「大橋謙策の福祉教育論」カテゴリーアーカイブ

老爺心お節介情報/第84号(2026年4月30日)

「老爺心お節介情報」第84号

〇新緑が目に眩しい季節になりました。皆様には、新たな気持ちで新年度を迎えられ、元気に業務に励まれていることと推察いたします。
〇私は、4回目の「四国通し歩きお遍路」を断念した変わりに、この4月5日から中山道約530キロの通し歩きを企てました。しかしながら、4月19日、足の裏のまめが化膿し、歩けなくなりリタイアしました。長野県妻籠宿まではどうにか歩いてきましたが、美濃路には歩いては入れませんでした。
〇中山道の道中記は、「中山道69次 よろよろへとへと道中記」(⇨本編)としてまとめました。この「老爺心お節介情報」と一緒にファイルを添付してありますのでご笑覧下さい。
〇歩いてみて、いろいろ考えましたが、いくつか今後我々が地域福祉を推進するに当たって考えなければならないことを取り敢えず列挙しておきます。

2026年4月30日   大橋 謙策


〇地域の成り立ちや地域属性は違う市町村が「平成の合併」で市長村域を拡大した結果、旧市町村の教育と地域福祉はどうなるかを、合併後20年経った今、改めて検討しないと「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」等といった用語の目新しさにごまかされて、本質を失いかねない状況が多々あることに気が付きました。
〇かつて、私は長野県茅野市の福祉行政アドバイザーをしている時に、当時の市長である矢崎市長に、画一的に広域化を進めるのではなく、広域化する部門とより分権化する部門とがあることを提言しました。
〇消防、建設土木、清掃環境は広域化する必要があるが、教育と社会福祉はより住民の身近な圏域に分権化させ、住民参加で運営しないとうまくいかないと提言をし、「福祉21ビーナスプラン」を作り、分権化した地域福祉システムを創りました。
〇茅野市の地域福祉システムは分権化でき、効果を発揮できたのですが、介護保険は長野県の強い指導があり、それに抗せず茅野市は諏訪・岡谷などとの広域組合立になりました。茅野市の「主権者」としての位置は事実上発揮できなくなりました。
〇中山道を歩いていて、すごく広域化した市町村の福祉サービス、介護サービス等の需要と供給がうまくいっているのか、合併後の周辺地域の生活のしづらさはどうなったのかを改め検証しないと地域福祉研究者としての責任が問われるとつくづく思いました。


〇「2040年問題」は既にいろいろな形で我々の認識を超える形で実体化してきています。社会福祉法人の売買収の動きや多面的な要因によるサービス提供が困難になってきている社会福祉施設、社会福祉法人の譲渡、買収問題はこれからの地域福祉の大きな課題です。
〇そのような中、市レベルの社会福祉法人監査能力の問題や経営形態が異なる広域組合立、公設民営社会福祉法人、純粋な民間設立社会福祉法人等の連携・合併・吸収に関わる知識、ノウハウがない状況の中で、民間サイドの動きは活発になっています。しかしながら、それらの課題に関する論議は、地域福祉システム、地域福祉計画の視点からは全くと言っていいほど論議がされていません。
〇木曽圏域6町村では、「松本・塩尻・木曽広域組合」立の特別養護老人ホームの経営が難しくなり、かつ築後経年劣化もあり、閉鎖が検討されています。しかし、それは単なる「松本・塩尻・木曽広域組合」の問題ではありません。木曽6町村の住民の介護サービスの総量を今後どう確保していくかという問題でもあります。
〇しかしながら、木曽6町村の介護保険は「6町村の広域組合」立であり、町村毎の地域福祉システム、地域福祉計画との関係でどう考えるべきかの町村の「主権者」としての役割を十分発揮できない状況にあります。
〇木曽地域では福祉サービス提供の「主権者」が分散し、いわば「無責任体制」にもなりかねない状況の中で、何が「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」なのか研究者は回答を求められています。
〇「2040年問題」は深刻で、かつこのような状況の中で、日本地域福祉学会や地域福祉研究者はこれらの問題にどう対応しようとしているのでしょうか。


〇かつて、私は社会福祉法の改正で、「地域の生活課題」の文言が組み込まれた際に、それは社会福祉法の趣旨からいえば、「地域生活課題」ではなく、「地域の社会生活課題」なのではないかと問題提起しました。
〇今、問題になっているのは、個々の住民の生活上のしづらさの問題だけではなく、地域生活における社会関係、人間関係が絶たれ、住民が「孤立」、「孤独」になり、社会生活が成り立たなくなっていて、その結果としての地域機能の保全維持が困難になってきていることの問題です。
〇結果としての「孤独」、「孤立」問題というより、社会的に「孤独」、「孤立」を作り出している構造を考え、それへの対応策を地域福祉の視点からシステムづくりをする必要性を強く感じてきました。


〇中山道歩きの泊まった宿々で、多くの、長期に滞在している労働者と会いました。かつての「出稼ぎ労働者」という、プレハブの「飯場」で寝起きして働くというイメージは少なくなりましたが、例えビジネスホテルで寝泊まりしていても、長期出稼ぎの状況は変わっていないのだと思いました。
〇それらの多くの人は、契約社員であったり、派遣社員であったりと「不安定就業」に従事しているとみられます。
〇“現象的”に「貧困」が把握しづらくなっているのだと思いますが、我々が忘れてはならない原点です。
(2026年4月30日記)

老爺心お節介情報/第83号(2026年3月28日)

「老爺心お節介情報」第83号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

天候が安定しない日々ですが、皆様にはお変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第83号を送ります。ご笑覧下さい。

2026年3月28日  大橋 謙策

〇いよいよ年度末。皆さんは、年度末の事業報告作成でお忙しいことでしょう。他方、人事異動の情報も寄せられてきて、長年頑張ってきた行政の職員、社会福祉協議会の職員で退職される人、新たな職場に異動される人、まさに「人生いろいろ」ですね。
〇長年勤務され、この3月末で退職される方本当にご苦労様でした。一人一人名前を挙げることはしませんが、日本の地域福祉推進、社会福祉協議会活動強化のためにご尽力されましたことに心より感謝とお礼を、この紙上を借りて申し上げます。本当にありがとうございました。
〇私の方は、そんな世界からは縁遠い生活を楽しんでいます。
〇我が家の庭には朱海棠、ミツバツツジ、スズラン水仙、レンギョウが咲いています。冬野菜を作った猫の額ほどの畑を掘り返し、石灰と肥料を撒き、夏野菜の準備をしました。小さな畑での作業ですが、歳を感ずる畑仕事でした。
〇今号では、「そのときの出逢いが」➆を送ります。筆者の1990年代後半の出逢いと実践・研究の素描です。
(2026年3月28日記)

「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➆

Ⅰ  1990年代後半―日本地域福祉研究所及び日本福祉教育・ボランティア学習学会創設

〇1990年代後半は、年齢的にも50歳代前半で、自分で言うのもおかしいが、今振り返ってみても、私の人生の中で最も充実した教育・研究ができていた時期である。
〇この時期は、➀日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催、②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催、③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設、④東京都及び文部省、厚生省の各種委員会での政策形成への関与、⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化、⑥地域福祉実践及び研究成果の出版化、⑦イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究、を挙げることができる。

①日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催

〇日本地域福祉研究所は、1994年の12月23日に設立された。
〇1989年に日本社会事業大学大学院修士課程が設置され、私も地域福祉の授業を担当することになった。当初は、研究指導の教員としては認められてなかったが、実質的には地域福祉の授業は講義とともにゼミの機能を有していた。その第2期生に渡邊洋一さん(後に淑徳大学、青森県立保健福祉大学教授)、上地武昭さん(後の沖縄大学教授)や青山登志夫さん(後に静岡英和大学、静岡福祉大学教授)が学びに来ていた。
〇彼らが終了する際に、現役の院生と大学院修了者の継続教育の組織として「はしの会」を立ち上げた。他方、全社協の「地域福祉活動指導員」の養成課程で知り合った現場の社会福祉協議会職員の継続教育の機会を作りたいということで、「日本地域福祉研究所」が設立された。設立に際しては、青山登志夫さんが尽力してくれた。事務所は、新宿区本塩町においた。それは、筆者が1970年の東京都教育庁の市民が作る社会教育講座の受講生で、後に板橋区区議会の議長を務める手嶋喜美子さんの紹介で、東洋堂企画出版の尾関とよ子社長と知り合い、そのビルに空き部屋があるということで、口利きしてくれて、事務所を構えることになった。事務所開設に当たっては、尾関社長になにかとお世話になった。
〇その後、後述するように、東洋堂企画出版社(後に社名変更での万葉舎)からは、日本地域福祉研究所関係の本を多数出版させて頂いた。
〇日本地域福祉研究所の設立の経緯は、2014年12月に刊行された『日本地域福祉研究所20年の軌跡』に詳しいので参照頂きたい。
〇日本地域福祉研究所の運営に当たっては、鷹野吉章さん、染野享子さん、阿部晴美さん、高橋信幸さんらの事務局長によって支えられ、かつ在学中の日本社会事業大学の院生、宮城孝先生のゼミ生である法政大学大学院の院生が、運営に協力してくれた。運営の責任を持つ理事には、日本社会事業大学の大学院を修了した教え子たちが担ってくれた。設立当初には、三浦文夫先生、右田紀久恵先生、後には永田幹夫先生、上野谷加代子先生、牧里毎治先生等地域福祉研究の第一人者の方々に顧問にご就任頂いた。
〇私の“思い”としては、全社協とは別に、地域福祉関係者の拠り所になればという“思い”もあり、日本地域福祉研究所として事務所とは別にワンフロアーを借りて、地域福祉関係者の「福祉サロン」づくりも試みた。残念ながら、この「福祉サロン」は必ずしも成功したとは言えなかった。
〇日本地域福祉研究所は、1995年に島根県瑞穂町で第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催した。
〇島根県瑞穂町は、1980年代から福祉教育に熱心に取り組んでいる社会福祉協議会で、その事務局長をされていた日高政恵さんから、1995年5月に瑞穂町で開催された「ふるさと山野草を食べる会」(?)の催しの際に招聘され、その折に第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催してもらえないかとお願いをした。瑞穂町には、大人数が泊まれる宿泊施設がないので、ゴルフ場のゲストハウスやスキー客用の民宿等に分散宿泊してセミナーが行われた。参加者は約100名で、フィールドにも入って行われた。瑞穂町には天然記念物の「オオサンショウウオ」が生息していて、それを始めて見させていただいた。
〇「地域福祉実践研究セミナー」は、筆者が「関係人口」の一人として、あるいは「バッテリー型」実践・研究のフィールドとして関わってきた市町村、市町村社会福祉協議会を舞台に全国各地で開催されてきた。2023年に佐賀県で行われた第28回「地域福祉実践研究セミナー」をもって終了した。
〇この「地域福祉実践研究セミナー」は日本地域福祉学会の理念でもある「研究と実践の循環」を文字通り実現できたセミナーだったと自負している。

②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催
〇日本社会事業大学の社会福祉学部、大学院に1980年代末から韓国からの留学生が多く学びに来ていた。しかしながら、私はどうしても韓国を訪問することができなかった。戦前の日本が韓国を併合し、住民の『創氏改正』を強要するという人権蹂躙の行為への贖罪感があり、訪問をすることができなかった。1995年に当時の村山富一郎首相が“謝罪談話”を発出してくれたことで韓国を訪問したいと考えた。
〇韓国からの留学生、とりわけ金玄勲さん、崔太子さん、趙晤衍さん等の多大な尽力により、第1回の韓国地域福祉研究セミナー(日韓社会福祉学術交流会)を1997年にソウル市で開催できた。その際に、韓国でいち早く日本の地域福祉に関心を寄せてくれた大邱大学の朴先生や当時、ソウルの在宅老人福祉サービス協会の会長をしていた超南畝さん等が協力、支援してくれた。
〇韓国地域福祉研究セミナーは、その後釜山市で、釜山大学の愼燮重先生の協力を得ておこなわれた。光州市では光州大学の李英哲先生の協力があった。結果的に、韓国で5回の地域福祉研究セミナーを開催できた。第5回目のソウル市でのセミナーには当時、ソウル市の市長だった李明博市長(後の韓国大統領)が出席してくれ、挨拶を頂戴できた。
〇韓国との学術交流は、韓国が日本の介護保険制度と同じような長期療養保険制度を創設するということで、韓国の保健福祉部(日本の厚生労働省)の高官たちが日本社会事業大学を拠点して学びに来ることでより深まった。韓国保健福祉部の高官で後に部長(日本の厚生労働大臣)をされた車奉文先生や保健福祉部の局長をされた朴寿天先生や張炳元先生等が日本社会事業大学のゲストハウスを利用しながら、日本の介護保険の状況を厚生省の高官との交流だけでなく、岩手県遠野市や長野県茅野市等まで足を延ばし、調査研究をされた。
〇このような縁で、筆者は韓国の社会福祉系大学の研究者との交流が深まり、結果として梨花女子大学、ソウル大学、延世大学、釜山大学などで講演する機会が与えられた。
〇少し時期は後になるが、筆者が日本社会福祉学会の会長の時の2002年に、梨花女子大学教授で韓国社会福祉学会会長の金聖二先生と日韓学術交流協定を結ぶことができた。
〇その金聖二先生が韓国社会福祉協議会の会長をされていた2025年8月に金聖二先生から「感謝碑」を贈呈された(感謝碑の銘文は「大橋謙策様におかれましては、長きにわたり高貴な人類愛と福祉の心をもって国際社会福祉の発展に多大なる貢献をされました。特に、1997年より韓国における地域福祉の持続的な発展と日韓間の民間社会福祉交流のために物質的な面と精神的な面にわたりご尽力を、受け賜りました。これまでのご苦労に感謝申し上げ、そのご功績を記憶にとどめるべく私たちの感謝の気持ちをこの盾に込めて贈呈いたします」)。
〇韓国との交流は、日本社会福祉学会のみならず、日本地域福祉学会も学術交流協定を結び、毎年お互いの学会の大会に招聘しあって交流を進めている。
〇韓国との学術交流の礎を切り開いた一人が、釜山大学の愼燮重先生で、釜山大学の在外研究で日本社会事業大学の客員研究員をし、1990年代度々日本に来られ、釜山大学退職後は広島国際大学など日本の大学でも教鞭をとられた。愼燮重先生の釜山大学の教え子たちも何人か日本社会事業大学大学院に留学し、日韓の学術交流を強めてくれた。

③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設

〇日本福祉教育・ボランティア学習学会は、1995年10月29日に設立された。その設立の詳細は、原田正樹著「日本福祉教育・ボランティア学会の20年の軌跡と基軸」(『福祉教育・ボランティア学習の新機軸』大学図書出版、2014年)や阪野貢先生のブログ等に収録されている阪野貢論文に詳しいので参照して頂きたい。
〇筆者が、この学会を設立したいと思った背景は4点ある。
〇第1は、イギリスのぺドレイが書いて、日本福祉大学の山口幸男先生(東大教育学部の宮原研究室の先輩で、家庭裁判所調査官の経歴)が翻訳された『socio-education』を1970年代から原著も、翻訳版も含めて読んできて、温めてきた「教育と社会福祉」の学際研究のあり方がある。
〇第2には、全社協が福祉教育の推進を全国の市町村社会福祉協議会で推進してくれていて、その実践の理論化、体系化を図りたいと考えたことである。とりわけ、福祉教育の原理、哲学について体系化が必要だと思った。
〇第3には、イギリスのアリック・ディクソン先生(先生には、日本社会事業大学で講演もして頂いたし、イギリスのご自宅にも訪問させて頂いた。国連では「ボランティアの父」と呼称している)が1962年からコミュニティ・サービス・ボランティア活動を進めており、日本でも日本青年奉仕協会がアリック・ディクソンさんと交流していた。
〇これらの活動の背景には、イギリスで1963年に出された中央教育審議会報告書「Half Our Future」がある。その報告書は、イギリスの青少年の半数は発達に歪みがあり、これを改善するのには多様な社会体験としてのコミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要であるという提言である。筆者は、この「Half Our Future」を東大大学院の宮原先生のゼミで読まされていた。
〇日本でも、コミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要で、全社協の福祉教育の範疇だけでは括れないと考えて「日本福祉教育・ボランティア学習学会」となった。
〇第4には、高校福祉科が設立され、高校生向けの専門職養成の取組が始まったが、筆者は高校福祉科にはそれだけでなく、人格形成上の役割もあるし、“リベラルアーツ”的普通高校崇拝の高校教育にあって、実学的産業教育の必要性とそれを踏まえた青年期の人格形成のことを広く研究、実践してもらいたいと考えたからである(この点は、拙著「高校における福祉教育の位置と高校福祉科」、『福祉科指導法入門』2002年、中央法規所収参照)。
〇日本福祉教育・ボランティア学習学会の運営のあり方については、学会員による3年間の共同研究システムとして「課題別研究」という仕組みをつくった。
〇これは、日本社会教育学会が学会創設時から行っていた仕組みで、学会理事会で論議しテーマを決め、担当理事が責任者として研究チームを作り、毎年学会の大会で研究成果を発表し、その集大成を本として刊行するという仕組みである。この考え方を日本福祉教育・ボランティア学習学会にも導入し、若手の会員も、地方在住の会員も参加しやすい研究環境を創ろうと考えた。私自身、日本社会教育学会でおこなわれたこの仕組みを活用して多くの論文を書けたし、本の編集実務などを学ぶことができた。
〇1999年10月に筆者は日本社会福祉学会の会長に選出された。社会福祉学界の学会数がいまだ少なかった時代だったので、全社協の和田敏明さんに相談したら、日本福祉教育・ボランティア学習学会の会長は辞任して副会長で学会を支えたらどうかと言われ、1999年11月の理事会選挙でトップ当選したが会長は辞退し、明治学院大学の山崎美貴子先生に会長に就任して頂いた。

④東京都及び文部省、厚生省の各種委員の任命と政策形成への関与

(イ)東京都
〇1980年代から東京都児童福祉審議会委員、専門部会長(1981年~1994年)や東京都社会福祉審議会委員(1990年~2006年)を務めてきていたが、1990年代後半は、より多面的に東京都の各種審議会、委員会に任命され、政策形成に関与することになった。
〇その一つ一つの委員会の詳細を述べられないが、3つほどエピソードを書いておきたい。
〇第1には、「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」において、障害者向け、高齢者向けの集合住宅を造るならば、期間限定でいいので、少なくとも5年間、新しく造る集合住宅に、コミュニティソーシャルワーカーを配置して欲しいと当時の青島知事に要望した。
〇新しい集合住宅に「コミュニティ」を形成しない限り、障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動を展開するのは難しい。外からボランティアを派遣するのではなく、集合住宅の「コミュニティ」としての自治会の組織化と障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動の組織化をコミュニティソーシャルワーカーが担えるのではないかと考えての提案であった。これは、オランダへ調査研究に行った際に頂いたヒントであった。
〇第2には、「東京都障害者施策推進協議会専門委員」の際の経験である。都内で広く当事者団体活動を展開している9の障害者団体からのヒヤリングをした時である。夕方から始まった推進協議会は何と夜11時近くまでかかった。各団体ともノーマライゼーションの具現化を強く求めた発言をしていながら、障害者センターは各障害者団体ごとに、かつ区内と三多摩に一つづつ欲しいという要望であった。
〇私がノーマライゼーションと言っているのだから、区内と三多摩にひとつづつ作り、相互交流のセンターにしたらどうかと発言したら、明治学院大学を卒業した青い芝の会(脳性マヒの障害当事者の会)会員の人が、“大橋謙策さんが育てるソーシャルワーカーに自分の世話はしてもらいたくないと”怒って発言したのが忘れられない。
〇第3には、「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」の時に、モデル的に望ましいケアプランを作成する事業を都内のいくつかの自治体にお願いすることになった。委員長として、そのプランは3つ作って欲しいと要望し、委員会で受け入れられた。
〇(ⅰ)予想される介護保険制度のサービスを使っての望ましいケアプラン、(ⅱ)その自治体が既に有しているサービス及び新しくできる介護保険サービスを最大限生かしたケアプラン、(ⅲ)今後あったらいいなと思えるサービスも含めて、住民の生活支援上望ましいケアプランの3通りのケアプランを作るモデル事業をして頂いた。
〇というのも、介護保険制度で予定されているサービスの中から、かつ要支援者の介護度の利用額の範囲内でのケアプランは本来のケアマネジメントではないと認識して欲しかったからである。案の定、(ⅰ)のプランが他に比べて“貧弱なプラン”になっていた。
〇筆者は、デンマーク、スウエーデンでケアマネジメントの考え方、それが展開できるシステムを学んでいたので、日本の介護保険制度での介護支援専門員のケアプランは「介護保険のサービスマネジメント」であり、「介護保険内でのコストマネジメント」であって、それは本来のケアマネジメントとは違うということを認識して欲しかったからである。この委員会に、東京都医師会の代表として野中猛先生(後に、日本福祉大学教授)も参加していて、ケアマネジメントの考え方で意気投合したのが懐かしい。
〇東京都関係で関わった各種委員会は、以下の通りである。
・「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」(1995年~97年)
・「東京都地域福祉財団評議員」(1995年~2002年)
・「東京都障害者施策推進協議会専門委員」(1995年~2002年)
・「都から区市町村への分権化のあり方検討委員会委員」(1996年~1997      年)
・「東京都生涯学習審議会委員、会長」(1996年~2009年)
・「東京都高齢者事業振興財団理事」(1997年~2001年)
・「東京都都民のための都政改革を考える会委員」(1997年~1998年)
・「東京都福祉施策研究会委員長」(1997年~1998年)
・「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」(1998年~2000年)
・「東京都社会教育委員の会議会長」(2002年~2006年)

(ロ)文部省
〇文部省関係は、3つの分野からの関わりである。その第一は、1980年代末の「高校福祉科」創設の時からの関り、それとの関係で学習指導要領の改訂作業や教育助成局での教育職員資格試験の委員も担当した。
〇もう一つは、日本社会事業学校連盟の業務との関係で、大学設置・学校法人審議会専門委員を務めたことである。
〇エピソードとしては、高校福祉科は産業教育の領域に位置づけられているので、日本の産業教育100周年の際に、時の有馬朗人文部大臣(元東大総長、理化学研究所理事長)と対談したことである。人間の形成・発達には普通教育高校に見られる「演繹型の生徒」と職業高校の生徒のように体験して学ぶという「帰納型の生徒」がおり、どちらが一方的にいいということではないということで意気投合したことが思い出にある。
〇もう一つは、1989年に厚生省から出された「高齢者保健福祉10か年計画」(ゴールドプラン)に基づき、介護人材の養成が社会的に喫緊の課題になった。それを受けて、社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。文部省は、大学の新設を規制していたのが、社会福祉は看護とともに例外扱いになった。
〇筆者が、日本社会事業学校連盟の事務局をしていた1980年代末は36校だったのが、あれよあれよと社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。当時の雨宮高等教育局長に、このように認めていいのだろうかと苦言を呈したことがある。社会福祉教育は実習を伴う実学的なところがあり、マスプロ教育には馴染まない。社会福祉士と介護福祉士の国家試験に受かればいいというものではなく、例外扱いを見直すべきだと申し入れしたことがある。
〇筆者は、大学設置・学校法人審議会専門委員として、教員審査やカリキュラム審査などで多くの社会福祉系大学の審査で関わることになった。
〇3つ目の関わりは、21世紀医学・医療懇談会で、当時の医学界の第一人者が綺羅星の如く並んでいる懇談会で、臓器別に専門分化してきた診療科目では限界で、総合診療内科を創る必要性や、介護、福祉との連携が欠かせなくなってきているInter Professional Educationの必要性が論議され、報告書の中に介護・福祉教育の連携の必要性が書き込まれた(「21世紀に向けた介護関係人材育成の在り方について」1997年2月、21世紀医学・医療懇談会第2次報告参照)。
〇文部省関係の各種委員は以下の通りである。
・「文部省大学設置・学校法人審議会専門委員」(1994年~1999年)
・「文部省21世紀医学・医療懇談会教育部会協力者」(1996年~1997年)
・「文部省幼稚園・小学校・中学校・高等学校・盲学校・聾学校及び養護学校の学習指導要領等の改善に関する調査研究協力者」(1998年~1999年)
・「文部省教育助成局高等学校教員資格認定試験委員・専門委員」(2000年~2003年)
・「文部省教育職員養成審議会臨時委員」(2000年~2001年)
〇この他、文部省が発刊している雑誌「産業教育」(1988年、No453)や「大学と学生」(1997年、第387号)に寄稿を求められ執筆もしている。

