福祉教育の歴史は終戦直後から始まると捉えるのが通説である。しかし、それは戦前の福祉教育に関する歴史をふまえたものではない。戦前に関しては、更なる検討が必要とされる2つの説があるにすぎない。それは福祉教育の遡及的原点を大正デモクラシー期の新教育運動に見出す説と、地方改良運動に見出す説である。前者に関しては村上(1994)が、大正デモクラシー期の新教育運動の中でも、とりわけ「池袋児童の村小学校」の野村芳兵衛による生活教育や修身教育の実践を、福祉教育の遡及的原点として紹介している。後者に関しては、大橋(1997)が地方改良運動の諸実践の中には今日の福祉教育と同じような実践がみられると述べている。(三ツ石行宏「<解題>福祉教育史研究の課題と展望―阪野論文に導かれて―」日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸~学際性と変革性~』大学図書出版、2014年10月、52頁)
はじめに
〇筆者は、福祉教育の歴史研究において、1930年代の生活綴方教育の実践や運動のなかに、今日の福祉教育実践に通底する側面や要素が含まれていたのではないか、との仮説を立てている。その実証的検討の端緒として、本稿では太郎良信「国分一太郎による生活綴方教育批判の検討―1936年から1939年における―」(『文教大学教育学部紀要』第45集、文教大学、2011年12月)を取り上げる。
〇太郎良はその論考において、国分一太郎(1911年3月~1985年2月)の軌跡を次のように指摘している。すなわち、1930年から1935年にかけては綴方を通して生活の現実に学ぶ教育実践(「生活勉強」)を説いていた国分が、1936年から1939年にかけては生活綴方教育批判へと転じ、綴方教師たちに対して地域における啓蒙活動への参画を呼びかけるようになった、という点である。太郎良は、生活綴方教育批判を主題とする国分の論考を時系列に沿って精緻に分析・検討することで、この変遷を明らかにしている。
Ⅰ 1936年における国分一太郎と生活綴方教育運動の時代背景
〇1936年は、二・二六事件が発生した年である。また、思想犯の意見・表現の自由を制限した「思想犯保護観察法」の制定など、教員への圧迫が構造化された年でもある。それは、1929年10月に始まる世界恐慌をひとつの契機に経済的・政治的・社会的矛盾と混乱が深刻化するなかで、日本が軍国主義化・ファシズム化を進め、日中戦争(1937年7月勃発)と太平洋戦争(1941年12月勃発)への道を辿るターニングポイントとなった。1936年はまた、国分にとっても特筆されるべき年である。国分がその重要な担い手であった北方性教育運動(生活綴方教育運動)が衰退傾向を示し、その運動の拠点であった北方教育社(1929年6月、秋田市に創立)が同年8月に閉鎖に追い込まれている。それは、「視学などの圧力と、内部的な脆弱性」(津田道夫『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社、2010年1月、150頁)によるものであった。なお、1936年の前年1月に、国分がその中心的役割を果たした北日本国語教育連盟(秋田市)が正式発足し、8月には国分がその組織強化活動に関わった北海道綴方教育連盟(釧路市)が設立されている。
〇ここで注目すべきは、1930年代半ばにおける「社会事業」概念の変容である。当時の日本社会は、国家総動員体制に向けた「厚生事業」へと舵を切る過渡期にあった。国分が「社会事業」という用語を用いた背景には、単なる慈善救済への関心を超え、疲弊する農村共同体を教育の力でいかに再編し、国家の矛盾に抗し得る「生活主体」を形成するかという、教育と社会事業の境界領域における模索があったと解釈できる。
〇本稿では、太郎良が紹介・検討した論文群のなかから、国分が「社会事業」に関心を持ち、生活綴方教育と社会事業の関係や、社会事業がもつ教育的効果に言及した次の2本の論文(以下、「1936年論文」と総称)を対象とし、その翻刻と解題(史料紹介)を行う。
(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」『日本文化と国民教育』第2巻第5号、東宛書房、1936年8月、74~79頁。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・国語教育』第6巻第10号、厚生閣書店、1936年10月、152~157頁。
