「冷たい社会」を「冷たい頭」で考える、そこには「厳しい闘い」と「本当の優しさ」がある:子ども・青年と大人の社会認識や市民性を形成するための愉快な“学び”について―タコツボ的思考からの脱却とネットワーク型思考の展開―

〇昨年11月の日本福祉教育・ボランティア学習学会第24回大会(「あいち・なごや大会」)の「分科会」(自由研究発表)に参加した際、ある種の懸念や危惧が筆者(阪野)の頭をよぎった。福祉教育実践や研究は、その基軸である地域性と共働性をはじめ、多様性と共通性、学際性と総合性、創造性と変革性などについての「知」と「心」と「力」の育成・共有を確かなものにしてきたか。その取り組みはタコツボ化し、硬直化しているのではないか、というのがそれである。多少具体的にいえば、福祉教育は、①その成立基盤であり構成要素でもある科学的な「社会認識」の形成、②その理念や思想とされる「社会的包摂」や「共生社会」についての単一的思考からの解放、そして③その地域・社会の真の「あるべき姿」を展望し未来(あす)を切り開く「市民性」(市民的資質・能力)の育成、などをめぐる問題点や限界についての懸念や危惧である。
〇そんな思いを持ちながら、2019年元日に、不遜の極みであるが布団の温もりとほろ酔い気分のなかで(1)井手英策『18歳からの格差論―日本に本当に必要なもの―』(東洋経済新報社、2016年6月。以下[1])と(2)井手英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科―未来を語るために―』(有斐閣、2017年9月。以下[2])を読み返すことにした。
〇[1]のメッセージは、僕たちは「社会的弱者を見て見ぬふりする社会」「誰かのための負担をきらう、つめたい社会」「つながりの危機に直面した、生きづらい分断社会」に生きている。「弱者を生まない、誰も後ろめたさを感じなくていい。僕たちはもっと生きる価値のある未来を創り出すことができる」(カバー「そで」)。「誰もが自分の生き方を自分で決められる、そんな自由で公正な社会の可能性を一緒に考えてみませんか?」(112ページ)、である。[2]は「経済、政治、社会をめぐるさまざまな出来事を、できるだけわかりやすい言葉で、できるだけ多様な視点で説き明かし、最後に未来への一つの方向性」(3ページ)を示している。それは、知的な権威に批判的な態度をとる「反知性主義」に対する、「上から目線」の「ささやかな抵抗」(3ページ)でもある。その際、[1]は「財政学」の視点から、[2]は財政学(井手)、政治学(宇野)、経済学(坂井)、歴史学(松沢)などの「社会科学」の立場から説述し、提言を行う。
〇[1]の目次は次の通りである。井手の立ち位置や視点・視座、言説の内容の大筋を知ることができる。また、その項目だけからも、いまの日本社会を思索する際の多くの知的ヒントを得ることができる。

〇以上の項目をめぐる論述について、そのポイントを要すれば次の通りである。かつて「平等主義国家」と呼ばれた日本社会はいま、「格差社会」「分断社会」「自己責任社会」である。この社会を作り出した責任は、政府や財界だけにあるのではなく、「ふつうに生活している人たち、そう僕たちみんな」(29ページ)にある。日本は先進国のなかでも「小さくて効率的な政府」(20ページ)であり、「税への抵抗」が強く租税負担率も低い。「育児・保育、教育、医療、介護、障がい‥‥‥人間が人間らしく生きていくためには、さまざまなサービスが必要である。このサービスを(貧困層に限らず)みんなが受け取り、かわりに必要な財源を(所得に比例して)みんなで分かちあう」(5ページ)。すなわち、「取られる税」から「くらしのための分かちあい」(101ページ)へと視点を変換する。それによって、誰もが・中高所得層も「受益者」になり、「働かざる者食うべからず」の考え方や姿勢などお互いが対立・反発し合うことはなくなる。ここに、「絆」に頼るのではなく「絆」を作り出す(112ページ)、公平・公正で優しい社会が実現する。これが、井手が言う「必要の政治」の戦略(制度設計)である。それを支える哲学は、「所得の大小で人間を区別しない」「お金なんかで人間を評価しない」(96ページ)というものである。
〇ここで、[1]から井手の「思想の根っこにある考え方」(93ページ)について抜き書きする。そこには、福祉教育実践や研究のあり方を再認識する、あるいは問い直す視点や視座が見出される。科学的で革新的な「ネットワーク型思考」に基づく「発想の転換」や「逆転の発想」に留意したい。

