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老爺心お節介情報/第92号(2026年10月18日)

「老爺心お節介情報」第92号

〇皆様お変わりありませんでしょうか。ようやく天気も安定し、秋晴れの日々が続きます。
〇今号は、10月13日か15日まで歩いた「中山道よろよろへとへと道中記・中編」がメインです。
〇それ以外では、10月5日に石川県穴水町を訪ねてきました。ミネルヴァ書房から来年『災害被災者支援の新しい実践システム・穴水モデル』を刊行しますが、その編集会議に出席してきました。今回は初めて能登空港を使いました。機上から見える能登半島はまさに山々でした。帰りは電車を使いました。
〇穴水モデルと銘打つ被災者支援の新しい実践システムは、これからの社会福祉協議会の災害支援の在り方を大きく見直すことの必要性を提起した内容になっています。穴水町での夜の懇親会には吉村光輝町長も参加してくれ、大いに話が盛り上がりました。
(2026年10月18日記)

中山道六十九次
よろよろへとへと道中記
中 編
(和田宿、須原宿~野尻宿、大妻籠~馬籠宿、馬籠宿~中津川宿)

2026年10月13日~15日

(はじめに)
〇2026年4月に行った「中山道歩き」は残念ながら、足裏のまめの悪化で妻籠宿で中断した。
〇今回も小池正志さんのサポートとコーディネートで、前回歩き残した長久保宿の大和橋から和田宿を経て、和田峠の入り口までの区間と須原宿から野尻宿までの区間、そして大妻籠から馬籠宿を経て中津川宿までの踏破ができた。心から感謝とお礼を申しあげたい。
〇初めから区間を決めての区切り打ちをしていないので、歩き損ねたこの区間を歩くことは、バスの便もなく、かつ電車の便も悪く、多くのサポーターがいないと実現できないコース取りであった。
〇小池正志さんの呼びかけで、長久保宿の大和橋から和田宿を経て、和田峠の入り口までの区間は、萱津公子さん(元長野大学教授、現上田市社会福祉協議会会長)が車を出してくれてサポートしてくれたし、木曽路は杉村信子さんが車でサポートしてくれたことで4月に歩けなかった中山道の道を歩くことができ、日本橋から中津川宿まで一応歩いたことになった。この紙上を借りて、改めて3人に厚く感謝とお礼を申し上げたい。

(10月13日、長野快晴、長久保宿・大和橋~和田峠登山口入口・10キロ1万8千歩)

〇10月13日、小雨の降る中、午前5時50分に家を出発。新宿・大宮駅経由で上田駅に午前9時01分に着く。
〇前日まで、何故か佐久平駅に迎えに来てくれるという認識が私の頭を“占領”していて、前日の夜、待ち合せ場所は長野新幹線戦上田駅だということを漸く納得、理解できた。なぜ、佐久平駅と思い込んでいたのかは不明だが、小池正志さんのメールで気づかされてもらい、事なきを得た。
〇上田駅には、長野市役所に勤めている市原綾子さん、市原武琉さん親子が迎えに出てくれていた。今日の中山道歩きにお付き合いしてくれるとのこと心強い。
〇迎えに来てくれていた小池正志さんの車で、4月にスキップした長久保宿の大和橋まで連れて行ってもらい、そこから市原親子と歩き始める。大和橋には萱津公子さんも車で来てくれていて、お二人は和田峠に向かい、小池さんの車を和田峠に停め、小池さんは萱津さんの車に同乗して、和田宿を歩いている我々一行に合流するという段取りである。
〇長野県民歌「信濃の国」の歌詞に謳われてい4つの平の一つ、佐久平は秋晴れで、歩くのには少し暑いくらいである4月の時に社会福祉法人木曽社会福祉事業協会の田上理事長から頂いた木曽ヒノキの笠を被り歩き始める。
〇和田宿は羽田孜元総理の出身地であり、お墓もある。羽田家は、日本の地域福祉に関わる人脈の一つである。

(註)羽田孜さんの父親は、松田甚次郎の本を出版した羽田書店の社長・経営者で、後に衆議院議員を務めた羽田武嗣朗氏である。
松田甚次郎は、宮沢賢治の教え子で、宮沢賢治の考えを実践したと言われる山形県稲舟村鳥越(現新庄市)に農村隣保館を建設(1933年)し、その実践を『土に叫ぶ』(初版1938(昭13)年)、『続 土に叫ぶ』(初版1942(昭和17)年)として上梓する。その出版社が羽田書店であった。
松田甚次郎の実践は、戦後の地域福祉の戦前的遺産の一つであると言われている。

〇和田宿を歩きながら、市原武琉さんとは“人生如何に生きるか”、“自分探し”とはどういうものか等話しながら歩く。市原武琉さんは、通信制の大学の1年生だということなので、時間を有効に使って本を読み、各地を歩く喜びと大切さについて話をする。お母さんの市原綾子さんも、青森県浅虫温泉の出身なのに各地を歩いて自分探しをしたのだから、武琉さんも国内外を歩いて見分を広めた方がいいという話をしながらの道中であった。
〇途中、「杉の屋」で昼食休憩。かつ丼ともり蕎麦半分を注文するも、かつ丼のボリュウムがあり、全てを食べられず。
〇和田峠の上り口に就き、車はどこに停めたのと聞くと峠に停めたとのこと。私は、4月に登り口から峠を越えて下諏訪まで歩いているので、萱津さんの車に小池さんが乗り、峠に停めてある小池さんの車を取りに行ってもらった。
〇和田峠の上り口で、萱津さんとはお別れをして塩尻に向かう。萱津さんがいなかったら、この交通不便な和田宿を歩けなかったし、和田峠口から木曽谷への移動も困難であった。萱津さんに心から感謝とお礼を申し上げたい。
〇長野市へ帰るという市原親子を塩尻駅で降ろし、一路木曽谷に向かう。木曽谷の宿泊所・寝覚めのホテルには4時40分に着く。ひと風呂浴びて、碁を打っていると懇親会の関係者からの呼び出し。碁は打掛にして懇親会場に向かう。
〇懇親会場の坂下家に着くと、木曽谷の町村社会福祉協議会の事務局長たちと長野県社会福祉協議会の面々が顔を揃えていた(木曽郡の大桑村の社会福祉協議会の事務局長のみ欠席)。参加者は、王滝村社協の中島素道事務局長、木曽町社協の鈴村謙司事務局長、上松町社協の武居秀臣事務局長、木祖村社協の永島博之事務局長、南木曽町社協の麻生正道事務局長に加え、社会福祉法人木曽社会福祉事業協会田上昭彦理事長、鈴木正信事務局長、更に長野県社会福祉協議会まちづくりボランティアセンター林部多美子さん、須野原一彌さん、青柳與昌さん、地元のかけはしプロジェクトのメンバーの杉村信子さんで、小池正志さんと私を加えて13人の盛大な懇親会になった。
〇懇親が始まる前に、今年の8月1日~2日に、愛媛県宇和島市で行われた第23回四国地域福祉実践セミナーで報告された高知県佐川町NPO法人元気村の実践と徳島県美馬市のNPO法人こやだいらの地域住民限定のNPO法人による地域支え合い活動(移送サービス、生活支援サービス等)の実践をスライドで見てもらい、木曽谷でも同じような取り組みをする必要性を説明した。
〇懇親会がたけなわの頃、隣室で行われていた懇親会に出席していた村田広司上松町長が顔を見せてくれ、木曽谷の地域福祉の今後について少し話をした。ほぼ、同一の見解をお持ちの様で、いろいろご協力頂きたいとお願いをした。
〇ホテルに戻り、打掛の碁を再開、この碁は勝ったものの、その後も含め3日間で2勝2敗の打ち分けとなった。

(10月14日午前、雨、須原宿~野尻宿、7キロ、1万2千歩)

〇朝から雨の中、車で野尻駅まで行き、8時21分の電車に乗り、須原駅にて下車。須原駅には、今日同行する木曽谷の王滝村、木祖村、上松町の社協局長の他に、工業デザイナ-で木曽町に移住してきた下木修一郎夫妻、10年間地域おこし協力隊で活動し、現在は王滝村社会福祉協議会で「プロジェクトかけはし」の事務局を担っている倉橋孝四郎さん、上松町社協の尾崎陽子さん、木祖村社協の湯川壮公さん、杉村信子さんも待っていてくれ、小池正志さん、私を含めて総勢11人の中山道歩きである。
〇大桑村須原宿在住の杉村信子さんがガイドを兼ねて先導してくれ、歩き始める。
〇途中、木祖村社会福祉協議会の永島局長に木材のことを聞くと、現在切り出している木材は戦後初期に植林した80年ものだという。カラ松の板を中に、木目のきれいな杉板を表面に加工した合板が売れているということでした。
〇臨済宗妙心寺派の定勝寺の大きな伽藍や奇麗な庭園も案内してもらう。
〇途中、大桑村社協の事務所が近くにあるというので、表敬訪問した。丁度、社協会長が出勤日とかでご挨拶をした。大桑村社協の隣には、社協経営のデイサービスセンターがあり、利用定員30名のところ、現在登録者は80名で稼働しているとのことでした。
〇大桑村の道の駅で小休憩を取り、丸い団子の五平餅を皆で頂いた。胡桃みそ味の美味しい五平餅だった。私は、この大桑村から下伊那の飯田市に抜ける大平峠で、草鞋型の五平餅を食べ、とても美味しかった記憶があるせいか、なにか団子の五平餅には違和感がある。4月に食べた馬籠宿での五平餅も団子だった。
〇野尻宿は、木曽11宿の中でも奈良井宿についで街並みが長い宿場だったということであるが、大火で面影はない。それでも、外敵を防ぐために「七曲り」という地形は実感できた。
〇野尻宿で杉村さん、尾崎さん、下木夫人、小池さんを除いた他の人とは別れる。杉村さんの先導で、妻籠宿のはずれの蕎麦やに向かい昼食を摂る。
〇昼食後、大妻籠まで送って貰い、下木夫人、尾崎さん、私の3人で馬籠宿目指して中山道を歩く。杉村さんと小池さんは、車を馬籠峠に移動し、そこから我々に合流するという段取りである。

(10月14日午後、曇り、大妻龍~馬龍宿、6・5キロ、1万歩)

〇大妻籠から旧中山道に入り、昔ながらの石畳などを歩く。すれ違う人は外国からのインバウンドの方ばかり。
〇途中、一石栃白木改場所跡のところに出る。木曽地方は平地がなく、田んぼがないので、年貢米の変わりに、「木年貢」という制度があり、かつ住民にはコメが支給されたという。それだけ、木曽の木材は重宝されていたので、木曽五木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキコウ、ネズコ)という木材が無断で搬出されないよう「白木改め場」があったという。この改め場所は後に落合宿に移されたようであるが、妻籠宿から馬籠宿に抜ける途中にその跡地があった。
〇その跡地の傍に、熊の捕獲用の罠が設置されており、熊の出没があることがわかった。旧中山道のところどころに鐘が設置されていて、道行く人が鳴らせるようになっていたが、それはどうも“飾り”ではなく、本当にクマ除けの鐘だったようである。
〇馬籠峠は標高790メートルで、この峠以降は馬籠宿に向かって下り坂である。
〇馬籠峠で杉村信子さん、下木夫人、尾崎さんと別れ、小池さんが車を停めてあるという馬籠宿の駐車場に向かう。歩いてすぐという話であったが、どうしてどうして結構山を下ることになる。4時前に車を止めてある馬籠宿の入り口の駐車場に着く。それから一路土岐市へむかう。
〇中央高速道路のスマートインターチェンジの神坂インターから乗るといいと杉村信子さんに教えられていたとの事だが、カーナビは下道を案内し、結局中央高速道路には中津川 インターから乗ることになった。それでも、土岐市のルートイン土岐に5時過ぎに着き、ひと風呂浴びて着替えをすることができた。ルートイン土岐には、長野県社会福祉協議会まちづくりボランティアセンター所長・長峰夏樹さんが電車で駆けつけてくれていた。長峰所長は、翌日木曽社会福祉事業協会の田上理事長と相談があるとのことで参加してくれた。
〇岐阜県の関係者との懇談会は、土岐駅近くの「美濃寿司」に設定されていた。中部学院大学の人間福祉学部長、通信教育部長の飯尾良英先生がホテルまで迎えに来てくれて会場に行く。飯尾良英先生とは先生が岐阜県社会福祉協議会に勤めていた時代からの付き合いであるが、それでもお会いするのは30年振りくらいであろうか。
〇懇親会場には、元中部学院大学の阪野貢先生、現教員の宮嶋淳先生(日本社会事業大学大学院で高橋重宏先生の下で学位取得)、同じく佐甲学先生(元全社協民生部長)と田村禎章先生(東海学院大学講師、阪野貢先生の教え子)の計8名の懇親であった。阪野貢先生とはメールでのやりとりは頻繁にあるが、先生曰く、会うのは10年振りだという。また、宮嶋先生と会うのも20年振りくらいで、本当に懐かしい顔ぶれとの懇親になった。とても美味しい料理でお酒も進み、あっという間に時間が過ぎてしまった。

(10月15日、快晴、馬籠宿~中津川宿、10キロ、1万7千歩)

〇朝、7時に食事を摂り、出発までの時間小池さんと囲碁を打つ。
〇朝8時30分にホテルを出発。今度は中央高速道路の神坂スマートインターで降りることができ、馬籠宿の妻籠宿よりの入り口に9時20分過ぎに着く。そこで降ろしてもらい、一人歩き始める。
〇馬籠宿は4月の時には足が痛かったけど、2度と来られないかもしれないと無理して歩いた宿場である。明治時代に大火にあっているので、妻籠宿のような風情はない。それでも藤村記念館を覗いたり、外敵を守る枡形の地形を見たりして馬籠宿を抜ける。
〇馬籠宿から落合宿までの旧中山道は、のどかな里山の道を歩いたり、十曲峠の杉林の中の石畳み道(約900メートル)を歩いたりと、昔の旅人が味わったであろう風情ある道の一人歩きを楽しんだ。道で出合う外国人も少なく、ゆったりと下り坂を歩く。
〇落合宿も大火にあったとのことであるが、大火後加賀藩から贈られた本陣の門は保存状態も良く残っていた(本陣そのものは修理中であった)。
落合宿からは国道を行くのかと考えていたが、旧中山道が良く保存されており、ところどころ国道で分断されていて分かりづらいところもあったが、中津川宿まで続いていた。
〇落合宿から中津川宿までは、下り坂だけかと思いきや、標高差60~70mはあるであろう丘があり、その丘の勾配がかなりきつい。その丘が3つくらいある。落合宿をかなり過ぎた急こう配の坂の途中で、地元の人に中津川宿までどのくらいですかと聞くと約25分もあれば行くだろうという。ところがあにはからんや約1時間かかった。
〇中津川宿には午後1時に着く。食事をするところを探すが、多くの飲食店が休みの日とかで閉まっている。ハンバーガーを食べさせるお店が開いていたので入ったが、客は外国人ばかり。照り焼きバーガーを食べた。美味しかったが高かった。
〇中津川駅1時50分の電車に乗り、塩尻駅、八王子駅、橋本駅経由で午後6時30分に無事帰宅する。

(おわりに)
〇今回の3日間の歩きで、漸く日本橋から中津川宿まで繋がことができた。中山道530キロのうち、約330キロを歩いたことになる。残りは、約200キロで、一日15キロのペースで歩いたとして、約14日間で歩ける計算である。
〇自宅近くの毎日の散歩で1万歩、約7キロを歩いていることを考えれば、例え15キロほどのリュックを背負っていたとしても15キロの行程は無理なく歩けそうである。要は、旧中山道が整備されているかどうか、また適当なところにホテルがあるかどうかが問題である。できれば、体調を整えて、来春4月には京三条大橋まで歩きたいものである。
(2026年10月18日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。 大橋謙策のメールアドレスは、 <o.kensak@outlook.jp> です。







老爺心お節介情報/第91号(2026年9月23日)

「老爺心お節介情報」第91号

〇皆さんお変わりありませんか。酷暑ともいえる夏が終わったら、秋雨前線の影響で晴れる間もなく9月が過ぎようとしています。
〇昨年は、金木犀の香りが漂うのが10月10日頃で異常気象かと思いましたが、今年は長雨のせいか、我が家の金木犀は9月20日には香りが漂い始めました。通常なら、金木犀が10月1日前後に咲いた後、銀木犀が1週間後に咲くのに、今年は同時に咲いています。やはり異常気象なのでしょうか。
〇9月は、各地のCSW研修と重層的支援体制整備事業の研修とで、秋田、佐賀、秋田、山形、岩手と飛び回っています。
〇秋田では、高速道路を使って北秋田市の鷹ノ巣から秋田へ戻る途中、線状降水帯の猛烈な雨に出逢い、“一寸先も見えない猛烈な雨”の中、高速道路を走らざるを得ず、交通事故に遭うのではないかとひやひやしながら身を委ねました。
〇山形・鶴岡市での研修では、実家が鶴岡の妻を帯同し、これが最後かもしれないねと言いながら、実家の墓参り、義兄の墓参り、義姉の墓参りを済ませ、鶴岡に在住している甥、姪を集めて楽しい懇談の機会を設けることができました。体の弱った妻は杖を突きながらの故郷への帰省の旅でしたが、“楽しかった、楽しかった”と喜んでくれました。

Ⅰ 2026年度社会福祉協議会活動全国会議で、筆者が「関係人口」として関わる二つの社会福祉協議会の活動が紹介されたーー山形県鶴岡市、長野県王滝村

 (鶴岡市の地域福祉を巡って)

〇鶴岡市は、2005年の平成の合併で1市5町村が合併し、人口14万3千人、東北地方で最も面積が広い市になった。
〇2026年現在では、人口は11万3千人で、人口減少率は20年間で20%減である。旧町村単位の地域によっては、人口減少率が40%を超えている。高齢化率は37・5%、一人暮らし高齢者数は5531人である。鶴岡市には35の社会福祉法人がある。
〇2026年9月8日に行われた2026年度社会福祉協議会活動全国会議で、鶴岡市社会福祉協議会生活支援課長の今野良一さんが、「都市部と人口減少地域が共存する地域における社協活動の展開」と題して、全体シンポジウムで報告された。
〇その報告には立ち会っていないが、シンポジウムで報告した内容の資料をメールで送って頂いて見た。その報告内容は、筆者が2026年3月に鶴岡で行った研修で問題提起させて頂いた内容とほぼ同じである。
〇それは、鶴岡市の地域福祉計画も鶴岡市社会福祉協議会の地域福祉活動計画も、鶴岡市全域での計画になっているが、これからは全市的計画と同時に、地域包括支援センター圏域ごと(11か所)の状況を踏まえて、圏域毎の計画を作成しないと「2040年問題」に対応できないという提言であった。
〇合併前の旧鶴岡市街地での住民の社会生活課題と合併前の旧町村の住民の社会生活課題の現れ方は量的にも、質的にも違いがあるので、それを反映させた解決の方向を示す計画にしないと駄目だという提起である。
〇今回、9月17日に行った研修では、市内に35ある社会福祉法人の地域貢献がこれからは重要になるし、「2040年問題」に向けての社会福祉法人の経営問題が深刻になることを提起したが、既にその兆候が表れていることが今回の研修で明らかになった。
〇筆者は、今回の研修で、第1に、都市部と人口減少地域が共存する鶴岡市にあっては、地域属性が違うので地域包括支援センター圏域ごとのデータに基づいて、きめ細かく圏域ごとの課題を整理する必要があること、第2には、旧町村地域ではできているワンストップサービスを、同じように旧市街でもワンストップ相談システムを構築できるかどうか、社協の力量が問われていること、第3には、旧市街の地域包括支援センターは社会福祉協議会だけが委託を受けているのではなく、施設社会福祉法人も委託をうけているので、それらの地域包括支援センターが全世代対応型の相談支援システムに転換できるかどうかということ、第4には、鶴岡市社会福祉協議会自体が特別養護老人ホームや障害者の施設の経営を行っており、その状況の中で、35ある社会福祉法人をまとめ、そのプラットホーム構築の役割を担い、社会福祉法人の地域貢献活動のリーダーシップを取れるかが今後の鶴岡市社会福祉協議会の大きな課題であると提起した。

(長野県木曽郡王滝村社会福祉協議会と木曽谷の持続可能な地域福祉を巡って)

〇2026年9月8日に行われた2026年度社会福祉協議会活動全国会議の全体シンポジウムに登壇した3つの社会福祉協議会の内、2つの社会福祉協議会に筆者は「関係人口」として関わっている。王滝村社会福祉協議会がその一つである。
〇長野県木曽郡王滝村をはじめとする木曽郡6町村は合わせても人口が2万3千人に届かない。2040年には人口が28%減少すると予測されている。
〇その中でも王滝村は人口631人、高齢化率71・4%で、如何に持続可能な地域福祉を推進できるのか、その課題は王滝村そのものが存続できるのかという課題と一体である。
〇長野県はこのような人口が2千人前後の小規模町村が数多くあり、県政の大きな課題の一つになっているし、長野県社会福祉協議会自体の課題でもある(人口3000人以下16村、県全体の市町村の21%、人口5000人以下の町村29町村、県全体の38%)。
〇長野県社会福祉協議会は、山間部の孤立化地域を抱える長野県内の小規模自治体において地域を支える人材確保の問題や福祉サービス提供の地域格差も生じていることから、2022年8月より開催したオンライン情報交換会を母体に、2025年4月に、『信州むらから福祉ネットワーク (略称) U‐2000 村ふくネット』を立ち上げた。
〇筆者は、その『U―2000村ふくネット』の準備会の取り組みやその前段で取り組まれた長野市中条地区(旧中条村、元長野県社会福祉協議会事務局長の小池正志氏の生誕地)の活性化プロジェクトから関わりを持ってきた。
〇中条地区プロジェクトは長野市への合併に伴い、社協事務局組織も長野市中央に統合一元されたことにより、周辺地域の地域力が大幅に減退する中で、中条地区を再度活性化させようとの旧中条村社会福祉協議会の黒岩秀美さんたちが取り組んでいる活動である。
〇2026年度社会福祉協議会活動全国会議で王滝村社会福祉協議会事務局長の中嶋素道さんが報告された内容は、これらの活動の延長上に位置づけられた活動の一端の報告である。
〇中嶋素道さんは、「木曽地域における連携と協働による持続可能な地域の基盤づくり」と題して報告したが、その報告要旨は「 木曽地域では、人口減少や少子高齢化の進行に伴い、医療・介護人材の不足、公共交通の縮小、買い物支援、地域文化の継承など、住民の暮らしを支える基盤の維持が大きな課題となっている。2020 年から2050 年にかけて地域人口は約49%減少すると推計されており、全国の中山間地域に共通する課題が顕在化している地域でもある。こうした状況に危機感を抱いた社会福祉協議会、社会福祉法人、NPO 法人等は、地域や分野の枠を超えた連携の必要性を共有し、新たな協働の仕組みづくりに取り組むこととなった。 住民主体の支え合い活動を支援する「地域支え合い会員」の創設や、町村社協役職員研修、人口2,000人未満の自治体社協による「U2000 情報交換会」などを通じて、地域内外のネットワークづくりを進めてきた。その積み重ねを基盤として、令和5 年12 月から関係団体による協議を重ね、令和7 年10 月より「みんなの木曽『Ⅹ(かけはし)』プロジェクト」を始動した。本プロジェクトは、人と人とのつながりを軸に、多機関・他分野協働による新たな連携の仕組みを構築し、機関や地域の垣根を超えた持続可能な地域づくりを推進するものである。平時からの多様なつながりを災害時にも生かしながら、木曽地域の未来を支える基盤づくりに取り組んでいる」という内容であった。
〇中嶋素道さんたちが取り組んでいる『X(かけはし)』は、「かけ算(×)」で、 困難を乗り越え、持続可能な地域づくりの未来へ続く「かけはし」を創造! すると言う思いで命名された。
〇そのために、①、「多様な団体や機関との協働」、②、町村の枠組みを超えた協働」、③、「行政と地域の協働」(福祉事業の連携体制づくり、「新たな協働」)、④、ひとが繋がり、共生による地域づくり――ⅰ)「福祉の心を育む」地域づくり(福祉教育、包摂できる地域づくり)、ⅱ)「多世代交流」、ⅲ)「障がい者が主役」の地域づくり、ⅳ)「移住者と地域の協働」、ⅴ)「身寄りがなくても安心」して暮らせる地域づくり、⑤、「みんなの拠点づくり」(地域の拠り所、居場所づくり) 、⑥、「地域の文化の継承」、「多文化共生」、⑦、「地域間交流」の促進 ⑧、地域で支える「こどもたちの未来」、⑨、持続可能で、元気な地域づくりを目指している。
〇その活動の理念は、「地域」は、「日本のこころ(文化)」のルーツであり、「小地域」をたいせつに守る取り組みは「効率化」では守られない。日本の豊かな『文化』を守り、育む取り組みを推進することである。
〇長野県木曽谷の『X(かけはし)』の実践は容易ではない。木曽郡にある特別養護老人ホームは松本・塩尻・木曽郡の広域組合立であり、介護保険は木曽郡6町村の広域組合という状況の中で、町村社会福祉協議会は各々の町村からの補助金に多くを委ね、経営されている状況の中で、各種の経営問題も含めて木曽谷の地域福祉を持続可能なシステムに改編できるか、大きな試練が立ちはだかっている。『X(かけはし)』には、それを乗り越えるエネルギーと活動が期待されている。その活動を心から応援し、その思いが実現することを心より祈念したい。
〇と同時に、それは今後の日本全国の縮図を先取した取り組みであり、その実現を考え、支援することは日本地域福祉学会としても、地域福祉研究を標榜する研究者にも課せられた課題である。
(2026年9月21日記)

Ⅱ 「その時の出逢いが」―2020年代

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑫

1 2020年代

(はじめに)

〇2020年3月に楽しい東北福祉大学大学院での研究指導を終え、退職した。
〇と同時に、1970年に東京大学大学院教育研究科修士課程を修了し、女子栄養大学に助手として採用され、大学教員生活が始まるが、それも50年間の大学教員生活を閉じることになった。
〇“使える研究者”になれるのであろうか、社会的に評価される研究者になれるのだろうか、恩師の小川利夫先生の教えを実現できるのだろうか“と日々悩み、家族にも迷惑を懸けながらの実践的研究にまい進した50年の日々が走馬灯のように蘇ってくる。
〇筆者の大学教員としての評価、「地域福祉と社会教育の学際的研究者」としての評価は関係の方々に委ねるしかないが、自分自身としては“もがき、苦しみ、葛藤”した日々であったが、いい大学教員生活、いい研究生活を送れたと感謝の念で一杯である。
〇家庭的には、ある日、“長女が我が家は母子家庭なの”と妻に言ったことを聞かされ、家庭生活を顧みない自分の研究生活を押し通せるか悩みはしたが、今となっては妻も、家族も“いい人生を送りましたね”と言ってくれているのが、何よりも嬉しいご褒美だと思っている。
〇筆者は、大学教員50年を祝うために、第3回の「四国歩き通しお遍路」に2020年4月に出発する。しかしながら、2019年から世界的に流行し始めた新型コロナ(COVID―19)のパンデミックで、途中、37番札所・高知県岩本寺で断念せざるを得ず、帰宅することになった。残された札所巡りは2021年4月に継続して、無事大窪寺で結願した。
〇筆者は、2023年10月26日に80歳を迎えた。後期高齢者は5歳ごとに体力が落ち、病気がちになると教えられて来たが、まさにその通りで80歳を迎える前(79歳時)の2022年3月14日に前立腺がんが発見された。この危機を乗り越えるのに足掛け4年掛かることになった。
〇それを乗り越えた2026年以降は、70歳代と同じように活発に活動できるようになり、全国各地のCSW研修で東奔西走する日々である。

➀ 第3回四国歩きお遍路・新型コロナ・「老爺心お節介情報」の発刊と中山道よろよろへとへと道中記

〇先に述べた通り、2020年4月2日、第3回四国歩きお遍路に出発した。前日の4月1日に(公財)テクノエイド協会の辞令交付を行い、幹部会を開催して、後を託して出発した。

遍路発ち ミツバツツジが 咲き誇る
見送りに 佇む妻や 沈丁花

〇歩きお遍路は、弘法大師と同行二人なので、一人で歩きながら、来し方を振り返り、自然との共生を楽しむ孤独な思索の時である。
〇これがとてもよく、歩き進めるほどに、自分の世俗の垢が取れ、五感の感覚も鋭くなっていくのが実感できる。バスや車で、ツアーを組んでの札所巡りには、この“贅沢な時間と空間”と“思索の時間”は確保されない。歩きながら、様々な事柄に思い巡らせる思索の時間は何物にも代えられない贅沢な喜びである。体は疲れるが、感覚は研ぎ澄まされていく。「お四国病」と言われるお遍路の魅力はこのことに尽きていると思っている。
〇今回のお遍路でも当然同行二人なので、一人で歩いていくのだけれど、いつからか自分の前後を歩く鹿児島の人と長崎の人とほぼ同じペースで歩き、挙句の果てに泊まる宿がいつも一緒になる。いつの間にか、親しく声を掛け合うようになり、宿では一緒に夕飯を食べ、お酒を飲むようになった。鹿児島の方は私より、一歳年上であるが、普段山歩きをしているとかで健脚である。弥次喜多道中よろしく、二人とは前になったり、後ろになったりと35番札所の清滝寺までは一緒だった。しかしながら、新型コロナの影響で、お遍路宿がほとんど閉まり、札所もお遍路さんを受け入れないとなり、お二人は出直すということで別れた。
〇私は行けるとこまで行こうと思って歩き続けたが、37番所札所で打ち止めをすることになった。それというのも、県外者立ち入り禁止の通達が出ているとのことで、岩本寺の先は進めなくなり、岩本寺から引き返すことになった。
〇予讃線窪川駅から高知駅経由、岡山駅経由で新幹線で帰途に就く。駅の売店も閉まっているところが多く、人との出逢い、接触を拒否する新型コロナの恐ろしさを改めて痛感する。
〇新型コロナが猛威を振るう中、本当に人との出逢い、交流がなくなり、閉塞・蟄居の状態となってしまった。これでは駄目だと思い、「老爺心お節介情報」を関係者に送りつけることにした。
〇「老爺心お節介情報」は、2020年5月20日に第1号が発刊された。約100名の関係者に私が勝手に、“老婆心”ではなく、“老爺心”からお節介情報を送ることにした。その評価は分からないが、2026年9月現在、90号まで発刊し続けている。
〇「老爺心お節介情報」の発刊の趣旨を第1号では以下のように述べている。

