教育における権力と権威―いじめの次は体罰か―

学校教育現場で、“いじめの次は体罰か!”という問題が生じています。福祉の世界でも同じようなことがあり、福祉施設では、利用者が職員から身体的虐待を受けたというマスコミ報道がなされますが、実は職員が経営者から心理的虐待を受けている場合もあります。私は、主に知的障がい者を対象にしている障害福祉サービス事業所に勤めていましたが、昨年の12月末、経営者の「総合的な判断」「分かるでしょ」とやらで、一方的に退職を強いられました。客観的・合理的な理由のない不当解雇であり、解雇権の濫用による不法行為であると思っています。福祉や教育について発言されている先生の考えを聞かせて下さい。

このようなコメントをブログ読者からいただきました。まず、前段の教育現場での体罰の問題については、次のように考えます。
学校現場ではこれまで、1970年代から「校内暴力」、1980年代後半から「いじめ」、1990年代から「不登校」、1990年代後半から「学級崩壊」、等々の問題を抱えてきました。そして、今回、潜在化、常態化していた「体罰」の問題が明るみになりました。
周知のように、学校における体罰は学校教育法(第11条)で禁止されています。「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」というのがそれです。しかし、それ以前に、体罰は人権侵害の行為のなにものでもなく、人間としての尊厳や自尊心を傷つけることは必定です。体罰をめぐって「愛のムチ」という言葉が使われることもありますが、それは空虚で、欺瞞に満ちた単なる“美辞”に過ぎません。そもそも暴力(身体的暴力、精神的暴力)を伴う体罰に訴えなければ教育・指導ができないということは、教師の資質と能力が厳しく問われるとともに、教師自らが教育とその責任を放棄するものであると断ぜざるをえません。
ところで、教育や教師の世界においてはこれまで、「権力」と「権威」をめぐる問題が教育哲学などの分野・領域で議論されてきました。学校における教育や教師に、(教育的)権威が不必要であると考えることはできません。しかし、その権威は、選択権のない被支配や服従、排除などを強要・強制するだけの、狭く偏った権力の行使に堕落してしまう危険性があります。体罰は不当な、悪しき権力の行使である、ということについては多言を要しません。
「権力」と「権威」について、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)は次のように説明しています。「権力:他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。」。「権威(authority):①他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。②その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。」。ここではとりあえず、権力は人を強制する力(power)であり、権威はそれに服する人の承認に基づくものである。権力を正当化するのは権威である、ということを確認しておきます。
ところで、教育的人間関係(かかわり)について多面的に研究する教育学者に岡田敬司(京都大学)がいます。イギリスにおける教育哲学・道徳教育研究の第一人者にピーターズ(Peters, R.S.)がいます。ここで、「教育」「権力」「権威」をめぐって、二人の言説のごく一部を紹介しておきます。
まず、岡田は、教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。人は、一般的には他律的存在から自律的存在へと成長・発達するが、そのためには時期や状況に応じて他者によって権力的あるいは権威的に主導される教育としての他律教育が必要かつ重要となる。ここでいう権力は「非自発的な服従を引き出す力」、権威は「自発的な服従を引き出す力」を意味する、と説いています(岡田敬司『かかわりの教育学―教育役割くずし試論―』(増補版)ミネルヴァ書房、2006年、246ページ)。
次に、ピーターズによると、教育とは、「本質的にみて、社会の構成員を価値あると考えられる生活形態の中に手ほどきすることである」(338ページ)。学校の存在根拠(レーゾン・デートル)は、「共同社会が価値あると認めるものを伝達することにある」(339ページ)。教師は、「権威をもった人物である。教師は、共同社会のためにある仕事をなし、その間、学校の中で社会的統制を維持するために、権威の座(in authority)におかれている。それと同時に、共同社会の文化の伝達者として雇用されているため、その文化のある側面について権威者(an authority)でなければならない。さらにまた、教師は、彼が権威を及ぼしている子どもたちの行動と発達について、また、子どもたちを教える方法について、ある程度まで、専門家であることが期待されている」(343~344ページ)。ここでいう「権威の座にあること」(being in authority)は、身体的・心理的強制や制裁、報償などによって「ある個人が他者を自己の意志に従わせるやり方」をいう「権力」を行使することとは異なる。「権威者であること」(being an authority)は、一般的には、信頼することのできる専門的な知識や能力をもっていることである。そして、その際の「権威」は、「基本的には、それに従う人たちの側でそれを承認しているがゆえにその行為を規制することになる、非個人的な規範的秩序または価値体系に訴えることを意味している」(341~342ページ)、などと述べています。そして、ピーターズは、「子どもたちに対して権威の座にある人々は、結局において子ども自身に自己規制のスタイルを発達させることになるような一つの原型を提供しなければならない。教師の権威は、他の世代に対して権威なくして生きることを学ばせるために必要である」(378ページ)。それゆえにこそ、教師には権威の行使が公的に正当化(合理化)されるのである、としています。(Peters, R.S.(1966)“Ethics and Education” 三好信浩・塚崎智訳『現代教育の倫理―その基礎的分析―』黎明書房、1971年)。
なお、唐突感が拭いきれませんが、ここで、国内における最高で独立した権力(強制力)である「国家権力」(「統治権」「主権」)と教育との関わりについて一言述べておきます。上記の岡田がいうように、教育の基本的目標は自律的人間の育成にあります。それは、教育基本法(第1条)にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味します。すなわち、「人間の自律」イコール「人格の完成」ということです。また、西原博史(早稲田大学)は、「民主的に決定された国家意思であっても踏み込めない個人の領域」(29ページ)があり、それが「自分らしく生きていく権利」を意味する「基本的人権」(43ページ)である。「戦前の例を挙げるまでもなく、教育行政が組織的に国民に対するイデオロギー的教化に乗り出した時、子どもの思想・良心の自由はもろくも滅び去っていく。それを防ぐためにこそ、教育基本法があり、思想・良心の自由などの憲法で保障された基本的人権がある」(195ページ)、と述べています(西原博史『良心の自由と子どもたち』岩波書店、2006年)。西原の言説を通して、要するに筆者(阪野)がいいたいのは、たとえ民意を反映した政権や選挙で選ばれた地方自治体の首長であっても、教育に対する政治介入は許されない、ということです。

