住民主導の「地域づくり」と「教育づくり」の可能性―資料紹介―

2015年3月、2013年7月からの検討・協議を踏まえて、「豊田市地域福祉計画・地域福祉活動計画」が策定・答申された。その計画策定は、地域福祉計画(行政計画)と地域福祉活動計画(民間計画)を一体的に策定したことや、社会福祉協議会による参加型の住民懇談会を福祉教育の視点から周到かつ丁寧に、累計で61回開催したことなどを特徴とする。計画内容に関しては、27中学校区で開催された懇談会での住民の意見や意向を、各地区ごとに見開き2ページに整理したことが特筆される。「地区の概況」、「地区の現状・課題(地区の自慢できるところ、地区の困りごと)」、「みんなでつくる将来のOO地区」(キャッチフレーズ)、「私たちにできること・していきたいこと」がその項目である。
策定委員会の末席を汚した筆者(阪野)は、住民参加のプログラムである住民懇談会に、福祉教育実践のひとつとして企画立案から実施まで積極的に関わった。とりわけ豊田市に編入合併した農山村地区での懇談会では、「地域づくり」に関する新たな気づきと深い学びを得ることができた。また、住民の地域(集落)に対する熱い思いや、農山村における「地域活性化」「地域再生」への力強さを痛感した。集落は「どっこい生きている」(後述の小田切)のである。
本稿は、住民懇談会への参加を機に併読した“農山村における地域づくり”に関する本(言説)の一部を紹介し、それに若干のコメントを付したものである。そのねらいは、農山村の現実を知り、地域づくりのあり方や可能性について考えることにある。

藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く―』KADOKAWA(角川oneテーマ21)、2013年7月
里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。
ここで注意すべきなのは、自己完結型の経済だからといって、排他的になることではない点だ。むしろ、「開かれた地域主義」こそ、里山資本主義なのである。(102ページ)

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。お金が乏しくなっても水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予(あらかじ)め用意しておこうという実践だ。(121ページ)

里山資本主義は、マネー資本主義の評価指標、たとえばGDPや経済成長率を、必ずしも大きくするものではない。それどころかまじめに追求していくと、これらの指標を縮小させる可能性もある。しかしそれは、「(自然や人間関係などの:筆者)簿外資産の活用による金銭換算できない活動が、見えないところで盛んになって、お金に換算できない幸せを増やす。ついでに、お金で回る経済システム全体の安定性も見えないところで高まっている」という話にほかならない。(122ページ)

本書は、里山の環境資源を活かした地域循環型の経済を再生し、金銭換算できない価値や真の「豊かな暮らし」を生み出す里山資本主義の実践事例の紹介を通して、その意義について説いている。それは、マネー資本主義に対して、「ささやかな異議を唱える」(308ページ)ものである。
里山資本主義とは、「身近に眠る資源を活(い)かし、お金もなるべく地域の中でまわして、地域を豊かにしようとする」(181ページ)“地産地消”の実践である。そこでは、地域(里山)における雇用の安定と経済の正・好循環、そして生活の向上などが期待される。それはまた、マネー資本主義のリスクや歪みに対処できる、あるいは補完する「バックアップシステム」や「究極の保険」、「最大で最後の対抗手段」(282~284ページ)でもある。その点において、里山資本主義は、マネー資本主義の対極に位置し、今日のグローバル経済とは違うベクトルを示しており、衆目の関心を引く造語であり言説であるといえる。
農山村は、多かれ少なかれ保守的特質を有し、閉鎖性や排他性を残している。そうした地域で里山資本主義の普及や活用を図るためには、地域の自然や歴史、文化などとのつながりをもちつつ、その実践や運動に取り組む高い意欲と能力を備えた“人”をいかに確保・育成するかが問われることになる。また、藻谷らの主張や議論の根拠となる「成功事例」の汎化性(generalization)や持続可能性(sustainability)をいかに確保するかも大きな課題である、といえよう。