「私は、この3月で東北福祉大学大学院を退職しました。少し閑になるので、時々皆さんに一方的に、私が見て、読んで関心を持ち、皆さんと情報を共有しておいた方がいいと思われる情報を一方的に送ります。取捨選択して使ってください。
ただし、大学教員を辞めるということは、教育・研究上迫られて情報を集めるとか、その立場にいるから自然と情報が入ってくるとかということがなくなり、皆さんが職務上知り得ている以上には情報を把握していないかもしれません。まさに、私が知り得たレベルでの情報を独善的に取捨選択して、「お節介爺さん」として送り届けるものです」(2020年5月28日)

〇2020年4月の「歩きお遍路」は、結局、途中で打ち切らざるを得ない、いわゆる「区切り打ち」状況で終えたので、新型コロナが落ち着いたら岩本寺以降を歩き、結願したいと考えていた。
〇改めて、2021年4月2日から4月28日まで、岩本寺から歩き始めて、38番札所金剛福寺(足摺岬)から88番札所大窪寺まで27日掛けて歩くことができた。
〇「お四国病」に取り付かれたものの一人として、第4回目の四国歩きお遍路を目指していたが、後記するように前立腺がんが発見され、その治療に女性ホルモン療法を取り入れたせいか、足の筋力が落ち、踏ん張ることできなくなった。これでは、お遍路の“馬の背”と呼ばれる道を歩くことができず、“馬の背”から滑落して、遭難することも考えられるので、お遍路は諦めることにした。
〇その代わりと考えたのが中山道530キロを歩くことである。日本橋から京都3条大橋まで歩こうと考えて、2026年4月に挙行した。
〇しかしながら、初日から足裏にまめができ、日に日にそれが大きくなり、とうとう中山道の中間点を過ぎた木曽谷の妻籠宿でリタイアを余儀なくされた。
〇元長野県社会福祉協議会事務局長の小池正志さんはじめ、木曽谷の地域福祉を良くしようと頑張っている木曽郡内社会福祉協議会や社会福祉法人の方々がいろいろサポートしてくれたがリタイアせざるを得なかった。
〇年寄りの冷や水と言われるかもしれないが、2026年10月に、歩けなかった中山道の区間(長久保・大和橋~和田宿~和田峠登山口と馬籠宿~中津川宿)を歩き、できれば2027年4月に中山道・中津川宿から京都3条大橋までの残りを歩きたいと考えている。
〇「中山道よろよろへとへと道中記」は、阪野貢先生のブログに収録されているので関心のある方は御照覧ください。

➁ 79歳で前立腺がんの重粒子線治療

〇私は、70歳以降は職場の健康診断、あるいは任意の人間ドックも受診していない。その代わりと言ってはいけないのであろうが、痛風予防の服薬をしているので、その薬がなくなる際に、「かかりつけ医」で6か月ごとに血液検査をして、HbA1c,γ―GTP、血糖値、クレアチニン、コレステロールなどの検査を行っている。
〇2022年に入り、畏友の阪野貢先生の強い勧めがあったので、2022年3月に行った血液検査の際に、従来の項目に付け加えて前立腺がんの腫瘍マーカーの検査も入れてもらった。
〇前立腺がんの腫瘍マーカーは、70歳以上の人の正常基準値は4・0以下なのに、私の血液検査の結果は、15・4であった。かかりつけ医は、慶応大学系の稲城市民病院と自宅がある京王線若葉台駅の隣り駅にある日本医科大学を紹介し、すぐに受診して欲しいというという。
〇私は、日本医科大学を選択し、受診したら、やはり前立腺がんだという。改めて、MRI、CTスキャナー、骨シンチグラフィー検査、前立腺生検等の検査を受け、前立腺がんが確定した。幸い、前立腺以外へのがんの転移はなかった。
〇日本医科大学病院の医師の進めもあり、相鉄線の二俣川駅(自宅から1時間30分)にある神奈川県立がんセンターで重粒子線治療を受けることになった。
〇神奈川県立がんセンターでも同じような検査を行い、高リスク群で、ステージⅡという前立腺がんの診断が確定する。神奈川県立がんセンターでは、女性ホルモン治療はおこなわないので、日本医科大学病院で治療を受けた後に重粒子線治療を行うことになった。
〇神奈川県立がんセンターでの重粒子線治療は、2023年2月下旬から3月に掛けて、12回の照射が行われた。神奈川県立がんセンターは、小田急線、相鉄線を乗り継いで、自宅から約1時間30分掛かるが、照射はたったの15分もかからない。12日間通って、12回分の照射を受けた。照射後は90日間酒を飲むなと言われ、結局約100日間禁酒をすることになった。
〇前立腺がんの治療には苦痛を感じなかったが、100日間の禁酒は日々さみしいものであった。第2回の古希記念の四国歩きお遍路の際には禁酒を誓い、40日間酒を飲まずに通した。結願後の徳島での結願祝いの席でビールを飲んだが、まったく美味しくなく、早々に宴席を退出させて頂いた。しかしながら、前立腺がん治療に伴う禁酒期間100日後の解禁のビールはとても美味しかった。いまだその違いがどこからきているのか分からずにいる。
〇前立腺がんの治療後は女性ホルモン治療の影響で筋力が落ちると言われたが、まさにそれを実感する日々が続いた。医師に、女性ホルモンの影響だけでなく、80歳にもなれば、20代の人の筋力の3分の1になるのだから筋力が落ちて当たり前ですと言われたが、足に力が入らず、坂道は辛かった。意識して歩いて筋力の復活を試みてみたものの、回復は未だ道半ばである。
〇そんなこともあり、2025年7月からは、駅近くのスポーツジムに週1回は通い、ペダル踏み、ランニング、11種類のマシーンを使っての筋トレに励んでいる。筋力の増強には届かないものの、筋力維持にはつながっているのではないかと自分では思っている。特に背筋のトレーニングをしているせいか、姿勢がいいですねと言われることが多くなった。

➂ 寄稿した小稿――大学教員・研究者から後代の研究者・実践者へのメッセージ

〇大学の教員を辞めると原稿を書く機会が減少する。かつては、原稿が書けなくて呻吟したことが懐かしく思い出されるほど、原稿を書かなければという強迫観念から開放された。
〇また、大学の教員としての論文では、先行研究を踏まえて自分の論説を書くことが求められ、先行研究などの文献引用が厳しく求められていたが、退職後は自分の言葉で、できるだけ平易に文章を書けるように心掛けた。これも故小川利夫先生の教えで、年老いてからは自分の言葉で、平易に書くようにと言われてきたことを実行したことである。
〇第1の寄稿の機会は、日本社会事業大学専門職大学院教授であり、在宅医療を重視して認知症高齢者等の内科の診療所「つるかめ診療所」を開業している鶴岡浩樹先生からの依頼である。
〇鶴岡浩樹先生が、開業している医者向けに、社会福祉、ソーシャルワークのことを理解してもらう機会を作りたいということで、日本社会事業大学の現役の先生方を中心に、日本医事新報社から「福祉発。拝啓、お医者さま」という連載の企画を立てられ、筆者にも寄稿して欲しいということで書いたのが、「地域共生社会をめざすーケアリングコミュニティの形成」という小稿である(註 巻末資料・本号では省略)。
〇第2の寄稿は、筆者が、(公財)テクノエイド協会の理事長に就任したことにより、従来の社会福祉学会とは違う人々との出逢い、交流が始まるが、その一人が「シルバー産業新聞」を月刊で発行している株式会社シルバー産業新聞の社長をされている安田勝紀さんである。
〇ある時、安田社長から「シルバー産業新聞」に、“自立生活支援とケアマネジメント”という内容で寄稿して欲しいという依頼をうけたので、できれば12回の連載をさせて欲しいとお願いをした。その連載記事のタイトル一覧が以下の通りである。

「地域共生社会に向けた実践―自立生活支援とケアマネジメントの考え方」
第1回 「戦後第3の節目」としての地域共生社会政策とその求められる背景」(2012年1月10日号)
第2回 「救貧的福祉サービスからその人らしさの生活を支えるサービスへ」(2021年2月10日号)
第3回 「ナラティブ(人生の物語)を大切にする自立支援」(2021年3月10日号)
第4回 「求めと必要と合意に基づく支援」(2021年4月10日号)
第5回 「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」(2021年5月10日号)
第6回 「国際生活機能分類(ICF)と自立生活支援」(2021年6月10日号)
第7回 「地域包括ケアの歴史的展開と地域社会生活支援」(2021年7月10日号)
第8回 「地域福祉に必要なシステムづくりと地域包括支援センターの原型」(2021年8月10日号)
第9回 「地域共生社会づくりに必要な新しい地域包括ケアシステムとコミュニティソーャルワーク」(2021年9月10日号)
第10回 「在宅福祉サービスと施設福祉サービスとの連結によるコミュニティケア」(2021年10月10日号)
第11回 「地域共生社会政策を推進する社会福祉法人の地域貢献」(2021年11月10日号)
第12回 「包括的・重層的支援と“上位計画”としての市町村地域福祉計画」(2021年12月10日号)

〇第3の寄稿は、日本社会福祉学会から、若手の研究者へのメッセージを寄稿して欲しいとのことで、2021年3月に「日本社会福祉学会ニュース第88号」に、「これからの社会福祉学に期待すること・社会福祉学研究方法と研究組織に関する小稿」を寄稿した。
〇そこでは、社会福祉学の性格は統合科学であり、哲学・価値に関わる部分、分析科学の部分、設計科学の部分、実践科学の部分、評価科学の部分から構成された構造を持っていること、研究組織論として、社会福祉学の教育・研究体制は多くの大学で講座制でなく、学科目制なので、それについての功罪を書いた。(註 巻末資料・本号では省略)
〇第4の寄稿は、日本社会福祉士会の機関紙「日本社会福祉士会ニュース200号」(2021年6月)に寄稿を頼まれ書いた。
〇タイトルは「これからの社会福祉士―地域共生社会政策と社会福祉士の役割」として書いた。
〇そこでは、①、社会福祉士は自らのアイデンティティをどこに乱しているのであろうか?②、社会福祉士が使用する用語と無意識のうちのパターナリズム及び救貧的社会福祉観、③、専門職団体としての社会福祉士集団の政策提言能力―社会的評価と個々人の力量、④、地域共生社会政策の具現化を左右するのは社会福祉士集団であるということを書かせて頂いた。(註 巻末資料・本号では省略)

➃ 書籍の刊行――研究者としての理論の集大成と地域福祉実践の体系化の支援

〇2022年4月に中央法規出版から『地域福祉とは何か』を出版した。
〇この本は、2020年3月に東北福祉大学大学院の仕事も終えた時、日本地域福祉研究所が編集発刊している雑誌『コミュニティソーシャルワーク』の編集長である田中英樹先生から、「地域福祉とは何か」を書いて欲しいと依頼され、雑誌『コミュニティソーシャルワーク』第26号(2020年)、第27号(2021年)に連載した。
〇それを基に、加筆修正して、2022年4月に中央法規から『地域福祉とは何か』として上梓した。慌ただしく発行したこともあり、索引が無く、二木立先生からお叱りを受けた。索引が掲載されたのは、第3刷りを発行する2025年3月である。
〇この本の出版で、私の地域福祉実践・研究の集大成ができたと思っている。1960年代から、「社会教育と地域福祉の学際研究」をしてきたが、その折々のエピソードも含めて『地域福祉とは何か』に収録できたので、満足感は大きかった。
〇ただ、裏付ける資料や文献をいちいち当たることができず執筆したので、誤りや年代の違い等あるのかもしれないが、それは後進のチェックに委ねることにして、一応「大橋謙策地域福祉理論の形成と発展」の下になる原型はできたと思っている。
〇その上で、この「その時の出逢いが」が『地域福祉とは何かを』を補完する資料になると思っている。
〇この他、筆者がアドバイザーを委嘱されたり、「関係人口」として長年関わり、「押しかけアドバイザー」的役割を果たしてきた富山県氷見市の地域福祉実践、宮崎県都城市の地域福祉実践を整理し、世に出すお手伝いをした。それが下記の本である。いずれも、筆者が監修するとともに、筆者自身もそれらの地域の地域福祉実践が社会的にみてどういう意義ある実践をしてきたかの解題的文章を載せている。
*『福来の挑戦―氷見市地域福祉実践40年のあゆみ』中央法規、2023年4月
*『自治公民館と社会福祉協議会が綾なす地域福祉実践-都城市社会福祉協議会の取り組み』ミネルヴァ書房、2026年7月
〇更には、新型感染症(SARZ)で、直前に中止になった2000年のアジア・太平洋ソーシャルワーク会議の開催準備を機に久しく厚誼が始まった、日本医療ソーシャルワーカー協会(MSW協会)の笹岡眞弓先生などと一緒にまとめた本がある。
〇宮城県石巻市での東日本大震災の被災者支援を日本医療ソーシャルワーカー協会(MSW協会)が石巻市の現地に支援事務所を構え、職員を常駐させ、10年間支援してきた1047ケースを分析する手伝いをすることになり、私も石巻市に足掛け3年通った。
〇その研究成果、報告書(下記)が、復興局から助成を頂き出版することができた。その本はその後中央法規から刊行・販売されている。
〇その報告書の監修を行うと同時に、筆者自身も「災害支援ソーシャルワーク」についての文章を書いている。
〇この本を同志社大学の立木茂雄先生(災害支援の在り方を社会学、社会福祉学の視点から研究し、多くの論文を書いている)から、“災害被災者支援における金字塔的業績”ではないかと過分のお褒めを頂いた。
*『東日本大震災被災者への10年間のソーシャルワーク支援―公益財団法人日本医療ソーシャルワーカー協会の相談支援1047ケースの実践報告』中央法規、2024年1月
〇災害支援ソーシャルワークの在り方は、先の号でも書いてきたが、2012年の厚生労働省の調査研究会以降、頓にその必要性と考え方を提唱してきた。
〇2024年1月1日に起きた能登半島地震・集中豪雨被災支援においても珠洲市、輪島市、穴水町を中心に調査させて頂き、石川県社会福祉協議会主催の被災者支援の振り返りのシンポジウムでも提案させて頂いた。また、石川県社会福祉協議会の能登半島地震・集中豪雨被災支援の報告書にも書かせて頂いた。
〇そのような中で、JVOADが穴水町の行政と社会福祉協議会との間で3者協定を結び、新たな災害被災支援の実践システムともいえる方法を確立してくれているので、その実践システムを広く世に問うという意味合いで、本として出版することにした。この本でも、筆者は監修の役割と同時に、「穴水モデル」ともいえる実践システムの意義と位置について小稿を書いている。
*『災害被災者支援の新たな実践システム・穴水モデル』ミネルヴァ書房、2027年刊行予定
〇同じように、全国の都道府県社会福祉協議会レベルで初めてのアドバイザーの役割を担った香川県社会福祉協議会の足掛け13年の足跡とそれに基づく香川県内市町社会福祉協議会の実践をまとめることを提案し、その本でも監修者と同時にアドバイザーとしてどのような思いでアドバイス、コンサルテーションをしてきたのかの小稿を書いている。これも下記のような形で上梓する予定である。
*『ニーズ対応型社会福祉協議会の実践・香川モデル』ミネルヴァ書房、2027年刊行予定

➄ 大学教員としての責務からの解放――傘寿に「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」(2023年10月28日・最終回)を開催

〇「大橋ゼミホームカミングデー」は平田富太郎学長に言われ、始めたイベントである。
〇2023年は大橋ゼミ50周年の節目の年で、「大橋ゼミホームカミングデー」を2023年10月26日の私が傘寿の誕生日を考えて行うことにした。いつも使用している東京・市ヶ谷の私学会館アルカディア市ヶ谷きで開催した。
〇この日は、2度目の帯状疱疹が目と頭に発症し、目を冷やしながらの催しであった。
〇この「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」で以下のような挨拶文を冊子に掲載した。
〇「大橋ゼミホームカミングデー」は、卒業生と会える楽しい日ではあるが、一方、大学教員として卒業生へのリカレント教育の一環としての意味も持っており、5年毎とはいえ結構緊張する日でもあった。
〇そんな思いを綴ったのが以下の挨拶文である。これで、大学教員としての責務から解放されるという思いと、卒業生と会う機会が少なくなるという一抹の寂しさがよぎった。

「大橋ゼミ50周年ホームカミングデー」挨拶文
●1989年、日本社会事業大学に赴任してから、15年を記念して第1回のホーミカミングデーを開催しました。
このホームカミングデーは、故平田冨太郎学長の提言です。平田富太郎学長は、単科大学としての日本社会事業大学は卒業生を大切にして、リカレント教育の一環として、ホームカミングデーをゼミ毎に開催すべきと強く要望されました。
●それは、私が1974年、日本社会事業大学に赴任する際、五味百合子先生、仲村優一先生から言われたことと同じです。
日本社会事業大学の教員は、個人の研究もさることながら、学生指導、学生への教育を大切にしてほしい旨の訓示が度々されました。
私は教員の大学教員の教務分担として、新任教員は学生委員会に所属させられ、学生教育の重要性を学べと言われました。
●恩師である小川利夫先生からは、厚生省(当時)から委託を受けている日本社会事業大学の立ち位置を考えたら、“単なる大学教員”に甘んじてはいけない。日本社会事業大学を代表して、日本社会福祉学会などで評価される研究者になれと諭されました。
●これらの教えを胸に、ある意味、家族を“犠牲”にして、日本社会事業大学で教育・研究に励んできました。
子どもたちは、父親と楽しい時間をどれだけ持つことができたのでしょうか、時には、学生の調査実習の際に、家族を連れて行き、家族は別行動してもらいながら、学生の調査実習の合宿指導を行いました。
家庭では妻に全てを任せ、妻に“明日は日曜日でしょ”と言われても、原稿書きがあるとか、文献を読まなくてはいけないからと言っては、家事もせず、子どもとの団らんの機会も多くは持てませんでした。
今となっては悔いは残りますが、私の研究、教育、実践に全面的に家族が協力してくれたお陰だと、妻と子どもに感謝の念で一杯です。心からお礼を伝えたいと思います。
●このような経緯があったからでしょうか、教員、研究者として日本社会事業大学の学長はもとより、日本社会福祉学会会長、日本学術会議会員、日本社会事業学校連盟会長をさせて頂きました。
結果として、日本社会事業大学の先生方からの教えに背くことなく、50年間の大学教員の責務を全うできました。
●研究者としての評価は後世に委ねなければなりませんが、研究業績を「著作集」として刊行するのではなく、ある意味、岡村重夫先生を見習った訳ではありませんが、大橋謙策理論の集大成ともいえる著作『地域福祉とは何かー哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』を2022年4月に上梓できました。
●唯一ともいえる残された課題は、5年ごとに行ってきたホームカミングデーをいつ終結するかという課題です。
ホームカミングデーは単に、卒業生が集まり、懇親し、近況報告をするというものでは駄目で、ホームカミングデーはある意味リカレント教育の場でもあるので、教員が教え子に最先端の研究、理論、実践を自ら指し示す機会でなければならないと教えられました。
そのために、ホームカミングデーごとに、5年間の間に教員がどのような論文を書いたのか、どのような実践・研究をしたのかを卒業生に示し、卒業生の学びを促す機会でもなければならない儀式でもあります。
このことは、結構教員にとっては辛いタスクであり、儀式です。教員として、研究者として、“生きて”いなければ、“論文を書いて”いなければ、ホームカミングデーは単なる懇親の場になってしまいます。
大橋ゼミホームカミングデーの機会に、私が5年間書いた物の中から、数編を選んで資料集として冊子にし、参加者に配布すると同時に、この間お世話になった方々に配布してきたのも、研究者、教員として責務を果たしていますという“アリバイ証明”でもありました。
この作業は、結構辛いもので、論文を書ける時もあれば、書けない時もあります。コンスタントに実践し、研究し、論文にまとめるという作業はよほど意識して取り組んでいないと書けないものです。
政策や制度の解説的なものは、すぐ“時とともに色褪せて”しまうもので、5年経っても色褪せず、卒業生に読んでほしいというものを書き続けるということは、一つ一つの論文で、常に社会福祉実践、社会福祉理論における研究課題は何か、事象を分析する視点に従来にない鋭さがあるか、事象に流されずに、社会問題として構造的にとらえられているかなど、研究者、教員としての知見が常に問われることになります。まさに、教員、研究者として“生きているか”が問われることになります。
これらの作業をするためには、常に“アンテナを高く、広く張り”、情報収集に努め、何が社会福祉分野における理論課題なのかを考えていなければできない作業であります。
大学教員としての現役の時は、仕事がら必要な情報が“相手からもたらされる”という状況もありますが、国や自治体、あるいは各種団体の役職・委員を退任しているものにとって、これらの役職・委員就任で得られている情報を自らの手で、体系的に収集把握することは容易ではありません。
また、大学の教員、研究者として、各種学会での発表のオブリゲーションもなくなり、75歳以上で名誉会員に推挙されると、学会の理論研究をリードしようというモチベーションも下がり、研究範囲が狭隘になり、唯我独尊的になり、研究意欲も減退することになります。
●私は今年80歳になり、上記の役割を担うことができなくなってきています。5年毎のホームカミングデーをここで終結し、教員、研究者としてなすべきことの責務から開放され、一人の“老爺”として、気軽に、自分の思うところを発信したいと思うようになってきました。2020年から始めた「老爺心お節介情報」の発信はその一端です。
●ホームカミングデーは今回で8回目を迎えますが、この間のホームアカミングデーの開催にあたっては、多くの卒業生のご協力、ご支援があったから開催できました。
今回も、岡村英雄さん、田中裕美子さんはじめ多くのゼミの卒業生のご協力、ご支援を頂きました。すべての人の名前を記載できませんが、この紙上を借りて、ここに厚く感謝とお礼を申し上げます。
●私は、後2年、(公財)テクノエイド協会理事長、富山県福祉カエレッジ学長を担う予定ですが、研究者、大学教員としての責務は今回のホームカミングデーをもって終了とさせていただきます。
卒業生の皆様には、自立した、かつ自律した職業人として、日本社会事業大学の建学の精神を忘れることなく、仕事に励んで頂きたいと思います。
皆様のご健勝とご多幸を心より祈念しています。今日からは、教師、研究者ではなく、“年老いた恩師”として、末永く懇親、懇談できればと願っています。
(2023年9月1日記)

(「その時の出逢いが」の執筆を終えるに当たって)

〇人生にとって「その時の出逢いが」の最初は、母親であり、父親であろう。しかしながら、私には生後6か月余で死に別れた父親との「出逢い」の記憶は全くない。
〇1944年5月に父は徴兵されて出征した。後には30歳代そこそこの若い母親と5人の子供が残された。父は、1946年3月17日、抑留されたシベリアのチェレンホボという収容所で病死した。
〇私に残された父の思い出は、出征の際に撮った記念の家族写真だけである。生後6か月の母に抱かれた乳飲み子には思い出す父の面影はひとかけらも無ければ、夢にさえ出てこない存在である。
〇「靖国の母」となった母は、30歳代前半で、5人の子供を育てるのは容易ではなかった。それでも、我が家には、なぜか多くの人が出入りし、何かと母に相談を持ち掛けていた。傍目には、自分の家族が大変なのに、何で他人様の相談まで受けるのか不思議であった。
〇今にして思えば、時代のなせる業であったのだろうが、母は物質的には貧しかったが、精神的には豊かな人生を送っていたのだと思える。
〇筆者が結婚した1970年4月26日の朝、母は筆者を父の仏壇の前に座らせ、“人が出入りする家庭を創れ、お隣とお裾分けできる家庭を創れ”と訓示を垂れた。その時は、何を言っているのかと思ったが、これも今にして思えば大切な教えだったと胸に落ちる。
〇そんな母を支えてくれたのが2歳上の兄で、定時制高校に通いながら、家計を支えてくれた。
〇二人のお陰で、私は昼間の高校に通わせてもらい、大学も自分の志望通りに進学させてくれ、大学院まで進学する我がままを許してくれた。二人の支えがなければ、今の私はいない。二人には感謝あるのみである。
〇当時、イギリス等のヨーロッパに行くのには、アンカレッジ経由で飛んでいたが、ある時からシベリア上空を飛べるようになった。
〇1975年11月、ヨーロッパの調査研究の帰り、はじめてシベリア上空を飛んでくれた。その時、自然と口ずさむように浮かび、詠んだ短歌が以下の句である。

「父の死す 白きシベリア飛ぶ朝 思い乱れて涙こぼれる」
「垂乳根の 母に見せたし亡き父が 眠れるシベリアの朝」
「止めどなく 流るる涙口惜しく シベリアに果てし父を思えり」
「三十年の 昔に死せる父の胸に われの乳児の姿刻める哉」
「白き野に 凍えて死したる父親の 心はいかに妻子思いし」
「亡き父が 送りし軍事郵便の 古びてあれど涙に見たり」
「二人の乳児の親なれば 亡き父の悲しき心 いくばくか分からん」

〇傘寿も過ぎ、妻との金婚式も終え、この2026年8月には最後の家族旅行になるかもしれないと家族での北海道旅行もできた。
〇妻とは、毎日のように悔いのない、楽しい、嬉しい人生を送ることができたねと感謝の言葉が口に上る。いつ、“お迎えが来ても”悔いはないねと話をする日々である。
〇これからどのような人生、出逢いがあるのか分からないが、これからも「出逢い」を楽しみ、感動する人生を送りたいと願っている。
(2026年9月23日秋分の日に)

老爺心お節介情報/第90号(2026年8月21日)

「老爺心お節介情報」第90号

〇皆様お変わりありませんか。
〇時の移ろいは正直で、8月半ば、お盆を過ぎると、蝉もつくつく法師蝉が鳴くようになり、かつ虫の音が聞こえるようになってきました。
〇今回の「老爺心お節介情報」は、「その時の出逢い」の2010年代後半版です。後一回、2020年代での「その時の出逢い」を執筆すれば、「その時の出逢い」の原稿は完成します。書いてきてみて、資料等の検索や裏付けが不十分ですし、記憶も定かでないところもあり、決して満足できるものではありませんが、取り敢えず、「大橋謙策地域福祉論の形成と発展」に関わって頂いた人々との出逢い、事案との出逢いは通史的に整理できたかなと思っています。
〇読者の皆様からの感想や、私の思い違いへの指摘などを参考にして、最終的には手を入れたいと思いますので、遠慮なく皆様の感想、事実の指摘などお寄せ頂ければ幸甚です。
(2026年8月21日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑪

Ⅰ 2010年代後半

(はじめに)

〇私は、この時期70歳代後半に入り、東北福祉大学大学院の仕事(2020年3月退職)は継続していたが、「終活」に向けて社会的活動の身辺整理をしはじめていた時期である。
〇社会的活動としての公益財団法人日本生命福祉財団の仕事も助成事業選考委員会委員長、評議員、理事の役目を2015年6月で退任した。最後の仕事として、白澤政和先生と日本生命福祉財団助成事業が社会的にもたらした影響と評価を『地域包括ケアの実践と展望』(2014年7月、中央法規)としてまとめることができた。
〇同じように、公益財団法人損保ジャパン福祉財団も社会福祉文献賞の選考委員会委員長、評議員、理事の役割を終えるに当たって、『「ニーズ対応型福祉サービスの開発」と「新たな福祉サービスの起業化」』という論文、並びに「求められる福祉ニーズの考え方・把握の方法と福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク」という論文を『損保ジャパン日本興亜福祉財団叢書No91』(2018年)に収録できて終えることができた。
〇東北福祉大学大学院の仕事はあったものの、時間的にはかなり余裕ができてきたので、日本社会事業大学学長時代にお断りしていた各地の地域福祉実践を励ます行脚に出かけることが多くなった。富山県、秋田県、岩手県、佐賀県などで本格的な4日間の日程でのコミュニティソーシャルワーク研修を行い始めた。ほぼ、自分が考えてきたコミュニティソーシャルワークの考え方とそれを習得できる研修体系が出来上がったと思っている。

