さもしい:①見苦しい。みすぼらしい。②いやしい。卑劣である。心がきたない。
正義:①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。②正しい意義または注解。➂(justice)㋐社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。 ㋑社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。(新村出編『広辞苑』(第六版)岩波書店、2008年1月)
周知のように、2015年6月、選挙権年齢を満18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が成立しました(施行は2016年6月)。そしていま、高校生らの政治や選挙への関心を高め、政治的教養を育む教育のあり方が問われています。
「まちづくりと市民福祉教育」について考えてきた筆者(阪野)は、これまで、「政治」(とりわけ地方政治)を重要な検討課題のひとつとして位置づけてきました。また、各地のまちづくりにかかわるなかで、地域における政治的・社会的権力や地元住民(「有力者」)の言動に戸惑ったこともありました。そのとき、正義感をひけらかすわけではありませんが、「さもしい」や「正義」という言葉が脳裏に浮かんだのも偽らざる事実です。
いま、筆者の手もとに、伊藤恭彦著『さもしい人間―正義をさがす哲学―』(新潮社(新潮新書)、2012年7月)があります。この本は、政治「哲学的思考を思い切り『低空飛行』させ」(18ページ)、わかりやすく、ユーモアを交え、ときには自虐ネタをふりかけながら、「さもしさ」の正体を追っかけています。そして、伊藤の主張(結論)は、シンプルでクリアです。「私はいろいろな考え方や生き方をする人々が、ゆるやかに共存している社会が望ましいと思う。正義という言葉を使って一人一人をお説教するのではなく、最低限の正しい制度についてみんなで考え、合意し、それを形作ることを目指した方がいい。正義は制度を通して実現される。制度とは、すべての人間を架け橋でつなぐ最低限の絆でもある」(205ページ)というのがそれです。
以下に、(1)「さもしさ」と「正しさ」、(2)「お互い様」の倫理と制度化、(2)「私憤」と「公憤」、という項目を設けて、伊藤の所論の要点を紹介することにします。
(1) 「さもしさ」と「正しさ」
私たちは既に十分豊かであるにもかかわらず、他の人をさしおいて貪欲に利益を追求しているかもしれない。さらには誰かの不幸の上に自分の豊かな生活を作り上げているかもしれない。こうした態度を「さもしい」と呼びたい。(14ページ)
「さもしさ」が人と人との関係を意味しているとするならば、その反対語は「正しさ」になる。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは倫理の体系の中に「正しさ」(正義)を位置付け、それが人間関係においてとても重要であることを説いた。「不正な人と思われているのは、(1)法律に反する人と、(2)貪欲な人、すなわち、不平等な人である」という。(57ページ)
「さもしい」とは倫理的に言うと不正な人間関係を意味している。不正だと言う理由は、自分の「分」を超えて何かを得ようとするからである。一人一人が「分」を超えて欲望を追求すると、すごく不平等な人間関係ができあがってしまう。これを押さえ込むためには、一人一人の「分」を確定する基準が必要だ。しかし、この基準を確定できるほど、私たちの社会は単純ではない。そこで生きている人間はみな違い、おかれた環境もみな違うからである。(71~72ページ)
「分」とは、ある人がもっている価値であり、その人の必要性や功績や長所などにあったその人にふさわしいものをいう。不正とは自分の「分」を守らないことであり、正義とは「その人にふさわしいものを与える」ことを意味する。(59~62ページから抜き書き)
各人の「分」を決めるにあたり、分かりやすい基準は、自由な行動と自己責任である。(72ページ)
自由社会(市場社会)は、競争社会である。市場社会の競争は全員に参加を強制する。競争である以上、順位がつく。かくして市場競争は必然的に不平等を生み出す(注1)。(98~99ページから抜き書き)
不平等の発生を必然と捉えた上で、問題を含んでいない不平等とは何か。別の言い方をすれば、許される(倫理的に許される)不平等とは何か。これが不平等と格差(不平等が、ある限度を超し、問題を含んでいる場合の表現)を検討するときに中心に据えられなければならない問いだ。不平等に対してこうした問いを『正義論』の著者ジョン・ロールズも立てている。
