「ひとりでボーっと生きてんじゃねーよ!」:幸せは“関係性の豊かさ”にあるという言説―ステファーノ・バルトリーニ著『幸せのマニフェスト』読後メモ―

練りに練ったアイデアより、一瞬のひらめきが勝ることがある。このひらめきが、「ぼんやり」から生まれることが近年分かってきた。実は、何もせずにぼんやりしている時の脳は、意識的な作業をしている時の15倍ものエネルギーを消費している。つまり脳は働いている。(中略)確かに、思わむ文章が突然に浮かぶことがある。(日本農業新聞「四季」2018年11月30日)

〇筆者(阪野)が本稿を草することを思い立ったのは、畑仕事の合間に、ひとりで「ぼんやり」とあたりを見回していたときである。最近、畑仕事をすると以前にも増して疲労度が高まることに、「ガッテン」した。筆者がひらめきをメモるのは、かつては小さな手製の用紙であったが、いまはそれが携帯の電子機器に変わった。そのせいではないが、当初のひらめきはあらぬ方向へ漂っていったり、霧散霧消することも多くなった。別の意味で、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われそうである。
〇朽ちかけた白壁土蔵のある広い屋敷の旧家に、ひっそりと暮らす老夫婦がいる。同じ仕様の可愛い分譲住宅が立ち並ぶ一画からは、子どもたちの無邪気な笑い声が聞こえてくる。“幸せ”はどこにあるのか、を考えてしまう筆者が暮らす地域の光景である。老夫婦はかつては、上がり框(かまち)や縁側で、豊かな人間関係を持っていたのであろう。若い家族はこれから、外向きに開く玄関のドアから、新たな社会関係を作り上げていくことになる。
〇筆者の手もとにいま、2冊の本がある。(1)古沢広祐『みんな幸せってどんな世界―共存学のすすめ―』(ほんの木、2018年3月。以下[1])と(2)ステファーノ・バルトリーニ、中野佳裕訳『幸せのマニフェスト―消費社会から関係の豊かな社会へ―』(コモンズ、2018年7月。以下[2])、がそれである。古沢は環境社会経済学、イタリアのバルトリーニ(Stefano Bartolini)は経済学、中野は社会哲学を専攻する。本稿では、それぞれの論述から、注目しておきたい論点や言説のいくつかを紹介しておくことにする(抜き書きと要約。[1]は「である」調に変換。見出しは筆者)。

(1)古沢広祐『みんな幸せってどんな世界―共存学のすすめ―』
人類社会ではいま、生存環境の危機、グローバル社会経済システムの歪み、人間存在の空洞化(実存的危機。存在の不安定化や揺らぎ:阪野)が進行している([1]176~177ページ)。古沢は、世界が直面している経済・社会・文化・自然などの諸問題について多面的・多角的に考察し、「みんなが幸せに生きる世界」への道筋を探る。その際に拠って立つ視点が「共存」である。そして、互いの存在を受け入れ、「関係性の豊かさ」を追究する「共存学」を構想する。

「共生」と「共存」
「共存」という考え方は、これまでキーワードとされることが多かった「共生」という理想よりも緩やかな概念である。(中略)「共生」や「みんなが幸せであること」のように、全員が一つの価値観を共有することを理想とする世界は簡単には実現しないし、持続もしない。実際の世界で起きている出来事はもっと多様で複雑である。他者や他文化を許容し、受け入れ、変化を強制しないという意味で、「共存」を考えたい。多様な考え方や価値観、存在のあり方を探って困難な問題を解決に導くには、「共存」を土台に考えることこそ意味がある。
([1]11~12ページ)

「環境的適正」と「社会的公正」
新時代を象徴するキーワードとして、「持続可能な発展・開発(Sustainable Development)」という言葉が世界的に定着してきている。([1]42ページ)
持続可能な開発とは、より具体的には「環境、経済、社会について調和のとれた発展をめざすこと」と解釈されるのが一般的である。補足して言いなおすと、「発展の原動力である経済発展を、環境的適正(調和)によって、また社会的公正(貧困や格差の是正)によって、調和をはかる(調整される)こと」となる。([1]43ページ)

「結束型」紐帯と「橋渡し型」紐帯
人間存在のあり方については、「社会関係資本」(ソーシャルキャピタル)という考え方を手がかりにしてとらえることもできる。地域社会の基盤を強化する働きとして、近年注目されてきた概念である。人々のつながりや関係性が、地域社会の土台・基礎を形づくっている様子を示す。そこには、狭く限定的な結びつきとしての「結束型」紐帯(ちゅうたい)と、広域性をもつ多様でゆるやかな「橋渡し型」紐帯の二つのタイプがある。
地域がその存在基盤を揺るがされるとき、この二つの要素が微妙に重なりながら地域再建の動きとして展開されると考えられる。仲間内だけの狭い関係(結束型)だけに閉じこもらず、開かれた関係性(橋渡し型)が生じて、その両方がうまく連動することで思いがけない展開が生まれるのである。([1]130ページ)

