『ふくしと教育』第15号(大学図書出版、2013年8月)が届いた。「特集」は、2012年10月13日にご逝去(享年83)された「木谷宜弘先生を偲びながら」の玉稿で編集されている。「福祉教育とボランティア活動の源流を探る」が特集タイトルである。
私事に及ぶが、筆者(阪野)が木谷先生から直接的にご懇篤なるご指導と格別のご支援を受けるのは、1982年9月、全社協に新たに設けられた「福祉教育研究委員会」(第2次大橋謙策委員会)の末席を汚してからのことになる。30年も前のことである。爾来、筆者は折に触れ、木谷先生が“ボランティアの父”であり、“福祉教育の先達”であることを痛感してきた。これは筆者だけではあるまい。その認識は、今回の特集原稿によってさらに強められた。
木谷先生の「哲学」「思想」「理念」と「信念」、そして「理論」や「実践」は、実に広く、深く、そして穏やかさのなかに力強さを秘めている。「相互実現」等の用語(ターム)、「ボランティアは自由であるから楽しい。」等の語録、「共生から共創の里づくり」等の取り組み、そして「福祉と、そのとなり」(『福祉と、そのとなり:随想』ボランティア研究所、2008年)等のいいまわし(表現)。これらは「木谷イズム」そのものである。それを再考・追考し、継承するのは勿論のこと、さらに発展させる責務をわれわれは担っている。
ところで、筆者の手元に、「徳島県における福祉教育とボランティア実践の歴史と特性」と題する、A4判、2枚半の原稿がある。筆者が、2007年10月、徳島県社協に木谷先生らを訪ねた際に、先生から直接拝受した「草稿」(木谷先生のことば)である。タイトル末尾の「と特性」は朱書きで加筆されており、名前「木谷」が自筆で記されている。
木谷イズムの再考・追考、そして継承と発展の一助になるのではないかという想いから、以下にその全文を紹介することにする。
徳島県における福祉教育とボランティア実践の歴史と特性― 木谷―
昭和7年 徳島県童話研究会発足
昭和32年徳島県児童文化研究会と改称、児童文学部、口演童話部、視聴覚部、子供会育成部(子ども会育成みつばちクラブの母体となる)
資料:「徳島児童文化」1号~6号 昭和32年10月~34年9月 徳島県児童文化研究会発行
昭和21年 徳島県子供民生委員会から子ども会連合会へ
地域子供民生会を基盤とし、県、郡市、学校、それぞれの単位において、組織的活動が展開されていた。昭和32年PTA活動が普及するにつれて、地域子供民生会は PTA子ども会に吸収された。
資料:「こどもとともに」昭和32年7月 徳島県教育委員会社会教育課・徳島県PTA連合会編
昭和22年の半田町子ども会と昭和28年にできた里浦こども会は突出していた。 徳島県社会福祉協議会は、昭和34年第1回徳島県地域子ども会連絡会議開催し、 県下の子ども会の結集をはかった。
さらに、強化策として昭和37年徳島県子ども会育成みつばちクラブを結成し、それが連合会結成の基盤となった。
資料:「みつばち運動と子ども会」昭和38年4月 徳島県社会福祉協議会発行
昭和43年徳島県子ども会連合会結成
昭和32年 心の里親運動
1957年10月の里親開拓月間行事の一環として徳島県社会福祉協議会では「心の里親」(精神里親制度)を開始した。この心の里親は養護施設で生活している 孤児たちとの交流をはじめとする「あしながおじさん」のことで、里親ボランティアは新聞紙上で募集し、初年度は50名からスタート、20年後には200名余に進展した。この心の里親制度は北海道札幌市に伝播し、大きく開花した。
昭和33年 「明るい茶の間運動」と遊び場づくり
福祉をお茶の間の話題にしたい。その願いから「明るい茶の間運動」を展開。その手始めに、小学生から、「僕たち、私たちの願い」をテーマとした作文を募集した。その中に「遊び場」への要望が一番多かった。そこで、市民の手による「遊び場づくり」を提案、その結果、県下各地において「遊び場をつくる運動」が展開された。山間地の母親たちが造った野球場、青年団や老人クラブが労働奉仕で造った遊び場、民生児童委員が町会の協力で街中に造った遊び場など成果は上がった。遊び場づくりから子ども会の育成さらに子どもの家の建設へと発展した地域活動も現れた。