次に、ブログ読者がいう「退職の強要」に関しては、次のように考えます。
組織は、ある意思決定を行い、その決定にしたがって事業・活動の推進を図ります。その際には権力が必要となります。組織がその目標の達成をめざして機能するためには、意思決定や事業・活動の推進に際して、権力の存在は不可欠です。またその際、権力が拡大・強化することは否定できませんが、だからこそ組織における権力とリーダーシップ、それにメンバーシップのあり方が厳しく問われることになります。
経営者は、個々の職員が「ソーシャルワークの知識、技術の専門性と倫理性の維持、向上が専門職の責務である」(日本社会福祉士会「社会福祉士の倫理綱領」2005年6月採択)ことを認識し、福祉専門職としての良心と良識に従う自律的な実践活動を展開する限り、その権力を実践活動にまで及ぼしてはなりません。権力的地位にある経営者の個人的独断や偏見によって何かが強要・強制されることは、厳しく排除されるべきです。権力の魅力にとりつかれた経営者は、さらなる権力を求める腐敗傾向をもつといわれます。そのような経営者のいる組織、言い換えれば権力をめぐって職員間の真の合意形成やチェック・アンド・バランスの実質化が図られない組織、そうした組織の改善・改革・革新を図るための正義と勇気、知識と能力などをもちあわせた職員がいない組織は早晩、モラルハザード(倫理の欠如)を招き、内部崩壊することになるでしょう。
最後に一言。福祉教育とりわけ学校福祉教育は、これまで、地域の「社会福祉問題」、それも高齢者や障がい者などの、しかもある意味では限定的な「福祉」問題を学習素材化する傾向があったがゆえに、学校内のいじめや不登校、そして今回のような体罰などの問題(教育福祉問題)については、十分に教材化、対象化してきたとはいえません。また、ホームレスや外国籍住民、精神障がい者、貧困・低所得者、一人暮らし高齢者などの「社会的排除や摩擦」「社会的孤立や孤独」をめぐる生活問題や福祉課題の実態をしっかりと見据えてきたかというと、これもまた消極的評価を下さざるを得ません。今後、学校福祉教育の推進を図るに際しては、地域に軸足を置くとともに、学校や教室にもしっかりと軸足を置くことが求められます。
いまひとつ。「退職の強要」に関しては、福祉サービスの利用者のみならず、福祉事業者(経営者)や職員に対する「福祉教育」が必要かつ重要であり、その教育の内容や方法についての検討がいま強く求められていることを指摘しておきます。