阪野 貢/神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開
―戦後初期福祉教育における「統治」と「変革」の相克―

はじめに

〇中・高等学校生徒を対象に社会福祉への理解と関心を高め、家庭や地域社会への社会福祉思想の普及を図ることを目的とした神奈川県の「社会福祉研究普及校」制度は、1950年に創設された。制度がスタートしたころは、敗戦による経済の崩壊状態から、1949年のドッジ・ライン(デフレ政策)を契機とするドッジ安定恐慌を経て、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需ブームへと進み、量的にはほぼ戦前の水準に経済復興が達成されようとする時期であった。しかし、経済の拡大過程は、膨大な数の生活困窮者を沈殿・固定化させ、また新たな低所得階層を生み出すことになった。この時期はまた、占領軍による強力な社会福祉の民主化政策が展開され、いわゆる福祉三法体制が成立するなかで、朝鮮戦争を機に再軍備が進行して「大砲かバターか」の議論がさかんになろうとする時期でもあった。社会福祉の実態そのものは、その後しばらく理念の空転と政策的無力状態が続いた。
〇また、この時期、敗戦によって学校現場は崩壊し、子どもも教師も虚脱と混乱のなかにあった。1947年に新学制がスタートし、新設教科として「社会科」が誕生した。初期社会科の学習法は、1947年発行の学習指導要領(試案)に基づく、子どもの生活経験を重視する「経験学習」から始まった。1951年の改訂では、それをさらに発展させ、現実の社会課題を科学的に追究する「問題解決学習」へと重点が移された。しかし、1955年および1958年の改訂を経て、知識の体系的習得を重視する「系統学習」へと大きく変質することとなった。
〇「経験学習」や「問題解決学習」は、子ども自身の生活上の問いを起点に、科学的思考や批判的判断力を養い、「民主主義の形成者」の育成を至上命題とした。しかし、東西冷戦の激化という国際情勢や、産業界からの「基礎学力の確保」を求める強い要請を背景に、教育の重点は「系統学習」へと転換していく。こうした戦後社会科教育の変遷は、単なる指導法の変容ではない。それは、「社会を創り変える主体を育てるのか、既存の社会に適応する人材を育てるのか」という、国家の教育方針をめぐる深刻な相克を象徴している。すなわち、日本の民主主義の担い手をいかに形成するかという、教育の根源的なあり方を問う激しい葛藤の歴史であったといえる。
〇また、1950年、当時の文部大臣・天野貞祐は、学校行事での国旗の掲揚と君が代の斉唱を提唱し、愛国心教育の必要を提起した。天野は次いで、戦前の教育勅語にかわる道徳的基準の作成と、戦前の修身科に準じる道徳教科の特設 (復活)を説いた。その後、このいわゆる「天野構想」 に対して、道徳教育の振興をめぐって賛否両論が激しく対立することになった。こうした背景には、アメリカとソ連を軸にした国際緊張が進むなかで、共産主義に対抗し、国家社会に奉仕する国民を育成するための教育を推進する必要についての認識があった。また、子どもの生活実態に関していえば、全ての国民の生活が混乱し、人心が著しく荒廃するなかで、青少年の非行や犯罪が急増するという事態もあった。
〇こうしたなかで、神奈川県では、1950年度に単独新規事業とし社会福祉研究普及校制度を創設した。その理由(「本事業を始めた理由」)は次のようなところにあった。「社会福祉事業は戦後質的にも量的にも急激に向上し共同募金等の大衆運動と相まって県民の理解も次第に高まりつつあったとは云え青壮年期以上の国民は未だ旧態の慈善事業的感覚を払拭するにいたらず近代社会福祉事業の基礎理念である相互扶助精神の徹底化を期するためには将来国民の中堅となる、中、高等学校生徒に対し社会福祉教育を実施するのが最も効果的であろうと考え昭和二十五年度、県単新規事業として採り上げたものであります((1))」。
〇また、制度創設のきっかけのひとつに、当時国民の身近なものになりつつあった共同募金や歳末たすけあい運動に対する次のような考え方(批判)があった。すなわち、それらの活動は「どちらかといえば、その目的が募集金品の量におかれ、その根本たる社会福祉事業への理解と協力、社会福祉思想の普及という面が軽くなりがちで、しかも運動の期間も一定の短時日に限られるためどうしても皮相的になりがち((2))」である、というのがそれである。
〇本稿は、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成立過程と展開を検討し、戦後初期における福祉教育実践の特質を明らかにすることを目的に、文献史料の分析を中心とする歴史的研究を行うものである。とりわけ、本制度が学校教育のなかでいかなる位置づけを与えられ、どのように実践されたのか、さらにそれが当時の道徳教育や社会教育的機能といかなる関係を有していたのかを分析する。
〇併せて、史料の制約から補助的な論述になるが、同時期に独自の展開を見せた鳥取県八頭郡社会福祉協議会(以下、「八頭郡社協」と略す。)の取り組みについても言及し、戦後初期福祉教育実践の実証的な考察を試みる。そこでは、神奈川県の事例が制度による規律化と内面化という統治構造を体現する側面を持つのに対し、八頭郡社協のそれは地域生活課題に基づく地域変革を志向していた点に焦点を当て、戦後初期福祉教育の実像を実証的に浮き彫りにしたい。すなわち、行政主導型と地域主導型という、対極的な福祉教育実践のあり方に関する歴史的比較検討である。
〇福祉教育が、戦後新教育の掲げた「民主的な社会の形成者」の育成といかに切り結んできたか教育課程論の変遷や、社会科教育、道徳教育、人権教育、さらには「総合的な学習の時間」といった広範な教育史的文脈のなかで、福祉教育がいかに構造化され、また変質していったか。これらを明らかにするためには、まず戦後初期における福祉教育実践の原初的な構造を解明することが肝要となる。本稿は、そのための試論である。

