「自己実現」(Self-actualization)は、福祉や教育の分野においては重要な用語のひとつである。しかし、その言葉は、今日においても抽象的な単なるスローガンとして使われることも多い。そもそも自己実現という用語は、アメリカの心理者であるA.H.マズロー(Abraham H.Maslow)の自己実現理論や人間の「欲求の5階層説」が日本に紹介され、一般化したものである。マズローは、人間の「基本的欲求」を低次から高次へ、すなわち「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」の5階層に分類している。ここでは、マズローの欲求の5階層説は単純な固定的階層としてではなく、相対的優位性により欲求の階層が構成されていることに留意しておきたい。
小松一子(花園大学教授)によると、「自己実現」の項目が事典・辞典の類にはじめて記載されるのは、心理学関係では1976年、教育学関係では1977年、社会福祉学関係では1982年からである。また、『広辞苑』では、第5版(1998年)にはじめてその用語が採録され、第6版(2008年)のそれでは、「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと。また、それへの欲求。マズロー(A.Maslow 1908-1970)は、人の欲求階層の最上位に置いて重視した。」と記述されている。
マズローは、「成長と認識」に関する論述のなかで、「至高経験(「最高の幸福と充実の瞬間」)においは、個人は最もいまここの存在であり、いろいろの意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も『開かれている』」(『完全なる人間』153ページ)と述べている。また、「創造性」に関する論述のなかで、「『現在のことで夢中になる』能力こそ、どのような創造性にとっても必要不可欠な条件であると思われる」(『人間性の最高価値』76ページ)と述べている。
要するに、マズローにあっては、「自己実現」においては「現在」に留意し、「現在」を強調することが必要かつ重要となるのである。ただし、「現在」は「過去」や「未来」から孤立しているわけではない。また、それは、単純に、過去→現在→未来、という直線的な時間の流れ(経過)のなかに位置づくものでもない。「過去」と「未来」は、「現在」との関係性において重視されるべきものである。仮に主従関係でいえば、「現在」が主で、「過去」と「未来」は従属的な位置にある、といえよう。
ところで、教育とは、子どもであれ大人であれ、現在の生(生きること、生きている状態)のあり方を、未来の、理想とするそのあり方に近づけるための人間的な営みである、といえる。かつて堀尾輝久(東京大学)は、『教育入門』(岩波新書、1989年)において次のように述べた。
発達の視点は、人間の価値を最終目的との関係で評価するのではなく、変化の過程自体に価値を認める人間観と結びつきます。子どもにとって、そして人間にとって、過去の集積としての現在は、将来の完成のための準備として意味があるのではありません。将来の準備のために現在を貧しくすることは、実はその将来をも貧しくします。未来は現在のうちに含まれ、現在は未来への選択によって方向づけられる、そして現在の充実こそが、明日の豊かさを約束するのであり、発達段階に応じた適切な学習と教育による現在の充実が、将来における可能性の開花を準備するのです。この意味で、現在の充実とは、子どもにとって、同時に未来への背のびを含んでいます。このような意味での教育とは、子どもにとって、いまだためされていないものへの挑戦であり、同時にこのことが、おとなたちの―そして既存の価値の―予測をこえた地平への発達を可能にするのです。(96ページ)
以上から、自己実現とは、“いま・ここ”を生きることに関わるのであり、堀尾がいう「現在の充実」はすなわち「自己実現」を意味する、といえよう。
周知の通り、教育の世界で「自己実現」をめざす教育が強調されるのは、学校教育においては、1989〈平成元〉年に改訂・告示され、小学校で1992〈平成4〉年度、中学校で1993〈平成5〉年度から実施された「学習指導要領」以降のことである。そこでは、知識や技能を中心にした旧来の学力観が見直され、「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」や「個性を生かす教育の充実」といった「新しい学力観」が提起され、教育評価についても「関心・意欲・態度」を重視する方向が打ち出された。
生涯学習においては、生涯学習審議会によって1992〈平成4〉年7月に行われた「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」の答申以降のことである。そこでは、「自己の生活を充実し、人間性を豊かなものとしていく」ための社会人に対するリカレント教育の推進や、「ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習となる」という視点からのボランティア活動の支援・推進、などについて提起された。
人間は、子どもであれ大人であれ、「障がい」があろうがなかろうが、自分の個性や要求を発揮して、あるいは可能性を期待して主体的・積極的に社会とかかわり、自らを包み込む地域社会での日常的な社会生活(community life)を通して、自分の希望や願望を達成したり、豊かな社会の実現や文化の創造を図るために自律的・能動的に生きる存在、すなわち“いま・ここ”をよりよく生きる社会的・実存的存在である。こうした考え方は、社会的かつ自律的な「自己実現をめざす教育」や、社会的存在としての自己認識を基軸に市民性を育成するための「市民福祉教育」について考える際に、留意すべき人間観である。