『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」

筆者(阪野)は、自治基本条例の制定に関して、松下圭一の著作を複数冊読み返す機会を持った。その際、手元にあった『社会教育の終焉』(筑摩書房、1986年)、『同書(新版)』(公人の友社、2003年)を併せて再読してみた。以下は、その読後感の一部といったようなものである。ちなみに、松下は、「シビル・ミニマム」(自治体の政策公準)や「官僚内閣制」(官僚が内閣の政策に強い影響力を及ぼしている状態)の造語でも著名な政治学者である。
松下の社会教育終焉論の問題意識は、「なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか」。「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない、道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」(『社会教育の終焉(新版)』3ページ)というところにある。要するに、そこには、政府ないし行政の「社会教育」への介入と、それによる「上から」の思想統制(「国家統治・国民教化」)、「教育という名の『生涯管理』」(118ページ)への嫌悪感がにじみ出ている、といってよい。
松下にあっては、「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育」を意味する。「今日の日本ではこれは高等学校水準」(3ページ)である。教育という言葉は、「未成年への〈基礎教育〉、あるいは未成年・成年を問わず特定社会の文化水準の習熟に不可欠な〈基礎教育〉のみに、限定すべき」(86ページ)ものである。そして、農村型社会を経て都市型社会の成立をみるにいたった今日、日本の国民は、「政治主体たる市民として『成熟』しつつある」。社会教育行政やその理論は、「国民の市民としての未熟を前提としてのみ、成立しうる」が、その前提はすでに破綻している。もはや、成熟した市民は、政府や行政によって「オシエ・ソダテ」られる対象ではありえない(4ページ)。
こうした松下の主張に異論をはさむとすれば、松下は、教育を直截的に「オシエ・ソダテル」営みに限定する。そもそも、教育は、一方的に「教え育てる」だけの営みではない。環境醸成や条件整備による間接的な教育もある。また、教育は文化同化のみならず、文化批判や文化創造のための営みでもある。今日、グローバル化時代に求められる高等教育システムのあり方が厳しく問われている。都市型社会の成立は、確かに生活・文化水準の向上や都市的利便性の享受を促したが、生活や教育の私事化や人間関係の希薄化などをもたらした。都市型社会の形成という歴史的かつ外的な要因によってのみ市民の成熟化が促されるのでもなく、また現代社会における成人はそのすべてが「成熟した市民」であるとはいいがたい。しかも、「成熟」は、完成やゴールを意味するものではなく、漸進的で、多様なプロセスを経て促されるが、成熟が「衰退」を意味することもある。したがって、成熟は「再構築」の過程として捉えることもできる。このように考えるとき、松下の言説には、「都市型社会」や「市民」に対する積極的な評価や過度の信頼がある。すなわち、そこには批判的視点や分析が欠けている。それゆえに、松下が想定する「教育」は一方的・限定的であり、「都市型社会」はプラス面の強調にあり、「市民」は一面的あるいは表面的である。その結果、その言説はユートピア的かつ理念的であり、偏狭で乱暴な立論にとどまっている、といわざるを得ない。
ところで、社会教育は、「自己教育」「相互教育」を本質とし、その実践が展開される代表的施設のひとつは公民館である。この点をめぐって松下は、次のように説いている。
「社会教育行政は、市民の『自己教育』『相互教育』といいながら、歴史的には、実質的に教化手段に堕していた」(136ページ)。「成人市民の自己教育・相互教育はむしろ『教育なき学習』というべきである」。「そこには、市民の自由な『学習』があるだけ」(5ページ)である。市民の「教育なき学習」すなわち「自由な学習」とは、「市民みずからによる〈模索・たのしみ・創造〉における模索過程」である。それを「市民文化活動」と呼べばよい。その「市民文化活動とくに模索における内部契機として、学習は位置づけられる」(89ページ)。すなわち、市民の自由な「学習」は、「〈市民文化活動〉の「模索」の一契機にとどまる。学習は自己目的たりえないのである」(5ページ)。
松下は続けていう。成熟した市民を「オシエ・ソダテル」教育ないし社会教育は、今日、もはや不要である。「『教育機関』たる公民館では、市民は社会教育行政職員によって準備された学習という『給付』をうけるたんなる受益者にとどまりがちになる」(44ページ)。しかし、市民の、生活から政治までの学習をふくめた「文化活動が『多様化・高度化』し、また市民の文化水準が行政の施策水準をこえてきた」(162ページ)今日、成熟した市民の活力を、社会教育行政のいう職員による「指導・援助」や「運営・管理」の公民館にとじこめることはもはやできない(59、60ページ)。ここに、職員をおかない市民管理・市民運営の、「貸部屋」ないし「たまり場」(29ページ)としての「集会施設」「地域センター」がうかびあがってくる。「それはコミュニティ・センターとよばれるかもしれない」(60ページ)。
以上の言説に関してはまず、「社会教育の終焉」の論拠のひとつである「市民の文化水準」の上昇について、それを判断する尺度や方法をどのように考えるのか。しかも、文化水準の高い、教養ある人が、必ずしも民主主義の精神や態度が形成されており、人権意識も高いとは限らない、といいたい。