Ⅰ 神奈川県の社会福祉研究普及校制度と福祉教育実践

〇社会福祉研究普及校制度は、当初、「社会事業教育実施校」という名のもとに発足した。 そこでは、担当教員の打合せ会や講習会、それに施設見学などを通して、「社会事業教育実施要綱」の基本線に沿った福祉教育が展開された。1950年度においては、試験的に先ず都市部から公立中学校5校、公立高等学校4校 私立中・高等学校1校の計10校が普及校として指定された。指定期間は3カ年であった。普及校の指定に当たっては、公立学校にあっては県教育庁、私立学校にあっては県学事課が推薦し、それに基づいて県民生部が各学校の了解を得たうえで指定する方法がとられた。翌1951 年度には、農村部から5校(公立中学校3校、公立高等学校2校) が追加指定され、ここに、「県下各地に、社会福祉事業の理解、普及活動を指定校を中心として波及的に浸透させようとする方針が確立され全県的な意味をもって実施((3))」されることになった。
〇また、 1951年度には、この制度の名称が「社会福祉事業研究普及校」制度と定められ、その要綱は 「社会福祉教育運営要綱」となった。この改称は、1951年に行われた社会福祉事業法の制定に呼応したものである。同時に、救済的・慈善的な「社会事業」観から、憲法25条を基盤とした公的責任に基づく「社会福祉」概念へと、教育現場における認識を移行させようとする行政側の政策的な企図が反映されていたと解される。また、研究普及校の指定期間が1950年度指定を除いて2カ年と決定された。
〇その後、社会福祉事業研究普及校の名称は、1967年度から「社会福祉研究普及校」と改称され、1973年度からの継続校制度(1カ年の指定延長)、1981年度からの小学校指定などの変更を伴いながら、1998年度に新規指定が中止されるまでおよそ50年間継続実施された。表1は、1960年度までの指定校数の推移をみたものである((4))。

表1 指定校数の推移

〇1952 年2月、 1950・51・52 年度にそれぞれ指定された社会福祉事業研究普及校の「研究発表会」が平塚市の江南高等学校において開催された。研究発表校と発表題目は次の通りである((5))。研究発表会の開催目的は、社会福祉研究普及活動の成果を発表しあい、その歩みを振りかえることによって社会福祉思想や社会連帯意識の向上・発展に寄与しようとするところにあった。発表に際しては、民生部社会福祉課が中心になって各校の発表概要を冊子にまとめている。

発表校:発表題目
江 陽  中学校:本校における社会福祉教育運営上の留意点
酒 句  中学校:社会福祉教育実施内容について
秦 野  中学校:本校における社会福祉教育の実態について
池 上  中学校:社会事業に関する学習指導について
栗田谷      中学校:社会福祉事業研究普及の方針について
藤沢第一 中学校:我が校の実施状況について
鶴 嶺  中学校: 本校における社会福祉思想の普及について
富士見  中学校: 社会福祉事業教育の方法
桜ヶ丘 高等学校:社会福祉事業に関する世論調査
津久井 高等学校:社会福祉研究委員会の活動について
江 南 高等学校:社会福祉教育の実際 (公開授業)
山 北 高等学校:高校社会科における社会福祉思想の導入
小田原 高等学校:本校の活動状況について
翠 嵐 高等学校: 社会科における社会保障制度の研究について
鶴見女子高等学校:本校における社会福祉活動について

