむかつきではなく、社会の不正を訴える怒りである。それは私憤ではなく、またバラバラな私憤の寄せ集めとしての興奮でもない。社会全体の不公平や不正義に対する憤り、つまり公憤だ。不公平に対する公憤を紡ぎ合わせ、それを社会的な公平感に高めていくこと、これが現実社会に生きる私たちの正義感になる。そしてそれが制度改革を導くだろう。(197~198ページ)

〇以上から分かるように、伊藤は、社会の不公平や不平等の「さもしい」問題を解決するのは、「正しさ」(正義)にかなった公平な「制度」である。先ずは政治による制度の形成が肝要である、と説いている。そういうなかで、次の一節は大いに首肯するところである。それに関して、福祉教育の実践・研究における似たような姿勢・態度を律したい。

政治家の中にもやたら道徳的お説教をしたがる人がいる。「親を敬え」「郷土を愛せ」「公共心をもて」などと。そのメッセージ自体には問題がないとしても(本当は問題の多い道徳を語っている場合も多いが)、お説教は政治家の仕事ではない。政治家は全身全霊をかけて制度の再構築に取り組むべきだ。そのために税金で雇われている。上から目線で道徳を語るヒマがあったら、制度構築のために政治学、政治哲学、公共政策学などを学ぶべきだ。(205~206ページ)

〇ただ、制度の構築は政治(政治家)の役割であるが、そのすべてを政治に任せておけばよいというものではない。国政であれ地方政治であれ、政治をつくるのは国民・市民の一人ひとりである。すなわち、制度(法規、仕組み、きまり)の形成や運営、またその改革に直接的あるいは間接的に参加(参画)して公平・公正で平等な社会を創り、それを保持するのは、国民・市民一人ひとりである。その際、「私憤」や「公憤」を感じる能力、「正」や「不正」を判断する能力、すなわち「正義感覚(the sense of justice)」が問われることになる。
〇人は、親子の愛情や信頼関係に基づく親の指示や命令、禁止などを通して、道徳的な感情や態度を習得する。また、自分の身の回りや日常生活における仲間との関係で、正義や不公平(不正義)の感覚や感情を持ったり、表出したりする。それはより広い地域・社会における正義を求め、さらには政治的あるいは法的な正義を求める感覚や感情を醸成することになる。そして社会での正義感覚は、制度を遵守することに向けられ、また必要に応じてそれを改革することによってより一層の「秩序だった社会」が形成・保持されることを要請する。
〇このように、社会における正義や制度による秩序は、家庭での親子関係や集団での仲間関係における正義感覚によって基礎づけられる。そして、その正義感覚は、子ども・青年が地域・社会のなかで成長するにつれて徐々に習得されていく。
〇そうだとすれば、子ども・青年から大人までの正義感覚をいかに育成し、発達させるかが重要な問題となる。それを「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて言うとすれば、市民福祉教育を通じた正義感覚の育成が、(子ども・青年から大人までの)市民の人権意識や地域における助け合いの意識を高め、市民的資質や能力(シティズンシップ)を形成し、それに基づいたまちづくりの社会的実践(援助・支援、活動)や運動を促すことになる。別言すれば、正義感覚は、市民的資質や能力の重要な構成要素であり、市民によるまちづくりはそうした正義感覚に基づいた理解力と判断力、実践力を欠いては機能しない、ということである。その意味では、市民福祉教育における正義感覚の育成という課題は、シティズンシップやその教育のあり方を追求するなかでより明確なものとなる。筆者が市民福祉教育の基本的概念として「シティズンシップ教育」を重視する所以である。
〇「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、「共生」の理念のもとで、政治や社会への参加(参画)や協働(共働)を重視してきた。しかし、「正」「不正」を判断するのに必要な正義感覚の育成・形成については、必ずしも十分に関心を払ってきたとは言えない。まちづくりの実践や運動に向けた、またその実践や運動における(子ども・青年から大人までの)市民の正義感覚の育成・醸成が大きな課題になる。

補遺
〇 不平等や格差を肯定する立場に立つと、不平等や格差そのものを解消するための取り組みは消極的なものにならざるを得ない。その際の取り組みは、いわゆる勝ち組と負け組のうち、負け組の人びとに「再チャレンジ」の機会を用意することになるが、結果的には勝ち組と負け組の入れ替えをするだけに過ぎない。しかも、その機会をとらえて努力する限りでは支援(「助け合いの制度」)の対象とされるが、努力の質量によって支援の対象から外されることになる。そこにあるのは排除の論理(排除の正当化)である。
〇そこで求められるのは、個人の「意欲」「能力」「努力」などの有無や質量を個人的・内面的なものに押しとどめるのではなく、それを下支えする多面的・重層的な社会システムをどう構築するかということである。すべての人が、その属性や帰属にかかわりなく、「自立と連帯」「自律と共生」の社会的な互恵的信頼関係のなかで平等に扱われ、共に支え合い、それを通して社会への完全参加を果たすことが強く求められる。

【初出】
<ディスカッションルーム>(53)阪野 貢/「正義感覚」とまちづくり:伊藤恭彦著『さもしい人間』を読む―資料紹介―/2015年12月11日/本文

 


03  「人間的連帯」の言説


<文献>
(1)馬淵浩二『連帯論―分かち合いの論理と倫理―』筑摩書房、2021年7月、以下[1]。
(2)齋藤純一『不平等を考える―政治理論入門―』ちくま新書、2017年3月、以下[2]。

「人間の尊厳と存在意義―生の無条件の肯定と豊かに生きるということ―」について筆者は、次のように考えている。すなわち、人がそれぞれ、みんなと豊かに生きるためには、「 “ただ生きる” ことの保障」と「 “よく生きる” ことの実現」、そして「 “つながりのなかに生きる” ことの持続」が必要かつ重要となる。

「 “ただ生きる” ことの保障」は、人はそれぞれ、いま、ここに生きているというそのことに本源的な価値がある、という考えに基づいている。
「 “よく生きる” ことの実現」は、人にはそれぞれ、やりたいこと・やれること・やらなければならないことがある、という考えに基づいている。
「 “つながりのなかに生きる” ことの持続」は、人はそれぞれ、社会や歴史・文化・環境などとのつながりのなかに生きている、という考えに基づいている。

〇馬淵浩二は[1]でまず、(1970年代以降の)新自由主義の影響のもとで消費主義をはじめ個人主義や能力主義が強化され、多元化や多様化が進み、格差や分断が拡大した現代社会にあって、「連帯」という言葉はすでに「賞味期限」が切れているのだろうか、と問う。その答えは「否」である。そのうえで馬淵は、「連帯(solidarity)」概念の類型化と最大公約数的な定義を試みる。具体的には、代表的な「社会的連帯(social solidarity)」、「政治的連帯(political solidarity)」、「市民的連帯(civic solidarity)」、「人間的連帯(human solidarity)」についての主要な論者の連帯論を辿り、自身の「人間的連帯論」を構想する。その基底にあるのは、人間は連帯的存在であり、相互扶助的な関係のなかでしか生きられないという人間観である。すなわち、[1]の基調を成すのは「連帯は人間存在の基本構造である」(313ページ)というテーゼである。
〇馬淵は「連帯」を次のように定義する。

連帯とは、共通の性質・利益・目的を共有する複数の者たちが、あるいは他者の利益・目的の実現に関与する複数の者たちが、協働や扶助(の責任)を引き受けることで成立する結合のことである。この結合は、自然発生的であったり、目的意識的であったり、制度的であったりする。この結合には、一体感の感情が伴うことが少なくない。(50ページ)

〇連帯とは、人々が結合し、互いに協力し支え合うことであるが、それは様々な場面や文脈において成立する。この定義には上述した連帯の代表的な類型が包摂されている。「社会的連帯」は、「接着剤のように人々を繋ぎ止め、社会の成立に資する結合関係」、「同じ社会の成員であるという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「政治的連帯」は、「政治的大義(共通の目標)の実現をめざす者たちのあいだに成立する協力関係」、「同じ政治的大義に関与しているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「市民的連帯」は、「福祉国家の制度を介して市民のあいだに成立する相互扶助関係」、「同じ福祉制度を支えているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「人間的連帯」は、「人類の一員である個人のあいだに成立する普遍的な道徳的関係」、「人間であるという理由で成立する連帯」を意味する(42、280ページ)。
〇馬淵が構想する「人間的連帯」について加筆すれば、それは「国家、社会、政治集団といった特定の集団のなかで成立する連帯ではなく、人間あるいは人類という集団の内部で成立する連帯」(281ページ)である。それは、「全人類が結合している」ということを意味し、「人間は本来的に連帯的存在であるという人間の存在様式を表現するもの」(296ページ)である。別言すれば、「人間の存在構造」を指し示す・形容する言葉(302ページ)である。その意味において、馬淵にあっては、「人間的連帯」は他の様々な種類の連帯に通底する共通の「分母」(303ページ)であり、「母体」(312ページ)となる。
〇ここでは、馬淵の論点や言説のうちから、市民福祉教育の実践・研究に「使える」あるいは「使いたい」次の5点に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それは、冒頭に記した管見に新たな視点や思考を加味したいという思いによる。

人間は本来的に「連帯的存在」である/人間の生は相互扶助や連帯によって成立している
新自由主義の過去数十年にわたる影響のもとで、自助努力や自己責任という発想が持て囃(はや)されてきた。自助努力や自己責任の主張は一面では正しい。しかし、この主張を不当に全面化することは避けなければならない。なぜなら、そのことによって、人間に関する一個の真理が覆い隠されてしまうからである。それは、他者たちに支えられなければ、人は生きられないという真理である。新自由主義は、この連帯の真理を抑圧し隠蔽(いんぺい)してきた。だが、自助努力や自己責任という発想が妥当する領域など高が知れている。それは、人間の生という氷山の一角にすぎず、その下には分厚い連帯の層が存在し、その山頂を支えているのである。新自由主義の狭隘(きょうあい)なイデオロギーに抗して、人間は連帯的存在として見出され、思考されなければならない。(15ページ)

連帯はそれ自体では「正当性」を保証しない/連帯は「共同性」以外の価値や尺度を必要とする
連帯は、ある集団に属する者たちを結合させ、支え合いを実現する。だが、連帯はそれが働く集団の性格に応じて、「悪のための連帯」として実現される可能性も残される。その意味で、連帯が成立しているという事実だけで連帯の正当性や倫理的正しさが保証されるわけではない。(318ページ)連帯論には人間の共同性や利他性を強調する傾向があるが、人間はいつも共同性や利他主義にもとづいて生きているわけではない。(211ページ)
個々の連帯が正当化されうるものであるためには、連帯が帯びる共同性の価値とは別の価値や別の尺度が必要になるだろう。たとえば正義という尺度が必要になるかもしれない。連帯する者たちの一部に犠牲が強いられ、一部が特権を享受する事態が生み出される場合、その連帯は正義に悖(もと)る可能性がある。あるいは、連帯がどのような目的を実現しているのか、どのような価値を促進しているのか、集団の外部に悪しき影響を及ぼしてはいないか――そうした事柄についての思考が連帯論には必要となる。そのような事柄を思考するためには、正義以外にも自由、平等、差異、人権といった他の価値や尺度が考慮されなければならないかもしれない。(318~319ページ)
しかし他方で、連帯が他の価値を支えているという一面を忘れてはならない。人々の自由や平等が毀損(きそん)された状況を変えようとするとき連帯が生起する。自由を行使する人物の生存が危ういとき、それを支えるのも連帯である。(325ページ)

連帯は「排除の論理」を内包する/連帯は包摂と排除という両義性を持っている
連帯が連帯であるがゆえに自身の内部に生み出してしまう負の要素のひとつとして、「排除」が挙げられる。(319ページ)
集団は、集団に属する者たちと、そうでない者たちとのあいだに境界線を引くことによって成り立つ。あるいは、境界線が引かれることによって、集団が立ち上がる。「彼ら」とは異なるものとして、「われわれ」集団が生み出されるのである。その集団の連帯が機能するとき、それは一方で当該の集団の結合を強化するが、その結合の強化が他方で排除を生み出すことに貢献する。すなわち、集団の外部に敵を作り出してそれを攻撃したり、集団の内部から「不純」な分子を排除して外部に放逐(ほうちく)する。(319、320ページ)
そうであるなら、連帯をめぐって次のような論点が浮上する。誰が連帯によって結合するのか、誰がその結合から排除されるのか、包摂されたり排除されたりする場合の条件はどのようなものか。その線引きは正当なものか。これらの問いは、連帯の「正しさ」を判定するうえで、欠かすことのできない参照事項となるだろう。いずれにせよ、ある場面で連帯を主張するとき、かならずそこから排除される者たちが存在するという構造的事実に、連帯論は敏感でなければならない。(320、321ページ)

連帯は「感情」によって成立する/連帯は人間の感情の及ぶ範囲や程度に左右される
連帯感という言葉が存在することからも分かるように、連帯の成立にとって感情は重要な要素である。集団の成員たちによってある種の感情が共有されていなければ、連帯が成立し持続することは困難だろう。連帯と親和的な感情は、共感や親近感や一体感といったものであろう。こうした感情が共有されず、成員たちが憎しみ合っていたり、利己主義が支配的であったりするような集団においては、連帯は成立し難いはずである。(321ページ)
だが、感情は、連帯にとって諸刃の剣である。ひとつには、感情が及ぶ範囲の問題がある。人間の感情の及ぶ範囲は狭い。規模が比較的小さな集団の内部でなら連帯は容易に成立するだろう。だが、感情が及ぶ領域を超えたところに存在する者たちとのあいだに連帯が成立することは困難になる。(321、322ページ)
人は、感情の及ぶ範囲にいる者たちだけと結び付いているわけではない。このような世界にあっては、見知らぬ者たちとの連帯がひとつの焦点となる。そのような連帯はいかにして可能になるのか。感情の広がりと関係の広がりが大きくずれてしまう世界にあって、感情の広がりの外部に存在する者たちとのあいだに、どのようにして連帯を立ち上げることができるのだろうか。連帯に刻まれた包摂と排除の問題、「われわれ」と「彼ら」を分かつ境界線の問題は、感情という問題の地平においても未決の問題なのである。(322ページ)

連帯には「水平的連帯」と「垂直的連帯」がある/連帯は権力性・階層性を排除できない
連帯の現象形態として、水平的連帯と垂直的連帯がある。水平的連帯では、(相互依存関係にある)個人が横に連なる。これに対して、連帯する個人のあいだに、垂直的な位階秩序が生み出されることがあるかもしれない。そのような垂直的な権力関係によって規制されている連帯が、垂直的連帯である。たとえば、一国の指導者が危機を乗り越えるためだと称して、国民に団結や自己犠牲を訴えることがある。それは、権力者によって組織され、動員される連帯である。(323ページ)
連帯をひとつの理念として捉え、階層性が廃棄され平等性によって特徴づけられる結合だけを連帯と呼ぶこともできる。ただし、そこでは、階層性が廃棄され、あまねく平等性によって特徴づけられる連帯が現実にどれほど存在するかという疑問が生じる。また、連帯から階層性を完全に排除できるかという問題も存在する。(323、324ページ)
かりに垂直的権力が連帯に伴うことが避けがたいことなのだとすれば、その事態にどのように対処すべきかを考えなければならない。その場合、許容される権力とそうでない権力とを識別すること、つまり、垂直的権力の許容される範囲を確定することが、ひとつの論点となる。(324ページ)

〇人間は身体と不可分な「身体的存在」(297ページ)であり、人間はその生(生存や生活)を自足できない「非自足的存在」(299ページ)である。それゆえに人間は、外部の物質(とりわけ自然)や他者に依存せざるを得ない。すなわち、人間は本来的に、他者との相互扶助や連帯の関係のなかでしか生きられない存在である。これが、馬淵が説く人間観の核心のひとつである。そして、(社会福祉における)自助努力や自己責任を前提とした「自立生活支援」や「依存的自立」などの言説とは異なる評価を得るところである。自助努力も自己責任も社会的レベルの連帯を通じてなされ、果たされるのである。馬淵が[1]の「あとがき」で、「私が述べたかったのは、連帯によって私たちの生が成立しているという、その事実だけである」(376ページ)という意味はここにある。
〇「人間の存在構造」に刻まれた支え合いと「分かち合いの論理と倫理」(333ページ)は、人々が連帯するときに立ち上がる。その連帯は、私と他者との相互依存関係を重視する際、「自律」や「自由」の価値を不可欠とする。人間は自律し、自由であることによって「相互に排他的であるのではなく、むしろ相互に結び付き連帯する」(108ページ)。私だけの自律や自由は、他者を支配したり、他者からの信頼や承認が得られなくなったりする。すなわち、連帯は、単なる道徳的規範や国家などの介入(強制)によるのではなく、個々人の主体的・能動的な思考や行動による自律や自由によって支えられる。同時に連帯は、個々人の自律や自由を実質化し、その実現を図るのである。さらにそれを支えるのは「平等」という価値である。
〇齋藤純一は[2]で、格差や分断、不平等が拡大・深化する現代社会にあって、人々の「平等な関係」とは何かを根底から問いなおし、その関係を再構築するための「制度」について考える。すなわち、市民の間に平等な関係を維持するための生活条件を保障する(広義の)社会保障制度と、市民を政治的に平等な者として尊重する(熟議)デモクラシーの制度のあり方等について考察する。その際、「不平等」とは、その人に「値しない」(「ふさわしくない」「不当である」)「有利-不利が社会の制度や慣行のもとで生じ、再生産されつづけている事態」(17ページ)をいう。「熟議デモクラシー」とは、「数の力」(「選挙デモクラシー」)ではなく、「理由の力」を重んじ、「質的に異なった意見や観点を、たとえそれがごく少数の者が示すにすぎないとしても、尊重すること」(175ページ)をいう。
〇齋藤にあっては、社会保障の目的は、「たんに貧困に対処し、すべての人が人間らしいまともな(decent)暮らしが送れるようにする(事後的な保護・救済:筆者)だけではなく、深刻な社会的・経済的不平等をも規制し、平等な自由を享受しうる条件をすべての市民に保障すること(事前の支援:筆者)にある」(134ページ)。こうした「社会保障の制度を支持し、それを介して互いの生活条件を保障しようとする市民間の連帯」が「社会的連帯」である(94ページ)。その社会的連帯は、次のような理由によって必要とされ、市民によって受容されなければならない。①国力(戦力・生産力等)を増強するための「生の動員」、②人生に起こりうる病気や事故などの「生のリスク」の回避、③生まれ持った能力や境遇の「生の偶然性」がもたらす不当な格差の改善、④生・育・老・病・死という「生の脆弱性」によって生まれる支配-被支配関係の阻止、⑤人々の多様な生き方を促す「生の複数性」の尊重、がそれである(98~104ページ)。
〇そして齋藤はいう。「生の動員」を除く4つの理由はいずれも、「生きていくために人々が他者の意思に依存せざるをえない状態に陥るのを避け、市民の間に平等な関係を保つことを重視している。他者に依存しながらも、その意思に服することを強いられない自律が可能となるのは、依存とそれへの対応が人々の間に支配-被支配を生みださないようにする制度化された保障が確立されているときである」(105ページ)。すなわち、齋藤にあっては、誰もが避けられない「他者に依存すること」と、「他者の意思に依存すること」を区別し、特定の他者の意思に依存せずに生きることすなわち「自律」を可能にするための制度が(「事前の支援」としての)社会保障である(107ページ)。「私たちの生において依存関係が避けられないからこそ、『自律』が価値をもつのである」(107~108ページ)。留意したい。

【初出】
<雑感>(145)阪野 貢/「連帯」再考―馬淵浩二著『連帯論』のワンポイントメモ―/2021年10月10日/本文

 


04  「自己決定」の実相


<文献>
(1)小松美彦『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで―』言視舎、2018年8月、以下[1]。
(2) 吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学―』学習の友社、2014年12月、以下[2]。
(3) 高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ―哲学・法学・医学の現場から―』九州大学出版会、2008年5月、以下[3]。
(4) 湯浅誠『どんとこい、貧困!』イースト・プレス、2011年7月、以下[4]。

〇1990年代後半以降、財界の要望に応える「小さな政府」を実現するために、「措置から契約へ」という社会福祉基礎構造改革の推進が図られた(1998年6月:中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」等)。そのなかで、「自己選択」「自己決定」すなわち「自己責任」が声高に叫ばれるようになった。また、「市場原理の導入」などの新自由主義的教育改革の推進が図られた(1996年7月:中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」等)。そこでは、子ども・青年が抱える困難や不利益を、「自己責任」として個々人が引き受ける「生きる力」の育成が強調されるようになった。周知の通りである。
〇「自己決定」と「自己責任」は口当たりのよい言葉である。しかし、その言葉に関して、「自己」すなわち「個人」「ひとり」については曖昧であり、「共に」決定する、「共に」責任を取るなどとはあまり言わない。また、「自己決定」と「自己責任」の実相は、外見だけを飾り(虚飾)、人目をあざむき、だます(欺瞞)という危険性がある。
〇小松美彦の[1]は、『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書、2004年7月)の増補改訂版である。旧版では、「自己決定権」の概念それ自体や「自己決定権」への無条件の信頼は非常に危ういことを論じている。旧版のインタビュー(2003年)から15年後のこんにちでは、主に医療や福祉の分野において「自己決定権」「自己決定」という言葉と概念は当たり前のものになっている。しかし、その問題性は見えにくい形でますます拡がっている。「自己決定権」に加えて、「人間の尊厳」という言葉と概念も巧妙に作用し、差し迫った状況にある(3~4ページ)。小松は、その問題状況をダイナミックに論考する。
〇[2]で吉崎祥司はいう。小泉政権(2001年4月~2006年9月)によって、競争原理を基本理念とする規制緩和の推進が図られた。そのなかで、1990年代以降の「自己責任論」が、政財界においてより一層強調されるようになった。また、経済の低成長下における社会保障費の削減を理由づける考え方として、「自立・自助論」が展開された。ヨーロッパなどと比べて、日本では、社会的責任の観念が必ずしも十分に定着しているわけではない(6~13ページ)。こうした特殊「日本型自己責任論」(13ページ)について吉崎は、その内容と特質を批判的に検討し、それを克服するための課題と道筋を明らかにする。
〇高橋隆雄・八幡英幸らは[3]で、生命倫理における基本的概念のひとつである「自己決定」をめぐって、その歴史的由来や概念の意味、法的観点からの問題、医師や看護師の専門職の自律性とのかかわり、等々について多面的に論考する。そのなかで、小柳正弘は、「『自己決定』の系譜と展開」(22~42ページ)において、「『私たち』の自己決定」について次のように述べている。自己決定の主体である「自己」は、理念としては「強い個人」が前提とされている。しかし、現実には「弱い個人」が主体として困難を引き受けているのが現状である。それでも「私」が自己決定しなければならないとすれば、私は他者によって支えられなければならない。すなわち、私が他者とともに「私たち」として決定することが必要となる。「自己が自己のことを決定する」という自己決定には、もうひとつ、「私たちが私たちのことを決定する」という自己決定の理念型が存在することを思い起さなければならない、と(38~40ページ)。
〇[4]は、現代日本の貧困問題を現場から訴え続け、社会的包摂を説く湯浅誠が子どもたちに書き下ろした自己責任論である。そこでのキーワードのひとつに、「溜め(ため)」がある。湯浅にあってはそれは、「がんばるための条件」「その人が持っている条件」を意味するが、基本的な「溜め」となるのは「お金」「人間関係(親や友達など)」「精神(的なもの)」の3つである。「家にお金がなくて、人間関係に恵まれないなら、社会がその人の “ 溜め ” になればいい」(49ページ)。また、自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのは、「上から目線」である。自己責任論は「問い」を外に、社会に出てこないように封じ込めること、自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることである。自己責任論は、弱いものイジメが横行し、生きづらい、誰も幸せでない、満ち足りない社会をつくる(153~157ページ)。
〇さて、ここではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

自己責任論と「自己決定」「自己決定権」
政府の言う自己責任論は、国家や支配権力が、基本的に人々を強制したいと考えている事実の裏返しの表現にすぎない。自己決定をするのなら自分で責任をとれという、身の蓋もない態度の裏側には、文句を言わずに言うことを聞けという、国家の冷徹で傲慢な態度が透けて見える。(18ページ)
自己決定と自己決定権とはまったく違うものである。自己決定イコール自己決定権だと単純に考えていると、権利という制度的な思弁の土俵の上で、思わぬ落とし穴にはまってしまう危険がある。(19~20ページ)
私たちの行動には、「思わず~する」という無意識の行動、すなわち言葉で考えるというよりも身体全体で考えると言ったほうがよいようなものがあり、自己決定には、そういった具体的な生の実相が、まるごと含まれている。これに対して、自己決定権にはこのような自ずからなる要素はない。自己決定権は、言葉によって普遍化された人為的な権利であり、思弁によって客観化された制度であり、さらには個別の実相を他人事に変えてしまう装置であり、したがって、いつでも政治的な恣意によって道具にされるという危険性をもったものである。(20ページ)

自己決定権批判の根拠
自己決定権という考え方には、根本的に問題がある。
①人が生きていくすべての場面において、個人が何かを決めるということは、決して個人の問題にとどまらない。自己決定権という言葉によって、人間関係の尊重すべき貴重な機微(微妙な事情・おもむき)が覆い隠されてしまっている。
②「本人の意思による」という自己決定権という言葉が謳(うた)われ、その美しい響きが無為に受け入れられてしまったことによって、(政府や政治に対する)人々の抵抗が鈍ってしまった。
③いったん自己決定権を盾(たて)にしてしまうと、さまざまなことに関して、自分のことは自分で決めればよいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまう。その結果として、自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある。
④死は果たして自己決定できるのか。死は一個人に閉じ込められたものではなく、家族や医師、看護師など実に多くの人がかかわる。死は、周囲の人々すべてにまたがる、人間関係のなかでおきる事柄である。(40~49ページ)

自己決定・自己決定権と「共決定」
自己決定とは、起こっている事柄それ自体のことである。あるいは生の具体的な局面で私たちが絶えず行っている個々の判断や選択や行為そのもののことである。その意味では、人間が自己決定なしに通常の社会生活を送ることは、とてもできないと言ってよい。自己決定権とは、自己決定することを社会や国家が、個人の権利として認めるということである。「する」あるいは「せざるをえない」のが自己決定であるのに対して、「認められる」あるいは「するために使う」のが自己決定権であると言ってよい。(98ページ)
私たちは、いつも他者とのかかわりのなかで自分の行動を決定している。同じように、自分が決定した行動は、いつもまわりの他者たちに少なからぬ影響を及ぼしている。決定すればそれで終わりということは本来的にない。自己決定とは、他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであり、そういう意味では、純粋な自己決定はない。私たちの行う決定は、好むと好まざるとにかかわらず、いつも本質的に「共決定」であることを強いられているといえる。(98ページ)

「共決定」と関係性・共同性
共決定とは、猶予のある場合にそうすべきだというモデルである。そのモデルを不毛なものにしないためには、それぞれがそれぞれの立場から努力し、徹底的に話し合いながら決めていくことである。(102ページ)
関係性を大切にする立場は、まず内と外を区別しない。個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする態度のことである。(103ページ)
共同性を重視する立場は、私たちは私たち、あなたたちはあなたたちというように、そもそも内と外に縁取りをこしらえておいて、二つを区分けし固定していこうとする態度のことである。(103~104ページ)
だから、関係性を重視する立場は相互の異質性を厭(いと)わないし、共同性を重視する立場では自分たちのなかにある同質性に、まず目を向けるということになる。(104ページ)
個々の人間の具体的な実存を前にすれば、抽象的な同質性などというものは、はじめからどこにもない。共同体の掲げる同質性は、いつも避けがたい抽象性を帯びてしまい、個々人の具体的な個別性にあるかけがえのなさを、共同体の意思の名をもって、裏切っていくことになる。(105ページ)

「人権」と「存在」
「人権」とは、結局、国家や社会によって与えられる人為的なものである。しかし、それ以前に、障害者にせよ健常者にせよ、その人がいるということ、「存在」していること自体が第一次的なもののはずである。これ自体は絶対に否定できない。(311ページ)
仮に、心や意識が本当に絶無のまま生きている人がいるとして、それをどう考えたらよいのか。それでもその人が “ そこにいる ” という厳然たる事実が、その人から被(こうむ)る迷惑と呼ばれることまで含めて、私たち自身が “ いる ” ことを何らかの形で支えてくれているのである。「迷惑をかける―かけられる」という関係をもてることは、実は人間の豊かさに思われる。(316ページ)
「自己決定権」にせよ、「人間の尊厳」にせよ、検討にあたって必須のことは、型どおりの「人権」的な思考ではなく、誰々がいた、あるいは誰々がいるという「存在」ベースで考え直すことである。(319ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」の機能
「自己責任論」の機能とは、さしあたり、①競争を当然のこととし、②競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ)、③社会的な問題の責任をすべて個人に押しつけ(苦境に立たされた “ お前が悪い ” )、④しかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませることによって、⑤抗議の意思と行動を封殺する( “ だまらせる ” )、というものである。そのようなものとして、「自己責任論」は、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(支配層の思想形態)であることを本質としている。(11ページ)

「自己責任論」の特徴
「自己責任論」は、次のような特徴をもっている。
①「自己責任論」は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同したうえで、「社会的責任」を否定する、あるいは相対化する。
②「自己責任論」は、社会的責任の否定にとどまらず、社会的な問題をすべて「個人」のうちに押し込め、個人的な解決を迫る。
③「自己責任論」は、個人が抱える困難は、誰のせいでもなく、当の本人の努力や能力の不足によるもので、その事実を受け入れよと強く迫る。一生懸命努力していても報われない場合は、そもそも「能力」が不足しているからだ、と個々人の「能力」の有無・高低をあげつらう。
④「自己責任論」は、本質的に「社会問題」であるのにもかかわらず、社会的責任に蓋(ふた)をして、問題をもっぱら個人的なものに還元し、しかも困難の最終的な原因を個人の能力に求めることで、「責任」を自認させ、抗議の意思も封じる。
⑤「自己責任論」は、それが流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるべきもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立」観を前提としている。
⑥「自己責任論」では、何にせよ、自分で決定し、選択したことの結果について自分で責任をとるのは当然であり、ある人がおかれた状況・境遇は、そうした決定・選択の結果なのだから「自己責任」であるという一見もっともらしい理屈のもとで、「自己決定=自己責任」が説かれる。
⑦それらの結果として、「自己責任論」は、人びとの間に、多重的な分断をもたらし、個人を孤立化させるにとどまらず、たがいを敵視するように仕向ける。
これらの諸特徴をもつ「自己責任論」が通用しやすい特有の土壌(「社会文化」)が日本社会にはある。(16~17ページ)

自己決定の前提と条件
自己決定には、それを簡単に許さない前提や条件(困難性)がある。①自己決定は、社会制度や時代の支配的な社会的観念や意識、社会の風潮や趨勢、慣習や風俗などの「状況」の「圧力」や「傾向性」のもとで行われる。②「状況」の圧力や傾向性に対して自覚的・批判的であるためには、十分な情報の獲得と、「選択」の結果についての適切な判断が必要とされるが、それが困難である。③「状況」や「選択」にかかわる基本的な情報が獲得されているとしても、従属的位置にある労働者に、その特定の社会関係において自由な選択を行うことは許されない。(55~58ページ)
こうして、「自己決定」は多くの場合、疑似的で、決定者の「自己責任」を問えるようなものではない。つまり、「自己決定」は、個人の「自己責任」に直結させることができるようなものではない。真に自由な自己決定・選択が可能になる前提・条件の周到な吟味なしに、自己決定を自己責任に直結させるような「自己決定論」は、多く欺瞞をかかえるものである。(58ページ)
そこで、労働者が自己決定する際の鍵になるのは、個人が他者と「共にする決定」の場と仲間、連帯する組織を作り出すことである。(60ページ)

〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そこでの根本的な考え方は「実存」「自立」「共生」「まちづくり」「参画」「共働」などであった。
〇そのことを思い出しながら、改めて[1]における小松の言説を要約する。「自己決定」は、実際には、社会的広がりや他者との関係性(「関係としての私」「われわれのわれ」198ページ)のなかで行われる。「自己決定権は、個人主義を擬装しながら、実際には抽象化され、普遍化されることによって、いつでも国家共同体に転化・悪用されかねない危険性をもったもの」である。その意味で、「自己決定権を個々人の具体的な実存の側から見てみれば、そんなものは、はじめからないのだと極論してもよい。それをあるのだとなお言い募るのであれば、幻想としてあるのだと言うしかない」(106ページ)。これが、小松が最も強く主張する「自己決定権の欺瞞性」、すなわち「自己決定権という罠」である。加えて、小松の「共決定」(「相互決定」:筆者)という言説にも留意したい。

【初出】
<雑感>(85)阪野 貢/「自己決定」と「自己責任」:いま改めてその虚飾と欺瞞について考える―小松美彦著『「自己決定権」という罠』と吉崎祥司著『「自己責任論」をのりこえる』の読後メモ―/2019年6月22日/本文

 

補遺
〇小気味よい本に出会うと楽しいものである。筆者の手もとにある、桜井智恵子(さくらい・ちえこ、教育社会学)の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月。以下[1])もその一冊である。タイトルからも興味をそそられる。(小気味よさはしばしば、一元論的な思考やそれに基づく思考停止状態のなかにあることに留意しておきたい。)
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。能力主義の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇[1]におけるキーワードは、「個人化」、「能力の共同性」、「存在承認」である。それぞれの定義とそれに関する言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部語尾変換)。

個人化
私たちは、個人で稼いで個人で満たすという「勤労」概念に基づく個人化社会をつくった。生きていくためのニーズを満たすために、がんばって働き自分で稼ぐスタイルが前提となり、皆で分かち合う共同性は縮減した。環境や状況の劣悪は横に置き、「生きる上での困難」を乗り越えられないことを個人の問題に矮小化する傾向を「個人化」と呼ぶ(16ページ)。

能力の共同性
能力は個人が有する固有(単独)のものではない(私的所有物ではない:阪野)。能力は、他者や社会・文化によって、個のなかに共同的に培われているものであり、他者や環境とのかかわりという相互関係自体(能力の共同性)である(188ページ)。すなわち、能力とは、分かちもたれて現れたもの(互いに分かち合って共有するもの:阪野)であり、それゆえその力は関係的であり共同のものである。能力は個に還元できない(190ページ)。「共同」とは、個が「力を合わせる」「互いに助け合う」というものではなく、「いっしょにある」という意味合いであり、「私のなかにみんながいる」(189ページ)のである。

存在承認
現代社会を覆う能力主義は、「できること」(成果や業績)を承認する「業績承認」を意味する。それに対していま必要とされるのは、「在ること」(ありのまま)を承認する「存在承認」である。それは、自分自身を自分で承認し得る、「社会的状態」の構想である(187ページ)。すなわち、存在承認とは、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状態」(251ページ)をいう。

●現代の学校現場で、子どもは批判的に物事を考える機会を奪われている。必要なときに他者を頼ることは「依存」と見なされ、自助努力で生きることが大事だという価値観が教え込まれる。教育現場は、学力やコミュニケーション能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国の在り方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない(12~13ページ)。

●学校や社会には「能力の高い人ほど優秀」というソフトな優生思想が浸透している(15ページ)。それによって生きづらさが生じ、社会的弱者がつくられ、自責他害が強まっている(206ページ)。また、凄惨(せいさん)な相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)を受けてもなお、自己責任や排除を生み出す能力主義に基づく教育を問い直す機運は高まらず、グローバル人材の育成という形でむしろ強化されている。他方で、子どもの状況に応じた多様な教育機会を確保するとして個別支援の流れが強まっている。それは、学校のありようを問い直さずに子どもの分断を正当化する(15ページ)。

●個別救済は、トラブルが起きてからの救済システムであり、それらを生み出す社会的なあり方をこそ、問う必要がある。個別救済だけでは、逆に現在の排除的な社会の原理や個人化を補完することになる(19ページ)。

●資本主義経済を基調とする日本の公教育制度は、教育を受けることを権利として保障し、その保障を通して教育における国家支配を実現していくような体制である。いいかえれば、「保障」を通して「支配」を実現し、「支配」を実現するために「保障」を行う教育体制である(岡村達雄)(111ページ)。

●リベラリズムは近代個人の自由や多様性を尊重するために、政治権力や世間から干渉されない個人の自由を重視した。すなわち、個人の自由が、個人化された自由に矮小化されてしまった。個人の自由にとって大切なのは、個人化されない自由である(20、21ページ)。

●能力主義が導く自己責任論は、本人の能力や努力に問題を矮小化し、社会が協働する意味や契機を奪っている。すなわち、能力が個に分断されることで、人々には共同性が見えにくくなっている。「地域との連携」がお題目のように叫ばれているが、連携をすればよいというわけではない。自己責任論を広げるような連携ならしない方がずっとましだ。また、自己責任論は、「自立支援」という名の下に「自立するなら支援する」という脅迫めいたメッセージを発している(60~63ページ)。「支援」は支配的要素を含む言葉でもある(59ページ)。

●「能力の共同性」は、多様な人々が力を合わせるという意味合いとは異なり、個に還元できない能力論である。「依存先を増やす」というような個人化された共同性は、いともたやすくネオリベラリズム(新自由主義。個人の選択や市場原理の重視)に利用される。「存在承認」は、あなたの存在を認めるよといった承認論ではない(261ページ)。共同的なものでしかありえない、個人化されていない存在のあり方である(251ページ。)

〇繰り返しになるが、桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「(存在承認の基で)生きていくための所得分配がフェアで、それぞれが自由に生き合うという世界」(262ページ)、「アナキズム(国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決す知恵・思想:阪野)のようなもので教育や福祉の世界を包囲する」(252ページ)社会をめざす。要するに、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇なお、[1]のタイトルを「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、業績承認や存在承認などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。
〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そのタイトルの意味するところは、「よりよくある」ための人間の「自立と連帯」「自律と共生」である。それは、桜井の言説によると、個人化に基づくものであり、個人モデルのそれであることになる。そこで筆者には、「自立と連帯」「自律と共生」を「個のもの」のままではなく、「共同のもの」「分かち合うもの」としていかに展望するかが問われることになる。その意味で、「私のなかにみんながいる」という桜井の言葉は重い。
〇「私のなかにみんながいる」は、「みんなのなかに私がいる みんなとともに私がいる」の基底あるいは前提に位置づくのであろうか。そう考える場合、それは、(必ずしも力を合わせるという要素はない)一緒に行う「共同」と相互作用の「共働」を含意する(分かち合う)ことになる。「共同と共働」に基づく「自立と連帯」「自律と共生」である。そしてそこには、アナキズムやコミュニズム(共同体主義)に基礎をおく社会像が構想される。

〇筆者の手もとに、桜井智恵子の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月)という本がある。
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そこでは、環境や状況の劣悪は横に置いて、「生きる上での困難」を乗り越えられないことが個人の問題に矮小化される。その傾向を桜井は「個人化」という。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。「能力主義」の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「私のなかにみんながいる」ことを意味し、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇桜井の言説を「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、「業績承認」や「存在承認」などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。その際の業績承認は、「できること」(成果や業績)を承認することをいい、存在承認は「在ること」をありのままに承認することをいう。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。

【初出】
<雑感>(155)阪野 貢/「私のなかにみんながいる」ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―/2022年7月18日/本文

 


05  「世間」からの解放


<文献>
(1)阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書、1995年7月、以下[1]。
(2)阿部謹也『学問と「世間」』岩波新書、2001年6月、以下[2]。
(3)佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月、以下[3]。
(4)山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、1983年10月、以下[4]。
(5)鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力―日本社会はなぜ息苦しいのか―』講談社現代新書、2020年8月、以下[5]。
(6)岡檀『生き心地の良い町―この自殺率の低さには理由がある―』講談社、2013年7月、以下[6]。

〇筆者はこれまで、いくつかの地域で、「まちづくり」や「市民福祉教育」の実践「活動」にかかわってきた。正直に言えば、自分が現に居住する地域での取り組みには、ある種の“息苦しさ”や閉塞感を感じてきた。その息苦しさを和らげるためには“酸素”を吸入し、いま一度呼吸を整えることが必要である。以下の[1]から[4]の「世間」と「空気」に関する抜き書きは、過去に吸ったことのある空気よりも高濃度の酸素である。筆者には、いま所属する世間で、その流量や濃度、吸入方法を如何に考えるかが問われることになる(抜き書きと要約)。

[1]阿部謹也『「世間」とは何か』
西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。(13~14ページ)
私達は世間という枠組の中で生きているのであって、誰もが世間を常に意識しながら生きているのである。いわば世間は日本人の生活の枠組となっている。敢(あ)えていえば日本人は皆世間から相手にされなくなることを恐れており、世間から排除されないように常に言動に気をつけているのである。(14、15ページ)
世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。世間には、形をもつものと形をもたないものがある。形をもつ世間とは、同窓会や会社、政党の派閥、短歌や俳句の会、文壇、囲碁や将棋の会、スポーツクラブ、大学の学部、学会などであり、形をもたない世間とは、隣近所や、年賀状を交換したり贈答を行う人の関係をさす。(16、17ページ)
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。世間の掟にはもう一つ重要なものがある。それは世間の名誉を汚さないということである。(17、18ページ)
「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。西欧人なら、自分が無実であるならば人々が自分の無実を納得するまで闘うということになるが、日本人の場合は、自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、世間を騒がせたことについて謝罪することになる。このようなことは、世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。(20~21ページ)

[2]阿部謹也『学問と「世間」』
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。したがって「世間」を変えるという発想は生まれず、改革や革命という発想も生まれえなかった。(111~112ページ)
「世間」は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。「世間」には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。「世間」の中では個性的な生き方はできない。常に「世間」の枠を意識していなければならないからである。自分と「世間」とは一体として意識されている。自分が落ちこぼれないように努力している反面で、「世間」の外に特定の対象を設定して、その対象に対して自分の優位を確認しようとする。「世間」の外にそのような対象を設定することによって、自分自身の恐れや不安を転嫁するのであり、「世間」に対する恐怖を和らげるのである。私たち自身が「世間」の中で生きている不安を転嫁する過程で差別意識が発生してくるのである。その意味で差別意識は「世間」の産物である。(151~152ページ)

[3]佐藤直樹『「世間」の現象学』
社会という言葉はわが国の「近代化」と一体となったかたちで、つまり「近代化」のシステムとして展開された。ジャーナリズムや学問の世界では、あたかも西欧流の社会が実在するかのように、社会という言葉があたりを席巻した。しかしそれは、蜃気楼のようなものだった。おおかたの見方に反して、「世間」は消滅するどころか、実際に明治以降私たちの<生活世界>に実在したのは、「近代化」のシステムとしての社会ではなく歴史的・伝統的システムとしての「世間」のほうであった。(98ページ)
西欧流の「社会」と日本の「世間」のちがいを簡単にまとめると表1のようになる。(97ページ)


[4]山本七平『「空気」の研究』
「空気」は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である。われわれは「空気」に順応して判断し決断しており、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではない。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(22ページ)
「空気」の基本にあるのは臨在感的把握である。それは、物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けることをいう。(32、33ページ)
臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。(38ページ)
臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。(40ページ)
われわれは、「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基である。そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない。(129、172ページ)
ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば「現実」であって、しとしとと降りつづく “ 現実雨 ” に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。従ってこれが口にできないと “ 空気 ” 決定だけになる。(91、92ページ)

〇「世間」と「空気」は過去の遺物ではない。「世間」は今日も、解体・消滅することなく、そこに所属する人々の行動原理として働いている。そこで醸成される「空気」は、人々を支配し、ときには議論を否定し、思考を停止させる。日本の現代社会においては一面では、「世間」が膨張し、「空気」が意思決定の主役のようにもなっている。
〇「まちづくり」や「市民福祉教育」の世界ではこれまで、「世間」と「空気」の存在を前提にした議論が十分に行われてきたとは言えない。もっぱら、「地域社会」「市民社会」「共生社会」などの、翻訳語としての「社会」(society)を舞台にした議論が行われてきた。「社会」は観念的な世界であり、人はそのなかで生きているとはいえ、一定の心理的距離を置くこともできる。「世間」は日常生活における具体的な人間関係であり、一面では本音(ほんね)の世界でもある。右傾社会や格差社会、そして監視社会すなわち管理社会が進展するなかでいま、その趨勢を押しとどめ、真の市民社会や共生社会の実現を図るために、日常語としての「世間」と「空気」について探究する必要がある。「世間」と「空気」を対象化し議論することは、「社会」について論究する際のひとつの前提である。それはまた、自分の存在を意識し思考することであり、「社会」や「世間」の「息苦しさ」から自分や他の人々を解放することに通じる。
〇[5]は、鴻上尚史(作家・演出家)と佐藤直樹(評論家)の対談本である。「人を苦しめているものは『同調圧力』と呼ばれるもので、それは『世間』が作り出しているもの」である。新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本特有の「世間」が強化され、「同調圧力」が狂暴化・巨大化している。自粛の強制や監視、感染者に対するバッシングなどがそれである。「世間」の特徴は、「所与性」(変わらないこと・現状を肯定すること)にあり、「今の状態を続ける」「変化を嫌う」ことにある(鴻上:6、7ページ)。[5]は、新型コロナがあぶり出した「世間」のカラクリや弊害について追求する。
〇[5]で筆者が留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

[5]鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力』
「同調圧力」を生む「世間」:鴻上
「同調圧力」とは、「みんな同じに」という命令である。同調する対象は、その時の一番強い集団である。多数派や主流派の集団の「空気」に従えという命令が「同調圧力」である。数人の小さなグループや集団のレベルで、職場や学校、PTAや近所の公園での人間関係にも生まれる。日本は「同調圧力」が世界で突出して高い国なのである。そして、この「同調圧力」を生む根本に「世間」と呼ばれる日本特有のシステムがある。(5ページ)

「世間」と「社会」の違い:鴻上
「世間」というのは、現在及び将来、自分に関係がある人たちだけで形成される世界のことである。分かりやすく言えば、会社とか学校、隣近所といった、身近な人びとによってつくられた世界のことである。「社会」というのは、現在または将来においてまったく自分と関係のない人たち、例えば同じ電車に乗り合わせた人とか、すれ違っただけの人とか、知らない人たちで形成された世界である。つまり、「あなたと関係のある人たち」で成り立っているのが「世間」、「あなたと何も関係がない人たちがいる世界」が「社会」である。日本人は「世間」に住んでいるけれど、「社会」には住んでいない。(31、32ページ)

「世間」と「社会」の二重構造:佐藤
「社会」というのは、「ばらばらの個人から成り立っていて、個人の結びつきが法律で定められているような人間関係」である。法律で定められている人間関係が「社会」である。「世間」というのは、「日本人が集団となったときに発生する力学」である。「力学」とはそこに同調圧力などの権力的な関係が生まれることを意味する。日本人は「世間」にがんじがらめに縛られてきたために、「世間」がホンネで「社会」がタテマエという二重構造ができあがっている。おそらく現在の日本の社会問題のほとんどは、この二重構造に発していると言ってもいい。(33~35ページ)

「世間」を構成するルール:佐藤
「世間」を構成するルールは四つある。①お返しのルール/毎年のお中元・お歳暮に代表されるが、モノをもらったら必ず返さなければならない。②身分制のルール/年上・年下、目上・目下、格上・格下などの「身分」がその関係の力学を決めてしまう。③人間平等主義のルール/「みんな同じ時間を生きている」、すなわち「みんな同じ仲間である」と考えている。そこから、「出る杭は打たれる」ことになり、「個人がいない」ということになる。④呪術性のルール/「友引の日には葬式をしない」といったように、俗信・迷信に逆らうことができない。こうした四つのルールからできあがったのが「世間」である。そうした人間関係のつくり方をしている国は日本しかないのではないか。(35~50ページ)

