〇先ず最初に、本稿の天邪鬼(あまのじゃく)なテーマに関して一言しておきたい。「アクティブ・ラーニング」は、多様性と協働性、能動性と創造性が重視される教育方法である。そして、子どもと教師双方の主体性や自律性、当事者性を引き出し、動機づけを高め、学習過程への参加(関与)を広め、深めることが重要となる。これが真意である。
〇文部科学省は、ほぼ10年ごとに学習指導要領を改訂している。学習指導要領は、法的拘束力をもって教育現場に、教育の内容や方法について一方的な、多くの「注文」をする。いま、宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』を思い出す。2人の若い紳士が鉄砲を担いで山奥に狩りに出かける。腹がすいたので西洋料理店の「山猫軒」に入る。そこでいろんなことを「注文」されるが、自分たちが食べられることに気づき、あわてて逃げ出す。レストランは煙のように消え、2人は草のなかに立っている、という話である。「(恐ろしさのあまり)さっき一ぺん紙くずのようになったふたりの顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした」(宮沢賢治『注文の多い料理店』〈イーハトーヴ童話集〉岩波書店、2000年6月、70ページ)。最後の一節である。
〇2016年12月、中央教育審議会が学習指導要領の改訂に向けた最終答申を行った。それを受けて文部科学省は、2017年3月、小・中学校の学習指導要領を改訂・告示し、小学校学習指導要領は2020年4月から、中学校のそれは2021年4月から全面実施されることになる。小学校では2018年4月から、2011年4月に必修化された5・6年生の「外国語活動」が教科化され、3・4年生にも導入(先行実施)されている。
〇2018年2月、文部科学省は、2022年4月から年次進行で実施される高等学校学習指導要領の改訂案を公表した。55科目中、新設や見直しが27科目を数えるという大幅な改訂である。内容的には、従来の知識偏重から思考重視への移行、すなわち「思考力・判断力・表現力等」の「新しい学力観」に立つ教育の推進である。また、「愛国心」や「領土問題」について踏み込んだ記述がなされている。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(前文)、「自国を愛し、その平和と繁栄を図る(中略)大切さについての自覚などを深める」(新設科目「公共」の目標)などがそれである。
〇今回の改訂で注目されることのひとつは、小・中学校の学習指導要領と同様に、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の「視点」が強調されていることである。そのひとつのきっかけは、2008年3月の中央教育審議会大学分科会制度・教育部会の「学士課程教育の構築に向けて(審議のまとめ)」や、2012年8月の中央教育審議会答申(「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」)における「提言」である。前者では「学生の主体的・能動的な学びを引き出す教授法(アクティブ・ラーニング)」、後者では「学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)」について言及された。
〇その後、「アクティブ・ラーニング」は、用語の多義性などに基づく多様な懸念や批判を受けて、「主体的・対話的で深い学び」と表記が変えられる。それは、「アクティブ」という用語の後退であるが、教育や学びの「方法」から授業改善の「視点」への転換であり、逆に小学校から大学までの、しかもすべての教育活動への「アクティブ・ラーニング」の導入を意味する。そこには、超少子高齢人口減少多死社会と政治・経済のグローバル化、高度情報化などがさらに進展するなかで、国際競争力を強化するための財界の思惑や要請が透けて見える。
〇もうひとつ注目されるのは、現行の教科「公民」中の選択科目「現代社会」を廃止し、必修科目として「公共」が新設されることである。しかも、学習指導要領の総則(第7款)に新たに「道徳教育に関する配慮事項」を示し、科目「倫理」並びに「特別活動」とともに、道徳教育の充実を図るための「中核的」な科目として「公共」を位置づけている。高等学校における道徳教育の強化、特定の価値観や生き方の強制である。小学校では2018年4月から、中学校では2019年4月から「特別の教科 道徳」(「道徳科」)の授業が始まっている(始まる)。
