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老爺心お節介情報/第87号(2026年6月9日)

「老爺心お節介情報」第87号

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇もう、今年も6月になってしまいました。各地のCSW研修が始まる月になりました。今年度も各地のCSW研修で東奔西走する様です。
〇庭のアジサイが色鮮やかに咲いて、雨に濡れている風情はいいですね。また、私が大好きなクチナシの花も咲き始めました。残念なのは、門脇に植えた沙羅の樹が虫に食われ、幹が枯れ、一部残ったものの、今年は花を咲かせません。庭師が夏椿を植えたのを、沙羅に替えて欲しいとお願いした樹なのに元気がなく残念です。沙羅は、「平家物語」の冒頭に出てくる樹で、世の儚さとともに、“栄枯盛衰”、奢るべからずの気持ちを確認するために植えてもらっただけに、樹が枯れないか“一喜一憂”しています。沙羅が花を咲かせている様は本当に清楚で、一日で花が散ります。
(2026年6月9日記)

Ⅰ 3回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」に参加

〇皆さんは、2001年に導入されたWHOのICF(国際生活機能分類)について学んでいるでしょうし、学生さんに教えていることと思います。
〇しかしながら、様々な生活のしづらさを抱えている人に対する支援において、アセスメントを行う際や支援方針を作成する際に、どれだけ実際的に福祉機器の利活用を考えていますか。
〇富山県福祉カレッジの「介護テクノロジー普及推進センター」は富山県の委託を受けて、福祉機器の展示、福祉機器の利活用支援、介護技術の向上に関する研修などを富山県社会福祉総合センター「サンシップ」を拠点に行っています。
〇普段は、その「サンシップ」で福祉機器を展示し、相談に応じているのですが、それだと社会福祉関係職員か、あるいは家族が要介護の状態になって相談に来られる方等利活用者が限定されてしまいます。
〇「2040年問題」に向けて、介護人材の不足が叫ばれている中、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では、自己満足的な仕事の仕方ではないかと考え、広く富山県民に福祉機器のことを知って頂く機会として、「サンシップ」から外に出ようということになり、北陸新幹線富山駅のコンコースを活用しての福祉機器展の開催になりました。
〇福祉機器の利活用は、➀福祉サービス利用者の求めるケアの向上につながること、②ケアワーカー等の従事者の腰痛予防と合理的業務の省力化につながること、③介護の技術、技法、あるいは福祉サービス利用者の状態像を可視化することによりケアの科学化が進むこと等の効果が期待できます。
〇それにより、「3K職場」と言われた介護のイメージを払しょくできますし、介護の職場を希望する中高校生に夢を与えることができると考えました。中高校生たちが介護の仕事に就きたいと思っても、両親や教師たちが反対するという事例は沢山あります。そのようなことを考えると、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では駄目だと考え、広く一般の方々に知って頂く機会として、またその場所として富山駅のコンコースを考えました。
〇出店する企業さんには、直接的な利益がないかもしれないので、どれだけの企業さんが出店してくれるのか危ぶまれましたが、多くの企業さんが気持ちよく協力してくれました。
〇三回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」は、2026年6月6日に行われました。今回は以前にもましていくつかの特色がありました。
〇第一は、富山県内の介護福祉士会等の社会福祉専門職団体、理学療法士、作業療法士などのリハ職の専門職団体、看護協会など7団体が会場で相談コーナーを設置してくれたことです。
〇第二には、介護を学ぶ龍谷富山高校の生徒さん7名が参加してくれ、出店してくれた企業の福祉機器などについて突撃インタビューをしてくれたことです。そのインタビューの様子は大型モニターで他の場所に居ても見れるようにしたことです。
〇第三には、富山短期大学の学生さんが自らが学んだスウエーデンの認知症ケアとして開発された「タクティールケア」の体験コーナーを開設してくれたことです。
〇第四には、ITを活用した業務の省力化、生産性向上の相談コーナーを設置したことです。
〇第五には、eスポーツコーナーや「ロボットカフェ」を開設すると同時に、出店した企業に立ち寄って相談や福祉機器を見学された方に、景品付きのスタンプラリーをしたことです。
〇第六には、この「とやま介護テクノロジー展示会2026」の開催に当たって、「介護テクノロジー普及推進センター」の職員だけが企画・運営に当たったのではなく、福祉カレッジの教務部門、福祉人材センターの職員等も企画、運営に参加してくれ、富山県社会福祉協議会事務局内部のタテ割りが少し改善されたことです。
〇今回の展示会には、県社協の他の部署の職員も家族連れで見学に来てくれました。中には3世代で来てくれました。また、富山県厚生部の職員も高齢福祉課長を始め多くの職員が参加してくれました。
〇補聴器販売店さんが2社出店してくれていたのですが、昨年よりも相談者が多かったと言ってくれたのを聞いて、継続は力なりと実感しました。
〇私自身は、(公財)テクノエイド協会理事長に長らく就任していましたので、目新しいものはさほどなかったのですが、2件話題提供したいと思います。
〇新型コロナで旅行客が減り、業績が厳しくなっていた日本旅行社さんがIT関係の業者と共同開発した「脳力トレーナーCogEvo」が興味深かったです。
〇私も実際に体験させて頂きましたが、自動車運転免許証更新の際に受ける高齢者向けの認知症検査よりも、認知機能を図るのにはいいのではないかと思いました。この機器は、体験者の「注意力」、「空間認識力」、「記憶力」、「計画力」、「見当識」について能力を図り、訓練するもので、とてもゲーム性もあり、面白いと感じました。
〇また、この機器は1台購入すると、子機は何代でも無料で使用できるというシステムなので、介護予防教室や老人クラブでの活用、あるいはデイサービスなどでも活用できるのではないかと思いました。
〇この他では、NTTDATAさんが開発している「ボイスタ!」と呼ばれる機器で、高齢者の日常生活で行う動作に関し、その時間が来ると福祉機器から音声で声掛けするなどして高齢者の日常生活での自立を支援するとともに、必要なら家族などへも状況を転送できるというもので、生活のリズム感が薄れ、失念しがちになる高齢者の生活リズムを支援するという点で今後が期待できる機器だと思いました。

Ⅱ 本の紹介―『地方が溶けるーふるさと再生の光と影』(神山典士著、光文社新書、920円)

〇本書は、大きく2つの話題について書かれています。
〇一つは、広島県安芸高田市の市長をされていた石丸伸二氏がSNSを活用して安芸高田市の市長に当選した事案で、SNSの活用のあり方やそれに依拠した石丸伸二氏の言動について書かれた部分です。
〇もう一つは、著者が全国で実践している一般社団法人ふるさと大好き全国作文協議会の全国での取り組みとその波及効果についての部分です。北海道東川町の地域づくりにおける住民の街の魅力発見から、地域おこし協力隊制度を積極的に活用してのまちづくりへの展開等が著者の実際の取り組みを通して書かれています。
〇著者が言う「何もない田舎」の街で、住民自身が作文を書くという実践を通して、街の魅力を再発見し、「ふるさと愛を醸成する」ことや「ふるさとキャリア教育」等の実践は、静岡県掛川市の榛村純一元市長が提案した「選択的土着民の養成を目指す生涯学習活動」とよく似ている実践だと思いました。
〇と同時に、この著者の地域との関り方について、「関係人口」のあり方や地域福祉研究者の地域との関り方について学ぶべきことが多いと感じました。

Ⅲ 「その時の出逢いが⑨―2000年代後半」

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑨

Ⅰ 2000年代後半

(はじめに)
〇2000年代後半は、筆者は既に60歳代に入っており、残りの人生をどう送ろうかいろいろ考えていた時期である。
〇そんな折、同志社大学の黒木保博先生から同志社大学へ来ないかとお誘いを頂いた。私は歴史のある、かつ社会福祉教育でも伝統のある同志社大学への転籍に大きく心が揺らいだが、結婚以降一度も引っ越しがなく(多摩ニュータウンの区画整理で3年ほど稲城市大丸の地域で貸家住いをしたことがある)、地域活動もしていた妻の強い反対もあり、転籍を断念し、日本社会事業大学で定年まで勤める覚悟をした矢先に、2005年日本社会事業大学の学長に選出された。
〇他方、2008年には厚生労働省社会・援護局長所管の検討会「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」の座長を仰せつかり、いままで取り組んできた地域福祉の考え方、システム、方法について提案し、受け入れられ、報告書として出すことができた。
〇前者は、日本社会事業大学で教育を受け、その継承を託された教育理念を学長としてどう発展させるかという、いわば日本社会事業大学での教育・研究の集大成の時期でもあった。
〇後者は、大橋謙策の地域福祉研究は、“社会福祉のプロパーでない”と揶揄されながら頑張ってきた地域福祉の実践と研究がいよいよ厚生労働省の政策の俎上に上ることになった契機であり、筆者の地域福祉の実践と研究が評価、認められたことで、これまでやってきて良かったと感慨深いものがあった。

➀日本社会事業大学の学長(2005年~2010年)

〇2005年4月、日本社会事業大学学長に就任した。61歳であった。
〇日本社会事業大学は、オーソドックスな教授会自治を伝統的に守ってきていたので、学長に選出されたからといって、学長主導でなんでもできるわけではないし、かつ厚生労働省の委託で大学運営がなされているので、補助金の“目的外使用”はできないという経営上の制約がある。
〇そのような中で、学長として心掛けたことは、日本社会事業大学が厚生労働省が委託の根拠にしている「指導的社会福祉従事者の養成」という命題にどう応えているかということである。
〇その内訳、内容はいろいろと解釈できるであろうが、私としては➀社会福祉士の国家試験の合格率をせめて70%台にしたい。ただし、合格率を高める受験勉強を教員にも、学生にも強制化することはしたくないという虫のいい考え方で進めたいと思っていた。②厚生労働省の委託金が厳しくなっていた状況の中、科学研究費で社会福祉学の細目が認められたのだから、教員全員が科学研究費に申請、採択できるようにするということでした。③大学は教員だけで成り立っているのではなく、事務職員も重要な役割を担っている。したがって、事務職員で一定の権限と責任を有している人には学長選挙に参加できるようなシステムをつくること、④指導的社会福祉従事者の養成という委託に応えるために、日本はもとより国際的に日本を代表してソーシャルワーク教育、ケアワーク教育の拠点になるということを考えた。
〇仲村優一先生からは、日本社会事業大学の教員・学長は日本社会福祉学会の会長、日本社会事業教育学校連盟の会長に選ばれなければ駄目だと言われていたので、取り敢えずはその3要件(日本社会福祉学会会長(1999年~2004年)、日本社会事業学校連盟会長(2007年~2011年)、学長(2005年~2010年))はクリアーしたことで、日本社会事業大学の恩師の先生方から求められていた日本社会事業大学卒業生に“求められた教員・研究者像”は実現できたと思った。
〇学長として提起した➀社会福祉士国家試験の合格率は残念ながら60%強程度に留まり、目標の70%には届かなかった。②教員の科学研究費の採択率は最高で37%に上り、文部科学省の高等教育局長からもお褒めのお言葉を頂いた。理工系ではないので、採択された科学研究費の総額は多くはないが、教員の科研費の採択率では日本のトップレベルとなり、それなりの成果を出せた。中でも科学研究費の大型助成金である科学研究費(S)とか(A)が採択されたのは大きかった。
〇その大型科学研究費を活用して、「アジア型ソーシャルワーク教育の標準化と国家資格の互換性に関する研究」(2009年度~2011年度)を中国、韓国の東北アジア3か国で行った。
〇この取り組みは、ヨーロッパ諸国が1999年に「ボローニャ宣言」を出したことに触発されて取り組んでみたものである。
〇「ボローニャ宣言」とは、世界最古の大学「ボローニャ大学」(1088年創設)があるイタリア・ボローニャで、ヨーロッパ29か国の教育大臣が署名した「ヨーロッパの高等教育制度を共通の枠組みで構築し、学位認定の質と水準を国が違っても同じレベルのものとして扱う世界に通用する高等教育制度」である。
〇イギリスで出会ったソーシャルワーカーはスペインで資格を取り、イギリスで認定されたソーシャルワーカーとして働いている。そのようなグローバルな規模でのソーシャルワーク教育を東北アジア諸国でも考えられないかという思いだった。
〇採択された大型科研費を活用して日本、中国、韓国3か国のソーシャルワーク教育のカリキュラムの比較や国家試験の内容などについて翻訳したりして、比較研究を行った。
〇他方、イギリスのサザンプトン大学や北京大学との姉妹校協定も結び、国際的に通用する日本社会事業大学にしようとした。その考え方の一環として、「アジア福祉創造センター」を日本社会事業大学社会事業研究所に設置し、「アジア太平洋地域会議」でお世話になった秋元樹先生を日本社会事業大学社会事業研究所の教授にお招きして、研究や国際交流を推進した。
〇その一環として行ったシンポジュウムでは、中国からは北京大学のワン・シビン先生、韓国からは梨花女子大学のキム・ソンイ先生、タイからはタマサート大学のデチャ・サングクワン先生に参加して頂いた。

(註)後日、東北アジアのソーシャルワークに関して、東北福祉大学がワンアジア財団の助成を頂き、「高齢社会をめぐる諸課題とアジア共同体」というテーマでの連続講義が2013年度、2014年度に開講された。筆者はその一コマを担当したが、その講義録が萩野浩基東北大学学長の手で編集され、『高齢社会の課題とアジア共同体』(芦書房、2014年)として刊行されている。筆者の講義録は、科研費での研究を基にしたもので、「コミュニティソーシャルワークの視点からみた高齢社会とアジア共同体―社会発展の触媒としてのソーシャルワークー」として収録されているので参照して欲しい。

〇日本社会事業大学学長退任の2010年3月13日に「大橋謙策学長最終講義」を開催して頂いた。
〇日本社会事業大学としての矜恃を創り、品格を高めたいという思いもあって最終講義を行うことにした。テーマは「『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」である。多くの卒業生や社会福祉関係者が集まって下さり、教員・研究者としての冥利に尽きる時間と空間であった。
〇日本地域福祉研究所でも日本社会事業大学学長の退任を契機に、安部晴美事務局長が尽力してくれて、目白の椿山荘で『大橋謙策先生地域福祉論継承・発展の集い』を開催してくれた。
〇畏友である和田敏明先生、上野谷加代子先生、小林良二先生(東京都立大学、東洋大学教授)がシンポジストとして登壇してくれた。和田先生が「大橋謙策地域福祉理論は1979年の「ボランティア活動の構造図」にあると指摘された。上野谷先生は大橋理論の真髄は『求めと必要と合意』という考え方にあると言って頂いた。まさに、自分でもそれらの考え方を大切にしてきたので大変嬉しかったのを覚えている。
〇私が出している毎年の年賀状には前年の出来事を簡潔に記載しているので分かったのでしょう、学長就任後のお正月に、東京大学教育学部の大先輩である元明治大学教授の北田耕也先生から、日本酒の入った角樽が届いた。先生曰く、宮原誠一教室出身者から初めて大学の学長が誕生したので大いに祝いたい旨のメッセージが添付されていた。嬉しい限りであったが、角樽には面はゆい感がした。
〇東大大学院の院生仲間(筆者の1年先輩と1年後輩)の9名で、「苦楽会」という研究会を立ち上げ、東京と関西(9名のうち3名が関西の大学に就職)の中間地点の蒲郡にある国家公務員共済の宿舎で合宿し、川島書店から本の出版を企画したのだが、残念ながらそれは実現しなかった。その「苦楽会」のメンバーの中から、後に大東文化大学学長の太田政男さん、佐賀女子短期大学学長の南里悦史さんを輩出したが、宮原研究室からは私が最初ということであった。
〇ちなみに、「苦楽会」のメンバーには、母校の東大教育学部の教授になった佐藤一子さんがおり、佐藤一子さんは東京大学出版会から『イタリア学習社会の歴史像―社会連帯にねざす生涯学習の協働』(東京大学出版会)という素晴らしい本を書いている。

➁「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」座長

〇2007年10月3日に、厚生労働省社会・援護局長所管の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が立ち上がった。社会援護・局長は、老健局長を歴任した中村秀一局長であった。
〇この研究会が開催されるまでに、ルーテル学院大学の和田敏明先生が中心になって勉強会が持たれていた。筆者も、その勉強会に呼ばれ、今まで自分が行ってきた地域福祉研究・実践の考え方などを既に述べていた。
〇この研究会には、筆者の教え子で神奈川県城山町社会福祉協議会の職員、神奈川県立保健福祉大学の助手を歴任していた中村美安子さん(後に同大学教授)が、厚生労働省所の地域福祉担当専門官として事務局を担っていた。
〇中村秀一局長は、精力的に全国の素晴らしい実践をしているところを視察し、研究会を支えてくれた。
〇研究会報告書のタイトル「地域における『新たな支え合い』を求めて―住民と行政の協働による新たな地域づくり」は、何と研究会の最終日の3月31日に、会議で一任を取り付けたあとで、中村局長と筆者が協議をして決定した。
〇この報告書の考え方は、ある意味、従来の厚生労働省の考え方、枠組みを超えて「住民と行政との協働」がなければ、これからの社会福祉問題、地域福祉は展開できないことを謳ったもので、画期的なものだと思っている。
〇従来は、国民が抱える生活問題は、厚生労働省が制度を創って問題解決を図るということで、住民参加とか、住民の協力とかいう視点は殆どなかった。
〇それは憲法第89条の規定とも関わって、国民の生活問題は行政が国家責任において解決するという「福祉国家論」が背景にあった。国民の中にも行政がボランティア活動の推進とか住民の協力とかと言えば、それは行政の責任回避であると断じてきた風潮があったし、そのような考え方は社会福祉研究者の中にも、社会福祉従事者の中にも根強くあった。
〇しかしながら、国民が求める、地域で自立生活を送り、最期まで自分らしく暮らしたいという願いを実現させることを理念としている地域福祉の展開においては、地域住民の参加、協力がなくては実現しない。そのことが検討会の中でも論議され、かつ承認されて、本報告は公表された。
〇この報告書は、戦後の社会福祉政策を変える大きな転換点になったと自負している。また、この報告書の内容は、後に厚生労働省が打ち出す「地域共生社会政策」の前史とも位置付けられる内容の報告書でもあると自負している。
〇この報告書に基づき、その考え方を具現化させる国の補助事業が2009年度から「安心生活創造事業」として展開されるが、それを担った地域福祉専門官は、日本社会事業大学の学部、大学院の教え子である中島修さん(現文京学院大学教授)であった。
〇その補助事業は新しいサービスと財源を自分たちで創り出すというねらいと他分野との協働が指向された。従来の社会福祉にはない、新たしいサービスと財源を作り出すというソーシャルワーク機能がある意味初めて厚生労働省の政策で求められた画期的な取組であった。
〇筆者が「関係人口」として関わっている香川県琴平町の「ガーリック娘」という市場に出せないニンニクとオリーブオイルの商品、千葉県鴨川市の夏ミカンを活用してのマーマレードやポン酢等の商品が社会福祉協議会の手によって開発された。

➂同志社大学大学院、東京大学大学院、淑徳大学大学院の講義と研究者の養成

〇筆者は、1989年以降、日本社会事業大学で大学院修士課程を教えることになるが、1990年代は日本社会事業大学以外に、淑徳大学大学院等でも教えることになる。
〇日本社会事業大学の院生以外に教えることは多様な意味で楽しみであったし、多様な研究課題に関心を持つ院生を教えることで、自分自身が成長する機会でもあった。
〇日本社会事業大学以外の大学院教育で思い出に残るのは、東京大学大学院と同志社大学大学院、淑徳大学大学院での指導が思い出深い。
〇少し遡るが、1990年代初めに、東京大学教育学部助教授の鈴木眞理先生の依頼を受けて、大学院教育学研究科社会教育専攻の「社会教育と地域福祉」の特別講義を3年間担当したことがある。神戸大学の松岡広路先生や津田英二先生、宇都宮大学の佐々木英和先生、横浜国立大学の矢野泉先生などが育った。佐々木英和先生や矢野泉先生には、東京都稲城市の生涯学習計画策定をお手伝いしてもらい、フィールドに関わる重要性を教えた。
〇丁度、その頃淑徳大学も大学院を設置するということで、仲村優一先生や阿部志郎先生等と一緒に非常勤講師に名前を連ねることになった。淑徳大学大学院では、それ以降筆者が70歳になるまで勤めさせて頂いた。
〇同時に、私が出講する講義科目は、事実上オープンキャンパス扱いをして頂き、千葉県社会福祉協議会職員を始め、千葉県内の社会福祉協議職員などに呼び掛けて参加してもらい、後に「千葉県地域福祉研究会」を組織していくことになる。
〇淑徳大学では台湾の徐嘉隆先生や東洋大学の早坂聡久先生、千葉県立看護大学の安部能成先生などを教えた。
〇同志社大学大学院では、転籍のお話を頂いた時からだと記憶しているが、専任で駄目なら非常勤でということで、これは喜んで引き受けさせて頂いた。かれこれ10年余の非常勤であったが、思い出深いものがある。
〇毎月1回の1日半の集中講義での出講であるが、ゼミが終われば馴染みのお店屋さんに行き、京都のお酒・玉の光の純米酒1升を皆で飲むのが楽しみであった。同志社大学への転籍を拒否した妻も、院生のお誘いで葵祭見学には喜んで参加してくれたのも楽しい思い出である。
〇同志社大学の黒木保博先生、上野谷加代子先生、埋橋孝文先生、野村由美子先生等の先生方との懇親の機会も楽しい思い出である。
〇同志社大学大学院生との論議は、日本社会事業大学のような一種の専門分野に特化した思考傾向を持っている院生とは異なり、まさに伝統のある、ユニバーサルの大学での院生の考え方にとても面白みを感じていた。
〇同志社大学大学院では、大分大学の教員になり、その後母校へ戻った同志社大学の廣野俊輔先生、武庫川女子大学の堀善昭先生、長野大学の羅珉京先生、日本福祉大学の梅本聡子先生、桃山学院大学の南友二郎先生等と一緒に学べたのは楽しい思い出であると同時に、皆さんよく学んで、教員・研究者として巣立ってくれたのも嬉しい限りである。
〇1990年代に筆者が、日本社会福祉教育学校連盟の活動を精力的にしていたせいか、東北福祉大学院でも非常勤講師を勤めることになった。これが伏線で、日本社会事業大学の特任教授を70歳で終えた2014年4月から東北福祉大学大学院教授を勤めることになる。東北福祉大学の件については、項目を別に立てて記述したい。

➃富山県福祉カレッジ学長

〇富山県社会福祉協議会とのつながりは既に1980年代前半からあったが、富山県行政との関わりは確か1990年頃が最初ではなかったかと記憶している。三浦文夫先生が当時の中沖知事の依頼を受けて、富山県の総合計画策定に関わるようになり、手伝えと言われていろいろ作業、意見を述べたのが始まりである。
〇その後、富山県福祉カレッジが設立され、三浦文夫先生が学長をされる際、お前も客員教授として手伝えと言われ客員教授になったが、取り立てて業務があったわけではない。講師として呼ばれ研修を担当する程度であった。三浦文夫先生は、学長として「三浦ゼミ」を開設し、年間6回程度富山へ通っていた。
〇2009年10月に、筆者は富山県福祉カレッジの学長に就任した。県社協の専務理事をはじめ関係者からは、「三浦ゼミ」を継承して欲しいと言われたが、“ゼミ生”が20人程度の方のみを対象にして“学長職”としての務めを果たすのは嫌だと拒否した。その代わり、広く社会福祉従事者の研修を担当するし、県内の市町村へ出張講座を企画して出歩くことを提案し、了解して頂いた。
〇多くの都道府県社会福祉協議会が、行政から委託されて社会福祉研修センターを運営していたが、1990年の「社会福祉関係8法」改正以降、社会福祉行政の地方分権化が進み、各都道府県の社会福祉研修センターの位置と役割が弱体化していった。