(1)東日本大震災と「災害被災者支援ソーシャルワーク」

〇東日本大震災という未曾有の大災害が2011年3月11日、午後2時40分に発生した。
〇筆者は、当日、日本福祉大学の丸山悟理事長とお茶の水の私学共済のガーデンパレスでお会いする予定で、向かっている時に2時40分の東日本大震災に遭遇した。
〇近くのビルが倒壊するのではないかと思えるほど、揺れ、自分自身も立っていられなく、座り込む状況であった。駐車場の車がはねている状況でただ事でないことが察しられた。ガーデンパレスのテレビに映し出される惨状には言葉を失い、見入るばかりであった。
〇会合は中止し、お茶の水から歩いて帰宅することにした。お茶の水から四谷の日本地域福祉研究所により、事務局の安全を確認した。事務局には、日本社会事業学校連盟などの事務局員が避難してきていた。途中のコンビニというコンビニは、水も、パンも食料品もなく、陳列棚は空っぽであった
〇新宿を経由し、京王線の千歳烏山駅まで歩いた時、駅前の焼きとり屋が店を開けており、ビールと焼き鳥を頼めるかと言ったら、いいというので、お店に入る。このお店は、焼酎の瓶等が棚から落ちて割れ、漸く掃除が済んだところだという。ビールを飲み、焼き鳥を食べているうちに京王線が運転を再開したというので、後は京王線に乗り、深夜に家に着いた。
〇この間、太田区に住んでいる娘夫婦の孫を保育園に迎えに行った妻や、娘たちの安否が確認できず、心配でならなかったが、深夜に安否が確認できホッとした。
〇4月1日、漸く被災地に入ることができ、東北福祉大学で渡辺副学長と会い、日本社会事業学校連盟からの支援の申し入れをお伝えしたが、東北福祉大学として最善をつくしているので、大丈夫ですとのお答えを頂いた。
〇東北福祉大学大学院教務課の青柳勉さんの案内で若林区、塩釜市、石巻市、七ヶ浜町等の被災地を視察させて頂いた。あまりの被害の凄さに言葉が出なかった。
〇東日本大震災後、金田一秀穂・京子先生夫妻から電話が入った。金田一京子先生は1990年代から日本社会事業大学で留学生の日本語指導の非常勤講師を勤めてくれていて、その縁でご夫妻ともつながりが出来ていた。
〇金田一秀穂・京子先生夫妻から、東日本大震災で「震災孤児」の方が出るようなら、里親として大学まで「震災孤児」を育てるという申し出であった。我が家でも、妻と話をして、同じような話をしていたので、仙台へ行った際に、児童相談所や子育て支援センターなどの関係者に話をしてきたが、その時点では「親族里親」で対応できているのでという理由でお断りをされた。しかしながら、その後、「親族里親」の問題が明らかになり、あの時点でもう少し強く申し入れをしておけばよかったかと思ったりしている。
〇岩手県の被災状況の調査では、陸前高田市へ支援に入っている34のボランティア団体の協議会事務所が後方支援拠点として遠野市に設置されており、そこを訪ねて話を伺った。
〇阪神淡路大震災以降、災害支援のボランティア活動は市町村社会福祉協議会が全国ネットの強みを生かして取り組んできたが、陸前高田市は災害死が一番多かった地域ということもあり、多くのボランティア団体が支援に駆けつけてくれた。それらの多様なボランティア団体の協議会を作り、活動の調整をしてくれたのが遠野市社会福祉協議会の佐藤事務局長であった。
〇遠野市は筆者が「関係人口」として1990年から関わり続けている市であるが、遠野市社会福祉協議会の佐藤事務局長や後に遠野市長になる多田一彦さんたちが関わってくれ、この後の災害支援におけるボランティア団体の在り方と支援のシステム化に大きな足跡を残した。このボランティア団体協議会には、敬愛する日本社会事業大学の先輩である神田均先生が老躯を駆って、静岡県ボランティア協会理事長として支援に加わっていた。
〇遠野市から釜石市を抜け、大槌町吉里吉里地区にある特別養護老人ホーム・ラフターヒルズを訪ねた。ラフターヒルズは、個別ケアを徹底化させている日本ユニットケア推進センターの実習指導施設に認定されている施設である。この施設は定員約100名であるが、そこへ約1000名近くの人が避難に押し掛けたという。災害時における社会福祉施設が果たす役割についていろいろ考えさせられた。
〇東日本大震災の福島県での被災状況は、原発爆発による放射能汚染で、岩手県、宮城県とは全く異なるものであった。筆者は、福島県の原発被災状況を郡山市に移設した浪江町役場で聞き取り、浪江町民は福島県内を中心に58か所に分散避難していることに放射能汚染の恐ろしさを痛感した。
〇福島県沿岸部から内陸部へ避難した方々の状況はMSWとして救援、救済に関わった小河原さんにお聞きした。いわゆる健康な住民でない、要介護の高齢者の避難と避難後のケアへの対応にはただただ頭が下がるばかりであった。
〇このような東日本大震災への避難、支援の調査を通して、筆者は阪神淡路大震災とは異なる役割を社会福祉協議会関係者、社会福祉関係者が担うべきではないかと考え、これ以降そのことについて発信してきている。
〇その成果の一つは、2012年度の「災害福祉広域支援ネットワークの構築に向けての調査研究事業」報告書であり、もう一つは2017年度の「災害時の福祉支援の在り方と標準化に関する調査研究事業」報告書である。
〇この二つの検討会報告書は、全社協の経営協が厚生労働省社会援護局施設基盤課に働きかけて、調査研究費を得て、富士通総研が事務局を担ってまとめられたものである。
〇この検討会の課題は、当初、東日本大震災で大きな被害を受けた社会福祉施設を救援・救済するために駆けつけた「サンダーバード」の実践(新潟県長岡市長岡福祉会の小山剛代表)を一般化させる目的で設置された。したがって、社会福祉施設間の相互援助的な支援システムが構想されていた。
〇筆者を検討会の委員長にすると言う考え方を誰が、どこで決めたのか知らないが、筆者は2回とも委員長を仰せつかった。
〇この検討会が設置されるとき、全社協の斎藤十郎会長から筆者に会いたいと、(公財)テクノエイド協会の秘書に電話が掛かってきた。来ていただくのは恐れ多いので、筆者が全社協に尋ねると、斎藤会長は、なぜこの検討会に全社協の地域福祉部の職員が委員になっていないのか、是非入れて欲しいとの要望だった。筆者は、委員長を仰せつかったのであって、委員の構成、人選の権限はないとお答えし、オブザーバーなら参加、傍聴できるので地域福祉部に伝えて欲しいとこちらからお願いした。しかしながら、2回の検討会とも地域福祉部からのオブザーバー参加、傍聴はなかった。
〇この検討会には施設基盤課課長が毎回出席しているので、筆者は委員長として、➀「DMAT」だけでは被災者支援はできないので、「DWAT」の機構を創設して欲しいこと、②災害被災者には、社会福祉施設だけでなく、在宅福祉サービスの被災者、在宅福祉サービスみなし仮設の住民もいるので、支援の対象を在宅福祉サービスを利用している住民まで広げて欲しいこと、③在宅福祉サービスを利用している人はもとより、災害避難行動支援やニーズ把握には民生・児童委員の協力が必要なので、「DWAT」の機構のメンバーに入れて欲しい旨のことを繰り返し発言し、要望した。
〇災害救助法の所管が2012年に厚生労働省から内閣府に移管されたこともあって、法的にも、予算面でも厳しかったと推測しているが、上記の3つを認めて頂くのには大変難儀をした。被災者支援の生活支援面ではソーシャルワーク機能が必要であると述べても、その機能は「DMAT」派遣の保健師で対応できるはずだとかたくなであった。
〇結果的には上記の要望は受け入れられ、「DWAT」機構の創設につながった。

註1 第1次報告に掲載された拙稿(2013年4月)
註2 災害時ソーシャルワークの課題と展開

(2)日本社会福祉学会及び日本地域福祉学会の名誉会員に推挙され、学会活動に区切り

〇筆者は、1943年10月26日が誕生日であり、2018年10月には75歳になった。多くの学会では、会員が75歳を迎え、会長や理事などを長く務めた会員を名誉会員に推挙し、認められれば名誉会員を名乗る制度を有している。
〇日本福祉教育・ボランティア学習学会は、阪野貢先生や山崎美貴子先生たちと立ち上げ、初代会長に就任したこともあり、名誉会員には2018年11月に推挙された。
〇日本地域福祉学会も同じように学会創設に関わり、その後事務局長・理事、後に会長に就任していたので2019年6月に名誉会員に推挙された。
〇日本社会福祉学会では通算12年間理事に選ばれ、そのうち会長職を6年間務めた。名誉会員への推挙は2019年5月であった。
〇先にも述べたが、日本社会教育学会の公選理事には30代で選ばれており、かつ名誉会員にも推挙されていたので、これで小川利夫先生から指導された「社会福祉と地域福祉の学際研究」をするなら、学際研究の両方の学会で公選理事に選ばれなければ研究者としては認められないという“教え”をクリアできたことになる。
〇名誉会員になることにより、研究しなければという強迫観念は薄らぎ、学会活動に一つの大きな区切りをすることができた。
〇その名誉会員に推挙された際の論稿を掲載しておきたい。

註3 日本社会福祉学会ニュース寄稿

註4 日本地域福祉学会ニュース寄稿

(3)「押しかけアドバイザー」「提案型コンサルテーション」での社協支援

〇筆者の地域福祉実践。研究のスタイル、特徴は、どこかの自治体、もしくはその自治体の社会福祉協議会との「関係人口」として、長期にバッテリー型研究を行ってきたことである。富山県氷見市、長野県茅野市、山形県鶴岡市、香川県琴平町等長年に亘り、自治体や社会福祉協議会のアドバイザー的役割を担ってきた。それらは、いずれも自治体あるいは社会福祉協議会から依頼を受けて、アドバイザー、顧問等名称は違うが、公に発言できる、助言できる立ち位置、役割を与えられたものであった。
〇しかし、この2010年代後半は、定期的に出勤する通常業務はなくなり、自分で時間を管理することができるようになっていたので、講演、研修に招聘された折には、その務めを果たすだけでなく、組織の改編、新たらしいサービスの開発、福祉関係者のネットワークづくりなどに「老爺心お節介」宜しく、新たな提案を積極的にするようになった。いわば、「押しかけアドバイザー」ともいえる言動で、“こういうことをやろう”という「提案型コンサルテーション」を積極的に行ってきた。
〇全国の福祉系大学の教員が、講演や研修に招聘された際、それをこなして帰るという“単なる講演家、研修家”で留まるのでなく、講演や研修で招聘される自治体や社会福祉協議会のデータなどを調べ、気が付いたことや新しく取り組むべき課題を「押しかけアドバイザー」的に、「提案型コンサルテーション」的に行ってくれ、それを契機にその自治体や社会福祉協議会との「関係人口」として、長期に関わってくれれば、全国各地の草の根の地域福祉実践は高まるのにといつも思っていた。筆者の教え子には、“単なる講演家、研修家”で留まるなと諭してきた。
〇この時期は、「押しかけアドバイザー」「提案型コンサルタント」として、香川県社会福祉協議会、佐賀県社会福祉協議会に濃密な関わりを持つことになる。
〇香川県との関りは、香川県社会福祉協議会や香川健康福祉財団の講師として招聘された他、香川県琴平町に長らく「関係人口」として関わってきてはいたが、香川県社会福祉協議会への「押しかけアドバイザー」「提案型コンサルタント」という役割は担えなかった。
〇香川県社会福祉協議会との「関係人口」の契機は、香川県社協日下直和部長(当時)から、自分が次長に昇格すると内示を受けているが役割を担えるであろうか、また香川県の県社協への評価が厳しい状況の中で、どのように県社協を立て直してしていったらいいかという相談内容の手紙を頂いてからである。
〇その背景には、コミュニティソーシャルワーク研修を香川県が県社協に委託せず、任意団体である香川県コミュニティソーシャルワーク実践研究会に委託したことである。しかも金額は約1000万円という高額であった。
〇香川県社会福祉協議会は、2014年度に「ニーズ対応型社会福祉協議会の活動指針」を県内18社会福祉協議会(県社協はその一組として参加し、社協アライアンスを結成)の協議の下に打ち出した。そこでは住民のニーズに応え、住民とともに問題解決を図る「住民主体」の原則を踏まえた社会福祉協議会の在り方を示した。
〇また、その為に、住民の福祉アクセシビリティを考えた、住民の身近なところに総合相談窓口を設ける、社協職員による「地区担当制」の導入も決定した。
〇これ以降、県内社会福祉協議会では、濃淡の違いはあるが「地区担当制」を導入して、改めて住民のニーズの発見、把握とそれに応える個別支援を通じた地域組織化活動を展開するように変貌していく。
〇と同時に、香川県内社会福祉協議会の常務理事・事務局長セミナーを県内各地で持ち回りで開催し、県内の状況、開催地の地域社会生活課題を肌で感じられるようにと行ってきた。
〇更には、常務理事・事務局長セミナーでは、セミナー開催地の社会福祉協議会を財務、業務を参加者で分析する各市町社協の事例検討会を行ってきた。
〇かつてのような、やや情報伝達的なセミナーでなく、事例に基づき、ワークショップも取り入れながら、県内社会福祉協議会の現状についての共有化と意思統一を図ることができるようになった。
〇その際、香川県社会福祉協議会は日下直和次長(当時)を中心に、県内社会福祉協議会の状況をアンケートで調査したり、様々なデータを集めて分析することで、「空論」ではない社会福祉協議会の経営分析、実践分析ができるようになった。
〇この日下直和局長(後に局長)の社協経営分析データシートは秋田県社会福祉協議会や佐賀県社会福祉協議会でも活用され、県内社会福祉協議会の実態把握と分析に貢献してくれている。
〇香川県社会福祉協議会は、このような取り組みを背景に、2014年から香川県内社会福祉協議会連絡会、香川県社会福祉法人経営者協議会、香川県老人福祉施設協議会、香川県民生児童委員会協議会連合会の4団体で協議を進め、2015年から「香川おもいやりネットワーク事業」を展開している。
〇社会福祉法人の組織的な社会貢献、地域貢献の先駆は、大阪府老人福祉施設協議会が2004年度から始めた生活困窮者のレスキュー-事業が先駆けであるが、「オール福祉〇〇」といった組織を結成して、関係する社会福祉関係者が住民のニーズに柔軟に、機敏に対応できるシステムを創設したのは初めてである。
〇筆者は、大阪府のレスキュー事業の研修にも長らく関わってきたが、それは社会福祉施設の職員を対象にコミュニティソーシャルワーク研修を行っていたのが中心で、漸く10年前に市町村社会福祉協議会も巻き込んだ「大阪しあわせネットワーク」が結成され、「オール福祉大阪」へと発展している。
〇香川県の「香川おもいやりネットワーク事業」の考え方は、佐賀県でも導入され、2026年3月に「ALL福祉さが」が発足している。
〇このような社会福祉法人経営者協議会(含む各種種別施設協議会)、民生児童委員協議会連合会、市町村社会福祉協議会が一体となって、県社協がそのプラットホームを運営するシステムが、全国各都道府県でも必要だと考え、関係する都道府県社会福祉協議会に働きかけているが、反応はいま一つである。多くの都道府県社会福祉協議会では、社会福祉法人の地域貢献の取り組みや社会福祉施設経営の社会福祉法人との連携などは各市町村社会福祉協議会に任せているというのが大方の回答である。
〇筆者は、全国のすべての都道府県社会福祉協議会に招聘され講演、研修を担ってきた。その際に、県社協が地域福祉推進のために取り組むべき課題などについて、「押しかけアドバイザー」的に、「提案型コンサルタント」的に提案などをしてきたが、あまり実らなかった。
〇香川県社会福祉協議会では、日下直和局長、越智和子会長(香川県コミュニティソーシャルワーク実践研究会会長、琴平町社協会長)の尽力もあって、かような取り組みが展開できるようになった。
〇香川県社会福祉協議会では、「ニーズ対応型社会福祉協議会活動指針」を受けて、社協職員の資質向上を図るべき、中堅職員研修を2泊3日で行った。筆者は50年振りくらいに青年の家に寝泊まりした。この研修で、中堅社協職員の資質がこんなに低いのかと慨嘆せざるを得なかった。職場で朝の挨拶を取り交わすことがない、“独任官”で上司や同僚からOJTの機会も与えられていないとか正直信じられないような状況であった。
〇これでは、理念的に「ニーズ対応型社会福祉協議会の指針」を打ち出しても。“お題目”で終わり、実行不可能なのではないかと思った。そんなこともあり、香川県社会福祉協議会は毎年、市町社協職員による「社会福祉協議会実践発表会」を行い、職員の資質向上に努めている。
〇香川県の「ニーズ対応型社会福祉協議会の活動指針」とそれに伴う実践は、今2027年発行を目指してとりまとめをしているところである。是非、ご高覧頂きたい。

註5 『ニーズ対応型社会福祉協議会の実践・香川モデル』(仮称、ミネルヴァ書房刊行予定)

註6 香川県コミュニティソーシャルワーク実践研究会

註7 香川県社会福祉協議会「ニーズ対応型社協活動の推進」報告書

〇香川県社会福祉協議会と同じように「押しかけアドバイザー」「提案型コンサルタント」機能を駆使したのが、佐賀県社会福祉協議会である。
〇佐賀県社会福祉協議会からの招聘は古くは筆者が30代半ばの頃、佐賀県社会福祉大会に福祉教育をテーマで招聘されたことや1995年にボランティア活動についてのテーマで招聘され、1月17日の阪神淡路大震災を佐賀で、テレビを見て災害の酷さに愕然とし、呆然とテレビを見ていた等の記憶がある。
〇佐賀県社会福祉協議会との新たな「関係人口」の関わりは、2014年に佐賀県社会福祉協議会の市町村社会福祉協議会の会長・役職員研修で、「社会福祉協議会は生残れるか?」というテーマで招聘された時からである。当時、佐賀県社会福祉協議会の地域福祉課長内田圭二さんと小松美佳さんが担当でこの研修会を企画し、開催された。
〇これを契機に、佐賀県社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーク研修や社会福祉協議会職員実践発表会、あるいは「ALLさが福祉」のネットワークの創設や佐賀県における社会福祉職員研修体系の再整備の問題などについて「押しかけアドバイザー」「提案型コンサルタント」機能を駆使させて頂いた。
〇佐賀県には、社会福祉教育、リハビリテーション職種の養成、看護学部等をもつ西九州大学がある。「2040年問題」を考えると、大学も18歳人口が減り、経営危機に直面するし、社会福祉分野も介護人材の確保の困難さ、福祉サービス利用者の減少に伴う社会福祉法人の経営危機に直面するので、両者の連携を強め、佐賀県の保健・医療・介護・福祉の向上に寄与すべきだと考え、西九州大学の福元理事長等と佐賀県社会福祉協議会役員との懇談の場をセットし、協約締結までしてもらった。
〇西九州大学には上野景三副学長(元佐賀大学教育学部長、元日本社会教育学会会長)や黒田研二学部長(元大阪府立大学教授)がおり、お二人とは旧知の中でもあったので「仲立ち」をお願いし、協約締結にこぎつけた。

(4)CSW研修―富山県、秋田県、岩手県、佐賀県―『地域福祉とは何か』P157参照

〇先にも述べたが、この時期は定期的・定時的出勤という業務からは解放されていたので、改めてコミュニティソーシャルワーク研修の体系化を図りたいと考えていた。
〇コミュニティソーシャルワーク機能の理念を述べているだけでは、“草の根”の地域福祉実践“は豊かにならないので、地域福祉関係職員の研修体系の確立は急務であった。
〇かつて、筆者は岡村重夫理論には、その理念を具現化する「職員論」がないと書いてきた(『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」参照)。
〇そのような背景もあり、この時期、コミュニティソーシャルワーク研修の講師を各地で引き受けることになる。
〇それはまた、筆者が忙しい時期に研修依頼されても時間が取れず、日本地域福祉研究所の理事である“教え子”達に依頼された研修を担ってもらっていたが、その“教え子”達の研修がやや観念的すぎたのか、あるいは個別困難事例へのアセスメントや援助方針立案が不十分だったのか、更には個別支援を通して地域づくりをしていくという取り組みが弱かったのか、いくつかの要因が重なって、“教え子”達の研修への批判が筆者に寄せられるようになった。
〇そんなこともあり、筆者自身が再度コミュニティソーシャルワーク研修の体系化を図る必要があると判断し、いくつかの都道府県社会福祉協議会のCSW研修を担当していくことになる。
〇体系的なCSW研修に取り組んでくれたのは、拙著『地域福祉とは何か』(P157参照)にも書いたが、富山県社協・魚住浩二さん、香川県社協・日下直和さん、十河真子さん、佐賀県社協・内田圭二さん、小松美佳さん等には多大のご協力を頂き、コミュニティソーシャルワーク研修の体系化がそれなりにできたと思っている。
〇福祉系大学での社会福祉教育が、“社会福祉士養成”に引き付けられすぎて、“テキストを教える教員ばかりで、テキストで教えられる教員”が少なくなっていることもあり、福祉系大学の卒業生の質が落ちているのではないかと筆者は思っている。
〇福祉系大学の卒業生は、社会福祉制度に就いては教わってくるが、社会福祉学の理念・原理、社会福祉の歴史、社会福祉に必要な人間観・生活観・貧困観が十分醸成されておらず、事実上ソーシャルワーク機能(①福祉ニーズを抱えている人及びその人の問題を発見し、把握し、分析する力、②同じような問題を抱えている人が地域にどれだけいるか、既存の資料などの分析を通しての推計把握する力、③福祉サービスを必要としている人と信頼関係を作り、解決に向けての伴走的支援をする力、④現在は福祉サービスを必要としているが、それがどの時期に、何に躓き、何を問題として抱えているのかのアセスメントする力、⑤福祉サービスを必要としているの生育歴、生活・人生への希望・願いを十分受けとめた上での「求めと必要と合意」に基づく援助方針の立案、⑥援助方針を実現するために活用できる資源、サービスに関する知識と活用法に関する力、⑦その際に、活用できる資源、制度がなければ、新しいサービスを企画開発する力、⑧それら福祉サービスを必要としている人々への偏見、差別、蔑視を取り除き、それらの人々を受け入れ、支える地域づくりに関する力、⑨福祉サービスを必要としている人々の問題を個別の問題から、社会的な問題へと“普遍化”させるために、地域や社会へ働きかける力等)が、在学中に十分養成されていないし、その“土台”づくりも脆弱である。
〇したがって、日本の社会福祉教育を全面的に再編成しなければならないと思い、今までも日本社会福祉教育学校連盟やソーシャルケアサービス従事者研究協議会などを通じて活動してきたが、その思いは道半ばである。
〇そんなこともあり、コミュニティソーシャルワーク研修の体系化が十分とは言えない(社会福祉学の理念、歴史、人間観の醸成などの基礎的考え方の講義時間が十分持てない)が、せめて4日間か5日間の日程で、朝から夕方までの研修を、ロールプレイ、アセスメント、問題解決プログラムの作成、ソーシャルサポートネットワークづくりと地域づくりを基軸とした研修の体系化を図った。その内容や方法は『地域福祉とは何か』に収録してあるので参照頂きたい。
(2026年8月21日記)

老爺心お節介情報/第89号(2026年8月9日)

「老爺心お節介情報」第89号

〇皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私は、沈丁花の香り、フリージアの香り、クチナシの香りが好きで、庭に沈丁花やクチナシの木を植えています。クチナシは、一重よりも八重が好きです。バラの花のような八重のクチナシを書斎、トイレなどに飾り、香りを楽しんでいます。7月に咲き始めたクチナシも盛りを過ぎ、いよいよ梅雨明けです。
〇6月末に植えたナスが実り始めました。また、槿の花と百日紅の花、ヤブランの花が咲き始めました。
〇真夏日、猛暑日という用語が使われるようになったと思ったら、今や40度を超える日を酷暑日という用語が天気予報で聞かれるようになり、地球温暖化の影響が本当に懸念されます。皆さん、熱中症にはくれぐれも気を付けて、ご自愛の上ご活躍下さい。
〇この7月は、まさに東奔西走しました。富山、石川、香川、岩手、香川、佐賀、高知と飛び回っていました。3泊4日の出張から帰宅するとスポーツジムに1日通い、囲碁クラブで1日囲碁を楽しむという生活を続けていました。
〇岩手の釜石市のCSW研修の後には、三陸鉄道を利用して、山田町、宮古市を巡ってきました。東日本大震災から15年が経過していますが、復興はいまだ道半ばというより、非常に厳しい状況だと思いました。
〇「2040年問題」を考えても、新たな視点、発想で地域づくりをしないとならないと思いつつもどうしたらいいのか思い悩むばかりです。
〇7月27日からは、香川、佐賀、愛媛・宇和島、高知と1週間、CSW研修と調査研究と第23回四国地域福祉実践セミナーとで続けての出張でした。佐賀へ移動する車中で、「令和8年度熊本地震」に遭遇し、二日市駅で1時間45分の足止めを食らいました。車内の乗客の携帯電話の警報音が一斉になるとすぐに電車が「長時間」横揺れし、改めて地震の怖さを痛感しました。
(2026年8月4日記)

Ⅰ 『災害被災者支援の新しい実践システム・穴水モデル』の刊行に向けた編集会議に参加

〇7月8日~9日と能登半島地震で被災された穴水町を訪問した。
〇穴水町並びに穴水社会福祉協議会は、2007年の能登半島地震の救済・支援に駆けつけてくれたNPO法人(レスキューストックヤードやADRAジャパン等)が行った支援とその後の助言を活かして今回の2024年1月の能登半島地震への対応ができたという。
〇第1は、社会福祉協議会が開設する「災害ボランティアセンター」を「災害ボランティア・支え合いセンター」へと名称を変えて、家屋の片づけやがれき撤去のみならず、被災者の生活ニーズに対応するセンターを設置し、対応できたことが特色の一つである。
〇第2の特色は、ボランティア活動を、生活支援系のボランティア活動と技術系のボランティア活動とに分け、技術系ボランティア活動(建築、土木、水道技術系活動やブルーシート張り等)の展開は重機なども駆使して対応できたこと。生活支援系ボランティア活動は、り災証明、生活福祉資金の貸し付け業務のみならず、穴水町教育委員会が所管している住民の交流、社会教育施設「プルート」(冥王星の名前、冥王星の発見にゆかりのある人が穴水町を訪ねてきていて、穴水町のことを紹介しているので、この名前が命名された)が避難所になったのでそれへの対応と同時に、穴水町の町内にある6つの社会福祉法人の施設に避難してきた住民への対応等多様な住民のニーズに対応する生活支援を展開できたこと。
〇第3は、町内の全戸を対象に「ニーズ把握ローラー大作戦」ともいっていい、ニーズ調査が行われ、様々なニーズがあるのに発信しきれていない住民のニーズ調査が行われたことである。ただし、残念なのは、この二―ズ把握調査をNPO法人が担ったことである。筆者は、これこそ全国のネットワークを持っている社会福祉協議会が全国各市町村から駆けつけて担って欲しかったなと思った。
〇第4は、穴水町社会福祉協議会は「社会福祉法人の社会貢献事業」のモデル事業を石川県社会福祉協議会から委託を受けて、2015年から町内にある6つの社会福祉法人連絡会を組織していて、毎年地域住民との交流などの活動を展開していた。そのような活動を行っていたこともあって、各社会福祉法人は避難してこられた住民を最低3日間、長いところでは3か月間被災者支援活動を展開していたこと。
〇第5は、それらのバックアップ機能の統合化と「司令塔」の役割を果たす「穴水町、穴水町社会福祉協議会、支援に参加してきている13団体のNPO法人との3者協定」を結び、毎月1回定例会を開催てきたこと。この協議体の設置により、全体の調整等ができ、住民のニーズに対応した解決策が即時に取れたことである(この方式は、第23回四国地域福祉実践セミナーで宇和島市の災害被災者支援の活動を聞いたが、その宇和島市での救援、被災者支援の際に、このシステムの萌芽が行われていたことが分った)。
〇これらの活動の詳細は、2027年3月にミネルヴァ書房から出版される予定ですので、ぜひ読んで欲しい。
〇穴水町の被災者支援の在り方は、これからの社会福祉協議会の災害支援に新たな地平を切り開いたと私は思っている。
〇今回の穴水町訪問は、金沢駅からJR七尾線、第3セクターの能登鉄道を利用して訪問した。自動車での訪問と違って、地域の息吹、状況がそれなりに分かり、“実地踏査”の仕方について改めて考えさせられた。
〇今回の訪問では、町内の6つの社会福祉法人の理事長、施設長、事務局長から災害時対応の聞き取りをさせて頂いた。各社会福祉法人・施設は利用者用の備蓄品を創意工夫して、避難してきた地域住民にも提供して3日間持ちこたえたという。各施設には、各々数十人の住民が避難してきていた状況の中で、備蓄の食料品を使っての食事の提供を施設サービス利用者のみならず地域住民にも対応してくれたことに頭が下がる思いである。
〇今回の能登半島地震は、1月1日に発生した。住民たちは、お正月料理の「おせち」を持ち寄って対応できたというが、災害はいつ起こるか分からないことを考えると、全国に約2万4千ある社会福祉法人、約10万か所ある社会福祉施設が常日頃から地域住民の災害対応まで考えて社会福祉法人のBCPを考えてくれたら心強い限りである。
〇能登半島地震では、個々の社会福祉法人が作成するBCPの限界が露呈し、今後は地域BCPを考えなければならないと思っているが、穴水町のような社会福祉法人・施設連絡会を作り、日常的に地域住民などとの連携、協働を行っておくことが如何に重要であるかを改めて考えさせられた。
〇然しながら、これだけの対応をしてくれた穴水町の社会福祉法人・施設であるが、地域の消防団、自治会、保健委員会などとの「防災協定」を結んでいなかったということは今後検討しなければならない課題である。
〇今回の訪問でも、いろいろな人との出逢いがあったが、最も驚いたのは、穴水町の吉村光輝町長が日本社会事業大学の通信教育課程を受講し、私の授業を聞かれたとのことでした。吉村町長は、町長に担ぎ出される前は、父親が創設した社会福祉法人牧羊福祉会が経営する「能登穴水聖頌園」で常務理事(理事長は父親)をしており、かつ石川県の社会福祉施設経営者協議会の青年部長も歴任されている。私の教え子の栃木県の菊池月香さんも経営協の青年部長なども歴任していたので、お互いに親しい中だと聞いて、二重の驚きであった。 吉村町長は無事社会福祉士国家試験に合格し、社会福祉士登録されたとのことでした。
〇穴水町の夜は、レスキューストックヤードが活動の拠点にしている総合体育館の一角に手づくりされた「ボラまち亭」で、社会福祉協議会職員さんたちの手作りの料理で舌鼓を打った。
〇「ボラまち停」とは、穴水町に古来から伝わる漁法「ボラまち櫓」からとって命名されたものという。私は、その風物をしらなかったので、「ボランティアを待っているところ、ボランティアが待機する場所」と思っていたが、それとは別であった。
〇穴水町に古来から伝わる漁法「ボラまち櫓」とは、回遊してくるボラを海中に設置した櫓の上から見張り、ボラが回遊してくると網を張って、文字通り一網打尽にする漁法とのことであった。まさに「太公望」の境地である。
〇私が山口県宇部市で、防波堤からボラを釣った経験から言えば、海は濁っており、宇部の人たちはボラを殆ど食べないと聞かされてきた。食べるとすれば、「あらい」にして食べるということを聞いていた。その時の釣りは入れ食いで、よく釣れた。その体験によるイメージがあるので、回遊してくる“ボラまち”のイメージは何となくわかるような気がするが、そのボラが美味しいというイメージは持てなかった。穴水町の人たちは、ここのボラはきれいな海水の中を回遊してくるので、刺身でも「あらい」でも美味しいという。残念ながら、私にはイメージできなかった。
(2026年7月11日記)