(ハ)厚生省
〇厚生省との関りは、日本社会事業大学の清瀬移転の業務を担当したので、その折に本当にいろいろな方にお世話になった。
〇また、前述したように1990年の「生活支援事業研究会」の座長も務めさせていただいた。
〇それ以外での厚生省との関りは、2000年以降も含めて以下の通りである。その関わりは主に3つある。
〇第1には、厚生省医政局関係の仕事である。この関わりは、筆者が1990年に東京都目黒区の老人保健福祉計画を拡大して、地域福祉計画として策定する際に社会福祉と地域保健との有機化、統合化を行ったことが反映されているのではないかと推測している。
〇第2には、2001年に導入されたICF(国際生活機能分類)の関りである。
〇第3には、今日の「地域共生社会政策」の前史ともいえる2008年の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」(座長大橋謙策)で、「地域における新たな「支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新たな福祉」を出したことである。
・「厚生省地域保健基本問題検討会委員」(1994年)
・「厚生省公衆衛生審議会専門委員」(1994年~1996年)
・「厚生省保健医療福祉地域総合調査研究企画委員」(1994年~1997年)
・「厚生省必要病床等に関する検討会委員」(1997年~1998年)
・「厚生省大臣官房障害保健福祉部福祉用具給付制度等検討会委員」(1998年~1999年)
・「厚生労働省社会・援護局国際障害者分類の仮訳作成のための検討委員会」(2001年~2002年)
・「厚生労働省厚生科学研究費選考委員」(2003年~2005年)
・「厚生労働省社会保障審議会統計分科会生活機能分類専門委員会委員」(2006年)
・「厚生労働省これからの地域福祉のあり方に関する研究会座長」(2007年~2008年)
・「国立保健医療科学院評価委員会委員長代理」(2013年~2017年)
〇エピソードとしては、ICF(国際生活機能分類)の仮訳作業する部会で、ICFの日本語訳を「国際生活機能障害分類」とすべきだと、作業部会長として提案した。その際、オブザーバーで参加していた東京大学名誉教授で、リハビテーション医学の見地からWHOと関わり、ICFの必要性を厚生労働省はじめ関係機関に働き掛けてきた上田敏先生が、その用語がいいと言ってくれた。
〇しかしながら、その用語を日本医師会代表が頑として受け入れず、結果として「国際生活機能分類」に落ち着いた。今でも、筆者は、生活上の機能障害の方が今日的状況を反映していると思っている。
〇もう一つは、「必要病床等に関する検討会」において、医療・保健・福祉の連携、協働、有機化をする包括支援を考えるならば、医療計画の中に社会福祉のことをもっと盛り込むことが必要だし、医療圏と社会福祉サービス圏とが大きく乖離している状況を改善しないと、言葉だけ医療、介護、保健、福祉の連携といってもうまくいかないと強く要望したが、受け入れられず、医療計画のその他の事項にそれらを盛り込むことで決着させられた。

⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化

〇1982年にイギリスで出された「バークレイ報告」でコミュニティソーシャルワークという考え方が打ち出された。それは、行政と住民の協働による地域自立生活支援を考える理念であり、システムであった。
〇「バークレイ報告」については前述しているので、ここではコミュニティソーシャルワークの理念の日本への導入について述べておきたい。
〇日本の公式文書でコミュニティソーシャルワークという用語が正式に使用されたのは、1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告ではないかと思う。
〇それまで、地域づくりに関する方法論として、アメリカのコミュニティオーガニゼーション、イギリスのコミュニティワークという用語を使用していたが、生活のしづらさを抱えている人の地域での自立生活を支援していくためには、従来のコミュニティオーガニゼーションやコミュニティワークでは不十分である。
〇生活のしづらさを抱えている人への個別支援と同時に、その人を地域から排除することなく、その人の地域生活を支え、包含できる地域づくりとを統合的に展開する活動が必要であり、その方法論がコミュニティソーシャルワークである。
〇1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告でその必要性が打ち出され、1991年から大型補助金の「ふれあいのまちづくり事業」が展開されたが、その活動成果は「生活支援事業研究会」の中間報告で述べたような考え方が展開できたとは筆者には思えなかった。そのことについては先述した通りである。
〇コミュニティソーシャルワーク機能の理念はいいが、その具現化は日本でも無理なのであろうかと考えている矢先に、岩手県湯田町(現西和賀町)の社会福祉協議会でヘルパーとして働いている菊地多美子さんの実践を知ることができた。
〇筆者は、1970年代から、「自分たちで生命を守った村」の実践で有名な岩手県沢内村に出入りし、太田祖電村長や深沢昌子事務局長、高橋典成さんらと交流してきた。1990年には、沢内村の地域福祉活動計画づくりを行い、「コーリム(CO―LYM)大学」を創設し、住民参画の村づくりを目指した。子どもと高齢者を女性、青年、壮年男子が支える村づくりを目指した。
〇この作業の過程で、高橋典成さんが新幹線の北上駅まで迎えに来れないとき、菊池多美子さんが高橋典成さんに頼まれて自動車で迎えに来てくれた。この送迎の車中、菊池多美子さんのホームヘルパー実践を聞いて、実質的にコミュニティソーシャルワーク機能を発揮しているし、具現化していることを知る。それは、まさに菊地多美子さんの本『ウンダナ―ヘルパー奮戦記・福祉の鐘を鳴らすまち』に詳しく記述されている。コミュニティソーシャルワーク機能のアウトリーチ型ニーズ把握、制度がなければ新しいサービスを開発する、役場、民生・児童委員、自治会、老人クラブ、保健師を巻き込んでの多機関協働のカンファレンス等展開していた。
〇この実践を聞いて、かつその実践に何回か参加させて頂いて、日本でもコミュニティソーシャルワークを展開できる可能性があると考えるようになった。
〇ただ、菊池多美子さんの実践は多分に“個人的職人芸”として展開されており、湯田町社会福祉協議会がコミュニティソーシャルワークを組織として展開する状況ではなかった。
〇この点から、職員個々人はコミュニティソーシャルワーク機能を十分理解し、それを展開できる力量を身につけなければならないが、その実践を社会福祉協議会等の組織がバックアップできる、コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムを同時に作らなければならないと思った。この点は、デンマークやスウエーデンの個別支援のマネジメントとそのケアマネジメントを財源的にも、組織的にもバックアップするシステムの重要性から学んだことである。
〇「ふれあいのまちづくり事業」の展開が、私の目にははかばかしくないと思え、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化は難しいかとやや意気消沈している中で、菊地多美子さんの実践を見聞きし、再度コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を図ろうと気を取り直した。
〇そんな折、長野県茅野市矢崎市長から福祉アドバイザーに任命された。諏訪中央病院の院長をしていた鎌田實先生と茅野市医師会の会長をしていた土橋善蔵先生が私の考え方を全面的に支援してくれた。特に、鎌田實先生は、佐久病院の若月俊一先生から地域医療を学び、集英社から『がんばらない』という地域医療の実践の本を出していて、地域医療の第一人者であるが、その鎌田先生から、地域医療は限界がある、地域での自立生活を支援するためには地域福祉が重要だ。全面的に支援するから地域福祉のシステムをしっかりと創って欲しいと励まされた。
〇そのようなこともあり、茅野市では地域福祉計画『福祉21ビーナスプラン』の策定で、2000年から市内を4つの在宅福祉サービス地区に分け、その各々に保健福祉サービスセンターと診療所を併設設置した。保健福祉サービスセンターには、市役所にいた福祉事務所の職員と保健師を4つのセンターに配属し、かつ社会福祉協議会の職員も配属した。保健福祉センターは、住民にとって「福祉アクセシビリティ」の良い、総合相談窓口になると同時に、社会福祉協議会職員を中心にしたアウトリーチ型ニーズキャッチが展開され、コミュニティソーシャルワーク機能を発揮できるようになった。この茅野市の保健福祉サービスセンターシステムと実践が2006年に介護保険制度で導入された地域包括支援センターのモデルである。
〇この間、筆者は、日本社会事業大学社会福祉学部地域福祉計画学科の教員(大橋謙策、手島陸久、辻浩、千葉和夫)と大学院の院生及び修了者(田中英樹、宮城孝、野川とも江、小野敏明、原田正樹、國光登志子、鷹野吉章)を組織し、実践現場としては富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん、岩手県湯田町社会福祉協議会の菊池多美子さん、東京都狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん、山形県鶴岡市社会福祉協議会の佐藤豊継さん、島根県瑞穂町の日高政恵さん等にも参加して頂き、「コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス」を研究実践テーマとして、厚生省老人保健健康増進等事業の研究助成を活用して実践的研究を行ってきた。「自己実現サービス」を入れたのは、社会福祉現場雄の社会福祉観の貧困、生活観の貧困を払しょくし、憲法第13条の理念を社会福祉分野でも確立したいと考えて入れた。
〇その研究助成事業の成果は、2000年8月に『コミュニティソーシャルワークと自己実現サ―ビス』(編著、万葉舎、2000年8月)として万葉舎から上梓された。
〇この実践的研究が筆者に日本でも十分コミュニティソーシャルワークを展開できると自信が持てるようになった。筆者のコミュニティソーシャルワークの日本的定義はこの研究活動の中でほぼ完成した。

➅地域福祉実践及び研究の成果の出版化

〇1990年代後半は、研究成果を発表する論文、編著、単著等の刊行が相次いだ。それは大きく分けて6つに分類できる。
〇第1には、1987年に創設した日本地域福祉学会における共同研究をまとめる編集を担ったことである。
〇安田火災保険福祉財団から研究助成を頂き、学会の北海道支部、関東支部、関西支部で「地方地域福祉史研究」の共同研究ができた。その成果が『地域福祉史研究序説』(編著、1993年、中央法規)である。本を出版するだけでなく、研究セミナーも開催することができた。当時、社会福祉学界ではあまり共同研究のスタイルが確立しておらず、それができたことは嬉しかった。この研究が継続できていれば、各都道府県ごとの地域福祉史研究が進むと考えていたが、財源的にそれは無理であった。
〇また、右田紀久恵先生と一緒に編集業務に携わった『地域福祉事典』(編著、中央法規、1997年9月)の編集も思い出で深いものがある。この事典で、地域福祉に関わる実践的、研究的課題について整理することができ、社会福祉分野において地域福祉というものの実践、研究を確立できたと思った。右田紀久恵先生は、当時大阪府立大学を定年になり、東京国際大学に転職されており、東武東上線の北朝霞駅で待ち合わせして編集したのも懐かしい。
〇第2には、放送大学のテキストを執筆したことである。『地域福祉論』(単著、放送大学教育振興会、1995年)と新訂版の『地域福祉』(単著、放送大学教育振興会、1999年)を単独で執筆した。この当時はラジオで録音したものを流していた。後の2008年には仲村優一先生の後を継いで「新訂社会福祉論」を出し、2012年には『改訂新版社会福祉入門』を執筆した。いずれも筆者単独で執筆した。「社会福祉入門」はテレビで放映された。
〇第3には、私が関わって作成した市町村の地域福祉計画、あるいは生涯学習計画についての成果を上梓した。地域福祉計画だけでは“画に描いた餅”になりかねないので、計画に基づく実践がきちんと展開されていることを踏まえて本として上梓した。
〇狛江市の『地域福祉計画策定の視点と実践』(編著、1996年、第一法規出版)、長崎県鹿町の地域福祉計画を長崎国際大学の高橋信幸先生や長崎県社会福祉協議会の事務局の山本力さんなどと協働して取り組んだ成果の『総合支援型社協への挑戦』(編著、2000年12月、中央法規)、岩手県遠野市の『21世紀型トータルケアシステムの構築―遠野ハートフルプランの展開』(編著、2002年9月、万葉舎)、茅野市の『福祉21ビーナスプランの挑戦』(編著、中央法規、2003年)、山口県宇部市の生涯学習計画『いきがい発見のまち』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、富山市山室中部小学校での3年間に亘る福祉教育実践のまとめとしての『福祉の心が輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達』(編著、1999年、東洋堂企画出版)等である。
〇第4には、日本地域福祉研究所の所員、研究員に執筆の機会を提供したいと考えて共同研究を進め、その成果を上梓した。
〇『地域福祉実践の課題と展開』(編著、東洋堂企画出版、1997年)、『社会福祉基礎構造改革と地域福祉の実践』(編著、東洋堂企画出版、1998年)、『介護保険と地域福祉実践』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、『地域福祉計画と地域福祉実践』(編著、2001年、万葉舎)等が該当する。
〇第5には、前号で述べた『高校生が学ぶ社会福祉シリーズ第一巻 社会福祉基礎』(単著、1996年8月)である。
〇第6には、日本社会事業大学の田辺敦子先生と共著で、『保母・社会福祉主事になるには』を1976年に出して以降、『社会福祉士・保母』、『社会福祉士・介護福祉士になるには』を経て、1990年代後半では社会福祉士を独立させることになり、ぺりかん社の「なるにはシリーズ」の一巻として『社会福祉士になるには』(単著、ぺりかん社、1999年)を書いた。このぺりかん社の本はよく売れた。
〇第7には、日本社会事業学校連盟の『戦後社会福祉教育の50年』(共著、ミネルヴァ書房、1998年)である。実質的には東洋大学の大友信勝先生が中心になり、編集された。当時の日本社会事業学校連盟の会長は東洋大学の一番ケ瀬康子先生であった。
〇この本の論文では、戦前の社会事業主事制度から戦後の社会福祉主事制度、大学の教育課程の認証制度、日本社会事業学校連盟の専門職員養成ガイドライン等について書いた。

➆イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究

〇筆者は、1980年代末に、日本には冠婚葬祭に代表される限られた関係での相互扶助制度はあるが、見ず知らずの社会的に困窮している人への「博愛」はなく、それに伴う「寄付の文化」が育っていないと指摘してきた。
〇筆者は、1990年に雨宮時枝論文を読み、日本の社会福祉研究の狭隘さを痛感させられたことは前号でも述べた。
〇筆者は、1994年に中央共同募金会が設置した「21世紀を迎える共同募金のあり方検討委員会」の委員長に任命され、1996年に「新しい『寄付の文化』の創造をめざして」と題する報告書を出した。
〇この報告書では、共同募金の配分の仕方を社会福祉施設や生活保護世帯へ配分するのではなく、在宅福祉サービスの充実強化と地域福祉推進への配分を増やし、共同募金をコミュニティ・ファンドに替えるべきことを提言する。と同時に、日本、アメリカ、イギリスの3か国の寄付のあり方について調査研究すべきだと提案した。
〇中央共同募金会は、財団法人車両競技公益資金記念財団の研究助成を受託し、1996年に調査研究(委員長大橋謙策)を行い、1997年3月に『日米英民間財源比較調査研究報告書』を出す。この調査研究は、2003年にも継続して第2次調査研究が行われた。
〇筆者は、この活動を通して、日本の社会福祉界に「寄付の文化」という用語とその重要性を提起できたと思っている。
〇筆者、かねがね、日本はアメリカのUnited Wayに学ぶより、イギリスのCharities Aid Foundationに学ぶべきではないかと言ってきた。日本の共同募金はアメリカ占領下の影響もあって、アメリカのUnited Wayをモデルにしてきたが、この調査研究を通して、今後はイギリスのチャリティの考え方、歴史に学ぶべきだとその感がより強まった。イギリスの1601年制定の「慈善信託法」、それに関わる1960年新法制定、1989年大改正のチャリティの歴史に学ぶべきだと考えた。
〇この調査研究には、読売新聞論説委員の小谷直道さんやアメリカ三菱電機の社長をし、病院ボランティア活動をしていた渡辺一雄(後に川崎医療大学教授)さん、安田火災記念財団専務の堀内生太郎さん、上智大学助教授の栃本一三郎さん、中央共同募金会の清水義久さん、阿部陽一郎さんたちとともに、日本社会事業大学大学院の修了者、在学生の宮城孝さん、長谷川真司(後に山口県立大学教授)さん、当時は慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科院生の永田祐さんなどにも参加してもらった。宮城孝さんは、このイギリス調査からの知見を活かして博士論文『イギリス民間ボランタリ―セクター』を書き、本として上梓している。
(2026年3月27日記)

老爺心お節介情報/第82号(2026年3月13日)

「老爺心お節介情報」第82号

〇春めいてきたかと思うと“寒の戻り”があったりして安定しない天候ですが、皆様にはお変わりありませんでしょうか。
〇私は、3月4日~6日まで佐賀県へ出張しました。佐賀県社会福祉協議会が推進しようと取り組んできた「ALLさがふくしネットワーク事業」のキックオフセミナーでした。和田敏明先生と一緒で、久しぶりにいろいろな話が出来ました。また、翌日(3月5日)には、佐賀県社会福祉協議会の社会福祉研修センターの2026年度研修計画を審議する委員会に出席しました。
〇思い起こせば、佐賀県社会福祉協議会から“社会福祉協議会は生き残れるか”というテーマの講演依頼を頂いてから、9年間佐賀県社会福祉協議会及び県内社協への支援に関わってきました。
〇第1は、佐賀県からの委託もあって、県内社協職員の力量を高める「パワーアップゼミ」を行ってきました。内容的には、富山県社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会、秋田県社会福祉協議会、岩手県社会福祉協議会等で行っているコミュニティソーシャルワーク研修と同じです。
〇第2には、大阪府社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会が10年前(大阪府は老人福祉施設協議会のレスキュー-事業からは20年)から取り組んでいる社会福祉施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会とが連携する協議会を立ち上げ、制度の谷間に陥りがちな問題の解決を協働で取り組んできた事業に学び、佐賀県社会福祉協議会としても同様の「ALLさがふくしネットワーク事業」を立ち上げることに取り組んできました。佐賀県のこの組織には民生・児童委員協議会も参画しています。
〇第3には、1990年頃まで、都道府県社会福祉協議会は社会福祉従事者の研修センターなどを運営してきました(筆者は1989年(平成元年)の『月刊福祉』6月号、7月号、8月号で「社会福祉研修の方向性」について論文を書いている)が、社会福祉行政の分権化が進み、かつ福祉サービス利用者との契約による介護保険サービス、障害者サービス提供体制の下で、都道府県社会福祉協議会の社会福祉職員研修機能が弱体化している状況があります。そのような中、佐賀県社会福祉協議会でも社会福祉従事者の研修を強化することが必要だと、その強化に取り組んできました。
〇今後、高齢化がますます進み、人口減少も進む中で、労働力は減少していきます。そのような中、介護現場にリフトやロボット、あるいはICT等の福祉機器を導入して、介護の科学化、介護の魅力アップ、介護者の腰痛予防、とりわけ、サービス利用者支援の質の向上を図るためにも、福祉機器の導入が必要であり、そのための研修が欠かせません。
〇第4には、県内市町社協の体質改善、経営力強化を進めるための「常務理事、事務局長セミナー」を泊りがけで行ってきました
〇筆者は、このようなことを念頭に、佐賀県社会福祉協議会に関わる「関係人口」の一人として9年間関わってきました。3月4日~5日にかけて、密度の濃い会議、セミナーが展開され、漸くここまで来たかという安ど感と充実感に浸りました。
〇そのような経緯の一端は、佐賀県社会福祉協議会地域福祉部まちづくり課の小松美佳課長が、その活動の一端を雑誌『コミュニティソーシャルワーク』33巻で書いていますのでご参照ください。
〇筆者は、このような「関係人口」の一人として長期に亘り、その活動を支援してきた県社会福祉協議会として香川県社会福祉協議会がある。現在、日下直和事務局長が事務局次長に就任する際、相談を受け、それ以来15年間香川県に通っています。
〇佐賀県と同じように、「ニーズ対応型社会福祉協議会」への取組、社会福祉協議会職員の実践研究発表会、常務・事務局長セミナー、コミュニティソーシャルワーク研修、社会福祉施設経営の社会福祉法人、民生・児童委員協議会との協働事業として「香川思いやりネットワーク」の設立などを行ってきました。
〇社会福祉系大学で教育・研究をしている教員は、このような「関係人口」としての関わりを構築し、提案型のコンサルテーションを行う必要があるのではないだろうでしょうか。
(2026年3月13日記)

「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➅

Ⅰ 1990年代前半―大学院開設・イギリス在外研究・高校福祉科の創設

〇1990年代前半は、筆者にとって充実した教育・研究活動を展開出来た時期であった。
〇1990年に筆者の母親と妻の母親が相次いで亡くなるという悲しい出来事があったが、教育・研究者としては悲願だった大学院を設置でき、大学院で院生を研究指導できる喜びは非常に大きなものであった。
〇“大橋の研究は社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていたのが、この時期には、日本社会福祉学会の公選理事に選出され、筆者の研究、実践が一定の評価を得られたと自信が持てるようになった時期であった。

➀日本社会事業大学の清瀬開学と大学院開設

〇日本社会事業大学は、清瀬住民の緑を守れという住民の反対運動(その後は、日本社会事業大学は落ち葉の管理をしろという苦情が寄せられる)にも合いながら、1989年4月に移転開学が実現した。
〇と同時に、大学の悲願であった大学院を修士課程の設置が認められ、開設された。
〇しかしながら、筆者は修士課程の教授としては認められたが、〇合教授としては認められなかった。したがって、大学院の講義はできるが、研究指導教員として学位を授与することができない。
〇その理由が、後日聞かされ愕然とした。その理由が、“大橋謙策の研究は社会福祉プロパーの研究でない“ということであった。地域福祉、福祉教育でそれなりの単著、編著書があるにも関わらず、その領域が社会福祉プロパーの研究でないと言われて本当に驚くとともに、社会福祉研究のあり方が変わらなければならないと思った。その審査委員は、関西の著名な社会福祉方法論の先生であった。
〇修士課程の設置後、4年を経過して、1992年に博士課程の設置を申請したが、その時には、筆者は博士課程の講義のみならず、研究指導できる〇合教授として認可された。
〇恩師の小川利夫先生は、筆者の記憶に間違いがなければ、名古屋大学で博士の学位を16人の院生に授与し、教え子で大学教員になった人は24名に上ると言っていたので、筆者としては「出藍の誉」ではないが、小川利夫先生より多い院生を育てなければと当時誓ったものである。結果として、日本社会事業大学大学院、東北福祉大学大学院において、修士課程の学位授与者が110名、博士課程の学位授与者が24名、大学教員として就職した院生が35名ほどになった。
〇日本社会事業大学の清瀬開学に当たって、厚生省から求められている全国の社会福祉系大学のモデルになるような教育・研究を進めるためには、全国の社会福祉法人の拠り所になるような存在にならなければならないし、かつ現場から信頼される社会福祉研究を推進する必要があると考え、開学に際し、全国の社会福祉法人に呼び掛けて志を同じくする方々に賛同して頂いて「日本社会事業大学を支える社会福祉法人の会」や「日本社会事業大学の後援会」、「日本社会事業大学学生の教育後援会」を設立したいと提案したが、“そんなものは作る必要がない”、”何かあれば厚生省が考えてくれる“という意見の下に却下された。それも一度ならず、理事長が変わっても二度も却下された。
〇清瀬開学に際して、日本社会事業大学の経営も、教育・研究も新たなステージに立つべきだと思ったが、“厚生省頼みの日本社会事業大学の親方日の丸の考え方”を打破できなかった。この親方日の丸体質は、教員にも、事務職員にもしみ込んでいて、新たな企画、提案に対する拒絶反応は大きかった。
〇せめてということで、清瀬を基盤にした社会福祉実習施設の会の組織化は認めて貰えたが、それとて学校法人は積極的ではなかった。

