ケアリングコミュニティとは、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。筆者はそれを地域福祉の基盤づくりであると考えている。/そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。(原田正樹「ケアリングコミュニティの構築に向けた地域福祉―地域福祉計画の可能性と展開―」大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』ミネルヴァ書房、2014年4月、100ページ)
〇いま、その問題意識は必ずしも目新しいものではないが、「我が事・丸ごと」の「地域共生社会」の実現について声高に叫ばれている。それを単なるスローガンに終わらせないためには、またあるべき「地域共生社会」を実現するためには、「相互支援」と「相互実現」についての基本的理解が必要かつ重要となる。
〇筆者(阪野)は、管見ながら、しかもその一部に過ぎないが、人と人が共に生き、共に支え合うこと(「相互依存」interdependence)によって自己成長と相互成長、自己実現と相互実現を促す地域社会、すなわち「ケアリングコミュニティ」(caring community)に関して次のように考えている。(1)地域のあらゆる住民が「安心」して暮らせるまちは、「安全」と「信頼」と「責任」のまちである。安心=安全×信頼×責任、である。(2)まちづくりは、そこに暮らす住民が相互に支援し合う(「相互支援」の)地域コミュニティを創造するために、意識と思考と行動の変革を図ることから始まる。まちづくりは相互支援であり福祉教育である。(3)「自立」(「依存的自立」)は、自己選択と自己決定、そして自己責任に基づく自己実現の過程を通して達成される。それは、個人的なものにとどまらず、歴史的・社会的・文化的状況や背景によって規定される。自立は自己実現のための手段であり、歴史的社会的性格(特徴)を持つ。(4) 自己決定と自己実現は、個人的営為ではなく、自分と他者との相互の認識と行動に基づいた自己成長と相互成長を通じて初めて可能となる。自己実現は「相互実現」である。(5)現在の日本社会では、格差社会や管理社会が進展するなかで、持続可能な相互支援型社会を如何に形成するかが問われている。管理は画一化や受動化を促進し、支援は多様性や能動性を尊重する。地域共生社会は相互支援型社会である。なお、これらとともに、またこれらを可能にするためには、まちづくりや地域福祉についての多様な政策・制度的対応や専門機関・専門家による対応などが必要かつ重要であることは言うまでもない。
〇いま筆者の手もとには、そのタイトルやサブタイトルに「支援」などの文言が含まれている本が4冊ある。いや、それしかない。
(1)支援基礎論研究会編『支援学―管理社会をこえて―』東方出版、2000年7月。
(2)舘岡康雄著『利他性の経済学―支援が必然となる時代へ―』新曜社、2006年4月。
(3)舘岡康雄著『世界を変えるSHIEN学―力を引き出し合う働きかた―』フィルムアート社、2012年11月。
(4)森岡正博編著『「ささえあい」の人間学―私たちすべてが「老人」+「障害者」+「末期患者」となる時代の社会原理の探究―』法藏館、1994年1月。
〇本稿では、それぞれの本のなかで論じられている「支援」に関する言説について、筆者なりにいま一度押さえておきたい一節を、抜き書きあるいは要約することにする(見出しは筆者)。それは、「支援」に関する基本的な文献や考え方について知りたいという、熱心なブログ読者からの依頼に不十分ながらも応えるためである。
(1) 支援基礎論研究会編『支援学』
〇「支援学」(Supportology)は、1993年に発足した「支援基礎論研究会」(オフィス・オートメーション学会〈現・日本情報経営学会〉の研究部会)が7年余にわたる研究活動を通して新しく開拓した学問分野である。「本書は、ハウツーを教える入門書ではなく、広く支援現象、支援行為一般の研究の指針を与えることを目的にした見取り図である」(2ページ)。ここでは、本書に収録されている今田高俊(現在は東京工業大学名誉教授)の論稿「支援型の社会システムへ」における言説について紹介する。
管理型社会システムから支援型社会システムへ