増田寛也編著『地方消滅―東京一極集中が招く人口急減―』中央公論新社(中公新書)、2014年8月
推計によると、2010年から40年までの間に「20~39歳の女性人口」が5割以下に減少する市区町村数は、現在の推計に比べ大幅に増加し、896自治体、全体の49.8%にものぼる結果となった。実に自治体の約5割は、このままいくと将来急激な人口減少に遭遇するのである。本書では、これら896の自治体を「消滅可能性都市」とした。(29ページ)

東京圏をはじめとする大都市圏に日本全体の人口が吸い寄せられ、地方が消滅していくかのようである。その結果現れるのは、大都市圏という限られた地域に人々が凝集(ぎょうしゅう)し、高密度の中で生活している社会である。これを我々は「極点社会」と名づけた。(32ページ)

日本の人口減少には、人口の社会移動が大きく影響している。少子化対策の視点からも、地方から若者が大都市へ流出する「人の流れ」を変えることが必要なのである。
そのためには、地方において人口流出を食い止める「ダム機能」を構築し直さなければならない。同時に、いったん大都市に出た若者を地方に「呼び戻す、呼び込む」機能の強化も図る必要がある。地方の持続可能性は、「若者にとって魅力のある地域かどうか」にかかっているといえよう。すなわち、「若者に魅力のある地方中核都市」を軸とした「新たな集積構造」の構築が目指すべき基本方向となる。(47~48ページ)

地方における当面の人口減少は避けられない。この厳しい条件下で限られた地域資源の再配置や地域間の機能分担と連携を進めていくことが重要となる。このためには、「選択と集中」の考え方を徹底し、人口減少という現実に即して最も有効な対象に投資と施策を集中することが必要となる。(48ページ)

本書は、日本創成会議・人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也)が2014年5月に発表した「成長を続ける21世紀のために『ストップ少子化・地方元気戦略』」と題する報告を基に、雑誌『中央公論』(中央公論新社)に掲載された論文を加筆・整理し、また「対話」を所収して再構成したものである。
周知のように、『中央公論』2013年12月号にはじまる一連の論文・報告(いわゆる「増田レポート」)で、「極点社会」や「消滅可能性都市」という衝撃的な言葉が使われた。それがマスコミ等によってセンセーショナルに報道されたことも加わって、消滅すると予測された地方自治体のみならず、地元住民の不安や危機感を煽り、怒りをかい、諦め感さえも募らせている。
その言葉以上に注目されるべきは、地方中核都市に人口や「投資と施策」を集中させるという、「選択と集中」の論理である。それは、国の人口政策や地域政策、その底流に流れる経済成長戦略の論理であり、農山村や過疎地域の切り捨てに帰結する。言い換えれば、「東京一極集中」の地方分散化(「ミニ東京化」)であり、地方創生すなわち「地方切り捨て」を手段とした持続可能な経済成長の達成である。そこには、真の「地方元気戦略」に求められる、地方自治体における「住民主権と住民自治」の論理がない、といわざるを得ない。ここに、「増田レポート」の本質的な限界や欠陥を見出すことになる。地域の維持・再生は、そこに生活する住民自身が行政や政治家、専門家などと“共働”しながら、問題を認識・理解し、課題解決に取り組むことから始まる。強く留意すべきところである。

山下祐介『地方消滅の罠―「増田レポート」と人口減少社会の正体―』筑摩書房(ちくま新書)、2014年12月
「選択と集中」は、地方・地域を巻き込んで、日本をもっと大きな変革へと待ち込もうというもののようだ。それは、カネのためなら、この国がもっと豊かになるためなら、地道な地域づくりの努力などどうなったってかまわない、グローバルな競争の中でこの国が優位に立つためなら、地域など消し飛んでも仕方がない、いや場合によってはそのほうが好都合だ――そういう意識を含んでいるように見える。(85~86ページ)

