大友信勝「『戦後70年』と安保法案」(2015年7月)―資料紹介―

筆者(阪野)は、大友信勝先生から、短い期間ではありましたが直接的・対面的に多くを学ばせていただきました。それは、真に幸運なことでした。あるヒトとコトに対して、一緒に闘ったことも忘れられません。(傲慢・狡猾で真摯さに欠ける反知性主義者との対峙は、そのヒトが哀れで、悲しいものでした。)
その大友先生から本日(7月18日)、以下のような「メッセージ」が届きました。そしてコメントもいただきました。恐縮至極です。ただただ頭が下がります。

少しでも、安保法案について危機感を共有できることを願って、締め切りの過ぎた原稿をわきに置いて「今書かなければ」と一気にかいたものです。「蟻の一穴」といいますが、治安維持法は数次の改正で民主主義の息の根までとめ、反対できないようにして、大政翼賛会をつくり、ひとびとを戦場に送りました。今やるべきことは戦争の準備ではありません。国際的に、紛争の原因となっている「格差と貧困」を解決し、途上国のすべての子どもたちや若者に教育と就労の場を保障していくことこそやるべきことです。人権と生命は、アメリカも日本も途上国も同じ重さです。日本の軍事費を増やし、軍事関連産業を大きくし、教育を統制し、思想・言論を引き締め、福祉を切り下げ、地球の裏側でも戦争できるというシナリオを阻止したいという一念で書きました。平和で国際貢献すべきです。

