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阪野 貢/「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相―思想・実践・技法・認識のダイナミズム―

はじめに

〇日本社会における「まちづくり」という営為は、高度経済成長がもたらした深刻な産業公害や都市問題、地域社会の崩壊などに対する異議申し立てとして、1960年代後半から70年代にかけて本格化した。かつての都市計画は、「中央」による画一的な国土開発(ハード・モノづくり)を主眼としていた。それに対し、平仮名で表記される「まちづくり」は、そこに暮らす「生活者」の視点から、人間らしい生活環境の回復をめざす運動として生み出された。
〇しかし、今日、まちづくりをめぐる状況は一層の複雑さを増している。少子高齢化の進展に伴う「限界集落」の頻出、2014年の「増田レポート」に端を発した「地方消滅」論の席捲、さらには格差社会の固定化による地域連帯の希薄化など、地域・社会は内側と外側の双方から崩壊の危機に直面している。こうしたなかで、まちづくりは単なる環境整備の域を超え、人口減少という所与の条件を受け入れつつ、いかにして住民の生活の質を充実させるかという「縮充」(山崎亮:2016年)への挑戦が叫ばれて久しい。
〇本稿が考察の対象とするのは、こうした半世紀に及ぶ「まちづくり」の底流に流れる「思想」と「方法」の系譜である。具体的には、1970年代に内発的発展論の「地域主義」を説いた経済学者・玉野井芳郎、「まちづくり」という言葉を一般に広めた、自治体プランニングの草分けである田村明、現代の「コミュニティデザイン」を牽引するコミュニティデザイナーの山崎亮、そして「地域学」のもつ構築を試みる社会学者・山下祐介、これら4人の言説を相互に交差・対比させる。
〇「まちづくり」という概念が多義的である理由は、それが「思想」(あるべき姿)であり、「実践」(変えるための活動)であり、同時に「認識」(現実をどう捉えるか)であるという、三位一体の性質をもつからに他ならない。
〇玉野井が提唱した「地域主義」は、市場経済的な「市民社会」を突き抜け、自然や生態系と共生する「新たな市民」の再生を説く、根源的な「思想」を提示した。一方、田村は、横浜市における行政改革を通じ、まちづくりを「市民の政府」による地域経営の実践へと昇華させ、制度的・構造的な基盤を整備した。さらに、山崎は「コミュニティデザイン」という手法を用い、モノをつくらないデザイナーとして、人と人の関係性を編み直すプロセスを確立した。そして山下は、「地方消滅」という国家的言説の罠を暴き、足元の生活基盤を学び直す「地域学」を、中央集権に対する「抵抗」としての認識運動として位置づけたのである。
〇これら4人の言説は、時代背景こそ異なるものの、一貫して「住民」(与えられる存在)から「市民」(自律的に参加し自治を担う主体)への転換を要請している。この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の根幹である。
〇ひるがえって、これまでの「まちづくり」論は、都市計画論、コミュニティデザイン論、地域社会学など、それぞれの領域で個別に議論されがちであった。しかし、それらが内包する主体形成のプロセスを包括的に捉えた議論は必ずしも十分とはいえない。そこで本稿では、玉野井、田村、山崎、山下の言説を再読・整理し、「思想・実践・技法・認識」の動態として相互に接続・対照させることで、地域・住民が拓き、創る「まちづくりと市民福祉教育」の理論的基盤を明示することを目的とする。

Ⅰ 玉野井芳郎と「地域主義」の思想

〇1970年代は、日本社会にとって決定的な転換点であった。1955年から1973年まで続いた高度経済成長は国民生活に物質的な豊かさもたらしたが、その一方で、深刻な公害問題の発生、過疎・過密の激化、そして伝統的な地域コミュニティの解体などの「ひずみ」を引き起こした。また、経済合理性と中央集権的な資源配分が優先されるなかで、各地の「自然・歴史・風土」は収奪の対象となり、住民の地域に対する帰属意識は希薄化の一途を辿っていた。このような状況下で、経済学者・思想家である玉野井芳郎が提唱した「地域主義(regionalism)」は、単なる地方振興の策ではなく、近代西欧的な価値観や市場経済システムそのものに対する根源的な「知の組み替え」を迫るものであった。その思想の核心的な特徴は、次の諸点に見出される。

1 エコロジーと「生活づくり」
〇玉野井の地域主義において最も独創的な点は、経済システムの基盤に「エコロジー(生態学)」を据えたことにある。玉野井にあっては、「現存の社会・経済システムに自然・生態系を導入することは、社会システムに〝地域主義〟を導入することにひとしい」([2]60頁)のである。近代経済学が、自然環境を「外部経済」として系の外側に置いたのに対し、大気、水、土壌といった生態系こそが、人間の生存と生産を規定する不可欠な「コモンズ(共有財・共有圏)」である。
〇この視点に立てば、地域主義における「地域」とは、単なる行政区分としての空間ではなく、空間的な「地域性」と時間的な「季節性」によって特徴づけられる「人間の生活=生産の場所」([3]10頁)である。こうした地域主義は地域共同体の構築をめざすが、その本質的な課題は、市場原理に主導された「ものづくり」から、生命の再生産を優先する「生活づくり」への価値転換を図ることにある([4]9頁)。これらの認識は、現代の「サステナビリティ(持続可能性)」の議論を先取りする先見性を備えている。

2 「内発的地域主義」の理念
〇玉野井は、国が権力と資金によって地方を牽引しようとする「官製地域主義(上からの地域主義)」に対し、明確な限界を指摘した。中央からの画一的な資源投入は、むしろ地域の混乱と荒廃を招くというのである。これに対置されたのが「内発的地域主義(下からの地域主義)」である。
〇「内発的地域主義」は、「地域に生きる生活者たちがその自然・歴史・風土を背景に、その地域社会または地域の共同体にたいして一体感をもち、経済的自立性をふまえて、みずからの政治的・行政的自律性と文化的独自性を追求することをいう」([3]19頁)。ここでいう「経済的自立」とは、閉鎖的な経済自給を指しているのではない。土地、水、労働という生存の基本要素を地域単位での共同性と自立性として確保し、資本の論理(市場)による無制限な浸食を制御しようとするものである。また、「政治的・行政的自律」は住民自治の強調を意味し、「一体感」は地域というトータルな人間活動の場への能動的な帰属を意味している。

3 「開かれた共同体」と住民中心主義
〇玉野井は、地域主義の議論が陥りやすい「閉鎖的な共同体主義」への批判に対し、明確に「開かれた共同体」を掲げた。「わたしたちのまち」を代表する市町村は、「『下から上へ』の情報の流れを根幹とする開かれた行政システムの基礎単位となるべきもの」([3]124頁)である。とはいえ、地域間の横の繋がりを重視するこのモデルは、中央を否定して無政府状態をつくりだすものではない。むしろ、自立した諸地域が中央を「あるべき姿へと復位させる」試みなのである([3]17頁)。
〇また玉野井は、自治体行政と住民の関係についても、「住民への行政参加」という主客転倒の論理を提示した([3]119頁)。これは、行政が設けた枠組みに住民が参加する「行政への住民参加」ではなく、住民の自律的な活動のなかに、行政が「資源」として介入していくという、徹底した住民中心主義の表明であった。

4 「新たな市民」の再生と社会変革
〇玉野井の思想がめざした地平は、単なる地域の存続ではなく、地域主義を通じた新たな人間像の構築であった。それは、「市場経済的『市民社会』を突きぬけた地平に登場するであろう新たな『市民』(Bürger)の再生」である([1]ⅲ頁)。
〇近代の「市民」は、抽象的な権利と義務を背負う「国家の一員」として規定されがちであるが、玉野井のいう「市民」は、具体的な地域の風土に根ざし、そこで展開される生産と生活に責任をもつ「生活者」である。この「市民」は、非政治的な市民文化の勃興を担う主体であり、その市民が地域共同体を実践的に構築していく過程こそが、玉野井のいう社会変革の本質であった。

5 「地域分権」と「諸地域の時代」
〇玉野井にあっては、「地方分権」は「地域分権」、「地方の時代」は「諸地域の時代」と言い換えられなければならない。単数の「地方」は、常に「国」を頂点としたピラミッド構造における末端という上下関係を示唆する。これに対し、複数の個性として語られる「地域」は、それぞれの歴史と伝統を誇る自律した主体の集合体である([3]14~15頁)。
〇この「諸地域の時代」において、玉野井が実効性を期待したのが自治体独自の「憲章」や「条例」の制定であった。たとえ形式上は法律の下位規範であっても、「何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきものであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よきしきたり』をうちたてることを意味する」。これが「自治体の自己革新」である、と玉野井は説く([3]38頁)。これは2000年代以降に広がる「自治基本条例」の制定運動を20年以上先取りした、極めて先駆的な制度論であった。

〇以上、玉野井が説いた「地域主義」は、公害反対運動や生活環境を守る住民運動に対し、強力な理論的・思想的バックボーンを提供した。一方で、その議論が多分に「規範的(べき論)」であったため、後の研究者からは実証的分析の欠如や方法論の不明確さを指摘されることにもなった。しかし、玉野井が残した「ものづくりから生活づくりへ」という転換、そして「地域に生きる生活者」を主体とする共同体構築の視座は、現代のまちづくり論において色褪せることはない。以下で詳述する田村明の実践、あるいは山崎亮のコミュニティデザイン、山下祐介の地域学という系譜は、玉野井が遺したこの地域主義の思想を、いかにして具体的な「社会の仕組み」へと結実させるか、その過程として捉えることができよう。

Ⅱ 田村明と「まちづくり」の実践

〇玉野井が地域主義を「思想」として打ち立てた同時期に、行政の内部から都市のあり方を根本的に変革しようとした人物がいた。それが田村である。田村は、建築家や行政官という枠組みを超え、自らを「都市プランナー」「自治体プランナー」と称した。田村が1960年代後半から横浜市で展開した実践は、それまでの「都市計画」という官僚主導のハードウェア整備に対し、住民の主体的関与を前提とした「まちづくり」という平仮名の概念を社会に定着させる決定的な役割を果たした。田村にとって「まちづくり」とは、単なる建設行政ではない。それは「一定の地域に住む人々が、自分たちの生活を支え、便利に、より人間らしく生活してゆくための共同の場を如何につくるかということである」。その「共同の場」こそが「まち」である([5]52~53頁)。
〇ここで、近代日本を規定してきた「都市計画」と、田村らが主唱した「まちづくり」の概念的相違を一般論的に整理しておくことにする。従来の「都市計画」は、国家や行政が主導し、法律(都市計画法等)に基づき、インフラ整備や用途地域設定を行うハードウェアのコントロールを主眼としていた。そこでは住民は計画の客体であり、開発による利便性の享受者、あるいは立ち退き等の補償対象に過ぎなかった。これに対し、平仮名で開かれた「まちづくり」は、土地や建物の物理的配置に留まらず、そこに展開される生活空間の持続性を、住民自らが主体となって形成していくプロセスのデザインである。つまり、都市計画が「空間の機能的秩序化」をめざすのに対し、まちづくりは「人間の共同生活の自治化」をめざすのである(表1参照。[6]7頁)。

表1 まちづくりと日本型都市計画のアプローチの違い

1 「共同の場」としての「まち」の構造
〇田村によれば、こうした「まち」の構築対象は、物理的な(1)モノづくり、に留まらず、(2)シゴトづくり、(3)クラシづくり、(4)シクミづくり、(5)ルールづくり、(6)ヒトづくり、そして(7)コトおこし(イベントを起こす)、の7つをあげることができる。これを別の切り口から考えると、(a)機能づくり、(b)個性づくり、(c)魅力づくり、(d)活力づくり、(e)意識づくり、(f)イメージづくり、となる([5]54頁)。
〇また、田村は、「まちづくり」の「つくる」という意味について、「見えるまちづくり(ハード)」と「見えないまちづくり(ソフト)」の不即不離の関係として捉えた。さらに田村は、無用な開発を抑制する「つくらない/つくらせない」こともまた、まちづくりの重要な構成要素であると説き、自然保全や歴史的遺産の破壊阻止に論理的根拠を与えたのである([5]87頁)。この点は特筆に値する。

2 まちづくりの基本理念
〇田村にあっては、「まちづくり」は「共同の場」を市民が共同してつくりあげていくことであるが、その「共同の場」は、(1)共同空間、(2)共同施設、(3)共同システム、(4)共同サービス、(5)共同イベント、(6)共同文化、などの総称である。これらの「共同の場」をつくる際には、次のような基本理念をもってのぞむことが必要となる。(1)トータルの理念(まちは、個々ばらばらではなく、全体としてひとつである)。(2)システムの理念(まちは、複雑な要素が相互に絡みあい関係しあっている)。(3)共有環境の理念(まちは、市民の共有の空間であり環境である)。(4)市民共用・共益の理念(まちは、特定の人々のためではなく、市民全体に利用され、その共同利益のためにある)。(5)市民共存・共生の理念(まちは、多数の異なる人々が矛盾をもちつつも、互いの相違を認めあって生活する場である)。(6)市民協働・共責の理念(まちは、一人の手ではなく、市民の共同作業により、共同責任でつくられるものである)。(7)市民共感・共愛の理念(まちは、市民が共通した誇りと愛情をもてるものである)。(8)相互交流の理念(まちは、市民相互はもちろん、他の多くの人々、外国の人々を含めた交流の場である)。(9)内発性の理念(まちは、他からの強制ではなく、市民や自治体の自発的な発想と行動を主力にしてつくられるものである)、がそれである([5]121~122頁)。
〇田村は、こうした「まちづくり」観に基づき、単なる都市整備の枠を超え、住民自らが「共同の場」を主体的に形成し維持していくための具体的な実践プロセスを、行政の内部から構築したのである。

3 市民参加の階梯と「協働」
〇田村は、「まちづくりと市民参加」についてこういう。「『まちづくり』には、市民が主導し協働して行うルートが重要である」。「行政の都合による市民参加は、『みせかけ』あるいは『「宥(なだ)めすかし』という意味になりかねない」。「市民協働の動きが活性化することは、市民が市民としての自覚をもって自治体を他治体から本来の市民政府へと変えてゆく動きになろう」。「市民政府は、市民参加の到達点でもある」([7]158~159頁)。
〇すなわち、田村にあっては、市民参加は単なる「意見聴取」の儀礼ではない。田村は、アメリカの社会学者アーンスタインが1969年に発表した8つの「市民参加の階梯」を参考に、「市民参加の理論的9段階」の参加モデルを提示した(図1参照。[8]134~141頁)。このモデルにおいて重要視されたのは、行政への「住民参加」ではなく、住民の自発的活動への「行政参加」という、主客を転倒させた協働のあり方である。これは玉野井の地域主義とも深く共鳴する視点であり、行政を「市民の事務局」([9]55頁)として再定義する試みであった。

図1 田村明の市民参加の段階論

4 市民自治の思想と「市民の政府」論
〇田村の理論の頂点にあるのが「市民の政府」論である。「市民の」政府とは、「政府が市民の所有物である」という意味である([9]74頁)。すなわち、田村は、自治体を単なる「国の下請け機関」や「中央の出先機関」とみなす従来の地方自治観(「官治」)を真っ向から否定した。田村が理想としたのは、市民が自立・自律して自らの政府を所有し、運営する「民治」([9]85頁)の場としての自治体である(「官治」から「民治」へ)。
〇田村は「市民の政府」が成立するための条件として、外部条件(中央統制や関与の排除、財政自主権の確立)、内部条件(市民の参画、情報公開、説明責任の遂行、政策立案の自主的能力)、そして市民条件(市民の信頼、共同意識、市民としての自己責任)の3層を挙げた([9]75頁)。特に「市民の」という所有格を強調したのは、住民が自治体を「お上」ではなく「自分たちの所有物」として認識することを求めたためである。この徹底した自治の精神は、後に全国の自治体に広がる「自治基本条例(自治体の憲法)」の先駆的モデルとなるのである。

〇以上、田村が説いた「まちづくり」論は、「まちづくり」のプランナーとしての豊富な経験(横浜市における行政経験)と全国各地の実践例の検証に基づいた、帰納的で未来志向型の思考によるものである。とともに、多様な地域現場の歴史的風土や文化を踏まえた、総合的な発想による、市民主導・市民主体の「まちづくり」論である。それは、地方自治(「市民の政府」)の問題として論じられる。
〇田村の言説を要約すれば、まちづくりとは「ヒトづくり」に行き着く。どれほど優れた「モノ」や「シクミ」を整えても、それを使いこなし、共同責任を負う「市民」がいなければ、「まち」は持続しない。田村が横浜で闘い、著作を通じて説き続けたのは、自律した市民が都市の未来(あす)を展望し、創造的な意志をもって主体的に「まち」に関わる姿であった。玉野井が思想として描いた「新たな市民」は、田村の実践によって「自律的市民」という具体的な主体として顕在化したのである。この市民主体をいかに組織化し、地域の課題解決に繋げていくか、その手法のひとつが山崎が説く「コミュニティデザイン」である。

Ⅲ 山崎亮と「コミュニティデザイン」の技法

〇2000年代以降、急速な人口減少と少子高齢化、さらには地方自治体の財政難に直面するなかで、既存の「ハコモノ行政」は限界を露呈する。そこに登場したのが、山崎が提唱する「コミュニティデザイン」である。山崎は、自らを「モノをつくらないデザイナー」と定義する。その仕事は、広場や建物の形状を設計することではなく、「地域の課題を、地域の人たちが解決するための場をつくる」ことにある。これは、まちづくりのパラダイムを「施設(ストック)」の完成から、そこを使いこなす「人間関係(フローとネットワーク)」の構築へと決定的にシフトさせた。コミュニティデザインとは、いわば地域の人間関係を観察し、地域資源を掘り起こし、住民自らが課題を乗り越えるための「しくみ」をデザインする方法の体系である。コミュニティデザイナーは、地域の課題を住民自らが解決するための「場」をデザインするファシリテーターである。

1 コミュニティデザインの4段階
〇山崎にあっては、コミュニティデザインの方法は、基本的には次の4段階によって進められる。第1段階は「ヒアリング」、第2段階は「ワークショップ」、第3段階は「チームビルディング」、第4段階は「活動支援」である([10]180~195頁)。

第1段階:ヒアリング(情報の深掘り)
〇単なるアンケート調査ではなく、地域のキーマンや「面白い活動」をしている個人の話を直接聴くことで、目に見えない地域の人間関係や資源を可視化する。
第2段階:ワークショップ(課題の共有と拡散)
〇ブレーンストーミングやワールドカフェなどの手法を用い、フラットな対話の場を創出する。ここで重要なのは「正しい結論」を出すことではなく、多様な意見が混ざり合い、住民同士の「共感」が生まれるプロセスそのものである。
第3段階:チームビルディング(主体の組織化)
〇出されたアイデアを実現するために、誰が何を担うのかを決定し、実行チームを構築する。この際、リーダーシップをデザイナーが振るうのではなく、住民が自発的に役割を引き受けるよう促す。
第4段階:活動支援(伴走と自立)
〇チームの初動期を支えつつ、徐々にデザイナーの介入を減らしていく。最終的にデザイナーがいなくなっても、住民たちが自立して活動を継続できる状態(自律的運営)がゴールとなる。

〇こうしたプロセスを実践するうえで、コミュニティデザイナーには次のような能力が求められることになる。「他人の感情を読み取る能力」「人の話をしっかり聴く能力」「相手の意図や思考を理解する能力」「社会のしくみを知る能力」という4つの「読み取り能力」と、そのうえでどう行動するかという能力、すなわち「相手と同調する能力」「自分の意図を効果的に説明する能力」「他者に影響を与える能力」「人々の関心に応じて行動する能力」の4つの能力、がそれである([10]219~220頁)。

2 「縮充社会」における参加の論理
〇山崎の言説における重要なキーワードのひとつに、「縮充」がある。これは、人口や税収が「縮小」しながらも、地域の営みや住民の生活が「充実」していく状態をいう([11]17頁)。この縮充を実現するための最大のエンジンが、主体的・創造的な活動を行う「市民」の「参加」である。 参加には、「参加」→「参画」→「協働」(コラボレーション)の発展性がある([11]68頁)。この参加を確かなものにし、課題解決の道を開くのは、地域現場での「学び」である。「地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得すことに勝る教育はない」([11]355頁)、と山崎はいう。
〇そして、行政への住民参加(住民活動の原動力)には、「住民がやりたいこと」「住民ができること」「行政が求めていること」の3つがある。この3つ輪が重なるところに、縮充の時代に求められる「参加」「参画」「協働」のヒントがある([11]146頁)。山崎によれば、この3つの輪を「自分がやりたいこと」「自分にできること」「社会が求めていること」と書き換えれば、人生を傾けて取り組める活動を探り当てることができるのである([1]426頁)。
〇また、山崎は、「楽しさなくして参加なし」「参加なくして未来なし」と断言する([11]18~19頁)。「楽しさ」は参加型社会の重要なキーワードである([11]36頁)。かつての住民運動が「反対」や「防衛」という悲壮感を伴う正義感に支えられていたのに対し、山崎が説く参加は「楽しさ(喜び)」を原動力とする。どんなに正しい取り組みであっても、つまらなければ継続しない。活動そのものが個人の生活や人生を豊かにし、他者との交流と協働のなかに価値を見出せる「活動」へと昇華されたとき、「参加」は社会変革の有効な手段となるのである。

〇ここで、小滝敏之の「縮減社会」に関する言説について付記しておく。小滝は、人口減少に伴う「縮減社会」の到来を単なる量的縮小として捉えるのではなく、その背景にある社会の質的変化と、それに対抗するための「地域自治・生活者自治」の理念を歴史的・理論的に論述する。
〇小滝はいう。縮減社会について論じるにあたって危惧すべきは、質的縮減の側面である。すなわち、家族機能や地域における共助機能の縮減であり、社会的連帯やコミュニティ意識の縮減である。こうした地域社会をどうしていくのか、どう変えていくのかを決める主役は、政治家や行政官などではなく、地域社会の生活者住民に他ならない。地域で暮らす生活者住民(小さき民)の「内発性と自治」こそが、自らの基盤である地域社会を守り育てていく根幹である(「生活者自治」)。共助や連帯の精神を再生・創造するのは、中央や地方の政府の権限や責務以上に、住民自身の責務であり、生活者住民の主体的努力と自治意識である([12]133、188頁)。
〇この生活者住民の生活世界を考えていくにあたっては、「他律」対「自律」、「統治」対「自治」、「競争」対「協力」という対立図式ではなく、また一方的に「自律」や「自治」の優位性を説くのみではなく、最終的には、「他律」と「自律」の両立・共存をめざし得る「相互律(アレロノミー)」の観点が必要となってくる([12](ⅵ~ⅶ頁)。

〇このように、山崎が提示したコミュニティデザインや小滝が理論化した「生活者自治」の思想は、玉野井や田村が追求した「地域主義」や「市民自治」を、現代の「縮小・縮減の時代」においていかにして「充実」へと転換させるかという、ひとつの回答である。 「縮充する時代の行方には、正解もなければゴールもない。『学び』というインプットと『活動』というアウトプットを、つねに市民が繰り返している状態にこそ大きな意味がある」([11]440頁)と、山崎は結論づける。まちづくりは終わりのないプロセスである。このプロセスにおいて形成される「活動する市民」のあり様が次の山下によって問われる。

Ⅳ 山下祐介の「地域学」と抵抗の認識論

〇人口の高齢化によって「限界集落」(大野晃、1991年)はいずれ消滅する、とその危機が声高に叫ばれるようになったのは2007年頃からである。2014年、増田寛也らによるいわゆる「増田レポート」が公表され、「地方消滅」という言葉が日本中を席捲した。若年女性人口の減少率を指標に、2040年までに全国の約半数の自治体が消滅の危機に瀕するという予測は、地方自治体にパニックに近い衝撃を与えた。
〇そうしたなかで山下は、「高齢化によって消滅した集落」はなく、「限界集落」問題はいわば「つくられた」ものである。増田レポートが説く「極点社会」(大都市圏に人々が凝集し、高密度のなかで生活している社会)におけるひとつの道筋である「選択と集中」は、国家の繁栄のために地方(地域)や農家の切り捨てに帰結する。地方消滅の “警鐘” にこそ地方消滅の “罠” がある、としてそのレポートが孕む欺瞞性を暴いた。以後、山下は、この国家的プロジェクトに抗うために、住民が自らの地域を「消滅するもの」としてではなく、「生き続けてきた場所」として捉え直す、根本的な「認識の転換」が必要であると説く。そして、生身の人間の暮らしや個々の地域の歴史や現在の実像を明らかにし、そこからの学びの作業を通して「地域学」を描くのである。

1 「地域の殻」と地域を捉える3つの層
〇山下にあっては、地域は人間の生存の基盤であり、「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」。自分の足元にある地域について学ぶこと、それが「地域学」である([13]11頁)。山下が提唱する「地域学」の核心は、地域をひとつの「殻」として捉える視座にある。この殻は、外部(国家や市場)からの過渡な干渉を遮断し、内部の生命活動を守るための防壁である。近代化の過程で、地域はこの殻を剥ぎ取られ、国家という巨大なシステムのなかに直接組み込まれてしまった。その結果、地域特有の知恵や慣習、自治の能力は「非効率」として切り捨てられた。山下は、「地域の殻を破らせまいと補修し、地域を外側の圧力から守り、内側の体制を固める運動」が地域学(「抵抗としての地域学」)である、と主張する([13]301頁)。それは閉鎖的な排除ではなく、自らの生活基盤を自ら決定するという「自己決定権」の奪還に他ならない。
〇そして山下は、地域の実像を、「生命」「社会」「歴史と文化」の3つの切り口(認識の層)から捉える([13]11頁)。「生命」では、環境社会学の視点・視座から、地域を、一定の環境のなかで育まれる生命の営み(生態)として切り出す。地域は人間が食べて寝て、生命を維持する基盤であり、生命の再生産の場である。「社会」では、農村社会学や都市社会学、家族社会学の視点から、地域を、そこで展開される人々の集団の営みとして描き出す。地域は、相互扶助の構造と機能をもつ場である。「歴史と文化」では、歴史社会学や文化社会学などの視点から、地域を、連綿と続く歴史と文化の蓄積の営みのなかに見出す。地域は時間的・空間的なつながりによって確立される場である。これら3層の認識を深める方法が「地域学」であり、それは「上(中央)」からの統計値に依存しない、自律的な知の構築である。

2 学校教育の分岐点と「地域学」の意義
〇山下は、学校教育のあり方が「国家・国際競争への貢献」と「地域社会の継承」という二項対立の分岐点にあることを指摘し、真の学びの意義を問い直す。現代の学校では、国際競争に勝ち抜くための経済的・生産的戦力となる国家人や国際人の育成が最優先され、地域社会の視点が軽視されている。学校は単なる人材供給装置である以上に、一人ひとりが自律的な人生を送れるよう「人としての成熟」を促す場であるべきである。人々の暮らしが地域と国家の双方で成り立っている以上、地域を担う人材を育てることは学校にとって不可欠な役割である([13]287~288頁)。
〇教育が「国家・国際社会への人材供給」に偏るなかで、山下が提唱する「地域学」は、抽象的な言語や普遍的な理論を学ぶものではなく、具体的な時空にいる私を、地域のうちに “生きているもの”として浮かび上がらせ、見定めていく、そんな学びの作業である」([13]16頁)。