「世間」の特徴:鴻上
「世間」には五つの特徴がある。①「贈り物は大切」、②「年上が偉い」、③「『同じ時間を生きること』が大切」、④「神秘性」(佐藤がいう「呪術性」)、佐藤の言説と同じである。加えて⑤「仲間外れをつくる」がある。それは「排他性」を意味し、仲間外れをつくることが、自分たちの「世間」を意識し、強固にすることになる。この五つの特徴(ルール)のうち、一つでも欠けた場合に表れるのが「空気」である。「世間」が流動化したものが「空気」である。「空気」に支配されるのは、それが「世間」の一種だからである。(50~53ページ)

〇要するに、「世間」の本質は、その暗黙のルールに従うこと、みんなと同じことをすることにある。「世間」のルール(その強さ)が、「みんな同じ」すなわち「違う人にならない」という同調圧力を生み出し、個人の行動を抑制するのである。
〇「同調圧力」とは、「少数意見を持つ人、あるいは異論を唱える人に対して、暗黙のうちに周囲の多くの人と同じように行動するよう強制すること」である。すなわち、「何かを強いられること」「異論が許されない(封じられる)状況」(16ページ)をいう。こうした同調圧力や相互監視を生み出す、別言すればそれによって支えられるのが「世間」である。この「世間」と「同調圧力」が、いまの日本社会の「息苦しさ」や「生きづらさ」の正体である。それを緩和あるいは除去するためには、「世間のルール」を漸進的に変革するしかない。そのためのひとつのヒントを与えてくれるのが岡檀の[6]である。
〇[6]は、「地域の社会文化的特性が住民の精神衛生にあたえる影響、特に、コミュニティの特性と自殺率との関係」(10ページ)を明らかにしている。徳島県南部に位置する旧・海部町(現・海陽町)は、太平洋に臨む、人口3000人前後で推移してきた小規模な町である。その町は、全国でも極めて自殺率の低い「自殺 “最” 稀少地域」である。[6]は、そこに暮らす町民たちの、「生きづらさを取り除く」ユニークな人生観や処世術を、2008年から4年にわたる現地調査によって解き明かす(「帯」)。
〇[6]で筆者が注目したいひとつの言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

[6]岡檀『生き心地の良い町』
5つの自殺予防因子
旧・海部町ではなぜ、自殺者が少ないのか。「自殺予防因子」として次の5つが考えられる。
① いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい
多様性を尊重し、異質や異端なものに対する偏見が小さく、「いろんな人がいてもよい」と考えるコミュニティの特性がある。それだけではなく、「いろんな人がいたほうがよい」という考え方が町に浸透している。
② 人物本位主義をつらぬく
職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄によって判断するという考え方が重んじられている。
③ どうせ自分なんて、と考えない
町民には、自分たちが暮らす世界を自分たちの手によって良くしようという、基本姿勢がある。「どうせ自分なんて」と考える人が少なく、主体的に社会にかかわる人が多い。
④ 「病(やまい)」は市(いち)に出せ
病気のみならず、生きていく上でのあらゆる問題をひとりで抱えるのではなく、みんなで解決しようという考え方がある。町民の、援助を求める行為への心理的抵抗が小さい。
⑤ ゆるやかにつながる
人間関係が固定していない。町民はそれぞれが、息苦しさを感じない距離感を保ちながら、「ゆるやかな絆」のもとで連携している。(29~92ページ)

〇岡はいう。旧・海部町は江戸時代の初期、材木の集積地として飛躍的に隆盛し、「多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだった」(88ページ)。「人の出入りの多い土地柄であったことから、人間関係が膠着(こうちゃく)することなくゆるやかな絆が常態化したと想像できる」(90ページ)。こうした歴史的背景のもとで培われ維持されてきた「ゆるやかな絆」が、自殺予防を促している。「ゆるやかな絆」という住民気質に注目しておきたい。
〇ここで、世論がどのようなメカニズムで形成されるかを検討したE.ノエル=ノイマン(1916年~2010年、ドイツの政治学者)の「沈黙の螺旋理論」についてメモって(紹介して)おきたい。その概要はこうである。人間はその社会的天性として、仲間と仲たがいして孤立することを恐れる(「孤立への恐怖」)。人間には意見分布の状況(「意見(の)風土」)を認知する能力がある(「準統計的感覚(能力)」)。そこで、自分の意見が多数派であると判断したときは、自分の意見を公然と表明する。逆に自分の意見が少数派であると認識した場合は、孤立を恐れて沈黙を促す(守る)。この循環過程によって意見の表明と沈黙が螺旋状に増幅し、多数派意見への「なだれ現象」(同調)が引き起こされ、多数派意見が「世論」(「論争的な争点に関して自分自身が孤立することなく公然と表明できる意見」)として公認されるようになる。そして、少数派はますます孤立の度を深めていく。なお、ノエル=ノイマンは、少数派でありながら、孤立の脅威をものともしないで意見表明する、「ハードコア(固い核)」と名付ける活動層についても言及する。「沈黙の螺旋研究」の詳細については、E.ノエル=ノイマン、池田謙一・安野智子訳『沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学―』(改訂復刻版、北大路書房、2013年3月)と、たとえば時野谷浩の『世論と沈黙―沈黙の螺旋理論の研究―』(芦書房、2008年3月)を参照されたい。

補遺
・歩いて2、3分の所に住むおじいちゃんが入院された。「にわか百姓」の私に、いつも優しくまた丁寧に、農作業を指南してくれた方である。早速お見舞いに伺ったが、一週間ほどたってご子息からお礼の連絡が入った。電話で、である。
・我が家には2002年3月生まれの犬(柴犬)がいた。目が見えず、耳も聞こえず、認知症の症状が顕著にみられた。ある夜、大きな声で鳴き始めた。すぐに対応したが、近所からお叱りの連絡が入った。深夜23時30分、無言電話で、であ。
・私は数年前、地元の老人クラブの役員を仰せつかった。ある役員との連絡は、時にはメールで行うことがあった。いま思えば、その時の話題は少々厄介なものばかりであった。メールは、お互いの「繋がり」を深化させない、「摩擦」を避けるためのツールとして活用されたのだろうか。
・3年前、隣の家が火事になり、大騒ぎになった。翌日、お見舞いと後片付けにお邪魔したが、その作業に参加したのは私だけであった(2日目には丁重に断られている)。今年になって、近所に住む二人のおばあちゃんが他界された。それを知ったのは1か月後のことである。「村八分」の二分はどこへやら、である。

【初出】
<雑感>(46)阪野 貢/「世間」の膨張と「空気」の支配―その「息苦しさ」からの解放―/2017年4月24日/本文
<雑感>(120)阪野 貢/同調圧力の強い世間を生き抜くということ―鴻上尚史・佐藤直樹著『同調圧力』と岡檀著『生き心地の良い町』のワンポイントメモ―/2020年10月2日/本文

 


06  「しょうがい」と疑似体験の陥穽


「しょうがい」と疑似体験の陥穽【その1

<文献>
(1)荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房、2021年5月、以下[1]。
(2)荒井裕樹『車椅子の横に立つ人―障害から見つめる「生きにくさ」―』青土社、2020年8月、以下[2]。
(3)荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年4月、以下[3]。
(4)荒井裕樹『障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ―』現代書館、2011年2月、以下[4]。
(5)荒井裕樹『差別されてる自覚はあるか―横田弘と青い芝の会「行動綱領」―』現代書館、2017年1月、以下[5]。

〇1970年代から80年代にかけて、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会の横田弘や横塚晃一らは、「障害者は不幸」「障害者は施設で生きるしかない」「障害者は殺されてもやむを得ない」といった固定的な価値観(常識)と闘った([3]134ページ。注①、②)。その後、「完全参加と平等」(1981年の「国際障害者年」)をはじめ「バリアフリー社会」「自立生活」「地域生活支援」「地域共生社会」、あるいは「共生共育」(インクルーシブ教育)などの実現をめざした障がい者運動が展開された。2016年4月に「障害者差別解消法」(「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」)が施行され、同年7月にはその対極に位置する「相模原障害者施設殺傷事件」が起きた。「差別を解消するための法律を作れば、そのうち差別は克服される」といってしまえるほど、この社会は単純な仕組みにはなっていない([3]13ページ)。元施設職員の犯人・植松聖は「重度障害者は不幸をばらまく存在であり、絶対に安楽死させなければいけない」と断言した。そして早々に、事件の風化が進んだ。ここに障がい者差別の「現在」があり、青い芝の会の「過去」の闘争やその思想が浮かび上がる。
〇荒井裕樹は、「この社会に存在する数々の問題について『言葉という視点』から考えること」を仕事にする気鋭の「文学者」である。専門は、厳しい境遇に追いやられている「被抑圧者の自己表現活動」([1]20ページ)である。主な研究対象(テ―マ)は、障害や病気と共に生きる人たちの「言葉」であり、障がい者運動や患者運動にかかわる(かかわった)人たちの表現活動である。荒井はいう。1970年代に、障がい者の苦労をわかってもらうのではなく、世間の障がい者差別と闘った「青い芝の会」神奈川県連合会の横田は、「障害者は不幸」「障害は努力して克服すべき」という考えが常識だった時代に「なんで障害者のまま生きてちゃいけないんだ?!」と言った([1]151ページ)。障がい者運動家たちからもらった最大のものは、「『正しい』とか『立派』とか『役に立つ』といった価値観自体を疑う感覚」([1]244ページ)である。「ある人の『生きる気力』を削(そ)ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても『生きようとする意欲』が湧(わ)かない社会になる。そんな社会を次の世代には引き継ぎたくない」([1]29ページ)。荒井が依拠する基本的な視点や認識のひとつであり、ひとりの「学者」としての覚悟(姿勢)である。
〇[1]は、「言葉」に潜む暴力性を明らかにし、その息苦しさ(「言葉の壊れ」)に抗(あらが)うための18本のエッセイ集である。荒井は、「言葉の殺傷力」、特に2010年代以降に顕著になった「言葉が壊されている」現実に、猛烈な危機感を持つ。「言葉というものが、偉い人たちが責任を逃れるために、自分の虚像を膨らませるために、敵を作り上げて憂(う)さを晴らすために、誰かを威圧して黙らせるために、そんなことのためばかりに使われ続けていったら、どうなるのだろう」(247ページ)。これが[1]の各エッセイに通底する問題意識である。空虚なスローガンやキャッチフレーズとともに、質疑や質問に向き合わず、討論やコミュニケーションを遮断した安倍政権の汚く卑劣な言葉やフレーズを思い出す。
〇[2]は、学術誌に掲載した論文と文芸誌やネットジャーナルに寄稿したエッセイの14本の論考から成っている。荒井の研究者人生「最初の10年間の総括」(222ページ)である。ほとんどの人が「車椅子の横に立つ人」を障がい者の「身内」か「介護者(福祉職)」と決めつけてしまう。障害や障がい者をめぐるある種の固定観念や思い込み(ステレオタイプ)にとらわれ、それを定型的・限定的に捉えてしまう狭い範囲での想像力は、何から生み出されるのか。障がい者が経験する現代社会における「生きにくさ(生きづらさ)」や、それをめぐる「語りにくさ(語られにくさ)」を言葉でどうとらえるのか。こうした「にくさ」が交錯(こうさく)する問題について考える端緒を開こうとするのが[2]である。そして荒井はいう。「いつか(その)正体を見極めて、ぶち壊したいと思う」(34ページ)。
〇[3]は、1970年代から80年代にかけてさまざまな抗議行動(闘争)を繰り広げた「青い芝の会」神奈川県連合会の問題提起を、その運動に参加した障がい者たちの言葉やフレーズ、思想や価値観などを通して丹念に振り返り、「障害者差別を問い直す」。たとえば、青い芝の会が「障害者と対立関係にある健康な者」「障害者を差別する立場にいる健康な者」を「健全者」(73ページ)と呼んだ。あるいは、憲法第25条に規定された「生存権」を「生きる権利」「この世に存在する権利」(194ページ)という意味で使ったことなどに言及し、そこに青い芝の会の思想をみる。そして荒井はいう。「障害者本人たちが、障害者抜きに作られた『常識』に対して、異議申し立てを行なってきた経緯」(22ページ)について、その具体的な事例を一つひとつ調べていくことが重要である。障がい者差別についてあまりにも早急にあるいは短絡的に「解決」を求める発想は、「弱い立場の人に我慢や沈黙を強いたり、そうした『解決』に馴染(なじ)めない人たちを排除したりする方向へと進みかねない」(252ページ)。複雑に入り組んだ障がい者差別の問題について考える荒井のスタンス(立場)である。
〇ここでは、福祉教育(とりわけその実践)に関してしばしば見聞きする言葉やフレーズのいくつかを[1][2][3]から抜き出し、荒井のその論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「障害」という言葉と定義([2])
これまで「障害」は「不幸の代名詞」「生きにくさの象徴」のように考えられてきた側面がある。「障害」は立場や見方によって定義がさまざまに変化し得る相対的なものである。(189、192ページ)
人は程度の差こそあれ、何らかの障害を抱えながら生きていると考えた方がよい。
自分には何ができて、何ができないのか。どこからが自分の手に負えない状況になってしまうのか。何かできないことに直面した際、誰に、どれだけのサポートを求めれば良いのか。自分のなかに「障害」を見出すというのは、こうした点について考えることでもある。ここでいう「障害」とは、「ある特定の文脈や状況のなかで、他の多くの人がそれほど苦労せずにできることができず、そのことで日常生活に支障をきたすこと」という意味である。人は誰しも「障害的要素」や「障害者的側面」をもっているはずであり、そうした内省(リフレクション、reflection)を通じて、社会を捉え返すことが大切である。(190~195ページ)

「障がい者」に対する紋切り型の表現([2])
障害者に対する紋切り型の表現は、これまでも繰り返し批判されてきた。記憶に新しい例で言えば、Eテレの情報バラエティ番組「バリバラ(Barrierfee Variety Show)」が、日本テレビ系列の有名チャリティ番組「24時間テレビ」にぶつけて「障害者×感動の方程式」と題した番組を組み、障害者が感動や勇気を与える存在として描かれることを「感動ポルノ」(Inspiration porn)と批判したことが話題になった。(24ページ)
もともと「感動ポルノ」という言葉は、豪州(オーストラリア)のジャーナリスト、ステラ・ヤング(Stellar Young)のものとされている。Eテレの同企画を詳細に報じた『朝日新聞』(2016年9月3日)の記事は、当日の番組の様子を次のように伝えている。<番組では冒頭、豪州のジャーナリストで障害者の故ステラ・ヤングさんのスピーチ映像を流した。ステラさんは、感動や勇気をかき立てるための道具として障害者が使われ、描かれることを、「感動ポルノ」と表現。「障害者が乗り越えなければならないのは自分たちの体や病気ではなく、障害者を特別視し、モノとして扱う社会だ」と指摘した。>(27ページ)
「不幸」や「悲劇」を健気(けなげ)な努力によって乗り越える障害者の姿が涙とともに「消費」されることは珍しくない。(113ページ)

障がい者の「役に立たない」という烙印([1])
戦時中の障害者たちは、「お国の役に立たない」ということで、ものすごく迫害された。「国家の恥」「米食い虫」という言葉で罵(ののし)られた。そうした迫害に苦しんだ人たちだからこそ、「障害者を苦しめる戦争反対!」とはならない。むしろ、なれないのだ。迫害されている人は、これ以上迫害されないように、世間の空気を必死に感じ取ろうとする。どういった言動をとればいじめられずに済むか、自分をムチ打つ手をゆるめてもらえるかを必死になって考える。(104~105ページ)
誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。特に、その「何か」が、(「国家」「世界」「人類」などの)漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ。「誰かの役に立つこと」が、「役に立たない人を見つけて吊るし上げること」だとしたら、断然、何の役にも立ちたくない。(107ページ)

「障がい者はもっと遠慮するべきだ」という暴力([1])
老若男女、障害や病気の有無にかかわらず、「遠慮」をまったく感じないでいられる人は現実的にはほとんどいない。だから、みんなが、どこかで、誰かに「遠慮」している。それでも、障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。(178ページ)
日本の障害者運動が最初に闘ったのは、「遠慮圧力」だった。<生きるに遠慮が要るものか>というフレーズは、障害者運動の神髄だとさえ言える。「みんな、それなりに遠慮しているのだから、障害者も弱者なんていう言葉にあぐらをかかず、もっと遠慮するべきだ」。いまでも、こうした意見を持つ人がいる。でも、この世の「遠慮圧力」は、みんなに等しく均一にかかっているわけではない。やはり、どこかで、誰かに、重くのしかかっている。自分たちが生きる社会のなかで、「生きること」そのものに「遠慮」を強いられている人がいることを想像してみてほしい。「遠慮圧力」が、ときには人を殺しかねないことを想像してみてほしい。確かに、ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけれど、誰かに「命に関わる遠慮を強いる」のは暴力だ。(183~184ページ)

「障害は個性」「みんな違ってみんないい」という言葉([3])
1990年代以降、「障害は個性」や「みんな違ってみんないい」といった言葉が、障害者との共生をめざす文脈でしばしば見かけられるようになった。しかし、これらの言葉は、どちらかというと「障害者と仲良くするための言葉」であり、障害者差別という人権侵害を抑止したり糾弾したりする「闘う言葉」ではないようである。(231~232ページ)
ある差別について語る言葉がない(少ない)ことは、その社会に差別が存在しないことを意味しない。むしろ、差別について語る言葉が少ないほど、その社会が差別に対して鈍感であることを意味している。(232ページ)

「障がい者も同じ人間である」というフレーズ([3])
障害の有無にかかわらず、人は皆、等しくかけがえのない存在であり、等しい尊厳を有した存在であるという意味において、「障害者も同じ人間」というフレーズはまったく間違ってもいなければ、無力なきれいごとでもない。(235ページ)
「人間」とは極めて普遍的で抽象的な言葉だからこそ、ともすると、個々人の抱えた事情を一切無視して、少数者を多数者の論理に従わせたり、多数者の価値観を少数者に受け入れさせたりする抑圧的な言葉として、いかようにも転用できてしまう。つまり、「障害者も同じ人間なのだから」という表現は、障害者に対して我慢や自制を強いる表現としても使われかねないのである。(236ページ)
障害者たちが障害者運動のなかで叫んできた「障害者も同じ人間」というフレーズは、「障害者も生物学上『人間』に分類される存在である」などといった意味ではない。運動の蓄積に鑑(かんが)みるならば、この言葉は「障害者も社会のなかで共に生活する者である」といったメッセージとして育て上げられてきたフレーズである。「障害者も同じ人間」というフレーズは、「他の人々に認められている社会参加への機会や権利は、障害者にも等しく認められるべきである」といった意味内容で使われなければならない。(239ページ)

障がい者の「差別と区別は違う」という定型句([1])
「差別と区別は違う」というのは、障害者差別が起きたときにも出てくる定型句である。「差別」は不当に「されるもの」であり、「区別」は不利益が生じないように「してもらうもの」である。「不利益の生じる区別」は「差別」だし、そもそも属性を理由に「不利益」を押しつけることは許されない。「差別と区別は違う」というフレーズは、「それは差別だ!」と批判された側が思わず口走るというパターンが多かったように思う。(124~125ページ)
この社会は「権利」という概念に鈍(にぶ)いけど、それと対になって「差別」への感性も鈍い。「差別」への感性を鈍らせないためにも、「権利」に敏感でなければならない。(126ページ)

「隣近所」で生きる障がい者との「闘争(ふれあい)」([2])
障害者が排除されるのは抽象的な「地域」ではなく、具体的な「隣近所」であることから、横田は「障害者は隣近所で生きなければならない」と言った。これは、「障害者は、目に見えて、声が聞こえる距離で生きなければならない」ということだ。障害者が身近にいない社会では、障害者はどんな人なのかといった想像力が希薄になる。逆に、障害者にとっても、様々な人たちが混在している社会のなかで生きなければ、「自分とは何者か」「自分と社会はどのような関係にあるか」について考える機会を失う。「障害者が遠い社会」や「障害者にとって遠い社会」では、障害者について語る言葉も、障害者と語らう言葉も貧困になる。言葉が貧困なところに想像力は育まれない。(77~78ページ)
横田は、障害者は周囲の人々と軋轢を起こしながら・起こしてでも(「隣近所」で)生きなければならないと言った。小さな諍(いさか)いは、相手と言葉を交わし、相手が何者なのかを考える契機になる。横田が「闘争」という言葉に「ふれあい」というルビを振ったことは有名なエピソードだ。(78ページ)

「自己責任」という言葉とその不気味さ([1])
「自己責任」という言葉に、おおむね次の三点において不気味さを覚えている。
一つ目は、2004年の「イラク邦人人質事件」で騒がれた時から、「自己責任の意味が拡大し過ぎている」という点だ。これまでも、病気・貧困・育児・不安な雇用などで生活の困難を訴える人が、「甘え」「怠(なま)け」といった言葉でバッシングされることはあった。近年では、こうした場面にも「自己責任」が食い込んできた。二つ目は、「自己責任」が「人を黙らせるための言葉」になりつつある、という点だ。社会の歪みを痛感した人が、「ここに問題がある!」と声を上げようとした時、「それはあなたの努力や能力の問題だ」と、その声を封殺(ふうさつ)するようなかたちで「自己責任」が湧き出してくる。三つ目は、この言葉が「他人の痛みへの想像力を削(そ)いでしまう」という点だ。「自己責任」という言葉には「自らの行ないの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかするべき」「他人が心を痛めたり、思い悩んだりする必要はない」という意味が込められている。(189~191ページ)
「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。「従順でない国民の面倒など見たくない」という考えを持った権力者は、今後も「自己責任」という言葉を使い続けていくだろう。国民が分断されていることほど、権力者にとって好都合なことはないからだ。(195ページ)

人が「生きる意味」について議論すること([3])
人が「生きる意味」について、軽々に議論などできない。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできない。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡潔な言葉でまとめられるような、浅薄なものではないからである。私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはない。また、社会に対して、それを論証しなければならない義務も負っていない。もしも私が第三者から「生きる意味」についての説明を求められ、それに対して説得力のある説明が展開できなかった場合、私には「生きる意味」がないことになるのか。だとしたら、それはあまりにも理不尽な暴力だとしか言えない。(234ページ)
この社会のなかで、誰かに対し、「生きる意味」の証明作業を求めたり、そうした努力を課すこと自体、深刻な暴力であることを認識する必要がある。重度障害者に対し「生きる意味」の証明作業を求めるような価値観は、必ず、重度障害者以外に対しても牙(きば)を剥(む)く。(235ページ)

〇[4]は、「障害者によって描かれた文学」作品を研究対象に、それらの作品が生み出された文学活動の歴史と意義について考察する。具体的には、俳人で運動家の花田春兆と文芸同人団体「しののめ」、詩人で運動家の横田と「青い芝の会」神奈川県連合会をとり上げる。そして、「障害者自身がいかに自己の存在意義について悩み、いかに自己と社会との関係性について折り合いをつけてきたのか、その内省的な思索の変遷過程を、可能な限り同時代の障害者自身の文学表現から読み解いていく」(8ページ)作業を行う。それは、障がい者や障がい者運動の「内面史」を語ることでもある。荒井はいう。戦後日本の障がい者運動のなかでは、「文学は決して周縁的・副次的な存在ではなく、人脈を繋ぎ、思想を練磨していく上で、むしろ中心的な役割を果たしていたとさえ言える」(8ページ)。
〇[5]は、横田が1970年5月に書き上げた「青い芝の会」の「行動綱領 われらかく行動する」(「補遺」参照)の解釈を通して、その歴史や思想、その意義について考察する。「行動綱領」は、「一人の重度脳性マヒ者が、この社会に厳然と存在する障害者差別に頽(くずお)れてしまわないために、自分を鼓舞し支えようとして綴った言葉」(299ページ)である。「青い芝の会」の活動には、「『自分たちの苦労と悲しみをわかってもらいたい』という迎合的な姿勢や、『障害のある人もない人も、共に手を取り合ってがんばろう』といった朗(ほが)らかな雰囲気は微塵もなかった」(14ページ)。彼らは、差別者を容赦なく徹底的に糾弾し、非妥協的で戦闘的な姿勢を貫き通した。荒井によると横田は、差別者と対峙して自覚的あるいは無自覚な差別を問いただし、その壁を乗り越えて明日を切り拓き、自分自身を解き放つためには「差別されてる側の自覚から湧き上がる怒りが必要だ」(299ページ)とした。障がい者(被差別者、被抑圧者)の「自覚」がキーワードである。ここに、「差別されている自覚はあるか」というタイトルの意味をみる。

社会のすべてが、障害者と共生する時が来るとは私には考えられない。/私たち障害者が生きるということは、それ自体、たえることのない優生思想との闘いであり、健全者との闘いなのである。(横田:[4]225ページ)

私達は生きたいのです。/人間として生きる事を認めて欲しいのです。/ただ、それだけなのです。(横田:[5]103ページ)


①1970年5月に起きた実母による障がい児殺害事件に対する減刑嘆願反対運動をはじめ、優生保護法改悪反対運動および「胎児チェック」反対運動(1972年から1974年)、川崎バス闘争(1977年から1978年)、養護学校義務化阻止闘争(1975年から1979年)などがそれである。その概要と詳細は[3](41~47、128~145、150~176、188~220ページ)を参照されたい。
②横田と横塚の言説(思想)については、次の著作を参照されたい。
横田弘『障害者殺しの思想』JCA出版、1979年1月。
横田弘、立岩真也解説『障害者殺しの思想(増補新装版)』現代書館、2015年6月。
横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店、1975年1月。
横塚晃一、立岩真也解説『母よ!殺すな(増補復刻版)』生活書院、2007年9月。

補遺
横田の手になる「行動綱領 われらかく行動する」は、次の通りである([5]29~30ページ)。

荒井による各項目の解説文(「注釈めいたもの」)をメモっておくことにする([5]121~142ページの抜き書きと要約)。

一、われらは自らがCP者である事を自覚する
障害者運動は障害者が主体となり、障害者の主体性が発揮されるかたちでなされなければならない。そのためには自分がCP者(脳性マヒ者)であることを自覚し、CP者としての思考や考え方がなければならない。それがすべての原点である。
一、われらは強烈な自己主張を行なう
障害者が障害者のまま生きていくために、障害者としてしか生きられない自分の存在を「自己主張」すべきである。この社会の常識自体が障害者の存在を否定的に捉えている。そんな常識を<健全者エゴイズム>として捉え直さない限り、障害者は<自己解放>の道を歩むことはできない。
一、われらは愛と正義を否定する
母親がわが子を愛するが故に障害児を殺した事件が起きた。その愛を圧倒的多数の人たちが支持すれば、それは正義になる。その「愛と正義」の名のもとに、障害児は殺され、あるいは施設へと送られた(送られている)。「障害者のためを思って」という健全者だけに都合のよい「愛と正義」について、人間の心を凝視しなければならない。「福祉は思いやり」という発想も怖い。非常時に真っ先に犠牲になるのは障害者である。
一、われらは問題解決の路を選ばない
障害者が成し得ることは、「不満があるなら何か具体的な対案や代替案を示せ」という発想に応えることではなく、次々と問題提起を起こす以外にない。安易な問題解決は<安易な妥協>を生む。安易な妥協は、「正義」として受け止められ、「誰」が「何」を考えなければならないのかという点を曖昧にしてしまう。妥協は、弱い立場の者がしぶしぶ折れる(折られる)ことになる。

【初出】
<雑感>(144)阪野 貢/言葉とフレーズと福祉教育 :福祉教育は障がい者から感動や勇気をもらい、自分を演じるための教育的営為か? ―荒井裕樹を読む―/2021年9月19日/本文

 

「しょうがい」と疑似体験の陥穽【その2】

<文献>
(1)佐藤貴宣・栗田季佳編『障害理解のリフレクション―行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界―』ちとせプレス、2023年3月、以下[1]。

〇福祉教育実践ではこれまで、「訪問・交流活動」「収集・募金活動」「清掃・美化活動」の“3大活動”や「疑似体験」「技術・技能の習得」「施設訪問(慰問)」の“3大プログラム”を中心にした体験活動が実施・展開されてきた(されている)。圧倒的に多いのは、障害や高齢の疑似体験、なかでも車いす体験やアイマスク体験、インスタントシニア体験である。相変わらず「慰問」という施設訪問も多い。これらの体験活動は場合によっては、誤解や思い込み、偏見を助長し、「貧困的な福祉観の再生産」(原田正樹)を促すことになる。
〇ここで、障害疑似体験の陥穽(かんせい。落とし穴)について、村田観弥の論考[1]――「障害疑似体験を『身体』から再考する」佐藤貴宣・栗田季佳編『障害理解のリフレクション―行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界―』ちとせプレス、2023年3月、123~153ページ。――から先行研究と村田の言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

西舘有沙らは、できないことに目が行き過ぎて事実誤認やミスリードを引き起こし、障害者へのネガティブな態度を植えつける点、障害者の能力を特別視する傾向が強まる点など、障害者の姿を誤って捉え、障害に対する認識のゆがみを強固にする側面を挙げ、この検討をせずに教育方法としての疑似体験を採用すべきでないと指摘する。そして改善策として、➀体験の目的を具体的かつ明確に定める、②できないことばかりを体験させない、④事後指導の時間を設ける、④指導者の指導技術を高める、を提案する。(124ページ)

松原崇と佐藤貴宣は、障害学や障害当事者からの視点として、➀政治・社会的構造の要因の看過(個人にばかり焦点を当てる)、②差別的な見方の強化(障害者の無力さが強調され、障害者や障害にネガティブな価値づけが生じる)、③体験の精度の低さ(疑似体験できるのは、個人が突然身体機能の障害を負ったときの状態やそのときの感情のみで、症状の不安定さや症状の進行などの可変的状態がシミュレートできない)、④障害者への倫理的問題(試しにちょっとやってみる程度に扱われ、しばしば楽しい遊びやゲームのように行われる)、を批判として挙げる。そこで対策として、障害者自身がファシリテーターとなる手法や、注意深くブログムムをデザインすることでネガティブな効果を回避する事例など、学習を始める参加者が「現実」を対象化するきっかけとして、プログラムの一部や出発点として位置づけることを提案する。そして、社会構成主義的な協働体験として再構成し(体験は人々の間のコミュニケーションを通じて協働的に構成されると考える社会構成主義の観点に依拠し)、①問題を障害者個人でなく、外部環境へと問題帰属する文脈を用意する、②障害者が企画者として参加する、③障害者を含む参加者間での対話を喚起する、の3点の「仕掛け」を挙げている。(124~125ページ)

障害当事者である鈴木治郎は、体験し経験して知ることはけっして無駄ではないとしながらも、「その場限りの経験」になることや、企画者が「役に立つことだから善いこと」だと押しつける点を指摘する。そして、誰もが「当たり前」を共有化できる場づくりのための「互いの差異を認め共に出会う教育」が必要だと述べる。それを受け谷内孝行は、障害理解プログラムは、障害を理解することに重きを置くのではなく、障害から個性の尊重、共生の重要性、社会変革などを学び、新たな価値を創造する場であるとする。(128ページ)

細馬宏通は、アイマスク体験の主役は、アイマスクをつくる人ではなく、ナビゲーター(ガイドヘルパー)側だと述べている。(148ページ)

村田観弥はいう。
● 操作的に経験された疑似体験は、障害者への偏見をもってはいけないとする常識的な規範意識に囚われ、障害/健康の枠組みを強固にし、特別な存在とする見方を先鋭化することにもなりうる。また場合によっては、その経験は個々に異なるにもかかわらず、障害当事者の発言があたかも正解のように伝わることもある。(126~127ページ)
● 障害を疑似的に体験する活動をたんに問題とするよりも、その経験を自分自身の「日常」や「身体」について考えるきっかけとしての「学びの契機」(「障害者理解」でなく「自己理解」の体験)とする論を試みる。(130ページ)
● 他人の経験を生きるという試みは困難である。であるならば、体験が疑似(似て非なるもの)であることを問題にするよりも、疑似であることの可能性(誰かの立場になって考えたことによる意味の変化や視野の広がり等)に視点をずらすことで、思い込みや誤解が生じるプロセスに気づき、みずからの問題として考える教育的契機にできるのではないか。(144ページ)
● 体験活動は、「意図的に制限した身体を生きる」という体験を、「まずは実践してみる」ことに重点を置く。特定の障壁を感じることなく生きてきた同質性の高い日常から外へ出て、そうでない世界に身を投じる。「健常者」として規格化された身体を崩すことで、「差異化」の体験過程が言語化され、新たな「私」が再構成される。体験は「他人の身体を生きる」ということとは程遠いけれど、何かが生まれるきっかけにはなる。疑似体験では誤解や思い込み、偏見が生起しやすい。あえて誤解や偏見が顕在化する「場」として提示することで、それが我々の日常に遍在し、気づきにくく、見えない壁をつくっており、そこへ意識を向けることで壁を動かすことには有効かもしれないと考える。(151ページ)
● まず己の身体を通した困惑や不安、違和感といった感覚に向き合ってみる経験こそが、「私も同情や特別視をしているのではないか」との気づきにつながり、誤解や偏見と生きる自分自身に向き合うことになるのではないだろうか。(152ページ)

〇疑似体験には「有効論」と「有害論」がある(杉野昭博)。前者は、疑似体験は障がい者への配慮や支援の仕方について理解することを通して、障がい者への共感性を高めることになる、というものである。後者は、疑似体験は障がい者個人の機能障害(インペアメント)が強調され、社会の偏見や差別についての理解が進まず、障害や障がい者に対するネガティブな価値づけがなされてしまう、といものである。いずれもそこでは、一面的なあるいは一時(いっとき)の障害理解や障がい者体験にとどまり、計画的・継続的なまちづくりや社会変革への視点が弱いと言わざるをえない。再認識したい。

 


07  「生」の倫理


<文献>
(1)野崎泰伸『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』白澤社、2011年6月、以下[1]。
(2)野崎泰伸『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』筑摩書房、2015年3月、以下[2]。

〇[1]は、「障害学」の視点から、障がい者にとって「正義」とは何かを問い、生を肯定する「倫理」を新たに構想しようとしたものである。野崎泰伸はいう。この社会で障がい者が「生きづらい」のは、軽減・克服すべき個人の身体(障害)に問題があるのではなく、健常者を「正常」とする価値観にとらわれている社会に責任がある。したがって、その「生きづらさ」を解消するためには、障がい者を分断・排除している社会が負担を負わなければならない。また、「障害はないほうがよい」という言説がある。その多くは「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまう。その「すりかえ」は、社会的負担の拒否を表明するものである。1970年代の「青い芝の会」などの障がい者運動は、「障害からの解放」ではなく(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めた。それらの運動は、「障害者の生存を無条件に肯定する」という「当たり前のことを当たり前に」要求したものであり、その主張に「学問」は学ぶべきである。改めて確認しておきたい野崎の言説のひとつである。
〇[2]は、「犠牲」という視点から、障がい者が抱える諸問題(「生きづらさ」)を検討することによって、「生の無条件の肯定」という思想の構築を図ろうとしたものである。野崎はいう。この社会では、経済成長至上主義や功利主義(「最大多数の最大幸福」)の考え方のもとで、貧富の格差や少数者の犠牲が前提・容認されている。そうしたなかで、障がい者が抱える「生きづらさ」の問題が私事化・矮小化され、障がい者やその家族、支援現場は犠牲を強いられ、追い詰められる。そして、閉鎖的な関係性が形づけられ、そこでのみ「生きづらさ」が共有されることになり、「共倒れ」が引き起こされていく。そしてまた、「何を言っても」「どうせ」この社会は変わらないという諦(あきら)めが、自分の暮らしを守ることに傾注させ、異質な存在(他者)を排除することを促す。こうした「犠牲の構造」のもとに障がい者を差別・抑圧し、捨て置くこの社会に抗するには、「生の無条件の肯定」という正義が問われ、倫理が求められなければならない。改めて押さえておきたい野崎の言説のひとつである。
〇ここでは、福祉教育実践や研究に思いをいたしながら、留意したい論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

[1]『生を肯定する倫理へ』
障がい者問題の本質と「障害をもつ者ともたざる者との断絶」
障害者問題は特殊な問題ではなく、みんなの問題である。そのことを説明するために、次のようなことが言われる。みんな老いていくし、不慮の事故で障害者になったりする。あるいは、昨今では精神的な病になってしまう者も多い。このことから、誰もが障害や老いによっていつしか自分の身に社会的なハンディを背負わされるようになる。(8ページ)
こうした理解は「いま障害をもっていない者への説明」としては適切だ。だが、現に障害を有する者にとっては、こうした言われ方が生ぬるいと感じられるのもまた事実である。実際に「明日障害をもつかもしれない人」にとって「いままで障害を有してきた身体/精神がこの瞬間感じるもの」を感じ取ることは不可能である。障害をもつ者ともたざる者との間のこの断絶は、あなたと私が違う人間である以上、けっして完全に埋めることなどできないはずである。まずは、この断絶の存在を深く認識しなければ、なにも始まらない。それでは「どのように」障害者の問題は〈私たち〉の問題であるということができるのであろうか。それは次のように考えることができる。現在の私たちの社会が、障害者を生きにくくさせていること、障害があるだけで人間扱いされないような社会に、あなた自身も、私も住んでいることを、あなたや私はどう考えるのか、を問わなければならないのである。そして、これこそが、障害者問題が〈私たち〉の問題であるという理由のもっとも基本的な部分なのである。(9ページ)
障害者を排除する社会にあなたや私が住むということ、そしてそのことをあなたや私はどう考えるのか、というところに問題の本質があると述べた。この問題には、2つの側面があると思われる。1つは、社会の正しさの問題、つまり正義の問題であり、もう1つは、こうした問題を自身から引き離さず、棚上げすることなく考えるという要素である。(10ページ)

障害学と「障害はないほうがよい」という言説
障害学は、多くの健常者が考えるような発想、すなわち障害はなおしたり、克服すべきものだという視点を基本的にはもたない。そうした視点は、障害を「異常なもの」と考える発想であり、この社会で生活したければ、健常者のように「正常」になるように努力しなさい(障害の医学モデル・個人モデル)、という結論を導きやすい。なぜならば、この社会が健常者中心で回っているからである。これに対して、障害学の視点とは、まず「この社会で障害者が〈人間らしく〉生きていくためには、(障害者のほうではなく)社会はどのようにあるべきか」を考えるのである(障害の社会モデル)。(19ページ)
障害を社会的文脈において理解するということは、障害者の〈生きづらさ〉を誰が負担すべきか、つまり「帰責性の問題」が中核的な議論となる。(26ページ)
「障害はないほうがよい」という言説は、その多くが「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまうことに注目すべきである。社会モデル的に考えれば、「障害はないほうがよい」という問いに対する答えは定まらないはずである。「障害はないほうがよい」が「障害者は存在しない方がよい」にすりかわってしまう背景には、社会的負担の問題がある。つまり、「障害はないほうがよい」を「障害者は存在しないほうがよい」にすりかえるのは社会的負担の拒否を表明しているのである。そのように考えたとき、「障害はないほうがよい」を問わせる場自体が、「すりかえ」も含めて、私たちが構築したものにすぎないとも言えるはずである。(27ページ)

障がい者運動と「障がい者の生存を無条件に肯定すること」
1970年前後に、重度障害者が個々の場面において声をあげ始めた。(中略)(そうしたなかで)特に注目されるのが、脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」の活動であろう。(「青い芝の会」の)障害者本人が訴え、求め続ける障害者解放とは、障害からの解放ではなく、(障害によってこうむる)差別からの解放なのである。これは障害学でいうところの「医学モデルから社会モデルへ」というパラダイムシフト(支配的な考え方の劇的な変化:筆者)に符号している。(36、37ページ)
日本における戦後障害者運動を(中略)思想的に見ていけば、とりわけここ40年間の障害者本人による運動に胚胎(はいたい。芽生え)するのは、障害者の生存を無条件に肯定することであると言える。私は、この運動が面白いのは、当たり前のことを当たり前に言っていることにあると思っている。彼らの主張はしばしば非論理的であると言われたりもするが、私は明快な筋が通っていると考えている。障害者によって主張されたから意味があるのではなく、障害者によって主張された数々の主張が、社会において普遍性を帯びるからこそ、この運動には意味があると私は考えている。まず学問がなすべきことは、障害者運動の主張を学ぶことであり、それによって学問自身をとらえ返すことにあると、私は考える。(45~46ページ)

「当事者研究」と当事者が語ること
近年、「当事者研究」というものがなされている。それは、当事者自身の手によって、当事者が直面する問題を、当事者内部にとどまらず、当事者と(当事者を捨て置く)社会との関係によって考察していこうとするものである。(166ページ)
当事者が語り出すとき、さまざまな点で考えるべきことがある。まずは、そこに行きつくまでにその当事者がいかなる困難を経験してきているかは、想像すべきであろう。語り出した当事者を勇気があると賞賛することも問題である。まず、誰が、何がそこまで当事者を語れなくさせてきたのかが問われるべきである。(中略)語り出す当事者を英雄化してしまうのは、「語ることのできる主体」を期待するだけの非当事者であると言わずに、他になんと言えようか。それはまた、いまだ沈黙せざるを得ない当事者たちへ向けた無言の圧力でもあるのだ。(167ページ)
そもそも、語り出す当事者の主張が、当事者一般の意見を代表するわけでもない。また、いったん語り出した当事者の主張の内容が、当事者であるというだけで正しさを担保されるわけでもない。ではなぜ、当事者の主張が大切になってくるのか。ここまでの理路をたどってくれば、当事者の(生きづらさ)を捨て置く学問体系や私たちの社会が不正義であるからだ、ということができる。それを正すためには、これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者の主張をつけくわえたもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう。(167~168ページ)

正義と倫理的命令としての「生の無条件の肯定」
正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である。(193ページ)
(1)「生の無条件の肯定」は、感情や気持ちの問題ではない。「生の無条件の肯定」は、広く社会構造の問題をも問うものであり、条件をつけながら特定の存在だけを「生きる価値がある」とする社会構造に反対するものだと言える。(2)「生の無条件の肯定」は、生命の神聖性原理ではない。生命の価値を、他の価値と比べて絶対で最高の価値であるとする「生命の神聖性」という原理とも一線を画し、それがなければ他の、自由や平等などといった価値が実現しないという意味で、基本的かつ原初的な価値であると言える。(3)「生の無条件の肯定」は、スティグマを与えるものではない。当事者にスティグマを与えたり、スティグマを黙認する社会のようなものが、「生の無条件の肯定」を体現するはずもない。(4)「生の無条件の肯定」は、現前するものではない。「生の無条件の肯定」は、いまだ達成されたものでもないし、将来達成されるものでもないからこそ、正義なのである。(194~198ページ)

[2]『「共倒れ」社会を超えて』
「生きづらさ」と共依存による「共倒れ」の社会
困っているとき、弱っているときに、誰かに何かをお願いしたり頼ったりすることを妨げてはならず、誰かにSOSを発信すること自体はけっして悪いことではない。(中略)〈生きづらさ〉をひとりで抱え込む必要などないからである。他方で、ある特定の相手と閉じた関係性が形づくられ、そこでのみ〈生きづらさ〉が共有されるような場合、「共倒れ」の危険性が出てくる。というのも、弱っている相手、支えが必要な相手を支えたくても支えきれなくなった場合、もはやそれは「共に生きる」状態ではなく、「共倒れ」と呼ぶにふさわしい状態だからである。(75ページ)
Xという条件を満たしていなければ生きる価値などないと思わせるような構造や価値観がこの社会に存在しているからこそ、共依存による「共倒れ」が起こってしまうのだと私は考えている。(中略)であるから私は、共依存による「共倒れ」を防ぐには、家族や近親者だけに責任を負わせてはならないと考えている。誰もが無条件に生きてよいというメッセージを社会が発し、それを可能にするような制度を整えることが、より根本的な解決法であろうと思うのである。(76~77ページ)

「犠牲のシステム」と「豊かに」生きられる社会
犠牲とは、交換や譲渡ができないもの、しないものを、その社会において、それができるようにする力のことである、と言ってよいのではないか。そして、真の「豊かさ」とは、交換不可能性、譲渡不可能性を源泉とする価値のことなのである。であるなら、交換不可能性、譲渡不可能性に基づく価値を、自発的にせよ強制的にせよ、社会に差し出してはならないのであり、それらの価値を守るために、交換可能な価値は存在すると考えることもできるのではないか。ここで私は、(中略)交換不可能な価値を差し出さなくてもすむような社会を創出するためにこそ、交換可能な価値を使う必要があると述べているのである。交換可能な価値の代表が貨幣であり、交換不可能な価値の代表が身体や生命、環境、尊厳である。交換可能な価値は、使用することによって価値が生まれ、交換不可能な価値は、そこに存(あ)るだけで本源的な価値を有していると言えるかもしれない。(96ページ)
「豊かに生きる」とは、すべての生が、先述のような意味において犠牲にならないことであると私は考えている。人の生命や尊厳など交換不可能なものを、貨幣など交換可能なものに「交換」させ、それを「美談」に仕立て上げ、そうした「交換」を社会に埋め込んでいく装置が、「犠牲のシステム」なのである。他者を犠牲にしない、そして私という存在も犠牲にされない社会(「犠牲のない社会」:筆者)こそが、他者と共に「豊かに」生きられる社会であると言えるのではないか。(96~97ページ)

障がい者の「生そのもの」を選別する「教育」と「観念」
日本の道徳教育においては、「生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する」(中学校学習指導要領)などと、生きることや生命を尊重することの大切さを児童・生徒に理解させることが重視されている。(190ページ)
(分離教育を前提とするこの国の:筆者)学校教育においては、障害のある「生そのもの」が、「学校教育に順応できる(順応させるに値する)」かどうかが、当人および家族の意向よりも優先的に問われることになるのである。つまり、障害のある「生そのもの」は、「この社会で生きるに値する/生きさせるに値する」かどうかが問われることになるわけである。こうして、障害をもつ子どもの「生そのもの」は、一般化・抽象化された「生命」観に基づく価値序列によって選別の対象となっていくのである。こうした動きを、根本のところで推し進めているのは、政治や法律であるというよりはむしろ、「障害者の『生そのもの』は、生きるに値する/生きさせるに値するかどうかが問われても仕方がない」という、広く私たちを覆う観念なのではないか。そして、そのような観念は、世論によって強化され押し広げられ、私たちを、障害をもつ人を、「犠牲の構造」へと巻き込んでいくのである。(194~195ページ)

「生の無条件の肯定」と「権力に抗する倫理の姿」
一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な「生命」に目を凝らしてみると、ただそこに存在しているだけで、それは絶対的なのである。個別・具体的な「生命」は、ある空間と時間において間違いなく存在している。だからこそ、それは比類がないのであって、絶対的なのである。(中略)この「生きているということそのもの」(「生そのもの」)こそ、あらゆる生の原形であって、私たちはこうした「生そのもの」を無条件に肯定しなければならないのではないか。なぜなら、「生そのもの」の否定は、原理的な水準において、すべての生の否定を意味するからである。こうした理由によって「生命の価値」「生命の尊厳」といった一般的・抽象的な次元よりもいっそう深い水準において、「生そのもの」を無条件に肯定する必要があるのではないかと私は考えているのである。(191~192ページ)
権力は「生そのもの」を、一般化・抽象化された「生命」に基づく価値序列に当てはめ、「生きるに値する生/生きさせるに値する生」であるかどうか選別していく。その過程で権力は、「生そのもの」に「尊厳」を付与することで、「生そのもの」を肯定する回路を絶ってしまう。だからこそ私たちは、そうした力に抵抗しなければならないのである。「生そのもの」を、それ自体として受け取ること、したがって、一般化・抽象化された「生命」として受け取ってはならないということ、「生そのもの」を無条件に肯定すること。それこそが、「生の無条件の肯定」が指し示す倫理の地平なのである。(200ページ)

