福祉のまちづくり運動と市民福祉教育

今日、段階的発展論に立って、「地方分権から地域主権へ」「ガバメントからガバナンスへ」「運動から活動へ」「住民主体形成から市民性育成へ」などといわれる。その当否や評価はともかくとして、そういうなかで、福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動(市民運動)に取り組む「市民」の育成を図る福祉教育(市民福祉教育)は、まさに新しい局面を迎えている。
日本における市民運動は、周知の通り、高度経済成長期における公害の続発や過疎・過密現象の激化、生活環境の悪化などの社会的状況のもとで、1960年代から1970年代にかけて全国的規模で展開された公害反対運動や消費者運動などを契機に一般化した。それらは、住民・生活者のいのちや暮らしを守るための運動(「生活防衛運動」)であった。その後、1973〈昭和48〉年10月にはじまる第一次オイルショックを機に、政治・経済・社会の抑制的風潮や総保守化傾向が進むなかで、市民運動は変質、低迷した。そして1985〈昭和60〉年前後には、環境保護や反核・平和、女性解放、差別撤廃などに関する運動、すなわちイデオロギー対立が希薄化した、階級的視点に立たない「新しい社会運動」が展開された。とともに、それまでタテ割で展開されていた市民運動は、ヨコに連携(ネットワーキング)することによってより効果的な問題解決を促した。さらに1990年代になると、ボランティアに対して新しい意義づけがなされ、活動振興のための条件整備が図られた。こうした歴史的経緯を背景に、1998〈平成10〉年3月、特定非営利活動促進法(NPO法)が成立する。
NPO法によって、市民活動の制度化が図られ、市民活動団体は活動領域の拡大や社会的認知が促されるとともに、一定の身分保障を得ることになった。その反面、市民活動が本来的にもつ運動性や批判性が低下あるいは喪失し、活動の穏健化、体制内化が進んだとも評される。また、NPO法成立後、国や地方自治体の財政危機を背景に、住民参加や行政との協働という名のもとで行政の下請け化、補完化が生じていると指摘される。
ところで、市民運動は多面的で幅の広い概念であり、運動の実態も多種多様である。今日の市民運動は確かに、従来の「抵抗・告発」型から「参加・自治」型に変質してきている。しかし、行政との関係において、一定の距離を保ち、厳しい緊張関係をはらみながら「参加と協働」を模索する市民運動がある。高齢者や障がい者、外国籍住民などの社会的弱者に対する偏見・差別や抑圧、生命や生活の危機などの「焦眉の問題」を直接的に採りあげ、福祉制度の改革に積極的に関与・参画する市民運動もある。
そういうなかで、ミッションの達成をより確かにする市民運動を展開するために、市民福祉教育はどうあるべきか。その方向性やあり方を考えるに際しては、さしあたっては、市民運動の主体形成をめぐる次のような諸点に留意する必要があろう。
(1)市民運動は通常、自らの、あるいは他者の尊厳や生命・生活が脅かされるときに、多くの市民が集合し、集合行為として展開される。その際、その運動は、必ずしも環境や立場を同じにする人びとが集まって展開されるものではない。運動に参加する人びと(運動主体)は多様であり、運動の目的も直接的に自らの利益や地位向上などのための利己的なものではない。運動主体の多くは、利己主義を超える人間観や社会観をもっており、社会的な事象や出来事に積極的に関与し、自己決定し、共通認識のもとに連帯して行動する自発的で能動的かつ自律的な個人である。また、その個々人は、運動展開の過程で他者理解を深め、自己を再発見し、自己変容・変革を促す。それを通して、他者との相互連携がより深化・発展するのである。
(2)市民運動は、障がい者・女性・人種等に対する差別撤廃運動をはじめ、環境権を根拠にした環境保護運動や知る権利の確立を求める情報公開運動などのように、侵害された権利や新たに主張される権利をめぐって展開される場合がある。権利は、権力=支配層や強者に対抗する際の理論的概念であり、武器である。その「権利」運動としての市民運動は、政策や制度の枠組みを強化したり、修正・改革するひとつの契機になる可能性を有している。運動主体の人権感覚や権利意識、対抗意識が問われることになる。