◍ 考えてください。そもそも弱者を「助けてあげる」ことは100%正しいのでしょうか。(75ページ)
◍ 救済――それは、人間の善意であり常識でさえあります。でも、それは同時に、確実に、そして深く、人間を傷つけてしまいます。このことに気をつけないと、「救済」と「自己満足」とは紙一重になってしまうのではないでしょうか。(76ページ)
◍ 「傍観」することだけは絶対にやめなければならない。それは未来を創造する権利を投げ出すことだからです。(79ページ)
◍ かわいそうだから助けてあげるのではない、理不尽だから闘うのだ、(中略)弱者の幸福ではなく、人間の幸福を追求するのだ。(93ページ)
◍ みなさん。一度、人間の「違い」ではなく、「同じところ」に想いをはせてみませんか?(中略)みんなが必要なものの組みあわせについて。(110ページ)。
◍ 僕たちは、連帯や団結を人間に強いることはできません。なぜなら人間は人間の心を支配することはできないからです。(110ページ)

〇[2]では、いまの日本「社会をほどき、結びなおす」(1ページ)ために、(1)経済に関連する「GDP」「勤労」「時代」、(2)政治をめぐる「多数決」「運動」「私」、(3)社会における「公正」「信頼」「ニーズ」、(4)未来を読みとくための「歴史認識」「公」「希望」という12のキーワードを取りあげ、切れ味鋭く解説する。それは、「ぐずぐず言わずに考える!」(「帯」)、「知」の力で社会を変える、そのための「共通の知的プラットホーム」(3ページ)すなわち「教科書」の作成・提供である。
〇ここで、[2]から、筆者の関心事項について、そのいくつかを抜き書きあるいは要約する(「である調」に変換。見出しは筆者)。

運動の「正当性」とそのゆらぎ/第5章「運動」(松沢)
「自分たちのことは自分たちで決める」を理念とする民主主義社会では、理念と実際のずれを埋めるために、運動はなくてはならないものである。ある運動が起き、とくにそれが一定の広がりや影響力をもつ場合には、運動参加者のあいだで何らかの価値が共有されていること、また運動参加者はそうした価値が、運動が働きかける相手にも共有されていると考えていること、が前提となる。この「正当性」によって運動は支えられる。正当性の確保に失敗すれば、運動は失敗する。そもそも運動を起こすためには、一人ひとりの個人が結びついて〈私たち〉としてまとまることが必要である。その結びつきの軸になるのが正当性であるが、その軸は時代によって変する。いまの日本社会では、その軸が多様化しており、単一の〈私たち〉を立ち上げることはできなくなっている。それは、一面で、多様な価値観の共存を許す社会に近づいている、ということを意味してもいるが、現代日本の運動は、正当性のゆらぎのなかに置かれていると言える。(88~100ページ)

社会問題の個人化と民主主義の危機/第6章「私」(宇野)
民主主義とは、自分たちの問題を、自分たちの力で解決していく営みである。ところがいまや、若者は自らの生活に不安や不満を抱えていても、ともに問題を解決するための〈私たち〉をみつけられずにいる。団結すべき〈私たち〉の不在――現在の日本の民主主義の最も脆弱な部分がそこにある。かつては、社会問題を解決するにあたって、同じ境遇にある労働者の団結をめざす労働運動も可能であった。今日では労働者といってもおよそ一枚岩ではない。社会問題は、個人にすべて帰責できない事柄までが、個人の問題のように現れている。この社会問題の「個人化」こそが、〈私たち〉の問題を、〈私たち〉の力で解決する民主主義を困難にしている。(105~109ページ)

人々の節度と共生社会の創造/第7章「公正」(坂井)
他者とのかかわりのなかで自分が不公正に扱われることを嫌がり、対等に扱われたいと欲する自尊の心理は、人間が自然にもつものである。そしてこの心理は、他者が自分を対等に扱ってくれるのならば、自分も他者を対等に扱おうという感情につながる。ただしそうつながるためには自尊の心理に節度が必要である。節度がなく暴走すると、自分だけを尊重せよ、自分は他者を尊重しないという感情になってしまうからである。人々が節度をもち、互いを対等に扱おう、互いに必要とするものを尊重しあおうという感情は、人々が共生する社会の礎(いしずえ)となる。節度がきかないならば、相互尊重ではなく、自分だけを優遇せよとなるから、人々が互いに必要とするものを支え合う社会はつくれない。(134~135ページ)

「安心社会」の崩壊と「信頼社会」の構築/第8章「信頼」(宇野)
終身雇用や年功序列といった特徴をもつ日本企業に代表される、いわゆる「日本型組織」は「安心社会」の最たるものである。そのような日本の「安心社会」にも変化がみられる。日本社会は、「安心社会」ではなくなりつつある一方、他者との信頼関係に基づく新たな「信頼社会」にはうまく適応できず、結果として周囲に同調してしまっている、と指摘される(社会心理学者/山岸俊男)。現在、注目が集まっている考え方の一つに「ピア・ネットワーク」(peer network)がある。この場合の「ピア」とは「仲間」や「同等の立場の人間」をさす言葉である。上から下への支持(ママ。指示:阪野)・命令関係ではなく、対等な人間のあいだの相互評価とネットワークこそが、社会を動かす新たな原理となるべきである。「ピア・ネットワーク」は、21世紀の「信頼」の形なのかもしれない。上から力によって統制されるばかりでは、社会は円滑にも、効率的にも運営されない。社会を真に支え、動かすのは「信頼」である。(142~143、150~151ページ)