戦後70年と安保法案
安保法案が2015年7月15日、衆院特別委員会で自公による強行採決、7月16日、本会議採決と国民の声に背を向けたまま、「60日ルール」を目指して暴走しています。9月中旬までに参議院で議決されなくても、衆議院で再議決できるからです。自公の暴挙を国民がゆるし、すぐ忘れると思っているのでしょうか。
私は、安保法案反対の「学者・文化人」、「9条の会」等に加わり、意思表示を明確にしてきました。憲法解釈変更を1内閣が、1回の審議で関連法案10件の一括改正を伴い、ひとりの首相の独断で、しかも集団的自衛権行使という戦争への道を、憲法第9条を突き崩す一方的解釈変更として強行採決していく姿に危機感を抱いています。日本は、民主主義からファシズムへの変質に入ろうとしているかのようです。自民党のハト派は飛び去って、いつの間にか良識的な保守から超右寄りへ衣替えしていることにも驚きます。その自民党を「平和の党」を自称する公明党が国民の合意形成を目指す「熟議」を置き去りにし、強行採決を担い、補完し、関係者からたしなめる声もなく粛々と従っていることにも驚きを禁じえません。
現行憲法で集団的自衛権が行使できるかどうかという憲法解釈がキーワードであり、憲法学の解釈を謙虚に聞くべきです。首相の独断に耳触りの良い側近と同調者を集め、国際情勢が変化していることを理由に、戦後体制からの歴史的脱却を図ろうとしています。
「昭和の時代」、日本がアジアの国々に、世界に何をしたのか。あの大戦を二度と繰り返してはなりません。私は戦時下に生まれましたが戦争の記憶はありません。しかし、戦後の義務教育を生活綴り方(北方性教育運動)を理由に治安維持法で投獄されていた先生方から受けました。大学に入り、東大セツルメントで治安維持法違反により、6回逮捕・投獄された先生から「社会福祉総論」を学びました。何を学び、次の世代に何を伝えるのか。その役割を自覚的に自らの使命とすべきであろうと考えています。
現代史は米騒動(1918年)から始まります。普通選挙の実施と共に治安維持法(1925年)が国会を通過します。以後、治安維持法は数次の改正を繰り返し、思想・言論・結社等を取り締まり、最後は民主主義のすべてを圧殺し、大政翼賛の体制に入ります。
「昭和の時代」、複雑な社会的背景がありますが直接的にみると「満州事変」(1933年)が引き金です。世界大恐慌(1929年)による不況に対して満州(中国東北部)を「生命線」として権益確保を図った軍部の独走から始まります。兵力不足を開拓青少年義勇軍、農村不況から分村移民の奨励で行い、国策に従った人たちが敗戦時に取り残され、多くの人たちが生命を落とします。「日中戦争」(1937年)が短期決戦といいながら多くの戦死者をだし、泥沼に入り、戦線を広げ、長期化し、これが全面戦争へと進み、「太平洋戦争」(1941年)に入ります。国力の違うアメリカに「短期決戦」を挑みますが長期化し、最後は和平工作も進まず犠牲を拡大します。誰も、どこも戦争の責任を取ることなく敗戦を迎えます。
日中戦争から敗戦まで、軍人・軍属の死者、約230万人、そのうち、60%が餓死者だったという研究があります。無謀な戦線拡大で補給がなく、玉砕を命じたからです。サイパン島陥落(1944年7月)で日本軍の敗戦は決定的になります。それからの犠牲が圧倒的に増えますが敗戦を認めようとはしません。サイパン島陥落から、沖縄の地上戦、戦死者約20万人、うち、沖縄県民約94000人、沖縄出身の軍人・属約28000人、その後に本土に移り、東京大空襲で10万人、その他の都市での空襲で50万人、原爆で広島、14万人、長崎で7万人、満州は開拓民22万3千人のうち、帰国できたのは14万人、満州でも最初に逃げたのは軍隊、沖縄戦でも軍隊は民間人を守りませんでした。これだけではありません。当時、植民地だった朝鮮半島からの強制連行、従軍慰安婦、そして、戦場と化した東アジア、東南アジア、太平洋諸島で何千万人という、どれほど多くの現地の罪のない人々を巻き込み、その人権を蹂躙し、生命を奪ったことか。
戦争とは何か。水木しげるは「お国のために、といわれて考えること許されぬ時代、土色一色に塗られて死場へ送られる時代だ。人を一塊の土くれにする時代だ」と出征前の日記に書いています。森村誠一は「状況が70年前と似てきていると思います。怖いのは戦争体験者がどんどん減っていることですね。戦争では敵国だけが敵ではなくて戦場に引っ張りだす前に国民を殺す。国家によって個人の人生が破壊されてしまうんです」と「言論、思想、表現の自由」が縛られることを問題にしています。自民党の勉強会は「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」、「沖縄の二つの新聞社を絶対つぶさなあかん」と言っています。「学問の自由」に対して、首相は国立大学の入学式・卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を「実施すべきだ」といい、文科相も追認しています。教育への不当な介入が始まっています。
「外国人記者」の目は、マスコミの「政権批判が減った」、「損するのは市民」と政権与党の報道規制を取り上げ、すでにマスコミの権力批判の自粛が始まったと見抜いています。本年3月、ドイツのメルケル首相が訪日しました。講演会が象徴的でした。マスコミ各社から選んだのは「朝日新聞社」の招待を受ける形での講演です。講演は、歴史認識で「過去と向き合う」ことを強調し、原発について「脱原発は福島がきっかけ」と発言しました。暗に、日本の歴史認識、原発政策への批判が込められていました。第二次世界大戦の敗戦国で、日本とドイツの違いに目を見張りました。なぜなのか、を印象付けられました。
誰のための、何のための戦争なのか。国民の生命と財産を守るというが、沖縄で、満州で民衆を巻き添えにしたが守ることはしなかった。途上国に貧困と失業を作り、不安定な世界情勢を改善しないで、戦争により、先進国が紛争地帯を軍事力で屈服させて平和が来るであろうか。憎しみと復讐を増幅させ、悪循環をつくるだけではないか。政権与党の歴史認識が妥当だとは思えない。そもそも美しい戦争はありようはずがない。仮想敵国を攻撃して、国民を守るという発想は成立しない。広島、長崎の原爆、沖縄戦の地上戦、これを学ばず、また繰り返すというのであろうか。本当に、国民を守る戦争があるというのなら、強行採決ではなく、十分な時間をとり、丁寧な説明を行い、国民に信を問う総選挙を行うべきであろう。首相自らが「国民の理解が十分でない」と認める法案をなぜ、強行突破するのでしょうか。憲法第9条を変えるのであれば、解釈改憲という姑息な手段ではなく、国民の合意形成を図る手続きを取るべきであろう。憲法という一国のよって立つ指針を根本的に変える手続きを1内閣の独断でやるというのは傲慢であり、暴挙というしかないであろう。
社会福祉学は、社会的に最も困難な方々の暮らしと人権、尊厳を支えていく学問である。平和的で対等・平等な関係の中で合意形成と同意を得て取り組んでいく手続きの民主主義が生命線の学問です。ソーシャルワークはエンパワーメントを重視しており、権力による思想、表現の統制、拘束とは無縁です。権力者が口当たりのいい人、すり寄ってくる人々だけ集め、異質を排除すれば、それは独裁の始まりであり、ファシズムへの道となるでしょう。首相は、一国を左右する権限を持っていることへの謙虚さが必要であり、合意形成への限りをつくし、生命と尊厳を自国だけではなく、他の国々に対しても同様に大事にする見識が求められて当然でしょう。歴史と向き合うこととは、憲法第9条を抱くことになった真の戦争責任への自覚と反省だろうと考えます。それが第13条や第25条とつながる「大砲より人」を大事にする思想と理念というべきです。
戦後70年、私たちは歴史の転換期に立っています。権力の横暴に立ち向かい、歴史のターニングポイントをしぶしぶ見過ごし、結果として黙認するのではなく、声を上げ、手を広げ、次の世代、そしてさらに続く次の世代に「平和」を引き継げるようにしていくことではないでしょうか。東アジアの人々、先の戦争で人権と生命を奪った国々の人々に対して、不戦を誓うことではないでしょうか。民主主義と平和を求める声を権力で圧殺し、思想・言論・出版の自由を奪うことにつながる道へ逆戻りさせてはならないと危機感を抱きながら、声を上げるのは今だと考えています。東アジアとの学術的な民間交流につとめ、未来志向の関係を築いていくことから始めようではないか、と考え、ささやかなメッセージを送ります。
2015年7月17日/大友信勝