➁高校福祉科の創設と「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」

〇高校福祉科の設置は、1985年に出された「理科教育及び産業教育審議会」答申で、急速な高齢化の進展に対応した人材確保のために「高校福祉科」の設置が打ち出された。その具現化を図る委員会の委員長に、厚生省老人福祉課長の経歴がある、当時日本社会事業大学社会事業研究所教授に赴任されていた古瀬徹先生に文部省から打診があった話が、私のところにお鉢が回ってきて、結果として私が文部省初等中等教育局に設置された「福祉科についてー産業教育の改善に関する調査研究」の委員長に就任する。
〇その調査研究は、ⅰ)福祉サービスに従事する人財の育成の確保と資質の向上、ⅱ)高校福祉科の設置の基本的考え方、ⅲ)福祉科の目標と教育内容、ⅳ)生徒の進路、ⅴ)福祉科の条件整備などについて調査研究し、答申をした(『福祉教育資料集』一番ケ瀬康子・大橋謙策編、光生館、1990年刊参照)。
〇この答申は、急速な高齢化を踏まえての介護従事者の養成という課題と当時、生徒数が減少していた高校家庭科の見直しとの両側面からの調査研究であった。
〇筆者は、この高校福祉科の設置に関わる調査研究以降、(イ)全国各地に設置されていく高校福祉科の教員たちと多様な関わりを持つことになる。(ロ)他方、通信制高校を運営していたNHK学園が社会福祉士の養成を通信で行うと同時に、高校福祉科を設置するということで関わりを持つようになり、その後NHK学園の理事を約十年間務めることになる。
〇高校福祉科の教員たちとのつながりは、淑徳大学で松崎泰子先生のゼミ生で、当時岩手県の特別支援学校での経歴をもつ岩手県立一関第二高校の矢幅清司先生が、松崎先生に紹介されて会いに来た。それが縁で、函館大妻女子高校の池田延巳先生、静岡・三島高校の松本寿子先生、岡山・中央高校の保住芳美先生などとの交流が始まった。
〇高校福祉科の設置は認められたものの、教科書もない、教育方法も分からないという状況の中で、先に挙げた先生方の高校で筆者が社会福祉概論、障害者福祉、高齢者福祉などのモデル授業を公開で行った。
〇また、筆者が当時出演していたNHKのテレビ番組「シルバーシート」やラジオ番組「社会福祉セミナー」のテキストを基にして、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」を高校福祉科の教科目毎に刊行した。
〇NHKのラジオ番組の「社会福祉セミナー」を担当していたのは、東京大学教育学部の宮原誠一研究室の卒業生たちで、山口武さんや石原さんを始め、大変お世話になった。東大の宮原誠一研究室の多くはNHKに就職し、NHK放送文化研究所や教育番組を担当する部署に多く配属されていた。
〇その先輩たちからは、ラジオ番組の「社会福祉セミナー」の内容は、中学卒業生が読んで、聞いて分かる内容でなくては駄目だと厳しく教えられた。
〇そんなこともあり、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は大変好評で、短期大学や四年制の福祉系大学でもテキストとして使われた。高校福祉科のテキストとして使用されたこともあって、発行部数は大変多かった。
〇高校福祉科は、1998年の理科教育及び産業教育審議会答申、同じく教育課程審議会答申を受けて、1999年に改訂された学習指導要領で高校の専門教科「福祉」として位置づけられる。
〇この位置づけで、高校福祉科のテキストは「教科書」にとってかわられることになる。筆者も、中央法規から高校福祉科の教科書「社会福祉」を刊行したが、出版社は採算が取れないということで、改訂の時に撤退してしまう。教科書としての制約は多く、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」のようにはいかず、筆者から言えば面白みのない内容になってしまった。高校福祉科の教科書が出版されて以降も「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は売れていたが、制度には勝てず消えていくことになる。
〇他方、NHK学園の関係では、NHK学園高校の教員だった伊藤由紀子先生が日本社会事業大学大学院の修士課程に学びに来る一方、日本社会事業大学大学院の修了者がNHK学園の通信教育課程に採用されるなど交流が深まった。中には、ルーテル大学大学院の修士課程で和田敏明先生や市川一宏先生などに指導を受けた牧野まゆみ先生等多くの先生との出会いができた。中でも、高校福祉科の教頭をされていた山本正興先生は本当に熱心に高校福祉科の充実にご尽力された。
〇そんな縁もあってか、筆者はNHK学園の理事に推挙され務めたが、NHKで行われる理事会では、沖縄県副知事をされた尚弘子先生(琉球国王尚泰王の第4王子尚順の6男、尚詮の妻、琉球大学名誉教授)などとの出逢いもあった。
〇NHK学園の通信制教育の教材として、『社会福祉概論』、『地域福祉論』等の教材を出版した。この出版物も大変好評を博した。

➂社会福祉行政の計画化と提案するコンサルテーション

〇日本の社会福祉行政は、1990年の「社会福祉8法改正」により大きな転換点を迎える。
〇1980年代末からの地方分権化の流れの中で、戦後一貫して行われてきた厚生省の中央集権的機関委任事務体制は改正され、生活保護制度を除く他の社会福祉関係法制は基本的に市町村主権主義に変わった。
〇他方、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」(通称ゴールドプラン)に代表されるように、高齢化に伴う介護人材の養成・確保は喫緊の課題でもあった。
〇そのような背景も、1990年には老人福祉法、老人保健法に基づき、全国の各市町村は市町村ごとの老人福祉計画、老人保健福祉計画を策定することが求められた(両者を一体的に考えて、一般的には「老人保健福祉計画」と称している)。
〇筆者が市町村自治体の地域福祉計画策定づくりに本格的に関わるのは1989年の東京都狛江市社会福祉協議会が東京都社会福祉協議会のモデル事業として「地域福祉計画」の策定に際し、筆者が委員長を務めたことからである。それ以前にも、栃木県足利市の地域福祉計画づくりを行ったことがあるが、1984年の全社協の『地域福祉計画―理論と方法』が刊行されたからは初めてである。
〇地域福祉計画づくりに関しては、以前書いた「その時の出逢い」④でも書いているので、それと重複しないような事項を書いておきたい。
〇狛江市社会福祉協議会の地域福祉計画づくりを推進している時、東京都福祉局長の諮問委員会としての地域福祉計画に関する検討会が設置されていた。三浦文夫先生が委員長で、和田敏明先生が事実上の起草委員として取りまとめられた『東京都における地域福祉推進計画の基本的あり方について』と題する報告書が1989年度末に出された。
〇この報告書は、都道府県が策定する地域福祉計画を「地域福祉推進計画」とし、市町村行政が策定する地域福祉に関する計画を「地域福祉計画」と称し、市町村社会福祉協議会が策定する民間の地域福祉に関する計画を「地域福祉活動計画」とするという提案をした。
〇東京都の検討会に三浦文夫先生、全社協(当時)の和田敏明先生が参加してのとりまとめなので、“地域福祉計画”という用語を巡って、日本地域福祉学会の中で混乱が起きてはいけないので、日本地域福祉学会としては、“地域福祉計画”を巡る用語の使い方を東京都の報告書に倣って使用することにした。
〇1990年6月に、清瀬に移転開学した日本社会事業大学で第4回日本地域福祉学会が開催された。その折、実行委員会の事務局長を務めた筆者は「『地域福祉計画』の到達点と現状及び課題」と題する論文を書いた(『日本地域福祉学会第4回大会 地域福祉計画の視点と課題―地域福祉計画関係資料集』所収)。この資料集は、全国各地の地方自治体で策定された地域福祉計画、地域福祉計画に関する論文、地域福祉計画に関する国等の審議会答申を収録したものであるが、筆者は地域福祉計画と称されるものの歴史的展開を整理した上で、今日的に求められている地域福祉計画の基礎的指標とサービス・ミニマム設定の必要性を提起した。
〇東京都狛江市では、1990年に策定することが法定化された地域福祉計画より早く、東京都狛江市社会福祉協議会が地域福祉計画づくりを進めた。いずれ、行政も計画づくりをせざるを得ないので、狛江市社会福祉協議会が進めた地域福祉計画づくりの委員会には、狛江市福祉事務所の所長にも参加頂き、行政との協働による地域福祉の推進を意識した。
〇また、単年度予算主義の行政にあって、計画に盛られた事業の財政的裏付けを担保する複数年の予算見積もり等できないと思いつつ、筆者たちは計画に盛られた事業に係る予算を積算し、福祉事務所所長を通して、狛江市の財政部長に計画に係る財政フレームを確保できるか打診するための詳細な積算資料を作り提出して、無理のない、絵空事にならない計画づくりを考えた。
〇地域住民のニーズを把握する際に、長廊下でなく、プライバシーをできるだけ守るという趣旨のもとに建築されたつづら折り階段の4階建ての集合住宅の都営住宅で、4階に住んでいる方々の生活の深刻さを教えられた。足腰が弱って、階段を上り下りできず、買い物などにも難儀すると同時に、訪問入浴の風呂桶がつづら折りの階段を上げられないということや、亡くなった際の棺桶が運び上げられないなどという状況に愕然とした記憶がある。これらの深刻さは、翌年の1990年に東京都東大和市の地域福祉計画づくりの際に、4階建ての同じような集合住宅に内風呂がないという状況にも愕然とした思いがある。
〇筆者は「その時の出逢い」④でも書いたが、当時、狛江市の他に、遠野市、目黒区、豊島区、東大和市などでも計画づくりにアドバイザー、策定委員会委員長として取り組んだ。
〇それ以外では、設置された委員会の委員長として関わった自治体もあるが、多くがシンクタンクの“餌食”になった計画づくりである。ある大きな自治体では2000万円の予算で、某シンクタンクに計画づくりを委託するが、そのシンクタンクは殆ど地域福祉に関する知識、知恵、策定方法を知らず、どこにでも通用するような計画書を作り上げていた。まさに自治体がシンクタンクの儲け仕事の“餌食”になっている様を見せつけられた。
〇1990年代は、老人保健福祉計画の策定の法定化に始まり、障害者福祉計画、子育て支援計画等社会福祉行政の計画化が進められた時代であった。
〇策定された計画の評価をどうするかが大きな研究課題だと考え、1990年代半ばに老人保健福祉計画の評価研究プロジェクトを立ち上げ、厚生省から助成金ももらい、調査研究をしたけれど評価の方法、評価の指標など計画の評価研究として体系的な研究成果は打ち出せなかった。
〇ただ、地域福祉の視点を踏まえた地域福祉計画策定の視点・方法は、狛江市、遠野市、目黒区等の計画策定の実践を踏まえて確立できたと思っている。
〇筆者は、この一連の計画づくりを通して、新しい社会福祉の考え方である地域福祉の理念、それを実現するシステムや運営管理のアドミニストレーション、あるいは理念、システムを具現化できる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク機能について確信が持てるようになった。
〇各自治体の地域福祉に関する提言的コンサルテーションの必要性、住民参加による計画の進行管理の必要性を実感でき、各自治体に条例による「地域保健福祉審議会」等を設置してもらい、策定した計画の進行管理、自治体へのコンサルテーション機能を発揮してきた。

➃日本福祉学院の社会福祉士養成の通信教育のスクーリング

〇北海道で、社会福祉法人ノテ福祉会を経営して、デンマークなどのケアのあり方を日本に紹介、普及させようとしていた対馬徳昭・輝美夫妻が、日本福祉学院を設立し通学制の養成とともに、通信制の養成も始めることになった。
〇その相談相手になったのが、明治学院大学の秋山智久先生で、秋山先生の紹介で、筆者もその講師陣に加わることになった。
〇講師陣はその当時の日本社会福祉学界を代表する先生方であった。明治学院大学の福田垂穂先生、日本女子大学の佐藤進先生、同志社大学の岡本民夫先生、北星学園大学の忍博次先生などで、毎年8月に行われる、札幌のアンデルセン村でのスクーリングはそれはそれはとても楽しい出逢いと語らいの時であった。
〇8月のスクーリングの際には、対馬夫妻による豪勢な晩餐会が行われ、美味しいお酒と美味しい北海道の食材で舌つづみを打ちながら懇談を楽しんだ。
〇福田垂穂先生や佐藤進先生とは、同じゲストハウスで宿泊をしたということもあり、社会福祉の道へ進んだ契機や背景、研究上の苦労、研究のあり方など多くの教えを頂いた。
〇現在、筆者が活用している「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」も、このスクーリングのゼミナールの中で作り上げたものである。
〇日本福祉学院の通信教育の教務事務を担当していた澤伊三男先生や山下先生も、その後大学院を修了し、福祉教育の教鞭をとられる立場になられたことも嬉しい出逢いであった。

➄デンマーク、スウエーデン調査研究から社会福祉行政の地方分権化と住民参加を学ぶ

〇1980年代前半から、日本大学木下総長夫妻、三浦文夫先生、設計事務所経営の吉田隆之さん、中央法規出版の荘村多加志社長さんなどと、ヨーロッパへの調査研究が毎年のように行われた。大熊由紀子先生の『寝たきり老人のいる国、いない國』という本は、三浦先生などとのデンマークへの調査研究の成果として刊行された。
〇社会福祉法人ノテ福祉会の対馬夫妻が学ばれ、自分の経営する社会福祉施設をアンデルセン村と名付けて経営していることに大きな影響を与えている千葉忠夫先生ともこの時の調査研究で、2度ほど千葉忠夫先生が経営されている学校を訪問した。
〇他方、東京都の事業で「多摩の100年」記念事業が展開され、その一環で「多摩の今後の社会福祉のあり方」に関わる調査研究チームが結成され、筆者はその委員会の委員長を命じられた。当時、慶応大学で労働経済学を専攻していた清家篤先生(現・日本赤十字社社長、前全国社会福祉協議会会長)ともその時の出逢いである。この調査研究チームは、デンマークを中心に調査を行った。
〇これらの海外、とりわけデンマーク、スウエーデン、イギリス等への調査研究を通じて、在宅福祉サービスの内容、提供システム、ケアマネジメントの手法を始め、社会福祉の分権化の考え方、システムについて多くの示唆を得た。
〇1987年に書いた論文では、いまだケアマネジメントという用語を筆者は使っておらず、筆者はサービスパッケージという用語で、ケアマネジメントの手法を表現していたが、1990年代にはいってからはケアマネジメントという用語を使用している。
〇筆者が考えるケアマネジメントの内容は、要支援の人の個別支援方針の立案を本人の願い、希望、求めと専門職が必要と考え、判断した事項を相互に出し合い、両者の合意に基づき行い、それを基に必要なケアプランを作成する営みだけでなく、それらのケアマネジメントを展開できるシステムの構築までも視野に入れて考えている。ケアマネジメントの理念を具現化できるシステムの重要性についてはデンマークの調査研究で気づかされ、スウエーデンでそのシステムの実証性を確認できた。
〇後述するイギリス在外研究期間中に、鹿児島経済大学(当時)の郷地二三子先生(日本社会事業大学の先輩、全国社会福祉協議会職員からの転身)の紹介で、スウエーデンのストックホルム郊外の集合住宅に住んでいる馬場寛・シャスティーン夫妻の家にホームステイさせて頂いた(馬場夫妻は翌年、日本に来日し、我が家で1週間ホームステイをして、いくつかの社会福祉施設などを訪問していった)。馬場夫妻はストックホルムの社会福祉職員として働きながら、日本からの視察団のお世話をしてくれている夫妻で、その家にホームステイしながらスウエーデンの社会福祉の分権化とケアマネジメントのシステムを勉強した。
〇1980年代からの数度に亘る調査研究で、ストックホルムやマルメといった都市部のシステムは学んでいたので、小さな村のシステムを学びたいと馬場さんに頼んで北極圏にあるビュルホルムコンミューンを視察できた。ストックホルムから特急列車で10時間、駅を降りてから高速道路を3時間走って着いたビュルホルムコンミューンは人口3000人の村であるが、広大な村域なので、それを3つの圏域に分けて、個別支援のケアマネジメントとそれが可能になるシステムを実現していた。
〇これらを参考にして、筆者は長野県茅野市の保健福祉サービスセンター(2006年に介護保険法で位置づけられた地域包括支援センターの原型)等の地域福祉のシステムのあり方を深めていった。
〇その際、1974年に制定されたデンマークの生活支援法や1982年に制定されたスウエーデンの社会サービス法に学ぶことは多かった。

➅イギリス在外研究と「行政の福祉化」による「福祉はまちづくり」への展開

〇日本社会事業大学には教員の在外研究制度、及びサバティカル制度がなかった。大学の清瀬移転整備計画の中で「在外研究制度」の創設を盛り込み、其の制度適用第1号として、1992年3月末に日本を発ち、イギリスに渡った。
〇イギリスでは、一般的な「在外研究制度」なら、どこかの大学に研究員としての席を置いて研究するのであろうが、筆者は敢えてそれをしなかった。ロンドンのケンジントン&チェルシー区の長期滞在用ホテルを借り、下記のように自由に研究をさせて頂いた。
〇イギリス滞在中、何をしていたかの報告書はいずれ帰国後に「出張復命書」らしきものを出すのであろうが、それでは記憶も定かでないであろうし、イギリス滞在中の状況を大学に報告するのも“義務”だと思い、某作家にちなんだわけではないが、「ロンドン便り」を不定期だけれど発行することにした。そのためもあって、日本から印刷機能付き携帯用のワードプロセッセーを持参した。
〇イギリス在外研究では、以下のような項目を意識して調査研究を行った。

ⅰ)政府刊行物センターの訪問と各種法律改正の概要の研究
〇政府刊行物センターにはよく通い、イギリスの各法律の改正状況と政策のウオッチングに努めた。
〇中でも、戦後分立していた児童福祉関係の法制度を一元化する1989年の「Children Act」の制定、1601年に制定され、1960年に新しく法律になった「Charities Act」の1990年の大改正、1989年の「Housing Act」、1990年の「National Health Service & Community Care Act」については、その概要を翻訳した。この法律を通して、日本との違いをいろいろな点で実感させられた。
〇私は、在外研究期間中ではなかったが、イギリスの調査研究の際に、B&Bというイギリス特有の宿泊を活用したが、これがピンからキリまでで、中には駅前にあるB&Bは、まるで軍隊の野戦部隊の宿舎のようなところで、イギリス的ドヤではないかと思われるところにも宿泊したが、これは「Housing Act」によれば「ホームレス」ということになる。
〇「Housing Act」によれば、狭隘な住宅、衛生上不潔な環境の住宅等が「ホームレス」に該当しており、イギリス的に言えば、日本の“ワンルームマンション”に住んでいる人は「ホームレス」に該当することになる。公園などで生活している人だけが「ホームレス」ではない。
〇「Children Act」では、児童虐待などを起こしている家庭の支援をする場合、親子分離をさせるのではなく、その親子をChildren Centerの近くのアパートに移住させ、頻繁に家庭訪問をして、親子関係の持ち方、子育ての仕方、家政管理能力や生活技術能力を高める支援の実践を見聞きさせて頂いた。
〇「National Health Service & Community Care Act」では、重い障害を有していても、かつ言語的意思表明ができない人でも、画や写真を活用して、これから行う活動、作業への理解を深め、それに関して本人の意思を確認する作業が丁寧にされていたのを見聞し、日本とのギャップに驚いたものである。

ⅱ)ケンジントン&チェルシー区の2か所のスペシャルパッチの訪問
〇イギリス在外研究で調査したいと思った点の一つは、1982年に出された「バークレイ報告」で、なぜ多数派と少数派とに意見が分かれたかを調べたいと思ったことである。
〇バークレイを代表とする多数派の考え方はケンジントン&チェルシー区で調査研究することにし、ハドレイを代表とする考え方の実践はイズリントン区で行うことにした。
〇イズリントン区の区長は、労働党で、住民も均一的な中産所得階層が多く住んでいる地域である。筆者はイズリントン区(当時人口26万人で24地区(パッチ)に分けて、3か月に1回、夜開かれる“直接民主主義的な形態の住民集会”に2度参加した。そこには、多くの分野の行政の職員、警察官、生活保護担当の職員などの福祉行政職員が出席し、住民たちと活発な論議をしていた。このような直接民主主義的な住民集会が行えるのも、住民の生活がある意味、均質的だからできるのであろうと理解した。だからこそ、住民と行政との協働という考え方を強く打ち出した少数派の意見を取りまとめられたと思っている。
〇一方、多数派の拠点のケンジントン&チェルシー区の区長は保守党の区長で、区内の住民の貧富の格差は大変なものである。広大な式の中に、プライベートの、歩道つき、並木付きの自動車道路が通っているマンション(日本のマンションのイメージは貧弱すぎる)群などもあるかと思えば、イギリスにはほとんど見られない高層の集合住宅があるスペシャルパッチもある区である。
〇一つのスペシャルパッチは、病院を退院してきた精神障害者やHIV感染者等が多く住んでいる集合住宅、もう一つのスペシャルパッチは、海外からの移民が多く住んでいる地域で、小路を越えるとお店で売っている物、話をしている言語が全く違うといった具合に、多民族が密集している地域である。
〇前者のスペシャルパッチの中にロンドン・ライトハウスがある。ケンジントン&チェルシー区ボランティアセンターの所長に連れられて行ったが、そこは視覚障碍者のセンターではなく、エイズ患者、HIV感染者支援の拠点施設であった。ランチをご馳走してくれるというので、ご馳走になったが、食後今食べたランチを造っているのは、HIV感染者たちだと言われ、正直驚いた。
〇このスペシャルパッチには、70名を超える行政職員のソーシャルワーカーが配属されていて、個別支援をしているという。
〇他方のスペシャルパッチには、コミュニティセンターがあり、そこでは英語の習得やイギリス的生活習慣、生活技術を学んだり、自分の生活の改善や手に職を得るためのミシンを使っての縫製の講習など、アメリカのシカゴのセツルメントハウス・ハルハウスもそうだったと言われる実践をしていた。そこでは、ソーシャルワーカーというよりもソーシャルエヂュケーターと言われる職員が頑張っていた。
〇ケンジントン&チェルシー区では、ホスピス病院にも時々訪ねていたが、入院患者は在院期間が2~3週間という患者たちなのに、私がいくと“イギリス生活をエンジョイしているか”と逆に励まされる文化の違いに驚いた。そのホスピスのお風呂は壁がカラフルな絵で飾られているし、ボランティアも人間だけでなく、犬も登録(大型犬、小型犬、雄、雌等30種類くらいの犬が登録されていた)されている等、日本の福祉文化、ボランティア活動との違いを痛感させられた。
〇また、ケンジントン&チェルシー区のボランティアセンターに、脊椎損傷で電動車いすを使用している障がいのある方が、自分の口にパソコンのキ-ボードを打つ棒をくわえ、センターの書類を作成するボランティア活動をしていることに、自分の社会福祉の捉え方が如何に狭いか、貧弱であることかと思い知らされた。
〇ロンドン滞在中に、「イギリス5000万人のボランティア」という本を購入し、目を通したが、イギリスでは8700万人の人口規模で5000万人の人がボランティア活動をしている。そのうち、一番多いのは金銭ボランティアで、中でも亡くなった方の遺贈が多いことを学んだ。のちに、京都大学の金沢周作先生が書いた『イギリス近代とチャリティ』という本を読んで、歴史的に作られた文化を再認識した。
〇筆者は、1900年に雨宮時枝先生が財政学の分野からの視点で書いた論文で、イギリスで1601年に「慈善信託法」が制定されていることを知り、自分の勉学、研究の狭隘さと学問の奥の深さを思い知らされたことがあった。のち、この「慈善信託法」については、東北大学から日本社会事業大学の大学院へ進学してきた松山毅さんに研究するように勧め、松山さんはそれを博士論文でまとめた(単著として刊行されていないのが残念ある。この論文の抄録が損保ジャパンの社会福祉文献賞の論文部門で受賞したのは嬉しかった)。

ⅲ)ロンドンの西北部にある区の訪問
〇この他、ロンドンの西北部にある区(名前を失念、調べて分かれば後日修正)を訪問した際、区長直属の車いすの職員を紹介された。その方は、区の政策・行政に対して、障害者の目線から「合理的配慮」がされているかをチェックし、されていなければ修正を求める権限を有しているという。
〇われわれは、意識して差別や偏見をすることはあまりなくなったが、自らの生育史の中で作られた生活文化はやはり“健常者の目線”であり、“合理的配慮”をしきれていない場合が多い。その点を障害者の立場からチェックする権限を持っているということに驚かされた。
〇この考え方を基に、帰国後行われた日本社会事業大学の講演の中で、筆者は{行政の福祉化}が必要であるとのべた。
〇地域での自立生活ができるようにしていくためには、保健福祉行政の分野のみならず、建設行政においても、市民生活行政においても、清掃行政においてもあらゆる行政部門で、障害者や高齢者に対しての“合理的配慮”がなされなければ地域福祉の理念は具現化しないことを述べた。