「パブリック」と「生活の場」「生産の場」「保障の場」の再編/第11章「公」(井手)
自助と共助に委ねられ、依然として自己責任に支えられた日本の財政をどうするのか。このことについては、人々に共通の「パブリック」なニーズを今後どうするのかという問題に加えて、家族やコミュニティなどの「生活の場」、企業を中心とする「生産の場」、国と地方自治体、自治体と自治体という「保障の場」の関係をどう立て直していくのかが問われることになる。私たちはこれから、人口が急激に減少し、経済の成長がかつてほどには見通せない時代を生きていくこととなる。気持ちはどうしてもふさぎかちである。でも、「希望」はある。人間に大切なのは、人口増大や経済成長そのものではなく、どのように人間らしい生活を維持していくか、どのように将来の不安をなくしていくかということである。生活に必要なニーズを3つの場を鋳(い)なおして満たしていく――まさにいま、地域が人口や経済の規模に応じて「生活の場」「生産の場」「保障の場」のそれぞれに力点を置きながら、それぞれの形で生活ニーズを満たしあっていく、そんな多様性の時代が訪れようとしているのである。(196~197、207ページ)

「まだ―ない」希望と「ウォームハート」「クールヘッド」/第12章(宇野)
人間は「もはや―ない」過去によって規定されているのと同じように、「まだ―ない」未来によっても規定されているのではないか(ドイツのマルクス主義哲学者/エルンスト・ブロッホ)。「希望」は、「私たちのなかにすでにある力」を顕在化させることにある。そしてそのような力をはっきりと見定めるためには、「社会科学」の力が必要である。かつてイギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルは、「ウォームハート」(温かい心)と「クールヘッド」(冷静な頭脳)の必要性を説いた。希望という「ウォームハート」と社会科学という「クールヘッド」を結びつけること、これこそが本書のメッセージなのである。(213、224ページ)

〇宇野重規の著作に、『未来をはじめる―「人と一緒にいること」の政治学―』(東京大学出版会、2018年9月。以下[3])がある。「政治って何なのだろうか」という中高生に対する講義と座談の内容を収録したものである。講義は、「『人と一緒にいる』のは素晴らしいことであると同時に、時としてつらいことでもある。自分とまったく同じ人間は、世界のどこにもいない。当然、人と人には、いつも『違い』がある。『違い』があるからこそ、人と一緒にいることはおもしろいし、楽しいけれど、時には対立が起き、すれ違いが生じる」(ⅱページ。「である調」に変換)という「基本的感覚」からスタートしている。そして、宇野は言う。「社会において対立はなくならない」(55ページ)。「政治とは本来、互いに異なる人たちが共に暮らしていくために発展してきたもの」(2ページ)である。「政治とは結局のところ人と一緒にいるということ」(126ページ)である、と。
〇[3]から、下記の一文を紹介しておく(「である調」に変換。見出しは筆者)。併せて、次の一節に留意したい。「思い込みを捨てて、なるべく長い射程で物事を考えてみよう」(15ページ)。「ひょっとしたら悲観的(あるいは批判的:阪野)なことを言う方が知的であるように見えるかもしれない」(221、223ページ)。「凡庸(平凡)な人が何も考えなくなるとき、巨大な悪を生み出す」(253ページ)。「人間が生まれてきたのは始めるためである(ドイツ出身の20世紀の政治哲学者/ハンナ・アーレント。」(255ページ)。けだし至言(しげん)である。

「強いつながり」と「弱いつながり」
いままでの政治学は、どうも「強いつながり」ばかりを重視してきた気がする。同じ国民なのだから共に戦うとか、利益を同じくする集団が自らの主張を政治的に実現するとか、ややもすればみんな「強いつながり」(strong ties)の世界でばかりで議論をする。しかし、そういう枠組みばかりで政治を議論していると、どうしても話が煮つまってしまう。これからは、政治の議論でも、もう少し「弱いつながり」を大切にした方がいいのではないか。「弱いつながり」(weak ties)の関係をあちこちにたくさん持っていると、有益な情報が得られたり、視点や発想の転換が生じたりし、ブレイクスルー(行き詰まり状態の打開)に至りやすい。(131~135ページ)