〇この研究発表会を通して、高等学校においては、主として「実践活動よりも社会保障等についての研究、地域社会福祉事業についての調査、研究等」が行われていることが明らかにされた。それに対して中学校では、主として「社会福祉の精神を各分野に導入して、広範囲な実践活動((6))」が展開されていることが明示された。
〇およそこうして、社会福祉研究普及校制度は一応その形を整え、そのもとで 1953年度以降、中学校と高等学校の各指定校において福祉教育実践が展開されたのである。その際、県民生部では、教育の主体性を尊重して指定校には、下記の「社会福祉教育運営要綱」中の「6. 実施方法」にあるような側面的な協力・支援をするにとどめ、各指定校がその実情にあった自主的で独創的な普及校活動を実践する、ということをその基本方針としていた。しかしそれは、一面では、教育の主体性や学校の自主性を尊重するというよりは、県はむしろ学校側の自律性に過度に依存していた(「あなたまかせ((7))」の姿勢)と評価されるところでもあった。
〇県はまた、「社会福祉研究普及校補助金交付要綱」にもとづき、普及校に対して研究普及活動費を補助した。当初1校あたり年間1万円であった補助金は、1957年度に1万5,000円、59年度に2万円に引き上げられている。

〇いずれにしろ、以上の経緯から明らかなように、社会福祉研究普及校制度は単なる教育実践の奨励にとどまらず、行政主導のもとで学校教育に社会福祉思想を制度的に導入しようとする試みであった点に特徴がある。すなわち、本制度は、外在的な強制による統制ではなく、学校という制度装置を媒介として個人の価値意識に働きかける統治のひとつの形態として理解する必要性がある。本制度は、学校教育活動を通じて内面的規範の形成を図り、社会秩序を支える主体を育成するという点で、内面化を通じた統治という特徴を有していたといえよう。
〇このような統治的性格を背景として、都市部から農村部へと段階的に指定校を拡大した過程は、地域差を踏まえつつ福祉思想の普及を図ろうとする政策的企図を示している。また、高等学校においては社会保障制度の認知的側面が重視され、中学校においては実践活動を通じた体験的側面が重視された点は、発達段階に応じた福祉教育のあり方がすでに模索されていたことを示唆している。
〇県民生部社会福祉課は、1960年3月、 制度創設10周年を記念して『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』 (以下、『あゆみ』 と記す。) を刊行した。そのなかで、 1950 年から1952 年までを「制度の整備期」、1953年から「現在」(1960年)までを「制度の確立期」とし、その「制度の確立期」における 「社会福祉教育運営要綱」を記載している。それは次の通りである((8))。

社会福祉教育運営要綱
1.  目的
本事業は、将来県民の中堅となるところの中高等学校の生徒に対し、社会福祉事業に対する理解を深めることにより相互扶助の理念を体得させ、もって青少年より博愛精神を培おうという道徳的意図 による社会福祉教育を実施するとともに、生徒を通してその家族の 中にこの思想が浸透することによって、将来の明るい社会建設の基盤が作られることを目途とするものである。
2.  対象
県下所在の中、高等学校より本事業に理解ある学校を選定して社会福祉事業研究普及校とし、指定期間は2カ年間とする。
3.  実施機関
神奈川県
4.  協力機関
神奈川県教育委員会  各市、町、村教育委員会  神奈川県社会福祉協議会
神奈川県共同募金会  各市町村
5.  協賛団体
各市、区、町、村社会福祉協議会   各郡社会福祉協議会   日本赤十字社神奈川県支部
6.  実施方法
(1) 普及校の担当職員を随時招集して打合会、講習会等を開催する。
(2) 普及校の申請によって県より講演会の講師を派遣する。
(3) 授業上必要ある場合は生徒をして社会福祉施設の見学を実施する。
(4) 本事業に必要なる関係図書或いはパンフレット等を配布する。
(5) 普及活動を理解させるため、これまでの普及校が作成した 関係映画、スライド等のあっせんを行う。
(6) 普及校の研究発表会を開催し、活動内容および実施業績の交流を図る。