「選択と集中」に対し、私たちは「多様性の共生」を対抗理念として掲げることができる。「選択」には「画一性」への要請が潜むがゆえに「多様性」が対置され、また「集中」は「分散」と対比されるが、多様性は単なる分散ではなく、より積極的な「共生」を含意する。
加えてまた、「選択と集中」は国民の「依存」を孕み、これに対して「多様性の共生」は「自立」を基調とする。また「依存」する者をすべて包摂できない以上、「選択と集中」は「依存してよい者」と「依存させない者」との差別を生み、それゆえ「排除」をもたらす。これに対し、「多様性の共生」は「支え合い(相互依存)」を基調とすることで、多様なものの「包摂」を目指すものである。(156ページ)

人口減少・地方衰退の悪循環を断ち切り、地方が自立し、人口維持へと向かう正循環に流れを押し戻せるような具体的な方法をはっきりと示す必要がある。
こうした正循環への転換を現実に予兆するものとして、「人口回帰」現象が持ち出されることが多い。
増田レポートの人口ダム論には、回帰をとらえる視角がない。これは重大な論理的欠陥なのである。
正循環の実現を正確にとらえるためにも、回帰現象は検証されなければならない。(最近の:筆者)回帰論への注目と主張には、十分に傾聴すべきものがあると考えねばならない。(191、196~197ページから抜き書き)

本書は、上記の「増田レポート」を鋭く批判する書であるが、「単なる批判書」(24ページ)にとどまるものではない。例えば、「選択と集中」の論理に対しては、「自立と自治」を対抗軸として位置づけ、「多様性の共生」の論理を展開する。そこでは、「選択と集中」の論理や提言の欺瞞性や危険性を丁寧に解き明かし、地域を維持・再生するための道筋を提示している。
山下にあっては、人口の減少・偏在や地域消滅の問題を解決するためには、先ずは下からの住民参加と共同(協同・協働)、究極的には「自治」の実現が不可欠となる。とともに、上(国や地方自治体)からも歩み寄って、国民や住民と協同するための態勢づくり(「上下の協働」)を進めることが必要となる(162、168ページ)。
そして、山下は、具体的に、「問題解決型モデル事業」の展開を提案する。その事業展開のプロセスは、小地域の住民が抱える問題が集落から市町村→都道府県→国・政府へと上がり、かつまた逆に、その問題への対応が国・政府から都道府県→市町村→集落へとつながる。こうした「最初の問題提起が、その解決までしっかりとフィードバックできるような仕組み」(173ページ)をつくることが肝要となる、という。ただ、その実現可能性は現実的には高いとはいえないが、自立した地域づくりを進めるためには少なくとも集落(地域)と市町村、さらには都道府県の各レベルでの相互補完的な「上下の協働」が求められる。当面は、上下の総参加による課題解決へ向けた熟議の場(管見の限りでは、共働プラットホームとしての「市民活動センター」)の設置が問われよう。
なお、山下は、「ふるさと回帰」「田園回帰」や「地元志向」が注目されるなかで、地方再生のひとつのアイディアとして「二重住民登録制度」(住民票の二重登録)について提案・言及する。付記しておく。

小田切徳美『農山村は消滅しない』岩波書店(岩波新書)、2014年12月
農山村では、①人、②土地、③むら(集落)の3つの空洞化が進んでいる。①は、人口の流出・減少と高齢化である。②は、農業の担い手不足による農地の荒廃化、賃貸化、耕作放棄地化である。③は、社会的共同生活を維持する機能の低下・停滞化である。
農山村では、3つの空洞化が段階的に、そして折り重なるように進んでいる。
これらはいずれも現象面での空洞化であり、実はその深奥で本質的な空洞化、すなわち地域住民がそこに住み続ける意味や誇りを見失いつつある、「誇りの空洞化」が進んでいる。(16~23、41~42ページの要約)

地域づくりの本質的要素は、「内発性」「総合性・多様性」「革新性」の3つである。農山村における地域づくりには、この3つの要素に対応した支援策が求められる。
「内発性」については、地域住民が当事者意識を持つことを支援することである。
「総合性・多様性」については、経済面だけでなく福祉、環境、教育などにまで至る総合的支援と、地域の実情を踏まえた多様性に富んだ支援である。
「革新性」については、従来とは異なる新たな地域運営のシステムをつくる必要性が生じることから、長期(複数年)にわたる支援である。(52~55、136~138ページの要約)