➆「ふれあいの街づくり事業」――1990年「生活支援事業研究会」委員

〇1990年に、厚生省保護課の主管で「生活支援事業研究会」が設置された。その当時の保護課長は炭谷茂(後に厚生省社会援護局長、環境省事務次官)さんで、1980年代にイギリス大使館へ出向していた。筆者も、イギリスへの調査研究で訪ねた際にはロンドンでお会いしている。当時は、法政大学の大山博先生も法政大学の在外研究でイギリスに行っており、炭谷茂さんとも面識がある中であった。
〇その「生活支援事業研究会」の委員に大山博先生共々選ばれ、筆者が座長を務めることになった。
〇大山博先生とは、1960年代末から、小川政亮先生、東京都立大学の籾井常喜先生、早稲田大学の沼田先生等との社会保障法研究会のメンバーの若手として、金沢大学の井上英晴先生などと一緒に研究していた仲間だった。
〇「生活支援事業研究会」は、1990年8月に、中間報告として「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」を出す。
〇そこでは、生活支援地域福祉事業の必要性として、イ)社会構造の大きな変化、ロ)生活者としての個人や家族の自立能力、生活能力の弱体化、ハ)家族、地縁等の相互扶助や問題解決能力の減衰化があるとして、従来の制度だけでは解決できない課題として(ⅰ)社会的孤立の問題、(ⅱ)疾病問題への日常生活上のケアの必要性、(ⅲ)登校拒否児や生活管理能力がない家庭内での問題、(ⅳ)生活管理能力の問題、(ⅴ)外国人の問題等を掲げ、それらの課題を解決するためには、(A)ニーズの積極的把握、(B)家族や地域社会全体を捉えたコミュニティソーシャルワークの必要性、(C)社会福祉各制度相互間等の連携・調整によるサービスの総合化の必要性を提起した。
〇これは、まさに今日の政策である地域共生社会政策、とりわけ重層的支援体制整備事業の先取りであり、今日の政策の前史ともいえ報告書の内容である。
〇この報告書に基づき、1990年度中にこの報告書の考え方をどう具現化するかということで、モデル補助事業が行われた。福祉事務所、保健所、社会福祉協議会などでモデル事業が行われた。その際の研究補助者として宮城孝先生が参加してくれた。
〇モデル授業では、富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美事務局長が、多重債務者の支援において身を挺してローン関係者と交渉してくれたりといった実践が評価され、これらの事業を展開する組織、機関として市町村社会福祉協議会がふさわしいのではないかと判断され、1991年度から「ふれあいの街づくり事業」という大型補助金による事業が展開されることになる。
〇「ふれあいの街づくり事業」が全国で展開され、報告書の理念、目的が実現していけば社会福祉界は変わり、地域福祉の時代がくると思って期待していたが、残念ながら私にとっては期待外れであった。
〇社会福祉協議会関係者サイドから言えば、この補助金で社会福祉協議会は大きく変わったという評価をしているが、委員会の座長を務めた立場からは残念であった。
〇コミュニティソーシャルワークという機能の具現化には、改めて1990年代後半から取り組むが、福祉サービスの総合化という考え方は地域共生社会政策、重層的支援体制整備事業が出てくるまで進まなかった。

➇日本社会福祉学会の公選理事として会員800名の関東部会の運営と事務局長の拝命

〇1990年の社会福祉学会理事選挙で、公選理事に当選した(2期連続選ばれ、1996年10月まで務める)。
〇恩師の小川利夫先生からは「社会福祉と社会教育の学際的研究」をするのなら、その各々の学会に置いて、会員による理事選挙で選出される公選理事にならなければ、あなたの研究が社会的評価を得たことにならないと常に戒められ、学際研究を口実にして逃げてはならないと言われ続けてきた。
〇日本社会教育学会では30歳代から理事に選ばれ、1992年からは常任理事として2年間務めていたが、日本社会福祉学会では“大橋謙策の研究は、社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていただけに公選理事として選出されたことは嬉しかった。漸く社会福祉学界でも大橋謙策の存在が認められたと安どしたことを覚えている。当時、珍しく、小川利夫先生から評価されたことが嬉しかった。
〇理事会では、関東部会の運営を仰せつかり、会員800名余の部会の運営、経理等一人で担当することになった。当時の日本社会福祉学会の会長は一番ケ瀬康子先生だった。
〇関東部会の担当理事の前任者(某有名な社会福祉研究者)に引継ぎをお願いしても一向に会計の決算書が出てこない。督促をしてもなしの礫で、やむを得ず、前年までの活動報告、決算書の公表はできないまま、新たな年度からの事業計画、会計を始めた。
〇私が最初に始めたのは、日本社会事業学校連盟の事務局長に就任した時と同じで、「日本社会福祉学会関東部会の会報」を出し、会員に情報提供を徹底化することであった。
〇その当時、日本社会福祉学会自体、ニュースを発行できていなくて、それは私が日本社会福祉学会の2回目の公選理事(この時の会長は阿部志郎先生が選出され、私が事務局を担った)に選ばれ、事務局長に就任した1993年からである。
〇1991年の関東部会のシンポジュウムで、「ケースマネジメントとケアマネジメント」というタイトルで論議を行ったことが思い出される。
(2026年3月13日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。大橋謙策のメールアドレスは、  <o.kensak@outlook.jp> です。

老爺心お節介情報/第81号(2026年3月9日)

「老爺心お節介情報」第81号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会の関係者の皆様

大変ご無沙汰しています。
「老爺心お節介情報」を送ります。
「その時の出逢いが」はも少し時間が掛かります。
出来次第送ります。
季節の変わり目、ご自愛ください。

2026年3月9日   大橋 謙策

初春や メジロ来りて 昼寝かな
紅梅が 咲きし小坪の 長閑さよ
兼喬作 2026年1月

〇ご無沙汰しています。前号を出してから大分時間が過ぎました。皆さんにはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、1月中旬から2月一杯忙しい日々で、ゆっくりとパソコンに座って、「老爺心お節介情報」や「その時の出逢いが」を書いている時間もなければ、精神的に取り組もうとする意欲も湧いてきませんでした。
〇この間、我が家の庭は季節に対応して、日々姿を変えています。庭の畑の三浦大根と小株は収穫を迎えました。小坪の春蘭は赤紫の可愛らしい花を咲かせています。今は、赤の侘助や乙女ツバキが咲き、水仙が咲き、シデコブシが蕾を開き始めました。海棠も真っ赤な新芽を出し始めましたし、雪柳も白い花を咲かせ始めました。春はいいですね。
(2026年3月9日記)

Ⅰ 2月13日に、第2回能登半島地震支援中間報告会に参加しました

〇昨年5月に行われた第1回中間報告会は、主に社協関係の被災者支援と社会福祉専門職団体による支援の報告が中心でした。
〇第2回は、「能登半島地震の被災地で展開された社協と連繋した被災者支援――被災者支援のNGO・NPO活動から何を学ぶかー」がテーマでした。
〇全国災害ボランティア団体支援ネットワーク(JVOAD)代表で、かつ阪神・淡路大震災の際にボランティア活動を行い、その後結成された認定NPO法人レスキューストックヤードの代表でもある栗田暢之さん、アメリカに本部を持ち、世界的規模で貧困者等の支援を行っている国際NGOのADRA(日本支部は1985年設立)の小出一博さん、東日本大震災を契機に結成された公益社団法人ピースボート災害支援センターの大塩さやかさんにNGO、NPOの能登半島地震支援の状況を報告頂いた。
〇また、能登半島地震支援のNGO,NPOの活動を管掌した石川県生活環境部女性活躍・県民協働課の職員で、公益財団法人石川県県民ボランティアセンターの業務も兼任している石川県の職員である原拓矢さんと内閣府(防災担当)の防災教育・NPOボランティア連携担当の参事官補佐の澤邦之さんにも登壇して頂いた。
〇内閣府の澤さんには、災害救助法が2025年に改正され、「福祉サービスの提供」が医療や保健とともに位置づけられたこと、被災者支援に入る団体に、登録被災者援護協力団体制度を創設し、協力いただく場合には実費を弁償する制度ができたことなどを報告頂いた。
〇石川県の原さんは、被災者支援に入るボランティアの足の確保として輸送バスを3073台運行、キントーンを活用しての情報収集と関係機関との情報共有化、ボランティア活動に必要な資材の提供(ヘルメット、ブルーシート、防刃手袋、軽トラ)を提供した他、NPO法人に重機を貸与する便宜を図った。約9000万円の費用が支出された。
〇栗田さんは、まずJVOADが東日本大震災の教訓をもとに結成されたことを報告。東日本大震災では145の災害ボランティアセンターが設置され、約155万人のボランティアが参加。社会福祉協議会の災害ボランティアセンターとは別に、推計3000のNPO等が活動を展開。中央共同募金会の「ボランティアサポート募金」を活用したボランティアの総数は約525万人に上った。しかしながら、その相互の活動は必ずしも連携が取れてなかった。
〇その反省を踏まえて、「被災者のため、自発的かつ組織的に支援を行うNPO等の活動を支援し、行政・社会福祉協議会・NPO等のセクター間の連携を進め、課題解決のための被災者支援コーディネーションを行う」災害中間支援組織を設立したことを説明。
〇内閣府の澤さんが報告された登録被災者援護協力団体制度を推進するために、現在各都道府県に被災者支援コーディネーションを担う「災害中間支援組織」の設置を進めており、全国の28都道府県で設置されているという。
〇JVOADが把握した石川県に支援に入ったNGO/NPOは430団体であった。
〇認定NPO法人レスキューストックヤードとしては、他の団体と協働して12万食の食事を確保することが当初の最大の課題であった。
〇栗田さんの報告を聞いて、社会福祉協議会関係者が反省をするべきだと強く思った点は,各支援団体と協力し、JVOADがとりまとめた「被災高齢者等の見守りについて(在宅福祉サービス高齢者等の把握)」の調査活動である。
〇七尾市以北の5市町で行い、15000人の在宅福祉サービス高齢者の状況を把握し、「被災者の電子カルテ」として市町へ提供、情報共有したという。アウトリーチによるニーズキャッチが社会福祉協議会の使命だと言われている時に、全国のネットワークを持つ社会福祉協議会は何をしていたのだろうか。
〇栗田さんの報告で、公費解体作業が能登半島地震では大きな課題になったが、その解体物の廃棄の際の取組が大きな課題だと指摘された。確かに産業廃棄物の対象になるかどうか、廃棄物の分別等今後考えなければならない課題である。
〇栗田さんは、支援に入った石川県穴水町では行政、社会福祉協議会、NPO等との3者協議がもたれ、連携ができたが、“石川県社会福祉協議会とは、あまり意思疎通ができず、申し訳ない”と述べられていたのが印象的であった。
〇ADRAの小出一博さんは、穴水町に支援に入って活動をした。穴水町社協は、災害ボランティアセンターではなく、「災害ボランティア・ささえ愛センター」を設置した。
〇そのセンターでは技術系ボランティアと生活支援系ボランティアとに分け、技術系ボランティアはブルーシート張り、重機を使ってのものの取り出し、ブロック・灯篭くずし、倒木の処理等を担い、生活支援ボランティアは避難所運営、炊き出し・食事提供、移動支援、買い物支援、子ども支援、行政手続き支援等の活動を行った。穴水町社協が “「できない」、「NO」を言わない体制づくり” をしていたことを高く評価していた。
〇ピースボート災害支援センターは、「人こそが人を支援できる」をモットーに、世界34か国で活動しているNGOで、日本国内では2011年の東日本大震災を契機に設立され、88地域に拠点を置いて活動している。
〇2011年に結成されてから、国内外の災害支援に関わり、企業81社との協働による災害支援物資配布、避難所運営サポート250か所、食事・炊き出し支援162691食、災害ボランティアセンター運営サポート39か所、家屋清掃4620件で、共に活動したボランティアの人数は117788人に上る。
〇日常的な防災・減災の取組としては、防災・減災教育1410回(受講者数55999人)、災害ボランティアトレーニング修了者数9287人等を行っている。
〇平時には支援を必要としている人が食品・日用品を手に入れられるよう、「食」の「港」という意味のFOOBOUR(造語)というキッチンカ―を配備しており、災害時にはそのキッチンカーを被災地に派遣し、温かい食事を提供している。
〇能登半島地震対応では、2024年の地震で珠洲市への支援に入った経験があるので、珠洲市社会福祉協議会の神徳さんから2025年1月1日の発災直後に連絡が入り、キッチンカーで支援に入った。
〇珠洲市では、珠洲市社会福祉協議会が開設した災害ボランティアセンターとの連携と同時に、社会福祉協議会が運営している珠洲市ささえ愛センターとも協働し、コミュニティ支援として5か所で122回、困りごと相談・情報提供を行った。毎週実施のお茶会、とりわけ大谷地区では週1回73回のお茶会、来訪者は2000名を超えた。
〇珠洲市の支援で特徴的なのは、仏壇の撤去、石灯篭の撤去という他の被災地ではなかったニーズ、支援要請があったことである。浄土真宗の教えで、家の中に立派な仏壇があり、その撤去に苦労したという。
〇今回の第2回報告会を聞いてみて、JVOADに参加しているNGO/NPOの災害支援の組織的な取組、日常と連動された活動、重機使用や電気関係、大工の技術等技術系ボランティア活動の強力さを教えられた。
〇社会福祉協議会がコーディネート、組織化している、スコップなどでの泥水除去、がれき撤去、家屋内の整理等、それはやってはいけないとは言うつもりはないが、それはNGO/NPOに任せて、社会福祉協議会はもっと災害被災者支援のソーシャルケア(ソーシャルワーク・ケアワーク)に力を注ぐべきではないのかと改めて痛感した。
〇とりわけ、NGO/NPOの団体が在宅福祉サービス高齢者のニーズ調査で各家庭を訪問調査されていたことには、正直“社会福祉協議会は何をやっているのか”と思った。これこそ、社会福祉協議会が全国のネットワークを活かし、地元の方と同行訪問し、必要なら生活福祉資金の相談に乗ることをすべきではなかったのではないだろうか。
〇いずれにせよ、今回の第2回目の報告会で、筆者が社会福祉協議会のボランティアセンターの活動を見直すべきだと言い続けてきたことの必要性が改めて痛感させられた。
〇ただ、石川県穴水町、富山県氷見市で、いみじくも社会福祉協議会がボランティアセンターの開設ではなく、「ボランティア・ささえ愛センター」を開設し、がれき撤去、家屋内整理のボランティア活動の要請に対応して、それだけに対応するだけではすませず、その家庭のニーズ把握も一緒に行い、必要な支援につなげていたことが一抹の救いであり、今後の社会福祉協議会の災害被災者支援の展望を与えてくれたことがとても嬉しかった。

Ⅱ 超過疎、趙高齢少子化、人口減少地域の長野県木曽谷の「持続可能な地域福祉のあり方」を考える

〇長野県社会福祉協議会がここ数年取り組んでいる「人口2000人規模」以下の町村における「持続可能な地域福祉のあり方」に関する事業の一環として、筆者もここ数年長野県木曽谷を訪問している。
〇筆者が長年「バッテリー型研究」を行うのには、筆者は歳を取りすぎているが、「関係人口」の一人としてお手伝いができればと通っている。
〇長野県は、以前の「「老爺心お節介情報」でも紹介したが、人口の少ない町村が多い。木曽郡では、上松町3803人、南3607人、木曽町9758人、木祖町2422人、王滝村646人、大桑村3088人である。下伊那郡では、大鹿村914人、豊丘村6205人、喬木村5625人、泰阜村1386人、天龍村1000人、売木村497人、下条村3288人、根羽村793人、平谷村372人、阿智村5758人、阿南町3825人、高森町12467人、松川町12023人である。
〇このような地域は、人口減少が続き、団塊の世代が85歳を超える2040年時点において、果たして在宅での生活が可能になるような持続可能な地域福祉をどう展開できるのか、深刻な状況である。
〇厚生労働省の検討会が出した「2040年のサービス提供体制等のあり方に関する報告書」ではないが、木曽谷の社会福祉法人の連携化あるいは合併化、町村社会福祉協議会の一元化、更には福祉サービスに関わる、全国一律の要件を木曽谷に合わせて大胆に緩和しないとサービス供給を維持できないことは予想に難くない。
〇「みんなの木曽『X(かけはし)』プロジェクトが、2025年度の「休眠預金助成事業」に採択され、その事業のキックオフセミナーが「『協働』&『共創』で進める地域づくり かけはしフォーラム」として、2026年2月25日に木曽町文化交流センターで開催された。
〇事前に執ったアンケ―ト結果に基づくワールドカフェ的グループワークと関係者のパネルデスカッションが行われた。
〇この前夜祭では、王滝村等の木曽谷に移住してきて、様々な事業を展開している人が集まり、懇親会が行われた。移住してきた方々はそれなりの理念を持ち、かつ技術を有している方々で、これらの方々の新しい発想、理念と従来から住んでいる方々との、まさに『協働』と『共創』が展開されるならば、木曽谷の可能性は豊かにあると思えた。
〇その為にも、アンケート調査ではなく、各集落で住民座談会を丁寧に行い、木曽谷が今後どうあるべきかを検討する活動を展開して欲しいとお願いをした。と同時に、従来のように行政に依存する体質を変え、地域住民が「選択的土着民」として、「地域住民限定のNPO法人を設立し、住民の終末期支援、死後対応サービスまで含めた総合的な生活支援サービスを提供すること」を考えるべきだと提案した。その際には、高知県佐川町斗賀野地区の「とがの元気村」やNPO法人とがのの実践が参考になると紹介をした。佐川町の実践の他にも、徳島県美馬市NPO法人こやだいらや富山県氷見市のNPO法人八代等の実践も紹介をした。
〇ただ、木曽谷の町村は、介護保険は広域の組合が保険者で、個々の町村の状況を保険者として必ずしも反映できていないのではないかと感ずるところがある。介護保険の“横出しサービス”や“上乗せサービス”を保険者の判断でもっと考えてよいのではないかと思えるし、ここ数年の木曽谷でも行われてきたセミナーやシンポジュウムに行政の福祉担当職員の参加が少なく、社会福祉協議会が中心になって頑張るだけでは限界があるのではないかとも感じてきた。
〇そこで、以下の3点を今後の課題として取り組んで欲しい旨を現地のプロジェクトにも長野県社会福祉協議会にも申し入れをした。
➀ 行政の参加者が少なかったので、長野県木曽振興局とも相談し、かつ6町村社会福祉協議会会長連名で、6町村の町長、村長に、行政職員の研修をするよう申し入れをしたらどうか。
➁ 上松町の社会福祉法人社会福祉事業協会のみならず、郡内の特養などを経営している社会福祉法人の連絡協議会の組織化を考えたらどうか
➂ このプロジェクトを成功させるためにも、プロジェクトの関係メンバーと6町村の首長との連携のための懇親会をして、プロジェクトに対する関心と理解を深め、かつ協力・支援の要請をする必要があるのではないか――このことは、2040年問題及び介護保険サービスのあり方も考えて必要ではないかー

Ⅲ 本の紹介

➀『ヤングケアラーかもしれない あなたが楽になる カウンセリング・ブック』(田中悠美子著、中央法規、2026年3月)
〇この本の著者は、日本社会事業大学の社会福祉学部、大学院卒業生の教え子です。
〇田中悠美子さんは、一般社団法人ケアラーワークスの代表理事をしています。日本社会事業大学在学中から、東京都練馬区で「若年認知症ねりまの会MARINE」を立ち上げたり、2012年に若年認知症の親と向き合う子ども世代の「まりねっこ」を設立してきました。
〇田中さんは、介護福祉士、社会福祉士の国家資格を有しており、ソーシャルケアとケアワークとを有機化して考えるソーシャルケアラーの走りだと言えます。
〇この本は、府中市ヤングケアラープロジェクトとジョイントして、日本財団の助成を頂き実践してきたものを基に書かれています。
〇ヤングケアラーが直面している事例なども活用しながら、ヤングケアラーが自分を押し殺してまでケアをすることの心境からの解放や、負担しているお荷物(ケア)は分けたりすることができますとサービス利用のあり方が書かれています。
〇また、ヤングケアラーが自分探しを大切にして成長していく様を事例に基づき紹介し、自分探しの重要性を述べています。
〇この本は、ヤングケアラーに関わる多くの関係者に手に取って頂き、できるだけ多くのヤングケアラーに読んでもらえるよう推奨して欲しい本です。
〇ただ、著者には、この本はヤングケアラー向けの本だからこれでいいが、ヤングケアラーという事象がどこから生まれ、その解決をどうするかという世帯全体、家族全体へのアプローチが出来ていないことへの批判、著述がないのはやや問題だと指摘しました。
〇それにしても教え子の実践や論説が本となって世間に広まることは教師として教師冥利に尽きる喜びですね。

➁『ごちゃまぜで社会は変えられる』(濱野将行著、クリエイツかもがわ、2021年12月)
〇『月刊福祉』2025年10月号で、原田正樹先生が司会をされた座談会に登場していた濱野将行さんの『ごちゃまぜで社会は変えられる』(かもがわクリエート社、2021年刊)を読みました。
〇石川県白山市、金沢市、輪島市などで「ごちゃまぜ福祉」を実践されている社会福祉法人佛子園の理事長の雄谷良成さんや広島県福山市で有限会社として鞆の浦・さくらホーム等の経営、実践されている羽田冨美江さんと同じような発想でした。
〇従来の社会福祉は国が定めた制度に当てはまるかどうかという実践、思想に囚われて、住民のニーズを発見・把握し、それに応えるサービスを開発・提供していく考え方が出来ませんでした。この本は、従来の社会福祉の限界を乗り越えて、住民のニーズに応えることが如何に大事かを考えさせられる本です。これこそが、ソーシャルワークの醍醐味なのだと思いました。
(2026年3月9日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。

老爺心お節介情報/第80号(2026年1月5日)

「老爺心お節介情報」第80号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

おはようございます。仕事始めですね。
新しい気持ちで、新しいプログラム、プロジェクトを立ち上げてください。
今年もよろしくお願いします。

2026年1月5日  大橋 謙策

寒中お見舞い申し上げます!

