〇樋口裕一によると、読書には二通りの方法がある。「実読」と「楽読」がそれである。「実読」とは、「何か行動に結びつけるために、情報や知識を得ようとして行う読書、つまり何かに役立てようとする読書」である。「実読」は、「何らかの意味で発信し、他者にその本の意義を示したり、その本から得た知識を他者に披露したり、その情報を実行に移したり」しなければ意味がない。「楽読」とは、「何かに役立てたいと思うのでなく、ただ楽しみのためだけに読む読書」である。樋口にあっては、「この二つの読書の両方があってこそ、人生は豊かになる」(樋口裕一『差がつく読書』角川書店、2007年6月、12、17ページ)。
〇政治(政治家)の劣化や右傾化、厚顔無恥な権力闘争がとまらない。日本の破綻や崩壊のカウントダウンが始まっているかのようである。不安感や恐怖心が増すばかりである。そんな思いのなかで、前回の拙稿(雑感(48)<国会編『密告のすすめ』強行制定に寄せて> 国家主義的教育と主権者教育:「教育の自由と良心」を考えるために―内田樹著『街場の教育論』再読メモ―/2017年6月15日)に続けて、鷲田清一・内田樹・釈徹宗・平松邦夫著『おせっかい教育論』140B(イチヨンマルビー)、2010年10月。以下「本書」)を読み返すことにした。教育の政治や経済からの独立性をはじめ、教育の市民性や地域性、教育現場の主体性や自律性などを如何に保証するかということに思いを致しながら、そしてひとまず焦燥感を抑えながら、「教育危機」「教育崩壊」について考えてみようということである。本稿のタイトルの枕詞<実読×楽読>にはそういう意味を込めているが、内容的には「内田教育論」についての<実読>であり、心情的には私的な<楽読>でもある。
〇本書は、関西を拠点に活躍する鷲田(臨床哲学)、内田(フランス現代思想)、釈(宗教学)、そして平松(元大阪市長)の4人による2回の座談会(2009年10月と2010年1月)の記録と書き下ろしを収録したものである。以下は、そのなかから、筆者(阪野)が留意したい内田の発言と論述を抜き書きあるいは要約したものである(見出しは筆者)。
共同体の支援/教育は公共的市民を育て共同体の維持・存続を図るための活動である
教育の基本的な機能は、子供たちを大人にして、自分たちが構築し運営している共同体あるいは自治体のフルメンバーとして、それを担い得るような公共性の高い市民を育てることである。/学校教育が今、歪んでしまったのは、自己利益を達成するために人は教育を受けるのだという思想が広まってしまったからである。教育活動を「商品」としてとらえるロジックが、教育の現場を侵食している。教育がビジネスになっている。それが教育崩壊の根本にある。/学校教育を子供たちに授けることによって、最大の利益を受けるのは共同体そのものである。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしもつねに私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくということは、共同体の存続にとって死活的に重要である。本来は、共同体の全メンバーは「ありとあらゆる機会に、子供たちを成熟に導く」という活動に身を捧げないといけない。(26~27ページ)
一般ルールの停止/学校は共同体のなかで社会的ルールが一時停止する場所である
学校は、(公共的市民の育成を図る場であるとともに)、社会や共同体が経済合理性なりある種のルールに基づいて動いているなかで、そこと断絶していて、社会のルールが通用しない場であるべきである。「ノーマンズ・ランド」(no man’s land)というか「逃れの街」というか、そうした現世のルールが適用されない場としての機能を持つべきである。「社会のルールが一時停止している場所」を作っておいて、そこにうまく社会に適応できないさまざまなタイプの才能を受け容れられるようにする。/「イノベーター(革新者)になるかもしれない子供たち」にフリーハンド(他からの制約や束縛を受けないこと)を保証するのは学校の重要な人類学的機能なのである。そういう子供たちは序列化とか格付けとかはなじまない。学校では、子供たちのなかに潜在するある種の非社会的・反社会的な部分についても、できるだけ広く受け入れ、そして面白がる余裕が欲しい。日常的な価値観が一時停止したような空間、「タイム」がかけられる場というのは、共同体のなかになければいけない不可欠な要素なのである。「一般ルールが停止する場所」は共同体の安全保障のために絶対に必要なのである。その機能はまずは学校が担わないといけない。(38~39ページ)