〇2000年の介護保険、2005年の障害者総合サービスの提供以降、その傾向はより強まり、全国の都道府県の社会福祉従事者の研修体制はぜい弱化していった。この変化を行政も社会福祉研究者も、全国社会福祉協議会も必ずしも警鐘を鳴らしてこなかった。
〇筆者は、1980年代後半から、青森県、秋田県、山口県等の社会福祉研修センターに深く関わってきていたが、社会福祉行政が地方分権化されて以降の社会福祉研修システムの脆弱化は大きい。
〇現在、富山県福祉カレッジは年間53講座を行い、約5500人が受講している。また、富山県は1990年初頭に設置された介護実習普及センターを改組して、「介護テクノロジー普及推進センター」を開設している。これからは、介護人材の確保が容易ではないし、介護の科学化が必要だし、何より福祉サービス利用者へのケアの質的向上が求められており、その普及推進を図っている。
〇富山県福祉カレッジ、介護テクノロジー普及推進センターでは、北陸新幹線の富山駅のコンコースを会場にして福祉機器展を行い、広く県民のケア観の見直し、福祉機器の利活用推進に貢献しようとしている。
〇2026年度には、その福祉機器展に社会福祉系専門職団体がブースを開設して、県民の福祉・介護相談にも応じるように取り組んでいる。
〇富山県福祉カレッジの学長として、富山県社会福祉協議会に働きかけて、毎年4月末に富山県社会福祉関係者の集いを開催している。新田県知事、県副知事、県の福祉行政部局の管理職をはじめ、県内社会福祉関係専門職団体、社会福祉施設経営の社会福祉法人の理事長、施設長、民生・児童委員など100名を超える参加者が一堂に会し、交流、懇親を深めている様はとても大事である。この社会福祉関係者の集いは、香川県社会福祉協議会でも取り組んでくれたが、当時の平井知事などが参加してくれた。

➄世田谷区地域福祉保健福祉審議会会長の職務と区社会福祉協議会へのテコ入れ

〇私は、2008年10月に東京都世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任した。
〇2006年に前任の会長であった三浦文夫先生が退任された時、後任会長として打診を受けたが、その時は審議会委員の中に元日本社会事業大学教授であり、白梅大学の学長をされている石井哲夫先生が在任されていたので、石井哲夫先生に会長を一期引き受けて頂きたいと固辞した。そのような経緯の中で、私は2008年に会長に就任した(~2016年9月)。
〇世田谷区は人口91万人(現在は95万人)で、鳥取県や島根県よりも多く、一種の厚生省の新しい社会福祉政策の“アンテナショップ”的な性格を有していた。多様な、新しい政策を世田谷区で実証し、その成果を基に厚生省がそれを全国化させる面があった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の委員は20名程度であるが、審議会の際に、事務局として陪席する人は30人くらいいる。筆者は、埼玉県社会福祉審議会の会長もしたが、世田谷区ほどには事務局職員は陪席していなかった。東京都社会福祉審議会や東京都児童福祉審議会でも見かけたことがない数の事務局職員の陪席であった。
〇私は、世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任するに当たって、事務局にこの案件を実施してくれるなら会長を引き受けましょうと提案した。それは、私が行政アドバイザーとして提案し、作られた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムと同じようなものをつくるということであった。
〇長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムは、茅野市を4つの圏域に分け、圏域ごとに保健福祉サービスセンターを設置し、診療所を併設して医療・保健・福祉の連携を強化しつつ、保健福祉サービスセンターに保健師、福祉事務所にいたソーシャルワーク機能を持つことが期待されている職員、社会福祉協議会の職員を配置して、チームで生活のしづらさを抱えている人を発見し、支えるシステムで、個別支援とそれを支える地域づくりとを統合的、一体的に展開するシステムであった。
〇しかも、その保健福祉サービスセンターは、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めて全世代対応型の福祉総合相談窓口であり、地域に出張って生活のしづらさを抱えている人を発見・把握するアウトリーチ機能も持つシステムであった。
〇この茅野市の保健福祉サービスセンターを視察に来た厚生労働省老健局の課長が、茅野市保健福祉サービスセンターに学んで、2006年に介護保険制度に導入したのが「地域包括支援センター」である。
〇私は、世田谷区に27ある地域包括支援センターを茅野市と同じように、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めた、住民の立場から考えて、福祉アクセシビリティの良いシステムを構築する意思があるのなら会長に就任していいと言って会長になった。
〇その時の保健福祉部長が秋山由美子さん(後の世田谷区副区長、その後日本地域福祉研究所の理事をして下さり、現在は児童養護施設を運営する社会福祉法人福音寮の理事長)で、その時の課長が瓜生さん(定年時には高齢福祉部長)で、私が会長の任期終了(世田谷区は委員の任期を最長10年としている)で退任する際に、27ある地域包括支援センターを高齢者のみならず全世代対応型の総合相談窓口へ変えてくれ、大橋先生とのお約束は守れましたと言ってくれたことが嬉しかった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の会長を退任したら、ある時保坂典人区長から、今度は世田谷区社会福祉協議会を何とか立て直して欲しいという要請がきた。世田谷区議会で、数年にわたり、決算審議の区議会で世田谷区社会福祉協議会の補助金をなくすべきではないかという類の質問が出、対応に苦慮しているという。その対策をしてくれという願いであった。
〇早速、世田谷区社会福祉協議会職員のCSW研修をすることにして、生活のしづらさを抱えている人への支援で困っている事例を出して欲しいと言ったところ事例は皆無であった。
〇社会福祉協議会職員は直接地域の住民が抱える困難事例に対応し、その人たちを支える地域づくりをしていないことが分った。この点を区議会では指摘されていて、住民のニーズに対応した活動、地域づくりをしていないのだから区からの補助金をなくすべきという論旨で批判されていることが判明した。
〇全国各地で行っているCSWの研修プログラムに基づき研修を行った。その後、困難事例にどう対応したかの実践発表会を公開で行い、区長や区の部長たち、区議会議員、民生委員などに聞いてもらい、評価を頂きながら社会福祉協議会の体質改善に3年間取り組んだ。この過程で、世田谷区の保健福祉部長をされた金澤弘道さんが区社会福祉協議会の常務理事・事務局に就任され、力を発揮してくれたたことは大きかった。
〇この取り組みの過程で、住民に社会福祉協議会は見えていないのだから、可視的にもみえるようにしようと提案し、社会福祉協議会の名前とマークが入った黄色のベストを着て、区内を歩こうと提案したら、当時の労働組合委員長から“それを着るかどうかは労使の交渉事項です”と言われ驚いた。
〇私は、そのユニホームを着る気概がないのなら社会福祉協議会が生き残れなくても知らないよと言って着てもらった。
〇社会福祉協議会は行政以上に“役所的で、官僚的だ”と言われることがよくわかったし、都合の悪い時は“自分の組織は民間だ”と言い逃れをする体質を持っている。
〇現在の世田谷区社会福祉協議会はかなり改善され頑張ってくれている。金安博明さんが事務局次長になり、山本学さんが総務課長、松田京子さんが地域福祉課長、遠藤慧さんが自立生活支援課長になり、清水明子さんや尾崎一美さんたちが地域福祉担当の責任者になり、少なくともコミュニティソーシャルワーク機能の重要性を理解している職員が中枢を占めるようになってきているので、これからが楽しみである。
〇ただ、指定管理制度等の問題もあるのかもしれないが、区社会福祉協議会はいまだ地域包括支援センターを一つも受託できていないし、コミュニティソーシャルワーク機能を統合的に展開する社会福祉協議会組織の「地域担当制」の組織改革は未だ十分とは言えない。

➅念願の第1回通し歩きお遍路―2010年9月~11月

〇高校時代の“人生如何にいきるべきか”で悩んでいた時からの夢であった「四国通し歩きお遍路」に2010年9月20日出立した。
〇日本社会事業大学の学長任期を終えた後、大学から大学院博士課程の指導教員が手薄になるので「特任教授」として残ってくれと言われ承諾した。ただし、大学行政は一切せず、大学院指導のみを条件にした。と同時に、2か月間の休暇を頂きたいといい、大学院の指導が落ち着く9月から休暇をもらい、「四国通し歩きお遍路」に出立した。
〇大橋が四国お遍路を歩くというので、前夜、徳島市で関係者が壮行会をしてくれた。明日からは精進料理で、お酒も飲めないのだからということで大いに飲んだ。日本社会事業大学の先輩で徳島県庁の保健福祉部長をやり、その後徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた俳人の丸川悦司先生、元徳島県社会福祉協議会職員で、当時四国大学短期学部教授の日開野博先生、徳島県社会福祉協議会の佐伯局長、琴平町社会福祉協議会の越智和子さん、真言宗御室派の願成寺住職の大西智城さん(社会福祉法人阿波老人会の常務理事)等が参加してくれた。
〇元徳島県社会福祉協議会職員、元全国社会福祉協議会ボランティセンター長で、元福山平成大学教授の木谷宜弘先生は所用があり参加できなかったが、俳句の吟行の用具一式をプレゼントしてくれた。四国お遍路の道中で、毎日一句は詠めというお達しで付きであった。
〇翌朝、第一番札所の霊山寺で、お遍路の装束一式を購入し、聖なるお遍路を緊張して歩き始めた。杖を突き、鈴を鳴らして歩くので、お遍路さんが歩いているということが分るのであろう、途中、“お遍路さん”と呼び止められて、家から出てきた人からお接待を受けた。
〇こんな情景が約40日間続くのかと思いつつ、1日目の宿所の7番札所の十楽寺に着く。お風呂に浸かり、さっぱりして食堂に行くと生ビールは如何ですかと進められる。お遍路ですから、精進潔斎して、お酒を飲めないのではないですかと聞くと、これから長旅です。疲れをいやすのに生ビールを飲んではいけないということはありませんといわれ、いっぺんに緊張のタガが緩んでしまった。しかも、夕食のお膳にはとんかつが出ていて、再度精進潔斎でなくていいのですかと聞くと、長旅ですから体力を落としていけません。とんかつを食べてくださいといわれ食べた。
〇前夜、明日からお酒は飲めない、食事も精進料理だからと言って飲んだ意味が全くなくなってしまい、これ以降毎晩飲むことになる。
〇ちなみに、第2回目の歩きお遍路は2014年4月に行ったのだが、その時は39日間一切お酒は飲まずに歩き通した。
〇丸川悦司先生と木谷宜弘先生の厳命で、ただひたすら575の俳句ともいえないものを書き連ねていたが、後日私の『大橋謙策四国お遍路紀行』を北田耕也先生に送ったところ、俳人でもある北田耕也先生は、私が2010年10月13日に、高知県三原村で詠んだ「残された案山子侘しく秋の冷」が一番いいと言ってくれた。

(註)三原村は、急な山道を登ると、あたかも山の中の桃源郷かと思えるような視界が広がり、きれいな、平坦な田園風景が連なる村で、良質の木材を産出している豊かな村。

〇3回挙行した「四国通し歩きお遍路」については、各回とも紀行文を書いているのでそれを参照して欲しい。紀行文に就いては、阪野貢先生が主宰されている「市民福祉教育研究所」のブログに全て収録されているので、興味のある方は見て頂きたい。

老爺心お節介情報/第86号(2026年5月28日)

「老爺心お節介情報」第86号

〇早いもので、もう5月の下旬です。今や、日本には四季がなくなったのでしょうか、夏日、真夏日が続き、夏の気候になってしまいました。それでも、自然の営み、時は流れて、チョウゲンボウが営巣のために飛来してきましたし、時鳥(ホトトギス)が“トウキョウ、トッキョ、キョカキョク”と鳴き始めました。
〇私の足の具合はだいぶ良くなり、傷口も塞がり、5月22日には医者から治療は終わったという宣告を頂きました。治療薬を塗り、包帯を巻くということはなくなりましたが、足のはれと痛みは未だ残っており、まだ足を引きずりながら外を歩いています。やはり全治1か月では完治しませんでした。
〇この間の出来事を綴ります。
(2026年5月28日記)

Ⅰ 足の負傷に伴う羽田空港での車いす体験

〇5月11日、香川県社会福祉協議会の「2040年に向けた社会福祉協議会のあり方」検討会に参加しました。
〇南武線の稲城長沼駅の始発電車に乗れば、座って川崎駅まで行けると思い、タクシーを予約していきました。
〇前夜までの予約は、運転手がいないので夜の11時から朝方の6時までなら予約できるのですが、6時を過ぎるとできないというのを足が悪いからと言って頼み込んできてもらいました。タクシー運賃は通常の距離による運賃の他に予約料金700円、送迎料500円を上乗せで支払いました。
〇JR川崎駅から京急川崎駅まではよろよろと歩きました。問題は羽田空港内の歩行です。四国方面行のANAのボーディングブリッジ(ゲート50番前後)は遠く、普段使うチェックインカウンター後の保安検査場からは約1キロあります。
〇チェックインの際に、電動カーの予約をしたら、運転手付きの電動カーを手配してくれました。乗ってみて驚いたのは、電動カーがクラクションを鳴らしながら走行しているにも関わらず、注意を払う歩行者は皆無と言っていい状況で、電動カーは衝突を避けてしょっちゅう停止をしました。
〇12日の帰りの便では、羽田空港のボーディングブリッジから出口までは、電動カーが使えないという。帰りの通路が出口まで同じフロア―でなく、上下の階へ異動しなければならないというので、車いすを人が押してくれることになりました。2か所、エレベーターで上下階へ移動しなければなりませんでした。車いすを押してくれた担当職員は、しっかり研修を受けているのか、気配りも声掛けも適切で安心して乗っていることができました。
〇次いで、5月14日から16日にかけて、宮崎県都城市社会福祉協議会が出版した『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)の「出版記念セミナー」に招聘され出かけました。飛行機の便はJALでした。
〇JALのチェックインカウンターはすべて機械化されていて、QRコードを翳すだけ。したがって相談しようにも、私の時には近くに職員がいません。止むを得ず、足を引きずり、チェックインし、保安検査場の手続きをしました。保安検査場を出たところに電動カーがあったので、乗ろうとしたのですが、許可が必要なのか、使用方法はどうするのか相談しようにも職員がいません。職務を終えた保安検査員が通りかかったので呼び止めて、使用していいのか、使用方法はどうするのか聞いたが分からないという。後から来た人がこう使うのではないですかと教えてくれたので、自動車のナビゲーターと同じようにバスターミナルの番号を打ち込んで始動させてもらった。無人の電動カーは人や障害物を避けて、目的地まで無事運んでくれました。何となく不安だったが、乗ってみると便利なものだと感心しました。
〇いずれは、公道でもこのような無人の電動カーがタクシー代わりに人は使用することになるのでしょう。そうすれば、高齢者や障害者の移動サービス問題も解決するとは思いますが、高齢者や障害者が使いこなせるでしょうか。フランスのコンドルセが1789年に提言したように、実際生活に関する「大人の義務教育」が必要ですね。

Ⅱ 都城市社会福祉協議会の実践と出版記念セミナーの開催

〇上述したように、都城市社会福祉協議会の地域福祉実践の成果が『自治公民館と社会福祉協議会とが綾なす地域福祉実践』(上野谷加代子・南友二郎編著、ミネルヴァ書房、2800円)として刊行されました。
〇その記念セミナーが5月15日~16日と全国から150名の参加者で開催されました。懐かしい社協職員と出会えて、とても楽しい、嬉しい時間を過ごすことができました。
〇都城市社会福祉協議会の地域福祉実践は、上野谷加代子先生が1990年代以降「関係人口」の中軸に座り、上野谷先生の教え子や同志社大学の先生、院生も関わって、都城市社会福祉協議会職員ともども作り上げてきた実践です。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、1980年代末の「ボラントピア事業」、1990年代の「ふれあいのまちづくり事業」により大きく発展をします。その実践の特色の一つである福祉教育や、最近の重層的支援体制整備事業までの取組がコンパクトに本にまとめられています。
〇都城市社会福祉協議会の実践は、公立地区公民館15館及び297館ある「自治公民館」(土地も建物も地域住民がお金を出し合って獲得している自治性が強い自治会)を基盤とした社会教育と15地区に組織化されている地区社会福祉協議会の活動とが特色であり、それらを基盤としたいろとりどりの綾なす実践が豊かに展開されてきました。
〇都城市は、1200年前後から「島津の庄」と言われた荘園で、鎌倉13人衆の一人である惟宗忠久が地頭職、下司職として派遣され土着化した地域で、地形的には盆地です。
〇惟宗忠久は、「島津の庄」にちなんで島津姓を名乗るようになります。
〇島津家4代目の忠宗の時代に、忠宗の子どもの資忠が戦功を挙げ、足利幕府から都城の支配を命じられ、事実上鹿児島島津家から独立した形で、戦国時代、徳川時代を経て今日にまで至ります。したがって、都城島津家は鹿児島島津家の分家筋ではありますが、一種独立した形の4万5千石も領する領主です。しかしながら、徳川幕府から大名としてみとめられていないので、参勤交代もありません。鹿児島島津家からは家老が派遣されていたとは言うものの、徳川幕府の天領にも似た、独立性の強い独特の位置づけが代々認められてきたようです。

註➀ 鹿児島島津家は、惟宗忠久の名にちなんで当主は「忠」を付け、都城島津家は同じく「久」を付けることが習わしになっているとのことでした。

〇このような特殊の支配構造が、鹿児島島津藩とは異なる文化を生み出したのでしょう、それが現在でも継承され、ある意味自由な、闊達な文化を生み出しているのかもしれないと思いました。
〇戦後いち早く、自治公民館による地域づくり、社会教育を振興していくのは、このような歴史的、文化的背景があったからであろうと推察しました。
〇現在の都城島津家の第29代当主は島津久友氏で、都城市社会福祉協議会の会長に就任されています。3日間、島津久友氏と歴史も含めていろいろお話が出来たのは僥倖でした。
〇数年前に、富山県氷見市の地域福祉実践を『福来の挑戦』(「福来」(フクラギ)とは出世魚の「鰤」の手前の名称、これから「鰤」になる気概をしめしたもの)として刊行し、盛大に出版記念セミナーを開催しましたが、全国各地で自らの市町村の地域福祉実践を本として出版し、世に問える実践が“目白押し”になって欲しいと「実践の記録化」の重要性を再認識したセミナーでした。

Ⅲ 日本地域福祉研究所の春季セミナー

〇日本地域福祉研究所の春季セミナーが2026年5月23日に、大正大学で行なわれました。
〇日本地域福祉研究所の理事長を退任してからははじめての参加です。理事長職を法政大学の宮城孝先生に引き継いだ時、数年は日本地域福祉研究所の行事などには参加しないと自分で決めました。
〇とういうのは、自分の性分として、疑問や意見を述べたくなると、我慢できずに話をしてしまうので、まして宮城先生は私の教え子でもあるので、自分の言動にブレーキが利かなくなると考えたので、参加しないことが大事だと考えました。
〇参加しない間に、日本地域福祉研究所の活動を客観化できるようになったら、かつての永田幹夫先生のように“よう”といって出かけ、研究所の所員の皆さんと楽しく飲めるようにしたいと自分で勝手に決めていました。
〇今回は、その客観化ができるようになったかどうかは分かりませんが、教え子の金玄勲さん(日本社会事業大学の学部、修士課程の大橋ゼミ生)が、2025年11月に韓国社会福祉協議会の会長選挙で当選し、この1月から会長に就任したお祝いの会もあるということで、久しぶりに参加しました。
〇金玄勲さんには、1997年から6回行った(釜山、大邱、光州、大田、ソウル)韓国地域福祉研究セミナーの開催に当たって、大変お世話になりました。
〇その後、金玄勲さんは社会福祉法人幸福創造を設立し、特別養護老人ホーム、高齢者のデイサービス、保育所などを多角的に福祉サービス事業を展開するとともに、モンゴルの子どもたちを中心とした国際青少年交流活動を行ったり、福祉系大学で教鞭を執る等多面的に活動を展開してきました。
〇6年前には、ソウル市社会福祉協議会の会長に就任し、住民が求めているニーズに応えるサービスをプログラム化して、その事業の協賛企業を募り、プログラムの実施をしています。ソウル市社会福祉協議会は殆どソウル市からの補助金等の助成はありません。自分たちが企画したプログラムの実現に協賛する企業などからの協賛金、寄付金で運営をしています。日本の社会福祉協議会関係者は、この姿勢に大いに学ぶべきだと思います。
〇韓国からは金玄勲会長を始め10名の方が今回来日されました。中に、日本地域福祉研究所が1997年にソウルで行った第1回日韓地域福祉研究セミナーの開催を支えてくれた趙南畝さんも参加してくれていました。趙南畝さんは、“私は韓国の大橋謙策先生の教え子”と言って憚らない程、陰に陽に私と金玄勲さんを支えてくれています。その趙南畝さんがソウル市社会福祉協議会の会長に就任したと聞いて二重の喜びでした。
〇金玄勲さんの韓国社会福祉協議会の会長就任のお祝いと一緒に、東北福祉大学の大石剛史さんの損保ジャパンの社会福祉学術文献賞受賞のお祝いも行われました。
〇大石剛史さんが受賞した文献『ケアリングコミュニティの理論』(学文社、2024年、5610円)は、東北福祉大学院の博士論文を基にしたものです。
〇私が2014年に編著として刊行した『ケアとコミュニティ』(ミネルヴァ書房、5500円)で提起した私の考え方の“ケアリングコミュニティ”を基にして、心理学、哲学、教育学、看護学等の他分野の見識と比較研究してまとめたものです。久しぶりに哲学的考察をきちんとしてくれた論文を書いてくれて、教師としてはとても嬉しかったです。後に続く人が待ち望まれます。

Ⅳ 日本地域福祉学会「アーカイブ研究会」による「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」

〇日本地域福祉研究所の中島修さんや菱沼幹男さん、岡村英雄さんたちが中心になって、上記の研究会を組織し、「大橋謙策地域福祉論の批判と継承」ともいえる研究会が5月24日に、文京学院大学本郷キャンパスで行われました。
〇同じ試みが2025年11月に行われましたが、その時はあまりにも準備不足なのを私が怒り、事実上、流会になりました。
〇研究者になり、論文を書くということは、“先行研究の批判検討に始まり、先行研究の批判検討に終わる”と言われるほど、先行研究を丁寧に、批判的に検討することが求められます。
〇その中で、自分が依拠してもいいと思える研究者の論文を発見できれば、自分の研究は半ば達成の道が見えてきます。筆者の場合で言えば、それは日本社会事業大学の学部時代に小川利夫論文、江口英一論文に出逢ったことが大きいです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」は、そのような先行研究を丁寧に読み、問題点を探り、かつ関係する研究者の理論、思想と比較しつつ、新たな視点と構想でこれからの日本の地域福祉研究と実践の方向性を探ることだと筆者は心得ています。
〇今回の「アーカイブ研究会」では、大橋謙策地域福祉論の中の➀地域福祉の概念、②地域福祉の主体形成、③コミュニティソーシャルワーク、④福祉教育、⑤6つの自立論、⑤施設の社会化と地域化、⑦災害支援ソーシャルワークなどについて、他の先生方との比較研究を踏まえた上での疑問についての質問を受けました。
〇正直、これだけ丁寧に研究し、質問できるならば、これを基にして『大橋謙策地域福祉論の批判と継承』という本をすぐに上梓できると嬉しくなりました。是非、実現して欲しいものです。
〇日本地域福祉学会の「アーカイブ研究会」では、私だけでなく、阿部志郎先生や岡本栄一先生を第1弾として取り上げるということでした。
〇そこで思い出したのは、筆者が日本社会福祉学会にデビューした1974年の大正大学で行われた学会でのエピソードです。
〇その時、筆者は学会主宰のシンポジュウムのシンポジストに選ばれ、「社会福祉施設の社会化と地域化」について報告をしました。
〇シンポジュウムが終わり、帰路についた時、大正大学のイチョウ並木のところで、岡本栄一先生と早瀬昇さん(大阪ボランティア協会)に呼び止められ、とてもシンポジュウムの報告は良かったと評価してもらいました。
〇その後、岡本栄一先生は、「なぎさ理論」と称する考え方を披歴することになります。しかし、それは既に筆者が1974年段階で示した考え方です。「アーカイブ研究」の難しさは、本人が書いた論文だけに焦点化したのでは全体を鳥瞰できないというものです。

註➁ 筆者の報告は、翌年の1975年の日本社会福祉学会の紀要に掲載されます。「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
 ➂ 岡本栄一先生の「なぎさ理論」と称する論文は、「岡村『地域福祉論』と『地域社会関係』――入所型福祉施設と『なぎさ』の福祉コミュニティ論」(『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収)等参照。

〇「アーカイブ研究」は、取り上げる研究者の論文、思想のみを取り上げて論じるのではなく、それと関わる研究者の論文、思想などとの比較研究も行う、先行研究における大事な学問上の営みです。
〇かつて、日本福祉大学の元学長の二木立先生が、なぜ岡村重夫理論の批判論文がないのかおかしいではないかと言われ、筆者が『岡村理論の継承と展開 第1巻 社会福祉原理論』(ミネルヴァ書房、2012年)所収の拙著「岡村理論の思想的源流と理論的発展課題」という論文の中で岡村重夫理論を批判した際に喜んでくれ、これこそが学問なのだと言われたことが記憶に残っています。
〇「アーカイブ研究会」の終了後には、東北福祉大学大学院時代の院生が結婚した夫が日本橋で「鮨処 ほしの」を開店したので皆で行き,旧交を温めつつ大いに飲みました。とても楽しい夜でした。

Ⅴ 本の紹介―『自宅でない在宅―高齢者の生活有漢論』(外山義著、医学書院)