「自由でありたい」と「一緒にいたい」
ルソー(フランス革命や近代教育思想に影響を与えた18世紀のフランスの哲学者)は、生涯にわたって、自分と他者のみならず、自分自身と折り合いをつけることにも苦労した人であった。ルソーは矛盾を抱え込んで悩み、それを乗り越える答えとして「一般意志」(政治社会に必要な一つの意志。いまで言う「民意」)という謎のキーワードを生み出した。これに対して、カント(18世紀のドイツの哲学者)はルソーの思想のうち、自分のことは自分できめたい、自分のボスでありたいという部分を重視して、自律を大切にする哲学をつくった。これに対しヘーゲル(19世紀のドイツの哲学者)は、やはり人間は一人で閉じこもっていてはダメで、矛盾だらけの社会で、少しずつ自由であることを学び、成長していくしかないと説いた。ルソーの中にある「いつまでも一人の人間として自由でありたい」という部分と、「それでも他の人と一緒に社会をつくっていきたい」という部分を、カントとヘーゲルがそれぞれ発展させたとも言える。そして僕らは、いまでも、この三人の思考の枠の中で、ものを考えている(139、159~160ページ)

〇[1]「2」「3」はともに、現代社会が抱える問題や課題について多角的、根本的かつ歴史的な視点に立って、平易な言葉で、幅広く・奥深く解説している。内容は重いが、その説得力とメッセージ性は強く、「知」の面白さやダイナミズムを感じる。また、コトの真贋(しんがん。真偽)を見極めるための新たな視座を得ることもできる。
〇最後に、井上ひさしの次の言葉を付記しておきたい。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでもゆかいに」(井上ひさし「前口上」『the座』第14号、こまつ座、1989年9月、16ページ下段。電子書籍版/小学館、2016年9月)。

付記
筆者の手もとに、中野佳裕(社会哲学)の『カタツムリの知恵と脱成長―貧しさと豊かさについての変奏曲―』(コモンズ、2017年12月。以下[4])がある。[4]は、大学の学部講義(「開発学」「平和研究」等)を書籍化したものであるが、「自分の生き方そのものの転換を志す者のための格好の手引き」(「帯」)と評される「読み物」である。「カタツムリは脱成長のシンボルである」(12ページ)。「アカデミアの世界は形式ばっていて、どことなく窮屈だという印象(を持っている)。物を考える営みは、もっとリズミカルで創造的なものじゃないか、もっと自由で表現豊かなものじゃないか」(148~149ページ)。「コンヴィヴィアル(自立共生)な市民文化は、他者と共に楽しく考え、語り合い、学び合うことから始まる」(149ページ)、と中野は言う。言説の一部を付記しておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。

「関係性の貧困の深刻化」と「地球環境破壊の悪化」
人類社会は物質的に豊かになったが、その反面、社会の再生産の危機に直面している。社会的次元における「関係性の貧困の深刻化」(生活の個人化、社会関係の崩壊、生活の質的低下などの社会的危機)と、生態学的次元における「地球環境破壊の悪化」(自然環境の汚染、地球資源の枯渇、生物多様性の喪失などの生態学的危機)がそれである。(19~22ページ)

脱成長と感覚世界の変革
消費社会は人間を合理的経済人に還元し、わたしたちの感覚世界を一面的なものに変えてしまった。脱成長の理念と共振するローカリゼーション(地域づくり)の実践は多く存在する。その実践に共通するのは、単なる経済活動ではなく、生活の意味を再発見し、生活の形をデザインし直す表現活動でもある。人間が他の人間や自然と共に生きることの大切さを理解し、そのような生活を喜びのあるものにデザインしていくには、生活の速度を緩め、感覚を解放し、隣人との対話や自然との触れ合いの中から生活のルーツを再創造していくことが、遠回りに見えても確実な道なのではないか。(33~34ページ)

「貧しさ」と「惨めさ」
〈貧しさ〉を購買力の視点からのみ捉えることは、貧しき者たちがその固有の文化の中で営んできた生活倫理や生存のための技法(アート)を捨象し、彼らを資本主義経済の言説空間に閉じ込めることになる。「貧困層」(the poor population)と抽象的な集合名詞で括(くく)られるようになった貧者は、もはや能動的主体ではなく、経済政策の受動的対象へと還元させられている。貧者の内発的能力や自律性が否認されたとき、〈貧しさ〉は物質的生活と精神的生活の両側面で〈惨めさ〉を引き起こす。(57、58、61ページ)

地域づくりと創造性・芸術性
これからの地域づくりは、人間と物の世界との感性的な関係を捉え直すことから始めなければならない。わたしたちはもっと表現的な人間にならねばならない。だからこそ、このテーマに関わる学問研究は、人間の感性的な次元を重視し、未来への構想力を育むような言葉と仕掛けを演出していく必要がある。ローカリゼーションに関する研究分野においては、そこに携わった人が〈共〉(the common、一緒・仲間)の表現者となれるような、創造性と芸術性にあふれる知が生まれることを期待したい。(150ページ)