3 国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへ
〇現在の日本社会では、弱者批判や地方の切り捨て、挙国一致体制の強化を容認するような、全体主義的・専制主義的な言説が広がっている。しかし、国家とは本来、地域の現実や国民の力によって「下から」形成されるべきものであり、排除や分裂を伴う国家体制は危うい([13]295頁)。
〇国家と個人の関係のみを重視する「ナショナリズム(国家主義)」には根本的な欠陥がある。一方で、国家そのものを否定しようとする、超個人主義=脱国家主義的な「コスモポリタニズム(世界市民主義)」も、現実的な解決策にはなり得ない。両者には、人々が実際に生活を営む基盤である「地域」という視点が欠落しているからである([13]296、297頁)。
〇危険な一国ナショナリズムの暴走を食い止め、社会を変革する鍵は、コスモポリタニズムではなく、国家の内部に「地域主義(地域ナショナリズム)」を確立することにある。地域という具体的な現場から国家を捉え直すことで、現在の閉塞した国家体制を克服できるのである([13]297~298頁)。

〇山下の地域学は、「認識」の主権を取り戻すことを迫る。国・中央が決めた「消滅」のカウントダウンに従うのか、それとも足元の土に根ざした「生存」の物語を紡ぎ直すのか、である。山下の説く「抵抗」とは、暴力的な拒絶ではなく、自らの足元の地域について知ること、考えることに基づく自治の表明である。国家と個人の二極化が招く全体主義的な危うさを回避するためには、抽象的な世界市民をめざすのではなく、地に足のついた「地域の自律」こそが、不健全なナショナリズムへの有効な対抗手段になるのである。

〇ここで、山下が提唱する「地域学」の認識運動を、より住民の日常的な実践へと引き寄せた先駆的試みとして、吉本哲郎や結城登美雄らによる「地元学」の言説を交差させておく必要がある。吉本らの「地元学」は、「ないものねだり」の地域づくりから「あるもの探し」への転換を提唱し、住民自らが地域の自然、文化、そして人々の「暮らしの技」を「聞き書き」等によって調査・再発見していく活動である([14][15])。これは山下のいう「生命・社会・歴史と文化」の3つの層を、行政や研究者の統計データとしてではなく、住民自身が五感を使って身体化していく「土着の認識運動」に他ならない。とりわけ、地域の高齢者が持つ生活の知恵や歴史を「地域の資源」として光を当てるプロセスは、高齢者を単なる「福祉の客体(要介護者)」から「地域の主体・表現者」へと反転させる。このように、「地域学」が提示するマクロな抵抗の認識論は、「地元学」というミクロな生活現場の技法を媒介することによって、住民自らが主体的・能動的に取り組む持続可能な地域づくり(コミュニティデザイン)の実践へと接続・昇華されるのである。

Ⅴ 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル
―「楽しさ」と「抵抗」が拓く「ふくし」―

1 4つの理論の限界と統合
〇以上のように、従来の「まちづくり」研究は、多様な領域において蓄積されてきた。しかし、その多くは個別領域ごとの議論に留まり、相互の理論的接続は必ずしも十分ではなかったといえる。玉野井らによって提唱された「地域主義」論は、1970年代を中心にひとつのブームを巻き起こしたが、その後はいわれるほどの進展はみせなかった。その要因のひとつは、地域共同体が消滅していくなかで、また現実の中央集権的な行政システムのなかで、いかにして「地域主義」の実現を図るかという方法論が必ずしも明確ではなかったことにあった。
〇田村らによって論究されてきた「まちづくり」論は、都市計画論や地域計画論を中心に展開される傾向が強く、土地利用、景観形成、インフラ整備、制度設計といった「空間管理」の問題に重点が置かれてきた。住民参加や協働の重要性が指摘されているものの、行政計画への参加手法として位置づけられるに留まり、「地域を担う主体がいかに形成されるのか」という市民形成の問題については十分に掘り下げられているとはいえない。
〇一方、山崎らによって展開される「コミュニティデザイン」論は、人口減少社会における地域再生の具体的方法論として大きな影響力をもってきた。ワークショップ、対話、チームビルディングなどを通じて住民参加を促し、地域課題の解決を図るその実践は、従来のハード中心型のまちづくりを転換する重要な契機となった。しかしその反面、参加を促進する技法やファシリテーションの側面に議論が集中しやすく、その実践を支える思想的・政治的基盤、あるいは主体形成論との接続については十分に理論化されているとは言い難い。
〇また、山下らによる「地域学」論は、「地方消滅」論への批判や、地域を足元から学び直す認識運動として重要な意義をもっている。地域を「生命」「社会」「歴史と文化」の重層的空間として捉えるその視座は、中央集権的な地域認識を問い直す強力な批判性を有している。しかし、地域学論においても、その学びがどのように地域自治や実践的市民形成へと接続されるのかという教育的・組織論的視点は、なお十分に展開されているとはいえない。

〇このように、これら4人に代表される「地域主義」「まちづくり」「コミュニティデザイン」「地域学」に関する言説は、それぞれ固有の領域において多大な成果を蓄積してきた。しかしその一方で、地域を支える自律的市民の形成という核心的な共通の課題に対しては、部分的なアプローチに留まり、包括的・横断的に論じる視座は必ずしも十分ではなかったといえる。そこで、4人の言説を単なる個別の理論としてではなく、「思想/玉野井」「実践/田村」「技法/山崎」「認識/山下」という相互補完的な要素として捉え直し、その動的な結びつきに焦点を当てて整理する。これにより、それぞれの立論展開の限界を互いに補い合いながら市民形成を促す「『まちづくり』と自律的市民形成の循環モデル」(図2)として構造化することが可能となる。 

図2 「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル

 

 循環モデルの具体的な構造
〇まず、外円(外層)は、玉野井が提唱した「地域主義」である。これは、地域の自然・風土・生命の再生産を支える思想であり、すべての営みが立脚する「基盤」を象徴している。この基盤の上に位置する中円(中層)は、田村が説いた「まちづくり」である。これは、市民が主体的かつ共同的に「実践(活動)」を展開する「土俵」であり、学びや実践が一時的な流行に終わらず、自治の制度化を志向する枠組みを意味している。そして、この自治の円環内部で展開される2つの動的な矢印が、本稿の核心である。左側の上昇する矢印は、山下が説く「地域学」による「インプット(認識・学び)」のプロセスである。地域の方向性(行方)や持続可能性(持続)、消滅の是非(限界)などに抗う「知」を構築する。一方、右側の下降する矢印は、山崎が提示した「コミュニティデザイン」による「アウトプット(実践・活動)」のプロセスである。ワークショップなどを通じて関係性を編み、具体的な課題解決を形にする。
〇この「学び」と「実践」が、自治の土俵の上で絶えず往復し、円環状に結ばれるプロセスそのものが、筆者の提唱する「市民福祉教育」の実体である。そして、この絶え間ない循環の「核(中心)」において形成されるものこそが、自らの生と地域を自律的に構築する主体としての「自律的市民」に他ならない。
〇また、この循環モデルにおいて、4人の言説を底流で結びつける共通のキーワードは「コモンズ」である。玉野井の「生態系」、田村の「共同の場」、山崎の「関係性」、山下の「地域の殻」は、いずれも国家や市場に囲い込まれない「地域社会の共有財」に他ならない。本モデルが示す自治の円環とは、住民自らがこのコモンズを共同で管理・運営していくプロセスである。すなわち「自律的市民」とは、共有財への能動的な責任を引き受け、その維持発展を担う主体として定義されよう。
〇同時に、これら4人の言説は、時代背景やアプローチこそ異なるものの、その深部において「自律的主体の形成」と「地域の再生」という共通の地平をめざしている。玉野井が求めた「新たな市民」は、市場経済の抽象的な個人を超え、エコロジーと風土に根ざした「生活者」であった。その思想を受け、田村は行政の内部から「市民の政府」を提唱し、住民が自治の責任を負うための具体的な制度的枠組みを提示した。さらに山崎は、縮充社会という現代的課題に対し、「コミュニティデザイン」という手法を用いて、楽しさを媒介とした「関係性の再構築」を実現した。そして山下は、国家主導の「消滅論」という認識の罠を暴き、足元からの「地域学」を抵抗の知として再定義したのである。これら4人に共通するのは、地域を単なる「管理の対象」や「サービスの享受場所」とみなす客体化を拒絶し、そこを「人間が自らの生を自律的に構築する舞台」として奪還しようとする強烈な意志である。
〇本稿で探究する「まちづくりと市民福祉教育」は、これら4人の言説が交差する点に立ち上がる、新たな教育・実践のパラダイムである。それは、既存の学校教育や福祉制度の枠内で行われる「知識の伝達」ではない。市民福祉教育とは「自分たちの暮らしの幸せを、自分たちの手で創り出すための知識と技能を、地域という現場での実践を通じて学び合うプロセス」そのものである。
〇山下が説く「地域学」というインプットの場と、山崎が説く「コミュニティデザイン」の場が、田村が整えた「自治の制度」の上で円環状に結ばれるとき、住民は「教えられる存在」から、自らの生活圏をデザインする「市民」へと脱皮する。この「学び」と「実践」の不断の往復こそが、市民福祉教育の本質に他ならない。

3 本モデルがめざす実践と「ふくし」
〇現代日本が直面する人口減少や資源の制約は、一見すると「福祉の後退」を意味するように見える。しかし、本稿が考察してきた言説を補助線に引けば、それは一面では、真の「ふくし」へ立ち返る好機であると捉え直すこともできる。外部資本や公的制度に過度に依存するのではなく、地域にある未利用の資源を「発見」し(山下)、住民同士の「関係性を編み直し」(山崎)、それを支える「自治のルールを創設」し(田村)、その営みのなかに「自然との共生という倫理」を組み込む(玉野井)。このプロセスは、経済的な拡大を至上命題としてきた近代モデルからの決別であり、豊かさの質を「縮充」へと転換させる試みである。
〇「まちづくりと市民福祉教育」がめざす地平は、誰かに守られるだけの弱者を見出し支援する場所ではない。互いの弱さを認め合いながら、ともに「共同の場」(コモンズ)を創造・運営していく強さをもった市民・主体を育む場所である。そこでは、住民一人ひとりが自らの足元を学び直し、住民同士が対話を重ね、みんなで小さな実践を積み重ねることによって共通認識や信頼関係(ネットワーク)という土台を築くことが肝要となる。「まちづくり」とは終わりのない認識運動である。
〇「楽しさ」と「抵抗」を胸に、自律的な市民が「ふだんの  くらしの  しあわせ」を語り合い、形にしていく。その連鎖・共働の先にこそ、消滅することのない、真に持続可能な地域社会の姿があるのである。

おわりに

〇本稿で考察した「まちづくりと自律的市民形成の循環モデル」を机上の空論に終わらせず、実際の地域社会で機能させるためには、今後いくつかの重要な課題に対応することが求められよう。ひとつは、「まちづくり」の活動や担い手の固定化を防ぐために、如何にして多様な市民を巻き込み、連携・共働していくかという点である。一部の層に依存しない、多様な主体が緩やかにつながる仕組みづくりが不可欠となる。いまひとつは、住民の主体性・自律性を引き出し、それを側面から支える「伴走型」の支援体制を如何に確立するか、である。行政や専門職には、主導ではなく、市民の力を如何に引き出し、共働するかという役割転換が求められる。今後は、これらの課題を踏まえ、SNSを用いた多様な主体のネットワーク化や、AIの利活用による地域課題の可視化や効率的な伴走支援など、デジタル技術の進展に伴う時代変化に対応した持続可能な仕組みへと本モデルをアップデートしていく必要がある。

引用・参考文献
(1)玉野井芳郎(1977)『地域分権の思想』東洋経済新報社(本文[1])。
(2)玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房(本文[2])。
(3)玉野井芳郎(1979)『地域主義の思想』農山漁村文化協会(本文[3])。
(4)玉野井芳郎・清成忠男・中村尚司編(1978)『地域主義―新しい思潮への理論と実践の試み―』学陽書房(本文[4])。
(5)田村明(1987)『まちづくりの発想』岩波新書(本文[5])。
(6)西村幸夫編(2007)『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店(本文[6])
(7)田村明(1999)『まちづくりの実践』岩波新書(本文[7])。
(8)鈴木伸治編(2016)『今、田村明を読む―田村明著作選集―』春風社(本文[8])。
(9)田村明(2006)『「市民の政府」論―「都市の時代」の自治体学―』生活社(本文[9])。
(10)山崎亮(2012)『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書(本文[10])。
(11)山崎亮(2016)『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所(本文[11])。
(12)小滝敏之(2016)『縮減社会の地域自治・生活者自治―その時代背景と改革理念―』第一法規(本文[12])。
(13)山下祐介(2021)『地域学入門』ちくま新書(本文[13])。
(14)吉本哲郎(2008)『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書(本文[14])。
(15)結城登美雄(2009)『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける』農山漁村文化協会(本文[15])。

【初出】
阪野貢「追記『まちづくりの思想としての地域主義』を考える―玉野井芳郎著『地域主義の思想』再読メモ―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2021年5月20日公開)
阪野貢「改めて、田村明を読む―『まちづくり3部作』について―」(同、2017年10月1日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

阪野 貢/神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校:発表題目
江 陽  中学校:本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒 句  中学校:社会福祉教育実施内容について
秦 野  中学校:本校における社会福祉教育の実態について
池 上  中学校:社会事業に関する学習指導について
栗田谷      中学校:社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一 中学校:我が校の実施状況について
鶴 嶺  中学校: 本校における社会福祉思想の普及について
富士見  中学校: 社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘 高等学校:社会福祉事業に関する世論調査
津久井 高等学校:社会福祉研究委員会の活動について
江 南 高等学校:社会福祉教育の実際 (公開授業)
山 北 高等学校:高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原 高等学校:本校の活動状況について
翠 嵐 高等学校: 社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校:本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿は、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質を検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。

 

阪野 貢/戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践 ―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践
―国分一太郎「1936年論文」の翻刻・解題と今後の研究に向けて―

福祉教育の歴史は終戦直後から始まると捉えるのが通説である。しかし、それは戦前の福祉教育に関する歴史をふまえたものではない。戦前に関しては、更なる検討が必要とされる2つの説があるにすぎない。それは福祉教育の遡及的原点を大正デモクラシー期の新教育運動に見出す説と、地方改良運動に見出す説である。前者に関しては村上(1994)が、大正デモクラシー期の新教育運動の中でも、とりわけ「池袋児童の村小学校」の野村芳兵衛による生活教育や修身教育の実践を、福祉教育の遡及的原点として紹介している。後者に関しては、大橋(1997)が地方改良運動の諸実践の中には今日の福祉教育と同じような実践がみられると述べている。(三ツ石行宏「<解題>福祉教育史研究の課題と展望―阪野論文に導かれて―」日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸~学際性と変革性~』大学図書出版、2014年10月、52頁)

はじめに

〇筆者は、福祉教育の歴史研究において、1930年代の生活綴方教育の実践や運動のなかに、今日の福祉教育実践に通底する側面や要素が含まれていたのではないか、との仮説を立てている。その実証的検討の端緒として、本稿では太郎良信「国分一太郎による生活綴方教育批判の検討―1936年から1939年における―」(『文教大学教育学部紀要』第45集、文教大学、2011年12月)を取り上げる。
〇太郎良はその論考において、国分一太郎(1911年3月~1985年2月)の軌跡を次のように指摘している。すなわち、1930年から1935年にかけては綴方を通して生活の現実に学ぶ教育実践(「生活勉強」)を説いていた国分が、1936年から1939年にかけては生活綴方教育批判へと転じ、綴方教師たちに対して地域における啓蒙活動への参画を呼びかけるようになった、という点である。太郎良は、生活綴方教育批判を主題とする国分の論考を時系列に沿って精緻に分析・検討することで、この変遷を明らかにしている。

Ⅰ 1936年における国分一太郎と生活綴方教育運動の時代背景

〇1936年は、二・二六事件が発生した年である。また、思想犯の意見・表現の自由を制限した「思想犯保護観察法」の制定など、教員への圧迫が構造化された年でもある。それは、1929年10月に始まる世界恐慌をひとつの契機に経済的・政治的・社会的矛盾と混乱が深刻化するなかで、日本が軍国主義化・ファシズム化を進め、日中戦争(1937年7月勃発)と太平洋戦争(1941年12月勃発)への道を辿るターニングポイントとなった。1936年はまた、国分にとっても特筆されるべき年である。国分がその重要な担い手であった北方性教育運動(生活綴方教育運動)が衰退傾向を示し、その運動の拠点であった北方教育社(1929年6月、秋田市に創立)が同年8月に閉鎖に追い込まれている。それは、「視学などの圧力と、内部的な脆弱性」(津田道夫『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社、2010年1月、150頁)によるものであった。なお、1936年の前年1月に、国分がその中心的役割を果たした北日本国語教育連盟(秋田市)が正式発足し、8月には国分がその組織強化活動に関わった北海道綴方教育連盟(釧路市)が設立されている。
〇ここで注目すべきは、1930年代半ばにおける「社会事業」概念の変容である。当時の日本社会は、国家総動員体制に向けた「厚生事業」へと舵を切る過渡期にあった。国分が「社会事業」という用語を用いた背景には、単なる慈善救済への関心を超え、疲弊する農村共同体を教育の力でいかに再編し、国家の矛盾に抗し得る「生活主体」を形成するかという、教育と社会事業の境界領域における模索があったと解釈できる。
〇本稿では、太郎良が紹介・検討した論文群のなかから、国分が「社会事業」に関心を持ち、生活綴方教育と社会事業の関係や、社会事業がもつ教育的効果に言及した次の2本の論文(以下、「1936年論文」と総称)を対象とし、その翻刻と解題(史料紹介)を行う。

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」『日本文化と国民教育』第2巻第5号、東宛書房、1936年8月、74~79頁。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・国語教育』第6巻第10号、厚生閣書店、1936年10月、152~157頁。

〇この作業は、単に福祉教育の遡及的原点を追究するに留まらず、冒頭に記した三ツ石が指摘する課題、すなわち「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続を検討する必要性」(三ツ石「前掲論文」54頁)に応えるための端緒を開くことを企図している。また、未開拓の史資料を収集・分析・評価することを通じて、既存の福祉教育像をより豊かに再構成することをめざすものである。なお、対象とする論文は福祉教育史研究においても貴重な史料であるため、その文脈と詳細を忠実に再現すべく、引用が長大にわたることをあらかじめ付言しておきたい。翻刻にあたっては、原文の表記を尊重し、旧漢字・旧かな遣いは原則としてそのまま用いた。

Ⅱ 史料翻刻と解題
―「社会事業的教師」の提唱―

(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」
かうした困難なる生活を生きる子供をかゝへて青年教師は何とするか。或る人は歴史の秩序を信ずる事によつて、この現実の中に真実を、砂の中の砂金のかけら程でもいいからみつけさせて行かうと精神的になる。ある人はこの困惑は薬だといふ。この困難にまけぬやうな意志だけが大切だと説教する。乞食根性をもつなといふ。困難はやがて幸福のもとと出世美談みたいな真理を活用する。
ある青年教師は、子供とはそんな現実主義者ではない。夢の人だといつて、のびのびと、ゆるやかに魂と身を伸さうと賢明なことを言ふ。だがその子は家に帰ると、あまりにも多産な我が母のために、その弟妹をおばねばならぬ。そして背柱湾曲と統計表に計算される。
ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番だ。あとは何も出来ないと言ふ。真実をかけ真実をみよといふ。見てどうするかと言へば答はない。あるとしても「真実のみが、未来をはらんでゐる」と深遠だ。あとはどうにもならぬとアナーキーになり、更に虚無におちいる。そこである若者どもは生活意欲をもたせようといふ。それには自分がもつ事だといふ。所が、その生活意欲とは何ぞやと質問をする先生が出る。生活意欲とは貧乏でなくなりたいといふだけものではないと答へられると、そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び出したと叱る。もう一人はこんご、多分に空想的だと度々いふ。(76~77頁)

そこで小学教師よ。青年教師よ。如何に生きんとするや――とせつぱつまつて来た。
曰く社会事業的教師とならん。曰く文化事業的教師とならん――とこの際答へたい。だが僕たち一人でそんな事をされるとは限らない自分の生活は困らぬから社会事業にしたがふといふわけにはいかないのが薄給中の薄給の青年教師だ。壮丁の検査成績がわるいとすぐ、保健省設置を提議できる陸軍とは何といふ羨しい熱心な存在だらう。我々教員は一番村に近くゐて、村の人々とも一番近い所にゐて、その子等の上にその人々の生活を知りつくしながら、医療国営一つ、生活安定一つの徹底をも、建議できない人間共である。漢字の存在や歴史的仮名遣ひが、如何に国民生活を不便にし子供を苦しめつゝありと知りながら、それが廃止の建議案をすら、直ちには出す事が出来ない。それをなし得る団結がほしい。
社会事業にしても、今の担当者は村の有力者や教育者の古手であつて、青年教師の手中にはない。だが、社会事業的出発のし方は大小とりまぜて色々ある。その小さい所からはじめて、日本の青年教師が手をつないで大きな社会事業をなし得る機会をまつことが大切ではないだらうか。託児所が論ぜられ、実践され、校外教育が再吟味され、地域中心の学校施設が問題とされ、生産学校が行はれはじめたのもみな、教育が社会事業の側にうごいて来た証明できる。紙芝居の教育的実践さへもがそれである。
社会事業には、解釈の浅さはあつても、行動の重要さをとらねばならぬ。よい社会事業は、よい社会改造を目標としてゐる筈だ、歴史がゆがめる社会事業があるにはあるにしても、それを駄目だと解釈して、貧しきものは貧しきまゝにして置いていい筈はない。文化の大衆への浸透、それもまたその不可能や困難をかこつより、よい文化合理化されたそれを、小刻みに与へて行く必要は十分にあるのだ。老年教師を啓蒙することもひとつだ。
じつとしてゐるよりは行動をした方がいい。行動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的だとしたら、青年教師はそこへ行くだらう。それをきらつて、「生活を描け描け(くの字点―引用者」とばかりいつてるのは、「貧しい事がなくなると、よい綴方が出なくなる」と心配する事の愚に等しい。
といつて、教室からとび出し、学校をはなれて、防貧や救貧事業にのり出せとか、保健衛生事業にでかろといふのではない。「純粋の情熱」や「きれいな知性」をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬのだ。
かういふ物の考へ方を先生がもつことがそもそも大事な生き方の精神となるのだ。僕らが育てた国民が大きくなつたら、すべての代議士が退職積立金法案には賛成を無条件にするように、農業保健法は立派に制定してくれるやうにとか、小作法はにぎりつぶさぬやうにとねがひたいならば、まことに気永な話ではあるが、社会政策的見地にたつ考へ方を国民に充満させねばならぬ。それの尖兵隊は社会事業家であらう。その尖兵の行動を見習ふこともなくして、意欲がどうの態度がどうの、リアリズムがどうのといつた所で、それが単なる精神的な「覚悟」に終らなかつたら御目出度うだ。
僕達青年教師は、小さい頃、人道主義的見知で育てられたらしい。その頃の青年教師に。だが真にヒユーマニストとして生きてゐる人間は何人ゐよう。前述の如く孤立して僅かに情熱をセンチと化するが落ちではないか。逆に封建的な精神で人間、子供を律しようとしてゐないとは言へぬ。
青年教師が、意欲をいひ、モーラルをいふ若さは悪いといはぬ。それはよい。だが現実とそれでは、まだまだ(くの字点―引用者)距離があるやうに出来てゐるといふ方が正直だ。その距離をうづめる手段も持たないでは困るのだ。
社会を愛し、文化を愛する青年教師の全日本的聯結が、それぞれの報告にもとづいて社会事業的、文化啓蒙的教育の行動形態を建設するの急務が叫ばれて欲しい。(77~79頁)

〇本論文は、当時25歳の国分が「青年訓導の立場から」書いたものである。
〇国分は、絶対的貧困にあえぎ、「社会の矛盾」にさらされている東北農村の子どもたちの「現実生活」と、それに向き合う青年教師の状況を述べる。その際、「情熱と知性」を本質とする青年教師の教育実践(生活綴方教育)を、「自嘲的」「揶揄的」に描いている(太郎良「前掲論文」28頁)。そのうえで、国分は、自分たちが育てられた「人道主義的見地」ではなく、「社会政策的見地」に立って、青年教師に「社会事業的教師」になるよう呼びかける。「『純粋の情熱』や『きれいな知性』をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬ」。「よい社会改造を目標」とする「よい社会事業」の行動は、「一番今のところ進歩的」である、と国分はいう。しかし、その言説は、青年教師に対して「社会事業家の生き方のその態度」の必要性を説くに留まっている。国分自身の社会事業的教師として、具体的な教育実践に裏づけられたものにはなっていない、といえよう。
〇しかし、国分が「情熱」を単なる感傷や主観的な同情論に矮小化させず、「社会政策的見地」を求めた点は、教育の「内面化」に対する痛烈な自己批判であった。これは、子どもを「救済の対象」としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する「連帯の主体」として捉え直そうとする、福祉教育における「主体形成論」の先駆的形態として位置づけられる。
〇なお、「教育が社会事業の側にうごいて来た証明」についての指摘は、「教育福祉」の視点を示すものとして留意しておきたい。

(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」
主観的なものを客観的なものへ、個人的なものを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの道は、つねに「現実生活」の把握によつて「現実生活」で証明し、現実生活にとかしこんで導かねばならぬ。自然発生的な社会認識をもつた子供を科学的な社会認識に導くことも、生物的人間を社会的人間にひきあげることも、すべて「生活」によつて証明しつゝ、あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあるひは子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ。(156頁)

人間教育とか、純粋感情の教育とか(情操陶冶)といふレツテルを張つてやつて来た綴方教育が、産業の発達による社会的情勢の変化によつて、漸次、より広範囲な生活教育として、その直接的な武器として、生活態度の陶冶と、生活技術の鍛錬とにまで進展したことによるともいへるであらう。そして社会事業の方が、概念的な小学教育よりは、より教育的感化をもたらすといはれる如く、概念的な知的学科や、観念的な情操教科に比して、より現実的な綴方の方が有意義なものとされ、それには昔さながらの文壇的ひとりよがりの指導よりは、より教壇的な協働生活関係としての、生活組織器関(ママ)として役立つやうに吟味されるに至つたのである。(157頁)