〇筆者の地域福祉研究・実践の足跡になる『その時の出逢いが』の2010年代を記述するに当たって、かつて読んだ本を改めて読み直しました。その本を多くの社会福祉関係者に読んで貰いたいと改めてここに紹介します。
〇その本は、建築学の生活空間論を専攻した外山義先生が書かれた『自宅でない在宅―高齢者の生活空間論』(医学書院、2003年刊、1800円)です。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国します。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になります。
〇私は、1990年代に外山義先生が設計された富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学しましたが、その哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動しました。
〇外山義先生の理念を基にした施設設計とケアの考え方を2003年以降具現化する取組を行っているのが一般社団法人ユニットケア推進センターです。このセンターが実習施設として認定している特別養護老人ホームは、皆さん出来れば見学してください。
〇その実習施設での実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)です。
〇外山義先生の考え方までに整理されていませんが、筆者も同じようなことを考えて論文を書いてきました。
〇当時、コミュニティづくりに必要な施設とは、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることではないかとか、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えてきました。それらについての筆者の論文は以下の通りです。ご参照ください。
➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学会紀要第19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要第34号』所収、1988年)

老爺心お節介情報/第85号(2026年5月6日)

「老爺心お節介情報」第85号

〇皆さんは、ゴールデンウィークをどう過ごされていますか。
〇私は、足の傷が痛く、歩けず、家に蟄居していました。童謡の「みよちゃん」ではありませんが、“ケンちゃんはおんもに出たいと泣いている” 日々のゴールデンウィークです。足が痛いと何もする意欲が沸きません。でもやることがないので、「その時の出逢い」の第85号を少しづつ書いていました。
〇ゴールデンウィーク中にする予定だった小さな庭の畑の野菜の作付も延期です。庭木も繁茂し始めていますが、今はなるようにしかなりません。 来週から出張が始まるのですが、歩いていけるか心配です。
〇皆さん、くれぐれもご自愛の上、ご活躍下さい。
(2026年5月6日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑧

Ⅰ 2000年前半―社会福祉学界の代表としての矜恃と不安、プレッシャー

〇2000年代前半は、1990年代までの研究が評価された結果なのか、社会的な活動が求められるようになり、個人の教育・研究の関心事のみならず、日本の社会福祉学界の代表としての立ち振る舞い、矜恃が求められた時代でした。
〇私自身の器、度量、力量を越える役割が求められ、自信のなさに押しつぶされそうなプレッシャーとそれらの役割が自分を成長させてくれているということが実感できる活動時期でした。
〇2000年代前半の活動の主なものは、➀日本社会福祉学会会長の職務、②日本学術会議会員としての職務、③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務、④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟・アジア・太平洋会議の日本大会の実行委員長の職務、⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務、⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務である。

➀日本社会福祉学会の会長としての職務

〇1998年10月に行われた日本社会福祉学会の理事選挙でトップ当選をし、会長に選出された(1998年~2003年、連続2期)。前会長の阿部志郎先生とは18歳の年齢差であった。
〇それまでの日本社会福祉学会の会長は、一番ケ瀬康子先生(通算4期)、浦辺史先生(通算3期)、仲村優一先生(2期)等が重任してきた他、磯村英一先生、岡村重夫先生、若林龍夫先生、木田徹郎先生、三浦文夫先生たちで、1954年の日本社会福祉学会創設時の会員(会員196名)であり、その後の日本の社会福祉学界を牽引してきた重鎮ばかりであった。創設時の会員以外で会長になったのは、筆者が最初である。
〇筆者は、1989年に公選理事になり、関東部会を担当したが、1992年の公選理事で選ばれた2期目は事務局長を仰せつかった。その際、「社会福祉学会ニュース」の刊行(小松源助先生が事務局長時代にニュースが2号出ているが、その後は発行されていない。それを復刊継続して3号として定期化させた)と公選理事のマンネリ化と理事の若返りを進めるための規約改正をした。当時の日本社会福祉学会は会員数が4000名を超える学会になっていたので、多様な会員の意見が反映されるようにすべきだと考えたからである。
〇規約改正は「理事の多選を禁止し、理事は通算4期まで、かつ理事は連続2期までは継続できる」とする内容である。したがって、理事を連続して2期まではできるが、連続2期したらいったんは理事を退き、3年間は役職に就けないという規約改正であった。
〇当然、筆者も2期で退き、3年間の間隔をおいて、1998年に再度理事に選ばれ、会長に就任した。
〇この若返りを進める規約改正により、新たな新進気鋭の理事たちが登場してくる。白澤政和先生、黒木保博先生、高橋重宏先生、上野谷加代子先生等が当初は推薦理事で理事会に入り、その後公選理事として選ばれ、学会としてなくてはならない活動を展開してくれた。
〇日本社会福祉学会の会長として行ったことは、(ⅰ)学会創設50周年行事、(ⅱ)日本社会福祉学会文献賞の創設、(ⅲ)『社会福祉学会研究の50年―日本社会福祉学会のあゆみ』(ミネルヴァ書房)の刊行、(ⅳ)韓国社会福祉学会(当時の韓国社会福祉学会会長は梨花女子大学の金聖二教授(前出)との学術交流協定の締結である。
〇社会福祉学分野における優秀な論文、著作を表彰する制度は、既に三浦文夫先生のご尽力で損保ジャパン(旧安田火災記念財団)が行ってくれていたが、日本社会福祉学会としても優秀な著作について表彰することにより、会員の研究意欲を高めたいと考えて日本社会福祉学会文献賞を創設した。
〇韓国社会福祉学会会長の車興奉先生(後に韓国保健福祉部長官に就任、日本の厚生労働大臣に該当)から、「感謝牌」が贈られた(「感謝牌」の銘文は「先生は日本社会福祉学会会長に在職していた際に韓国社会福祉学会に対する多大な関心と愛情を持ち、活発な学術ならびに人的交流を推進し、これをもって両国の社会福祉の発展とともに相互友好増進に大きく貢献しましたので、韓国社会福祉学会会員の心を込めて感謝の意を伝えたいと思います。」2015年4月29日、韓国社会福祉学会長車興奉)。
〇韓国の社会福祉界とは、社会福祉学会の学術交流だけでなく、日本地域福祉学会との学術交流も行われるようになり、その端緒を切り開くことができたと喜んでいる。
〇2026年1月には、筆者の教え子が韓国社会福祉協議会の会長に選出され、就任している。これからも韓国と日本の友好関係が継続していくことを切に願うものである。

②日本学術会議会員(2000年~2005年)

〇日本学術会議は、全国に87万人いると言われている科学者、研究者の中から、当時は会員定数210人が7部門に分かれている会員の定数毎に、関連する学会が選挙をして会員候補者を選出し、それを内閣総理大臣が任命する組織である。
〇日本学術会議は政府の諮問に応える政策提言とともに独自に政府に対して勧告できる権限を有している、いわば科学者、研究者の“国会”とも称される組織である。
〇日本社会福祉学界をはじめとした社会福祉関係学会は、会員選出の枠を持っていなかった。
〇日本学術会議には、社会福祉学界からは小川政亮先生、一番ケ瀬康子先生、仲村優一先生が選出されていたが、小川政亮先生は社会保障法の、いわば法学系の会員として選出されていた。一番ケ瀬康子先生が、社会学の分野の会員枠を一人譲ってもらって、社会福祉学界が推薦して会員になっていた。したがって、その当時の科学研究費は社会福祉学としての独立した細目を持たず、社会学分野へ申請し、採択されれば科学研究費が得られる仕組みで、結果的に社会福祉学界の科学研究費の採択率は低かった。
〇筆者は、既に1990年の時に、日本社会福祉学会選出の会員推薦人(1990年)に選ばれていたし、1994年には日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡会委員・幹事に任命されていたので、日本学術会議についてはそれなりの関わりを持っていた。東洋大学の山手茂先生や日本女子大学の田端輝美先生などと一緒に日本学術会議社会福祉・社会保障研究連絡委員会の「対外報告書」(「社会福祉に関する研究・教育体制の拡充・強化についてー高齢社会に対応する社会サービスの総合化対策の一環として(1997年)、「社会サービスに関する研究・教育の推進について」(2000年))を起草していた。
〇しかしながら、いざ日本学術会議の210名の一人に選ばれるとそのプレッシャーに押しつぶされそうであった。約87万人いると言われている科学者の中から210名が会員に選ばれて日本の科学技術のあり方について論議するということは、余ほど多面的、多角的論議できる知見、博識がなければならないわけで、相当に緊張していたことが自分でも分かった。他の会員は、錚々たるキャリア、名望のある方々で、直接話をするのも憚れるような緊張感であった。
〇とりわけ、筆者が会員の時に出した対外報告「ソーシャルワークが展開できる社会システムづくりへの提案」(2003年)についての幹部会での質疑は今でも冷や汗が出る。
〇日本学術会議の対外報告は、幹部会と呼ばれる日本学術会議の会長、副会長、7部会の部会長、副部会長から構成される会議で、そこで報告し、質疑応答を受けて「対外報告」として出していいかが決まる。いわば、社会福祉学界を代表して、時の社会福祉に関わる学術、教育・研究体制、政策のあり方に関して、今後のあり方を示し、各分野の学術、教育・研究体制との整合性があるか、対外報告としてのインパクト、必要性が問われる機会であった。
〇幹部会議では、いろいろ質問を受けたが、ありがたかったのは、工学系の会員で、日本製鉄に勤めている会員が、この対外報告はとても重要で、今まさに求められている政策課題であり、学術研究課題であるという趣旨の“応援発言”をしてくれた。幹部会議が終わった後も是非頑張って欲しいと励ましてくれた。
〇当時の日本学術会議は、会長が東大総長を務めた、工学系の吉川会長であったこともあり、日本の学術体系全体の見直しが検討されていたことも“追い風”になったのであろう(日本学術会議は、2003年に『人間と社会のための新しい学術体系』を発表。そのことに関わって、筆者は「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」を2004年に執筆(『社会福祉学研究の50年――日本社会福祉学会のあゆみ』ミネルヴァ書房、2004年11月所収)。
〇このように、仲村優一会員の時から、毎期毎に必ず「対外報告」を出し、ソーシャルワークの必要性と社会福祉学の固有性を訴えてきたこともあって、2003年度から日本学術振興会の科学研究費において、社会福祉分野が社会学から独立して「細目」で認められるという、日本社会福祉学界の長年の“悲願”が実現できた。
〇社会福祉分野は、長年、大学の教育現場でも「社会福祉論」という用語を使っており、「社会福祉学」ではなかった。これ以降、「社会福祉論」ではなく、「社会福祉学」という用語の使い方が定着していく。それは、私にとっても日本社会事業大学入学時からの疑問に対する回答になった。
〇筆者は、その時から何年か科学研究費の審査委員を仰せつかった。ちなみに、その当時は看護学もリハビテーション分野も科学研究費としての独立は認められていなかった。
〇筆者が日本学術会議の「福祉研連」の委員・幹事の際の1999年9月に『福祉研連ニュース』を発刊し、日本学術会議の学会として認定登録されている社会福祉系学会の会員に配布した。
〇それら『福祉研連ニュース』を含めて、社会福祉関連の対外報告などを収録した『社会福祉・社会保障研究連絡委員会 韓国・対外報告・報告集』を2005年9月に刊行しているので参照願いたい。
〇筆者が会員に選出されていた当時、第1部会員の中には万葉集の研究で文化勲章を受けた中西進先生や東京大学名誉教授で出土した農具の分析から、縄文文化と弥生文化の地域分布の違いを明らかに、歴史的に縄文時代を経て弥生時代になるという歴史観の誤りを指摘した先生で、かつ文部科学省文化財保護審議会会長もされている藤本強先生等の斯界の権威ある先生方との交流は、緊張したけれど楽しかった。

③ソーシャルケアサービス従事者研究協議会の設立と副代表、代表の職務

〇日本の社会福祉関係者が長年求めてきた社会福祉専門職化、国家資格化は1987年の「社会福祉法及び介護福祉法」の制定により実現した。この法律が成立する背景には、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」に代表されるように、急激な高齢化に伴う介護人材の質・量の問題が大きな課題だった。
〇他方、1986年に行われた国際ソーシャルワーク会議、国際社会業学校連盟会議での論議を基にした斎藤十郎厚生大臣の強いリーダーシップがあった。
〇1987年成立の「社会福祉士及び介護福祉士法」の時代は、いまだ在宅福祉サービスは成熟しておらず、入所型社会福祉施設サービスの時代であった。しかも、当時は、中央集権的機関委任事務の時代であり、福祉サービス利用の可否は都道府県の福祉事務所か市レベルの福祉事務所が担っていたので、そこではソーシャルワーク機能は全くといっていいほど関心を持たれず、社会福祉研究者の一部が声高にソーシャルワークを言っていたにすぎない時代だった。厚生労働省は殆ど関心を寄せていなかった。
〇当時、筆者は「ソーシャルワーク」、「ソーシャルワーカー」と言ってもその必要性を分かってもらえないので、筆者は「ソーシャルワーク機能」という言い方を敢えてした。「ソーシャルワーク機能」は教師も、弁護士も保健婦も持っているが、それらを総体的に集中的に機能として持っているのが、ソーシャルワーカーで、在宅の障害者、とりわけ、精神障害者や高齢者の支援には、これからソーシャルワーク機能が求められることを言ってきた。
〇1990年の社会福祉関係8法改正で、在宅福祉サービスが法定化され、かつ1990年代後半になると「介護の社会化」が叫ばれ、介護保険制度の導入が決まってくる。
〇そのような状況のなかで、在宅福祉サービスの推進には、ケアワークとソーシャルワークとの連携、有機化が必要ではないかと筆者は考え、仲村優一先生や田端輝美先生などと相談する。当時、神川県立保健福祉大学(学長阿部志郎先生)は「ヒューマンケア」という考え方を標榜して大学教育を行っていたが、我々は日本学術会議などの検討も踏まえながら、イギリスが1998年に「ソーシャルケア研修協議会」を設立したことを参考に「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を2000年に立ち上げた。
〇この「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」には、日本社会福祉学界をはじめ社会福祉系学会、日本社会福祉士会等の社会福祉士専門職団体、日本社会事業学校連盟などの養成機関の他に、日本介護福祉学会、日本介護福祉士養成校協議会、日本介護福祉士会等の関連する17学会、団体が加盟して発足した。まさに社会福祉界の「大団円」と言っていい組織である。
〇この組織の発足式で、仲村優一先生が、“戦後50年間、このような大同団結した組織を創ろうとしてできなかったことが出来、本当に嬉しいとの挨拶をしてくれた。
〇各々の団体の特色、違いを超えて、日本の社会福祉界の向上、日本の社会福祉教育、介護福祉教育の発展、日本の社会福祉・介護福祉の専門職化の向上に寄与できる一石を投ずることができた。発足当初は、仲村優一先生が日本学術会議の会員だったので、会長職をお願いしたが、筆者は副会長として、その後2代目会長として、この協議会の運営に当たった。

④日本社会福祉教育学校連盟会長及び国際社会事業学校連盟及び国際ソーシャルワーク連盟のアジア・太平洋地域会議の日本大会の実行委員長の職務

〇筆者が提起して「ソーシャルケアサービス従事者研究協議会」を立ち上げたこともあり、2003年に日本の長崎で行う第17回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議の実行委員長を仰せつけられた。
〇第17回大会は、長崎国際大学の高橋信幸先生、綿裕二先生が精力的に事務局を担ってくださり、ハウステンボスなどを会場に第1回大会を開催する予定で、印刷物をはじめあらかた準備が整った段階で、国際的な感染症SARS(中国で拡大、重症急性呼吸器症候群)が蔓延の兆しを示したことから、厚生労働省から国際会議を自粛するようにとの連絡が入り、急遽中止せざるを得なくなった。約2000万円の損失が出たが、実行委員会の加盟団体に分担負担をして頂き決算することができた。
〇その後、筆者は韓国・ソウルで行われた第18回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で「ソーシャルワークの挑戦と対応―アジア太平洋地域における新しいパラダイムの開発」、マレーシアのペナンで行われた第19回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議で、「ソーシャルワーク・発展のための触媒」と題して基調報告をさせて頂いている。
〇日本でのアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を開催したことがなかったので、国内外からアジア太平洋地域ソーシャルワーク会議をして欲しいとの要請を受けて、再度日本は第21回アジア太平洋地域ソーシャルワーク会議を2011年に行うことになった。
〇この時も実行委員会委員長を仰せつかり、早稲田大学の田中英樹先生を中心に事務局を担っていただき、早稲田大学を会場に行うことができた。
〇どういう訳か、この第21回大会の時も、MERS(中東呼吸器症候群)が感染し始め、シンガポールなどの国から開催中止の要請があったが、流行の状況を考えて実施することにした。国内外から25か国、約700名(国外200名余、国内460名余)が参加してくれた。参加者の参加費だけでは開催費用が賄えないので、広く協賛金を募り約4000万円を集めた。
〇筆者は、実行委員長として『「ソーシャルワークと社会開発のためのグローバルアジェンダ」への日本からの提案」をさせて頂いた。
〇この大会の開催に当たっては、秋元樹先生、岩崎浩三先生、高橋重宏先生、白澤政和先生などに大きな役割をになって頂いたし、医療ソーシャルワーカー協会や日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士会等の専門職団体が大きな役割を発揮してくれた。
〇その後、2007年に日本社会事業学校連盟の会長になり、加盟校の「理事長・学長」会議を開催し、厚生労働省社会・援護局長へ、ソーシャルワーク教育のカリキュラム、国家試験の出題基準を改正するべきだという申し入れをしたりする。それらの活動の中から、教員中心の日本社会事業学校連盟では、ソーシャルワークやケアワークの質の向上に向けてのソーシャルアクションは効き目が薄いと考えて、日本社会事業大学の長尾立子理事長や日本福祉大学の丸山悟理事長に働きかけて、「社会福祉系大学経営者協議会」を結成して頂いた。
〇そうこうするうちに、大学受験18歳人口の減少、3K職場という負のイメージを払しょくできず、社会福祉系大学の受験者数が激減し、経営が厳しくなっていった。

⑤東京都生涯学習審議会会長及び東京都社会教育委員の会議会長と全国社会教育委員連合会長の職務

〇東京都生涯学習審議会の委員には1996年から任命されている。しかしながら、審議会会長に任命されたのは2001年(~2009年)からである。
〇東京都生涯学習審議会会長は、従来社会教育委員の会議の会長も併任するようで、筆者も2002年に東京都社会教育委員の会議の会長を兼ねることになった。
〇更に、東京都社会教育委員の会議の会長は、一般社団法人全国社会教育委員連合の会長を兼ねるということであったが、それは組織が違うのだからと当初は固辞した。しかしながら、その役職をする人がいないとかで、2003年には就任させられた。
〇筆者は、いろいろな地方自治体の委員を任命された時、単なる委員の時には左程主張しないが、部会長や委員長、会長を仰せつかった際には、事務局案に対して意見を述べるだけではなく、また、事務局の諮問に応えるだけではなく、事務局に対し常に建設的提案をし、委員会としての建議の権限を大切に委員会、審議会の運営を心掛けてきた。
〇東京都生涯学習審議会でも、審議会の場だけではなく、事務局との打ち合わせの際にも新たな提案を常にしてきた。
〇会長になった1期目、2期目は、生涯学習を個々人の自己充足的な生涯学習のレベルに留めず、社会参画型の生涯学習の必要性を打ち出した。とりわけ、中高年層が社会参画する「新しい公共」の創生とコミュニティづくりに関しての答申を出した。
〇第3期目、4期目は、筆者が日本社会教育学会などで1970年代に研究していた「学校外教育」の組織化の考え方を基に、「地域教育プラットホーム」構想を打ち出した。この考え方は文部科学省の社会教育課にも影響を与え、政策として「学校支援地域対策事業」や「地域学校協働事業」として展開されている。
〇第5期、6期目は「教育行政」を振興するための社会教育行政の在り方について、社会教育行政がもっと中学、高校の教育を支援するあり方の必要性を提起している。
〇この間、東京都生涯学習部梶野光信社会教育主事が筆者の考え方に共鳴してくれ、行政内部で受け入れやすいような提案の形式を整えてくれた(梶野光信著『ユースソーシャルワーク』(生活書院、2025年)参照。梶野さんは主任社会教育主事を経て、現在は日本大学の教授をされている。梶野さんは東京学芸大学の小林文人先生の教え子である)。
〇全国社会教育委員連合会長としては、主に年1回行われる全国社会教育研究大会の実施である。全国をブロックごとに巡回するこの社会教育研究大会で、時には基調講演を行ったり、時には開催県の知事との対談などを行ってきた。大分県は江戸時代三浦梅園や廣瀬淡窓等の学者を輩出しており、それらの県の歴史を学びながら、当時の大分県知事の広瀬知事が広瀬淡窓の末裔であったこともあり、そのような話題を引き出しながら、その県の社会教育の振興策と地域づくりについて話をしてきた。
〇全国社会教育委員連合会長を15年間務めたこともあり、全国各地に出かけることができた。
〇ただし、この組織の悩みの種は、文部科学省からの補助金がなく、大会開催の費用の捻出、連合会事務局の維持管理に頭を悩ませたことである。
〇とはいうものの、全国の都道府県で社会教育委員として地域づくりに、手弁当で奮闘されている方々にお会いでき、それらの方々の社会教育振興への情熱、地域づくりへの情熱に触れられたのはとても幸せであった。中でも、香川大学の清國祐二先生、大分大学の山崎清男先生、八戸学院大学の内海隆先生、島根大学の島田雅治先生、有馬毅一郎先生等本当にお世話になると同時に、お互いの意見交換ができたことが嬉しかった。
〇また、事務局を担ってくれた元国立社会教育研修所課長をされた坂本登先生や宮崎大学の教授をされた上条秀元先生、あるいは事務局を手伝ってくれた林洋子さん親子(事務局にお金がないものだから、アルバイトを雇う代わりに林さんは息子さんにいろいろ手伝わせていた)との出逢いは楽しいものであった。
〇更には、文部科学省生涯学習局長が主宰する雑誌「生涯学習政策」等にも執筆の機会が与えられ、生涯学習、社会教育について論議をすることができたのもいい経験であった。

⑥各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務

〇筆者、仲村優一先生や三浦文夫先生が担っていた各種福祉財団の研究助成選考委員会の委員・委員長並びに財団の評議員・理事の職務を後任として任されることが多かった。
〇日本経済界は1990年頃から社会貢献活動(CPI)を重視し、会社の創立周年行事などの際に福祉財団を設立するのが当時はやった。
〇これらの財団の機能を積極的に活用し、日本の社会福祉界へ新風を吹き込んだのが三浦文夫先生であった。
〇筆者は、1994年に大和証券福祉財団の評議員(後に理事)、選考委員、1999年に公益財団法人日本生命財団・高齢社会助成選考委員(後に選考委員長、理事)、2003年に損保ジャパン福祉財団・社会福祉文献賞選考委員長(~2017年)、みずほ福祉財団評議員などを務めている。この他にも、NHK厚生文化事業団、朝日新聞厚生文化事業団などにも関わらせて頂いた。
〇中でも、印象的な役割は、日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長を仰せつかったことと、損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞選考委員長を仰せつかったことである。
〇いずれも、前任の委員長は三浦文夫先生で、この財団活動の礎を構築された先生である。日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の委員長は初代が岡村重夫先生、2代目が三浦文夫先生で、3代目が筆者である。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会は、急速に高齢化が進展する中で、新たな福祉サービスの開発事業に積極的に助成をし、日本の高齢者福祉政策に多大の影響を与えた。当初は、特別養護老人ホームを経営している社会福祉法人に助成していたが、1990年代後半には、在宅福祉サービスが法定化されたこともあり、地域福祉の推進の視点も盛り込まれ、市町村社会福祉協議会などへの助成も行われた。
〇日本生命財団は、この助成事業の成果を発表するシンポジュウム並びに講演会を東京・有楽町のニッセイ劇場と大阪の会場とで行ってきた。時には、1000名の聴衆を集めて、それらのシンポジュウム並びに講演会が行われた。高齢社会助成選考委員会の委員長は、そのシンポジュウムの司会進行を担ったり、時には講演を引き受けなければならず、それはとても名誉なことと感じるとともに、その重責は大変なものであった。
〇日本生命財団・高齢社会助成選考委員会の活動は、『地域包括ケアの実践と展望』(大橋謙策・白澤政和共編、中央法規、2014年)が刊行されているので参照願いたい。この本の巻頭言を三浦文夫先生が「地域包括ケアシステムの源流」と題して書いているが、地域包括ケアの考え方と日本生命財団が果たしてきた役割、位置が簡潔に述べられている。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、損保ジャパン福祉財団の前身の財団法人安田火災記念財団から日本地域福祉学会が助成をうけて、1993年に『地域福祉史序説』を上梓していたこともあり、地域福祉研究、活動支援団体として馴染みのある財団であった。筆者は、1993年当時、日本地域福祉学会の事務局長で、地域福祉史研究会を総括する立場だったので、そのような機会を与えて頂いた財団に“恩義”を感じていた。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、その財団の後継財団が創設してくれたので、かつその当時は社会福祉学分野での文献表彰制度は事実上皆無だったので、非常に嬉しかった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、毎年前年度まで刊行された単著を対象に選考する。毎年、30冊程の著書が選考対象になり、5人の選考委員が第1次、第2次、第3次審査を行い、文献賞候補を決め、理事会の承認を得て、文献賞が授与される。文献賞には賞金100万円と副賞としてヴァン・ゴッホの「ひまわり」の七宝焼きが贈呈される。選考委員長は、選考の経過と選考した著書へのコメントを出すことが求められる。ある意味、博士論文の審査と似ている。
〇選考委員長の職務は重いが、自分では掴んでいなかった著書を読む機会となり、大変勉強させられる。京都大学の金沢周作著『イギリス近代とチャリティ』とか、福岡大学の廣澤孝之著『フランス「福祉国家」体制の形成』等、学ぶことが多かった。
〇損保ジャパン福祉財団の社会福祉文献賞は、ある時から授賞式だけではなく、受賞作に関わるテーマでのシンポジュウムを開催し、より研究課題を深める取り組みもしている。
〇これらの財団の活動に参加して学ぶことは、我々はどうしても社会福祉界の関係者や福祉行政の関係者とのみ交流していて、普段日本の経済界を牽引している方々との交流は殆どない。いわば、一種の“視野狭窄”の世界で生きている。しかしながら、財団の理事会や評議員会に参加している方々はいろいろな経済界の分野の業務に携わっている方々が多く、食事をしながらのさりげない会話の中に、あるいは人とのお付き合いの仕方の中に学ぶ点は多い。丸紅の社長、みずほ銀行の頭取、日本生命の会長、大和証券の会長、近畿鉄道の社長などとの会話・交流は、まさに日本経済界を牽引している人たちだとういう重厚感と存在感を感じる機会であり、人格的に尊敬できる方々ばかりである。
〇「井の中の蛙」とはよくいったもので、社会福祉関係者だけの世界で生きて、分かったつもりになっている自分が恥ずかしいと反省する機会が多々あった。
(2026年5月5日記)