〇この作業は、単に福祉教育の遡及的原点を追究するに留まらず、冒頭に記した三ツ石が指摘する課題、すなわち「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続を検討する必要性」(三ツ石「前掲論文」54頁)に応えるための端緒を開くことを企図している。また、未開拓の史資料を収集・分析・評価することを通じて、既存の福祉教育像をより豊かに再構成することをめざすものである。なお、対象とする論文は福祉教育史研究においても貴重な史料であるため、その文脈と詳細を忠実に再現すべく、引用が長大にわたることをあらかじめ付言しておきたい。翻刻にあたっては、原文の表記を尊重し、旧漢字・旧かな遣いは原則としてそのまま用いた。
Ⅱ 史料翻刻と解題
―「社会事業的教師」の提唱―
(1)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」
かうした困難なる生活を生きる子供をかゝへて青年教師は何とするか。或る人は歴史の秩序を信ずる事によつて、この現実の中に真実を、砂の中の砂金のかけら程でもいいからみつけさせて行かうと精神的になる。ある人はこの困惑は薬だといふ。この困難にまけぬやうな意志だけが大切だと説教する。乞食根性をもつなといふ。困難はやがて幸福のもとと出世美談みたいな真理を活用する。
ある青年教師は、子供とはそんな現実主義者ではない。夢の人だといつて、のびのびと、ゆるやかに魂と身を伸さうと賢明なことを言ふ。だがその子は家に帰ると、あまりにも多産な我が母のために、その弟妹をおばねばならぬ。そして背柱湾曲と統計表に計算される。
ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番だ。あとは何も出来ないと言ふ。真実をかけ真実をみよといふ。見てどうするかと言へば答はない。あるとしても「真実のみが、未来をはらんでゐる」と深遠だ。あとはどうにもならぬとアナーキーになり、更に虚無におちいる。そこである若者どもは生活意欲をもたせようといふ。それには自分がもつ事だといふ。所が、その生活意欲とは何ぞやと質問をする先生が出る。生活意欲とは貧乏でなくなりたいといふだけものではないと答へられると、そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び出したと叱る。もう一人はこんご、多分に空想的だと度々いふ。(76~77頁)
そこで小学教師よ。青年教師よ。如何に生きんとするや――とせつぱつまつて来た。
曰く社会事業的教師とならん。曰く文化事業的教師とならん――とこの際答へたい。だが僕たち一人でそんな事をされるとは限らない自分の生活は困らぬから社会事業にしたがふといふわけにはいかないのが薄給中の薄給の青年教師だ。壮丁の検査成績がわるいとすぐ、保健省設置を提議できる陸軍とは何といふ羨しい熱心な存在だらう。我々教員は一番村に近くゐて、村の人々とも一番近い所にゐて、その子等の上にその人々の生活を知りつくしながら、医療国営一つ、生活安定一つの徹底をも、建議できない人間共である。漢字の存在や歴史的仮名遣ひが、如何に国民生活を不便にし子供を苦しめつゝありと知りながら、それが廃止の建議案をすら、直ちには出す事が出来ない。それをなし得る団結がほしい。
社会事業にしても、今の担当者は村の有力者や教育者の古手であつて、青年教師の手中にはない。だが、社会事業的出発のし方は大小とりまぜて色々ある。その小さい所からはじめて、日本の青年教師が手をつないで大きな社会事業をなし得る機会をまつことが大切ではないだらうか。託児所が論ぜられ、実践され、校外教育が再吟味され、地域中心の学校施設が問題とされ、生産学校が行はれはじめたのもみな、教育が社会事業の側にうごいて来た証明できる。紙芝居の教育的実践さへもがそれである。
社会事業には、解釈の浅さはあつても、行動の重要さをとらねばならぬ。よい社会事業は、よい社会改造を目標としてゐる筈だ、歴史がゆがめる社会事業があるにはあるにしても、それを駄目だと解釈して、貧しきものは貧しきまゝにして置いていい筈はない。文化の大衆への浸透、それもまたその不可能や困難をかこつより、よい文化合理化されたそれを、小刻みに与へて行く必要は十分にあるのだ。老年教師を啓蒙することもひとつだ。
じつとしてゐるよりは行動をした方がいい。行動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的だとしたら、青年教師はそこへ行くだらう。それをきらつて、「生活を描け描け(くの字点―引用者」とばかりいつてるのは、「貧しい事がなくなると、よい綴方が出なくなる」と心配する事の愚に等しい。