僕達の綴方も、あらゆる教科が、生活を証明材料として引つさげて来り、綴方の道をゆたかにしてくれる限りは喜んでむかへるであらう。それらによつて生活の知性がたかまり、生活が充実し、生活行動が真摯になるならば、綴方にとつて其れはこのましき限りである。
それよりも却つて、綴方が綴方の垣の中にとぢこもる如きは、その機能を衰微させる自己矛盾として、むしろ警戒するに価することなのである。貧しさを深刻にかいた綴方があつてくれるやうに、貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ――等といふのは綴方の望む処ではない。貧しさのなくなるやうに、防貧事業や救貧事業が、あるひはもつと根本的な社会事業が、学校の周囲でどしどし(くの字点―引用者)と行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である。即ち、綴方の局外よ。他教科にとどまらず、学校全般、社会全般の批判も、どしどし(くの字点―引用者)と綴方の垣を越えて来てほしいのである。かくしてこそ、綴方はますます(くの字点―引用者)生活組織としての機能を発揮するに便利であらう。(157頁)

〇本論文は、国分によると、「世代の綴方論」としては「消極的駄文」であり、「児童作品批評に於ける若干の解剖」を行う「警告的駄文」(153頁)である。
〇国分は、子どもの綴方に対する教師の批評は、「文芸評論」の影響を受けて、優秀な、見本となる作品などをよしとする「文壇的批評」の傾向にある。そうではなく、個々の子どもの「現実生活」や生活認識などに留意した「教壇的批評」が重要である、と説く。加えて国分は、現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であり、「子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ」という。
〇そして、国分は、生活綴方と社会事業の関係について言及する。国分にあっては、社会事業によって感化されたことを綴方(作文)に書くことは、現実生活から学び、生活行動に生かすことであり、概念的・観念的な教育に比して教育的であり有意義である。すなわち、生活を綴ることで生き方を変えていくのである。また、生活綴方は国語教育にとどまらず、学校教育や校外教育への広がりをもつことによって、子どもたちの社会事業への関心を促すことになる。すなわち、「社会事業が、学校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である」。

〇以上の「1936年論文」において、国分は、当時の文壇的批評に流れる綴方教育の現状に対し、批判的あるいは警告的な立場から論じている。その際、その論拠は必ずしも明確であるとはいえない。また、社会事業による教育・啓蒙とその教育的効果への関心と期待を示している。その際の社会事業の言辞については、観念的・抽象的なものに留まっている。とはいえ、当時、国分は、生活綴方教育の実践や運動において指導的役割を担っていた。そういうなかで、国分の社会事業に関する関心や発言は、青年教師(綴方教師)たちにどのような影響を与え、どのような取り組みを生み出したのか。その前提として、国分がよしとする綴方教師としての「教師像」はどのようなもので、どのような特質をもつものであったか。今後の研究課題とすべきところである。
〇太郎良は、前掲の論考で、「視学等から監視や干渉を受けて、つねに弾圧をおそれていた」国分にあっては、生活綴方教育批判は「視学等の心証を良くするためのものであった可能性がある」(36頁)という。そうだとすれば、国分の社会事業への関心は単に、そのためのものであったのか。そうではなく、ファシズムの常態である公権力による教育の支配・統制が強化されるなかで、それに対抗する教育実践として、「社会改造」を目標とする社会事業に期待したのか。興味のあるところである。
〇なお、国分は、1938年3月に教職を免ぜられた。1941年10月には、左翼的傾向をもつ北方性教育運動(「抵抗としての生活綴方運動」)の関係で警察に逮捕されている。そもそも、軍国主義ファシズム最頂期の1940(昭和15)年には、「治安維持法」(1925年4月公布、5月施行)によって全国で300人を超える生活綴方教育運動の指導的立場にあった教師たちが検挙・投獄されるという大規模な弾圧が起きていた(乙訓稔「国分一太郎の生活綴方教育の理念」『実践女子大学生活科学部紀要』第50号、実践女子大学、2013年3月、52頁)。また、1938年1月に健民健兵政策を推進するために厚生省が創設され、同年4月には人的・物的資源を統制運用するために「国家総動員法」が公布、5月に施行された。それを契機に、社会事業は戦時厚生事業へと変質し、戦時体制の枠組みに組み込まれていく。
〇いずれにしろ、国分が社会事業の教育的効果に関心を示したことについては、個人的にも時代的にも厳しい状況に追い込まれていったこととの歴史的文脈・関係性のなかで考究する必要があろう。国分は、1943年7月に判決が下される過程で「転向」を余儀なくされている。国分の社会事業への関心とその呼びかけは、生活綴方教育批判を行うなかでの、「抵抗」「転向」あるいは「偽装転向」としてのそれであったのか。綴方教師たちはその点をどのように受け止め、どのような社会事業的な教育実践に取り組んだのか。それとも、綴方教師に対する弾圧が強まるなかで、取り組むことができなかったのか。あるいは、教育現場の綴方教師たちは、国分の呼びかけに対して端(はな)から一顧だにしなかったのか。それらを歴史的・実証的に明らかにすることが求められよう。

〇周知のように、敗戦後の生活綴方教育は、1950年7月の「日本綴方の会」(1951年9月「日本作文の会」と改称)の発足や、国分の『新しい綴方教室』(日本評論社、1951年2月)、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)等の刊行などを契機に復活・興隆する。そして、1950年代前半にひとつの頂点を迎える。それは、戦後の新しい教育(教育の民主化)のなかで、戦前の生活綴方教育を継承・発展させようとするものであったと評される。そこでは、貧困からの脱出が最重要課題とされたが、具体的に「現実生活」がどのように把握され、「生活教育」がどのように規定されていったのか。綴方教師によって「社会事業的」な教育実践は展開されたのか。「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続」に関する研究課題のひとつである。

〇以上の考察を踏まえ、本史料の今日的な位置づけを総括すれば、こうである。すなわち、本稿で翻刻・解題した国分の「1936年論文」は、生活綴方教育運動がファシズムという外部圧力と内部的な閉塞感に直面する時期の苦悶を象徴する史料である。国分が提唱した「社会事業的教師」への転換は、単なる綴方指導の技術論ではなく、冷厳な社会矛盾に直面する子どもたちの「現実」を前に、教育がいかにして実効性を持ち得るかという、教育の存立根拠(教育の社会的責任)を問う切実な叫びであったといえる。
〇特筆すべきは、国分が「情熱」や「知性」といった内面的な人道主義を「自嘲的」に退け、社会政策的見地に基づく「行動」と「社会改造」を強調した点である。これは、教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続させようとする「教育福祉」的な視座の萌芽を明確に示している。通説では戦後を起点とする福祉教育の歴史に対し、本史料は、戦前の北方性教育運動のなかに今日の福祉教育に通底する「実践の深層」(思想的伏流)が存在したことを実証的に基礎づけるものであろう。
〇今後の課題は、この国分の呼びかけが、当時の草の根の綴方教師たちによっていかに受容され、あるいは変質し、戦時厚生事業へと回収されていったのか、その「変容のプロセス」を実証的に追うことにある。さらに、戦後の生活綴方教育の興隆期において、これらの「社会事業的」視点がどのように継承・再編されたのかを明らかにすることで、戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続性を体系化しなければならない。
〇政治と教育の距離が再び緊密化し、社会の分断が深化する現代において、80余年前の国分の問いかけは看過できない重みを持っている。教育が「社会の矛盾がなせる業」を直視し、単なる精神論に陥ることなく、いかにして具体的な「社会の改善」に寄与し得るか。この歴史的教訓を掘り起こし、現代の「まちづくりと市民福祉教育」のあり方へと還元していく作業こそが、本研究が真にめざすべき地平である。

Ⅲ 生活教育論争の止揚

〇周知のように、1937年5月に「教育科学研究会」を結成した城戸幡太郎と留岡清男は、雑誌『教育』(第5巻第10号、岩波書店、1937年10月)において生活綴方教育批判を行った(1938年「生活教育論争」の発端)。「綴方教育は児童の生活を理解し、生活態度を自覚せしむることはできるが、彼等の生活力を涵養することはできぬ。彼等の生活力を涵養するには彼等の生活問題を解決することのできる生活方法を教へねばならぬ」(城戸幡太郎「生活学校巡礼」48頁)。「生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教師の鑑賞に始まつて感傷に終るに過ぎない」(留岡清男「酪聯と酪農義塾」60頁)、がそれである。こうした手厳しい批判に対して、「社会事業的教師」(綴方教師)たちはどのように反応し、どのような新しい教育課題を見出し、またどのような教育実践を展開したであろうか。
〇1930年代後半に展開された「生活教育論争」をめぐって、一言するとこうである。まず、城戸や留岡が提唱した「生活方法の教育」は、科学的・合理的な知性によって生活上の困難を克服する「技術」や「組織化」を重視するものであった。留岡の酪農教育実践に象徴されるように、それは貧困という客観的課題に対し、いかに生産性を高め、合理的な生活習慣を確立するかという「生活力の涵養」に力点が置かれている。福祉的観点からいえば、これは「自立助長」のための機能的アプローチであり、現代の社会福祉における「エンパワメント」や「社会資源の活用術」の先駆形態と評価できる。
〇それに対して、国分が提唱した「社会事業的教師」は、そのベクトルが異なる。国分は、生活綴方教育が陥っていた「鑑賞」や「感傷」を自嘲的に退けつつも、城戸らが批判した「現実の凝視」をあえて社会事業の「態度」へと接続させた。ここでの「福祉的」独自性は、以下の2点に集約される。
(1)社会矛盾の構造的覚知としての綴方
〇城戸らが生活の「改善(技術)」を求めたのに対し、国分は綴方を通じて「社会の矛盾がなせる業」を直視し、それを「社会政策的見地」へと昇華させることを求めた。これは、単なる生活技術の習得を超え、自己の苦難を社会構造の問題として捉え直す「意識化」のプロセスである。
(2)伴走者としての教師像
〇 「生活方法の教育」における教師が指導者・技術伝達者であるのに対し、国分の説く「社会事業的教師」は、村の貧困と矛盾のなかに身を置き、子どもとともに苦悩を共有しながら、社会制度の不備を告発しようとする「アドボカシー(権利擁護)」の萌芽を含んでいる。
〇すなわち、城戸らが「生活の科学的解決」をめざす合理的・システム的な生活改善(自立助長)に近い立場であったとすれば、国分は綴方というメディアを介して、生活者の沈黙を社会的な声へと変えていく草の根のエンパワメント・モデル(主体形成)を模索していたといえる。この相違こそが、社会の矛盾を直視し、子どもの生活実態を記述することで自己や社会を変革しようとした国分らの独自性であり、現代の「まちづくりと市民福祉教育」へと通底する重要な源泉となっている。

Ⅳ おわりに
―戦前と戦後を貫く伏流―

〇本稿では、国分が1936年に示した「社会事業的教師」という概念に焦点を当て、その思想的背景と福祉教育史における意義を検討してきた。ここで改めて強調すべきは、国分が求めた「社会事業家としての態度」が、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)の再定義であったという点である。
〇国分は、教室という閉鎖的な空間で「内面的な真実」を綴らせることに安住する教師のあり方を、あえて「自嘲」という形で否定した。彼が「社会政策的見地」を呼びかけた背景には、子どもたちの背柱湾曲や多産・貧困といった「身体的・経済的剥き出しの現実」に対し、既存の教育学が十分な回答を持ち得なかったことへの危機感があった。この「教育の無力」を直視したところから、地域の社会構造へと介入しようとする「社会事業的」な志向が芽生えた事実は、後の福祉教育にも通底する「学習の外化(社会化)」への鋭い感受性が、すでにこの時期の国分のなかに備わっていたことを示唆している。これは、当時の社会事業側からの教育への接近ではなく、教育側からの社会事業への主体的越境である。
〇また、本稿で触れた城戸・留岡らとの「生活教育論争」の視点から言えば、国分の独自性は「生活方法(技術)」の提供に留まらず、綴ることを通じて自己の生活を「社会的な文脈」で読み解き、社会構造の変革を図る変革主体へと脱皮していくプロセスの萌芽を宿していた点に求められよう。これは現代の福祉教育が掲げるべき「まちづくりと市民福祉教育」のテーマに近接している。今後の課題は、この国分の「叫び」が、当時の現場教師たちにいかなる「沈黙の抵抗」あるいは「実践の変容」をもたらしたかを、より具体的に実証することである。戦時下の「厚生事業」への回収という歴史的断絶がある一方で、戦後の『山びこ学校』等に見られる「村を綴る」営みのなかに、いかなる形でこの「社会事業的視座」が潜流として継承されていたのか。
〇戦後80年を過ぎ、今また「教育の政治的中立」や「自己責任論」が強調されるなかで、教育が社会の矛盾を「自分事」として引き受ける態度は、一層の重要性を増している。国分が1936年に示した、弱者の傍らに立つ「伴走者」としての教師像を掘り起こす作業は、単なる懐古的な歴史研究ではない。それは、現代における「市民福祉教育」が、単なるボランティア体験の推奨を超え、いかにして「社会を変革する主体」を育み得るかという地平を切り拓くための、不可欠な知的営為なのである。
〇以上を総じて言えば、本稿の検討から明らかになった点は次の通りである。 第1に、「社会事業的教師」とは、単なる教育技術の行使者に留まらず、社会の矛盾に対する構造的な認識に基づき行動する主体として構想されていた点である。 第2に、そこには戦後の福祉教育に通底する「変革主体」としての主体形成論の萌芽が見て取れる。 したがって、国分の「1936年論文」は、断絶として語られがちな戦前と戦後を、福祉教育思想の地平において架橋するものである。それは同時に、現代における「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を探究するための、不可欠な歴史的準拠枠を提供するものであると言えよう。

補 遺
―歴史的具体的生活課題と向き合う「主体」の原像―

〇戦後の生活綴方教育の金字塔と評されるものに、前述した無着成恭のいわゆる「山びこ」実践がある。「『山びこ』実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。(中略)『山びこ』実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった」(奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会、2016年2月、70頁)。
〇本稿の補遺としてあえて、無着成恭編『山びこ学校』に収められている江口俊一の生活綴方「父の思い出」の一節を引いておきたい。

みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいのかわからなかった。(28頁)

〇ここで綴られた「誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」という困惑は、個人の内面に閉ざされた悲しみではない。それは、自身の生活を破壊した不条理な力(戦争・国家・政治)の正体を突き止めようとする、切実な「認識の萌芽」である。

引用・参考文献
(1)奥平康照(2016)『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会。
(2)国分一太郎(1951)『新しい綴方教室』日本評論社。
(3)佐野眞一(1992)『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』文藝春秋。
(4)津田道夫(2010)『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社。
(5)中内敏夫(1970)『生活綴方成立史研究』明治図書。
(6)無着成恭編(1951)『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』青銅社。

【初出】
阪野貢「『生活綴方教育と福祉教育』に関する研究への端緒:国分一太郎の1936年論文―資料紹介―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2015年5月12日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開 ―“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスとプログラム編成の視座―

「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開
―“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスとプログラム編成の視座―

はじめに

〇「市民福祉教育」の理論を空理空論に終わらせず、実効性のある「まちづくり」へと結び付け、実践知へと昇華させるためには、科学的・体系的な「計画化」のプロセスが不可欠である。
〇筆者が本格的に「福祉教育」実践と研究に足を踏み入れた嚆矢は、東京都狛江市の社会福祉協議会(以下、「社協」と略す)における取り組みであった。それは、地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」)の策定(1990年3月)であり、その中核事業である “あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代という早い段階で福祉教育を「まちづくり」の不可欠な基盤として位置づけたものであった。この計画策定と「成人を対象にした体系的福祉教育実践」を主導したのは、大橋謙策である。大橋は、その取り組みについて次のように評価する。

狛江市の実践は、東京という大都市のベットタウンである狛江市の地域属性、市民属性を考えて、機能的な生涯学習の視点から福祉教育実践を進めようとして試みである。この実践は東京都三多摩地区で1960年代から70年代において豊かな実践を展開した「市民大学構想」に学んだもので、それを単なる言語能力を媒介とした知的認識を高めための内容にせず、できれば問題発見・問題解決型の学習方法を取り入れることにより、新しい福祉教育実践の展望を切り開こうと考えて、基礎課程、実技課程、専門課程といった体系化が考えられた。その方法も、社会教育実践で展開されてきたシステムを活用した。成人に対する福祉教育といえば、単発の福祉講演会が中心の中で、このような体系的、組織的実践が展開されていることは高く評価されてよい(『福祉教育モデル事例集 地域に広がる福祉教育活動事例集―福祉教育の考え方と実践方法・先進的事例に学ぶ―』全社協・全国ボランティア活動振興センター、1996年3月、85頁)。

〇本稿では、狛江市社協における“あいとぴあカレッジ”の実践を事例として、「市民福祉教育」がいかに計画化され、「福祉のまちづくり」の基盤として構造化されていったのかを実証的に解明することを目的とする。研究手法は、ケーススタディ(事例研究)に依拠し、分析対象である“あいとぴあカレッジ”を地域福祉計画に基づく体系的な福祉教育実践として位置づけ、その立案過程および実施過程に関する一次資料(会議記録、事業計画書、学習プログラム等)に基づき分析を行った。また、本研究は単なる記述的分析に留まらず、実践の過程に内在する計画原理や構造を抽出し、理論化を試みる実践研究としての性格を併せもつものである。
〇本研究の位置づけをより明確にするために、いま少し、先行研究との関係を整理しておきたい。従来の福祉教育研究は、大きく①実践事例の記述的蓄積、②教育内容・方法に関する実践論的検討、③地域福祉との関連を論じる理論的研究、の3つの系譜に整理することができる。しかしながら、これらの研究の多くは、福祉教育を「事業」あるいは「活動」として把握するに留まり、それがいかに計画化され、地域福祉計画のなかで構造化されるのかという「計画過程」そのものの分析は必ずしも十分ではなかった。とりわけ、住民の生活課題や学習要求が、いかなるプロセスを経て学習プログラムへと編成され、さらにそれが「まちづくり」実践へと接続されるのかという動態的連関については、理論的にも実証的にも未解明な部分が多い。このような問題関心に基づき、本研究では、“あいとぴあカレッジ”の実践を対象として、①福祉教育がいかに計画化されたのか、②その計画化プロセスはいかなる構造をもったのか、③それがいかに地域における「まちづくり」へと展開されたのか、という3点を中心的な分析課題として設定する。これにより、市民福祉教育を単なる教育実践ではなく、地域変革を志向する計画的・構造的プロセスとして理論化することを試みる。
〇なお、「あいとぴあ推進計画」の策定は、1988年7月4日開催の第1回運営委員会、同年7月19日開催の第1回作業委員会からスタートした。また、 “あいとぴあカレッジ”の「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われたのは、1991年5月9日であった。翌1992年度から、「実務課程」がカウンセリング(相談活動者)コース、ホームヘルプ(家事・介護援助者)コース、コミュニケーション(初級・中級手話)コースの3コース制で開講された。基礎課程は、2000年度第11期で終了し、修了者は累計209名を数えた。実務課程は1999年度をもって終了した。その後、狛江市社協は、2002年度に小地域福祉活動の推進を企図した“あいとぴあカレッジ”の地域版を実施し、また2004年度から2009年度にかけてマネジメントコース(課題解決実践講座)を展開した。2018年度からは、市委託事業として「福祉カレッジ」を運営している。
〇ちなみに、“あいとぴあ”とは、7万市民の“であい” “ふれあい” “ささえあい”を示す三つの“あい”とユートピア(理想郷)の合成語で、狛江市民が主体となって進める「福祉のまちづくり」の基本精神の意味が込められている。

Ⅰ 福祉教育計画の意義と役割

〇福祉教育は、すべての地域住民の生命と生活を守り、人間的な発達と自立を保障する地域・社会を創造するために、住民がその主体となって家庭・学校・企業・地域などの場で展開する教育・学習活動の総体をいう。したがって、福祉教育活動は、単なる社会福祉に関する知識や技術の伝達活動ではない。啓蒙や宣伝活動でもない。また、教化活動でもないし、そうであってはならない。それは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした、住民の内発的な意欲に基づいた、住民による自己教育・相互教育活動として展開される。その際、住民は、学習主体であるとともに教育主体でもあり、学ぶことを通して教え、教えることを通して学ぶ。換言すれば、住民は、相互に学びかつ教え、教えかつ学ぶという関係を通じて福祉文化の創造や福祉のまちづくりを進めるのである。福祉教育計画とは、地域住民がこのような福祉教育活動を自発的・主体的に創造し、展開していくための計画をいう。そして、計画そのものを練りあげていく主体は、あくまでも地域住民である。また、その取り組みは、そのまま同時に福祉教育の実践であり、運動でもある。
〇ところで、例えば、社協による福祉教育事業・活動は、従来、無計画に、あるいは単なる思いつきや経験などによって、しかもせいぜい単年度計画によって実施・展開されてきたといってもよい。そういった事業・活動に科学性・客観性・体系性を与え、また事業・活動を継続的に安定化させるものが福祉教育計画である。また、福祉教育計画は、一定地域内での福祉教育事業・活動を計画化の対象とする地域計画であり、かつ総合的な計画である。その際、福祉教育計画は、あくまでも地域計画としての福祉教育計画であり、地域の総合計画ではない。また、「総合的」とは、①計画内容として、事業計画、施設整備計画、マンパワー計画、財政計画を含む。②教育の3領域と呼ばれる家庭教育、学校教育、社会教育を生涯学習の視点から有機化・再編成する。③行政をはじめ、地域内の公的機関や民間機関、それに住民団体などとの連携・協働を図る。④福祉・教育・保健・医療などの関係行政、施設、機関の連携・統合化を図る。⑤長期・中期・短期あるいは単年度計画など、一定の見通しを立てる、といった意味である。
〇以上を要するに、福祉教育計画の策定の意義は、福祉教育事業・活動の総合化、科学化、体系化、継続化、それに合意形成などにある。また、その主な役割は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした住民の自発的・主体的な福祉教育活動を担保することにあるといえよう。

Ⅱ 福祉教育計画の内容と策定方法

1 福祉教育計画の内容
〇福祉教育計画は、一般的・基本的には、①事業計画、②施設整備計画、③マンパワー計画、それに④財政計画の4つの計画から内容構成される。①事業計画は、福祉講座・講演会・行事などの諸事業の開催や福祉広報・啓発事業の実施に関する計画、②施設整備計画は、施設、設備、教材・教具などの開発、整備、活用に関する計画、③マンパワー計画は、福祉・教育・保健・医療などの関係職員、社会福祉サービス利用者、一般市民、ボランティアなどの開発、育成、活用に関する計画、④財政計画は、財源の確保や運用に関する計画、をそれぞれいう。これらのうち、基本をなすのは事業計画である。そして、福祉教育計画は、まず事業計画が策定され、次いでその事業展開に必要な施設整備計画とマンパワー計画が策定され、その3つの計画を裏うちするための財政計画が策定されて計画が構造化される。
〇①事業計画(シゴト)の策定は、単なる思いつきや経験、勘(かん)、あるいはこれまでの慣習などによって立案した福祉教育事業を羅列することではない。また、事業数の多さや事業の種類の多様さを誇るものでもない。福祉教育の目標に照らした有意義な事業を精選し、それら各事業の相互の関連づけを行うとともに、重点的な事業を中核に事業の構造化を図ることが肝要となる。
〇②施設整備計画(モノ)は、住民の生活実態や学習要求、地域の教育や社会福祉に関する将来構想に裏づけられたものでなければならない。しかも、福祉教育振興についての長期的なビジョンのもとに策定されなければならない。その際、学校、公民館、社協、社会福祉施設などで現に行われている福祉教育の諸事業・活動や諸形態を生涯学習の視点で捉え、見直し、再編成し、その有機化・統合化を図ることが必要かつ重要となる。
〇③マンパワー計画(ヒト)については、まず、自分のもっている知識や技術、能力や経験を地域住民のために提供しようという住民――“まちのために自分の知恵や腕を貸そう”という住民を発掘、確保し、またそういった住民を助言者や援助者として養成・研修するための計画が必要かつ重要となる。また、社協職員は、側面から住民の福祉教育活動を助長・奨励し、方法論的・技術論的に助言・援助することを本務とするが、その際、側面的援助活動の中枢をなすものは学習情報の提供と学習相談である。社協職員には、学習情報の収集・処理・提供に関する知識と技術を有し、学習の内容や方法について専門的に助言・援助しうる能力が求められる。そして、こういった知識や能力をもつ社協職員の養成・研修計画や配置計画が必要となる。
〇④財政計画(カネ)は、福祉教育計画に現実性・実質性を与えるものとして、計画を空文化させないためにも必要不可欠である。その際、継続的・安定的な財源確保を図るために、科学的な現状分析と長期的な見通しをもった財政計画を立てることが求められる。すなわち、財政計画は、長期的に健全な財政構造が維持されながら、事業・活動が円滑に、効率的・目的的・生産的に経営され、その目標が達成されていくものでなければならない。
〇なお、こういった内容をもつ福祉教育計画は、単年度で完結されるものではない。一般的には中・長期にわたるものが策定され、その複数年度計画のなかから各年度の単年度計画が策定されることになる。中・長期の見通しを欠いた単年度の福祉教育計画は、体系性や計画性、必然性や説得性の弱いものになる。

2 福祉教育計画の策定主体
〇以上のような福祉教育計画の策定主体は、種々の学習要求や学習必要をもつ地域住民である。住民主体による計画策定がなされない限り、いかに建設的で理想的な計画が策定されたとしても、それは決して本来の意味での福祉教育計画であるとはいえない。しかし、福祉教育計画の主体は地域住民であるとはいえ、一部に傑出した住民が存在するものの、計画策定のための力量を備えた住民は極めて少ないといわざるをえない。そこで、現実的、実質的には、計画策定に際して社協が中核的・先導的役割を担うことになる。また、行政には、住民が主体的・能動的・自律的に福祉教育計画を策定することができるよう環境醸成や条件整備を図り、側面的援助を行うことが求められる。とりわけ社協職員には、計画策定に当たって、住民の主体性・自律性を損なわないように専門的・技術的に助言・援助するとともに、個々の住民の声が実質的に計画に反映されるよう配慮する特別重大な役割を果たすことが期待される。しかし、社協職員は、必ずしも計画策定についての科学的・専門的な知識や技術を有しているとはいえない。そこで、計画策定能力をもつ社協職員の養成・研修や適正配置が焦眉の課題となる。