ロールズは現代社会にふさわしい正義として、①「基本的な自由を全員に保障すること」、②「機会(ライフチャンス)の実質的平等をはかること」、そして、③「それでも残る不平等は社会の最も不利な人々の利益になること」、という三点を指摘している。不平等はあってもよいが、社会で最も不遇な人々の状況改善に役立たなくてはならないというわけだ(注2)。
不平等や格差を捉えるときには、視点を不平等の底辺にいる人々に定めなければならない。もし、不平等の底辺にいる人々が過酷な状態に放置されているならば、その不平等は問題だと言える。(101~102ページ)
(2) 「お互い様」の倫理と制度化
共同体社会の名残として、私たちの社会には「お互い様」という考えが残っている。「困った時はお互い様」である。(106ページ)
「お互い様」は、日本的共同体関係に源をもつ言葉だと思われる。共同体的なもたれ合いという互酬性がここには含まれている。ただ、同時に「お互い様」には、相手の立場になってみるという大切な洞察が含まれている。つまり、自分の視点と他人の視点を入れ替えてみるわけだ。共同体的な倫理と正義は異なるかもしれないが、「お互い様」の倫理には公平さや正義につながる視点が含まれている。そう考えてみると、「お互い様」という美しい発想を、制度の中に組み込んでいくことは正義を満たす一つのルートになるだろう。
できることなら困っている人を助けたいとほとんどの人は思うだろう。ただ、助けることを個人に任せると、同じ苦境に立ちながらも、助けられる人と助けられない人という不公平が生じる。だから、市場社会の底辺で苦しむ人々を助けるための基本的な仕組みは、社会制度にした方がよい。(113~114ページ)
お互いに助け合うという制度は、自己責任を曖昧にするものではない。不運な人を助けることは、その人がまた自己責任に基づいて行動していく途を確保することでもある。つまり、自由な選択とか自己責任とかいった価値を、助け合いの制度は損なうのではなく、逆に輝かすことになるのだ(注1)。(123ページ)
不平等の底辺で苦しむ人々を助けることは、最低限の正義だと思う。
私たちはこのような正義感を制度にきちんと組み込む必要がある。そして、そんな制度をつくり、制度の維持に貢献したならば、後は自由に自分の欲望を追求しても「さもしい」とは言われない。(137ページ)
(3) 「私憤」と「公憤」
正義は、人を苦しめる構造、人を食い物にして利益を得てしまう構造、この構造を改革することである。正義が求めるのは、構造を規制する制度の形成や制度の改革である。(159~160ページ)
社会の中で苦しんでいる人を助けることが、正義の優先課題である。正義という規範に従って社会を構想してみること、これが今、私たちに求められることだ。(197ページ)
正義はそれを支える感情も必要としている。それは「むかつき」といった私憤ではない。「私が公平に扱われていない」という怒りを、同じように社会で不公平に扱われている人々の境遇と重ねあわせることで生じる「これはおかしいだろう」という感情だ。私的なむかつきではなく、社会の不正を訴える怒りである。それは私憤ではなく、またバラバラな私憤の寄せ集めとしての興奮でもない。社会全体の不公平や不正義に対する憤り、つまり公憤だ。
不公平に対する公憤を紡ぎ合わせ、それを社会的な公平感に高めていくこと、これが現実社会に生きる私たちの正義感になる。そしてそれが制度改革を導くだろう。(197~198ページ)
以上から分かるように、伊藤は、社会の不公平や不平等の「さもしい」問題を解決するのは、「正しさ」(正義)にかなった公平な「制度」である。先ずは政治による制度の形成が肝要である、と説いています。そういうなかで、次の一節は大いに首肯するところです。
政治家の中にもやたら道徳的お説教をしたがる人がいる。「親を敬え」「郷土を愛せ」「公共心をもて」などと。そのメッセージ自体には問題がないとしても(本当は問題の多い道徳を語っている場合も多いが)、お説教は政治家の仕事ではない。政治家は全身全霊をかけて制度の再構築に取り組むべきだ。そのために税金で雇われている。上から目線で道徳を語るヒマがあったら、制度構築のために政治学、政治哲学、公共政策学などを学ぶべきだ。(205~206ページ)