「共存」と「共存学」
現代という時代が「共生」という理想ではとらえがたい状況にあり、混迷期を迎えていることへの仕切りなおし的な意味をもつ。
「共存学」では、対立や敵対を回避しつつ、より創造的な関係性への契機を含み込んだ状況に光をあてて究明していくこと、多角的視点から世界をとらえなおす取り組みをしてきた。「共存」とは、「多様な人間集団(地域社会、国家、国際社会)の存在様式において、敵対的関係(他者の否認)ではなく、互いに存在を受け入れ(存在受容)、関係性を維持しつつ多様性構築の可能性を保持する様態」ととらえている。
人間の世界は複雑な関係、安定性を欠いた緊張状態を内在させている。そこに、協調的関係と秩序が形成される過程として、対立、敵対、諸矛盾の克服・調整を経つつ、安定性や持続性に向かう共存の関係が形成されてきた。そして、共存からより安定した共生の関係が模索されてきた。それは一方向的で単純な動きではなく、複雑なダイナミズムと矛盾を秘めた多義的・重層的な諸関係を内在させている。いわば「共生」にいたるまでには多義的な経過や展開があり、その原初的形態とも呼ぶべき「共存」をキーワードに、諸問題を探る試みとして共存学は構想されたのである。([1]182~183ページ)

(2)ステファーノ・バルトリーニ、中野佳裕訳『幸せのマニフェスト―消費社会から関係の豊かな社会へ―』
深刻な現代社会の危機は、「関係性の衰退や幸福感の低下」([2]12ページ)によって特徴づけられる。バルトリーニは、“幸せ”の問題を主観的・個人的なものとしてではなく、社会的・制度的な問題として捉える。そして、「関係性の貧困」や「防衛的資本主義」に関するデータ分析を通して、脱物質主義的な社会構想(政策案)を提示する(注(1):阪野)。バルトリーニはいう。「経済成長を盲目的に信頼する文化」は「古びてきている」([2]318ページ)。アメリカは模倣すべき「モデル」ではない。

「関係性の衰退(貧困)」と「防御的な経済成長(資本主義)」
幸福度に関する、1975~2004年の米国のデータによると、所得の増加は幸福度にプラスの効果を与えるが、それ以上にマイナスの効果が上回っている。その主な要因は関係性の衰退である。さまざまな指標は、孤独、コミュニケーションの困難さ、不安、孤立感、人間不信、家庭崩壊、世代間の分断の増大、連帯や誠実さの低下、社会参加・市民参加の減少、社会環境の悪化を示している。
この幸福度指標は、社会関係財という概念を統計学的に示した結果である。この指標は、社会関係を通じて得られる人間の経験の質を示している。社会関係財が幸福度に与える影響は非常に大きい。([2]27ページ)
社会関係の悪化を引き起こす傾向にある経済的・社会的組織の類型を、〈防御的な経済成長によって動かされる資本主義〉(防衛的な資本主義)と呼ぼう。このようなタイプの資本主義では、経済成長が社会関係の悪化を引き起こすとき、経済の拡大成長によって社会関係(および環境)の破壊を推進するプロセスが発生し、そのプロセスが経済成長を導く。自己展開するこのメカニズムによって、私的所有に基づく富は増加し、コモンズ―社会関係財、環境―はますます欠乏していく。([2]31ページ)
社会関係の悪化は、さまざまな意味で現代人を〈働き詰めの生産者〉と〈熱心な消費者〉に変えてしまった。現代人はアイデンティティと魂の抜けた居住区に暮らし、それゆえに社会関係の悪化に一層晒(さら)され、より多く働き、生産し、ストレスを溜(た)め込んで慌(あわ)ただしく生活し、自動車を乗り回している。それゆえ、お金が必要となる。現代人はこのように暮らしながら社会関係と環境を悪化させ、そこから逃げようとする。これこそが防御的な経済成長の悪循環だ。([2]49ページ)