〇以上のうち、「目的」については、「道徳的意図による社会福祉教育を実施する」という記述が注目される。ここでいう「道徳」とは、国家主義的な修身への回帰を求める保守的な潮流と、新教育が掲げた民主的・主体的な公徳心の形成という、2つの異なるベクトルが混在した領域であった。そこにおいて、当初県は予期しなかったことであるが、学校側はこの制度に基づく社会福祉教育を「道徳教育乃至は公徳教育として活用」した。 その結果、当時、 社会的に道徳教育の必要性が強く叫ばれるなかで、社会福祉教育によって「博愛精神、青少年不良化防止、敬老精神の涵養等につとめ、大いに効果を挙げ本県教育関係者の注目を浴び((9))」ることになったのである。
〇また、「道徳的意図」とは、単なる規範の内面化を目的とする従来の道徳教育とは異なり、具体的な社会的実践を媒介として他者への配慮や社会的責任を体得させる点に特徴がある。すなわち、本制度における福祉教育は、抽象的価値の教授ではなく、体験活動を通じた価値形成を志向する実践的道徳教育として位置づけることができる。
〇ここで注目すべきは、「相互扶助精神」の涵養が、単なる道徳教育や倫理教育にとどまらず、戦後における社会秩序の再編に結びついていた点である。すなわち、それは個人の自発的道徳に委ねられるものではなく、行政によって(すなわち国によって)方向づけられた規範形成の一環として機能していたといえる。別言すれば、生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである。この構造は、戦後教育における自由と統制の関係を再考するうえで重要な示唆を与えるものである。
〇「対象」については、当初県は高等学校の生徒のみを考えていたが、教育関係者との協議を踏まえて、「社会に対する正義感の目覚める中学生」をも対象とした((10))。また、生徒を通じて、その家族への「啓蒙」を図ることも狙っていた。なお、小学校の生徒がこの制度の対象に加えられ、小・中・高等学校の一貫した継続性のある福祉教育実践が展開されるようになるのは、およそ30年後の1981年度をまつことになる。また、その後の運営要綱で、家族(家庭)に加えて、「生徒を通して家庭及び地域への啓蒙をはかる」と 「地域」が挿入されるのは1969・70年度以降のことである((11))。これは、1970前後から地域コミュニティ問題への関心が高まり、それへの取り組みが活発化したことと無関係ではあるまい。この時期、東京都社会福祉審議会答申「東京都におけるコミュニティ・ケアの進展について」(1969年)、中央社会福祉審議会答申「コミュニティ形成と社会福祉」(1971年)などが提出されている。
〇ここで、『あゆみ』に記載されている「社会福祉事業研究普及校の活動状況」について、その枠組み(目次) を紹介しておくことにする((12))。

社会福祉事業研究普及校の活動状況
(1) 教科への導入
1.社会福祉についての単元設定
2.社会科へ導入
3.国語科へ導入
4.数学科へ導入
5.職業家庭科へ導入
6.音楽科へ導入
7.図工科へ導入
(2) ホームルーム指導
(3) 実際活動
1.クラブ活動
2.校内における福祉活動
(1) 長欠生徒の解消運動
(2) 校内たすけあい運動
(3) 遠足たすけあい運動
(4) 修学旅行貸付金制度
(5) 生徒共同組合
3.施設の見学、慰問
(1) 施設見学に対する注意
(2) 施設見学の実際
(3) 施設見学の結果
4.地域社会への福祉活動
(1) 保育所の手伝
(2) 道路愛護作業
5.敬老活動
6.弁論大会

