プレディクタブルな人、その協調性と独立性:もう一つの考え方―長谷川眞理子・山岸俊男著『きずなと思いやりが日本をダメにする』の読後メモ―

〇長谷川眞理子・山岸俊男著『きずなと思いやりが日本をダメにする―最新進化学が解き明かす「心と社会」―』(集英社インターナショナル、2016年12月)が面白い。本書は、進化生物学者の長谷川(総合研究大学院大学)と社会心理学者の山岸(一橋大学大学院)の対談本である。人間社会の問題を解決するに当たって人を過大評価してはならない。「心がけ」や「お説教」では社会は変わらない。革新をもたらす人は周りの「空気を読まない人」である。こういった指摘には、「まちづくり」や「市民福祉教育」について考えるヒントが示されている。
〇本書のなかから、「プレディクタブルな人」と「思いやり」や「差別」に関する二人の知見や発想の要点を、我田引水と評されることを恐れずに、紹介することにする(見出しは筆者:阪野)。

相互協調性の質
「日本人は相互協調的である」。相互協調性(interdependence)は、質的には、ポジティブなものとネガティブなものの2種類に分けられる。前者は、何かの問題について、協力して一緒に解決しようというものである。後者は、集団の問題を解決するのではなく、集団内で波風を立てないように行動するというものである。その人たちは、いわゆる「空気を読む」人であり、いつも「びくびく」している。
相互協調性と対照的なものは独立性(independence)である。独立性にもポジティブとネガティブの二つがある。ポジティブ・インディペンデンスは、他者と積極的に関わり、自己主張することに躊躇しないというタイプである。ネガティブ・インディペンデンスは、「誰も私に構わないでくれ」という、他者との関わりに消極的なタイプである。

プレディクタブルな人
「人間は社会的動物である」。ヒトは、社会なくして生きられない存在であり、自分の独立を守り維持するためには、他者とコミュニケーションを取り、協力する必要がある。その際、相手の主張や反応を予測したうえで自己主張をしないと、摩擦や衝突が生じることになる。そこに求められるのは、プレディクタブル(predictable)、つまり「予測可能な」人間(「分かりやすい人」)になることである。
プレディクタブルになるということは、自分の旗幟(きし、立場や主張)を鮮明にし、首尾一貫した行動規範に基づいて行動すること(「言行一致」)を意味する。それはつまり、他者と自分との違い(個別性)を明確にすることであり、それはまた多様性を歓迎することでもある。そうすることによって、他者から信頼・評価される存在となり、フレンド(friend)=味方=仲間を増やすことになる。

思考力のトレーニング
「個性と多様性の尊重、共生社会の実現」。いまの日本では、これらの言葉や理念が心がけや説教、スローガンとして語られ、その際には「思いやり」「絆」などが強調される。多様性のある社会や共生社会の構築は、個々人の異質性や不明性について相互に認識し、理解することから始まる。即ち、自分とは違う他者が、どのような世界観や思想を持っているかを把握する。とともに、自分なりの価値観や原理原則の確立を図り、それに基づいて一貫性のある行動をとることが求められる。多様性や共生は、「違うこと」に耐えることであり、思いやりの心の育成を図れば済むようなものではない。「みんな違ってみんないい」は、それほど簡単ではない。
「ヒトは社会システムのなかで動いている」。即ち、自分はどういう種類の人間かということを鮮明にし、お互いにそれを理解し、他者と衝突しながら言及し議論し、一緒に何かに取り組んで行く。そういうヒトにとって必要かつ重要なのは、心がけを説く「心の教育」ではない。複雑な議論を展開し、社会づくりに関する制度設計を行う「思考力のトレーニング」である。
社会を変えるには、個人レベルの心がけや行動ではなく、社会科学の知見を踏まえて物事について思考・判断・表現する人たちが、ひとつのコアを形成し、社会変革の原動力になってくれるのを期待するしかない。(以上、第7章:243~288ページ)