(3)市民運動は、個々人が自己や他者あるいは地域・社会が抱える生活問題の実態や関係性を客観的・批判的に認識・理解することからはじまる。それに基づいて、市民運動は、一般的には、①問題・状況の認識・理解→②知識・情報の収集・分析と理解・判断→③活動(運動)課題の明確化→④意見集約と意思決定→⑤実践活動の展開→⑥評価・見直し、という問題解決のプロセスを経る。これを、運動主体のサイドに立って平易にいいかえれば、自己・他者・社会の生活問題との①出会い(把握、関与)→②向き合い(対面、相関)→③話し合い(討議、明確化)→④分かち合い(共感、共有化)→⑤支え合い(連携、共働)→⑥振り返り(評価、修正)、ということになろう。
(4)市民運動の展開を確かなものにするためには、まず、運動のミッションの達成はもちろんのこと、運動団体(活動組織)としての内部の規律(ルール)と、組織のまとまりの維持・存続に優れたリーダーシップを発揮するリーダーの存在が必要不可欠となる。そのあり様は、運動(活動)そのものが地縁型か広域的なテーマ型か、リーダーが旧来のタテ型かファシリテーター(黒衣、演出家)型か、あるいは複数のリーダーによるリーダーシップ(分散型リーダーシップ)の発揮なのか、等々によって多様となる。そして、そのリーダーは、集合行為にアイデンティティを有しながら、ときには運動の組織的行動にしばられることなく能動的・自律的に行動するフォロワーによって支えられる必要がある。
(5)市民運動は、多くの場合、取り組む問題や事項を特定化、限定化しがちである。そこでは、その問題や事項を社会や政治、経済、文化などとのかかわりで総体的に捉えるという視点が軽視されたり、欠落する可能性がある。それは市民運動が抱えるひとつの弱点でもある。市民運動は常に、問題領域を拡大、開放し、参加者に広く扉を開けておくことが求められる。また、その際、フリー・ライダー(ただ乗りする人)や「何もしない派」、若年層などをいかにして引きつけ、意識変革と態度変容を促し、まずは「それなりの」(adequate)運動主体(「それなりの市民」篠原一)に育てるかが課題となる。
以上を要するに、市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。
今日、構造的な財政危機の深刻化とそれに基づく行政のスリム化などを背景に、地方自治体の側から市民活動に秋波が送られている。しかし、自治体はいまだ、「お上」意識から抜けきれていない。住民も一般「大衆」から脱しきれておらず、「市民」に育ってはいない。市民活動に参加する市民は、行政と親和的な関係にある一部のものに限られ、市民運動にもある種の軽さがあり、自分にとって面倒や不利益にならない範囲での個別的・限定的な取り組みにとどまっていることもしばしばである。しかし、こうした歴史的・社会的な状況や「長いものには巻かれろ」という精神的風土を、必ずしも否定的・悲観的に捉えることはない。それを積極的・前向きに捉え、だからこそ今まさに、住民・市民自らが市民運動やそのための市民福祉教育を自治的に受けとめ、その明日を展望し、新たに切り開くことが強く求められるのである。
いずれにしろ、市民運動は、その運動を生起させる社会構造や社会変動の矛盾や非合理の反映であり、「時代と社会を映し出す鏡」である。市民運動は、単なる異議申し立てや抵抗ではなく、また行政の補完化を促すものでもない。それは、市民が新たな秩序やそれを支える新たなパラダイムを提示あるいは構築するためのものであり、「豊かな社会を創り出す原動力」である。そして、市民運動の展開は、民主主義の定着・発展の過程や方法、度合いなどを問い直すことになり、「民主主義の成熟度を示すバロメーター」である。これらは、集団的・組織的活動としての市民運動の主体形成にかかわる市民福祉教育のあり方が厳しく問われるところでもある。
(阪野貢『市民福祉教育をめぐる断章』大学図書出版、2011年、76~81ページ)