〇以上から分かるように、「全教科・全領域」にわたる福祉教育の展開は、福祉教育を特定教科に限定せず、学校教育全体のなかで内在化させようとする点において先駆的であった。すなわち、各教科に福祉教育の視点を導入して福祉教育にふさわしい知的理解・関心を促す機能論と、特別活動等の時間を活用して福祉教育の活動を領域として位置づける領域論の2つによって学校教育への福祉教育の内在化が図られている。ただし、この内在化は一方で、各教科における位置づけの曖昧さや、教育内容の断片化を招く可能性も孕んでいたといえる。すなわち、制度としては包括的であるがゆえに、実践の質が各学校や教員の力量に大きく依存する構造を有していたと考えられる。
〇ところで、普及校への「派遣講師 」などとしてこの事業にかかわった瓜巣憲三 (1960 年当時、県国府実修学校長) は、『あゆみ』 のなかで、普及校活動ははからずも道徳教育の役割を果たしたり、教育機能を学校外に拡大せざるを得ないことから「学校の社会化」をもたらしたと評価する。そして、「実にこの10年間の間にのぞましい実績をあげて、教育と社会福祉事業は別のものではない、表裏一体をなす社会機能であるということをその実践によって立証し、そしてユニークな存在として社会事業界の注目を浴びるにいたった」と述べている。また、こうした成果をあげた理由につい て、「(1)本事業研究のために、学校経営および本来の教育活動を歪めないよう、とくに留意したこと。 (2)社会事業精神の意識過剰を強く警戒したこと。(3)民生部社会福祉課と教育庁指導課とのチームワークがよくとれていたこと。(4)普及校にたいする指導は、あくまでも学校の自主性、 主体性を重んじて側面から援助、助言の立場をとったこと。(5)歴代の指導主事に適任者を得たこと。(6)社会事業専門講師陣が豊富であったこと」などを指摘している((13))。
〇瓜巣が指摘する「学校経営および本来の教育活動を歪めない」という指摘は裏を返せば、福祉教育が既存の学校教育システムと摩擦を起こさないための「調整」が不可欠であったことを示唆している。すなわち、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の成功は、行政主導による制度の安定性し、学校現場の自主性・主体性という一見相反する要素が「道徳教育」を介して均衡を保っていた点にある。この均衡が、その後50年にわたる長期継続を可能にした構造的な要因であったと考えられる。それは同時に、福祉教育実践の体制内化を規定したといえよう。
〇いずれにしろ、敗戦後の「総スラム化現象」ともいわれた状態からやや立ち直りつつあったとはいえ、いまだ県民生活の混乱が続くなかで神奈川県が独自に社会福祉研究普及校制度を制定・実施したことは、極めて先駆的であり、意欲的であったと高く評価することができる。その目的は、前述のように、中・高等学校生徒やその家族に対して社会福祉思想の普及や相互扶助の理念の体得を図ることにあった。しかし、外面的な福祉活動への取り組みにとどまらず、生徒たちに内面的な思考を深め、思想を身につけさせることは、学校現場の教員がそれに真剣に取り組むほどに困難をきたしたことは想像に難くない。そういうなかで、この事業・活動が継続的に展開されたのは、熱意があり、資質や能力を備えた教員が存在し、しかもその教員や学校には自主性・ 主体性が重視されたことによるのであろう。併せて、1951年に教育課程審議会によって「道徳教育振興に関する答申」が出され、それを受けて文部省は「道徳教育振興方策」を発表するが、それ以降、道徳教育の復活・強化が進められていったことに留意する必要があろう。