ただ、制度の構築は政治(政治家)の役割ですが、そのすべてを政治に任せておけばよいというものではありません。国政であれ地方政治であれ、政治をつくるのは私たち一人ひとりです。したがって、制度(法規、仕組み、きまり)の形成や運営、改革に直接的あるいは間接的に参加(参画)し、公平・公正で平等な社会を創り、それを保持するのは私たち一人ひとりです。その際、「私憤」や「公憤」を感じる能力、「正」や「不正」を判断する能力、すなわち「正義感覚(the sense of justice)」(注3)が問われることになります。
私たちは、親子の愛情や信頼関係に基づく親の指示や命令、禁止などを通して、道徳的な感情や態度を習得します。また、自分の身の回りや日常生活における仲間との関係で、正義や不公平(不正義)の感覚や感情を持ったり、表出したりします。それはより広い地域・社会における正義を求め、さらには政治的あるいは法的な正義を求める感覚や感情を醸成することになります。そして社会での正義感覚は、制度を遵守することに向けられ、また必要に応じてそれを改革することによってより一層の「秩序だった社会」(注4)が形成・保持されることを要請します。
このように、社会における正義や制度による秩序は、家庭での親子関係や集団での仲間関係における正義感覚によって基礎づけられます。その「正義感覚は社会の若年の構成員が成長するにつれて徐々に習得され」(注5)ます。
そうだとすれば、子どもから大人までの正義感覚をいかに育成し、発達させるかが重要な問題となります。それを「まちづくりと市民福祉教育」に引き付けて言うとすれば、市民福祉教育を通じた正義感覚の育成が、(子どもから大人までの)市民の人権意識や地域における助け合いの意識を高め、市民的資質や能力(シティズンシップ)を形成し、それに基づいたまちづくりの社会的実践や運動を促すことになります。言い換えれば、正義感覚は、市民的資質や能力の重要な構成要素であり、市民によるまちづくりはそうした正義感覚に基づいた理解力と判断力、実践力を欠いては機能しない、ということです。その意味では、市民福祉教育における正義感覚の育成という課題は、シティズンシップやその教育のあり方を追求するなかでより明確なものとなります。
正義感覚は、家庭教育をはじめ学校教育や社会教育(すなわち生涯学習)、道徳教育や人権教育など、さまざまな場や内容・方法によって育成されます。また、その社会の正義にかなった制度に関心をもったり、正義にかなう公平な制度の形成・構築にかかわるなかで、正義感覚は醸成されます。
「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、「共生」の理念のもとで、政治や社会への参加(参画)や協働(共働)を重視してきました。しかし、「正」「不正」を判断するのに必要な正義感覚の育成・形成については、必ずしも十分に関心を払ってきたとは言えません。まちづくりの実践や運動に向けた、またその実践や運動における(子どもから大人までの)市民の正義感覚の育成・醸成が大きな課題になります。
本稿で言いたいのは、「共生と社会正義の教育によるまちづくり」という点(視点、視座)についてです。その教育の機会は、実質的に、(子どもから大人までの)すべての市民に平等に保障されなければなりません。とともに、それぞれの市民が置かれている個別的な現実的状況(個人的要因や環境的要因)を十分に考慮しながら、教育内容や方法の適切性や公正性を追求する必要があります。さもないと(教育機会の平等保障だけでは)、「共生と社会正義の教育」という美名のもとで、市民を選別し、新たな不平等を生み出すことになりかねません。強調しておきたいところです。
注
(1) 不平等や格差を肯定する立場に立つと、不平等や格差そのものを解消するための取り組みは消極的なものにならざるを得ません。その際の取り組みは、いわゆる勝ち組と負け組のうち、負け組の人びとに「再チャレンジ」の機会を用意することになりますが、結果的には勝ち組と負け組の入れ替えをするだけに過ぎません。しかも、その機会をとらえて努力する限りでは支援(「助け合いの制度」)の対象とされますが、努力の質量によって支援の対象から外されることになります。そこにあるのは排除の論理(排除の正当化)です。
そこで求められるのは、個人の「意欲」「能力」「努力」などの有無や質量を個人的・内面的なものに押しとどめるのではなく、それを下支えする多面的・重層的な社会システムをどう構築するかということです。すべての人が、その属性や帰属にかかわりなく、「自立と連帯(共生)」の社会的な互恵的信頼関係のなかで平等に扱われ、共に支え合い、それを通して社会への完全参加を果たすことが強く求められます。