 福祉教育計画の策定過程と方法
〇計画は、通常、Plan→Do→See という手順で進められる。教育計画とりわけ福祉教育計画に関する限りは、そうした考え方ではその計画は空論化し、画餅に帰しやすい。福祉教育計画は、See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)というサイクルで進められなければ実効性のあるものとはならない。
〇すなわち、福祉教育計画を策定する場合、まず現行の福祉教育事業・活動を洗い出して現状と課題を明らかにするとともに、住民の福祉意識や社会福祉に関する学習要求や学習必要について調査検討することからはじまる。そのうえで、次に、目標の設定を行う。目標は、単に夢や理想を語ったものではない。また、スローガンを掲げたものでもない。目標を設定する際には、そのシゴト(事業)の実現可能性をはじめ重要性、緊急性、効率性などを考慮して設定されなければならない。目標が設定されれば、その目標を達成するために必要なモノ、ヒト、そしてカネなどの手段が選択され、その組み合わせについて検討されることになる。以上をより具体的・実際的にいえば、福祉教育計画は、①目的の設定、②目標の明確化、③現状に関するデータの収集、④目標達成のための合理的な手段の選定、⑤事業・活動の展開、そして⑥計画の評価、というプロセスをたどるのである。
〇①福祉教育における目的は、最終の到達点をいうが、一般的には曖昧で抽象的・理念的なものにならざるをえない。しかし、目的を具体的に表現した②目標は、抽象度を下げ、明確化を図ることが必要かつ重要となる。さもないと具体的な計画策定が不可能となり、また目標を達成するための手段の選定が困難になる。また、計画目標は、実現可能なものであり、焦点化され、しかも構造化されていなければならない。すなわち、抽象的・総花的で焦点の定まらない、しかも実現性の乏しい目標の設定は問題があり、無意味でもある。③現状に関するデータの収集については、意図的・計画的・系統的に計画策定のための基礎的データを収集することが肝要となる。しかも、数量的調査のみならず、多様な形態と方法を駆使して地域住民の生活課題や学習要求などを捉えることが必要である。単発的なアンケート調査だけによる資料収集では、内実をともなった福祉教育計画の策定は困難である。④目標達成のための手段は、目的合理的に選定・決定されなければならない。単なる思いつきや先進地域での実践例の模倣では意味がない。福祉教育計画は、本来、地域の歴史や特性を基盤に、地域住民自らの創意と工夫、そして努力によって策定される個性的なものである。⑤各種の事業・活動には、個々ばらばらにではなく、常に相互の関連性のもとで展開されることによって有意義な成果を期待することができる。そして⑥計画の評価は、目的や目標と裏はらの関係にあり、計画策定過程上、極めて重要である。そして、まずは設定した目標がどの程度達成され、どのような結果・成果があったかを見極めることがポイントになる。また、評価は、より整備された次の段階の計画策定を動機づけ、方向づけるために行われるものである。
〇以上の①から⑥のうち、福祉教育計画の策定過程上その心臓部分にあたるのは、②目標の明確化である。計画目標の設定に際しては、①地域住民の生活実態と生活課題や地域課題、②住民の学習要求と学習必要、それに③地域のさまざまな学習機会の供給実態などについて的確に把握することが必要かつ重要となる。
〇まず、①住民の生活実態については、地域の歴史や特性に留意し、地域を展望し、将来予測を含めた生活実態を把握する必要がある。生活課題や地域課題については、それを生み出す生活構造や社会構造とのかかわりで把握すべきである。②住民の学習要求は、現実的には住民の学習関心や学習の傾向について把握するなかで捉えることができる。その際、住民の生活実態や生活課題・地域課題とのかかわりで把握することが肝要となる。また、学習要求は、今日、高学歴化や情報化の進展によってますます多様化し、高度化しているが、住民自身によってまだ意識化、課題化されていないものもあることに留意する必要がある。そして、その学習要求の内容をいかに実証的に明らかにするかが問われることになる。一方、学習必要は、住民にとって社会的・発達的・教育的に学習が必要とされるものをいう。何を学ぶべきかについては、福祉のまちづくりや福祉教育、その計画策定などについての基本的な考えが問われることになる。この学習要求や学習必要は、そのすべてがそのまま現実の事業計画の内容とはならない。両者は福祉教育というフィルターを通して整理され、重要性・緊急性・日常性・共通性・適時性などの視点からプライオリティ(優先度)をつけて選択・精選され、課題化され、そして事業化されることになる。また、仮に学習必要だけで事業計画が立案された場合は、住民に強制感や疎外感を与え、住民に支持されるものとはならないことに留意する必要がある。③地域の学習機会の供給実態については、社協や社会福祉施設などによる福祉講座や講演会などの開催状況、公民館や図書館などにおける社会教育活動の現状、それにカルチャー・センターをはじめとする教育・文化産業の動向などについて総合的に明らかにする必要がある。そして、それらの相互の連絡・調整を含めた計画策定が求められる。

Ⅲ 福祉教育事業計画の立案の手順と視点

〇福祉教育事業計画とは、福祉教育の全体計画(総合計画)の基本を構成するものであり、例えば福祉学級・講座や福祉講演会、福祉映画会、福祉祭りなどの実施計画をいう。それは、事業の名称をはじめ実施目的、実施主体、実施期間や時間、実施場所、学習者や参加者、講師や指導・助言者、学習目標、学習内容や方法、それに経費などを構成要素とする。それぞれの福祉教育事業計画のなかで学習課題(主題)や学習内容・方法、学習の展開過程などについて詳細に計画・立案したものを、福祉教育における学習プログラムという。それは、学校教育に即していえば、カリキュラムや学習指導案に相当する。そして、福祉教育計画と事業計画、それに学習プログラムの3者は、密接不可分の関係にあり、また福祉教育計画→事業計画→学習プログラムという順に具体化、実体化される。
〇ところで、狛江市社協が策定した“あいとぴあ推進計画”では、重点事業のひとつとして“あいとぴあカレッジ”の開講が構想された。それは、住民が“あいとぴあ”のまちづくりを主体的・創造的に展開するための、その善意の気持ちを有効に活かすための学習(福祉教育)の場として位置づけられた。ここでは、“あいとぴあ推進計画”策定後、“あいとぴあカレッジ”開講に至るまでの狛江市社協や住民の取り組みについて、とりわけ事業計画や学習プログラム立案の手順と視点に焦点をあてて概観し、若干の考察を加えることにする。

1 ボランティア活動推進委員会の設置
〇1990年3月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会によって策定された“あいとぴあ推進計画”が、社協の理事会・評議員会において報告され、狛江市社協が今後取り組んでいく基本計画として承認された。そして、1990年度は、“あいとぴあ”元年として、推進計画そのものの住民への周知・浸透と計画の実施・推進体制づくりが基本方針として定められた。
〇1990年8月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会の発展的解散の後をうけて、在宅福祉推進委員会の組織化について検討する在宅福祉サービス関連事業連絡会とともに、ボランティア活動推進委員会(以下、「推進委員会」と略す)が設置された。推進委員会は、ボランティア活動・福祉教育推進事業の企画・立案を主な任務とし、学識経験者をはじめボランティア、地域住民団体、福祉施設・団体、地域産業、教育機関、行政機関、それに社協などの各関係者27名によって構成された。
〇推進委員会の委員に幅広く関連分野からの参加を求めたのは、各委員のそれぞれの分野での働きかけを通して、“あいとぴあ”市民運動の拡大と深化を期待してのことであった。例えば、ボランティアの生(なま)の声を伝えるために、狛江ボランティア連絡会(1984年4月結成)から3名のボランティアが委員として参加した。その3名は、推進委員会と狛江ボランティア連絡会とのパイプ役を果たした。また、教育の分野では、小・中・高等学校の校長や教頭、それに教育委員会の参加を得て、それが学校における福祉教育推進へのひとつの重要な契機にもなった。推進委員会は、1990年度においては通算3回開催されたが、委員が多人数ということもあってか、積極的に協議するというよりは一面では承認機関的なものにとどまった。協議が積極的に行われたのは、推進委員会のもとに設けられたボランティア活動推進委員会企画小委員会(以下、「企画小委員会」と略す)の場であった。

2 “あいとぴあカレッジ”開講のための準備活動
〇第1回推進委員会において、“あいとぴあカレッジ”に関する諸事項の素案づくりを主な任務とする企画小委員会が設置された。企画小委員会は、推進委員会委員長(1名)、同副委員長(2名)、ボランティア(1名)、福祉団体関係者(1名)、中学校長(1名)、教育委員会関係者(2名)、福祉事務所長(1名)、それに社協理事(1名)の計10名の委員によって構成された。そこで検討された事項は推進委員会にもちあげられ、そこでの協議を通して合意形成が図られた。
〇1990年9月には、企画小委員会のなかに作業委員会が設けられた。それは、学識経験者(推進委員会副委員長)と社協事務局職員の4名の委員によって構成され、通算4回開催された。そこでは、“あいとぴあカレッジ”に関する事業計画や学習プログラム立案の基礎的・具体的な作業が、主としてブレイン・ストーミングの討議法で行われた。
〇以下では、各回の企画小委員会において検討・協議されたことを、社協事務局の記録から概観することにする。

1)第1回企画小委員会(1990年9月)
〇“あいとぴあカレッジ”は、狛江という地域で、住民が寄り合って創るカレッジであるという点が再確認され、その考え方をベースにいろいろな意見が出された。例えば、福祉のまちづくりは住民の生活(暮らし)から出発しなければならない。したがって、その担い手の育成・確保を図ろうとする“あいとぴあカレッジ”は、住民の暮らしに密着したものであることが求められる。そこで、講師(指導者)は狛江市内の人材に求め、住民の生きざまに学ぶ。学習資料は、地域の実態や住民の生活現実に根ざした生(なま)の資料に基づく、手づくりのものとする。学習場所(会場)は、市内の小学校の空き教室を有効利用する方向で考えることにし、住民が下駄履きで気軽に参加できるよう配慮する、などが決定された。

2)第2回企画小委員会(1990年12月)
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムを中心に協議された。また、住民の・住民による・住民のためのカレッジであるという視点を生かすために、学習者もカレッジの運営に積極的にかかわれるような「運営委員会」の設置について検討された。その他、学習者が主体的・創造的にかかわれる体制づくりという視点から、開講式以前に第1回の学習日を設け、オリエンテーションを行う。聴講生制度の導入については、聞きたい講座だけ参加する「つまみ食い学習」では福祉のまちづくりは担えないという考えのもとに、見送る。カレッジの学長については、遊び心をもって市内の最高齢者などが候補にあげられたが、“あいとぴあ推進計画”の産婆役を務めた狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会委員長(学識経験者)に依頼する、ことなどが協議、決定された。

3)第3回企画小委員会(1991年1月)
〇“あいとぴあカレッジ”での学習内容や学習方法についての協議、講師団の絞り込み、それにカレッジ案内・募集要項(「あいとぴあカレッジ――入学のご案内」)についての検討などが行われた。席上、市内の人材による講師の講話内容や方法に関し、とりわけ講師が人前で話をすることや現実生活についての自分の思いや願い、悩みや苦しみなどの内面をさらけ出すことの戸惑いなど、いくつかの疑義が提示された。しかし、“あいとぴあカレッジ”は住民が相互に学び合う場であり、講師は、自分の生きざまを話すことによって学習者に住民としての生き方の素材を提供するとともに、自分自身も一人の住民として地域社会に貢献し、また自己実現・自己向上を図る、という基本的理念が再確認された。また、今回の企画小委員会では、学習評価の視点と方法についての検討もなされた。

4)第4回企画小委員会(1991年2月)
〇“あいとぴあカレッジ”の協賛団体の募集や学習者の修了レポートのあり方などについて検討された。また、学習プログラムの具体的な詰めの作業が行われた。そして、企画小委員会としての成案を得た。

〇1991年2月、第3回推進委員会が開催された。そこでは4回にわたる企画小委員会での検討結果が報告され、協議を経てほぼ原案通り“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムが決定された。
〇“あいとぴあカレッジ”の事業計画案や学習プログラム案は、以上のように、作業委員会、企画小委員会、推進委員会のあいだを何度となく往復し、そのなかで練りあげられ、内容の深化が図られていった。また、4つの委員会は、住民参加の場として、あるいは関係機関・団体との連携・協働や合意形成の場としても有効に機能したといえる。さらにまた、各委員にとっては、委員会は学習の場であり、自己実現や自己変革の場であったともいえよう。“あいとぴあカレッジ”の開講にかかわった委員の変革や変容が、“あいとぴあ”のまちづくりの「はじめの一歩」となったのである。

Ⅳ 福祉教育の学習プログラム立案の方法と留意点

〇地域住民による福祉教育において、その学習プログラムの立案は難しい。その主な理由のひとつは、学習者の属性や生活の実状、それに基づく発達課題や生活課題、学習要求や学習必要などがそれぞれ異なるところにある。その点では福祉教育の学習プログラムには定型はなく、学習者の数と同じだけの学習プログラムが準備されなければならないことになる。しかし、現実的には、地域社会の実態や動向などが反映される個々の学習者の多様な生活実態やニーズから、共通する、統合されるプログラムを立案・編成することになる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムの立案に際しては、“あいとぴあ”のまちづくりのための学習の方向づけや内容づけがなされたことはいうまでもない。しかし、その際、住民に対する学習要求調査に基づいて住民が必要とする学習項目や学習課題を探り出すという手法は採られなかった。また、主な、中心的な学習者(参加者)を想定・決定し、そのうえで学習者の生活実態や学習要求を把握するということもなされなかった。その点においては、限界のあるプログラムであったといわざるをえない。とはいうものの、立案・編成に際して、基本的なところではとりわけ次の4点について認識され、留意されたことについては注目しておきたい。

〇(1)学習プログラムの立案に際しては、「はじめに学習者ありき」という認識が重要である。しかも、その学習者を地域生活主体として捉え、その立場に即したプログラムの立案・編成が求められる。すなわち、個々の住民が現実的に抱える生活課題や学習要求、それに狛江市の歴史的社会性や地域性に基づく生活課題や地域課題などに焦点をあてた、実際的で実践的な学習活動の展開が必要かつ重要となる。
〇(2)学習プログラムは学習活動の単なる日程表や予定表ではない。それは、学習者のモラールを引き起こし、高めることができるものでなければならない。学習プログラムづくりとは、地域住民の生活や学習に関する考えや思い、願いなどをプログラムという形に具体的に表現することに他ならない。その際、手づくりの、手のこんだ学習活動が自主的、主体的、そして自律的に展開されるよう工夫し、配慮することが求められる。
〇(3)地域住民による学習は、地域生活に発し、地域生活に帰す。“あいとぴあカレッジ”における学習は、個々の住民に始まって個々の住民に帰るだけでなく、その成果が地域に還元されることが期待される。その際、地域への還元は、学習者自身の高まりや深まりなくしてはありえない。知識の単なる蓄積は態度の変容を促さないともいわれる。その意味からも、関心と感動を引き起こすプログラムの編成が求められる。
〇(4)“あいとぴあカレッジ”は、狛江市に暮らす住民を対象とするカレッジ(講座)ではなく、住民を主体とするものである。また、その学習プログラムは、住民の・住民による・住民のための、手づくりのものである。したがって、学習プログラムを立案・編成する過程そのものが重要となる。それ自体がすでに学習すなわち福祉教育の過程であり、“あいとぴあ”のまちづくりの過程でもある。

〇ところで、福祉教育の学習プログラムには、社会教育におけるそれと同様に、一般的には、「事業名」「主催者」「学習対象」「学習期間」「学習時間」「学習回数」「学習場所」「学習目標」「学習テーマ」「学習内容」「学習方法」「学習資料・用具」「指導・援助者」、それに「予算」などの諸事項が内容として含まれる。ここでは、“あいとぴあカレッジ”に関するそのうちのいくつかについて、その立案の方法や留意点などをめぐって論じることにする。

1 学習目標の設定
〇学習目標――学習プログラム全体のねらいは、到達可能なものを具体的に、焦点化して設定し、かつ魅力的なものであることが求められる。抽象的で総花的な学習目標は、学習目標を曖昧なものにし、学習プログラムの編成そのものを困難にする。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習目標は表1のように設定された。そこには、学習活動そのものが福祉のまちづくりの実践や運動の一環であり、またそれへの具体的な参加が自らの生活をより豊かなものにすることに繋がることが示されていた。学習者が学習目標を身近に感じ、学習意欲を高めるためのひとつの工夫であった。

表1“あいとぴあカレッジ”の学習目標

2 学習テーマの設定
〇学習テーマは、学習プログラムの「顔」にあたるものであり、学習日ごとの学習内容を包括的に表現したものである。それは、学習者に対しては学習する概要を示すものであり、指導・援助者に対しては指導・援助すべき概要を提示するものである。そこで、学習テーマは、学習内容を的確に要約しているとともに、学習者が親近感や学習意欲をもちうるような、また学習の内容や方向を容易に想起し理解しうるようなものでなければならない。そして、また、学習者の属性や生活の実状などに適合し、指導・援助者には具体的な指導・援助活動の助けになるようなものであることが望まれる。すなわち、学習テーマは、課題性、親密性、それに具体性の高いものが望ましいといえる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習テーマは表2のように設定された。それは、“あいとぴあ推進計画”策定過程で、1989年9月に開催された第1回市民懇談会における分科会テーマをベースにしていた。その設定に際しては慎重を期し、とりわけその表現には工夫を凝らした。すなわち、学習者を引きつけ、学習者に受け入れられるよう、日常的、具体的、魅力的で平易な表現に心をくだいたのである。

表2“あいとぴあカレッジ”の学習テーマおよび学習内容

3 学習内容の選定
〇学習内容は学習目標を具現化したものである。プログラムに盛り込む学習内容の選定に際しては、いわれるように学習内容の種類の単純化と分量の少量化を図ることが肝要となる。多様な種類の学習内容が多量に盛り込まれると、学習者は消化不良をおこし、学習の疎外感や挫折感を味わうことにもなる。学習内容の種類と分量の単純化、少量化によって、学習者は成就感や達成感、充実感などを味わい、学習活動への取り組みを積極的なものにする。さらにまた、次の学習活動への参加を促すことにもなるのである。
〇学習内容がもたらす教育的効果は、その配列の仕方によって左右される。学習内容の配列は学習活動を持続、発展させるうえで重要である。そこで、まず、学習活動への導入をスムーズに行うために、学習者に身近な、日常的・経験的・実際的な学習内容をもつものが配置される。そのうえで、内容配列には連続性と発展性、系統性、それに常に流動的に対処しうる弾力性、柔軟性などをもたせることが肝要となる。また、適切なところに「遊び」や「ヤマ場」の部分をバランスよく配列することが求められる。それによって、プログラムはより豊かなものになり、立体化・構造化する。そして、また、学習者にはゆとりや充実感、向上心などを与え、積極性を生むことにもなる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習内容は表2のように選定、配列された。その学習プログラムは、単なる「福祉のまちづくり概論」や「社会福祉概論」を講じるための、いわゆる一般教養的学習を行うためのものではなかった。福祉のまちづくりの主体形成をいかにして図るかという観点に立ち、大きな学習課題のもとに立案・編成された。そして、その内容は、福祉のまちづくりについて歴史的・社会的に学習する「総論」、現実の個々の生活場面に即して学習する「各論」、それにまちづくりのための具体的な方法や技術について考え、その習得を図る「方法論」の3つの部分から成っていた。その結果、それは、学習内容が広範囲にわたり、一面では総花的なものになった。また、必ずしも十分には学習成果を日常生活につなげ、現実の生活課題の解決にせまりうるものにはならなかった。すなわち、学習成果の実践化や生活化への配慮が不十分であったともいえる。“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムは、学習の深まりに応じて基礎課程→実務課程→専攻課程と進む段階別編成がなされ、累進的体系化・構造化が図られていたが、上述の点は基礎課程における学習プログラムのひとつの限界であった、といえようか。

4 学習方法の選択
〇学習方法は、現実的には、学習の目標や内容をはじめ、学習者の属性や意識・意欲、指導・援助者の関心や能力、学習資料や用具、学習の時間や場所など種々の条件によって選定、決定される。学習の効果を高めるためには、単一の学習方法にこだわらず、多様な学習方法を有機的・立体的に活用・多用し、場合によっては視聴覚的手法などを併用することも求められる。学習方法には「講義」「討議」「話し合い」「発表」「実技」「実習」「調査」などがあるが、適切な学習方法を選択することは学習者の学習内容の理解を助け、認識を深め、学習効果を高めるだけでなく、学習者の学習への興味や関心、意欲などを持続させたり学習集団を維持させるためにも必要かつ重要となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、「講義」「討議」それに「実習」を中心にしながらも、「見学」や「話し合い」「発表」など学習者の主体的・能動的な活動を促す方法が採用された。また、学習を補強し、学習内容の高度化を図るために、ビデオでの視聴も組み込まれた。それらのうち、例えば「見学」は、現実生活に直面しながら学習課題にせまることができるという点においてメリットがあった。「話し合い」では、学習者の体験や主観・実感のレベルにとどまらないよう留意された。また、「発表」は、学習者が「胸におちてわかる」「身体でわかる」ためにも必要かつ重要であった。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、集会学習として公開の講演会を2回開催した。それは、学習に対する学習者の家族の理解と住民へのPRを意図したものであった。

5 学習資料・用具の選定
〇学習資料(教材)や学習用具(教具)は、学習効果を高めるための重要な要件のひとつである。学習資料や用具の選定に際しては、学習の目標や内容、方法に対する適切度、学習者の属性や日常的な地域生活との緊密度、それに指導・援助者の学習資料や用具に対する熟知度などとの関連が重視される。そして、種々の学習資料や用具を整備し、有効に活用することが求められる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習資料に関しては、まず指導者(講師)に、指導者相互の事前打ち合わせを通してレジュメと資料の提示を求めた。そして、それを、「受講生便覧」「学習ノート」「学習資料」から成る冊子(『AITOPIA COLLEGE』B5判、52ページ)にまとめ、学習者に第1回開講日の「オリエンテーション」時に配布した。また、学習者に対しても、新聞・雑誌・広報紙などの関連記事や身近な住民の「生きざま」など、地域のさまざまな、生(なま)の資料を入手し、それを学習資料化することが求められた。その作業は、学習者にとってはそれ自体がすでに学習活動であり、また学習に迫力をもたせることを意図してなされた。

6 指導・援助者の活用
〇学習活動の展開とその深化・高度化には指導・援助者は欠かせない。学習目標を達成するためには、そのための意欲と能力をもつ指導・援助者が必要不可欠となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、講師(指導者)については、原則的には著名度や専門度で選定することは避けた。また、できる限り狛江市内から人材を発掘することにし、とりわけ福祉のまちづくりのための実践や運動に参加している一般住民の活用を図った。その理由のひとつは、学習内容の生活性や地域性を期待するとともに、学習者の学習活動やその成果の体験化、生活化、地域化を容易にすることにあった。講師の講話(レクチュア)については、学習活動の方向を定めるものではなく、あくまでも学習者の自主的・主体的な学習活動を誘発させ、持続、発展させるための補助的な役割を果たすものとして位置づけられた。すなわち、講師にはいわば話題提供者としての役割が期待され、学習を結実させ、具体化するのはあくまでも学習者自身であるとされた。また、講師は、一人の住民として、その活動を通して社会的貢献と自己実現・自己向上を図ることが期待された。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、学習者の学習活動が自主的・自発的に展開され、講師への依存度を少なくするよう、学習活動全般にわたって集団的あるいは個別的な助言・援助を行うチューター(学習援助者)を配置した。チューターには社会福祉系大学院の学生3名に依頼し、学習者と講師のあいだにあって、個々の学習者に対して、あるいは学習者内のリーダーを有効に活用して、たえずその援助性を発揮することが求められた。
〇なお、講師とチューターには、学習者が自主的・創造的な学習活動を展開しうるよう、学習内容や方法などについて協議を重ねることが求められた。また、彼・彼女らには、それぞれの学習指導・援助過程でいかにして「人間」や「生活」、「地域」や「まちづくり」にせまり、切り込んでいくかが問われた。

7 学習時間・場所等の決定
〇学習プログラムを企画・立案する際、時間的要素として、学習の時期、期間、時刻(時間帯)、回数(時間数)などについて検討することが求められる。それらは、地域の特性をはじめ、学習の目標や内容・方法、学習者の属性や生活実態、学習場所の学習条件や地理的条件などとのかかわりにおいて検討され、設定される。また、学習日と学習日の間隔(学習のインターバル)は、学習の習熟度や達成度との関連を考慮して設定される。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習時期を5月から8月までの第Ⅰ期と10月から2月までの第Ⅱ期に分け、それぞれ15回の学習日を設定した。学習日は、原則として毎週木曜日の午後6時30分から8時30分の2時間とし、公開講演や体験学習、施設見学などは土曜日の午後に組み込まれた。それらは、学習者の時間的制約をできる限り緩和・解消するための配慮であった。また、週1回の学習は、学習日と学習日とのあいだに、学習者によって個人学習や自主的な活動が展開されることを期待してのことでもあった。表3は、1日の学習日の学習の流れ(「展開プログラム」)を示したものである。「学習活動」に連続性をもたせていた。「講話」と「討議」にそれぞれ50分の時間が配分されていた。また、「学習のねらい」に受講生とともに講師のそれが明示されていた、ことなどが注目されよう。

表3“あいとぴあカレッジ”における学習の流れ

〇学習場所(会場)の決定にあたっては、学習の目標や内容・方法に十分に対応できる施設・設備を有する場所が考慮されなければならない。また、地理的条件については、原則的には、学習場所への所要時間が徒歩で15分から20分程度以内が望ましいとされている。
〇“あいとぴあカレッジ”では、狛江市と狛江市教育委員会の理解と協力をえて、市のほぼ中央に位置する小学校(図書室)を学習会場とした。学校を学習会場としたねらいのひとつは、学校(教育)と社協(福祉)との連携強化を図り、地域の福祉教育関連諸資源のネットワーク化を促進することにあった。また、小学校(教員)をはじめとする学校における福祉教育の推進が期待された。

〇“あいとぴあカレッジ”開講のねらいは、福祉のまちづくりの担い手を育成し、その量的拡大と質的向上を図ることにあった。しかも、その基礎課程は、住民に対して、福祉のまちづくりのための実践や運動を動機づける学習課程であった。そこでの学習をひとつの契機に、多くの住民がさらに学習活動を続けるとともに、地域福祉活動やボランティア活動へ参加・協力することが期待された。そういった“あいとぴあカレッジ”の基礎課程の学習プログラムは、その立案に際して、以上のほかに次の諸点が留意された。

〇(1)一定以上の学習成果を得るためには、学習集団の規模の適正化を図る必要がある。そこで、定員制を採用し、第Ⅰ期、第Ⅱ期ともに募集人員を30名とし、さらにそれを15名ずつの2グループと、7~8名ずつの4つの班に分けた。それによって、学習者の人間関係の緊密化とコミュニケーションの効率化を図った。
〇(2)学習者の自発的な学習活動を触発するとともに、学習者がそれぞれの能力を発揮し、役割と責任を分担するよう班活動や係活動の展開を学習者に求めた。すなわち、各班より1名、計4名の班長が選出され、班長には各班の取りまとめと、“あいとぴあカレッジ”の運営に関する諸事項について協議・決議し、執行する「運営委員会」活動への参加が求められた。また、「学級通信」の編集と発行を行う「広報委員会」に8名の学習者が選ばれた。なお、「運営委員会」は、学長(1名)、常任講師(2名)、チューター(3名)、学習者代表(4名)、それに“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムなどの企画・立案に当たったボランティア活動推進委員会委員(2名)の計12名によって構成された。
〇(3)学習活動の修正や向上・発展、よりすぐれた学習活動の創造を図るために、学習評価を重視した。すなわち、学習者の評価活動を学習活動の一環として位置づけ、学習者に慣習化、定着化させることに努めた。また、学習修了者には、学習活動の総括と自己評価のために、簡単な、1人1編のレポートの作成と提出を求めた。
〇(4)学習者から、特別の学習資料や学習者の自主的活動のための費用として、受講料3,000円を徴収した。それによって、学習者の中途脱落を防ぎ、自主的・主体的な活動の積極的展開を期待するとともに、参加責任をもたせた。
〇(5)賞賛と激励、学習の継続と福祉のまちづくりへの参加・協力への期待を込めて、学習日10回以上の正規の修了者には修了証を授与した。学習日が10回未満の学習者については、不足分を第Ⅱ期で補うことによって正規の修了とした。