〇お正月休みも終わり、皆様元気に仕事始めをされていることと思います。
〇私の方も穏やかな天気の下、のんびりと里山を散歩したり、鎮守の森の神社へ初詣したりと穏やかなお正月を過ごすことができました。

氏神に 祈りし安寧 初詣で
初詣で 鎮守の森が 残る街
樹氷 悲しき恋の 一里塚
(愛媛福祉俳句会1月兼題/兼喬作 2026年1月)

〇「老爺心お節介情報」第80号は、「そのときの出逢いが➄、1980年代後半」号です。
(2026年1月5日)

「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑤

Ⅰ 1980年代後半――日本社会事業大学の移転発展計画と日本社会事業学校連盟

〇筆者にとって、1980年代後半は、まさに激動の渦に巻き込まれたような時であった。
〇第1は、日本社会事業大学の移転発展計画の事務局(企画室長)を命じられ、大学教員としての使命である授業をこなしながら、厚生省に提出する資料づくりを行うという“二人分”の仕事をした。毎日、夜8時までに厚生省から資料作りの指示があった場合には、その日のうちに資料を作り届けるという作業の仕方であった。自ずと夜8時までは大学で待機を余儀なくされ、かつ資料作りの指示があれば大学に泊まり込むという業務であった。大学に布団を買ってもらい、職員休憩室に泊まり込むとうこともざらであった。
〇第2には、赤字団体になっていた日本社会事業学校連盟の事務局長を命じられ、日本社会事業学校連盟の再建と同時に、日本におけるソーシャルワーク教育の確立並びに1986年の国際社会事業学校連盟の東京大会開催をすることであった。
〇第3には、1987年に、日本地域福祉学会を創設し、地域福祉研究の体系化と地域福祉実践・研究の社会的認知と評価を高める活動であった。

➀日本社会事業大学の移転再建計画づくり

〇日本社会事業大学は、戦前の海軍館を校舎として永らく使用してきたが、その海軍館は空襲も受けていて、建物の痛み、老朽化が進み、1960年代末から大学の移転再建問題が幾度となく論議されてきた(この件については、『日本社会事業大学四十年史』、『日本社会事業大学五十年史』に資料が掲載されているので参照)。
〇大学の移転再建問題は、教授会で幾度となく論議されては挫折を繰り返していた。1982年3月28日に、厚生省(当時)で社会局更生課長を務め、1981年の国際障害者年を取り仕切った、本学の卒業生である板山賢治氏が日本社会事業大学の事務局に就任されてから移転再建問題は一気に動き出す。板山賢治氏は障害者基礎年金制度の創設の立役者である(高阪悌雄著『障害基礎年金と当事者運動――新たな障害者所得補償の確立と政治力学』明石書店、2020年参照)。
〇と同時に、早稲田大学名誉教授(労働経済学専攻)で、中央労働委員会会長の平田富太郎先生(勲一等瑞宝大綬章受賞)が1979年に学長に就任しており、このお二人によって大学の移転再建問題は動き出す。
〇大学の移転発展計画は、中村猛先生が(日本社会事業大学卒業生、東京都福祉局長)が委員長を務める「日本社会事業大学教育の在り方について」と題する提言が、1983年に設置され、筆者は、この委員会の事務局を担い、とりまとめの文書を起草することになった。
〇その委員会のとりまとめは、1983年7月に当時の伊部理事長あてに提言され、教育課程、教育組織、移転問題も含めて大きく前進する。
〇その縁もあってか、私は1984年には「キャンパス問題対策室長」、「大学建設本部企画室長」を命じられ、教員としての業務と大学移転再建問題の実務者としての2足の草鞋を履くことになる。
〇大学移転問題の資料作りは大変な業務量、仕事の仕方であったが、そのお陰で厚生省の組織の在り方、予算取りの大変さ、資料の作り方を学ぶことができた。
〇と同時に、平田富太郎先生や板山賢治先生のカバン持ちで、渡部恒三厚生大臣、森喜朗文部大臣をはじめ、大蔵省理財局長(明治期の社会事業行政をリードした窪田静太郎の孫)、大蔵省主計局長、会計検査院院長等の方々にお会いし、話を聞く機会ができた。各部署のトップに座れる方々の見識、幅広さを知るとともに、それに付随する組織の在り方を垣間見ることができた。
〇日本社会事業大学教授会は、先の提言を受け入れ、1984年2月に「社大発展のための基本的方針およびその確認に関する件」を決定し、移転計画は進むことになる(詳細は『日本社会事業大学四十年史』を参照されたい)。
〇日本社会事業大学は、創立者が事実上おらず、GHQの要請もあって、厚生省立の変則的学校法人として1946年11月に創立された。そのため、建学の精神ともいうべき理念が明文化されても無ければ、明確化もされていない。
〇筆者は、大学移転に合わせて建学の精神を確立すべきだと考え、1985年1月に、日本社会事業大学の校歌や教育理念を踏まえて、私案として4つの理念を掲げた。「忘我友愛」、「窮理窮行」、「平和共存」、「受容共育」の4つである。平田富太郎先生などと協議をし、「受容共育」を除いた3つを建学の精神として掲げることにした。しかしながら、この建学の精神は学校法人理事会や教授会で正式に討議をし、承認を得るという手続きがないままに使われるようになってしまった。しかし、今では実質的に日本社会事業大学はこの3つを建学の精神としてパンフレット等で使用している。
〇この移転再建業務を担当している1984年4月に筆者は40歳で教授に昇格する。
〇日本社会事業大学には、教員の昇格の基準として“40歳で、単著があること”が要件であると言われ続けてきた。筆者は、当時、その要件には該当しなかったので辞退をしたが、説得され、40歳で教授への昇格が教授会で承認された。
〇それは、移転再建問題への取組の一種の“論功行賞”だったのか、それとも編著、単著論文が数多くあったことが評価されたのかは分からないが教授になった。
〇それは筆者にとって凄いプレッシャーで、できるだけ早く単著を出さなければならないと焦った。当時、全社協出版部に居た斎藤貞夫さん(後に全社協事務局長)と山口稔さん(後に関東学院大学教授)と渋谷近くのホテルに缶詰めになり、既存の論文を活かして、全体を統一できるように編集作業をしながら、足らないところを執筆したことが思い出される。その成果が、1986年9月に刊行された『地域福祉の展開と福祉教育』である。
〇この単著は、“学術論文というより、実践的研究書である”と「まえがき」で書いたところ、恩師の一人の山住正巳先生から、“何を勘違いしているのか、実践的研究書こそが大切ではないか”とお叱りを受けた。確かに、筆者は、「あとがき」で、この本に流れるキーワードは「地域福祉を推進する住民の主体形成」であると書いているので、山住正巳先生の指摘は重要で、それまでどこか自分が行っているのは学術的ではないのではないか、単著というものはもっと崇高な哲学や歴史、海外との比較研究を踏まえた体系的なものであらねばならないと呻吟していただけに、この山住先生のコメントで、筆者の研究者としての姿勢、方向性が確立できると思った。この単著『地域福祉の展開と福祉教育』は何と一万部以上売れた。
〇この学問のあり方に関する一種の“コンプレックス”は、後日、筆者が日本学術会議の会員になった際に、工学系の先生方が同じように悩まれており、“学問とは、戦前の旧国立大学の講座での研究が学問である”という、日本の学術体系への懐疑を同じように思っていたようで、その会議の中での論議には筆者は大変“意を強くした”思い出がある。
〇それは、新しい学問体系としての「統合科学」という考え方であるが、筆者はその「統合科学」の考え方こそが「社会福祉学」なのだと納得した(拙稿「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」日本社会福祉学会編、『社会福祉学研究の50年』、ミネルヴァ書房、2004年参照)。
〇ところで、大学移転発展計画の最中、筆者は島根県瑞穂町へ出張する機会があり、その旅程の中で風邪を引いたのか、咳が止まらなくなり、帰宅後、稲城市民病院の診療を受けた。
〇診断した医師は、風邪の患者のレントゲン、結核の患者のレントゲン、肺がん患者のレントゲン、そして私のレントゲン写真を見せて、どれに似ているかと尋ねるので、私は肺がん患者のレントゲンと似ていると答えると、“そうだ。あなたは肺がんに罹患している”と診断され、慶応大学病院か国立がんセンターの診断を受けなさいと紹介状を書いてくれた。それは、1987年3月13日の金曜日であった。
〇そのまま休むわけにもいかないので、夢遊病者のようにふらふらしながら大学へ行き、板山先生に報告すると、板山先生は即座に国立がんセンターの診断を受けるようにと命じられた。
〇国立がんセンターの主治医は成毛先生で(当時・大熊由紀子朝日新聞論説委員が成毛先生は世界的な肺がんの権威だから先生を信頼したらいいと言ってくれた)、成毛先生はレントゲン写真を見て、98%肺がんだと思うが、国立がんセンターでは病理検査の結果を見ないと診断名を確定しないという。そのうえで、念のため、北里大学病院、結核の権威である複十字病院の診断を仰いでくるようにいわれ、2つの病院の診断を受けたがいずれも肺がんの診断であった。
〇1987年4月7日、国立がんセンターの7階・B棟725号室が我が病室である。A棟は余命行くばかりもない終末期の患者病棟で、よく亡くなられた人がいた。
〇入院前に行った肺生検の結果はシロであったが、肺に影があるので、4月17日に手術をすると言う。多分肋骨3本を切り取って、右肺上葉の肺の影の部分を切除する手術だという。
〇私は、当時子ども幼かったことなどもあり、井上靖の『告知』などのがんに関する本を読んで、自分の将来を悲観した。今は、治療法も格段に進歩しているが、当時はがんは“不治の病”と考えられており、自分の今後の人生をはかなんだ。
〇そんなこともあり、毎日の医師の回診が終わると病棟を抜け出し、築地市場の場外市場のすし屋でお酒とお寿司を食べる毎日であった。看護師はひどく嫌がったが、私の気持ちもすさんでいた。
〇4月16日、手術前の最後の検査があり、今まで膨張していた丸い球体のような影が少しいびつに歪んだのを成毛先生、近藤先生が見つけてくれて、手術は延期、様子見となった。
〇そのまま、退院して様子を見ることになったが、再度12月に肺に影ができ、成毛先生は切って、病巣を確かめたいと言われたがお断りした。その後は影も消え、今日に至っている。
〇国立がんセンターに入院中、「社会福祉士及び介護福祉士」の法案審議が山場を迎えていて、日本社会事業学校連盟事務局長として居たたまらず、病院を抜け出して自民党本部へ陳情に行ったことが忘れられない。

➁日本社会事業学校連盟事務局長を拝命

〇1981年、明治学院大学教授の三和治先生、日本女子大学教授佐藤進先生、日本女子大学教授の高橋精一先生が揃って日本社会事業大学を訪ねて来られて、筆者に日本社会事業学校連盟の事務局長を引き受けてくれないかという申し入れであった。
〇筆者は当時、まだ軸足が社会教育分野にあり、社会福祉分野では学会デビューをしたばかりであった。
〇しかも、日本社会事業大学の先輩教員たちからは“大橋の研究は社会福祉プロパーの研究ではない”と批判・評価されていた時である。
〇筆者自身は日本社会事業学校連盟が毎年1回行っている社会福祉教育セミナーに1974年の日本社会事業大学が開催校としてセミナーを開催した時に参加した程度で、左程日本社会事業学校連盟にアイデンティティを持っていたわけではない。
〇どのような経緯で筆者に白羽の矢が立ったのか分からないが、懇請され引き受けざるをえなかった。当時の日本社会事業学校連盟は赤字団体で、必ずしも加盟校の吸引力があったとは思えない組織であった。
〇一般的には、日本社会事業学校連盟の会長校が先に決められ、其の大学の会長の下で誰が事務局長を担うのかが決められるはずなのに、私の場合は、先に事務局長を懇請された。筆者は引き受けざるを得なくなり、結果として、平田富太郎学長に日本社会事業学校連盟の会長を引き受けて欲しい旨のお願いをした。
〇平田富太郎学長、大学の学長秘書の及川良子さんと会長前任大学の関西学院大学に業務の引継ぎに伺い、本出裕之先生や武田健先生から引継ぎをした。
〇その夜、平田富太郎先生が神戸の街で、みそののステーキとチェリー酒をご馳走してくれた。こんなに美味しいステーキとお酒があるのかと感動したものである。平田富太郎先生には、折にふれて美味しい食事をご馳走して頂いた。
〇小川利夫先生も平田富太郎先生も、若い我々にいろいろなチャンスをくれたなと改めて感謝の念で一杯である。このような機会を通じて、人を育てるということはどういうことかといろいろ学ばせて頂いた。
〇筆者は、日本社会事業学校連盟の事務局長を引き受けて、すぐ取り組んだことは日本社会事業学校連盟の通信を発行することであった。加盟校の中から、赤字団体なのに通信を印刷発行するのはけしからんという苦情、意見を頂いたが、赤字団体だからこそ通信を出して、今、何を取り組んでいるのか、何を取り組むべきなのかを加盟校に周知徹底することが必要であると説き、それが入れられないのなら自分は事務局を降りると突っぱねた。
〇しかも、その通信は各加盟大学の日本社会事業学校連盟担当教員に一部送るだけでなく、必要なら何部でも、全教員分を送るということにした。当時、各加盟校の中には、学校連盟の担当になることを特権化し、学校連盟から入る情報を独り占めにするという教員、大学があったので、大学における情報コントロールの打破が必要であると説き、それが入れられないのなら自分は事務局を降りると突っぱねた。
〇通信の発行により、各加盟校の理解も進み、事務局長に就任した翌年には加盟費を大幅に増額して赤字団体を脱却した。
〇しかも、その頃、日本社会事業学校連盟は国際社会福祉大会の構成・傘下団体の一つとして国際的なソーシャルワーク教育のあり方について関わることが求められていた。しかしながら、日本には社会福祉専門職の制度はないし、ソーシャルワーク教育に関して日本社会事業学校連盟としての基本方針、在り方等について共通の理解が得られてない状況であった。
〇私は、日本社会事業学校連盟の加盟基準を厳しくして、かつ加盟校の社会福祉教育をソーシャルワーク機能に収れんさせて、卒業生に対してサーティフィケーション(認証書)を出して、名実ともに社会福祉専門職として位置づけられるよう、加盟校の社会的評価を高める方針を打ち出した。そのための「学校連盟による社会福祉専門職員養成基準」(養成ガイドライン)を1986年に制定した。
〇この考え方に駒澤大学教授の高橋重弘先生(後に日本社会事業大学学長)、日本女子大学教授の田端輝美先生、同志社大学教授の黒木保博先生(私の次の事務局長。これが縁で、私はその後同志社大学大学院の非常勤講師を約10年間続け、院生を育てる喜びと京都探索の機会を頂いた)等が賛同してくれて一緒に活動を進めてくれた。
〇日本社会事業学校連盟の社会福祉教育セミナーを熱海の赤根崎のホテルで行い、いわば缶詰状態で、専門職に必要な科目のシラバスづくりを行った。この活動が、1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」の成立の下地になっていく(拙稿「戦後社会福祉研究と社会福祉教育の視座」、『戦後社会福祉教育の五十年』ミネルヴァ書房、1998年11月参照)。
〇また、国際社会事業教育会議が国際社会福祉大会の一環として開催されるので、1986年8月には日本社会事業学校連盟の加盟校の案内版として『社会福祉を学ぶ人のために』(全国社会福祉協議会刊)を刊行した(拙稿「日本の社会福祉教育の現状と課題」が収録されている)。

➂市町村社会福祉協議会の実践支援と日本地域福祉学会の創設

〇「地域住民の社会福祉への関心と理解を深め、ボランティア意識の高揚、活動の推進」及び「市町村社会福祉協議会における地区社会福祉協議会づくり支援」とが、1980年代後半において、筆者の大きな学外活動であった。全国各地の社会福祉協議会の招聘を受けて講演、研修をさせて頂いた。
〇東京都社会福祉協議会の中島充洋さん(後に鹿児島経済大学教授)、小島セツ子さん、青山登志夫さん(後に静岡英和大学教授)、東村山市社協の大内高雄さん(後に北星学園大学教授)、小金井社協の桜井猛さん(後に青森大学教授)、狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さんなどとの交流が始まる。
〇また、神奈川県社会福祉協議会では、高島さち子さん(日本社会事業大学の先輩)、熊谷豊寿さん夫妻、山口正一さんや相模原市社会福祉協議会の小野敏明さん(後に、田園調布学園大学教授)、あるいは横須賀キリスト教社会館の岸川洋治さん(後に、西南学院大学教授・学長、横須賀キリスト教社会館館長)、北海道社会福祉協議会の岡部和夫さん(後に名寄大学教授)、林さん、白戸一秀さん(後に旭川大学教授)、千葉県の香取達子さん、高田恵美さんなどとの厚誼が始まる。
〇神奈川県社会福祉協議会の事業の一つに、市町村社会福祉協議会職員が地域づくり活動、地区社会福祉協議会の組織化を図るために地域に出かけるが、今一つ社会福祉協議会の性格やその必要性を市町村社会福祉協議会職員が説明できないということで、神奈川県社会福祉協議会・地域福祉部発行で『社協活動マニュアル』をA4版サイズの裏表のリーフレットを作成した。このリーフレットを増刷りして、住民座談会を進めようというマニュアルである。社会福祉協議会の性格、必要性、社会福祉協議会会費を頂く意味、地域課題を把握する調査の仕方、数字で生活課題を客観化する方法等についてまとめ、リーフレットを第14号まで発刊している。
〇この研究事業が基になって、相模原市の小野敏明さんや横須賀キリスト教社会館の岸川洋治さんたちと丸紅基金からの研究助成を頂き「コミュニティワーク研究会」を組織し、コミュニティワークの機能について研究を進めた。
〇この当時、全国各地の社会福祉協議会に招聘され講演したが、その当時一種のブームだったのか、各社会福祉協議会は筆者の講演録をテープ起こしし、ブックレットとして刊行してくれた。千葉県、神奈川県、富山県等での講演録が残っている
〇長野県社会福祉協議会の小池正志さんに招聘され、松本市の浅間温泉で講演をした(小池さんとはそれ以来の付き合いで、今でも時々あって囲碁を打っている)ことがあり、その講演録が筆者が知らないうちにブックレットとして刊行されていて、筆者が気が付いた時には第3刷りまで刊行されていたことには驚いた。
〇1983年に全国で約700万人の署名もあって、市町村社協が法定化され、市町村社会福祉協議会は地区社会福祉協議会づくり、ボランティア活動の振興、福祉教育の推進にと情熱的に地域福祉の推進の取り組んでいた時代である。筆者も文字通り東奔西走して市町村社会福祉協議会の職員たちと一緒に地域福祉に取り組んでいた時代である。
〇筆者は、かねがね日本社会福祉学会を“親学会”と位置づけたうえで、社会福祉の各分野ごとの学会があっていいのではないかと考えてきた。日本社会福祉学会の大会に地域福祉分科会はあるものの、市町村社会福祉協議会の職員が日本社会福祉学会に入会するのにはハードルが高すぎると考えていて、市町村社会福祉協議会の職員も入会し、地域福祉に関わる実践と理論の体系化を図る学会が必要ではないかと常々考えていた。
〇全社協の和田敏明さんとは「地域福祉活動指導員」の修了生が1000人を超えたら日本地域福祉学会を創設しようと相談していた。しかしながら、1983年の市町村社会福祉協議会法制化以降の市町村社会福祉協議会の実践の高まりを考えると1000人まで待つことはないのではないかと考えて、1986年のころから内々に学会創設の話し合いを始めた。 会長には岡村重夫先生、理事に三浦文夫先生、永田幹夫先生、阿部志郎先生などを候補者に挙げて折衝した。
〇ある時、日本社会福祉学会会長を務められていた一番ケ瀬康子先生から話があるということでお会いしたら、一番ケ瀬康子先生が“あなたは私に盾つくのか”、“社会福祉学会に対抗する分派活動をするのか”と詰問された。
〇日本地域福祉学会は別に日本社会福祉学会を分裂されるとかいうのではなく、上記したような状況を踏まえて、地域福祉の実践と理論の体系化を図ることが目的で、当時在宅福祉サービスの開発が各地で進められていることも含めて説明し、了解を頂いた。一番ケ瀬康子先生自身が杉並区などで在宅福祉サービスの開発やシステムづくりにかかわっていたこともあり、日本地域福祉学会の理事になって頂きたいと話をし、理事に就任頂いた。ただし、理事会には一度も出席されなかった。
〇三浦文夫先生も永田幹夫先生も含めて大方の方は日本地域福祉学会の設立時の会員は200名程度だろうと予測していたようであるが、なんと学会創設時の会員は約700名に及んだ。市町村社会福祉協議会職員の日本地域福祉学会への期待には大きなものがあった。
〇筆者は、日本地域福祉学会事務局長として、今後の地域福祉研究の在り方、課題について、1988年1月20日に発行された「日本地域福祉学会ニュース」No1に「視角 地域福祉の課題」と出して寄稿しているので参照して欲しい(参考資料Ⅰ)。


(2026年1月5日記)

老爺心お節介情報/第79号(2026年1月2日)

「老爺心お節介情報」第79号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

新年明けましておめでとうございます。
「老爺心お節介情報」第79号を送ります。
今年もお互いに体に気を付けて頑張りましょう。

2026年1月2日  大橋 謙策

新年明けましておめでとうございます!

〇年末年始、東京は穏やかな日々でした。皆様には、佳いお年をお迎えのこことお慶び申し上げます。
〇昨年の賀状で、「賀状仕舞い」をさせて頂きました。今まで、年末年始は賀状の対応に追われ、のんびりできませんでしたが、昨年末、年始と賀状のことを気にせず、ゆったりと過ごすことができました。多い年には1400枚の賀状を書いていましたので、まさに様変わりの年末年始の過ごし方です。
〇賀状の交歓は、お互いの消息を確認し、人のつながりを確かなものにする重要な手立てでしたが、寄る歳波には勝てません。お許しいただければと思います。
〇全国的に、人口減少、趙高齢化の進展、核家族化・都市化の中での家族力の脆弱化、地域を支えてきた住民力の減退等の厳しい状況の中で、地域福祉の推進を標榜してきた地域福祉研究者、社会福祉協議会関係者は改めて今こそ何ができるのか、何をすべきなのかを考える必要があります。
〇それは、単なる政策対応でなく、草の根の地域福祉実践を豊かなものにしていくための努力が問われています。それはある意味、住民、行政、社会福祉法人、社会福祉協議会が手を携えて、協働して、「オール福祉」としてのネットワークを構築し、“住民の生活を守り、支援する地域福祉を推進すること“です。
〇私も82歳になりましたが、体調管理に気を付けて、今までの“恩返し”の意味も含めて、草の根の地域福祉実践を豊かにできるよう、「関係人口」の一人として全国行脚をしたいと年始の誓いをしました。
〇国内外とも厳しい世相ですが、皆様にはお体に気を付けて、日本の地域福祉の推進、地域共生社会実現に向けて一緒に頑張って頂きたいと願うばかりです。

(2026年1月2日)

Ⅰ 論稿を読んでー岩城貞時著「拘禁刑と社会復帰支援――社会福祉施設の現場から考える」(『経営協』Vol506、2025年12月、全国社会福祉法人経営者協議会所収)

〇岩城貞時さんは、28回続いている「四国地域福祉実践研究セミナー」の“船頭”仲間の一人である。
〇徳島県三好市社会福祉協議会の職員から転出し、現在は社会福祉法人三好やまなみ会の理事で、ワークサポートやまなみの施設長をされている。
〇岩城貞時さんは、社会福祉士の資格を有し、かつ20年間保護司活動をされている。
〇この論稿は、2025年7月に刑法が改正され、刑務所などでの共生処遇の方法は大きく変わり、刑期を終えてからの社会復帰を見据えた受刑者の特性に合わせた個別処遇の考え方が導入されたことをコンパクトにまとめてくれている。
〇この矯正処遇の考え方の改善は、より社会復帰後の社会福祉関係者の関わり方を求めるものである。「居住支援協議会」や社会福祉法人の地域貢献とも関わってくる大きな刑法の改正である。
〇その論稿をこの「老爺心お節介情報」に掲載したので、社会福祉関係者には是非読んで欲しい。

Ⅱ 「そのときの出逢いが」の執筆裏話

〇阪野貢先生に促されて「そのときの出逢いが」を書き始めてみたものの、執筆はそうスムーズには進まない。
〇まず、50年前、60年前の記憶は定かでないし、それを確かめようにも筆者が収集した資料・蔵書は東北福祉大学大学院へ行っていて、唯一手掛かりは筆者が執筆した論文が年代ごとに保存されていることを手掛かりに執筆を進めている。
〇ところが、頭の中で「そのときの出逢が」を書かなければいけないと思っているからであろうか、パソコンの前に座って書こうと思っても思い出せないことが多い。
〇しかしながら、夜の睡眠中、睡眠がノンレム睡眠からレム睡眠に変わるとき、目覚めて眠れない時があり、その時にあれこれ思い巡らせていると、不思議といろいろなことが思い出される。
〇それは断片的なものであるが、それをメモしておいて、朝、目覚めてからその断片的に思い出されたことを基にすると、いろいろなことが芋づる的に思い出され、文章が書けている。とりわけ、その時々に出逢った人々の名前はまさに芋づる的に思い出されるとういう不思議な状況である。
〇もうすぐ、第5回目の1980年代後半の部分の「その時の出逢いが」を配信できるが、今となってみると、第4回までに書いたものを加筆修正しなければならない部分が多々あることに気が付く。人間の記憶のあいまいさを改めて痛感しているこの頃である。
(2026年1月2日記)

老爺心お節介情報/第78号(2025年12月22日)

「老爺心お節介情報」第78号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

皆さんお変わりありませんか。私は元気に過ごしています。
今年最後の「老爺心お節介情報」を送ります。
皆さん、風邪やインフルエンザに罹患しないよう気を付けて、
佳いお年をお迎えください。
本年もいろいろお世話になりました。お礼申し上げます。
年賀状は、今年の賀状で書きましたように、「賀状仕舞い」をしました。
悪しからずご了承下さい。

2025年12月22日  大橋 謙策

〇皆さんお変わりありませんか。寒暖の差が激しい気候ですが、風邪やインフェルエンザにはくれぐれも気を付けて、佳いお年を迎えましょう。
〇私の方は、今年も「草の根の地域福祉実践」を励ますべく、全国各地を東奔西走しました。
〇“地域づくりにはよくて10年は掛かる”と教えられ、焦ることなく「関係人口」として関わっていこうと思いつつも、老い先長くない私はどうしても焦って、システムづくりや研修をしがちになっています。
〇今の現役の大学教員は、社会福祉士教育の制約もあるのでしょうか、「関係人口」として「地域づくり」に丁寧に関わる教員が減ってきているように思えます。このような状況で市町村の地域福祉実践は豊かになるのだろうかということも私の“悩みの種”です。
〇他方、今年は嬉しいことが2つありました。
〇第1は、日本社会事業大学の学部、大学院での教え子の金玄勲さん(現在社会福祉法人幸福創造の理事長で、ソウル市社会福祉協議会会長)が、11月末の韓国社会福祉協議会会長選挙で、相手候補者にダブルスコアで勝ち、当選したことです。
〇私と2005年頃に「団子3兄弟」を誓った韓国社会福祉学会の元会長である金聖二先生、同じく李世哲先生が多大の応援してくれたとのこと感謝とお礼の申し上げようがありません。人のつながりのありがたさ、嬉しさを改めて実感しました。
〇第2は、日本社会事業大学、東北福祉大学大学院での教え子である大石剛史さんがSOMPO福祉財団賞を受賞することが決まったとのこと、“教師冥利に尽きる”朗報です。