大橋謙策/大橋謙策研究 第11巻:中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

 

 































 

大橋謙策研究 第11巻
中山道 六十九次 よろよろへとへと道中記

発 行:2026年4月30日
著 者:大橋謙策
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所

 


老爺心お節介情報/第84号(2026年4月30日)

「老爺心お節介情報」第84号

〇新緑が目に眩しい季節になりました。皆様には、新たな気持ちで新年度を迎えられ、元気に業務に励まれていることと推察いたします。
〇私は、4回目の「四国通し歩きお遍路」を断念した変わりに、この4月5日から中山道約530キロの通し歩きを企てました。しかしながら、4月19日、足の裏のまめが化膿し、歩けなくなりリタイアしました。長野県妻籠宿まではどうにか歩いてきましたが、美濃路には歩いては入れませんでした。
〇中山道の道中記は、「中山道69次 よろよろへとへと道中記」(⇨本編)としてまとめました。この「老爺心お節介情報」と一緒にファイルを添付してありますのでご笑覧下さい。
〇歩いてみて、いろいろ考えましたが、いくつか今後我々が地域福祉を推進するに当たって考えなければならないことを取り敢えず列挙しておきます。

2026年4月30日   大橋 謙策


〇地域の成り立ちや地域属性は違う市町村が「平成の合併」で市長村域を拡大した結果、旧市町村の教育と地域福祉はどうなるかを、合併後20年経った今、改めて検討しないと「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」等といった用語の目新しさにごまかされて、本質を失いかねない状況が多々あることに気が付きました。
〇かつて、私は長野県茅野市の福祉行政アドバイザーをしている時に、当時の市長である矢崎市長に、画一的に広域化を進めるのではなく、広域化する部門とより分権化する部門とがあることを提言しました。
〇消防、建設土木、清掃環境は広域化する必要があるが、教育と社会福祉はより住民の身近な圏域に分権化させ、住民参加で運営しないとうまくいかないと提言をし、「福祉21ビーナスプラン」を作り、分権化した地域福祉システムを創りました。
〇茅野市の地域福祉システムは分権化でき、効果を発揮できたのですが、介護保険は長野県の強い指導があり、それに抗せず茅野市は諏訪・岡谷などとの広域組合立になりました。茅野市の「主権者」としての位置は事実上発揮できなくなりました。
〇中山道を歩いていて、すごく広域化した市町村の福祉サービス、介護サービス等の需要と供給がうまくいっているのか、合併後の周辺地域の生活のしづらさはどうなったのかを改め検証しないと地域福祉研究者としての責任が問われるとつくづく思いました。


〇「2040年問題」は既にいろいろな形で我々の認識を超える形で実体化してきています。社会福祉法人の売買収の動きや多面的な要因によるサービス提供が困難になってきている社会福祉施設、社会福祉法人の譲渡、買収問題はこれからの地域福祉の大きな課題です。
〇そのような中、市レベルの社会福祉法人監査能力の問題や経営形態が異なる広域組合立、公設民営社会福祉法人、純粋な民間設立社会福祉法人等の連携・合併・吸収に関わる知識、ノウハウがない状況の中で、民間サイドの動きは活発になっています。しかしながら、それらの課題に関する論議は、地域福祉システム、地域福祉計画の視点からは全くと言っていいほど論議がされていません。
〇木曽圏域6町村では、「松本・塩尻・木曽広域組合」立の特別養護老人ホームの経営が難しくなり、かつ築後経年劣化もあり、閉鎖が検討されています。しかし、それは単なる「松本・塩尻・木曽広域組合」の問題ではありません。木曽6町村の住民の介護サービスの総量を今後どう確保していくかという問題でもあります。
〇しかしながら、木曽6町村の介護保険は「6町村の広域組合」立であり、町村毎の地域福祉システム、地域福祉計画との関係でどう考えるべきかの町村の「主権者」としての役割を十分発揮できない状況にあります。
〇木曽地域では福祉サービス提供の「主権者」が分散し、いわば「無責任体制」にもなりかねない状況の中で、何が「地域福祉ガバナンス」、「地域福祉マネジメント」なのか研究者は回答を求められています。
〇「2040年問題」は深刻で、かつこのような状況の中で、日本地域福祉学会や地域福祉研究者はこれらの問題にどう対応しようとしているのでしょうか。


〇かつて、私は社会福祉法の改正で、「地域の生活課題」の文言が組み込まれた際に、それは社会福祉法の趣旨からいえば、「地域生活課題」ではなく、「地域の社会生活課題」なのではないかと問題提起しました。
〇今、問題になっているのは、個々の住民の生活上のしづらさの問題だけではなく、地域生活における社会関係、人間関係が絶たれ、住民が「孤立」、「孤独」になり、社会生活が成り立たなくなっていて、その結果としての地域機能の保全維持が困難になってきていることの問題です。
〇結果としての「孤独」、「孤立」問題というより、社会的に「孤独」、「孤立」を作り出している構造を考え、それへの対応策を地域福祉の視点からシステムづくりをする必要性を強く感じてきました。


〇中山道歩きの泊まった宿々で、多くの、長期に滞在している労働者と会いました。かつての「出稼ぎ労働者」という、プレハブの「飯場」で寝起きして働くというイメージは少なくなりましたが、例えビジネスホテルで寝泊まりしていても、長期出稼ぎの状況は変わっていないのだと思いました。
〇それらの多くの人は、契約社員であったり、派遣社員であったりと「不安定就業」に従事しているとみられます。
〇“現象的”に「貧困」が把握しづらくなっているのだと思いますが、我々が忘れてはならない原点です。
(2026年4月30日記)

老爺心お節介情報/第83号(2026年3月28日)

「老爺心お節介情報」第83号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

天候が安定しない日々ですが、皆様にはお変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第83号を送ります。ご笑覧下さい。

2026年3月28日  大橋 謙策

〇いよいよ年度末。皆さんは、年度末の事業報告作成でお忙しいことでしょう。他方、人事異動の情報も寄せられてきて、長年頑張ってきた行政の職員、社会福祉協議会の職員で退職される人、新たな職場に異動される人、まさに「人生いろいろ」ですね。
〇長年勤務され、この3月末で退職される方本当にご苦労様でした。一人一人名前を挙げることはしませんが、日本の地域福祉推進、社会福祉協議会活動強化のためにご尽力されましたことに心より感謝とお礼を、この紙上を借りて申し上げます。本当にありがとうございました。
〇私の方は、そんな世界からは縁遠い生活を楽しんでいます。
〇我が家の庭には朱海棠、ミツバツツジ、スズラン水仙、レンギョウが咲いています。冬野菜を作った猫の額ほどの畑を掘り返し、石灰と肥料を撒き、夏野菜の準備をしました。小さな畑での作業ですが、歳を感ずる畑仕事でした。
〇今号では、「そのときの出逢いが」➆を送ります。筆者の1990年代後半の出逢いと実践・研究の素描です。
(2026年3月28日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➆

Ⅰ  1990年代後半―日本地域福祉研究所及び日本福祉教育・ボランティア学習学会創設

〇1990年代後半は、年齢的にも50歳代前半で、自分で言うのもおかしいが、今振り返ってみても、私の人生の中で最も充実した教育・研究ができていた時期である。
〇この時期は、➀日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催、②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催、③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設、④東京都及び文部省、厚生省の各種委員会での政策形成への関与、⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化、⑥地域福祉実践及び研究成果の出版化、⑦イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究、を挙げることができる。

①日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催

〇日本地域福祉研究所は、1994年の12月23日に設立された。
〇1989年に日本社会事業大学大学院修士課程が設置され、私も地域福祉の授業を担当することになった。当初は、研究指導の教員としては認められてなかったが、実質的には地域福祉の授業は講義とともにゼミの機能を有していた。その第2期生に渡邊洋一さん(後に淑徳大学、青森県立保健福祉大学教授)、上地武昭さん(後の沖縄大学教授)や青山登志夫さん(後に静岡英和大学、静岡福祉大学教授)が学びに来ていた。
〇彼らが終了する際に、現役の院生と大学院修了者の継続教育の組織として「はしの会」を立ち上げた。他方、全社協の「地域福祉活動指導員」の養成課程で知り合った現場の社会福祉協議会職員の継続教育の機会を作りたいということで、「日本地域福祉研究所」が設立された。設立に際しては、青山登志夫さんが尽力してくれた。事務所は、新宿区本塩町においた。それは、筆者が1970年の東京都教育庁の市民が作る社会教育講座の受講生で、後に板橋区区議会の議長を務める手嶋喜美子さんの紹介で、東洋堂企画出版の尾関とよ子社長と知り合い、そのビルに空き部屋があるということで、口利きしてくれて、事務所を構えることになった。事務所開設に当たっては、尾関社長になにかとお世話になった。
〇その後、後述するように、東洋堂企画出版社(後に社名変更での万葉舎)からは、日本地域福祉研究所関係の本を多数出版させて頂いた。
〇日本地域福祉研究所の設立の経緯は、2014年12月に刊行された『日本地域福祉研究所20年の軌跡』に詳しいので参照頂きたい。
〇日本地域福祉研究所の運営に当たっては、鷹野吉章さん、染野享子さん、阿部晴美さん、高橋信幸さんらの事務局長によって支えられ、かつ在学中の日本社会事業大学の院生、宮城孝先生のゼミ生である法政大学大学院の院生が、運営に協力してくれた。運営の責任を持つ理事には、日本社会事業大学の大学院を修了した教え子たちが担ってくれた。設立当初には、三浦文夫先生、右田紀久恵先生、後には永田幹夫先生、上野谷加代子先生、牧里毎治先生等地域福祉研究の第一人者の方々に顧問にご就任頂いた。
〇私の“思い”としては、全社協とは別に、地域福祉関係者の拠り所になればという“思い”もあり、日本地域福祉研究所として事務所とは別にワンフロアーを借りて、地域福祉関係者の「福祉サロン」づくりも試みた。残念ながら、この「福祉サロン」は必ずしも成功したとは言えなかった。
〇日本地域福祉研究所は、1995年に島根県瑞穂町で第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催した。
〇島根県瑞穂町は、1980年代から福祉教育に熱心に取り組んでいる社会福祉協議会で、その事務局長をされていた日高政恵さんから、1995年5月に瑞穂町で開催された「ふるさと山野草を食べる会」(?)の催しの際に招聘され、その折に第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催してもらえないかとお願いをした。瑞穂町には、大人数が泊まれる宿泊施設がないので、ゴルフ場のゲストハウスやスキー客用の民宿等に分散宿泊してセミナーが行われた。参加者は約100名で、フィールドにも入って行われた。瑞穂町には天然記念物の「オオサンショウウオ」が生息していて、それを始めて見させていただいた。
〇「地域福祉実践研究セミナー」は、筆者が「関係人口」の一人として、あるいは「バッテリー型」実践・研究のフィールドとして関わってきた市町村、市町村社会福祉協議会を舞台に全国各地で開催されてきた。2023年に佐賀県で行われた第28回「地域福祉実践研究セミナー」をもって終了した。
〇この「地域福祉実践研究セミナー」は日本地域福祉学会の理念でもある「研究と実践の循環」を文字通り実現できたセミナーだったと自負している。

②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催
〇日本社会事業大学の社会福祉学部、大学院に1980年代末から韓国からの留学生が多く学びに来ていた。しかしながら、私はどうしても韓国を訪問することができなかった。戦前の日本が韓国を併合し、住民の『創氏改正』を強要するという人権蹂躙の行為への贖罪感があり、訪問をすることができなかった。1995年に当時の村山富一郎首相が“謝罪談話”を発出してくれたことで韓国を訪問したいと考えた。
〇韓国からの留学生、とりわけ金玄勲さん、崔太子さん、趙晤衍さん等の多大な尽力により、第1回の韓国地域福祉研究セミナー(日韓社会福祉学術交流会)を1997年にソウル市で開催できた。その際に、韓国でいち早く日本の地域福祉に関心を寄せてくれた大邱大学の朴先生や当時、ソウルの在宅老人福祉サービス協会の会長をしていた超南畝さん等が協力、支援してくれた。
〇韓国地域福祉研究セミナーは、その後釜山市で、釜山大学の愼燮重先生の協力を得ておこなわれた。光州市では光州大学の李英哲先生の協力があった。結果的に、韓国で5回の地域福祉研究セミナーを開催できた。第5回目のソウル市でのセミナーには当時、ソウル市の市長だった李明博市長(後の韓国大統領)が出席してくれ、挨拶を頂戴できた。
〇韓国との学術交流は、韓国が日本の介護保険制度と同じような長期療養保険制度を創設するということで、韓国の保健福祉部(日本の厚生労働省)の高官たちが日本社会事業大学を拠点して学びに来ることでより深まった。韓国保健福祉部の高官で後に部長(日本の厚生労働大臣)をされた車奉文先生や保健福祉部の局長をされた朴寿天先生や張炳元先生等が日本社会事業大学のゲストハウスを利用しながら、日本の介護保険の状況を厚生省の高官との交流だけでなく、岩手県遠野市や長野県茅野市等まで足を延ばし、調査研究をされた。
〇このような縁で、筆者は韓国の社会福祉系大学の研究者との交流が深まり、結果として梨花女子大学、ソウル大学、延世大学、釜山大学などで講演する機会が与えられた。
〇少し時期は後になるが、筆者が日本社会福祉学会の会長の時の2002年に、梨花女子大学教授で韓国社会福祉学会会長の金聖二先生と日韓学術交流協定を結ぶことができた。
〇その金聖二先生が韓国社会福祉協議会の会長をされていた2025年8月に金聖二先生から「感謝碑」を贈呈された(感謝碑の銘文は「大橋謙策様におかれましては、長きにわたり高貴な人類愛と福祉の心をもって国際社会福祉の発展に多大なる貢献をされました。特に、1997年より韓国における地域福祉の持続的な発展と日韓間の民間社会福祉交流のために物質的な面と精神的な面にわたりご尽力を、受け賜りました。これまでのご苦労に感謝申し上げ、そのご功績を記憶にとどめるべく私たちの感謝の気持ちをこの盾に込めて贈呈いたします」)。
〇韓国との交流は、日本社会福祉学会のみならず、日本地域福祉学会も学術交流協定を結び、毎年お互いの学会の大会に招聘しあって交流を進めている。
〇韓国との学術交流の礎を切り開いた一人が、釜山大学の愼燮重先生で、釜山大学の在外研究で日本社会事業大学の客員研究員をし、1990年代度々日本に来られ、釜山大学退職後は広島国際大学など日本の大学でも教鞭をとられた。愼燮重先生の釜山大学の教え子たちも何人か日本社会事業大学大学院に留学し、日韓の学術交流を強めてくれた。

③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設

〇日本福祉教育・ボランティア学習学会は、1995年10月29日に設立された。その設立の詳細は、原田正樹著「日本福祉教育・ボランティア学会の20年の軌跡と基軸」(『福祉教育・ボランティア学習の新機軸』大学図書出版、2014年)や阪野貢先生のブログ等に収録されている阪野貢論文に詳しいので参照して頂きたい。
〇筆者が、この学会を設立したいと思った背景は4点ある。
〇第1は、イギリスのぺドレイが書いて、日本福祉大学の山口幸男先生(東大教育学部の宮原研究室の先輩で、家庭裁判所調査官の経歴)が翻訳された『socio-education』を1970年代から原著も、翻訳版も含めて読んできて、温めてきた「教育と社会福祉」の学際研究のあり方がある。
〇第2には、全社協が福祉教育の推進を全国の市町村社会福祉協議会で推進してくれていて、その実践の理論化、体系化を図りたいと考えたことである。とりわけ、福祉教育の原理、哲学について体系化が必要だと思った。
〇第3には、イギリスのアリック・ディクソン先生(先生には、日本社会事業大学で講演もして頂いたし、イギリスのご自宅にも訪問させて頂いた。国連では「ボランティアの父」と呼称している)が1962年からコミュニティ・サービス・ボランティア活動を進めており、日本でも日本青年奉仕協会がアリック・ディクソンさんと交流していた。
〇これらの活動の背景には、イギリスで1963年に出された中央教育審議会報告書「Half Our Future」がある。その報告書は、イギリスの青少年の半数は発達に歪みがあり、これを改善するのには多様な社会体験としてのコミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要であるという提言である。筆者は、この「Half Our Future」を東大大学院の宮原先生のゼミで読まされていた。
〇日本でも、コミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要で、全社協の福祉教育の範疇だけでは括れないと考えて「日本福祉教育・ボランティア学習学会」となった。
〇第4には、高校福祉科が設立され、高校生向けの専門職養成の取組が始まったが、筆者は高校福祉科にはそれだけでなく、人格形成上の役割もあるし、“リベラルアーツ”的普通高校崇拝の高校教育にあって、実学的産業教育の必要性とそれを踏まえた青年期の人格形成のことを広く研究、実践してもらいたいと考えたからである(この点は、拙著「高校における福祉教育の位置と高校福祉科」、『福祉科指導法入門』2002年、中央法規所収参照)。
〇日本福祉教育・ボランティア学習学会の運営のあり方については、学会員による3年間の共同研究システムとして「課題別研究」という仕組みをつくった。
〇これは、日本社会教育学会が学会創設時から行っていた仕組みで、学会理事会で論議しテーマを決め、担当理事が責任者として研究チームを作り、毎年学会の大会で研究成果を発表し、その集大成を本として刊行するという仕組みである。この考え方を日本福祉教育・ボランティア学習学会にも導入し、若手の会員も、地方在住の会員も参加しやすい研究環境を創ろうと考えた。私自身、日本社会教育学会でおこなわれたこの仕組みを活用して多くの論文を書けたし、本の編集実務などを学ぶことができた。
〇1999年10月に筆者は日本社会福祉学会の会長に選出された。社会福祉学界の学会数がいまだ少なかった時代だったので、全社協の和田敏明さんに相談したら、日本福祉教育・ボランティア学習学会の会長は辞任して副会長で学会を支えたらどうかと言われ、1999年11月の理事会選挙でトップ当選したが会長は辞退し、明治学院大学の山崎美貴子先生に会長に就任して頂いた。

④東京都及び文部省、厚生省の各種委員の任命と政策形成への関与

(イ)東京都
〇1980年代から東京都児童福祉審議会委員、専門部会長(1981年~1994年)や東京都社会福祉審議会委員(1990年~2006年)を務めてきていたが、1990年代後半は、より多面的に東京都の各種審議会、委員会に任命され、政策形成に関与することになった。
〇その一つ一つの委員会の詳細を述べられないが、3つほどエピソードを書いておきたい。
〇第1には、「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」において、障害者向け、高齢者向けの集合住宅を造るならば、期間限定でいいので、少なくとも5年間、新しく造る集合住宅に、コミュニティソーシャルワーカーを配置して欲しいと当時の青島知事に要望した。
〇新しい集合住宅に「コミュニティ」を形成しない限り、障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動を展開するのは難しい。外からボランティアを派遣するのではなく、集合住宅の「コミュニティ」としての自治会の組織化と障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動の組織化をコミュニティソーシャルワーカーが担えるのではないかと考えての提案であった。これは、オランダへ調査研究に行った際に頂いたヒントであった。
〇第2には、「東京都障害者施策推進協議会専門委員」の際の経験である。都内で広く当事者団体活動を展開している9の障害者団体からのヒヤリングをした時である。夕方から始まった推進協議会は何と夜11時近くまでかかった。各団体ともノーマライゼーションの具現化を強く求めた発言をしていながら、障害者センターは各障害者団体ごとに、かつ区内と三多摩に一つづつ欲しいという要望であった。
〇私がノーマライゼーションと言っているのだから、区内と三多摩にひとつづつ作り、相互交流のセンターにしたらどうかと発言したら、明治学院大学を卒業した青い芝の会(脳性マヒの障害当事者の会)会員の人が、“大橋謙策さんが育てるソーシャルワーカーに自分の世話はしてもらいたくないと”怒って発言したのが忘れられない。
〇第3には、「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」の時に、モデル的に望ましいケアプランを作成する事業を都内のいくつかの自治体にお願いすることになった。委員長として、そのプランは3つ作って欲しいと要望し、委員会で受け入れられた。
〇(ⅰ)予想される介護保険制度のサービスを使っての望ましいケアプラン、(ⅱ)その自治体が既に有しているサービス及び新しくできる介護保険サービスを最大限生かしたケアプラン、(ⅲ)今後あったらいいなと思えるサービスも含めて、住民の生活支援上望ましいケアプランの3通りのケアプランを作るモデル事業をして頂いた。
〇というのも、介護保険制度で予定されているサービスの中から、かつ要支援者の介護度の利用額の範囲内でのケアプランは本来のケアマネジメントではないと認識して欲しかったからである。案の定、(ⅰ)のプランが他に比べて“貧弱なプラン”になっていた。
〇筆者は、デンマーク、スウエーデンでケアマネジメントの考え方、それが展開できるシステムを学んでいたので、日本の介護保険制度での介護支援専門員のケアプランは「介護保険のサービスマネジメント」であり、「介護保険内でのコストマネジメント」であって、それは本来のケアマネジメントとは違うということを認識して欲しかったからである。この委員会に、東京都医師会の代表として野中猛先生(後に、日本福祉大学教授)も参加していて、ケアマネジメントの考え方で意気投合したのが懐かしい。
〇東京都関係で関わった各種委員会は、以下の通りである。
・「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」(1995年~97年)
・「東京都地域福祉財団評議員」(1995年~2002年)
・「東京都障害者施策推進協議会専門委員」(1995年~2002年)
・「都から区市町村への分権化のあり方検討委員会委員」(1996年~1997      年)
・「東京都生涯学習審議会委員、会長」(1996年~2009年)
・「東京都高齢者事業振興財団理事」(1997年~2001年)
・「東京都都民のための都政改革を考える会委員」(1997年~1998年)
・「東京都福祉施策研究会委員長」(1997年~1998年)
・「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」(1998年~2000年)
・「東京都社会教育委員の会議会長」(2002年~2006年)