社会運動と「民主的アプローチ」
多くの社会運動は、「他者と共に豊かに生きられる社会」の実現を目指している。裏を返せばそれは、この社会が、まだそうなっていないことを意味している。(中略)現安倍政権は、異質な人間を排除し、同質な人間をのみ成員とする社会を作ろうとしているように思えてならない。異質な人間を異質なまま、この社会のメンバーとして受け入れようとせず、同質化を強要し、それに従わない人は構成員とみなさず、放遂しようとしているのである。それによってこの社会は、他者と出会う機会を失っていき、同質な人間だけで完結した、閉じた社会になっていくのではないか。(180ペジ)
社会運動にかかわる上で肝要なのは、ある属性をもつ人びとを差別し、見殺しにするこの社会を、「犠牲の構造」の上に成り立つこの社会を絶対に許さないという思いと、いつの日か、そうした社会を変革することができるという信念ではないかと私は思うのである。(215~216ページ)
いくら「来るべき社会」について議論をしても、その基底に「正しさ」がなければ、何の意味もない。人びとがもし、「政治的な力による調整」によって多数派を形成することこそ民主主義の実践だと考えているとすれば、端的に言ってそれは誤りである。結局のところそれは、政治的に力の強いものこそが「正しい」と言っているのと同じである。複数あるプランのうち、もっとも論拠が確かで妥当性が高いのは何かをめぐって、意見交換をしながら合意を形成し、それに基づいて社会を運営していくというのが、あるべき民主主義の姿ではないか。(222ページ)

〇野崎の言説の核心は、「『生の無条件の肯定』は正義であり、倫理的命令である」という点にある。それを[1]では「障害者」の視点に立って、[2]では「犠牲」という視角から論究するのであるが、その主張を際立たせようとするあまり、論理の飛躍や混乱、不整合が散見される。例えば、野崎は「負け惜しみではなく、障害がないほうがよい、とは思わない障害当事者も存在する」ことから「『障害はないほうがよい』という問いに対する答えは定まらない」([1]27ページ)という。その意見については、筆者にも「自分がCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)であることを誇りに思っている」という知人がいるが、一般論としては全面的には首肯しかねる。「障害はないほうがよい」。ただし、それが即、障がい者の存在を否定することにつながらない論理の展開が強く求められる。そこでは、障がい者に対する意識・態度や個別具体的な支援のあり方などが厳しく問われることになる。多言を要しない。
〇野崎の言説は必ずしも新味性があるとは言えないが、そこから福祉教育実践や研究が学ぶべき論点や主張も多い。例えば、「身体や生命は、そこに在るだけで本源的・絶対的な価値を有している」。「一般化・抽象化された『生命』ではなく、個別・具体的な『生命』に目を凝らすことが重要である」。「学校教育においても、障害のある『生そのもの』は価値序列によって選別の対象となっている」。「生きる・生きさせるに値するかどうかを問うという考え方は、世論によって強化・拡大されていく」。「これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者(障がい者)の主張をつけくわえるもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう」、などがそれである。

補遺
野崎泰伸は、「倫理」と「倫理学」そして「哲学」について次のように述べている。
「倫理」とは、「人としてあるべき道についての掟」のようなものである。「倫理学」とは、「いかに生きるべきか」について考える学問である。「哲学」とは、人生のあらゆる出来事について、その根源にさかのぼって探究する学問である。倫理学は哲学のひとつの領域である([2]49ページ)。「障害とは何かを問うていく営為は哲学的であり、障害者とともに生きる社会はどうあるべきかを考える営為は倫理学的でもある」([1]21ページ)。

【初出】
<雑感>(67)阪野 貢/障がい者差別と生の思想:「自分の存在意義を問う」(「“ただ生きる”ことの保障」×「“よく生きる”ことの実現」×「“つながりのなかに生きる”ことの持続」)―野崎泰伸「生の無条件の肯定」思想についての福祉教育的視点からのメモ―/2018年11月3日/本文

 


08  「しんがり」の姿勢


<文献>
(1)鷲田清一『しんがりの思想―反リーダーシップ論―』角川新書、2015年4月、以下[1]。
(2)駒村康平編『社会のしんがり』新泉社、2020年3月、以下[2]。

〇[1]で鷲田清一はいう。「縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである」。いま、「新しい市民のかたち」「自由と責任の新しいかたち」が問われている(カバー「そで」「帯」)。
〇鷲田の論はこうである。日本は、高度経済成長の「右肩上がり」の時代から「右肩下がり」の時代に移行し、人口減少や少子高齢化などによる「縮小社会」が進行している。しかしいまだに、この国の政治・経済は「成長」を至上命題として考え、多くの人は拡大思考から解放されないでいる。
〇かつて出産から子育て・教育、看護や介護、看取りと葬送(そうそう)、もめ事解決、防犯・防災などの基本的な生活活動(生命に深く関わる「いのちの世話」)は、地域社会で住民が共同で担ってきた。しかし、高度消費社会の進展が図られるなかで、それらの活動も、納税やサービス料を支払うことによって、行政や専門家、サービス企業に責任放棄・転嫁(「押しつけ」)され、委託(「おまかせ」)されている。別言すれば、市民が「顧客」や「消費者」という受け身の存在に成りさがっている(「市民の受動化」)。それは、「責任を負う」ということをめぐっての、この社会の「劣化」であり、市民の「無能力化」を意味する。
〇いま、こうした「右肩下がり」の時代を見据えて、いかにダウンサイジング(downsizing、縮小化)していくかが問われている。そこで求められるのは、人や組織を引っ張っていく強いリーダーシップ(リーダー)ではなく、社会全体への気遣い・目配りや周到な判断ができ、「退却戦」もいとわないフォロワーシップ(フォロワー)である。それが「しんがりの思想」である。これこそが、市民が受動性から脱して「市民性」(シティズンシップ)を回復させ、それを成熟させる前提になる。「市民性」とは、「地域社会のなかで、みなの暮らしにかかわる公共的なことがらについてともに考える、そしてそれぞれの事情に応じて公共の務めを引き受ける、そんな市民・公民としての基礎的な能力」(88ページ)をいう。
〇そして、鷲田にあっては、「市民性の回復」すなわち(対抗的な)「押し返し」の活動は、たとえばボランティアやNPOの活動、Uターン、Iターンの動きなどに見ることができる。リーダーや市民にはいま、「しんがり」の務めと「押し返し」のアクションを行なうことが求められている。その際に重要なのは、リーダーシップではなくフォロワーシップである。
〇鷲田は[1]で、民俗学者の梅棹忠夫の「請(こ)われれば一差し舞える人物になれ」(215ページ)という一言を引いて本文を閉じる。「成熟した市民」「賢いフォロワーとなる市民」の姿である。
〇[2]は、2014年度から2018年度まで慶應義塾大学で行われた全労済協会寄附講座「生活保障の再構築―自ら選択する福祉社会」をもとに、さまざまな分野や地域で、変化する社会経済が引き起こす諸課題を克服すべく格闘している「しんがり」たちの活動をまとめたものである(8ページ)。
〇[2]での駒村康平の思い・願いは、すなわちこうである。「しんがり(殿軍:でんぐん)」とは、戦いに敗れて撤退する本隊を守るために最後まで戦場に残り、敵を食い止める部隊のことである。社会や地域が大きく変化し、その対応に既存の諸制度が対応できないときに、起きている問題に格闘する人や組織は必ず必要である。そうした人々や組織を「しんがり」と呼び、「先駆け(先駆者)」だけが褒(ほ)めそやされる時代に、「しんがり」の活躍にも光を当てたい(8~9ページ)。
〇駒村はいう。今日の日本社会は、人口減少や格差の拡大などによる社会の劣化が進んでいる。また、戦前・戦中の適者生存や優生思想が強まり、再び危機の時代を迎えている。LGBT(性的少数者)をめぐる生産性の議論や相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)などがそれである。そんななかで、地域社会を維持するために自ら社会問題を考え、構想し、地域の問題は住民自身で解決するという意識のもとで行動できる市民を育てる。また、平和のために時代や場所を超えて他者の困窮(困りごと)を想像し、共感できる市民を増やす、それが強く求められる。駒村が期待する「市民」は次のようなものである。

(1)充実した熟議ができるような市民になってほしい
社会や国に影響を及ぼす大きな政治的な諸問題について、伝統にも権威にも屈従することなく、よく考え、検証し、省察し、議論を闘わせる市民になってほしい。
(2)他者への敬意を払うような市民になってほしい
自分たちとは人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティが異なっていたとしても、他の市民を自分と同等の権利を持った人間と考え、敬意を持って接するようになってほしい。
(3)他者、他国の人の気持ちを想像、共感できる市民になってほしい
さまざまな政策が自分そして自国民のみならず他国の人々にとってどのような意味、影響を持つかを想像、理解できるようになってほしい。
(4)人の「物語」を聞くことにより、人生の意義を広く、深く理解できる市民になってほしい
幼年期、思春期、家族関係、病気、死、その他、さまざまな人生の出来事について、単に統計・データとして見るのではなく、一人ひとりの人生の「物語」として、理解することによって、多様な生き方に共感できるようになってほしい。
(5)政治的に難しい問題でも自ら考え、判断できる市民になってほしい
政治的な指導者たちを批判的に、しかし同時に彼らの手にある選択肢を詳細にかつ現実的に理解したうえで、判断するようになってほしい。
(6)世界市民として自覚し、社会全体の「善」に想いをはせてほしい
自分の属する集団にとってだけではなく、社会、人類全体にとっての「善」について考えてほしい。複雑な世界秩序の一部として自分、自国の役割を理解し、人類が抱えている国境を超えた、複雑で知的な熟議が必要とされる多様な諸問題の解決を考えてほしい。(23~24ページ)

〇言うまでもなく、地域の問題は地域住民の問題であり、住民自身で解決するという意識が重要である。その地域社会(まち)のありようを最終的に決めるのは、「市民」でなければならない。その点で市民には、鷲田がいう「市民性の回復と成熟」、駒村がいう(1)から(6)の「市民性」(市民としての資質・能力)の形成が求められる。地域の問題はまた、複雑化・複合化し、多様化、困難化している。その点で市民には、多領域の専門家や「関係人口」などとの「共働」が肝要となる。先ずは問題把握や解決に向けて「熟議」する公共的な “場” の構築であろう。さらに市民には、政治や行政に対する一辺倒な批判だけでなく、まちの将来展望を踏まえた課題解決活動や運動の取り組みが求められる。これらは、筆者がいう「市民福祉教育」に通底する。
〇なお、鷲田は[1]で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の一節、「一人にて主客二様の職を勤むべき者なり」(岩波文庫、1978年1月、64ページ)を引く。それは、「ふだんは公共のことがらを、市民のいわば代理として担う議会や役所にまかせておいてもいいが、そのシステムに致命的な不具合が露呈したとき、あるいはサービスが決定的に劣化したときには、いつでも、対案を示す、あるいはその業務をじぶんたちで引き取るというかたちで、人民が『主』に戻れる可能性を担保しておかなければならないということである」(197~198ページ)。これは、「顧客」「消費者」としての市民の、鷲田がいう「押し返し」である。世間から押しつけられるものではなく、地べたから立ち上がる、「責任」の新しいかたち(感覚)である。得意げに口汚くののしるだけの市民(クレーマー)や専門家は無用であり、ときに有害でもある。付記しておきたい。

【初出】
<雑感>(114)阪野 貢/社会劣化の時代における「しんがり」の思想と闘い―鷲田清一著『しんがりの思想』と駒村康平編著『社会のしんがり』のワンポイントメモ―/2020年8月1日/本文

 


09  「助けて」の表明


<文献>
(1)奥田知志『もう、ひとりにさせない―わが父の家にはすみか多し―』いのちのことば社、2011年6月、以下[1]。
(2)奥田知志『「助けて」と言おう―3・11後を生きる―』日本キリスト教団出版局、2012年8月、以下[2]。
(3)奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ―人と社会をつなぐ―』集英社新書、2013年8月、以下[3]。
(4)佐藤彰・奥田知志・宋富子、明治学院150周年委員会編『灯を輝かし、闇を照らす―21世紀を生きる若い人たちへのメッセージ―』いのちのことば社、2014年3月、以下[4]。
(5)奥田知志・稲月正・垣田裕介・堤圭史郎『生活困窮者への伴走型支援―経済的困窮と社会的孤立に対応するトータルサポート―』明石書店、2014年3月、以下[5]。
(6)埋橋孝文、同志社大学社会福祉教育・研究支援センター編『貧困と生活困窮者支援―ソーシャルワークの新展開―』法律文化社、2018年9月、以下[6]。

〇2018年11月、日本福祉教育・ボランティア学習学会第24回大会(「あいち・なごや大会」)が日本福祉大学(愛知県東海市)で開催された。大会テーマは、「共生文化創造への途―福祉教育・ボランティア学習の新たな展開を探る―」であった。奥田知志の記念講演――「共に生きる意味」と、それを受けて行われた大橋謙策との対談――「共生文化の創造にむけた学び」は圧巻であった。宗教や実践・研究の体系を持つヒトは強くて深い。聞き手は感銘を受け、心が揺さぶられる。
〇周知のように、奥田は、生活困窮者(ホームレス等)に対して、信仰(神学)に支えられた深い洞察とそれに基づく個別的で包括的かつ持続的な「人生支援」を行っている。奥田はいう。「自己責任論の社会が私たちから奪ったものがある。それは『助けて』という一言である」(「2」37ページ)。大橋は、地域福祉の理論と思想、方法(コミュニティソーシャルワーク)、そして福祉教育について実践的研究を進めている。大橋はいう。「新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(大橋謙策『新訂 社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、227ページ)。
〇[1]:本書の内容をあえて言えば、「絆の神学」とも言うべきであろうか。しかし、それは空論ではなく、具体的な「ホームレス」との出会いの中から紡(つむ)ぎだされた「絆の物語の神学」である。この時代に「だれ」と、どのような「絆」を結んで生きるのかと、この本は問いかけている。(関田寛雄「推薦の言葉」6ページ)
〇[2]:震災以来声高に叫ばれ続ける「絆」という言葉。しかし多くの場合、そこで意味しているのは自分に都合のよい絆のこと。ホームレス支援の現場と震災支援の中で見えてきた、傷つくことを恐れて自己責任論の中に逃げ込む現代人の心のあり方を問う。(「帯」)
〇[3]:ホームレスが路上死し、老人が孤独死し、若者がブラック企業で働かされる日本社会。人々のつながりが失われて無縁社会が広がり、格差が拡大し、非正規雇用が常態化しようとする中で、私たちはどう生きればよいのか? 本当の“絆”とは何か? いま最も必要とされている人々の連帯とその倫理について、社会的に発信を続ける茂木健一郎と、長きにわたり困窮者支援を実践している奥田が論じる。対談本。(カバー「そで」)
〇[4]:本書は、明治学院150周年記念連続講演会(2013年11月、明治学院高校主催)を再録したものである。奥田の講演「その日、あなたはどこに帰るか?―誇り高き大人になるために」が収録されている。メッセージは、「誇り高い人類として生きたいのならば、『助けて!』と言ってください。『助けて!』は、新しい社会を創造するために欠かせない言葉です」。(77ページ)
〇[5]:奥田によって名づけられた「伴走型支援」の思想・理念・仕組みを確認するとともに、その成果と課題を実証的に明らかにしたうえで、これからの生活困窮者支援の方向性を示す必要があると考えた。それが本書である。(稲月正「はじめに」4ページ)
〇[6]:本書は、①「伴走型支援」の内容、②家計相談支援の意味と方法、③学校ソーシャルワークの背景と機能、④保育ソーシャルワークの今後の方向性など、生活困窮者および(子どもの)貧困に関するホットイシューズを取り上げている。講演記録集。(埋橋孝文「序」3ページ)
〇筆者が奥田を知ったのは、NHKクローズアップ現代取材班編著『助けてと言えない―いま30代に何が―』(文藝春秋、2010年10月)である。その本の「帯」の一文、「言えない/孤独死した39歳の男性が便箋に残した最後の言葉は『たすけて』だった」に衝撃を受けたことを覚えている。ここでは、[1]から[6]のうちから、[1]の論考について筆者が留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「一人称」で語られる「安心・安全」は人を無縁へと押しやる
「安全、安心の街づくり」とは、いったい何であったのか。そもそもホームレス状態の人々を「タイプの違う人」と呼び、「治安や秩序が乱れる」と決めつけているのは差別である。「安全、安心の街づくり」が人を排除し、その人たちを死へと向かわせている。「安心・安全」が、人を無縁へと押しやっているのである。あえて問いたい。「安心・安全はそんなに大事か」と。自分たちの「安心・安全」を追求する地域社会が、「自分の安心・安全」を守るために他者との出会いのチャンスを自ら閉ざし、敵対心を燃やす。あるいは、それを理由に無関係を装う。(92ページ)
実際の「安心・安全」は、常に「一人称」で語られる。私の安心・安全、我が町の安心・安全、我が国の安心・安全、我が家の‥‥‥。そこには、あなたの安心・安全や彼らの安心・安全は存在しない。全部が「我がこと(一人称)」なのだ。そもそも人が出会い、共に生きようとする時、人は多少なりとも自分のスタイルやあり様を変えざるを得なくなる。すなわち、自らの都合を一部断念せざるを得なくなる。出会いというものは、その意味で自分の「安心・安全」のみを願う私たちにとって、「危険」だと言わざるを得ない。出会いによって人は学ぶ。そして学ぶと、人は変えられ、新たにされる。(93ページ)

「自己責任論」は社会の無責任を肯定し人を分断・排除する
自己責任論社会とは、困窮状態に陥ったその原因も、またそこから脱することも、すべては本人次第、本人の責任であるという考え方である。現在の社会は、この自己責任論に席巻された感がある。(162~163ページ)
自己責任論の構造は、ある人に関する責任を、ある一定の範囲に押しとどめて理解するというものである。自己責任、あるいは身内の責任は、自分自身、あるいは家族という一定の範囲に責任を押しとどめた。その結果、周囲は無責任を装えたのだ。「自己責任論」は、社会の無責任を肯定するための理屈だった。自己責任論的な構造は、日本社会においては以前からあったと思う。しかし、当時成長を続ける社会というものが前提として存在していたゆえに、がんばればチャンスを手に入れられるという時代でもあった。すなわち、個人のがんばりが効く時代であった。自己責任という言葉は、教育的な面も含め、ある程度の意味があったのだ。しかし、現在のような低成長期において、企業社会や家族的経営と呼ばれたものは崩壊し、終身雇用制は原則ではなくなった(賃金労働者の4割が非正規雇用である:阪野)。公の行う社会保障も先細るなかで、自己責任は「励まし」ではなく、人を分断、排除するための用語となった。(168ページ)

「孤族」の時代は「何が必要か」とともに「だれが必要か」を問う
ホームレス支援において重要なのは、「ハウスレス」と「ホームレス」という、2つの困窮という視点である。ハウスレスは家に象徴される、食糧、衣料、医療、職などあらゆる物理的(・経済的:阪野)困窮を示す。もうひとつは、ホームレス。それは、家族に象徴されてきた関係を失っている、すなわち関係的困窮(無縁:筆者)を言う。税制と社会保障の一体的改革は、ハウスレス問題にとって重要な課題である。経済の動向がこの先どのようになるのか。労働者の権利がどのように守るのかなど、課題は山積である。しかし一方で、たとえ食べられるようになったとしても、だれと食べるのかという問題は、さらに重要な事柄なのだ。この視点に立ち、野宿者支援をしてきた私たちが考え続けたことは、この人には今何が必要か、ということとともに、この人に今だれが必要か、ということであった。そして今日、このホームレス問題は、野宿状態という物理的困窮の有無にかかわらず、多くの人々が抱えている問題となっている。(171ページ)
「無縁社会」や「孤族」の時代は、ホームレス問題がもはや路上の問題ではないことを明示している。このホームレス化を促進したもの、その最大の要因が「自己責任論」であったと思っている。(172ページ)

「傷」つくことなしにだれかと出会い「絆」を結ぶことはできない
自己責任社会は、自分たちの「安心・安全」を最優先することで、リスクを回避した。そのために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には「傷」が含まれているという事実だ。(209ページ)
傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら「出会った責任」が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感(自分は人の役に立っているという意識:阪野)や自己尊重意識にとって、他者性と「きず」は欠くべからざるものなのだ。(210~211ページ)
「傷つくという恵み」――国家によって犠牲的精神が吹聴された歴史を戒(いまし)めつつ、今こそ他者を生かし、自分を生かすための傷が必要であることを確認したい。(211ページ)

〇日本社会はいま、福祉や教育の世界においても、規制緩和や市民参加(「我が事・丸ごと」等)が声高に叫ばれるなかで、民主主義の崩壊が進み、国家権力による管理・統制が強化されている。「地域参加による学校づくりのすすめ」(「コミュニティ・スクール」等)や市民によるまちづくり(「地域福祉計画」等)の「主体性」や「自律性」も所詮は、規制緩和と同時並行的に管理・統制の変更や強化が図られるなかでのものに過ぎないのか。こうした社会認識のもとで改めて[1]を読むと、奥田らの地べたを這いずり回り、血がにじむ取り組みにただただ頭が下がる。とともに、日本社会の危うさを痛感する。
〇福祉教育についての議論は、「学会」の界隈だけにあるのではない。個別具体的な実践や研究が展開されている「いま」(現在進行形)の福祉教育現場こそが重視されなければならない。「学会」は、最新の福祉教育実践や研究の成果を持ち寄り、多面的・多角的な視点から議論し、実践・研究の深化や発展を図る“現場”である。その“現場”ではいまだに、これまでの権威ある学説を無条件に受け入れたり、眼前の地域・社会や新たな社会福祉問題に向き合おうとしない「報告」が散見される。高齢者や障がい者、生活困窮者、外国籍住民などを福祉教育実践や研究の「共働者」ではなく、言い古された「当事者」として位置づけるモノも多い。また、気鋭の実践家や研究者による実践・研究の学際的・総合的、歴史的・哲学的視点(視座)からの掘り起こしやブラッシュアップ(磨き上げること)も、必ずしも十分であるとは言えない。学会の「あいち・なごや大会」に参加し、また[1]から[6]を読み返して思ったことのひとつである。

補遺
奥田の言説のキーワード、キーコンセプトのひとつに「伴走型支援」がある。奥田によるとそれは、「1988年にホームレス支援が始まり、以来、路上での生活やその後の看取りまで続く営みのなかで生まれた支援論である。学者が豊富な知識を駆使して構築した体系ではない。日々の経験が積み重ねられ、何よりも当事者から学ぶなかで澱(おり。液体の底に沈んだカス:阪野)が沈殿していくようにできた支援論である」([6]27ページ)。奥田は、生活困窮者支援における「伴走型支援の7つの理念」について次のように整理している。([5]56~72ページ抜き書き)
(1)家族(家庭)機能をモデルとした支援
家族(家庭)が持っていたと想定される機能に、①包括的、横断的、持続的なサービス提供機能、②記憶の蓄積と記憶に基づくサポートプラン策定機能、③持続性のあるコーディネート機能、④役割の担い合いによる自己有用感提供機能、がある。伴走型支援は、これらの家族(家庭)機能をひとつのモデルとした支援である。
(2)早期的、個別的、包括的、持続的な人生支援
伴走型支援は、生活困窮者が社会的に孤立状態にあり、しかも多様で複合的な課題を抱えているとの認識に立つがゆえに、早期的、個別的、包括的、持続的な支援でなければならない。それは「自立支援」にとどまらず、「人生支援」である。
(3)存在の支援
伴走型支援は、従来の問題解決型の「対処・処遇の支援」に加えて、「伴走そのもの」を支援とする。伴走者と当事者が、向き合うこと、関係すること自体が支援である。
(4)参加包摂型の社会を創造する支援
伴走型支援は、徹底して個人に寄り添うことから始まる。当然の帰結として、社会や地域を問うことになる。困窮者支援は、経済的困窮状態にあり、社会的に孤立した「個人の社会復帰を支援する」といわれるが、問題の本質は「そもそも復帰したい社会であるかどうか」というところにある。
(5)多様な自立概念を持つ相互的、可変的な支援
伴走型支援は、生活自立や社会参加を基軸とした社会的自立、経済的自立など多様な自立概念から構成される。伴走は、助けられたり助けたりという相互的な関係である。また、助けられた者が助ける側に変われる可変性が担保されなければならない。
(6)当事者の主体性を重視する支援
伴走型支援は、当事者が自分で自分を助ける力を得ることである。当事者は「できない人」ではなく、「自分を助けることができる人(になる)」との認識に立つ。「まず自助、次に共助、最後に公助」という順番が重視されるが、自助は、公助や共助が適正に機能している状況において成立する。
(7)日常を支える支援
伴走型支援は、人生支援である。そして人生の大半は、なにげない日常である。伴走型支援は、この日常を支える支援である。伴走型支援は、「日常は問題が起こる場所である」という認識に立ち、日常を支える参加包摂型社会の構築をめざす。

【初出】
<雑感>(70)阪野 貢/「“助けて”と言えない無縁社会」×「“違った意見”が言えない統制社会」:気がつけば民主主義が民主的な手続きによって内側から壊れている―奥田知志を読む―/2018年12月25日/本文

 


10  「愛郷心」の相克


<文献>
(1)将基面貴巳『反「暴君」の思想史』平凡社新書、2002年3月、以下[1]。
(2)将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年8月、以下[2]。
(3)将基面貴巳『愛国の構造』岩波書店、2019年7月、以下[3]。
(4)姜尚中『愛国の作法』(朝日新書)朝日新聞出版、2006年10月、以下[4]。
(5)佐伯啓思『日本の愛国心―序説的考察―』中公文庫、2015年6月、以下[5]。(6)市川昭午『愛国心―国家・国民・教育をめぐって―』学術出版会、2011年9月、以下[6]。
(7)鈴木邦男『〈愛国心〉に気をつけろ!』岩波ブックレット、2016年6月、以下[7]。

最近、戦争が始まる “臭い” がする / あんた、戦争を知ってるか / 気をつけなよ / もうこりごりだからな。
最近、“里” の夢をよく見る / 人っ子一人いない / おかしな空模様だ / なぜか、いつもそこで夢は終わる。

〇筆者が、「愛国」や「愛国心」についていま改めて考えなければならないと思ったきっかけは、上記の、要介護高齢者(女性)の痛みに耐えるような“うめき声”である。そして、彼女はいつも、自分が生まれ育った「里」のことを心配している。
〇将基面貴巳は[1]を、「現代日本は『暴政』への道を歩んでいるのではないか。そんな想念がこのごろしきりに脳裏をよぎる」(10ページ)と書き出す。「このごろ」とは、バブル崩壊(1991年3月~1993年10月)後10年余が経過し、小泉純一郎内閣(2001年4月~2006年9月)によって「規制緩和」や「構造改革」という名の新自由主義的政策が推進された時代であろう。
〇[1]は、「危機的様相を日ごとに深める祖国(日本)を念頭におきつつ、政治をいかに監視すべきか。不正な権力にはどのように抵抗すべきか」(232ページ)について真正面からとり上げたものである。そこにおいて、将基面は、「共通善」思想に立脚する「国民社会」の建設の必要性を説く。「共通善」(common good)とは、「社会や国家など政治共同体全体にとっての善のことを指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものである」(10ページ)。その「共通善」の実現に国民は、直接的な責任を持たない。「それは権力担当者が引き受けるべき責務である」(35ページ)。「暴政」とは、「ある一部の権力者や権力がひいきにする特定の集団が利益を享受することを目的とする政治のことである」(10ページ)。
〇将基面はいう。「共通善思想が浸透した社会では、国民一人ひとりが、国民全体の理想と利益に対して責任を負っていることを自覚し、そうした共通の理想と利益を一人ひとりがおのおのの立場から不断に探求する。また、権力が不正を働いていることを知るならば、これを公の場ではっきりと批判し、たとえ一人であっても不正権力に立ち向かう個人がいれば、その人を『社会』」(特に社会の木鐸〈ぼくたく。指導者〉たるジャーナリズム)が援護する。権力に擦(す)り寄り、既得権益にしがみ付いてはなれようとしない者や、反社会的なビジネスを行う者や組織を公の場で批判し、たとえそうした行為が自らの目的にかない、自分の利益になるとしても、自らは手を出さないよう、自身をコントロールする」(232~233ページ)。このような倫理的感覚・態度をもつ人々が、日本という国家権力に対峙する存在としての「国民社会」を探求し創出することが、現代日本に求められる。将基面の主張のひとつである。
〇国家権力は、被治者を統制・強制する。「いざとなれば、自国民に対してさえ銃口を向け、私有財産を没収し、個人のあらゆる権利と自由を侵害しうる存在である」(39ページ)。国民はこのことを十分に認識し、国民社会の理想像の創出を権力担当者に一切任せてはならない。国民は、一人ひとりが「共通善」を不断に追求し、政治に対する関心を強め、権力を厳重に監視する。そして、正当性や妥当性を欠く場合には、権力に抵抗の意思を明示しなければならない。それは、「国民各自が自分の良心の問題として、悩み、決断すべき問題」(39ページ)であり、国民の倫理的義務である、と将基面はいう。
〇こうした将基面の言説は、「反時代的」(234ページ)なものであり、その底流に流れるのは以下に述べる「共和主義的パトリオティズム」の思想である。
〇[2]は、「日本人なら日本を愛するのは当然であり、自然である」という単純な社会通念に対して歴史的・哲学的に批判する、中学生でも理解できる平易な「教科書」である。内容的には、通俗的な「愛国心」や「愛国心教育」に関する言説への「解毒剤」(将基面)としての効能が期待される。別言すれば、日本の長所ばかりを見て欠点を見ようとしない「日本バカ」(65ページ)にならないための、日本の若者へのエールである。なお、[2]は[3]の「副産物」(将基面)でもある。
〇[2]における論点や言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

批判的愛国者のすすめ
日本語の「愛国」「愛国心」は、英語で言うとパトリオティズム(patriotism)である。(33ページ)
現代の日本では、「愛国」「愛国心」=ナショナリズムという理解が一般的である。日本語の「愛国」は、「ナショナリズム的パトリオティズム」の意味で理解されている。しかし、ヨーロッパで「愛国」という場合、「共和主義的パトリオティズム」を指す。この考え方が世界的・歴史的には本来のものである。(44、51ページ)
ナショナリズムとは、自らのネイション(nation.国民、民族)の独自性にこだわり、それに忠実であることを求める思想である。(42ページ)
共和主義とは、市民の自治を通じて、市民にとっての共通善(特に自由や平等、そしてそうした価値の実現を保証する政治制度)を守ることを重視する思想である。(35ページ)
「ナショナリズム的パトリオティズム」は、自国を盲目的に溺愛し、自国の失敗や過ちの経験から学ぶことなく、ひたすら自国の歴史や文化を誇りに思う自画自賛(自国礼賛)である。(116、117ページ)
政治的・経済的に権力を持つ人たちは、批判の対象とならざるを得ない。なぜなら、権力を持たない人々にはできないことをその政治的・経済的権限で可能にできる人々は、大きな責任を背負っているからである。(120ページ)
本来の「愛国」「愛国心」とは、常に政治権力に対して批判的なまなざしを注ぎ、市民の自由や平等を守る「共和主義的パトリオティズム」である。権力に対して批判的な態度をとることが愛国的(patriotic)なのである。(123ページ)

「報道の中立性」という犯罪
報道機関の重要な役目は、強制力や影響力を持っている人たちを監視することである。ところが、昨今ではマスメディアが「報道の中立性」という名目で権力批判をしないことが当たり前になっている。これほど甚(はなは)だしい勘違いはない。勘違いどころかほとんど犯罪的な過ちである。報道機関は、権力を持たない人々を代弁するためにあるのである。事実を客観的に報道するだけではなく、権力を持つ人々の仕事内容を、権力を持たない人々の立場から批判するためにあるのである。それをして初めて、報道機関は仕事を立派に成し遂げたということができるのである。(121~122ページ)

〇「現代世界で静かに進行する変化の一つは、『愛国』が政治を語る言葉として復活していることである」([3]2ページ)。「愛国という問題が今日ますます徹底的な思考を要する課題として急浮上している」([3]322ページ)。そういうなかで、[3]は、欧米と日本の多様な現代パトリオティズム論を歴史的観点から批判的に検討し、その固有の性格をあぶり出し、その問題性の一端を明らかにする。約言すれば、愛国=パトリオティズムについての歴史的・哲学的な構造の解明が[3]の目的である(12ページ)。
〇[3]における論点や言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「愛のまなざし」と愛国
愛国的であることを「祖国への愛」と読み換えるならば、その「愛」は盲目なものであってはならず「愛のまなざし」という観点が重要である。自国に「愛のまなざし」を注ぐということは、「私の国」に対してあらゆる規範的な判断を停止することではない。誇るべ長所だけでなく、恥ずべき欠点も含めて正確に「私の国」を理解することが、「愛のまなざし」に含まれる。一方で、愛する自国に長所を見出すことを喜ぶが、他方で、様々な過失や過誤を見出して、そのことに悩み苦しみ、欠点を改めようと努力するのである。このような「愛のまなざし」に基礎づけられた愛国的態度であってはじめて、それは道徳的義務ではないにせよ、望ましいものでありうると結論づけられるであろう。(222ページ)
「愛のまなざし」(loving attention,loving gaze)において重要なのは、愛の対象を可能な限り明瞭に理解しようとする点である。「愛のまなざし」の下にある対象は、「あばたもえくぼ」ではなく、「あばた」は「あばた」として認識される。「愛のまなざし」は、まなざしの対象に、良いところを見ようと心がけつつも、長所も短所も同様に、正確に理解する。すなわち、そのまなざしが「愛」に発するために、対象に好意的に接するが、しかし、その対象を正確に理解するという意味で、対象を分析し評価することも怠らないのである。共和主義的パトリオティズムを胸に抱く市民は、祖国に対してこのような「愛のまなざし」を持っている。祖国への愛は盲目ではなく、むしろ「祖国を鋭く見つめることを要求する」のである。(170ページ)

愛国と排除の論理
愛国的であるということは、無条件に道徳的正当性を主張できるものではない。にもかかわらず、愛国的であることが国民としての当然の義務であるかのような主張を巷間(こうかん。世間)で目にすることも少なくない。愛国的であることが義務であるとする認識が広く共有されるならば、それはどのような帰結をもたらすのか。(222~223ページ)
自国のアイデンティティに基礎づけられた愛国は、極端な場合、排外的で外国人を忌み嫌ったり見下(みくだ)したりする態度に結びつきやすい。他方、自国民であっても、愛国的ではないと判定される人々は、愛国者たちによって公的な避難や攻撃にさらされることが少なくない。愛国が熱狂化すればするほど、文化や人種、宗教的背景を共有する同一国民の間においてさえ、思想信条を異にする一部の人々を「非国民」「売国奴」であると排撃する傾向が増大することは広く認識されている。(226ページ)

国家の聖性と愛国
国家は、正統な義務を独占する「聖なる」存在である(国家は国民に様々なサービスを提供する組織、神社のように国民にとってありがたい・尊いもの、正当な暴力を独占・行使する存在である)。愛国的であることを義務として承認することは、国家という「聖なる」存在の忠実な信徒であることを意味する。国家の聖性への信仰は、当然、国家を尊崇(そんすう)することを必要とし、国家のための犠牲を要求する。国家のために死ぬことを拒否するのは、国家の聖性を認める限り、極めて難しい。(282ページ)
現代という歴史的地点において愛国的であるということが道徳的義務であると主張しうるとすれば、それは国家の聖性を認める限りにおいてにすぎない。「国家の聖性を認める限りにおいて」という限定条件は極めて重要である。(283ページ)
現代において当然視されているが必ずしも自覚されていない国家信仰を掘り崩(くず)すには、政府(さらには国家)を批判する市民たちが、非国民や国賊などと罵(ののし)られても動じないことが必要である。現代日本の文脈では、「反日」などと非難罵倒(ひなんばとう)されても、これに対して、自分たちこそが愛国的なのだと応答すべきではない。なぜなら、そうした自己弁護は、すなわち「お前は反日だ」という非難を支える国家への崇拝感情を裏書きする(実証する)ことになるからである。(283~284ページ)

〇[4]の姜尚中にあっては、愛国とは、自然な感情の発露としての妄信などではなく、「理にかなった信念」「自分自身の思考や感情の経験に基づいた確信」(54ページ)による行為である。愛郷は、自分が生まれ育った故郷への愛、情緒や感情によるものである。[5]の佐伯啓思にあっては、「戦後日本の愛国心をめぐる感情は、(「あの戦争」によって)ある『負い目』を背負い、その『負い目』をめぐって展開している」。そういった認識に立って「日本的精神の行方」を探求するなかで、「もうひとつの愛国心」(388ページ)を描き出そうとする。
〇将基面は、[4][5]について、「平成時代を代表する日本の愛国心論」である。しかし、いずれも「基本的には啓蒙書」であり、「愛国=パタリオティズムの包括的・体系的議論を必ずしも指向するものではない」([3]9ページ)と評している。
〇ここでは、[4][5]で言及している「愛郷と愛国」「愛郷心と愛国心」について、その一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

姜尚中―「愛郷と愛国」、その微妙な共棲関係
「愛郷」と「愛国」の関係は、「微妙な共棲(きょうせい)関係」にある。つまり、一方では、「愛郷」は、ナショナリズムという特定の歴史的段階において形成された一定の教義によって利用され、時として排斥される関係にある。例えば、上からの「郷土教育」が説かれるのは、画一的な「愛国心」などを強制する場合に、空洞化した実感的な部分を補完する必要があるためである。『美しい国へ』の著者(安倍晋三)が「国を自然に愛する気持ちをもつ」ために、「郷土愛をはぐくむことが必要だ」と述べているのは、そうした「郷土教育」の効用を意識しているからであろう。つまり、「愛郷」は「愛国」に「自然な」感情の装いをほどこす補完的な役割を果たしていることになるのである。(154~155ページ)

佐伯啓思―愛郷心は愛国心の換喩的表現
「愛郷心」とは「愛国心」のいわば換喩(かんゆ。比喩)的表現にすぎない。「郷」は「国」の象徴的な代理になっており、換喩的に「国」を表現している。この二つの概念を変換すれば「パトリオティズム」が二重性を帯びていることは別に不思議ではなかろう。「愛郷心」は結構だが「愛国心」は危険だ、という議論は説得力がない。そして、「愛郷心」と「愛国心」が重なり合うという意味での「パトリオティズム」にある種の強い情緒が伴うのは、「郷」にせよ「国」にせよ、その何か大事なものが失われつつあるからではなかろうか。そこにはあの種の喪失感が付着するのではないだろうか。繰り返すが、ある国の歴史的な伝統や文化や風土がそのままそこにあり、それらに自明のものとして囲まれているとき、人は、わざわざ「愛郷心」や「愛国心」を感じる必要もないであろう。ほとんど無自覚にそれらに囲まれて生活しているだけである。それらが失われつつあるという喪失感に囚(とら)われたとき、もしくは、たとえば外地にあってそこにどうしようもない距離感をもったときにこそ、「愛郷心」や「愛国心」を感じるというべきなのであろう。近代社会は、人々の流動性を高め、急激に都市化を行い、なつかしい風景を破壊していった。このことが近代の人々にパトリオティズムを抱(いだ)かせるのである。(132~133ページ)

〇[6]と[7]について将基面は、次のように評している。[6]は、「戦後の愛国心論では『忠誠問題が無視されてきた』と指摘し、そこに戦後日本における愛国心論の一つの特徴を見ている」([3]121ページ)。[7]は、「72ページの小冊子(岩波ブックレット)ながら、充実した作品である。愛国心の旗印のもと現代日本で広がりつつある排外主義を的確に批判している」([2]193ページ)。それぞれの一節をメモっておくことにする。

市川昭午―愛国は究極的には殉国を求める
愛国心や愛国心教育の問題が敬遠されたり嫌われたりするのは、それが究極において国家に対する忠誠の問題となるからであろう。国民国家は国民を保護し、その権利を保障する代わりに、国民に法律を守らせ、国民の自由を制約する。国家が国民の安全と国の独立を守るための共同防衛装置である以上、国民の側も国を大切に思うだけでは足りず、国防の義務に従うことが要求される。それは一旦緩急(かんきゅう。危急)ある場合には愛国だけでは不十分であり、究極的には殉国(じゅんこく。国のために命をなげだすこと)が求められるということである。(87ページ)

鈴木邦男―〈愛国心〉を汚れた義務にしてはならない
「同じ日本人なんだから」「日本を愛する愛国心をもっているのだから」という視野の狭い仲間意識のもと、排他的な傾向が強まっている。政権を批判したり、日本の問題点などを指摘したりすると「反日!」とののしられる。「他国に学んで、日本のここを良くしよう」などと言っても、「お前は外国の肩をもつのか」と怒鳴られる。その結果、「日本はすばらしい」「日本人は最高」といった自画自賛の言葉が氾濫し、そしてその足下で排外主義が跋扈(ばっこ。強くわがままに振る舞うこと)しているのが現状ではないのか。(52ページ)

〇「まちづくりと市民福祉教育」について語るとき、否が応でも、「自然に育まれた歴史や伝統・文化」の継承や「地域を愛する豊かな心」「郷土を愛する子ども」の育成などに関して語ることになる。しかも、愛郷心とその延長戦上にあるものとして扱われる愛国心が、学校現場においては道徳教育とのかかわりで言及されることにもなる。福祉教育はこれまで、その点を避けてきた。
〇周知の通り政府や文部科学省は、道徳教育と愛国心教育を強化する法律や施策を重ねてきた(いる)。その頂点は、「我が国と郷土を愛する」の文言(愛国心教育規定)が盛り込まれた2006年12月の教育基本法改正と、2018年4月からの道徳の教科化である。
〇2015年3月に「学校教育法施行規則」と道徳に係る「学習指導要領」が一部改正・改訂された。そして、それに基づいて小学校では2018年4月から、中学校では2019年4月から「特別の教科 道徳」(道徳科)が全面実施されている。注目すべきは、検定「教科書」の使用と新たな教育方法と評価の導入である。前者は、「日本の伝統や文化の尊重」「愛国心や郷土愛の態度」などをめぐって、一定の価値観や規範意識を国が上から押し付けることになる。それは、多様性や人権の尊重が声高に叫ばれる時代・社会にあって、極めて憂慮すべきことである。後者については、いわゆる「読み物道徳」「押し付け道徳」から「考え、議論する道徳教育」への質的転換である。しかしそれは、学習指導要領にあらかじめ提示された「道徳的価値」(「内容項目」)に限って「考え、議論する」にとどまる。したがって、それはまた、一定の価値観の押し付けに他ならない。加えて、道徳教育の評価については、「数値による評価」ではなく「個人内評価」として行うとされるが、一人ひとりの児童・生徒の道徳的心情や態度を評価することは憲法が保障する「思想・信条の自由」を侵害する以外の何物でもない。
〇愛国心教育の拡充の背景には、1990年代以降の経済のグローバル化が進展するなかで世界に通用する、「高い倫理観」や「多様な価値観」をもつパワフルな日本人の育成を図る必要があった。と同時に、社会格差が急速に拡大するなかで、国民統合の強化を図ることが要請された(市川昭午『教育基本法改正論争史―改正で教育はどうなる』教育開発研究所、2009年4月、29ページ)。すなわち、グローバル人材の育成・確保(エリート教育)が強く求められるなかで、一般の子ども(ノンエリート)に対する道徳教育の推進が図られ、その中心に位置づけられた(られる)のが愛国心教育である。要するに、「グローバル人材養成の道徳教育」と「ノンエリートへの愛国心教育」、すなわち「国家(財界)のための道徳教育」である。
〇こうした背景を押さえたうえで、大森直樹の言説に留意したい。大森にあっては、道徳教育には2つの重要な領域がある。ひとつは、「道徳は人々が生活と仕事のなかで自然に身につけるものであり、子どもにとっては学校が生活の場であることに対応した領域である」。すなわち、「無意図的な道徳教育」である。いまひとつは、「歴史と社会のなかで人々はどのように道徳を形成してきたか、社会現象としての倫理や道徳について認識をふかめる」領域である。すなわち、「道徳事実についての学習」である。そして大森は、こうした教育・学習は、「社会科をはじめとする教科学習や人権を主題とする総合学習でおこなうべき」である、とする。(大森直樹『道徳教育と愛国心―「道徳」の教科化にどう向き合うか―』岩波書店、』320、321ページ)。「まちづくりと市民福祉教育」について考える際の、ひとつの重要な視点でもある。
〇なお、ここで、愛郷心は生まれ育った地域・郷土の歴史や風土、文化を愛する心(感情や態度)で、地域への帰属意識を醸成する。愛国心は政治共同体としての国家を愛する心(感情や態度)で、国家への忠誠を求める、という愛郷心と愛国心の違いについて改めて確認しておきたい。

【初出】
<雑感>(96)阪野 貢/戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文

 


11  「差別」の本質


<文献>
(1)キム・ジへ、 尹怡景訳『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章―』大月書店、2021年8月、以下[1]。
(2)神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない―ジェンダーやLGBTQから考える―』集英社新書、2022年8月、以下[2]。

〇[1]は、韓国で16万部超のベストセラーとなったキム・ジへ(김지혜、Kim Ji-hye)著『善良な差別主義者』(선량한 차별주의자、2019)の日本語訳版である。筆者の差別や人権についての稚拙な考えや思い・願いに変革を迫る、強烈なメッセージを発する本である。内容的には、事例を交えながら、女性や障がい者、セクシュアル・マイノリティ、移民などに対する差別や人権の諸問題が取り扱われる。
〇「本書が注目されたのは、差別に関する既存の考え方に新たな問いを投げかけたからと考えられる。一般に、差別に対する認識は、差別をする加害者と、それを受ける被害者という構造の中で議論される。本書でも指摘されているように、だれもが差別は悪いことだと思う一方、自分が持つ特権には気づかないので、みずからが加害者となる可能性は考えない傾向が強い。こうした考え方に、本書は『善良な』という表現を用いて、『私も差別に加担している』『私も加害者になりうる』という可能性に気づかせる。つまり、平凡な私たちは知らず知らず差別意識に染まっていて、いつでも意図せずに差別行為を犯しうるという、挑発的なメッセージを著者は投げかけている」(金美珍、[1]229~230ページ)。
〇[1]では「トークニズム」、「特権」、「優越理論」、「間接差別」、「差異の政治」などの理論に基づき、「多様性と普遍性」(「多様性をふくむ普遍性」)や「形式的平等と実質的平等」の観点から、また個人的レベルと構造的レベルの差別などをめぐって論究する。「差別禁止法」についての言及も注目される。それぞれの理論と差別禁止法に関する言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

トークニズム―名ばかりの差別是正措置:お茶を濁す―
トークニズムtokenismとは、歴史的に排除された集団の構成員のうち、少数だけを受け入れる、名ばかりの差別是正措置をさす。/トークニズムは、被差別集団の構成員のごくわずかを受け入れるだけで、差別に対する怒りを和らげる効果があることが知られている。それによって、すべての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば、だれもが成功できるという希望を与えるからである。結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにもかかわらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。(25ページ)

特権―「持てる者の余裕」:意識にのぼらない恩恵―
特権とは、一部の人だけが享受するものではない。特権とは、与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵のことをさす。/不平等と差別に関する研究が進むにつれ、学者たちは平凡な人が持つ特権を発見しはじめた。ここで「発見」という言葉を使ったのには理由がある。このように日常的に享受する特権の多くは、意識的に努力して得たものではなく、すでに備えている条件であるため、たいていの人は気づかない。特権というのは、いわば「持てる者の余裕」であり、自分が持てる側だという事実にさえ気づいていない、自然で穏やかな状態である。(30ページ)/自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁(バリア)になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する。(31ページ)/ほとんどの人は平等という大原則に共感しており、差別に反対している。(中略)しかし、相対的に特権を持った集団は、差別をあまり認識していないだけでなく、平等を実現するための措置に反対する理由や動機を持つようになる。(38ページ)