〇いずれにしろ、学習プログラムは、計画された活動が予定通り、「静かに」展開されることをよしとするものではない。学習者に能動的・創造的な活動を促す動的なものでなければならない。それによって、学習の深化や高度化を期待することができるのである。
〇1991年5月9日、“あいとぴあカレッジ”「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われた。学習者は募集定員の30名を数えた。その内訳をみると、性別では男性6名(20%)、女性24(80%)、年齢別では10歳代1名、70歳代1名、40歳代と50歳代がそれぞれ9名ずつで最も多く、全体の6割を占めた。また、職業別では、主婦を中心にしながらも、教員、学生(高校生、大学院生)、施設職員など多種多様であった。居住区別では全市的であり、狛江市に移住して4~5年になる者が多かった。地域に関心をもちはじめる居住年数なのであろうか。
〇講師は24名、チューターは3名、その他に社協事務局職員3名もカレッジの運営などにかかわった。計30名、学習者と同数であった。1991年8月29日、第Ⅰ期生の学習発表会と閉講式が開催された。修了者は28名を数えた。修了者の学習活動への出席率は、土曜日の体験活動や公開講演以外は、常に90%前後の高率を示した。続いて、9月19日には、修了者主催の「卒業記念パーティー」が開催され、また交流活動をはじめ学習活動やボランティア活動などを行うための自主的なグループ――「一期生の会」が発足した。

〇以上の検討から明らかなように、“あいとぴあカレッジ”の事業計画および学習プログラムの立案過程は、単なる企画作業ではなく、多様な主体間の相互作用を通じた合意形成と意味生成のプロセスであった。とりわけ、作業委員会―企画小委員会―推進委員会という多層的な検討構造は、計画の精緻化と同時に、住民参加の実質化を担保する装置として機能していたと評価できる。また、ブレイン・ストーミングなどの手法を用いた討議過程は、単なるアイデア創出に留まらず、参加者の問題認識を深化させ、個別の経験や価値観を共有知へと転換する契機となっていた。すなわち、計画策定過程そのものが、すでに福祉教育の実践であり、「まちづくり」の萌芽的段階であったといえる。

Ⅴ 「まちづくりと市民福祉教育」の構造化と現代的転換

〇本稿が、30年以上も前の“あいとぴあカレッジ”の実践をいま、あえて再評価するのは、単なるノスタルジーによる記録の整理ではない。SNSやAI が普及し、その一方で格差の固定化や社会的分断が進み、孤独や孤立が深刻化する現代においてこそ、当時の実践が示した「人間を真ん中に据えた計画の立案」「生活者としての市民・住民を主役にしたまちづくり」が、不可欠な処方箋になると確信するからである。
〇現代社会では、デジタル・プラットフォームによって利便性を手に入れた反面、地域・住民が抱える個別具体的な生活課題を地域・社会課題として編み直すことが難しくなり、住民同士の「共感」の回路も寸断されつつある。そんななかで、いま求められているのは、過去の成功モデルをそのまま繰り返すことではなく、当時の「熱量」と「仕組み」の本質を現代のデジタル社会に合わせて再起動(アップデート)することにある。

1 「まちづくりと市民福祉教育」の「統合モデル」とその核心
〇上述のⅠからⅣまでの各章は、狛江市社協の“あいとぴあカレッジ”における立案プロセスと学習プログラムの編成原理について叙述し、概観したものである。図1は、市民福祉教育を実効性のある「まちづくり」へと昇華させるための、プロセスとリソースの相補的連関(統合モデル)を示したものである。その核心は、地域・住民の生活課題や学習要求・学習必要を「見る」ことから始まる「See→Plan→Do→See」の循環サイクルにある。この動態的なプロセスを支える基盤として、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」の4要素がある。そして、これを有機的に構造化することによって、市民福祉教育は一過性のイベントではなく、地域変革(「まちづくり」)に向けた持続的な計画化・構造化のエンジンとして機能することになる。

図1 「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開のプロセス

注:1990年代の計画策定モデル。現代においては「モノ」の概念にオンラインプラットフォームが含まれる(Ⅴ章参照)。

〇1990年代初頭に展開された“あいとぴあカレッジ”の実践の軌跡は、今日の「まちづくりと市民福祉教育」においても色あせない、重要な理論的示唆を内包している。本稿での分析を通じて明らかになったことは、市民福祉教育は単なる知識や技術・技能の「伝達」活動ではなく、地域・住民の生活課題を学習課題へと再編成し、それを「まちづくり」運動へと繋げる動態的なプロセスである、という点である。具体的には、次の諸点について留意したい。

〇(1)本実践では、従来の計画策定手順である「Plan→Do→See」を逆転させ、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」へと再構成した。住民のニーズや地域課題を徹底的に「見る(See)」ことから始めるこのサイクルは、計画の空論化を防ぐための必須条件である。統計調査という数字の裏側に隠れた、住民の「生活の実感」を汲み取ることを起点とした。
〇(2)「あいとぴあカレッジ」では、住民の「学習要求(学びたい)」と「学習必要(学ぶべき)」を地域福祉のフィルターを通して精選し、具体的な事業・活動へと昇華させた。これは、確かなまちづくりを推進するための基盤であり、同時に住民間の合意形成を構築するプロセスとして位置づけた。
〇(3)「あいとぴあカレッジ」では、その運営にあたり、住民や大学院生を講師やチューター(学習援助者)として確保・養成する「ヒト」、小学校の図書室を拠点とする「モノ」、受益者負担による参加責任を明確にした「カネ」、そして手づくりのプログラムを企画・実施する「シゴト」の4要素を体系化した。これにより、福祉教育を一過性のイベントに留めず、地域に根ざした共働的・持続的な「まちづくり」の実践として構造化した。
〇(4)「あいとぴあカレッジ」では、「福祉の知識を教える」「ボランティア精神を養う」といった教育者から学習者への一方的な知識伝達(パウロ・フレイレが批判した「銀行型教育」)ではなく、福祉教育を「住民による自己教育・相互教育活動」として捉え直した。 ここでは、住民を単に「学ぶ者」ではなく、学ぶことを通じて自らの生活を見つめ直し、地域の課題を自らの課題として再構成する「教育主体」(フレイレの提唱する「問題提起型教育」)として再定義した。
〇(5)「あいとぴあカレッジ」では、学習テーマを「児童福祉」「高齢者福祉」といった制度的な枠組みではなく、「あなたは一人で子どもを育てられますか」「あなたの老後の暮らしは誰がみますか」といった、個人の内面に深く問いかけるものとした。これによって、福祉(ふくし)を「他人事」から、切実な「自分事」へと引き戻すことを意図した。
〇(6)「あいとぴあカレッジ」では、講師選定において著名度や専門度をあえて優先せず、地域の人材や「自身の生きざま」を語れる住民を登用した。住民が自らの苦労や願いを語り、それを他の住民が聴く。この「語りと傾聴の連鎖」こそが「共感」のネットワークを紡ぎ出し、講師自身もまた一人の住民として自己実現を図るという、双方向の関係性を重視した。
〇(7)「あいとぴあカレッジ」では、学習プログラムに「遊び」や「ヤマ場」を配列し、学習者のモチベーションの維持を図った。「車椅子で歩く狛江の街」「楽しい仲間とティータイム」といった実習や交流活動などは、教室内の座学を「身体的な体験」へと変換する装置である。感動や驚きを伴う体験(ヤマ場)が、知識を「知恵」へと昇華させ、地域を変える力へと変容させると考えた。
〇(8)「あいとぴあカレッジ」では、学習者自身が班活動や広報活動を担う仕組みを設け、カレッジ自体を「小さな地域コミュニティ」として機能させた。運営委員会や広報委員会の場での議論や葛藤、合意形成のプロセスそのものが、民主的なまちづくりのトレーニング(福祉教育)となることを期待した。
〇(9)「あいとぴあカレッジ」では、社協職員の役割を、主導権を握る立場ではなく、住民の主体性を引き出すための「触媒」(カタリスト)と規定した。情報提供や相談、コーディネートといった「側面的援助」は、高度な専門技術を要する。住民を信じて待つという忍耐強い伴走こそが、住民の内発的なパワーを引き出し、同時に職員自身の専門性を高めると考えた。
〇(10)「あいとぴあカレッジ」では、最終的な評価指標を受講生の数や満足度ではなく、修了後にどれだけの住民が「ふだんの、くらし」のなかで新たな行動を起こしたかに設定した。 「一期生の会」の発足に象徴されるように、学習が集団的なアクションへと発展し、地域のインフォーマルな支え合い組織へと脱皮していく過程こそが、本実践の最大の成果である。

2 社会変容に伴う計画モデルの構造的転換
〇“あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代のそれである。「格差社会」や「分断社会」「監視社会」、あるいは「新・階級社会」などといわれる現代社会において、地縁の希薄化や価値観の多様化、さらには生活困窮の重層化といった変数がある。かつて地域コミュニティの核であった「学校」もまた、閉鎖性の打破や地域開放が叫ばれるなど、大きな変容の渦中にある。そして、“あいとぴあカレッジ”の学習テーマに据えられた高齢者や障がい者などの問題に加えて、精神疾患を抱える当事者やその家族、社会的孤立者、外国籍住民、性的マイノリティ、あるいはデジタル弱者などの問題が重要な課題として突きつけられている。さらには、“あいとぴあカレッジ”の会場とされた小学校の図書室が果たした役割を、現代ではLINEやFacebookに代表されるSNSや、インターネット上の情報や交流の基盤・広場(オンラインプラットホーム)がその一部を代替・補完しつつある。
〇こうした社会変容のなかで、図1に示した計画化モデルは、サイクルの起点となる「See(現状分析・評価)」や「ヒト(マンパワー)」などのあり方に構造的な転換を迫られている。 ひとつは、「See」の多層化である。従来、現状分析や評価の多くは、地域・住民に対するアンケート調査や懇談会といった物理的な空間(アナログ空間)を基盤として行われてきた。しかし、地縁の希薄化やSNSの普及に伴って、地域・住民の生活課題や学習要求は、ネット上の不可視なコミュニティへと潜在化・断片化する傾向にある。現代の「See」においては、従来の地域診断を継承しつつも、デジタル空間に表出される切実な生活実態や潜在的な要求をいかに捕捉するかが問われている。すなわち、計画化プロセスを起動させるためには、アナログとデジタルのハイブリッドな多層的視点が不可欠である。このプロセスを実効的なものとするためには、膨大なデータの整理・分析におけるAIの利活用と、それを受け止めて価値判断を行う「ヒト」との機能的な役割分担を構造化することが求められる。AI が「客観的なデータ」「冷たい知性」によって地域を可視化し、「ヒト」が「主観的な価値」「温かい感性」によって地域を編み直す。この相補的な関係を計画化のプロセスに組み込むことで、市民福祉教育はより緻密で、かつ人間味のある「まちづくり」のエンジンへと進化を遂げるのである。
〇ただし、SNS やAI の利活用にあたっては、それらの情報技術を無批判に受け入れるのではなく、その限界やリスクを構造的に問い直していく必要がある。デジタル空間を、単なる利便性の追求ではなく、客観的状況を批判的・創造的に検討する「省察の場」、かつ誰もが疎外されない「対話の場」として再構築していくことが肝要となる。
〇計画化プロセスにおけるAIの機能的役割は、例えばこうである。See:ビッグデータから潜在的なニーズや社会的傾向を可視化する。→ Plan:多様なシミュレーションに基づき、客観的な選択肢(オプション)を提示する。→ Do:推奨された学習情報やリソースを最適に配信し、実行プロセスを支援する。→ See:実行結果を定量的データとして評価し、普遍的な課題を抽出する。こうしたAIの役割をより効果的に活用するために、「ヒト」に求められる具体的な役割は、例えばこうである。See:生活上の生きづらさや切実な願い(要求、必要)を言語化する。→ Plan:AIの提示した選択肢に自らの価値観や地域・生活実態を重ね合わせ、ビジョン(将来像)を描く。→ Do:静的な計画を、他者との対話や相互作用を通じて固有の意味をもつ実践へと変換し、新たな価値を共創する。→ See:データ化されない情動や生活の変化を感知し、次のビジョンを構想する。図2は、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」という地域資源が、「AIとヒト」の手によって「See→Plan→Do→See」という活動に変換し、そのすべてのエネルギーが「ふくし」へと注ぎ込まれていくことを表示したものである。別言すれば、AIの本質は、膨大なデータを基にした「分析」と「効率化」にある。ヒトの本質は、数値化できない「共感」と「価値判断」にある。この両者の相互補完によって、計画化の循環サイクルが駆動するのである。

図2 AIとヒトの相補的役割分担による計画化の構造図

〇転換を迫られるいまひとつは、「ヒト」の再定義である。格差社会や分断社会の進展は、地域・住民の学習要求や学習必要を個別化・細分化し、地域における共通のゴール設定や価値形成を困難にしている。こうしたなかで、本稿が提示した学習指導者や援助者、あるいは社協職員などには、単なる「調整役」ではなく、従来の画一的な学習指導や援助の枠組みを超えて、分断された住民をいかにして個別具体的に繋ぎ直し、指導・援助するかという「媒介者」としての機能が強く求められている。とりわけ、地域で孤立状態にある住民を、いかにして「学び」の場に緩やかに誘い出し、包摂していくかが問われている。
〇さらにもうひとつは、「モノ」と「カネ」の再配分である。「モノ」(施設、空間)については、“あいとぴあカレッジ”では、地元小学校の図書室が「学習会場」として活用された。これは、学校の地域開放、あるいは「まちづくり」における共働のプラットフォーム(場)として評価できよう。現代社会においては、こうした場を家庭(第1の場所)や職場・学校(第2の場所)とは異なる、心理的安全性の担保された第3の「居場所」(「サードプレイス」)として位置づけることが肝要である。そこは、誰もが自発的に立ち寄り、リラックスした交流のなかで相互研鑽を図る「学びの場」であると同時に、コミュニティにおける役割期待の受容と遂行を通じ、他者からの承認を得て自己の存在意義を再確認できる「要場所」(いばしょ)へと昇華されることが期待される。
〇「カネ」については、“あいとぴあカレッジ”では受益者負担による参加責任の明確化が図られた。今日では、クラウドファンディングや社会的投資といった住民自身が「まちづくり」の資金循環に直接的に関与する仕組みが検討される余地がある。これによって、「まちづくりと市民福祉教育」の継続性は、行政や社協の補助金への依存から脱却し、住民の思いや願いを可視化する社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の蓄積へと転換される。
〇そして最後には、「シゴト」における「学習課題」の再構成である。“あいとぴあカレッジ”では、学習プログラムのテーマ設定に際しては、福祉(「ふくし」)を「他人事」から「自分事」へと引き戻すことに留意した。この視点は、現代においても依然として重要である。しかし、生産性の原理や自己責任の論理が追求される現代社会にあって、今後の学習プログラムの編成においては、パウロ・フレイレが提唱した「問題提起型教育」を重視し、地域・社会の社会構造を批判的に分析・検討する視点を組み込むことが肝要となる。
〇先述の図1のモデルは、現代においても有効なものである。加えて、「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開において避けて通れない変数が、孤立・孤独の深刻化や、SNSやAIに代表される情報技術の加速度的な進展である。これらの新たな社会変数を図1のモデルに不断に取り込み、問い直すプロセスを通じて、地域・住民の自己変革と社会変革のエネルギーが生成されることになる。換言すれば、「市民福祉教育はまちづくりのエンジンであり、まちづくりは市民福祉教育の教材である」。この双方向的な関係性を改めて教育実践の核に据え、地域社会の動態そのものを「学びの資源」へと転換していくことこそが、今、強く求められているのである。

おわりに
―住民主体の計画原理とデジタル時代の展開可能性―

〇最後に、いま一度、本研究で得られた知見と理論的・実践的含意、ならびに今後の課題について再確認しておきたい。
〇第1に、本研究の知見として、市民福祉教育の計画化は、「See(現状分析・評価)→Plan(立案)→Do(実施)→See(再評価)」という循環的プロセスを基軸として成立することが明らかとなった。とりわけ重要なのは、①このプロセスが住民の生活実態や生活課題、学習要求・学習必要を出発点とする点にあり、計画が行政や社協・専門家主導のものではなく、地域・住民の生活に根ざした課題の再編成として構築される点である。また、②市民福祉教育の実践は、「ヒト」「モノ」「カネ」「シゴト」という諸要素の有機的統合によって支えられ、これらの構造化を通じて一過性の事業ではなく持続的な地域実践へと転化することが確認された。そして、③“あいとぴあカレッジ”における学習過程は、知識伝達型ではなく、住民を学習主体かつ教育主体として位置づける自己教育・相互教育の過程として展開され、そのことが主体形成と「まちづくり」への行動変容を媒介する契機となった点が注目される。
〇第2に、本研究の理論的貢献は、市民福祉教育を単なる教育活動としてではなく、地域課題の認識・再編成・実践を包含する「動態的プロセス」として再定義した点にある。従来の福祉教育研究が、事業内容や実践事例の記述にとどまりがちであったのに対し、本研究は計画過程そのものに内在する構造と原理を抽出し、「まちづくりと市民福祉教育」の統合モデルとして提示した。また、住民の「学習要求」と「学習必要」を媒介する計画論的視座や、「ヒト・モノ・カネ・シゴト」の資源構造の体系化は、地域福祉計画および社会教育計画の接合領域に新たな分析枠組みを提示するものである。さらに、現代的文脈においてAIやデジタル技術との相補的関係を視野に入れた点も、計画論の拡張として位置づけられる。
〇第3に、本研究の実践的含意として、地域における市民福祉教育の展開にあたっては、①住民の生活実態に根ざした課題設定、②多様な主体の参加と共働による計画形成、③学習過程そのものを主体形成の契機とするプログラム設計、④学習成果を地域活動へと接続する仕組みづくり、が不可欠であることが示唆される。とりわけ、社協職員や専門職は、計画の担い手ではなく住民主体の活動を支える「触媒」としての役割を担う必要があり、そのための専門性の再構築が求められる。また、現代社会においては、オンライン空間やデジタル資源を含めた多層的な学習基盤の整備が重要となる。
第4に、本研究の限界と課題であるが、まず、本研究は1990年代の単一事例に依拠した分析であり、その知見の一般化には慎重である必要がある。今後は、現代の他地域における実践との比較研究を通じて、計画原理の普遍性と固有性を検証することが求められる。次に、“あいとぴあカレッジ”における学習成果とその後の行動変容については、長期的・追跡的なデータに基づく検証が不十分であり、今後の重要な研究課題として残されている。さらに、現代におけるデジタル技術やAIの導入が、住民主体の学習といかに接合しうるのかについては、具体的な実践研究の蓄積が求められる。
〇以上のように、本研究は、市民福祉教育を「まちづくり」の基盤として再定位し、その計画化と実践的展開の構造を明らかにした。今後は、本稿で提示した理論枠組みを基盤として、現代社会における新たな「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に期待したい。

引用・参考文献
(1)大槻宏樹編(1986)『コミュニティづくりと社会教育』全日本社会教育連合会。
(2)大橋謙策(1986)『地域福祉の展開と福祉教育』全国社会福祉協議会。
(3)大橋謙策(2022)『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』中央法規出版。
(4)小川利夫・大橋謙策編著(1987)『社会教育の福祉教育実践』(「シリーズ福祉教育」第5巻)光生館。
(5)岡本包治・山本恒夫編著(1975)『社会教育計画』第一法規出版。
(6)岡本包治編著(1980)『学習プログラム』(講座「現代の社会教育」第3巻)ぎょうせい。
(7)岡本包治(1984)『社会教育における学習プログラムの研究』全日本社会教育連合会。
(8)岡本包治・山本恒夫編(1985)『生涯教育のアイディアと実際』(「生涯教育対策実践シリーズ」第4巻)ぎょうせい。
(9)岡本包治・小山忠弘・福留強編著(1987)『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合会。
(10)木全力夫編著(1988)『社会教育計画論』東洋館出版。
(11)原田正樹(2014)『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』中央法規出版。
(12)日高幸男・岡本包治編著(1984)『社会教育のプログラム』全日本社会教育連合会。
(13)藤岡貞彦編(1980)『社会教育の計画と施設』(「日本の社会教育」第24集)東洋館出版社。
(14)松下拡(1990)『健康学習とその展開』勁草書房。
(15)矢野真和・荒井克弘編(1990)『生涯学習化社会の教育計画』(「日本の教育」第1巻)教育開発研究所。

【初出】
「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月、84~106頁。
本稿のⅠ〜Ⅳ章は、一部を除き原則として発表当時のままとし、それ以外は新たに加筆したものである。

【謝辞】
本稿を加筆修正するに際して、狛江市社会福祉協議会事務局長の竹中石根さまには格別のご高配を賜りました。記して、感謝とお礼を申し上げます。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究への学び(その3)―地方改良運動にみる福祉教育実践:福祉教育の遡及的原点を求めて―

 僭越至極であるが、筆者は昨今の「福祉教育」における実践や研究の動向に対し、危機感を抱いている。その根幹にあるのは、福祉教育の「歴史と哲学と原理」に対する深い洞察や言及が、等閑視されているのではないかという懸念である。

具体的には、例えば、福祉教育は「いかなる歴史的・社会的背景によって生み出されたのか」「いかなる変遷を経て今日に至ったのか」など、その歩みについて検証してきたか(歴史)。「福祉教育とはいかなる教育的営為か」「共生の本質とは何か」など、根源的な問いを設定しそれに応答してきたか(哲学)。「人と人の繋がりはいかにして形成されるのか」「地域社会のエンパワメントはどのようなプロセスで生じるのか」など、そのメカニズムの理論化を図ってきたか(原理)、等々についてである。

 本来、これら3要素は独立して存在するものではない。「歴史」のなかに「哲学」が紡ぎ出され、その「哲学」が実践を導く「原理」を体系化し、さらにその「原理」に基づいた実践がまた新たな「歴史」を形成していく。この循環構造こそが福祉教育を学問たらしめる条件・要諦であり、「歴史と哲学と原理」を三位一体として捉える視座が不可欠である。

以上の問題意識に基づき、痛切な自戒の念を込めて、下記の拙稿を再掲することにする。

*   *   *

地方改良運動にみる福祉教育実践
―福祉教育の遡及的原点を求めて―

Ⅰ はじめに

実践は歴史によって創られ、理論は歴史によって試される。実践のない理論は空虚であり、理論のない実践は盲目である、といわれる。

福祉教育の歴史と理論と実践は、相互の関係にあり、歴史研究と理論研究と実践研究は互いを無視しては成り立たない。とりわけ歴史研究は、福祉教育研究の基本に据えられるべきものである。しかし、福祉教育研究は、これまで、福祉教育の歴史に無関心であったといわざるを得ない。

例えば、日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会(1996〈平成8〉年10月)から第13回大会(2007〈平成19〉年11月)までにおける「自由研究発表」(実践報告を除く)は393本を数えるが、そのうち歴史に関する発表はわずか10本(2.5%)に過ぎない。また、学会の機関誌である『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』の創刊号(1996〈平成8〉年7月発行)から第12号(2007〈平成19〉年11月発行)までに掲載されている論文(基調論文、解説論文、特集論文、研究論文、研究ノート)は95本を数えるが、歴史に関するものは皆無である。ここに、福祉教育の理論研究や実践研究の進展があまりみられないひとつの要因があるといえる。

いうまでもなく、福祉教育研究における歴史研究は、福祉教育の歴史的事実を実証的に解明することからはじまる。すなわち、それは、たんに福祉教育の変遷を押さえるだけでなく、その変遷の意味を明らかにすることである。その際、その史実を社会的・経済的・政治的・文化的諸条件との相互関連のなかで捉えることが肝要となる。それを通じて科学的・客観的に今日の福祉教育の到達点を押さえ、それが抱える問題点や課題を発見し、その本質を把握する。そして、それを解決し克服するための適切な方向を見定め、具体的な解決策を見出す。

ここに、福祉教育史研究の意義と課題があり、研究の重要性を指摘することができる。要するに、現在を読み解き、未来を拓くための有効な方法のひとつに歴史があり、歴史研究があるのである。

福祉教育の変遷を分析、把握するためには、先ずその原点や源流を探求することが求められる。それをどこに見出すかは、福祉教育研究の視点や枠組みの設定をはじめ、そこから得られる福祉教育の対象、主体、方法などについての知見、そしてそれらを総合化・体系化してその意味内容を確定しようとする福祉教育の概念規定などによって異なる。

これまで、第二次世界大戦後における福祉教育の源流は、例えば、1946〈昭和21〉年に平岡国市によって創案された徳島県の子供民生委員制度や、1950〈昭和25〉年度から実施された神奈川県の社会事業教育実施校(社会福祉研究普及校)制度などに求められてきた(1)。また、村上尚三郎は、福祉教育の「遡及的原点」として、「大正デモクラシーが教育界に及ぼした所産とも目される1920年代の、いわゆる新教育運動の勃興に焦点をあて」、「池袋児童の村小学校」の訓導・野村芳兵衛の生活教育や修身教育の実践に着目している(2)

本稿では、福祉教育を「地方自治」や「地域振興」の視点から捉え、その「遡及的原点」は明治40年代以降に内務省主導で展開された「地方改良運動」の取り組みのなかに見出すことができる、という仮説を設定する。そして、それを諸史料から検証することにする。

周知の通り、地方改良運動では、地方(地域)すなわち町村の振興を図るために「人心の開発」が重視され、町村民に対する教育と教化が推進された。そこには、今日でいう福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたと考えられる。

そこで、以下では、具体的にはその教育・教化活動に関する史料について紹介し、検討を加える。それを通してその福祉教育実践としての側面や要素を明らかにする。そして、それを今日の福祉教育実践やその課題につなげて考え、そこから課題解決のための手がかりや示唆を得ることにしたい。

