おはようございます。今日は、豊田市ボランティア連絡協議会主催の第3回「ボラ連 交流サロン」にお招きいただき、誠にありがとうございます。先ずもって、各地域でボランティア活動に取り組んでおられる皆様方に心より敬意を表します。とともに、ボランティアは「まちづくりにどのように関わったらよいのか?」というテーマで意見交換する貴重な機会を頂戴したことについて、厚くお礼申し上げます。また、大変光栄に思っております。
私の役割は、第2部の「参加者による意見交換会」の“前座”として、「まちづくり・ボランティア・市民福祉教育」に関して日頃考えておりますことなどを少しお話させていただくことかと認識しております。意見交換のための何らかの素材をお示しすることができれば幸いです。
過日、会長のOOさんからご丁重な依頼状を頂戴いたしました。また、副会長のOOさんからは具体的なプログラムをいただきました。そのプログラムのなかで、「意見交換会」の趣旨について次のように記されております。「地域福祉活動計画の基本的な理念は、一人ひとりが地域で役割を持ちながら、自分らしく生きることができるまちを、支え合いによってつくること。そのためには、私たちボランティアの役割は大変大きいと思います。横の連携を築くことは、さらに大きな力になると考えます。さあ、どのように関わっていきましょう? すでに関わっている方は、お話し下さい。」、というのがそれです。
「地域福祉活動計画」につきましては、ご案内のように、豊田市社会福祉協議会が中心になって昨年の7月から、住民主体・住民参加の理念のもとに、計画策定の作業が進められております。そのなかでも、27中学校区で、累計で約60回の「住民懇談会」が開催されたことは、特筆されるのではないでしょうか。その懇談会では、各地域の住民の皆様が抱える生活課題を明らかにして、その具体的な解決策と各地区が今後めざすべき「支え合いのまちづくり」の方向性などについて話し合われました。また、その際、住民の、住民による、住民のための情報交換や相互学習、今日のテーマに引き付けていえば「福祉教育」の一環として懇談が行われたことも評価できるのではないでしょうか。
いまひとつ計画策定に関して注目されるのは、行政と社協が連携を図りながら、行政の「地域福祉計画」と社協の「地域福祉活動計画」を一体的に策定しているということかと思います。豊田市の行政上のキワードに“ともばたらき”の「共働」というのがありますが、今回の計画策定はまさに、行政と社協、住民相互の「共働」に基づくものであるといっていいのではないかと思います。
ところで、今回、この講演の依頼を受けた機会に、何年振りかで『社会とどうかかわるか』という山脇直司(やまわき なおし)という先生が書かれた「公共哲学」(public philosophy)についての本を読み返してみました。2008年11月に、岩波ジュニア新書の一冊として刊行されておりますので、ご一読いただければと思います。
山脇先生は、その本で、「社会とのかかわり方」には3つのパターンがある。「社会とのゆがんだかかわり方」は「滅私奉公」(めっしほうこう)と「滅公奉私」(めっこうほうし)というライフスタイルや価値観である。「社会との理想的なかかわり方」として推奨したいのは「活私開公」(かっしかいこう)というライフスタイルや社会観である、といっています。
今回私がお伝えし、またお願いしたいことのひとつは、今日お集まりの皆様方はすでに、地域住民として、ボランティアとして、またまちづくりのためのいろいろな地域・社会活動を通して「活私開公」の考え方やライフスタイルをお持ちである。山脇先生がその実現を図るべきであるという、「社会との理想的なかかわり方」をされている。そうした考え方に基づいて、引き続き「自分らしく生きることができるまち」づくりのためのボランティア活動を進めていただきたい、ということです。
多少堅苦しくなりますが、「滅私奉公」と「滅公奉私」、そして「活私開公」についての山脇先生の文章を紹介させていただきます。
「滅私奉公」は、自分も他者も、国や会社、規律やイデオロギーのために犠牲となることを強いられるような、「社会とのかかわり方」でした。そこでの人間関係は、一人ひとりの「私」を活かすようなものではなく、国家の命令、会社組織、学校の規律、党のイデオロギーなどによって支配されていました。(148ページ)
「滅公奉私」は、他者とのつながりを切断するか、あるいは、他者とのつながりに興味を示したとしても自己利益の追求の延長でしかないような「社会とのかかわり方」でした。滅公奉私を生きる人にとって、身内や友だちやお仲間以外の他者は、赤の他人にすぎません。このような「社会とのかかわり方」では、公共世界の重要な要素である福祉などの公共善をつくっていくことについては、きわめて消極的な姿勢しか生まれないでしょう。(149ページ)
活私開公という「社会とのかかわり方」においては、「一人ひとりの個性を活かすような」仕方で他者とコミュニケーションをし、平和、人権、福祉など、共有しあえる公共善の実現を願います。また、戦争、人権弾圧、貧困、差別、環境破壊などの公共悪や、地震、津波などの災禍の現状をできるだけ的確に認識し、その除去や救援のためになんらかの努力をします。(149~150ページ)