優越理論―嘲弄(あざけり、からかうこと):他人の不幸は蜜の味―
プラトンやアリストテレスなど、古代ギリシアの哲学者たちは、人は他人の弱さ、不幸、欠点、不器用さを見ると喜ぶと述べた。笑いは、かれらに対する一種の嘲弄(ちょうろう)の表現だと考えたのだ。このような観点を優越理論superiority theoryという。トマス・ホッブズは、人は他人と比べて自分のほうが優れていると思うとき、プライドが高まり、気分がよくなって笑うようになると説明する。だれかを侮蔑(ぶべつ)するユーモアがおもしろい理由は、その対象より自分が優れているという優越感を感じられるからである。/優越理論によれば、自分の立ち位置によって、同じシーンでもおもしろいときと、そうでないときがある。そのシーンから自分の優越性を感じる際にはおもしろいけれど、逆に自分がけなされたと感じればおもしろくない。(92ページ)/集団間の関係においても、同じような現象があらわれてくる。人は自分を同一視する集団に優越感を持たせる冗談、すなわち自分とは同一視しない集団をこき下ろす冗談を楽しむ。もしも相手の集団に感情移入してしまうと、その冗談はもはやおもしろくなくなる。(中略)相手の集団に対してネガティブな偏見を持っている場合はどうだろうか。決して自分とは同一視せず、むしろ距離を置こうとする集団に対する侮蔑は、みずからの属する集団の優越性を確認できる、楽しい経験になる。(93ページ)

間接差別―一見の平等と実際の差別:同じようで違う―
だれに対しても同じ基準を適用することのほうが公正だと思われるかもしれないが、実際は、結果的に差別になる。司法書士試験で、問題用紙・答案用紙と試験時間をすべての人に同一に設定すれば、視覚障害者には不利になる。製菓・製パンの実技試験において、すべての参加者に同じように手話通訳を提供しない場合、聴覚障害者に不利である。公務員試験の筆記試験で、他の受験生と同様、代筆を許可しない場合、高次脳機能障害の人に不利である。これらは、全員に同一の基準を適用することが、だれかを不利にさせる間接差別indirect discriminationの例である。(117ページ)

差異の政治―多様性を含む普遍性:みんな違う、みんな同じ―
承認とは、たんに人であるという普遍性についての認定ではなく、人が多様性をもつ存在であること、すなわち、差異を受け入れることをふくむ。集団間の違いを無視する「中立」的なアプローチは、一部の集団に対する排除を持続させる。「中立」と見せかけている立場は、実は主流の集団を「正常」と想定し、他の集団を「逸脱」と規定して抑圧する、偏った基準であるからだ。アイリス・マリオン・ヤングが述べる「差異の政治politics of difference」は、このように「中立性」で隠蔽(いんぺい)された排除と抑圧のメカニズムに挑むために「差異」を強調する。(194ページ)/アイリス・ヤングは、抑圧的な意味を持つ「差異」という言葉を再定義する必要があると述べる。「主流集団を普遍的なものとみなし、非主流だけを『異なる』と表現するのではなく、違いを関係的に理解し相対化すること」である。女性が違うように、男性も違うことができ、障害者が違うように、非障害者も違うと見る、相対的な観点だ。したがって、差異とは本質的に固定されたものではなく、文脈によって流動的なものである。車いすに乗っている人が「つねに」異なるわけではなく、運動競技のような特定の文脈では差異があっても、他の脈略では差異がなくなるようなものだ。(196~197ページ)/私たちはみな同じであり、またみな異なる。私たちを本質的に分ける差異はないという点で、私たちは人間としての普遍性を共有するが、世の中に差別が存在するかぎり、差異は実在するため、私たちはその差異について話しあいつづけなければならない。(197ページ)

差別禁止法―平等を実現するための方策:文化の改善か、政治改革か―
私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を、「差別されないための努力」から「差別しないための努力」に変えるのだ。これらすべての変化は、市民の自発的な努力によって、一種の文化的な革命としておこなうこともできる。平等な社会をつくる責任のある市民として生きる方法を、市民運動に学ぶのだ。しかし同時に、平等の価値を共同体の原則として明らかにし、新しい秩序を社会の随所に根づかせるための法律や制度も必要だ。日常における省察とともに、平等を実現するための法律や制度に関する議論が必要なのだ。(202ページ)/差別撤廃という目的には同意するが、国が介入する問題なのかという疑問を抱く人々もいる。かれらは、国が介入するかわりに、自発的な文化の改善を通じて社会の変化をつくりだせると考える。これは、たしかに理想的で望ましく、法の制定とは無関係に、根本的な社会変化のために必要なアプローチではある。しかし、すでに差別が蔓延している社会で、法律で定められた規範ないし実質的な変化を期待することは難しい。(208ページ)

〇以上に加えて、キム・ジヘの言説の理解を深めるために、文章のいくつかを抜き書きする。

●  私をとりまく社会を理解し、自己を省察しながら平等へのプロセスを歩みつづけることは、自分は差別をしていないという偽りの信仰よりも、はるかに貴重だということだけは明らかである。(プロローグ:13ページ)
●  私たちが権利や機会を要求するとき、結果として求めるのは、ただ楽な人生ではない。私たちは、施設に閉じ込められ、他人から与えられたものだけを食べて寝て、何の労働もせず生涯を送る人生を、人間らしい生き方とは思わない。(中略)不平等な立場にいる人が平等な権利と機会を求めるのは、他の人と同じように、リスクを覚悟して冒険し、自分なりの人生を生きていくための権利と機会という意味なのである。(1章:36ページ)
●  立ち位置が変われば、風景も変わる。/風景全体を眺(なが)めるためには、世の中から一歩外に出てみなければならない。(中略)私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。(1章:41ページ)
● 固定観念は、自分の「頭の中にある絵」にすぎない。(中略)固定観念は、自分の価値体系をあらわす、ある種の自己告白になる。(51、52ページ)/固定観念は一種の錯覚だが、その影響力は相当強い。(中略)人々は、自分の固定観念に合致する事実にだけ注目し、そのような事実をより記憶し、結果的に、ますます固定観念を強固にしていくサイクルが作られる。一方で、固定観念に合致しない事実にはあまり注意を払わない。固定観念を覆すような事例を見かけたとしても、なかなか考えを変えようとしない。かわりに、その事例を典型的ではない特異なケースとみなし、例外として取りあつかうのである。(2章:52~53ページ)
●  差別を眺めるとき、性別や人種という軸に加えて国籍、宗教、出身国・地域、社会経済的地位などの軸を加えると、状況はさらに複雑になる。(62~63ページ)(中略)差別の経験をひとつの軸だけで説明することはできない(中略)。/さまざまな理由で幾重にも重なった差別を受ける人、差別を受ける集団の中でさらに差別を受ける人もいる。差別とは、二つの集団を比較する二分法に見えるが、その二分法を複数の次元に重ねて立体的に見てこそ、差別の現実を多少なりと理解することができるのだ。(2章:63ページ)
●  差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心(てきがいしん)を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。(2章:65ページ)
● (差別について)考察する時間を設けるようにしないかぎり、私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただ無意識的に従い、差別に加担することになるだろう。何ごともそうであるように、平等もまた、ある日突然に実現されるわけではない。(3章:85ページ)
●  「からかってもいい」とされる特定の人々(中略)だけに同じようなこと(揶揄、蔑視)が集中してくりかえされる。私たちは、だれを踏みにじって笑っているのかと、真剣に問いかけるべきなのだ。(96ページ)/だれかを差別し嘲弄するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。(中略)少なくとも無表情で、消極的な抵抗をしなければならないときがあるのだ。(4章:105~106ページ)
●   私たちはたちは教育を通じて、不公正な能力主義を学んでいるのではないだろうか。そのことによって、何ごとも不合理に区分しようとする、不平等な社会をつくっているのではないか。いまさらながら怖くなる。(5章:124ページ)
●  「差別は(中略)人種や肌の色を理由に、だれかを社会の構成員として受け入れないとするとき、その人が感じる侮蔑感、挫折感、羞恥心の問題である」。すなわち、人間の尊厳に関する問題なのである。(6章:143ページ)
●  民主主義が実現するには、基本的な前提として、社会のすべての構成員が平等な関係をもち、対等な立場で討論できなければならない。(中略)私たちは、同じ空間を共有しながら生きていくための倫理について考えなければならない。そうしてこそ、隠蔽された不平等を前提として平等を享受していた、古代ギリシアのポリスとは違う、真の民主主義をつくることができるだろう。(7章:162ページ)
●  正義とは、真に批判する相手がだれなのかを知ることである。だれが、または何が変わるべきなのかを正確に知る必要があるということだ。世界はまだ十分に正義に満ちあふれているわけではなく、社会の不正義を訴える人々の話は、依然として有効である。(8章:182ページ)
●  平等に向けた運動に参加できるのはだれだろうか。全員の賛同を期待することはできないだろう。歴史上、何の抵抗もなく達成された平等はなかったからだ。しかし同度に、一部の人々は、自分の立場や地位に関係なく、正義の側に立ち、マイノリティと連帯した。結局は、私たちだれもがマイノリティであり、「私たちはつながるほどに強くなる」という精神が世の中を変化させてきた。あなたがいる場所で、あなたはどんな選択をしたいだろうか。(9章:202~203ページ)
●   だれもが平等を望んでいるが、善良な心だけでは平等を実現することはできない。不平等な世界で「悪意なき差別主義者」にならないためには、慣れ親しんだ秩序の向こうの世界を想像しなければならない。そういう意味で、差別禁止法の制定は、私たちがどのような社会をつくりたいかを示す象徴であり宣言なのだ。(10章:219ページ)
●   閉鎖されたひとつの集団としての「私たち」ではなく、数多くの「私たち」たちが交差して出会う、連帯の関係としての「私たち」も可能ではないだろうか。だれかに近づき、「線を踏んだでしょう」「出て行け!」と叫ぶのではなく、みんなを歓迎し、一緒に生きる、開かれた共同体としての「私たち」をつくりたい。(エピローグ:224ページ)

〇[2]は、「差別」を「心の問題」として捉え、善意の「思いやり」や「優しさ」で解決しようとする「思いやり」万能主義からの脱却を説く。そして、権利保障と差別を解消・禁止するための法制度の整備や施策の推進の必要性と重要性について論究する。そこで取りあげる差別は、主に女性差別と性的少数者差別である。
〇神谷はこういう。「思いやり」はあくまでも、個人の資質や感情に基づくものである。その「思いやり」に基づかなくても人は守られる、というのが「人権」の考え方である。差別のひとつに「アンコンシャスバイアス」(無意識の偏見)があり、「思いやり」と同じ匂いがするフレーズに、現状の取り組みを是認する(新規性がない)意味の「周知を徹底する」や、他人事の象徴としての「何も気にしない」といったものがある。セクシュアルハラスメントに関して、「防止」法制(規定)はあるが「禁止」法制(規定)はない。また、男女の雇用機会の均等に関しても差別は禁止されているが、罰則の規定はない。ともに実効性が低く、「思いやり」に留まっているのが日本の現状である。
〇そこで神谷にあっては、制度や法律を整備することによって、一定の水準で権利を担保することが重要である。差別の防止・解消や禁止についての「啓発」の制度化や、差別禁止の法制度の導入が必要であり、「これが一番の近道」(93ページ)となる。
〇[2]における神谷の主張は要するに、「差別は権利の問題であり、思いやりは人権尊重の理念を持たない」、「差別は思いやりではなく、制度で解決すべきである」というものである。その言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

●  人権問題、特に「ジェンダー」や「LGBTQ」の問題を考えたり語ったりする際に、突然「思いやり」が幅を利かせ始め、万能の力を持つかのように信奉されてしまう。(中略)何をするにしても「思いやり」が靄(もや)のように現れ、実際には何も進んでいないにもかかわらず、何かを「やった感」「やっている感」だけが残るというのが長年の日本の状況(である)。(4~5ページ)


●  「思いやり」は、個々人の「気に入る」「気に入らない」といった恣意性に左右されやすいものであり、不具合が起きてしまうものである。思いやりも人それぞれ、ということになると、そこで保障されることも人それぞれであろう。そんな普遍性のないものを「人権」と呼べるだろうか。(49ページ)
●  ジェンダー規範からの逸脱は、排除を引き起こし、差別やハラスメント、仲間外れや無視といった事象が、逸脱したマイノリティ(女性、性的マイノリティはもちろん、これらの人たちに限らない)自ら、自分を制約する方向に力を加える。それが差別に対する異議申し立てを封印し、「男らしさ」を優遇する。だから、性的マイノリティに対する個別の差別や暴力根絶とともに、大元の性差別撤廃(女性差別を含むが、より広い意味で)にも力を入れるべきだ、ということである。(112ページ)
●  思いやり「だけ」では、多岐にわたる複雑な問題を解決することはできない。仮に思いやる心があったとして、それを持続的に、習慣的に、社会的な背景や構造にアプローチできる何らかの方法で実行しない限り、社会はもとより、身の回りを変えることも難しいが実情である。/関心のない人も含めて、より多くの人がジェンダーの領域に一定程度の水準まで取り組みを進めるためには、オーダーメイド的な(職人的なと言ってもいいかもしれません)取り組みだけではなく、ある種の「量産型」的な、誰にでも取り組め、扱うことのできる手法(研修・講習による定期的な周知・啓発:筆者)も、同時に求められている。(133~134ページ)
●  「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(略称「人権教育・啓発推進法」。2000年12 月 公布・施行)は、人権一般を扱うほとんど唯一の法律であるが、教育・啓発を実施するための行政の体制整備以外のことは規定がなく、実際の権利の保障には至っていないという致命的な課題がある。(52ページ)/この法制度に基づく取り組みは、「心がけとか思いやりとか、私人間の関係性のレベルにとどまっている」という指摘もある。(50ページ)
●  イギリスでは、「性別」や「障がい」など各分野の差別禁止法を統合したものを、通称「平等法」と呼び、両者はほぼ同じ内容として見られているようである。イギリスの場合、各分野の差別禁止法を統合した「平等法」のほうが、差別禁止法よりも積極的に平等を目指すために「公的機関の平等義務」などを規定しているとの指摘もある。(187ページ)

〇以上の言説を「福祉教育」に引き寄せて一言する(問う)。福祉教育(実践と研究)はこれまで、ジェンダーやLGBTQの問題について見て見ぬ振りを決め込んできたのではないか。また、福祉教育(実践と研究)はどれほどに、外国籍の子どもだけでなく外国人労働者や移民などの人権や差別について体系的に言及してきたか。厳しい差別や排除の現場に立ってその実態から気づき・学びを深める教育(体験学習)に積極的に取り組んできたか。差別の背景や構成要素(直接差別、間接差別、合理的配慮の否定など)について加害者と被害者を構造化して考えてきたか。不公正な能力主義や不合理な選別主義に対峙する批判的な福祉・教育理論の構築や実践に関心を払ってきたか。社会通念の変革とともに、差別を禁止・根絶するための政策の立案や関係法律・制度の改善・整備について思考し行動(運動)を起こしてきたか。そして何よりも、「思いやり」はこれらについての「思考停止」を促してきたのではないか。自責の念に駆られる。

【初出】
<雑感>(168)阪野 貢/「差別」再考―「差別はたいてい悪意のない人がする」「差別は思いやりでは解決しない」のワンポイントメモ―/2023年2月4日/本文

 


12  「共感」の功罪


「共感」の功罪【その1】

<文献>
(1)山竹伸二『共感の正体―つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか―』河出書房新社、2022年3月、以下[1]。

〇「共感論」について活発な議論が展開されるなかでこんにち、「反共感論」の主張が少なからずみられる。[1]において山竹伸二はいう。「共感は本当に相互理解と協調、平和をもたらす自然の恩恵なのだろうか? それとも、不安や自由の喪失、憎しみ、差別をもたらす、悪魔のささやきなのか‥‥‥?」(21~22ページ)。「共感が生み出す助け合いが集団を強化し、文化を築く礎になったこと、その一方で、共感による集団の排他性が紛争や差別、迫害を生んできた歴史がある」(24ページ)。
〇山竹は、多角的な視点に立って、また科学的・哲学的な考察を通して「共感」の本質を解明しようとする。とともに、心のケアの領域や日常の対人関係における共感の有効性や応用可能性を明らかにし、共生社会における共感の重要性を指摘する。山竹は説く。「共感のメリットはリスクを大きく超える可能性がある」(204ページ)。「大事なのは共感に頼らないことではなく、共感のデメリットを減らし、よりよい形で共感を活かせるようにすること」(205ページ)である。
〇[1]で注目すべきポイントは、現象学(自分の意識・主観に現われていることを出発点にして、誰もが共通して了解できる意味(「本質」)を解明するための哲学的思考法)の観点から共感の本質にアプローチし、その問い直しを試みるところにある。山竹はそれを次のように整理する(7. 8.  以外の丸括弧内の解説は別頁より引用。126~129ページ)。

  1. 共感が生じる経験は、①「情動的共感」(相手と同じ感情であると感じる共感)と②「認知的共感」(相手と同じ考え方、感受性、価値観であると感じる共感)の2つに分けられる。
  2. 共感の質は心の発達、特に自己の確立と認知の発達にともなって変化する。
  3. 他者の共感によって得られる自己了解(自分の感情に対する気づき・自覚)と「存在の承認」(「ありのままの自分」が受け容れられていること)。
  4. 心理的距離、空間的距離の近い人間ほど共感が生じやすい。
  5. 共感力(相手の考えや気持ちを察することができ、その気持ちに寄り添うことができる力)には個人差がある。
  6. 共感は感情の共有であり、自己了解と同時に他者了解(他者の感情に対する気づき・自覚)が生じている。
  7. 共感は他者理解をとおして他者のためになる行動(利他的行為)を生む。
  8. 共感は喜びだけでなく、苦しみを生む場合もある(共感的苦悩)。
  9. 共感はお互いを理解し、協力し合う基盤となり、文化・社会を形成する。

〇以上の「共感の本質」(「共感の原理」)に続いて山竹は、「共感の功罪」について次のように整理する(130ページ)。


〇ここで、[1]のうちから、「共感」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感と利他的行為
共感という経験は対人関係における感情共有の確信であり、共感が生じると多くの場合、相手に対して親和的な感情(親しみ)が生じ、他人事ではないと感じられる。/この時、自己了解(自己の感情への気づき)と同時に、他者の感情了解が生じている。自己了解が「自分がどうしたいのか」という欲望を告げ知らせる以上、共感は「他者がどうしてほしいのか」を理解し、相手が望む行為の選択を、つまり利他的行為を可能にするのである。/もちろん、自分の感情と相手の感情が同じである、という保証はない。だが、私たちは共感を手がかりにして、相手に気持ちや望みを言葉で確認することができるし、それによって適切な対応を取ろうとする。そうやって経験を何度も積み重ねるほど、次第に的を外すことなく相手の感情を理解できるようになり、適切な対応が可能になる。/こうした理解力を培うには、言葉と想像力、推論する理性の力を身につけることが必要である。(110ページ)

排他的共感と差別
共感はすべてにおいてよいことが起きるわけではない。/誰かの悲しみや苦しみに共感し、助けたいと思う場合でも、必ずしもよい結果、正しい行動につながるとは限らない。共感から、目の前にいる人を手助けしてしまい、結果的に大勢の人を苦しめたり、困らせてしまうこともある。助けたつもりでいても、相手にとっては迷惑だったり、かえって悪い結果を招く場合も少なくない。/また、共感は憎悪や怒りのような感情にも共振するため、憎しみや怒りを増幅させる危険性がある。/仲間への共感から、仲間以外の人々を敵視したり、憎悪や軽蔑の眼差しを向けたりすることを、「排他的共感」と呼ぶことにしよう。/共感は文化を形成し、集団の結束を強めるのだが、それは半面、共感できない文化や自分の所属する集団以外の人々に対して、排除する傾向を生みやすい。共感による民族や国との一体感は、外国への差別意識、敵対意識につながりやすいのだ。繰り返される戦争、少数民族への迫害、異質な文化への差別などは、排他的共感が拍車をかけている。(116~117ページ)

協調的共感と共同性意識
多様な価値観を学び、様々な立場の人の身になって考えることで、偏った行動ではなく、より公正で適切な共感と利他的行為ができるようになる。/多様な価値観に寛容になるには、人間は集団の属性や価値観によらず、存在そのものが尊重されるべきだ、という感覚が必要になる。/この感覚を養うものこそ、親密な人々による共感なのだ。それは「ありのままの自分」が受容される経験、無条件の承認を感じる経験であり、だからこそ、「ありのままの他者」を受け容れ、共感できるようになるのである。/こうした対応を各々の人間ができるようになれば、他者との間に良好な関係性が形成され、よりよい協調が生まれ、お互いに助け合えるような社会を築くことができる。異なる考え方や価値観の人々の間にも、差異を認め合いながらも共感できるものを見出せるようになる。私はこれを「協調的共感」と呼び、共感の成熟したものとして捉えておきたい。(123~124ページ)/共感は人間同士の心のつながりを感じさせ、同じ人間であるという意識、共に生きているという意識をもたらすのだ。/しかし、この共同性の意識においても、適度な距離感、公正な判断力がなければ、容易に集団心理に呑み込まれてしまうだろう。/したがって、共感が人間の道徳性や共同性の意識において重要だとしても、そこに潜んでいるリスクを十分に自覚し、その対処法を考えなければならない。排他的共感に陥らず、協調的共感に至る道を考える必要があるのだ。(124~125ページ)

共感のリスクとその回避
共感には様々なリスクが付きまとっている。/まず第1に、共感しやすい人は、相手の感情に巻き込まれ、自分自身の感情を制御することが難しくなりやすい。/第2に、思い込みの強い人、自己中心的な人の場合、共感は相手と自分を同一視し、相手の他者性、固有性を無視してしまう傾向がある。/そして第3に、自分の所属集団、立場、価値観を過剰評価している人が共感すると、自分が共感できない人々に対して無関心になったり、敵視する傾向がある。/こうした共感のリスクを回避するためには、自己了解ができていること、感情の制御ができることが必要になる。自己了解の力があり、感情のコントロールができる人は、過度に相手の感情に巻き込まれたりしないし、相手と自分を同一視したりもしない。また、多様性に寛容で、他者との差異や他者性を認められる人は、排他的にもなりにくい。だから自分とは経験も立場も異なる相手であっても、先入観なしに対話し、相手との差異を認めつつも、自分と共通するものを見出すことができる。そうやって相手の感情に近づき、共感する可能性が高いのである。(166~167ページ)

良心と共感
「良心」は善悪を判断し、「人として正しくありたい」という思いが含まれているが、この判断の基準は内面にある価値観や行動規範、人としての理想などである。それは多くの人が認める価値観や社会規範とほぼ重なるため、共感や同情に公平性、公正さをもたらしている。しかし、そうした個人の内面にある価値観や行動規範は、何らかの状況で取り込まれ、身につけたはずなので、成長にともなって変化し、良心も変わってくることになる。(184~185ページ)/完全に「他者のため」という動機だけで良心が生じるわけではない。他者に承認されたい、他者と共に生きたい、という「自己のため」の動機も当然あるだろう。そうでなければ、自己犠牲を美徳と考えるような偏った義務論になりかねない。(188ページ)/共感によって他者の苦しみを知れば、自己の欲望を超えて、心から他者を助けたいという思いも強くなる。承認欲望と救済欲望が重なりあい、「自己のため」の行為が「他者のため」の行為になるのだ。そして共感の経験を繰り返し、理性的な思考が深まるにつれ、多様な他者の身になって考える力もついてくる。/こうして、成熟した良心は自己の欲望を自覚した上で、他者を心から助けたいと感じ、より普遍性のある判断を求めるようになるのである。(189~190ページ)

〇山竹にあっては、現代社会は、異なった文化や立場、多世代の「多様な人々が交流するようになり、共感が拡大する可能性のある時代である」(201ページ)。その一方で、現代社会では「絶対的な価値基準が見失われ、どうすれば周囲に認められるのか、自分の価値を確信できるのか、という承認不安が蔓延している」(202ページ)。そこで、上述の「共感の本質」を認識し、「心のケアの原理」に基づいて子育て、教育を実践すれば、「共感は私たちの未来を切り開く上で、とても重要な役割をはたすはず」(202ページ)である。「共感」への期待と展望である。山竹はいう。「楽観的と思う人もいるかもしれないが、私はそうした未来の可能性を信じたい」(205ページ)。
〇「まちづくりと市民福祉教育」(とりわけ学校福祉教育)においてはこれまで、抽象的な理念やひとつのスローガンとして「共感」が声高に叫ばれてきた感なきにしも非ずである。「共感の本質」についての理解・認識と、それに裏付けられた共感力を高めるための取り組みや教育プログラムの開発を如何に進めるかが問われよう。例によって唐突であるが、指摘しておきたい。
〇なお、上記の「心のケアの原理」とは、「共感は『ありのままの自分』が受け容れられている(認められている)という実感を与えることで、相手の不安を緩和する。また、共感によって相手の苦しみの根底にある感情を理解し、それを相手に伝えることで、相手に自己了解を促すことができる。すると、相手は自分を見つめなおすことができるようになり、考え方を修正したり、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、納得のいく判断ができるようになる」(194ページ)ということを指す。

【初出】
<雑感>(185)阪野 貢/「共感」再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―/2023年8月23日/本文 

 

「共感」の功罪【その2】

「共感には善玉と悪玉がある」
「共感は道徳的指針としては不適切である」
「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(ブルーム)

<文献>
(1)ポール・ブルーム、高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』白揚社、2018年2月、以下[1]。
(2)永井陽右『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』かんき出版、2021年7月、以下[2]。

〇筆者(阪野)は、1989(昭和64)年1月7日(土)と1989(平成元)年1月8日(日)は韓国・ソウルにいた。1月5日~10日の5泊6日、学生を引率しての研修旅行であった。ソウルの学生たちと「アリラン」(民謡)を合唱する機会にめぐまれた。また、7日から9日までのいずれかに、臨津江(イムジンガン)を渡って38度線・板門店を訪ねている。「イムジン河 水清く とうとうと流る‥‥‥」ではじまるザ・フォーク・クルセダーズ(学生フォークグループ)の「イムジン河」を思い出していた。
〇2019(平成31)年4月30日(火)と2019(令和元)年5月1日(水)は鹿児島にいた。4月28日~5月2日の4泊5日、福岡(大宰府天満宮と九州国立博物館)と鹿児島への観光旅行である。4月30日には川辺郡知覧町(現・南九州市)にある知覧特攻平和会館を訪ねた。そこに展示されている遺影と遺書・遺品などに圧倒され、多くの観光客がいるなかで筆者は、ただ立ち尽くすだけだった。何通かの遺書を読んだとき、脳裏をかすめたのは「検閲」「虚飾」そして「殺された」(「国家による殺人」)の三つの言葉である。
〇特攻隊員の全戦死者は1036人、そのうち知覧基地から出撃した者は402名。また、戦死した朝鮮人特攻隊員は17人、知覧特攻平和会館に祀(まつ)られている者は11人である。そのうちのひとりに、卓庚鉉(タク・キョンヒョン)がいる。「アリラン特攻」卓庚鉉と「特攻の母」鳥濱(とりはま)トメとの感動の物語は有名である。卓は、その前日に鳥濱が経営する富屋食堂で「アリラン」を歌い、1945(昭和20)年5月11日に出撃する。24歳の若さであった。「アリラン アリラン アラリヨ アリラン ゴゲロ ノモガンダ(アリラン アリラン アラリよ アリラン峠を越えて行く)‥‥‥」。
〇朝鮮人特攻隊員に関する最近の論文に、権学俊(クオン・ハクジュン)「韓国における朝鮮人特攻隊員像の変容」『立命館産業社会論集』第52巻第4号、立命館大学産業社会学会、2017年3月、67~81ページ、がある。そこに次の叙述がある。

植民地支配された朝鮮人青年が、自らを支配する国のために死を選択した、また、差別を受けた朝鮮人青年を、基地があった町で食堂を営んでいた日本人女性が自分の子どものように世話をし、その青年が出撃に前夜に朝鮮のアリランを歌ったという物語は、日本の都合に合わせた解釈がなされ、「悲劇の主人公」として同情を集めるだけでなく、一部からは「朝鮮人であるのに日本のために命を捧げた人物」と賞賛され、「アリラン特攻」としての物語性が評価された一方で、アリランを歌う以外の彼の心の声は全く聞こえてこなかった。(75ページ)

〇17人の朝鮮人特攻隊員は、植民地支配と民族的差別の被害者である。権はいう。朝鮮人「特攻隊員は日本のために死んだ『対日協力者』であり、民族の『裏切り者』だという認識・見方から脱することは非常に難しい」(76ページ)。「彼らの魂は依然として、軍神として賞賛された日本でも、祖国である韓国でも受け入れられずに、日韓の失われた歴史の空白の狭間でひたすら漂流している」(78ページ)。この一節に触れたとき筆者は、目頭を押さえる人がいた知覧特攻平和会館の時空ではあまり感じなかった怒りや悲しみを覚える。とともに、歴史的・理性的思考の重要性を再認識する。そして、30年前の平成元年早々に、ソウルで合唱した「アリラン」の哀愁や板門店の軍事停戦委員会本会議場の緊張を思い出した。なお、筆者には戦死した伯父(おじ)がいる。その長男(筆者の従兄)は70年以上もたったいまも、戦争の呪縛や国家不信から抜け出すことができないでいる。悲惨である。
〇こうした感情やわずかな理性をきっかけに、「積読」(つんどく)本のなかにあった、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下[1])を読むことにした。それはまた、いま社会的風潮として(福祉教育の世界において)「共感」や「共生」、とくにその「心」が強調されるなかで、いかにして「感情」(「共感」)と「理性」のバランスをとるかが問われている、という認識に基づいてもいる。さらに一言すれば、筆者は、「共感」と「理性」にはそれぞれ限界があり、その両者の漸進的な共働によってよりよい“まちづくり”を進めることができる(進めなければならない)、と考えている。
〇ブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。
〇ブルームは、[1]の要点について次のように簡潔に述べている。

共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性(きょうとうせい。同郷のよしみ)や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損(そこ)ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。(17ページ)

〇この「要点」の理解を深めるために、ブルームの「反共感論」の論点や言説について、その一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感のスポットライト的な特質――共感はその射程が限定的であり、数的感覚を欠いている
●私たち人間にとって、共感はスポットライトのようなものである。つまり、焦点が絞られ、自分が大切に思っている人々は明るく照らし出し、見知らぬ人々や、自分とは違う人々や、脅威を感じる人々はほとんど照らし出さないスポットライトなのだ。
共感は、大勢の人々が関わる問題に直面すると黙して語らず、共感は大勢よりたった一人を重視するよう私たちを仕向ける。
共感は、特定の個人ではなく統計的に見出される結果に対しては反応を示さない。(45ページ)
スターリンは、「一人の死は悲劇的だが、100万人の死は統計的だ」と述べたと言われている。またマザー・テレサは、「大衆を見ても、私は決して行動しないでしょう。でも、一人を見れば行動します」と言った。道徳的判断において数の重要性が認められるのなら、それは理性のゆえであって感情のゆえではない。(112ページ)
●共感を含めた他者に対する反応は、既存の偏見、嗜好(しこう)、判断を反映するものである。この事実は、共感が無条件に私たちを道徳的にするわけではないことを示す。(88ページ)
●スポットライトの問題の一つは、焦点の狭さだ。またもう一つの問題は、向けた場所しか照らし出さないことである。だからバイアス(偏った見方)の影響を受けやすい。(112~113ページ)
●スポットライト的な性質のゆえに、共感はバイアスの影響を受けやすい。また、焦点の狭さ、特定性、数的感覚の欠如という特質を持つがゆえに、自分の注意を惹くもの、人種の好みなどの影響をつねに受けている。私たちが少なくともある程度の公平さや公正さを保てるのは、共感の作用から免(まぬか)れ、規則や原理、あるいは費用対効果の計算に依拠した場合に限られる。(119ページ)

共感と思いやり――共感と思いやりは独立しており、ときには対立することさえある
●心理学者のヴィッキー・ヘルゲソンとハイディ・フリッツは、「他者に過剰に配慮し、自分のニーズより他者のニーズを優先する」ことを「過度の共同性」(unmitigated communion)と呼んだ。(165ページ)
「共同性」(過度なタイプではなく適切な共同性)が高い人と、「過度の共同性」が高い人の違いはどこにあるのか? どちらのタイプの人々も、他者を気づかう。しかし「共同性」が、配慮や思いやりとも呼べるものに対応するのに対し、「過度の共同性」は共感、もっと正確に言えば共感的苦痛(empathic distress)、つまり他者の苦しみに苦しむことにより強く結びついている。
私は、「過度の共同性」の高さが、共感力の高さとまったく同じであるとは思っていない。とはいえそれらのいずれも、他者との関わりという点では、同じ根本的な脆弱性をもたらす。自身の生活を阻害する過剰な苦痛を本人に引き起こす。(167~168ページ)
●共感と思いやり(compassion)の区別は、非常に重要である。(中略)あるレビュー論文のなかで、神経科学者のタニア・シンガーと認知科学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」。(170ページ)
「感情的な共感は、思いやりの前駆である」「最初に情動的共感を覚えない限り、思いやりを感じることはできない」と主張される。
私たちは一般に、日常生活で情動的共感を特に覚えなくても他者を気づかったり手助けしたりしていることを考えてれば、これらの主張は理解しがたい。(中略)思いやりや親切心は共感から独立しているばかりでなく、それと対立することさえあり、共感感情を抑えたほうが人はより適切に振舞える場合がある。(174ページ)

暴力・残虐性と共感――暴力と残虐性の要因は必ずしも「共感の欠如」ではない
●暴力行為にはさまざまな原因があり、私は犠牲者の苦難に対する共感が、それ以外の原因より重要であると言い張るつもりはない。しかし共感は暴力と無関係ではない。ヒトラーがポーランドに侵攻したとき、彼を支持したドイツ人は、ポーランド人による同胞のドイツ人の殺害や虐待のストーリーに激怒していた。(234ページ)
私は平和主義者ではない。無実の人々の苦難は、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときのように、場合によっては軍事介入を正当化すると、私は考えている。それでもやはり、共感は暴力行為を選好する方向へと、あまりにも強く人々を傾(かたむ)かせると言わざるを得ない。共感は私たちが戦争の恩恵を考慮するよう仕向ける。それを通じて被害者のために復讐し、危機に直面している人々を救い出させようとする。(235ページ)

感じることと考えること――「共感」に代わる道徳的指針・行動基準は「理性」である
●情動の本性が過大評価されている。私たちは直観力を備える一方、それを克服する能力(理性的熟慮の能力)を持つ。道徳問題を含めものごとを考え抜き、意外な結論を引き出すことができるのだ。ここにこそ人間の真の価値が存在する。この能力は、人間を人間たらしめ、互いに適正に振舞い合えるよう私たちを導いてくれる。そして苦難が少なく幸福に満ちた社会の実現を可能にする。(14~15ページ)
善き行ないには、あらゆる種類の動機が存在する。それには、より包括的な関心、思いやりなどがある。(中略)また、名声に対する関心、怒りの感情、プライド、罪悪感、信仰、世俗的な信念体系などがある。私たちには、正しい行ないを動機づける要因として、あまりにも性急に共感をあげる傾向があるようだ。(126~127ページ)
善き人であるためには、他者への気づかい、すなわち他者の苦しみを緩和し、世界をよりよい場所にしようとする心構えと、何が最善かを見極められる理性的な能力の組み合わせが必要である。(127ページ)
●「私たちは共感をはじめとする直感の影響を受けても、その奴隷ではない」。開戦するか否かを決定する際に費用対効果分析に依存する、あるいは自分の子どもに愛情を注ぎ、赤の他人には特に何も感じなくても、彼らの命も自分の子どもの命と同じく重要であることを認識するなど、私たちはもっとよいことができる。(258ページ)

〇[1]の原題は、“Against Empathy”(2016)である。一瞬ギョッとするが、ブルームは、“Empathy Is Not Everything”(「共感がすべてではない」)、“Empathy Plus Reason Make a Great Combination”(「共感と理性は偉大な組み合わせをなす」)などといったタイトルでも構わなかった、という。「自立」やそのための「自己決定」「自己責任」が強調される現代社会において、“共感の欠如”、したがって“共感性の強化”“共感力の育成”こそが最大の課題である、と言われる。それは、「共感」が無条件に肯定されていることにもよる。しかし、ことはそれほど単純ではない。「私は共感に反対する」というブルームの「具体的な見解に賛成するにせよ反対するにせよ、情動的に反応するのではなく、それについて理性的に考察し皆で議論することが肝要である」(「訳者あとがき」302ページ)。まさにそれが本書でブルームが説くところである。ブルームの「反共感論は理性の存在を前提とする」(258ページ)。留意したい。

補遺
〇[2]の永井にあっては、「共感」とは「他者の感情経験に直面した人が、認知的および感情的に反応すること」。その「反応に至るまでのプロセス」(33ページ)、である。永井はいう。「共感は、全員ではなく特定の誰かしか照らさない『スポットライト的性質』と、自分にとって照らすべきだと思えた相手しか照らさない『指向性』を持つ」(17ページ)。「共感とは誰かの困難に対してではなく、困難に陥っている自分側(同じグループの仲間)の誰かに作用している。まさに共感は差別主義者なのである」(18ページ)。「共感は一般的に、理性的な『認知的共感』と感情的な『情動的共感』の2つに、機能的に分けられている」(28ページ)。
〇永井は続ける。「多様性とは、自分にとって都合の悪い人の存在を認めることである。『多様性を受け入れることは難しい』という心構えを持つべきである」(161、162ページ)。「共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。共感ではなく、地に足のついたリアルな、実体の伴った、権利に対する理性的な眼差し(理性的に、自分の権利と同時に他者の権利を見つめること)こそが、憎悪が渦巻く現代の世界を良くする鍵である」(167~169ページ)。
〇要するに永井にあっては、「共感」とそれに代わるものとして、「理性」と「人権」、人権に対する理性的な理解と反応が重要である。「感情に任せるのではなく、共感の良いところをうまく使いながらも、同時に理性も働かせてその手綱(たづな)をしっかりと持ち、取り残されている人がいないか、対立や分断をどう乗り越えることができるか、などを常々考えることが社会と世界を良くしていくことに繋がる」(180ページ)のである。
〇なお、[2]には、永井と内田樹(うちだ・たつる、思想家)との対談が収録されている。そこで内田はいう。いまの日本社会は、「共感過剰」な社会になっている。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険である。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」(「惻隠の情」)というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ない。惻隠の情が発動するためには、「自分から見て弱者である」こと、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ことの2つの条件がある(191、218、222ページ要約)。参考までに付記しておくことにする。

【初出】
<雑感>(81)阪野 貢/共感≠善:共感は道徳的指針としては不適切である―ポール・ブルーム著『反共感論』読後メモ―/2019年5月15日/本文

 


13  「利他」の学問


<文献>
(1)伊藤亜紗編、・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』集英社新書、2021年3月、以下[1]。
(2)中島岳志『思いがけず利他』ミシマ社、2021年10月、以下[2]。
(3)若松英輔『はじめての利他学』NHK出版、2022年5月、以下[3]。

〇伊藤亜紗は美学者、中島岳志は政治学者、若松英輔は批評家・随筆家、國分功一郎は哲学者、そして磯崎憲一郎は小説家である。分野も背景も異なるこの5名の研究者が、東京工業大学の「未来の人類研究センター」(2020年2月設立)のメンバーとして取り組んでいるのが、「利他」をめぐる問題である。[1]は、「全員ではぐくんできた利他をめぐる思考の、5通りの変奏」であり、いまだその「出発点であり、思考の『種』にすぎない」という(8ページ)。
〇[1]におけるひとつのキーワードは、「うつわ」――「うつわになること」「『うつわ』的利他」である。伊藤は次のようにいう。

利他とは「うつわ」のようなものではないか。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようである。(58ページ。語尾変換)

〇人間は「うつわ」のような存在として生きることによって、「利他」が宿る。こうした人間観を生み出す伊藤の言説は、こうである。利他的な行動には本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。その「私の思い」は私の思い込みでしかなく、「自分の(利他的な)行為の結果はコントロールできない」、すなわち見返りは期待できない(「利他の不確実性」)。自分の利他的な行為は、相手は「喜ぶはずだ」「喜ぶべきだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めていることになる。その点において、利他的な「思い」や「行為」は、相手をコントロールしたり、支配することにつながる危険をはらんでいる。そうならないためには、相手を「信頼」してその自律性を尊重し、相手の言葉や反応を「聞く」ことを通じて相手の潜在的な可能性を引き出すこと、すなわち相手の力を信じることが必要不可欠となる。それは、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って、相手を気づかうこと(「ケア」)である。この他者への気づかい、すなわち「ケアとしての利他」は、相手の隠れた可能性を引き出すこと(「他者の発見」)になり、それは同時に自分が変わること(「自分の変化」)になる。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、相手を信頼し、利他の結果の可能性や意外性を受け入れる、うつわのような「余白」を持つことが必要となる。この自由な余白、スペースは、とくに複数の人が「ともにいる」ことをかなえる場面で重要な意味を持つ(50~56、59ページ)。
〇筆者の手もとに、中島岳志著『思いがけず利他』(ミシマ社、2021年10月。以下[2])という本がある。中島は[1]の著者のひとりである。[2]において中島は、「利他の本質に『思いがけなさ』ということがある。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」(6ページ)と説く。具体的にはこうである。「利他は自己を超えた力の働きによって動き出す(「縁起による業」:私はさまざまな縁によって(縁起的現象として)存在している)。利他はオートマティカルなもの(意思を超えたもの)。利他はやって来るもの(利他の与格性)。利他は受け手によって起動する(利他は事後的)。そして、利他の根底には偶然性の問題がある(利他の偶然性)」(174ページ。括弧内は筆者)。
〇[2]のうちから、中島の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「共感」が利他的行為の条件となったとき、「別の規範」が起動し「共感される人間」になることが求められる
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている。/他者への共感、そして贈与(利他)。この両者のつながりは非常に重要である。(21ページ)/しかし、共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」といった思いに駆(か)られる。/他者に自分の苦境を伝えることが苦手な人、笑顔を作ることが苦手な人、人付き合いが苦手な人。人間は多様で、複雑である。だから「共感」を得るための言動を強(し)いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いる。/そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てくる。(22ページ)/「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻である。(23ページ)/さらに、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、今度は自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまう。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってくる。(24ページ)

利他の主体はどこまでも受け手側にあり、その意味において私たちは利他的なことを行うことはできないのである
特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからない。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわからない。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えない。むしろ、暴力的なことになる可能性もある。いわゆる「ありがた迷惑」というものである。/つまり、「利他」は与えられたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのである。自分の行為の結果は、所有できない。あらゆる未来は不確実である。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができない。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのである。(122ページ)/受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉(や行為など)のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがある。(128ページ)/つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものである。また、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということである。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができないのである。/発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、「あのときの一言」(や「あのときの行為」)のように、過去からやって来るもの。これが利他の時制である。(132ページ)

利他的になるためには「偶然の自覚」に基づいて器(うつわ)のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要である
私という存在は、突然、根拠なく与えられたものである。あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである(与格的な存在)。ここに存在の被贈与性という原理がある。/そして、誕生以降も私という存在の奇跡は続く。今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立している。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されている。(150ページ)/この「私が私であることの偶然性」についての自覚が、「自分が現在の自分ではなかった可能性」「私がその人であった可能性」へと自己を開くことになる。(143ページ)/この「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながり、連帯意識を醸成し、「利他」が共有される土台を築くことになる。(143、145ページ)/ここで重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器(うつわ)になることである。偶然そのものをコントロールすることはできない。しかし、偶然が宿る器になることは可能である。(176ページ)/そして、この器にやって来るものが「利他」である。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られる。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始める。/このような世界観のなかに生きることが、「利他」なのである。/だから、利他的であろうとして、特別のことを行う必要はない。毎日を精一杯生きることである。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為(な)すべきことを為す。能力の過信を諫(いさ)め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのである。(177ページ)

〇筆者の手もとに、若松英輔著『はじめての利他学』(NHK出版、2022年5月。以下[3])という本がある。若松も[1]の著者のひとりである。若松はいう。人と人との「つながり」が問われている今日、「私たちがもう一度、他者とともに生きるために『つながり』を持続的に深めるには何が必要か。この問題を解く鍵語(キーワード)として考えてみたいのが『利他』である」(6ページ)。そして若松は、[3]において、日本仏教の視座から最澄や空海、儒教のそれから孔子や孟子、西洋哲学からフランスのオーギュスト・コント(1798年~1857年)やアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ、1868年~1951年)らの「利他」の思想を取りあげる。とともに、「利他を生きた人たち」として吉田松陰や西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹らの「利他」の哲学を紹介し、論述する。そのうえで若松は、ドイツの心理学者・哲学者であったエーリッヒ・フロム(1900年~1980年)の『愛するということ』(1956年)を読み解き、「自分を愛すること」、すなわち「自分を深く信頼すること」が「利他」につながる、と主張する。次の一節が若松の結論である。

自分で自分のことを愛することができれば、その人は自分を固有なものにできる。そして、そのうえで誰かのことを愛することができれば、その人は他人のことを固有な存在として認めることができる。自分自身が固有であると知ることは、他者が固有であると知ることである。それはすなわち自他ともに等しい存在であることを経験するということでもある。/愛を通して利他を考えるとき、私たちは愛の前で等しくなければならない。Aさんのことは愛せて、Bさんのことは愛せないのであれば、それは利他がうまく働いている状態とはいえないのである。/利他には等しさが必要である。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのである。/(人は唯一無二の存在であることを認め、自他を愛するという)真の意味の「愛」があるとき、そこに在るものはすべて等しくなる。ただ人間であるというそのことにおいて、等しく貴い存在になる、のである。(118~119ページ。語尾変換)

〇前述の[1]で伊藤は、障がい者へのインタビューを通じて、こう語る。晴眼者が視覚障がい者に先回りしてことこまかに道案内をするとき、それはしばしば「善意の押しつけ」になってしまう。それは、視覚障がい者にとっては、「障がい者を演じること」が求められることになり、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまう。それはまた、障がい者が「健常者の思う『正義』を実行するための道具にさせられてしまう」(47ページ)ことになる。さらに伊藤は、認知症当事者の言として、こういう。認知症の当事者がイライラし怒りっぽいのは、支援や援助を求めていないのに周りの人が助けすぎるからではないか(46~48ページ)。福祉教育の実践・研究において、深く留意したい点である。
〇なお、筆者はしばしば、とりわけ福祉教育実践をめぐって「思いやり」と「思い違い」「思い上がり」はときとして紙一重(かみひとえ)であり表裏一体である、と語ってきた。ここで改めて強く認識したい。
〇加えて、次のことを付言しておきたい。人間は日常生活や社会生活を営むうえで何らかの支援や援助を受けるに際して、「たすけられ上手・たすけ上手に生きる」ことが問われることがある。その際の「たすけられ上手」とは、  甘え上手や集(たか)り上手ではないのは当然のことながら、社会(世間、財界)や支援者・援助者が期待し求める「たすけられ上手を演じる(あるいは演じさせられる)こと」(演じるさまや人)であってもならない。

【初出】
<雑感>(181)阪野 貢/「利他」再考の3冊:利他は事後的であり、利他的になろうとする作為は利他を遠ざける ―中島岳志著『思いがけず利他』等のワンポイントメモ―/2023年7月15日/本文

 