といつて、教室からとび出し、学校をはなれて、防貧や救貧事業にのり出せとか、保健衛生事業にでかろといふのではない。「純粋の情熱」や「きれいな知性」をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬのだ。
かういふ物の考へ方を先生がもつことがそもそも大事な生き方の精神となるのだ。僕らが育てた国民が大きくなつたら、すべての代議士が退職積立金法案には賛成を無条件にするように、農業保健法は立派に制定してくれるやうにとか、小作法はにぎりつぶさぬやうにとねがひたいならば、まことに気永な話ではあるが、社会政策的見地にたつ考へ方を国民に充満させねばならぬ。それの尖兵隊は社会事業家であらう。その尖兵の行動を見習ふこともなくして、意欲がどうの態度がどうの、リアリズムがどうのといつた所で、それが単なる精神的な「覚悟」に終らなかつたら御目出度うだ。
僕達青年教師は、小さい頃、人道主義的見知で育てられたらしい。その頃の青年教師に。だが真にヒユーマニストとして生きてゐる人間は何人ゐよう。前述の如く孤立して僅かに情熱をセンチと化するが落ちではないか。逆に封建的な精神で人間、子供を律しようとしてゐないとは言へぬ。
青年教師が、意欲をいひ、モーラルをいふ若さは悪いといはぬ。それはよい。だが現実とそれでは、まだまだ(くの字点―引用者)距離があるやうに出来てゐるといふ方が正直だ。その距離をうづめる手段も持たないでは困るのだ。
社会を愛し、文化を愛する青年教師の全日本的聯結が、それぞれの報告にもとづいて社会事業的、文化啓蒙的教育の行動形態を建設するの急務が叫ばれて欲しい。(77~79頁)
〇本論文は、当時25歳の国分が「青年訓導の立場から」書いたものである。
〇国分は、絶対的貧困にあえぎ、「社会の矛盾」にさらされている東北農村の子どもたちの「現実生活」と、それに向き合う青年教師の状況を述べる。その際、「情熱と知性」を本質とする青年教師の教育実践(生活綴方教育)を、「自嘲的」「揶揄的」に描いている(太郎良「前掲論文」28頁)。そのうえで、国分は、自分たちが育てられた「人道主義的見地」ではなく、「社会政策的見地」に立って、青年教師に「社会事業的教師」になるよう呼びかける。「『純粋の情熱』や『きれいな知性』をいだいて無為に過さんよりは、社会的な悪を憂い、物事を心がけの悪さからだと考へずに、社会の矛盾がなせる業だとなして活動しようとする、社会事業家の生き方のその態度を、青年教師こそ、色々の先生方の層に先んじてもたねばならぬ」。「よい社会改造を目標」とする「よい社会事業」の行動は、「一番今のところ進歩的」である、と国分はいう。しかし、その言説は、青年教師に対して「社会事業家の生き方のその態度」の必要性を説くに留まっている。国分自身の社会事業的教師として、具体的な教育実践に裏づけられたものにはなっていない、といえよう。
〇しかし、国分が「情熱」を単なる感傷や主観的な同情論に矮小化させず、「社会政策的見地」を求めた点は、教育の「内面化」に対する痛烈な自己批判であった。これは、子どもを「救済の対象」としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する「連帯の主体」として捉え直そうとする、福祉教育における「主体形成論」の先駆的形態として位置づけられる。
〇なお、「教育が社会事業の側にうごいて来た証明」についての指摘は、「教育福祉」の視点を示すものとして留意しておきたい。
(2)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」
主観的なものを客観的なものへ、個人的なものを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの道は、つねに「現実生活」の把握によつて「現実生活」で証明し、現実生活にとかしこんで導かねばならぬ。自然発生的な社会認識をもつた子供を科学的な社会認識に導くことも、生物的人間を社会的人間にひきあげることも、すべて「生活」によつて証明しつゝ、あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあるひは子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ。(156頁)