「消費文化」と「外発的」動機
我々の社会関係の質に影響を与えるきわめて重要な要素は、文化だ。(中略)関係性の悪化を導く文化は「消費」文化である。
消費文化、すなわち消費主義文化は、生活における外発的動機づけを重視し、内発的動機づけは軽視する。外発的動機づけと内発的動機づけの区別は、行為の動機を支える手段の違いとして現れる。「外発的」という言葉は、お金のように、人間の活動の本質とは関係のない動機につけられる。これに対して「内発的」という言葉は、友情や連帯や市民感覚など人間の内面における動機を指す。要するに、消費主義的な価値観を採用する諸個人は、感情、社会関係一般、社交的な行動をあまり重視せず、お金、消費財、経済的成功などの外発的な目標に高い優先順位を置く。([2]34ページ)
米国社会における社会関係の衰退の最も有力な要因は、この類の消費文化の普及である。([2]36ページ)

「社会関係財」と「社会関係資本」
社会関係財は、社会科学で広く使用されている「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」概念の一構成要素である。社会関係資本は、諸個人の間や個人と制度の間に存在するあらゆる種類の非経済的関係を指す。社会関係財以外にも、たとえば政治投票への参加、市民意識、制度に対する信頼などが社会関係資本に含まれる。([2]89ページ)
ロバート・パットナムは、米国の社会関係資本が1960年代以降衰弱しており、この傾向が米国内の社会的まとまりと民主主義の安定性を長期間脅かしていることを指摘している。([2]89ページ。注(2):阪野)

「ポスト・デモクラシー」と「民主主義の衰退」
コリン・クラウチ(イギリスの社会学者・政治学者)が使用する「ポスト・デモクラシー」という用語は、現代民主主義がその政治的意思決定過程において経済エリートからの大きな影響を受けている事実を示す。政治的意思決定は多くの場合、選挙で選出された政治家と経済的権益を独占する民間グループ〔=大企業など〕の間のやりとりに基づいている。その一方で、投票だけでなく討議や自主組織を通じて大衆が公共的選択に参加する可能性は著しく減っている。
ポスト・デモクラシーは民主主義ではない。なぜなら、公共的問題の管理を民主主義以前の状況―つまりは閉鎖的なエリート集団に帰属させる状況―にまで後退させているからだ。市民の役割は選挙の投票に行くだけとなった。しかも選挙は、事前に決められた限定的なテーマへと公共の議論を誘導する情報伝達の専門家たち〔=マスメディアなど〕によってコントロールされている。選挙という儀式の外で、市民は受動的で従順で無感動に生きる役を演じるように求められているのだ。([2]60~61ページ)
ポスト・デモクラシーは、防御的な資本主義の制度的支柱のひとつだ。我々に必要なのは生活可能な世界であり、より大きな経済的繁栄ではない。しかし、ポスト・デモクラシーは生活可能な世界をつくるのではなく、お金を増やすように我々を駆り立てる。([2]61~62ページ)
ポスト・デモクラシーは、お金を求める経済競争に火をつける。([2]62ページ)

〇バルトリーニによると、現代資本主義社会の病理の原因は、消費主義的価値観・文化の普及拡大による社会関係や親密な人間関係の悪化にある。その典型はアメリカに見られるが、ヨーロッパや日本においても例外ではない。そうした病んだ「消費社会」に取って代わるべきは、脱物質主義的価値観・文化に基づいて社会的共有財を重視する「関係性の豊かな社会」である。その社会を構築し支えるのは、内発的動機による労働である。
〇バルトリーニはいう。「消費主義の普及の主犯格は経済システムと教育制度である」([2]36ページ)。市場経済システムのもとでは、社会関係は個人的・物質的な利潤に基づくものとなる。関係性の豊かなまちづくりを進めたり、信頼・協力関係や満足度の高い労働の実現を図るためには、「連帯経済」の成長が求められる。連帯経済活動には、企業の社会的責任や非営利組織(NPO)、社会的協働組合などによるさまざまな活動があるが、それらは内発的動機づけに支えられている([2]306~307ページ)。
〇「学校は既存の体制(ステータス・クオ〈Status quo:阪野〉)を変革するためのエンジンとならねばならないのに、現在ではそれを再生産するために機能している」([2]58ページ)。「現代学校教育のキーワードは、認知能力を偏重する教育、生徒を社会から隔離する教育、課題の増加」([2]59ページ)である。「生徒が彼ら自身のニーズに応じて社会的・制度的環境を変える能力を発達させる教育を行うべきだ」([2]57ページ)。バルトリーニの教育言説である。
〇日本社会では、民主主義の根幹を揺るがす「政治の劣化」と「行政の劣化」が加速している。「地方創生」(「まち・ひと・しごと創生」)や「一億総活躍」(「働き方改革」)、「地域共生」(「我が事・丸ごと」)などの「お守り言葉」(鶴見俊輔)が多用され、乱舞している。真に成熟した社会とは到底思えず、負の現象が顕著に見られるスカスカの「定常型社会」である。アメリカ以上に深刻である。
〇最後に、[2]の訳者である中野佳裕の解説文「関係の豊かさとポスト成長社会」中の「日本への示唆―関係の豊かな社会は可能だ」([2]335~339ページ)を筆者なりに別言して、次のように述べておきたい。
グローバリズムの時代は終焉を迎え、世界各地でローカリズムの推進が図られている。しかし、日本の政界や産業界は、「経済成長神話」の呪縛にとらわれ、凋落するアメリカに追随(「アメリカ信仰」)している。そして、周回遅れの経済・社会改革や教育改革に余計な汗を流し、とりわけ現場はその「改革」とやらに振り回されている。教育は、「市場原理」や「競争原理」が導入され、政府による統制強化や右傾化が進んでいる。あるべき教育は、その時代の国家権力や経済社会のニーズに迎合することではない。いま求められるのは、主体性・創造性や自律性・内発性を重視した「関係の豊かな社会」(バルトリーニ)、「みんなが幸せに生きる世界」(古沢)の形成とそのための「市民」の育成である。