差別の利得
「差別は偏見から生まれると思われている」。しかし、差別の原因は偏見ではない。差別と偏見は切り離して考えるべきである。
社会のなかで差別が行われるのは、そこに何らかのメリットがあるからである。少なくとも、当初の段階ではメリットがあり、それによって差別が構造化され、継続的に行われてきた。逆に言えば、差別することによってデメリットやコストが増えるのであれば、そうした差別は生まれない。従って、差別をなくすには、差別をすることによって得られるメリットよりも、差別をしないことで得られるメリットを大きくすることである。差別は感情ではなく、利得の問題である。そういう意味では、競争社会は「差別をなくす社会」であり、競争なき社会は「差別の社会」「差別を温存する社会」であると言える。

差別構造の追及
「差別問題を『心でっかち』で考えてはならない」。差別は、第一義的には、社会構造の要因によって起こるものであり、その結果である。社会に差別構造があると、それによって差別を正当化する現実が生まれ、その現実が差別構造をさらに補強していく。そしてますます、差別は正当化され、固定化されていく。
差別の解消は、個人の意識(「心がけ」)を変えたり、スローガンを叫ぶだけでは不可能である。差別の現実(「結果」)を直視し、それを生み出してきた(いる)社会構造(社会システム)を追及し、制度改革を進めることが肝要となる。(以上、第5章:181~203ページ)

〇以上に基づいて、「プレディクタブルな人=個性的であり、多様性を歓迎する人」(257ページ)すなわち「社会変革の原動力になる人」(288ページ)のあり方について考える際の視点や枠組みを、筆者なりに図式化(素案)しておくことにする。

〇なお、プレディクタブルな人は、フレンド=味方だけではなく、エネミー(enemy)=敵をつくることにもなる。「出る杭(くい)は打たれる」。「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」である。それは、相互協調性を意味するが、他者からの承認欲求(独立性)の裏返しでもある。付記しておきたい。

補遺
中島義道著『「思いやり」という暴力―哲学のない社会をつくるもの―』(PHP研究所、2016年2月)も、同意できない点もあるが、痛快で面白い。言説の一部を紹介(抜き書き)しておくことにする。なお、本書は、中島著『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの―』(PHP研究所、1997年11月)のタイトルを変えたものである。

わが国の人間関係において、最も重視されるのは、「他人を思いやる」ことであり、そのためには「本当のことを言わないこと」である。この国では、「お上」は「思いやり」や「優しさ」といった人間の根源的価値に関してまで個人のなかに踏み込もうとする。「思いやり」を持つことがなぜ必要なのかという問いを忘れて、「思いやりを持とう!」という掛け声だけが列島にこだまする。この国では、「思いやり」や「優しさ」を声高に唱え、人々から生き生きとした思考力を奪っている。「思いやり」や「優しさ」という名のもとに、とりわけ弱者の叫び声は完全につぶされつづける。風通しの悪い社会である。(4、11、13、76、165ページ)

この国では、「思いやり」はほとんどの場合「利己主義の変形」として機能してしまう。自分の身に危険がふりかからない範囲での「思いやり」など、気楽な「思いやり」である。この国では、みんな「思いやり」という名のもとに真実の言葉を殺している。「対話」を封じている。しかも、ほとんどの者はその暴力に気づいていない。(166~168ページ)

この国では「優しさ」は今やエスカレートして熱病にまでなっている。これほどまでに「優しさ」が叫ばれている空気のなかで、弱い人間は「優しさ」によって殺されてゆく。精神的に破綻してゆく。最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。ひとことで言うと、自分に異質な者としての他者を徹底的に恐れるのである。(183~184ページ)

「対話」(「哲学的対話」)とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。正真正銘の「対話」とは、身分・地位・知識・年齢等々ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨てて、全裸になって「言葉」という武器だけを手中にして戦うことである。「対話」とは全裸の格闘技である。(120、141~142ページ)

「対話」のある社会は、「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をぐいと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し最終的には潔(いさぎよ)く責任を引き受ける社会である。それは、対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にしそこから新しい発展を求めてゆく社会である。それは他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会である。(228~229ページ)

この国で要求されるのは「和の精神」である。「和」とは、現状に不満をもつ者、現状に疑問を投げかける者、現状を変えてゆこうとする者にとっては最も重い足かせである。「和の精神」はつねに社会的勝者を擁護し社会的敗者を排除する機能をもつ。そして、新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。かくして、「和の精神」がゆきわたっているところでは、いつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる。(61~62ページ)

[体験記―大学の風景―]
中島先生が本書で紹介する「沈黙する学生の群れ」の「授業風景」は、筆者(阪野)も経験したところであるが、示唆的である。筆者のそれらもいまとなっては面白い。筆者の体験記(伝聞も含む)にもつきあっていただきたい。

※自慢話―AO入試のコツ―
「あなた自身の自慢をしてくれますか」/「‥‥‥」/「じゃあ、あなたの高校の自慢をして下さい」/「‥‥‥」/「それじゃあ、あなたは何学部を志望ですか」/「野球部です!(志望学部だよ~)」/入学式に彼の姿はなかった?