14 “Well-being”  の視点


“Well-being”  の視点【その1】

<文献>
(1)マーティン・セリグマン、宇野カオリ監訳『ポジティブ心理学の挑戦―“幸福”から“持続的幸福”へ―』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年10月、以下[1]。
(2)前野隆司『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門―』講談社現代新書、2013年12月、以下[2]。
(3)前野隆司『実践・脳を活かす幸福学 無意識の力を伸ばす8つの講義』講談社、2017年9月、以下[3]。
(4)前野隆司・前野マドカ『ウェルビーイング』日経文庫、2022年3月、以下[4]。
(5)前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』プレジデント社、2022年5月、以下[5]。
(6)渡邊淳司・ドミニク=チェン監修・編著『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』ビー・エヌ・エヌ、2020年3月、以下[6]。
(7)石川善樹・吉田尚記『むかしむかし あるところに ウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ―』KADOKAWA、2022年1月、以下[7]。

「ウェル・ビーイングとは、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念」である(厚生労働省『雇用政策研究会報告書』、2019年7月、1ページ)
「ウェルビーイングとは『健康』と『幸せ』と『福祉』のすべてを包む概念」である(前野隆司・前マドカ:下記[2]18ページ。注①)
「持続的ウェルビーイングは、人間が心身の潜在能力を発揮し、意義を感じ、周囲の人との関係のなかでいきいきと活動している状態」を示す包括的な概念である(渡邊淳司・ドミニク=チェンほか:下記[6]30ページ)

〇筆者(阪野)はかねてより、「福祉」を、キャッチフレーズ的に「だんの らしの あわせ」について「みんなで考え、みんなで汗を流すこと」を意味する言葉として、「ふくし」と表記してきた。その際、「しあわせ」についても簡潔に、「みんなが 満足していて 楽しいこと」と言ってきた。それは、個人のひと時の気分や感情に留まるものではなく、人生という長い期間にわたる「しあわせ」であり、しかも「みんなが」社会的に「良好な状態」にあることを含意するものとして考えてきた。近年、いろいろな分野で多用さ、注目を集めている “ Well-being”「ウェルビーイング」に通じる。(注②)
〇ウェルビーイングという言葉は、1946年7月に設立された世界保健機関(WHO)の世界保健憲章(1948年4月発効)のなかで使われたのが最初であると言われている。“ Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. ”「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」がそれである。ここでは、“ well-being ”は「満たされた状態」と訳される。また、1946年11月に公布、翌1947年5月に施行された日本国憲法は、その第13条で幸福追求権について謳っている。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」がそれである。ここでは、「幸福追求」は公式には、“ pursuit of happiness ”と訳される。すべて国民は、第25条に基づく健康で文化的な最低限度の生活保障とともに、第13条が謳う幸福を追求し自己実現を図る基本的権利を有するのである。
〇時を経て、2015年9月、国連サミットで2030年を目標年次とする「持続可能な開発目標」(SDGs:Sustainable Development Goals)が採択された。SDGs には、17のゴールと169のターゲットがある。3番目のゴールとして、“ Good Health and Well-Being ”「すべての人に健康と福祉を」が明記されている。ちなみに、1番目のゴールは“No Poverty”「貧困をなくそう」、2番目のそれは“Zero Hunger”「飢餓をゼロに」である。
〇このように、ウェルビーイングは古くて新しい言葉である。とりわけここ数年来のコロナ禍によって、改めて「健康」(health)や「幸せ」(happiness)、「福祉」(welfare)や「豊かさ」(richness)などに対する意識や価値観が変化し、働き方(雇用形態)や企業経営(健康経営)のあり方が問われることになる。それをひとつの要因や背景として、ウェルビーイングへの注目が拡大し、研究が進展している。ちなみに、2021年12月に「ウェルビーイング学会」が発足し、2022年1月に新聞紙上に「今年をウェルビーイング元年に」(注③)という記事が載った。そして、2024年4月には武蔵野大学に日本初(世界初)となる「ウェルビーイング学部」が開設される。「ウェルフェア(Welfare)からウェルビーイング(Well-being)へ」という新しい時代の幕開けであろうか。なお、このフレーズは、1994年3月に上梓された高橋重宏の著作『ウェルフェアからウェルビーイングへ―子どもと親のウェルビーイングの促進:カナダの取り組みに学ぶ』(川島書店)にみられる。
〇筆者(阪野)の手もとに、ポジティブ心理学(ウェルビーイングの実現を志向する心理学)の創始者と評されるアメリカの心理学者マーティン・セリグマン(Martin E. P. Seligman)の本――『ポジティブ心理学の挑戦―“幸福”から“持続的幸福”へ―』(宇野カオリ監訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年10月。以下[1])がある。[1]でセリグマンは、「ウェルビーイングの5つの要素」として有名な「PERMA(パーマ)」という指標について論述する(33~53ページ)。P:ポジティブ感情(Positive Emotion)、E:エンゲージメント(Engagement)、R:関係性(Relationships)、M:意味・意義(Meaning)、A:達成(Achievement)、がそれである。
〇「PERMA」すなわちウェルビーイングの状態について平易・簡潔に言えばこうであろう。次のような人は幸せである、という。(下記[4]参照)。

マーティン・セリグマン/「ウェルビーイングの5つ要素」
P:「ポジティブ感情」 嬉しい、楽しいなど、ポジティブな感情を持つ人。
E:「エンゲージメント」 物事に関わり、それに没頭したり夢中になる人。
R:「関係性」 援助や協力など、他者とのつながりやよい関係性を持つ人。
M:「意味・意義」 人生の意味・意義について自覚したり社会貢献する人。
A:「達成」 何かを達成(成功)するとともに、達成のために努力する人。

〇そして、セリグマンはいう。「幸せとは自分が気持ちよく感じることであり、人生の方向性はその気持ちよさを最大限にしようとすることで決まるとする。/ウェルビーイングとは、自分の頭の中だけで存在するわけにはいかないものだ。ウェルビーイングは、気持ちよさと同時に、実際には意味・意義、良好な関係性、および達成を得ることが組み合わさったものなのだ。人生の選択は、これら5つの要素すべてを最大化することで決まる」(50ページ)。
〇筆者の手もとに、日本における幸福学研究の第一人者と評される前野隆司の「ウェルビーイング」に関する本が4冊ある(しかない)。(1)『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門―』(講談社現代新書、2013年12月。以下[2])、(2)『実践・脳を活かす幸福学 無意識の力を伸ばす8つの講義』(講談社、2017年9月。以下[3])、(3)前野マドカとの共著『ウェルビーイング』(日経文庫、2022年3月。以下[4])、(4)『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社、2022年5月。以下[5])、がそれである。
〇前野によると、ウェルビーイング(幸福)研究には、各人の主観的な幸福感を統計的・客観的に計測する「主観的幸福研究」と、収入や学歴、生活状況や健康状態などの客観的なデータを使って間接的に幸福を計測する「客観的幸福研究」がある([2]33~34ページ)。
〇前野は、主観的幸福研究をベースに、ウェルビーイングな状態でいるために必要な因子――「幸せの4つの因子」について探究する。次がそれである([2]96~113ページ、[3]98~113ページ、[4]72~75、87~92ページ、[5]119~140ページ)。

前野隆司/「幸せの4つの因子」
第1因子:「やってみよう」因子(自己実現と成長の因子)
やりがいや強みを持ち、主体性の高い人は幸せである。
・コンピテンス(私は有能である)
・社会の要請(私は社会の要請に応えている)
・個人的成長(私のこれまでの人生は、変化、学習、成長に満ちていた)
・自己実現(今の自分は「本当になりたかった自分」である)
第2因子:「ありがとう」因子(つながりと感謝の因子)
つながりや感謝、あるいは利他性や思いやりを持つ人は幸せである。
・人を喜ばせる(人の喜ぶ顔が見たい)
・愛情(私を大切に思ってくれる人たちがいる)
・感謝(私は、人生において感謝することがたくさんある)
・親切(私は日々の生活において、他者に親切にし、手助けしたいと思っている)
第3因子:「なんとかなる」因子(前向きと楽観の因子)
前向きかつ楽観的で、何事もなんとかなると思える、ポジティブな人は幸せである。
・楽観性(私はものごとが思い通りにいくと思う)
・気持ちの切り替え(私は学校や仕事での失敗や不安な感情をあまり引きずらない)
・積極的な他者関係(私は他者との近しい関係を維持することができる)
・自己受容(自分は人生で多くのことを達成してきた)
第4因子:「ありのまま」因子(独立とマイペースの因子)
自分を他者と比べすぎず、しっかりとした自分らしさを持っている人は幸せである。
・社会的比較志向のなさ(私は自分のすることと他者がすることをあまり比較しない)
・制約の知覚のなさ(私に何ができて何ができないかは外部の制約のせいではない)
・自己概念の明確傾向(自分自身についての信念はあまり変化しない)
・最大効果の追求のなさ(テレビを見るときはあまり頻繁にチャンネルを切り替えない)

〇そして、前野はいう。これらの4つの因子(第1因子:主体的に生きる、第2因子:共に生きる、第3因子:未来を信じる、第4因子:他人と自分を比べない)を意識しながら行動していけば、どんな人でも自分らしい幸せを掴むことができる。しかし、現代社会・世界は、利己主義から利他主義まで、民主主義から専制主義まで、個人主義から全体主義まで、経済成長から脱成長まで両極化しつつあり、バラバラのカオス(混沌)になりつつある。こうした混迷と分断の「ディストピア禍」において、多様な価値観を持つ人々がつながり合い、利他の精神を築き、より調和的な社会・世界をめざすためには、他者を「想像し、許し、信じ、対話する」ことからはじめる以外に解決策はない([5]141~147ページ)。
〇筆者の手もとにもう1冊、渡邊淳司・ドミニク=チェン監修・編著の『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』(ビー・エヌ・エヌ、2020年3月。以下[6])という本がある。「ウェルビーイングとは、『わたし』が一人でつくりだすものではなく、『わたしたち』が共につくりあうものである」(2ページ)というのが、[6]のシンプルなメッセージである。すなわち、「個でありながらに共」という日本的なウェルビーイングのあり方について探究する([6]帯)。
〇[6]では、単数形の「わたし」ではなく、複数形の「わたしたち」のウェルビーイングを想定する。そして、「『わたしたち』のウェルビーイングとは『競争』するものではなく、『共創』するものなのだ。(中略)『わたし』のウェルビーイングを追い求めつつ、『わたしたち』のウェルビーイングを共につくりあう、重層的な認識によってウェルビーイングを捉えていく必要がある」(4ページ)と説く。渡邊・チェンらにあっては、「効率性」や「経済性」といった既存の「ものさし」にとらわれた個人主義的(individualistic)な「わたし(個)のウェルビーイング」だけでなく、人と人とのあいだにウェルビーイングが生じると考える集産主義的(collectivistic)な「わたしたち(共)のウェルビーイング」(32ページ)も、「人それぞれの心を起点とした新しい発想の『コンパス』となる」(3ページ)。それによって、「コミュニティと公共」というより広い視点からのウェルビーイングについても論じることになる。そして、ウェルビーイングに配慮した新しい社会像をめざすことができるのである(3~6ページ)。
〇渡邊・チェンらによると、ウェルビーイング(心身がよい状態)には3つの側面・領域がある。心身の機能が不全でないか、病気でないかを問う医学の領域である「医学的ウェルビーイング」、その時の気分の良し悪しや快・不快など、一時的かつ主観的な感情に関する領域である「快楽主義的ウェルビーイング」、心身の潜在能力を発揮し、周囲の人との関係のなかで意義を感じている「いきいきとした状態」を指す「持続的ウェルビーイング」がそれである(20、30ページ)。すなわち、健康で、心地よく、周囲の人との関係のなかで意義を感じいきいきと活動している状態をウェルビーイングというのである。そして「近年は、医学的もしくは快楽主義的なものではなく、ウェルビーイングを持続的かつ包括的に捉えようとする考えが主流となっている」(20ページ)。
〇次いで[6]では、持続的ウェルビーイングを生み出しその向上を図るためには、他者との関係性のなかでどのような働きかけ(「配慮」)をすべきか(「ウェルビーイング向上のために他者が介入する際、留意すべき点」45ページ)、について説く。以下がその要点である(45~49ページ)。

渡邊淳司・ドミニク=チェン/「ウェルビーイングを生み出すための6つの配慮」
個別性への配慮
何よりも意識すべきは、「私とあなたは違う」という点である。ウェルビーイングの要因の重要度は、個人によってやその人のライフステージによっても変化する。
自律性への配慮
ウェルビーイングは誰かに与えるものではなく、自身で気づき、行動するものである。他者に働きかける際には、いくつかの選択肢を用意し、相手に一定の自律性を担保することが望まれる。
潜在性への配慮
「ふとした瞬間に感じる気持ち良さ」や「ちょっとした違和感」など、潜在的には存在しているが自覚されていない情報や感覚体験をすくい上げ、それらに目を向ける。
共同性への配慮
人間は他者との関係性のなかで生きている。当事者間に深い共感や価値観の共有をもたらすものに取り組んだり、体験したりする。
親和性への配慮
ポジティブ感情には、興奮を伴うポジティブ感情と、平穏や思いやり、愛といったリラックスするそれがある。現代社会は前者に偏っており、両方のポジティブ感情のバランスを取ることが望まれる。
持続性への配慮
ウェルビーイングは、短期的あるいは長期的な目標設定をすることだけでなく、その過程の充実によって持続性を作り出すことが重要になる。

〇そして、渡邊・チェンらは「コミュニティと公共のウェルビーイング」についていう。インターネットの普及などによって、コミュニティのあり方が揺れ動いている。そんななかで、「公共のウェルビーイング」について考える際、「存在論的安心」「公共性」「社会創造ビジョン」という3つの要因が重要となる。「存在論的安心」とは、自身や自分を取り巻く環境や世界が安定的・継続的に存在し、それに対する確信や信頼のことを指す。「公共性」とは、多様な人々が共に生きられる公共の場(空間)を、一人ひとりのボトムアップな動きによって創り出すことをいう。そしてこの2つを前提に、自分たちが自律的に活動することによって新たなイノベーションが生まれ、社会創造が実現する(「社会創造ビジョン」)。それは自己効力感や達成感を得る機会になり、一人ひとりのウェルビーイングを高めていく。要するに、「コミュニティと公共のウェルビーイング」を実践していくことは、新たな社会や未来を構想し創造することそのものなのである(63~75ページ)。
〇この点(地域コミュニティにおけるウェルビーイング)は、住民個々人のウェルビーイングと集合的なウェルビーイング(コミュニティ・ウェルビーイング)を実現していく「まちづくり」や、そのための教育(「市民福祉教育」)に通じることになる。例によって唐突であるが、指摘しておく。
〇さらに筆者の手もとにもう1冊、石川善樹・吉田尚記の『むかしむかし あるところに ウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ―』(KADOKAWA、2022年1月。以下[7])という本がある。[7]では、「日本の文化と風土を前提にしたウェルビーイングへの道とは何か」について、「古事記」や「日本昔ばなし」などから読み解く。そこから得られた「教訓」は次の5つである。

石川善樹・吉田尚記/「昔話と古典から学ぶウェルビーイング5つの教訓」
(1)上より奥を見る:上ばかりを見て焦るのではなく、あえて視点を外してみる。
(2)ハプニングを素直に受け入れてみる:突発的なトラブルや出来事と楽しみながら向き合ってみる。
(3)人間は多面体であることが当然という認識に立ち戻る:人間は本来、多面的な顔、矛盾した性質を持っていることを再認識する。
(4)自己肯定感の低さにとらわれすぎない:日本人には謙遜の精神が根付いているが、自己肯定感への執着を手放す。
(5)他者の愚かさを許し、寛容に受け入れる姿勢を身につける:自分と他者に寛容になる。

〇石川・吉田は、この5つの教訓が「現代人のウェルビーイングの素地になる」という(156~159ページ)。
〇なお、上述の[6]では、日本的ウェルビーイングの特徴として、次の3点を指摘している。(1)自律性(自分の周りの環境に対し主体能動性を感得できる)、(2)思いやり(自己のウェルビーイングのみならず周りの他者のそれにも寄与できる)、(3)受け容れ(自律性と他者の存在が調和し現在のポジティブ・ネガティブの双方を含む状況を受け容れられる)、がそれである(56~57ページ)。
〇冒頭で記したように、ウェルビーイングは、身体的、精神的、社会的に満たされている良好な状態にあることを意味する。すなわち、ウェルビーイングは、「豊かさ」を考えるためのキーワードである。その点をめぐって、筆者はこれまで、「豊かさ」を獲得・実現するための条件について言及してきた。ここでそれを再認識(再確認)しておくことにする。

阪野 貢/「豊かさ」を獲得・実現するための5つの条件
(1)基本的人権の尊重や自由・平等と民主主義の確保を前提に、人々の個別具体的な発達保障と生活保障の具現化と共生や支え合いの創出が図られること。
(2)すべての人が個性的・創造的に自分を生きる(生き抜く)ために多様な選択肢が準備され、その選択の自己決定やそのための支援がなされること。
(3)自分の生きがいや自己実現のための活動にとどまらず、他者や地域・社会のための、社会変革を進める社会貢献活動(共働活動)に参加できること。
(4)そのための個人的な尊敬と信頼に基づく熟議やさまざまな知識や経験による想像力と創造力によって、明るい社会と未来(希望)が開拓・共創されること。
(5)以上のことを可能にし、相互支援と相互実現、地域・まちづくり、社会変革と社会創造を推進するための教育・学習(市民福祉教育)が、すべての人の生涯にわたって自律的・主体的に行われること。


➀ 図1は、前野隆司・前野マドカの「ウェルビーイングの定義」を図示したものである。図2は、2010年12月に内閣府に設けられた「幸福度に関する研究会」(2010年~2013年)が、「幸福度指標試案」の構成要素を体系図として描いたものである。参考に供しておく。図2では、「幸福度」指標を「主観的幸福感」と、それを支える3つの柱として「経済社会状況」「(心身の)健康」「関係性」を含めて考えている。また、地球温暖化や大気汚染などの環境面の「持続可能性」についても重視している。

 図1 ウェルビーイングとは何か


② 平仮名表記の「ふくし」については、例えば、松岡広路の論考「<ふくし>を実質化する福祉教育・ボランティア学習とは」『ふくとし教育』通巻36号、大学図書出版、2023年9月、62~63ページ、が興味深い。松岡はいう。<ふくし>とは、「あらゆる人が、多元的課題を内包する日常生活を基点に、臨床的かつ集合的に幸福を追求するとともに、マジョリティ文化のなかで当たり前とされてきた社会の在り方・生き方およびその根底の価値を、生活者としての視点で疑い、その変容を促す主体となるような総合的な営為」(64ページ)である。簡潔に言えば、「あらゆる人が、幸福や命をめぐる学びの中で、現代の生き方・ライフスタイルを批判的に再構築し社会を変えるという、人間らしさの本源を問う営みである」(6ページ)。

③ 「今年をウェルビーイング元年に」(日経電子版/2022年1月5日)

【初出】
<雑感>(193)阪野 貢/“ Well-being ” 考―「しあわせ」の構成要因に関するワンポイントメモ―/2023年12月12日/本文

 

“Well-being”  の視点【その2】

<文献>
(1)草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる―循環型共生社会をめざす実践』明石書店、2022年7月、以下[1]。

〇2015年9月、ニューヨークの国連本部で開催された「国連持続可能な開発サミット」(United Nations Sustainable Development Summit)で、2030年を目標年次とする「持続可能な開発目標」(SDGs:Sustainable Development Goals)が採択された。それは、「誰一人取り残さない(no one will be left behind)」持続可能な社会の実現をめざす世界共通の目標である。
〇筆者(阪野)の手もとに、草郷孝好著『ウェルビーイングな社会をつくる―循環型共生社会をめざす実践』(明石書店、2022年7月。以下[1])という本がある。
〇[1]で草郷は、「誰一人取り残さない」持続可能な社会を実現するためには、社会発展モデル(経済・社会システム)を従来の「経済成長モデル」から「ウェルビーイングモデル」へ転換して「循環型共生社会」を切り拓くことが必要かつ重要であるとする。そして、そのためには、労働・教育・医療・環境・経済・社会に関する政策をウェルビーイングモデルに基づいたものに転換する必要があるとし、その処方箋を提示する。例えば、経済効率をあげる人材育成のための競争教育(偏差値教育)から、主体的に物事に取り組む力や他者に共感し協働する力を涵養していく「共創・共修学習」への転換や(152ページ)、地域づくりについて「行政が企画して、住民が参加する」という「市民参加」から、「住民の主体的活動を柱にして、行政がそれを支援する」という「行政参加」への転換(183ページ)、などがそれである。
〇「経済成長モデル」は一般的に、人間の物質的な豊かさを追求する経済成長のために生産活動の維持・拡大を図り、経済的利益を最優先する社会発展モデルをいう(大量生産、大量消費、大量破棄によって維持されてきた経済システム)。草郷にあっては、「ウェルビーイングモデル」とは、一人ひとりの人間が身体的・精神的・社会的に良好な状態を維持するために、自身が持っている「潜在能力」を活かし、充足度の高い生き方を選択し、追求できる社会発展モデルをいう(114ページ)。そして、「循環型共生社会」とは、ウェルビーイングを大切にし、経済の持続的成長と環境の持続的保全を図る循環型経済と、誰もが人間らしく生活でき、多様性と人権を認め合う思いやりのある共生社会の持続的発展がバランスよく保たれる社会像(99ページ)、循環型経済と共生社会の2つを併せ持つ社会像(15ページ)をいう。
〇以下では例によって、「まちづくりと市民福祉教育」を射程に入れながら、[1]における草郷の「ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会」に関する言説や論点のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

SDGsと循環型共生社会
SDGsが掲げる「誰一人取り残さない持続的な社会」とは、
(1)誰もが安心して人間らしい生活のできる社会(人間らしい生活)
(2)お互いを認め合い多様性を大切にする共生社会(多様性重視)
(3)循環型経済によって環境と共存する持続可能な社会(環境との共存)
この3つの条件をすべて備えた「循環型共生社会」である。(26ページ)/別言すれば、循環型共生社会は、環境と調和し、経済と環境の両立をめざす循環型経済システムと、すべての人に基本的な生活と人権の保障(憲法25条の生存権)をめざす共生社会システムを両輪とする。(103ページ)

ウェルビーイングモデルと社会的共通資本
循環型共生社会を実現するためには、社会発展モデルを従来の「経済成長モデル」から「ウェルビーイングモデル」に転換する必要がある。(103ページ)/ウェルビーイングモデルは、日本の経済学者である宇沢弘文が提起した「社会的共通資本」(Social Overhead Capital)を土台として成り立つ。(123ページ)/宇沢がいう社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。それは、大気、森林、河川、水、土壌などの「自然環」、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの「社会的インフラストラクチャ―」、教育、医療、司法、金融制度などの「制度資本」の3つの大きな範疇にわけて考えることができる。(124ページ、図1参照)

ウェルビーイングモデルと潜在能力アプローチ
ウェルビーイングモデルは、インドの経済学者であるアマルティア・セン(Amartya Sen)が提唱した「潜在能力アプローチ」(capability approach、ケイパビリティアプローチ)を大黒柱として成り立つ。(116ページ)/センは、誰もが真の自由を保障される社会こそ、よりよい生き方を選択できるウェルビーイングの高い社会であると考える。“真の自由”とは、誰もが自分の持っている素質や可能性に気づき、それを伸ばしていくことによって、充足度の高い生き方を自ら選択できる自由のことである。(116ページ)/潜在能力アプローチのもう一人の提唱者であるアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウム(Martha Craven. Nussbaum)は、「善く生きる」ためには、安定した経済基盤を持つだけではなく、社会的包摂、政治的参加の保障、多様な文化を認め合う社会での暮らしが欠かせない。善く生きて、幸せな人生を送るには、個人と社会の両方が密接に関係し合っていると考える。(118~119ページ)/ヌスバウムにあっては、人間は、生まれた時から備わっている生来の潜在能力(基礎的潜在能力)と、その潜在能力を個人の努力や周りの支援によって磨き・伸ばす(内的潜在能力)とともに、それを発揮できる多様な選択肢を保障する社会を実現すること(結合的潜在能力)によって「善く生きる」ことができるのである。(118~120ページ、図1参照)

内発的地域協働と地域づくり
地域の社会変革には、地域住民が社会のあり方を思い描き、未来ビジョンを構想することが大きな力になる。そして、未来ビジョンの実現には、地域に関わるさまざまな当事者(stakeholder、ステークホルダー)の主体的な地域協働が欠かせない。(169ページ)/地域のステークホルダーが主体的に地域協働していくことを「内発的地域協働」という。(171ページ)/イギリスの国際開発省(DFID:Department for International Development、1997年~2020年)は、持続的に生活改善を図るためには地域協働が不可欠とし、地域協働を醸成するために、「当事者主体の地域協働を醸成するための6つのポイント」に集約し、実行に移した。
(1)当事者目線で問題に向き合う
(2)当事者自身が問題解決に動く
(3)当該地域と地域外との関係を意識する
(4)行政と市民の協働
(5)制度、社会、経済、環境の持続性
(6)柔軟で長期的な視点を持つ
がそれである。/これらからいえるのは、当事者目線と当事者行動が重要であること、地域間の連携が大切であること、地域の当事者同士の協働が必要であること、中長期の視点を持って地域協働に取り組むことである。地域社会を変えていくためには、長期的視点に立ち、当事者目線、当事者協働、地域間連携という形で地域協働を推し進めていくことが重要なのである。(171~172ページ)

循環型共生社会への変革のポイント
地域レベルで、ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会に舵取りしていくためのポイントは、次の2点である。
(1)変革の方向性を打ち出すリーダーの存在
地域社会の変革に欠かせないのは、どのような社会を構想し、当事者である住民の参画意識を引き出し、協働をリードする優れたリーダーの存在である。
(2)当事者の地域協働と行政参加への切り替え
行政は、まちづくりの主役である住民のアイデアや動きにアンテナを張り、それらのパートナーとして参加していく行政参加に切り替えていくことが必要である。(205~207ページ)

ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会に変革していくために、私たちが取り組むべき重要なポイントは、次の3点である。
(1)循環型共生社会への地域変革ビジョンを構想し、推進する
地域の当事者が、地域社会の将来ビジョンを描き、それを実現するために行動していけるかどうかがカギを握る。
(2)地域独自の文化、歴史、智慧を活かし個性ある循環型共生社会をつくる
循環型共生社会は、地域固有の環境、生活文化、地域の歴史、そして、地域住民がつくりだしてきたさまざまな智慧を活かして、持続的な社会の実現をめざしていく。
(3)循環型共生社会の暮らしを日常生活に取り込んでいく工夫と協働を楽しむ
循環型共生社会の実現には、日頃の生活を見直して、自ら生活を変えていくことが必要であり、そのために、住民同士が対話し、協働することで、生活の拠点である地元をかけがえのない共通の場(コモンズ)として育てていく。(213~215ページ)

〇草郷は、「社会的関係資本」と「潜在能力アプローチ」そして「内発的発展論」(内発的地域協働)を援用して、経済成長モデルからウェルビーイングモデルへの転換を図り循環型経済システムと共生社会システムを併せ持つ循環型共生社会の実現を提唱する(図2参照)。そして草郷はいう。「私たち自身が社会を変えていく当事者であることを自覚し、小さなことから協働、対話、共創によって自分事として何かを変えていくことが、後々、大きく社会を変えていくことにつながる」。「ウェルビーイングを大切にする地域が増えていけば、循環型共生社会に向かって社会は動き出していく」(222ページ)。そのためには、「主体性と共感力を磨く教育政策」への転換が求められる(150~153ページ)。これが草郷からのシンブルで強いメッセージである。それは、筆者が言ってきた「まちづくりと市民福祉教育」に通底する。

図1 ウェルビーイングを大切にする社会の特徴

図2 循環型共生社会の構想

【初出】
<雑感>(194)阪野 貢/“ Well-being ” 再考―「ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会」に関するワンポイントメモ―/2023年12月22日/本文

 

“Well-being”  の視点【その3】

<文献>
内田由紀子『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』新曜社、2020年5月、以下[1]。

〇筆者(阪野)の手もとに、内田由紀子著『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』(新曜社、2020年5月。以下[1])という本がある。内田にあっては、主観的な幸福感(Happiness、subjective well-being)は、「喜びや満足などを含んだ、ポジティブな感情・感覚」として定義することができる。それは、一時的な感情状態だけではなく、持続的な、自分の状態や人生に対する評価や心理的安寧(well-being)も含んだ概念である(1ページ)。また、幸福は、個人の性格特性や志向性などの価値観を反映するものであるが、その個人が暮らす環境や文化社会的要因についての状態を示すものである。つまり公共の政策や意思決定にも関わるものである(20ページ)。国レベルの幸福については、経済的な豊かさが重要視されるが、経済自体が直接的に幸せをもたらすわけではなく、GDP(国内総生産)に代表される経済状態は幸福を高める要因のひとつに過ぎない(13ページ)。こうした考えのもとで内田は、専門とする文化心理学の視点・視座から、「幸福とは何か」「幸福とはどのように私たちが暮らす文化と関わっているのか」について客観的・実証的に探究する。内田はいう。[1]において「『幸せになりましょう』というキラキラ輝くメッセージではなく、『幸せとは何かをシリアスに考えましょう』というメッセージを発信したい」と(151ページ)。
〇[1]のキーワードのひとつに「文化的幸福観」がある。その一文をメモっておくことにする(抜き書き)。

幸福と文化的幸福観
幸福は個人が感じるものでありながら、何を幸福と感じるかは実はその人が生きる時代や文化**(傍点筆者)の精神、価値観、地理的な特徴を反映している。たとえば自然のなかで過ごすことで感じる幸福、消費のなかで感じる幸福は、どちらも幸せをもたらすものでありながら、前者はより自然豊かな地域で、後者はより都市的地域で感じられるものであり、農村部と都市部では幸せに関する考え方が違っているかもしれない。幸福はどのような状況に暮らす人もある程度理想とする感情状態でありながら、「どのように幸福を得るのか」はやはり文化によって異なっているだろう。/このような幸福についての考えは「文化的幸福観」と呼ぶことができる。文化的幸福観は、文化を構成する価値観や人生観を反映して成立している。社会生態学的環境(生業あるいは気候など)や宗教・倫理的背景などにより、人々が実際に追求する幸福の内容は異なっている可能性がある。文化・思想的背景がいったんできあがれば、人々は「幸福とは〇〇なものである」という文化的幸福観を教育などにより意識的・無意識的に再生産し、その文化内の他者の幸福の感じ方にも違いを与えるかもしれない。そしてどのようにして幸福を得ようとするか、どの程度の幸福を求めようとするかなどの幸福への動機づけのあり方も異なってくるであろう。(ⅴページ)

〇ここでいう「文化」とは、「ある集団内に社会・集団の歴史を通じて築かれ、共有された、価値あるいは思考・反応のパターン」をいう。すなわち、習慣やルール・価値観など、一定の集団(国家、民族、地域、家族など)のなかで共有され、伝達される有形無形の枠組みが文化である。それはまた、生活のなかに多層的に重なって存在しており、集団を構成する人々が変化すれば文化自体も変化することになる(73、74ページ)。
〇いまひとつのキーワードは「集合的幸福」である。その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

個人の幸福と集合的幸福
個人の幸福は、個々人の「心の持ち方」だけではなかなかうまくいかず、いろいろな社会の相互作用のなかで実現されている。これまでの個人の幸福モデルでは、一人ひとりの幸福の実現をめざすことが、組織や地域全体の集合的な幸福を高めることになるという視点で捉えられてきた。しかし、個人の幸福の追求は、誰かの幸福を搾取したり、誰もが利己的になることで「共貧状態」に陥ったりすることもあり得る。この視点に立てば、個人の幸福の追求だけでは集合的な幸福は実現せず、集合での持続可能な幸福モデルを考えることも必要になる。つまり、これからの幸福については、組織や地域全体における「個人の幸福」と「集合的幸福」の良きバランスを考えることが重要になる。(105、106ページ)

個人の幸せが、他者の幸せを搾取せずに協調的に成立することも大事な要件である。おそらく日本の協調的な幸福******(傍点筆者)は、他者との調和を重視することで、天災などの困難を乗り越え、周囲と助け合うために自分を律する、そういう機能をもって受け継がれてきた。個人ばかりに目を向けてそれが競争的な形で相手を打ち負かし、自らが多くの取り分を得ようとするようなものでは、社会は過度に競争的になり、安定した幸福は得られない。個人の幸せの行きつく先が、足りない部分を満たし続けようとしてしまう快楽主義的なものになってしまっては持続的な幸福は見込めない。個人が生きる意味や価値を感じられるような幸福を実感しながら、それを支える社会・集合とバランスを持っていくことは、現在日本における幸福について考えるうえで極めて重要なことなのではないだろうか。(143ページ)

〇日本の「協調的な幸福」については、内田は「文化的自己観」(Markus & Kitayama)――「相互独立的自己観」と「相互協調的自己観」をめぐって、こう説述する。相互独立的自己観は、人は他者や周囲の状況から区別されて独立に存在するものであり、人の行動はその人の内部にある属性(能力、性格など)による、という考え方(自己観)である。相互協調的自己観は、人は他者や周囲の状況などによって左右されるものであり、人の行動は周囲からの要求に合わせて行われる、という考え方(自己観)である(77~79ページ)。狩猟採集に依存する経済体系を歴史的にもってきたアメリカでは、前者の「個人の自立」が優先されやすく、定住型の農耕に依存する経済体系を歴史的にもってきた日本では、後者の「社会の協調」が優先されやすい(84ページ)。それゆえに、日本人は、自分だけが周囲から飛び抜けて幸福であったりすることよりは、「人並みの日常的幸せ」「ほどほどの幸せ」が大切にされる(68ページ)。
〇なお、内田は、「個人の自由」を重んじる価値観が形成されるなかで、日本人の心のあり方は今、一階が協調性、二階が独立性という、二階建ての家のようになっているのではないか、と指摘する(123ページ。図1:124ページ)。そして、「一階部分の協調性を、保守的で階層的なものではなく、互いの信頼関係を構築し、維持するためのシステムとして活用すれば、(増設された)二階部分の独立性とは両立する可能性がある」(125ページ)という。

図1 現代日本の自己における独立性と協調性の二階建てモデル

〇もうひとつのキーワードとして、「地域の幸福」に関する内田らの調査結果の概要をメモっておくことにする(抜き書き)。

地域内の「つながり」と幸福
地域内のつながりは住人の幸福度を上げている傾向がある。また、つながりは地域内部だけではなく、外の人とも広がっているほうがより良いようである。分析の結果、地域の幸福*****(傍点筆者)には社会関係資本(信頼関係)や地域内でのサポートのやり取りなどが重要な要素となっていることなどが見いだされた。また「閉鎖的」と思われがちな日本の地域内のつながりは、意外にも逆に「開放性」につながっていた。地域内信頼関係があれば、移住者についても受け入れる気持ちが強く、世代が異なる人など、多様な人の意見を聴こうとする雰囲気が醸成されていることなどがわかったのである。/このようなことから、地域内の「つながり」や「共有されている価値」を維持することに貢献するような活動(お祭りなど)や、地域間を橋渡しする制度設計(プロのコーディネート機能の活用)、そして地域外からの評価によって、自分たちが生きる社会・自然・文化的環境を再評価し、誇りをもてるような指針をつくることが重要なのではないかと考えている。(110~111ページ)

〇内田は、「地域の幸福」(地域内の集合的幸福)を高める試みの一例として、農村コミュニティにおける「普及指導員」の果たす役割について紹介する。普及指導員は、農業者や農業コミュニティを対象に、技術指導や経営指導を行う都道府県の職員である。内田らの研究の結論はこうである。農業コミュニティ内部の信頼関係(つながり)である「ソーシャル・キャピタルを形成することは農業コミュニティの幸福につながっていること、そしてそれは内部住民任せの自発的な部分だけではなく、普及指導員による外部からの働きかけによって支えることができるということが示された」(116ページ)。例によって唐突ながら、「まちづくり」や関係人口、コミュニティソーシャルワーカーなどにも通底する言説であろう。留意しておきたい。
〇[1]における内田の主張のひとつは、「幸福は『ごく個人的な』ものと考えられがちであるが、実は社会や文化の影響を大きく受ける、『集合的な現象』でもある」(146ページ)というものである。個人の幸福と集合的幸福の関係は、個人の幸福の追求は集合的幸福度を高め、集合的幸福の追求は個人の幸福度を高めるという相互性・不可分性にある。そこで内田は、個人の幸福と集合的幸福のバランスを保つことが重要であると言う。その際のバランスには、前述した日本人の相互協調的自己観、すなわち「人並み」「ほどほど」といった感覚を大切にするバランス思考が反映されているのであろう。
〇ここでは、個人の幸福度と集合的幸福度を高めるためには、個人に対する働きかけと組織や地域・社会に対する働きかけが必要かつ重要となることに留意したい。その際、ステレオタイプの幸福(「これが幸せなんだ」)や社会的に強制された幸福(「幸せだと思いなさい」)ではなく、それぞれの幸福とそれを支える要件を個々人が、地域・社会全体が思考し追求することが肝要となる(21ページ)。そこで問われるのが、内田が紹介する農業者(個人の幸福)や農業コミュニティ(集合的幸福)に対する「普及指導員」(生産技術に関連する技術力・活動と地域のつながりに関連するコーディネート力・活動が求められる:116ページ)のような役割や機能であろう。「まちづくり」(住民と地域コミュニティ)における重要な視点・視座でもある。
〇なお、筆者が本稿のタイトルを「“Well-being”再々考」としたのは、内田と同様に、「幸福」は個人的な感情状態をさす「幸せ」(happy、happiness)ではなく、地域・社会や環境などを含めた包括的な「幸福」(Well-being)概念として表示すべきであるという思考によるものである。そして、その根底には(またまた唐突であるが)、「困っている人を助ける」という「福祉」(welfare)観ではなく、「みんなの必要を満たす」という「ふくし」(Well-being)観がある。

【初出】
<雑感>(204)阪野 貢/“ Well-being ”再々考:文化的幸福観と集合的幸福をめぐって ―内田由紀子著『これからの幸福について』のワンポイントメモ―/2024年4月24日/本文

 


15  「自前」の思想


<文献>
(1)清水展・飯嶋秀治編『自前の思想―時代と社会に応答するフィールドワーク』京都大学学術出版会、2020年10月、以下[1]。
(2)佐高信・田中優子『池波正太郎「自前」の思想』集英社新書、2012年5月、以下[2]。
(3)伊藤幹治『柳田国男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて』岩波書店、2011年5月、以下[3]。

〇筆者(阪野)の手もとに、清水展・飯嶋秀治編『自前の思想―時代と社会に応答するフィールドワーク』(京都大学学術出版会、2020年10月。以下[1])という本がある。[1]は、これからフィールドワークとそれに基づいて発信しようとする人たちが、「かつてそれぞれの時代の喫緊課題に積極的に関わり、発言し、行動していったフィールドワークの先達」(18ページ)の人生と仕事ぶり(技法や作法など)を学ぶことを通して、「示唆や励ましを得ること」(1ページ)を目的に編まれたものである。
〇「取り上げる先人たちは、自身のフィールドワークでの体験や知見にもとづき、それをじっくりと熟成させながら自前の思想を紡ぎ出し」(1ページ)、時代と社会の現場と現実に関与し、応答し、さらには積極的に介入していった人たちである。中村哲(医師・土木技師)、波平恵美子(文化人類学・医療人類学)、本多勝一(新聞記者・ルポライター)、石牟礼道子(詩人・小説家)、鶴見良行(東南アジア海域世界研究)、中根千枝(社会人類学)、梅棹忠夫(生態学・民族学)、川喜田二郎(地理学・文化人類学)、宮本常一(日本民俗学)、岡正雄(民俗学)の10人がそれである。
〇[1]の編者のひとりである清水は、「はじめに―現場と社会のつなぎ方」において、「10人の先達」の略歴と業績を紹介する。そして、それぞれがフィールドワークから「自前の思想」を編み上げていった、その方法や意義について言及する。それを通して清水は、読者・フィールドワーカーに対して、「時代状況への介入を含めた過激な応答実践」(18ページ)を呼びかける。次の一節をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

フィールドワークと「自前の思想」の編成
フィールドワークとは、人々の暮らしの営みやそこで生ずる諸問題を、暮らしの場(生活世界)のなかで理解し、逆に個々人の暮らしの営みを見つめ丁寧に描くことをとおして、その喜びや悲しみ、日々の生活の背景や基層にある意味世界、つまり文化というコンテクスト(社会的脈略・状況や背景)を明らかにしようとする企てと言えるでしょう。そして(本書で取り上げるフィールドワーカーたちは:阪野)その総体を丸ごと描き考察するために、欧米の偉大な思想家の言説や流行りの理論を安易に借用(乱用/誤用?)したりしませんでした。人々の生活の場に身を置き、腰を低くして同じ高さ(低さ)の目線で話し、その説明に謙虚に耳を傾け、彼らが生きる社会文化や政治経済のコンテクストに即して粘り強く考え続けました。けっして虎の威を借る狐(とらのいをかるきつね)になろうとせず、かといって井の中の蛙(いのなかのかわず)になることも避けて身体と思索の運動を続け、具体的で手触りのある現場から的確な言葉を自ら紡ぎ出し、自前の思想を編みあげてゆきました。さらにその先には、人々の暮らしに直接に関わるような政治社会状況に積極的に関与し、問題の解決や状況の改善に寄与するために積極的な介入を行ったりしました。(17ページ)

思想―「応答」的行動を支える姿勢や信条
(本書でいう)思想とは、学術の理論や哲学というよりも、社会に対する身の処し方や律し方、広くは自らが生きる社会、狭くはフィールドワークでお世話になった人たちとの関係の作り方や応答の仕方などを支える姿勢や信条を意味しています。(1ページ)/下から・現地現場から社会の成り立ちを見据え理解し対応するための姿勢や信条とほぼ同義です。(2ページ)

〇もうひとりの編者である飯嶋は、「自前の思想」の本質を「時代と社会に応答する」3つの側面――「遭遇」「動員」「共鳴」からまとめている。それぞれの要点をメモっておくことにする(見出しは飯嶋)。

遭遇/自前の思想は遭遇したものへの応答から「はじまる」
人により、それがより劇的な場合と、より漸次的な場合との違いはありこそすれ、そののちインパクトをあたえる仕事が、自らの仕事の延長線上に出てくるという以上に、ある人物やある主題、ある状況に「遭遇」してしまい、そこから好むと好まざるとに関わらず、その状況に巻き込まれ、そのひとと仕事が大きく動いていくことになる。つまり自前の思想を生みだす応答は、こうした遭遇から「はじめる」というよりも「はじまる」のである。(422ページ)

動員/自前の思想の応答はあらゆるものを「資源化する
予期せぬ「遭遇」から始まってしまう自前の思想の応答は、それゆえにこそ、応答する者がもてる全てを動員してそれに応答せざるを得なくなる。遭遇した事態に対して出来合いの方法論や便利なアプローチ法があるわけではない。まずは徒手空拳(としゅくうけん)のまま向き合い、それから手持ちの札と技をなんとかやりくり活用して応答する。(中略)それはきれいごとではなく、応答が遭遇から「はじまってしま」ったら、あらゆる契機を「資源」として動員して臨まざるを得なくなるのである。(425~426ページ)

共鳴/自前の思想は「徒弟化しない」
喫緊の課題との「遭遇」に始まり、あらゆる契機を資源として「動員」する必要が生じた自前の思想は、「徒弟化しない」という点がきわめて特徴的である。徒弟的に見える面があったとしても、それは学問的な技法の習得に限られている。(426ページ)/遭遇する事態や人々が異なり、動員できる資源が異なっている私たちが、先人の方法だけを模倣することに意味があるはずもない。徒弟化せずに自前の思想でやるしかないのは、かつても今も変わらないであろう。(429ページ)/(本書で取り上げたひとびと・応答者たちは:阪野)それぞれの現場(フィールド)で、他の現場で応答するひとびとのあり方に励まされ、自らの糧ともしていったのである。なので、自前の思想の応答者は徒弟化しない。ただ異なる状況にある応答者同士で共鳴するのである。(430ページ)

〇筆者は人類学や民俗学については全くの門外漢である。「10人の先達」に関しても、石牟礼道子の『苦海浄土―わが水俣病』(講談社、1969年1月)、中根千枝の『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』(講談社現代新書、1967年2月)、『タテ社会の力学』(講談社学術文庫、2009年7月)、『タテ社会と現代日本』(講談社現代新書、2019年11月)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書、1969年7月)、川喜田二郎の『発想法―創造性開発のために』(中公新書、1967年6月)、『続・発想法―KJ法の展開と応用』(中公新書、1970年2月)、宮本常一の『忘れられた日本人』(未来社、1960年1月。岩波文庫、1984年5月)、などのベストセラーとなっている本を読んだだけである。また、[1]に描かれている10人の人生と仕事については、スケールがあまりにも違いすぎ、想像だにできない。そんななかで、あるいはそれゆえに自分の浅学菲才さを恥じるのみであるが、「まちづくりと市民福祉教育」のフィールドワークに多少とも関わってきたものとして、[1]から認識を新たにする点は実に多い。
〇ここでは、宮本常一に関する次の一節だけをメモっておくことにする。そこには、「強い『地域主義』『反中央集権』『反官僚主義』の姿勢があり、(宮本は)現地と協働しながら生活改善と経済振興を図るという点でまさしく応答するフィールドワークの実践者」(11ページ)であった。

「外国の文化を受け入れるような素地を国の中へ作っていかなきゃならないんじゃないか。(中略)つまり外国の人たちがやってきて、安(やす)んじておられる場所だろう。それじゃあ、向こうの習俗をすてないで、日本人の生活の中に入り込み、ともに生活できるような場があったかっていうと、ないだろう。これが、やはり、君たちのやらなきゃならん仕事の一つだ。」
「僕の夢は、はっきり言うとね、地域主義なんだよ。それが昔から夢だったんだ。百姓のせがれだったからね。大事なことは、地域社会というのは立派に成長してゆかなければならないんだ。地域社会が充実してくると、世の中がにぎやかになるんだね。それぞれの地域社会が生き生きしてくることが、世の中で一番おもしろいんで、もういっぺん地方が中央に向かって、反乱をおこさなきゃいけないと思うんだ。世の中が変わってゆくのは、いつも、田舎侍が町に向かって反乱を起こすことなんだよね。」
「それが無くなったらね、国っていうのは滅びるんだろう。今はもう、完全な中央集権時代。しかしそれをもういっぺん、ぶっこわしてね、人間が生きるっていうことはどういうことなんだっていうことを問いつめていく。どうじゃろうそれを君たち、やってみないかね。なあ、やろうや。」(鼓童文化財団2011:62-63)(358ページ)

〇この一節にあるのは、「地域が大きなものの力に組み込まれ、それへの従属を余儀なくされ、自主性が削(そ)がれ挑戦へのエネルギーが失われていくことへの危機感であろう。こうした社会の動きに対して(宮本の)その姿勢は戦闘的であり、(中略)アナーキーさを感じさせる」(359ページ)。留意しておきたい。
〇また、宮本がいう「君たち」とは、若いフィールドワーカーのことである。宮本は、フィールド(現地・現場)でワーク(仕事・作業)する人に対して、「地域のよどみや人びとのしがらみに風穴をあけていく存在や力」(368ページ)として期待したのである。
〇なお、筆者の手もとに、佐高信・田中優子の対談本『池波正太郎「自前」の思想』(集英社新書、2012年5月。以下[2])という本がある。[2]は、「辛口評論家と江戸研究家の最強コンビが、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』など池波正太郎のヒット作はもちろん、池波自身の人生をも読み解きながら、これからの日本人に相応しい生き方を共に考える」(カバーそで)本である。佐高と田中は次のようにいう。参考に供しておく。