Ⅱ 鳥取県八頭郡社協の社会福祉事業普及校制度と福祉教育実践

〇神奈川県の社会福祉研究普及校事業に次いで福祉教育事業を実施したのは、鳥取県の八頭郡社協である。 1953年度から1955年度までのわずか3カ年ではあったが、神奈川県の取り組みを参考に実施展開された「社会福祉事業普及校」事業がそれである。
〇八頭郡社協は、1952 年12月に「社会福祉事業普及校設置の件」について協議し、2人の理事の先進地(神奈川県)視察、児童福祉部会での協議、事業計画と予算編成などを経て、 1953年6月に「昭和二十八年度普及校」として八東部中学校と三角中学校の2校を決定した。以後、3ヵ年にわたって各校に年額 1万円を助成し、福祉教育の促進を図った。
〇引き続き、八頭郡社協は、1954 年度に八頭第一中学校と智頭中学校の2校、 翌1955 年度に中央中学校、池田中学校、中私都中学校、山形郷中学校の4校をそれぞれ社会福祉事業普及校に新規指定した。当時、八頭郡内には15校の中学校があり、その過半数の8校で 福祉教育の研究・実践が展開されたのである。 普及校では、「民主的社会人としての人格形成に中心をおき、地域社会の成員となる生徒の福祉意識高揚をはかっている。実践面では、子守り、 託児所奉仕、農業手伝いなどの家庭や地域社会の生活に密着したものをはじめ、社会福祉施設などへの慰問なども校外活動として積極的にとりくまれた((14))」。
〇しかし、この取り組みは1955年度の新規指定をもって終了し、その後、八頭郡外の他地区へ波及することはなかった。その要因のひとつは、「1957 年に県社協の機構改革に伴う郡社協の統合、1961年の廃止により、未だ市町村の社協組織が未整備な状況のもと、この経験を組織的に継承する力が県及び市町村の社協には蓄積されていなかった((15))」ことによる、と考えられている。併せて、学校教育の現場におけるパラダイムシフトも看過できない。当時、新教育の核であった社会科を巡っては、そのあり方について激しい議論が交わされていた。こうした状況下で、中学校の学習指導要領は1956年2月に『社会科編』が改訂(第2次改訂)され、さらに1958年10月に全面改訂(第3次改訂)された。この改訂によって、既述のように、社会科教育の主眼は「経験主義」から「系統主義」へと大きく舵を切ることとなる。すなわち、児童の生活課題に基づく「問題解決学習」から、学問的な体系性を重視する「系統学習」への転換である。昭和20年代後半から30年代にかけてのこうした教育実践の変容――生活に根ざした福祉的実践よりも教科内容の伝達が優先された状況こそが、社会福祉事業普及校事業が短期間で終焉を迎えた歴史的背景であったといえる。
〇なお、八東部中学校では、指定を受けた後、「県社会福祉協議会や事務所の民生部、郡や村の係の人々、地域社会の民生委員の方々と、全職員で社会福祉に関する①法的研究 (福祉三法を中心に)、②県郡村の社会福祉協議会の性格について、③普及校としてどのような事柄を指導すればよいか、④指定校に希望し要求されること、⑤研究するのにどんな文献があるか」などについて相互研究会を開催した。また、「社会福祉教育研究委員会」と名づけて8名の委員で専門部を組織し、研究活動を行った((16))。併せて、先進地優良校の視察研究、県内地域社会施設の視察研究、研究会・研修会・講習会・諸大会への参加研究、研究発表会の開催、文献による研究 (竹中勝男『社会福祉研究』関書院、牧賢一『社会福祉協議会読本』中央法規出版、黒木利克『社会福祉の指導と実務』時事通信社、高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社)、研究収録の作成 (I、Ⅱ、Ⅲ)などに取り組んだ((17))。とりわけ、「社会福祉教育」について教員が研究・研修活動に積極的・主体的に取り組み、『社会福祉読本』の編纂や「社会福祉に関する幻灯 (スライド)」(第1集、第2集)の作成などを行ったことは、専門職としての自律性の具現化として特筆される。さらに、「職員と生徒と地域社会の人々と三者が一体になって((18))」実践していこうとした点も注目されよう。
〇こうした教員の専門的で主体的かつ献身的な取り組みを支えていたのは何か。それは、単なる指定校としての活動を超え、学校が所在する地域の歴史的背景や住民が抱える課題を「我が事」として共有する。そして、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分なものとして捉える人間の尊厳への強い意志によるものであったといえる。すなわち、その実践を教室内に閉じ込めず、地域社会そのものを教育の「場」へと変容・昇華させたことは、教育の本質的な役割を再定義する先駆的な試みであり、変革的な教育モデルの端緒として今日においても重要な示唆を与えている。
〇また、神奈川県における行政主導型モデルとは異なり、地域生活の問題意識に根ざした、「下から」の八頭郡の実践は、もうひとつの福祉教育モデルを提示するものであった。この対比は、福祉教育が統治装置として機能する側面と、社会変革の契機となる側面との緊張関係を可視化するものである、といえよう。

おわりに

〇本稿は、戦後初期の神奈川県における社会福祉研究普及校制度の成立過程を軸に、福祉教育の原初的形態とその特質を検討してきた。神奈川県のそれが行政主導による組織的アプローチであったのに対し、鳥取県八頭郡社協のそれは、民間主導の地域密着型アプローチであったといえる。ここでは主に、神奈川県の社会福祉研究普及校制度の検討を通じて明らかになった点を整理しておくことにする。