Ⅱ 地方改良運動とその推進方策

地方改良運動は、日露戦争(1904〈明治37〉年~1905〈明治38〉年)後のいわゆる「戦後経営」の一環として、内務省地方局の主導のもとに推進された。すなわち、それは、戦争による国家財政の危機的状況を打開するとともに、帝国主義列強諸国に伍する地位を獲得するために、国力の充実・発展と国家的統合を図る官製運動であった。この最重要の国策のもとで、地方改良運動では、具体的には「生産事業の振励」をはじめ「地方自治の振興」「公共心の育成」などの諸施策が展開され、地方(町村)の自発的・自立的振興が促された(3)。こうした運動が強力に推進されたのは、第2次桂太郎内閣が成立し内務大臣に平田東助が就任した1908〈明治41〉年から、1914〈大正3〉年頃にかけてであった。それ以後、地方振興は、それまでの総合的な施策から農事の改良・発達を中心にした個別的な施策として展開されることになる(4)

こうした地方改良運動の推進を図るに当たって、内務省地方局は次のような政策手法を採った。(1)啓蒙書や実践事例集の刊行・配布、(2)「地方改良事業講習会」の開催、(3)中央報徳会の機関誌『斯民』の発刊、(4)「模範村」の表彰、などがそれである(5)

(1)については、啓蒙書として『地方自治ノ指針』(1904〈明治37〉年)、『地方自治要鑑』(1907〈明治40〉年)、『地方改良の要項』(1912〈明治45〉年)、実践事例集として『地方資料(第1編~第15編)』(1907〈明治40〉年)、『地方改良実例』(1912〈明治45〉年)などがある。

(2)は、1909〈明治42〉年に、地方改良運動の監督・指導に当たる全国の地方吏員を主な対象として、第1回講習会が東京市の国学院大学で開催された。この講習会は1923〈大正12〉年頃まで継続開催されたが、ほぼ同時期の1908〈明治41〉年から1922〈大正11〉年にかけて、内務省地方局によって「感化救済事業講習会」が雁行して開催されている(6)。注目されるところである。

(3)に関しては、1906〈明治39〉年に内務官僚の床次竹二郎(地方局長)や井上友一(府県課長)らによって、半官半民の「報徳会」(1912〈大正元〉年に「中央報徳会」と改称)が結成され、報徳運動が展開された。この運動では、二宮尊徳の報徳思想(至誠・勤労・分度・推譲)に基づいた、主として地主層に対する教化善導が行われた。しかも、それは、内務省の地方行政事務に組み入れられていった。1906〈明治39〉年には機関誌『斯民』が発刊され、報徳思想についての再評価や研究が行われた。とともに、報徳思想は、地方改良運動の中心的なイデオロギーとして全国の各町村レベルにまで波及した(7)。要するに、地方改良運動はこの報徳会を推進母体として全国展開されたのである。

(4)については、1905〈明治38〉年に表彰された「明治の三大模範村」(静岡県賀茂郡稲取村、千葉県山武郡源村、宮城県名取郡生出村)が注目される。この表彰施策は、1910〈明治43〉年以降、中央(内務省)だけでなく地方でも本格的に展開された。そのねらいは、顕著な業績をあげた団体や個人に対して表彰を行うとともに、地方(町村)振興に取り組む団体や個人の自発的意識を喚起し、地方改良の機運を促進することにあった。

Ⅲ 町村振興のための教育・教化と福祉教育実践

地方改良運動の実質的な発案者であり、主導者であった井上友一は、町村振興には「経済の開発」と「人心の開発」が重要であり、また国力の充実・発展を図るための地方自治の振興には、町村民の「自治心」の喚起が必要不可欠である、と説いた(8)。そこで、地方改良運動は、「自治民育」(「自治民」の育成)というひとつのスローガンのもとで、教育・教化運動的な色彩の濃いものとして展開された。例えば、小学校では、町村振興の地域的課題が教育活動に採り入れられ、町村の実情や、児童や町村民の実際の日常生活に即した「教授の実際化と郷土化(9)」が志向された。また、小学校を卒業した在村青年や町村民に対しては、町村振興に向けていわゆる「補習教育」が推進された。そこでは、小学校教育の補習と農業教育などの実業教育、それに勤倹貯蓄などを軸とした生活様式(生活規範と生活態度)の改良・改善を図るための教化活動(生活教育)などが行われた(10)

教育・教化活動の展開に際しては、教育勅語(1890〈明治23〉年)と戊辰詔書(1908〈明治41〉年)の趣旨の徹底や浸透が図られ、報徳思想(主義)が基調とされたことはいうまでもない。周知の通り、教育勅語では、儒教的道徳思想を基礎に、忠君愛国が教育の基本であることが強調された。戊辰詔書は、国民の個人主義・享楽的傾向の是正を諭し、国民に勤労と節約を求めた。

こうした町村振興の教育・教化活動や運動に動員されたのは、地域の中核機関である小学校と、地方の有力者である小学校教員であった。

1 小学校における「自治民育」の実践
ここで、内務省が刊行した前述の『地方資料』『地方改良の要項』『地方改良実例』に収録されている地方改良実践事例から、小学校における「自治民育」の教育活動の一端を紹介する。

害虫駆除と学童貯金(史料①)
小学校生徒の実業思想を養成するの一事は、愛知県に於て著く其功を収めり。就中、渥美郡の施設は最も見るへきものあり。即ち教授の際を以て、或は箒掃衛生の業を行はしめ、或は害虫の駆除に従はしめ、或は花卉の栽培を為さしむる等、実用に習はしめんとして、最も其意を用る。更に家庭との連絡を通し、種々の業務を撰ひて、労働に習はしめ、又廃物利用の念を養ふことに勉めたり。かくて勤労と節約とに依りて得たる金員は、其出所を明にして之を学童貯金と為すことを奨励せるに、其効を奏せること殆と意表に出てたり。例へは、福岡小学校の如きは生徒間に於ける勤勉の風よりして、延きて其父兄を化し、一村漸く勤勉力行の俗に嚮ひ、日を逐うて旧時貧困の状より脱せんとするに至れり(11)

出征軍人家族の慰安と小学校生徒の裁縫(史料②)
愛知県額田郡なる北部高等小学校(当時岩津村細川村学校組合立)及岩津村(当時大樹寺村)立大樹寺尋常高等小学に於ては曩に戦役に際し出征軍人家族に労力を供し、且慰安の一方法として無料裁縫の依頼に応したり。最初両校職員に於て、軍人家族の衣服は一切無料を以て裁縫の依頼に応し、慰安の実を挙けんことを志し、其旨を女生徒に告くるや何れも喜んて之を迎へ、誓て夜を以て日に継くも此作業を遂行すへき旨を答へたり。依て村役場より各区区長総代等に其旨を伝へ、又は年長生徒をして軍人各戸に就き材料を取集めて之を裁縫したり。されは軍人家族中此の好意に感泣せしものありと云ふ。而して其裁縫等は新古を問はす又種類を択はさりしを以て、中には洗濯洗張の上裁縫したるものも亦少なからさりしと云ふ(12)

害虫駆除(史料③)
児童の勤倹の美風を喚起せしめ、併せて愛郷の心を養はしめるが為め、滋賀県甲賀郡にては、学童をして害虫駆除の事に当らしむ。且作業の当日は、教員をして兼て編纂したる郷土誌を携帯せしめ、郷土に於ける地理、歴史、博物等に就きて、一々実地の教授をなさしむ(13)

小学校施設の老人慰藉会(史料④)
宮崎県西諸県郡紙屋尋常高等小学校に於ては其附帯事業として毎年一回年齢六十歳以上の老人を集めて児童の成績品書画の類を陳列縦覧に供し或は児童をして読方、話方、唱歌、遊戯等を試みしめ或は音楽隊を編制して演奏せしめ以て老人に慰藉を与ふることゝせり又平素に於ても屢々児童の成績品又は珍らしき物を老人に回送して之を慰さめつゝあり而して其の接待及回送の労は何れも児童をして之に当らしめ以て自ら老人を尊敬するの念を深からしむといふ(14)

小学校生徒の教科以外の作業(史料⑤)
宮城県に於ては県下の小学児童に対し勤労を重んするの観念を養成する方法として地方適切の作業を選ひ教科以外之に従事せしむることを奨励したるに今や県下各小学校に於て実行するに至れり其の概要左の如し

学校に理髪機械を備付け児童相互に理髪を為さしむるもの頗る多し其の方法は学校に依りて多少異なれりと雖も多くは最初教師の指導に依りて年長の児童に練習せしめ休憩時間を利用し或は放課後に於て相互に又は幼年児童の為めに理髪し其の賃金を一回二銭内外と定め之を共同貯金として蓄積し或は学校に寄附し或は学用品共同購買の資金に利用せるものあり今や僻陬の地にして理髪店なき所に於ては父兄の請に応して理髪を為すものあるに至れりといふ(中略)

毎朝出校前の作業として牛乳配達、新聞配達、納豆売、豆腐売、飴売等の行商に従事せる児童市街地に最も多数なり又午後の放課後及休日には菓子売、薪炭売等に従事せるものあり其の他学校に於ては学用品の共同販売を実施し其の購入、販売、記帳等の取扱を練習せしめ収益は共同貯金と為し以て商業の実習と勤倹自治の精神とを養成するに努め居れり(中略)

小学校に於て養鶏、養豚、養兎の業を課し以て其の飼育方法を教ふると同時に之か趣味の養成に努めたる結果家庭に於ても養蓄又は養禽を楽むもの追々其の数を増せり(15)

教師生徒及有志者より成れる長寿者慰藉会(史料⑥)
静岡県周智郡飯田村睦実区には睦実尋常高等小学校職員生徒及区内有志者を以て組織せる長寿者慰藉会なるものあり長上を敬ふの主旨に依り長寿者に接するに常に赤誠懇篤を以てし又年二回区内七十歳以上の老人を招待して之を慰藉す而して之に要する費用は会員の寄附金を以て支弁せり四十二年十一月三日天長の佳節に際し本会総会を同小学校内に開催したる時の如き区内七十歳以上の老人十八名は一名の漏なく或は杖に縋り或は孫児に擁せられて来会し先つ遥拝式を挙行して聖寿の万歳を祝し引続き唱歌、余興等あり又児童の手工品を縦覧せしめ記念撮影を為し特志者の寄贈に係る扇子(祝寿の文字模様あり)を配与する等会員総出にて歓待の労を採れり斯くて来会の翁媼は何れも喜色面に溢れ和気靄々の内に散会したりといふ(16)

史料①は、清掃、害虫駆除、花卉栽培などの勤労と、廃物利用などの節約を通して学童貯金を行うことを奨励した実践である。史料②は、出征軍人家族を慰安するために、小学校生徒が無料で裁縫の依頼に応じた実践である。史料③は、害虫駆除の保健衛生活動を通して勤倹と愛郷の意識・態度を養うとともに、郷土理解の促進を図った実践である。史料④は、敬老の精神を養うために、小学校で、生徒が中心になって行った老人慰藉会の実践である。史料⑤は、相互理髪をはじめ、牛乳・新聞配達や納豆売りなどの行商、養鶏や養豚の業などの教科外の作業を通して、勤倹自治の精神の育成を図った実践である。史料⑥は、小学校の生徒のみならず、教員や地元の有志者などによって組織された長寿者慰藉会の敬老活動の実践である。

要するに、これらの教育実践は、「勤勉力行」「勤倹自立」「慰安」「慰藉」「愛郷」などの規範意識や生活態度を育成し、それを通して町村振興を図るという意図のもとに実施・展開された。そして、そのための手段や方法のひとつとして取り組まれたのが、害虫駆除の保健衛生活動や高齢者を慰藉するための敬老(会)活動などであったのである。

前者の保健衛生活動については、1897〈明治30〉年に制定された伝染病予防法に基づいて、その後、明治・大正・昭和と時代の変遷に伴って地区衛生組織活動の推進が図られることになる。そのなかの住民各層に対する広報・教育活動の実践に、福祉教育のひとつの原型を見出すことができる。また、後者の敬老(会)活動については、時代性は異なるものの、現象的には今日の福祉教育の主要な体験活動(体験学習)のひとつである高齢者理解や高齢者との交流・共生活動に通じるものである、といえよう。

2 大阪府生野村における「自治民育」の実践
ここに、村田宇一郎が1910〈明治43〉年に著した『学校中心自治民育要義』(宝文館発行)と題する本がある。村田は、大阪府天王寺師範学校長として、1907〈明治40〉年から大阪府東成郡生野村において「自治民育」に関する実践・研究を行った。村田のこの著書は、自治民育の「意見」と生野村での「実験」成績をまとめたものであった。その内容は、内務省の教育・教化要求に応えるものであり、内務省によって推奨されるところとなった。生野村での実践が自治民育の「モデル(17)」や「公民教育」の「原型(18)」などと評される所以であり、各地に大きな影響を与えたことは推察に難くない。

以下では、生野村における村田の自治民育の実践(内容と方法)とその特徴を把握するために、上述の彼の著書のなかから注目すべき叙述部分を摘記する。

忠君愛国と富国の手段(所論①)
我国方今の趨勢は(中略)、一等国の地位に上つたと云つても、他の七ヶ国に比すれば金力の程度に於ては顔色がないのである。(中略)こんな貧乏世帯で世界列強の間に介在して、能く国の面目を保ち得るであらうか憂慮に堪へないのである。そこで吾々国民はどこ迄も奮発して富を作らねばならぬ、併し国を富ましても忠君愛国の思想を失ふてはならぬ、忠君愛国の思想を益々強盛ならしめると共に国を富ましむるやうな働きある国民を造成することは、我国方今の急務にして吾々国民教育者の任務も亦茲に存するのである(19)

忠君愛国の思想を強盛ならしむると同時に国を富ましめんとするには、如何なる手段が必要であるかと云へば(中略)、立憲思想を普及せしむることが何よりも急務である(20)

此立憲思想の普及を謀らんとするには、之が根底をなす地方自治の思想から普及してかゝらねばならぬ(21)

公共心共同心の養成(所論②)
国民教育者はこの町村自治の何たることを了解して教育に従事せねばならぬ。而して更に我国自治体の現状を省みて、其病根のあるところを察すれば、自治の発展に最も肝要であると云はれて居る公共心共同心が、他の徳義心に比して割合に発達が後れて、或は英国に於ける百年以前のことを実現しつゝあるのではなからうかと思はれるのは甚だ遺憾の次第である。それで吾々教育者は小学校時代から、この公共心共同心の養成には一層の努力を要することを自覚せねばならぬ(22)

小学校本来の立場(所論③)
小学校に従事せる教員達は(中略)各自の奉職して居る市町村の歴史的構造や、法律的構造や、社会的構造などを了解して、将来その市町村公民となつて各自の市町村を手塩にかけて育てるやうな人間を造るべく、その預かれる子弟に対して基礎的教育を施(す必要がある――筆者注)(23)

元来小学校は、どこ迄も町村自治体に於ける文化の中心となり、その町村の程度、民風事業方針等を参照して将来并に現在の自治民を造成するの道を講ずるところとならねばならぬ(24)

庶民教育系統の建設(所論④)
小学校教育に次ぐに青年団体教育を以てし、青年団体教育に次ぐに自治体教育を以てして、小供も青年も戸主も主婦も老爺老媼も永年の間にそれぞれに訓練して、一家の一員たり、市町村の自治民たるに適当する資格を養ひ、市町村そのものを秩序的に系統的に整理せねばならぬ(25)

自己の町村の了解(所論⑤)
町村の事情を町村民一般が知らないやうなことでは、町村に対する愛の心即ち愛町村心と云ふものが起らぬ。町村の面目の為めに町村に対する義務の為めに、自己の行動を慎まねばならぬと云ふ心持が出来ないから、是非共これ等のことを了得せしめねばならぬ(26)

一般村民をして「我が村」を了解して之を愛し之を保護するの道を悟らしめたこと(27)

自村の情態が分れば分る程、村民一般の公共心共同心が発揮されて、自治体の面目を思ふ観念が出来なければならぬのである(28)

公民的知識の教授(所論⑥)
(小学校教育の――筆者注)高等科に入りては、市町村政の大要から郡制府県制の大要に及ぼし、名誉職の何たることより自治団体の理事機関や執行機関のことを概説し、自治体に対し各自が負ふ所、并にそのために尽すべき義務を挙げ、社会の秩序を重ずべきこと、社会の進歩に貢献すべきこと(中略)なども教へられて居るのである(29)

(青年団体教育の実業補習学校の修身科にありては――筆者注)町村自治のこと(代議機関、行政機関、土木衛生教育産業の状態、財政の状態、産業組合、報徳結社、商工組合、農会、在郷軍人会、神社、寺院、町村是のこと、民風興起のこと)を、各自の町村の材料について説示し、我家を理解し我村を理解せしめて、孝道の貴きこと、友愛の重ずべきことから、正直になけらねばならぬ、勤勉でなけらねばならぬ、秩序を守らねばならぬ、公共心共同心がなけらねばならぬことを知らしめ、進んでは(中略)我国の国勢の大要を知らしめて国家に対する奉公心を喚起せしめ、土地の状況によりては、対外観念を与へて海外に移住発展するやうな考を与へることも必要である(30)

事業上における指導(所論⑦)
青年を指導するには、只彼等の頭を肥やしたばかりではいかない。事業をやらせて、筋骨を労せしめる其間に、実地上から指導を加へて行かねばならぬ(31)

村民の自発性の尊重(所論⑧)
余りに故意的に急速に改善策を立てんよりも、自然に緩々と、彼等(村民――筆者注)の仲間から適切な改善策の出でんことを望む(32)

所論①では、日露戦争後のわが国の重要課題は国家富強(経済力の強化)と忠君愛国(愛国心の涵養)である。そのためには立憲思想の普及が急務であり、さらにその根底をなすのは地方自治の思想の普及である、と説いている。地方自治の思想の普及が愛郷心と愛国心を喚起し、町村振興と国力充実をもたらす、というのである。所論②では、町村自治の発展には公共心共同心を育成するための教育の推進が重要である、と説いている。その担い手は国民教育者である。所論③では、小学校と小学校教員は、市町村の歴史的・法律的・社会的構造などの了解に基づいて、自治民育の基礎的教育を施す必要がある、と説いている。当時、自治民育の担い手は、小学校と小学校教員以外にはなかったし、いなかったのである。所論④では、秩序ある市町村を建設するためには、小学校教育―青年団体教育(青年教育)―自治体教育(成人教育)という庶民教育系統を建設しなければならない、と説いている。子どもから大人までの総ての市町村民を対象にした庶民教育によって、自治民育が考えられたのである(33)。この系統的・継続的な庶民教育は、今日でいう生涯教育(生涯学習)に通じるものでもある。所論⑤では、公共心共同心や自治心の育成を図るためには、先ず自己の町村の状態について了解することが必要かつ重要となる、と説いている。自治民育の教育内容の基軸に自己の町村を了解することが据えられていたのである(34)。所論⑥では、小学校教育や青年団体教育では公民的知識の教授が重要である、と説いている。自治民育の教育内容のひとつとして地方自治に関する知識が重視されたのである。所論⑦では、青年を指導するには知識の教授のみならず、事業上での実地指導が必要であり、所論⑧では、村民や生徒の自発性を引き出すことが重要である、と説いている。いわば現場主義・臨地主義の教育方法と、従来の命令―服従の教育方法ではない、協議や討論などの自発性を尊重した教育方法が活用されたのである(35)

以上の、村田が説く町村振興と国力充実のための自治民育の構想と実践(内容と方法)を大胆に要約するとすれば、およそ次のようになろう。すなわち、(1)小学校と小学校教員による自治民育に基づく町村社会の形成、(2)小学校教育―青年教育―成人教育という継続的・一貫的教育の促進と町村民の教化、(3)町村の歴史的・法律的・社会的構造理解(町村理解)に基づく教育内容の構成、(4)町村自治に関する法制的・公民的知識の教授、(5)実際的・実地的指導や自発性を引き出すための多様な教育方法の活用、などがそれである。

そして、これらは、その歴史的背景や意義、質的内容は異なるものの、今日の福祉教育が抱えるいくつかの課題に思い至らせる。住民主体・住民参加による福祉のまちづくり、ローカル・ガバナンスの地域福祉、地域再生の生涯学習、などと地域特性を生かした多様な福祉教育実践のあり方についてのそれである。

Ⅳ 自治民育と福祉教育実践の課題

イギリスの歴史家であるE.H.カーは、その著『歴史とは何か』(1961年)で、歴史とは「現在と過去との対話(36)」であるとした。これを引くまでもなく、歴史研究は、現在に残る史料をもとに過去の事 実について多角的・総合的な視点から検証・考察し、それを通して現在を読み解くとともに新しい歴史を築いていく指針を見出す試みである。福祉教育の歴史研究についていえば、いわゆる「歴史主義の貧困」に陥らないためにも、歴史的事実としてのその実践活動から何を学び、今後の福祉教育実践のあり方の追究に「使える」どのような、新たな着想や有益な示唆を得るかが問われることになる。

本稿では、福祉教育の遡及的原点を地方改良運動期における自治民育の教育・教化活動に求め、その史料の紹介と若干の考察を行った。それによって、自治民育の実践に、今日の福祉教育実践のひとつの側面や要素が含まれていたことを明らかにすることができた。ただ、その論述は、史料と紙幅の制約から限定的なものにならざるを得ず、残された課題は多い。改めて全国各自治体における地域(町村)振興策と自治民育活動に関する史料を掘り起こし、それを丹念に検証し、福祉教育の視点・視座から分析・検討することが必要となる。

最後に、今後に向けて、自治民育と福祉教育実践の課題をめぐって次の2点について再確認し、若干の考察を加える。それをもって本稿のむすびにかえることにする。

(1)地方改良運動は、行政町村の自主的・自立的振興を促し、町村を「国家のための共同体(37)」に転化させるための運動であった。したがって、それは、国家による「上から」の社会的・政策的運動として、しかも国民の指導教化に力点を置いた自治民育運動として展開された。

自治民育という言葉は村田が用いたターム(用語)である。前述の著書を題して「学校中心自治民育要義と云つたのは、教育者の立場から学校を中心として自治民を造成せんことを論述したからである(38)」と述べている。村田はまた、自治民育を、町村自治の担い手である公民を造ることであるとした。しかも、それは、町村振興と国力の前提的基礎となるものであり、町村や国家のために貢献する能動的な主体(公民)形成を図るものであった。いいかえれば、町村や国家が求めたのは「義務としての自治」「義務としての公共心共同心」であり、村田の自治民育論はそれに応えるものであったのである(39)

福祉教育は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。また、それは、平和・民主主義・人権とともに、自立・共生・自治が基本的価値としてその根底に据えられるべき活動である。しかも、その際の市民とは、人間の尊厳と自由・平等・友愛に絶対的な価値をおく、権利・義務を有する民主主義の担い手をいう。そこから、福祉教育は、自治民育の教育・教化活動が「上から」の、あくまでも国家的・社会的責任=義務としてのそれであったのとは異なり、自立・共生・自治の意識に基づいた「下から」の、権利としての教育活動でなければならない、といってよい。とすれば、その権利をどのようなものとして、どのように獲得するか。また、その権利が保障されるためには、どのような社会的義務を、どのように引き受けなければならないか。地方分権が進み、市民社会の再構築が叫ばれるなかで問われるところである。

(2)地方改良運動の第一の課題は、地方自治体の再編策であった。この官製の国民運動は、第一次世界大戦後の社会不安に対処するための民力涵養運動(1918<大正7>年~1922<大正11>年)に継承され、昭和恐慌期における農山魚村の経済的困窮・社会的混乱を収拾するための農山魚村経済更生運動(1932<昭和7>年~1934<昭和9>年)へと、それぞれが異質な側面をもつ運動として連続する(40)。1937<昭和12>年には戦時体制化のもとで国民精神総動員運動がはじまり、ファシズム体制の確立をめざすことになる。

今日、国民保護法(2004〈平成16〉年)などの有事法制のもとで有事への準備が進み、国民の統制や動員が予定されている。社会福祉界では高齢者や障害者の自己責任が問われ、自立が強制されるなかで、社会福祉の後退と切り捨てが進んでいる。その一方で、地域における住民相互の「つながり」や「新たな支え合い(41)」に過度の期待がかけられている。教育界では2006〈平成18〉年の教育基本法改正の強行などにみられるように、子ども・青年の生きる力や学力が強調され、愛国心が強要されるなかで、教育の能力主義化の推進と国家統制の強化が図られている。福祉教育に関していえば、官製(的)奉仕活動の展開が推進されている。

このように市民生活や住民生活が脅かされ、国家による強要や統制が進むなかで、戦前の轍を踏まないためにも、「地方改良運動にみる福祉教育実践」の構造や特質を解明し、歴史的問題点や課題を明らかにすることを通して、地域・住民主権の福祉教育の可能性や方向性について追究する意義は大きいといえよう。なお、地域・住民主権の福祉教育とは、住民の生活課題や福祉課題を素材に、地域特性を踏まえた内発型の地域振興や自立的で能動的な住民自治を志向する教育活動である。そこでは「地域理解」「生活理解」を不可欠とする。

【注】

*   *   *

【初出】
「地方改良運動にみる福祉教育実践―福祉教育の遡及的原点を求めて―」『年報』Vol.13、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2008年11月、120~129ページ。
【参考】
阪野貢『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい、2009年10月、1~19ページ。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究への学び(その2) ―平岡国市「子供民生委員制度」の実践をめぐって―

〇筆者は、2004〈平成16〉年8月、子供民生委員制度に関する資料収集を行うために徳島県を訪ねた。その節、平岡国市の後を受けて1957〈昭和32〉年9月から6年間徳島県社会福祉協議会の職員として子供民生活動の推進に尽力された木谷宜弘先生(当時・ボランティア研究所)をはじめ、子供民生委員制度についての研究を地元で行っていた森依顕先生(元・徳島文理大学)や日開野博先生(元・四国大学短期大学部)などから貴重な資料の提示や助言をいただいた。また、子供民生活動の発祥(1946〈昭和21〉年7月)の地である三好郡西祖谷山村(みよしぐんにしいややまそん)西岡小学校と、1948〈昭和23〉年から継続的に子供民生活動を実施・展開した名西郡石井町(みょうざいぐんいしいちょう)藍畑小学校を訪ねることができた。なかでも西岡小学校を訪れた折には、夏休み期間中にもかかわらず、貴重な資料を拝見することができた。また、校舎正面の垣根のなかに、子供民生委員活動の発祥の地を示す石碑を見つけることができた。懐かしい思い出である。
〇下記の拙稿は、「子供民生委員制度」に関する原資料の紹介と子供民生活動の分析・検討を行ったものである。

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平岡国市と子供民生委員制度
―地域・地元に根ざした福祉教育実践のあり方を考えるために―
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【初出】
阪野貢『子供民生委員と市民福祉教育』中部学院大学、2005年4月、7~60ページ。
【参考】
阪野貢『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、13~65ページ。
【備考】
私事にわたり恐縮ながら、木谷宜弘先生からの書簡を添えさせていただきます。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究への学び(その1) ―狛江市社協「あいとぴあカレッジ」の実践をめぐって―