自前の思想とは、つまり、迷ったり、遊んだりしながら、一人前になることをめざす思想ということである。(佐高、191ページ)

「自前」という言葉は「手前」と同様に空間を表現している。畳に手をついて頭を下げる。その手の身体側が自分、つまり自らの「分」であり、手前である。その自らの空間に全てを引き受けるのが、「自前で生きる」ことだ。(田中、192~193ページ)/自前の思想で重要なのは「他人と比較しない」ことなのである。比較するには比較の基準が必要だが、自前という空間には、共通の基準がない。(193ページ)/自前が、ありとあらゆることを引き受けつつ、社会における己の姿勢を練り上げていく楽屋空間(プライベートの空間:阪野)だとすると、そこは「あそび」の空間(童心にかえる、楽しい空間:阪野)でもあるはずなのだ。(193ページ)

〇筆者の手もとにもう一冊、伊藤幹治著『柳田国男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて』(岩波書店、2011年5月。以下[3])という本がある。[3]は、「ミンゾク」学者で「一国民俗学」を構築した柳田国男と「比較文明学」を開拓した梅棹忠夫を比較しながら、ふたりの知の営み(業績とその特色など)を数々のエピソードをまじえて回想・整理した「柳田・梅棹論」である。「ふたりの知のスタイルは、幅広く多くの文献を参照しつつ、西洋の学問に依存するのではなく、自らの頭で仮説を構築して思考することだった」(カバーそで)。その点(「自前の学問」)をめぐって、次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

柳田国男と梅棹忠夫のふたりの知のあり方には共通した点がいくつかある。
ひとつは、柳田国男も梅棹忠夫も、欧米の学問をまるごと輸入し、その理論を日本の社会や文化の研究にそのままあてはめるのを忌避したことである。/ふたりは欧米からの借りものでない、「自前の学問」を構築しようとしていたのである。柳田が「明日の学問」とよんだ民間伝承論(一国民俗学)(中略)の特徴は、この国の農山漁村に埋もれているさまざまな民間の伝承を文字に記録し、その記録をとおして「自前の学問」を構築しようとした点にある。/梅棹もまた、(中略)柳田と同じように、自分の目で見、自分の耳で聴き、自分のからだで感じ、自分の頭でたしかめた経験的事実にもとづいて構築した「自前の学問」を高く評価したのである。そして、これを「土着の学」とよんでいた。/こうした「自前の学問」を求めた柳田と梅棹の一貫した姿勢は、いずれも揺るぎない実証的精神に支えられたものと思うが、このことはややもすれば欧米の人類諸科学の理論に魅せわれるわかい世代の研究者に警鐘を鳴らしているとみてよかろう。
いまひとつは、柳田国男も梅棹忠夫もひろい視野に立って「日本とはなにか」という重い課題と真摯(しんし)に向きあっていたことである。/柳田は一国民俗学を構築するために、他者としての世界の諸民族の文化を視野に入れ、自己としてのこの国の民俗文化(フォークロア)を手がかりにして、「日本とはなにか」という問い対する答え求めたが、梅棹もまた日本文明論を開拓するために、他者としての世界の諸文明と対比して自己としての日本文明を相対化し、「日本とはなにか」という問いに対する答えを求めている。/ふたりの日本研究は、(中略)視野のせまい「一国完結型」の日本研究に再考を迫っている。
もうひとつは、柳田が構築した一国民俗学も梅棹が開拓した日本文明論も、ひとしく仮説の構築を特徴としていることである。/梅棹が(は)科学には実証的事実の蓄積(実証性)、その内的関係をみやぶる洞察力、発想力(仮説性)、全体をおおう論理的体系化(体系性)という三つの要素があると述べ、柳田の学問には仮説の構築とその検証が繰り返されている。(中略)自分の学問を実証性と仮説性のまんなかに位置づけた。(中略)柳田が膨大なデータを駆使して綿密な実証と仮説の構築につとめたことはよく知られているが、梅棹もまた(中略)洞察力に富んださまざまな仮説を提出している。/興味深いのは、柳田も梅棹が提起した仮説のほとんどが、いずれも個々の短い論文のなかに提示されていることである。ふたりは仮説を提示するために、さまざまな論文を書きつづけていたことになる。(180~183ページ)

柳田国男と梅棹忠夫には、一国民俗学と日本文明論以外の知の営みにも共通した点がいくつかある。
ひとつは、柳田と梅棹が後進の研究者やわかものたちと積極的に交流し、自宅の一部を開放して彼らと自由に議論する「私的な場」を提供したことである。
いまひとつは、柳田も梅棹も後進の研究者やわかものと「対等な関係」を結んでいたことである。
もうひとつは、柳田も梅棹もわかりやすい文章を書くことに精力を傾注していたことである。(中略)(それを)ひとことでいえば読者と「密度のあるコミュニケーション」を大事にしたからであろう。
最後に、柳田国男と梅棹忠夫が国際共通語のエスペラントに関心を寄せていたことを指摘しておこう。(183~185ページ)

〇この一節ではとりわけ、①人々の生活はその人が生まれ育った時代と社会のなかで営まれ、生活の主体性はそれを生み出す歴史的背景や社会的・文化的基盤の枠内で形成される。借り物理論ではなく、「自前の理論」が重視されるべき根拠がここにある。②フィールド(現場)での実践的研究には仮説探索型の研究と仮説検証型のそれがあるが、この両者を循環的に組み合わせて相互作用を引き起こすことによって、研究の科学性を担保することができる。その実践が科学的であるかどうかはこの仮説性が重要となる、この2点を押さえておきたい。

【初出】
<雑感>(173)阪野 貢/フィールドワークと「自前の思想」、そして「自前の学問」:時代と社会に「応答」すること ―清水展・飯嶋秀治編『自前の思想』のワンポイントメモ―/2023年3月24日/本文

 


16  「生きづらさ」の正体


<文献>
(1) 中西新太郎『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか―格差社会と若者のいま―』(前夜セミナーBOOK)特定非営利活動法人 前夜、2007年3月、以下[1]。
(2) 湯浅誠・川添誠編『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ―』旬報社、2008年11月、以下[2]。
(3) 香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己『「生きづらさ」の時代―香山リカ×上野千鶴子+専大生―』専修大学出版局、2010年11月、以下[3]。
(4) 岡田尊司『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)PHP研究所、2008年12月、以下[4]。
(5)小山真紀・相原征代・舩越高樹編『生きづらさへの処方箋』ナカニシヤ出版、2019年2月、以下[5]。

〇「生きづらさ」という言葉や概念が使われるようになって久しい。藤野友紀(教育学)によると、「生きづらさ」という言葉が用いられたのは、雑誌記事検索で調べてみると、1981年の日本精神神経学会総会において「主体的社会関係形成の障害と抑制」として語られたのが最初である。2000年以降、「生きづらさ」などをタイトルに掲げる論考は一挙に増え、その学問的・実践的分野や領域も確実に拡がっている(藤野友紀「『支援』研究のはじまりにあたって―生きづらさと障害の起源―」『子ども発達臨床研究』創刊号、北海道大学、2007年3月、46ページ)。
〇「生きづらさ」の近接・関連用語に「障害」や「バリア(障壁)」がある。「障害」についてWHO(世界保健機関)は、2001年5月、ICIDH(国際障害分類)に変えて人間の生活機能と障害の分類法としてICF(国際生活機能分類)の考え方を提唱した。それは、「心身機能・身体構造」「活動」「参加」の3つの次元と「環境因子」「個人因子」の2つの因子によって構成されている。「バリア(障壁)」は、一般的には「物理的バリア」「社会的バリア」「制度的バリア」「心理的バリア」の4つに分類される。周知の通りである。
〇「生きづらさ」という用語や概念は曖昧である。しかもそれは、子ども・青年や貧困者、高齢者、障がい者などに固有のものとして、個人的・主観的な心情や問題・課題として捉えられることが多い。しかしそれは、モラルハザード(道徳性や倫理観の混乱・欠如)によるものではなく、現代日本の社会構造(現代資本主義)の政治的・経済的・社会的そして歴史的な欠陥や矛盾によるものである。その欠陥や矛盾は、1990年代、2000年代以降、なんら解決・解消されることなく、むしろ多様化・多層化・多元化が進んでいる。2016年3月に施行された安全保障関連法や2018年12月に発効した環太平洋パートナーシップ(TPP)協定(経済連携協定)などによる現代版「富国強兵」政策が推進される“いま”においても、である。
〇「生きづらさ」とは、社会や組織のなかに自分の「居場所」(「要場所」)が見つからず、将来(あす)への希望や展望をもつことができない生活上の困難や不利益を被(こうむ)っている社会的排除の状態をいう。
〇「生きづらさ」は、一人ひとりが抱える困難・不利益や不安・不満を自己責任に「内閉化した問題」や「他者との関係性」の歪(ゆが)みなどとして、複雑で多面的な様相を呈している。貧困のなかで思考や意欲までも奪われる人(湯浅誠「意欲の貧困」)や、社会や組織・集団における人間関係をうまくつくれない人などが思い起こされる。そうした人たちは、社会(財界)が求める制度やシステムによって選別・分断され、排除されている。
〇“いま”求められるのは、「生きづらさ」の正体を暴(あば)き、その今日的現状をあぶり出し、その解決策(社会参加支援や居場所支援などの社会的包摂支援)を探求することである。それは、対症療法的な単なる処方箋ではなく、「下から」のまちづくりや地域・社会改革を志向するものでなければならない。その担い手は言うまでもなく、「生きづらさ」のなかにいる一人ひとりの住民・市民であり、社会的・政治的アプローチを行う支援者や組織・団体である。そこでは、表面的な同情や共感ではなく、真の連携や共働のあり方が厳しく問われる。
〇「生きづらさ」や「生きにくさ」をタイトルにした本は、筆者(阪野)の手もとには5冊しかない。以下がそれである。

(1) 中西新太郎『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか―格差社会と若者のいま―』(前夜セミナーBOOK)特定非営利活動法人 前夜
「苦しいけれど声が出せない日常を生きるのが若い世代の状態である」(5ページ)。本書は、その「生きづらさ」や「現代日本の抑圧構造」を確かめ、検証するために行われたセミナーの記録を中心に編まれたものである。国家主義と新自由主義とを合体させた政治体制のなかで、「まさか生存権が保障されないはずはない、という思いこみは通用しない。生きづらいと思うことさえ許されない抑圧状況はいっそう深く、広く、この社会に進行している」(6ページ)と中西新太郎(社会哲学)は説く。

(2) 湯浅誠・川添誠編『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ―』旬報社
本書は、社会活動家である湯浅誠と川添誠が「現代日本の生きづらさ」をテーマに、本田由紀(教育社会学)、中西新太郎(社会哲学)、後藤道夫(社会哲学)の研究者と行った鼎談を纏(まと)めたものである。湯浅は言う。「結局、私たちは『NOと言える市民・労働者・消費者になろう』と呼びかけたいんだ、と最近よく思います。こんな政治家はいらない、そんな非人間的な労働はしない、そんな商品は買わない、と個々の場面で人間(生)・労働・商品のダンピングに否をつきつけられる社会にしたい。それが言えるなら、そしてそれを言っても孤立しない、大丈夫だと感じられるようになれば、この社会の『生きづらさ』は相当程度軽減するだろう、というのがわたしの見通しです」(9ページ)。

(3) 香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己『「生きづらさ」の時代―香山リカ×上野千鶴子+専大生―』専修大学出版局
「現在確かに『生きづらい』状況が、人間の内側(こころ)にも外側(社会)にも蔓延している」(荒木敏夫、8ページ)。本書は、「生きづらさのゆくえ」をテーマにした講演とシンポジュウ、それを聞いた学生たちの座談会の記録である。講演では、香山リカ(精神科医)が「生きるのがしんどい、と言う若者たち」、上野千鶴子(社会学)が「ネオリベ改革がもたらしたもの」について「こころ」や「社会」の問題を解きほぐす。

(4) 岡田尊司『「生きづらさ」を超える哲学』(PHP新書)PHP研究所
親と折り合いが悪い人、いわれのない不安に悩む人、心に空虚感を抱えている人、「絆」に縛られている人、自分が何者かわからない人、生きる意味が見つからない人。「生きづらさ」を抱える人が増えている。アルツール・ショーペンハウァー(ドイツの哲学者)、ヘルマン・ヘッセ(ドイツの詩人・小説家)、サマセット・モーム(イギリスの小説家・劇作家)らの生き方や岡田尊司(精神科医)自身の豊富な臨床経験を通して、「生きづらさ」を乗り越え、自分らしく生き抜くための哲学を描き出す。それが本書である。岡田は最後に言う。「生きるための哲学は、生きようとする営みのなかにこそある」(253ページ)。

(5) 小山真紀・相原征代・舩越高樹編『生きづらさへの処方箋』ナカニシヤ出版
本書は、京都大学のメンバーを中心に2014年に立ち上げた共同研究による、「生きづらさ学」からの実践的アドバイスの本である。そこでは、「過保護,性差、外国人差別、発達障害など、学生生活をメインに想定した種々の『生きづらさ』を分野横断的に分析し、克服の具体的方法を提示する」(「帯」より)。その際の「処方箋」(ヒント)は、臨床現象学をはじめ、社会学、法哲学、文化人類学、防災学、障害学生支援、精神医学、環境分析など、まさに分野横断的・俯瞰的視点に基づいている。「生きづらさ学」は「生きづらさの横軸」を探す学問であり、「生きづらさの共通性」や「他者との関係性」に留意する必要がある、と言う。

〇さて、本稿ではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

困難の内閉化と「自己責任論」
被害を被(こうむ)っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会にいたるところで蔓延(まんえん)している。(中略)一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じこめる強烈な力がはたらいている。私には異議を申し立てる権利があると言わせない、封殺する力である。責任を偽装すると言ったほうが正確であるが、これは、きわめて深い抑圧の姿である。(58ページ)
このようなレトリック(表現の仕方)や自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として「自己責任論」がある。(中略)抑圧された者たちを徹底的に無力にしていく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある。(59ページ)

自立支援と「生存権」の損壊
(近年の「自立支援型政策」にいう)政策言語としての「自立」は、公的・社会的な支援に頼らずに自己責任で生きていくという意味である。(128ページ)
「権力」と「社会的無力」という不平等な関係を含んだ(自立―依存関係)が「自立」のあるべき姿として押しつけられている。(128ページ)
生存権を保障する政策は、事情があって自立できない人たちが対象であるが、自立支援型の政策では、「自立」の見込みや「意欲」の有無という新たな尺度で対象者を再分類する。(129ページ)
生存権を平等に保障するという考え方が崩れると、どのような結果が表れるか。意欲や見込みのあるなしは、権力者によって認定・選別されるから、保障を得るには、自分は意欲も自立の見込みもない「真の弱者」だと認めなければならない。(129ページ)
つまり、自立できない存在は完全に無力であるとされ、自立できぬ以上他の人よりも低い処遇に甘んじるよう社会的に強制される。「国家の慈悲によってはじめて人権を保護される」存在になる。19世紀に福祉国家の観念が出てくるまで通用してきた「残余的福祉」という考え方である。(129ページ)
「自立支援」は、「真の弱者」をあぶり出し、同時に、自立してがんばろうと思う者を「貧困な自立」の状態に固定していく、という結果を招くのである。(中略)「自立支援」という政策を使って絶対的な貧困を受け入れさせる、生存権損壊(そんかい)のスパイラル(螺旋〈らせん〉)が出現するのである。(130ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」と「生きづらさ」
「生きづらさ」の問題をつねに社会的次元で捉えようとするわたしたちの立場からすると、どうしても必要になるのは、現状を丁寧にあぶり出していくことで、自己責任論からの転換を図ることである。(湯浅、6ページ)
大きなレベルで自己責任論を批判することは、ある意味では易(やさ)しい。構造改革や新自由主義といった用語をもち出せば、何かが言われ、何かがわかったような気がしてくる。しかしそのことと、目の前にいる一人ひとりと向き合い、対応することが切り離されていたら、総論としては自己責任論を大いに批判する人が、各論ではその子・親族・友人にたいして自己責任論を振り回す、という悲喜劇が起こらないとはかぎらない。残念ながらそれは随所で起こっている。そうなると、現実には貧困状態に追い込まれていく人たちの数は減らない。自己責任論批判が増えていったとしても、現実の場面では、個々に切り捨てられていくからである。(湯浅、6~7ページ)

「自立」が強いる「生きづらさ」
貧困者(貧困のなかにいる若者)にとって、「自立」は存在しえない。ところが、(中略)(彼らは)つねに“社会”から“家族”から「自立」を迫られている。「いつまでもフラフラしていないで、まともな仕事について早く一人暮らしをしなさい」と。彼ら自身の仕事は、本人の選択によるものとされ、彼らが抱える困難は「自己責任」によるものとされる。彼らにとっては、「自立」は目標でありながら、自分自身を締め付ける抑圧の言葉である。(河添、19ページ)
「自立」をめざせばめざすほど、彼らは非人間的な労働環境への順応を要請される。しかしながら破壊された労働環境は、彼ら自身を安定的に「自立」させるようなものではないから、破壊された労働環境によって今度は労働者の精神状態が不安定になっていく。貧困と「自立」は両立しえない。(河添、19ページ)
このように、貧困のなかにいる若者は、「自立」しようにも「自立」しようがない。貧困を根絶していくことなく、「自立」を促すことはありえない。(河添、19ページ)

「強い市民社会」と“居場所”づくり
「強い市民社会」というのは、弱肉強食の市場原理にたいしてきちんと歯止めをかけられる社会、人間の弱さを認めて受け止められる社会、弱さの認識から相互扶助・社会連帯の必要性の認識を通じて、「市場」とは異なる「社会」を構想できる社会、を言う。そういう「強い市民社会」が確立していれば、社会制度はおのずと変わっていくはずである。(湯浅、174~175ページ)
「意義申し立てする社会連帯」というのは、「これはおかしい」ということを話し、数人なり、数十人のグループができれば、それでもって社会的に訴えていく、それが当たり前に行なわれるような、そういう社会的な雰囲気をつくっていきたい。(湯浅、175ページ)
「強い市民社会」をつくるうえでの(労働)運動論的なポイントは、(中略)究極的には“居場所”である。つまり、不満を言い合って、「おかしい」と思ったことをかたちにできる場所である。(河添・湯浅、177ページ)
社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事だと思う。(湯浅、178ページ)
「たたかうためには、たたかわなくていい“居場所”が必要である」。(中略)たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものである。(中略)そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている。(湯浅、179ページ)

〇いまひとつ、[3]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「非行から自傷へ」と「ネオリベ改革」
社会学では社会というのは、個人の集まりではなく、ふるまいの集合である。(中略)人々のふるまいの集合に一定の規則があるから、その行動がなにを意味しているかがお互いにわかるおかげで成りたっているのが社会というものである。(上野、57~58ページ)
(1980年代から90年代頃から)いわゆる青年期の逸脱といわれるものが(中略)変化してきた。それを簡単に言うと、非行から自傷へ、である。他人を傷つけることから、自分を傷つけることへの変化である。(中略)攻撃衝動というものが、他者から自己へ向かっているのではないか。何か困ったことが起きたときになんでこんなことが起きたのか、誰が悪いのかと思ったときに「私が悪い」というしかないから、生きづらい思いをするのである。これを、「私が悪い」という代わりに「貧乏が悪い」、「社会が悪い」、「学校が悪い」、「先生が悪い」、それから「資本家が悪い」とか言えたらラクである。(上野、64~65ページ)
それなのに、誰も自分以外の人を悪いと言えず、責めることができないために、自分自身を責めるほかない。それで攻撃衝動が我と我が身(われとわがみ)に向かう。なぜそういうことが起きたのか? (それは社会学者によると)「社会が変わったから」(中略)社会環境やルールが変わったからである。(上野、65ページ)
(その一つが)いわゆる「ネオリベ改革」(「ネオリベラリズム」つまり「新自由主義」改革)と言われるものである。(上野、66ページ)
ネオリベこと新自由主義とは、ごく簡単に言うと市場万能主義のことである。公平な競争のもとで勝ち負けを争って、勝ったら勝者の能力と努力のおかげ、負けたら敗者の無能と怠惰のせい。そういう「自己決定・自己責任」の原理をさす。規制緩和をして勝者が残り敗者は退出する市場の原理に委(ゆだ)ねたほうが、財の最適配分ができるようになるという考え方のことである。(上野、67ページ)

「生きづらさ」と不安
「生きづらさ」の精神構造は、不安と似ているのである。あるいは「生きづらさ」の原因は漠然とした不安感なのではないかとさえ思う。自分自身が何者であるかの不安、自分の将来や可能性にたいする不安、人が自分をどう見ているのかについての不安、この社会の先行きに関する不安、そうしたもろもろの不安が、私たちの精神や生活を脅かし、「生きづらい」感覚をもたらしているように思えてならない。(嶋根、209ページ)
不安そのものを完全になくすことはできない。しかし不安に直面したとき、その原因が何に由来しているかを知れば、不安はやわらぐものである。同じように、私たちが何となく感じている「生きづらさ」も、他の人や他の社会と引き比べてみたり、その原因が私たちの外部にあることを知ったりすることで、「生きづらさ」の感覚を多少なりとも乗り越えていくことができるかもしれない。(嶋根、209~210ページ)

〇以上の諸言説のなかで、河添の「貧困者にとって、『自立』は存在しえない」「貧困と『自立』は両立しえない」([2]19ページ)という言葉から思い出すことがある。1956年11月から1963年7月にかけて、岸勇(当時・日本福祉大学)と仲村優一(当時・日本社会事業大学)との間で、公的扶助とケースワークの位置づけをめぐって展開されたいわゆる「岸・仲村論争」である。ここでは、その論争に関する加藤園子(当時・立命館大学)の一文を紹介しておくことにする。「今は昔」ではなく、「今も昔(も変わらない)」である。

岸説では「最低生活保障」と「自立助長」をあいいれるものとしてではなく、本来分離、対立したものとして位置づけている。そこでは、公的扶助にケースワークが導入される根拠となった「自立の助長」の意味について、自立の基本的要素は経済的自立であり、自立の喪失が社会的原因にもとづくものである以上、自立は国家の雇用政策によってはじめて助長されるものであること、そして、これに反して公的扶助の目的である最低生活保障それ自体は決して自立を助長するものではありえず、そこではむしろ「自立」という概念が似而非(えせ)なる意味にすりかえられ、その強調は、実は保護の制限と引きしめの意図がその背後に政策的に存在することを厳しくとらえねばならないとしている。そして「自立の助長」と関連して公的扶助にケースワークが導入された目的もまさにその民主主義的体裁によるにすぎず、保護引き締め強化による対象者の人権侵害の事実や公的扶助のもつ救貧法的本性をそれによって隠蔽・合理化することに役立てられてきているとして、仲村説と真っ向から対立することとなった。
(加藤園子「仲村・岸論争」真田是編『戦後日本社会福祉論争』法律文化社、1979年9月、91~92ページ)

【初出】
<雑感>(87)阪野 貢/「生きづらさ」再考―一昔前と変わらぬ“いま”を考えるためのメモ―/2019年7月7日/本文

 


17  「相互支援」の人間学


<文献>
(1)支援基礎論研究会編『支援学―管理社会をこえて―』東方出版、2000年7月、以下[1]。
(2)舘岡康雄『利他性の経済学―支援が必然となる時代へ―』新曜社、2006年4月、以下[2]。
(3)舘岡康雄『世界を変えるSHIEN学―力を引き出し合う働きかた―』フィルムアート社、2012年11月、以下[3]。
(4)森岡正博編著『「ささえあい」の人間学―私たちすべてが「老人」+「障害者」+「末期患者」となる時代の社会原理の探究―』法藏館、1994年1月、以下[4]。

ケアリングコミュニティとは、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。筆者はそれを地域福祉の基盤づくりであると考えている。/そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。(原田正樹「ケアリングコミュニティの構築に向けた地域福祉―地域福祉計画の可能性と展開―」大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房、2014年4月、100ページ)

〇いま、その問題意識は必ずしも目新しいものではないが、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現について声高に叫ばれている。それを単なるスローガンに終わらせないためには、またあるべき「地域共生社会」を実現するためには、「相互支援」と「相互実現」についての基本的理解が必要かつ重要となる。
〇筆者(阪野)は、管見ながら、しかもその一部に過ぎないが、人と人が共に生き、共に支え合うこと(「相互依存」interdependence)によって自己成長と相互成長、自己実現と相互実現を促す地域社会、すなわち「ケアリングコミュニティ」(caring community)に関して次のように考えている。(1)地域のあらゆる住民が「安心」して暮らせるまちは、「安全」と「信頼」と「責任」のまちである。安心=安全×信頼×責任、である。(2)まちづくりは、そこに暮らす住民が相互に支援し合う(「相互支援」の)地域コミュニティを創造するために、意識と思考と行動の変革を図ることから始まる。まちづくりは相互支援であり福祉教育である。(3)「自立」(「依存的自立」)は、自己選択と自己決定、そして自己責任に基づく自己実現の過程を通して達成される。それは、個人的なものにとどまらず、歴史的・社会的・文化的状況や背景によって規定される。自立は自己実現のための手段であり、歴史的社会的性格(特徴)を持つ。(4) 自己決定と自己実現は、個人的営為ではなく、自分と他者との相互の認識と行動に基づいた自己成長と相互成長を通じて初めて可能となる。自己実現は「相互実現」である。(5)現在の日本社会では、格差社会や管理社会が進展するなかで、持続可能な相互支援型社会を如何に形成するかが問われている。管理は画一化や受動化を促進し、支援は多様性や能動性を尊重する。地域共生社会は相互支援型社会である。なお、これらとともに、またこれらを可能にするためには、まちづくりや地域福祉についての多様な政策・制度的対応や専門機関・専門家による対応などが必要かつ重要であることは言うまでもない。
〇上記のように、筆者の手もとには、そのタイトルやサブタイトルに「支援」などの文言が含まれている本が4冊ある。本稿では、それぞれの本のなかで論じられている「支援」に関する言説について、筆者なりにいま一度押さえておきたい一節を、抜き書きあるいは要約することにする(見出しは筆者)。それは、「支援」に関する基本的な文献や考え方について知りたいという、熱心なブログ読者からの依頼に不十分ながらも応えるためである。

(1) 支援基礎論研究会編『支援学』東方出版
〇「支援学」(Supportology)は、1993年に発足した「支援基礎論研究会」(オフィス・オートメーション学会〈現・日本情報経営学会〉の研究部会)が7年余にわたる研究活動を通して新しく開拓した学問分野である。「本書は、ハウツーを教える入門書ではなく、広く支援現象、支援行為一般の研究の指針を与えることを目的にした見取り図である」(2ページ)。ここでは、本書に収録されている今田高俊(現在は東京工業大学名誉教授)の論稿「支援型の社会システムへ」における言説について紹介する。

管理型社会システムから支援型社会システムへ
現在、行き過ぎた管理機構のひずみや亀裂が集中的にあらわれ、管理の限界がいたるところで露呈するようになっている。管理を中心とする運営法では、もはや活力ある社会を確保できない状態である。/意義のある人生や生活を築き上げるためには、管理に代わる社会の仕組みが必要である。管理に代わる新しい社会編成の在り方としてもっとも有望なものは支援である。支援型の社会システムへの構造転換をはかることが、現在、さまざまな形であらわれている社会問題を解決するために不可欠である。/1990年代以降、ボランティア活動やNPO(非営利組織)、NGO(非政府組織)による活動活動が高まった。これらの活動は、管理ではなく支援を、市民自身の自発的な意志によっておこなおうとする動きである。(9~10ページ)

支援の定義
支援とは、何らかの意図を持った他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的に他者のエンパワーメントをはかる(ことがらをなす力をつける)ことである。(11ページ)

支援と自省的フィードバック
支援は、自分で勝手に目標を立てて効率よくそれを達成するという、従来の私的利益の追求行為からは区別される。被支援者がどういう状況に置かれており、支援行為がどう受け止められているかを常にフィードバックして、被支援者の意図に沿うように自分の行為を変える必要がある。これができない支援は本当の意味での支援ではない。(12ページ)

支援と配慮とエンパワーメント
支援をおこなう当事者は、あくまでも自分の生き甲斐や自己実現を得るという動機が前提になっている。この意味では、私的なものである。ただし、この私的性格は、被支援者の行為の質が改善され、被支援者がことがらをなす力を高めることを前提としており、いわゆる利己的な行為ではない。私的な自己実現が、直接、他者に対する気遣い、配慮へとつながっている。要するに、支援には、他者への「配慮 care」と「エンパワーメント」が決定的に重要である。(12ページ)

支援と支援システム
実際に支援が成立するためには、一連の支援行為がばらばらになされるのではなく、それらがまとまりをもったシステムを形成することが必要である。また、支援は固定したシステムではうまくいかない。被支援者が置かれている状況変化にあわせて、システムを変えていく必要がある。/支援システムは、人的・物的・情報的資源を関係づけ、それらが支援を効果的に実現できるようなモデル(ノウハウ)を備えることが重要である。(12~13ページ)

支援学の体系化
20世紀が管理の世紀であるとすれば21世紀は支援の世紀である。今後、管理が消滅することはありえないが、少なくても支援の発想が社会のなかに組み込まれ、肥大化した管理の仕組みを縮小する方向に進まざるをえないだろう。弱肉強食型の競争主義とそのグローバル化が進みつつあるが、これがアナーキー(無秩序)な社会あるいはその反動として管理主義の強化につながってはますます住みにくい世界になる。そうならないためにも今後、支援学を深め体系化していくことが重要である。管理に代わる支援の発想を持って、グローバル時代の共生原理をつくりあげていくことが、われわれの責任である。(234ページ)

〇管理型社会から支援型社会への転換が求められている。支援は、支援者(支援主体)と被支援者(被支援主体)というセットで意味をなす行為であり、①「他者への働きかけ」を前提にして、②「他者の意図の理解」、③「行為の質の維持・改善」、④「エンパワーメント」を構成要素とする。支援には、支援者の「自省的フィードバック」と、被支援者への「配慮」と「エンパワーメント」が重要である。支援の実質化を図るためには、「ヒト、モノ、カネ、情報」などの資源を効果的・効率的に活用し、またそのためのモデル(ノウハウ)を備えることが必要となる。とともに、支援システムを形成し、しかもそのシステムは被支援者の置かれた状況に応じて柔軟・自在に変化・対応する(「自己組織化」する)ことができるものでなければならない。
〇支援学は管理学に対置される。支援学は、社会生活上の諸問題を解決し、被支援者の「エンパワーメント」を図ることによって自己実現が達成され、それを通じて共生社会の創造に貢献することを使命とする。
〇以上が今田の言説、その一部である。注目されるのは、支援の概念に「エンパワーメント」が含意されていることである。そこから、支援が成立するためには、被支援者の意図が優先され、支援者の支援が自己目的化してはならないことになる。今田にあっては、「自分の意思を前面にださない」「相手への押しつけにならない」「相手の自助努力を損なわない」が、「支援に要請される条件」(15ページ)となる。

(2) 舘岡康雄著『利他性の経済学』新曜社
〇本書は、とりわけその前半は、舘岡康雄(現在は静岡大学大学院)の博士論文「”支援”の理論化と実証化に関する研究―利他的なビジネスモデルがもたらす経済合理性―」(東京工業大学社会理工学研究科)がベースになっている。舘岡は1996年から「プロセスパラダイム」の概念を提唱するが、「支援」と「プロセスパラダイム」に関する言説のみを抜き書き(要約)する。

自己中心の「管理」と相手中心の「支援」
管理は、自分から出発して相手を変える、相手をコントロールする行動様式である。それに対して支援は、相手から出発して相手との関わりにおいて自分を変える、自分で(自由意志で)自分をコントロールする行動様式である。/すなわち、管理は自己中心の行動様式であり、支援は相手中心の行動様式である。/したがって、管理の被行為者は「させられている」のであり、支援の被行為者は「してもらっている」のである。(86~87ページ)

リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ
いま時代は、あらゆる分野で「リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ」と動いている。パラダイム(paradigm)とは、その時代に共通するものの見方や捉え方(価値観、枠組み、考え方)をいう。/管理行動では、管理者は計画を提示し、その計画と被管理者の結果とのズレが重要とされる。そこでは、「結果」(リザルト、result)が重視され、管理者と被管理者の関係は「させる/させられる」の一方向の関係にある。管理行動はリザルトパラダイムにおける行動様式である。/支援行動では、支援者は相手の刻々変わる状況を知り、それに合わせて被支援者と相互作用を行ないながら支援を達成していく。そこでは、「過程」(プロセス、process)が重視され、支援者と被支援者の関係は「してもらう/してあげる」の双方向の関係にある。支援行動はプロセスパラダイムにおける行動様式である。(87、88、93~94ページ)

〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡にあっては、支援はあくまでも支援者の自由意志で行われものであり、支援をするかしないかは支援者に委ねられる。「動員による支援」「支援の管理」「支援の制度化」などは想定されていない。また、舘岡の言説で重要なのは、「プロセスパラダイム」についての提言である(91~97ページ)。相手(被支援者)の動きに合わせて自分(支援者)も動きを変える。また、相手(被支援者)にも自分(支援者)の動きに合わせて動きを変えてもらう。両者が寄り添ってこうした動き(動的な活動)をするとき、その過程(プロセス)で問題解決能力が高まり、両者は「合一の方向に向かう」(100ページ)、とされる。留意しておきたい点である。

(3) 舘岡康雄著『世界を変えるSHIEN学』フィルムアート社
〇舘岡は、民間企業の人事部での経験を踏まえて、2001年から「SHIEN学」を提唱する。本書は、学生やビジネスマンが気軽に読める「SHIEN学の入門書」である。「支援」をあえて「SHIEN」とローマ字表記する意義、「管理」「支援」「SHIEN」あるいは「協働」などの概念の相互関連、SHIEN「学」の学問としての成立要件や理論的枠組みと体系性、などについての言及は必ずしも十分なものであるとは言えないが、要点を紹介する。

SHIENと「お互いの力を引き出し合う能力」
「支援」は上位者が下位者に、力のあるものが力のないものに、施すという概念である。/SHIENは、互いに助け合うことで、重なり(つながり、関係性)のなかったところに重なりをつくり、「してもらう/してあげる」を交換するという、新しい時代の問題解決法のひとつである。/SHIEN学では、相手の力を引き出したり、逆に相手からも自分の力を引き出してもらったりする能力を「してもらう/してあげる能力」と呼ぶ。/SHIENの原理というのは厳密なシステムではなくて、重なりがなかったところに重なりをつくったり、相手からしてもらうことと、こちらがしてあげることを、相互に交換したりすること。ただそれだけである。(13、35、58、155ページ)

「してもらうこと」と「豊かな関係性」とSHIEN学
「してもらう」能力を高めるためには、自分の「弱みを相手に見せること」が非常に大切であり、「相手によい質問をすること」「相手を褒(ほ)めること」も有効である。それによって自分と相手との豊かな関係性を深めることができる。/「してもらう/してあげる」というのはテクニックではなく、非常にいい関係性があるからこそ生まれるものである。志が同じで、ひとつの目標に向かっていく集団があったならば、惜しみなくお互いの能力を出し合っていって、一緒につくるよろこびを感じることが、お互いが幸せになる、何よりの方法である。/「してもらうこと」がSHIEN学のスタートであり、本質である。(60~65ページ)

プロセスパラダイムの時代と競争的共存の時代
これからの、「動いているものを動くままに」捉えるプロセスパラダイムの時代は、今までのリザルトパラダイムの時代の、「善か悪か」「有か無か」「量か質か」「ハードかソフトか」といった二項対立を越えて、新しい解へジャンプすることができる自由な社会である。/そういう時に大切になってくるのは、「してもらう能力」である。新しい時代には「してもらう」ことは必須となる。/苦手なことはしてもらってよいのである。そして自分は、自分の得意なことで相手をSHIENする。また今、競争的共存の時代が来たともいえる。競争しているのだけど、同時に共存してもいるわけで、ひとり勝ちの時代はすでに終わっているのである。/人間関係でいえば、「関係をつくることに積極的」(「関係積極性」)であることが大切な時代である。(82~83、119ページ)

リザルトパラダイムとプロセスパラダイムの違い
20世紀型のリザルトパラダイムと21世紀型のプロセスパラダイムの違いは、図1の通りである。(43ページ)

〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡は、上下関係のなかでの一方向の支援(「施し」)を「支援」、対等な関係のなかでの双方向の支援を「SHIEN」とする。そして、「SHIEN」は、新しい時代(プロセスパラダイムの時代)における、「新しい働きかたを実現する行動原理」(15ページ)となる、という。
〇舘岡にあっては、「SHIEN学」でいう「SHIEN」とは、「自分よりも他人を大事にしたり、助けたりする考え方(=利他性)を軸に、行動を起こすこと全般」(18ページ)を指す。「SHIEN学の本質」「SHIENの神髄」は、「してもらう/してあげる能力」であり、お互いの力を引き出し合うことである。そこで重要になるのが、自分と相手を「つなぐ」こと、「関係性を高め合う」ことであり、舘岡はそれを「重なりをつくる」という。

(4) 森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』法藏館
〇本書は、生命倫理や法哲学、仏教哲学などを研究する5人の共同研究のプロセスを纏めたものである。読み応えのある包括的で深淵(しんえん)なテーマ設定がなされているとともに、一般にありがちな共同研究の成果報告でないところがユニークで興味深い。本書の「ささえあいの人間学」とは、人と人が互いに「ささえあって」生きるという形の社会原理を探究し、人々にささえられながら生まれ死んでいく人間の「いのち」のあり方について議論する枠組み(学問)である。ここでは、本書に収録されている土屋貴志(現在は大阪市立大学)の論稿「『ささえる』とはどういうことか」等における言説について紹介する。

「ささえ」と「ささえあい」 
人間同士の「ささえ」は、すべて「ささえあい」にほかならないのではないか。というのは、人間は必ず何らかの「他者」を必要とする存在であり、その意味で、完全に自分の力で自立しているわけではないからである。現実の「ささえ」の場面においては、一方向的な「ささえ」(「ささえる」側は自立しており「ささえられる」側は依存するだけであるような状況)が成立しているわけではなく、必ず両方向的な「ささえあい」(双方が「ささえ」「ささえられ」合っているような状況)になっているのである。/人間は何らかの他者を「ささえる」ことによってよろこびを得る存在であり、他者が何も返すことができなくてもその他者によって「ささえられている」ことになるのである。(105ページ)

「ささえる」と「ともにいる」
「ささえる」ことは、「相手にかかわっていこうとする」ことである。/「かかわり」こそ「ささえ」の基盤であり、かかわりのないところには相手もなく、したがって相手への働きかけもあり得ないからである。その意味で、かかわりを保っていこうとする姿勢こそ何にもまして必要なものであり、なくてはならないものである。/しかも、時間を惜しまず、傍に共にいるということ、この「ともにいる」ということこそ、かかわりの本質を表すことである。/「ともにいる」ということ、かかわっていく姿勢によって「ともにいる」ということを示すことが、「ささえる」ということの最も基本的な事項になるのである。(57~58、60~61ページ)

「かかわり」と「受容」
相手にかかわっていくとは、相手を受け容れていくことである。相手を受け容れる余裕がなければ、かかわっていくことはできない。もしその余裕がないまま無理にかかわろうとするなら、必ずひとりよがりに終わることになる。相手を受け容れるということは、結局のところ、相手に対していろいろな気持ちを抱く自分自身を受け容れることに他ならない。その意味で、いつでも、どんな相手にも、求めに応じてかかわってゆけるようにするには、つねに自分自身をみつめて、あらゆる自分を受け容れる用意が必要である。相手を受け容れる余裕は、実は自分自身を受け容れる余裕から生まれるからである。(59~60ページ)

「ささえ」と「共感」
「ささえ」の根底にあるべき考え方は、「共感」が達成されるように努めるべきである、ということである。/「ささえ」の場面では、「共感」が必然的な前提になっている。/「共感」とは、相手の私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの「あたかも‥‥‥のように」という性格を失わないことである。いいかえれば、①相手の体験を、その本人が感じているままに感じ取ること、②相手の体験はあくまでその人自身の体験であり、私自身の体験とは別であるとわきまえていること、この二つの条件を同時に満たすことである。/ただし、「共感」だけで相手を「ささえた」ことにはならない。「こころのささえ」の場面を離れて、相手が具体的な介助や援助や治療を要求している場合には、「共感」の達成だけでは「ささえあい」の達成は不十分なものとなる。(281、290~291、296、299ページ)

〇土屋にあっては、「ささえる」ということについての原則的な考え方のひとつは、「どんな事実であれ、その人に関する事実は第一義的にその人本人のことであって、他の人のことではない」(52ページ)。「事実に直面しそれを受け容れなければならないのはその人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない」(50~51ページ)ということである。ある事実についての当事者性(「自分のこと」である度合い)について言えば、本人が最も「当事者」であり、身近な人ほど「当事者性」が高く(つまり、より「自分のこと」であり)、身近でない人ほど低い(逆に言えば、「第三者性」すなわち「ひとごと」である度合いが高い)ということになる。しかし、具体的な「ささえ」の場面では、問題になるのはつねにいま現在目の前にいる相手であり、「当事者性の序列」は問題にならない(51~53ページ)。土屋の基本的な言説として押さえておきたい点である。

〇以上の叙述を踏まえて、ここではひとまず、「支援」とは、自分・支援者(支援主体)と相手・被支援者(被支援主体)の「要求と必要と合意」「受容と共感とエンパワメント」に基づいて、「相互支援と相互作用」「相乗作用と相乗効果」「自己実現と相互実現」を図る活動(行動様式)でありプロセスである、と理解しておくことにする。その際、支援者や被支援者は、個人だけでなく、集団や組織、コミュニティ、社会などを含む。「支援主体」や「被支援主体」の意味するところである。
〇ところで、筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」について論考する際に、「共働」(coaction)の概念を重視してきた。また、その構成要素として、①多様な個人や集団・組織・コミュニティ・社会、②目標や価値観の共有化と統合化、③新しい場(ステージ、プラットホーム)の創設、④その場への主体的・自律的な参加(参集、参与、参画)、⑤多面的な相互作用による相互補完や相乗効果、⑥社会的統合や融合の達成、などを考えてきた。
〇図2は、「支援」に留意しながら、多様な主体による「対抗」から「共働」への過程を、ひとつのモデルとして図示したものである。例えば、「対抗」段階では、内部(当事者間)における上下関係や外部(第三者)との対等(並立)な関係における競争、管理、支配を意味している。「連携」段階では、役割と責任の相互確認や協力の相互促進に向けた行動を起こす。「協働」段階では、目標の明確化を図り、舘岡がいう「重なりのなかったところに重なりをつくる」即ち「関係づくり」(パートナーシップづくり)を進め、協同することを意味する。そして、新しく設けられた「場」における相互補完やそれによる相乗効果によって協働の融合・一体化が図られ、相互支援や相互実現が成立する。それが「共働」の段階である。こうした段階の過程を通して、「創発」(単なる総和以上の成果が生み出されること)や「共創」(イノベーションによって共に新しい価値を創り上げること)、「共生」(すべての人の人格と個性を尊重し、共に支え合いながら共に生きること)が実現することになる。

〇筆者が本稿で言いたいのは、「相互支援」と「相互実現」、そのための「共働」が「地域共生社会」の神髄である、ということである。


上野谷加代子(同志社大学)は、人が共に支え合って生きていくためには「助け上手と助けられ上手」になることが大切である、と説く(『たすけられ上手 たすけ上手に生きる』全国コミュニティライフサポートセンター、2015年8月)。森岡正博(早稲田大学)は、人間は他からささえられてはじめて生活でき、自己決定できる存在であり、「他からささえられ、他をささえてゆく」ことこそが「人間」の本質である、と言う(森岡正博「序 方法としての『ささえあい』」森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』20ページ)。あえて可視化するほどのことでもないが、「ささえあい」(「ささえる」ことと「ささえられる」こと)の諸相について、例示的(上位と下位、優位と劣位)に図3に示しておく。

【初出】
<ディスカッションルーム>(68)阪野 貢/「支援学」ノート―「相互支援」「相互実現」に関する基本的な視点/追補:大橋謙策「『我が事・丸ごと地域共生社会』とコミュニティソーシャルワーク機能」―/2017年6月1日/本文

 


18  「ふつう」の功罪


<文献>
(1)深澤直人『ふつう』D&DEPARTMENT PROJECT、2020年7月、以下[1]。
(2)佐野洋子『ふつうがえらい』(新潮文庫)、新潮社、1995年3月、以下[2]。
(3)泉谷閑示『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)、講談社、2006年10月、以下[3]。
(4)キリーロバ・ナージャ『6ヵ国転校生・ナージャの発見』集英社インターナショナル、2022年7月、以下[4]。

(1)「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある
私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。
私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる。
(2)「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある
私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである。
しかもその現実の場面は、生活と人生のひとコマに過ぎず、常に変化する。
(3)「ふつう」の隣に「特別」がある
私には社会的に許容される独自性欲求があり、それが自尊感情を高める。
その一方で、社会意識である孤独感や差別意識・偏見を生む。
(4)- ➀ 私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる
私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する。
それが窮屈で、生きづらい地域・社会をつくる。
(4)-➁ 私は「ふつう」を捨て、あなたと「わがまま」をいう
私は、生き方や価値観を変え、あなたと権利や不満を主張する。
それが地域・社会を革め、豊かな未来を切り拓く。

〇上記のようなことを思いながら、深澤直人(ふかさわなおと)の『ふつう』(D&DEPARTMENT PROJECT)と佐野洋子の『ふつうがえらい』(新潮文庫)を読んだ。深澤は世界的に有名な(身の回りにあるさまざまな製品をデザインする)プロダクトデザイナーである。深澤のデザイナー活動のテーマや哲学は、「ふつう」という概念にある。それは、「ふつう」という価値が日本人の生活の根底をなすことによる。[1]は、その「ふつう」について雑誌に15年間にわたって連載したコラムを書籍化したものである。佐野(1938年~2010年)は、絵本作家、エッセイストであり、代表作に絵本『100万回生きたねこ』(講談社、1977年10月)がある。[2]には、佐野が自分を「生きる」ことの思いや行動を装飾のない「なま」の文章に乗せた73篇のエッセイ(「世間話」)が収められている。それらは単純明快で、歯に衣着せぬストレートなところが面白い。
〇[1]では、「ふつう」の良さに気づき、「ふつう」は「日常のあたりまえに通り過ぎる出来事を自覚したときに感じるもの」(26ページ)であるという思いに至る。そんななかから、筆者が留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

知識の世界とリアルな世界の「ふつう」 ―経験に基づくリアルな世界の「ふつう」が人間を幸せにする―
頭で勝手に思い込んでいるものと、目で見ているものの形は違う。人間は実際にそのものを目の前にして見ているときでさえも、思い込んだ形をしているように捉えてしまう。極端な言い方をすれば目に見えるすべてはその人の概念であって先入観が成す世界なのかもしれない。先入観を成すものは経験なしに得た情報である場合が多い。デザインをしていると二つの世界の存在が見えてくる。一つは他から得た情報とその集積の知識が成す世界。これを「常識」とか「ふつう」とか言うのかもしれない。もう一つは先入観なく見た、あるいは感じたそのままの世界。経験から得た情報とその集積としてのリアルな世界である。これも言ってみれば「ふつう」である。人間はこの二つの世界観と二つの「ふつう」を持ち合わせ、そこを頻繁に行き来している。人は後者のようなリアルな「ふつう」に出会ったとき、自己の思い込みや先入観に気付き、「あ~、な~んだ、これもふつうなんだ」などと安心したり、驚いたりしていい気持ちになる。身体は常にリアルに触れているのに、思考は与えられた情報を信じている。だから既に触れていた感触を何かによって自覚させられたとき、はっとするのだ。(中略)リアルな世界の「ふつう」に触れたとき人間は幸せになる。(52~54ページ)

