よんださんの子―「偏見」や「差別」の現実を軽視した「共生」と「福祉教育」への想い―

「よんださんの子」
私が言われてきたことばである。地域の大人から、ことあるごとに言われてきた。
私には2歳うえの兄がいる。彼は、小学校の成績はいつもトップクラスだった。
その小学校では、学期ごとに、「級長」という名のクラスの代表が生徒の選挙によって選ばれた。彼はいつも1学期の級長を務めた。級長になると、それを記す胸章と腕章をつけて自慢げに登下校した。
その様子をみて、何よりも誇りに思ったのは、家のことについて何も知らされず、若くして嫁いできた母であったろう。
兄はまた、児童会の会長も務め、運動会の入場式では全校生徒の先頭を意気揚々と、国旗を持って行進した。また、学芸会の開会式では、大勢の父兄に向かって挨拶もした。
親にとっては自慢の長男であった。か細いながらも、はっきりとものを言う子どもであった。それ故に、親は大いに期待をし、また当然のことながら彼を溺愛した。
「あそこの兄ちゃんは、いつも級長になるなあ。児童会の会長だって。そりゃそうさ。あの母さんは教育熱心で、学校の先生に砂糖一斤、付け届けしているんだから――」。根も葉もないことがその都度、近所では囁かれていたと言う。
当時、家は、赤貧洗うが如し、の状態に近かった。親は、夜遅くまで月灯りの下で野良仕事をし、狭い土間で夜なべ仕事をしていた。それなりの人で賑わう地元の秋祭りの日は、家のカレンダーにはなかった。冬になると、親の手はひびとあかぎれで覆われ、思わず目をそむけたくなるほどであった。
そんな暮らしのなかで、付け届けができる余裕などあるはずもなかった。
親は、兄のために、近くにある大学の学生を無償で、8畳ほどの離れに下宿させ、勉強をみてもらうことにした。熱心な家庭教師であった。私には、ほとんどその機会や場は与えられなかった。
父は明治生まれ、母は大正生まれの百姓である。また、「父兄」を重んじる土地柄であり、時代でもあったといえば、それまでのことである。
いつごろからか、私は吃り始めた。それからというもの、私にとって学校は、あたかも拷問を受けるかのような場と化した。とりわけ国語の時間は、拷問のそのときであった。拷問の器具は国語の教科書一冊。しかも文章のひとつの段落であった。それで事足りた。
起立して朗読する順番が回ってくるとき、私の心臓は破裂しそうになった。朗読はわずか数分のものであったろうが、私には長い時間に思えてならなかった。その間は、教室に笑いの渦が広がった。教師もその渦のなかにつつまれ、ひとこともなく教卓のそばに立つだけだった。
数時間の拷問を受けたあと、汗だくになって着席しても、胸の鼓動はおさまらなかった。それは下校する時間になるころまで続いた。
こうした拷問は、小学校、中学校、そして高校まで続いた。教師の薄ら笑いとともに、である。
「今日は国語の時間がない」という日は、気弱な子どもではあったが、それなりに学校は楽しいものでもあった。
病気のとき以外、学校を休むことは許されなかった。それは母の強い想いであったろう。そこに、屋号でもない、特別の名称で呼ばれる家の「嫁さん」として、どんな想いがあったかどうかは、私は知らない。
兄と私は、ある高校への入学をめざして、私立の中学校に通った。そのための学費を親がどのように工面したのか、これも私は知らない。ただ、当時、学生服が木綿から合成繊維に代わる時代であったが、兄はクラスでただ一人、3年間、安い木綿の制服を着て通した。
兄のあとを追うように、私も同じ高校に入学した。
その高校に通う電車の途中駅から、学校帰りの知的障がいの子どもたちが乗り込んでくることがしばしばあった。彼らの言動には不可解なところもあった。大学進学を考え始めた3年生になりたてのころからだろうか。その言動や彼らが通う学校のことが気にかかるようになっていた。
彼らのことが不思議に思えたのである。別世界のことのようでもあり、何よりも楽しげであった。
そこで、私は、親の反対を押し切って、「福祉」と「教育」を学べる東京の大学を受験し、入学することになった。父と私の間には、幾度となく「勘当」ということばが激しく行き交った。
そのせいでもなかろうが、「お宅の次男はどこの大学にいったのかねー」という知人の問いに対して、父の応えはいつも決まっていた。「東京『の』大学だ」。「の」の字が必ず入っていた。
親にとっては、また私にとっても、「知的障がい」や「福祉」は分からないものであり、未知の世界であった。
ただ、私は、小学校以来の拷問からいっときも早く逃れたい。私のことを誰も知らないところに、また私に優しく接してくれるであろう福祉という世界に身を隠したい。その一念であった。それはまた、言うまでもなく、人一倍の劣等感によるものであった。
大学生活の4年間は、私にとっては実に楽しいものであった。学費を稼ぐための、1年365日のアルバイトも楽しかった。バイト先では、ろくに仕事もせずに、バイト代の賃上げ要求の先頭に立った。70年安保を前に、学生運動が激しさを増すときである。
仕事を終えて、東中野の四畳半の下宿に帰り着くのは、いつも夜中の11時ころだった。それから、閉店間際の銭湯の熱い湯に身を沈めた。至福のひとときであった。
大学の授業が休講になったときなどは、歌舞伎町の映画館にも通った。アンパンを食べながら、3本立ての映画を観て、バイト先に急いだこともあった。
「福祉」の「ふ」も分からない私は、その後敬愛の念を深め、強く影響を受けることになる教授たちの講義を聴いた。2年生のころからか、ほんの少しずつではあったが、福祉や世間とやらについて解かり始めてきた。いや、解ろうと努めるようになった。
そこには、大学の数少ない友達だけではなく、社会の底辺に澱みながらも、必死に生きようとする人たちやその暮らしとの邂逅があった。
私にとっては拷問の場でしかなかった学校、それも大学という学校で、学ぶことの意味や楽しさを味わうことができたのが、何よりであった。
大学の図書館に通い詰めるようになったのも、そのころからである。ときには国立国会図書館まで足を運んだ。新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂へも歩いて通った。神田の古本屋めぐりも好きだった。
図書館や本屋への帰りに、その近くの喫茶店で飲む安いコーヒーは、足の疲れを取ってくれた。心の乱れを静めてくれた。格別の癒しであった。
こうした東京での生活が、私を大きく変えた。そのひとつは、何故か、吃音から解放され、話すことが自由になった。また、あれほど激しく嫌ってきた学校や教員に、多少なりとも興味を持つようになった。
そしてまた、得体のしれない権力や圧力に対しては、多少なりとも、ときには厳しくそれに対峙する心情を持つようにもなった。あの気弱な、強い無力感と劣等感にさいなまれていた私は、その影を潜めることになっていった。
その後、私は、大学紛争で卒業式もないまま、田舎教師になった。
教員時代の生活はまた、結婚をはさんで、波瀾万丈そのものでもあった。東京に戻っての結婚生活は、四畳半の安アパートで、底辺から這い上がることから始まった。しかし、ほどなくして、幸運にも私は二人の恩師に出会い、懇篤な指導を受けるようになった。それは、その後の私の教育のみならず、人生そのものを決定づけることになった。30歳前後のころである。
勤務した学校は私立ばかりで、3校変わった。3校とも、多くの教職員に惜しまれて辞めることはなかった。その理由のひとつは、権力に対峙した結果である。ただ、再び田舎に舞い戻って勤めた3校目の学校では、多くの卒業生が定年退職を祝ってくれた。それは教師冥利につきるものであった。
いま、私は、40年余の教員生活を終え、晴耕雨読の暮らし方ではない、第二の人生の過ごし方を模索している。
妻は、「あなたは人の3倍は働いたわね」と言う。それは、必ずしも褒め言葉でないことは承知している。たとえ人の3倍働いたとしても、それは貧乏が怖かったからに他ならない。
妻は言う。「あなたは文句ばかり言ってきたわね」。それは断じて違う。身勝手な権力者に対するささやかな抵抗であったのである。ただ、その抵抗は徒労に帰すことが大抵であった。また、権力者にすり寄る人に対しては、ときに冷ややかな目で見ることがあった。それは、私の悪賢い偽善者の目であったかも知れない。
そして、いま何故か、晴耕雨読を良しとしないとは言うものの、島崎藤村の文学の世界をまた彷徨っている。今日、『破戒』を読み終えた。
主人公の瀬川丑松と、何故か猪子蓮太郎の名前は、うっすらとではあったが覚えていた。