(ロ)文部省
〇文部省関係は、3つの分野からの関わりである。その第一は、1980年代末の「高校福祉科」創設の時からの関り、それとの関係で学習指導要領の改訂作業や教育助成局での教育職員資格試験の委員も担当した。
〇もう一つは、日本社会事業学校連盟の業務との関係で、大学設置・学校法人審議会専門委員を務めたことである。
〇エピソードとしては、高校福祉科は産業教育の領域に位置づけられているので、日本の産業教育100周年の際に、時の有馬朗人文部大臣(元東大総長、理化学研究所理事長)と対談したことである。人間の形成・発達には普通教育高校に見られる「演繹型の生徒」と職業高校の生徒のように体験して学ぶという「帰納型の生徒」がおり、どちらが一方的にいいということではないということで意気投合したことが思い出にある。
〇もう一つは、1989年に厚生省から出された「高齢者保健福祉10か年計画」(ゴールドプラン)に基づき、介護人材の養成が社会的に喫緊の課題になった。それを受けて、社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。文部省は、大学の新設を規制していたのが、社会福祉は看護とともに例外扱いになった。
〇筆者が、日本社会事業学校連盟の事務局をしていた1980年代末は36校だったのが、あれよあれよと社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。当時の雨宮高等教育局長に、このように認めていいのだろうかと苦言を呈したことがある。社会福祉教育は実習を伴う実学的なところがあり、マスプロ教育には馴染まない。社会福祉士と介護福祉士の国家試験に受かればいいというものではなく、例外扱いを見直すべきだと申し入れしたことがある。
〇筆者は、大学設置・学校法人審議会専門委員として、教員審査やカリキュラム審査などで多くの社会福祉系大学の審査で関わることになった。
〇3つ目の関わりは、21世紀医学・医療懇談会で、当時の医学界の第一人者が綺羅星の如く並んでいる懇談会で、臓器別に専門分化してきた診療科目では限界で、総合診療内科を創る必要性や、介護、福祉との連携が欠かせなくなってきているInter Professional Educationの必要性が論議され、報告書の中に介護・福祉教育の連携の必要性が書き込まれた(「21世紀に向けた介護関係人材育成の在り方について」1997年2月、21世紀医学・医療懇談会第2次報告参照)。
〇文部省関係の各種委員は以下の通りである。
・「文部省大学設置・学校法人審議会専門委員」(1994年~1999年)
・「文部省21世紀医学・医療懇談会教育部会協力者」(1996年~1997年)
・「文部省幼稚園・小学校・中学校・高等学校・盲学校・聾学校及び養護学校の学習指導要領等の改善に関する調査研究協力者」(1998年~1999年)
・「文部省教育助成局高等学校教員資格認定試験委員・専門委員」(2000年~2003年)
・「文部省教育職員養成審議会臨時委員」(2000年~2001年)
〇この他、文部省が発刊している雑誌「産業教育」(1988年、No453)や「大学と学生」(1997年、第387号)に寄稿を求められ執筆もしている。

(ハ)厚生省
〇厚生省との関りは、日本社会事業大学の清瀬移転の業務を担当したので、その折に本当にいろいろな方にお世話になった。
〇また、前述したように1990年の「生活支援事業研究会」の座長も務めさせていただいた。
〇それ以外での厚生省との関りは、2000年以降も含めて以下の通りである。その関わりは主に3つある。
〇第1には、厚生省医政局関係の仕事である。この関わりは、筆者が1990年に東京都目黒区の老人保健福祉計画を拡大して、地域福祉計画として策定する際に社会福祉と地域保健との有機化、統合化を行ったことが反映されているのではないかと推測している。
〇第2には、2001年に導入されたICF(国際生活機能分類)の関りである。
〇第3には、今日の「地域共生社会政策」の前史ともいえる2008年の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」(座長大橋謙策)で、「地域における新たな「支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新たな福祉」を出したことである。
・「厚生省地域保健基本問題検討会委員」(1994年)
・「厚生省公衆衛生審議会専門委員」(1994年~1996年)
・「厚生省保健医療福祉地域総合調査研究企画委員」(1994年~1997年)
・「厚生省必要病床等に関する検討会委員」(1997年~1998年)
・「厚生省大臣官房障害保健福祉部福祉用具給付制度等検討会委員」(1998年~1999年)
・「厚生労働省社会・援護局国際障害者分類の仮訳作成のための検討委員会」(2001年~2002年)
・「厚生労働省厚生科学研究費選考委員」(2003年~2005年)
・「厚生労働省社会保障審議会統計分科会生活機能分類専門委員会委員」(2006年)
・「厚生労働省これからの地域福祉のあり方に関する研究会座長」(2007年~2008年)
・「国立保健医療科学院評価委員会委員長代理」(2013年~2017年)
〇エピソードとしては、ICF(国際生活機能分類)の仮訳作業する部会で、ICFの日本語訳を「国際生活機能障害分類」とすべきだと、作業部会長として提案した。その際、オブザーバーで参加していた東京大学名誉教授で、リハビテーション医学の見地からWHOと関わり、ICFの必要性を厚生労働省はじめ関係機関に働き掛けてきた上田敏先生が、その用語がいいと言ってくれた。
〇しかしながら、その用語を日本医師会代表が頑として受け入れず、結果として「国際生活機能分類」に落ち着いた。今でも、筆者は、生活上の機能障害の方が今日的状況を反映していると思っている。
〇もう一つは、「必要病床等に関する検討会」において、医療・保健・福祉の連携、協働、有機化をする包括支援を考えるならば、医療計画の中に社会福祉のことをもっと盛り込むことが必要だし、医療圏と社会福祉サービス圏とが大きく乖離している状況を改善しないと、言葉だけ医療、介護、保健、福祉の連携といってもうまくいかないと強く要望したが、受け入れられず、医療計画のその他の事項にそれらを盛り込むことで決着させられた。

⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化

〇1982年にイギリスで出された「バークレイ報告」でコミュニティソーシャルワークという考え方が打ち出された。それは、行政と住民の協働による地域自立生活支援を考える理念であり、システムであった。
〇「バークレイ報告」については前述しているので、ここではコミュニティソーシャルワークの理念の日本への導入について述べておきたい。
〇日本の公式文書でコミュニティソーシャルワークという用語が正式に使用されたのは、1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告ではないかと思う。
〇それまで、地域づくりに関する方法論として、アメリカのコミュニティオーガニゼーション、イギリスのコミュニティワークという用語を使用していたが、生活のしづらさを抱えている人の地域での自立生活を支援していくためには、従来のコミュニティオーガニゼーションやコミュニティワークでは不十分である。
〇生活のしづらさを抱えている人への個別支援と同時に、その人を地域から排除することなく、その人の地域生活を支え、包含できる地域づくりとを統合的に展開する活動が必要であり、その方法論がコミュニティソーシャルワークである。
〇1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告でその必要性が打ち出され、1991年から大型補助金の「ふれあいのまちづくり事業」が展開されたが、その活動成果は「生活支援事業研究会」の中間報告で述べたような考え方が展開できたとは筆者には思えなかった。そのことについては先述した通りである。
〇コミュニティソーシャルワーク機能の理念はいいが、その具現化は日本でも無理なのであろうかと考えている矢先に、岩手県湯田町(現西和賀町)の社会福祉協議会でヘルパーとして働いている菊地多美子さんの実践を知ることができた。
〇筆者は、1970年代から、「自分たちで生命を守った村」の実践で有名な岩手県沢内村に出入りし、太田祖電村長や深沢昌子事務局長、高橋典成さんらと交流してきた。1990年には、沢内村の地域福祉活動計画づくりを行い、「コーリム(CO―LYM)大学」を創設し、住民参画の村づくりを目指した。子どもと高齢者を女性、青年、壮年男子が支える村づくりを目指した。
〇この作業の過程で、高橋典成さんが新幹線の北上駅まで迎えに来れないとき、菊池多美子さんが高橋典成さんに頼まれて自動車で迎えに来てくれた。この送迎の車中、菊池多美子さんのホームヘルパー実践を聞いて、実質的にコミュニティソーシャルワーク機能を発揮しているし、具現化していることを知る。それは、まさに菊地多美子さんの本『ウンダナ―ヘルパー奮戦記・福祉の鐘を鳴らすまち』に詳しく記述されている。コミュニティソーシャルワーク機能のアウトリーチ型ニーズ把握、制度がなければ新しいサービスを開発する、役場、民生・児童委員、自治会、老人クラブ、保健師を巻き込んでの多機関協働のカンファレンス等展開していた。
〇この実践を聞いて、かつその実践に何回か参加させて頂いて、日本でもコミュニティソーシャルワークを展開できる可能性があると考えるようになった。
〇ただ、菊池多美子さんの実践は多分に“個人的職人芸”として展開されており、湯田町社会福祉協議会がコミュニティソーシャルワークを組織として展開する状況ではなかった。
〇この点から、職員個々人はコミュニティソーシャルワーク機能を十分理解し、それを展開できる力量を身につけなければならないが、その実践を社会福祉協議会等の組織がバックアップできる、コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムを同時に作らなければならないと思った。この点は、デンマークやスウエーデンの個別支援のマネジメントとそのケアマネジメントを財源的にも、組織的にもバックアップするシステムの重要性から学んだことである。
〇「ふれあいのまちづくり事業」の展開が、私の目にははかばかしくないと思え、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化は難しいかとやや意気消沈している中で、菊地多美子さんの実践を見聞きし、再度コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を図ろうと気を取り直した。
〇そんな折、長野県茅野市矢崎市長から福祉アドバイザーに任命された。諏訪中央病院の院長をしていた鎌田實先生と茅野市医師会の会長をしていた土橋善蔵先生が私の考え方を全面的に支援してくれた。特に、鎌田實先生は、佐久病院の若月俊一先生から地域医療を学び、集英社から『がんばらない』という地域医療の実践の本を出していて、地域医療の第一人者であるが、その鎌田先生から、地域医療は限界がある、地域での自立生活を支援するためには地域福祉が重要だ。全面的に支援するから地域福祉のシステムをしっかりと創って欲しいと励まされた。
〇そのようなこともあり、茅野市では地域福祉計画『福祉21ビーナスプラン』の策定で、2000年から市内を4つの在宅福祉サービス地区に分け、その各々に保健福祉サービスセンターと診療所を併設設置した。保健福祉サービスセンターには、市役所にいた福祉事務所の職員と保健師を4つのセンターに配属し、かつ社会福祉協議会の職員も配属した。保健福祉センターは、住民にとって「福祉アクセシビリティ」の良い、総合相談窓口になると同時に、社会福祉協議会職員を中心にしたアウトリーチ型ニーズキャッチが展開され、コミュニティソーシャルワーク機能を発揮できるようになった。この茅野市の保健福祉サービスセンターシステムと実践が2006年に介護保険制度で導入された地域包括支援センターのモデルである。
〇この間、筆者は、日本社会事業大学社会福祉学部地域福祉計画学科の教員(大橋謙策、手島陸久、辻浩、千葉和夫)と大学院の院生及び修了者(田中英樹、宮城孝、野川とも江、小野敏明、原田正樹、國光登志子、鷹野吉章)を組織し、実践現場としては富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん、岩手県湯田町社会福祉協議会の菊池多美子さん、東京都狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん、山形県鶴岡市社会福祉協議会の佐藤豊継さん、島根県瑞穂町の日高政恵さん等にも参加して頂き、「コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス」を研究実践テーマとして、厚生省老人保健健康増進等事業の研究助成を活用して実践的研究を行ってきた。「自己実現サービス」を入れたのは、社会福祉現場雄の社会福祉観の貧困、生活観の貧困を払しょくし、憲法第13条の理念を社会福祉分野でも確立したいと考えて入れた。
〇その研究助成事業の成果は、2000年8月に『コミュニティソーシャルワークと自己実現サ―ビス』(編著、万葉舎、2000年8月)として万葉舎から上梓された。
〇この実践的研究が筆者に日本でも十分コミュニティソーシャルワークを展開できると自信が持てるようになった。筆者のコミュニティソーシャルワークの日本的定義はこの研究活動の中でほぼ完成した。

➅地域福祉実践及び研究の成果の出版化

〇1990年代後半は、研究成果を発表する論文、編著、単著等の刊行が相次いだ。それは大きく分けて6つに分類できる。
〇第1には、1987年に創設した日本地域福祉学会における共同研究をまとめる編集を担ったことである。
〇安田火災保険福祉財団から研究助成を頂き、学会の北海道支部、関東支部、関西支部で「地方地域福祉史研究」の共同研究ができた。その成果が『地域福祉史研究序説』(編著、1993年、中央法規)である。本を出版するだけでなく、研究セミナーも開催することができた。当時、社会福祉学界ではあまり共同研究のスタイルが確立しておらず、それができたことは嬉しかった。この研究が継続できていれば、各都道府県ごとの地域福祉史研究が進むと考えていたが、財源的にそれは無理であった。
〇また、右田紀久恵先生と一緒に編集業務に携わった『地域福祉事典』(編著、中央法規、1997年9月)の編集も思い出で深いものがある。この事典で、地域福祉に関わる実践的、研究的課題について整理することができ、社会福祉分野において地域福祉というものの実践、研究を確立できたと思った。右田紀久恵先生は、当時大阪府立大学を定年になり、東京国際大学に転職されており、東武東上線の北朝霞駅で待ち合わせして編集したのも懐かしい。
〇第2には、放送大学のテキストを執筆したことである。『地域福祉論』(単著、放送大学教育振興会、1995年)と新訂版の『地域福祉』(単著、放送大学教育振興会、1999年)を単独で執筆した。この当時はラジオで録音したものを流していた。後の2008年には仲村優一先生の後を継いで「新訂社会福祉論」を出し、2012年には『改訂新版社会福祉入門』を執筆した。いずれも筆者単独で執筆した。「社会福祉入門」はテレビで放映された。
〇第3には、私が関わって作成した市町村の地域福祉計画、あるいは生涯学習計画についての成果を上梓した。地域福祉計画だけでは“画に描いた餅”になりかねないので、計画に基づく実践がきちんと展開されていることを踏まえて本として上梓した。
〇狛江市の『地域福祉計画策定の視点と実践』(編著、1996年、第一法規出版)、長崎県鹿町の地域福祉計画を長崎国際大学の高橋信幸先生や長崎県社会福祉協議会の事務局の山本力さんなどと協働して取り組んだ成果の『総合支援型社協への挑戦』(編著、2000年12月、中央法規)、岩手県遠野市の『21世紀型トータルケアシステムの構築―遠野ハートフルプランの展開』(編著、2002年9月、万葉舎)、茅野市の『福祉21ビーナスプランの挑戦』(編著、中央法規、2003年)、山口県宇部市の生涯学習計画『いきがい発見のまち』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、富山市山室中部小学校での3年間に亘る福祉教育実践のまとめとしての『福祉の心が輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達』(編著、1999年、東洋堂企画出版)等である。
〇第4には、日本地域福祉研究所の所員、研究員に執筆の機会を提供したいと考えて共同研究を進め、その成果を上梓した。
〇『地域福祉実践の課題と展開』(編著、東洋堂企画出版、1997年)、『社会福祉基礎構造改革と地域福祉の実践』(編著、東洋堂企画出版、1998年)、『介護保険と地域福祉実践』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、『地域福祉計画と地域福祉実践』(編著、2001年、万葉舎)等が該当する。
〇第5には、前号で述べた『高校生が学ぶ社会福祉シリーズ第一巻 社会福祉基礎』(単著、1996年8月)である。
〇第6には、日本社会事業大学の田辺敦子先生と共著で、『保母・社会福祉主事になるには』を1976年に出して以降、『社会福祉士・保母』、『社会福祉士・介護福祉士になるには』を経て、1990年代後半では社会福祉士を独立させることになり、ぺりかん社の「なるにはシリーズ」の一巻として『社会福祉士になるには』(単著、ぺりかん社、1999年)を書いた。このぺりかん社の本はよく売れた。
〇第7には、日本社会事業学校連盟の『戦後社会福祉教育の50年』(共著、ミネルヴァ書房、1998年)である。実質的には東洋大学の大友信勝先生が中心になり、編集された。当時の日本社会事業学校連盟の会長は東洋大学の一番ケ瀬康子先生であった。
〇この本の論文では、戦前の社会事業主事制度から戦後の社会福祉主事制度、大学の教育課程の認証制度、日本社会事業学校連盟の専門職員養成ガイドライン等について書いた。

➆イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究

〇筆者は、1980年代末に、日本には冠婚葬祭に代表される限られた関係での相互扶助制度はあるが、見ず知らずの社会的に困窮している人への「博愛」はなく、それに伴う「寄付の文化」が育っていないと指摘してきた。
〇筆者は、1990年に雨宮時枝論文を読み、日本の社会福祉研究の狭隘さを痛感させられたことは前号でも述べた。
〇筆者は、1994年に中央共同募金会が設置した「21世紀を迎える共同募金のあり方検討委員会」の委員長に任命され、1996年に「新しい『寄付の文化』の創造をめざして」と題する報告書を出した。
〇この報告書では、共同募金の配分の仕方を社会福祉施設や生活保護世帯へ配分するのではなく、在宅福祉サービスの充実強化と地域福祉推進への配分を増やし、共同募金をコミュニティ・ファンドに替えるべきことを提言する。と同時に、日本、アメリカ、イギリスの3か国の寄付のあり方について調査研究すべきだと提案した。
〇中央共同募金会は、財団法人車両競技公益資金記念財団の研究助成を受託し、1996年に調査研究(委員長大橋謙策)を行い、1997年3月に『日米英民間財源比較調査研究報告書』を出す。この調査研究は、2003年にも継続して第2次調査研究が行われた。
〇筆者は、この活動を通して、日本の社会福祉界に「寄付の文化」という用語とその重要性を提起できたと思っている。
〇筆者、かねがね、日本はアメリカのUnited Wayに学ぶより、イギリスのCharities Aid Foundationに学ぶべきではないかと言ってきた。日本の共同募金はアメリカ占領下の影響もあって、アメリカのUnited Wayをモデルにしてきたが、この調査研究を通して、今後はイギリスのチャリティの考え方、歴史に学ぶべきだとその感がより強まった。イギリスの1601年制定の「慈善信託法」、それに関わる1960年新法制定、1989年大改正のチャリティの歴史に学ぶべきだと考えた。
〇この調査研究には、読売新聞論説委員の小谷直道さんやアメリカ三菱電機の社長をし、病院ボランティア活動をしていた渡辺一雄(後に川崎医療大学教授)さん、安田火災記念財団専務の堀内生太郎さん、上智大学助教授の栃本一三郎さん、中央共同募金会の清水義久さん、阿部陽一郎さんたちとともに、日本社会事業大学大学院の修了者、在学生の宮城孝さん、長谷川真司(後に山口県立大学教授)さん、当時は慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科院生の永田祐さんなどにも参加してもらった。宮城孝さんは、このイギリス調査からの知見を活かして博士論文『イギリス民間ボランタリ―セクター』を書き、本として上梓している。
(2026年3月27日記)

老爺心お節介情報/第82号(2026年3月13日)

「老爺心お節介情報」第82号

〇春めいてきたかと思うと“寒の戻り”があったりして安定しない天候ですが、皆様にはお変わりありませんでしょうか。
〇私は、3月4日~6日まで佐賀県へ出張しました。佐賀県社会福祉協議会が推進しようと取り組んできた「ALLさがふくしネットワーク事業」のキックオフセミナーでした。和田敏明先生と一緒で、久しぶりにいろいろな話が出来ました。また、翌日(3月5日)には、佐賀県社会福祉協議会の社会福祉研修センターの2026年度研修計画を審議する委員会に出席しました。
〇思い起こせば、佐賀県社会福祉協議会から“社会福祉協議会は生き残れるか”というテーマの講演依頼を頂いてから、9年間佐賀県社会福祉協議会及び県内社協への支援に関わってきました。
〇第1は、佐賀県からの委託もあって、県内社協職員の力量を高める「パワーアップゼミ」を行ってきました。内容的には、富山県社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会、秋田県社会福祉協議会、岩手県社会福祉協議会等で行っているコミュニティソーシャルワーク研修と同じです。
〇第2には、大阪府社会福祉協議会、香川県社会福祉協議会が10年前(大阪府は老人福祉施設協議会のレスキュー-事業からは20年)から取り組んでいる社会福祉施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会とが連携する協議会を立ち上げ、制度の谷間に陥りがちな問題の解決を協働で取り組んできた事業に学び、佐賀県社会福祉協議会としても同様の「ALLさがふくしネットワーク事業」を立ち上げることに取り組んできました。佐賀県のこの組織には民生・児童委員協議会も参画しています。
〇第3には、1990年頃まで、都道府県社会福祉協議会は社会福祉従事者の研修センターなどを運営してきました(筆者は1989年(平成元年)の『月刊福祉』6月号、7月号、8月号で「社会福祉研修の方向性」について論文を書いている)が、社会福祉行政の分権化が進み、かつ福祉サービス利用者との契約による介護保険サービス、障害者サービス提供体制の下で、都道府県社会福祉協議会の社会福祉職員研修機能が弱体化している状況があります。そのような中、佐賀県社会福祉協議会でも社会福祉従事者の研修を強化することが必要だと、その強化に取り組んできました。
〇今後、高齢化がますます進み、人口減少も進む中で、労働力は減少していきます。そのような中、介護現場にリフトやロボット、あるいはICT等の福祉機器を導入して、介護の科学化、介護の魅力アップ、介護者の腰痛予防、とりわけ、サービス利用者支援の質の向上を図るためにも、福祉機器の導入が必要であり、そのための研修が欠かせません。
〇第4には、県内市町社協の体質改善、経営力強化を進めるための「常務理事、事務局長セミナー」を泊りがけで行ってきました
〇筆者は、このようなことを念頭に、佐賀県社会福祉協議会に関わる「関係人口」の一人として9年間関わってきました。3月4日~5日にかけて、密度の濃い会議、セミナーが展開され、漸くここまで来たかという安ど感と充実感に浸りました。
〇そのような経緯の一端は、佐賀県社会福祉協議会地域福祉部まちづくり課の小松美佳課長が、その活動の一端を雑誌『コミュニティソーシャルワーク』33巻で書いていますのでご参照ください。
〇筆者は、このような「関係人口」の一人として長期に亘り、その活動を支援してきた県社会福祉協議会として香川県社会福祉協議会がある。現在、日下直和事務局長が事務局次長に就任する際、相談を受け、それ以来15年間香川県に通っています。
〇佐賀県と同じように、「ニーズ対応型社会福祉協議会」への取組、社会福祉協議会職員の実践研究発表会、常務・事務局長セミナー、コミュニティソーシャルワーク研修、社会福祉施設経営の社会福祉法人、民生・児童委員協議会との協働事業として「香川思いやりネットワーク」の設立などを行ってきました。
〇社会福祉系大学で教育・研究をしている教員は、このような「関係人口」としての関わりを構築し、提案型のコンサルテーションを行う必要があるのではないだろうでしょうか。
(2026年3月13日記)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➅

Ⅰ 1990年代前半―大学院開設・イギリス在外研究・高校福祉科の創設

〇1990年代前半は、筆者にとって充実した教育・研究活動を展開出来た時期であった。
〇1990年に筆者の母親と妻の母親が相次いで亡くなるという悲しい出来事があったが、教育・研究者としては悲願だった大学院を設置でき、大学院で院生を研究指導できる喜びは非常に大きなものであった。
〇“大橋の研究は社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていたのが、この時期には、日本社会福祉学会の公選理事に選出され、筆者の研究、実践が一定の評価を得られたと自信が持てるようになった時期であった。

➀日本社会事業大学の清瀬開学と大学院開設

〇日本社会事業大学は、清瀬住民の緑を守れという住民の反対運動(その後は、日本社会事業大学は落ち葉の管理をしろという苦情が寄せられる)にも合いながら、1989年4月に移転開学が実現した。
〇と同時に、大学の悲願であった大学院を修士課程の設置が認められ、開設された。
〇しかしながら、筆者は修士課程の教授としては認められたが、〇合教授としては認められなかった。したがって、大学院の講義はできるが、研究指導教員として学位を授与することができない。
〇その理由が、後日聞かされ愕然とした。その理由が、“大橋謙策の研究は社会福祉プロパーの研究でない“ということであった。地域福祉、福祉教育でそれなりの単著、編著書があるにも関わらず、その領域が社会福祉プロパーの研究でないと言われて本当に驚くとともに、社会福祉研究のあり方が変わらなければならないと思った。その審査委員は、関西の著名な社会福祉方法論の先生であった。
〇修士課程の設置後、4年を経過して、1992年に博士課程の設置を申請したが、その時には、筆者は博士課程の講義のみならず、研究指導できる〇合教授として認可された。
〇恩師の小川利夫先生は、筆者の記憶に間違いがなければ、名古屋大学で博士の学位を16人の院生に授与し、教え子で大学教員になった人は24名に上ると言っていたので、筆者としては「出藍の誉」ではないが、小川利夫先生より多い院生を育てなければと当時誓ったものである。結果として、日本社会事業大学大学院、東北福祉大学大学院において、修士課程の学位授与者が110名、博士課程の学位授与者が24名、大学教員として就職した院生が35名ほどになった。
〇日本社会事業大学の清瀬開学に当たって、厚生省から求められている全国の社会福祉系大学のモデルになるような教育・研究を進めるためには、全国の社会福祉法人の拠り所になるような存在にならなければならないし、かつ現場から信頼される社会福祉研究を推進する必要があると考え、開学に際し、全国の社会福祉法人に呼び掛けて志を同じくする方々に賛同して頂いて「日本社会事業大学を支える社会福祉法人の会」や「日本社会事業大学の後援会」、「日本社会事業大学学生の教育後援会」を設立したいと提案したが、“そんなものは作る必要がない”、”何かあれば厚生省が考えてくれる“という意見の下に却下された。それも一度ならず、理事長が変わっても二度も却下された。
〇清瀬開学に際して、日本社会事業大学の経営も、教育・研究も新たなステージに立つべきだと思ったが、“厚生省頼みの日本社会事業大学の親方日の丸の考え方”を打破できなかった。この親方日の丸体質は、教員にも、事務職員にもしみ込んでいて、新たな企画、提案に対する拒絶反応は大きかった。
〇せめてということで、清瀬を基盤にした社会福祉実習施設の会の組織化は認めて貰えたが、それとて学校法人は積極的ではなかった。