多様な個性/学校には生徒と教師の多様性が互いに生かされる環境が必要である
文科省は、一貫して教員たちの規格化・標準化を推し進めてきた。その結果、学校では、一定の価値観の枠内の人しか教壇に立てないようになってきている。/「教育力」というのが実体としてあって、生徒の方は真っ白な状態(「タブラ・ラサ」ラテン語:tabula rasa)で、教育力のある教師が教えればどんな子供も必ず能力が伸びるということはあるはずがない。教師(教育)の打率は1割もいかない。(しかしそれが将来どこかで、大きく花広くこともある。)教師と生徒の出会いは偶然的なものであり、教師の打率を上げるためには、訳の分からない教師がずらっと並んでいる方がいい。子供の訳の分からなさと同じぐらいの訳の分からなさの多様性が必要なのである。子供の個性と同じだけの数の個性の教師が並んでいることが理想的な教育環境なのである。それを、教師のあるべき条件を限定し、条件をどんどん狭めてゆくというのは、完全に方向が逆なのであり、教育は崩壊してしまう。/また、教育は、中枢的にコントロールしてはいけない。それをしようとすると、プログラムを標準化せざるを得ない。教育プログラムは多様であることによって機能するのである。(56、146~147、162~163ページ)
教育権の独立/教育危機を解消するのは教師のパフォーマンスの向上支援である
いま教育は危機的状況にある。それは、教員の努力不足や、子どもたちの無能化・怠惰化や、親たちのクレーマー(苦情を言う人)化といった個別的な原因によって起きているのではない。また、教育官僚たちは「処罰の恐怖を通じて、人を操作し、支配する」という古典的方法を手放そうとしないが、そうした文科省ひとりの責任でもない。「上の言うことに従わないものには罰を与える」という恫喝(どうかつ)の方法しか思いつかないという、私たち全員が罹患しているある種の「思考停止」の帰結なのである。/教育危機の現況の臨んで、私たちがまずなすべきことは、なによりも教育現場に「誇りと自信と笑い」を取り戻すことである。「自律的な教員の、多様な創意工夫を支援すること」である。/教員がいま必要としているのは、「敬意」であって「恫喝」ではない。「支援」であって「査定」ではない。「フリーハンド」であって「管理」ではない。/教育の危機に対処しうるのは現に教壇に立っている教師だけである。そのためには、「教師のパフォーマンスを向上させること」が肝要となる。/教師たちが、その潜在能力を発揮し、そのポテンシャル(潜在能力、可能性)を開花させ、持続的にオーバーアチーブする(期待以上の成果を上げること)以外に方途はない。だから、教育行政がなすべきことは一つしかない。それは教師たちのパフォーマンスが向上するために最良の支援を行うことである。/政治も市場もメディアも、教育のことに口を出すべきではなく、教育のことは現場に任せるべきである。一言でいえば、「教育権の独立」の実現である。(199、201、202、205、207、208~209ページ)
〇筆者(阪野)は、教育は「待つ」ことであり、相互信頼の積み上げによって互いの創造性を「引き出す」ことである、と考えている。前述の鷲田の著作に『「待つ」ということ』(角川学芸出版、2006年8月)がある。そこでの一節を紹介しておきたい。
待たなくてよい社会になった。/待つことができない社会になった。/意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪(うしな)ったのだろうか。時が満ちる、機が熟するのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか‥‥‥。(7、10ページ)
〈待つ〉は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、〈待つ〉は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。(19ページ)
〇「待つ」ことによって「時」と「場」が整えられ、新たな「動き」や「働き」が生まれる。「拙速」は教育においては最大の禁忌(きんき)である(内田、200ページ)。また、教育はすべての国民や市民のものであり、私たちの教育についての思考停止は許されない。これは、「教育」(と「まちづくり」)の底流に置くべき基本的な考え方と姿勢である。強調しておきたい。