〇高等学校学習指導要領の改訂案でさらに注目されるものに、「カリキュラム・マネジメント」の重視がある。カリキュラム・マネジメントとは、各学校が設定する教育目標の実現に向けて、生徒や学校、地域の実態を踏まえて教育課程を編成・実施・評価し、改善していくことを通して、組織的・計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくことをいう。それはあくまでも、教育課程(カリキュラム)の「最低基準」であり、法的拘束力を有する学習指導要領に基づいたマネジメント(運用)である。
〇いま、筆者の手もとに、小針誠(こばりまこと)の『アクティブラーニング―学校教育の理想と現実―』(講談社、2018年3月)がある。本書では、「現代日本の学校教育で、なぜアクティブラーニングまたは主体的・対話的で深い学びが提起、導入されようとしているのかを歴史的に解き明かし、批判的に考えて」(8ページ)いる。その際、小針にあっては、「アクティブラーニング」とは「さまざまな活動や体験を採り入れることも含めて、アクティブな視点で学習者の主体的で能動的な学びを促進し、深めていくこと」をいう(18ページ)。アクティブ・ラーニングについての表層的な入門書や概説書、ハウツー本などは多く見られるが、その教育効果を十分に実証するものには出会わない。そうしたなかで本書は、アクティブ・ラーニングに関する注目の一冊である。
〇以下では、例によって、小針の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。「です・ます」調を「である」調に変換。見出しは筆者)。
アクティブ・ラーニングをめぐる5つの幻想
アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学びには、次のような「幻想」がある。「幻想」とは根拠のない空想や、現実にならないことを思い描くことをいう。
第1の「幻想」は、先行き不透明な未来社会を生きる子どもには、アクティブラーニングが必要で、これまでの教育では目標を達成できないだろうというものである。
第2の「幻想」は、活動的な学び(アクティブラーニング)をおこなえば、子どもたちは主体的・能動的に学ぶこと(アクティブラーニング)ができるだろうというものである。
第3の「幻想」は、学校でアクティブラーニングを経験すれば、知識や技能を活用できる新しい学力(思考力・判断力・表現力)、学ぶ意欲や「生きる力」が高まるだろうというものである。
第4の「幻想」は、研修や指導を通じて教師自らが主体的に学ぶ機会を提供すれば、どの学校や学級でもアクティブラーニングが達成可能になろだろうというものである。
第5の「幻想」は、以上の4点より、アクティブラーニングは好ましく、国の教育政策として導入されるべきだというものである。(5~6ページ)
文部科学省が言う「主体的・対話的で深い学び」
文部科学省の説明や学習指導要領の記述をもとに、「主体的・対話的で深い学び」について説明しておく。
「主体的な学び」とは、学ぶことに関心をもち、自己のキャリア形成とも関連づけながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動をふりかえりながら、つぎにつなげる学びを言う。「対話的な学び」とは子ども同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲(昔の優れた思想家や書物)の考え方を手がかりに考え、自己の考えを広げ深める学びを指す。そして「深い学び」とは、それぞれの教科や領域などの特質に応じた「見方・考え方」にもとづいて、知識を相互に関連づけてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見出して解決策を考えたり、思いや考えをもとに創造することに向かう学びを指している。(50~51ページ)
アクティブ・ラーニングとカリキュラム・マネジメント、そして「ふとり教育」
(今回の学習指導要領の改訂によって)いずれの学校段階や教科教育さらには教科外教育でも、教師は一方的な説明だけに終始せず、グループディスカッション、グループワーク、課題解決型学習などを採り入れつつ、主体的・対話的な学びを通じて、さらに学びを深めることが求められる。(59ページ)
アクティブラーニングの視点を導入すれば、学校教育は20年前の「ゆとり教育」から、教師も児童・生徒もじゅうぶんに消化しきれないほど盛りだくさんの「ふとり(太り)教育」になることは目に見えている。(59ページ)
「ふとり教育」の肥大した部分をどうするかは、「カリキュラム・マネジメント」をおこなう学校の裁量に大きく委ねられることになり、学校(校長)や教師それぞれが責任を負うことになる。(60、62ページ)