➁高校福祉科の創設と「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」

〇高校福祉科の設置は、1985年に出された「理科教育及び産業教育審議会」答申で、急速な高齢化の進展に対応した人材確保のために「高校福祉科」の設置が打ち出された。その具現化を図る委員会の委員長に、厚生省老人福祉課長の経歴がある、当時日本社会事業大学社会事業研究所教授に赴任されていた古瀬徹先生に文部省から打診があった話が、私のところにお鉢が回ってきて、結果として私が文部省初等中等教育局に設置された「福祉科についてー産業教育の改善に関する調査研究」の委員長に就任する。
〇その調査研究は、ⅰ)福祉サービスに従事する人財の育成の確保と資質の向上、ⅱ)高校福祉科の設置の基本的考え方、ⅲ)福祉科の目標と教育内容、ⅳ)生徒の進路、ⅴ)福祉科の条件整備などについて調査研究し、答申をした(『福祉教育資料集』一番ケ瀬康子・大橋謙策編、光生館、1990年刊参照)。
〇この答申は、急速な高齢化を踏まえての介護従事者の養成という課題と当時、生徒数が減少していた高校家庭科の見直しとの両側面からの調査研究であった。
〇筆者は、この高校福祉科の設置に関わる調査研究以降、(イ)全国各地に設置されていく高校福祉科の教員たちと多様な関わりを持つことになる。(ロ)他方、通信制高校を運営していたNHK学園が社会福祉士の養成を通信で行うと同時に、高校福祉科を設置するということで関わりを持つようになり、その後NHK学園の理事を約十年間務めることになる。
〇高校福祉科の教員たちとのつながりは、淑徳大学で松崎泰子先生のゼミ生で、当時岩手県の特別支援学校での経歴をもつ岩手県立一関第二高校の矢幅清司先生が、松崎先生に紹介されて会いに来た。それが縁で、函館大妻女子高校の池田延巳先生、静岡・三島高校の松本寿子先生、岡山・中央高校の保住芳美先生などとの交流が始まった。
〇高校福祉科の設置は認められたものの、教科書もない、教育方法も分からないという状況の中で、先に挙げた先生方の高校で筆者が社会福祉概論、障害者福祉、高齢者福祉などのモデル授業を公開で行った。
〇また、筆者が当時出演していたNHKのテレビ番組「シルバーシート」やラジオ番組「社会福祉セミナー」のテキストを基にして、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」を高校福祉科の教科目毎に刊行した。
〇NHKのラジオ番組の「社会福祉セミナー」を担当していたのは、東京大学教育学部の宮原誠一研究室の卒業生たちで、山口武さんや石原さんを始め、大変お世話になった。東大の宮原誠一研究室の多くはNHKに就職し、NHK放送文化研究所や教育番組を担当する部署に多く配属されていた。
〇その先輩たちからは、ラジオ番組の「社会福祉セミナー」の内容は、中学卒業生が読んで、聞いて分かる内容でなくては駄目だと厳しく教えられた。
〇そんなこともあり、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は大変好評で、短期大学や四年制の福祉系大学でもテキストとして使われた。高校福祉科のテキストとして使用されたこともあって、発行部数は大変多かった。
〇高校福祉科は、1998年の理科教育及び産業教育審議会答申、同じく教育課程審議会答申を受けて、1999年に改訂された学習指導要領で高校の専門教科「福祉」として位置づけられる。
〇この位置づけで、高校福祉科のテキストは「教科書」にとってかわられることになる。筆者も、中央法規から高校福祉科の教科書「社会福祉」を刊行したが、出版社は採算が取れないということで、改訂の時に撤退してしまう。教科書としての制約は多く、「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」のようにはいかず、筆者から言えば面白みのない内容になってしまった。高校福祉科の教科書が出版されて以降も「高校生が学ぶ社会福祉シリーズ」は売れていたが、制度には勝てず消えていくことになる。
〇他方、NHK学園の関係では、NHK学園高校の教員だった伊藤由紀子先生が日本社会事業大学大学院の修士課程に学びに来る一方、日本社会事業大学大学院の修了者がNHK学園の通信教育課程に採用されるなど交流が深まった。中には、ルーテル大学大学院の修士課程で和田敏明先生や市川一宏先生などに指導を受けた牧野まゆみ先生等多くの先生との出会いができた。中でも、高校福祉科の教頭をされていた山本正興先生は本当に熱心に高校福祉科の充実にご尽力された。
〇そんな縁もあってか、筆者はNHK学園の理事に推挙され務めたが、NHKで行われる理事会では、沖縄県副知事をされた尚弘子先生(琉球国王尚泰王の第4王子尚順の6男、尚詮の妻、琉球大学名誉教授)などとの出逢いもあった。
〇NHK学園の通信制教育の教材として、『社会福祉概論』、『地域福祉論』等の教材を出版した。この出版物も大変好評を博した。

➂社会福祉行政の計画化と提案するコンサルテーション

〇日本の社会福祉行政は、1990年の「社会福祉8法改正」により大きな転換点を迎える。
〇1980年代末からの地方分権化の流れの中で、戦後一貫して行われてきた厚生省の中央集権的機関委任事務体制は改正され、生活保護制度を除く他の社会福祉関係法制は基本的に市町村主権主義に変わった。
〇他方、1989年の「高齢者保健福祉10か年計画」(通称ゴールドプラン)に代表されるように、高齢化に伴う介護人材の養成・確保は喫緊の課題でもあった。
〇そのような背景も、1990年には老人福祉法、老人保健法に基づき、全国の各市町村は市町村ごとの老人福祉計画、老人保健福祉計画を策定することが求められた(両者を一体的に考えて、一般的には「老人保健福祉計画」と称している)。
〇筆者が市町村自治体の地域福祉計画策定づくりに本格的に関わるのは1989年の東京都狛江市社会福祉協議会が東京都社会福祉協議会のモデル事業として「地域福祉計画」の策定に際し、筆者が委員長を務めたことからである。それ以前にも、栃木県足利市の地域福祉計画づくりを行ったことがあるが、1984年の全社協の『地域福祉計画―理論と方法』が刊行されたからは初めてである。
〇地域福祉計画づくりに関しては、以前書いた「その時の出逢い」④でも書いているので、それと重複しないような事項を書いておきたい。
〇狛江市社会福祉協議会の地域福祉計画づくりを推進している時、東京都福祉局長の諮問委員会としての地域福祉計画に関する検討会が設置されていた。三浦文夫先生が委員長で、和田敏明先生が事実上の起草委員として取りまとめられた『東京都における地域福祉推進計画の基本的あり方について』と題する報告書が1989年度末に出された。
〇この報告書は、都道府県が策定する地域福祉計画を「地域福祉推進計画」とし、市町村行政が策定する地域福祉に関する計画を「地域福祉計画」と称し、市町村社会福祉協議会が策定する民間の地域福祉に関する計画を「地域福祉活動計画」とするという提案をした。
〇東京都の検討会に三浦文夫先生、全社協(当時)の和田敏明先生が参加してのとりまとめなので、“地域福祉計画”という用語を巡って、日本地域福祉学会の中で混乱が起きてはいけないので、日本地域福祉学会としては、“地域福祉計画”を巡る用語の使い方を東京都の報告書に倣って使用することにした。
〇1990年6月に、清瀬に移転開学した日本社会事業大学で第4回日本地域福祉学会が開催された。その折、実行委員会の事務局長を務めた筆者は「『地域福祉計画』の到達点と現状及び課題」と題する論文を書いた(『日本地域福祉学会第4回大会 地域福祉計画の視点と課題―地域福祉計画関係資料集』所収)。この資料集は、全国各地の地方自治体で策定された地域福祉計画、地域福祉計画に関する論文、地域福祉計画に関する国等の審議会答申を収録したものであるが、筆者は地域福祉計画と称されるものの歴史的展開を整理した上で、今日的に求められている地域福祉計画の基礎的指標とサービス・ミニマム設定の必要性を提起した。
〇東京都狛江市では、1990年に策定することが法定化された地域福祉計画より早く、東京都狛江市社会福祉協議会が地域福祉計画づくりを進めた。いずれ、行政も計画づくりをせざるを得ないので、狛江市社会福祉協議会が進めた地域福祉計画づくりの委員会には、狛江市福祉事務所の所長にも参加頂き、行政との協働による地域福祉の推進を意識した。
〇また、単年度予算主義の行政にあって、計画に盛られた事業の財政的裏付けを担保する複数年の予算見積もり等できないと思いつつ、筆者たちは計画に盛られた事業に係る予算を積算し、福祉事務所所長を通して、狛江市の財政部長に計画に係る財政フレームを確保できるか打診するための詳細な積算資料を作り提出して、無理のない、絵空事にならない計画づくりを考えた。
〇地域住民のニーズを把握する際に、長廊下でなく、プライバシーをできるだけ守るという趣旨のもとに建築されたつづら折り階段の4階建ての集合住宅の都営住宅で、4階に住んでいる方々の生活の深刻さを教えられた。足腰が弱って、階段を上り下りできず、買い物などにも難儀すると同時に、訪問入浴の風呂桶がつづら折りの階段を上げられないということや、亡くなった際の棺桶が運び上げられないなどという状況に愕然とした記憶がある。これらの深刻さは、翌年の1990年に東京都東大和市の地域福祉計画づくりの際に、4階建ての同じような集合住宅に内風呂がないという状況にも愕然とした思いがある。
〇筆者は「その時の出逢い」④でも書いたが、当時、狛江市の他に、遠野市、目黒区、豊島区、東大和市などでも計画づくりにアドバイザー、策定委員会委員長として取り組んだ。
〇それ以外では、設置された委員会の委員長として関わった自治体もあるが、多くがシンクタンクの“餌食”になった計画づくりである。ある大きな自治体では2000万円の予算で、某シンクタンクに計画づくりを委託するが、そのシンクタンクは殆ど地域福祉に関する知識、知恵、策定方法を知らず、どこにでも通用するような計画書を作り上げていた。まさに自治体がシンクタンクの儲け仕事の“餌食”になっている様を見せつけられた。
〇1990年代は、老人保健福祉計画の策定の法定化に始まり、障害者福祉計画、子育て支援計画等社会福祉行政の計画化が進められた時代であった。
〇策定された計画の評価をどうするかが大きな研究課題だと考え、1990年代半ばに老人保健福祉計画の評価研究プロジェクトを立ち上げ、厚生省から助成金ももらい、調査研究をしたけれど評価の方法、評価の指標など計画の評価研究として体系的な研究成果は打ち出せなかった。
〇ただ、地域福祉の視点を踏まえた地域福祉計画策定の視点・方法は、狛江市、遠野市、目黒区等の計画策定の実践を踏まえて確立できたと思っている。
〇筆者は、この一連の計画づくりを通して、新しい社会福祉の考え方である地域福祉の理念、それを実現するシステムや運営管理のアドミニストレーション、あるいは理念、システムを具現化できる方法論としてのコミュニティソーシャルワーク機能について確信が持てるようになった。
〇各自治体の地域福祉に関する提言的コンサルテーションの必要性、住民参加による計画の進行管理の必要性を実感でき、各自治体に条例による「地域保健福祉審議会」等を設置してもらい、策定した計画の進行管理、自治体へのコンサルテーション機能を発揮してきた。

➃日本福祉学院の社会福祉士養成の通信教育のスクーリング

〇北海道で、社会福祉法人ノテ福祉会を経営して、デンマークなどのケアのあり方を日本に紹介、普及させようとしていた対馬徳昭・輝美夫妻が、日本福祉学院を設立し通学制の養成とともに、通信制の養成も始めることになった。
〇その相談相手になったのが、明治学院大学の秋山智久先生で、秋山先生の紹介で、筆者もその講師陣に加わることになった。
〇講師陣はその当時の日本社会福祉学界を代表する先生方であった。明治学院大学の福田垂穂先生、日本女子大学の佐藤進先生、同志社大学の岡本民夫先生、北星学園大学の忍博次先生などで、毎年8月に行われる、札幌のアンデルセン村でのスクーリングはそれはそれはとても楽しい出逢いと語らいの時であった。
〇8月のスクーリングの際には、対馬夫妻による豪勢な晩餐会が行われ、美味しいお酒と美味しい北海道の食材で舌つづみを打ちながら懇談を楽しんだ。
〇福田垂穂先生や佐藤進先生とは、同じゲストハウスで宿泊をしたということもあり、社会福祉の道へ進んだ契機や背景、研究上の苦労、研究のあり方など多くの教えを頂いた。
〇現在、筆者が活用している「社会生活モデルに基づくアセスメントシート」も、このスクーリングのゼミナールの中で作り上げたものである。
〇日本福祉学院の通信教育の教務事務を担当していた澤伊三男先生や山下先生も、その後大学院を修了し、福祉教育の教鞭をとられる立場になられたことも嬉しい出逢いであった。

➄デンマーク、スウエーデン調査研究から社会福祉行政の地方分権化と住民参加を学ぶ

〇1980年代前半から、日本大学木下総長夫妻、三浦文夫先生、設計事務所経営の吉田隆之さん、中央法規出版の荘村多加志社長さんなどと、ヨーロッパへの調査研究が毎年のように行われた。大熊由紀子先生の『寝たきり老人のいる国、いない國』という本は、三浦先生などとのデンマークへの調査研究の成果として刊行された。
〇社会福祉法人ノテ福祉会の対馬夫妻が学ばれ、自分の経営する社会福祉施設をアンデルセン村と名付けて経営していることに大きな影響を与えている千葉忠夫先生ともこの時の調査研究で、2度ほど千葉忠夫先生が経営されている学校を訪問した。
〇他方、東京都の事業で「多摩の100年」記念事業が展開され、その一環で「多摩の今後の社会福祉のあり方」に関わる調査研究チームが結成され、筆者はその委員会の委員長を命じられた。当時、慶応大学で労働経済学を専攻していた清家篤先生(現・日本赤十字社社長、前全国社会福祉協議会会長)ともその時の出逢いである。この調査研究チームは、デンマークを中心に調査を行った。
〇これらの海外、とりわけデンマーク、スウエーデン、イギリス等への調査研究を通じて、在宅福祉サービスの内容、提供システム、ケアマネジメントの手法を始め、社会福祉の分権化の考え方、システムについて多くの示唆を得た。
〇1987年に書いた論文では、いまだケアマネジメントという用語を筆者は使っておらず、筆者はサービスパッケージという用語で、ケアマネジメントの手法を表現していたが、1990年代にはいってからはケアマネジメントという用語を使用している。
〇筆者が考えるケアマネジメントの内容は、要支援の人の個別支援方針の立案を本人の願い、希望、求めと専門職が必要と考え、判断した事項を相互に出し合い、両者の合意に基づき行い、それを基に必要なケアプランを作成する営みだけでなく、それらのケアマネジメントを展開できるシステムの構築までも視野に入れて考えている。ケアマネジメントの理念を具現化できるシステムの重要性についてはデンマークの調査研究で気づかされ、スウエーデンでそのシステムの実証性を確認できた。
〇後述するイギリス在外研究期間中に、鹿児島経済大学(当時)の郷地二三子先生(日本社会事業大学の先輩、全国社会福祉協議会職員からの転身)の紹介で、スウエーデンのストックホルム郊外の集合住宅に住んでいる馬場寛・シャスティーン夫妻の家にホームステイさせて頂いた(馬場夫妻は翌年、日本に来日し、我が家で1週間ホームステイをして、いくつかの社会福祉施設などを訪問していった)。馬場夫妻はストックホルムの社会福祉職員として働きながら、日本からの視察団のお世話をしてくれている夫妻で、その家にホームステイしながらスウエーデンの社会福祉の分権化とケアマネジメントのシステムを勉強した。
〇1980年代からの数度に亘る調査研究で、ストックホルムやマルメといった都市部のシステムは学んでいたので、小さな村のシステムを学びたいと馬場さんに頼んで北極圏にあるビュルホルムコンミューンを視察できた。ストックホルムから特急列車で10時間、駅を降りてから高速道路を3時間走って着いたビュルホルムコンミューンは人口3000人の村であるが、広大な村域なので、それを3つの圏域に分けて、個別支援のケアマネジメントとそれが可能になるシステムを実現していた。
〇これらを参考にして、筆者は長野県茅野市の保健福祉サービスセンター(2006年に介護保険法で位置づけられた地域包括支援センターの原型)等の地域福祉のシステムのあり方を深めていった。
〇その際、1974年に制定されたデンマークの生活支援法や1982年に制定されたスウエーデンの社会サービス法に学ぶことは多かった。

➅イギリス在外研究と「行政の福祉化」による「福祉はまちづくり」への展開

〇日本社会事業大学には教員の在外研究制度、及びサバティカル制度がなかった。大学の清瀬移転整備計画の中で「在外研究制度」の創設を盛り込み、其の制度適用第1号として、1992年3月末に日本を発ち、イギリスに渡った。
〇イギリスでは、一般的な「在外研究制度」なら、どこかの大学に研究員としての席を置いて研究するのであろうが、筆者は敢えてそれをしなかった。ロンドンのケンジントン&チェルシー区の長期滞在用ホテルを借り、下記のように自由に研究をさせて頂いた。
〇イギリス滞在中、何をしていたかの報告書はいずれ帰国後に「出張復命書」らしきものを出すのであろうが、それでは記憶も定かでないであろうし、イギリス滞在中の状況を大学に報告するのも“義務”だと思い、某作家にちなんだわけではないが、「ロンドン便り」を不定期だけれど発行することにした。そのためもあって、日本から印刷機能付き携帯用のワードプロセッセーを持参した。
〇イギリス在外研究では、以下のような項目を意識して調査研究を行った。

ⅰ)政府刊行物センターの訪問と各種法律改正の概要の研究
〇政府刊行物センターにはよく通い、イギリスの各法律の改正状況と政策のウオッチングに努めた。
〇中でも、戦後分立していた児童福祉関係の法制度を一元化する1989年の「Children Act」の制定、1601年に制定され、1960年に新しく法律になった「Charities Act」の1990年の大改正、1989年の「Housing Act」、1990年の「National Health Service & Community Care Act」については、その概要を翻訳した。この法律を通して、日本との違いをいろいろな点で実感させられた。
〇私は、在外研究期間中ではなかったが、イギリスの調査研究の際に、B&Bというイギリス特有の宿泊を活用したが、これがピンからキリまでで、中には駅前にあるB&Bは、まるで軍隊の野戦部隊の宿舎のようなところで、イギリス的ドヤではないかと思われるところにも宿泊したが、これは「Housing Act」によれば「ホームレス」ということになる。
〇「Housing Act」によれば、狭隘な住宅、衛生上不潔な環境の住宅等が「ホームレス」に該当しており、イギリス的に言えば、日本の“ワンルームマンション”に住んでいる人は「ホームレス」に該当することになる。公園などで生活している人だけが「ホームレス」ではない。
〇「Children Act」では、児童虐待などを起こしている家庭の支援をする場合、親子分離をさせるのではなく、その親子をChildren Centerの近くのアパートに移住させ、頻繁に家庭訪問をして、親子関係の持ち方、子育ての仕方、家政管理能力や生活技術能力を高める支援の実践を見聞きさせて頂いた。
〇「National Health Service & Community Care Act」では、重い障害を有していても、かつ言語的意思表明ができない人でも、画や写真を活用して、これから行う活動、作業への理解を深め、それに関して本人の意思を確認する作業が丁寧にされていたのを見聞し、日本とのギャップに驚いたものである。

ⅱ)ケンジントン&チェルシー区の2か所のスペシャルパッチの訪問
〇イギリス在外研究で調査したいと思った点の一つは、1982年に出された「バークレイ報告」で、なぜ多数派と少数派とに意見が分かれたかを調べたいと思ったことである。
〇バークレイを代表とする多数派の考え方はケンジントン&チェルシー区で調査研究することにし、ハドレイを代表とする考え方の実践はイズリントン区で行うことにした。
〇イズリントン区の区長は、労働党で、住民も均一的な中産所得階層が多く住んでいる地域である。筆者はイズリントン区(当時人口26万人で24地区(パッチ)に分けて、3か月に1回、夜開かれる“直接民主主義的な形態の住民集会”に2度参加した。そこには、多くの分野の行政の職員、警察官、生活保護担当の職員などの福祉行政職員が出席し、住民たちと活発な論議をしていた。このような直接民主主義的な住民集会が行えるのも、住民の生活がある意味、均質的だからできるのであろうと理解した。だからこそ、住民と行政との協働という考え方を強く打ち出した少数派の意見を取りまとめられたと思っている。
〇一方、多数派の拠点のケンジントン&チェルシー区の区長は保守党の区長で、区内の住民の貧富の格差は大変なものである。広大な式の中に、プライベートの、歩道つき、並木付きの自動車道路が通っているマンション(日本のマンションのイメージは貧弱すぎる)群などもあるかと思えば、イギリスにはほとんど見られない高層の集合住宅があるスペシャルパッチもある区である。
〇一つのスペシャルパッチは、病院を退院してきた精神障害者やHIV感染者等が多く住んでいる集合住宅、もう一つのスペシャルパッチは、海外からの移民が多く住んでいる地域で、小路を越えるとお店で売っている物、話をしている言語が全く違うといった具合に、多民族が密集している地域である。
〇前者のスペシャルパッチの中にロンドン・ライトハウスがある。ケンジントン&チェルシー区ボランティアセンターの所長に連れられて行ったが、そこは視覚障碍者のセンターではなく、エイズ患者、HIV感染者支援の拠点施設であった。ランチをご馳走してくれるというので、ご馳走になったが、食後今食べたランチを造っているのは、HIV感染者たちだと言われ、正直驚いた。
〇このスペシャルパッチには、70名を超える行政職員のソーシャルワーカーが配属されていて、個別支援をしているという。
〇他方のスペシャルパッチには、コミュニティセンターがあり、そこでは英語の習得やイギリス的生活習慣、生活技術を学んだり、自分の生活の改善や手に職を得るためのミシンを使っての縫製の講習など、アメリカのシカゴのセツルメントハウス・ハルハウスもそうだったと言われる実践をしていた。そこでは、ソーシャルワーカーというよりもソーシャルエヂュケーターと言われる職員が頑張っていた。
〇ケンジントン&チェルシー区では、ホスピス病院にも時々訪ねていたが、入院患者は在院期間が2~3週間という患者たちなのに、私がいくと“イギリス生活をエンジョイしているか”と逆に励まされる文化の違いに驚いた。そのホスピスのお風呂は壁がカラフルな絵で飾られているし、ボランティアも人間だけでなく、犬も登録(大型犬、小型犬、雄、雌等30種類くらいの犬が登録されていた)されている等、日本の福祉文化、ボランティア活動との違いを痛感させられた。
〇また、ケンジントン&チェルシー区のボランティアセンターに、脊椎損傷で電動車いすを使用している障がいのある方が、自分の口にパソコンのキ-ボードを打つ棒をくわえ、センターの書類を作成するボランティア活動をしていることに、自分の社会福祉の捉え方が如何に狭いか、貧弱であることかと思い知らされた。
〇ロンドン滞在中に、「イギリス5000万人のボランティア」という本を購入し、目を通したが、イギリスでは8700万人の人口規模で5000万人の人がボランティア活動をしている。そのうち、一番多いのは金銭ボランティアで、中でも亡くなった方の遺贈が多いことを学んだ。のちに、京都大学の金沢周作先生が書いた『イギリス近代とチャリティ』という本を読んで、歴史的に作られた文化を再認識した。
〇筆者は、1900年に雨宮時枝先生が財政学の分野からの視点で書いた論文で、イギリスで1601年に「慈善信託法」が制定されていることを知り、自分の勉学、研究の狭隘さと学問の奥の深さを思い知らされたことがあった。のち、この「慈善信託法」については、東北大学から日本社会事業大学の大学院へ進学してきた松山毅さんに研究するように勧め、松山さんはそれを博士論文でまとめた(単著として刊行されていないのが残念ある。この論文の抄録が損保ジャパンの社会福祉文献賞の論文部門で受賞したのは嬉しかった)。