現在、行き過ぎた管理機構のひずみや亀裂が集中的にあらわれ、管理の限界がいたるところで露呈するようになっている。管理を中心とする運営法では、もはや活力ある社会を確保できない状態である。/意義のある人生や生活を築き上げるためには、管理に代わる社会の仕組みが必要である。管理に代わる新しい社会編成の在り方としてもっとも有望なものは支援である。支援型の社会システムへの構造転換をはかることが、現在、さまざまな形であらわれている社会問題を解決するために不可欠である。/1990年代以降、ボランティア活動やNPO(非営利組織)、NGO(非政府組織)による活動活動が高まった。これらの活動は、管理ではなく支援を、市民自身の自発的な意志によっておこなおうとする動きである。(9~10ページ)
支援の定義
支援とは、何らかの意図を持った他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的に他者のエンパワーメントをはかる(ことがらをなす力をつける)ことである。(11ページ)
支援と自省的フィードバック
支援は、自分で勝手に目標を立てて効率よくそれを達成するという、従来の私的利益の追求行為からは区別される。被支援者がどういう状況に置かれており、支援行為がどう受け止められているかを常にフィードバックして、被支援者の意図に沿うように自分の行為を変える必要がある。これができない支援は本当の意味での支援ではない。(12ページ)
支援と配慮とエンパワーメント
支援をおこなう当事者は、あくまでも自分の生き甲斐や自己実現を得るという動機が前提になっている。この意味では、私的なものである。ただし、この私的性格は、被支援者の行為の質が改善され、被支援者がことがらをなす力を高めることを前提としており、いわゆる利己的な行為ではない。私的な自己実現が、直接、他者に対する気遣い、配慮へとつながっている。要するに、支援には、他者への「配慮 care」と「エンパワーメント」が決定的に重要である。(12ページ)
支援と支援システム
実際に支援が成立するためには、一連の支援行為がばらばらになされるのではなく、それらがまとまりをもったシステムを形成することが必要である。また、支援は固定したシステムではうまくいかない。被支援者が置かれている状況変化にあわせて、システムを変えていく必要がある。/支援システムは、人的・物的・情報的資源を関係づけ、それらが支援を効果的に実現できるようなモデル(ノウハウ)を備えることが重要である。(12~13ページ)
支援学の体系化
20世紀が管理の世紀であるとすれば21世紀は支援の世紀である。今後、管理が消滅することはありえないが、少なくても支援の発想が社会のなかに組み込まれ、肥大化した管理の仕組みを縮小する方向に進まざるをえないだろう。弱肉強食型の競争主義とそのグローバル化が進みつつあるが、これがアナーキー(無秩序)な社会あるいはその反動として管理主義の強化につながってはますます住みにくい世界になる。そうならないためにも今後、支援学を深め体系化していくことが重要である。管理に代わる支援の発想を持って、グローバル時代の共生原理をつくりあげていくことが、われわれの責任である。(234ページ)
〇管理型社会から支援型社会への転換が求められている。支援は、支援者(支援主体)と被支援者(被支援主体)というセットで意味をなす行為であり、①「他者への働きかけ」を前提にして、②「他者の意図の理解」、③「行為の質の維持・改善」、④「エンパワーメント」を構成要素とする。支援には、支援者の「自省的フィードバック」と、被支援者への「配慮」と「エンパワーメント」が重要である。支援の実質化を図るためには、「ヒト、モノ、カネ、情報」などの資源を効果的・効率的に活用し、またそのためのモデル(ノウハウ)を備えることが必要となる。とともに、支援システムを形成し、しかもそのシステムは被支援者の置かれた状況に応じて柔軟・自在に変化・対応する(「自己組織化」する)ことができるものでなければならない。
〇支援学は管理学に対置される。支援学は、社会生活上の諸問題を解決し、被支援者の「エンパワーメント」を図ることによって自己実現が達成され、それを通じて共生社会の創造に貢献することを使命とする。
〇以上が今田の言説、その一部である。注目されるのは、支援の概念に「エンパワーメント」が含意されていることである。そこから、支援が成立するためには、被支援者の意図が優先され、支援者の支援が自己目的化してはならないことになる。今田にあっては、「自分の意思を前面にださない」「相手への押しつけにならない」「相手の自助努力を損なわない」が、「支援に要請される条件」(15ページ)となる。