Ⅱ 第23回「四国地域福祉実践セミナーin愛媛・宇和島」(通算29回)に参加

〇第23回「四国地域福祉実践セミナー」が愛媛県宇和島市で、8月1日~2日に開催された。
〇この「四国地域福祉実践セミナー」は、もともとは香川県琴平町社会福祉協議会が「ふれあいの街づくり事業」の一環として、1997年に第1回こんぴらセミナーを開催したのが始まりである。
〇その「こんぴらセミナー」を琴平町で5回開催し、その後“こんぴら舟舟”よろしく、四国4県に船出し、セミナーを行ってきた。
〇このセミナーはできる限り“草の根の地域福祉実践に学び、励ます機会としたい”と「限界集落」、「消滅市町村」と言われる市町村での開催を心掛けてきた(『地域福祉の真髄』を参照)。
〇今回で第23回目を迎える「四国地域福祉実践セミナー」には、筆者は7月29日~30日に掛けて行われた佐賀県のCSW研修を終えてから参加した。
〇当初の予定では、佐賀県社会福祉協議会の小松美佳さん、野添大介さんと一緒に車で、大分県佐賀関港からフェリーに乗り、八幡浜港経由で行く予定だった。残念ながら、「令和8年熊本地震」で、佐賀県社会福祉協議会が被災地支援に入ることになり、それが叶わず、急遽、福岡空港から松山空港へ飛び、松山空港で本セミナーの副実行委員長である琴平社会福祉協議会の越智会長にピックアップしてもらい、宇和島に向かった。
〇第23回「四国地域福祉実践セミナー」のテーマは「誰もが支え手となる時代に向けて、今わたし達にできることは~ROAD to 2040~」である。
〇四国4県は、文字通り「2040年問題」を先取りしている地域で、持続可能な地域福祉の推進ができるか危惧されている地域である。その上、「南海トラフ」がいつ発生するか分からないという心配な地域である。
〇会場は、宇和島市に合併前の三間町のコスモスホールで行われ、参加者は460名を超えた。
〇三間町は、四国88か所札所の龍光寺と佛木寺がある地域で、宇和島から三間町へ入ると、種田山頭火が詠んだ「分け入っても 分け入っても 青い山」を実感できる盆地である。
山頭火のこの句は、山頭火が44歳の時に熊本から宮崎へ行く山中で詠まれた句と言われているが、筆者には「四国歩き通しお遍路」で三間町に入った時にこの句が頭をよぎった。
〇三間盆地は、稲作が盛んで、水が良く、「虎の尾」という銘酒を醸造してところで、空中に水分が多いせいか、周りの山が青く見える。「四国歩き通しお遍路」は3回行ったが、3回とも三間盆地に入ると周りの山々が青く見えた。

山頭火 偲ぶ三間路の 夏遍路   兼喬

〇筆者は、セミナー初日の「豪雨で被災した宇和島の復興―2040年に向けての地域づくりー」をテーマにしたシンポジュウムのコーディネーターと2日目の総括講演を担当した。
〇宇和島市は、2018年(平成30年)7月に「西日本豪雨災害」の被災地であり、特に吉田地区のミカン栽培地が崩れ、かつ吉田浄水場が壊滅する大きな被害を被った(死者11名、関連死2名)。
〇稲作栽培に欠かせないため池の水を住民の生活用水に供給することを水利組合が英断してくれたお陰でいち早く生活用水の排水ができたとの市長の報告があった。
〇また、宇和島市は、2017年(平成29年)から、生活支援のまるごと推進事業(相談支援包括化推進事業)を国の補助事業として行っていたこともあり、住民のアセスメントを行い、ニーズ把握がいち早くできた。
〇また、被災者の生活再建に向け行政とNPO法人で作った体制(生活再建実務者会議―被災世帯の健康、生活、経済状況や見守りのプラン作成、モニタリングの機能、牛鬼会議(作業系―ボランティアニーズの把握、調整を市直営の地域包括支援センターやJVOAD等と協議、実施)、おんむすび(コミュニティ系)―ケアカフェ、ガイヤ健康体操、サロン活動等の実施)で支援活動を行い、2025年度にこの活動を終了し、2026年度からは重層的支援体制整備事業に移行し、対応していることが宇和島市保健福祉部長の岩村正裕さんから報告があった。

(註)JVOADとは、全国災害ボランティア団体支援ネットワークの略称。

〇宇和島市の災害支援に置いて、JC(青年会議所)が大きな力を発揮した。JCの全国ネットを活用し、救援物資や復旧活動に必要な資材の確保をしてくれたり、建設関係の会員の協力を得て、ボランティア活動の拠点の整備や汚泥された学校のグランドの汚泥撤去、新しい土の搬入などに大きな力を発揮してくれた活動を株式会社アクティブモアの代表取締役・久徳荘一郎(発災時宇和島JC理事長)から報告頂いた。
〇宇和島市社会福祉協議会の広瀬孝子会長からは、被害が甚大だった吉田町玉津地区の支援活動を中心に報告を頂いた。
〇宇和島市社会福祉協議会は、災害ボランティアセンターを開設し、宇和島市職員、愛媛県社会福祉協議会職員、災害支援P(全社協・災害ボランティア活動支援プロジェクトメンバーの略)の協力を得て、総務班、ボランティア受付班、ニーズ班、オリエンテーション班、マッチング班、資材班、送迎班、救護班、軽トラ隊、社協吉田支所、サテライト拠点という組織体制で活動を展開した。
〇その中で、玉津地区社会福祉協議会は、地域住民の生活課題を的確にニーズ把握し、「生活支援本部」を立ち上げて、きめ細かく支援につなげてくれた。
〇それは、2006年に玉津地区社会福祉協議会「地域社協たまつ」を立ち上げ、住民の学習活動を継続的に行い、玉津地区の地域福祉活動計画を作成し、「弱さを受援力、強さを支援力」にする福祉教育が基盤にあったと報告され、「社協は、福祉教育を基盤とした、一人ひとりの生活課題へ届く実践を創造すること」が2040年に向けて必要だと決意を述べられた。
〇分科会は、第1分科会は、「『災害にも強い』つながりがある地域づくり」をテーマに、災害対応には、建物やインフラなどのハード面だけでは不十分で、「地域での顔の見える関係づくり」が重要だとして、宇和島市吉田地区や高知県下知地区減災連絡会等の実践が報告された。
〇第2分科会は「その人らしく『生きる』を支える」をテーマに、単身高齢者、障害者の身元保証、終末期支援、死後対応サービスなどについて話し合われた。
〇第3分科会は、「『困っている人』を支える『ごちゃまぜ』チームプレー」をテーマに、今回初めてセミナーに参加してくれた香川県隣保館協議会加盟の高松市の田村文化センターの長尾香織さんや徳島県北島町で重層的支援体制整備事業を「ごちゃまぜ」の精神で、柔軟に問題対応して、地域づくりをしているNPO法人YOU&ゆうの岡田理事長等からの報告があった。
〇第4分科会のテーマは「『暮らし続けたい』を支えるー玄関から広がる生活支援を考える」で、住民の移動手段の確保が、心身のフレイル予防と社会生活フレイルの予防になることが論議された。
〇この分科会の実践報告は、「地域住民に限定したNPO法人」を立ち上げ、移動手段の確保のみならず、様々な生活支援をしており、まさに消滅寸前の地域づくりと住民の生活支援とを一体的に展開している実践報告(徳島県美馬市木屋平地区のNPO法人こやだいらと高知県佐川町斗賀野地区のNPO法人とかの元気村の「ふれあいあったかセンター」の活動)であった。
〇従来のNPO法人はテーマを共通項にして、地域とは直接関係なく、広域に同好者を集めて活動するのが特色であり、地域住民を会員にして、地域を基盤として活動する市町村社会福祉協議会との目的も組織形態も違うと筆者は考え、位置付けてきた。
〇しかしながら、今回、セミナーの分科会で報告してくれたNPO法人は、地域を限定した会員制で、多様な地域課題を解決する活動を通して地域づくりを進めているNPO法人で、これらのNPO法人の活動が広がり、定着すると、市町村社会福祉協議会の存在意義はなくなり、生き残れないと心底思った。
〇今一つの実践報告は、自動車販売会社の「ネッツトヨタ瀬戸内株式会社」(報告者大石一浩モビリティ事業部長)が社会貢献活動も兼ねて、会社がプロモートし、住民のニーズに応えた移動サービスを展開してくれている報告であった。全国各地の自動車販売会社がかようなプロモートをしてくれたらどれだけ助かるかと心底思った。しかも、実践のしっぱなしではなく、利用者が移動サービスを利用したことにより、どれだけ効果があったのかをじつに多面的に、科学的に評価されていることに驚いた。社会福祉関係者は大いに学ばなければならないと痛感した。
〇宇和島市には、歩きお遍路の関係もあり4~5回訪ねているが、今回新たな発見があり、自分の勉強不足を恥じ入るばかりであった。
〇今回宇和島に入ったのは、7月31日の夕方であったが、ホテルにチェックインしたあと、食事をしようと街を歩いていて目に入ったのが、穂積陳重の顕彰碑であった。
〇穂積陳重は、東京帝国大学の法学者で、戦前の貴族院議員、議長で、穂積重遠の父親であることは知っていたが、その人が宇和島藩出身とは知らなかった。しかも、郷土の人が穂積陳重を顕彰すべく銅像を建てようとしたら、それを固辞し、銅像よりも人に踏まれる橋になりたいと述べたという謂れが書いてあり、その顕彰碑の脇を流れる清流に掛けられた橋を「穂積橋」と命名したと記されていた。
〇その時詠んだ句が以下の通りである。

夏空の 共生き流れに 穂積橋   兼喬

〇穂積重遠は、以前書いた「老爺心お節介情報」(第58号、2024年5月5日発刊)でも紹介したが、社会事業と社会教育を両翼的に考えて、社会活動をしている。東京帝国大学の学生と一緒に、関東大震災後に柳島でセツルメント活動もしている先生で、単なる象牙の塔にこもった法学者ではない。

(註)大村敦志著『穂積重任―社会事業と社会教育を両翼にして』ミネルヴァ書房参照。

〇穂積重遠は昭和5年に宇和島市で寡婦の生活救済のために「宇和島人形」を制作している「宇和島市民共済会」を訪問し、戦前の方面委員である中平常太郎が中心になって起こした授産事業を評価する短歌を詠んでいる。
〇宇和島市社会福祉協議会の山本裕子事務局長からその「宇和島人形」を見せて頂くとともに、その由来を教えて頂いた。

Ⅲ 5町村で人口9100人の高知県「中芸広域連合」と北川村社会福祉協議会の視察

〇宇和島でのセミナーを終えて、まず佐川町斗賀野地区の「ふれあいあったかセンター」を見学すべく向かった。三間町、鬼北町、松野町、高知県梼原町、津野町を抜けるコースで佐川町に向かった。
〇佐川町斗賀野地区のNPOとがの元気村の実践は、今回のセミナーの報告も含めて3回聞いているが、地域の状況が今一つ納得できていないこともあって訪問させていただくことにした。
〇高知県佐川町は、山に囲まれた盆地にあり、人口12000人で、5つの地区があり、斗賀野地区はその一つで、人口2850人である。佐川町は山間部の鉄道や公共交通が厳しい地区かと思ったら、高知と宇和島を結ぶ鉄道も通っており、近くには斗賀野駅がある。
〇斗賀野地区の住民が地域を活性化させようとNPO法人を作り、現在165人の会員がいる。
〇NPO法人とかの元気村は、農業振興部会、自然環境部会、地域づくり部会、文化教育部会、健康福祉部会を設置している。その組織は、戦後初期の文部省公民館課長、社会教育課長をした寺中作雄が提唱した「公民館構想」そのものである。

(註)『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践――宮崎県都城市社会福祉協議会の実践』ミネルヴァ書房、2026年刊行参照。この本で、戦後公民館の考え方などを紹介している。

〇このNPOとがの元気村が、高知県の「ふれあいあったかセンター」の運営を委託されていると同時に、「集落活動センター」も運営委託されている。文字通り、地域の自治会機能が弱くなってきている状況の中で、それに代わってNPO,法人とかの元気村が地域を支えている構造である。

(註)NPO法人とかの元気村 経常収入 約2500万円、ふれあいあったかセンターの収入約1600万円、集落活動センター指定管理料135万円。

〇「ふれあいあったかセンター」は、機能として➀集いー子供を預かる、送迎、交わる(サロンなど)、学ぶ(口座の開催)、➁一人暮らし高齢者などの生活支援訪問、➂随時の相談、➃つなぎー訪問や相談で得た情報、必要な支援を関係機関につなぐ、➄買い物支援、通院支援や時には窓ガラスや換気扇などの掃除もする生活支援、➅認知症カフェの実施などを行っている。令和2年度(2020年度)の実績では、利用延人数18047人、実人数1052人、事業開所日数1031日となっている。
〇高齢者や障害者の家庭の庭木の手入れ、草刈り、窓ふきなどの生活支援を低料金で請け負っていると同時に、農事組合法人トピアとかのを設立し、耕作放棄地をなくす活動も展開している。
〇まさに、“地域住民による、地域住民のための活動を地域単位で行っているコミューン”だと実感した。
〇このような取り組みこそが、2040年問題を解決していく取り組みであり、かつて島根県邑知郡瑞穂町社会福祉協議会の日高政恵事務局長が目指した「地域未来家族」のモデルである。
〇翌日8月2日には、高知駅から車で2時間、高知空港から1時間30分の高知県東部の「中芸広域連合」と北川村を訪問した。
〇「中芸広域連合」は、「誰一人取り残さない『地域共生社会』の実現を目指し、5町村の垣根を越えて“ワンチーム”で介護保健福祉業務を展開する」組織である。
〇5町村とは、奈半利町(人口2800人、財政力指数0・19)、田野町(2300人、0・199)、安田町(2200人、0・15)、北川村(1100人、0・20)、馬路村(700人、0・16)である。
〇高知県の森林率は84%で、全国1位であるが、中芸地区は5町村全体で92・1%、最も高いのは馬路村で96・6%である。訪問した北川村は94・9%が森林という村である。
〇中芸地区には、海岸沿いを「なはりごめん線」という鉄道が通っているが、北川村、馬路村には鉄道が通っていない。
〇ちなみに、北川村には「モネの庭園」があり、関西圏から北川村の北部にある温泉ホテルに泊まりながら、「モネの庭園」を観光する高級車に乗ったセレブの観光客が来ているという。他方、馬路村はゆずの栽培で産地形成に成功している村である。
〇「中芸広域連合」は、火葬場、衛生センター、リサイクルセンター、消防本部などの運営管理をしている広域行政組合で、その機能の一つに保健福祉業務を入れ込んで、2009年から保健福祉業務の広域化が進められた。
〇「中芸広域連合」の事業費負担は、5町村均等割りが全体の20%、残りは5町村の各自治体の基準財政需要額に応じた案分で80%を拠出している。
〇この中芸地区には、「中芸広域連合」とは別に、特養を経営している広域組合もある。また、介護認定審査会は隣の安芸市に委託している。更には、この地区には、民間介護事業者がいないので、5町村で出資して「介護公社」が設立し、介護支援専門員と訪問介護を担っている。
〇介護サービス事業者の許認可、成年後見の市町村長申し立て、介護サービスの横出し、上乗せサービスのあり方等社会福祉行政の市町村分権化が進められている中での保健福祉介護の広域行政化はどうあるべきか地域福祉研究者としても検討しなければならない。
〇中芸地区の現在の状況と「2040年問題」を考えると、いずれは社会福祉法人の合併や社会福祉協議会の広域連携等の問題を考えざるを得なくなるかもしれない中で、かように保健福祉業務を担う組織が乱立している中芸地区で、「中芸広域連合」が今後これらの錯綜している組織をどう整理し、統合化を図れるのか注目する必要がある。
〇同じような問題は長野県木曽郡の6町村も抱えており、今後相互に交流して今後の打開策を見いだせればと思った。
〇この「中芸広域連合」に高知県職員で部長職を勤めた山地和さんが定年後に事務局長で就任しており、その山地さんのお誘いで、この4月から高知県社会福祉協議会の事務局長を定年退職された白石研二さんが赴任している。
〇中芸地区の北川村は、人口1100人で、19地区・集落からなりっていたが、既に「消滅集落」が3つほど出現した。
〇北川村社会福祉協議会は高知県の「ふれあいあったかセンター」を受託経営している。そこでは、他の「ふれあいあったかセンター」と同じように、「集い」、「働く―障害者の就労支援」、「送る」、「学ぶ」、「訪問」、「相談・つなぎ」、「生活支援――通院、掃除、洗濯、調理、買い物、服薬管理、配食」等のサービスを提供している。
〇北川村の「ふれあいあったかセンター」は、他と違って、「ゆずの花―小規模多機能施設・通い、集い、泊まれる施設」、シルバーハウスを併設しており、3部屋が確保されている。訪ねた時は宿泊者はおらず、それらの部屋は中学生、小学生の勉強部屋として使われていた。高知県にある現在55か所の「ふれあいあったかセンター」で「泊まれる」機能を持っているのは、この北川村だけだという。
〇北川村社会福祉協議会では、坂本達治会長、稲毛浩美事務局長、乾あき事務局次長からいろいろ説明を受けた。
〇その説明の中で使われた「あったかふれあいセンター」事業は、「直接サービスではなく、住民と協議し作り上げる「場」そのもの。住民が活躍できる舞台づくりがあったかの一番の仕事」、「あったかふれあいセンター」事業を「住民のため」にするキーワードは「柔軟性」という言葉は、まさに地域福祉推進に必要な珠玉である。
〇北川村社会福祉協議会の2025年度の収入は約1億3700万円で、約250万円の赤字決算である。その内訳は、収入面では、受託事業費が約8700万円、介護保険収入が3600万円、支出面では、人件費が約1億円で、「あったかふれあいセンター」の常勤職員4名と非常勤職員2名、バスの運転手等の人件費に充てられている。
(2026年8月8日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。
大橋謙策のメールアドレスは、  <o.kensak@outlook.jp> です。

老爺心お節介情報/第88号(2026年7月2日)

「老爺心お節介情報」第88号

〇早いもので、夏至も過ぎ、早7月です。今夏はどんな夏になるのでしょうか。暑さが思いやれます。
〇足の傷が酷く、今年は庭の畑の野菜の作付けができませんでした。足の傷が治った6月下旬、作付けの時期は失しているとは思いながら、せめて何か植えたいと販売店に行きました。最後のナスの苗が残っていたので買い、植えました。お店の人曰く、7月初めにはお盆頃に収穫できるキュウリの苗が入ってくるので、それを待って植えてくださいと言われてしまいました。7月に入り、販売店へ行くとキュウリの苗と枝豆の苗が入荷していたので購入し、植えました。
〇繁茂していた庭の木々も庭師が入ってくれて奇麗になりました。京都風の庭づくりに造詣のある庭師なので、ただ剪定すればいいという手入れではなく、その蘊蓄を聞いているとなるほどと納得することばかりで、“餅屋は餅屋だ”と改めて感心しました。
〇6月下旬から、岩手県、秋田県のCSW研修が始まりました。人口減少、超高齢化地域にあって、まさに「地域の消滅」、「地域の崩壊」が叫ばれている中での“持続可能な地域福祉”の推進ができるのかという悩み多き中でのCSW研修です。地域は、それに輪をかけて“熊騒動”で外にも出られないという危機的状況です。
〇「2040年問題」を見据えて地域福祉、在宅福祉、施設福祉などといった枠を超えて、「オールふくし」で“持続可能な地域づくり”をしていかなければなりません。本当に厳しい状況になりました。
(2026年7月2日記)

Ⅰ 日本地域福祉学会第40回大会が岩手県立大学で行われました

〇日本地域福祉学会が6月20日~21日と岩手県立大学で開催されました。日本地域福祉学会創設40周年という節目の大会です。
〇思い起こせば、1987年に日本地域福祉学会を当時、全国社会福祉協議会の職員だった和田敏明先生と相談しながら創設しました。日本社会福祉学界に置いて、日本社会福祉学会に次いで実質的に2番目の学会でした。
〇当時の日本社会福祉学会の重鎮だった人に、“あなたは私に弓引いて分派活動を行うのか”と叱責されながらの門出でした。大方の予想は200名程度の会員数だろうと思われていたのに、約700名の方が会員になってくれました。その背景には、大学で地域福祉を教える研究者だけでなく、全国社会福祉協議会が主宰していた「地域福祉活動指導員」の修了者である全国各地の社会福祉協議会が数多く会員になってくれました。その学会が、日本学術会議の“学会としての要件”を満たして40年も継続できていることに、学会創設者の一人として感無量でした。
〇学会の40周年事業として、理事会は『リーディングス地域福祉実践研究』を刊行しました。
〇「地域福祉実践研究」という用語は、日本地域福祉研究所が1996年に島根県瑞穂町(現邑南町)で行った第1回地域福祉実践研究セミナーで使用したのが最初です。
〇その後、香川県琴平町が「ふれあいのまちづくる事業」を受託した際に始めた住民向けの「こんぴら地域福祉セミナー」を発展させた「四国地域福祉実践研究セミナー」も「地域福祉実践研究セミナー」という用語を使用し、現在第28回目を迎えている。
〇「地域福祉実践研究」とは、単なる「実践の報告会」ではなく、かつ単なる「地域福祉の研究のセミナー」でもなく、「地域福祉実践の研究」を現場の社会福祉協議会職員や住民と研究者が膝を交えて、「地域福祉の社会生活を分析」し、その地域の社会生活課題を解決するための「問題解決プログラムを作成」し、どういう「実践方法」を駆使し、どういう「地域福祉の理念を実現できるシステム」を構築するのかを学び、研究する場として私は考えた。
〇今回発刊された『リーディングス地域福祉実践研究』では、その「地域福祉実践研究」とは何かが多面的に論じられていて、学会の行く末に期待をしたいと思った。
〇岩手県立大学での学会では、昨年度の武庫川女子大学の大会に引き続いてスペシャルトークセッションに登場することになった。

(註)
武庫川大会では、同志社大学の上野谷加代子先生との対談であったが、主に地域福祉研究のあり方について話をした。
その対談は、『2025年日本地域福祉学会第39回大会(兵庫大会)スペシャル・トークライブ報告集』として刊行されている。

〇昨年の大会に引き続いてのスペシャルトークセッションに登場することになったのは、筆者が1965年から岩手県の「関係人口」の一人として、バッテリー型地域福祉実践研究をしてきた経緯と思いの話をすると同時に、社会福祉協議会への期待を述べるということであった。
〇岩手県は四国と同じ面積を持つ大きな県で、人口112万人、市町村数33で、葛巻町人口4890人、高齢化率52・3%、西和賀町人口4267人、高齢化率56・1%等ご多分にもれず人口減少、超高齢化の中で地域の存続が危ぶまれる“消滅の危機”に直面している市町村がある。そこでの持続可能な地域福祉の推進をどうするのかいう問題意識で、スペシャルトークセッションに臨んだが、時間が足りず、「2040年問題」に向かう中での社会福祉協議会のあり方について、資料は学会要旨集に掲載していただいたにも関わらず話が出来なかったことが心残りであった。
〇第40回大会において、畏友の野口定久先生が理事会で名誉会員に推挙され、学会総会で承認されて名誉会員になられた。長年、地域福祉の推進、学会の運営、大学院での地域福祉研究と教育に携われてきた先生が名誉会員になられて嬉しい限りであった。野口先生の後進を育てる能力は稀有で、多くの研究者を育てられていることに心より敬意を表したい。
〇学会の会場になった岩手県立大学では、大学創設時の初代社会福祉学部長の高澤武司に頼まれて大学設立構想に協力したことや2000年の第14回大会を開催したことが思い出され、かつ久しぶりに学会の仲間たちと懇親ができた楽しい2日間であった。

Ⅱ 「そのときの出逢いが」⑩―2010年代前半

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑩

Ⅰ 2010年代前半――東北福祉大学大学院と(公財)テクノエイド協会

(はじめに)
〇この時期は、何といっても東北福祉大学大学院の生活と(公財)テクノエイド協会理事長としての業務に集約される。
〇前者は、私の教育・研究の集大成で、大学院でのゼミ指導の楽しさを満喫できた。
〇後者は、1960年代から提唱してきた憲法第13条に基づく生活支援の考え方が、(公財)テクノエイド協会の補聴器も含めた福祉機器の利活用により、より可能になることが実感できた時期である。と同時に、その業務を如何に社会福祉界全体に理解してもらうかに情熱を傾けた時期でした。

➀東北福祉大学大学院教授

〇2014年4月、日本社会事業大学大学院特任教授の任を終えて、以前からお世話になりたいと願っていた東北福祉大学大学院教授に就任した。
〇大学行政は一切やらず、大学院の講義及び研究指導だけという条件を飲んで頂いて就任した。にも拘わらず、理学系の先生が使用していた2部屋からなる研究室(実験系の先生だったので、薬品などを入れる冷蔵庫付きの研究室であった)を提供して頂けた。
〇日本社会事業大学の研究室にあった蔵書と自宅の2つの書庫にあった蔵書は、東北福祉大学大学院教務課の青柳勉さんのご尽力で、大学院キャンパスの中に一部屋、「大橋文庫」ともいえる部屋が用意されたので、そこに全て寄贈した。
〇東北福祉大学大学院での授業ではその蔵書は大いに効果を発揮した。東北福祉大学の図書館は大変素晴らしいものであるが、その図書館は東北福祉大学の本部キャンパスにある。大学院生の研究室、ゼミ室は離れたキャンパスにあり、大学院のゼミや院生の研究には使い勝手が悪い。その意味では、通称「大橋文庫」と言われた蔵書の存在はありがたかった。
〇日本社会事業大学を退職するとき、どこで聞きつけてくるのか多くの古本屋が連絡を寄越し、蔵書を譲って欲しいと言ってきた。すべての蔵書を持って行ってくれるのなら、片付ける手間が省けるので、その旨を言うと、皆さん欲しい本だけを売ってくださいという。
〇日本社会事業大学の図書館は、既に満杯で受け入れる余地がなかっただけに、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」は大変助かった。
〇しかしながら、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈する本の選別と移送には大変苦労した。東大大学院の修士論文を書くに当たって、東京神田の古本屋街で探し求めた戦前の資料は紙の材質が悪く、とても移送したのでは本が崩れて使い物にならないので、廃棄処分をすることにしたが、その分量が引っ越し用の段ボールで約50箱になった。その段ボールの山を見て、この本、資料の購入にどれだけお金をつき込んだのかと悲しくなった。
〇2014年4月1日、辞令を頂きに仙台に出かけた。渡辺信英副学長立ち合いの下、萩野浩基学長から辞令を頂いた。その際、大変身勝手であるが、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行きたいので、明日から2か月休暇を頂きたいとお願いした。気持ちよく受け入れて頂いて、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行くことができた。
〇その時、私がわざわざ辞令を頂きに仙台まで行ったことに驚かれ、そういえば自分も東北福祉大学の学長の辞令が今日付けだったのを思い出されたのか、大橋さんがわざわざ来たのなら、私も神奈川県鶴見の曹洞宗総持寺へ辞令を頂きにいかなければならないと言われたことが記憶に残っている。
〇東北福祉大学大学院での生活はとても楽しいの一言に尽きる。すべて渡辺信英副学長が気配りしてくださり、勤務条件、勤務形態はもとより、大学院生のゼミも研究指導も自由にさせて頂いた。
〇私の日本社会事業大学時代のゼミの運営は、ゼミが終わるとよく学生とコンパをした。学生の中には“貧乏学生”も多いので、かといっていつも私が資金を負担していたのでは私のフトコロがもたないので、外に飲みに行かず学内で飲むことが多かった。その為に、研究室に冷蔵庫を置き、お酒を冷やしておいて、つまみは乾きものや干物を買ってきて七輪で焼いて食べることが多かった。いつの間にか、私の研究室の七輪は2つになっていた。
〇東北福祉大学大学院でも同じようなゼミ活動をしたいと思い、研究室でお酒を飲んでいいかと聞くと結構ですと了解してくれた。また、その頃、大学院生で、かつ教務課の事務をしていた中国からの留学生(ソフトボールの選手で、東北福祉大学は全国的な強豪校だった)の張瑛さん(後に日本に帰化し、日本の方と結婚し、根本瑛さんとなる)が研究費の管理などを行ってくれていた。研究費でレンジやガスコンロも買えるというので、買ってもらった。
〇研究室は、大学院のゼミを行う建物とは別の建物で、その建物は理系の研究室があり、薬品なども扱うので出入りは指の指紋認証によるものであった。私も当然登録したが、年老いていて指紋が薄くなっているのか、毎回出入りには時間が掛かり、苦労した。
〇ゼミが終わると研究室に移動してコンパが始まる。研究室には大型の薬品冷蔵庫があり、一升瓶を冷やすのには最適だった。レンジやガスコンロを使ってのコンパは、安がリで、かつ他人の目を気にすることなく、楽しく毎回行われた。いつのころからか、一升瓶は「綿屋」の酒が定番になった。また、中国からの留学生たちが腕を振るってくれて、水餃子パーティーをすることもできた。
〇東北福祉大学大学院では、博士課程の学位授与者8名、修士課程学位授与者11名の院生を育てることができた。東北福祉大学の森明人先生、大石剛史先生、沖縄大学の玉木千賀子先生、中国大連交通大学の陳麗娜先生、桃山学院大学の平野裕司先生、文京学院大学の笹岡眞弓先生、中島修先生、あるいは山形県議会議員、衆議院議員になった原田和広さん等が育ってくれた。
〇中には、理学療法士として、宮城県職員から宮城県介護普及センターに転職して、障害者や高齢者の支援における福祉機器の利活用に関する修士論文を書いた廣島志保さんもいた。彼女の論文は博士論文に匹敵するほどの素晴らしい論文で、かつその実践を見せて頂いたが、障害者支援にいかに福祉機器の利活用が重要であるかを再認識させられた。
〇これらの博士学位授与者は、自らの博士論文を基に、森明人著『市町村社会福祉行政のアドミニストレーション』(中央法規)、玉木千賀子著『ヴァルネラビリティへの支援―ソーシャルワークを問い直す』(相川書房)、原田和広著『実存的貧困とは何か』(青土社)、大石剛史著『ケアリングコミュニティの理論』(学文社)を出版してくれたのも研究指導した者として嬉しい限りである。
〇東北福祉大学大学院の博士学位授与の審査では、公開でのヒヤリングと3人の審査委員による口頭試問、論文審査があるが、渡辺信英先生以外に、雪江先生、菅原秀元先生、
都築光一先生、萩野寛雄先生、三浦剛先生、石附敬先生、高橋誠一先生等多くの先生方が参加され、多角的に論議される状況は大学人、研究者として嬉しかった。
〇東北福祉大学は、スポーツの振興で大学ブランドを高めてきた。1980年代に箱根で行われた日本社会事業学校連盟のセミナーに参加した東北福祉大学の萩野浩基先生と帰りの小田急線のロマンスカーで一緒だった。その時、萩野先生が、これから東北福祉大学はスポーツ振興で大学のブランド化を図ると楽しそうに話をしていたが、まさに野球部、ゴルフ部、バレー―部、ソフト部と全国的な活動をその後展開している。
〇私が赴任した2014年は丁度、ゴルフ部が全国優勝して、その招待状が私にも届いた。私は様子がよく分からないまま、仙台国際ホテルで行われた祝勝会に参加した。日本社会事業大学とは全く違う世界に驚くばかりであった。
〇渡辺信英先生は、東北福祉大学だけのお付き合いではなく、仙台の経済界、大学関係者との会合にも招いて頂き、世間が広いこと、いろいろな見方、考え方があることを教えて頂いた。
〇渡辺信英先生は多彩な人で、芸術関係にも造詣が深く、東北大学の先生方と共同して「感性福祉研究所」、「感性福祉学会」を主宰されていた。その「感性福祉学会」で基調講演をさせられたが、改めて私が社会福祉はサービスを必要としている人の「快・不快」を基軸にケアのあり方を考えるべきだという考え方が実証されるような学会だった。
〇私は全国各地を歩かせて頂いているが、どこの都市がいいかと問われると私は仙台がいいと答えている。仙台は都市もコンパクトにまとまっており、商業施設も整っているし、交通の便もいい。とりわけ、海の幸が美味しいし、お酒も美味しい。近くには、秋保温泉や作並温泉もあり、風光明媚だし、冬の雪があまり降らない、住みやすい街である。