人間教育とか、純粋感情の教育とか(情操陶冶)といふレツテルを張つてやつて来た綴方教育が、産業の発達による社会的情勢の変化によつて、漸次、より広範囲な生活教育として、その直接的な武器として、生活態度の陶冶と、生活技術の鍛錬とにまで進展したことによるともいへるであらう。そして社会事業の方が、概念的な小学教育よりは、より教育的感化をもたらすといはれる如く、概念的な知的学科や、観念的な情操教科に比して、より現実的な綴方の方が有意義なものとされ、それには昔さながらの文壇的ひとりよがりの指導よりは、より教壇的な協働生活関係としての、生活組織器関(ママ)として役立つやうに吟味されるに至つたのである。(157頁)
僕達の綴方も、あらゆる教科が、生活を証明材料として引つさげて来り、綴方の道をゆたかにしてくれる限りは喜んでむかへるであらう。それらによつて生活の知性がたかまり、生活が充実し、生活行動が真摯になるならば、綴方にとつて其れはこのましき限りである。
それよりも却つて、綴方が綴方の垣の中にとぢこもる如きは、その機能を衰微させる自己矛盾として、むしろ警戒するに価することなのである。貧しさを深刻にかいた綴方があつてくれるやうに、貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ――等といふのは綴方の望む処ではない。貧しさのなくなるやうに、防貧事業や救貧事業が、あるひはもつと根本的な社会事業が、学校の周囲でどしどし(くの字点―引用者)と行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である。即ち、綴方の局外よ。他教科にとどまらず、学校全般、社会全般の批判も、どしどし(くの字点―引用者)と綴方の垣を越えて来てほしいのである。かくしてこそ、綴方はますます(くの字点―引用者)生活組織としての機能を発揮するに便利であらう。(157頁)
〇本論文は、国分によると、「世代の綴方論」としては「消極的駄文」であり、「児童作品批評に於ける若干の解剖」を行う「警告的駄文」(153頁)である。
〇国分は、子どもの綴方に対する教師の批評は、「文芸評論」の影響を受けて、優秀な、見本となる作品などをよしとする「文壇的批評」の傾向にある。そうではなく、個々の子どもの「現実生活」や生活認識などに留意した「教壇的批評」が重要である、と説く。加えて国分は、現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であり、「子供達が村の社会的事業や、文化事業にかこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次にわからせていかねばならぬ」という。
〇そして、国分は、生活綴方と社会事業の関係について言及する。国分にあっては、社会事業によって感化されたことを綴方(作文)に書くことは、現実生活から学び、生活行動に生かすことであり、概念的・観念的な教育に比して教育的であり有意義である。すなわち、生活を綴ることで生き方を変えていくのである。また、生活綴方は国語教育にとどまらず、学校教育や校外教育への広がりをもつことによって、子どもたちの社会事業への関心を促すことになる。すなわち、「社会事業が、学校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方にとつて慶賀すべき事である」。
〇以上の「1936年論文」において、国分は、当時の文壇的批評に流れる綴方教育の現状に対し、批判的あるいは警告的な立場から論じている。その際、その論拠は必ずしも明確であるとはいえない。また、社会事業による教育・啓蒙とその教育的効果への関心と期待を示している。その際の社会事業の言辞については、観念的・抽象的なものに留まっている。とはいえ、当時、国分は、生活綴方教育の実践や運動において指導的役割を担っていた。そういうなかで、国分の社会事業に関する関心や発言は、青年教師(綴方教師)たちにどのような影響を与え、どのような取り組みを生み出したのか。その前提として、国分がよしとする綴方教師としての「教師像」はどのようなもので、どのような特質をもつものであったか。今後の研究課題とすべきところである。
〇太郎良は、前掲の論考で、「視学等から監視や干渉を受けて、つねに弾圧をおそれていた」国分にあっては、生活綴方教育批判は「視学等の心証を良くするためのものであった可能性がある」(36頁)という。そうだとすれば、国分の社会事業への関心は単に、そのためのものであったのか。そうではなく、ファシズムの常態である公権力による教育の支配・統制が強化されるなかで、それに対抗する教育実践として、「社会改造」を目標とする社会事業に期待したのか。興味のあるところである。