忙しき 仕事仕舞に 冬至かな
山茶花に 潤い見出す 乾き街
年の瀬の 香り漂う 散歩かな
玄冬夜 轟くバイク 何を問い
(兼喬作)

(2025年12月22日)

Ⅰ 本を読んで―「関係人口」のあり方を考える

〇本屋大賞を受賞した『過疎ビジネス』(横山勲著、集英社新書、2025年7月)を地域福祉研究者は是非読んでください。
〇仙台に本社がある新聞社・河北新報の記者が、企業版ふるさと納税を悪用して小さな町を食い物にするシンクタンクの事例を取り上げた内容です。
〇地方の小さな自治体は、人口減少、趙高齢化の中で必死に打開策を見出そうと頑張っています。しかしながら、役場の職員の不足、情報収集能力の不足、企画立案力の弱さがあることは残念ながら事実で、そこに付け込んだ手口です。
〇我々、地域福祉研究者も、地方自治体の地域福祉計画づくりや地域づくりで関りを持つ「関係人口」の一員です。市町村とどのような関わりをもちながら、その市町村の地域福祉の推進に貢献できるのか、改めて考え直しました。
〇地域福祉研究者の地域づくりに関わる「関係人口」のあり方を考えないと一種の研究倫理に違背することにもなりかねません。

Ⅱ 大石剛史著『ケアリングコミュニティの理論―社会福祉の新しい地平を拓く地域福祉のメタ理論』(学文社、2024年9月刊)がSOMPO福祉財団賞を受賞

〇筆者の日本社会事業大学時代の学部生で、修士課程でも指導した大石剛史さんは、国際医療福祉大学の教員時代に東北福祉大学大学院の博士課程に進学し、筆者の下で博士論文を書いて、博士の学位を取得しました(大石剛史さんは2024年度から東北福祉大学教員、日本地域福祉研究所理事)。
〇大石剛史さんの博士論文は、筆者が1990年代から提唱してきているケアリングコミュニティについて、ノディングスやバナーのケアリング理論、あるいはハーバーマスの考え方、小林正弥や広井良典の考え方などと比較しつつ、ケアリングコミュニティ理論を深めてくれました。
〇その博士論文を整理して刊行された本が標記のものです。その著書がSOMPO福祉財団賞を受賞したとのこと大変嬉しい限りです。
〇筆者は、三浦文夫先生の後を継いで2代目のSOMPO福祉財団賞選考委員会の委員長を仰せつかっていました。この財団賞は日本社会福祉学会の「学会賞」よりも歴史が古い賞です(社会福祉学会の「学会賞」は、筆者が日本社会福祉学会の会長の時に、学会創設50周年を記念して2004年に創設したものです)。
〇財団賞の選考の方法はしっかり体系化されたもので、選考委員長として緊張をした選考過程を思い出します。
〇授賞式は、2026年3月10日に行われるということです。財団賞には、副賞としてフィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈られるはずです。

Ⅲ 「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』④

1. 1980年代前半―「福祉教育論」の体系化と「地域福祉活動指導員養成課程」

〇筆者が日本社会事業大学専任講師として採用されたのは、小川利夫先生の後任枠であったので、担当科目は教育原理、社会教育論で、かつ教職課程の責任者としてであった。
〇当時、地域福祉論、コミュニティオーガニゼションは鷲谷善教先生が担当されていた。鷲谷善教先生が、1980年3月に定年退職をされた機会に、筆者がその科目を担当することになり、文字通り「社会教育と地域福祉の学際研究」の科目を担当することになった。そして、この時には、助教授への昇格(1977年)も認められていた。

➀全国社会福祉協議会の「福祉教育委員会」

〇1980年、全国社会福祉協議会・全国ボランティア活動振興センターは「福祉教育研究委員会」を設置した。その委員長に筆者は任命された。それは多分、「ボランティア基本問題研究委員会」での言動や、『月刊福祉』に「福祉教育の視点と方法」(1979年3月号)という論文を書いていたからであろう。
〇福祉教育のあり方を巡っては、日本が1970年に高齢化社会に入ったことを受けて、東京都社会福祉協議会や大阪府社会福祉協議会で、一番ケ瀬康子先生や岡村重夫先生等が中心になって研究が行われ、研究報告書が出ている。その二つの報告書は、いずれも高齢化社会に入った日本の介護問題への理解の促進と必要な人材の養成確保という視点が濃厚にあった。
〇筆者は、それらの福祉教育に関する報告書を尊重しつつも、そのような“〇〇のための福祉教育”という発想ではなく、教育基本法の理念(➀世界の平和と人類の福祉に貢献する力の習得、②個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成の具現化)に、福祉教育が必要不可欠であると考えたからである。
〇当時の教育界では、人権教育、同和教育、平和教育、道徳教育など教育基本法の理念の具現化につながる教育実践、教育課程として位置づけられており、それなりに実践されてはいたが、それらはやや言語的理解に基づくものであった。
〇当時、筆者たちが指摘していた子ども・青年の発達の歪み(➀社会的有用感の喪失、②集団への帰属意識、準拠意識の希薄化、③成就感、達成感の欠如、④対人関係能力、自己実現表現能力の不足、⑤生活技術能力の不足)を改善するのには、言語的な理解の促進以上に、障害を有する人や高齢者等、普段日常的に接する機会が少なくなってきていた方々との交流とその方々への支援に関わるという“切り結び”の中で自己肯定感や社会的有用感が高まると考え、福祉教育の必要性を提起した。
〇そのような取り組みがなくて、高齢化社会の理解、人材確保という視点が先行した福祉教育の必要性をのべても説得的でないと考えた(『青少年のボランティア活動』全国社会福祉協議会・全国ボランティア活動振興センター編、1984年、全社協刊参照)。
〇「福祉教育委員会」の設置を打診された際、筆者は➀子ども・青年の発達の歪みとの関りで、学校教育と福祉教育、②学校外教育の組織化と福祉教育のみならず、③社会福祉専門職養成の在り方としての福祉教育、④成人の地域づくり、生涯学習と福祉教育も視野に入れて議論を進めるべきであると考え、委員の構成もそれらを勘案して欲しいとお願いをした。
〇その結果、「福祉教育研究委員会」の委員は、臼井孝(高校教員)、近藤正(淑徳短期大学助教授)、牧恒夫(栃木県社会福祉教育センター主幹)、阪野貢(宝仙学園短期大学助教授)、興梠寛(日本青年奉仕協会事務局次長)、山田秀昭(全社協・のちに全社協事務局長、常務理事)、木谷宜弘(全社協)で構成された。
〇牧恒夫(栃木県社会福祉教育センター主幹)さんに委員になって頂いたのは、この頃各都道府県で社会福祉研修所の充実強化が図られており、栃木県は県職員の大友崇義さんの思いもあり、かなり本格的な検討・構想で整備されていた。その社会福祉研修センターの一翼に専門職の研修のみならず、成人の社会教育の分野での福祉教育も、就学中の子ども・青年の分野でも福祉教育を入れて、推進してもらいたいと考えたからである。
〇この頃、筆者は青森県社会福祉研修所(青森県庁には日本社会事業大学の卒業生が沢山おり、野上四郎、秋田谷秀敏、中村晃、三浦裕の各氏には特段のお世話になった)、秋田県社会福祉研修所(大泉哲子日本社会事業大学卒業生)、山口県社会福祉研修所(山本圭介日本社会事業大学卒業生)などに良く招聘されていたので、社会福祉専門職の研修体系の必要性は重々理解していたが、その一翼に成人向け、子ども・青年向けの福祉教育を加えられないかと考えたからである。
〇阪野貢先生は、日本社会事業大学の後輩で当時面識がなかったが、阪野貢先生が書いた『日本近代社会事業教育史の研究』を読んでおり、社会福祉専門職教育の歴史的考察もさることながら、子ども民生委員制度や社会福祉協力校の歴史的側面を整理しておきたいとお願いし、これ以後まさに畏友としてのお付き合いをさせて頂いている。
〇近藤正先生は、東京都主任社会教育主事の経歴を有しているので、社会教育分野での福祉教育の普及を考えたからである。筆者は、1960年代から東京都教育庁の三多摩社会教育会館の事業の一環として、障害者の学習、スポーツ、レクリエーションの普及と福祉教育との取り組みをしていたし、東京都教育庁の事業である「市民参加・企画による講座」の在り方検討会で、社会福祉コースを担当していたこともあり、お願いをした。
〇この「福祉教育研究委員会」では、小学校、中学校、高校での教育課程の中に、いかに福祉教育を素材論的にも方法論的にも組み入れられるかを検討した。文部省(当時)が10年間隔で改定する学習指導要領の中に福祉教育を組み込むことは容易ではないが、各教科の学習素材として福祉教育に関わる資料や視点を組み込めないか、また障害を有している人との“切り結び”を行う方法はないかを検討した。
〇小学校は主に岩手県教育員会と小学校、中学校は島根県教育委員会と中学校、高校はある意味“一本釣り”で研究委員をお願いした。その際に知り合った山口県三田尻高校の権代敏満先生や島根県松徳女学院の山本寿子先生や静岡県の社会福祉法人天竜会の山本三郎先生、山本睦先生などとはその後も厚誼を続けて、いろいろお世話になった。
〇この「福祉教育研究員会」は、その普及・推進のために全国福祉教育研究セミナーを全国各地で行おうと企画し、その第1回が島根県松江市で行われた。
〇また、「福祉教育研究委員会」の成果は、1984年に『福祉教育ハンドブック』として全国社会福祉協議会から刊行されている。また、この研究の成果を基に、その後光生館から『シリーズ福祉教育講座』(全7巻)が刊行されている。
〇この福祉教育研究は、筆者の「社会福祉と社会教育の学際研究」の具体的成果のひとつであり、社会福祉分野において、福祉教育実践、活動の一つの領域を確立し、体系化させたと自負できるものであった。
〇この研究委員会の成果もあって、若輩なのに佐賀県の社会福祉大会に招聘された(招聘してくれたのは当時の佐賀県社会福祉協議会常務理事の大塚巌さん)。また、島根県社会福祉協議会の山本直治常務理事との交流が始まり、山本直治先生の縁で島根県邑南郡瑞穂町(当時、松江から自動車で3時間かかる町)の福祉教育に関わるようになり、日高政恵さん(後述の全社協主催の「地域活動指導員養成課程」の修了者)と肝胆相照らす仲になる。
〇日高さんは成人向けの福祉教育では、町内の集落ごとに「地域福祉デザイン教室」を開き、いまでいう地区ごとの地域福祉活動計画を策定した。また、町内の小学校で、大山先生などと福祉教育を行うとともに、ご本人は手話講習会の講師を務める等の福祉教育を多面的に展開し、“社会福祉協議会の活動は福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”という哲学で社会福祉協議会と福祉教育を推進された(『安らぎの田舎(さと)の道標(みちしるべ)』澤田隆之・日高政恵共著、万葉舎、2000年8月刊行参照)。
〇ちなみに、日本地域福祉研究所主宰の全国地域福祉実践研究セミナーの第1回は、瑞穂町で1995年に行われた。

②全社協「地域福祉活動指導員養成課程」での出逢い

〇全社協は、1979年度から「地域福祉活動指導員養成課程」を始めた。筆者はその第1期から「福祉教育論」を担当した。
〇この養成課程は、全国の社会福祉協議会の職員が履修する通信制の課程で、各教科毎に課題に即してレポートを提出させ、講師が添削をして返却する方法で、講師にとっても負担の大きいものであった。
〇と同時に、この養成課程は期末に1週間の宿泊を伴うスクーリングがある。朝から晩までの講義とグループディスカッションは濃密なもので、履修者相互の交流の深まりもさることながら、講師との関りも濃密になり、筆者にとってはその場で全国各地の地域福祉実践の現状、情報の把握ができる場で、研究者としても貴重な機会だった。
〇更には、夜の酒を通じての懇親の機会は、お互いが一宿一飯の釜の飯を同じくした、地域福祉実践向上を志した“同志”のような気持にさせてくれるものであった。
〇筆者は、この養成講座で知り合った実践家たちにどれだけ教えられたか分からないほどの学びがあり、それが“縁”で各地での地域福祉実践向上に向けた実践研修の機会や地域福祉計画策定、社会福祉協議会の組織経営のコンサルテーション等の機会を頂けた。
〇この「地域福祉活動指導員養成課程」での出逢いがなければ、筆者の地域福祉研究は、空疎な、抽象的なものになっていたことは紛れもない。
〇その養成課程における「出逢い」の一端は、2017年に日本地域福祉学会第31回大会が松山大学で行われた際にまとめられた『地域福祉の遍路道―四国・こんぴら地域福祉セミナーに学ぶ』(2018年刊行)に収録されている拙著「地域福祉実践の真髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク」に詳しいので参照頂きたい(阪野貢先生主宰の「市民福祉教育研究所」のブログに収録されたている)。
〇沖縄県読谷村の上地武昭さん、香川県琴平町の越智和子さん、徳島県社会福祉協議会(当時)の日開野博さん、白方雅博さん(松山市社会福祉協議会)などとの交流が始まる。
〇上地さんは、その後沖縄大学の教員になるが、沖縄県浦添市の地域福祉計画づくり(浦添てだこプラン)や沖縄県地域福祉実践セミナー、沖縄県中部市町村社会福祉協議会事務局長研修などで一緒に活動することになる。
〇越智和子さんは、琴平町がボラントピア事業を受託した1980年に琴平町へ招聘してくれた。夏の暑い日で、中学校の体育館に約1000人程度が集まる盛況で、体育館にはエアコンもなく、客席の間の通路に氷柱を立てての講演会で忘れられない思い出である。その後、琴平町が「ふれあいのまちづくり事業」を受託する1995年に、当時の町長と尋ねて来られ、それを契機に琴平町及び琴平町社会福祉協議会のコンサルテーションが続くことになる。
〇1997年には、第1回のこんぴら地域福祉セミナーを開催し、ホテルの会場に約600人の住民が参加した。その第1回のセミナーには、島根県瑞穂町の日高政恵さん、岩手県湯田町(現西和賀町)の菊池多美子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者)もシンポジストとして登壇してくれた。
〇このように「地域福祉活動指導員養成課程」で「出逢った」社会福祉協議会職員との関りが筆者の地域福祉実践、研究を育ててくれた。その一人一人の名前を挙げることはここではできないが、改めてこの紙上で厚く感謝とお礼を申し上げる次第である。

③社会福祉とレクリエーション

〇筆者は、1960年代後半から、障害者の学習・スポーツ・レクリエーションに関心を寄せ実践的研究を行ってきた。
〇それは、社会教育法が、全ての国民が社会教育を行えるよう条件整備をすることを法律で謳っているにも関わらず、当時の社会教育では障害者や高齢者の社会教育は殆ど展開されてなく、社会教育法の趣旨に反するのではないかと考えたことと、他方、社会福祉行政における障害者施策の中に、障害者の学習・文化・スポーツ・レクリエーションに関する施策は年1回の運動会以外皆無という状況であった。
〇「社会教育と社会福祉の学際的研究」を志している筆者にとって、これらの状況は看過できない状況であった。
〇このような時代背景もあって、筆者は障害者、高齢者の社会教育の推進について論文も書き、実践も行ってきた。
〇その一環として、1980年代前半に、日本社会事業大学の垣内芳子先生や日本レクリエーション協会の薗田碩哉さん、千葉和夫さん(後に日本社会事業大学教員)と「社会福祉とレクリエーション研究会」を作り、調査研究を行った。
〇この研究活動の一環として、全国の入所型社会福祉施設の実践がレクリエーションの考え方に照らしてどうなのかという視点での調査をおこなった。その際、我々は、レクリエーションの考え方をいわゆる“チイチイパッパをすること“というレクリィエーションではなく、その人の快適な状況を創り出すという視点を大事にし、その人の生活環境を「快・不快」という視点から分析することにした。
〇1981年には、日本レクリエーション協会の機関誌『レクリエーション』(244号)に垣内芳子先生と共著で論文を書いた。垣内先生は、日本社会事業大学で体育とレクリエーションの開講科目を担当していたが、多分、この論文がある意味その後の垣内先生の研究領域、研究方法を変えたのではないかと考えている。
〇「社会福祉とレクリエーション研究会」の成果を筆者は、日本社会事業大学の紀要第34号(1988年3月刊行)に「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」と題して執筆している。
〇1988年の6月に行われた学校法人日本社会事業大学の理事会に出席されていた阿部志郎先生が、筆者の論文を読んでこういう考え方が必要だと評価してくれたのを思い出す。それは、阿部志郎先生や仲村優一先生等が編者として刊行した『社会福祉事典』にレクリエーションの項目がなく、それを批判したことと、権田保之助の考え方、福祉サービス提供のあり方(入所型施設で提供しているサービスを分節化して、利用者の必要と求めに応じてサービスパッケージの方法で行うことを提唱)に関心を寄せてくれたからである。
〇「社会福祉とレクリエーション研究会」の研究成果は、日本レクリエーション協会が出版社ぎょうせいから3部作として刊行したものの1冊として、1989年4月に『福祉レクリエーションの実践』として刊行されている。

④地域福祉計画―1990年代の市町村社会福祉行政の計画化の先取り

〇筆者は、1976年に拙稿「施設の性格と施設計画」(『社会福祉を学ぶ』、有斐閣、1976年)を執筆した時から、なぜ社会福祉行政には地方自治体ごとの社会福祉施設整備計画、社会福祉サービス整備計画がないのかと問い続けてきた。例え、社会福祉行政が機関委任事務であっても必要な社会福祉施設整備計画は必要ではないかと考えてきた。
〇その考え方は、➀社会教育行政では、市町村の社会教育計画を策定するという考え方があったこと、②1969年の地方自治法の改正で、地方自治体は基本構想、基本計画、実施計画という計画行政を展開することが求められてきたこと、③江口英一先生の指摘を考えるならば、住民は自ら住んでいる地方自治体に対し、住民の生活を守るべき計画行政を推進すること、とりわけ保育所の整備は待ったなしの状況であったことが上記のような論文を執筆するに際しての要因としてあったのかもしれない。
〇いずれにせよ、筆者は1970年代初めからに市町村行政における社会福祉計画の必要性を提起してきた。1979年に執筆した「ボランティア活動の構造図」においても社会教育計画の必要性を位置づけている。
〇筆者が地方自治体の計画行政に携わるのは、1970年に東京都稲城市での「社会教育施設モデルプラン」、社会福祉行政分野では1979年に足利市からの委託を受けて行った「足利市における社会福祉実態調査研究報告書」(日本社会事業大学地域福祉計画研究会刊)を出し、それを踏まえて1980年に「今後の足利市における社会福祉施策について(答申)」に関わったことが始めである。
〇全社協は、1983年の市町村社会福祉協議会の法制化に際し、議員立法ということもあり国会で付帯決議がなされた。その付帯決議の趣旨を踏まえて、市町村社会福祉協議会の力量を高める一つとして、全社協は地域福祉計画を策定することを考えた。それは自治体計画と相互補完的な位置づけの下に、市町村社会福祉協議会の充実強化と地域福祉、在宅福祉サービスの整備を計画的に進めようという考え方であった。
〇全社協の「地域福祉計画」策定委員会は、全社協・地域福祉推進委員会の特別部会として設置され、委員長は山形県社会福祉協議会の渡部剛士事務局長であった。
〇この委員会で、関西地区を代表して委員になった牧里毎治さんと一緒した。この委員会の研究成果は、『地域福祉計画―理論と方法』として1985年に全社協出版部から刊行された。
〇この委員会に置いて、筆者はフォーマルサービスの整備とともに、近隣住民によるインフォーマルケアが必要であることを提起したが、当時の全社協地域福祉部長の石黒チイ子さんが“大橋さん、インフォーマルケアってどういうこと”と質問されたことが鮮明に記憶されている。
〇この委員会が契機となり、牧里毎治さんに依頼されて、日本生命済生会が出版している『地域福祉研究』第12号(1985年)に拙稿「地域福祉計画のパラダイム」を執筆した。
〇このような経緯もあり、筆者は市町村や市町村社会福祉協議会の地域福祉計画策定の重要性を改めて認識し、その計画づくりにおいて地域福祉の視点に基づく新しい社会福祉サービスの開発や新しい地域福祉の視点に基づくシステムづくりを意識的に重視して入れ込んでいくことになる。筆者が、“地域福祉とは新しい社会福祉の考え方であり、新しい社会福祉サービスの提供であり、新しいシステムづくり”なのだという考え方は、この委員会での論議を踏まえたものである。
〇筆者は、この後、全国各地の市町村で地域福祉計画、老人保健福祉計画、生涯学習計画などに携わることになる。その計画づくりが抽象的な絵空事を並べたものでなく、「画に書いた餅」でないことを明らかにするために、その計画で盛られたシステムづくりや求められた実践が計画策定後豊かに展開されたことを確認するとともに、それらの計画内容と実践を広く広めるために本として刊行してきた。
〇その一端が、東京都狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあプラン」(『地域福祉計画策定の視点と実践』(第一法規出版、1996年刊)、岩手県遠野市の「ハートフル遠野プラン」(「21世紀型トータルケアシステムの創造」万葉舎、2002年刊)、山口県宇部市の生涯学習・社会教育計画「いきがい発見のまち」(東洋堂企画出版社、1999年刊)、長野県茅野市「福祉21プラン」(『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規出版、2003年)等である。
(2025年12月20日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。

老爺心お節介情報/第77号(2025年10月21日)

「老爺心お節介情報」第77号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

お変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第77号を送ります。
ご笑覧下さい。

2025年10月21日  大橋 謙策

〇漸く秋めいてきました。我が家の庭木に、金木犀が2本あります。例年ですと、9月末から10月初めに咲くのに、今年は咲きませんでした。若木の金木犀が咲いたのが10月10日、古木の金木犀は漸く10月19日に咲きました。草花の様子を見ても気候がおかしいことが分ります。銀木星は、金木犀ほどには匂いませんが咲いています。
〇2022年3月に発見され、2023年2月に重粒子線治療を受けていた前立腺がんは、2024年6月にはホルモン療法も終わり、全ての処方が終了しました。
〇その後はその後は3か月ごとの経過観察をしていましたが、前立腺がんマーカーが0・008で推移していることもあって、この10月15日に受けた経過観察により、次回の経過観察の診察は6か月後になりました。これからも、当分の間は経過観察が必要とのことですが、取り敢えずは“完治”したものと考えてよいとの診断でした。
〇厚生労働省から、2025年7月25日にだされた『2040年に向けたサービス提供体制等のあり方』報告書は、今後の社会福祉制度、体制に深く関わる報告書です。ダウンロードして読んでください。ある意味、この報告書は、重層的支援体制整備事業と対になる報告書で、従来の社会福祉研究、社会福祉実践のあり方が全面的に問い直される考え方を内包させています。
〇この10月26日で、82歳になります。週1回は地域の囲碁クラブに行き、“脳トレ”を行い、週1回はスポーツジムに通い“筋トレ”をし、毎日8500歩から1万歩歩いて、毎日晩酌をする生活をする日々です。お陰様で、各地のCSW研修にも出かけられ、ご当地の美味しい肴で、美味しくお酒を酌み交わすことができています。
〇「老爺心お節介情報」第77号を送ります。“人との出逢い”やその当時の出来事に関わる記憶が定かでないところもあるので、今後加筆修正があるかもしれません。ご笑覧下さい。
(2025年10月21日記)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』

 Ⅲ 1970年代後半における「ボランティア研究」と「施設の社会化論」

〇1974年に日本社会事業大学の専任講師に就職でき、筆者の研究関心、研究領域は、社会教育に偏っていた1970年代前半と異なり、社会福祉領域へと変化していく。その橋頭保ともいえる研究課題は「ボランティア研究」と「福祉教育研究」であった。