ⅲ)ロンドンの西北部にある区の訪問
〇この他、ロンドンの西北部にある区(名前を失念、調べて分かれば後日修正)を訪問した際、区長直属の車いすの職員を紹介された。その方は、区の政策・行政に対して、障害者の目線から「合理的配慮」がされているかをチェックし、されていなければ修正を求める権限を有しているという。
〇われわれは、意識して差別や偏見をすることはあまりなくなったが、自らの生育史の中で作られた生活文化はやはり“健常者の目線”であり、“合理的配慮”をしきれていない場合が多い。その点を障害者の立場からチェックする権限を持っているということに驚かされた。
〇この考え方を基に、帰国後行われた日本社会事業大学の講演の中で、筆者は{行政の福祉化}が必要であるとのべた。
〇地域での自立生活ができるようにしていくためには、保健福祉行政の分野のみならず、建設行政においても、市民生活行政においても、清掃行政においてもあらゆる行政部門で、障害者や高齢者に対しての“合理的配慮”がなされなければ地域福祉の理念は具現化しないことを述べた。

➆「ふれあいの街づくり事業」――1990年「生活支援事業研究会」委員

〇1990年に、厚生省保護課の主管で「生活支援事業研究会」が設置された。その当時の保護課長は炭谷茂(後に厚生省社会援護局長、環境省事務次官)さんで、1980年代にイギリス大使館へ出向していた。筆者も、イギリスへの調査研究で訪ねた際にはロンドンでお会いしている。当時は、法政大学の大山博先生も法政大学の在外研究でイギリスに行っており、炭谷茂さんとも面識がある中であった。
〇その「生活支援事業研究会」の委員に大山博先生共々選ばれ、筆者が座長を務めることになった。
〇大山博先生とは、1960年代末から、小川政亮先生、東京都立大学の籾井常喜先生、早稲田大学の沼田先生等との社会保障法研究会のメンバーの若手として、金沢大学の井上英晴先生などと一緒に研究していた仲間だった。
〇「生活支援事業研究会」は、1990年8月に、中間報告として「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」を出す。
〇そこでは、生活支援地域福祉事業の必要性として、イ)社会構造の大きな変化、ロ)生活者としての個人や家族の自立能力、生活能力の弱体化、ハ)家族、地縁等の相互扶助や問題解決能力の減衰化があるとして、従来の制度だけでは解決できない課題として(ⅰ)社会的孤立の問題、(ⅱ)疾病問題への日常生活上のケアの必要性、(ⅲ)登校拒否児や生活管理能力がない家庭内での問題、(ⅳ)生活管理能力の問題、(ⅴ)外国人の問題等を掲げ、それらの課題を解決するためには、(A)ニーズの積極的把握、(B)家族や地域社会全体を捉えたコミュニティソーシャルワークの必要性、(C)社会福祉各制度相互間等の連携・調整によるサービスの総合化の必要性を提起した。
〇これは、まさに今日の政策である地域共生社会政策、とりわけ重層的支援体制整備事業の先取りであり、今日の政策の前史ともいえ報告書の内容である。
〇この報告書に基づき、1990年度中にこの報告書の考え方をどう具現化するかということで、モデル補助事業が行われた。福祉事務所、保健所、社会福祉協議会などでモデル事業が行われた。その際の研究補助者として宮城孝先生が参加してくれた。
〇モデル授業では、富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美事務局長が、多重債務者の支援において身を挺してローン関係者と交渉してくれたりといった実践が評価され、これらの事業を展開する組織、機関として市町村社会福祉協議会がふさわしいのではないかと判断され、1991年度から「ふれあいの街づくり事業」という大型補助金による事業が展開されることになる。
〇「ふれあいの街づくり事業」が全国で展開され、報告書の理念、目的が実現していけば社会福祉界は変わり、地域福祉の時代がくると思って期待していたが、残念ながら私にとっては期待外れであった。
〇社会福祉協議会関係者サイドから言えば、この補助金で社会福祉協議会は大きく変わったという評価をしているが、委員会の座長を務めた立場からは残念であった。
〇コミュニティソーシャルワークという機能の具現化には、改めて1990年代後半から取り組むが、福祉サービスの総合化という考え方は地域共生社会政策、重層的支援体制整備事業が出てくるまで進まなかった。

➇日本社会福祉学会の公選理事として会員800名の関東部会の運営と事務局長の拝命

〇1990年の社会福祉学会理事選挙で、公選理事に当選した(2期連続選ばれ、1996年10月まで務める)。
〇恩師の小川利夫先生からは「社会福祉と社会教育の学際的研究」をするのなら、その各々の学会に置いて、会員による理事選挙で選出される公選理事にならなければ、あなたの研究が社会的評価を得たことにならないと常に戒められ、学際研究を口実にして逃げてはならないと言われ続けてきた。
〇日本社会教育学会では30歳代から理事に選ばれ、1992年からは常任理事として2年間務めていたが、日本社会福祉学会では“大橋謙策の研究は、社会福祉プロパーの研究でない”と言われ続けていただけに公選理事として選出されたことは嬉しかった。漸く社会福祉学界でも大橋謙策の存在が認められたと安どしたことを覚えている。当時、珍しく、小川利夫先生から評価されたことが嬉しかった。
〇理事会では、関東部会の運営を仰せつかり、会員800名余の部会の運営、経理等一人で担当することになった。当時の日本社会福祉学会の会長は一番ケ瀬康子先生だった。
〇関東部会の担当理事の前任者(某有名な社会福祉研究者)に引継ぎをお願いしても一向に会計の決算書が出てこない。督促をしてもなしの礫で、やむを得ず、前年までの活動報告、決算書の公表はできないまま、新たな年度からの事業計画、会計を始めた。
〇私が最初に始めたのは、日本社会事業学校連盟の事務局長に就任した時と同じで、「日本社会福祉学会関東部会の会報」を出し、会員に情報提供を徹底化することであった。
〇その当時、日本社会福祉学会自体、ニュースを発行できていなくて、それは私が日本社会福祉学会の2回目の公選理事(この時の会長は阿部志郎先生が選出され、私が事務局を担った)に選ばれ、事務局長に就任した1993年からである。
〇1991年の関東部会のシンポジュウムで、「ケースマネジメントとケアマネジメント」というタイトルで論議を行ったことが思い出される。
(2026年3月13日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。大橋謙策のメールアドレスは、  <o.kensak@outlook.jp> です。

老爺心お節介情報/第81号(2026年3月9日)

「老爺心お節介情報」第81号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会の関係者の皆様

大変ご無沙汰しています。
「老爺心お節介情報」を送ります。
「その時の出逢いが」はも少し時間が掛かります。
出来次第送ります。
季節の変わり目、ご自愛ください。

2026年3月9日   大橋 謙策

初春や メジロ来りて 昼寝かな
紅梅が 咲きし小坪の 長閑さよ
兼喬作 2026年1月

〇ご無沙汰しています。前号を出してから大分時間が過ぎました。皆さんにはお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇私の方は、1月中旬から2月一杯忙しい日々で、ゆっくりとパソコンに座って、「老爺心お節介情報」や「その時の出逢いが」を書いている時間もなければ、精神的に取り組もうとする意欲も湧いてきませんでした。
〇この間、我が家の庭は季節に対応して、日々姿を変えています。庭の畑の三浦大根と小株は収穫を迎えました。小坪の春蘭は赤紫の可愛らしい花を咲かせています。今は、赤の侘助や乙女ツバキが咲き、水仙が咲き、シデコブシが蕾を開き始めました。海棠も真っ赤な新芽を出し始めましたし、雪柳も白い花を咲かせ始めました。春はいいですね。
(2026年3月9日記)

Ⅰ 2月13日に、第2回能登半島地震支援中間報告会に参加しました

〇昨年5月に行われた第1回中間報告会は、主に社協関係の被災者支援と社会福祉専門職団体による支援の報告が中心でした。
〇第2回は、「能登半島地震の被災地で展開された社協と連繋した被災者支援――被災者支援のNGO・NPO活動から何を学ぶかー」がテーマでした。
〇全国災害ボランティア団体支援ネットワーク(JVOAD)代表で、かつ阪神・淡路大震災の際にボランティア活動を行い、その後結成された認定NPO法人レスキューストックヤードの代表でもある栗田暢之さん、アメリカに本部を持ち、世界的規模で貧困者等の支援を行っている国際NGOのADRA(日本支部は1985年設立)の小出一博さん、東日本大震災を契機に結成された公益社団法人ピースボート災害支援センターの大塩さやかさんにNGO、NPOの能登半島地震支援の状況を報告頂いた。
〇また、能登半島地震支援のNGO,NPOの活動を管掌した石川県生活環境部女性活躍・県民協働課の職員で、公益財団法人石川県県民ボランティアセンターの業務も兼任している石川県の職員である原拓矢さんと内閣府(防災担当)の防災教育・NPOボランティア連携担当の参事官補佐の澤邦之さんにも登壇して頂いた。
〇内閣府の澤さんには、災害救助法が2025年に改正され、「福祉サービスの提供」が医療や保健とともに位置づけられたこと、被災者支援に入る団体に、登録被災者援護協力団体制度を創設し、協力いただく場合には実費を弁償する制度ができたことなどを報告頂いた。
〇石川県の原さんは、被災者支援に入るボランティアの足の確保として輸送バスを3073台運行、キントーンを活用しての情報収集と関係機関との情報共有化、ボランティア活動に必要な資材の提供(ヘルメット、ブルーシート、防刃手袋、軽トラ)を提供した他、NPO法人に重機を貸与する便宜を図った。約9000万円の費用が支出された。
〇栗田さんは、まずJVOADが東日本大震災の教訓をもとに結成されたことを報告。東日本大震災では145の災害ボランティアセンターが設置され、約155万人のボランティアが参加。社会福祉協議会の災害ボランティアセンターとは別に、推計3000のNPO等が活動を展開。中央共同募金会の「ボランティアサポート募金」を活用したボランティアの総数は約525万人に上った。しかしながら、その相互の活動は必ずしも連携が取れてなかった。
〇その反省を踏まえて、「被災者のため、自発的かつ組織的に支援を行うNPO等の活動を支援し、行政・社会福祉協議会・NPO等のセクター間の連携を進め、課題解決のための被災者支援コーディネーションを行う」災害中間支援組織を設立したことを説明。
〇内閣府の澤さんが報告された登録被災者援護協力団体制度を推進するために、現在各都道府県に被災者支援コーディネーションを担う「災害中間支援組織」の設置を進めており、全国の28都道府県で設置されているという。
〇JVOADが把握した石川県に支援に入ったNGO/NPOは430団体であった。
〇認定NPO法人レスキューストックヤードとしては、他の団体と協働して12万食の食事を確保することが当初の最大の課題であった。
〇栗田さんの報告を聞いて、社会福祉協議会関係者が反省をするべきだと強く思った点は,各支援団体と協力し、JVOADがとりまとめた「被災高齢者等の見守りについて(在宅福祉サービス高齢者等の把握)」の調査活動である。
〇七尾市以北の5市町で行い、15000人の在宅福祉サービス高齢者の状況を把握し、「被災者の電子カルテ」として市町へ提供、情報共有したという。アウトリーチによるニーズキャッチが社会福祉協議会の使命だと言われている時に、全国のネットワークを持つ社会福祉協議会は何をしていたのだろうか。
〇栗田さんの報告で、公費解体作業が能登半島地震では大きな課題になったが、その解体物の廃棄の際の取組が大きな課題だと指摘された。確かに産業廃棄物の対象になるかどうか、廃棄物の分別等今後考えなければならない課題である。
〇栗田さんは、支援に入った石川県穴水町では行政、社会福祉協議会、NPO等との3者協議がもたれ、連携ができたが、“石川県社会福祉協議会とは、あまり意思疎通ができず、申し訳ない”と述べられていたのが印象的であった。
〇ADRAの小出一博さんは、穴水町に支援に入って活動をした。穴水町社協は、災害ボランティアセンターではなく、「災害ボランティア・ささえ愛センター」を設置した。
〇そのセンターでは技術系ボランティアと生活支援系ボランティアとに分け、技術系ボランティアはブルーシート張り、重機を使ってのものの取り出し、ブロック・灯篭くずし、倒木の処理等を担い、生活支援ボランティアは避難所運営、炊き出し・食事提供、移動支援、買い物支援、子ども支援、行政手続き支援等の活動を行った。穴水町社協が “「できない」、「NO」を言わない体制づくり” をしていたことを高く評価していた。
〇ピースボート災害支援センターは、「人こそが人を支援できる」をモットーに、世界34か国で活動しているNGOで、日本国内では2011年の東日本大震災を契機に設立され、88地域に拠点を置いて活動している。
〇2011年に結成されてから、国内外の災害支援に関わり、企業81社との協働による災害支援物資配布、避難所運営サポート250か所、食事・炊き出し支援162691食、災害ボランティアセンター運営サポート39か所、家屋清掃4620件で、共に活動したボランティアの人数は117788人に上る。
〇日常的な防災・減災の取組としては、防災・減災教育1410回(受講者数55999人)、災害ボランティアトレーニング修了者数9287人等を行っている。
〇平時には支援を必要としている人が食品・日用品を手に入れられるよう、「食」の「港」という意味のFOOBOUR(造語)というキッチンカ―を配備しており、災害時にはそのキッチンカーを被災地に派遣し、温かい食事を提供している。
〇能登半島地震対応では、2024年の地震で珠洲市への支援に入った経験があるので、珠洲市社会福祉協議会の神徳さんから2025年1月1日の発災直後に連絡が入り、キッチンカーで支援に入った。
〇珠洲市では、珠洲市社会福祉協議会が開設した災害ボランティアセンターとの連携と同時に、社会福祉協議会が運営している珠洲市ささえ愛センターとも協働し、コミュニティ支援として5か所で122回、困りごと相談・情報提供を行った。毎週実施のお茶会、とりわけ大谷地区では週1回73回のお茶会、来訪者は2000名を超えた。
〇珠洲市の支援で特徴的なのは、仏壇の撤去、石灯篭の撤去という他の被災地ではなかったニーズ、支援要請があったことである。浄土真宗の教えで、家の中に立派な仏壇があり、その撤去に苦労したという。
〇今回の第2回報告会を聞いてみて、JVOADに参加しているNGO/NPOの災害支援の組織的な取組、日常と連動された活動、重機使用や電気関係、大工の技術等技術系ボランティア活動の強力さを教えられた。
〇社会福祉協議会がコーディネート、組織化している、スコップなどでの泥水除去、がれき撤去、家屋内の整理等、それはやってはいけないとは言うつもりはないが、それはNGO/NPOに任せて、社会福祉協議会はもっと災害被災者支援のソーシャルケア(ソーシャルワーク・ケアワーク)に力を注ぐべきではないのかと改めて痛感した。
〇とりわけ、NGO/NPOの団体が在宅福祉サービス高齢者のニーズ調査で各家庭を訪問調査されていたことには、正直“社会福祉協議会は何をやっているのか”と思った。これこそ、社会福祉協議会が全国のネットワークを活かし、地元の方と同行訪問し、必要なら生活福祉資金の相談に乗ることをすべきではなかったのではないだろうか。
〇いずれにせよ、今回の第2回目の報告会で、筆者が社会福祉協議会のボランティアセンターの活動を見直すべきだと言い続けてきたことの必要性が改めて痛感させられた。
〇ただ、石川県穴水町、富山県氷見市で、いみじくも社会福祉協議会がボランティアセンターの開設ではなく、「ボランティア・ささえ愛センター」を開設し、がれき撤去、家屋内整理のボランティア活動の要請に対応して、それだけに対応するだけではすませず、その家庭のニーズ把握も一緒に行い、必要な支援につなげていたことが一抹の救いであり、今後の社会福祉協議会の災害被災者支援の展望を与えてくれたことがとても嬉しかった。

Ⅱ 超過疎、趙高齢少子化、人口減少地域の長野県木曽谷の「持続可能な地域福祉のあり方」を考える

〇長野県社会福祉協議会がここ数年取り組んでいる「人口2000人規模」以下の町村における「持続可能な地域福祉のあり方」に関する事業の一環として、筆者もここ数年長野県木曽谷を訪問している。
〇筆者が長年「バッテリー型研究」を行うのには、筆者は歳を取りすぎているが、「関係人口」の一人としてお手伝いができればと通っている。
〇長野県は、以前の「「老爺心お節介情報」でも紹介したが、人口の少ない町村が多い。木曽郡では、上松町3803人、南3607人、木曽町9758人、木祖町2422人、王滝村646人、大桑村3088人である。下伊那郡では、大鹿村914人、豊丘村6205人、喬木村5625人、泰阜村1386人、天龍村1000人、売木村497人、下条村3288人、根羽村793人、平谷村372人、阿智村5758人、阿南町3825人、高森町12467人、松川町12023人である。
〇このような地域は、人口減少が続き、団塊の世代が85歳を超える2040年時点において、果たして在宅での生活が可能になるような持続可能な地域福祉をどう展開できるのか、深刻な状況である。
〇厚生労働省の検討会が出した「2040年のサービス提供体制等のあり方に関する報告書」ではないが、木曽谷の社会福祉法人の連携化あるいは合併化、町村社会福祉協議会の一元化、更には福祉サービスに関わる、全国一律の要件を木曽谷に合わせて大胆に緩和しないとサービス供給を維持できないことは予想に難くない。
〇「みんなの木曽『X(かけはし)』プロジェクトが、2025年度の「休眠預金助成事業」に採択され、その事業のキックオフセミナーが「『協働』&『共創』で進める地域づくり かけはしフォーラム」として、2026年2月25日に木曽町文化交流センターで開催された。
〇事前に執ったアンケ―ト結果に基づくワールドカフェ的グループワークと関係者のパネルデスカッションが行われた。
〇この前夜祭では、王滝村等の木曽谷に移住してきて、様々な事業を展開している人が集まり、懇親会が行われた。移住してきた方々はそれなりの理念を持ち、かつ技術を有している方々で、これらの方々の新しい発想、理念と従来から住んでいる方々との、まさに『協働』と『共創』が展開されるならば、木曽谷の可能性は豊かにあると思えた。
〇その為にも、アンケート調査ではなく、各集落で住民座談会を丁寧に行い、木曽谷が今後どうあるべきかを検討する活動を展開して欲しいとお願いをした。と同時に、従来のように行政に依存する体質を変え、地域住民が「選択的土着民」として、「地域住民限定のNPO法人を設立し、住民の終末期支援、死後対応サービスまで含めた総合的な生活支援サービスを提供すること」を考えるべきだと提案した。その際には、高知県佐川町斗賀野地区の「とがの元気村」やNPO法人とがのの実践が参考になると紹介をした。佐川町の実践の他にも、徳島県美馬市NPO法人こやだいらや富山県氷見市のNPO法人八代等の実践も紹介をした。
〇ただ、木曽谷の町村は、介護保険は広域の組合が保険者で、個々の町村の状況を保険者として必ずしも反映できていないのではないかと感ずるところがある。介護保険の“横出しサービス”や“上乗せサービス”を保険者の判断でもっと考えてよいのではないかと思えるし、ここ数年の木曽谷でも行われてきたセミナーやシンポジュウムに行政の福祉担当職員の参加が少なく、社会福祉協議会が中心になって頑張るだけでは限界があるのではないかとも感じてきた。
〇そこで、以下の3点を今後の課題として取り組んで欲しい旨を現地のプロジェクトにも長野県社会福祉協議会にも申し入れをした。
➀ 行政の参加者が少なかったので、長野県木曽振興局とも相談し、かつ6町村社会福祉協議会会長連名で、6町村の町長、村長に、行政職員の研修をするよう申し入れをしたらどうか。
➁ 上松町の社会福祉法人社会福祉事業協会のみならず、郡内の特養などを経営している社会福祉法人の連絡協議会の組織化を考えたらどうか
➂ このプロジェクトを成功させるためにも、プロジェクトの関係メンバーと6町村の首長との連携のための懇親会をして、プロジェクトに対する関心と理解を深め、かつ協力・支援の要請をする必要があるのではないか――このことは、2040年問題及び介護保険サービスのあり方も考えて必要ではないかー

Ⅲ 本の紹介

➀『ヤングケアラーかもしれない あなたが楽になる カウンセリング・ブック』(田中悠美子著、中央法規、2026年3月)
〇この本の著者は、日本社会事業大学の社会福祉学部、大学院卒業生の教え子です。
〇田中悠美子さんは、一般社団法人ケアラーワークスの代表理事をしています。日本社会事業大学在学中から、東京都練馬区で「若年認知症ねりまの会MARINE」を立ち上げたり、2012年に若年認知症の親と向き合う子ども世代の「まりねっこ」を設立してきました。
〇田中さんは、介護福祉士、社会福祉士の国家資格を有しており、ソーシャルケアとケアワークとを有機化して考えるソーシャルケアラーの走りだと言えます。
〇この本は、府中市ヤングケアラープロジェクトとジョイントして、日本財団の助成を頂き実践してきたものを基に書かれています。
〇ヤングケアラーが直面している事例なども活用しながら、ヤングケアラーが自分を押し殺してまでケアをすることの心境からの解放や、負担しているお荷物(ケア)は分けたりすることができますとサービス利用のあり方が書かれています。
〇また、ヤングケアラーが自分探しを大切にして成長していく様を事例に基づき紹介し、自分探しの重要性を述べています。
〇この本は、ヤングケアラーに関わる多くの関係者に手に取って頂き、できるだけ多くのヤングケアラーに読んでもらえるよう推奨して欲しい本です。
〇ただ、著者には、この本はヤングケアラー向けの本だからこれでいいが、ヤングケアラーという事象がどこから生まれ、その解決をどうするかという世帯全体、家族全体へのアプローチが出来ていないことへの批判、著述がないのはやや問題だと指摘しました。
〇それにしても教え子の実践や論説が本となって世間に広まることは教師として教師冥利に尽きる喜びですね。

➁『ごちゃまぜで社会は変えられる』(濱野将行著、クリエイツかもがわ、2021年12月)
〇『月刊福祉』2025年10月号で、原田正樹先生が司会をされた座談会に登場していた濱野将行さんの『ごちゃまぜで社会は変えられる』(かもがわクリエート社、2021年刊)を読みました。
〇石川県白山市、金沢市、輪島市などで「ごちゃまぜ福祉」を実践されている社会福祉法人佛子園の理事長の雄谷良成さんや広島県福山市で有限会社として鞆の浦・さくらホーム等の経営、実践されている羽田冨美江さんと同じような発想でした。
〇従来の社会福祉は国が定めた制度に当てはまるかどうかという実践、思想に囚われて、住民のニーズを発見・把握し、それに応えるサービスを開発・提供していく考え方が出来ませんでした。この本は、従来の社会福祉の限界を乗り越えて、住民のニーズに応えることが如何に大事かを考えさせられる本です。これこそが、ソーシャルワークの醍醐味なのだと思いました。
(2026年3月9日記)

(備考)
「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢、市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。
阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育論」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。この書籍(大橋謙策研究第1巻~第10巻)は、ブログのフロントページ、右サイドバーの下段にも表示されています。

老爺心お節介情報/第80号(2026年1月5日)

「老爺心お節介情報」第80号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

おはようございます。仕事始めですね。
新しい気持ちで、新しいプログラム、プロジェクトを立ち上げてください。
今年もよろしくお願いします。

2026年1月5日  大橋 謙策

寒中お見舞い申し上げます!