昭和33年 生涯学習をめざした老人大学の創設
全国最初の老人大学が鳴門市に誕生した。この老人大学は瞬く間に徳島全県の市町村 に広がっただけでなく、その萌芽は全国へと拡大した。徳島の老人大学の特質は、老人クラブ によって運営され、学習から地域実践へと連動させるという生涯学習をめざすところにあった。 徳島県老人クラブ連合会の活動は目覚しく「老人の手作り作品展示会」「老人芸能大会」「老友新聞の発行」と全国老人クラブの牽引車のような働きを示した。
昭和33年 徳島県児童文化研究会のはたらき
日本のアンデルセンと呼ばれる久留島武彦は口演童話による児童文化活動を全国に 広げた。徳島県もその影響を受けて、昭和7年、徳島県立図書館に徳島県童話研究会を 設立した。昭和33年、その組織を発展的に改組し、徳島県児童文化研究会として、 児童文学、人形劇、子ども会育成など幅広い児童文化の普及に貢献した。本組織は子ども会育成みつばちクラブ育成の母体となった。
昭和34年 「青年ボランティアの集い」の開催と実践
まだ「ボランティア」という言葉は市民権を得ていなかった。そこで、まず若者たちの時代感覚に訴えようと青年団へ呼びかけ、大麻神社の社務所の協力を得て、一泊研修を開いて、ボランティアの重要性を訴えた。その結果、遊び場づくりや少年野球の指導,小児マヒ予防運動や小児マヒ児童の臨海キャンプの開催、バラック住宅密集地における子どもを守る運動など青年たちによるボランティア実践が県下各地に浮上した。
昭和34年 保健福祉地区育成推進地区のモデル指定と地域活動
全国保健福祉地区育成協議会(育成協)が発足、本県では推進モデル地区となった大麻町と小松島市和田島地区が先陣を切って地域組織活動を推進した。両地区の「健康で明るい町づくりの地域実践」は全国の「実践事例集」に収録発表されるなど、大きな成果を挙げた。その実践の中には福祉教育やボランティア実践の先駆的住民活動の姿が見られる。
昭和34年 実業奉仕団によるボランティア活動の萌芽
本県の地域活動の活発化は、実業奉仕団体並びに企業組織の社会貢献活動に大きな影響を与えた。ロータリークラブは児童施設出身者の里帰り懇談会の開催、ライオンズクラブは心の里親への参加とその組織発展支援、青年会議所は離島や山間僻地の健康診断協力、菓子製造会社組合による「お菓子まつりキャラバン」(「こどもの日」「老人の日」のPR活動と児童施設や老人ホームへのお菓子寄贈運動)など多彩な活動が起きた。
昭和37年 善意銀行の発足
本県におけるボランティア活動の広がりを背景として、善意銀行の創設機運が盛り上がり、県社協は昭和36年に善意銀行構想を発表,翌37年、善意銀行小松島市支店を開設した。38年には全国450ヶ所に設置され、昭和52年今日に見られるボランティア センター網が完成した。
平成12年 「第9回全国ボランティアフェスティバルとくしま」を契機に子供民生委員活動が TIC運動として再生
全国大会を契機に児童の「藍・あい・愛運動」が3年間展開され、それを継承して十代世代による社会活動(「TIC運動」)が全県下に普及されている。阿波市の例にみられるように、TICの企画運営による「こどもフェスタ」の開催も新しい動きである。
さらに、上勝町ではTICによる山・海・街の三者による共創・対流プログラムの開催が予定されるなど、 TIC運動は全国への普及が期待されている。
以上から、福祉教育の言説に関していえば、木谷先生のそれは、子ども会や児童文化から始まり、老人クラブや生涯学習、そしてまちづくりにまで至る。しかも、狭義の「福祉」にとどまらず、「そのとなり」すなわち子ども・青年から高齢者や障がい者などを含めたすべての人間個々人の生命(生きる力)と生活(暮らし)、そして人生(生涯)を見据えた大きな広がりをもつものである。そのひとつの背景や基盤は、、四国徳島ならではの遍路に対するお接待の風習や文化にある、といえようか。そしてまた、子供民生委員制度を創案した平岡国市との間に何か一脈相通じるものがあると感じるのは、筆者だけであろうか。