➁公益財団法人テクノエイド協会理事長(2011年7月29日~2025年6月)

〇私は、2011(平成23)年7月29日に(公財)テクノエイド協会理事長に選任され、就任した。
〇畏友の白澤政和先生が、“大橋先生、車の送迎付き、秘書付き高給取りのポスト”ですかと尋ねてきた。残念ながら、私が就任した理事長待遇は、週1回の出勤、手当は日当2万円、退職金なし、秘書もなしの待遇であった(これではあまりにも酷いということで、2年後くらいから1日の日当が3万円になり、退任する2年前から年収300万円以内となった。年収になったのは、後任理事長をお願いするのに、日当ではあまりにも酷く、後任者を選べないので、年収にする必要があったと常務理事が改定してくれた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、1987年3月に設立された。それは障害者の生活支援の福祉機器の開発、普及推進を目的に厚生省更生課の所管の範囲内でという考え方で、更生課青木行雄課長の肝いりで、河野康徳身体障碍者福祉専門官が設立準備の事務局を担い、設立された。初代理事長は、戦後の身体障碍者福祉法制定の立役者である實本博次さんが就き、第2代目理事長を小嶋弘仲元社会局長が担った。
〇その(公財)テクノエイド協会の第3代目の理事長を私が仰せつかることになるが、私が理事長候補に挙がったのは、当時の民主党政権下にあって、厚労省所管の財団などに厚労省出身者がいわゆる天下りすることが禁止される中で浮上した人事だったと推察している。
〇この人事案件については、(公財)テクノエイド協会の当時の常務理事の厚労省出身の一瀬正志さんが起案したと聞かされている。一瀬さんは、厚労省社会局で、日本社会事業大学の移転、その後の委託に関わる業務を担当されていた方で、私も面識があったし、大変お世話になった方であった。
〇一瀬正志さんが、私を候補者として考えた時、日本社会事業大学の卒業生で、国際障害者年関係の業務を厚生省更生課長として取り仕切り、その後日本社会事業大学の専務理事、全国社会福祉協議会の常務理事などを歴任した板山賢治さんに相談したところ、“大橋に頼むのはいいが、仕事が増えるぞ”と言われたと後日教えてくれた。
〇その予言は当たるわけで、私はICF(国際生活機能分類)の日本語版への翻訳の手伝いをしたので厚生労働省統計情報部のICFの啓発普及の手伝いをしてきたが、ICFの普及には(公財)テクノエイド協会が行っている業務をより積極的に展開し、ICFの視点での福祉機器の利活用を関係者、とりわけ狭い意味での福祉機器関係者ではなく、広く介護支援専門員、介護福祉士、社会福祉士などの社会福祉関係分野にも普及発展させることが必要だと考えるようになった。
〇そのために、(公財)テクノエイド協会が社会福祉関係者との橋渡しをするとともに、福祉機器関係者に社会福祉分野のことを理解してもらい、福祉機器の利活用を推進する必要があると考えた。(公財)テクノエイド協会がキー団体として、リハビリテーション関係、社会福祉・介護福祉関係、福祉機器のメーカー、販売店、福祉用具レンタル業界などのプラットホームの機能を担えればと考えた。これを実現するために(公財)テクノエイド協会の業務にいろいろ参画させてもらった。
〇第1には、毎年1月に「福祉機器関係者の新年賀詞交歓会」を開催した。厚生労働省、経済産業省、総務省(障害者の通信機器関係の業務は総務省所管)をお呼びして国の政策動向、予算内訳を説明してもらうと同時に、福祉機器を活用しての実践や関係団体の活動報告をしてもらうことにした。その後、夜は交流懇親を行うという試みをしてきた。毎年120名程度の関係者が集まり、今では全国社会福祉協議会や全国老人福祉施設協議会なども参加し、プラットホーム機能が発揮できるようになっている。
〇第2は、(公財)テクノエイド協会の発足は障害者分野での福祉機器の利活用が中心であったし、発足時には「義肢装具士法」が制定された時でもあった。日本義肢協会から多大の出捐金を頂いていたので、当初の理事会構成はそれらの関係者で占められていた。
〇しかしながら、介護保険制度の実施、障害者総合支援法の実施など時代は変わり、福祉機器の開発分野も広がり、利活用の分野も広がらざるを得なくなってきているので、理事会構成を時代に合うように変更してきた。今では、介護支援専門員協会、言語聴覚士協会、理学療法士協会、作業療法士協会等の団体の方に理事、評議員に就任頂いて、福祉機器の利活用の推進にご協力いただいている。
〇このような取り組みの過程で、私は日本生活支援工学会で基調報告をしたり、介護支援専門員協会の研修などに積極的に参加してきた。
〇(公財)テクノエイド協会設立時の国立障害者リハビリテーションセンターの総長は初山泰弘先生であった。その当時、初山先生とは国立障害者リハビテーションセンターと国立看護大学校と日本社会事業大学とが合併して、看護、リハビリテーション、社会福祉を有機的に結び付け、インタープロフェッショナル教育ができるといいねと話をしていたので、私としては(公財)テクノエイド協会理事長として少しでもその夢に近づけたいと考えた。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、福祉機器の開発、普及推進の他に重要な業務がいくつかある。その業務を通しての「出逢い」は沢山あり、私の研究者履歴に大きな影響を与えている。
〇生活のしづらさを抱えている人の自立生活支援を目的としている社会福祉は、従来の社会福祉行政で規定されたサービスの活用だけでなく、ICFの視点に基づくアセスメントを行い、自立生活を支援するという視点と視野を重視するべきである。その意味もあって、(公財)テクノエイド協会の業務の他の業務も紹介しておきたい。
〇第1は、義肢装具士の国家試験の実施である。厚生労働省の義肢装具士国家試験の指定試験機関の認定を受けて実施している。
〇義肢装具士の国家試験の受験者数は200名前後と決して多くはないが、国家試験の取り扱いには人一倍の神経を使う。国家試験が無事終わり、合格発表が行われるといつもホッとする。自分自身、社会福祉士の国家試験の委員として8年ほど関わってきたので、出題される先生方や事務局の負担は大変で、感謝しかなかった。
〇ただ、(公財)テクノエイド協会としては、採算が取れる業務ではなく、かつ受験生の負担を考えると受験料を値上げすることもできず、頭の痛い業務であった。最近は、義肢装具士の養成校が減ると同時に、養成校が地域偏在していて、かつ入学生も減少していることを危惧している。厚労省の医政局長にもこの旨の深刻さの話をして対策を講じて欲しい旨依頼等してきた。
〇第2は、補聴器関係の業務である。
〇理事長職を引き継いだ時、前理事長の小嶋弘仲さんに私に引き継ぐうえで何かありますかと聞いたら、補聴器関係を充実強化して欲しい旨の引継ぎがあった。それは、(公財)テクノエイド協会の補聴器関係の諸規定を小嶋弘仲さんが一人で整備されたと聞いていたのでさもありなんと考えていたが、補聴器関係のことが分れば分かるほど超高齢社会に入っている日本ではもっと補聴器関係の認識を国民に理解してもらい、補聴器装用の必要性を広め、推進する重要性が理解できた。
〇(公財)テクノエイド協会は、補聴器関係では「認定補聴器技能者」の養成を4年かけて行っており、その試験合格者に(公財)テクノエイド協会理事長名で認定書を交付している。
〇「認定補聴器技能者」の養成には、日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会はじめ、日本補聴器工業会(補聴器を開発、輸入、供給している業界団体)、日本補聴器販売店協会、日本補聴器技能者協会等の絶大なるご協力とご支援がなければ到底養成はできない。しかも、その養成課程と最終試験は他のリハビリテーション職の国家試験と同程度の内容と水準を保つために努力が行われており、義肢装具士の国家試験と同じように緊張を伴う重みのあるものであった。
〇また、日本補聴器工業会が行う3年に一度行う補聴器に関する「Japan Trak(ジャパントラック)」と呼ばれる国際比較研究調査は素晴らしいもので、日本の補聴器の普及率の低さや装用・購買に関する行政支援の低さも明らかになった。
〇従来、日本の厚生行政では、補聴器は障害者の補装具として位置づけられていたが、その支給基準が90デシベルで、ほとんど「聞こえ」ないという状態での支給基準であった。
〇しかしながら、高齢化の進展とともに高齢難聴者が増大し、その方々がうつ病、認知症になるリスクが高いという研究が明らかになるにつれて、今や社会福祉行政も大きく変わろうとしている。
〇新潟県では、県内全ての市町村が補聴器購入の補助をしているし、東京都港区では、耳鼻咽喉科による「聞こえ」の検査、診断と認定補聴器専門店による販売、認定補聴器技能者によるフィッティング(調整)をセットとして組み合わせて補聴器購入を補助している本格的な助成制度も出てきた。補聴器は、集音機器は異なるということを理解してもらい、通信販売ではなく、フィッティングという機能が重要だということを国民に理解してもらうことが大切になっている。
〇補聴器分野の業務では、元帝京大学医学部教授の小寺一興先生、元筑波大学病院長、筑波大学副学長の原晃先生などを始め日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会関係者、日本補聴器販売店協会の佐藤誠元理事長、青戸義彦現理事長、日本補聴器技能者協会の阿部秀美理事長、日本補聴器工業会の赤生秀一元理事長などには格別のご支援とご協力を頂いた。
〇第3は、適切に利活用できる福所用具に関する情報提供を(公財)テクノエイド協会は
TAIS(福祉用具情報システム)として行っており、現在では約1万8千点が登録・掲載されている。福祉機器開発業者から提出される福祉用具を多角的に検討し、適切に使用できるかどうかを判定してTAISに登録している。この福祉用具情報システムについては、元国立障害者リハビリテーションセンターの研究所所長をされた山内繁先生、諏訪基先生に絶大なるご協力、ご支援を長年に亘って頂いている。
〇第4には、実質的に2013年度から始まる介護ロボットの開発、普及に関する業務であり、今やこの業務が最大になっている。介護ロボットを中軸とした国民が求める福祉機器のニーズと開発をする側の資源、シーズとのマッチングする機会である厚労省の「ニーズ・シーズマッチング事業」により、漸く国民のニーズに対応した福祉機器の開発、利活用の考え方が展開されるようになった。
〇私は、このニーズ・シーズマッチング事業は、福祉機器の開発上重要な事業であるが、
国民が開発された福祉機器をICFの視点で使いこなせるようにするためには、ニーズとシーズの間に福祉機器の利活用に関わるコーデネート機能をシステムとして作らなければ、福祉機器の利活用が前進しないことを言い続けてきた。もっとも、分かりやすいのは、全国に約5500か所ある地域包括支援センターに福祉機器のコーディネーターを配属することであると主張してきた。介護支援専門員の研修課程に「福祉用具の利用」が導入されたが、決して十分でなく、実際問題として介護支援専門員の福祉機器の理解度は低く、いわば福祉用具専門相談員に“丸投げ”の状態になっているのが現状である。
〇第5には、介護保険制度が実施されるとき、介護支援専門員制度やケアマネジメントという手法が導入されたが、それと同時に福祉用具のレンタルを担う福祉用具専門相談員制度ができた。
〇しかしながら、(公財)テクノエイド協会はそれも大切な制度ではあるが、福祉サービスを必要としている人の自立を支援するためには福祉用具専門相談員の法定研修時間数では足りないのではないかと考え、介護保険制度が始まる前の1998年度より協会独自に「福祉用具プランナー」の養成とその指導者を養成する「福祉用具プランナー管理指導者」の養成も行っている。現在1万6千人の養成者が修了している。
〇私が(公財)テクノエイド協会の理事長に就任した年の2011年9月に、(公財)テクノエイド協会主催の国際福祉機器調査研修ツアーに参加させてもらった。ドイツのデュッセルドルフの見本市(世界3大福祉機器展の一つ)の見学、フランスでの福祉機器利活用の評価機能などについて調査研修をした。
〇この研修ツアーでは、横浜市総合リハビリテーションセンターの渡邊慎一先生(現在福センター長)にはいろいろお世話になった。
〇この研修の最中に、福祉用具の検討マトリックスを作成したが、日本の場合、福祉用具の開発、普及は社会福祉行政や介護保険制度による法定化された価格での購入、レンタルで何かと制約が多く、福祉機器の自由購入による経済的活動の発展が望めないことが影響しているのか、「福祉機器に関する実証的評価機能」のシステムが確立していない。フランス等では、それが進んでいる。
〇日本の場合は、JISによる認証評価の域を出ていない。(公財)テクノエイド協会で、その点について福祉機器の使い勝手がいい商品を評価する仕組みをつくったが、十分な広がりと社会的承認を得られていない。今後は、日本の家屋などでも使いやすい福祉機器の開発が必要で、必ずしもJISの基準だけでなくていいのではないかと私は考えている(6車輪の小回りがきく車いすなどは日本家屋に適していて、もっと普及できてもいいのではないかと常々考えてきた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、2012年7月に新公益法人へ移行することが認められた。
〇この間、民主党政権のいわゆる「事業仕分け」で、福祉機器開発の助成をする80億円余の基金が取り上げられた。
〇現在、(公財)テクノエイド協会は約7億3000万円の基金(国債運用)と年間5億4千万円の事業規模で運営されている(2024年度現在)。
〇新公益法人移行以前は、厚生労働省の補助金で多くが運営されてきたが、新公益法人移行後は、厚生労働省の事業は競争入札となり、それを落札できなければ、(公財)テクノエイド協会の運営、経営はできない。
〇しかも、それらの事業は6つの公益会計区分で縛られているために、項目間の流用はできない。(公財)テクノエイド協会自身が自由に使える財源は法人会計のみで、それは基金の利子と協会の賛助会員が納めてくれる会費だけという状況である。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、厚生労働省の医政局、老健局、社会・援護局などにまたがっており、かつ補聴器に関してはどこが所管になるのか定まっていない状況である。そのような中、(公財)テクノエイド協会が担っている業務をなくすわけにはいかないわけで、厚労省がどう政策的位置づけるのか大きな課題だと私は思っている。

➂一般社団法人ユニットケア推進センター理事、副会長――外山義著『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』が与えた影響

〇(公財)テクノエイド協会が主宰する福祉用具プランナーの養成課程を社会福祉法人の理事長・施設長自らが受講し、資格を取るだけでなく、その考え方に賛同し、従来の特養で行われていた「抱きかかえの移乗介護」を禁止し、リフトによる介護を徹底化させている社会福祉法人伯耆の国が経営している特別養護老人ホーム「ゆうらく」の存在を知ったのが、一般社団法人ユニットケア推進センターを知る事実上の契機である。
〇「ゆうらく」は鳥取県南部町にある施設で、天皇・皇后両陛下の行啓幸も仰いでいる施設で、私は早速、(公財)テクノエイド協会理事長として視察に行かせて頂いた。
〇利用定員97名の特養で、利用者の認知症率は98%くらいになるという施設であったが、施設にはカギがかかっていない。ロビーで新聞を読んでいた(?)高齢者の方がいらしたが、手に持っている新聞はさかさまであった。
〇この「ゆうらく」の職員の離職率は、結婚により町外へ出る人を除けば、事実上0%だという。
〇これだけの素晴らしいケア実践をしている社会福祉法人の理事長、施設長が山野良夫さんで、一般社団法人ユニットケア推進センターの会長もされていた。
〇その山野良夫会長の依頼で、一般社団法人ユニットケア推進センターの業務をお手伝いするようになったのがきっかけである。
〇一般社団法人ユニットケア推進センターは、特別養護老人ホーム施設最低基準が2003年に改訂され、ユニットケアという考え方とそれを支える居室の個室化が進む。そのユニットケアの考え方を推進するために志を同じくする人たちで設立したのが一般社団法人ユニットケア推進センターで、当初は恩賜財団社会福祉法人浴風会に事務局があったが、後に独立して現在はお茶の水駅近くのYAWACAのビルに入っている。
〇「ユニットケア」という考え方は、京都大学建築学・生活空間論専攻の外山義教授の影響が大きい。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国した。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になる。
〇外山義先生の著書『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』(2003年、医学書院、1800円)で述べられている考え方が、引き金になって、特別養護老人ホーム施設最低基準が改訂された。それを契機に日本ユニットケア推進センターが設立されていく。
〇筆者は、1990年代に外山義先生が設計した富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学し、感動したことがある。外山先生の哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動した。
〇筆者自身も、1978年論文「施設の社会化と福祉実践」で、社会福祉施設ケアは画一的で、集団的でいいのかと疑問を投げかけ、社会福祉施設で提供しているサービス、ケアを分節化させて、生活環境を整備してあげれば後は自分で自立できる人、困ったときにすぐに相談援助してあげれば済む人、常に生活全般において直接的支援が必要な人に分節化できるし、それに応じた生活空間を整備するべきだという論文を書いていたので、外山先生の考え方には大賛成であった。
〇しかしながら、当時は地域福祉についての理論化、体系化に忙殺されており、社会福祉施設のあり方まで研究領域を広げることができずにいた。それでも、1970年頃、コミュニティづくりに必要な施設として、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることが必要でないかと考えた。
〇また、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えた。それらについての筆者の論文は以下の通りである。

➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学界紀要19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要34号』、1988年所収)

〇一般社団法人ユニットケア推進センターが推進している「ユニットケア」を実際に実習体験できる社会福祉施設が全国に80か所くらいあるが、それの施設でのケアは“百聞は一見に如かず”で、是非見学して欲しいものである。
〇その実習施設での考え方と実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)である。

➃日本福祉大学大学院特別講義

〇日本福祉大学の客員教授には、2011年4月に就任し、現在も続けている。
〇畏友の野口定久先生が日本福祉大学大学院研究科長の時に、客員教授の特別講義、セミナーが開催されるようになった。
〇そのセミナーの際に行われる日本福祉大学の二木立元学長、児玉前学長、丸山悟理事長などとの会食・懇談はとても楽しい時間で、大学院特別講義は毎年楽しみの一つであった。
〇野口定久先生の定年退職後は、その特別講義の際に野口典子先生も交えての飲み会もまたこれ楽しい時間であった。
〇全国の社会福祉系大学に大学院が設置されているが、設立時にはそれなりに教員の審査がある。しかしながら、完成年度を終えると“事実上”、教員審査は各大学に任されるために、大学院の研究指導の質は恐ろしく落ちていると、筆者は危惧している。目先の大学の生き残りが優先されて、長い目で見たら日本学問体系の中での社会福祉学の地盤沈下が起こり、他分野から評価されないようになるのではないかと危惧している。
〇野口定久・典子(中京大学)夫妻や同志社大学の上野谷加代子先生と自分の所属する大学院の壁を越えて共同研究する「猪苗代塾」を猪苗代や裏蔵王で行い、研究指導とともに温泉、スキーを楽しんだ。
〇このような大学の壁を越えて、協働して研究指導できる環境を作らないと大学院の研究指導の質は落ちていく。
〇筆者の恩師である小川利夫先生からは、“カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る”のと同じで、意識して自分の(指導者)の枠を広げるようにしないと教え子は恩師より小粒になり、それでは学問は発展しないと常に怒られてきた。
〇そのような意味でも、日本福祉大学大学院のセミナーは、外部の先生方の謦咳に触れられる訳で、院生にとってもいい刺激になる機会であり、かつ担当する客員教授も緊張する時間であった。

➄2012年 厚生労働統計協会理事(~2021年)

〇(公財)テクノエイド協会理事長をしている時、高原享治厚生労働統計協会理事長(厚労省で障害保健福祉部長、健康局長を歴任。医師、後に上智大学教授、高知県立大学学長)から会いたいという連絡を受けた。
〇高原亨治理事長の行きつけの神楽坂のすし屋で一献を傾けながら、厚生労働統計協会の理事になって欲しい旨の要請を受けた。
〇厚生労働統計協会は、社会福祉士国家試験を受験する受験生には“必携の書”と言われている『国民の福祉と介護の動向』などを出版している、厚生労働統計全般を扱っている協会である。今までの理事会構成で、社会福祉分野の研究者が一人もいないので就任して欲しいとのことであった。
〇高原理事長には厚生労働省時代から面識があり、お世話になっていたのでお断りはできないが、筆者は統計学のことは良く分かりませんが、それでもいいのですかと聞くとそれでいいというので理事に就任した。
〇厚生労働統計協会の理事には、人口問題の研究者や慶応大学の経済学の研究者、あるいは日本看護協会の専務理事など、社会福祉界ではあまり会う機会がない方々とご一緒でき、ここでも自分の視野を広げることができた。

➅一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会理事

〇どういう経緯で理事の就任要請を受けたが定かでないが、多分私が(公財)テクノエイド協会理事長をしていることがあったのであろう、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会の理事に就任して欲しい旨の要請があった。しかも、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会がこれから実施する事業「介護福祉経営士」の養成、試験に関わる委員会の委員長をして欲しいとのことであった。その試験委員の中に、元厚生労働省の専門官をされていた島津先生(東海大学教授)がいたから、その人の推薦かもしれなかった。
〇一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会は、産経新聞記者だった林諄さんが起こした株式会社日本医療企画の肝いりで設立された協会である。私の推測するに、今までは医療サイドの出版などを手掛けてきたが、その領域を介護分野にまで拡大しようとの思いがあったのではないかと考えている。
〇協会の会長は、多田宏厚生省元事務次官で、理事には北島正樹国際医療福祉大学学長(元慶応大学医学部長)や社会福祉法人小田原潤生園の時田純理事長なども名を連ねていた。
〇介護福祉経営士という資格やその為の養成、資格取得後の研修、介護福祉経営士の全国組織化等経済界の視点からのアプローチ―には目を見晴らされた。行政の枠の中だけで社会福祉界はまわっていたので、医療の世界、経営の世界の発想には戸惑いと同時に学ぶことが多かった。
〇介護福祉経営士の養成課程に福祉機器の利活用を入れて頂き、(公財)テクノエイド協会の職員に執筆してもらって『新しい福祉機器と介護サービス革命』(介護福祉経営士テキスト、医療企画、2014年)を刊行することができた。これからの介護福祉経営を考えるならば、福祉機器の利活用は不可欠と思ったからである。

 

老爺心お節介情報/第87号(2026年6月9日)

「老爺心お節介情報」第87号

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇もう、今年も6月になってしまいました。各地のCSW研修が始まる月になりました。今年度も各地のCSW研修で東奔西走する様です。
〇庭のアジサイが色鮮やかに咲いて、雨に濡れている風情はいいですね。また、私が大好きなクチナシの花も咲き始めました。残念なのは、門脇に植えた沙羅の樹が虫に食われ、幹が枯れ、一部残ったものの、今年は花を咲かせません。庭師が夏椿を植えたのを、沙羅に替えて欲しいとお願いした樹なのに元気がなく残念です。沙羅は、「平家物語」の冒頭に出てくる樹で、世の儚さとともに、“栄枯盛衰”、奢るべからずの気持ちを確認するために植えてもらっただけに、樹が枯れないか“一喜一憂”しています。沙羅が花を咲かせている様は本当に清楚で、一日で花が散ります。
(2026年6月9日記)

Ⅰ 3回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」に参加

〇皆さんは、2001年に導入されたWHOのICF(国際生活機能分類)について学んでいるでしょうし、学生さんに教えていることと思います。
〇しかしながら、様々な生活のしづらさを抱えている人に対する支援において、アセスメントを行う際や支援方針を作成する際に、どれだけ実際的に福祉機器の利活用を考えていますか。
〇富山県福祉カレッジの「介護テクノロジー普及推進センター」は富山県の委託を受けて、福祉機器の展示、福祉機器の利活用支援、介護技術の向上に関する研修などを富山県社会福祉総合センター「サンシップ」を拠点に行っています。
〇普段は、その「サンシップ」で福祉機器を展示し、相談に応じているのですが、それだと社会福祉関係職員か、あるいは家族が要介護の状態になって相談に来られる方等利活用者が限定されてしまいます。
〇「2040年問題」に向けて、介護人材の不足が叫ばれている中、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では、自己満足的な仕事の仕方ではないかと考え、広く富山県民に福祉機器のことを知って頂く機会として、「サンシップ」から外に出ようということになり、北陸新幹線富山駅のコンコースを活用しての福祉機器展の開催になりました。
〇福祉機器の利活用は、➀福祉サービス利用者の求めるケアの向上につながること、②ケアワーカー等の従事者の腰痛予防と合理的業務の省力化につながること、③介護の技術、技法、あるいは福祉サービス利用者の状態像を可視化することによりケアの科学化が進むこと等の効果が期待できます。
〇それにより、「3K職場」と言われた介護のイメージを払しょくできますし、介護の職場を希望する中高校生に夢を与えることができると考えました。中高校生たちが介護の仕事に就きたいと思っても、両親や教師たちが反対するという事例は沢山あります。そのようなことを考えると、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では駄目だと考え、広く一般の方々に知って頂く機会として、またその場所として富山駅のコンコースを考えました。
〇出店する企業さんには、直接的な利益がないかもしれないので、どれだけの企業さんが出店してくれるのか危ぶまれましたが、多くの企業さんが気持ちよく協力してくれました。
〇三回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」は、2026年6月6日に行われました。今回は以前にもましていくつかの特色がありました。
〇第一は、富山県内の介護福祉士会等の社会福祉専門職団体、理学療法士、作業療法士などのリハ職の専門職団体、看護協会など7団体が会場で相談コーナーを設置してくれたことです。
〇第二には、介護を学ぶ龍谷富山高校の生徒さん7名が参加してくれ、出店してくれた企業の福祉機器などについて突撃インタビューをしてくれたことです。そのインタビューの様子は大型モニターで他の場所に居ても見れるようにしたことです。
〇第三には、富山短期大学の学生さんが自らが学んだスウエーデンの認知症ケアとして開発された「タクティールケア」の体験コーナーを開設してくれたことです。
〇第四には、ITを活用した業務の省力化、生産性向上の相談コーナーを設置したことです。
〇第五には、eスポーツコーナーや「ロボットカフェ」を開設すると同時に、出店した企業に立ち寄って相談や福祉機器を見学された方に、景品付きのスタンプラリーをしたことです。
〇第六には、この「とやま介護テクノロジー展示会2026」の開催に当たって、「介護テクノロジー普及推進センター」の職員だけが企画・運営に当たったのではなく、福祉カレッジの教務部門、福祉人材センターの職員等も企画、運営に参加してくれ、富山県社会福祉協議会事務局内部のタテ割りが少し改善されたことです。
〇今回の展示会には、県社協の他の部署の職員も家族連れで見学に来てくれました。中には3世代で来てくれました。また、富山県厚生部の職員も高齢福祉課長を始め多くの職員が参加してくれました。
〇補聴器販売店さんが2社出店してくれていたのですが、昨年よりも相談者が多かったと言ってくれたのを聞いて、継続は力なりと実感しました。
〇私自身は、(公財)テクノエイド協会理事長に長らく就任していましたので、目新しいものはさほどなかったのですが、2件話題提供したいと思います。
〇新型コロナで旅行客が減り、業績が厳しくなっていた日本旅行社さんがIT関係の業者と共同開発した「脳力トレーナーCogEvo」が興味深かったです。
〇私も実際に体験させて頂きましたが、自動車運転免許証更新の際に受ける高齢者向けの認知症検査よりも、認知機能を図るのにはいいのではないかと思いました。この機器は、体験者の「注意力」、「空間認識力」、「記憶力」、「計画力」、「見当識」について能力を図り、訓練するもので、とてもゲーム性もあり、面白いと感じました。
〇また、この機器は1台購入すると、子機は何代でも無料で使用できるというシステムなので、介護予防教室や老人クラブでの活用、あるいはデイサービスなどでも活用できるのではないかと思いました。
〇この他では、NTTDATAさんが開発している「ボイスタ!」と呼ばれる機器で、高齢者の日常生活で行う動作に関し、その時間が来ると福祉機器から音声で声掛けするなどして高齢者の日常生活での自立を支援するとともに、必要なら家族などへも状況を転送できるというもので、生活のリズム感が薄れ、失念しがちになる高齢者の生活リズムを支援するという点で今後が期待できる機器だと思いました。