(1)制度構想の背景と行政連携の先進性
〇第1に、本制度が戦後復興期という極めて不安定な社会情勢下において、単なる救済の論理ではなく、次代を担う中堅国民の「相互扶助精神」という倫理的基盤の形成を目的として構想された点である。当時の経済的困窮や人心の荒廃に対し、教育の場から社会福祉思想の普及を試みた神奈川県の取り組みは、行政の福祉部門(民生部)と教育部門(教育庁)の緊密な連携によって支えられていた。これは、現代において重要性が叫ばれている「福祉と教育の連携」が、戦後初期において既に高度な制度として実装されていたことを物語っている。
(2)教育課程における包括的実践の展開
〇第2に、福祉教育を単なる知識理解にとどめず、教科教育・特別活動・校外活動を横断する「全教科・全領域」における包括的な実践として構想した点である。特に中学校においては、机上の学習以上に日常的な実践活動(施設訪問やワーク・キャンプ等)を通じて、福祉の理念を身体感覚として体得させる教育が重視されていた。このように、福祉を特定の枠組みに限定せず、学校教育全体で展開しようとした先駆的なカリキュラム編成は、現代の総合的な学習の時間にも通じる特質を有していた。
(3)初期社会科の理念と学習理論の交錯
〇第3に、本制度が「初期社会科」の成立過程において、当時の教育思潮である「問題解決学習」と「系統学習」の相克を体現していた点である。本制度の実践は、生活上の課題を起点とする経験主義的なアプローチをとりつつも、福祉概念を構造的に理解させるための「系統性」をいかに維持するかに腐心していた。これは、単なる体験活動を社会認識という科学的知見へと昇華させようとした、戦後新教育における教育課程論上の試行錯誤を象徴している。福祉教育が「生活の科学化」と「価値形成」の両立をいかに図ったかを探ることは、現代の探究学習を再考するうえでも不可欠な視点である。
(4)道徳教育との連関と「内面化」の課題
〇第4に、福祉教育と道徳教育の密接な連関である。学校現場が本制度を「道徳的意図」を伴うものとして受容した事実は注目に値する。戦後の新教育が模索されるなかで、抽象的な公徳心ではなく、具体的実践を介することで生徒の内面的な規範意識の形成を企図したのである。本制度は、道徳教育が復活・強化される潮流において、その「実践的・体験的な側面」を補完する役割を果たしたといえる。しかし、同時に外面的な活動の定型化が内面的な思想形成と乖離する危うさを孕んでいたことも否定できず、この「実践と内面化の乖離」という課題は、現代の福祉教育やサービス・ラーニング等にも通底する普遍的な問いを投げかけている。
(5)地域再生に向けた「教育の社会化」
〇第5に、本制度が内包していた「教育の社会化」という側面である。生徒から家庭、そして地域へと社会福祉思想を波及させようとした企図は、学校を閉じた聖域とせず、地域再生(まちづくり)の拠点として位置づける先駆的な試みであったといってよい。これは、1977年度からスタートした国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)や、2004年度に制度の導入が図られた「コミュニティ・スクール」(学校運営協議会制度)における教育理念に通じるものである。