〇お正月休みも終わり、皆様元気に仕事始めをされていることと思います。
〇私の方も穏やかな天気の下、のんびりと里山を散歩したり、鎮守の森の神社へ初詣したりと穏やかなお正月を過ごすことができました。

氏神に 祈りし安寧 初詣で
初詣で 鎮守の森が 残る街
樹氷 悲しき恋の 一里塚
(愛媛福祉俳句会1月兼題/兼喬作 2026年1月)

〇「老爺心お節介情報」第80号は、「そのときの出逢いが➄、1980年代後半」号です。
(2026年1月5日)

『「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑤

Ⅰ 1980年代後半――日本社会事業大学の移転発展計画と日本社会事業学校連盟

〇筆者にとって、1980年代後半は、まさに激動の渦に巻き込まれたような時であった。
〇第1は、日本社会事業大学の移転発展計画の事務局(企画室長)を命じられ、大学教員としての使命である授業をこなしながら、厚生省に提出する資料づくりを行うという“二人分”の仕事をした。毎日、夜8時までに厚生省から資料作りの指示があった場合には、その日のうちに資料を作り届けるという作業の仕方であった。自ずと夜8時までは大学で待機を余儀なくされ、かつ資料作りの指示があれば大学に泊まり込むという業務であった。大学に布団を買ってもらい、職員休憩室に泊まり込むとうこともざらであった。
〇第2には、赤字団体になっていた日本社会事業学校連盟の事務局長を命じられ、日本社会事業学校連盟の再建と同時に、日本におけるソーシャルワーク教育の確立並びに1986年の国際社会事業学校連盟の東京大会開催をすることであった。
〇第3には、1987年に、日本地域福祉学会を創設し、地域福祉研究の体系化と地域福祉実践・研究の社会的認知と評価を高める活動であった。

➀日本社会事業大学の移転再建計画づくり

〇日本社会事業大学は、戦前の海軍館を校舎として永らく使用してきたが、その海軍館は空襲も受けていて、建物の痛み、老朽化が進み、1960年代末から大学の移転再建問題が幾度となく論議されてきた(この件については、『日本社会事業大学四十年史』、『日本社会事業大学五十年史』に資料が掲載されているので参照)。
〇大学の移転再建問題は、教授会で幾度となく論議されては挫折を繰り返していた。1982年3月28日に、厚生省(当時)で社会局更生課長を務め、1981年の国際障害者年を取り仕切った、本学の卒業生である板山賢治氏が日本社会事業大学の事務局に就任されてから移転再建問題は一気に動き出す。板山賢治氏は障害者基礎年金制度の創設の立役者である(高阪悌雄著『障害基礎年金と当事者運動――新たな障害者所得補償の確立と政治力学』明石書店、2020年参照)。
〇と同時に、早稲田大学名誉教授(労働経済学専攻)で、中央労働委員会会長の平田富太郎先生(勲一等瑞宝大綬章受賞)が1979年に学長に就任しており、このお二人によって大学の移転再建問題は動き出す。
〇大学の移転発展計画は、中村猛先生が(日本社会事業大学卒業生、東京都福祉局長)が委員長を務める「日本社会事業大学教育の在り方について」と題する提言が、1983年に設置され、筆者は、この委員会の事務局を担い、とりまとめの文書を起草することになった。
〇その委員会のとりまとめは、1983年7月に当時の伊部理事長あてに提言され、教育課程、教育組織、移転問題も含めて大きく前進する。
〇その縁もあってか、私は1984年には「キャンパス問題対策室長」、「大学建設本部企画室長」を命じられ、教員としての業務と大学移転再建問題の実務者としての2足の草鞋を履くことになる。
〇大学移転問題の資料作りは大変な業務量、仕事の仕方であったが、そのお陰で厚生省の組織の在り方、予算取りの大変さ、資料の作り方を学ぶことができた。
〇と同時に、平田富太郎先生や板山賢治先生のカバン持ちで、渡部恒三厚生大臣、森喜朗文部大臣をはじめ、大蔵省理財局長(明治期の社会事業行政をリードした窪田静太郎の孫)、大蔵省主計局長、会計検査院院長等の方々にお会いし、話を聞く機会ができた。各部署のトップに座れる方々の見識、幅広さを知るとともに、それに付随する組織の在り方を垣間見ることができた。
〇日本社会事業大学教授会は、先の提言を受け入れ、1984年2月に「社大発展のための基本的方針およびその確認に関する件」を決定し、移転計画は進むことになる(詳細は『日本社会事業大学四十年史』を参照されたい)。
〇日本社会事業大学は、創立者が事実上おらず、GHQの要請もあって、厚生省立の変則的学校法人として1946年11月に創立された。そのため、建学の精神ともいうべき理念が明文化されても無ければ、明確化もされていない。
〇筆者は、大学移転に合わせて建学の精神を確立すべきだと考え、1985年1月に、日本社会事業大学の校歌や教育理念を踏まえて、私案として4つの理念を掲げた。「忘我友愛」、「窮理窮行」、「平和共存」、「受容共育」の4つである。平田富太郎先生などと協議をし、「受容共育」を除いた3つを建学の精神として掲げることにした。しかしながら、この建学の精神は学校法人理事会や教授会で正式に討議をし、承認を得るという手続きがないままに使われるようになってしまった。しかし、今では実質的に日本社会事業大学はこの3つを建学の精神としてパンフレット等で使用している。
〇この移転再建業務を担当している1984年4月に筆者は40歳で教授に昇格する。
〇日本社会事業大学には、教員の昇格の基準として“40歳で、単著があること”が要件であると言われ続けてきた。筆者は、当時、その要件には該当しなかったので辞退をしたが、説得され、40歳で教授への昇格が教授会で承認された。
〇それは、移転再建問題への取組の一種の“論功行賞”だったのか、それとも編著、単著論文が数多くあったことが評価されたのかは分からないが教授になった。
〇それは筆者にとって凄いプレッシャーで、できるだけ早く単著を出さなければならないと焦った。当時、全社協出版部に居た斎藤貞夫さん(後に全社協事務局長)と山口稔さん(後に関東学院大学教授)と渋谷近くのホテルに缶詰めになり、既存の論文を活かして、全体を統一できるように編集作業をしながら、足らないところを執筆したことが思い出される。その成果が、1986年9月に刊行された『地域福祉の展開と福祉教育』である。
〇この単著は、“学術論文というより、実践的研究書である”と「まえがき」で書いたところ、恩師の一人の山住正巳先生から、“何を勘違いしているのか、実践的研究書こそが大切ではないか”とお叱りを受けた。確かに、筆者は、「あとがき」で、この本に流れるキーワードは「地域福祉を推進する住民の主体形成」であると書いているので、山住正巳先生の指摘は重要で、それまでどこか自分が行っているのは学術的ではないのではないか、単著というものはもっと崇高な哲学や歴史、海外との比較研究を踏まえた体系的なものであらねばならないと呻吟していただけに、この山住先生のコメントで、筆者の研究者としての姿勢、方向性が確立できると思った。この単著『地域福祉の展開と福祉教育』は何と一万部以上売れた。
〇この学問のあり方に関する一種の“コンプレックス”は、後日、筆者が日本学術会議の会員になった際に、工学系の先生方が同じように悩まれており、“学問とは、戦前の旧国立大学の講座での研究が学問である”という、日本の学術体系への懐疑を同じように思っていたようで、その会議の中での論議には筆者は大変“意を強くした”思い出がある。
〇それは、新しい学問体系としての「統合科学」という考え方であるが、筆者はその「統合科学」の考え方こそが「社会福祉学」なのだと納得した(拙稿「『統合科学』としての社会福祉学研究と地域福祉の時代」日本社会福祉学会編、『社会福祉学研究の50年』、ミネルヴァ書房、2004年参照)。
〇ところで、大学移転発展計画の最中、筆者は島根県瑞穂町へ出張する機会があり、その旅程の中で風邪を引いたのか、咳が止まらなくなり、帰宅後、稲城市民病院の診療を受けた。
〇診断した医師は、風邪の患者のレントゲン、結核の患者のレントゲン、肺がん患者のレントゲン、そして私のレントゲン写真を見せて、どれに似ているかと尋ねるので、私は肺がん患者のレントゲンと似ていると答えると、“そうだ。あなたは肺がんに罹患している”と診断され、慶応大学病院か国立がんセンターの診断を受けなさいと紹介状を書いてくれた。それは、1987年3月13日の金曜日であった。
〇そのまま休むわけにもいかないので、夢遊病者のようにふらふらしながら大学へ行き、板山先生に報告すると、板山先生は即座に国立がんセンターの診断を受けるようにと命じられた。
〇国立がんセンターの主治医は成毛先生で(当時・大熊由紀子朝日新聞論説委員が成毛先生は世界的な肺がんの権威だから先生を信頼したらいいと言ってくれた)、成毛先生はレントゲン写真を見て、98%肺がんだと思うが、国立がんセンターでは病理検査の結果を見ないと診断名を確定しないという。そのうえで、念のため、北里大学病院、結核の権威である複十字病院の診断を仰いでくるようにいわれ、2つの病院の診断を受けたがいずれも肺がんの診断であった。
〇1987年4月7日、国立がんセンターの7階・B棟725号室が我が病室である。A棟は余命行くばかりもない終末期の患者病棟で、よく亡くなられた人がいた。
〇入院前に行った肺生検の結果はシロであったが、肺に影があるので、4月17日に手術をすると言う。多分肋骨3本を切り取って、右肺上葉の肺の影の部分を切除する手術だという。
〇私は、当時子ども幼かったことなどもあり、井上靖の『告知』などのがんに関する本を読んで、自分の将来を悲観した。今は、治療法も格段に進歩しているが、当時はがんは“不治の病”と考えられており、自分の今後の人生をはかなんだ。
〇そんなこともあり、毎日の医師の回診が終わると病棟を抜け出し、築地市場の場外市場のすし屋でお酒とお寿司を食べる毎日であった。看護師はひどく嫌がったが、私の気持ちもすさんでいた。
〇4月16日、手術前の最後の検査があり、今まで膨張していた丸い球体のような影が少しいびつに歪んだのを成毛先生、近藤先生が見つけてくれて、手術は延期、様子見となった。
〇そのまま、退院して様子を見ることになったが、再度12月に肺に影ができ、成毛先生は切って、病巣を確かめたいと言われたがお断りした。その後は影も消え、今日に至っている。
〇国立がんセンターに入院中、「社会福祉士及び介護福祉士」の法案審議が山場を迎えていて、日本社会事業学校連盟事務局長として居たたまらず、病院を抜け出して自民党本部へ陳情に行ったことが忘れられない。

➁日本社会事業学校連盟事務局長を拝命

〇1981年、明治学院大学教授の三和治先生、日本女子大学教授佐藤進先生、日本女子大学教授の高橋精一先生が揃って日本社会事業大学を訪ねて来られて、筆者に日本社会事業学校連盟の事務局長を引き受けてくれないかという申し入れであった。
〇筆者は当時、まだ軸足が社会教育分野にあり、社会福祉分野では学会デビューをしたばかりであった。
〇しかも、日本社会事業大学の先輩教員たちからは“大橋の研究は社会福祉プロパーの研究ではない”と批判・評価されていた時である。
〇筆者自身は日本社会事業学校連盟が毎年1回行っている社会福祉教育セミナーに1974年の日本社会事業大学が開催校としてセミナーを開催した時に参加した程度で、左程日本社会事業学校連盟にアイデンティティを持っていたわけではない。
〇どのような経緯で筆者に白羽の矢が立ったのか分からないが、懇請され引き受けざるをえなかった。当時の日本社会事業学校連盟は赤字団体で、必ずしも加盟校の吸引力があったとは思えない組織であった。
〇一般的には、日本社会事業学校連盟の会長校が先に決められ、其の大学の会長の下で誰が事務局長を担うのかが決められるはずなのに、私の場合は、先に事務局長を懇請された。筆者は引き受けざるを得なくなり、結果として、平田富太郎学長に日本社会事業学校連盟の会長を引き受けて欲しい旨のお願いをした。
〇平田富太郎学長、大学の学長秘書の及川良子さんと会長前任大学の関西学院大学に業務の引継ぎに伺い、本出裕之先生や武田健先生から引継ぎをした。
〇その夜、平田富太郎先生が神戸の街で、みそののステーキとチェリー酒をご馳走してくれた。こんなに美味しいステーキとお酒があるのかと感動したものである。平田富太郎先生には、折にふれて美味しい食事をご馳走して頂いた。
〇小川利夫先生も平田富太郎先生も、若い我々にいろいろなチャンスをくれたなと改めて感謝の念で一杯である。このような機会を通じて、人を育てるということはどういうことかといろいろ学ばせて頂いた。
〇筆者は、日本社会事業学校連盟の事務局長を引き受けて、すぐ取り組んだことは日本社会事業学校連盟の通信を発行することであった。加盟校の中から、赤字団体なのに通信を印刷発行するのはけしからんという苦情、意見を頂いたが、赤字団体だからこそ通信を出して、今、何を取り組んでいるのか、何を取り組むべきなのかを加盟校に周知徹底することが必要であると説き、それが入れられないのなら自分は事務局を降りると突っぱねた。
〇しかも、その通信は各加盟大学の日本社会事業学校連盟担当教員に一部送るだけでなく、必要なら何部でも、全教員分を送るということにした。当時、各加盟校の中には、学校連盟の担当になることを特権化し、学校連盟から入る情報を独り占めにするという教員、大学があったので、大学における情報コントロールの打破が必要であると説き、それが入れられないのなら自分は事務局を降りると突っぱねた。
〇通信の発行により、各加盟校の理解も進み、事務局長に就任した翌年には加盟費を大幅に増額して赤字団体を脱却した。
〇しかも、その頃、日本社会事業学校連盟は国際社会福祉大会の構成・傘下団体の一つとして国際的なソーシャルワーク教育のあり方について関わることが求められていた。しかしながら、日本には社会福祉専門職の制度はないし、ソーシャルワーク教育に関して日本社会事業学校連盟としての基本方針、在り方等について共通の理解が得られてない状況であった。
〇私は、日本社会事業学校連盟の加盟基準を厳しくして、かつ加盟校の社会福祉教育をソーシャルワーク機能に収れんさせて、卒業生に対してサーティフィケーション(認証書)を出して、名実ともに社会福祉専門職として位置づけられるよう、加盟校の社会的評価を高める方針を打ち出した。そのための「学校連盟による社会福祉専門職員養成基準」(養成ガイドライン)を1986年に制定した。
〇この考え方に駒澤大学教授の高橋重弘先生(後に日本社会事業大学学長)、日本女子大学教授の田端輝美先生、同志社大学教授の黒木保博先生(私の次の事務局長。これが縁で、私はその後同志社大学大学院の非常勤講師を約10年間続け、院生を育てる喜びと京都探索の機会を頂いた)等が賛同してくれて一緒に活動を進めてくれた。
〇日本社会事業学校連盟の社会福祉教育セミナーを熱海の赤根崎のホテルで行い、いわば缶詰状態で、専門職に必要な科目のシラバスづくりを行った。この活動が、1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」の成立の下地になっていく(拙稿「戦後社会福祉研究と社会福祉教育の視座」、『戦後社会福祉教育の五十年』ミネルヴァ書房、1998年11月参照)。
〇また、国際社会事業教育会議が国際社会福祉大会の一環として開催されるので、1986年8月には日本社会事業学校連盟の加盟校の案内版として『社会福祉を学ぶ人のために』(全国社会福祉協議会刊)を刊行した(拙稿「日本の社会福祉教育の現状と課題」が収録されている)。

➂市町村社会福祉協議会の実践支援と日本地域福祉学会の創設

〇「地域住民の社会福祉への関心と理解を深め、ボランティア意識の高揚、活動の推進」及び「市町村社会福祉協議会における地区社会福祉協議会づくり支援」とが、1980年代後半において、筆者の大きな学外活動であった。全国各地の社会福祉協議会の招聘を受けて講演、研修をさせて頂いた。
〇東京都社会福祉協議会の中島充洋さん(後に鹿児島経済大学教授)、小島セツ子さん、青山登志夫さん(後に静岡英和大学教授)、東村山市社協の大内高雄さん(後に北星学園大学教授)、小金井社協の桜井猛さん(後に青森大学教授)、狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さんなどとの交流が始まる。
〇また、神奈川県社会福祉協議会では、高島さち子さん(日本社会事業大学の先輩)、熊谷豊寿さん夫妻、山口正一さんや相模原市社会福祉協議会の小野敏明さん(後に、田園調布学園大学教授)、あるいは横須賀キリスト教社会館の岸川洋治さん(後に、西南学院大学教授・学長、横須賀キリスト教社会館館長)、北海道社会福祉協議会の岡部和夫さん(後に名寄大学教授)、林さん、白戸一秀さん(後に旭川大学教授)、千葉県の香取達子さん、高田恵美さんなどとの厚誼が始まる。
〇神奈川県社会福祉協議会の事業の一つに、市町村社会福祉協議会職員が地域づくり活動、地区社会福祉協議会の組織化を図るために地域に出かけるが、今一つ社会福祉協議会の性格やその必要性を市町村社会福祉協議会職員が説明できないということで、神奈川県社会福祉協議会・地域福祉部発行で『社協活動マニュアル』をA4版サイズの裏表のリーフレットを作成した。このリーフレットを増刷りして、住民座談会を進めようというマニュアルである。社会福祉協議会の性格、必要性、社会福祉協議会会費を頂く意味、地域課題を把握する調査の仕方、数字で生活課題を客観化する方法等についてまとめ、リーフレットを第14号まで発刊している。
〇この研究事業が基になって、相模原市の小野敏明さんや横須賀キリスト教社会館の岸川洋治さんたちと丸紅基金からの研究助成を頂き「コミュニティワーク研究会」を組織し、コミュニティワークの機能について研究を進めた。
〇この当時、全国各地の社会福祉協議会に招聘され講演したが、その当時一種のブームだったのか、各社会福祉協議会は筆者の講演録をテープ起こしし、ブックレットとして刊行してくれた。千葉県、神奈川県、富山県等での講演録が残っている
〇長野県社会福祉協議会の小池正志さんに招聘され、松本市の浅間温泉で講演をした(小池さんとはそれ以来の付き合いで、今でも時々あって囲碁を打っている)ことがあり、その講演録が筆者が知らないうちにブックレットとして刊行されていて、筆者が気が付いた時には第3刷りまで刊行されていたことには驚いた。
〇1983年に全国で約700万人の署名もあって、市町村社協が法定化され、市町村社会福祉協議会は地区社会福祉協議会づくり、ボランティア活動の振興、福祉教育の推進にと情熱的に地域福祉の推進の取り組んでいた時代である。筆者も文字通り東奔西走して市町村社会福祉協議会の職員たちと一緒に地域福祉に取り組んでいた時代である。
〇筆者は、かねがね日本社会福祉学会を“親学会”と位置づけたうえで、社会福祉の各分野ごとの学会があっていいのではないかと考えてきた。日本社会福祉学会の大会に地域福祉分科会はあるものの、市町村社会福祉協議会の職員が日本社会福祉学会に入会するのにはハードルが高すぎると考えていて、市町村社会福祉協議会の職員も入会し、地域福祉に関わる実践と理論の体系化を図る学会が必要ではないかと常々考えていた。
〇全社協の和田敏明さんとは「地域福祉活動指導員」の修了生が1000人を超えたら日本地域福祉学会を創設しようと相談していた。しかしながら、1983年の市町村社会福祉協議会法制化以降の市町村社会福祉協議会の実践の高まりを考えると1000人まで待つことはないのではないかと考えて、1986年のころから内々に学会創設の話し合いを始めた。 会長には岡村重夫先生、理事に三浦文夫先生、永田幹夫先生、阿部志郎先生などを候補者に挙げて折衝した。
〇ある時、日本社会福祉学会会長を務められていた一番ケ瀬康子先生から話があるということでお会いしたら、一番ケ瀬康子先生が“あなたは私に盾つくのか”、“社会福祉学会に対抗する分派活動をするのか”と詰問された。
〇日本地域福祉学会は別に日本社会福祉学会を分裂されるとかいうのではなく、上記したような状況を踏まえて、地域福祉の実践と理論の体系化を図ることが目的で、当時在宅福祉サービスの開発が各地で進められていることも含めて説明し、了解を頂いた。一番ケ瀬康子先生自身が杉並区などで在宅福祉サービスの開発やシステムづくりにかかわっていたこともあり、日本地域福祉学会の理事になって頂きたいと話をし、理事に就任頂いた。ただし、理事会には一度も出席されなかった。
〇三浦文夫先生も永田幹夫先生も含めて大方の方は日本地域福祉学会の設立時の会員は200名程度だろうと予測していたようであるが、なんと学会創設時の会員は約700名に及んだ。市町村社会福祉協議会職員の日本地域福祉学会への期待には大きなものがあった。
〇筆者は、日本地域福祉学会事務局長として、今後の地域福祉研究の在り方、課題について、1988年1月20日に発行された「日本地域福祉学会ニュース」No1に「視角 地域福祉の課題」と出して寄稿しているので参照して欲しい(参考資料Ⅰ)。


(2026年1月5日記)

老爺心お節介情報/第79号(2026年1月2日)

「老爺心お節介情報」第79号

地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様

新年明けましておめでとうございます。
「老爺心お節介情報」第79号を送ります。
今年もお互いに体に気を付けて頑張りましょう。

2026年1月2日  大橋 謙策

新年明けましておめでとうございます!

〇年末年始、東京は穏やかな日々でした。皆様には、佳いお年をお迎えのこことお慶び申し上げます。
〇昨年の賀状で、「賀状仕舞い」をさせて頂きました。今まで、年末年始は賀状の対応に追われ、のんびりできませんでしたが、昨年末、年始と賀状のことを気にせず、ゆったりと過ごすことができました。多い年には1400枚の賀状を書いていましたので、まさに様変わりの年末年始の過ごし方です。
〇賀状の交歓は、お互いの消息を確認し、人のつながりを確かなものにする重要な手立てでしたが、寄る歳波には勝てません。お許しいただければと思います。
〇全国的に、人口減少、趙高齢化の進展、核家族化・都市化の中での家族力の脆弱化、地域を支えてきた住民力の減退等の厳しい状況の中で、地域福祉の推進を標榜してきた地域福祉研究者、社会福祉協議会関係者は改めて今こそ何ができるのか、何をすべきなのかを考える必要があります。
〇それは、単なる政策対応でなく、草の根の地域福祉実践を豊かなものにしていくための努力が問われています。それはある意味、住民、行政、社会福祉法人、社会福祉協議会が手を携えて、協働して、「オール福祉」としてのネットワークを構築し、“住民の生活を守り、支援する地域福祉を推進すること“です。
〇私も82歳になりましたが、体調管理に気を付けて、今までの“恩返し”の意味も含めて、草の根の地域福祉実践を豊かにできるよう、「関係人口」の一人として全国行脚をしたいと年始の誓いをしました。
〇国内外とも厳しい世相ですが、皆様にはお体に気を付けて、日本の地域福祉の推進、地域共生社会実現に向けて一緒に頑張って頂きたいと願うばかりです。

(2026年1月2日)

Ⅰ 論稿を読んでー岩城貞時著「拘禁刑と社会復帰支援――社会福祉施設の現場から考える」(『経営協』Vol506、2025年12月、全国社会福祉法人経営者協議会所収)

〇岩城貞時さんは、28回続いている「四国地域福祉実践研究セミナー」の“船頭”仲間の一人である。
〇徳島県三好市社会福祉協議会の職員から転出し、現在は社会福祉法人三好やまなみ会の理事で、ワークサポートやまなみの施設長をされている。
〇岩城貞時さんは、社会福祉士の資格を有し、かつ20年間保護司活動をされている。
〇この論稿は、2025年7月に刑法が改正され、刑務所などでの共生処遇の方法は大きく変わり、刑期を終えてからの社会復帰を見据えた受刑者の特性に合わせた個別処遇の考え方が導入されたことをコンパクトにまとめてくれている。
〇この矯正処遇の考え方の改善は、より社会復帰後の社会福祉関係者の関わり方を求めるものである。「居住支援協議会」や社会福祉法人の地域貢献とも関わってくる大きな刑法の改正である。
〇その論稿をこの「老爺心お節介情報」に掲載したので、社会福祉関係者には是非読んで欲しい。

Ⅱ 「そのときの出逢いが」の執筆裏話

〇阪野貢先生に促されて「そのときの出逢いが」を書き始めてみたものの、執筆はそうスムーズには進まない。
〇まず、50年前、60年前の記憶は定かでないし、それを確かめようにも筆者が収集した資料・蔵書は東北福祉大学大学院へ行っていて、唯一手掛かりは筆者が執筆した論文が年代ごとに保存されていることを手掛かりに執筆を進めている。
〇ところが、頭の中で「そのときの出逢が」を書かなければいけないと思っているからであろうか、パソコンの前に座って書こうと思っても思い出せないことが多い。
〇しかしながら、夜の睡眠中、睡眠がノンレム睡眠からレム睡眠に変わるとき、目覚めて眠れない時があり、その時にあれこれ思い巡らせていると、不思議といろいろなことが思い出される。
〇それは断片的なものであるが、それをメモしておいて、朝、目覚めてからその断片的に思い出されたことを基にすると、いろいろなことが芋づる的に思い出され、文章が書けている。とりわけ、その時々に出逢った人々の名前はまさに芋づる的に思い出されるとういう不思議な状況である。
〇もうすぐ、第5回目の1980年代後半の部分の「その時の出逢いが」を配信できるが、今となってみると、第4回までに書いたものを加筆修正しなければならない部分が多々あることに気が付く。人間の記憶のあいまいさを改めて痛感しているこの頃である。
(2026年1月2日記)