「変える」ことと「変えない」デザイン ―デザインはしっくりいっていないことを正し、改善することである―
長く使われてきたものは、もう生活の分子になっているから簡単に変えようとしてはいけない。「保守的」といわれるかもしれないが、「保守」ということばには二つの意味がある。一つは、「正常な状態を保つこと」。もう一つは、「旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること」。それは、まさしく長い年月を経て「ふつう」になってきたことを「ふつう」のままにしておこう(と)することだと思った。保守の反対は革新で、その意味は旧来の制度を改めて新しく変えることである。制度を改革するのであって、よいものを新しく作ることとは違う。変えるのではなく、しっくりいっていないことを正し、改善すること。デザインは「変える」こととか「新しく」作ることだと思い込んでいる人は少なくない。そういったデザインの一般論に反抗して「変えない」ということは易(やさ)しくない。「自分のデザイン」というような気持ちを捨てなければならない。でも、そうやっていいものを継承して現在の生活に合わせて少しずつ直していこうとすれば、いつか自然に新しいものがぽろっと生まれる時がある。新しいのに、ずっといいものと繋がっているようなものができる時がある。(201~203ページ)

「美しい」と「いい雰囲気」をつくるデザイン ―デザインは暮らしという全体の「雰囲気」をつくることである―
椅子や家具をデザインする時も、心がけるのは、もはや「形」とか「自己表現」などでは、毛頭ない。いい雰囲気を醸(かも)し出す物かどうか、を問いながら、私はデザインする。(中略)いい雰囲気とは、調和の事かもしれない。(中略)「綺麗」とか「美しい」という事は、それがよい物かどうかを決める、最も重要な事ではない。「雰囲気がいい」事のほうが上である。物が、単一で美しい、などという事など、ないのだ。雰囲気を醸し出す物でなければ、「いいデザイン」とは言えない。新しければいい、などという事はデザインの基準ではない。/「いい感じ」を醸し出す物が、「いい雰囲気」をつくる。デザイナーは、物だけをデザインしてはいられない。暮らしという全体の「雰囲気」をつくらなければいけない。結局は、空気をつくるのだ。(310~312ページ)

〇以上を要するに、①事実(本物)に触れる経験、②「ふつう」になったものを「変えない」デザイン、③空気(意識)を醸成するデザインが重要であるというのであろう。唐突ながら、これらは「まちづくりと市民福祉教育」にも通底する。誤解を恐れずにそれを別言すれば、まちづくりはそのまちの歴史や文化によって生み出された「ふつう」を磨くことである、と言えようか。
〇[2]では、「ふつう」はシンプルであり、「えらい」は生まれてから死ぬまでの、誰もが行う人間の野性的な、普段の営みにこそあるという思いに至る。ここでは、河合隼雄(1928年~2007年。臨床心理学)の「解説」文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

ふつうの人とえらい人 ―「ふつう」は「生き物であれば、誰でも持っているもの」であり、「よくいきている」ふつうの人のほうがえらい―
「正しいというのは正義というのではない。」(192ページ)/「正義」の方は必ず理由をもっている。「かくかくしかじか」という理由によって正しいという。それは理由によって支えられており、その理由はイデオロギーとかによって支えられている。つまり、それは正しい理論、正しい認識、などというものによって支えられ、立派に見えるけれど、そこから知らぬ間に生きた人間が消え去ってしまう。それに対して、佐野洋子のいう「正しい」は、まず生きた人間が先行している。生きた人間の存在を通して、正しいという叫びがとびだしてくる。「私は野性の中にある知性こそが、本当の知性だ、そして、それは人間が生き物であれば、誰もが持っているものだと思う。」(193ページ)と書かれている。/「誰でも持っているもの」を言いかえると「ふつう」になる。その「ふつうがえらい」のだ。(中略)現代人は自分が「生き物」であることを忘れているのだ。うまくやったり、努力したりすれば何でもできる、と思いすぎている。今世紀になってテクノロジーが異常に発達したので、うまくやれば何でも可能と思いすぎているのだ。「えらい」人を見ると、自分も同じように「えらく」なろうとする。そのことによって無理をしすぎて、「生き物」である自分を見失ってしまうのだ。そのような偽物の「えらさ」ではなく、「生き物であれば、誰でも持っているもの」としての「ふつう」のところに、でんと腰をすえると、世間の評価と関係のない「えらさ」を獲得できる。しかし、そのためには、人はひとりひとり個人差があり、自分ではどうしようもない欠点が沢山あることをはっきりと認識する必要がある。(285~286ページ)

〇筆者の手もとにもう一冊、精神科医である泉谷閑示(いずみやかんじ)の『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)という本がある。[3]にこういう一文がある。

ある親御さんが、「私は、息子に普通の子になって欲しかった。ある時、息子は『普通って何!』と言った。私は、何でもいいから普通に、みんなと足並みを揃えて欲しいって思って育ててきた。普通じゃないと他人に説明できないから、ただ分かりやすい人になって欲しいという気持ちだった」と、話されたことがありました(中略)。/しかし、どんな人も、決して最初から「普通」を求めていたはずはありません。/この親御さんの場合は、ご自身が幼い頃から周囲の視線や言葉によって傷ついてきた歴史があって、「普通」でないことはこんなにもまずいことなのかと考えるようになった。それで、どこか窮屈さを感じながらも、「普通」におびえ、「普通」に憧(あこが)れ、「普通」を演じるようになった。そして、わが子もそうやって生きるべきだと考えるようになったのです。(41、42ページ)

〇この一文から、「普通」は「考えや行動が同じ」であり、「他人に説明しなくても分かる状態」をいうのであろう。また、「普通」は、「一般的」「標準的」「多数派」といった意味をもち、自分が所属する「世間」(集団や組織)との関係性の調和を重視する日本文化(日本人)の伝統的な価値観である。「普通」の認知領域や設定基準によって、積極的・肯定的、消極的・否定的、あるいは好意的・非好意的な感情や思考・行動を生む。そして、周りの人への気配りが共有され、周りの人と調和したときのポジティブな感情や思考が、幸福感や満足感(well-being)として意味づけられる。上の一文から、こうした言説を想起する。

【初出】
<雑感>(122)阪野 貢/「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/2020年10月30日/本文

付記
「ふつう」こそ「個性」の原料
〇キリーロバ・ナージャ著『6ヵ国転校生・ナージャの発見』(集英社インターナショナル、2022年7月)という本がある([4])。6ヵ国転校生のナージャが1990年代にロシア、日本、イギリス、フランス、アメリカ、カナダで実際に通っていた学校での体験や発見を綴ったものである。「イギリスの学校では、よく書くために、消しゴムを使って書き直せるエンピツを使っていた。ロシアでは、よく考えるために、書いたものは直せないペンを使っていた」。「ロシアの学校では、体育で整列するとき背が高い人が前だった」。「フランスの学校では、多くの人が家に帰ってお昼をたべていた」。「カナダの中学校では、計算機を使いながら答えを解答用紙に書いていた」等々、興味深い。そこからは、多文化理解や多文化共生には、生活様式や文化の皮相的なものではなく、その内奥の思考方法などの違いに注目しなければならないことが分かる。
〇ナージャは、大人になって次の5つを発見したという。(1)「ふつう」が最大の個性だった。(2)苦手なことは、克服しなくてもいい。(3)人見知りでも大丈夫、しゃべらなくても大丈夫。(4)どんな場所にも、必ずいいところがある。(5)6ヵ国の先生からもらったステキなヒントたち(①すべてに理由、そして面白さがある。②分からないことがあるから、仲間がいる。③人生に完璧はなかなかない。④わたしも、答えを知らない。⑤目標を立てるのも、達成するのも自分だ。⑥前例を覆(くつがえ)すからこそ、進化がある)、がそれである。
〇ここで、(1)「ふつう」が最大の個性だった、について付言しておきたい(114~118ページ抜粋)。

「環境が変わると、ガラッと変わるものは?」
答えは、「ふつう」だ。転校するたびに今まで「ふつう」だと思っていたことが、急に通用しなくなる。転校生なら少なからずみんな経験している気がする。
絶対的な「ふつう」がないんだとしたら、自分の「ふつう」ってなんだろう? 今まで考えたことはなかったけれど、誰かの「ふつう」を真似する限り、二番煎じにしかならないし、自分の本当のよさが生きてこない気がした。
子どものころはなかなか気づけないけれど、まわりと違う自分の「ふつう」こそが、「個性」の原料だ。そう気づいてから、今まで嫌いだった自分の「ふつう」がなんだか少しだけかわいく見えた。
そう、みんな「ふつう」でいいし、「ふつう」に対するコンプレックスをもっともっと捨てられるといいなと。
「ふつう」を磨いていくことが、「個性」を磨くことよりずっと早いという発見をしてから、ずっとそう思っている。

〇そしてナージャは、「ふつう」を「個性」として考えるためのヒント、についていう(118ページ)。
(1)意識して、違う「ふつう」の環境に身を置いてみる。
(2)自分の「ふつう」に他の「ふつう」を少し混ぜてみる。
(3)どちらにとっても新しい「ふつう」が生まれる。
(4)みんながそれを「個性」として重宝するようになる。

 


19  「批判的教育」の使命


<文献>
(1)マイケル・W・アップル、ジェフ・ウィッティ、長尾彰夫編著『批判的教育学と公教育の再生―格差を広げる新自由主義改革を問い直す―』明石書店、2009年5月、以下[1]。
(2)ヘンリ―・A・ジルー、渡部竜也訳『変革的知識人としての教師―批判的教授法の学びに向けて―』春風社、2014年1月、以下[2]。

〇筆者の手もとに、「批判的教育学」(Critical Pedagogy)の必読書であるマイケル・W・アップル、ジェフ・ウィッティ、長尾彰夫編著『批判的教育学と公教育の再生―格差を広げる新自由主義改革を問い直す―』(明石書店、2009年5月。以下[1])がある。そこには長尾の論稿「教育改革のポリティックス分析―新たな『教師論』の構築に向けて」が収録されている。
〇本稿では、長尾彰夫(ながお・あきお)の言説のなかから、筆者なりにいま一度認識しておきたいいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

(1)新自由主義・新保守主義と公教育の破壊
自由経済と強い国家を追求する新自由主義と新保守主義(注②)の勢力は、一方で「民主主義」を口にしつつ、他方では民主主義の意味そのものを根底から変え、さらなる格差や不平等を作り出している。また、「伝統」を声高に叫びつつ、それに異を唱えるものは徹底的に排除する。こうした「改革」がもたらす最大の問題は、公教育の破壊である。(3ページ)
(2)批判的教育学・批判的教育学者の使命
批判的教育学は、新自由主義と新保守主義による政策と実践が子どもや教師に与える影響(問題状況)を明らかにする。究極的には、非民主的な「改革」を押し戻し、真の「民主主義と市民性」に基づく「改革」を推し進める。そのために、進歩主義的な社会運動と協力しながら行動する。それが批判的教育学や批判的教育学者の使命である。(3~4ページ)
(3)現代の教育改革の特徴
教育改革はしばしば、官邸・内閣を中心とした時の政治的権力によって推進される(中曽根内閣が1984年8月に設置した「臨時教育審議会」や安倍内閣が2006年10月に設置した「教育再生会議」等)。それは、従来型の、文部科学省の官僚的・行政的権力による教育改革とは異なる。しかも、その両者の間には、共通性(点)と異質性(点)が存在する。現代における教育改革は、こうした微妙にして深刻な矛盾と対立を含んだ権力構造の分析なしには、その実像と特徴を捉えることはできない。(151ページ)
(4)ポリティックスの意味
ポリティックス(politics、政治学)とは、政党や政治が行っているような狭い意味での「政治的な事柄」「政治活動」を意味するのではない。ある事態や事柄をめぐって、それに関わる様々な人々や集団が、それぞれの利益と被害に関わるパワー(権力)を行使していく過程、およびそれによって生み出されていく(権力的な)諸関係をいう。(152ページ)
(5)教育改革のポリティックス分析
教育改革のポリティックス分析では、教育改革に関わるさまざまな集団や組織の利害や権力(パワー)が、どのように複雑に作用しているかというその状態(権力作用の関係)を具体的・現実的に分析する。その際、何のためにポリティックス分析を行うのかという、ポリティックス分析のめざすべきところをどこに設定するのかを明らかにしておくことが重要となる。(154ページ)
(6)教育改革と教師の「批判的権力」
教師は、教師としての視点と立場に基づくパワー(権力)を行使しながら、教育改革に関わっていくことが求められる。そのパワーの根底に据えられるべきは、教師が実際的な教育現場に関わっていくという専門性であり、それを基礎に、教育政策を批判的に捉え対象化していくいわば「批判的権力」である。教育改革のポリティックス分析では、教師が「批判的権力」をいかに獲得していくか、それを可能にする「教師論」とはいかなるものかが重要な課題となる。(163~164ページ)

〇「学校における福祉教育」は、歴史的・客観的な評価・分析を行わないまま、「指定校制度」を過去のものにしつつある。それに代わって登場した「地域を基盤とした福祉教育」は、ただ時流に乗ることを優先し、曖昧な「地域指定」や「実践主体」のもとで進められている。その当然の帰結として、一部の社協(職員)や学校(教師)を除いて、社協と学校の関係が表層化・限定化し希薄化している。そしていま、福祉教育関係者は、文部科学省が進める「コミュニティ・スクール(Community School)」や「アクティブ・ラーニング(Active learning)」に何の躊躇もなく、無邪気に秋波を送っている。
〇こうした動向や実態(課題)を生み出したその時々の福祉・教育政策に対して、福祉教育の実践(実践者)や研究(研究者)は、十分な関心を持って臨んできたであろうか。それぞれの福祉・教育政策の真の狙いを抉(えぐ)り出すことなく、それらを無批判的・盲従的に是認し受容する。そのうえで福祉・教育政策に適応(適合)する福祉教育実践のあり方を探究してきたのではないか。長尾の言説から、福祉教育の実践や研究のあり方を厳しく問ういくつかの示唆を得ることができる。
〇筆者の手もとには、もう1冊、ヘンリ―・A・ジルー著、渡部竜也訳『変革的知識人としての教師―批判的教授法の学びに向けて―』(春風社、2014年1月。以下[2])がある。[2]は、アメリカの批判的教育学者であるジルー(Henry A. Giroux)が1970年代から80年代にかけて発表した論文を集録し刊行(1988年)したものの全訳である。
〇訳者の渡部によると、ジルーの教育論は「二部構成」から成っている。そのひとつは、「生徒(特にこの場合、被抑圧者たちの子どもたち)が日頃慣れ親しんでいる文化的経験に結びつく仕方で自分たちの社会的ポジションを力動的に捉えていけるような知の枠組みを提供していくアプローチ」即ち「批判の言説」である。いまひとつは、「必要ならばその社会的ポジションの変革に向けて文化的経験の読み替えを行い(既存の社会体制に疑問を呈するような新たな解釈可能性の発見)、同じ問題意識に立つ外部の団体などと協力して実際に変革への力をつけていくためのアプローチ」即ち「可能性の言説」である。この二つの言説を換言して要約すれば、「日常言説の自明性を疑うための批判的分析と新たな可能性の提言」となる。(383ページ)
〇ジルーの批判的教育学については原典に当たっていただくことにして、ここでは、[2]のタイトルでもある「変革的知識人」(transformative intellectuals)に関する次の一節を付記するにとどめる。

(1)学校は論争的領域である
学校は実際のところ、政治や権力から隔離された客観中立の装置などではなく、権威の諸形態、知識の型、道徳的規則の諸形態、過去の見方や未来の展望などのうちのどれを正当化して子どもに伝えていくべきかという問題をめぐる闘争を具体化して表現した論争的領域である。学校は決して中立的な場ではなく、教師も同じく中立的な立場にいることなど不可能である。(237ページ)
(2)教師は教育改革の主体である
教師は教育改革の主体である。教師は学校の官僚的組織のなかで、専門職化された技術職ではない。即ち、教師は単に、前もって定められた目標を効果的に達成するために職業的に準備をするパフォーマーとして見なされるようなことはあってはならない。教師は、知への価値に対して特別に貢献し、また若者の批判的パワーを高めること(思慮のある能動的な市民を育成すること)に自由でなければならない。(230、235ページ)
(3)教員養成の変革が求められる
教師が生徒を活動的・批判的市民に育てるためには、教師が変革的な知識人となるべきである。現在の大学や教員養成ではしばしば「ハウ・ツー」が優先され、そのような仕事をどのようにこなすのか、与えられた知識体系を教授するのに最善の手法をどのようにマスターするのか、といったところに力点が置かれている。「変革的知識人」としての教員養成のあり方を問う必要がある。(232、237ページ)

〇ジルーの言説に関しては、教育は本質的に政治であり、権力である。学校は現実的にも、政治や権力の構造と機能を持っており、それゆえに子どもの批判的主体性の育成や能動的市民性の形成を図る場として存在する。学校教育は「政治的中立性を確保しなければならない」「権力と結びつくことがあってはならない」というのは、幻想である。学校教育では、学校外部の地域・社会におけるそれ(政治や権力)との関わりで、どのような理念や目的や価値観を有する政治や権力の場として学校を位置づけるかが問われることになる。これらの点を再認識しておきたい。
〇ジルーがいう「変革的知識人としての教師」については、少なくとも社会科教師にはそのあり方が問われることになるが、全ての教師にその素養や能力が求められるとは言い難い。この点を「市民福祉教育」に引き寄せて言えば、先ずは、福祉教育担当の学校教員や社協職員、そして「活動する市民」「市民エリート」(坂本治也)などが福祉・教育政策を批判し変革する知識や能力を身につける必要があろう。その際の福祉教育は、「思いやり」などの特定の価値観を押し付ける道徳主義や、「共に生きる」などの口当たりの良い言葉を唱えるスローガン主義に基づくものでないことは言うまでもない。
〇福祉教育は、人権尊重や社会正義の価値を基盤に、福祉・教育政策を批判し変革するソーシャルアクションやアドボカシー(註➀)についての思考(批判的思考)と実践(変革能力)を要件とする。本稿で再認識したいのはこの点である。


①アドボカシー(advocacy)は、元々は「擁護」や「支持」「唱道」などを意味する言葉である。やがて、「政策提言」や「権利擁護」など、特定の政策を実現するために社会的な働きかけを行う活動を示すようになった。また、「政府や自治体に対して影響をもたらし、公共政策の形成及び変容を促すことで、社会的弱者、マイノリティー等の権利擁護、代弁の他、その運動や政策提言、特定の問題に対する様々な社会問題などへの対処を目的とした活動」とも定義される(「日本アドボカシー協会」ホームページより)。

【初出】
<雑感>(43)阪野 貢/福祉教育は「批判」と「変革」を必要要件とする:「福祉教育と批判的教育研究」に関するメモ―日本福祉教育・ボランティア学習学会の新体制に寄せて―/2017年1月4日/本文

 


20  「対話」の技術


<文献>
(1)山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室―3つのステップ―』新曜社、2013年7月、以下[1]。
(2)山口裕之『「大学改革」という病―学問の自由・財産基盤・競争主義から検証する―』明石書店、2017年7月、以下[2]。
(3)山口裕之『人をつなぐ 対話の技術』日本実業出版社、2016年4月、以下[3]。

〇筆者が最近読んだ本のなかで“面白い”と思ったものに、山口裕之(やまぐち・ひろゆき、徳島大学、哲学研究者)のそれがある。『コピペと言われないレポートの書き方教室―3つのステップ―』(新曜社、2013年7月。以下[1])、『「大学改革」という病―学問の自由・財産基盤・競争主義から検証する―』(明石書店、2017年7月。以下[2])、『人をつなぐ 対話の技術』(日本実業出版社、2016年4月。以下[3])、である。
〇[1]は、「レポート」を書くにあたって、「コピペ」と言われないためには具体的にどうすればよいのかを、「最重要ポイント」のみに絞って解説したものである。その根底には、学部学生らに「自分の意見を根拠づけて主張する力」を身につけてもらいたい、という願い(「思い」)がある。「おわりに―民主主義とレポート」(93~98ページ)は深く、読む意義は大きい。
〇[2]は、政財界主導で進められている「大学改革」(国家権力の過度の介入、学長トップダウン体制の構築、競争主義や成果主義の強化、研究予算の削減や組織の統廃合、等々)の単なる反対論ではない。いわんや「潰(つぶ)れる大学」「大学の生き残り策」といった類の「読み物」ではない。[2]は、大学改革における論点を整理し、あるべき姿を追求するための見取り図を提示する、総合的で本格的な「大学論」である。「教育は、消費者が欲するものを提供するサービスではなく、何を欲するべきかを考える力を与えるための営みである」(248ページ)。大学に求められる機能(大学の存在意義)は、民主主義的な市民社会を支えるために、「さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」(148ページ)、「正しく考え、議論し、他人と意見を共有する技能」(221ページ)を育成する(習得させる)ことである。留意すべき言説である。
〇[3]は、そのタイトルから「マニュアル本」と思われるが、民主主義の思想や歴史、民主主義国家の形成やあり方などにも言及する学術書(「人文書」)である。そこでは、人々の対話を阻(はば)み、人々を分断させている日本社会の現状分析を通して、「対話による合意形成」の重要性が一貫して主張される。その論述に関して山口は自らを、「意地の悪い揚げ足取り」(159ページ)「へそ曲がり」(161ページ)などと言うが、そこに批判性やオリジナリティがあり、また[3]の魅力(“面白い”)のひとつがある。

〇本稿では、「まちづくりと市民福祉教育」にも通底する(使える)、[3]における山口の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

対話のねらいは合意形成と妥当な結論の発見にある
対話は、立場や意見を異にする人と話しあい、互いに納得できる合意点を見つけることである。対話は、相手の立場を理解し、多面的な見方を知ることで、妥当な結論を出すための方法である。対話は、憶測や思いつきではなく、客観的な根拠にもとづいて進めなくてはならない。対話は、自分と相手を成長させ、人と人とをつなぎ、ひいては民主的な社会全体を支えるのである。(はじめに、263ページ)

民主主義の本質は対話であり多数決ではない
民主主義とは対話である。民主主義の本質は多数決でなく、すべての人が対等な立場で自分の意見を根拠づけて主張し、討議し、お互いに納得できる合意点を探るところにある。多数決は、合意を形成するための手段の一つに過ぎない。無造作な多数決は、「多数派の専制」とほとんど同義である。それは、少数者の権利を侵害することになる。民主主義は、共同体のメンバーの人権を保障するための制度である。(40、51、116ページ)

民主主義はすべての市民が賢くなることを要求する
民主主義を支える一般市民は、対話に先立ってあるいは対話の過程で、普段から自分の思考力を鍛えるべく、努力する必要がある。それは、一面的な感情にとらわれない、多面的なものの見方や論理的な思考(「人間の日常生活における論理的思考」「日常的思考」)である。民主主義とは、すべての市民が賢くならなければならないという、無茶苦茶を要求する制度である。大学やその他の教育機関は、その無茶苦茶を実現するために存在しているのである(47、117、146ページ)

一般意思は多数派の意思ではなく理性によるものである
「一般意思」とは、「多数派の意思」ではなく、「実際にメンバー全員が持っている意思」でさえない。それは、「論理的に考えて共同体を設立し維持するために必要な条件」であり、各人に理性(論理的思考力)があれば、メンバー全員がこれを意思するはずのもの(「論理的思考力がある人間なら誰しも納得するはずのもの」)である。その点で、「一般意思」は基本的人権と表裏一体であり、それをお互いに守ることが「一般意思」である。(65、67、107ページ)

権利は義務の対価ではなく義務を伴わない
基本的人権(自由権、平等権、社会権、参政権など)とは、人間が人間らしく生きていくために不可欠のものであり、義務を伴うものではない。「権利」(ライツ:rights)の対義語としての「義務」(デューティ:duty)は、「誰かから要求されたわけではなく、人として当然果たすべきこと」である。「ライツ・アンド・デューティズ」と言えば、「人間として当然要求できることと、人間として当然果たすべきこと」という意味であり、「権利は義務の対価」という意味ではない。ライツとデューティは、表裏一体の「人間として当然のもの」である。人権とは、国家権力が課した「義務」(オブリゲーション:obligation)を果たしたことの対価として、国家権力から恵与されるものではない。(76、77、78ページ)

「人それぞれ」は対話を拒み連帯を妨げる
最近の風潮として、「人それぞれ」が蔓延(まんえん)している。「人それぞれ」という言葉は、相手(個性)を尊重するかのようであるが、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。それは、人々に対話を拒否させて合意形成をしない、人々の連帯を妨げるものであり、民主主義社会の根幹を掘り崩してしまいかねない。民主主義の理念とは、他人と協力することで、一人で生きていくよりも安全で快適に生きていくことである。そのために、自分たち自身で妥当なルールを決め、それを共有することである。(137、155、156ページ)

個性の尊重は微妙な差異の競い合いにすぎない
「個性重視」をめぐって、「みんなちがって、みんないい」(金子みすず:私と小鳥と鈴と)というフレーズや、「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」(槇原敬之:世界に一つだけの花)という歌詞を見聞きする。多様性を尊重することは重要である。「個性」や「その人らしさ」は、個人の属性ではなく、個人間の関係性である。また、それは、成長する過程で、社会に流通している既存の価値観を選択することで形成されるものである。「もともと特別」などということはない。「個性」や「その人らしさ」は千差万別というよりは、社会的に許容可能な範囲内での変異に収まる。それゆえ、「個性」や「その人らしさ」の尊重とは、ある許された範囲内での微妙な差異の競い合いということになる。(162、163
ページ)

真の道徳教育は対話の教育である
現在、社会全体が「感情」や「思い」を尊重し、「心」を重視する方向に進んでいる。感情は個人的で、その人の立場に依存するものであり、誰しもが認める「正しさ」の根拠とはならない。共有できる「正しさ」は、感情ではなく、客観的な事実と合理的な予測にもとづいた対話によって作っていかなければならない。また、「思い」は、強いことが評価される傾向にあるが、強ければよいというわけではない。「何を思うか」のほうが大切である。そして、「心」が重視されるなかで、(内発的な動機が無視され)特定の徳目(道徳内容)を押しつけ、刷りこむ道徳教育が推進されている。徳目を覚えたからといって、その徳目を実践できるとは限らない。徳目の一方的な刷りこみそのものが、非道徳的である。道徳教育にとって重要なことは、「正しさ」(何が正しいことか)を判断する能力や技術を身につけることである。それは対話の能力であり、「対話の技術」である。(173、264、267、274ページ)

〇ところで、[3]で山口は、「ネットで一番ヒットするのは『普通の人』の意見」という見出しの一節で、次のように述べている。「ネットで情報発信するためには何の資格も学識もいらないので、ネット上のサイトや掲示板には、憶測や妄想にもとづくいい加減な記述があふれかえっている。パソコンの画面に表示されたからといって、それは権威あるものではなく、その辺の居酒屋での世間話や、個人の思いをつらねた日記などと同等の信用性しかないものが大部分なのである」(237~238ページ)。
〇また、社会学者の宮台真司(みやだい・しんじ)も、『まちづくりの哲学―都市計画が語らなかった「場所」と「世界」―』(ミネルヴァ書房、2016年6月)という本のなかで次のように述べている。 「ネットが同じ穴のムジナだけが集う<劣化空間>を提供する。<劣化空間>でつけあがる輩(やから)が、電子掲示板や、ブログのコメント欄や、ツイッターなどのSNSを、炎上させる。<劣化空間>は『馬鹿にとっては逃避先』であるが、『馬鹿でない人々にとっては真っ先にそこから逃げ出したい場所』である。ネット上では、見識の深い作家や批評家の発言と、劣化した人々の発言とが、等価になる。そうしたコミュニケーション空間では、見識の深い作家や批評家から順番に退却していく道理である」(51ページ、要約)。
〇筆者はこれまで、ブログ(「市民福祉教育研究所」)を通して、「まちづくりと市民福祉教育」に関する議論のための素材や情報の提供によるひとつの「問いかけ」を行なってきた。その際、「知識は体系になって、はじめて力を発揮するのであって、断片の寄せ集めは単なる雑学である」([3]228ページ)こと、すなわち知識や情報の構造化・体系化が厳しく問われることについては、多少なりとも留意してきた。しかし、“多少”では困るのである。ここで改めて、肝に銘じておきたい。

補遺
山口は[3]で、「対話の技術」(どのように対話すればよいのか)について、その要点を次のように「まとめ」ている(259~260ページ)。

①自分から見て、どんなに不正だと思える相手についても、その人なりの立場や感情があるはずなので、まずはそれを理解しようとすることが大切である。
②それから、問題となる事態を具体的に特定し、それが事実に反する思いこみや、中身のない言葉だけのものではないかを検討する。
③人間の思考にはバイアス(偏り)がかかっていることを自覚する。
④自他の要求を明確化することで、争点を明確化する。
⑤要求が、事態の改善につながる因果関係を持っているかどうかを検討する。
⑥相手の思考の体系を理解したうえで、その問題点を指摘し改善策を提示するような建設的な質問をする。
⑦自分自身の立場を反省する。
⑧事実認識を共有する。そのためには、ネット情報に頼らず、学術的な研究や一次資料を確認する。
⑨共有されている価値観を確認し、価値観同士が両立しえない場合には、どの程度のところまでが許容範囲なのかについて合意形成する。現実をその許容範囲に収束させるための適切な手段を検討する。

【初出】
<雑感>(56)阪野 貢/続・「対話」考:山口裕之を読む―「みんなちがって、みんないい」はどこまで許容できるのか―/2017年12月1日/本文

 


21  「 弱さ」のデザイン


<文献>
(1)天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』岩波書店、2021年10月、以下[1]。
(2)澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』ライツ社、2021年1月、以下[2]。
(3)高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』大月書店、2014年2月、以下[3]。
(4)鷲田清一『<弱さ>のちから―ホスピタブルな光景―』講談社、2014年11月、以下[4]。

「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、 それは弱くもろい社会なのである。障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである。」(国連総会決議「国際障害者年行動計画」1980年1月30日採択)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、天畠大輔(てんばた・だいすけ)の『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波書店、2021年10月。以下[1])と、澤田智洋(さわだ・ともひろ)の『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月。以下[2])という本がある。天畠は、四肢マヒ、発話障害、嚥下(えんげ)障害、視覚障害などの重複障害を抱える、「世界でもっとも障害の重い研究者のひとり」である。澤田は、「息子に視覚障害があるとわかってから、『強さ』だけで戦うことをやめた」コピーライターであり、「言葉とスポーツと福祉」が専門の広告クリエイターである。ともに1981年生まれの気鋭のヒトである。
〇[1]で天畠は、生活上の困難(「弱さ」)と徹底的に向き合いながら、独自のコミュニケーション法(「あ、か、さ、た、な話法」)を創り、24時間介助による一人暮らし、大学進学、会社の設立(介護者派遣事業所)、大学院での当事者研究(博士号取得)、全国各地の重度障がい者と介助者の相談支援活動など、自身の人生の軌跡と生き様を紹介する。その際のキーワードのひとつは「当事者力」「当事者研究」である。天畠はいう。「当事者力」とは、「自身の抱える困難<弱さ>を自覚し、社会にその困難<弱さ>と解決の方法を訴えていく力」(182ページ)である。「当事者研究」は、障がい者の生活が制度によって “ 囲われた生活 ” になっている状況を打開し、「個人的なこと」を「政治的なこと・社会的なこと」に結びつける。すなわち当事者研究には、障害の「個人モデル」を「社会モデル」に転換し、社会規範を変える・社会変革を促す障がい者運動を再び活性化させる可能性がある(212ページ)。
〇いまひとつのキーワードは「合理的配慮」であろう。合理的配慮とは、「障がいのある人が、過度な負担を伴わず社会参加の機会を得られるように社会の障壁を取り除き、障がい者に配慮すること」(69ページ)をいう。2016年4月の障害者差別解消法の施行をきっかけに社会で大きく注目を集めるようになった。
〇天畠の「合理的配慮」に関する論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「弱さ」を「強み」にする「合理的配慮」
介助者の介入ありきで論文を書きあげるという、一般的に考えられている規範(かくあるべきもの)からは外れてしまう自分の「弱い」部分にあえてスポットを当て、逆にそのことの合理性の証明を(個人的なことを徹底的に深堀りする)当事者研究によって実践してきた。そしてそれを発信することで、社会の見方を変え、すでにある合理性の考え方やその境界線を変化させること、ひいては合理的配慮の範囲を広げていくことにも繋がる、という可能性を実感した。/合理的配慮は「与えられるもの」ではない。「でき上がっているもの」でもない。当事者が自分のニーズを発信して、何が合理的であるかを社会と対話しながら、つくり上げていくものなのである。/障がい者が合理的配慮を受けるのは権利であるが、配慮を受けるためには相応の「責任を負う」。(73~74ページ)/「当事者が制度の上にあぐらをかいてはいけない」(74ページ)

介助者と協働で書いた論文は「自分の論文」と言えるのだろうか‥‥‥。介助者の能力に「依存」して、僕は自分の能力を水増しさせているのではないか‥‥‥。僕は論文執筆における「能力の水増し問題」に長く苦しめられることになった。(130ページ)/僕は「介助者と協働で論文執筆する研究方法」にみずから疑問を持ちながら、介助者と協働で博士論文を書き上げた。しかし、ある意味自分の<弱さ>と徹底的に向き合っていく作業ともいえるその過程で、誰しもが自分一人の能力で生きているわけではない、ということに気がついた。ちなみに僕は<弱さ>という言葉を、社会的規範からはみ出てしまうこと、それに付随する生きづらさという意味で使っている。(131ページ)

僕は常に介助者との関係性のなかで自己決定をしている。(204ページ)/一見すると僕の自己決定のあり方はとても特殊なように思えるが、他者とかかわりながら生きていく以上、「健常者」であっても発話が可能な障がい者であっても、基本はみんな同じである。誰もが、自分以外の他者の影響を受け、ときに〝妥協〟しながら、日々自己決定をしていると言えるのではないか。(204~205ページ)/研究の結果たどり着いたのが、「<弱い>主体としてのあり方を受け入れる」という思いである。他者の意見に左右されながら、そして協働しながら、モノを生み出していくことは、障がいがあるゆえの特別なことではなく、人間誰もがそういった側面を持っている。そのことへの気づきによって、僕の持つ生きづらさは軽減された。さらに、それがいかに合理的であるかということを論理的に分析していくことで、逆に自分の<弱さ>が<強み>になることもある、という発見に至った。(205ページ)

今の社会で能力主義から自由に生きられる人はほとんどいないのではないか。(225ページ)/能力主義は、個人の努力や責任を求めるあり方である。しかし、重度障がい者の置かれている現状をみれば、個人の努力や責任ではどうにもならないことのほうが多いのである。/僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない。(226ページ)

〇[2]で澤田はいう。だれもが持つマイノリティ性である「苦手」や「できないこと」、「障害」、「コンプレックス」は、克服しなければならないものではなく、生かせるものである。だれかの弱さは、だれかの強さを引き出す力である(12ページ)。人はみな、なにかの弱者・マイノリティであり(42ページ)、人はみな、クリエイターである。(324ページ)。そこに「マイノリティデザイン」という新して言葉と考え方を見出す。
〇澤田は「運動音痴」すなわち「スポーツ弱者」である。そこで、「スポーツ弱者を、世界からなくす」ことをミッションに、90競技以上の「ゆるスポーツ」を発案する。粘り気のあるハンドソープを手につける「ハンドソープボール」、イモムシをモチーフにした衣装を着てコート内を這う「イモムシラグビー」、穴の開いたラケットを使う「ブラックホール卓球」等々である。勝利至上主義や強者にハンデをつけるスポーツではなく、「勝ったらうれしい、負けても楽しい」「健常者と障がい者の垣根をなくした」スポーツである。その競技場には、「弱さを強さに変える」仕事をする、「(目の見えない息子の)弱さを生かせる社会」を(息子に)残したいという澤田の姿がある。
〇澤田の「マイノリティデザイン」に関する論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

マイノリティデザインは「弱さを生かせる社会」を創る
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。トルストイの言葉である。/「弱さ」のなかにこそ多様性がある。(51ページ)/だからこそ、強さだけではなく、その人らしい「弱さ」を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく。/息子が目に見えないという「弱さ」と、自分のコピーを書けるという「強さ」をかけ合わせる。自分がスポーツが苦手という「弱さ」と、いろいろな人の「強さ」をかけ合わせる。/今、僕は「強さ」も「弱さ」も、自分や大切な人のすべてをフル活用して仕事をしている。弱さは無理に克服しなくていい。あなたの弱さは、だれかの強さを引き出す力だから。/弱さを受け入れ、社会に投じ、だれかの強さと組み合わせる――これがマイノリティデザインの考え方である。そして、ここからしか生まれない未来がある。(52ページ)/マイノリティとは、「社会的弱者」ではなく、「今はまだ社会のメインストリームには乗っていない、次なる未来の主役」である。(42ページ)

すべての「弱さ」は社会の「伸びしろ」
「迷惑かけて、ありがとう」。昭和のプロボクサーでありコメディアンのたこ八郎さんの言葉である。(326ページ)/迷惑とは、あるいは弱さとは、周りにいる人の本気や強さを引き出す、大切なもの。/だからこそ、お互い迷惑をかけあって、それでも「ありがとう」と言い合える関係をつくれたなら、これ以上の幸せはない。/すべての弱さは、社会の伸びしろ。(327ページ)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、上記の2冊のほかに、「弱さ」をテーマにした本が2冊ある。高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)・辻信一(つじ・しんいち)の『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。以下[3])と、鷲田清一(わしだ・きよかず)の『<弱さ>のちから―ホスピタブルな光景―』(講談社、2014年11月。以下[4])がそれである。
〇[3]は、2010年から2013年にかけて行われた「弱さの研究」(共同研究)に基づく、高橋(作家、社会批評家)と辻(文化人類学者、環境運動家)の対談本である。その研究の「目的と意義」は次の通りである。

「弱さの研究」の目的と意義
社会的弱者と呼ばれる存在がある。たとえば、「精神障害者」、「身体障害者」、介護を必要とする老人、難病にかかっている人、等々である。あるいは、財産や身寄りのない老人、寡婦、母子家庭の親子も、多くは、その範疇(はんちゅう)に入るかもしれない。自立して生きることができない、という点なら、子どもはすべてそうであるし、「老い」てゆく人びともすべて「弱者」にカウントされるだろう。さまざまな「差別」に悩む人びと、国籍の問題で悩まなければならない人びと、移民や海外からの出稼ぎ、といった社会の構造によって作りだされた「弱者」も存在する。それら、あらゆる「弱者」に共通するのは、社会が、その「弱者」という存在を、厄介なものであると考えていることだ。そして、社会は、彼を「弱者」を目障りであって、できるならば、消してしまいたいなあ、そうでなければ、隠蔽(いんぺい)するべきだと考えるのである。/だが、ほんとうに、そうだろうか。「弱者」は、社会にとって、不必要な、害毒なのだろうか。彼らの「弱さ」は、実は、この社会にとって、なくてはならないものなのではないだろうか(かつて、老人たちは、豊かな「智慧」の持ち主として、所属する共同体から敬愛されていた。それは、決して遠い過去の話ではない)。/効率的な社会、均質な社会、「弱さ」を排除し、「強さ」と「競争」を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている。精密な機械には、実際には必要のない「可動部分」、いわゆる「遊び」がある。「遊び」の部分があるからこそ、機械は、突発的な、予想もしえない変化に対処しうるのだ。社会的「弱者」、彼らの持つ「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性を探ってみたい。(高橋:11~12ページ)

〇[3]では、“ 大きいこと ” や “速いこと ” などを良しとする「強さ」の思想と “ 小さいこと ” や “ 遅いこと ” などに価値を見出す「弱さ」の思想を対比するなかで、「弱さの再発見」を説き、「弱さの思想」の必要性が打ち出される。
〇要するにこうである。人間は、身体をもつ存在(身体的存在)であり、必ず死を迎える有限性がある、本質的に「弱い」存在である(有限性=弱さ)。それゆえに人間は、家族やコミュニティを形成し、支え合い・分かち合い・補い合うという「内なる力(パワー:Power)」によって生きている。そしてそこに、やさしさや思いやり、明るさや楽しさなどの人間的な価値や意味が見出されることになる。政府や法律などによる強制力をもつ「外なる力(フォース:Force)」ではなく、この「内なる力」こそが真の強さである(7ページ)。すなわち人間には、「弱さ」のなかに多様な可能性があり、「強さ」が潜んでいる。「弱さの強さ」である(71ページ)。
〇現代社会は、経済成長をひとつのゴールとする競争社会である。競争は、多様性を犠牲にし、均質性や効率性を重視する。そこでは「強さ」が追求され、「弱さ」が排除される。その意味で、現代社会は強者に向けて設計されている社会である(74ページ)。現実世界では、社会的・経済的・(自然)環境的な破綻が露わになり、「強さ」と信じられてきたものの「弱さ」が明らかになっている。「強さの弱さ」である。そしていま、「強さ」をめぐる競争ではなく、多様な者たち同士がお互いの「弱さ」を補い合いながら如何に豊かに生きるか、すなわち多様性を如何にとりもどすか、人間に根源的に備わっていた「弱さの思想」を如何に育てるかが問われている。それは、「弱さ」を中心とした共同体を形成すること、弱者に向けて社会を設計し直すことを意味する(95ページ)。そこでは、「弱さの思想」の入口として、競争の「勝ち」「負け」や、人間の「弱さ」や「強さ」という二元論から自由になることが求められる(203ページ)。
〇次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「弱さの思想」と社会改革
この社会は、弱いとか強いとかというふうに二元論的にできていて、強さを上に、弱さを下にした固定的なヒエラルキーでオーガナイズされている。弱さの思想とは、その「強さ・弱さ」の二元論そのものを超えていくことである。この二項対立を溶かしていく、あるいは無効化していく。それが、社会を支配・被支配のない、よりよい場所へと変えていくのに役立つことになる。社会について言えることはそのまま自分にも言えるわけで、まずは内なる二元論やヒエラルキーからいかに自らを解き放つか、である。(辻:203~204ページ)

〇なお、高橋と辻は、「勝ち」「負け」や「弱さ」「強さ」の二元論から自由になるための方策、すなわち「弱さの思想」(「勝たないし、負けない」、「勝ち負け」そのものを超えるという考え方(161ページ) ) に基づく社会を実現するための具体的方策については言及しない。ここでは、そのひとつとして、社会的に弱い立場に置かれている人々の「内なる力」を育成・強化し、社会改革に向けた下からの草の根運動としてその力を臨機応変に発揮する、そのための教育的営為が必要かつ重要となる、と言っておきたい。
〇[4]で鷲田(哲学者)は、僧侶をはじめ教師、建築家、ゲイバーのマスター、性感マッサージ嬢、精神科医、医療シーシャルワーカーなど、人を「温かくもてなす」(hospitable) 仕事をする13人へのフィールドワーク(聞き書き)を通して、ケア(世話)する人がケアを必要としている人に逆にケアされるという反転(「ケアの反転」)の意味を追い、ケア関係の本質に迫る。そこでは、自分と他者の弱さを受け入れ、その存在を認め合い、信頼して他者に身をあずける関係(「存在を贈りあう関係」)が必要かつ重要となる。鷲田はいう。「『弱さ』は『強さ』の欠如ではない(松岡正剛)」(226ページ)。「弱い者には強い者を揺さぶるような力(弱さの力)がある」(210ページ)。「〈弱さ〉はそれを前にしたひとの関心を引きだす。弱さが、あるいは脆(もろ)さが、他者の力を吸い込むブラックホールのようものとしてある」(212ページ)。「ケアを、『支える』という視点からだけではなく、『力をもらう』という視点からも考える必要がある」(221ページ)。
〇鷲田による  “  まとめ  ”  のエッセイ(「めいわくかけて、ありがとう」:たこ八郎)から、次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「存在を贈りあう関係」と生きる力
じぶんがここにいることがだれかある他人にとってなんらかの意味をもっていること、そのことを感じることができれば、ひとはなんとかじぶんを支えることができる。(231ページ)/じぶんの存在が、「ふつうのひと」としてではなく、看護され、介護されるべきひとという規定を受けることが、病院や施設のなかでひとをいかに生きづらくしているかは、しばしば語られてきたことである。ひとは世話をしてもらう、聴いてもらうばかりでなく、じぶんだってひとの世話ができる、じぶんだって聴いてあげられる、じふんだってここにいる意味があるのだ、という想いが閑(しず)かに湧いてくるとき、ちょっとばかり元気になるものだ。/じぶんのしていることが、あるいはじぶんの存在が、だれか別のひとのなかである意味をもっていると確認できること、そのことが生きる意味をもはやじぶんのなかに見いだせなくなっているひとがなおもかろうじて生きつづけるその力をあたえるということとともに、その逆のこと、つまり他者に関心をもたれている、身守られているのではなく他者への関心をもちえているということもまた、ひとに生きる力というものをあたえてきたのではないだろうか。(232ページ)

【初出】
<雑感>(146)阪野 貢/「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―/2021年11月24日/本文

 


22  「 共同体」の教育的営為


<文献>
(1)内田樹『サル化する世界』文藝春秋、2020年2月、以下[1]。
(2)内田樹・平川克己『沈黙する知性』夜間飛行、2019年11月、以下[2]。

〇筆者は「内田樹の世界」への旅を重ねてきた。今回は内田の新刊書『サル化する世界』(文藝春秋、2020年2月。以下[1])を旅することにした。[1]は、雑誌のコラムや講演録、対談やインタビューなどを加筆修正し、再構成したものである。内田にあっては、挑発的なタイトルの「サル化」とは、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という時間意識の縮減や自己同一性の委縮した人たちが主人公になっている歴史的趨勢(過程)のことを言う。「サル」は、中国の「朝三暮四」(ちょうさんぼし)という説話に由来する(補遺① 参照)。
〇日本社会ではいま、「身の丈(たけ)にあった」「期待される」「自分らしい」生き方が推奨あるいは強制されている。それは、生き方の定型化・固定化を促すものである。「成熟」とは多様に「変化」し「複雑化」することであるが、それを認めないのが現代社会である。人びとが感じている「生きづらさ」や「息苦しさ」の原因のひとつは、ここにある。そのような視点から、内田は[1]で、自分の身の丈を超えて自由に多様に生きることを提案する。人間は、成長するにつれて、「考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙(ごい)が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる」(8ページ)。それが「成熟」である(「なんだかよくわからないまえがき」)。
〇以下に、[1]で筆者が「共感」する2つの視点・言説に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

教育の主体は集団であり、「共同体の存続」をめざす営為である
教育する主体は集団である。そして、教育の受益者も集団である。教育は集団の義務である。教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものである。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。(216ページ)。
「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」をめざすものだからである。(219ページ)
教育政策の適否を計る基準は一つしかない。それはその政策を実行することが子どもたちの市民的成熟に資するかどうか、それだけである。市民的成熟に関係のないこと、それを阻(はば)むものは教育の場に入り込ませてはいけない。そういう基準で教育政策の適否を判定する習慣をわれわれは失って久しい。それが現在の日本の教育の混乱と退廃をもたらしている。(219ページ)