Ⅱ 本の紹介―『地方が溶けるーふるさと再生の光と影』(神山典士著、光文社新書、920円)

〇本書は、大きく2つの話題について書かれています。
〇一つは、広島県安芸高田市の市長をされていた石丸伸二氏がSNSを活用して安芸高田市の市長に当選した事案で、SNSの活用のあり方やそれに依拠した石丸伸二氏の言動について書かれた部分です。
〇もう一つは、著者が全国で実践している一般社団法人ふるさと大好き全国作文協議会の全国での取り組みとその波及効果についての部分です。北海道東川町の地域づくりにおける住民の街の魅力発見から、地域おこし協力隊制度を積極的に活用してのまちづくりへの展開等が著者の実際の取り組みを通して書かれています。
〇著者が言う「何もない田舎」の街で、住民自身が作文を書くという実践を通して、街の魅力を再発見し、「ふるさと愛を醸成する」ことや「ふるさとキャリア教育」等の実践は、静岡県掛川市の榛村純一元市長が提案した「選択的土着民の養成を目指す生涯学習活動」とよく似ている実践だと思いました。
〇と同時に、この著者の地域との関り方について、「関係人口」のあり方や地域福祉研究者の地域との関り方について学ぶべきことが多いと感じました。

Ⅲ 「その時の出逢いが⑨―2000年代後半」

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑨

Ⅰ 2000年代後半

(はじめに)
〇2000年代後半は、筆者は既に60歳代に入っており、残りの人生をどう送ろうかいろいろ考えていた時期である。
〇そんな折、同志社大学の黒木保博先生から同志社大学へ来ないかとお誘いを頂いた。私は歴史のある、かつ社会福祉教育でも伝統のある同志社大学への転籍に大きく心が揺らいだが、結婚以降一度も引っ越しがなく(多摩ニュータウンの区画整理で3年ほど稲城市大丸の地域で貸家住いをしたことがある)、地域活動もしていた妻の強い反対もあり、転籍を断念し、日本社会事業大学で定年まで勤める覚悟をした矢先に、2005年日本社会事業大学の学長に選出された。
〇他方、2008年には厚生労働省社会・援護局長所管の検討会「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」の座長を仰せつかり、いままで取り組んできた地域福祉の考え方、システム、方法について提案し、受け入れられ、報告書として出すことができた。
〇前者は、日本社会事業大学で教育を受け、その継承を託された教育理念を学長としてどう発展させるかという、いわば日本社会事業大学での教育・研究の集大成の時期でもあった。
〇後者は、大橋謙策の地域福祉研究は、“社会福祉のプロパーでない”と揶揄されながら頑張ってきた地域福祉の実践と研究がいよいよ厚生労働省の政策の俎上に上ることになった契機であり、筆者の地域福祉の実践と研究が評価、認められたことで、これまでやってきて良かったと感慨深いものがあった。

➀日本社会事業大学の学長(2005年~2010年)

〇2005年4月、日本社会事業大学学長に就任した。61歳であった。
〇日本社会事業大学は、オーソドックスな教授会自治を伝統的に守ってきていたので、学長に選出されたからといって、学長主導でなんでもできるわけではないし、かつ厚生労働省の委託で大学運営がなされているので、補助金の“目的外使用”はできないという経営上の制約がある。
〇そのような中で、学長として心掛けたことは、日本社会事業大学が厚生労働省が委託の根拠にしている「指導的社会福祉従事者の養成」という命題にどう応えているかということである。
〇その内訳、内容はいろいろと解釈できるであろうが、私としては➀社会福祉士の国家試験の合格率をせめて70%台にしたい。ただし、合格率を高める受験勉強を教員にも、学生にも強制化することはしたくないという虫のいい考え方で進めたいと思っていた。②厚生労働省の委託金が厳しくなっていた状況の中、科学研究費で社会福祉学の細目が認められたのだから、教員全員が科学研究費に申請、採択できるようにするということでした。③大学は教員だけで成り立っているのではなく、事務職員も重要な役割を担っている。したがって、事務職員で一定の権限と責任を有している人には学長選挙に参加できるようなシステムをつくること、④指導的社会福祉従事者の養成という委託に応えるために、日本はもとより国際的に日本を代表してソーシャルワーク教育、ケアワーク教育の拠点になるということを考えた。
〇仲村優一先生からは、日本社会事業大学の教員・学長は日本社会福祉学会の会長、日本社会事業教育学校連盟の会長に選ばれなければ駄目だと言われていたので、取り敢えずはその3要件(日本社会福祉学会会長(1999年~2004年)、日本社会事業学校連盟会長(2007年~2011年)、学長(2005年~2010年))はクリアーしたことで、日本社会事業大学の恩師の先生方から求められていた日本社会事業大学卒業生に“求められた教員・研究者像”は実現できたと思った。
〇学長として提起した➀社会福祉士国家試験の合格率は残念ながら60%強程度に留まり、目標の70%には届かなかった。②教員の科学研究費の採択率は最高で37%に上り、文部科学省の高等教育局長からもお褒めのお言葉を頂いた。理工系ではないので、採択された科学研究費の総額は多くはないが、教員の科研費の採択率では日本のトップレベルとなり、それなりの成果を出せた。中でも科学研究費の大型助成金である科学研究費(S)とか(A)が採択されたのは大きかった。
〇その大型科学研究費を活用して、「アジア型ソーシャルワーク教育の標準化と国家資格の互換性に関する研究」(2009年度~2011年度)を中国、韓国の東北アジア3か国で行った。
〇この取り組みは、ヨーロッパ諸国が1999年に「ボローニャ宣言」を出したことに触発されて取り組んでみたものである。
〇「ボローニャ宣言」とは、世界最古の大学「ボローニャ大学」(1088年創設)があるイタリア・ボローニャで、ヨーロッパ29か国の教育大臣が署名した「ヨーロッパの高等教育制度を共通の枠組みで構築し、学位認定の質と水準を国が違っても同じレベルのものとして扱う世界に通用する高等教育制度」である。
〇イギリスで出会ったソーシャルワーカーはスペインで資格を取り、イギリスで認定されたソーシャルワーカーとして働いている。そのようなグローバルな規模でのソーシャルワーク教育を東北アジア諸国でも考えられないかという思いだった。
〇採択された大型科研費を活用して日本、中国、韓国3か国のソーシャルワーク教育のカリキュラムの比較や国家試験の内容などについて翻訳したりして、比較研究を行った。
〇他方、イギリスのサザンプトン大学や北京大学との姉妹校協定も結び、国際的に通用する日本社会事業大学にしようとした。その考え方の一環として、「アジア福祉創造センター」を日本社会事業大学社会事業研究所に設置し、「アジア太平洋地域会議」でお世話になった秋元樹先生を日本社会事業大学社会事業研究所の教授にお招きして、研究や国際交流を推進した。
〇その一環として行ったシンポジュウムでは、中国からは北京大学のワン・シビン先生、韓国からは梨花女子大学のキム・ソンイ先生、タイからはタマサート大学のデチャ・サングクワン先生に参加して頂いた。

(註)後日、東北アジアのソーシャルワークに関して、東北福祉大学がワンアジア財団の助成を頂き、「高齢社会をめぐる諸課題とアジア共同体」というテーマでの連続講義が2013年度、2014年度に開講された。筆者はその一コマを担当したが、その講義録が萩野浩基東北大学学長の手で編集され、『高齢社会の課題とアジア共同体』(芦書房、2014年)として刊行されている。筆者の講義録は、科研費での研究を基にしたもので、「コミュニティソーシャルワークの視点からみた高齢社会とアジア共同体―社会発展の触媒としてのソーシャルワークー」として収録されているので参照して欲しい。

〇日本社会事業大学学長退任の2010年3月13日に「大橋謙策学長最終講義」を開催して頂いた。
〇日本社会事業大学としての矜恃を創り、品格を高めたいという思いもあって最終講義を行うことにした。テーマは「『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」である。多くの卒業生や社会福祉関係者が集まって下さり、教員・研究者としての冥利に尽きる時間と空間であった。
〇日本地域福祉研究所でも日本社会事業大学学長の退任を契機に、安部晴美事務局長が尽力してくれて、目白の椿山荘で『大橋謙策先生地域福祉論継承・発展の集い』を開催してくれた。
〇畏友である和田敏明先生、上野谷加代子先生、小林良二先生(東京都立大学、東洋大学教授)がシンポジストとして登壇してくれた。和田先生が「大橋謙策地域福祉理論は1979年の「ボランティア活動の構造図」にあると指摘された。上野谷先生は大橋理論の真髄は『求めと必要と合意』という考え方にあると言って頂いた。まさに、自分でもそれらの考え方を大切にしてきたので大変嬉しかったのを覚えている。
〇私が出している毎年の年賀状には前年の出来事を簡潔に記載しているので分かったのでしょう、学長就任後のお正月に、東京大学教育学部の大先輩である元明治大学教授の北田耕也先生から、日本酒の入った角樽が届いた。先生曰く、宮原誠一教室出身者から初めて大学の学長が誕生したので大いに祝いたい旨のメッセージが添付されていた。嬉しい限りであったが、角樽には面はゆい感がした。
〇東大大学院の院生仲間(筆者の1年先輩と1年後輩)の9名で、「苦楽会」という研究会を立ち上げ、東京と関西(9名のうち3名が関西の大学に就職)の中間地点の蒲郡にある国家公務員共済の宿舎で合宿し、川島書店から本の出版を企画したのだが、残念ながらそれは実現しなかった。その「苦楽会」のメンバーの中から、後に大東文化大学学長の太田政男さん、佐賀女子短期大学学長の南里悦史さんを輩出したが、宮原研究室からは私が最初ということであった。
〇ちなみに、「苦楽会」のメンバーには、母校の東大教育学部の教授になった佐藤一子さんがおり、佐藤一子さんは東京大学出版会から『イタリア学習社会の歴史像―社会連帯にねざす生涯学習の協働』(東京大学出版会)という素晴らしい本を書いている。

➁「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」座長

〇2007年10月3日に、厚生労働省社会・援護局長所管の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が立ち上がった。社会援護・局長は、老健局長を歴任した中村秀一局長であった。
〇この研究会が開催されるまでに、ルーテル学院大学の和田敏明先生が中心になって勉強会が持たれていた。筆者も、その勉強会に呼ばれ、今まで自分が行ってきた地域福祉研究・実践の考え方などを既に述べていた。
〇この研究会には、筆者の教え子で神奈川県城山町社会福祉協議会の職員、神奈川県立保健福祉大学の助手を歴任していた中村美安子さん(後に同大学教授)が、厚生労働省所の地域福祉担当専門官として事務局を担っていた。
〇中村秀一局長は、精力的に全国の素晴らしい実践をしているところを視察し、研究会を支えてくれた。
〇研究会報告書のタイトル「地域における『新たな支え合い』を求めて―住民と行政の協働による新たな地域づくり」は、何と研究会の最終日の3月31日に、会議で一任を取り付けたあとで、中村局長と筆者が協議をして決定した。
〇この報告書の考え方は、ある意味、従来の厚生労働省の考え方、枠組みを超えて「住民と行政との協働」がなければ、これからの社会福祉問題、地域福祉は展開できないことを謳ったもので、画期的なものだと思っている。
〇従来は、国民が抱える生活問題は、厚生労働省が制度を創って問題解決を図るということで、住民参加とか、住民の協力とかいう視点は殆どなかった。
〇それは憲法第89条の規定とも関わって、国民の生活問題は行政が国家責任において解決するという「福祉国家論」が背景にあった。国民の中にも行政がボランティア活動の推進とか住民の協力とかと言えば、それは行政の責任回避であると断じてきた風潮があったし、そのような考え方は社会福祉研究者の中にも、社会福祉従事者の中にも根強くあった。
〇しかしながら、国民が求める、地域で自立生活を送り、最期まで自分らしく暮らしたいという願いを実現させることを理念としている地域福祉の展開においては、地域住民の参加、協力がなくては実現しない。そのことが検討会の中でも論議され、かつ承認されて、本報告は公表された。
〇この報告書は、戦後の社会福祉政策を変える大きな転換点になったと自負している。また、この報告書の内容は、後に厚生労働省が打ち出す「地域共生社会政策」の前史とも位置付けられる内容の報告書でもあると自負している。
〇この報告書に基づき、その考え方を具現化させる国の補助事業が2009年度から「安心生活創造事業」として展開されるが、それを担った地域福祉専門官は、日本社会事業大学の学部、大学院の教え子である中島修さん(現文京学院大学教授)であった。
〇その補助事業は新しいサービスと財源を自分たちで創り出すというねらいと他分野との協働が指向された。従来の社会福祉にはない、新たしいサービスと財源を作り出すというソーシャルワーク機能がある意味初めて厚生労働省の政策で求められた画期的な取組であった。
〇筆者が「関係人口」として関わっている香川県琴平町の「ガーリック娘」という市場に出せないニンニクとオリーブオイルの商品、千葉県鴨川市の夏ミカンを活用してのマーマレードやポン酢等の商品が社会福祉協議会の手によって開発された。

➂同志社大学大学院、東京大学大学院、淑徳大学大学院の講義と研究者の養成

〇筆者は、1989年以降、日本社会事業大学で大学院修士課程を教えることになるが、1990年代は日本社会事業大学以外に、淑徳大学大学院等でも教えることになる。
〇日本社会事業大学の院生以外に教えることは多様な意味で楽しみであったし、多様な研究課題に関心を持つ院生を教えることで、自分自身が成長する機会でもあった。
〇日本社会事業大学以外の大学院教育で思い出に残るのは、東京大学大学院と同志社大学大学院、淑徳大学大学院での指導が思い出深い。
〇少し遡るが、1990年代初めに、東京大学教育学部助教授の鈴木眞理先生の依頼を受けて、大学院教育学研究科社会教育専攻の「社会教育と地域福祉」の特別講義を3年間担当したことがある。神戸大学の松岡広路先生や津田英二先生、宇都宮大学の佐々木英和先生、横浜国立大学の矢野泉先生などが育った。佐々木英和先生や矢野泉先生には、東京都稲城市の生涯学習計画策定をお手伝いしてもらい、フィールドに関わる重要性を教えた。
〇丁度、その頃淑徳大学も大学院を設置するということで、仲村優一先生や阿部志郎先生等と一緒に非常勤講師に名前を連ねることになった。淑徳大学大学院では、それ以降筆者が70歳になるまで勤めさせて頂いた。
〇同時に、私が出講する講義科目は、事実上オープンキャンパス扱いをして頂き、千葉県社会福祉協議会職員を始め、千葉県内の社会福祉協議職員などに呼び掛けて参加してもらい、後に「千葉県地域福祉研究会」を組織していくことになる。
〇淑徳大学では台湾の徐嘉隆先生や東洋大学の早坂聡久先生、千葉県立看護大学の安部能成先生などを教えた。
〇同志社大学大学院では、転籍のお話を頂いた時からだと記憶しているが、専任で駄目なら非常勤でということで、これは喜んで引き受けさせて頂いた。かれこれ10年余の非常勤であったが、思い出深いものがある。
〇毎月1回の1日半の集中講義での出講であるが、ゼミが終われば馴染みのお店屋さんに行き、京都のお酒・玉の光の純米酒1升を皆で飲むのが楽しみであった。同志社大学への転籍を拒否した妻も、院生のお誘いで葵祭見学には喜んで参加してくれたのも楽しい思い出である。
〇同志社大学の黒木保博先生、上野谷加代子先生、埋橋孝文先生、野村由美子先生等の先生方との懇親の機会も楽しい思い出である。
〇同志社大学大学院生との論議は、日本社会事業大学のような一種の専門分野に特化した思考傾向を持っている院生とは異なり、まさに伝統のある、ユニバーサルの大学での院生の考え方にとても面白みを感じていた。
〇同志社大学大学院では、大分大学の教員になり、その後母校へ戻った同志社大学の廣野俊輔先生、武庫川女子大学の堀善昭先生、長野大学の羅珉京先生、日本福祉大学の梅本聡子先生、桃山学院大学の南友二郎先生等と一緒に学べたのは楽しい思い出であると同時に、皆さんよく学んで、教員・研究者として巣立ってくれたのも嬉しい限りである。
〇1990年代に筆者が、日本社会福祉教育学校連盟の活動を精力的にしていたせいか、東北福祉大学院でも非常勤講師を勤めることになった。これが伏線で、日本社会事業大学の特任教授を70歳で終えた2014年4月から東北福祉大学大学院教授を勤めることになる。東北福祉大学の件については、項目を別に立てて記述したい。

➃富山県福祉カレッジ学長

〇富山県社会福祉協議会とのつながりは既に1980年代前半からあったが、富山県行政との関わりは確か1990年頃が最初ではなかったかと記憶している。三浦文夫先生が当時の中沖知事の依頼を受けて、富山県の総合計画策定に関わるようになり、手伝えと言われていろいろ作業、意見を述べたのが始まりである。
〇その後、富山県福祉カレッジが設立され、三浦文夫先生が学長をされる際、お前も客員教授として手伝えと言われ客員教授になったが、取り立てて業務があったわけではない。講師として呼ばれ研修を担当する程度であった。三浦文夫先生は、学長として「三浦ゼミ」を開設し、年間6回程度富山へ通っていた。
〇2009年10月に、筆者は富山県福祉カレッジの学長に就任した。県社協の専務理事をはじめ関係者からは、「三浦ゼミ」を継承して欲しいと言われたが、“ゼミ生”が20人程度の方のみを対象にして“学長職”としての務めを果たすのは嫌だと拒否した。その代わり、広く社会福祉従事者の研修を担当するし、県内の市町村へ出張講座を企画して出歩くことを提案し、了解して頂いた。
〇多くの都道府県社会福祉協議会が、行政から委託されて社会福祉研修センターを運営していたが、1990年の「社会福祉関係8法」改正以降、社会福祉行政の地方分権化が進み、各都道府県の社会福祉研修センターの位置と役割が弱体化していった。

〇2000年の介護保険、2005年の障害者総合サービスの提供以降、その傾向はより強まり、全国の都道府県の社会福祉従事者の研修体制はぜい弱化していった。この変化を行政も社会福祉研究者も、全国社会福祉協議会も必ずしも警鐘を鳴らしてこなかった。
〇筆者は、1980年代後半から、青森県、秋田県、山口県等の社会福祉研修センターに深く関わってきていたが、社会福祉行政が地方分権化されて以降の社会福祉研修システムの脆弱化は大きい。
〇現在、富山県福祉カレッジは年間53講座を行い、約5500人が受講している。また、富山県は1990年初頭に設置された介護実習普及センターを改組して、「介護テクノロジー普及推進センター」を開設している。これからは、介護人材の確保が容易ではないし、介護の科学化が必要だし、何より福祉サービス利用者へのケアの質的向上が求められており、その普及推進を図っている。
〇富山県福祉カレッジ、介護テクノロジー普及推進センターでは、北陸新幹線の富山駅のコンコースを会場にして福祉機器展を行い、広く県民のケア観の見直し、福祉機器の利活用推進に貢献しようとしている。
〇2026年度には、その福祉機器展に社会福祉系専門職団体がブースを開設して、県民の福祉・介護相談にも応じるように取り組んでいる。
〇富山県福祉カレッジの学長として、富山県社会福祉協議会に働きかけて、毎年4月末に富山県社会福祉関係者の集いを開催している。新田県知事、県副知事、県の福祉行政部局の管理職をはじめ、県内社会福祉関係専門職団体、社会福祉施設経営の社会福祉法人の理事長、施設長、民生・児童委員など100名を超える参加者が一堂に会し、交流、懇親を深めている様はとても大事である。この社会福祉関係者の集いは、香川県社会福祉協議会でも取り組んでくれたが、当時の平井知事などが参加してくれた。

➄世田谷区地域福祉保健福祉審議会会長の職務と区社会福祉協議会へのテコ入れ

〇私は、2008年10月に東京都世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任した。
〇2006年に前任の会長であった三浦文夫先生が退任された時、後任会長として打診を受けたが、その時は審議会委員の中に元日本社会事業大学教授であり、白梅大学の学長をされている石井哲夫先生が在任されていたので、石井哲夫先生に会長を一期引き受けて頂きたいと固辞した。そのような経緯の中で、私は2008年に会長に就任した(~2016年9月)。
〇世田谷区は人口91万人(現在は95万人)で、鳥取県や島根県よりも多く、一種の厚生省の新しい社会福祉政策の“アンテナショップ”的な性格を有していた。多様な、新しい政策を世田谷区で実証し、その成果を基に厚生省がそれを全国化させる面があった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の委員は20名程度であるが、審議会の際に、事務局として陪席する人は30人くらいいる。筆者は、埼玉県社会福祉審議会の会長もしたが、世田谷区ほどには事務局職員は陪席していなかった。東京都社会福祉審議会や東京都児童福祉審議会でも見かけたことがない数の事務局職員の陪席であった。
〇私は、世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任するに当たって、事務局にこの案件を実施してくれるなら会長を引き受けましょうと提案した。それは、私が行政アドバイザーとして提案し、作られた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムと同じようなものをつくるということであった。
〇長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムは、茅野市を4つの圏域に分け、圏域ごとに保健福祉サービスセンターを設置し、診療所を併設して医療・保健・福祉の連携を強化しつつ、保健福祉サービスセンターに保健師、福祉事務所にいたソーシャルワーク機能を持つことが期待されている職員、社会福祉協議会の職員を配置して、チームで生活のしづらさを抱えている人を発見し、支えるシステムで、個別支援とそれを支える地域づくりとを統合的、一体的に展開するシステムであった。
〇しかも、その保健福祉サービスセンターは、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めて全世代対応型の福祉総合相談窓口であり、地域に出張って生活のしづらさを抱えている人を発見・把握するアウトリーチ機能も持つシステムであった。
〇この茅野市の保健福祉サービスセンターを視察に来た厚生労働省老健局の課長が、茅野市保健福祉サービスセンターに学んで、2006年に介護保険制度に導入したのが「地域包括支援センター」である。
〇私は、世田谷区に27ある地域包括支援センターを茅野市と同じように、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めた、住民の立場から考えて、福祉アクセシビリティの良いシステムを構築する意思があるのなら会長に就任していいと言って会長になった。
〇その時の保健福祉部長が秋山由美子さん(後の世田谷区副区長、その後日本地域福祉研究所の理事をして下さり、現在は児童養護施設を運営する社会福祉法人福音寮の理事長)で、その時の課長が瓜生さん(定年時には高齢福祉部長)で、私が会長の任期終了(世田谷区は委員の任期を最長10年としている)で退任する際に、27ある地域包括支援センターを高齢者のみならず全世代対応型の総合相談窓口へ変えてくれ、大橋先生とのお約束は守れましたと言ってくれたことが嬉しかった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の会長を退任したら、ある時保坂典人区長から、今度は世田谷区社会福祉協議会を何とか立て直して欲しいという要請がきた。世田谷区議会で、数年にわたり、決算審議の区議会で世田谷区社会福祉協議会の補助金をなくすべきではないかという類の質問が出、対応に苦慮しているという。その対策をしてくれという願いであった。
〇早速、世田谷区社会福祉協議会職員のCSW研修をすることにして、生活のしづらさを抱えている人への支援で困っている事例を出して欲しいと言ったところ事例は皆無であった。
〇社会福祉協議会職員は直接地域の住民が抱える困難事例に対応し、その人たちを支える地域づくりをしていないことが分った。この点を区議会では指摘されていて、住民のニーズに対応した活動、地域づくりをしていないのだから区からの補助金をなくすべきという論旨で批判されていることが判明した。
〇全国各地で行っているCSWの研修プログラムに基づき研修を行った。その後、困難事例にどう対応したかの実践発表会を公開で行い、区長や区の部長たち、区議会議員、民生委員などに聞いてもらい、評価を頂きながら社会福祉協議会の体質改善に3年間取り組んだ。この過程で、世田谷区の保健福祉部長をされた金澤弘道さんが区社会福祉協議会の常務理事・事務局に就任され、力を発揮してくれたたことは大きかった。
〇この取り組みの過程で、住民に社会福祉協議会は見えていないのだから、可視的にもみえるようにしようと提案し、社会福祉協議会の名前とマークが入った黄色のベストを着て、区内を歩こうと提案したら、当時の労働組合委員長から“それを着るかどうかは労使の交渉事項です”と言われ驚いた。
〇私は、そのユニホームを着る気概がないのなら社会福祉協議会が生き残れなくても知らないよと言って着てもらった。
〇社会福祉協議会は行政以上に“役所的で、官僚的だ”と言われることがよくわかったし、都合の悪い時は“自分の組織は民間だ”と言い逃れをする体質を持っている。
〇現在の世田谷区社会福祉協議会はかなり改善され頑張ってくれている。金安博明さんが事務局次長になり、山本学さんが総務課長、松田京子さんが地域福祉課長、遠藤慧さんが自立生活支援課長になり、清水明子さんや尾崎一美さんたちが地域福祉担当の責任者になり、少なくともコミュニティソーシャルワーク機能の重要性を理解している職員が中枢を占めるようになってきているので、これからが楽しみである。
〇ただ、指定管理制度等の問題もあるのかもしれないが、区社会福祉協議会はいまだ地域包括支援センターを一つも受託できていないし、コミュニティソーシャルワーク機能を統合的に展開する社会福祉協議会組織の「地域担当制」の組織改革は未だ十分とは言えない。

➅念願の第1回通し歩きお遍路―2010年9月~11月

〇高校時代の“人生如何にいきるべきか”で悩んでいた時からの夢であった「四国通し歩きお遍路」に2010年9月20日出立した。
〇日本社会事業大学の学長任期を終えた後、大学から大学院博士課程の指導教員が手薄になるので「特任教授」として残ってくれと言われ承諾した。ただし、大学行政は一切せず、大学院指導のみを条件にした。と同時に、2か月間の休暇を頂きたいといい、大学院の指導が落ち着く9月から休暇をもらい、「四国通し歩きお遍路」に出立した。
〇大橋が四国お遍路を歩くというので、前夜、徳島市で関係者が壮行会をしてくれた。明日からは精進料理で、お酒も飲めないのだからということで大いに飲んだ。日本社会事業大学の先輩で徳島県庁の保健福祉部長をやり、その後徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた俳人の丸川悦司先生、元徳島県社会福祉協議会職員で、当時四国大学短期学部教授の日開野博先生、徳島県社会福祉協議会の佐伯局長、琴平町社会福祉協議会の越智和子さん、真言宗御室派の願成寺住職の大西智城さん(社会福祉法人阿波老人会の常務理事)等が参加してくれた。
〇元徳島県社会福祉協議会職員、元全国社会福祉協議会ボランティセンター長で、元福山平成大学教授の木谷宜弘先生は所用があり参加できなかったが、俳句の吟行の用具一式をプレゼントしてくれた。四国お遍路の道中で、毎日一句は詠めというお達しで付きであった。
〇翌朝、第一番札所の霊山寺で、お遍路の装束一式を購入し、聖なるお遍路を緊張して歩き始めた。杖を突き、鈴を鳴らして歩くので、お遍路さんが歩いているということが分るのであろう、途中、“お遍路さん”と呼び止められて、家から出てきた人からお接待を受けた。
〇こんな情景が約40日間続くのかと思いつつ、1日目の宿所の7番札所の十楽寺に着く。お風呂に浸かり、さっぱりして食堂に行くと生ビールは如何ですかと進められる。お遍路ですから、精進潔斎して、お酒を飲めないのではないですかと聞くと、これから長旅です。疲れをいやすのに生ビールを飲んではいけないということはありませんといわれ、いっぺんに緊張のタガが緩んでしまった。しかも、夕食のお膳にはとんかつが出ていて、再度精進潔斎でなくていいのですかと聞くと、長旅ですから体力を落としていけません。とんかつを食べてくださいといわれ食べた。
〇前夜、明日からお酒は飲めない、食事も精進料理だからと言って飲んだ意味が全くなくなってしまい、これ以降毎晩飲むことになる。
〇ちなみに、第2回目の歩きお遍路は2014年4月に行ったのだが、その時は39日間一切お酒は飲まずに歩き通した。
〇丸川悦司先生と木谷宜弘先生の厳命で、ただひたすら575の俳句ともいえないものを書き連ねていたが、後日私の『大橋謙策四国お遍路紀行』を北田耕也先生に送ったところ、俳人でもある北田耕也先生は、私が2010年10月13日に、高知県三原村で詠んだ「残された案山子侘しく秋の冷」が一番いいと言ってくれた。

(註)三原村は、急な山道を登ると、あたかも山の中の桃源郷かと思えるような視界が広がり、きれいな、平坦な田園風景が連なる村で、良質の木材を産出している豊かな村。

〇3回挙行した「四国通し歩きお遍路」については、各回とも紀行文を書いているのでそれを参照して欲しい。紀行文に就いては、阪野貢先生が主宰されている「市民福祉教育研究所」のブログに全て収録されているので、興味のある方は見て頂きたい。

老爺心お節介情報/第86号(2026年5月28日)