➀日本青年奉仕協会と「ともしび運動」の総括研究

〇筆者が、いつ誰の紹介で、どのような経緯を経て日本青年奉仕協会に関わるようになったのかは記憶が定かでない。しかしながら、社団法人日本青年奉仕協会が刊行している『青年と奉仕』の第100号記念特集号(1975年12月刊行)に「ボランティアと社会教育」と題して論文を書いている。この100号記念号では、一番ケ瀬康子先生や柴田善守先生が座談会に登場している。
〇日本青年奉仕協会は、総理府の青少年問題協議会や文部省の社会教育審議会のオピニオンリーダーを務めた末次一郎氏が主宰して、1967年に創設された組織である(末次一郎氏は、佐賀県白石町生まれで、戦前の陸軍の中野学校二俣川分校の卒業生、戦後の北方領土返還活動や沖縄返還などの影の功労者で、岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘等の歴代総理大臣の相談役を務めた影のフィクサーでもあった)。
〇日本青年奉仕協会には、祐成善次、新田均、興梠寛等の職員がおり、全国ボランティア研究集会を開催していた。多分、その全国ボランティア研究集会に参加していて、交流がはじまったのだと思う。
〇少々、時期は前後するところがあるが、山梨県ボランティア協会(岡センター長)、静岡県ボランティア協会(小野田全宏現理事長)、世田谷区ボランティア協会(牟田悌三会長)、東京都ボランティアセンター(吉沢英子センター長、日本女子大学、大正大学教授)、富士福祉事業団(枝見静樹理事長)らとの交流もこの頃から始まる(大阪ボランティア協会は戦後初期の1947年に同名の組織がたちあがったが、現在の大阪ボランティア協会は1965年に発足している。筆者との関係は地理的に遠いということもあり、交流が深まるのは1977年の日本社会福祉学会で、当時の岡本栄一事務局長(後に聖カタリナ大学教授)と出会ってからである)。
〇多くの社会福祉関係者は、1995年の阪神淡路大震災支援のボランティア活動を称して「ボランティア元年」と言っているが、ボランティア活動はすでに1970年代中頃から各地で取り組まれている。
〇1970年代中ごろのボランティア活動に関わる隆盛は、その当時都道府県及び都道府県社会福祉協議会が取り組んでいた一種の精神作興運動である「福祉の風土づくり」といウ感性運動があった。
〇その先鞭をつけたのが、神奈川県知事の長洲一二知事で、1976年に神奈川県で「ともしび運動推進協議会」が設置され、1978年には「ともしび運動を進める県民会議」が発足する。
〇1976年に「ともしび運動を進める県民会議」に「ともしび運動促進研究会」が設置され、筆者が委員長を仰せつかった。それは、神奈川県庁職員の大澤隆さんの推薦でなされた人事だと聞いている。大澤隆さんは日本社会事業大学の先輩で、岩手県社会福祉協議会職員を経て神奈川県に就職、後に岩手県立大学の教授を務める。
〇この委員会では、行政からの一方的な戦前のような精神作興運動にならないよう、福祉教育の在り方やボランティア活動のあり方、住民参加について丁寧に論議をした(「ともしび運動促進研究会中間報告―ともしび運動の発展をめざして」1977年参照、委員には青年奉仕協会興梠寛、南里悦史(東大大学院1年後輩、後に九州大学教授)西山正子(後に茅ヶ崎市議員)、大澤隆(神奈川県民生部))。
〇この「ともしび運動の中間報告書」で、筆者は「福祉教育の定義」を整理する。

(註1)
「福祉教育とは、憲法第13条、第25条等の規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作り上げるために、歴史的にも、社会的にもそがいされてきた、社会福祉問題をそざいとして学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的活動」(上記報告書P4)

〇これ以降、各地で、名称は異なるものの、「福祉の風土づくり」運動が都道府県社会福祉協議会によって展開される。筆者は、この取り組みの講師として各地に呼ばれた。多分、それは「社会教育と社会福祉の学際研究」をしていたからであろう。

➁全社協「ボランティア基本問題研究委員会」の作業

〇全社協が、各地の善意銀行や奉仕銀行などのネットワークの役割を担っていた「中央ボランティアセンター」を、1977年に国庫補助が付いたこともあり、全国ボランティア活動振興センターへと改組した。
〇全社協のボランティア活動の牽引者は木谷宜弘先生で、徳島県社会福祉協議会時代に善意銀行を作り、その力量が買われ、全社協のボランティア活動の担当者に迎えられる(木谷宜弘先生は、後に淑徳短期大学教授、福山平成大学教授を務める)。
〇その全国ボランティア活動振興センターが、1968年に策定していた「ボランティア活動を育成するためにーボランティア育成基本要綱」を改訂すべく、1979年6月に「ボランティア基本問題研究委員会」を立ち上げる。委員長は、阿部志郎先生で、筆者は作業委員会委員長と起草委員会の委員長を仰せつかった。
〇筆者は、この機会以降木谷宜弘先生に懇意にして頂き、共編著をいくつも上梓しているが、その最初の契機がこの時である(木谷宜弘先生とは、通算28回を数える四国地域福祉実践研究セミナーで毎夏お会いし、俳句の指導を頂いた。四国地域福祉実践セミナーでは、日本社会事業大学の先輩で、徳島県の部長、徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた丸川悦史先生とも毎夏お会いしている。丸川悦史先生も俳人で、お二人には本当によくして頂いた。その二人に加えて、真言宗仁和寺派願成寺の大西智成住職(元社会福祉法人阿波老人福祉会理事長)、徳島県社会福祉協議会職員の日開野博さん(後に四国大学短期大学部教授先生)等、皆ボランティア活動や社会福祉協議会の仕事での出逢いである)。
〇この「ボランティア基本問題研究委員会」の委員には、当時のボランティア活動を牽引していた方々が就任していた。委員長の阿部志郎先生を始め、富士福祉事業団の枝見静樹理事長、ハーモニィ・センター理事長の大野重男さん、大阪ボランティア協会理事長の柴田善守先生、東洋大学の吉沢英子先生、日本青年奉仕協会の新田均さん、厚生省専門官の根本嘉昭さんなどが委員になっていた。
〇「ボランティア基本問題研究委員会」で、筆者はフランスの「博愛」、「公民」の精神こそボランティアの理念であると考え、その当時のボランティア論とは異なる発想をした。マルセル。モースの「贈与論」とは異なる論理の展開をした。
〇この研究委員会の報告書に書かれている「ボランティア活動の構造図」を、後日2010年3月26日に椿山荘で行われた日本地域福祉研究所主催の筆者の学長退任を祝って行われたシンポジウム「大橋謙策先生地域福祉論の警鐘・発展の集い」に、和田敏明さんはシンポジストして登壇してくれ、大橋地域福祉論の中枢は「ボランティア活動の構造図」にあると述べてくれた。
〇この報告書では、ボランティア活動の目標を「自立の連帯の社会・地域づくり」とした。単に、“地域社会”とせず、“社会・地域づくり”としたのは、“住民が住んでいる最も基礎的ケアの公共圏は、地域であり、基礎の自治体である市町村”であることを自覚し、そこを拠点に発展的に“ケアの公共圏”を国、国際へと広げる考え方を示したかった。はじめから広い公共圏域を考えることもあるが、悪くすると、自分の住んでいる自治体を置き去りにして、“社会”で活動をしているという“自己満足”になりかねない。筆者のこれらの考え方には、江口英一の論文が影響していたのかもしれない。
〇その上で、地方自治体を豊かにするのには、①隣近所でのあいさつ、見守り、助け合いの機能、②日常的に意識しないと忘れられ、置き去られている、時には排除、偏見にさらされている障害者等福祉サービスを必要としている人、家族を発見し、支えていく機能、③地方自治体の社会福祉問題を計画的に改善する方向を示す社会福祉計画づくりという3層の構造図を示し、その土台、基礎になる福祉教育の必要性を指摘した。
〇と同時に、民生・児童委員、社会教育委員、保護司、消防団などの関係者も重要なボランティア活動をしている人々であることを書いた。これらの人は、ボランティア活動の契機は行政からの委嘱であるが、これらの人々の活動がなければ地域は維持できないし、良くならないことを位置づけした。

(註2)
ボランティア活動の性格と構造

〇「ボランティア基本問題研究委員会」での活動が認められたのであろうか、その後各地の社会福祉協議会から招聘されることになる。
〇1978年、富山県社会福祉協議会から市町村社会福祉協議会職員研修で招聘された。担当してくれたのは、日本福祉大学卒業生の浅野、小平の両氏であった。日本福祉大学卒業生という“仲間意識”があったのであろう、二人に、単発の研修の講師で呼ぶのではなく、少なくとも3年継続して職員研修に呼んで欲しい旨をお願いした。職員研修に参加しいて、このような提案に飛びついてくれたのが、氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん、小矢部市社会福祉協議会の加藤邦子さんらで、その後氷見市には約40年刊継続的に関わるし、小矢部市とも約10年間通うことになる。これが、筆者の「バッテリー型研究」の走りである(『福来の挑戦――氷見市地域福祉実践40年のあゆみ』中央法規出版、2023年4月刊行参照)。
〇同じころ、宮城県社会福祉協議会の阿部守枝事務局長にも招聘され、同じような関わりの持ち方をお願いしたが、東和町の藤原さんなどとの関係はできたが、「バッテリー型研究」実践の関わりはできなかった。
〇「ボランティア基本問題研究委員会」の作業委員長、起草委員長を仰せつかったのは、筆者が1977年10月号の『月刊福祉』に「地域福祉の主体形成と社会教育」という論文を掲載していたことや、先の神奈川県の「ともしび運動」の総括研究をしていたからではないかと推察している。
〇『月刊福祉』の論文では、住民の生活課題を解決するには地方自治体の役割が重要で、社会福祉は「地域を見直し」、制度上、実践上きちんと位置付けるべきだと主張し、そのためにも地方自治体毎に地域福祉計画を策定するべきであるし、それを可能ならしめる住民の福祉学習の重要性、社会教育との連携の必要性を説いた。
〇1975年頃、筆者は戦前の「自由大学」の研究プロジェクトに参加していた。その一環で、小川利夫先生に連れられて、長野県上田市の在所にある別所温泉を訪ねた。上田自由大学(信濃自由大学)創立時のメンバーである猪坂直一さん、山越脩蔵さんにインタビューをするためであった。
〇上田自由大学は、1921年に上田在住の絹などを扱う青年たちが起こした住民の手による学習の機会であった。土田杏村や高倉輝を中心に、谷川徹三、新明正道、中田邦造、三木清、井隆等錚々たる講師陣を迎えて、上田自由大学が運営されていた。その提唱者の山越脩蔵さんや猪坂直一さんにインタビューすることが目的であった。
〇宮原誠一先生が推進されていた信濃生産大学等も含めて、住民自身の企画による自由な、体系的な学習の在り方に関する研究の一環であった。
〇このような研究プロジェクトの一員であったこともあり、筆者は東京都三鷹市勤労青年学級をより発展させた、体系的な「地域青年自由大学の創造」という論文を1979年に書いている(『講座日本の学力第14巻 青年の学力』に所収)。
〇そのような背景もあり、筆者は山口県宇部市の「婦人ボランティアセミナー」(文部省国庫補助金事業)の企画を任された時、体系的なボランティア学習のセミナーを企画した。
〇宇部市教育委員会の担当者は、田中辰彦社会教育主事で、朝に度々電話を頂くことになるのだが、田中辰彦さんは、いつも“おはようございました”と言って電話してきていた。“おはようございます”ならわかるけど、“おはようございました”はいくら方言にしても私にはなじめない挨拶をする方でした。
〇田中辰彦さんは、社会教育主事の養成課程で当時九州大学にいた小林文人先生(後に東京学芸大学)と懇意にしていて、「婦人ボランティアセミナー」をやるなら大橋謙策に相談しろということで、私が東京都国立市公民館で講師をしている時に訪ねてこられ、それ以来親交が深まっていく。
〇宇部市の「婦人ボランティアセミナー」は、文部省国庫補助事業として1977年から実施される。毎年6月開講、翌年2月終了で、9か月間に20回以上に亘り、➀社会福祉に関する基礎学習とボランティア活動の理念の学習、②高齢者や障害者等の地域における具体的生活問題の学習、③住民の辞が区次週、相互学習の重要性を学ぶ社会教育の基礎学習、④社会福祉のボランティア活動に必要な手話・展示・車椅子操作等の実践技術の習得、⑤聴覚障害者施設での体験学習の5分野を学ぶ。筆者は、このセミナーの常勤講師を20年以上続けてきた(「婦人ボランティアセミナー」はその後2年生になり、男女共学になった。『いきがい発見のまちーー宇部市の生涯学習推進構想』東洋堂企画出版、1999年6月参照。この宇部市の構想が1989年の東京都狛江市社会福祉協議会が策定した「あいとぴあ推進計画」における「あいとぴカレッジ」へと継承される)。
〇宇部市へは、当初夜行列車で、その後YS11の飛行機で、その後ジェット機と新幹線で通った。宇部市での思い出は沢山あるが、筆者が小学校6年の時に鯖を食べて蕁麻疹になり、それ以来鯖を食べられなかったが、宇部市の居酒屋で“だまされたと思って食べてごらん。ぶりよりも、マグロよりもおいしいよ”と言われ恐る恐る鯖を食べた。その鯖のおいしいことに感動し、以来生鯖を食べることができるようになったし、好物になった。

➂日本社会福祉学会デビューと「施設の社会化論」

〇筆者が、日本社会福祉学会に入会したのは、大学院の修士課程が修了した時であるが、日本社会福祉学会デビューは、1978年に大正大学で行われた大会で、大会プログラムである「シンポジュウム・社会福祉施設の社会化」のシンポジストに指名された時である。このシンポジュウムの発言をまとめたものが。1978年の日本社会福祉学会の紀要に「施設の社会化と福祉実践」として掲載された。
〇大正大学のシンポジュウムを終えて帰る際、大正大学キャンパスのイチョウ並木のところで、大阪ボランティア協会の岡本栄一先生と早瀬昇さんに呼び止められ、“今日のシンポジュウムでの発言はとても良かった”とお褒めの言葉を頂いた。岡本栄一先生と早瀬昇さんとの出逢いはこの時が最初である。
〇この時のシンポジュウムの発言をまとめた「施設の社会化と福祉実践」の論文は、全社協が1976年度から始めていた「福祉施設長専門講座」の「地域福祉論」の開講科目講師を岡村重夫先生から1988年度に受け継いだ以降、科目名称を「社会福祉施設と地域社会」と改称して、この論文をテキストとして活用してきた。今でこそ、社会福祉法人の「地域貢献」が声高に叫ばれているが、筆者は既に1980年代に「社会福祉法人が経営する社会福祉施設の地域化と社会化」を主張し、その財源確保のためにも社会福祉法人の後援会の組織化の必要性を説いていた。
〇1970年代前半から後半にかけて、小川利夫先生が務められていた「教育制度改革委員会」の会合は頻繁に行われていて、筆者もその末席を穢していたので、小川利夫先生や一番ケ瀬康子先生、堀尾輝久先生等と顔を合わせる機会が多かった。そんな折、小川利夫先生が、“一番ケ瀬さんが、お前のことを軽薄だ”と評価していたぞと言われた。何を基にそう評価されたかは分からないが、この一言は、自分が「社会教育と社会福祉の学際研究」をする上で、大きな意味をもった。一番ケ瀬康子先生にも評価される社会福祉研究をしないと、学際研究者として認めてもらえないと襟を正す言葉だった(一番ケ瀬康子先生には、その後、光生館から一番ケ瀬先生に話があった「福祉教育シリーズ」全7巻の編集をすべて任せてくれた。他方、1987年に日本地域福祉学会を創設する際には、“大橋さんは、私に盾ついて、社会福祉学会の分派活動として日本地域福祉学会を創設するのかと叱られた。しかしながら、日本地域福祉学会の理事は引き受けて貰えた)。

④アメリカの社会福祉教育の視察と世田谷区老人大学構想

〇1971年に日本社会事業大学の学長を退任されていた木村忠二郎先生が、1974年には理事長も退任された。
〇木村忠二郎先生は筆者が日本社会事業大学に入学した時の学長でもあり、筆者が学生自治会の副委員長を務めていた時の交渉では朝8時に大学で面談をした思い出がある(木村忠二郎先生は、厚生省事務次官を退任された1958年9月に財団法人社会福祉研究所を創設され、理事長に就任する。筆者は、2010年6月に財団法人社会福祉研究所の第5代目の理事長に就任する。財団法人社会福祉研究所は、残念ながら2021年6月に経営できずに解散した)。
〇木村忠二郎先生の後任には厚生省社会保険局長をされた伊部英男先生(灘尾弘吉先生の娘婿)が就任された。
〇伊部先生は、なぜ日本社会事業大学に社会福祉施設で働く職員の養成課程がないのかと指摘された。厚生省は1971年の「社会福祉施設緊急整備5か年計画」を契機に、社会福祉施設の増設をしているのに、厚生省の委託を受けている日本社会事業大学が社会福祉施設に働く職員の養成をしていないのはおかしいということだった。
〇また、その頃は、戦前の海軍博物館で、空襲を受けていた日本社会事業大学の建物は老朽化が進んでいて、日本社会事業大学の再建のあり方が幾度となく学内で論議されていた時代である。
〇厚生省は、1975年3月に、厚生省社会局長私的諮問委員会「社会福祉教育問題検討委員会」を設置し、「今後における社会福祉関係者教育の基本構想及び社会福祉教育のあり方」を諮問した。
〇他方、1971年4月に、日本社会事業大学は併設していた社会福祉事業職員研修所を全国社会福祉協議会へ移管を決定した(筆者は、この時初めて教授会で発言し、社会福祉事業職員研修所の移管に反対する意見を述べた)。
〇このような経緯があり、1971年6月にアメリカの社会福祉教育の現状を視察研究すべく視察団が結成された。団長は福武直先生(当時、社会保障研究所所長)で、団員には三浦文夫先生(社会保障研究所部長)、石井哲夫日本社会事業大学教授、小林迪夫厚生省専門官が選ばれていた。どういう風の吹き回しか知らないが、筆者もその視察団の団員に選ばれて初めての海外旅行でアメリカへ行った。アメリカでは、ミシガン大学やニューヨークのアデルファイ大学などを視察した。
〇その視察での見聞が活かされて1975年7月に先の諮問委員会の第1次答申「社会福祉教育のあり方について」が出される。
〇当時、筆者は、世田谷区老人大学設立検討委員会(座長、世田谷区在住の貞閑静(元東京都日比谷図書館館長)さん、早稲田大学教授(社会教育選考)の横山宏先生も委員)の委員として任命され、「老人大学の構想」をすべて起草させて頂いていた(『老いて学ぶ 老いて拓く』(三浦文夫編著、ミネルバ書房、1996年所収の拙稿「世田谷区老人大学のあゆみ」参照)。
〇その老人大学の運営を託す学長を誰にするか、筆者は思案中だったので、アメリカ視察中に、福武直先生が世田谷区在住だったこともあって、世田谷区老人大学の学長になってくれますかと打診をしたら受け入れてくださった。
〇福武直先生は、東大紛争中、東大の副総長で、加藤総長を補佐する立場にいたので、東大定年後は大学教員への転出はしないと決めていたということだったが、“老人大学の学長”ならいいと言って引き受けてくれた(ちなみに、老人大学の第2代学長は三浦文夫先生。三浦文夫先生が退任するとき、第3代目の学長になれと打診をされたが、筆者は固辞させて頂いた)。
〇世田谷区老人大学は、1977年に開設された。先述したように、筆者はこの頃戦前の「自由大学」の研究をしていたこともあり、ボランティアセミナーも老人大学も住民参加による企画に基づいた自由な、体系的な学習機会の創出が必要だと考えていた(『老いて学ぶ老いて拓く』P56参照、三浦文夫編著、1996年、ミネルヴァ書房)。それこそが、住民の主体形成を図る道であり、住民自治が遂行できると考えていた。
〇その当時の社会教育には、「高齢者の社会教育」、「障害者の社会教育」という分野は研究的にはほぼ皆無の状態であった。
〇筆者は、老人大学の理念、目的を「老人大学とは、➀地域に生きる、②集団で生きる、③若者と生きる、④汗を流して生きる、⑤文化をもって生きる高齢者の自己啓発の場である」と考えた。教育課程は、2年制とし、➀履修者の興味・関心を考え、かつ履修者の問題発見・問題解決型協働学習が可能となるよう、定員25名のコースを4コース(社会コース、生活コース、福祉コース、文化コース)開設、②各コースには若手研究者をチューターとして配置する、③2年後の終了時には卒業論文(レポート)を提出、④2年後の終了時には、“老人の翼”、“老人の船”による修学旅行を行うといった構想であった。この谷、随時文化講演会を開設することも提案した。
〇世田谷区老人大学構想に当たっては、兵庫県が推進していた「いなみの学園」を訪ね、学園長の福智盛先生や北九州市の周防学舎を訪ねた。福智盛先生との厚誼はその後も続いた
(2025年10月21日記)

老爺心お節介情報/第76号(2025年10月1日)

「老爺心お節介情報」第76号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

「老爺心お節介情報」第76号を送ります。
本文に張り付けができなかったので、添付ファイルでの(註)が3つあります。
皆様、ご自愛の上ご活躍下さい。

2025年10月1日  大橋 謙策

そのときの出逢いが
出逢い そして感動
人間を動かし 人間を変えてゆくものは
むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ
感動が人間を動かし
出逢いが人間を変えてゆくんだなあ・・・
(相田 みつお)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➁

Ⅱ 日本社会事業大学卒業後から大学院修士課程修了を経て、日本社会事業大学専任講師就任までの時代―主に社会教育活動での出逢い

➀東大大学院修士課程入学から1970年 

〇筆者は、1967年に日本社会事業大学を卒業し、東大教育学部宮原誠一研究室の研究生になる。
〇大学院に進学して、できれば研究者の道に進みたいと決意した日本社会事業大学の4年生の時には、おぼろげながら「社会教育と社会福祉の学際研究」をしたいと考えるようになった。
〇研究者の道への選択と研究テーマに大きな影響を与えてくれたのが、小川利夫先生が1962年、37歳の時に書かれた論文「わが国社会事業理論における社会教育観の系譜―その『位置づけ』に関する一考察」(日本社会事業大学研究紀要『社会事業の諸問題』第10集)であった。奇しくも、私も小川先生と同じようなテーマで修士論文を書くことになる(修士論文テーマ「戦前社会事業における『教育』の位置」)。
〇大学院研究者への進学を志した日本社会事業大学の4年時は、相変わらず教育科学研究会などに出入りし、群馬県島小学校での実践で一世を風靡した斎藤喜博先生の研究会にも出入りし、教育実践の考え方、方法などについても学んだ(後に発刊された『斎藤喜博全集』を購入したが読み切れなかった。『島小の実践』等単行本の幾冊かは読んだ)。
〇他方、社会福祉論(当時は「社会福祉学」とは言えず、「社会福祉論」であり、体系化された「社会福祉学」への構築を目指した。筆者が、「社会福祉学」を躊躇なく使用するようになったのは、2003度から日本学術会議において日本学術振興会の科学研究費の細目として「社会福祉学」が認められ、「社会学」から独立した時からである)については、当時労働経済学を学ばなければ駄目だと言われていた時代でもあり、大河内一男、氏原正治郎、隅谷三喜男、戸塚秀夫等の著作を読んだ(後日談になるが、日本社会事業大学の専任講師になった際、日本社会政策学会に入会しろと言われた。日本社会政策学会は日本社会福祉学会の親学会だから入会しろと言われたが、私は入らなかった。また、当時は、大河内一男の昭和13年論文「我國に於ける社会事業の現在及び将来―社会事業と社』第22巻5号、昭和13年8月)は社会福祉論を学ぶ者の必読文献と言われ読んだが、なぜ社会事業が労働経済学の社会政策の“補充・代替”の位置にあるのか疑問に思い、納得しなかった。仲村優一先生の『社会福祉概論』は“補充・代替説に立脚している)。
〇そのような経緯もあり、社会福祉論を憲法第25条を法源とする社会的生存権の位置づけだけでいいのかと疑問を持つようになるし、当時の社会福祉学界の通説である「狭義の社会福祉と広義の社会福祉」という言い方には幻滅を感じることになる。
〇そんな折、1967年に『経済学全集22「福祉国家論」』(小谷義次編著)の別冊に収録された江口英一先生の論文「日本における社会保障の課題」を読み、これこそが「社会教育と社会福祉の学際研究」をする際の道しるべだと思った。
〇その当時は、何故か別冊という方式が出版界で流行っていた。少年雑誌などの付録付き雑誌と同じ感覚だったのか分からないが、紙の装丁箱に入っている『福祉国家論』に江口論文は柴山幸治著「福祉国家と経済計画」という論文とともに別冊として入っていた。筆者にとっては、本体の本よりも別冊の江口論文の方が面白かった。
〇この江口論文に示唆されて、対人援助としての社会福祉は国家レベルの政策ではなく、市町村自治体レベルで整備され、システム化されるべきだとの確信を得た。
〇筆者の地域福祉研究は、江口英一学説と岡村重夫学説を乗り越えようとするところから始まった。

