地域の懇談会や行政の委員会などに参加すると、深い議論や合意形成を阻害するような物言いや振る舞いをする人に出会うことがある。「よく分かりませんので、多数決に従います」(住民)。「私たちはこのように考えていますので、その点だけはよろしくお願いします」(組織代表者)。「そのような前例はありませんが、貴重なご意見として今後の参考にさせていただきます」(行政職員)。「専門家としての知見や経験から言えば、このように考えるべきだと思います」(学識経験者)、などがそれである。これらは、合理的思考や理性的判断の停止、目先の利害の優先、大勢への迎合を意味する。それは、子どものいじめや“危険な政治家”による反対意見の圧殺などで指摘される「反知性主義」(anti-intellectualism)の態度である。
いま、筆者(阪野)の手もとには、「反知性主義」に関する本が3冊ある。取り急ぎ、それぞれにおいて注目したい論点や言説を紹介することにする。
(1) 森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―』新潮社、2015年2月
「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。(260ページ)
「反知性」とは、知性が欠如しているのでなく、知性の「ふりかえり」が欠如しているのである。知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる。どちらにせよ、反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである。(261~262ページ)
知性と権力との固定的な結びつきは、どんな社会にも閉塞感をもたらす。現代日本でこの結びつきに楔(くさび:阪野)を打ち込むには、まずは相手に負けないだけの優れた知性が必要だろう。と同時に、知性とはどこか別の世界から、自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない。日本にも、そういう真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている。(275ページ)
(2) 内田樹編『日本の反知性主義』晶文社、2015年3月
「知性的な人」たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えている(中略)。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。(内田樹:20ページ)
知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。(内田樹:22ページ)
反知性主義を決定づけるのは、その「広がりのなさ」「風通しの悪さ」「無時間性」だということである。
反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。(内田樹:41ページ)
反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にある(中略)。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。(内田樹:60ページ)
知性とは、自分の頭で吟味し、疑い、熟考する能力や態度のことである。それは「結論先にありき」の予定調和や、紋切り型でお仕着せの思考を拒絶する。知性の発動に「ショートカット(近道)」はあり得ない。(想田和弘:243~244ページ)
知性が間断なく活発に発揮されるためには、苦労して到達した地点にしがみつくことなく、いつでも捨て去り更新する勇気や気力を維持することが必要になる。(中略)
反知性主義に陥らないためには、私たちはこのような知性の習性を充分に理解し、肝に銘じなければならない。のみならず、絶えず自らの態度を点検し、観察し、注意深く振り返る作業が不可欠である。(中略)反知性主義的態度は、本人がそう自覚せずとも、知らず知らずのうちに忍び寄るものだからである。
可能な限り先入観と予断と予定調和を排し、自分を含めた「世界」をよく観て、よく耳を傾けること。目的やゴールはとりあえず忘れて、目の前の現実を虚心坦懐に観察すること。
そのような姿勢こそが、反知性主義の解毒剤たりうるのだと思う。(想田和弘:257~258ページ)
(3) 佐藤優『知性とは何か』祥伝社(祥伝社新書)、2015年6月
反知性主義を大雑把に定義するならば、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」である。
新しい知識や見識、論理性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をしながら世界を理解していくという作業を拒(こば)み、自分に都合が良い物語の殻(から)に籠(こ)もるところに反知性主義者の特徴がある。合理的、客観的、実証的な討論を反知性主義者は拒否する。
もっとも、反知性主義者が、自分の物語に閉じ籠もっているだけならば、他者に危害は加えないが、政治エリートに反知性主義者がいると、国内政治、国際政治の両面でたいへんな悪影響を与え、日本の国益を毀損(きそん)することになる。(16ページ)
反知性主義者は、知性を憎んでおり、筋道が通った、論理的かつ実証的な言説を受け止める気構えがない(中略)。それだから、反知性主義者を啓蒙(けいもう)によって、転向させるという戦略は、ほとんど無意味だ。知性の力によって、反知性主義者を包囲していくというのが、筆者が考える現実的な方策である。(86ページ)
実証性、客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を反知性主義者は受け入れないのである。知性による説得ということ自体を拒否している。反知性主義者は、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部を持たない。本質において、対話が不可能なのである。