〇なお、国分は、1938年3月に教職を免ぜられた。1941年10月には、左翼的傾向をもつ北方性教育運動(「抵抗としての生活綴方運動」)の関係で警察に逮捕されている。そもそも、軍国主義ファシズム最頂期の1940(昭和15)年には、「治安維持法」(1925年4月公布、5月施行)によって全国で300人を超える生活綴方教育運動の指導的立場にあった教師たちが検挙・投獄されるという大規模な弾圧が起きていた(乙訓稔「国分一太郎の生活綴方教育の理念」『実践女子大学生活科学部紀要』第50号、実践女子大学、2013年3月、52頁)。また、1938年1月に健民健兵政策を推進するために厚生省が創設され、同年4月には人的・物的資源を統制運用するために「国家総動員法」が公布、5月に施行された。それを契機に、社会事業は戦時厚生事業へと変質し、戦時体制の枠組みに組み込まれていく。
〇いずれにしろ、国分が社会事業の教育的効果に関心を示したことについては、個人的にも時代的にも厳しい状況に追い込まれていったこととの歴史的文脈・関係性のなかで考究する必要があろう。国分は、1943年7月に判決が下される過程で「転向」を余儀なくされている。国分の社会事業への関心とその呼びかけは、生活綴方教育批判を行うなかでの、「抵抗」「転向」あるいは「偽装転向」としてのそれであったのか。綴方教師たちはその点をどのように受け止め、どのような社会事業的な教育実践に取り組んだのか。それとも、綴方教師に対する弾圧が強まるなかで、取り組むことができなかったのか。あるいは、教育現場の綴方教師たちは、国分の呼びかけに対して端(はな)から一顧だにしなかったのか。それらを歴史的・実証的に明らかにすることが求められよう。
〇周知のように、敗戦後の生活綴方教育は、1950年7月の「日本綴方の会」(1951年9月「日本作文の会」と改称)の発足や、国分の『新しい綴方教室』(日本評論社、1951年2月)、無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)等の刊行などを契機に復活・興隆する。そして、1950年代前半にひとつの頂点を迎える。それは、戦後の新しい教育(教育の民主化)のなかで、戦前の生活綴方教育を継承・発展させようとするものであったと評される。そこでは、貧困からの脱出が最重要課題とされたが、具体的に「現実生活」がどのように把握され、「生活教育」がどのように規定されていったのか。綴方教師によって「社会事業的」な教育実践は展開されたのか。「戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続」に関する研究課題のひとつである。
〇以上の考察を踏まえ、本史料の今日的な位置づけを総括すれば、こうである。すなわち、本稿で翻刻・解題した国分の「1936年論文」は、生活綴方教育運動がファシズムという外部圧力と内部的な閉塞感に直面する時期の苦悶を象徴する史料である。国分が提唱した「社会事業的教師」への転換は、単なる綴方指導の技術論ではなく、冷厳な社会矛盾に直面する子どもたちの「現実」を前に、教育がいかにして実効性を持ち得るかという、教育の存立根拠(教育の社会的責任)を問う切実な叫びであったといえる。
〇特筆すべきは、国分が「情熱」や「知性」といった内面的な人道主義を「自嘲的」に退け、社会政策的見地に基づく「行動」と「社会改造」を強調した点である。これは、教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続させようとする「教育福祉」的な視座の萌芽を明確に示している。通説では戦後を起点とする福祉教育の歴史に対し、本史料は、戦前の北方性教育運動のなかに今日の福祉教育に通底する「実践の深層」(思想的伏流)が存在したことを実証的に基礎づけるものであろう。
〇今後の課題は、この国分の呼びかけが、当時の草の根の綴方教師たちによっていかに受容され、あるいは変質し、戦時厚生事業へと回収されていったのか、その「変容のプロセス」を実証的に追うことにある。さらに、戦後の生活綴方教育の興隆期において、これらの「社会事業的」視点がどのように継承・再編されたのかを明らかにすることで、戦前と戦後の福祉教育史の連続・不連続性を体系化しなければならない。