(2) 舘岡康雄著『利他性の経済学』
〇本書は、とりわけその前半は、舘岡康雄(現在は静岡大学大学院)の博士論文「”支援”の理論化と実証化に関する研究―利他的なビジネスモデルがもたらす経済合理性―」(東京工業大学社会理工学研究科)がベースになっている。舘岡は1996年から「プロセスパラダイム」の概念を提唱するが、「支援」と「プロセスパラダイム」に関する言説のみを抜き書き(要約)する。
自己中心の「管理」と相手中心の「支援」
管理は、自分から出発して相手を変える、相手をコントロールする行動様式である。それに対して支援は、相手から出発して相手との関わりにおいて自分を変える、自分で(自由意志で)自分をコントロールする行動様式である。/すなわち、管理は自己中心の行動様式であり、支援は相手中心の行動様式である。/したがって、管理の被行為者は「させられている」のであり、支援の被行為者は「してもらっている」のである。(86~87ページ)
リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ
いま時代は、あらゆる分野で「リザルトパラダイムからプロセスパラダイムへ」と動いている。パラダイム(paradigm)とは、その時代に共通するものの見方や捉え方(価値観、枠組み、考え方)をいう。/管理行動では、管理者は計画を提示し、その計画と被管理者の結果とのズレが重要とされる。そこでは、「結果」(リザルト、result)が重視され、管理者と被管理者の関係は「させる/させられる」の一方向の関係にある。管理行動はリザルトパラダイムにおける行動様式である。/支援行動では、支援者は相手の刻々変わる状況を知り、それに合わせて被支援者と相互作用を行ないながら支援を達成していく。そこでは、「過程」(プロセス、process)が重視され、支援者と被支援者の関係は「してもらう/してあげる」の双方向の関係にある。支援行動はプロセスパラダイムにおける行動様式である。(87、88、93~94ページ)
〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡にあっては、支援はあくまでも支援者の自由意志で行われものであり、支援をするかしないかは支援者に委ねられる。「動員による支援」「支援の管理」「支援の制度化」などは想定されていない。また、舘岡の言説で重要なのは、「プロセスパラダイム」についての提言である(91~97ページ)。相手(被支援者)の動きに合わせて自分(支援者)も動きを変える。また、相手(被支援者)にも自分(支援者)の動きに合わせて動きを変えてもらう。両者が寄り添ってこうした動き(動的な活動)をするとき、その過程(プロセス)で問題解決能力が高まり、両者は「合一の方向に向かう」(100ページ)、とされる。留意しておきたい点である。
(3) 舘岡康雄著『世界を変えるSHIEN学』
〇舘岡は、民間企業の人事部での経験を踏まえて、2001年から「SHIEN学」を提唱する。本書は、学生やビジネスマンが気軽に読める「SHIEN学の入門書」である。「支援」をあえて「SHIEN」とローマ字表記する意義、「管理」「支援」「SHIEN」あるいは「協働」などの概念の相互関連、SHIEN「学」の学問としての成立要件や理論的枠組みと体系性、などについての言及は必ずしも十分なものであるとは言えないが、要点を紹介する。
SHIENと「お互いの力を引き出し合う能力」
「支援」は上位者が下位者に、力のあるものが力のないものに、施すという概念である。/SHIENは、互いに助け合うことで、重なり(つながり、関係性)のなかったところに重なりをつくり、「してもらう/してあげる」を交換するという、新しい時代の問題解決法のひとつである。/SHIEN学では、相手の力を引き出したり、逆に相手からも自分の力を引き出してもらったりする能力を「してもらう/してあげる能力」と呼ぶ。/SHIENの原理というのは厳密なシステムではなくて、重なりがなかったところに重なりをつくったり、相手からしてもらうことと、こちらがしてあげることを、相互に交換したりすること。ただそれだけである。(13、35、58、155ページ)
「してもらうこと」と「豊かな関係性」とSHIEN学