(2) John Rawls,A Theory of Justice (Harvard University Press,1971.revised edition,1999)ジョン・ロールズ著/川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論』(改訂版)紀伊国屋書店、2010年11月。
アメリカの政治哲学者であるJ.ロールズ(1921年~2002年)は、「正義の二原理」について次のように論述を進めています。
<正義の二原理>を、暫定的なかたちで提示するとしよう。二原理の最初の定式化はあくまで試行的になされる。
<正義の二原理>の手始めの言明を左に示す。
第一原理 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な〔=手広い生活領域をカバーでき、種類も豊富な〕制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても〔無制限なものではなく〕他の人びとの諸自由の同様〔に広範〕な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。
第二原理 社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない――(a)そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ(b)全員に開かれている地位や職務に付帯する〔ものだけに不平等をとどめるべき〕こと。(83~84ページ)
制度に関する正義の二原理の最終的な言明を提示したい。完璧さを目指すべく、これまで提示した諸定式を包含する完全な言明を提出しよう。
第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な全システムといっても、〔無制限なものではなく〕すべての人の自由の同様〔に広範〕な体系と両立可能なものでなければならない。
第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない。
(a)そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人
びとの最大の便益に資するように。
(b)公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯する〔ものだけに不平等がとどまる〕ように。(402~403ページ)
以上の第一原理は「平等な自由の原理」、第二原理は「格差原理」と「公正な機会均等原理」と呼ばれます。第一原理は、参政権、言論の自由、思想や良心の自由、人身の自由、 私的所有権などの基本的自由は、他者の自由を侵害しない限りにおいて、すべての人びとに平等に与えられるべきである。第二原理は、社会的・経済的不平等が許されるのは、(a)最も恵まれない人びとに最大限の利益(恩恵)が与えられる場合と、(b)職務や地位に就くチャンスがすべての人びとに平等に与えられている場合に限られる、という意味です。
伊藤の言説(ロールズの所論の紹介)は、この「正義の二原理」を要約したものです。
(3) 公正・平等で秩序だった民主的社会の維持・運営に、「正義感覚」は欠かせません。ロールズは、『正義論』の第八章第69節から第77節(594~671ページ)で「正義感覚」についての所説を展開しています。その際、「正義感覚」の概念を次のように規定しています。「正義感覚とは、少なくとも正義の原理が道徳的観点を規定する限りにおいて、その観点を採用しその観点に基づいて行為したいと欲する、確固たる性向・構えをいう」(643ページ)。
また、ロールズは、正義感覚の発達を、①「権威の道徳性」(親の権威による幼児の道徳性)、②「連合体の道徳性」(家族、友人、学校、会社、地域などの特定の集団内における役割や地位に応じた道徳性)、③「原理の道徳性」(正義にかなった制度を受け入れ、それに対応する道徳性)という3つの段階に分けて論述しています(606~628ページ)。
(4) ロールズは、「秩序だった社会」の概念について次のように述べています。「本書冒頭において(第1節)、秩序だった社会を<成員の利益を増進するようもくろまれ、公共的な正義の構想によって事実上統制されている社会>として特徴づけておいた。したがって、秩序だった社会とは、〔1〕他の人びとも同一の正義の原理を承認しており、そして〔2〕基礎的な社会の制度がその原理を充たしかつ充たしていることが周知されている、以上の二点を全員が承服・承知している社会である」(595ページ)。
(5) ロールズ『同上訳書』606ページ。