「静」と「動」:思い出すことども

地域やそこでの暮らしは、時空のなかで「静」と「動」を行ったり来たりする。それも「内発」と「外発」によってである。

これは、筆者(阪野)が四半世紀も前に群馬県のN村で地域福祉(活動)計画の策定にかかわったときの最初の想いである。そこで出会ったのは、骨も凍るほどの孤独に生きる一人の高齢者であり、古くからの湯治場で激しく生きる一人の視覚障がい者であった。鮮烈に覚えている。
いまになってこんなことを思い出すのは、先月、富山市から帰宅後に1週間ほど病床に伏していたとき、宮嶋淳・ほか『地方都市「消滅」を乗り越える!―岐阜県山県市からの提言―』(中央法規、2016年2月)や渡辺利夫『放哉と山頭火―死を生きる―』(筑摩書房、2015年8月)などを読んだからであろうか。前者は、流行語である「消滅」を前提にし、それを「乗り越える」ための“大学人”による実践事例研究(「提言」)の本なのであろう。その読後に、N村の歴史と風土、人々の暮らしと営みを、新しい概念であった「福祉文化」の一言(ひとこと)で纏めあげようとしたこと。それは、その用語の表層を撫(な)でるばかりであったこと。そして、吉本哲郎が言う「土」と「風」の地元学についてその理解と実践が一面的で浅薄であったこと、などを思い出した。汗顔の至りである。
後者についてはたまたま、2月6日に木曽福島に蕎麦を食べに行ったとき、山頭火を思い出したことによる。周知の通り、尾崎放哉(おざきほうさい:1885年~1926年)と種田山頭火(たねださんとうか:1882年~1940年)は、自由律俳句に異才を放った俳人として著名である。「轉轉漂泊」(てんてんひょうはく)の放哉と「放浪行乞」(ほうろうぎょうこつ)の山頭火の作風は、「静」の放哉、「動」の山頭火、と対照的に評されることがある。そういうなかで、二人の生きざまに通底するのは、自己破壊による深い孤独や内界の苦悩との激しい“闘い”そのものであったろう。それは、放哉にあっては東京帝国大学(1905年9月)への入学、山頭火にあっては母親の自殺(1892年3月)で始まったのであろうか。
代表的な一句に、放哉の「咳をしても一人」。寂しい限りである。山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」。戸惑いや孤独を想う。それ故にか、豊かな自然(この世のあらゆるモノ)との共生(共存や融和)を願う。

まちづくりに肝要なのは、「土の人」の内界に思いを致し、その思考や感情に寄り添い、「静」から「動」を引き起こすことである。この拙稿で問いたいのは、まちづくりにかかわる「風の人」の、そのための立ち位置や姿勢についてである。