したがって、反知性主義者に対しては、こういう人々が力を背景に自らの心から生じた政治路線、経済政策を他者に強要していくことを、公共圏の力で封じ込めていくという方策しか取れないのだと思う。(146ページ)
反知性主義の罠にとらわれないようにするための処方箋は難しくない。知性を体得し、正しい事柄に対しては「然(しか)り」、間違えた事柄に対しては「否(いな)」という判断をきちんとすることだ。その場合の実践的な技法を、(中略)三箇条にまとめておく。
第一は、自らが置かれた社会的状況を、できる限り客観的にとらえ、それを言語化することだ。(中略)
第二は、他人の気持ちになって考える訓練をすることである。
第三は、(中略)「話し言葉」的な思考ではなく、頭の中で自分の考えた事柄を吟味してから発信する「書き言葉」的思考を身につけることだ。(中略)
このような知性を強化する作業を継続することによって、信頼、希望、愛など「目には見えないが、確実に存在する事柄」をつかむことができるようになれば、もはや反知性主義を恐れる必要はなくなる。(264~265ページ)
反知性主義という言葉や概念は、アメリカのキリスト教を背景にした宗教的なものである(Richard Hofstadter,Anti-Intellectualism in American Life,Knopf,1963.田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』みすず書房、2003年12月)。それは、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感」「知的な特権階級が存在することに対する反感」である。反知性主義がアメリカで「力をもつ」のは、「アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである」(森本:262、264ページ。注①)。「反知性主義には、知識をエリートが独占していることに対する異議申し立てという民主主義的側面もある」(佐藤:4ページ)、などといわれる。
反知性主義という言葉を日本において見聞きするのは、最近のことである。しかも、それは、日本の今日的な政治状況との関わりでネガティブな言葉として使われることが多く、アメリカにおける用法と趣を異にする。
戦前の国家主義・全体主義を彷彿とさせる、強権的なやり方を採る政権中枢の政治家や、学問や知性を軽蔑・侮辱した発言をし、難解な言葉や考えを好まないと思われがちな一般市民(注②)に巧みにアピールする地方の扇動政治家(デマゴーグ)などが、日本政治の反知性主義化を促進させている。彼ら(反知性主義者)は、自分に都合のよい世界や物語の殻に閉じこもり、そこでは英雄気取りで勇ましく、雄弁に語る。しかし、広い世界で、またさまざまな物語について討論しようとはしない。そこにあるのは独りよがりの思い込みであり、単なる思い上がりである。そして、判断や行動の偏りである。彼らは現代の “裸の王様” である。
こうした反知性主義的な姿勢や態度を示すのは、(一部の)政治エリートだけではない。本稿の冒頭に記したように、身近な場や機会において、また問題をめぐって反知性主義的な思考や態度を採る学識経験者や行政職員、市民エリートや一般市民に出会う。彼らは柔軟性や融通性が乏しく、あるいは欠落し、相互理解や合意形成に向けた対話や議論に消極的であったり、拒否したりする。
反知性主義者の意識や考え方を教育・啓発によって変えるのは難しい、といわれる(佐藤:86ページ)。そうだとすれば、真の反知性主義がもつ平等主義や民主主義の側面を強く認識する。そして、真の反知性主義がその民主的機能を果たすことができるよう社会的・政治的・文化的環境を醸成し、条件を整備することが肝要となる。
そこに求められるのは、多くの当事者・利害関係者による「熟議」(熟慮し議論すること)である。物事を投票による多数決で決めるいわゆる「集計民主主義」(aggregative democracy)ではなく、信頼に基づく話し合いを通じて意見や選好が変容する過程を重視するいわゆる「熟議民主主義」(deliberative democracy)である。
ここで、「熟議の意義」について鈴木寛が整理するところを紹介しておくことにする。(1)情報洪水、過剰情報の社会のなかで、狼狽・動揺し、思考停止している自分に気づき、「我」にかえる。(2)直面する問題や現場をめぐって、自分の知らないさまざまな「経験」や「実践」があることに気づく。(3)自らのなかのいろいろな自分を発見し、自らの存在(立場や判断など)の複雑性や多様性を「自覚」する。(4)熟議を通じて、真の友人や同志を得る場や機会が生まれる。(5)熟議によって合意形成がなされるのではなく、コミュニケーションの生成とさまざまな実践が協働で始まる、がそれである(鈴木寛『熟議のススメ』講談社、2013年5月、36~41ページから抜き書き)。
こうした熟議は、「参加」と「平等」、そして「自律」を前提にすることはいうまでもない。それはまた、それゆえに、王様に向かって「でも、王さま、はだかだよ。」と言い放つ小さな子どもを育成・確保することになる。そして、それによってこそ、健全な民主主義が成立する。
注
① アメリカに移植されたキリスト教は、神と人間が対等な契約関係に立つというところから出発した。そうなると互いに権利と義務を有する結果になる。「つまり、人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる」(森本:24ページ)。神の前で人は全て平等であり、学歴や教会の認知がなくても伝道者になれる。これがアメリカの反知性主義の根源である([書評]神戸大学名誉教授・吉田一彦が読む 森本あんり著『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―』『産経ニュース』2015年4月19日)。
② 筆者は、高い知性や豊かな教養をもち、誠実に振る舞い、“しなやか” で “したたか” に生きる市民(住民)を数多く知っている。