公民館不要論については、例えば、小熊里実の次の指摘(「公民館論と公民館不要論の論理的つながり―公民館研究者はなぜ公民館不要論に反論しなかったのか―」『教育学雑誌』第44号、日本大学教育学会、2009年、117~130ページ)に留意しておきたい。「公民館論」と「公民館不要論」は、どちらも住民―行政間の対立軸を前提としている。両者の違いは、地域社会の民主的発展の進捗状況をどう捉えるかという点にあり、公民館論では「未だ達成せず」、公民館不要論では「成熟した」と捉えているという違いである(127ページ)。「少なくとも権力対住民という対立図式に基づく住民・行政間の関係を前提とする論理は、時代状況を考慮すれば明らかに採用できない。むしろ、両者の緊張関係は認めながらも両者の関係をより対等(・協力:阪野)なものとしてとらえる『協働』という観点からとらえ直す必要がある」。そして、「地域社会の各構成員による協治(ガバナンス:阪野)を念頭に置き、(中略)現代的な意味での『民主主義の学校』としての役割を公民館に付与していく必要がある」(129ページ)。すなわちこれである。そして、ここで、公民館の職員と地域住民(学習者、利用者)が一体になって豊かな学習活動や地域活動を計画的・継続的に展開する公民館活動が、全国のあちこちに蓄積されていることを思い起こしておきたい。なお、松下は、「協働」について、「今日、市民主権に反して、市民と行政とのナレアイになりがちな流行の考え方による『協働』という言葉をもちいて、市民文化活動と社会教育行政との協働を論ずることはマチガイである」(「新版付記」250ページ)と断じている。「協働」という名の行政の「下請け」化や「補完」化は「マチガイ」であることはいうまでもない。
また、松下は、「市民教育」についても言及する。「市民が、社会教育行政を終らせてゆけばゆくほどそれに反比例して、市民自治による市民文化の形成となっていく」(214ページ)。「社会教育行政は今日では市民文化の形成の阻害要因といわざるをえない」。「市民文化活動をめぐっては、行政は市民自治を基体としてミニマムの条件整備をするだけでよいのである」(213ページ)。「もし、『市民教育』がなりたつとしても、この市民教育も教育であるかぎり、成人にたいしてではなく、未成年にたいしてのみである。この意味では、学校に『道徳教育』にかわる『市民教育』の導入を訴えたい」(214ページ)。未成年に対する(学校における)「市民教育の基本」は「学校ですでにおこなわれているいわゆる『課外』の自治会、サークル、行事への参加の活性化」(215ページ)である。
「成人市民には、『市民教育』ではなく、現実の『市民参加』になる。市民参加には市民文化活動そのものが基盤となるとともに、これにくわえて自治体ことに基礎自治体としての市町村を中心に、(1) 市民行政=ボランティア・コミュニティ活動の展開。(2) 市民立案=政策ないし計画への批判・参画。(3) 市民決定=選挙ないし政党の選択。という参加が不可欠である。この過程で、市民はそれこそみずから教育なき『学習』つまり模索をふまえて、たのしみながら、創造をするのである」(215ページ)。
「市民自治」「市民教育」「市民参加」をめぐる以上の主張は、かなり楽観的なものである。学校における市民教育を適切かつ十全なものにするためには、「課外」活動としてのそれだけではなく、全教科・全領域における「教育」が基本となる。成人市民の全てが主体的・自律的に市民文化活動や市民参加をすすめるとは限らない。参加の過程を通して「学習」することはあるが、活動へのひとつの参加条件として、成人市民に上記の(1) (2) (3)の「市民参加」を促す契機や営みは依然として必要である。そのためのひとつに社会教育(その一環としての市民福祉教育)があることは排除できない。高度化・複雑化した都市型社会の地域における課題の解決と魅力の伸長、すなわち「地域づくり」の推進を図るためには、いわゆる「一般市民」だけでなく、むしろ専門的な知識や技術・技能を備えた「市民エリート」(坂本治也『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』有斐閣、2010年、136ページ)を必要とする。そこには主体形成としての「教育」は欠かせない。市民参加や市民活動が活発化したとはいえ、なかには「動員」や「下請け」といった擬似的な主体性や公共性の問題が存在する。それを回避するためには「教育」(「学習」)が必要となる。「教育」と「学習」の関係については、「教育は学習の指導である」。「学習のないところに教育はない」(勝田守一『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150ページ)、といえる。

付記
本稿のタイトルをあえて「『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」」としたのは、福祉と教育を取り巻く今日的状況と、福祉教育実践・研究の問題点や課題、あるいは限界などについての筆者(阪野)なりの認識のもとに、福祉教育の終焉論や不要論、あるいは代替論などが提起された場合、それに如何に対応し得るか、反論の視点や論拠をどこに見出し得るか、といった想いを表示したものでもある。「地域福祉は福祉教育ではじまり福祉教育でおわる」(全国社会福祉協議会、2012年)といわれる。また、全国社会福祉協議会は、「社協がやらねばだれがやる」(2006年)、「住民主体による地域福祉の推進のための『大人の学び』」(2010年)と訴える。社会福祉協議会は地域福祉推進の中核的な組織・団体として、十全にとはいわないまでも、本当に、福祉教育の機能を果たし、役割を担うことができるのであろうか。松下圭一は、公民館は不要であり、市民が自由に活動できる場としてのコミュニティ・センターがあればよいという。本稿のタイトルが含意するところをくみ取っていただきたい。