「四足(しそく)? 穢多のことを四足と言うかねえ」
「言わあね。四足と言って解らなければ、『よつあし』と言ったら解るだろう」
「むむ――『よつあし』か」

「よんださんの子」それは「四ださんの子」のことである。私はそう思っている。
いまになっては、それが「わたし」の豊かな人生を創ったとも思える。

初めて、遠くにお住いのN氏から、以上のようなメール(散文)が届きました。余計なことばやコメントは一切要らないようです。
ただ、これまでの「福祉教育」は、「同和教育」や「特殊教育」と真正面から向き合ってきたか。同和教育や特殊教育の本質やあり方を厳しく追求してきたか。そう問えば、「否」といわざるを得ないことを痛感します。
今日、同和教育は「人権教育」、特殊教育は「特別支援教育」へとその名称を変えています。しかし、人権教育の内実は、「差別の現実から学ぶ」という同和教育の理念を希薄化させ、「共に生きる」という美辞麗句のもとで、人権やその問題の一般化・抽象化を促すことになっていないか。特別支援教育のそれは、理念としてインクルージョンを指向しながらも、障害のある子どもたちに、その持てる力を発揮することを過大に求め、自己選択や自己責任に基づく「自立」を強制していないか。
さらに付け加えれば、福祉教育は、ICFの理念・モデルを重視した実践が広がってはいるが、「活動」や「参加」などの生活機能が可能になる仕組みづくりやまちづくりについて、十分に関心を払い、それに取り組んできたとはいえないのではないか。
こうした警鐘を鳴らす意見があることを、先ず真摯に受け止める必要がありそうです。また、唐突ですが、福祉的あるいは教育的ニーズの「個別性」や「多様性」ということばが、通常の、本来的な福祉や教育から一部の人たちを排除し、特定の領域に追いやり、階層化を生み出しているのではないか。これまた気にかかるところです。
「福祉教育は、福祉課題を教材として用い、年齢や教育する現場(小学校、中学校、高等学校、大学)や地域、職場などにおいて、それぞれの教育目的をもって体系的に実施するものです」。「福祉教育は福祉課題が素材であるだけに、カリキュラムとしてはより制度化しやすい体質をもっているということができます。しかし同時に知識や技術の伝達に陥りやすいことも意味します」(『NHK社会福祉セミナー』2013年12月)と述べられます。
その通りでしょう。しかし、こうした指摘だけでは、福祉教育の本質や、「教育」や「学校」をめぐる今日的な状況に鋭く切り込むには、“弱さ”や“危うさ”を感じざるを得ません。
いまこそ、いろいろな意味で、またさまざまな場面で、「寝た子を起こすな」ではなく、「寝た子を正しく起こす」。そのための「福祉教育」とそのあり方が厳しく問われている。それを深く問うことなくしては教育も学校も語れない。このように思うのは筆者(阪野)だけでしょうか。