「世間」の膨張と「空気」の支配―その「息苦しさ」からの解放―

「<活動的生活> vita activa という用語によって、私は、3つの基本的な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味するものとしたいと思う。労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。労働の人間的条件は生命それ自体である。仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している」(ハンナ・アレント 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、1994年10月、19~20ページから抜き書き)。

〇これは、周知のように、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年、ドイツ出身の政治哲学者)の代表作『人間の条件』の冒頭部分の一節である。要するに、「労働」は生命を維持するための生物学的な行為、「仕事」は工作物を製作する職人的な行為、「活動」は多くの他者に働きかける公共的な行為、である。誤解や独断を恐れずに、さらに簡潔に言い換えれば、労働=カネを得る活動力、仕事=モノを作る活動力、活動=ヒトと関わる活動力、となろうか。
〇筆者(阪野)はいま、以前に比して、狭い「世間」に住んでいる。そのひとつの世間で昨年度関わった「活動」(地域・福祉活動)に基づいて、先日、地元自治会の総会である事柄について提案した。一般的なルールに則って丁寧にその趣旨説明を行ったが、地元の名士の「これまでのものは先人の知恵であり、いまでも先進的である」という意見で、会場の「空気」は一変した。それにもめげず、さらに意見の開陳を続けたが、話に水を差す発言が相次いだ。そして、とどめの一言、「あんたは喋りすぎだ」。万事休す、である。その後、「継続審議」とはなったものの、“あやふや”と“うやむや”が交錯する会議であった。それがまた世間でもある。
〇筆者はこれまで、数多くの地域で、「まちづくり」や「市民福祉教育」の実践「活動」に関わってきた。正直に言えば、自分が現に居住する地域での取り組みには、ある種の“息苦しさ”や閉塞感を感じてきた。今回もそれである。その息苦しさを和らげるために“酸素”を吸入し、いま一度呼吸を整えることにした。本稿を草する(「仕事」)ねらいはそこにある。以下の抜き書きは、過去に吸ったことのある、空気よりも高濃度の酸素である。筆者には、いま所属する世間で、その流量や濃度、吸入方法を如何に考えるかが問われることになる。

(1) 阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書)講談社、1995年7月
西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。/私達は世間という枠組の中で生きているのであって、誰もが世間を常に意識しながら生きているのである。いわば世間は日本人の生活の枠組となっている。/敢(あ)えていえば日本人は皆世間から相手にされなくなることを恐れており、世間から排除されないように常に言動に気をつけているのである。(13~15ページ)

世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。/世間には、形をもつものと形をもたないものがある。形をもつ世間とは、同窓会や会社、政党の派閥、短歌や俳句の会、文壇、囲碁や将棋の会、スポーツクラブ、大学の学部、学会などであり、形をもたない世間とは、隣近所や、年賀状を交換したり贈答を行う人の関係をさす。(16~17ページ)

世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。/世間の掟にはもう一つ重要なものがある。それは世間の名誉を汚さないということである。/「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。西欧人なら、自分が無実であるならば人々が自分の無実を納得するまで闘うということになるが、日本人の場合は、自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、世間を騒がせたことについて謝罪することになる。このようなことは、世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。(17、18、20、21ページ)

(2)阿部謹也『学問と「世間」』(岩波新書)岩波書店、2001年6月
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。/明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。/したがって「世間」を変えるという発想は生まれず、改革や革命という発想も生まれえなかった。(111~112ページ)

「世間」は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。「世間」には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。/「世間」の中では個性的な生き方はできない。常に「世間」の枠を意識していなければならないからである。自分と「世間」とは一体として意識されている。自分が落ちこぼれないように努力している反面で、「世間」の外に特定の対象を設定して、その対象に対して自分の優位を確認しようとする。「世間」の外にそのような対象を設定することによって、自分自身の恐れや不安を転嫁するのであり、「世間」に対する恐怖を和らげるのである。/私たち自身が「世間」の中で生きている不安を転嫁する過程で差別意識が発生してくるのである。その意味で差別意識は「世間」の産物である。(151~152ページ)