相互扶助的な共同体は「持ち出し」覚悟の私人から立ち上がる
地域社会の相互扶助的なマインドは簡単に無くなってしまった。共同体は簡単に崩れてしまう。これから先、日本社会はゆるやかに定常経済に移行してゆく。そんななかで、相互扶助的な共同体を再生する必要がある。(260、261ページ)
相互支援の共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなく、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業である。「持ち出し」である。私人たちが持ち寄った「持ち出し」の総和から「公共」が立ち上がる。はじめから「公的なもの」が自存するわけではない。公的なものは私人が作り出すのである。(269、270ページ)
今、市民たちはどうやって「公的なもの」から私権・私物を取り出すことができるかを競っている。政府は、国民に対して「私権を抑制しろ、私有財産を差し出せ」とうるさく命令している。逆である。国民が自発的に私権を抑制し、私有財産を贈与するときに、そこに公共が立ち上がる。(270ページ。補遺② 参照)

〇内田の新刊書に、平川克己との対談本『沈黙する知性』(夜間飛行、2019年11月。以下[2])がある。対談のテーマや内容は、言葉や世論にはじまり、日本社会の衰退やグローバリズムの終焉、そして村上春樹や吉本隆明等々、多面的かつ多層的である。ここでは、[2]における次の3つの言説だけを再認識しておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

言葉に対する怯えや覚悟
何かを語ろうとしてる人間はみな「自分が発信している言葉は、誰かの言葉をパラフレーズ(言い換え、置き換え)しているだけかもしれない」ということを自覚しておく必要がある。その自覚がないから、自分たちの思考がパターン化した思考の枠組みをなぞっているだけだという自覚もないし、逆に、お気楽に傲慢で攻撃的な言葉を発することができるとも言える。言葉に対して、怯(おび)えや覚悟というものがあってもよい。(平川:35ページ)

身体感覚と生活実感のある言葉
「ほんとうのこと」「本音」を言うためには、命を賭けなければならない。生身の身体(身体性)や現実生活の常識から乖離した言葉には、説得力がない。一方で、身体感覚に裏付けられた言葉だけではなく、抽象度の高い言葉を使っていかないと思想は形成できない。そこで、抽象度の高い言葉を、生活実感のある言葉で裏打ちしていく作業(「伝わる言葉」への変換)が必要になる。(平川:57、58、305ページ)

孤独な沈黙のなかでの知性
見聞の狭い人間は、目の前の現実を見てすぐに「前代未聞」だと浮き足立ったり、有頂天になったりする。知識人は逆に、何を見ても「これはどこかで見たことがあるんじゃないかな」というところから吟味(ぎんみ)をする。そして、どういう文脈で「こういうこと」が起きたのか、過去の事例を参照しながら理解しようとする。知識人の、この孤独な沈黙のなかでの営為が、未来を切り拓く。これが本物の知性である。(内田:106、109ページ)

〇なお、筆者はかつて、「まちづくり」のための市民性形成(市民的資質・能力の育成)と市民運動に関して、次のように述べたことがある。「市民運動は通常、自らの、あるいは他者の尊厳や生命・生活が脅かされるときに、多くの市民が集合し、集合行為として展開される。その際、その運動は、必ずしも環境や立場を同じにする人びとが集まって展開されるものではない。運動に参加する人びと(運動主体)は多様であり、運動の目的も直接的に自らの利益や地位向上などのための利己的なものではない。運動主体の多くは、利己主義を超える人間観や社会観をもっており、社会的な事象や出来事に積極的に関与し、自己決定し、共通認識のもとに連帯して行動する自発的で能動的かつ自律的な個人である。また、その個々人は、運動展開の過程で他者理解を深め、自己を再発見し、自己変容・変革を促す。それを通して、他者との相互連携がより深化・発展するのである。」(<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿)。これは、まちづくりのための市民運動や市民福祉教育についての理念的な管見である。本稿のサブタイトルに関して付記しておくことにする。

補遺 ①
中国の春秋時代の宗(の国)にサルを飼う人がいた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌(きゅうじ)していたが、手元不如意(てもとふにょい。家計が苦しく金がないこと)になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」とわかっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。([1]22ページ)

補遺 ②
スモールサイズの「顔の見える共同体」で、地域・住民自らが医療や福祉・介護などに関するサービスや事業活動を相互支援的に手作り・手売り・手渡しし、自律的なコミュニティをつくることが肝要である。「こんなところで小さくやったって社会は変わらないよ」ではなく、逆に「小さくやるから変われる」のである([1]324~325、326ページ)。

【初出】
<雑感>(110)阪野 貢/共感の世界:「教育は集団的営為であり、市民的成熟に資することである」ということ―内田樹著『サル化する世界』のワンポイントメモ―/2020年6月22日/本文

 


23  「 贈与」の意義


<文献>
(1)白井聡『武器としての「資本論」』東洋経済新報社、2020年4月、以下[1]。
(2)斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社、2020年9月、以下[2]。
(3)内田樹『コモンの再生』文藝春秋、2020年11月、以下[3]。
(4)マルセル・モース、森山工訳『贈与論 他二篇』岩波文庫、2014年7月、以下[4]。
(5)仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉――〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』名古屋大学出版会、2011年2月、以下[5]。
(6)山田広昭『可能なるアナキズム――マルセル・モースと贈与のモラル』インスクリプト、2020年9月、以下[6]。

「贈与」の概念を初めて体系的な社会分析のために用いた研究は、マルセル・モースの『贈与論』である。その主要な問いは、贈物の中に潜むいかなる力が、貰い手に返礼させるのかというものである。これに対するモースの答は神秘性を帯びている。つまり、マオリ族が用いる「ハウ」という観念それ自体に原因を求めた。「ハウ」とは、「物の霊、とくに森の霊や森の獲物の霊」とされ、返礼されずにいると――もち主を殺してでも――元の場所に戻りたがる「贈与の霊」である。贈与者は、贈物をハウと共に送ることで、貰い手に対して神秘的で危険な力を行使していることになる。この観念を媒介として、富、貢納、贈与の義務的循環と、それを通じた社会的結合関係の維持機能を説明するというのが、かの古典的名著の主旨であった。([5]28ページ)

〇筆者(阪野)の手もとにいま、3冊の本がある。白井聡(しらい さとし)著『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年4月。以下[1])、斎藤幸平(さいとう こうへい)著『人新世の「資本論」』(集英社、2020年9月。以下[2])、内田樹(うちだ たつる)著『コモンの再生』(文藝春秋、2020年11月。以下[3])がそれである。現代の日本社会は、「格差」「分断」「貧困」、そして「コロナ禍」などの言葉で語られる。その現状は、「グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠(さくばく)たる」([3]6ページ)ものである。この3冊の本は、こうした行き詰まる資本主義社会の「いま」と、向こう側の新たな「社会像」について思考する際に役立つ。
〇[1]にあっては、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及される現代資本主義社会を生き延びるための「武器」になるのは、カール・マルクスの『資本論』である。1980年代以降の新自由主義(ネオリベラリズム)は、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理主義」などをキーワードに、社会の仕組みだけではなく、人間の魂や感性、センスを変えてしまった。資本による生産・労働過程のそれのみならず、労働者の魂、人間の全存在(身体・心理・文化・社会的諸側面の全体。人間の「全体性」)の「包摂」である(66、67ページ)。[1]は、『資本論』のキモを平易に解説した画期的な入門書であるが、裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」(222ページ)である。別言すれば、「資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法」(「帯」)である。
〇[2]において斎藤は、「マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を〈コモン〉として持続可能に管理することであった」(190ページ)として、「資本主義の転換」を迫る。その際の〈コモン〉とは、「社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す」。それは、資本主義(新自由主義)でも社会主義(国有化)でもない「社会像」(「脱成長コミュニズム」)であり、「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理する」(141ページ)ことをめざす。
〇[3]で内田はいう。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)によって、グローバル資本主義と新自由主義は大規模な修正を余儀なくされることになる。その先に取り得る選択肢のひとつが「コモンの再生」である。それは「いま」、世界各地で、共同・協働のネットワークの再評価が始まっていることからもうかがい知ることができる(270ページ)。内田にあっては、国民国家がより小さな政治単位に分割されてゆく「『地域主義』がこれからの流れ」(261ページ)になるなかで、「コモン(共有地)」とは(「私」ではなく)「私たち」による「ご近所」共同体(6ページ)である。
〇私事にわたるが、2020年9月、「PSA:4.43」が筆者のその後の生活を決することになった。同年12月、「グリソンスコア:9」によって奈落の底に突き落とされる。そして、コロナ禍のなかの2021年4月、手術のために12日間の入院生活を強いられた。入院中のある日、(本当に)何故かふと、40年以上も前のことであるが、他界した伯父の「献体」のことを思い出した。身体の「贈与」である。なお、伯父は晩年、百姓仕事などのすべてを娘婿に渡し、近くの寺院(真宗高田派本山 専修寺)で奉仕活動に没入している。
〇いま、資本主義社会の行き詰まりについて批判する文脈で、またコミュニティの再興が叫ばれ、「コモンズ」(共有資源)や「コミュニズム」(共同体主義)について論じられるなかで、「贈与」が注目されている。「贈与」は多義的で、多用あるいは乱用されている感があるが、その言葉で思い出すのはマルセル・モースの『贈与論』である。モース(1872年~1950年)は、フランスの社会学者・文化人類学者であり、協同組合運動を中心とする社会主義思想への共感・共鳴を示していた。1925年に出版された『贈与論』は、「バイブル的存在」(小林修一)、「現代贈与論の原点」(平尾昌宏)などと評される。周知の通りである。
〇以下では、モース著・森山工(もりやま たくみ)訳『贈与論 他二篇』(岩波文庫、2014年7月。以下[4])におけるモースの基本的な議論・主張のうちから、(1)「贈与の3つの義務」と(2)「全体的社会的事象」についてのみ再確認しておくことにする。それは例によって、「市民福祉教育」実践・研究に「使える」であろう理論や方法に関する筆者の個人的な関心による。
〇モースにあっては、伝統的な「贈与」は、「贈り物をおこなう義務」「贈り物を受け取る義務」、そして「受け取った贈り物に対してお返しをする義務」の3つの義務から成っている。この「贈与」「受領」「返礼」という義務のうち、その根幹に位置づけられるのは第3の義務すなわち「返礼」である。それは、「贈与」と「受領」の義務を前提としている(101ページ)。要するに、モースがいう「贈与」は、相互性(互酬性)に基づく義務的な「贈与交換」(「贈与と交換」「贈与=交換」「贈与という名の交換」)である。そして、モースによると、「贈与」「受領」「返礼」は「気前よく」(60ページ)なされねばならず、「借りを返さないままでいる」(395ページ)と劣位に置かれたり、対抗関係を生み出すことになる。この点は現代社会においても然りである。「ギフト(gift)という一つの単語が『贈り物』という意味と『毒』という意味」(37ページ)の両義性を持つといわれる所以でもある。物の贈与には悪意や敵対といった感情的要素(感情的価値)が備わっているのである。モースはいう。「物には依然として情緒的な価値(精神的価値:筆者)が備わっているのであって、貨幣価値に換算される価値(金銭的価値:筆者)だけが備わっているわけではない」(393ページ)。
〇「返礼」の義務の特徴は、「贈与の恩恵に浴した人には、もらったものと等価のものに、さらに何かを上乗せしてお返しすることが義務づけられるようになること」(15ページ)にある。そして、「贈与」「受領」「返礼」が果たす機能は、物の交換や流通それ自体ではなく、「贈り物を受け取るということ、さらには何であれ物を受け取るということは、呪術的にも宗教的にも、倫理的にも法的にも、物を贈る側と贈られる側とにある縛りを課し、両者を結びつける」(43ページ)ことにある。すなわち、「贈与」「受領」「返礼」の循環・体系は、個人や集団などの間に友好的な関係(紐帯)を生み出し、その維持・強化を促すのである。モースはいう。「社会が発展してきたのは、当のその社会が、そしてその社会に含まれる諸々の下位集団が、さらにその社会を構成している個々人が、さまざまな社会関係を安定化させることができたからである。すなわち、与え、受け取り、そしてお返しをすることができたからである」(450ページ)。
〇ところでモースは、「贈与」は、「社会生活をかたちづくるあらゆることが、ここで混ざり合っている」という。それは、「宗教的な制度であり、法的な制度であり、倫理的な制度である――この場合、それは同時に政治的な制度でもあり、家族関係にかかわる制度でもある。それはまた、経済的な制度である」。それゆえにモースは、これを「『全体的な』社会的現象」(「全体的社会的事象」)と呼ぶことを提唱する(59ページ)。これは、「『全体』への強い志向性にもとづいて学術的探究に臨む」(「訳者解説」476ページ)モースの社会学・文化人類学の特徴を示すものである。ここで、次の一文を引いておくことにする。「全体を丸ごと考察すること、これによって、本質的なことがら、全体の動き、生き生きとした様相を把捉(はそく)することができたのであり、(中略)社会生活を具体的に観察することのうちに、新しい諸事象を見いだす手段がある。(中略)全体的社会的事象を考究すること以上に差し迫ったものはないし、また実り多いものもない」(442ページ)。
〇上述したように、モースは[4]で、「贈与の3つの義務」に基づく贈り物が循環することによって、社会的連帯・紐帯が生み出されることを指摘した。その点に関して、私事ながら本稿の冒頭に記した伯父の「献体」の贈与行為についてはどう考えるのか。公益財団法人・日本篤志献体協会によると、「献体の最大の意義は、みずからの遺体を提供することによって医学教育に参加し、学識・人格ともに優れた医師・歯科医師を養成するための礎となり、医療を通じて次の世代の人達のために役立とうとすること」(同ホームページより)にある。現在、わが国には献体篤志家団体が62団体あり、献体登録者の総数はおよそ30万5000人を越え、そのうちすでに献体した人は約14万人に達している(2019年3月31日現在)。
〇伯父の献体行為は、宗教的な動機も考えられるが、見返りを求めない、利他主義に基づく不特定の匿名他者への自発的な贈与であった。また、伯父が普段所属していたアソシエーション(機能集団)やコミュニティ(共同体)に対する個人的な感情(正義、責任、義務、感謝、愛、自己実現など)の発露であったろう。しかもそれは、医学教育に参加し、医療を通じて次世代の人達に役立とうとする公的な贈与であったといってよい。さらに言えば、医学や医療技術、生命科学や生命倫理などの発展をもたらし、回りまわって伯父の家族の自己利益にもつながることが想定される。いずれにしろ、伯父の献体行為は何らかの個人的・社会的な連帯意識に基づくものであり、またその行為の結果として人々の個人的・社会(文化)的な連帯意識の形成が促される。あえて指摘するほどに目新しいものではないが、ひとつの論点として再確認しておきたい。
〇筆者の手もとにいま、2冊の本がある。仁平典宏(にへい のりひろ)著『「ボランティア」の誕生と終焉――〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』(名古屋大学出版会、2011年2月。以下[5])と山田広昭(やまだ ひろあき)著『可能なるアナキズム――マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年9月。以下[6])がそれである。そこに見いだされるひとつの論点([5]]の〈贈与のパラドックス〉、[6]の「支配への抵抗」)について留意したい。
〇[5]において仁平は、「ボランティアをはじめとする参加型の市民社会の諸カテゴリーは、『善意』や『他者のため』と解釈される契機を不可避的に含むことになる。(中略)この『他者のため』と外部から解釈される行為の表象」を「贈与」と呼ぶ(10ページ)。そのうえで、「近現代の日本におけるボランティア言説の展開をたどり、参加型市民社会のあり方を鋭く問いなおす」(「帯」)。サブタイトルにいう〈贈与のパラドックス〉(paradox:逆説、矛盾)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味である。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。
〇「アナキズム」には、「無政府主義」「政治的極左」「革命思想」といったイメージがつきまとう。その実は互酬性や相互扶助に基づく「支配に抗する思想」である。[6]において山田は、モースの『贈与論』を手がかりに、多くの思想家の議論・言説について言及し、「来たるべき経済」(贈与経済)社会を模索する。そして山田は、「非中心性、自主的連合、そしてつねにダイレクトに否を表明できる直接民主主義、これらはアナキズムの変わることのない基底である」(228ページ)。アナキズムは「個人的自由の追求と連帯の追求とがけっして矛盾しないと考える思想」である。「個人の自由の確保こそが真の連帯の条件である」(195ページ)、という。なお、ここで筆者は、アナキズムに関して「地域主義」(「小さな政府」)の理念を基盤に、「市民」のつながりや集まりである「地域コミュニティ」における「共働」をイメージしている。誤解を恐れずに付記しておきたい。

アナキズムとは、個人の自由を抑圧・侵害するようなあらゆる支配権力(とくに国家権力)を否定し、上からの組織化や統制を拒否しながら、合意によって自由で調和的な社会を建設しようとする思想である。したがってその根本には、権力による支配や強制なしに、社会を運営していくことが可能だとする発想がある。方法は大別してふたつある。ひとつは直接政治の領域に入って、国家権力を打倒しようとするものであり、もうひとつは国家権力と直接対決するのではなく、権力支配とは無縁な空間を(多くの場合、小規模かつ分散的性格の自治的協同体を建設するなどの方法で)非政治領域のなかに作り上げることによって、国家による権力支配を骨抜きにしていこうとするものである。([6]、195、196ページ。中見真理(なかみ まり)著『柳宗悦――時代と思想―』東京大学出版会、2003年3月、59~60ページ。)

補遺
筆者の手もとにいま、在野の日本近代史家・渡辺京二(わたなべ きょうじ)の本『幻のえにし――渡辺京二 発言集』(弦書房、2020年10月)がある。少し長くなるが、次の一文を引いておきたい。なお、渡辺は、『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年1月)などで知られる作家・石牟礼道子(いしむれ みちこ)を「50年間一緒にやってきた戦友」(本書、119ページ)という。二人の「道行き」(歩み)については周知のことである(米本浩二『魂の邂逅――石牟礼道子と渡辺京二――』新潮社、2020年10月)。

自分というものがこの世に生まれてきて満足するような人間のあり方というのは、一人一人が独立するしかないんですよ。一人一人が独立してね、自分の主人公になってね、そういう本当に独立した人間がある地域を介してね、地域というのは土地、土地は自然ということでもあるけれども、そういうものを介して、お互いが結びついて、その土地の生活を守り抜いていくということしか無いんですよ。
要するに、僕らは自分自身をまず独立させることなんですよ。それはどういう意味かというと、自分の考えを持つことなんですね。自分の考えを持つ。(253~254ページ)
自分の頭で考えるということは、コモンセンスで考えることなんです。コモンセンス。つまり普通の良識です。生活する上での普通の理屈で考えればいいわけなんですよ。すべての事柄は。そうするとおかしい事は、いくら理論ぶって言ったっておかしいわけなんです。そういう健全な批判能力みたいなものをね、保持していこうというのが、自分が一人である事なんですよ。(255ページ)
つまり自分は一人である、自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、自分がある土地に仲間とともに結びついていると感じるからなんだ。ところがそういう基盤がなくなっているからね。自分が生きている土地に相当するのは、自分がともに生きてきた仲間なんだよ。自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が、小さな国になっていく。そういうものをしっかり作るということが僕の思う革命なのさ。それ以外はない。(257~258ページ)

【初出】
<雑感>(134)阪野 貢/「贈与」再考メモ―コミュニズムとアナキズム―/2021年4月28日/本文

 


24  「共事者」の実践的態度


<文献>
(1)斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』KADOKAWA、2022年11月、以下[1]。

〇『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年9月)で知られる斎藤幸平の新著に、『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA、2022年11月)がある。[1]は、2020年4月から2022年3月にわたって毎日新聞に連載された「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を書籍化したものである。行き詰まっている資本主義の現場から、23のテーマについて言及する。第3章の「偏見を見直し公正な社会へ」では、声をあげることが難しい「沈黙する(日本)社会」にあって、「外国人労働者」をはじめ「釜ヶ崎の野宿者」「東日本大震災の復興」「水俣病問題」「部落差別」「アイヌ」などに関する実相が抉(えぐ)り出される。
〇斎藤は、[1]の「あとがき」で補足的に、マジョリティの特権集団に欠けている他者へのエンパシー(共感)や想像力について触れ、「一から学び直す」必要性を説く。また、誰もが加害者であり被害者でもある「事を共にする」ゆるい関りに根ざした「共事者(きょうじしゃ)」(いわき市在住の地域活動家、小松理虔の言葉)について言及する。
〇ここで、「共事者」とその類義語・関連語である「当事者」に関する斎藤の文章をメモっておくことにする(抜き書き)。

共事者は、一つの問題や正義に固執し、他の問題や自分の加害性に目を瞑(つぶ)るのではなく、さまざまな問題とのインターセクショナリティ(交差性)を見出し、さまざまな違いや矛盾を超えて、社会変革の大きな力として結集するための実践的態度である。/共事者になることは、これまでの「敵/味方」「被害者/加害者」というような単純な二元論的語りのなかで、排除・抑圧されてきた声を聞き取ることができるようになるための一歩である。(217ページ)

当事者とは誰か、本当の当事者探しをして、彼らの意見を絶対視して、尊重すべきことなのか? それは、当事者・非当事者という線引きのもとで分断を生むだけでない。結局、「真の当事者」として誰を優先するかを決定するにあたって、そこにもまた研究者や支援者の権力関係が入り込んでくる。自分にとっての都合のいい「真の当事者」の主張を探して、他の人々を黙らせることが一般化するだろう。それでは「当事者」も利用されているだけだ。それに、自らの正義に固執して、それに合致しないものを糾弾するような運動は、共感も生まない自己満足で終わる。/結果的に、「真の当事者」への語りを限定していくことが、多くの人にとって「自分には語る資格がない」と声どころか、考える能力さえも奪うことになる。その先に待っているのは、無関心と忘却である。それでは社会問題はまったく改善しない。「自分は当事者ではないから発言をするのを控えよう」というのは、一見するとマイノリティに配慮しているようで、単なるマジョリティの思考放棄である。それは、考えなくても済むマジョリティの甘えであり、特権なのだ。そのようなダイバーシティでは、差別もなくならない。(215~216ページ)

〇福祉教育ではしばしば、「当事者」や「当事者性」について議論される。その際の「当事者性」とは、「当事者」またはその問題との心理的・物理的な関係の深まりを示す度合いを意味する言葉である。その点において福祉教育は、その当事者性(すなわち当事者やその問題をどの程度 “ 我が事 ” として捉えるか)を高め深めることを支援することによって、問題意識や問題解決のための具体的な行動を得ようとする実践である、といえる(松岡廣路「福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』 VOL.11、万葉舎、2006年11月、18、19ページ)。ただ、そこでは、「当事者」と「非当事者」を区分し、両者を二項対立的に位置づけて思考することは解消されない。留意したい。

<雑感>((170)阪野 貢/追補/「差別」再考―「共事者」と「当事者」に関するメモ―/2023年2月10日/本文

 


25  「思いやり」の暴力


<文献>
(1)長谷川眞理子・山岸俊男『きずなと思いやりが日本をダメにする―最新進化学が解き明かす「心と社会」―』集英社インターナショナル、2016年12月、以下[1]。
(2)中島義道『「思いやり」という暴力―哲学のない社会をつくるもの―』(PHP研究所、2016年2月、以下[2]。
(3)清水将一『ボランティアと福祉教育研究』風詠社、2021年6月、以下[3]。

〇長谷川眞理子・山岸俊男著『きずなと思いやりが日本をダメにする―最新進化学が解き明かす「心と社会」―』(集英社インターナショナル、2016年12月)が面白い。[1]は、進化生物学者の長谷川(総合研究大学院大学)と社会心理学者の山岸(一橋大学大学院)の対談本である。人間社会の問題を解決するに当たって人を過大評価してはならない。「心がけ」や「お説教」では社会は変わらない。革新をもたらす人は周りの「空気を読まない人」である。こういった指摘には、「まちづくり」や「市民福祉教育」について考えるヒントが示されている。
〇[1]のなかから、「プレディクタブルな人」と「思いやり」や「差別」に関する二人の知見や発想の要点を、我田引水と評されることを恐れずに、紹介することにする(見出しは筆者:阪野)。

相互協調性の質
「日本人は相互協調的である」。相互協調性(interdependence)は、質的には、ポジティブなものとネガティブなものの2種類に分けられる。前者は、何かの問題について、協力して一緒に解決しようというものである。後者は、集団の問題を解決するのではなく、集団内で波風を立てないように行動するというものである。その人たちは、いわゆる「空気を読む」人であり、いつも「びくびく」している。
相互協調性と対照的なものは独立性(independence)である。独立性にもポジティブとネガティブの二つがある。ポジティブ・インディペンデンスは、他者と積極的に関わり、自己主張することに躊躇しないというタイプである。ネガティブ・インディペンデンスは、「誰も私に構わないでくれ」という、他者との関わりに消極的なタイプである。

プレディクタブルな人
「人間は社会的動物である」。ヒトは、社会なくして生きられない存在であり、自分の独立を守り維持するためには、他者とコミュニケーションを取り、協力する必要がある。その際、相手の主張や反応を予測したうえで自己主張をしないと、摩擦や衝突が生じることになる。そこに求められるのは、プレディクタブル(predictable)、つまり「予測可能な」人間(「分かりやすい人」)になることである。
プレディクタブルになるということは、自分の旗幟(きし、立場や主張)を鮮明にし、首尾一貫した行動規範に基づいて行動すること(「言行一致」)を意味する。それはつまり、他者と自分との違い(個別性)を明確にすることであり、それはまた多様性を歓迎することでもある。そうすることによって、他者から信頼・評価される存在となり、フレンド(friend)=味方=仲間を増やすことになる。

思考力のトレーニング
「個性と多様性の尊重、共生社会の実現」。いまの日本では、これらの言葉や理念が心がけや説教、スローガンとして語られ、その際には「思いやり」「絆」などが強調される。多様性のある社会や共生社会の構築は、個々人の異質性や不明性について相互に認識し、理解することから始まる。即ち、自分とは違う他者が、どのような世界観や思想を持っているかを把握する。とともに、自分なりの価値観や原理原則の確立を図り、それに基づいて一貫性のある行動をとることが求められる。多様性や共生は、「違うこと」に耐えることであり、思いやりの心の育成を図れば済むようなものではない。「みんな違ってみんないい」は、それほど簡単ではない。
「ヒトは社会システムのなかで動いている」。即ち、自分はどういう種類の人間かということを鮮明にし、お互いにそれを理解し、他者と衝突しながら言及し議論し、一緒に何かに取り組んで行く。そういうヒトにとって必要かつ重要なのは、心がけを説く「心の教育」ではない。複雑な議論を展開し、社会づくりに関する制度設計を行う「思考力のトレーニング」である。
社会を変えるには、個人レベルの心がけや行動ではなく、社会科学の知見を踏まえて物事について思考・判断・表現する人たちが、ひとつのコアを形成し、社会変革の原動力になってくれるのを期待するしかない。(以上、第7章:243~288ページ)

差別の利得
「差別は偏見から生まれると思われている」。しかし、差別の原因は偏見ではない。差別と偏見は切り離して考えるべきである。
社会のなかで差別が行われるのは、そこに何らかのメリットがあるからである。少なくとも、当初の段階ではメリットがあり、それによって差別が構造化され、継続的に行われてきた。逆に言えば、差別することによってデメリットやコストが増えるのであれば、そうした差別は生まれない。従って、差別をなくすには、差別をすることによって得られるメリットよりも、差別をしないことで得られるメリットを大きくすることである。差別は感情ではなく、利得の問題である。そういう意味では、競争社会は「差別をなくす社会」であり、競争なき社会は「差別の社会」「差別を温存する社会」であると言える。

差別構造の追及
「差別問題を『心でっかち』で考えてはならない」。差別は、第一義的には、社会構造の要因によって起こるものであり、その結果である。社会に差別構造があると、それによって差別を正当化する現実が生まれ、その現実が差別構造をさらに補強していく。そしてますます、差別は正当化され、固定化されていく。
差別の解消は、個人の意識(「心がけ」)を変えたり、スローガンを叫ぶだけでは不可能である。差別の現実(「結果」)を直視し、それを生み出してきた(いる)社会構造(社会システム)を追及し、制度改革を進めることが肝要となる。(以上、第5章:181~203ページ)

〇以上に基づいて、「プレディクタブルな人=個性的であり、多様性を歓迎する人」(257ページ)すなわち「社会変革の原動力になる人」(288ページ)のあり方について考える際の視点や枠組みを、筆者なりに図式化(素案)しておくことにする。

「プレディクタブルな人」の検討枠組み

〇なお、プレディクタブルな人は、フレンド=味方だけではなく、エネミー(enemy)=敵をつくることにもなる。「出る杭(くい)は打たれる」。「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」である。それは、相互協調性を意味するが、他者からの承認欲求(独立性)の裏返しでもある。付記しておきたい。

補遺
中島義道『「思いやり」という暴力―哲学のない社会をつくるもの―』(PHP研究所、2016年2月)も、同意できない点もあるが、痛快で面白い。言説の一部を紹介(抜き書き)しておくことにする。なお、[2]は、中島著『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの―』(PHP研究所、1997年11月)のタイトルを変えたものである。

わが国の人間関係において、最も重視されるのは、「他人を思いやる」ことであり、そのためには「本当のことを言わないこと」である。この国では、「お上」は「思いやり」や「優しさ」といった人間の根源的価値に関してまで個人のなかに踏み込もうとする。「思いやり」を持つことがなぜ必要なのかという問いを忘れて、「思いやりを持とう!」という掛け声だけが列島にこだまする。この国では、「思いやり」や「優しさ」を声高に唱え、人々から生き生きとした思考力を奪っている。「思いやり」や「優しさ」という名のもとに、とりわけ弱者の叫び声は完全につぶされつづける。風通しの悪い社会である。(4、11、13、76、165ページ)

この国では、「思いやり」はほとんどの場合「利己主義の変形」として機能してしまう。自分の身に危険がふりかからない範囲での「思いやり」など、気楽な「思いやり」である。この国では、みんな「思いやり」という名のもとに真実の言葉を殺している。「対話」を封じている。しかも、ほとんどの者はその暴力に気づいていない。(166~168ページ)

この国では「優しさ」は今やエスカレートして熱病にまでなっている。これほどまでに「優しさ」が叫ばれている空気のなかで、弱い人間は「優しさ」によって殺されてゆく。精神的に破綻してゆく。最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。ひとことで言うと、自分に異質な者としての他者を徹底的に恐れるのである。(183~184ページ)

「対話」(「哲学的対話」)とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。正真正銘の「対話」とは、身分・地位・知識・年齢等々ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨てて、全裸になって「言葉」という武器だけを手中にして戦うことである。「対話」とは全裸の格闘技である。(120、141~142ページ)

「対話」のある社会は、「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をぐいと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し最終的には潔(いさぎよ)く責任を引き受ける社会である。それは、対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にしそこから新しい発展を求めてゆく社会である。それは他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会である。(228~229ページ)

この国で要求されるのは「和の精神」である。「和」とは、現状に不満をもつ者、現状に疑問を投げかける者、現状を変えてゆこうとする者にとっては最も重い足かせである。「和の精神」はつねに社会的勝者を擁護し社会的敗者を排除する機能をもつ。そして、新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。かくして、「和の精神」がゆきわたっているところでは、いつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる。(61~62ページ)

【初出】
<雑感>(45)阪野 貢/プレディクタブルな人、その協調性と独立性:もう一つの考え方―長谷川眞理子・山岸俊男著『きずなと思いやりが日本をダメにする』の読後メモ―/2017年4月12日/本文

付記
「思いやり思いやり」と「思いうけ」:思いやり教育こそ福祉をダメにする
〇清水将一の『ボランティアと福祉教育研究』(風詠社、2021年6月)という本がある([3])。「福祉教育と思いやり」についての論考を紹介しておきたい(20~21ページ)。

福祉教育と思いやり
よく新聞などに小学校に障害児が進学して、健常児と一緒に学んでいる様子が載っている。いわゆる統合教育である。先日も大きな見出しで「思いやりの心が育った」という記事が目についた。私が引っかかるのは、思いやりの心が育ったのは健常児で障害児はどうなったのかいまいち分からない点である。
マスコミの取り上げ方が一方的なのかと思っていると学校でも似たところがある。福祉教育指定校などでも、「福祉とは思いやりの心である」なんて言っているようだ。障害児が福祉教育の教材であるかのような扱いである。果たして思いやりの心を育てることが福祉教育なのであろうか。

思いやりとは
思いやりの心が育つことは良いことであり今後も大いに続けるべきではあるが、思いやりの心は福祉教育の前提なのである。障害児を思いやるのは当たり前のこととならねばならない。思いやりとは自分の思いを相手にやることである。今度は相手(障害児)の思いを自分に受けとめることが大切である。これを「思いうけ」という。障害児の問題を自分のこととして受けとめることこそ福祉教育の起点である。
残念ながら現在は前提教育も十分に出来ておらず、この前提教育をあたかも福祉教育そのものと思い込んでいるようである。そろそろ福祉教育の起点に立った「思いうけ教育」実践が行われてもよさそうに思うのだが。

思いやり教育への反論
上記に続いて福祉教育を「思いやり教育」と捉えることに反対するもう一つの理由は、社会福祉の専門性との関わりからである。例えば一部の人が思っているように、社会福祉実践(ソーシャルワーク)はやさしい心、親切心があれば誰にでも出来るものと捉えられることがある。
今日社会福祉の専門性が言われているにもかかわらず、現場実践のない者や社会福祉学を学んでいない者が無責任にも福祉は思いやりの心だなどといい、その専門性に触れないことは我々ソーシャルワーカーにとっていらだたしく思えるのである。

思いやり教育こそ福祉をダメにする
そういう認識がある限りいつまで経っても福祉は聖域だと思われ(思わされ)、そのため低賃金や労働環境の悪い職場で働いている福祉従事者は多数いるのである。
思いやりの心、やさしい心は福祉に限ったことではない。医者や弁護士や教師、その他の専門職にも当然必要なはずである。それをことさら福祉に関してのみ、思いやりの心、やさしい心を強調するのは福祉に対する理解のなさの表れである。
福祉教育が思いやり教育である限り福祉の専門性は薄れていく。現在の福祉教育こそ、福祉の発展を阻害しているといえば言い過ぎであろうか。

 


26  「哲学対話」の方法


<文献>
(1)梶谷真司『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』幻冬舎新書、2018年9月、以下[1]。
(2)河野哲也編『ゼロからはじめる哲学対話―哲学プラクティス・ハンドブック―』ひつじ書房、2020年10月、以下[2]。

意見とは、自分が考えてきた「問い」に対して、自分が出した「答え」である(山田ズーニー『伝わる・揺さぶる! 文章を書く 』(PHP新書、2001年11月、41ページ)。

〇筆者(阪野)の手もとに、哲学者の梶谷真司(かじたに・しんじ)の『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(幻冬舎新書、2018年9月。以下[1])という本がある。梶谷にあっては、哲学とは、「考える」営みそのものであり、「問い、考え、語ること」である(32ページ)。
〇梶谷はいう。「考える」という営為は本来、自分自身に問いかけ、自分なりの答えを出すことであり、自分自身との「対話」を意味する。しかし、ひとりで悶々(もんもん)と考えることには限界がある。また、現実の家庭や学校、社会(会社、地域等)における「考える」という営為は、既に決められている「正しいこと」「よいこと」「他者の意に沿うこと」の「正解」を探し求めるそれであり、そう考えさせられている。とりわけ学校では、生徒は教師や教科書によって提示された問いについて、強制的に考えさせられ、ひとつの正解を見出し、統制・画一化されている。また、特定の基準に即して選別され、序列化され、場合によっては周縁化され、排除される(12~13、52~53ページ)。
〇そこで、より広く、深く考えるためには、多様な立場の人が集まり、自由に「共に問い、考え、語り、聞くこと」が肝要になる。別言すれば、複数の人がいっしょに問い、その答えを探して考え、言葉にして語り、それを聞き、それを受け止める(「受け入れる」ではない)ことが、「共に考える」ということである。その際、とりわけ大事なのは、分からないことを「問う」ことである。それによって、はじめて「考える」ことができる。分からないことが増えれば、それだけ問うこと、考えることが増えるのである。そして、その過程を通して、自分を縛りつけるさまざまな制約(息苦しい世間の常識や慣習、人間関係、自分自身の思い込みや不安・恐怖、こだわり等)から解き放たれ、他の人といっしょに「自由になること」ができる。それは、人と人が「共に生きること」を意味する。こうした「共に問い、考え、語り、聞くこと」の具体的な方法(method)と方法論(methodology、方法の体系・システム)が、知識として学ぶ哲学(philosophy)ではなく、梶谷のいう「共に考える営み」としての哲学(philosophize)、すなわち「哲学対話」である(12~17ページ)。
〇「哲学対話」では、多様な立場の人が参加することが重要となる。適正な参加人数は10~15人前後とされる。また参加者は、対等であることを明確にするために、輪になって座る。そして、進行役(ファシリテーター)の支援のもとに、「共に考える体験」(共に問い、考え、語り、聞くこと)を通して個人的・主観的な感覚を覚え、それが「共感」を呼び起こし、思考を深化・拡大させる。こうした「哲学対話」について、[1]における梶谷の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話のルールと特徴―「他者へ」と「世界へ」と自らを開く
①何を言ってもいい
哲学対話においてもっとも大切なのは、「自由に考えること」であり、「問う」と「語る」からいかにして制約を取り払うかである。自由に問い、自由に語ることによって、はじめて自由に考えられるようになる。(47、48ページ)
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない
自分の言うことが同意されなくても、決して否定されないと分かっていることが重要である。自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、何でも言えるようになる。(55~56ページ)
③発言せず、ただ聞いているだけでもいい
話したくなければ黙っていていい。その自由がなければ、話したいことを話す自由もないことになる。「聞く」というのは、対話への立派な参加である。聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要である。(58ページ)
④お互いに問いかけるようにする
「問い」かけができなければ、対話で思考を深めたり広げたりすることはできない。問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。考えるとは、「分からないことを増やすこと」であり、何を質問してもいい、ということである。(60、64、66ページ)
⑤知識でなく、自分の経験にそくして話す
知識に基づいて話したり、人の言葉や何かの用語を引き合いに出すのは、権威づけをし、それによって自分の優位を示そうとしていることが多い。「共に考える」ためには、
自分の言葉で、自分の経験や思いと結びつけたり、身近な例を出したりして話せばいいのである。(71ページ)
⑥話がまとまらなくてもいい
話し合いの答えを安易に先送りすることがあってはならないが、お互いに問い、考えた結果、結論が出るのであれば、それでいい。大切なのは、言いたいことを言い、問いたいことを問い、考えるべきことを考えたかどうかなのである。(75ページ)
⑦意見が変わってもいい
哲学対話では、みんなで考えているのだから、考えを深めたり広げたりするのであれば、個々人の意見は変わってもいい。意見が変わるということは、思考が深まった、広まった、違う角度から考えた、前提が問い直されたということであり、望ましいことである。(76ページ)
⑧分からなくなってもいい
分からなくなるというのは、問いが増える、考えることが増えることである。対話で分からなくなるのは、望ましいことであり、他者へと、世界へと自らを開いていくことである。(76、77ページ)

哲学対話の意義―「自由」と「責任」と「自分」のための哲学
哲学対話は「自由」を実感し理解する格好の機会である
哲学対話で自分とは違う考え方、ものの見方を他の人から聞いた時、自分自身から、そして自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる。その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる。自分を縛っているもの――役割、立場、境遇、常識、固定観念など――がゆるみ、身動きがとりやすくなる。/また、哲学対話で今まで分かっていたことが分からなくなると、いわゆるモヤモヤした感覚、それこそ靄(もや)の中に迷い込んだ感じがする。/この自分を縛りつけていたものからの解放感と、自分を支えていたものを失う不安定感――この両義的感覚は、まさしく自由の感覚であろう。(93、94ページ)
哲学対話において感じるこの自由は、感覚じたいが個人的であり、主体的であるとしても、だからといって、他者と共有できないわけではない。そこで自分が感じる自由は、まさにその場で他の人と共に問い、考え、語り、聞くことではじめて得られるものである。だからそれは、他者と共に感じる自由なのだ。/こうして私たちは考えることで自由になり、また他の人といっしょに考えることで、お互いが自由になる――哲学対話は、このような固有の、そしておそらくは、より深いところにある自由を実感し理解する格好の機会なのである。(96~97ページ)

哲学対話を通して生まれる「責任」は他者と共に享受する権利である
哲学対話を通して自ら考え、決めた時に生じる責任の問題は、ポジティブな意味での責任である。それは、自由と引き換えにしぶしぶ負う義務ではなく、むしろ自由と共に手に入れるべき権利のようなものではないか。(98ページ)
私たちは、自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。(100ページ)
哲学対話で選んだこと、決めたことは、結果がどうであれ、責任をとることができる。そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。/しかもそれは、対話を通して生まれた他者との共同的な関係に根差している。だからそこで引き受ける責任は、一人で負わなければならない責めでも、できれば避けたい負担でもない。他者と共に享受する権利となるのだ。(104ページ)

哲学対話は人生を「自分」のものにする営みである
哲学対話は、“恋愛”と同じである。/恋愛も人生も、自分で身をもってやってみるしかない。一から始めなければならない。うまくいかなくても、時に嫌気がさしても、臆病になっても、手放してしまうわけにはいかない。(110ページ)
哲学対話=「考えること」もそれと同じだ。レベルの高さ、厳密さ、深さ、一貫性を求める必要はかならずしもない。誰のためでもない。自分のために考えるのだ。どんなにつたなくても、自分でつまずいて自分で考えたことしか、その人のものにはならない。/だから、とにかくやってみればいい。そうして自由と思考を自分のものにし、人生を自分のものにするのだ。その時、いっしょに考えてくれる人がいたら続けられる。だから哲学は対話でするのがいいのだ。(110~111ページ)

哲学対話の核心―自分自身の「問い」をもつことと「考えること」の関連性
「問い、考え、語り、聞くこと」としての哲学(哲学対話)において、もっとも重要なのは「問うこと」である。「問い」こそが、思考を哲学的にする。/「考える」というのは、自発的で主体的な活動を指す。それは「問い」があってはじめて動き出す。問い、答え、さらに問い、答える――この繰り返し、積み重ねが思考である。それを複数の人で行えば、対話となる。(115ページ)
考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自分を問うことである。/自ら問いたいことを問い、そこから考えることは、「問題を解くために考える」=「考えさせられる」のとは、まったく違うのである。(118~119、120ページ)
知識だけ学んで問うことがなければ、思考はどこにも行かず、育つこともない。知識もなしに問うばかりでは、思考は方向を見失う。知識はそこからさらに問うてこそ意味があり、問いは知識によってさらに発展する。だから哲学的に考えるためには、答えのある問いとない問い、閉じた問い(簡潔に答えられてそれ以上の説明を要しない問い)と開いた問い(答えに説明を要する問い)の両方が必要なのである。(141、144ページ)

〇およそ以上が、筆者の関心に基づいて捉えた、[1]が説く「哲学対話」や「考えること」の理念や意義、方法についての要点である(哲学対話の具体的な実践法については省略する)。そこには、「共に考える」ことを拡大・深化させるに際して、例えば、「論理的思考と批判的思考」、「具体的思考と抽象的思考」、「課題解決型思考と価値創造型思考」、「帰納的思考と演繹的思考」(複数の個別事例から一般原則・理論(結論)を導き出す思考と、一般原則・理論(一般論)を前提に個別の結論を導き出す思考)、あるいは他の人の考えの「容認と受容」などをめぐる疑問なしとしない。その点についての検討は別稿に譲ることにして、ここでは、再認識する意味で次の一文を引いておくことにする。それは、例によって唐突であるが、「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に求められるひとつの理念や思想に通底するものでもある。地域コミュニティにおいて「共に考える」ことを通して自分の生きる現実を問い、考え、それを変え、自由と責任を取り戻してだれもが「よく生きる」、という理念や思想(地域共創のための自己責任と自己実現、相互責任と相互実現)である。

地域コミュニティにおいて、地元住民が当事者として地域をどうするかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。/何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生ではないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果を引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。(102~103ページ)

私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。/しかもそのさい、一人で考えるのではなく、他者と共に考えることが重要なのだ。(103ページ)

哲学は夢を追いかけるユートピア思想ではないし、社会全体を変えようとする革命思想でもない。それは「考える」ということを通して、誰もが自分の生きる現実をほんの少しでも変え、自由と責任を取り戻して生きるための小さな挑戦である。そこで必要なのは、高邁(こうまい)な理想よりも徹底的なリアリズルなのだ。(259ページ)

〇筆者の手もとにもう1冊、「哲学対話」に関する本がある(2冊しかない)。哲学者の河野哲也(こうの・てつや)が編集する『ゼロからはじめる哲学対話―哲学プラクティス・ハンドブック―』(ひつじ書房、2020年10月。以下[2])がそれである。[2]は、哲学対話=哲学プラクティスに関する論点や言説が網羅的に記されているハンドブック(マニュアル)である。そこでは、「哲学対話とは、人が生きるなかで出会うさまざまな問いを、人々と言葉を交わしながら、ゆっくり、じっくり考えることによって、自己と世界の見方を深く豊かにしていくこと」(寺田俊郎:3ページ)をいう。
〇そして、哲学対話の特徴と実際的な意義・効用のポイントについて次の諸点を指摘する。[1]における説述と重複するが、参考に供しておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

哲学対話の特徴―「自由」によって自分と世界の見方を深く豊かにする
(1)哲学対話には問いがある
● 哲学的な問いは対話を必要とし、哲学的な問いを考える唯一の方法は対話である。
● 哲学的な問いの最終的な答えは誰も知らないのだから、対話に参加する人々の関係は平等・対等になる。
(2)哲学対話は答えを急がない
● 哲学対話は、速やかに答えを出さなければならないという圧力から自由である。
● 自分の意見を他の人々の意見に照らして吟味することによって、自分の意見の根底にある暗黙の前提に気づくことができる。
● その前提を明らかにすることは、自分の意見を明らかに、深く、豊かにしていくために必要であると同時に、互いに意見を理解するためにも必要なことである。
● 哲学対話が成功するということは、新たに問いが見出されるということであり、哲学対話を重ねれば重ねるほど問いが生まれ、さらに哲学対話が続いていく。
(3)哲学対話は自他の考えが変わっていくことを大切にする
● 自分で考え、他の人々と共に考えることによって、自他の考えが変わっていくことを自覚し認めあうことができる。
これらの特徴から、哲学対話を成立させるためにもっとも大切な条件は「自由」――問いを立てる自由、意見を表明する自由、意見に対する問いを立てる自由、答えを出す圧力からの自由、そして自分の考えを変える自由、である。(寺田俊郎:3~9ページ)

哲学対話の意義・効用―共生社会・成熟社会の構築と集団的意思決定に貢献する
(1)哲学対話は、多様な人々が、人が生きるうえで大切な問いを、互いの意見を尊重しあいつつ考えることによって対話の文化を醸成し、共生する社会を築くことに役立つ。
(2)哲学対話は、共生社会の別言であるが、風通しがよく、居心地がよく、生きやすい成熟した社会を築くことに貢献する。
(3)哲学対話は、重大な根本的な問題について問い、熟議し、まともな集団的意思決定を行うことに貢献する。それは民主主義に貢献するということである。(寺田俊郎:17~22ページ)。

自分の「考え」を持っていないということは、この考えを作りあげるための「考え方」を持っていないということである。(中略)何かの思想を持つことは、そうむつかしいことではない。それには出来合いのいろいろの思想があるからである。日本は今日まで、いつもそういう出来合いの西洋の思想を貰(もら)ってきて、サシ根して育てようとした。(中略)しかしほんとうに自分の考えを持つためには、それを持つ手段としての自分の「考え方」がなくてはならない。その考え方が我々にないならば、新たに学ぶほかはないのである(笠信太郎『ものの見方について』(改訂新版)角川ソフィア文庫、1966年7月、6ページ)。

追記
梶谷真司の次の文献も参照されたい。
・『人生を変える文章教室 書くとはどういうことか』飛鳥新社、2022年12月。
・『問うとはどういうことか―人間的に生きるための思考のレッスン―』大和書房、2023年8月。