〇筆者はいま、あるきっかけを得て、「まちづくりと市民福祉教育」に関していろいろと思いを巡らしている。その際の問題意識は次のようなものである。

 【問題意識 ①】
〇「福祉教育」実践と研究はこれまで、一面では、子どもと高齢者、健常者と障がい者、ICIDH(国際障害分類)とICF(国際生活機能分類)、排除と包摂、対立と共生、などの二項対立的な分かりやすさのなかで論じられ、取り組まれてきた。その際、「協同実践」(参加者が相互に学び合う関係性)の重要性が指摘されながらも、主体と客体の関係性を前提にしがちであった。しかも、包摂や共生の概念的・抽象的な思考や理解に留まり、日常の地域生活場面においてその感覚化や生活化、行動化を促すことに必ずしも主体的・積極的であったとはいえない。
〇そして、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現が叫ばれるようになって久しいが、包摂や共生が未だ「お守り言葉」(鶴見俊輔)として使用されている感がある。それは、人々を思考停止に陥らせたり、ある種の刷り込みを可能にする恐れなしとしない。その要因や背景については、(1)福祉教育がその存立基盤となる原理論や思想・哲学への探究を等閑視してきたこと。(2)福祉教育の実践科学としての側面、すなわちハウツーや手法の提供に偏重してきたこと。(3)福祉教育がその固有性や自律性を十分に追究せず、学習内容や方法が確固たるものになっていないこと。(4)福祉教育が「政治」(福祉政治と教育政治)と対峙せず、「政治リテラシー」(政治的判断力や批判力)についてほとんど言及してこなかったこと、などを挙げることができる。
〇その結果、福祉教育は、政府・行政主導による福祉・教育改革の推進が図られるなかで、以前にも増して統制的で定型化された実践活動となりつつある。その弊害は、筆者が耳にする次のような声にも顕著に表れている。すなわち、「他地域の実践事例を見聞しても、以前のように『ワクワク感』が沸かなくなってきた」、「福祉教育が学校現場のニーズに即した形で十分な進展を見せているとはいい難い」、「現場実践と研究活動は不可分であり、両者の往還関係を構築することが肝要であるが、両者の間に乖離が生じている」などの指摘がそれである。
〇そういうなかで、いま求められるのは、歴史的視点や哲学的思考を重視しながら、福祉教育の原理論を探求し、福祉教育とは「そもそも何か」、それは「いかにあるべきか」、「いかに取り組むべきか」を、危機的な現場や生々しい実践との関わりのなかで本質的・根源的に問い直すことである。

【問題意識 ②】
〇「福祉教育」実践と研究はいま、大きな転換期を迎えている。従来の福祉教育は、ともすれば高齢者や障がい者に対する福祉の心の育成を図ろうと、子どもたちの個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」に重きが置かれてきた。また、福祉教育活動が、(1)高齢や障害による不自由や困難についての疑似体験や、(2)車椅子利用者や視覚障がい者などの生活を支援するためのガイドヘルプ技術の習得、(3)福祉施設などに暮らす高齢者や障がい者との訪問・交流活動、という3つの形態に限定されがちであった。そこには、少なくとも3つの深刻な課題が見出される。
〇第1の理論的課題は、「依存を否定する自立観の超克」である。福祉教育は「支援する側の優越感」(思いやりが思いあがり)を育むことになり、高齢者や障がい者の「依存する権利」や「自立は依存先を増やすこと」(熊谷晋一郎)という考え方を不可視化させていないか、という点である。 第2の実践的課題は、「まちづくりとの乖離の解消」である。福祉教育は教室内での知識学習や一過性の体験学習に留まり、日常生活が営まれる地域・社会そのものを変革しようとする志向性が脆弱である、という点である。そして第3の哲学的課題は、「主体変革としての教育観の確立」である。福祉教育を単なる知識や技術・技能の習得や情動的な共感教育に終わらせるのではなく、学習者が社会の課題を自らの問題として捉え直し、社会を創り変える主体(変革主体)へと成長していくプロセスを、いかなる人間観や教育観(理念的・哲学的な根拠)に基づいて構築していくべきか、という点である。
〇これら3つの課題は、個別に存在するものではない。新しい自立観という「理論」を携え、地域・社会の変革という「実践」を積み重ねるプロセスを経て、子どもから大人までを含む地域住民は、真の変革主体という「哲学」を体現する主体へと成長を遂げる。すなわち、「まちづくりと市民福祉教育」を一体的に捉えるための分析枠組み(視座)こそが、地域共生社会を共創する鍵となる。ここでいう「まちづくり」とは、単なるインフラの整備やハード面の構築を指すのではない。その「まち」に住む人々が互いの権利をどのように認め合い、どのようなルールで共に暮らすかいう地域共生社会の設計そのものである。一方、「市民福祉教育」とは、単なる知識や技術・技能の習得ではなく、その設計に主体的・自律的に参加(参集・参与・参画)するための自治力と共生力の育成である。つまり、教育によって市民のパラダイムの転換を図ることは、暮らしの社会的基盤や共生の作法を書き換えることを意味し、それが結果として地域・社会の仕組み(構造)の変革を促すのである。
〇そこでまず、1980年前後から「福祉で町づくり」を説き、福祉教育とボランティア活動のあり方を追究してきた大橋謙策の言説の原点に立ち返り、いまは「福祉はまちづくり」の時代にあることを認識することが肝要となる。そして、そこでは、「市民福祉教育はまちづくりの基盤であり、まちづくりは市民福祉教育の実践の場である」という考え方が重要になる。すなわち、「まちづくり」と「市民福祉教育」は、車の両輪の関係にある。前者は、誰もが排除されない仕組み(ハード・ソフト)を構築する営みである。後者は、その仕組みを動かし、更新する主体(市民)を育む営みである。そして、両者を媒介するのは、学習を個人の内面に留めず、地域の変革へと開いていく「学習の外化(社会化)」の概念である。

〇筆者が本格的に「福祉教育」実践と研究に足を踏み入れた嚆矢は、東京都狛江市社会福祉協議会における取り組みであった。それは、地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」)の策定(1990〈平成2〉年3月)であり、その中核事業である “あいとぴあカレッジ” の実践は、1990年代という早い段階で福祉教育を「まちづくり」の不可欠な基盤として位置づけたものであった。下記の拙稿はその一端をまとめたものである。
〇なお、「あいとぴあ推進計画」の策定は、1988〈昭和63〉年7月4日開催の第1回運営委員会、同年7月19日開催の第1回作業委員会からスタートした。
〇また、 “あいとぴあカレッジ” 「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われたのは、1991〈平成3〉年5月9日であった。

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福祉教育計画と学習プログラム
――狛江市社協 “ あいとぴあカレッジ ” の取り組みをめぐって――

はじめに

〇今日、地域福祉(活動)計画の策定が要請されるなかで、その一環として地域住民による福祉教育活動を動機づけ、促進し、援助するための方策の計画づくり――福祉教育の計画化が求められている。その福祉教育計画は、自治体によって策定される計画と地域住民が主体的に創りあげるものとに大別される。前者の自治体による福祉教育計画は、例えば、さらに市町村、広域行政圈、都道府県の3層に細分できる。また、その構造化の流れは、市町村→広域行政圏→都道府県の方向で考えるべきである。しかも、3層のうち、福祉教育の本質からいって、市町村レベルの計画が最も重要視される。後者の住民が主体になって策定する福祉教育計画は、東京都における地域福祉計画のいわゆる「三相」計画のうちの「地域福祉活動計画」の一環としてのそれであるといえる。
〇東京都狛江市の社会福祉協議会(以下、「社協」と略す)は、1990〈平成2〉年3月、地域福祉活動計画としての“あいとぴあ推進計画”を策定した。その計画は、ボランティア活動・福祉教育計画と在宅福祉計画の2つから内容構成された。本稿では、そのうちの福祉教育計画について、その策定過程と学習プログラムを中心に、その策定作業にかかわった者としての立場から考察することにする。

Ⅰ 福祉教育計画の意義と役割

〇福祉教育は、すべての地域住民の生命と生活を守り、人間的な発達と自立を保障する地域・社会を創造するために、住民がその主体となって家庭・学校・企業・地域などの場で展開する教育・学習活動の総体をいう。したがって、福祉教育活動は、単なる社会福祉に関する知識や技術の伝達活動ではない。啓蒙や宣伝活動でもない。また、教化活動でもないし、そうであってはならない。それは、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした、住民の内発的な意欲に基づいた、住民による自己教育・相互教育活動として展開される。その際、住民は、学習主体であるとともに教育主体でもあり、学ぶことを通して教え、教えることを通して学ぶ。換言すれば、住民は、相互に学びかつ教え、教えかつ学ぶという関係を通じて福祉文化の創造や福祉のまちづくりを進めるのである。福祉教育計画とは、地域住民がこのような福祉教育活動を自発的・主体的に創造し、展開していくための計画をいう。そして、計画そのものを練りあげていく主体は、あくまでも地域住民である。また、その取り組みは、そのまま同時に福祉教育の実践であり、運動でもある。
〇ところで、例えば、社協による福祉教育事業・活動は、従来、無計画に、あるいは単なる思いつきや経験などによって、しかもせいぜい単年度計画によって実施・展開されてきたといってもよい。そういった事業・活動に科学性・客観性・体系性を与え、また事業・活動を継続的に安定化させるものが福祉教育計画である。また、福祉教育計画は、一定地域内での福祉教育事業・活動を計画化の対象とする地域計画であり、かつ総合的な計画である。その際、福祉教育計画は、あくまでも地域計画としての福祉教育計画であり、地域の総合計画ではない。また、「総合的」とは、①計画内容として、事業計画、施設整備計画、マンパワー計画、財政計画を含む。②教育の3領域と呼ばれる家庭教育、学校教育、社会教育を生涯学習の視点から有機化・再編成する。③行政をはじめ、地域内の公的機関や民間機関、それに住民団体などとの連携・協働を図る。④福祉・教育・保健・医療などの関係行政、施設、機関の連携・統合化を図る。⑤長期・中期・短期あるいは単年度計画など、一定の見通しを立てる、といった意味である。
〇以上を要するに、福祉教育計画の策定の意義は、福祉教育事業・活動の総合化、科学化、体系化、継続化、それに合意形成などにある。また、その主な役割は、福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざした住民の自発的・主体的な福祉教育活動を担保することにあるといえよう。

Ⅱ 福祉教育計画の内容と策定方法

1 福祉教育計画の内容
〇福祉教育計画は、一般的・基本的には、①事業計画、②施設整備計画、③マンパワー計画、それに④財政計画の4つの計画から内容構成される。①事業計画は、福祉講座・講演会・行事などの諸事業の開催や福祉広報・啓発事業の実施に関する計画、②施設整備計画は、施設、設備、教材・教具などの開発、整備、活用に関する計画、③マンパワー計画は、福祉・教育・保健・医療などの関係職員、社会福祉サービス利用者、一般市民、ボランティアなどの開発、育成、活用に関する計画、④財政計画は、財源の確保や運用に関する計画、をそれぞれいう。これらのうち、基本をなすのは事業計画である。そして、福祉教育計画は、まず事業計画が策定され、次いでその事業展開に必要な施設整備計画とマンパワー計画が策定され、その3つの計画を裏うちするための財政計画が策定されて計画が構造化される。
〇➀事業計画(シゴト)の策定は、単なる思いつきや経験、勘(かん)、あるいはこれでの慣習などによって立案した福祉教育事業を羅列することではない。また、事業数の多さや事業の種類の多様さを誇るものでもない。福祉教育の目標に照らした有意義な事業を精選し、それら各事業の相互の関連づけを行うとともに、重点的な事業を中核に事業の構造化を図ることが肝要となる。
〇➁施設整備計画(モノ)は、住民の生活実態や学習要求、地域の教育や社会福祉に関する将来構想に裏づけられたものでなければならない。しかも、福祉教育振興についての長期的なビジョンのもとに策定されなければならない。その際、学校、公民館、社協、社会福祉施設などで現に行われている福祉教育の諸事業・活動や諸形態を生涯学習の視点で捉え、見直し、再編成し、その有機化・統合化を図ることが必要かつ重要となる。
〇➂マンパワー計画(ヒト)については、まず、自分のもっている知識や技術、能力や経験を地域住民のために提供しようという住民――“まちのために自分の知恵や腕を貸そう”という住民を発掘、確保し、またそういった住民を助言者や援助者として養成・研修するための計画が必要かつ重要となる。また、社協職員は、側面から住民の福祉教育活動を助長・奨励し、方法論的・技術論的に助言・援助することを本務とするが、その際、側面的援助活動の中枢をなすものは学習情報の提供と学習相談である。社協職員には、学習情報の収集・処理・提供に関する知識と技術を有し、学習の内容や方法について専門的に助言・援助しうる能力が求められる。そして、こういった知識や能力をもつ社協職員の養成・研修計画や配置計画が必要となる。
〇➃財政計画(カネ)は、福祉教育計画に現実性・実質性を与えるものとして、計画を空文化させないためにも必要不可欠である。その際、継続的・安定的な財源確保を図るために、科学的な現状分析と長期的な見通しをもった財政計画を立てることが求められる。すなわち、財政計画は、長期的に健全な財政構造が維持されながら、事業が円滑に、効率的・目的的・生産的に経営され、事業目標が達成されていくものでなければならない。
〇なお、こういった内容をもつ福祉教育計画は、単年度で完結されるものではない。一般的には中・長期にわたるものが策定され、その複数年度計画のなかから各年度の単年度計画が策定されることになる。中・長期の見通しを欠いた単年度の福祉教育計画は、体系性や計画性、必然性や説得性の弱いものになる。

2 福祉教育計画の策定主体
〇以上のような福祉教育計画の策定主体は、種々の学習要求や学習必要をもつ地域住民である。住民主体による計画策定がなされない限り、いかに建設的で理想的な計画が策定されたとしても、それは決して本来の意味での福祉教育計画であるとはいえない。しかし、福祉教育計画の主体は地域住民であるとはいえ、一部に傑出した住民が存在するものの、計画策定のための力量を備えた住民は極めて少ないといわざるをえない。そこで、現実的、実質的には、計画策定に際して社協が中核的・先導的役割を担うことになる。また、行政には、住民が主体的・能動的・自律的に福祉教育計画を策定することができるよう環境醸成や条件整備を図り、側面的援助を行うことが求められる。とりわけ社協職員には、計画策定に当たって、住民の主体性・自律性を損なわないように専門的・技術的に助言・援助するとともに、個々の住民の声が実質的に計画に反映されるよう配慮する特別重大な役割を果たすことが期待される。しかし、社協職員は、必ずしも計画策定についての科学的・専門的な知識や技術を有しているとはいえない。そこで、計画策定能力をもつ社協職員の養成・研修や適正配置が焦眉の課題となる。

3 福祉教育計画の策定過程と方法
〇計画は、通常、Plan→Do→See という手順で進められる。教育計画とりわけ福祉教育計画に関する限りは、そうした考え方ではその計画は空論化し、画餅に帰しやすい。福祉教育計画は、See(評価、調査)→Plan(計画)→Do(実施)→See(評価)というサイクルで進められなければ実効性のあるものとはならない。
〇すなわち、福祉教育計画を策定する場合、まず現行の福祉教育事業・活動を洗い出して現状と課題を明らかにするとともに、住民の福祉意識や社会福祉に関する学習要求や学習必要について調査検討することからはじまる。そのうえで、次に、目標の設定を行う。目標は、単に夢や理想を語ったものではない。また、スローガンを掲げたものでもない。目標を設定する際には、そのシゴト(事業)の実現可能性をはじめ重要性、緊急性、効率性などを考慮して設定されなければならない。目標が設定されれば、その目標を達成するために必要なモノ、ヒト、そしてカネなどの手段が選択され、その組み合わせについて検討されることになる。以上をより具体的・実際的にいえば、福祉教育計画は、➀目的の設定、➁目標の明確化、➂現状に関するデータの収集、➃目標達成のための合理的な手段の選定、➄事業・活動の展開、そして➅計画の評価、というプロセスをたどるのである。
〇➀福祉教育における目的は、最終の到達点をいうが、一般的には曖昧で抽象的・理念的なものにならざるをえない。しかし、目的を具体的に表現した➁目標は、抽象度を下げ、明確化を図ることが必要かつ重要となる。さもないと具体的な計画策定が不可能となり、また目標を達成するための手段の選定が困難になる。また、計画目標は、実現可能なものであり、焦点化され、しかも構造化されていなければならない。すなわち、抽象的・総花的で焦点の定まらない、しかも実現性の乏しい目標の設定は問題があり、無意味でもある。➂現状に関するデータの収集については、意図的・計画的・系統的に計画策定のための基礎的データを収集することが肝要となる。しかも、数量的調査のみならず、多様な形態と方法を駆使して地域住民の生活課題や学習要求などを捉えることが必要である。単発的なアンケート調査だけによる資料収集では、内実をともなった福祉教育計画の策定は困難である。➃目標達成のための手段は、目的合理的に選定・決定されなければならない。単なる思いつきや先進地域での実践例の模倣では意味がない。福祉教育計画は、本来、地域の歴史や特性を基盤に、地域住民自らの創意と工夫、そして努力によって策定される個性的なものである。➄各種の事業・活動には、個々ばらばらにではなく、常に相互の関連性のもとで展開されることによって有意義な成果を期待することができる。そして➅計画の評価は、目的や目標と裏はらの関係にあり、計画策定過程上、極めて重要である。そして、まずは設定した目標がどの程度達成され、どのような結果・成果があったかを見極めることがポイントになる。また、評価は、より整備された次の段階の計画策定を動機づけ、方向づけるために行われるものである。
〇以上の➀から➅のうち、福祉教育計画の策定過程上その心臓部分にあたるのは、➁目標の明確化である。計画目標の設定に際しては、➀地域住民の生活実態と生活課題や地域課題、➁住民の学習要求と学習必要、それに➂地域のさまざまな学習機会の供給実態などについて的確に把握することが必要かつ重要となる。
〇まず、➀住民の生活実態については、地域の歴史や特性に留意し、地域を展望し、将来予測を含めた生活実態を把握する必要がある。生活課題や地域課題については、それを生み出す生活構造や社会構造とのかかわりで把握すべきである。➁住民の学習要求は、現実的には住民の学習関心や学習の傾向について把握するなかで捉えることができる。その際、住民の生活実態や生活課題・地域課題とのかかわりで把握することが肝要となる。また、学習要求は、今日、高学歴化や情報化の進展によってますます多様化し、高度化しているが、住民自身によってまだ意識化、課題化されていないものもあることに留意する必要がある。そして、その学習要求の内容をいかに実証的に明らかにするかが問われることになる。一方、学習必要は、住民にとって社会的・発達的・教育的に学習が必要とされるものをいう。何を学ぶべきかについては、福祉のまちづくりや福祉教育、その計画策定などについての基本的な考えが問われることになる。この学習要求や学習必要は、そのすべてがそのまま現実の事業計画の内容とはならない。両者は福祉教育というフィルターを通して整理され、重要性・緊急性・日常性・共通性・適時性などの視点からプライオリティ(優先度)をつけて選択・精選され、課題化され、そして事業化されることになる。また、仮に学習必要だけで事業計画が立案された場合は、住民に強制感や疎外感を与え、住民に支持されるものとはならないことに留意する必要がある。➂地域の学習機会の供給実態については、社協や社会福祉施設などによる福祉講座や講演会などの開催状況、公民館や図書館などにおける社会教育活動の現状、それにカルチャー・センターをはじめとする教育・文化産業の動向などについて総合的に明らかにする必要がある。そして、それらの相互の連絡・調整を含めた計画策定が求められる。

Ⅲ 福祉教育事業計画の立案の手順と視点

〇福祉教育事業計画とは、福祉教育の全体計画(総合計画)の基本を構成するものであり、例えば福祉学級・講座や福祉講演会、福祉映画会、福祉祭りなどの実施計画をいう。それは、事業の名称をはじめ実施目的、実施主体、実施期間や時間、実施場所、学習者や参加者、講師や指導・助言者、学習目標、学習内容や方法、それに経費などを構成要素とする。それぞれの福祉教育事業計画のなかで学習課題(主題)や学習内容・方法、学習の展開過程などについて詳細に計画・立案したものを、福祉教育における学習プログラムという。それは、学校教育に即していえば、カリキュラムや学習指導案に相当する。そして、福祉教育計画と事業計画、それに学習プログラムの3者は、密接不可分の関係にあり、また福祉教育計画→事業計画→学習プログラムという順に具体化、実体化される。
〇ところで、狛江市社協が策定した“あいとぴあ推進計画”では、重点事業のひとつとして“あいとぴあカレッジ”の開講が構想された。それは、住民が“あいとぴあ”のまちづくりを主体的・創造的に展開するための、その善意の気持ちを有効に活かすための学習(福祉教育)の場として位置づけられた。ここでは、“あいとぴあ推進計画”策定後、“あいとぴあカレッジ”開講に至るまでの狛江市社協や住民の取り組みについて、とりわけ事業計画や学習プログラム立案の手順と視点に焦点をあてて概観し、若干の考察を加えることにする。

1 ボランティア活動推進委員会の設置
〇1990〈平成2〉年3月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会によって策定された“あいとぴあ推進計画”が、社協の理事会・評議員会において報告され、狛江市社協が今後取り組んでいく基本計画として承認された。そして、1990〈平成2〉年度は、“あいとぴあ”元年として、推進計画そのものの住民への周知・浸透と計画の実施・推進体制づくりが基本方針として定められた。
〇1990〈平成2〉年8月、狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会の発展的解散の後をうけて、在宅福祉推進委員会の組織化について検討する在宅福祉サービス関連事業連絡会とともに、ボランティア活動推進委員会(以下、「推進委員会」と略す)が設置された。推進委員会は、ボランティア活動・福祉教育推進事業の企画・立案を主な任務とし、学識経験者をはじめボランティア、地域住民団体、福祉施設・団体、地域産業、教育機関、行政機関、それに社協などの各関係者27名によって構成された。
〇推進委員会の委員に幅広く関連分野からの参加を求めたのは、各委員のそれぞれの分野での働きかけを通して、“あいとぴあ”市民運動の拡大と深化を期待してのことであった。例えば、ボランティアの生(なま)の声を伝えるために、狛江ボランティア連絡会(1984〈昭和59〉年4月結成)から3名のボランティアが委員として参加した。その3名は、推進委員会と狛江ボランティア連絡会とのパイプ役を果たした。また、教育の分野では、小・中・高等学校の校長や教頭、それに教育委員会の参加をえ、それが学校における福祉教育推進へのひとつの重要な契機にもなった。推進委員会は、1990〈平成2〉年度においては通算3回開催されたが、委員が多人数ということもあってか、積極的に協議するというよりは一面では承認機関的なものにとどまった。協議が積極的に行われたのは、推進委員会のもとに設けられたボランティア活動推進委員会企画小委員会(以下、「企画小委員会」と略す)の場であった。

2 “あいとぴあカレッジ”開講のための準備活動
〇第1回推進委員会において、“あいとぴあカレッジ”に関する諸事項の素案づくりを主な任務とする企画小委員会が設置された。企画小委員会は、推進委員会委員長(1名)、同副委員長(2名)、ボランティア(1名)、福祉団体関係者(1名)、中学校長(1名)、教育委員会関係者(2名)、福祉事務所長(1名)、それに社協理事(1名)の計10名の委員によって構成された。そこで検討された事項は推進委員会にもちあげられ、そこでの協議を通して合意形成が図られた。
〇1990〈平成2〉年9月には、企画小委員会のなかに作業委員会が設けられた。それは、学識経験者(推進委員会副委員長)と社協事務局職員の4名の委員によって構成され、通算4回開催された。そこでは、“あいとぴあカレッジ”に関する事業計画や学習プログラム立案の基礎的・具体的な作業が、主としてブレイン・ストーミングの討議法で行われた。
〇以下では、各回の企画小委員会において検討・協議されたことを、社協事務局の記録から概観することにする。

(1)第1回企画小委員会(1990〈平成2〉年9月)
〇“あいとぴあカレッジ”は、狛江という地域で、住民が寄り合って創るカレッジであるという点が再確認され、その考え方をベースにいろいろな意見が出された。例えば、福祉のまちづくりは住民の生活(暮らし)から出発しなければならない。したがって、その担い手の育成・確保を図ろうとする“あいとぴあカレッジ”は、住民の暮らしに密着したものであることが求められる。そこで、講師(指導者)は狛江市内の人材に求め、住民の生きざまに学ぶ。学習資料は、地域の実態や住民の生活現実に根ざした生(なま)の資料に基づく、手づくりのものとする。学習場所(会場)は、市内の小学校の空き教室を有効利用する方向で考えることにし、住民が下駄履きで気軽に参加できるよう配慮する、などが決定された。

(2)第2回企画小委員会(1990〈平成2〉年12月)
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムを中心に協議された。また、住民の・住民による・住民のためのカレッジであるという視点を生かすために、学習者もカレッジの運営に積極的にかかわれるような「運営委員会」の設置について検討された。その他、学習者が主体的・創造的にかかわれる体制づくりという視点から、開講式以前に第1回の学習日を設け、オリエンテーションを行う。聴講生制度の導入については、聞きたい講座だけ参加する「つまみ食い学習」では福祉のまちづくりは担えないという考えのもとに、見送る。カレッジの学長については、遊び心をもって市内の最高齢者などが候補にあげられたが、“あいとぴあ推進計画”の産婆役を務めた狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会委員長(学識経験者)に依頼する、ことなどが協議、決定された。

(3)第3回企画小委員会(1991〈平成3〉年1月)
〇“あいとぴあカレッジ”での学習内容や学習方法についての協議、講師団の絞り込み、それにカレッジ案内・募集要項(「あいとぴあカレッジ――入学のご案内」)についての検討などが行われた。席上、市内の人材による講師の講話内容や方法に関し、とりわけ講師が人前で話をすることや現実生活についての自分の思いや願い、悩みや苦しみなどの内面をさらけ出すことの戸惑いなど、いくつかの疑義が提示された。しかし、“あいとぴあカレッジ”は住民が相互に学び合う場であり、講師は、自分の生きざまを話すことによって学習者に住民としての生き方の素材を提供するとともに、自分自身も一人の住民として地域社会に貢献し、また自己実現・自己向上を図る、という基本的理念が再確認された。また、今回の企画小委員会では、学習評価の視点と方法についての検討もなされた。

(4)第4回企画小委員会(1991〈平成3〉年2月)
〇“あいとぴあカレッジ”の協賛団体の募集や学習者の修了レポートのあり方などについて検討された。また、学習プログラムの具体的な詰めの作業が行われた。そして、企画小委員会としての成案を得た。

〇1991〈平成3〉年2月、第3回推進委員会が開催された。そこでは4回にわたる企画小委員会での検討結果が報告され、協議を経てほぼ原案通り“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムが決定された。
〇“あいとぴあカレッジ”の事業計画案や学習プログラム案は、以上のように、作業委員会、企画小委員会、推進委員会のあいだを何度となく往復し、そのなかで練りあげられ、内容の深化が図られていった。また、4つの委員会は、住民参加の場として、あるいは関係機関・団体との連携・協働や合意形成の場としても有効に機能したといえる。さらにまた、各委員にとっては、委員会は学習の場であり、自己実現や自己変革の場であったともいえよう。“あいとぴあカレッジ”の開講にかかわった委員の変革や変容が、“あいとぴあ”のまちづくりの「はじめの一歩」となったのである。