都市部から農山村への移住者は着実に増加している。移住にはいくつものハードルがあり、特に大きなポイントは、「仕事」「住宅」「コミュニティ」である。近年は、この「問題」自体に変化が表れ始めている。
「仕事」については、それをめぐる問題の位相とその解決手段が、変化してきている。一見すれば、細切れでまとまった仕事にならないものを仕事の一部として捉えるような、「ナリワイ」(伊藤洋志)という働き方を支持する者もいる。
「住宅」については、特に空き家をめぐる問題が重要性を増している。
「コミュニティ」については、農山村の地域社会の閉鎖性に対する都市住民の違和感やそれによる参入障壁を、どう緩和していけるかが焦点となっている。(207~211ページから抜き書き)

本書は、上述の「増田レポート」に対するアンチテーゼを示したものである。農山村の「歩き屋」を自称する小田切は、足で集めた各地の事例を分析し、データを読み解き、農山村の“事実”を実証的かつ論理的に解明する。そして、政治的な「地方消滅(切り捨て)論」や「農村(地方)たたみ論」に対抗し、農山村における地域づくりは困難ななかでも進化・前進し確実に広がっているとして、その動きの支援策の必要性と重要性を説く。そこには、「都市・農村共生社会」の論理と展望がある。
また、小田切は、地域を動かすためには、「住民が単に当事者意識を持つだけではなく、さらに『誇りの再建』へ向けた意識を持つ必要がある」(72ページ)として、「地域づくりワークショップ」(地元学)と総称される活動に言及する。それは次のような手順で進められることが多い、という。すなわち、「①地域点検とその地図による「見える」化→②課題の整理と共有化→③地域の将来像の確立→④地域内での中間報告会の開催→⑤目標・プランの決定→⑥活動のスケジュールの決定→⑦実践」、という過程がそれである(74ページ)。首肯し得る重要な論点であり、言説である。
小田切は、「一部で集落の『限界化』は進んでいるものの、農山村集落は基本的に将来に向かって存在しようとする力が働いている」(31ページ)。農山村集落は「強くて、弱い」という矛盾的統合体であるが、基本的には強靭で、強い持続性をもっている(40~42ページ)、と言い切る。熱い思いをもって積極的に現場を歩き回り、実証的な農業・農村政策研究を続ける小田切の言辞は重い。

“まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり”。これは、もはや新味はないが、筆者が市民福祉教育に関して言い続けているフレーズである。まちづくりは、基本的には、国や自治体主導の上からのそれではなく、地域(地元)や住民主導の下からの主体的・自律的な実践であり運動でなければならない。そこでは、ガバナンス(governance、共治)や共働(coaction、コーアクション)についての考え方に留意しながら、地域(地元)でまちづくりの担い手をいかに確保・育成するか、住民の暮らしや生き方をめぐる価値観をいかに構築するか、などが問われる。それは、言い換えれば、人づくりすなわち教育づくりを問うものであり、教育づくりは持続可能な地域・社会を形成していくうえで最優先の事柄である、ということである。
とはいえ、まちづくりへの住民参加は必ずしも活発であるとはいえないのもひとつの現実である。それは、(1)労働を重視するあまり、社会貢献活動を軽視しがちな意識があること(例えば、「仕事が忙しく、地域活動やボランティア活動に参加する時間や暇がない」という意識があること)、(2)住民の自治意識が低く、行政依存体質が強いこと、(3)地縁・血縁によるタテ型の人間関係が残っていること(例えば、「昔からこの地域を取り仕切っているあの家の人に任せておけばいい」という姿勢があること)、(4)住民が討議に慣れていないため、合意形成が難しいこと、(5)まちづくりには制度や技法についての専門的な知識を必要とすること、(6)参加住民の思いや行動の正統性が保証されるとは限らないこと(例えば、「一部の住民が好きで、勝手にやっている」という評価やクレームがつくこと)、などによる。これらは、まちづくりすなわち教育づくりの課題でもある。
地域づくりを論考する上述の4冊では、山下が「総合学習等の導入で、地域に関わる教育を熱心に行った効果もある」(206ページ)、小田切が「公民館活動が地域づくりの母体となるケースが少なくない」(73ページ)と指摘するのみで、教育づくりについての言及は皆無に等しい。4冊が共通してもつ限界のひとつである。
教育は国家百年の大計であるといわれる。教育の重要性と長期的視点やビジョンの必要性を説いたものであろう。地域づくり、そのための教育づくりも、地域(地元)百年の大計である。地域・住民による、地域・住民のための教育づくりは、「時間の余裕は多くない」(小田切)なかで、果敢に取り組むべき喫緊の課題である。経済的格差の拡大や政治の右傾化などをはじめ日本社会が構造的に大きく変容する今日、この点の認識を欠いた地域づくりはその方向性や内容を危ういものにする。強調しておきたい。