〇政治と教育の距離が再び緊密化し、社会の分断が深化する現代において、80余年前の国分の問いかけは看過できない重みを持っている。教育が「社会の矛盾がなせる業」を直視し、単なる精神論に陥ることなく、いかにして具体的な「社会の改善」に寄与し得るか。この歴史的教訓を掘り起こし、現代の「まちづくりと市民福祉教育」のあり方へと還元していく作業こそが、本研究が真にめざすべき地平である。
Ⅲ 生活教育論争の止揚
〇周知のように、1937年5月に「教育科学研究会」を結成した城戸幡太郎と留岡清男は、雑誌『教育』(第5巻第10号、岩波書店、1937年10月)において生活綴方教育批判を行った(1938年「生活教育論争」の発端)。「綴方教育は児童の生活を理解し、生活態度を自覚せしむることはできるが、彼等の生活力を涵養することはできぬ。彼等の生活力を涵養するには彼等の生活問題を解決することのできる生活方法を教へねばならぬ」(城戸幡太郎「生活学校巡礼」48頁)。「生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教師の鑑賞に始まつて感傷に終るに過ぎない」(留岡清男「酪聯と酪農義塾」60頁)、がそれである。こうした手厳しい批判に対して、「社会事業的教師」(綴方教師)たちはどのように反応し、どのような新しい教育課題を見出し、またどのような教育実践を展開したであろうか。
〇1930年代後半に展開された「生活教育論争」をめぐって、一言するとこうである。まず、城戸や留岡が提唱した「生活方法の教育」は、科学的・合理的な知性によって生活上の困難を克服する「技術」や「組織化」を重視するものであった。留岡の酪農教育実践に象徴されるように、それは貧困という客観的課題に対し、いかに生産性を高め、合理的な生活習慣を確立するかという「生活力の涵養」に力点が置かれている。福祉的観点からいえば、これは「自立助長」のための機能的アプローチであり、現代の社会福祉における「エンパワメント」や「社会資源の活用術」の先駆形態と評価できる。
〇それに対して、国分が提唱した「社会事業的教師」は、そのベクトルが異なる。国分は、生活綴方教育が陥っていた「鑑賞」や「感傷」を自嘲的に退けつつも、城戸らが批判した「現実の凝視」をあえて社会事業の「態度」へと接続させた。ここでの「福祉的」独自性は、以下の2点に集約される。
(1)社会矛盾の構造的覚知としての綴方
〇城戸らが生活の「改善(技術)」を求めたのに対し、国分は綴方を通じて「社会の矛盾がなせる業」を直視し、それを「社会政策的見地」へと昇華させることを求めた。これは、単なる生活技術の習得を超え、自己の苦難を社会構造の問題として捉え直す「意識化」のプロセスである。
(2)伴走者としての教師像
〇 「生活方法の教育」における教師が指導者・技術伝達者であるのに対し、国分の説く「社会事業的教師」は、村の貧困と矛盾のなかに身を置き、子どもとともに苦悩を共有しながら、社会制度の不備を告発しようとする「アドボカシー(権利擁護)」の萌芽を含んでいる。
〇すなわち、城戸らが「生活の科学的解決」をめざす合理的・システム的な生活改善(自立助長)に近い立場であったとすれば、国分は綴方というメディアを介して、生活者の沈黙を社会的な声へと変えていく草の根のエンパワメント・モデル(主体形成)を模索していたといえる。この相違こそが、社会の矛盾を直視し、子どもの生活実態を記述することで自己や社会を変革しようとした国分らの独自性であり、現代の「まちづくりと市民福祉教育」へと通底する重要な源泉となっている。
Ⅳ おわりに
―戦前と戦後を貫く伏流―
〇本稿では、国分が1936年に示した「社会事業的教師」という概念に焦点を当て、その思想的背景と福祉教育史における意義を検討してきた。ここで改めて強調すべきは、国分が求めた「社会事業家としての態度」が、単なる教育技術の拡張ではなく、ファシズム前夜という極限状況下における「教育の公共性」(教育の社会的責任)の再定義であったという点である。
〇国分は、教室という閉鎖的な空間で「内面的な真実」を綴らせることに安住する教師のあり方を、あえて「自嘲」という形で否定した。彼が「社会政策的見地」を呼びかけた背景には、子どもたちの背柱湾曲や多産・貧困といった「身体的・経済的剥き出しの現実」に対し、既存の教育学が十分な回答を持ち得なかったことへの危機感があった。この「教育の無力」を直視したところから、地域の社会構造へと介入しようとする「社会事業的」な志向が芽生えた事実は、後の福祉教育にも通底する「学習の外化(社会化)」への鋭い感受性が、すでにこの時期の国分のなかに備わっていたことを示唆している。これは、当時の社会事業側からの教育への接近ではなく、教育側からの社会事業への主体的越境である。