➁1970年は筆者の人生の大きな節目

〇1970年は筆者にとって、「人生の大きな節目」であった。
〇「第1の節目」は、1970年3月に東京大学大学院修士課程を修了したことである。「東大紛争」等があり、必ずしも全力で取り組めたとはいえないまでも、東大の中央図書館の地下に個室閲覧室を借りられて、資料を必要なだけ借りて読み、書けたことは自分にとって大きな財産になった(後日談になるが、日本社会事業大学の清瀬移転に伴い、図書館棟を建設できたので、そこに教員や大学院生が研究できるように個室の閲覧室を設けたが、利用者は少なく、後日廃止された。日本社会事業大学大学院の院生の研究能力、研究姿勢に正直落胆した)。
〇修士論文の審査は、宮原誠一教授、碓井正久教授、裏田武夫教授(図書館学)、藤岡貞彦助手などの教員の列席の他、多数の院生にも公開される修士論文公開審査会であった。
〇修士論文のテーマは、拙著『地域福祉の展開と福祉教育』、『地域福祉とは何か』にも収録させて頂いたが、「戦前社会事業における『教育』の位置」である。
〇その審査結果は、宮原誠一先生から良い評価を頂いたが、宮原先生から今度は「社会教育における社会事業の位置を」を研究する必要があるのではないかとの指摘を受けた。
〇宮原誠一先生は1970年3月で退官されたので、最後の指導を受けた院生だった。修士課程を修了し、かつ博士課程への進学も認められた。博士課程での指導教授は碓井正久先生にかわった。
〇1970年の「第2の節目」は、1970年4月26日に日本社会事業大学の同級生の渡部貴恵と結婚したことである。
〇渡部貴恵とは日本社会事業大学1年時の夏休みに一緒に神奈川県立中里学園のボランティア活動を行った。3年次の社会調査実習では、同じ小川利夫班(助手 高澤武司先生、後に岩手県立大学ソーシャルワーク学部学部長)で「中卒青年の集団就職調査」を行い、かつ3年次からは「教育科学研究会」で一緒に雑誌「教育」の勝田守一論文を輪読した仲であった。
〇日本社会事業大学卒業時には、将来一緒になろうと結婚の約束はしたものの、渡部貴恵は東京都職員、私は研究生で将来が見通せない状況だったので、東大大学院の修士課程を修了したら結婚しようということで、1970年4月26日に結婚式を挙げた。新婚旅行の費用は全て渡部貴恵が負担してくれた。結婚のお祝いに夫婦茶碗を2組頂いた(一組は煎茶用の九谷焼で、仲村優一先生から頂いた。もう一組は栃木の方で益子焼のほうじ茶を飲む夫婦茶碗である。その二組の夫婦茶碗は壊れることなく、結婚後55年の現在も毎日使われている)。
〇1970年の「第3の節目」は、女子栄養大学の助手に採用されたことであった。
〇女子栄養大学で教育学を教えていた柴田義松先生から小川利夫先生に話があり、私が女子栄養大学の社会福祉論を担当する助手として採用された。
〇柴田義松先生は、教育科学研究会のメンバーで斎藤喜博先生と教授学部会を作って活躍していた先生で、旧ソ連のレフ・ヴィゴツキーの『思考と言語』の翻訳者でもあった(柴田義松先生は1985年に東大教育学部助教授に転出、のちに教授。日本教育方法学会会長。柴田義松先生の影響もあって、スイスの心理学者・ピアジェの『言語と思考』を齧ったりした)。
〇女子栄養大学の助手の話があった際、私は東大大学院の博士課程に在籍したまま、助手になれるなら受諾しますと生意気にも条件を出し、それが認められて大学院との2重籍で就職した。
〇女子栄養大学の助手の待遇は、一般事務職員と同じように朝から夕方まで勤務する形態で、朝出勤すると出勤簿に押印しなければならなかった。授業を担当する助手なのに、一般教養科目を担当する教室(教授3人)の掃除、お茶くみ、雑務を命じられた。他の実験系教室の助手は助手とは名前が付いているものの、副手か事務職員のような扱いであった。
〇東大紛争を見てきたものにとって、これは看過できないので、まず助手会を組織化した。心ある助手たちと話をし、助手会を作り、助手の地位向上のために助手会の機関誌『あしすたんと』を1971年に創刊した。創刊号の巻頭言を筆者は書いており、そこで助手会結成の目的を“女子栄養大学は「食」にかかわる研究をする単科大学であり、その栄養大学における研究等はどうあるべきかを志向しつつ、助手の研究体制を向上させるところにある”と述べている。
〇助手会の滑動もあって、①出勤体制を教授たちと同じフレックスタイム制にできた、②主任助手制度を創設してもらい、待遇改善を図った、③教授会に助手会の代表を出席させることなどの改善が図れた。
〇このような活動を助手会会長として主導したので、講座制の強い実験系の教授に睨まれ、大学院博士課程と女子栄養大学の2重籍は認めないといわれ、3年半で女子栄養大学助手を退職した。いまとなっては、給料をもらえる助手を継続し、博士課程を退学する道を選べばよかったと後悔しているが、その当時は研究者の道を選んだ以上博士課程を全うしたいと考えていた。
〇助手の籍を失ったので、1973年1月から日本社会事業大学の専任講師に採用される期間、東京都職員であった妻の扶養家族になった。当時、男が妻の扶養家族になるという発想がなく、随分もめたそうだが、結果として認めてもらった。収入の面は、三鷹市勤労青年学級の講師をしていたので、それなりにあったが、健康保険面で扶養家族にならざるを得なかった。

➂稲城市社会教育委員と「社会教育推進全国協議会」、「社会教育学会」の活動

〇1970年4月、我々夫婦は東京都南多摩郡稲城町に移住した。稲城町は、1971年に3万人特例市として稲城市に昇格した。
〇稲城市に昇格することもあってか、稲城市教育委員会に社会教育主事が設置されることになった。東京都教育庁からの依頼もあって、小川利夫先生は日本社会事業大学で筆者の2年後輩の川廷宗之さん(後の大妻女子大学教授)を紹介した。当時、日本社会事業大学には社会教育主事養成課程があった。
〇川廷さんとは、顔見知りだったこともあり、かつ筆者が東大大学院で社会教育を専門に学んだ人ということで、弱冠26歳の若さなのにいろいろな機会を与えて頂いた。1969年に設置していた稲城市社会教育委員の会議の委員に筆者を推薦してくれた。
〇早速、稲城市社会教育の礎になる稲城市社会教育委員の会議で、稲城の社会教育の将来像を論議し、1972年に「公民館及び図書館の運営について」と題する答申を出し、①公民館7館構想、②社会教育主事等の専門職の採用、③公民館運営審議会、図書館運営協議会等の住民参加の手立ての保障、④後述する「公民館3階建て構想」の実現を提言する。
〇稲城市においては、それまで公民館や図書館はなかったが、婦人会や青少年委員会による活動が活発で、東京都内でも一目置かれる活動をしていた。
〇稲城に戦前移住してきて、いろいろ生活改善などの活動をしていた当時の社会教育委員の会議の議長の勝山道子さんや稲城市で最初の女性議員になる富永ヨシ子さん等、外部からの移住者がある意味婦人会の活動を活性化させていた。
〇一方、青少年委員活動としては、長坂泰寛さんや川島実さん等の地主層が頑張ってくれていた。
〇社会教育委員の会議は、移住組の人々と地元の土着民である、地主層の白井威さん(後の東京都議会議長、東京都社会福祉審議会でも筆者と同席)等が混在して、“新しい稲城のまちづくり”をしようと活気に満ちた論議をしていた。この時期は、稲城市の公民館の整備計画等これからの稲城市の社会教育のあり方、プランを立てるという楽しい時期であった。
〇社会教育主事も川廷宗之さん以降、毎年のように採用され、浜住治郎さん(現、被団協事務局長)、向山千代さん、霧生久夫(?)さん、霜島義和さんなどが採用され、研究会を作り、稲城の社会教育の楽しい夢を語った。
〇稲城村は明治22年(当時人口3600人、現在9万5千人)に7つの村が合併して発足するが、社会教育委員の会議はその合併した旧村(稲城市の大字単位)毎に一つの公民館を立てるという7館構想という画期的な答申を社会教育委員の会議はした。その構想は現在実現している。新しく大規模開発された地域にも必ずコミュニティセンターか文化センターが設置された。
〇1973年に最初に建てられた公民館は、1960年代に東京都三多摩で論議された「公民館3階建て論」に基づき、1階はロビー及び軽食が摂れるコーナーとホール、2階は社会教育団体事務室(共同使用の印刷機器やロッカーなどを整備)及び集会室、3階は図書館、4階は学習・研修室といった、当時の最先端の考え方を反映したものになった。この公民館には市役所の職員が常駐する保育室を設置した(1947年に制定された児童福祉法の保育所の目的の一つに、女性の社会参加と地位向上のために保育所が必要と考えられていたことを援用)。
〇筆者は、新しくできた中央公民館において、1974年に「住みよい稲城を創る会」(代表大橋謙策)主催の「稲城の福祉を考える集い」を開催した。公民館に約400名近くが集まり、「父子家庭の子育て」、「学校拒否児の課題」、「嫁の立場での舅、姑の介護」の体験発表を聞いて頂き、その後分科会に分かれてグループワークが行われた。体験発表者を探すのには苦労したが、大成功を収めた。「学校拒否児」の親御さんが15名も来られていて、急遽その分科会を作らざるを得なかったことがとても印象的であった。
〇この頃、筆者は江口英一先生が指摘されたように、住民の暮らしを守るためには市町村の社会福祉サービスを充実させることが重要だと考え、稲城市の社会福祉問題にも関心を寄せ、保育所づくり運動や就学援助制度の改善を図っていた。就学援助制度は、文部省(当時)基準でいくと生活保護基準の1・5倍であったが、筆者は1・8倍まで引き上げるべきだと陳情し、結果的に1・6倍になった(当時、長崎県香焼町が1・8倍で、筆者は長崎まで視察に行った)。
〇保育所づくりでは、公民館保育室は設立できたが、保育所の増設はなかなか進まなかった。そうこうするうち、我が家に子どもが産まれ、保育所入所を申請したが、市役所は“保育に欠けることは認めるが、保育所に空きがない”と申請却下の措置決定通知書を寄越した。ご丁寧に、その決定通知書には、“この決定に不服がある場合には、児童福祉法、行政不服審査法に基づき、不服申し立てができます”と書いてあった。
〇筆者は、不服申立制度があることは当然知っており、福祉事務所に電話をして、あれだけ保育所増設の必要性を言ってきたのに、”保育所に空きがない“から措置できないというのなら不服申し立て制度を活用して不服申し立てをします。1週間後に不服申し立て書を提出しますと福祉事務所に通告をした。1週間後、福祉事務所から電話があり、”保育所に空きがでましたので、入所してください“ということで、”不服申し立て騒ぎ“は終わった。
〇筆者は、その後も保育所増設運動や保育料の適正化運動を行い、稲城市保育問題審議会や稲城市社会福祉委員会等を行政に設置させ、住民参加の社会福祉行政のあり方を追求してきた。
〇稲城市では1975年4月に統一地方選挙があり、筆者が代表を務めていた「住みよい稲城を創る会」からも候補者(須恵淳さん。稲城市市議会議員、コマクサ幼稚園園長)がでて、現職の森直兄候補と争ったが、敗退する。そのような敵対行為をした筆者を森直兄市長は、干すことなく、社会教育委員も保育問題審議会の会長も続投させてくれた。のちには、「稲城市地方自治功労賞」まで授与された。
〇敗れた須恵淳さんには、コマクサ幼稚園の副園長として手伝えと言われ、それから10年間、非常勤で副園長を務めることになる。この時は、教育科学研究会で学んだことが大いに生かされた。
〇1970年前後の筆者の滑動は、「社会教育と社会福祉の学際研究」とはいうものの、圧倒的に社会教育分野での活動が中心であった。
〇東大の宮原研究室の研究生にも関わらず、「社会教育推進全国協議会」(国土社の「月刊社会教育」の読者が中心に、1963年に設立され、民主的社会教育推進の全国セミナーを毎年8月各地持ち回りで行っていた。その活動に筆者は参加していた)や修士課程に入学した際には、小川利夫先生の推薦を頂き、日本社会教育学会の会員になった。
〇また、筆者が日本社会事業大学の卒業生で、それなりに社会福祉分野が分る人として認識されていたのか、1960年代末からの東京都立三多摩社会教育会館での障害者の青年学級の調査研究や1970年に東京都教育庁が始めた「市民の自主企画による市民講座」のあり方プロジェクトの「社会福祉コース」の講師を命じられた。
〇立教大学の室俊司先生(東大宮原研究室出身)ともども、都内各地から選ばれた、各地の婦人(当時の使用語)の地域活動のリーダーたちと「自主企画による市民講座」のあり方を論議した。「社会福祉コース」には、練馬区から世良田さん、杉並区から杉山さん、文京区から若林さん、品川区から山口さん、板橋区から手嶋さん、世田谷区から植村さん等、各地域の若手の女性リーダーたちが地域づくりに燃えて参加してくれていた。
〇「社会福祉コース」では、当時出版された「自分たちで命を守った村」(岩波新書)を読んで学習していることもあって、「社会福祉コース」のメンバーで、岩手県沢内村を1970年に訪ねた。
〇当時の、大田祖電村長や、深沢正雄元村長の奥様(当時、沢内村社会福祉協議会の事務局長)、高橋典茂さんらに深沢村政が始めた「自分たちで命を守った村」の理念、活動について話を聞き、感動した(沢内村には、その後もたびたび訪問し、1990年には沢内村地域福祉活動計画「コーリムプラン」を作成し、「コーリム大学」を開催した)。
〇コースの人々とは、東京都教育庁の事業が終わった後も、月1回女子栄養大学の松柏軒で食事を取りながら勉強会を続けた。
〇そんな経緯も作用したのか、1971年の第8回社会教育全国集会では「権利としての社会教育とはなにか」のテーマで基調講演を任された。このテーマは、日本社会事業大学の小川政亮先生の著作『権利としての社会保障』をもじったものであった。その縁で、1972年に、雑誌『都政』に「権利としての社会教育と社会教育行政」という論文が掲載された。
〇1969年には、日本社会教育学会紀要第5号に「社会教育主事の「専門職化」に関する一考察」を書いたし、1971年には『日本の社会教育 第15集 社会教育法の成立と展開』(日本社会教育学会編、東洋館)に「社会教育法制と社会事業―地域福祉を巡る隣保館と公民館」という論文が採択され、収録されている。

➃「社会教育と社会福祉の学際研究」の萌芽と『月刊福祉』への登場

〇1970年に大学院修士課程を修了して、研究者への道が見通せるようになったので、本来研究テーマにしていた「社会教育と社会福祉の学際研究」を隣保館や地域福祉との関りで深めようと考えた。
〇この頃、小川利夫先生、永井憲一先生(法政大学教授)、平原春好先生(東大教育学部教育行政専攻)らと日本教育法学会の設立と研究会が持たれていた。筆者は、その研究会の事務局を担っていたということもあり、1972年に勁草書房より刊行された教育法学叢書第2巻の『教育と福祉の権利』に執筆の機会が与えられた。「へき地教育・夜間中学――貧困の世代継承と「教育福祉」」と題して執筆した。小川先生、永井先生からは「貧困の世代継承」という表現はどうなのだろうかと疑問が出たが、筆者は“貧困が世代を超えて継承されてしまっていることが問題であり、それを断ち切る教育と社会福祉にならなければならない”と言い張り、この表現を認めて頂いた。
〇この論文を書くに当たって、糀谷中学や小松川第4中学(?)等の夜間中学を訪問調査し、夜間中学の先生方との交流や高野実(?)さんが書いた「夜間中学」という本を読んだりした。
〇また、それの延長で、時期は少々後になるが、一粒社から1978年に刊行された『教育と福祉の理論』(小川利夫・土井洋一編)の編集実務を担当し、「社会問題対応策としての教育と福祉―戦前の歴史的構造の一考察―」を書かせて頂いた。
〇そのような研究生活を送っていた折、日本社会事業大学の1年先輩の和田敏明さん(筆者は、和田さんを「ミスター社協」と呼んでいる。全社協の地域福祉部を主に歩き、最後は事務局長、その後ルーテル学院大学教授、『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー・社会福祉協議会の変遷とこれからへの期待及び提言』(香川県社会福祉協議会刊、2024年3月参照))が全国社会福祉協議会の地域福祉部に勤務していたことや、東大教育学部社会教育学科出身の根本嘉昭さん(後の厚生省専門官、立正大学教授)が全社協に就職したということもあり、全社協地域福祉部に出入りするようになる。
〇丁度その頃は、1969年に「コミュニティー生活の場における人間性の回復」(国民生活審議会報告)がだされ、文部省も厚生省も含めて各省庁挙げてコミュニティ政策に取り組んでいた時代である。
〇同じように、全社協も、1971年5月に「地域福祉センター研究委員会報告案」を出す。また、1971年6月には「福祉事務所の将来はいかにあるべきかー昭和60年を目標とする福祉センター構想」(社会福祉事業法改正研究作業委員会報告)が出され、戦前のセツルメントや隣保館の“再生”が謳われたことに感動し、自分が行おうとしている「社会教育と社会福祉の学際研究」はまさに、この地域福祉センター構想を拠点に展開できるのではないかと喜んだ。
〇1971年7月に行われた全社協、神奈川県隣保事業協会主催の「全国地域福祉センター研究協議会」に胸躍らせて参加した。しかしながら、論議の中心は、その当時の隣保館の経営、運営をどうするかということに終始していて、筆者はいたたまれず、隣保館の今後のあり方とその実現のあり方を論議する場ではないのかと質問した。横須賀キリスト教会館の阿部志郎先生が、後日“大橋君はあの時発言したね”と覚えていてくださった。
〇当時の全社協職員の中には、日本社会事業大学卒業生が沢山いた。学部だけでなく、研究科、専修科、短大の卒業生が多くいた。それは、戦後初期に、戦前の海軍博物館の跡地利用で、日本社会事業大学のみならず全社協等の社会福祉団体が一緒に事務所を構えていたことも影響していたのかもしれない。
〇多分、そんなことも影響しているのだと思うが、全社協職員には「社会教育と社会福祉の学際研究」をしている筆者をある意味使い勝手がよかったのかもしれない。1973年11月には、『月刊福祉』に「新しい貧困と住民の教育・学習活動」を書かせてもらっている。また、1977年1月号の『月刊福祉』に「社会福祉のための社会教育―その三つの枠組み・試論―」、1977年10月号の『月刊福祉』に「地域福祉の主体形成と社会教育」という論文を書いている。
〇そのような縁があったからか、全社協出版部の矢口雄三さん(日本社会事業大学の同窓生)の薦めもあって、1978年2月には全社協出版部から『社会教育と地域福祉』を編著として刊行出来た。
〇この編著では、実践編では1960年代から取り組んできた「障害者の社会教育」(西宮市の肢体不自由者の生活学習と町田市の大石洋子(東大教育学部出身の社会教育主事)さんの心身障害者の青年学級の実践を取り上げた)や体系的高齢者の生涯学習を推進していた兵庫県の「いなみ野学園」等を取り上げた。
〇また、地域福祉分野の実践では、山形県社会福祉協議会が推進していた地域保健活動である「かあちゃんの病気をなくす運動」を渡部剛士先生に、ノーマライゼーション思想に基づくまちづくりとして、田代国次郎先生(当時東北福祉大学教授)に「福祉モデル都市」第1号になった「仙台・福祉のまちづくり」について書いて頂いた。
〇理論編としては、「教育と福祉」の理念・構造や「教育と福祉」の歴史的系譜等筆者が書き留めてきた論文を収録させて頂いた。
〇1972年から日本社会事業大学の非常勤講師を務めていたこともあり、日本社会事業大学の小川政亮先生には『扶助と福祉』(至誠堂、1973年刊)に「『世帯保護』の原則と「教育を受ける権利」、「入院助産制度―子どもの私有性と社会性」、「母子家庭と世帯の自立助長―母子福祉資金問題」を書かせて頂いた。
〇また、鷲谷善教先生には、1973年刊の『社会福祉労働論』(鳩の森書房)で「児童指導員解雇事件に内在する課題」という論文を書かせて頂いた。この論文は、児童養護施設に根強くあった、模擬家庭観に基づく実践と“滅私奉公的職員論”の在り方を批判し、科学的支援論の必要性を問うたものであった。

➄1974年4月に母校の日本社会事業大学の専任講師に就任

〇小川利夫先生が「教育制度検討委員会」の事務局長に就任されるなど忙しくなり、かつ名古屋大学への転出も決まっていたので、日本社会事業大学には、1972度から非常勤講師として勤めていた。
〇この当時は、聖心女子大学(橋口菊先生、東大教育学部社会教育専攻)、千葉大学(福尾武彦先生・社会教育学、中島紀恵子先生・看護学)、成蹊大学で社会福祉論を教えると同時に、和光大学で社会教育を教えた。和光大学では、講義の他に、非常勤にも関わらずゼミナールも担当し、12年間教えた。
〇1974年4月、母校の日本社会事業大学の専任講師に就職できた。実は、この時、東京学芸大学の小林文人先生(九州大学教育学部出身、社会教育推進全国協議会のメンバー)から、社会教育担当の講師で来ないかと言われていたが、小林先生には、申し訳ないが、もし日本社会事業大学で採用されなかったら東京学芸大学にお世話になりますといって、正式決定を待って頂いた。結果として、東京学芸大学をお断りして、母校の日本社会事業大学に専任講師として就職した。その選択には、母校というだけでなく、「社会教育と社会福祉の学際研究」をするのには、日本社会事業大学の方が研究環境的にいいと考えたからである。
〇1974年4月、正式に日本社会事業大学専任講師として就職できた。仲村優一先生から辞令を交付されたが、その折、仲村先生に、”先生、この給料の額は、準保護世帯の基準ではありませんか。何とかならないのですか”と聞いたら、”この基準は国家公務員の給料表に準じているのでどうにもならない”といわれ、給与の低さを実感した。
〇就職に当たって、仲村優一先生と五味百合子先生(戦前の日本女子大学社会事業学科卒業、戦前の社会事業講習会の修了者、日本社会事業大学では研究生活をせず、学生課長として一貫して学生指導(学生を守る)に従事した)から言われたことは、”日本社会事業大学の教員は、研究者として日本の社会福祉界に貢献することは大切であるが、それ以上に学生の教育・指導をしっかりして欲しい。日本の社会福祉界を向上させるために、学生をしっかり育てて、卒業させることを重んじてほしい”と説かれた。
〇この考え方を筆者は守り通したと自負している。2年次、3年次のゼミナールで、学生の興味・関心に即して、いくつもの「小ゼミ」を作り、「小ゼミ」のテーマを共同研究させ、親ゼミで報告させるとともに、「小ゼミ」毎にテーマに即したゼミ論文集を書かせ、それを持って”温泉付き、お酒付き、スキー付きのゼミ合宿“を毎年行ってきた。
〇後日談になるが、1989年には、当時の平田富太郎学長の提案を受けて、日本社会事業大学「大橋ゼミ」開設15周年を記念して、第1回の「大橋ゼミ」卒業生の「ホームカミングデー」を開催した。
〇それ以降、5年おきに行ってきた。教員としての筆者も5年間の研究業績を印刷し、参加者に配布するし、卒業生とともに学ぶ機会を作ってきた。
〇2023年10月に第8回目の「ホームカミングデー」を開催し、「ホームカミングデー」の行事は終了させて頂いた。筆者が80歳になったということと、筆者が社会福祉界の実践、研究に目配りをして情報を集め、それに関して論文を書き、その5年間の論文を「ホームカミングー」で配布することが辛くなってきたからである(筆者の情報発信は、その後「老爺心お節介情報」として、現在74号まで発信している)。
〇この「ホームカミングデー」という考え方は、筆者が日本社会事業大学の清瀬移転の際に打ち出した、今後の大学の在り方の一つとして「卒業生のリカレント教育」の場になるべきだという考え方とマッチしていた。

(註1)
「我が師を語る(1)仲村優一先生とソーシャルワーク」
(『ソーシャルワーク研究』115号・2003年秋号所収、相川書房)



(註2)
『故仲村優一先生偲び草―研究業績・社会活動の功績』刊行にあたって(2016年2月14日)

(註3)
「日本社会事業大学名誉教授五味百合子先生お別れの会弔辞」(2009年4月5日)

 

(2025年10月1日記)