「してもらう」能力を高めるためには、自分の「弱みを相手に見せること」が非常に大切であり、「相手によい質問をすること」「相手を褒(ほ)めること」も有効である。それによって自分と相手との豊かな関係性を深めることができる。/「してもらう/してあげる」というのはテクニックではなく、非常にいい関係性があるからこそ生まれるものである。志が同じで、ひとつの目標に向かっていく集団があったならば、惜しみなくお互いの能力を出し合っていって、一緒につくるよろこびを感じることが、お互いが幸せになる、何よりの方法である。/「してもらうこと」がSHIEN学のスタートであり、本質である。(60~65ページ)
プロセスパラダイムの時代と競争的共存の時代
これからの、「動いているものを動くままに」捉えるプロセスパラダイムの時代は、今までのリザルトパラダイムの時代の、「善か悪か」「有か無か」「量か質か」「ハードかソフトか」といった二項対立を越えて、新しい解へジャンプすることができる自由な社会である。/そういう時に大切になってくるのは、「してもらう能力」である。新しい時代には「してもらう」ことは必須となる。/苦手なことはしてもらってよいのである。そして自分は、自分の得意なことで相手をSHIENする。また今、競争的共存の時代が来たともいえる。競争しているのだけど、同時に共存してもいるわけで、ひとり勝ちの時代はすでに終わっているのである。/人間関係でいえば、「関係をつくることに積極的」(「関係積極性」)であることが大切な時代である。(82~83、119ページ)
リザルトパラダイムとプロセスパラダイムの違い
20世紀型のリザルトパラダイムと21世紀型のプロセスパラダイムの違いは、図1の通りである。(43ページ)
〇以上が舘岡の言説、その一部である。舘岡は、上下関係のなかでの一方向の支援(「施し」)を「支援」、対等な関係のなかでの双方向の支援を「SHIEN」とする。そして、「SHIEN」は、新しい時代(プロセスパラダイムの時代)における、「新しい働きかたを実現する行動原理」(15ページ)となる、という。
〇舘岡にあっては、「SHIEN学」でいう「SHIEN」とは、「自分よりも他人を大事にしたり、助けたりする考え方(=利他性)を軸に、行動を起こすこと全般」(18ページ)を指す。「SHIEN学の本質」「SHIENの神髄」は、「してもらう/してあげる能力」であり、お互いの力を引き出し合うことである。そこで重要になるのが、自分と相手を「つなぐ」こと、「関係性を高め合う」ことであり、舘岡はそれを「重なりをつくる」という。
(4) 森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』
〇本書は、生命倫理や法哲学、仏教哲学などを研究する5人の共同研究のプロセスを纏めたものである。読み応えのある包括的で深淵(しんえん)なテーマ設定がなされているとともに、一般にありがちな共同研究の成果報告でないところがユニークで興味深い。本書の「ささえあいの人間学」とは、人と人が互いに「ささえあって」生きるという形の社会原理を探究し、人々にささえられながら生まれ死んでいく人間の「いのち」のあり方について議論する枠組み(学問)である。ここでは、本書に収録されている土屋貴志(現在は大阪市立大学)の論稿「『ささえる』とはどういうことか」等における言説について紹介する。
「ささえ」と「ささえあい」
人間同士の「ささえ」は、すべて「ささえあい」にほかならないのではないか。というのは、人間は必ず何らかの「他者」を必要とする存在であり、その意味で、完全に自分の力で自立しているわけではないからである。現実の「ささえ」の場面においては、一方向的な「ささえ」(「ささえる」側は自立しており「ささえられる」側は依存するだけであるような状況)が成立しているわけではなく、必ず両方向的な「ささえあい」(双方が「ささえ」「ささえられ」合っているような状況)になっているのである。/人間は何らかの他者を「ささえる」ことによってよろこびを得る存在であり、他者が何も返すことができなくてもその他者によって「ささえられている」ことになるのである。(105ページ)
「ささえる」と「ともにいる」
「ささえる」ことは、「相手にかかわっていこうとする」ことである。/「かかわり」こそ「ささえ」の基盤であり、かかわりのないところには相手もなく、したがって相手への働きかけもあり得ないからである。その意味で、かかわりを保っていこうとする姿勢こそ何にもまして必要なものであり、なくてはならないものである。/しかも、時間を惜しまず、傍に共にいるということ、この「ともにいる」ということこそ、かかわりの本質を表すことである。/「ともにいる」ということ、かかわっていく姿勢によって「ともにいる」ということを示すことが、「ささえる」ということの最も基本的な事項になるのである。(57~58、60~61ページ)