〇要するに、神奈川県における社会福祉研究普及校制度には、戦後日本の福祉教育が、単なる知識の伝達ではなく、社会構造の劇的な変化に呼応した「新たな人間形成のプロセス」として再定義しようとする教育的意志が込められていたといえる。この教育実践の特質と限界を再考することは、デジタル化が進み、対面的な地域コミュニティが希薄化する現代社会において、改めて「ふくし」すなわち「ふだんの くらしの しあわせ」を支える公共精神をいかに育むかを検討するうえで、極めて重要な視座を提供するものである。
〇すなわち、対面的な紐帯が希薄化し「孤独」が構造化するデジタル社会において、1950年代の福祉教育が志向した「社会を創る主体(民主主義の形成者)」としての相互扶助精神の再起動は、単なる道徳的善意の推奨を超え、デジタル空間における新たな「公共性」を構築するための不可欠な動因となり得るのである。
〇もっとも、本制度の実践には限界も存在した。とりわけ、外面的な福祉活動の反復が、生徒の内面的な価値形成にどの程度結びついていたのかについては、必ずしも明確ではない。活動が形式化することによって、それが主体的な倫理的判断の形成に至らない可能性も指摘しうる。この点は、実践を通じた学習(体験学習)が内面化へと転化する条件をいかに確保するか、また生徒自身の意識変容の過程をいかに把握するかという、今日的な課題にも通じている。
〇従って、本制度の歴史的意義は、その先駆性のみに求めるべきではなく、制度化された福祉教育が内包する構造的課題をも同時に提示した点にあると考えられる。このような両義的な評価を踏まえることによってはじめて、戦後初期の福祉教育実践を現代的視座から再定義することが可能となるであろう。
〇なお一方、鳥取県八頭郡社協と八東部中学校の取り組みは、上記の(1)から(5)の表記に倣えば、「民間主導による地域変革と教員の専門的主体性の発揮」として次のように整理できる。繰り返しになるが、こうである。
〇八頭郡社協の実践は、神奈川県が県レベルの行政主導で制度化を進めたのに対し、八頭郡社協が主体となり、地域の切実な「生」の生活課題を教育へとつなぎ合わせた点に特徴がある。すなわち、八東部中学校の教員が、地域生活課題を教育の文脈へと翻訳し、それに応じる形で専門職としての裁量を発揮したのである。とりわけ、教員が、単なる指定校としての枠組みを超え、福祉三法等の法的研究や『社会福祉読本』の編纂、スライド制作など、高度に専門的かつ主体的な研究活動を展開した点は特筆に値する。これは、教育を教室内という閉鎖的な空間での知識伝達に自己完結・矮小化させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題(リアリティ)を教育課程の中核に据え、地域改善と人間形成を不可分なものとして構造化したことを意味している。
〇こうした「教員・生徒・地域住民」の三者が一体となった実践は、教育の本質を「社会の維持」ではなく「社会の変革」に見出そうとする、教員の強い意志と教育的良心、そして何よりも専門職としての自律性に支えられていた。八頭郡社協の実践は、短期間で組織的継承が途絶えたという限界を抱えつつも、地域の潜在力を掘り起こし、教育の場を地域開放へと昇華させた先駆的な「地域福祉教育」のモデルとして、現代の地域共生社会における教育のあり方に極めて重要な示唆を与えている。
〇最後に改めて、福祉教育が「民主的な社会の形成者」の育成を志向しながら、同時に国家的秩序の再編に資する規律化のメカニズ(統治の回路)として機能しうるという二重性について強調しておきたい。この点において、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡の社会福祉事業普及校制度は、単なる福祉教育の先駆的な実践にとどまるものではない。これらは戦後日本における「統治と教育」「適応と変革」あるいは「統合と解放」が複雑に交錯する営為として、再定義される必要があろう。「民主主義の形成者の育成」と「社会秩序への適応主体の形成」という二重性こそが、福祉教育の可能性と限界を同時に規定するのである(図1参照)。

図1 (福祉)教育の二重構造――統治と変革――

 


(1)「社会福祉事業研究普及校のあゆみ」「昭和31年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1956年、2頁。
(2)「社会福祉事業研究普及校制度のあらまし」『昭和38・39年度 社会福祉事業研究普及校研究発表概要』神奈川県、1964年、2頁。
(3)神奈川県民生部社会福祉課編『社会福祉事業研究普及校10年のあゆみ』神奈川県、1960年、3頁。
(4)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、98頁。
(5)前掲注(3)6、14頁。
(6)前掲注(3)4頁。
(7) 木原孝久『福祉教育』第27号、福祉教育研究会、1979年、14頁。
(8)前掲注(3)5~6頁。
(9)前掲注(1)3~4頁。
(10)前掲注(3)2頁。
(11)阪野貢『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年、94頁。
(12)前掲注(3)19~119頁。
(13)瓜巣憲三「社会福祉事業研究普及校の歩みに寄せて―教育と社会事業は表裏一体をなす社会機能であった―」前掲注(3)128~131頁。
(14)全国社会福祉協議会三十年史刊行委員会編『全国社会福祉協議会三十年史』全国社会福祉協議会、1982年、439頁。
(15)牛田昭『鳥取県における福祉教育の歩み』鳥取県社会福祉協議会、発行年不明、1頁。
(16)『志あわせへ』(鳥取県社会福祉協議会機関紙)第15号、1955年。
(17)『本校の社会福祉教育研究収録Ⅲ―社会福祉教育研究会要項―』八頭郡八東部中学校、1954年、2頁。
(18)前掲注(15)。

【初出】
『神奈川県  社会福祉研究普及校制度の30年―学校における福祉教育の嚆矢―』宝仙学園短期大学、1979年4月。
「鳥取県八頭郡における福祉教育実践の展開」『学校教育づくりと福祉教育』文化書房博文社、2003年4月、19~41頁。
本稿は、この論考を改題し大幅に加筆・修正を行ったものである。

【参考】
『社会福祉教育論序説』相川書房、1984年9月、88~109頁。
『戦後初期福祉教育実践史の研究』角川学芸出版、2006年4月、101~125頁。