「参加しない自由」と“必然性のある学び”の重要性
能動的な参加ということは、学習者自らが積極的に参加し、他者と関わらないかぎりは、対話的な学習がはじまらない。しかし、そうであるならば、「参加しない自由」が担保されなければならないのではないか。仮に参加しない自由が認められないとすれば、それは他者からの「学びの強制」であり、字面通りに解釈すれば、主体的な学び(アクティブラーニング)にならないばかりか、個人の内面に対する過剰な介入になってしまう。(239ページ)
また、他者との協働を通じた対話的な学びばかりではなく、個々の子どもたちによる個別的な学びの機会も同じように大切にされ、認められなければならない。さもなければ、協同(協働)学習の試みは、個の自立よりもむしろ集団への強制的な同調や埋没を促すだけの実践に陥りかねないからである。(240ページ)
新学習指導要領とアクティブ・ラーニングの問題点
今回実施される学習指導要領では、細部にわたって教科指導・教科外指導のあり方を規定しているため、学校、教師、子どもの「自由」「個性」「ゆとり」「自主性」がじゅうぶんに確保されていない。それが今回のアクティブラーニングの決定的な弱点であり、問題点である。学校教育史上、教師と子ども双方にとって、もっとも主体性を喪失させ、じゅうぶんな対話のない学びになる可能性さえある。
これまでの日本の学校教育の歴史を顧みて言えば、〈アクティブラーニング〉の導入が試みられた時代こそ、ほぼ共通して、大人(国や社会)の一方的な希望や期待が子どもやその教育に非常に強く反映された社会であった。つまり、子どもを学びの主体や主人公とすることを教育の理念として掲げながら、そのじつは子どもを操作可能な存在とみなし、子どもに対して自発性や活動・体験への参加を過度に要求し、大人の意に従わせてきたと言えるのではないだろうか。(257ページ)
(今回の学習指導要領では)名ばかりの「主体的・対話的で深い学び」に対して、「受動的・他律的・雑談的で浅い学び」を教師や子どもたちに強いて、学校は、ただ現状を追認するだけの政治的・経済的人材の育成に向けて、子どもたちを飼い慣らしていくことになるのではないだろうか。(258ページ)
〇以上から、学校教育改革の動向について管見を加味し、単純化して示せば次のようになろうか。
また、教育の政策化に際しては、もはや時代錯誤ではあるが、<人口増加×経済成長>を前提とする資本主義の原理的な理解や認識がある。その一方で、<人口減少×定常経済>という現代資本主義社会の「定常状態」(活発な社会・経済活動が展開されているものの、その規模自体は拡大していない状態)についての現象的理解・認識がある。そして、その狭間で揺れ動く国や政府の教育政策(その本質は市場主義の論理に基づく政策)がある。とりわけ政治主導で進められる近年の、管理・統制社会へのベクトルを強化する学校教育改革は怖い。
〇最後に、唐突の感は免(まぬが)れないが、管理・統制教育の対極にある(あるべき)真の「アクティブ」で「深い」学びとは何かということに関して、議論すべき点のひとつとして、1985年3月に採択されたユネスコの「学習権宣言」を思い起こしておきたい。学習権とは、「想像し、創造する権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」「あらゆる教育の手だてを得る権利」であり、「人間の生存にとって不可欠な手段である」。真の「アクティブ」で「深い」学びは、形式的なものではなく、この学習権の行使と保障について個々の子どもと教師双方がいかに理解・認識し、態度・行動に表すかが問われる課題である。言い換えれば、学習権についての内的な思考と結果の表出(外化)、その過程(思考過程と表出過程)が問われるのである。しかも、子どもと教師に、学習や教育の名ばかりの「主体」ではなく、自己決定権を有す「主権者」であることを求める。留意したい。
付記
〇「学習指導要領改訂の方向性」を図示したものである(文部科学省「中央教育審議会答申(補足資料)」2016年12月、6ページ)。
〇「主体的・対話的で深い学びの実現について」図示したものである(文部科学省「中央教育審議会答申(補足資料)」2016年12月、13ページ)。
〇大学におけるアクティブラーニングの「失敗結果」と「失敗原因」を図示したものである(中部地域大学グループ・東海Aチーム編『アクティブラーニング失敗事例ハンドブック~産業界ニーズ事業・成果報告~』一粒書房、2014年11月、3~6ページ)。
〇高校福祉科のアクティブ・ラーニングに関しては、藤田久美編著『アクティブラーニングで学ぶ福祉科教育法―高校生に福祉を伝える―』一藝社、2017年3月、がある。