「かかわり」と「受容」
相手にかかわっていくとは、相手を受け容れていくことである。相手を受け容れる余裕がなければ、かかわっていくことはできない。もしその余裕がないまま無理にかかわろうとするなら、必ずひとりよがりに終わることになる。相手を受け容れるということは、結局のところ、相手に対していろいろな気持ちを抱く自分自身を受け容れることに他ならない。その意味で、いつでも、どんな相手にも、求めに応じてかかわってゆけるようにするには、つねに自分自身をみつめて、あらゆる自分を受け容れる用意が必要である。相手を受け容れる余裕は、実は自分自身を受け容れる余裕から生まれるからである。(59~60ページ)
「ささえ」と「共感」
「ささえ」の根底にあるべき考え方は、「共感」が達成されるように努めるべきである、ということである。/「ささえ」の場面では、「共感」が必然的な前提になっている。/「共感」とは、相手の私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの「あたかも‥‥‥のように」という性格を失わないことである。いいかえれば、①相手の体験を、その本人が感じているままに感じ取ること、②相手の体験はあくまでその人自身の体験であり、私自身の体験とは別であるとわきまえていること、この二つの条件を同時に満たすことである。/ただし、「共感」だけで相手を「ささえた」ことにはならない。「こころのささえ」の場面を離れて、相手が具体的な介助や援助や治療を要求している場合には、「共感」の達成だけでは「ささえあい」の達成は不十分なものとなる。(281、290~291、296、299ページ)
〇土屋にあっては、「ささえる」ということについての原則的な考え方のひとつは、「どんな事実であれ、その人に関する事実は第一義的にその人本人のことであって、他の人のことではない」(52ページ)。「事実に直面しそれを受け容れなければならないのはその人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない」(50~51ページ)ということである。ある事実についての当事者性(「自分のこと」である度合い)について言えば、本人が最も「当事者」であり、身近な人ほど「当事者性」が高く(つまり、より「自分のこと」であり)、身近でない人ほど低い(逆に言えば、「第三者性」すなわち「ひとごと」である度合いが高い)ということになる。しかし、具体的な「ささえ」の場面では、問題になるのはつねにいま現在目の前にいる相手であり、「当事者性の序列」は問題にならない(51~53ページ)。土屋の基本的な言説として押さえておきたい点である。
〇以上の叙述を踏まえて、ここではひとまず、「支援」とは、自分・支援者(支援主体)と相手・被支援者(被支援主体)の「要求と必要と合意」「受容と共感とエンパワメント」に基づいて、「相互支援と相互作用」「相乗作用と相乗効果」「自己実現と相互実現」を図る活動(行動様式)でありプロセスである、と理解しておくことにする。その際、支援者や被支援者は、個人だけでなく、集団や組織、コミュニティ、社会などを含む。「支援主体」や「被支援主体」の意味するところである。
〇ところで、筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」について論考する際に、「共働」(coaction)の概念を重視してきた。また、その構成要素として、①多様な個人や集団・組織・コミュニティ・社会、②目標や価値観の共有化と統合化、③新しい場(ステージ、プラットホーム)の創設、④その場への主体的・自律的な参加(参集、参与、参画)、⑤多面的な相互作用による相互補完や相乗効果、⑥社会的統合や融合の達成、などを考えてきた。
〇図2は、「支援」に留意しながら、多様な主体による「対抗」から「共働」への過程を、ひとつのモデルとして図示したものである。例えば、「対抗」段階では、内部(当事者間)における上下関係や外部(第三者)との対等(並立)な関係における競争、管理、支配を意味している。「連携」段階では、役割と責任の相互確認や協力の相互促進に向けた行動を起こす。「協働」段階では、目標の明確化を図り、舘岡がいう「重なりのなかったところに重なりをつくる」即ち「関係づくり」(パートナーシップづくり)を進め、協同することを意味する。そして、新しく設けられた「場」における相互補完やそれによる相乗効果によって協働の融合・一体化が図られ、相互支援や相互実現が成立する。それが「共働」の段階である。こうした段階の過程を通して、「創発」(単なる総和以上の成果が生み出されること)や「共創」(イノベーションによって共に新しい価値を創り上げること)、「共生」(すべての人の人格と個性を尊重し、共に支え合いながら共に生きること)が実現することになる。