要するに、「滅私奉公」は、自分を犠牲にして、国や地域・社会のために尽くす精神を意味します。この考えや行動は、全体主義につながります。この考えやライフスタイルは、1930年代以降戦時体制が進むなかでのものですが、それは戦後日本においても形を変えて生き残っているのではないでしょうか。「滅公奉私」は、社会全体に関することつまり「公共」(public)のことを無視して、自分と身内や仲間の利益だけを追求する精神を意味します。この考えや行動は、利己主義を蔓延させることになります。そこでは、「公平」(equity)や「公正」(fairness)が失われます。「活私開公」は、一人ひとりの個人の生き方を尊重し、「私」(個性)を活かしながら、共に分かち合い、共に手を携えて豊かに生きる地域・社会を創る(「開花させる」)精神を意味します。この考えや行動は、社会福祉の原理のひとつであるノーマライゼーションや社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の思想につながります。それはまた、ボランティア活動の4原則ともいわれる(1)自発性・主体性、(2)社会性・連帯性、(3)無給性・無償性、(4)先駆性・開拓性に通じることにもなります。
いうまでもなく、「活私開公」という考え方やライフスタイルは、誰もが、自然に身につくものではありません。そこには教育や学習が必要になります。国や行政に対しては、一定の距離を保ち、ある種の緊張関係をもちながら、一人ひとりの住民が主体的・自律的・自治的に、いわば「下からの公共」「草の根からの公共」を創り上げて行くことが強く求められます。それこそが本当の、質の高い「公共」といえるのではないでしょうか。そこに求められるのは、「市民」(citizen)としての自覚と資質・能力を育てるための「市民性形成」、福祉に引き付けていえば今回の講演のひとつのテーマである「市民福祉教育」です。今回の「ボラ連 交流サロン」は「市民性教育」(citizenship education)や「市民福祉教育」の一環として開催されたのであろうと、私は思っているところです。
ボランティアは、市民「参加」やボランティア「派遣」という名の「動員」や、行政の「下請け」や「補完」を行うものではない。ボランティアは、主体的で自律的・自治的な、そして「草の根」(grass roots)の活動や運動である、ということに思いを致していただければ幸いです。
なお、蛇足ですが、「滅公奉私」という言葉は1980年に社会学者の日高六郎(ひだか ろくろう)が造った言葉であり、「活私開公」という言葉は山脇先生の友人である韓国人の金泰昌(キム テーチャン)という方の造語である、と山脇先生はおっしゃっています。
ご承知のように、まちづくりは国や行政の専売特許ではありません。まちづくりの担い手は、行政や社協をはじめ、自治会・町内会などの地域組織、NPOやボランティア団体、地域で営業活動を行う各種の事業者、そして何よりもそこで暮らしている一人ひとりの地域住民です。今日新たに持ってきました資料に、「活私開公」などについてのこれまでの話を含めて、「公共を支えるまちづくり主体の相関図」というのを載せています。次の「意見交換会」の参考にでもなれば幸いです。
取り急ぎ描いたこの図で注目してほしいことは、「公共」を「官」「公」「私」「民」の4つに分けて考えていること。その4つは相関関係、「共働」する関係にあること。そして、真に求められる「公共」は、行政主導・地方自治体優位の、「上から」の「公共」ではなく、主体的・自律的・自治的な住民による住民主導・住民優位の、「下から」の「公共」であること。そうした「公共」を創出し、その拡大・深化を図っていかなければならないということ、などです。今日お集まりの皆様方は、ボランティアとして、ボランティア活動を通して、その最前線で、そのための取り組みを自発的・主体的になされている、ということです。
それでは、これから本題に入ります。‥‥‥。
参考文献
(1)山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房、2004年5月。
(2)山脇直司『社会とどうかかわるか―公共哲学からのヒント―』岩波書店、2008年11月。
(3)山脇直司『公共哲学からの応答―3・11の衝撃の後で―』筑摩書房、2011年12月。
(4)塩野谷祐一・鈴村興太郎・後藤玲子編『福祉の公共哲学』東京大学出版会、2004年1月。
注
本稿は、2014年12月11日に開催された豊田市ボランティア連絡協議会の第3回「ボラ連 交流サロン」での講演(「まちづくり・ボランティア・市民福祉教育」)の最初の部分を纏めたものである。
付記
先日、初雪が降った。足元の悪いなか、私は夕方、愛犬の散歩に出かけた。その途中で、二人の子どもが庭先で雪だるまを作って遊んでいた。楽しげであった。もう一度その庭先を通ると、二人の子どもは、なにかわめきながら雪だるまの首をはねていた。思わず「かわいそうじゃない!」。子どもたちはきょとんとした。
その夜、私は夏目漱石の姦通小説『それから』を読み終えた。「ヘクター」という飼い犬の名前が懐かしかった。「仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄(ほのお)の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行(ゆ)こうと決心した。」最後の一節である。
12月10日午前零時、政府による恣意的な運用や国民の「知る権利」の侵害が懸念されている特定秘密保護法が施行された。「番犬」という言葉がふと、私の頭をよぎった。
そこには「歪み」と「怖さ」がある。そして「不安」と「怒り」を覚える。それは私だけではあるまい。