(3)佐藤直樹『「世間」の現象学』(青弓社ライブラリー)青弓社、2001年12月
社会という言葉はわが国の「近代化」と一体となったかたちで、つまり「近代化」のシステムとして展開された。ジャーナリズムや学問の世界では、あたかも西欧流の社会が実在するかのように、社会という言葉があたりを席巻した。しかしそれは、蜃気楼のようなものだった。おおかたの見方に反して、「世間」は消滅するどころか、実際に明治以降私たちの<生活世界>に実在したのは、「近代化」のシステムとしての社会ではなく歴史的・伝統的システムとしての「世間」のほうであった。(98ページ)

西欧流の「社会」と日本の「世間」のちがいを簡単にまとめると次のようになる。(94~97ページ、備考は筆者引用)

(4)山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)文藝春秋、1983年10月
「空気」は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である。われわれは「空気」に順応して判断し決断しており、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではない。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(22ページ)

「空気」の基本にあるのは臨在感的把握である。/それは、物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けることをいう。/臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。/臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。(32、33、38、40ページ)

ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。/われわれは、「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。/「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基である。そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない。/われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば「現実」であって、しとしとと降りつづく“現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。従ってこれが口にできないと“空気”決定だけになる。(91、92,129、172ページ)

〇「お世話になっております。昨日はありがとうございました。残念な結果になりましたが、今後ともよろしくお願いします」。前述した地元自治会の総会の翌日、筆者の口から自然と出た、隣人に対する挨拶の言葉である。「そう、残念でした。また頑張りましょう」。その隣人は、総会の席上、場の空気を読んでか、一言も発言しなかった。その人にはまた、その人なりの人間関係の世間と空気があったのであろう。筆者はその人を責めることはできない。責められるべきは筆者自身の、自分の行動についての基準や尺度を他者との人間関係に求める「世間」の認識と、その世間における「空気」を醸成するための議論についての“甘さ”である。腹蔵なく言えば、地域のボスに対する事前の根回し(空気の醸成)を欠いた、ということでもあろう。
〇「世間」と「空気」は過去の遺物ではない。「世間」は今日も、解体・消滅することなく、そこに所属する人々の行動原理として働いている。そこで醸成される「空気」は、人々を支配し、ときには議論を否定し、思考を停止させる。日本の現代社会においては、「世間」が膨張・強大化し、「空気」が意思決定の主役のようにもなっている。しかもそれが、中央集権的な政治・行政システムを残したまま、国主導によって進められている。
〇「まちづくり」や「市民福祉教育」の世界ではこれまで、「世間」と「空気」の存在を前提にした議論が十分に行われてきたとは言えない。もっぱら、「地域社会」「市民社会」「共生社会」などの、翻訳語としての「社会」(society)を舞台にした議論が行われてきた。「社会」は観念的な世界であり、人はそのなかで生きているとはいえ、一定の心理的距離を置くこともできる。「世間」は日常生活における具体的な人間関係であり、一面では本音(ほんね)の世界でもある。右傾社会や格差社会、そして監視社会すなわち管理社会が進展するなかでいま、その趨勢を押しとどめ、真の市民社会や共生社会の実現を図るために、日常語としての「世間」と「空気」について探究する必要がある。「世間」と「空気」を対象化し議論することは、「社会」について論究する際のひとつの前提である。それはまた、自分の存在を意識し思考することであり、「社会」や「世間」の「息苦しさ」から自分や他の人々を解放することに通じる。本稿で言いたいのはこの点である。
〇蛇足ながら、実は注目すべきことであるが、地元自治会の総会などが行われる会場の舞台の上手(かみて)に、「教育勅語」の全文が額に入れて飾ってある。「朕惟フニ」「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。筆者は、不安や恐れを感じる。それにもまして、ほとんどの地元住民がその存在に気づかず、またそれが何たるかを知らないことに愕然(がくぜん)とする。「空気」は、対象の臨在感的把握によって醸成される。臨在感的把握とは、物質や言葉の背後に何か霊的・宗教的・絶対的なものが存在していると感じ、無意識のうちに、不作為にその何かの影響を受けることをいう。山本の言説に留意したい。
〇なお、下図は、「『世間』の膨張と『空気』の支配」を概念図化したもの(素案)である。