※餌づけ―ゼミの神髄―
R教授がお菓子と飲み物の入った大きなビニール袋を両手にさげて来た。/「どうされたんですか?」/「1年のゼミ生に元気がなくてね。そこで、途中で休憩を入れて、お茶の時間にするんですよ」/「先生も大変ですね!(餌づけかよ~)」/学習集団は仲良しこよしの集団ではない。

※計略―「私語」の撲滅―
「2年生のこの授業科目は選択ですので、やる気のない人の履修はお断りします」(初回の授業)/この一言で、履修希望者は半減する。/「毎回、『自己点検・評価票』を記入してもらいます。それを出席票に替えます」(2回目の授業)/これでまた希望者は減り、最終的に履修者は2、30人程度になる!(大成功~)/授業中の「私語」はない。

※世の習い―「空気」の研究―
某大学の教授がN教授の指導のもとで博士号(社会福祉学)を取得することにした。/審査委員のM教授が、研究科長のA教授の顔色を窺って一言、「研究の視点も枠組みも曖昧です」。複数の若手の教員も同調。/それ以前に、M教授が筆者との立ち話で放った一言は、「専門外の論文を読むのは苦痛ですね」であった。/件(くだん)の教授はその後、学位申請を取り下げ、日本を代表する大学に申請して学位を取得!(おめでとう~)/阿諛追従(あゆついしょう)は世の習いである。

※エッ―?×!―
元高校校長が事務局の課長に就任した。その後、兼担講師 → 教授 → 学部長(専門外)へと「ごぼう抜き」の出世。/茶坊主とお友達だけがわが世の春を謳歌する。/ほとんどの教員は自分たちの専門性が否定されている「暴力」に気づいていない。気づいていても語らない!(ケセラセラ~)/沈黙は最大の保身である。

※納得―研究室今昔―
日頃ほとんど話すこともなかったM准教授が突然、筆者の研究室にあらわれた。/そのときの最初の一言が忘れられない。「あらー、大学の先生の研究室みたい!(あんたは何なんだよ~)」。/彼女の研究室は若人がたむろする喫茶店だった。/また、筆者が1階下のM准教授の研究室を訪ねたとき。/ドアを開けると、そこはゴミ屋敷だった。/彼にメールを送っても、返信はいつも1週間以上を要した!(江戸時代の飛脚じゃあるまいし~)」。/今は昔、研究の翁(嫗)といふものありけり。

※連携協定―「包括」の意味―
「昨日、街頭募金活動をしたんだけど、『包括連携協定』とやらを締結しているはずのあんたのところからは、お願いしても、誰も来なかったな」。「それは失礼しました。明日は卒業式なんですが、私がでるようにします」/「そんなわけで、明日の学位記授与式は失礼いたします‥‥‥」。「その話は事務局長に通してくれませんか」/「いえ、先ずは学科長と学部長に連絡をと思って‥‥‥」。「いえいえ、先ずは事務局長に」/「東日本大震災支援募金にご協力をお願いします!(東日本大震災支援募金にご協力をお願いします!~)」/頭巾(ずきん)と見せて頰(ほお)かぶり。

※社長―改革と倒産―
「お昼休みの時間に集まっていただいて恐縮です。来年度に改組されるわが学部・学科について、簡単に説明します」。「‥‥‥」/「学長先生、こんな説明でよろしかったでしょうか」。「はい。先生方、ご苦労様でした」/国の主導のもとで、トップダウンによる効果的・効率的な大学経営がはじまっている(50年、100年先も生き残れる大学はいずこにおわす~)。/「合併」「身売り」「倒産」による社名変更。