〇筆者が本稿で言いたいのは、「相互支援」と「相互実現」、そのための「共働」が「地域共生社会」の神髄である、ということである。
付記
上野谷加代子(同志社大学)は、人が共に支え合って生きていくためには「助け上手と助けられ上手」になることが大切である、と説く(『たすけられ上手 たすけ上手に生きる』全国コミュニティライフサポートセンター、2015年8月)。森岡正博(早稲田大学)は、人間は他からささえられてはじめて生活でき、自己決定できる存在であり、「他からささえられ、他をささえてゆく」ことこそが「人間」の本質である、と言う(森岡正博「序 方法としての『ささえあい』」森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』20ページ)。あえて可視化するほどのことでもないが、「ささえあい」(「ささえる」ことと「ささえられる」こと)の諸相について、例示的(上位と下位、優位と劣位)に図3に示しておく。
追補
5月26日、大橋謙策先生から玉稿「『地域福祉実践の神髄』―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」(「地域福祉の遍路道」 四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集 寄稿/A4判、39字×40行、16枚)を拝受した。いつもながらの深く鋭い論述は学ぶところ大である。
周知の通り、大橋先生は、「福祉教育」「ニーズ対応型福祉サービスの開発」「コミュニティソーシャルワーク」の機能の具現化とその理論化を求めて50年間、地方自治体(市町村)レベルでの実践を主なフィールドとして、「実践的研究」に取り組まれてきた。その研究スタイルは、「『バッテリー型研究方法』ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法」である。
筆者(阪野)は、先生の「実践的研究」に導かれてきた一人であるが、筆者の関心は先生の「社会福祉学研究」「地域福祉論研究」における「大橋福祉教育論」にある(本ブログ中の[まちづくりと市民福祉教育](26)「大橋福祉教育論」再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―/2014年11月4日投稿 を参照されたい)。
ここで、大橋先生の了解のもとに、玉稿の一部を紹介させていただくことにする。「福祉教育」「ケアリングコミュニティ」「コミュニティソーシャルワーク」について論究する際の視点や枠組みについて多くの示唆を得ることができる。先生からは「大いに論じていただければ‥‥‥」という丁重なメールを拝受している。
「我が事・丸ごと地域共生社会」とコミュニティソーシャルワーク機能
地域自立生活支援の推進を図るためには、①福祉教育の推進、②ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、③住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムの整備、が必要かつ重要となる。これら3つの機能は「地域福祉実践の神髄」ともいえる。
「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある。そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。
改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(フェイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うこと、を同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。
これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。