「老爺心お節介情報」第86号

〇早いもので、もう5月の下旬です。今や、日本には四季がなくなったのでしょうか、夏日、真夏日が続き、夏の気候になってしまいました。それでも、自然の営み、時は流れて、チョウゲンボウが営巣のために飛来してきましたし、時鳥(ホトトギス)が“トウキョウ、トッキョ、キョカキョク”と鳴き始めました。
〇私の足の具合はだいぶ良くなり、傷口も塞がり、5月22日には医者から治療は終わったという宣告を頂きました。治療薬を塗り、包帯を巻くということはなくなりましたが、足のはれと痛みは未だ残っており、まだ足を引きずりながら外を歩いています。やはり全治1か月では完治しませんでした。
〇この間の出来事を綴ります。
(2026年5月28日記)

Ⅰ 足の負傷に伴う羽田空港での車いす体験

〇5月11日、香川県社会福祉協議会の「2040年に向けた社会福祉協議会のあり方」検討会に参加しました。
〇南武線の稲城長沼駅の始発電車に乗れば、座って川崎駅まで行けると思い、タクシーを予約していきました。
〇前夜までの予約は、運転手がいないので夜の11時から朝方の6時までなら予約できるのですが、6時を過ぎるとできないというのを足が悪いからと言って頼み込んできてもらいました。タクシー運賃は通常の距離による運賃の他に予約料金700円、送迎料500円を上乗せで支払いました。
〇JR川崎駅から京急川崎駅まではよろよろと歩きました。問題は羽田空港内の歩行です。四国方面行のANAのボーディングブリッジ(ゲート50番前後)は遠く、普段使うチェックインカウンター後の保安検査場からは約1キロあります。
〇チェックインの際に、電動カーの予約をしたら、運転手付きの電動カーを手配してくれました。乗ってみて驚いたのは、電動カーがクラクションを鳴らしながら走行しているにも関わらず、注意を払う歩行者は皆無と言っていい状況で、電動カーは衝突を避けてしょっちゅう停止をしました。
〇12日の帰りの便では、羽田空港のボーディングブリッジから出口までは、電動カーが使えないという。帰りの通路が出口まで同じフロア―でなく、上下の階へ異動しなければならないというので、車いすを人が押してくれることになりました。2か所、エレベーターで上下階へ移動しなければなりませんでした。車いすを押してくれた担当職員は、しっかり研修を受けているのか、気配りも声掛けも適切で安心して乗っていることができました。
〇次いで、5月14日から16日にかけて、宮崎県都城市社会福祉協議会が出版した『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)の「出版記念セミナー」に招聘され出かけました。飛行機の便はJALでした。
〇JALのチェックインカウンターはすべて機械化されていて、QRコードを翳すだけ。したがって相談しようにも、私の時には近くに職員がいません。止むを得ず、足を引きずり、チェックインし、保安検査場の手続きをしました。保安検査場を出たところに電動カーがあったので、乗ろうとしたのですが、許可が必要なのか、使用方法はどうするのか相談しようにも職員がいません。職務を終えた保安検査員が通りかかったので呼び止めて、使用していいのか、使用方法はどうするのか聞いたが分からないという。後から来た人がこう使うのではないですかと教えてくれたので、自動車のナビゲーターと同じようにバスターミナルの番号を打ち込んで始動させてもらった。無人の電動カーは人や障害物を避けて、目的地まで無事運んでくれました。何となく不安だったが、乗ってみると便利なものだと感心しました。
〇いずれは、公道でもこのような無人の電動カーがタクシー代わりに人は使用することになるのでしょう。そうすれば、高齢者や障害者の移動サービス問題も解決するとは思いますが、高齢者や障害者が使いこなせるでしょうか。フランスのコンドルセが1789年に提言したように、実際生活に関する「大人の義務教育」が必要ですね。

Ⅱ 都城市社会福祉協議会の実践と出版記念セミナーの開催

〇上述したように、都城市社会福祉協議会の地域福祉実践の成果が『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)として刊行されました。
〇その記念セミナーが5月15日~16日と全国から150名の参加者で開催されました。懐かしい社協職員と出会えて、とても楽しい、嬉しい時間を過ごすことができました。
〇都城市社会福祉協議会の地域福祉実践は、上野谷加代子先生が1990年代以降「関係人口」の中軸に座り、上野谷先生の教え子や同志社大学の先生、院生も関わって、都城市社会福祉協議会職員ともども作り上げてきた実践です。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、1980年代末の「ボラントピア事業」、1990年代の「ふれあいのまちづくり事業」により大きく発展をします。その実践の特色の一つである福祉教育や、最近の重層的支援体制整備事業までの取組がコンパクトに本にまとめられています。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、公立地区公民館15館及び297館ある「自治公民館」(土地も建物も地域住民がお金を出し合って獲得している自治性が強い自治会)を基盤とした社会教育と15地区に組織化されている地区社会福祉協議会の活動とが特色であり、それらを基盤としたいろとりどりの綾なす実践が豊かに展開されてきました。
〇都城市は、1200年前後から「島津の庄」と言われた荘園で、鎌倉13人衆の一人である惟宗忠久が地頭職、下司職として派遣され土着化した地域で、地形的には盆地です。
〇惟宗忠久は、「島津の庄」にちなんで島津姓を名乗るようになります。
〇島津家4代目の忠宗の時代に、忠宗の子どもの資忠が戦功を挙げ、足利幕府から都城の支配を命じられ、事実上鹿児島島津家から独立した形で、戦国時代、徳川時代を経て今日にまで至ります。したがって、都城島津家は鹿児島島津家の分家筋ではありますが、一種独立した形の4万5千石も領する領主です。しかしながら、徳川幕府から大名としてみとめられていないので、参勤交代もありません。鹿児島島津家からは家老が派遣されていたとは言うものの、徳川幕府の天領にも似た、独立性の強い独特の位置づけが代々認められてきたようです。

註➀ 鹿児島島津家は、惟宗忠久の名にちなんで当主は「忠」を付け、都城島津家は同じく「久」を付けることが習わしになっているとのことでした。

〇このような特殊の支配構造が、鹿児島島津藩とは異なる文化を生み出したのでしょう、それが現在でも継承され、ある意味自由な、闊達な文化を生み出しているのかもしれないと思いました。
〇戦後いち早く、自治公民館による地域づくり、社会教育を振興していくのは、このような歴史的、文化的背景があったからであろうと推察しました。
〇現在の都城島津家の第29代当主は島津久友氏で、都城市社会福祉協議会の会長に就任されています。3日間、島津久友氏と歴史も含めていろいろお話が出来たのは僥倖でした。
〇数年前に、富山県氷見市の地域福祉実践を『福来の挑戦』(「福来」(フクラギ)とは出世魚の「鰤」の手前の名称、これから「鰤」になる気概をしめしたもの)として刊行し、盛大に出版記念セミナーを開催しましたが、全国各地で自らの市町村の地域福祉実践を本として出版し、世に問える実践が“目白押し”になって欲しいと「実践の記録化」の重要性を再認識したセミナーでした。

Ⅲ 日本地域福祉研究所の春季セミナー

〇日本地域福祉研究所の春季セミナーが2026年5月23日に、大正大学で行なわれました。
〇日本地域福祉研究所の理事長を退任してからははじめての参加です。理事長職を法政大学の宮城孝先生に引き継いだ時、数年は日本地域福祉研究所の行事などには参加しないと自分で決めました。
〇とういうのは、自分の性分として、疑問や意見を述べたくなると、我慢できずに話をしてしまうので、まして宮城先生は私の教え子でもあるので、自分の言動にブレーキが利かなくなると考えたので、参加しないことが大事だと考えました。
〇参加しない間に、日本地域福祉研究所の活動を客観化できるようになったら、かつての永田幹夫先生のように“よう”といって出かけ、研究所の所員の皆さんと楽しく飲めるようにしたいと自分で勝手に決めていました。
〇今回は、その客観化ができるようになったかどうかは分かりませんが、教え子の金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、修士課程の大橋ゼミ生)が、2025年11月に韓国社会福祉協議会の会長選挙で当選し、この1月から会長に就任したお祝いの会もあるということで、久しぶりに参加しました。
〇金玄勲さんには、1997年から6回行った(釜山、大邱、光州、大田、ソウル)韓国地域福祉研究セミナーの開催に当たって、大変お世話になりました。
〇その後、金玄勲さんは社会福祉法人幸福創造を設立し、特別養護老人ホーム、高齢者のデイサービス、保育所などを多角的に福祉サービス事業を展開するとともに、モンゴルの子どもたちを中心とした国際青少年交流活動を行ったり、福祉系大学で教鞭を執る等多面的に活動を展開してきました。
〇6年前には、ソウル市社会福祉協議会の会長に就任し、住民が求めているニーズに応えるサービスをプログラム化して、その事業の協賛企業を募り、プログラムの実施をしています。ソウル市社会福祉協議会は殆どソウル市からの補助金等の助成はありません。自分たちが企画したプログラムの実現に協賛する企業などからの協賛金、寄付金で運営をしています。日本の社会福祉協議会関係者は、この姿勢に大いに学ぶべきだと思います。
〇韓国からは金玄勲会長を始め10名の方が今回来日されました。中に、日本地域福祉研究所が1997年にソウルで行った第1回日韓地域福祉研究セミナーの開催を支えてくれた趙南畝さんも参加してくれていました。趙南畝さんは、“私は韓国の大橋謙策先生の教え子”と言って憚らない程、陰に陽に私と金玄勲さんを支えてくれています。その趙南畝さんがソウル市社会福祉協議会の会長に就任したと聞いて二重の喜びでした。
〇金玄勲さんの韓国社会福祉協議会の会長就任のお祝いと一緒に、東北福祉大学の大石剛史さんの損保ジャパンの社会福祉学術文献賞受賞のお祝いも行われました。
〇大石剛史さんが受賞した文献『ケアリングコミュニティの理論』(学文社、2024年、5610円)は、東北福祉大学院の博士論文を基にしたものです。
〇私が2014年に編著として刊行した『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房、5500円)で提起した私の考え方の“ケアリングコミュニティ”を基にして、心理学、哲学、教育学、看護学等の他分野の見識と比較研究してまとめたものです。久しぶりに哲学的考察をきちんとしてくれた論文を書いてくれて、教師としてはとても嬉しかったです。後に続く人が待ち望まれます。

Ⅳ 日本地域福祉学会「アーカイブ研究会」による「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」

〇日本地域福祉研究所の中島修さんや菱沼幹男さん、岡村英雄さんたちが中心になって、上記の研究会を組織し、「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」ともいえる研究会が5月24日に、文京学院大学本郷キャンパスで行われました。
〇同じ試みが2025年11月に行われましたが、その時はあまりにも準備不足なのを私が怒り、事実上、流会になりました。
〇研究者になり、論文を書くということは、“先行研究の批判検討に始まり、先行研究の批判検討に終わる”と言われるほど、先行研究を丁寧に、批判的に検討することが求められます。
〇その中で、自分が依拠してもいいと思える研究者の論文を発見できれば、自分の研究は半ば達成の道が見えてきます。筆者の場合で言えば、それは日本社会事業大学の学部時代に小川利夫論文、江口英一論文に出逢ったことが大きいです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」は、そのような先行研究を丁寧に読み、問題点を探り、かつ関係する研究者の理論、思想と比較しつつ、新たな視点と構想でこれからの日本の地域福祉研究と実践の方向性を探ることだと筆者は心得ています。
〇今回の「アーカイブ研究会」では、大橋謙策地域福祉論の中の➀地域福祉の概念、②地域福祉の主体形成、③コミュニティソーシャルワーク、④福祉教育、⑤6つの自立論、⑤施設の社会化と地域化、⑦災害支援ソーシャルワークなどについて、他の先生方との比較研究を踏まえた上での疑問についての質問を受けました。
〇正直、これだけ丁寧に研究し、質問できるならば、これを基にして『大橋謙策地域福祉論の批判と継承』という本をすぐに上梓できると嬉しくなりました。是非、実現して欲しいものです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」では、私だけでなく、阿部志郎先生や岡本栄一先生を第1弾として取り上げるということでした。
〇そこで思い出したのは、筆者が日本社会福祉学会にデビューした1974年の大正大学で行われた学会でのエピソードです。
〇その時、筆者は学会主宰のシンポジュウムのシンポジストに選ばれ、「社会福祉施設の社会化と地域化」について報告をしました。
〇シンポジュウムが終わり、帰路についた時、大正大学のイチョウ並木のところで、岡本栄一先生と早瀬昇さん(大阪ボランティア協会)に呼び止められ、とてもシンポジュウムの報告は良かったと評価してもらいました。
〇その後、岡本栄一先生は、「なぎさ理論」と称する考え方を披歴することになります。しかし、それは既に筆者が1974年段階で示した考え方です。「アーカイブ研究」の難しさは、本人が書いた論文だけに焦点化したのでは全体を鳥瞰できないというものです。

註➁ 筆者の報告は、翌年の1975年の日本社会福祉学会の紀要に掲載されます。「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
 ➂ 岡本栄一先生の「なぎさ理論」と称する論文は、「岡村『地域福祉論』と『地域社会関係』――入所型福祉施設と『なぎさ』の福祉コミュニティ論」(『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収)等参照。

〇「アーカイブ研究」は、取り上げる研究者の論文、思想のみを取り上げて論じるのではなく、それと関わる研究者の論文、思想などとの比較研究も行う、先行研究における大事な学問上の営みです。
〇かつて、日本福祉大学の元学長の二木立先生が、なぜ岡村重夫理論の批判論文がないのかおかしいではないかと言われ、筆者が『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収の拙著「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」という論文の中で岡村重夫理論を批判した際に喜んでくれ、これこそが学問なのだと言われたことが記憶に残っています。
〇「アーカイブ研究会」の終了後には、東北福祉大学大学院時代の院生が結婚した夫が日本橋で「鮨処 ほしの」を開店したので皆で行き,旧交を温めつつ大いに飲みました。とても楽しい夜でした。

Ⅴ 本の紹介―『自宅でない在宅―高齢者の生活有漢論』(外山義著、医学書院)

〇筆者の地域福祉研究・実践の足跡になる『その時の出逢いが』の2010年代を記述するに当たって、かつて読んだ本を改めて読み直しました。その本を多くの社会福祉関係者に読んで貰いたいと改めてここに紹介します。
〇その本は、建築学の生活空間論を専攻した外山義先生が書かれた『自宅でない在宅―高齢者の生活空間論』(医学書院、2003年刊、1800円)です。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国します。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になります。
〇私は、1990年代に外山義先生が設計された富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学しましたが、その哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動しました。
〇外山義先生の理念を基にした施設設計とケアの考え方を2003年以降具現化する取組を行っているのが一般社団法人ユニットケア推進センターです。このセンターが実習施設として認定している特別養護老人ホームは、皆さん出来れば見学してください。
〇その実習施設での実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)です。
〇外山義先生の考え方までに整理されていませんが、筆者も同じようなことを考えて論文を書いてきました。
〇当時、コミュニティづくりに必要な施設とは、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることではないかとか、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えてきました。それらについての筆者の論文は以下の通りです。ご参照ください。
➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要第34号』所収、1988年)

老爺心お節介情報/第85号(2026年5月6日)

「老爺心お節介情報」第85号

〇皆さんは、ゴールデンウィークをどう過ごされていますか。
〇私は、足の傷が痛く、歩けず、家に蟄居していました。童謡の「みよちゃん」ではありませんが、“ケンちゃんはおんもに出たいと泣いている” 日々のゴールデンウィークです。足が痛いと何もする意欲が沸きません。でもやることがないので、「その時の出逢い」の第85号を少しづつ書いていました。
〇ゴールデンウィーク中にする予定だった小さな庭の畑の野菜の作付も延期です。庭木も繁茂し始めていますが、今はなるようにしかなりません。 来週から出張が始まるのですが、歩いていけるか心配です。
〇皆さん、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
(2026年5月6日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑧

Ⅰ 2000年前半―社会福祉学界の代表としての矜恃と不安、プレッシャー

〇2000年代前半は、1990年代までの研究が評価された結果なのか、社会的な活動が求められるようになり、個人の教育・研究の関心事のみならず、日本の社会福祉学界の代表としての立ち振る舞い、矜恃が求められた時代でした。
〇私自身の器、度量、力量を越える役割が求められ、自信のなさに押しつぶされそうなプレッシャーとそれらの役割が自分を成長させてくれているということが実感できる活動時期でした。
〇2000年代前半の活動の主なものは、➀日本社会福祉学会会長の職務、②日本学術会議会員としての職務、③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務、④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟・アジア・太平洋会議の日本大会の実行委員長の職務、⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務、⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務である。

➀日本社会福祉学会の会長としての職務

〇1998年10月に行われた日本社会福祉学会の理事選挙でトップ当選をし、会長に選出された(1998年~2003年、連続2期)。前会長の阿部志郎先生とは18歳の年齢差であった。
〇それまでの日本社会福祉学会の会長は、一番ケ瀬康子先生(通算4期)、浦辺史先生(通算3期)、仲村優一先生(2期)等が重任してきた他、磯村英一先生、岡村重夫先生、若林龍夫先生、木田徹郎先生、三浦文夫先生たちで、1954年の日本社会福祉学会創設時の会員(会員196名)であり、その後の日本の社会福祉学界を牽引してきた重鎮ばかりであった。創設時の会員以外で会長になったのは、筆者が最初である。
〇筆者は、1989年に公選理事になり、関東部会を担当したが、1992年の公選理事で選ばれた2期目は事務局長を仰せつかった。その際、「社会福祉学会ニュース」の刊行(小松源助先生が事務局長時代にニュースが2号出ているが、その後は発行されていない。それを復刊継続して3号として定期化させた)と公選理事のマンネリ化と理事の若返りを進めるための規約改正をした。当時の日本社会福祉学会は会員数が4000名を超える学会になっていたので、多様な会員の意見が反映されるようにすべきだと考えたからである。
〇規約改正は「理事の多選を禁止し、理事は通算4期まで、かつ理事は連続2期までは継続できる」とする内容である。したがって、理事を連続して2期まではできるが、連続2期したらいったんは理事を退き、3年間は役職に就けないという規約改正であった。
〇当然、筆者も2期で退き、3年間の間隔をおいて、1998年に再度理事に選ばれ、会長に就任した。
〇この若返りを進める規約改正により、新たな新進気鋭の理事たちが登場してくる。白澤政和先生、黒木保博先生、高橋重宏先生、上野谷加代子先生等が当初は推薦理事で理事会に入り、その後公選理事として選ばれ、学会としてなくてはならない活動を展開してくれた。
〇日本社会福祉学会の会長として行ったことは、(ⅰ)学会創設50周年行事、(ⅱ)日本社会福祉学会文献賞の創設、(ⅲ)『社会福祉学会研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(ミネルヴァ書房)の刊行、(ⅳ)韓国社会福祉学会(当時の韓国社会福祉学会会長は梨花女子大学の金聖二教授(前出)との学術交流協定の締結である。
〇社会福祉学分野における優秀な論文、著作を表彰する制度は、既に三浦文夫先生のご尽力で損保ジャパン(旧安田火災記念財団)が行ってくれていたが、日本社会福祉学会としても優秀な著作について表彰することにより、会員の研究意欲を高めたいと考えて日本社会福祉学会文献賞を創設した。
〇韓国社会福祉学会会長の車興奉先生(後に韓国保健福祉部長官に就任、日本の厚生労働大臣に該当)から、「感謝牌」が贈られた(「感謝牌」の銘文は「先生は日本社会福祉学会会長に在職していた際に韓国社会福祉学会に対する多大な関心と愛情を持ち、活発な学術ならびに人的交流を推進し、これをもって両国の社会福祉の発展とともに相互友好増進に大きく貢献しましたので、韓国社会福祉学会会員の心を込めて感謝の意を伝えたいと思います。」2015年4月29日、韓国社会福祉学会長車興奉)。
〇韓国の社会福祉界とは、社会福祉学会の学術交流だけでなく、日本地域福祉学会との学術交流も行われるようになり、その端緒を切り開くことができたと喜んでいる。
〇2026年1月には、筆者の教え子が韓国社会福祉協議会の会長に選出され、就任している。これからも韓国と日本の友好関係が継続していくことを切に願うものである。

②日本学術会議会員(2000年~2005年)

〇日本学術会議は、全国に87万人いると言われている科学者、研究者の中から、当時は会員定数210人が7部門に分かれている会員の定数毎に、関連する学会が選挙をして会員候補者を選出し、それを内閣総理大臣が任命する組織である。
〇日本学術会議は政府の諮問に応える政策提言とともに独自に政府に対して勧告できる権限を有している、いわば科学者、研究者の“国会”とも称される組織である。
〇日本社会福祉学界をはじめとした社会福祉関係学会は、会員選出の枠を持っていなかった。
〇日本学術会議には、社会福祉学界からは小川政亮先生、一番ケ瀬康子先生、仲村優一先生が選出されていたが、小川政亮先生は社会保障法の、いわば法学系の会員として選出されていた。一番ケ瀬康子先生が、社会学の分野の会員枠を一人譲ってもらって、社会福祉学界が推薦して会員になっていた。したがって、その当時の科学研究費は社会福祉学としての独立した細目を持たず、社会学分野へ申請し、採択されれば科学研究費が得られる仕組みで、結果的に社会福祉学界の科学研究費の採択率は低かった。
〇筆者は、既に1990年の時に、日本社会福祉学会選出の会員推薦人(1990年)に選ばれていたし、1994年には日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡会委員・幹事に任命されていたので、日本学術会議についてはそれなりの関わりを持っていた。東洋大学の山手茂先生や日本女子大学の田端輝美先生などと一緒に日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会の「対外報告書」(「社会福祉に関する研究・教育体制の拡充・強化についてー高齢社会に対応する社会サービスの総合化対策の一環として(1997年)、「社会サービスに関する研究・教育の推進について」(2000年))を起草していた。
〇しかしながら、いざ日本学術会議の210名の一人に選ばれるとそのプレッシャーに押しつぶされそうであった。約87万人いると言われている科学者の中から210名が会員に選ばれて日本の科学技術のあり方について論議するということは、余ほど多面的、多角的論議できる知見、博識がなければならないわけで、相当に緊張していたことが自分でも分かった。他の会員は、錚々たるキャリア、名望のある方々で、直接話をするのも憚れるような緊張感であった。
〇とりわけ、筆者が会員の時に出した対外報告「ソーシャルワークが展開できる社会システムづくりへの提案」(2003年)についての幹部会での質疑は今でも冷や汗が出る。
〇日本学術会議の対外報告は、幹部会と呼ばれる日本学術会議の会長、副会長、7部会の部会長、副部会長から構成される会議で、そこで報告し、質疑応答を受けて「対外報告」として出していいかが決まる。いわば、社会福祉学界を代表して、時の社会福祉に関わる学術、教育・研究体制、政策のあり方に関して、今後のあり方を示し、各分野の学術、教育・研究体制との整合性があるか、対外報告としてのインパクト、必要性が問われる機会であった。
〇幹部会議では、いろいろ質問を受けたが、ありがたかったのは、工学系の会員で、日本製鉄に勤めている会員が、この対外報告はとても重要で、今まさに求められている政策課題であり、学術研究課題であるという趣旨の“応援発言”をしてくれた。幹部会議が終わった後も是非頑張って欲しいと励ましてくれた。
〇当時の日本学術会議は、会長が東大総長を務めた、工学系の吉川会長であったこともあり、日本の学術体系全体の見直しが検討されていたことも“追い風”になったのであろう(日本学術会議は、2003年に『人間と社会のための新しい学術体系』を発表。そのことに関わって、筆者は「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」を2004年に執筆(『社会福祉学研究の50年――日本社会福祉学会のあゆみ』ミネルヴァ書房、2004年11月所収)。
〇このように、仲村優一会員の時から、毎期毎に必ず「対外報告」を出し、ソーシャルワークの必要性と社会福祉学の固有性を訴えてきたこともあって、2003年度から日本学術振興会の科学研究費において、社会福祉分野が社会学から独立して「細目」で認められるという、日本社会福祉学界の長年の“悲願”が実現できた。
〇社会福祉分野は、長年、大学の教育現場でも「社会福祉論」という用語を使っており、「社会福祉学」ではなかった。これ以降、「社会福祉論」ではなく、「社会福祉学」という用語の使い方が定着していく。それは、私にとっても日本社会事業大学入学時からの疑問に対する回答になった。
〇筆者は、その時から何年か科学研究費の審査委員を仰せつかった。ちなみに、その当時は看護学もリハビテーション分野も科学研究費としての独立は認められていなかった。
〇筆者が日本学術会議の「福祉研連」の委員・幹事の際の1999年9月に『福祉研連ニュース』を発刊し、日本学術会議の学会として認定登録されている社会福祉系学会の会員に配布した。
〇それら『福祉研連ニュース』を含めて、社会福祉関連の対外報告などを収録した『社会福祉・社会保障研究連絡委員会 韓国・対外報告・報告集』を2005年9月に刊行しているので参照願いたい。
〇筆者が会員に選出されていた当時、第1部会員の中には万葉集の研究で文化勲章を受けた中西進先生や東京大学名誉教授で出土した農具の分析から、縄文文化と弥生文化の地域分布の違いを明らかに、歴史的に縄文時代を経て弥生時代になるという歴史観の誤りを指摘した先生で、かつ文部科学省文化財保護審議会会長もされている藤本強先生等の斯界の権威ある先生方との交流は、緊張したけれど楽しかった。

③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務

〇日本の社会福祉関係者が長年求めてきた社会福祉専門職化、国家資格化は1987年の「社会福祉法及び介護福祉法」の制定により実現した。この法律が成立する背景には、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」に代表されるように、急激な高齢化に伴う介護人材の質・量の問題が大きな課題だった。
〇他方、1986年に行われた国際ソーシャルワーク会議、国際社会業学校連盟会議での論議を基にした斎藤十郎厚生大臣の強いリーダーシップがあった。
〇1987年成立の「社会福祉士及び介護福祉士法」の時代は、いまだ在宅福祉サービスは成熟しておらず、入所型社会福祉施設サービスの時代であった。しかも、当時は、中央集権的機関委任事務の時代であり、福祉サービス利用の可否は都道府県の福祉事務所か市レベルの福祉事務所が担っていたので、そこではソーシャルワーク機能は全くといっていいほど関心を持たれず、社会福祉研究者の一部が声高にソーシャルワークを言っていたにすぎない時代だった。厚生労働省は殆ど関心を寄せていなかった。
〇当時、筆者は「ソーシャルワーク」、「ソーシャルワーカー」と言ってもその必要性を分かってもらえないので、筆者は「ソーシャルワーク機能」という言い方を敢えてした。「ソーシャルワーク機能」は教師も、弁護士も保健婦も持っているが、それらを総体的に集中的に機能として持っているのが、ソーシャルワーカーで、在宅の障害者、とりわけ、精神障害者や高齢者の支援には、これからソーシャルワーク機能が求められることを言ってきた。
〇1990年の社会福祉関係8法改正で、在宅福祉サービスが法定化され、かつ1990年代後半になると「介護の社会化」が叫ばれ、介護保険制度の導入が決まってくる。
〇そのような状況のなかで、在宅福祉サービスの推進には、ケアワークとソーシャルワークとの連携、有機化が必要ではないかと筆者は考え、仲村優一先生や田端輝美先生などと相談する。当時、神川県立保健福祉大学(学長阿部志郎先生)は「ヒューマンケア」という考え方を標榜して大学教育を行っていたが、我々は日本学術会議などの検討も踏まえながら、イギリスが1998年に「ソーシャルケア研修協議会」を設立したことを参考に「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を2000年に立ち上げた。
〇この「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」には、日本社会福祉学界をはじめ社会福祉系学会、日本社会福祉士会等の社会福祉士専門職団体、日本社会事業学校連盟などの養成機関の他に、日本介護福祉学会、日本介護福祉士養成校協議会、日本介護福祉士会等の関連する17学会、団体が加盟して発足した。まさに社会福祉界の「大団円」と言っていい組織である。
〇この組織の発足式で、仲村優一先生が、“戦後50年間、このような大同団結した組織を創ろうとしてできなかったことが出来、本当に嬉しいとの挨拶をしてくれた。
〇各々の団体の特色、違いを超えて、日本の社会福祉界の向上、日本の社会福祉教育、介護福祉教育の発展、日本の社会福祉・介護福祉の専門職化の向上に寄与できる一石を投ずることができた。発足当初は、仲村優一先生が日本学術会議の会員だったので、会長職をお願いしたが、筆者は副会長として、その後2代目会長として、この協議会の運営に当たった。

④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟及び国際ソーシャルワーク連盟のアジア・太平洋地域会議の日本大会の実行委員長の職務

〇筆者が提起して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を立ち上げたこともあり、2003年に日本の長崎で行う第17回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議の実行委員長を仰せつけられた。
〇第17回大会は、長崎国際大学の高橋信幸先生、綿裕二先生が精力的に事務局を担ってくださり、ハウステンボスなどを会場に第1回大会を開催する予定で、印刷物をはじめあらかた準備が整った段階で、国際的な感染症SARS(中国で拡大、重症急性呼吸器症候群)が蔓延の兆しを示したことから、厚生労働省から国際会議を自粛するようにとの連絡が入り、急遽中止せざるを得なくなった。約2000万円の損失が出たが、実行委員会の加盟団体に分担負担をして頂き決算することができた。
〇その後、筆者は韓国・ソウルで行われた第18回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で「ソーシャルワークの挑戦と対応―アジア太平洋地域における新しいパラダイムの開発」、マレーシアのペナンで行われた第19回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で、「ソーシャルワーク・発展のための触媒」と題して基調報告をさせて頂いている。
〇日本でのアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を開催したことがなかったので、国内外からアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議をして欲しいとの要請を受けて、再度日本は第21回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を2011年に行うことになった。
〇この時も実行委員会委員長を仰せつかり、早稲田大学の田中英樹先生を中心に事務局を担っていただき、早稲田大学を会場に行うことができた。
〇どういう訳か、この第21回大会の時も、MERS(中東呼吸器症候群)が感染し始め、シンガポールなどの国から開催中止の要請があったが、流行の状況を考えて実施することにした。国内外から25か国、約700名(国外200名余、国内460名余)が参加してくれた。参加者の参加費だけでは開催費用が賄えないので、広く協賛金を募り約4000万円を集めた。
〇筆者は、実行委員長として『「ソーシャルワークと社会開発のためのグローバルアジェンダ」への日本からの提案」をさせて頂いた。
〇この大会の開催に当たっては、秋元樹先生、岩崎浩三先生、高橋重宏先生、白澤政和先生などに大きな役割をになって頂いたし、医療ソーシャルワーカー協会や日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士会等の専門職団体が大きな役割を発揮してくれた。
〇その後、2007年に日本社会事業学校連盟の会長になり、加盟校の「理事長・学長」会議を開催し、厚生労働省社会・援護局長へ、ソーシャルワーク教育のカリキュラム、国家試験の出題基準を改正するべきだという申し入れをしたりする。それらの活動の中から、教員中心の日本社会事業学校連盟では、ソーシャルワークやケアワークの質の向上に向けてのソーシャルアクションは効き目が薄いと考えて、日本社会事業大学の長尾立子理事長や日本福祉大学の丸山悟理事長に働きかけて、「社会福祉系大学経営者協議会」を結成して頂いた。
〇そうこうするうちに、大学受験18歳人口の減少、3K職場という負のイメージを払しょくできず、社会福祉系大学の受験者数が激減し、経営が厳しくなっていった。

⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務

〇東京都生涯学習審議会の委員には1996年から任命されている。しかしながら、審議会会長に任命されたのは2001年(~2009年)からである。
〇東京都生涯学習審議会会長は、従来社会教育委員の会議の会長も併任するようで、筆者も2002年に東京都社会教育委員の会議の会長を兼ねることになった。
〇更に、東京都社会教育委員の会議の会長は、一般社団法人全国社会教育委員連合の会長を兼ねるということであったが、それは組織が違うのだからと当初は固辞した。しかしながら、その役職をする人がいないとかで、2003年には就任させられた。
〇筆者は、いろいろな地方自治体の委員を任命された時、単なる委員の時には左程主張しないが、部会長や委員長、会長を仰せつかった際には、事務局案に対して意見を述べるだけではなく、また、事務局の諮問に応えるだけではなく、事務局に対し常に建設的提案をし、委員会としての建議の権限を大切に委員会、審議会の運営を心掛けてきた。
〇東京都生涯学習審議会でも、審議会の場だけではなく、事務局との打ち合わせの際にも新たな提案を常にしてきた。
〇会長になった1期目、2期目は、生涯学習を個々人の自己充足的な生涯学習のレベルに留めず、社会参画型の生涯学習の必要性を打ち出した。とりわけ、中高年層が社会参画する「新しい公共」の創生とコミュニティづくりに関しての答申を出した。
〇第3期目、4期目は、筆者が日本社会教育学会などで1970年代に研究していた「学校外教育」の組織化の考え方を基に、「地域教育プラットホーム」構想を打ち出した。この考え方は文部科学省の社会教育課にも影響を与え、政策として「学校支援地域対策事業」や「地域学校協働事業」として展開されている。
〇第5期、6期目は「教育行政」を振興するための社会教育行政の在り方について、社会教育行政がもっと中学、高校の教育を支援するあり方の必要性を提起している。
〇この間、東京都生涯学習部梶野光信社会教育主事が筆者の考え方に共鳴してくれ、行政内部で受け入れやすいような提案の形式を整えてくれた(梶野光信著『ユースソーシャルワーク』(生活書院、2025年)参照。梶野さんは主任社会教育主事を経て、現在は日本大学の教授をされている。梶野さんは東京学芸大学の小林文人先生の教え子である)。
〇全国社会教育委員連合会長としては、主に年1回行われる全国社会教育研究大会の実施である。全国をブロックごとに巡回するこの社会教育研究大会で、時には基調講演を行ったり、時には開催県の知事との対談などを行ってきた。大分県は江戸時代三浦梅園や廣瀬淡窓等の学者を輩出しており、それらの県の歴史を学びながら、当時の大分県知事の広瀬知事が広瀬淡窓の末裔であったこともあり、そのような話題を引き出しながら、その県の社会教育の振興策と地域づくりについて話をしてきた。
〇全国社会教育委員連合会長を15年間務めたこともあり、全国各地に出かけることができた。
〇ただし、この組織の悩みの種は、文部科学省からの補助金がなく、大会開催の費用の捻出、連合会事務局の維持管理に頭を悩ませたことである。
〇とはいうものの、全国の都道府県で社会教育委員として地域づくりに、手弁当で奮闘されている方々にお会いでき、それらの方々の社会教育振興への情熱、地域づくりへの情熱に触れられたのはとても幸せであった。中でも、香川大学の清國祐二先生、大分大学の山崎清男先生、八戸学院大学の内海隆先生、島根大学の島田雅治先生、有馬毅一郎先生等本当にお世話になると同時に、お互いの意見交換ができたことが嬉しかった。
〇また、事務局を担ってくれた元国立社会教育研修所課長をされた坂本登先生や宮崎大学の教授をされた上条秀元先生、あるいは事務局を手伝ってくれた林洋子さん親子(事務局にお金がないものだから、アルバイトを雇う代わりに林さんは息子さんにいろいろ手伝わせていた)との出逢いは楽しいものであった。
〇更には、文部科学省生涯学習局長が主宰する雑誌「生涯学習政策」等にも執筆の機会が与えられ、生涯学習、社会教育について論議をすることができたのもいい経験であった。

⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務

〇筆者、仲村優一先生や三浦文夫先生が担っていた各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務を後任として任されることが多かった。
〇日本経済界は1990年頃から社会貢献活動(CPI)を重視し、会社の創立周年行事などの際に福祉財団を設立するのが当時はやった。
〇これらの財団の機能を積極的に活用し、日本の社会福祉界へ新風を吹き込んだのが三浦文夫先生であった。
〇筆者は、1994年に大和証券福祉財団の評議員(後に理事)、選考委員、1999年に公益財団法人日本生命財団・高齢社会助成選考委員(後に選考委員長、理事)、2003年に損保ジャパン福祉財団・社会福祉文献賞選考委員長(~2017年)、みずほ福祉財団評議員などを務めている。この他にも、NHK厚生文化事業団、朝日新聞厚生文化事業団などにも関わらせて頂いた。
〇中でも、印象的な役割は、日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長を仰せつかったことと、損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞選考委員長を仰せつかったことである。
〇いずれも、前任の委員長は三浦文夫先生で、この財団活動の礎を構築された先生である。日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長は初代が岡村重夫先生、2代目が三浦文夫先生で、3代目が筆者である。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会は、急速に高齢化が進展する中で、新たな福祉サービスの開発事業に積極的に助成をし、日本の高齢者福祉政策に多大の影響を与えた。当初は、特別養護老人ホームを経営している社会福祉法人に助成していたが、1990年代後半には、在宅福祉サービスが法定化されたこともあり、地域福祉の推進の視点も盛り込まれ、市町村社会福祉協議会などへの助成も行われた。
〇日本生命財団は、この助成事業の成果を発表するシンポジュウム並びに講演会を東京・有楽町のニッセイ劇場と大阪の会場とで行ってきた。時には、1000名の聴衆を集めて、それらのシンポジュウム並びに講演会が行われた。高齢社会助成選考委員会の委員長は、そのシンポジュウムの司会進行を担ったり、時には講演を引き受けなければならず、それはとても名誉なことと感じるとともに、その重責は大変なものであった。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の活動は、『地域包括ケアの実践と展望』(大橋謙策・白澤政和共編、中央法規、2014年)が刊行されているので参照願いたい。この本の巻頭言を三浦文夫先生が「地域包括ケアシステムの源流」と題して書いているが、地域包括ケアの考え方と日本生命財団が果たしてきた役割、位置が簡潔に述べられている。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、損保ジャパン福祉財団の前身の財団法人安田火災記念財団から日本地域福祉学会が助成をうけて、1993年に『地域福祉史序説』を上梓していたこともあり、地域福祉研究、活動支援団体として馴染みのある財団であった。筆者は、1993年当時、日本地域福祉学会の事務局長で、地域福祉史研究会を総括する立場だったので、そのような機会を与えて頂いた財団に“恩義”を感じていた。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、その財団の後継財団が創設してくれたので、かつその当時は社会福祉学分野での文献表彰制度は事実上皆無だったので、非常に嬉しかった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、毎年前年度まで刊行された単著を対象に選考する。毎年、30冊程の著書が選考対象になり、5人の選考委員が第1次、第2次、第3次審査を行い、文献賞候補を決め、理事会の承認を得て、文献賞が授与される。文献賞には賞金100万円と副賞としてヴァン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈呈される。選考委員長は、選考の経過と選考した著書へのコメントを出すことが求められる。ある意味、博士論文の審査と似ている。
〇選考委員長の職務は重いが、自分では掴んでいなかった著書を読む機会となり、大変勉強させられる。京都大学の金沢周作著『イギリス近代とチャリティ』とか、福岡大学の廣澤孝之著『フランス「福祉国家」体制の形成』等、学ぶことが多かった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、ある時から授賞式だけではなく、受賞作に関わるテーマでのシンポジュウムを開催し、より研究課題を深める取り組みもしている。
〇これらの財団の活動に参加して学ぶことは、我々はどうしても社会福祉界の関係者や福祉行政の関係者とのみ交流していて、普段日本の経済界を牽引している方々との交流は殆どない。いわば、一種の“視野狭窄”の世界で生きている。しかしながら、財団の理事会や評議員会に参加している方々はいろいろな経済界の分野の業務に携わっている方々が多く、食事をしながらのさりげない会話の中に、あるいは人とのお付き合いの仕方の中に学ぶ点は多い。丸紅の社長、みずほ銀行の頭取、日本生命の会長、大和証券の会長、近畿鉄道の社長などとの会話・交流は、まさに日本経済界を牽引している人たちだとういう重厚感と存在感を感じる機会であり、人格的に尊敬できる方々ばかりである。
〇「井の中の蛙」とはよくいったもので、社会福祉関係者だけの世界で生きて、分かったつもりになっている自分が恥ずかしいと反省する機会が多々あった。
(2026年5月5日記)

大橋謙策/大橋謙策研究 第11巻:中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

 

 































中山道  六十九次
よろよろへとへと道中記
中 編
(和田宿、須原宿~野尻宿、大妻籠~馬籠宿、馬籠宿~中津川宿)

2026年10月13日~15日

〇2026年4月に行った「中山道歩き」は残念ながら、足裏のまめの悪化で妻籠宿で中断した。
〇今回も小池正志さんのサポートとコーディネートで、前回歩き残した長久保宿の大和橋から和田宿を経て、和田峠の入り口までの区間と須原宿から野尻宿までの区間、そして大妻籠から馬籠宿を経て中津川宿までの踏破ができた。心から感謝とお礼を申しあげたい。
〇初めから区間を決めての区切り打ちをしていないので、歩き損ねたこの区間を歩くことは、バスの便もなく、かつ電車の便も悪く、多くのサポーターがいないと実現できないコース取りであった。
〇小池正志さんの呼びかけで、長久保宿の大和橋から和田宿を経て、和田峠の入り口までの区間は、萱津公子さん(元長野大学教授、現上田市社会福祉協議会会長)が車を出してくれてサポートしてくれたし、木曽路は杉村信子さんが車でサポートしてくれたことで4月に歩けなかった中山道の道を歩くことができ、日本橋から中津川宿まで一応歩いたことになった。この紙上を借りて、改めて3人に厚く感謝とお礼を申し上げたい。

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(10月13日、長野快晴、長久保宿・大和橋~和田峠登山口入口・10キロ1万8千歩)

〇10月13日、小雨の降る中、午前5時50分に家を出発。新宿・大宮駅経由で上田駅に午前9時01分に着く。
〇前日まで、何故か佐久平駅に迎えに来てくれるという認識が私の頭を“占領”していて、前日の夜、待ち合せ場所は長野新幹線戦上田駅だということを漸く納得、理解できた。なぜ、佐久平駅と思い込んでいたのかは不明だが、小池正志さんのメールで気づかされてもらい、事なきを得た。
〇上田駅には、長野市役所に勤めている市原綾子さん、市原武琉さん親子が迎えに出てくれていた。今日の中山道歩きにお付き合いしてくれるとのこと心強い。
〇迎えに来てくれていた小池正志さんの車で、4月にスキップした長久保宿の大和橋まで連れて行ってもらい、そこから市原親子と歩き始める。大和橋には萱津公子さんも車で来てくれていて、お二人は和田峠に向かい、小池さんの車を和田峠に停め、小池さんは萱津さんの車に同乗して、和田宿を歩いている我々一行に合流するという段取りである。
〇長野県民歌「信濃の国」の歌詞に謳われてい4つの平の一つ、佐久平は秋晴れで、歩くのには少し暑いくらいである4月の時に社会福祉法人木曽社会福祉事業協会の田上理事長から頂いた木曽ヒノキの笠を被り歩き始める。
〇和田宿は羽田孜元総理の出身地であり、お墓もある。羽田家は、日本の地域福祉に関わる人脈の一つである。

(註)羽田孜さんの父親は、松田甚次郎の本を出版した羽田書店の社長・経営者で、後に衆議院議員を務めた羽田武嗣朗氏である。
松田甚次郎は、宮沢賢治の教え子で、宮沢賢治の考えを実践したと言われる山形県稲舟村鳥越(現新庄市)に農村隣保館を建設(1933年)し、その実践を『土に叫ぶ』(初版1938(昭13)年)、『続 土に叫ぶ』(初版1942(昭和17)年)として上梓する。その出版社が羽田書店であった。
松田甚次郎の実践は、戦後の地域福祉の戦前的遺産の一つであると言われている。

〇和田宿を歩きながら、市原武琉さんとは“人生如何に生きるか”、“自分探し”とはどういうものか等話しながら歩く。市原武琉さんは、通信制の大学の1年生だということなので、時間を有効に使って本を読み、各地を歩く喜びと大切さについて話をする。お母さんの市原綾子さんも、青森県浅虫温泉の出身なのに各地を歩いて自分探しをしたのだから、武琉さんも国内外を歩いて見分を広めた方がいいという話をしながらの道中であった。
〇途中、「杉の屋」で昼食休憩。かつ丼ともり蕎麦半分を注文するも、かつ丼のボリュウムがあり、全てを食べられず。
〇和田峠の上り口に就き、車はどこに停めたのと聞くと峠に停めたとのこと。私は、4月に登り口から峠を越えて下諏訪まで歩いているので、萱津さんの車に小池さんが乗り、峠に停めてある小池さんの車を取りに行ってもらった。
〇和田峠の上り口で、萱津さんとはお別れをして塩尻に向かう。萱津さんがいなかったら、この交通不便な和田宿を歩けなかったし、和田峠口から木曽谷への移動も困難であった。萱津さんに心から感謝とお礼を申し上げたい。
〇長野市へ帰るという市原親子を塩尻駅で降ろし、一路木曽谷に向かう。木曽谷の宿泊所・寝覚めのホテルには4時40分に着く。ひと風呂浴びて、碁を打っていると懇親会の関係者からの呼び出し。碁は打掛にして懇親会場に向かう。
〇懇親会場の坂下家に着くと、木曽谷の町村社会福祉協議会の事務局長たちと長野県社会福祉協議会の面々が顔を揃えていた(木曽郡の大桑村の社会福祉協議会の事務局長のみ欠席)。参加者は、王滝村社協の中島素道事務局長、木曽町社協の鈴村謙司事務局長、上松町社協の武居秀臣事務局長、木祖村社協の永島博之事務局長、南木曽町社協の麻生正道事務局長に加え、社会福祉法人木曽社会福祉事業協会田上昭彦理事長、鈴木正信事務局長、更に長野県社会福祉協議会まちづくりボランティアセンター林部多美子さん、須野原一彌さん、青柳與昌さん、地元のかけはしプロジェクトのメンバーの杉村信子さんで、小池正志さんと私を加えて13人の盛大な懇親会になった。
〇懇親が始まる前に、今年の8月1日~2日に、愛媛県宇和島市で行われた第23回四国地域福祉実践セミナーで報告された高知県佐川町NPO法人元気村の実践と徳島県美馬市のNPO法人こやだいらの地域住民限定のNPO法人による地域支え合い活動(移送サービス、生活支援サービス等)の実践をスライドで見てもらい、木曽谷でも同じような取り組みをする必要性を説明した。
〇懇親会がたけなわの頃、隣室で行われていた懇親会に出席していた村田広司上松町長が顔を見せてくれ、木曽谷の地域福祉の今後について少し話をした。ほぼ、同一の見解をお持ちの様で、いろいろご協力頂きたいとお願いをした。
〇ホテルに戻り、打掛の碁を再開、この碁は勝ったものの、その後も含め3日間で2勝2敗の打ち分けとなった。

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(10月14日午前、雨、須原宿~野尻宿、7キロ、1万2千歩)

〇朝から雨の中、車で野尻駅まで行き、8時21分の電車に乗り、須原駅にて下車。須原駅には、今日同行する木曽谷の王滝村、木祖村、上松町の社協局長の他に、工業デザイナ-で木曽町に移住してきた下木修一郎夫妻、10年間地域おこし協力隊で活動し、現在は王滝村社会福祉協議会で「プロジェクトかけはし」の事務局を担っている倉橋孝四郎さん、上松町社協の尾崎陽子さん、木祖村社協の湯川壮公さん、杉村信子さんも待っていてくれ、小池正志さん、私を含めて総勢11人の中山道歩きである。
〇大桑村須原宿在住の杉村信子さんがガイドを兼ねて先導してくれ、歩き始める。
〇途中、木祖村社会福祉協議会の永島局長に木材のことを聞くと、現在切り出している木材は戦後初期に植林した80年ものだという。カラ松の板を中に、木目のきれいな杉板を表面に加工した合板が売れているということでした。
〇臨済宗妙心寺派の定勝寺の大きな伽藍や奇麗な庭園も案内してもらう。
〇途中、大桑村社協の事務所が近くにあるというので、表敬訪問した。丁度、社協会長が出勤日とかでご挨拶をした。大桑村社協の隣には、社協経営のデイサービスセンターがあり、利用定員30名のところ、現在登録者は80名で稼働しているとのことでした。
〇大桑村の道の駅で小休憩を取り、丸い団子の五平餅を皆で頂いた。胡桃みそ味の美味しい五平餅だった。私は、この大桑村から下伊那の飯田市に抜ける大平峠で、草鞋型の五平餅を食べ、とても美味しかった記憶があるせいか、なにか団子の五平餅には違和感がある。4月に食べた馬籠宿での五平餅も団子だった。
〇野尻宿は、木曽11宿の中でも奈良井宿についで街並みが長い宿場だったということであるが、大火で面影はない。それでも、外敵を防ぐために「七曲り」という地形は実感できた。
〇野尻宿で杉村さん、尾崎さん、下木夫人、小池さんを除いた他の人とは別れる。杉村さんの先導で、妻籠宿のはずれの蕎麦やに向かい昼食を摂る。
〇昼食後、大妻籠まで送って貰い、下木夫人、尾崎さん、私の3人で馬籠宿目指して中山道を歩く。杉村さんと小池さんは、車を馬籠峠に移動し、そこから我々に合流するという段取りである。

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(10月14日午後、曇り、大妻龍~馬龍宿、6・5キロ、1万歩)

〇大妻籠から旧中山道に入り、昔ながらの石畳などを歩く。すれ違う人は外国からのインバウンドの方ばかり。
〇途中、一石栃白木改場所跡のところに出る。木曽地方は平地がなく、田んぼがないので、年貢米の変わりに、「木年貢」という制度があり、かつ住民にはコメが支給されたという。それだけ、木曽の木材は重宝されていたので、木曽五木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキコウ、ネズコ)という木材が無断で搬出されないよう「白木改め場」があったという。この改め場所は後に落合宿に移されたようであるが、妻籠宿から馬籠宿に抜ける途中にその跡地があった。
〇その跡地の傍に、熊の捕獲用の罠が設置されており、熊の出没があることがわかった。旧中山道のところどころに鐘が設置されていて、道行く人が鳴らせるようになっていたが、それはどうも“飾り”ではなく、本当にクマ除けの鐘だったようである。
〇馬籠峠は標高790メートルで、この峠以降は馬籠宿に向かって下り坂である。
〇馬籠峠で杉村信子さん、下木夫人、尾崎さんと別れ、小池さんが車を停めてあるという馬籠宿の駐車場に向かう。歩いてすぐという話であったが、どうしてどうして結構山を下ることになる。4時前に車を止めてある馬籠宿の入り口の駐車場に着く。それから一路土岐市へむかう。
〇中央高速道路のスマートインターチェンジの神坂インターから乗るといいと杉村信子さんに教えられていたとの事だが、カーナビは下道を案内し、結局中央高速道路には中津川 インターから乗ることになった。それでも、土岐市のルートイン土岐に5時過ぎに着き、ひと風呂浴びて着替えをすることができた。ルートイン土岐には、長野県社会福祉協議会まちづくりボランティアセンター所長・長峰夏樹さんが電車で駆けつけてくれていた。長峰所長は、翌日木曽社会福祉事業協会の田上理事長と相談があるとのことで参加してくれた。
〇岐阜県の関係者との懇談会は、土岐駅近くの「美濃寿司」に設定されていた。中部学院大学の人間福祉学部長、通信教育部長の飯尾良英先生がホテルまで迎えに来てくれて会場に行く。飯尾良英先生とは先生が岐阜県社会福祉協議会に勤めていた時代からの付き合いであるが、それでもお会いするのは30年振りくらいであろうか。
〇懇親会場には、元中部学院大学の阪野貢先生、現教員の宮島淳先生(日本社会事業大学大学院で高橋重宏先生の下で博士の学位取得)、同じく佐甲学先生(元全社協民生部長)と田村禎章先生(東海学院大学講師、阪野貢先生の教え子)の計8名の懇親であった。阪野貢先生とはメールでのやりとりは頻繁にあるが、先生曰く、会うのは10年振りだという。また、宮島先生と会うのも20年振りくらいで、本当に懐かしい顔ぶれとの懇親になった。とても美味しい料理でお酒も進み、あっという間に時間が過ぎてしまった。

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(10月15日、快晴、馬籠宿~中津川宿、10キロ、1万7千歩)

〇朝、7時に食事を摂り、出発までの時間小池さんと囲碁を打つ。
〇朝8時30分にホテルを出発。今度は中央高速道路の神坂スマートインターで降りることができ、馬籠宿の妻籠宿よりの入り口に9時20分過ぎに着く。そこで降ろしてもらい、一人歩き始める。
〇馬籠宿は4月の時には足が痛かったけど、2度と来られないかもしれないと無理して歩いた宿場である。明治時代に大火にあっているので、妻籠宿のような風情はない。それでも藤村記念館を覗いたり、外敵を守る枡形の地形を見たりして馬籠宿を抜ける。
〇馬籠宿から落合宿までの旧中山道は、のどかな里山の道を歩いたり、十曲峠の杉林の中の石畳み道(約900メートル)を歩いたりと、昔の旅人が味わったであろう風情ある道の一人歩きを楽しんだ。道で出合う外国人も少なく、ゆったりと下り坂を歩く。
〇落合宿も大火にあったとのことであるが、大火後加賀藩から贈られた本陣の門は保存状態も良く残っていた(本陣そのものは修理中であった)。
落合宿からは国道を行くのかと考えていたが、旧中山道が良く保存されており、ところどころ国道で分断されていて分かりづらいところもあったが、中津川宿まで続いていた。
〇落合宿から中津川宿までは、下り坂だけかと思いきや、標高差60~70mはあるであろう丘があり、その丘の勾配がかなりきつい。その丘が3つくらいある。落合宿をかなり過ぎた急こう配の坂の途中で、地元の人に中津川宿までどのくらいですかと聞くと約25分もあれば行くだろうという。ところがあにはからんや約1時間かかった。
〇中津川宿には午後1時に着く。食事をするところを探すが、多くの飲食店が休みの日とかで閉まっている。ハンバーガーを食べさせるお店が開いていたので入ったが、客は外国人ばかり。照り焼きバーガーを食べた。美味しかったが高かった。
〇中津川駅1時50分の電車に乗り、塩尻駅、八王子駅、橋本駅経由で午後6時30分に無事帰宅する。

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〇今回の3日間の歩きで、漸く日本橋から中津川宿まで繋がことができた。中山道530キロのうち、約330キロを歩いたことになる。残りは、約200キロで、一日15キロのペースで歩いたとして、約14日間で歩ける計算である。
〇自宅近くの毎日の散歩で1万歩、約7キロを歩いていることを考えれば、例え15キロほどのリュックを背負っていたとしても15キロの行程は無理なく歩けそうである。要は、旧中山道が整備されているかどうか、また適当なところにホテルがあるかどうかが問題である。できれば、体調を整えて、来春4月には京三条大橋まで歩きたいものである。

 

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大橋謙策研究 第11巻
中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

発 行:2026年4月30日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第84号(2026年4月30日)

「老爺心お節介情報」第84号

〇新緑が目に眩しい季節になりました。皆様には、新たな気持ちで新年度を迎えられ、元気に業務に励まれていることと推察いたします。
〇私は、4回目の「四国通し歩きお遍路」を断念した変わりに、この4月5日から中山道約530キロの通し歩きを企てました。しかしながら、4月19日、足の裏のまめが化膿し、歩けなくなりリタイアしました。長野県妻籠宿まではどうにか歩いてきましたが、美濃路には歩いては入れませんでした。
〇中山道の道中記は、「中山道69次 よろよろへとへと道中記」(⇨本編)としてまとめました。この「老爺心お節介情報」と一緒にファイルを添付してありますのでご笑覧下さい。
〇歩いてみて、いろいろ考えましたが、いくつか今後我々が地域福祉を推進するに当たって考えなければならないことを取り敢えず列挙しておきます。

2026年4月30日   大橋 謙策

Ⅰ
〇地域の成り立ちや地域属性は違う市町村が「平成の合併」で市長村域を拡大した結果、旧市町村の教育と地域福祉はどうなるかを、合併後20年経った今、改めて検討しないと「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」等といった用語の目新しさにごまかされて、本質を失いかねない状況が多々あることに気が付きました。
〇かつて、私は長野県茅野市の福祉行政アドバイザーをしている時に、当時の市長である矢崎市長に、画一的に広域化を進めるのではなく、広域化する部門とより分権化する部門とがあることを提言しました。
〇消防、建設土木、清掃環境は広域化する必要があるが、教育と社会福祉はより住民の身近な圏域に分権化させ、住民参加で運営しないとうまくいかないと提言をし、「福祉21ビーナスプラン」を作り、分権化した地域福祉システムを創りました。
〇茅野市の地域福祉システムは分権化でき、効果を発揮できたのですが、介護保険は長野県の強い指導があり、それに抗せず茅野市は諏訪・岡谷などとの広域組合立になりました。茅野市の「主権者」としての位置は事実上発揮できなくなりました。
〇中山道を歩いていて、すごく広域化した市町村の福祉サービス、介護サービス等の需要と供給がうまくいっているのか、合併後の周辺地域の生活のしづらさはどうなったのかを改め検証しないと地域福祉研究者としての責任が問われるとつくづく思いました。

Ⅱ
〇「2040年問題」は既にいろいろな形で我々の認識を超える形で実体化してきています。社会福祉法人の売買収の動きや多面的な要因によるサービス提供が困難になってきている社会福祉施設、社会福祉法人の譲渡、買収問題はこれからの地域福祉の大きな課題です。
〇そのような中、市レベルの社会福祉法人監査能力の問題や経営形態が異なる広域組合立、公設民営社会福祉法人、純粋な民間設立社会福祉法人等の連携・合併・吸収に関わる知識、ノウハウがない状況の中で、民間サイドの動きは活発になっています。しかしながら、それらの課題に関する論議は、地域福祉システム、地域福祉計画の視点からは全くと言っていいほど論議がされていません。
〇木曽圏域6町村では、「松本・塩尻・木曽広域組合」立の特別養護老人ホームの経営が難しくなり、かつ築後経年劣化もあり、閉鎖が検討されています。しかし、それは単なる「松本・塩尻・木曽広域組合」の問題ではありません。木曽6町村の住民の介護サービスの総量を今後どう確保していくかという問題でもあります。
〇しかしながら、木曽6町村の介護保険は「6町村の広域組合」立であり、町村毎の地域福祉システム、地域福祉計画との関係でどう考えるべきかの町村の「主権者」としての役割を十分発揮できない状況にあります。
〇木曽地域では福祉サービス提供の「主権者」が分散し、いわば「無責任体制」にもなりかねない状況の中で、何が「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」なのか研究者は回答を求められています。
〇「2040年問題」は深刻で、かつこのような状況の中で、日本地域福祉学会や地域福祉研究者はこれらの問題にどう対応しようとしているのでしょうか。

Ⅲ
〇かつて、私は社会福祉法の改正で、「地域の生活課題」の文言が組み込まれた際に、それは社会福祉法の趣旨からいえば、「地域生活課題」ではなく、「地域の社会生活課題」なのではないかと問題提起しました。
〇今、問題になっているのは、個々の住民の生活上のしづらさの問題だけではなく、地域生活における社会関係、人間関係が絶たれ、住民が「孤立」、「孤独」になり、社会生活が成り立たなくなっていて、その結果としての地域機能の保全維持が困難になってきていることの問題です。
〇結果としての「孤独」、「孤立」問題というより、社会的に「孤独」、「孤立」を作り出している構造を考え、それへの対応策を地域福祉の視点からシステムづくりをする必要性を強く感じてきました。

Ⅳ
〇中山道歩きの泊まった宿々で、多くの、長期に滞在している労働者と会いました。かつての「出稼ぎ労働者」という、プレハブの「飯場」で寝起きして働くというイメージは少なくなりましたが、例えビジネスホテルで寝泊まりしていても、長期出稼ぎの状況は変わっていないのだと思いました。
〇それらの多くの人は、契約社員であったり、派遣社員であったりと「不安定就業」に従事しているとみられます。
〇“現象的”に「貧困」が把握しづらくなっているのだと思いますが、我々が忘れてはならない原点です。
(2026年4月30日記)