〇また、本稿で触れた城戸・留岡らとの「生活教育論争」の視点から言えば、国分の独自性は「生活方法(技術)」の提供に留まらず、綴ることを通じて自己の生活を「社会的な文脈」で読み解き、社会構造の変革を図る変革主体へと脱皮していくプロセスの萌芽を宿していた点に求められよう。これは現代の福祉教育が掲げるべき「まちづくりと市民福祉教育」のテーマに近接している。今後の課題は、この国分の「叫び」が、当時の現場教師たちにいかなる「沈黙の抵抗」あるいは「実践の変容」をもたらしたかを、より具体的に実証することである。戦時下の「厚生事業」への回収という歴史的断絶がある一方で、戦後の『山びこ学校』等に見られる「村を綴る」営みのなかに、いかなる形でこの「社会事業的視座」が潜流として継承されていたのか。
〇戦後80年を過ぎ、今また「教育の政治的中立」や「自己責任論」が強調されるなかで、教育が社会の矛盾を「自分事」として引き受ける態度は、一層の重要性を増している。国分が1936年に示した、弱者の傍らに立つ「伴走者」としての教師像を掘り起こす作業は、単なる懐古的な歴史研究ではない。それは、現代における「市民福祉教育」が、単なるボランティア体験の推奨を超え、いかにして「社会を変革する主体」を育み得るかという地平を切り拓くための、不可欠な知的営為なのである。
〇以上を総じて言えば、本稿の検討から明らかになった点は次の通りである。 第1に、「社会事業的教師」とは、単なる教育技術の行使者に留まらず、社会の矛盾に対する構造的な認識に基づき行動する主体として構想されていた点である。 第2に、そこには戦後の福祉教育に通底する「変革主体」としての主体形成論の萌芽が見て取れる。 したがって、国分の「1936年論文」は、断絶として語られがちな戦前と戦後を、福祉教育思想の地平において架橋するものである。それは同時に、現代における「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を探究するための、不可欠な歴史的準拠枠を提供するものであると言えよう。
補 遺
―歴史的具体的生活課題と向き合う「主体」の原像―
〇戦後の生活綴方教育の金字塔と評されるものに、前述した無着成恭のいわゆる「山びこ」実践がある。「『山びこ』実践では、教師も子どもたちも、自分の生き方・道徳を前面に出して行動し、討論し、教育し、学習し、生活することを課題としていた。(中略)『山びこ』実践によって形成されつつあったのは、山村社会の改革を担おうとする教師と子どもたちの共同主体だった。そして生活綴方と文集は、生活現実の認識・分析と村や学級の交流と共同を支え、促進する強力な手段だった」(奥平康照『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会、2016年2月、70頁)。
〇本稿の補遺としてあえて、無着成恭編『山びこ学校』に収められている江口俊一の生活綴方「父の思い出」の一節を引いておきたい。
みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいのかわからなかった。(28頁)
〇ここで綴られた「誰に『ちきしょう』といえばよいのかわからなかった」という困惑は、個人の内面に閉ざされた悲しみではない。それは、自身の生活を破壊した不条理な力(戦争・国家・政治)の正体を突き止めようとする、切実な「認識の萌芽」である。
引用・参考文献
(1)奥平康照(2016)『「山びこ学校」のゆくえ―戦後日本の教育思想を見直す―』学術出版会。
(2)国分一太郎(1951)『新しい綴方教室』日本評論社。
(3)佐野眞一(1992)『遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年―』文藝春秋。
(4)津田道夫(2010)『国分一太郎―抵抗としての生活綴方運動―』社会評論社。
(5)中内敏夫(1970)『生活綴方成立史研究』明治図書。
(6)無着成恭編(1951)『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録―』青銅社。
【初出】
阪野貢「『生活綴方教育と福祉教育』に関する研究への端緒:国分一太郎の1936年論文―資料紹介―」(ブログ『市民福祉教育研究所』2015年5月12日公開)
本稿は、このブログに掲載された論考を改題し、加筆・修正を行ったものである。