(1) 「働き方の改革」と「資本主義的労働」
バルトリーニは、「我々がもし幸福感に満ちた生活を欲するのであれば、(中略)生き生きとしたコミュニティや豊かな社会関係の発展を妨げる社会的・経済的・文化的制約を取り除く必要がある」([2]176~177ページ)という。そして、そのための政策(「幸せのための政策」)として、①「関係の豊かな都市をつくる」、②「子どものための政策」、③「広告に対する政策」、④「民主主義を変える」、⑤「働き方をどう変えるか」、⑥「健康のための政策」、などを提案する。
そのうちの、例えば⑤「働き方の改革」については、「労働満足度を改善するために何をすべきかについて明確なレシピを抽出できるだろう。それは、興味をもてるような仕事、ストレスの低い仕事、意味のある仕事、人間関係・社会関係構築の手段となる仕事の4目標に集約される」([2]237ページ)とする。そして、具体的に、①働く人の自由裁量と自律性を高める。②圧力、管理、インセンティブ(目標を達成するための奨励・刺激:阪野)など、労働組織のなかでストレスを生み出す要素を減らす、③仕事のプロセスが面白くなるように、労働内容をリデザインする、④労働と生活の他の側面を両立可能にする、⑤職場の人間関係の質を改善する、などを提案する。
例によって唐突であるが、資本主義社会(資本主義的生産様式)が根源的・恒常的に抱える「矛盾」に、「賃労働」(労働力の商品化)や「労働疎外」がある。労働疎外には、マルクスによると、①労働の生産物からの疎外、②労働行為における疎外、③(自由に意識的・創造的に活動することができる生き物である人間の)類的存在からの疎外、④人間からの人間の疎外、の4つがある(マルクス、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』(文庫)岩波書店、1964年3月)。資本主義社会における労働は、資本によって強制される「苦役」(マルクス)であり、基本的には「内発的動機」によって行われるものではない。こうした考えに立つと、バルトリーニが説く「防御的資本主義」も資本主義社会の「矛盾」のひとつのあらわれ(現象形態)である。また、上述の対症療法的な諸提案については、資本主義社会の本質的理解に基づく議論が求められる。あえて付記しておきたい。
(2) 「社会関係資本」と「社会関係財」
バルトリーニは、「社会関係財は、社会科学で広く使用されている『社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)』概念の一構成要素である」といい、ロバート・パットナムの議論についてふれる。
アメリカの政治学者ロバート・D・パットナム(Robert D.Putnam)は、1993年に出版した『哲学する民主主義』(河田潤一訳、NTT出版、2001年3月。原題 Making Democracy Work)において、「社会関係資本」を次のように定義している。「調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(206~207ページ)、がそれである。要するに、社会関係資本は、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率を高める働きをする社会的な関係をいう。そして、その内実・構成要素は「信頼」「規範」「ネットワーク」の3つである。パットナムはいう。「信頼、規範、ネットワークのような社会資本の一つの特色は、普通は私的財である通常資本とは違い、普通は公共財である点である」(211ページ)。
筆者はパットナムの言説から、社会関係資本は、人々の協調行動を活発にする「ネットワーク」(社会的つながり)と、そこから生まれる「互酬性の規範」(お互いさまの支え合い)、そして一般的な人々に対する「信頼感」によって構成される、と理解している。
詳細については、本ブログ中のカテゴリー[まちづくりと市民福祉教育](5)「ソーシャル・キャピタルと市民福祉教育」/2012年8月21日投稿、を参照されたい。