2012〈平成24〉年9月、「第21回全国ボランティアフェスティバルみえ」が三重県で開催されました。その分科会24では、「今、ボランティアを問う」というメインテーマのもとに、今日、「ボランティアの原則として掲げられていた、主体性、無償性、社会性(公共性)等について、その境界線上にある活動が広がってきており、『ボランティア』をどう捉えればよいのか、分かりにくくなっている(中略)。こうした状況をふまえ、改めてボランティアとは何かを考え」、「変えていくべきこと、変えてはいけないこと」(サブテーマ)について議論されました。
議論に先立ち、原田正樹先生(日本福祉大学)は、次のようなことを話題提起されました。
従来、ボランティアは「主体性」を大事にしてきました。(中略)「ボランティア」の自主的な行為としての側面、民主主義と平和を実現していくための市民社会の担い手としての側面が重視されてきました。しかし今日、さまざまな施策でボランティアが位置づけられるなかで、「ボランティア活動の義務化」や「県民総ボランティア構想」といった動き、国民保護計画での武力攻撃事態等における位置づけ、軽犯罪者等への社会奉仕命令、介護分野でのボランティア活動のポイント制度の導入などが議論されています。ボランティアが浸透してきたことと同時に、ボランティアが安易に国家や制度のなかに組み込まれています(『ボランティア情報』VOL.426、全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター、2012年11月)。
原田先生の、「ボランティアが浸透してきたことと同時に、ボランティアが安易に国家や制度のなかに組み込まれています」という指摘には、筆者(阪野)も認識を同じにするとともに、そうした状況に「危機感」さえ覚えます。
ここでは、「国民保護計画での武力攻撃事態等におけるボランティアの位置づけ」に関して、いま一度、若干の資料提示をしておきたいと思います。
まず、2003〈平成15〉年6月にいわゆる有事関連3法(武力攻撃事態対処法、自衛隊法一部改正法、安全保障会議設置法一部改正法)が成立し、続いて2004〈平成16〉年6月に有事関連7法(国民保護法、米軍行動関連措置法、捕虜取扱い法、自衛隊法一部改正法、国際人道法違反処罰法、特定公共施設利用法、海上輸送規制法)が成立しました。これによって日本の有事法制は整備・確立され、日本国憲法(平和憲法)の歴史に一大画期を成すことになりました。こうした一連の有事法制は、「備えあれば憂いなし」(小泉純一郎首相)という観点に立って、国家の安全のために武力攻撃等の緊急事態に対処するためのものです。しかし、この有事法制について、国民への周知は不十分であり、国民の認識と関心も低いといわざるを得ません。
国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)は、有事関連3法のなかの武力攻撃事態対処法に関連する個別法として制定されたものです。それに基づいて、都道府県や市町村では既に「国民保護計画」が策定されています。国民保護法の第1条(「目的」)と第4条(「国民の協力等」)では次のように規定されています。
第一条 この法律は、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに武力攻撃の国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにすることの重要性にかんがみ、これらの事項に関し、国、地方公共団体等の責務、国民の協力、住民の避難に関する措置、避難住民等の救援に関する措置、武力攻撃災害への対処に関する措置その他の必要な事項を定めることにより、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号。以下「事態対処法」という。)と相まって、国全体として万全の態勢を整備し、もって武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に施することを目的とする。
第四条 国民は、この法律の規定により国民の保護のための措置の実施に関し協力を要請されたときは、必要な協力をするよう努めるものとする。
2 前項の協力は国民の自発的な意思にゆだねられるものであって、 その要請に当たって強制にわたることがあってはならない。