Ⅳ 福祉教育の学習プログラム立案の方法と留意点

〇地域住民による福祉教育において、その学習プログラムの立案は難しい。その主な理由のひとつは、学習者の属性や生活の実状、それに基づく発達課題や生活課題、学習要求や学習必要などがそれぞれ異なるところにある。その点では福祉教育の学習プログラムには定型はなく、学習者の数と同じだけの学習プログラムが準備されなければならないことになる。しかし、現実的には、地域社会の実態や動向などが反映される個々の学習者の多様な生活実態やニーズから、共通する、統合されるプログラムを立案・編成することになる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムの立案に際しては、“あいとぴあ”のまちづくりのための学習の方向づけや内容づけがなされたことはいうまでもない。しかし、その際、住民に対する学習要求調査に基づいて住民が必要とする学習項目や学習課題を探り出すという手法は採られなかった。また、主な、中心的な学習者(参加者)を想定・決定し、そのうえで学習者の生活実態や学習要求を把握するということもなされなかった。その点においては、限界のあるプログラムであったといわざるをえない。とはいうものの、立案・編成に際して、基本的なところではとりわけ次の4点について認識され、留意されたことについては注目しておきたい。

(1) 学習プログラムの立案に際しては、「はじめに学習者ありき」という認識が重要である。しかも、その学習者を地域生活主体として捉え、その立場に即したプログラムの立案・編成が求められる。すなわち、個々の住民が現実的に抱える生活課題や学習要求、それに狛江市の歴史的社会性や地域性に基づく生活課題や地域課題などに焦点をあてた、実際的で実践的な学習活動の展開が必要かつ重要となる。
(2) 学習プログラムは学習活動の単なる日程表や予定表ではない。それは、学習者のモラールを引き起こし、高めることができるものでなければならない。学習プログラムづくりとは、地域住民の生活や学習に関する考えや思い、願いなどをプログラムという形に具体的に表現することに他ならない。その際、手づくりの、手のこんだ学習活動が自主的、主体的、そして自律的に展開されるよう工夫し、配慮することが求められる。
(3) 地域住民による学習は、地域生活に発し、地域生活に帰す。“あいとぴあカレッジ”における学習は、個々の住民に始まって個々の住民に帰るだけでなく、その成果が地域に還元されることが期待される。その際、地域への還元は、学習者自身の高まりや深まりなくしてはありえない。知識の単なる蓄積は態度の変容を促さないともいわれる。その意味からも、関心と感動を引き起こすプログラムの編成が求められる。
(4) “あいとぴあカレッジ”は、狛江市に暮らす住民を対象とするカレッジ(講座)ではなく、住民を主体とするものである。また、その学習プログラムは、住民の・住民による・住民のための、手づくりのものである。したがって、学習プログラムを立案・編成する過程そのものが重要となる。それ自体がすでに学習すなわち福祉教育の過程であり、“あいとぴあ”のまちづくりの過程でもある。

〇ところで、福祉教育の学習プログラムには、社会教育におけるそれと同様に、一般的には、「事業名」「主催者」「学習対象」「学習期間」「学習時間」「学習回数」「学習場所」「学習目標」「学習テーマ」「学習内容」「学習方法」「学習資料・用具」「指導・援助者」、それに「予算」などの諸事項が内容として含まれる。ここでは、“あいとぴあカレッジ”に関するそのうちのいくつかについて、その立案の方法や留意点などをめぐって論じることにする。

1 学習目標の設定
〇学習目標――学習プログラム全体のねらいは、到達可能なものを具体的に、焦点化して設定し、かつ魅力的なものであることが求められる。抽象的で総花的な学習目標は、学習目標を曖昧なものにし、学習プログラムの編成そのものを困難にする。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習目標は資料1のように設定された。そこには、学習活動そのものが福祉のまちづくりの実践や運動の一環であり、またそれへの具体的な参加が自らの生活をより豊かなものにすることに繋がることが示されていた。学習者が学習目標を身近に感じ、学習意欲を高めるためのひとつの工夫であった。

資料1 “あいとぴあカレッジ”の学習目標

2 学習テーマの設定
〇学習テーマは、学習プログラムの「顔」にあたるものであり、学習日ごとの学習内容を包括的に表現したものである。それは、学習者に対しては学習する概要を示すものであり、指導・援助者に対しては指導・援助すべき概要を提示するものである。そこで、学習テーマは、学習内容を的確に要約しているとともに、学習者が親近感や学習意欲をもちうるような、また学習の内容や方向を容易に想起し理解しうるようなものでなければならない。そして、また、学習者の属性や生活の実状などに適合し、指導・援助者には具体的な指導・援助活動の助けになるようなものであることが望まれる。すなわち、学習テーマは、課題性、親密性、それに具体性の高いものが望ましいといえる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習テーマは資料2のように設定された。それは、“あいとぴあ推進計画”策定過程で、1989〈平成元〉年9月に開催された第1回市民懇談会における分科会テーマをベースにしていた。その設定に際しては慎重を期し、とりわけその表現には工夫を凝らした。すなわち、学習者を引きつけ、学習者に受け入れられるよう、日常的、具体的、魅力的で平易な表現に心をくだいたのである。

資料2 “あいとぴあカレッジ”の学習テーマおよび学習内容

3 学習内容の選定
〇学習内容は学習目標を具現化したものである。プログラムに盛り込む学習内容の選定に際しては、いわれるように学習内容の種類の単純化と分量の少量化を図ることが肝要となる。多様な種類の学習内容が多量に盛り込まれると、学習者は消化不良をおこし、学習の疎外感や挫折感を味わうことにもなる。学習内容の種類と分量の単純化、少量化によって、学習者は成就感や達成感、充実感などを味わい、学習活動への取り組みを積極的なものにする。さらにまた、次の学習活動への参加を促すことにもなるのである。
〇学習内容がもたらす教育的効果は、その配列の仕方によって左右される。学習内容の配列は学習活動を持続、発展させるうえで重要である。そこで、まず、学習活動への導入をスムーズに行うために、学習者に身近な、日常的・経験的・実際的な学習内容をもつものが配置される。そのうえで、内容配列には連続性と発展性、系統性、それに常に流動的に対処しうる弾力性、柔軟性などをもたせることが肝要となる。また、適切なところに「遊び」や「ヤマ場」の部分をバランスよく配列することが求められる。それによって、プログラムはより豊かなものになり、立体化・構造化する。そして、また、学習者にはゆとりや充実感、向上心などを与え、積極性を生むことにもなる。
〇“あいとぴあカレッジ”の学習内容は資料2のように選定、配列された。その学習プログラムは、単なる「福祉のまちづくり概論」や「社会福祉概論」を講じるための、いわゆる一般教養的学習を行うためのものではなかった。福祉のまちづくりの主体形成をいかにして図るかという観点に立ち、大きな学習課題のもとに立案・編成された。そして、その内容は、福祉のまちづくりについて歴史的・社会的に学習する「総論」、現実の個々の生活場面に即して学習する「各論」、それにまちづくりのための具体的な方法や技術について考え、その習得を図る「方法論」の3つの部分から成っていた。その結果、それは、学習内容が広範囲にわたり、一面では総花的なものになった。また、必ずしも十分には学習成果を日常生活につなげ、現実の生活課題の解決にせまりうるものにはならなかった。すなわち、学習成果の実践化や生活化への配慮が不十分であったともいえる。“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムは、学習の深まりに応じて基礎課程→実務課程→専攻課程と進む段階別編成がなされ、累進的体系化・構造化が図られていたが、上述の点は基礎課程における学習プログラムのひとつの限界であった、といえようか。

4 学習方法の選択
〇学習方法は、現実的には、学習の目標や内容をはじめ、学習者の属性や意識・意欲、指導・援助者の関心や能力、学習資料や用具、学習の時間や場所など種々の条件によって選定、決定される。学習の効果を高めるためには、単一の学習方法にこだわらず、多様な学習方法を有機的・立体的に活用・多用し、場合によっては視聴覚的手法などを併用することも求められる。学習方法には「講義」「討議」「話し合い」「発表」「実技」「実習」「調査」などがあるが、適切な学習方法を選択することは学習者の学習内容の理解を助け、認識を深め、学習効果を高めるだけでなく、学習者の学習への興味や関心、意欲などを持続させたり学習集団を維持させるためにも必要かつ重要となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、「講義」「討議」それに「実習」を中心にしながらも、「見学」や「話し合い」「発表」など学習者の主体的・能動的な活動を促す方法が採用された。また、学習を補強し、学習内容の高度化を図るために、ビデオでの視聴も組み込まれた。それらのうち、例えば「見学」は、現実生活に直面しながら学習課題にせまることができるという点においてメリットがあった。「話し合い」では、学習者の体験や主観・実感のレベルにとどまらないよう留意された。また、「発表」は、学習者が「胸におちてわかる」「身体でわかる」ためにも必要かつ重要であった。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、集会学習として公開の講演会を2回開催した。それは、学習に対する学習者の家族の理解と住民へのPRを意図したものであった。

5 学習資料・用具の選定
〇学習資料(教材)や学習用具(教具)は、学習効果を高めるための重要な要件のひとつである。学習資料や用具の選定に際しては、学習の目標や内容、方法に対する適切度、学習者の属性や日常的な地域生活との緊密度、それに指導・援助者の学習資料や用具に対する熟知度などとの関連が重視される。そして、種々の学習資料や用具を整備し、有効に活用することが求められる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習資料に関しては、まず指導者(講師)に、指導者相互の事前打ち合わせを通してレジュメと資料の提示を求めた。そして、それを、「受講生便覧」「学習ノート」「学習資料」から成る冊子(『AITOPIA COLLEGE』B5判、52ページ)にまとめ、学習者に第1回開講日の「オリエンテーション」時に配布した。また、学習者に対しても、新聞・雑誌・広報紙などの関連記事や身近な住民の「生きざま」など、地域のさまざまな、生(なま)の資料を入手し、それを学習資料化することが求められた。その作業は、学習者にとってはそれ自体がすでに学習活動であり、また学習に迫力をもたせることを意図してなされた。

6 指導・援助者の活用
〇学習活動の展開とその深化・高度化には指導・援助者は欠かせない。学習目標を達成するためには、そのための意欲と能力をもつ指導・援助者が必要不可欠となる。
〇“あいとぴあカレッジ”では、講師(指導者)については、原則的には著名度や専門度で選定することは避けた。また、できる限り狛江市内から人材を発掘することにし、とりわけ福祉のまちづくりのための実践や運動に参加している一般住民の活用を図った。その理由のひとつは、学習内容の生活性や地域性を期待するとともに、学習者の学習活動やその成果の体験化、生活化、地域化を容易にすることにあった。講師の講話(レクチュア)については、学習活動の方向を定めるものではなく、あくまでも学習者の自主的・主体的な学習活動を誘発させ、持続、発展させるための補助的な役割を果たすものとして位置づけられた。すなわち、講師にはいわば話題提供者としての役割が期待され、学習を結実させ、具体化するのはあくまでも学習者自身であるとされた。また、講師は、ひとりの住民として、その活動を通して社会的貢献と自己実現・自己向上を図ることが期待された。
〇また、“あいとぴあカレッジ”では、学習者の学習活動が自主的・自発的に展開され、講師への依存度を少なくするよう、学習活動全般にわたって集団的あるいは個別的な助言・援助を行うチューター(学習援助者)を配置した。チューターには社会福祉系大学院の学生3名に依頼し、学習者と講師のあいだにあって、個々の学習者に対して、あるいは学習者内のリーダーを有効に活用して、たえずその援助性を発揮することが求められた。
〇なお、講師とチューターには、学習者が自主的・創造的な学習活動を展開しうるよう、学習内容や方法などについて協議を重ねることが求められた。また、彼・彼女らには、それぞれの学習指導・援助過程でいかにして「人間」や「生活」、「地域」や「まちづくり」にせまり、切り込んでいくかが問われた。

7 学習時間・場所等の決定
〇学習プログラムを企画・立案する際、時間的要素として、学習の時期、期間、時刻(時間帯)、回数(時間数)などについて検討することが求められる。それらは、地域の特性をはじめ、学習の目標や内容・方法、学習者の属性や生活実態、学習場所の学習条件や地理的条件などとのかかわりにおいて検討され、設定される。また、学習日と学習日の間隔(学習のインターバル)は、学習の習熟度や達成度との関連を考慮して設定される。
〇“あいとぴあカレッジ”では、学習時期を5月から8月までの第Ⅰ期と10月から2月までの第Ⅱ期に分け、それぞれ15回の学習日を設定した。学習日は、原則として毎週木曜日の午後6時30分から8時30分の2時間とし、公開講演や体験学習、施設見学などは土曜日の午後に組み込まれた。それらは、学習者の時間的制約をできる限り緩和・解消するための配慮であった。また、週1回の学習は、学習日と学習日とのあいだに、学習者によって個人学習や自主的な活動が展開されることを期待してのことでもあった。資料3は、1日の学習日の学習の流れ(「展開プログラム」)を示したものである。「学習活動」に連続性をもたせていた。「講話」と「討議」にそれぞれ50分の時間が配分されていた。また、「学習のねらい」に受講生とともに講師のそれが明示されていた、ことなどが注目されよう。

資料3 “あいとぴあカレッジ”における学習の流れ

〇学習場所(会場)の決定にあたっては、学習の目標や内容・方法に十分に対応できる施設・設備を有する場所が考慮されなければならない。また、地理的条件については、原則的には、学習場所への所要時間が徒歩で15分から20分程度以内が望ましいとされている。
〇“あいとぴあカレッジ”では、狛江市と狛江市教育委員会の理解と協力をえて、市のほぼ中央に位置する小学校(図書室)を学習会場とした。学校を学習会場としたねらいのひとつは、学校(教育)と社協(福祉)との連携強化を図り、地域の福祉教育関連諸資源のネットワーク化を促進することにあった。また、小学校(教員)をはじめとする学校における福祉教育の推進が期待された。

〇“あいとぴあカレッジ”開講のねらいは、福祉のまちづくりの担い手を育成し、その量的拡大と質的向上を図ることにあった。しかも、その基礎課程は、住民に対して、福祉のまちづくりのための実践や運動を動機づける学習課程であった。そこでの学習をひとつの契機に、多くの住民がさらに学習活動を続けるとともに、地域福祉活動やボランティア活動へ参加・協力することが期待された。そういった“あいとぴあカレッジ”の基礎課程の学習プログラムは、その立案に際して、以上のほかに次の諸点が留意された。

(1) 一定以上の学習成果を得るためには、学習集団の規模の適正化を図る必要がある。そこで、定員制を採用し、第Ⅰ期、第Ⅱ期ともに募集人員を30名とし、さらにそれを15名ずつの2グループと、7~8名ずつの4つの班に分けた。それによって、学習者の人間関係の緊密化とコミュニケーションの効率化を図った。
(2) 学習者の自発的な学習活動を触発するとともに、学習者がそれぞれの能力を発揮し、役割と責任を分担するよう班活動や係活動の展開を学習者に求めた。すなわち、各班より1名、計4名の班長が選出され、班長には各班の取りまとめと、“あいとぴあカレッジ”の運営に関する諸事項について協議・決議し、執行する「運営委員会」活動への参加が求められた。また、「学級通信」の編集と発行を行う「広報委員会」に8名の学習者が選ばれた。なお、「運営委員会」は、学長(1名)、常任講師(2名)、チューター(3名)、学習者代表(4名)、それに“あいとぴあカレッジ”の学習プログラムなどの企画・立案に当たったボランティア活動推進委員会委員(2名)の計12名によって構成された。
(3) 学習活動の修正や向上・発展、よりすぐれた学習活動の創造を図るために、学習評価を重視した。すなわち、学習者の評価活動を学習活動の一環として位置づけ、学習者に慣習化、定着化させることに努めた。また、学習修了者には、学習活動の総括と自己評価のために、簡単な、1人1編のレポートの作成と提出を求めた。
(4) 学習者から、特別の学習資料や学習者の自主的活動のための費用として、受講料3,000円を徴収した。それによって、学習者の中途脱落を防ぎ、自主的・主体的な活動の積極的展開を期待するとともに、参加責任をもたせた。
(5) 賞賛と激励、学習の継続と福祉のまちづくりへの参加・協力への期待を込めて、学習日10回以上の正規の修了者には修了証を授与した。学習日が10回未満の学習者については、不足分を第Ⅱ期で補うことによって正規の修了とした。

〇いずれにしろ、学習プログラムは、計画された活動が予定通り、「静かに」展開されることをよしとするものではない。学習者に能動的・創造的な活動を促す動的なものでなければならない。それによって、学習の深化や高度化を期待することができるのである。

むすびにかえて

〇1991〈平成3〉年5月9日、“あいとぴあカレッジ”「基礎課程」第Ⅰ期の第1回の学習(「オリエンテーション」)が行われた。学習者は募集定員の30名を数えた。その内訳をみると、性別では男性6名(20%)、女性24(80%)、年齢別では10歳代1名、70歳代1名、40歳代と50歳代がそれぞれ9名ずつで最も多く、全体の6割を占めた。また、職業別では、主婦を中心にしながらも、教員、学生(高校生、大学院生)、施設職員など多種多様であった。居住区別では全市的であり、狛江市に移住して4~5年になる者が多かった。地域に関心をもちはじめる居住年数なのであろうか。
〇講師は24名、チューターは3名、その他に社協事務局職員3名もカレッジの運営などにかかわった。計30名、学習者と同数であった。1991〈平成3〉年8月29日、第Ⅰ期生の学習発表会と閉講式が開催された。修了者は28名を数えた。修了者の学習活動への出席率は、土曜日の体験活動や公開講演以外は、常に90%前後の高率を示した。続いて、9月19日には、修了者主催の「卒業記念パーティー」が開催され、また交流活動をはじめ学習活動やボランティア活動などを行うための自主的なグループ――「一期生の会」が発足した。

【参考文献】
(1) 岡本包治・山本恒夫編著『社会教育計画』第一法規出版、1975年。
(2) 岡本包治編著『学習プログラム』(講座「現代の社会教育」第3巻)ぎょうせい、1980年。
(3) 藤岡貞彦編『社会教育の計画と施設』(「日本の社会教育」第24集)東洋館出版社、1980年。
(4) 市町村自治研究会編『市町村計画資料集』第一法規出版、1982年。
(5) 日高幸男・岡本包治編著『社会教育のプログラム』全日本社会教育連合会、1984年。
(6) 岡本包治『社会教育における学習プログラムの研究』全日本社会教育連合会、1984年。
(7) 全国社会福祉協議会編『地域福祉計画』全国社会福祉協議会、1984年。
(8) 岡本包治・山本恒夫編『生涯教育のアイディアと実際』(「生涯教育対策実践シリーズ」第4巻)ぎょうせい、1985年。
(9) 大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全国社会福祉協議会、1986年。
(10) 大槻宏樹編『コミュニティづくりと社会教育』全日本社会教育連合会、1986年。
(11) 岡本包治・小山忠弘・福留強編著『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合会、1987年。
(12)『地域福祉計画策定の手引』大阪府社会福祉協議会・大阪府衛星市町村社協事務局長会、1987年。
(13) 小川利夫・大橋謙策編著『社会教育の福祉教育実践』(「シリーズ福祉教育」第5巻)光生館、1987年。
(14) 木全力夫編著『社会教育計画論』東洋館出版、1988年。
(15) 岡本包治ほか『学習プログラムの技法』(「生涯学習テキスト」第4巻)実務教育出版、1988年。
(16) 『東京都における地域福祉推進計画の基本的あり方について』東京都地域福祉推進計画等検討委員会、1989年。
(17) 松下拡『健康学習とその展開』勁草書房、1990年。
(18) 矢野真和・荒井克弘編『生涯学習化社会の教育計画』(「日本の教育」第1巻)教育開発研究所、1990年。
(19) 日本地域福祉学会第4回大会地域福祉計画関係資料集編集委員会編『地域福祉計画の視点と課題』日本地域福祉学会第4回大会実行委員会、1990年。

【初出】
阪野貢「地域における福祉教育の計画と学習プログラム」『日本の地域福祉』第5巻、日本地域福祉学会、1992年3月、84~106ページ。
【参考】
阪野貢『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい、2009年10月、205~231ページ。

*   *   *

〇以上から、「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に関して、次の諸点について留意しておきたい。

(1)本実践では、計画策定の手順を Plan→Do→See  ではなく、See(評価、調査)→Plan(計画)→Do(実施)→See(評価)とした。 住民のニーズや地域課題を徹底的に「見る(See)」ことから始めるこのサイクルは、計画の空論化を防ぐための必須条件である。アンケート調査という数字の裏側に隠れた、住民の「生活の実感」を汲み取ろうとしたのである。

(2)「あいとぴあカレッジ」では、住民の学習要求(学びたい)と学習必要(学ぶべき)を地域福祉のフィルターを通して精選し、具体的な事業・活動化を図った。これは、確かなまちづくりを推進するための基盤であり、同時に住民間の合意形成を構築するプロセスとして位置づけられたものである。

(3)“あいとぴあカレッジ”では、住民や大学院生を講師やチューター(学習援助者)として確保・養成する「ヒト」、小学校の図書室を拠点とする「モノ」、受益者負担による参加責任を明確にした「カネ」、そして手づくりのプログラムを企画・実施する「シゴト」の4要素を体系化した。これにより、福祉教育を一過性の単なるイベントに留めず、地域に根ざした、共働の、持続的な「まちづくり」のための事業・活動としてその構造化・計画化を図ったのである。

(4)“あいとぴあカレッジ”では、「福祉の知識を教える」「ボランティア精神を養う」といった教育者から学習者への一方的な知識伝達(パウロ・フレイレ「銀行型教育」)ではなく、福祉教育を「住民による自己教育・相互教育活動」と捉え直した。 ここでは、住民は単に「学ぶ者」ではなく、学ぶことを通じて自らの生活を見つめ直し、地域の課題を自らの課題として再構成する「教育主体」として位置づけたのである。

(5)“あいとぴあカレッジ”では、学習プログラムのテーマを「児童家庭福祉」「高齢者福祉」といった制度的・形式的なものではなく、「あなたは一人で子どもを育てられますか」「あなたの老後の暮らしは誰がみますか」といった、個人の内面に問いかけるものとした。これによって、福祉(「ふくし」)を「他人事」から「自分事」へと引き戻そうとしたのである。

(6)“あいとぴあカレッジ”では、講師選定において著名度や専門度をあえて避け、地域の人材や「生きざま」を語れる住民を優先した。これは、住民が自らの苦労や願いを語り、それを他の住民が聴く。この「語り」と「傾聴」の連鎖こそが地域における共感のネットワークを紡ぎ出せると考えた。講師もまた一人の住民として自己実現を図るという、学ぶ者との双方向の関係性を重視したのである。

(7)“あいとぴあカレッジ”では、学習プログラムのなかに「遊び」や「ヤマ場」を配列し、学習者のモチベーションを維持するように工夫した。「車椅子で歩く狛江の街」「楽しい仲間とティータイム」といった実習や交流活動などは、教室内の座学を「身体的な体験」へと変換する装置である。感動や驚きを伴う体験(ヤマ場)が、知識を「知恵」へと昇華させ、地域を変える力へと変容させるのである。

(8)“あいとぴあカレッジ”では、その運営体制にも腐心し、学習者自身が班活動や広報活動を担う仕組みを設けた。それは、カレッジ自体が「小さな地域コミュニティ」であることを意味する。委員会の場での議論、対立、そして合意形成のプロセスそのものが、民主的なまちづくりのトレーニング(福祉教育)となることを期待したのである。

(9)“あいとぴあカレッジ”では、社協職員の役割を、主導権を握ることではなく、住民の主体性を引き出すための「触媒(カタリスト)」であることを重視した。 学習情報の提供、学習相談への対応、そして住民同士をつなぐコーディネート。これらは、社協職員に求められる、高度な専門技術を要する「側面的援助」である。住民を信じ、待つ、というこの忍耐強い伴走こそが、住民の内発的なパワーを引き出すとともに、それを支える職員自身の専門性をより高度な次元へと引き上げるのである。

(10)“あいとぴあカレッジ”では、最終的な評価指標を受講生の数や満足度ではなく、学習後に、どれだけの住民が「ふだんの、くらし」のなかで新たな行動を起こしたかに設定した。 「一期生の会」の発足に象徴されるように、学習が集団的なアクションへと発展し、地域のインフォーマルな支え合い組織へと脱皮していく過程こそが、本実践の最大の成果である。

〇“あいとぴあカレッジ”の実践は、1990年代のそれである。「格差社会」や「分断社会」「監視社会」、あるいは「新・階級社会」などといわれる現代社会において、地縁の希薄化や価値観の多様化、さらには生活困窮の重層化といった変数がある。かつて地域コミュニティの核であった「学校」もまた、閉鎖性の打破や地域開放が叫ばれるなど、大きな変容の渦中にある。そして、“あいとぴあカレッジ”の学習テーマに据えられた高齢者や障がい者などの問題に加えて、精神疾患を抱える当事者やその家族、社会的孤立者、外国籍住民、性的マイノリティ、あるいはデジタル弱者などの問題が重要な課題として突きつけられている。さらには、“あいとぴあカレッジ”の会場とされた小学校の図書室が果たした役割を、現代ではSNSやオンラインプラットフォームが一部代替しつつある。
〇こうした社会変容のなかで、福祉教育の場をどこに見出すべきか。どのような媒体を通じて、住民の・住民による・住民のための福祉教育を再構築すべきかが問われている。その際、手前味噌ながら、当時この取り組みに深く関わった者の一人として確信しているのは、「福祉教育はまちづくりのエンジンであり、まちづくりは福祉教育の教材である」ということである。この視点を今こそ、強く意識すべきであろう。

全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター/全国社会福祉協議会における福祉教育の推進

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


 

 


出所:2025年11月29日~30日に愛媛県松山市の聖カタリナ大学北条キャンパスで開催された日本福祉教育・ボランティア学習学会第31回えひめ大会において、29日に課題別研究➂として「社協職員の福祉教育実践における価値の言語化~多様な実践の蓄積から紡ぎだす基盤としての価値~」の報告がなされた。本資料は、その際、話題提供された河邉裕子氏(全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター)の報告「全国社会福祉協議会における福祉教育の推進」のレジュメである。

⇨全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター「『福祉教育』の推進に向けた検討委員会報告書」2025年11月10日/本編

謝辞:転載許可を賜りました日本福祉教育・ボランティア学習学会と全社協・全国ボランティア・市民活動振興センターに衷心より厚くお礼申し上げます。全社協の河邉裕子さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。
市民福祉教育研究所/主宰・田村禎章