本稿の最初に述べた「豊田市地域福祉計画・地域福祉活動計画」では、「重点取組」のひとつとして、地域課題を解決するための、住民や地域が主体となった「住民懇談会の開催」、地域福祉活動の担い手を育成する、子どもから大人までを対象にした「住民福祉教育の推進」、それに地域福祉推進のための専門的な人材である「地域福祉コーディネーター(仮称)の設置検討」(地域拠点への配置)が明記された。少なくともこの3つの事業が確実に実施され、相互補完・相乗効果を発揮し得るよう推進されることによって、「安心して自分らしく生きられる支え合いのまちづくり」(計画の基本理念)が実現することを期待したい。


(1) 次の文献も参照されたい。
山下祐介『限界集落の真実―過疎の村は消えるか?―』筑摩書房(ちくま新書)、2012年1月。
小田切徳美編『農山村再生に挑む―理論から実践まで―』岩波書店、2013年8月。
(2) 2015年2月17日、東京の全国都市会館において「小規模多機能自治推進ネットワーク会議」の設立総会が開催された。それは島根県雲南市、三重県伊賀市、名張市、兵庫県朝来市の4市が呼びかけたものであり、43都道府県の142自治体が参加した。今後は、全国各地における住民自治の取り組みについて情報交換や調査・研究を進め、諸課題の解決に寄与するとともに、政府主導の「地方創生」に対して地域自らが必要な政策提言などを行うことになる。注目していきたい。
なお、このネットワーク会議の会則(第2条)は、「小規模多機能自治」について次のように定義づけている。「自治会、町内会、区などの基礎的コミュニティの範囲より広範囲の概ね小学校区などの範域において、その区域内に住み、又は活動する個人、地縁型・属性型・目的型などのあらゆる団体等により構成された地域共同体が、地域実情及び地域課題に応じて住民の福祉を増進するための取組を行うことをいう」。

付記
筆者が地域福祉計画・地域福祉活動計画の策定に関わったのは、1988年7月、東京都狛江市社会福祉協議会が設置した「狛江市ボランティア活動推進事業運営委員会」(委員長・大橋謙策)の末席を汚したことが最初である。爾来、福祉教育実践の視点・視座に留意しながら、各地の社会福祉協議会の事業・活動や計画づくりに参加してきた。それを通して気づき学んだことは実に多い。
筆者は、社会福祉協議会や地域と関わる場合、その要求や必要に真摯かつ丁寧に対応するよう心がけてきた(「善意」)。また、刺身の“つま”のような立ち位置は避け、現場の住民や専門家と継続的に「共働」することをめざしてきた。その際、実践仮説の検証と探索を行うとともに、社会福祉協議会や地域・住民が新たな地域課題に主体的・自律的に対応し得る仕組みづくりや力量向上をめざして、共に学び、共に考えてきた(「誠意」)。これらは、実践的研究に求められる「善意と誠意」の姿勢や態度であろうが、筆者のその取り組みの実際や成果については汗顔の至りである。