3 国及び地方公共団体は、自主防災組織(災害対策基本法(昭和三十六年法律第二百二十三号)第五条第二項の自主防災組織をいう。以下同じ。)及びボランティアにより行われる国民の保護のための措置に資するための自発的な活動に対し、必要な支援を行うよう努めなければならない。
いま、とりわけ問題にしたいのは、第4条第3項の「国及び地方公共団体は、自主防災組織(災害対策基本法(昭和三十六年法律第二百二十三号)第五条第二項の自主防災組織をいう。以下同じ。)及びボランティアにより行われる国民の保護のための措置に資するための自発的な活動に対し、必要な支援を行うよう努めなければならない。」という規定です。要するにこれは、「ボランティア」が国や地方自治体の権限や管理のもとで、「国民の保護」のために「協力」「動員」させられることを意味します。それは、ボランティア活動の基本的性格である自発性や主体性、自律性や協働性が無視され、平和と自由と民主主義に対する意識を空洞化させることを必然にします。
ここで、安倍晋三首相(第一次安倍内閣)によって2006〈平成18〉年12月に改正された現行の教育基本法第2条(「教育の目標」)の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言を思い起こしてみます。この条文に関しては、「教育憲法」とも呼ばれる教育基本法に「愛国心」が盛り込まれて愛国心教育が推進・強化され、戦前の国家主義・全体主義の基盤形成が図られていることを銘記しなければなりません。愛国心教育の強制は、個人の尊重(第13条)をはじめ、思想および良心(第19条)、信教(第20条)、表現(第21条)などの自由を保障した憲法に違反することは明白です。なお、憲法は国家権力を規制することによって国民の権利や自由を守るための法律(立憲主義)であり、憲法は国民が国家に、法律は国家が国民にそれぞれ守らせようとするものであることを確認しておきます。
筆者がいいたいことは、いま求められる「備え」は、恐怖感や不安感を前提にした有事体制や国民総動員体制をつくることではなく、巨大な国家権力と対峙し、有事政策に先行する平和政策とりわけ平和教育(それはすなわち市民福祉教育)の推進を図ることである、ということです。
そこで、以下に、「平和教育と福祉教育」に関する筆者の既発表の拙文に若干の加筆・修正を施したものを再掲しておきます(村上尚三郎・阪野貢・原田正樹編著『福祉教育論』北大路書房、1998年、22ページ)。
平和教育のねらいは、憲法と教育基本法の規定から、平和のうちに生存することを自覚的に追求し、平和のうちに生存する権利(「平和的生存権」)を行使する主体形成を図ることにある。そして、平和教育は、福祉教育と同様に、権利としての展開を必要不可欠とする。その際、平和は、戦争や紛争のない状態(「消極的平和」)を意味するにとどまらず、人権や福祉が保障された状態(「積極的平和」)をいう。
平和教育は、一般的に、「直接的平和教育」と「間接的平和教育」に大別される。前者は、戦争と平和に関する問題を直接的・意図的に取り上げる教育をいう。その内容は、広島平和教育研究所編集の『平和教育実践事典』(労働旬報社、1981年)によると、①戦争体験(「被害体験」「加害体験」「抵抗体験」)の継承、②戦争の科学的認識、③核時代の軍事状況についての理解、④平和を創造する行動力の育成、⑤国際連帯の精神の育成、などとなる。後者は、学習・文化・スポーツ活動や自然観察、動植物の飼育栽培などを通して人間(生命)の尊厳について教え、人権意識や仲間意識、そして豊かな人間的情操を育てる教育をいう。
平和教育は戦争と平和に関する問題を、福祉教育は地域の社会福祉問題をそれぞれ学習素材とする教育実践である。しかも、平和教育は、戦争の問題を中心的課題としながらも、貧困や飢餓をはじめ、社会構造的な不平等や不公正、差別や排除、それに自然環境や社会環境の破壊などの問題にも取り組む。また、平和教育と福祉教育は、その教育目標や方法論などにおいて共通するところが多い。たとえば、学校における平和教育と福祉教育はともに、学習素材についてのたんなる知的認識・理解にとどまらず、問題解決のための実践力を育成し、平和と福祉を創造する主体形成を図る。また、全教科・全領域での計画的・継続的かつ組織的な取り組みや、家庭・地域社会などとの連携・共働活動を必要不可欠とする。しかもともに、学校を越えた教育活動や運動へと発展させ、地域の平和活動・運動や福祉活動・運動などと結びつけることが求められる。
平和なくして福祉はなく、福祉なくして平和はない。平和教育と福祉教育(市民福祉教育)は表裏一体の関係にあるのである。