〇「みつ(名前)、行くぞ!」「‥‥‥」「う~ん」「‥‥‥」「もっとしっかり押せ」「‥‥‥」「しっかり押さんか!」「‥‥‥」。真冬の寒風が吹きつける夜、野菜をいっぱいに積み上げたリヤカーのうしろを押すことが、筆者(阪野)の子どものころの仕事のひとつであった。市場(いちば)からの帰りは、空になったリヤカーに乗せてもらい、ときに「日の出屋さんの鯛焼き」を1枚買ってもらえることが唯一の楽しみであった。その後、リヤカーは隣人が運転する軽トラになり、鯛焼きは礼金とガソリン代に変わるが、野菜の仕切値を上回ることがしばしばであった。
〇近くの大学の学部の新増設やキャンパスの集約が図られるなかで、保有していた畑の3分の2が国によって強制買収された。そのおかげで兄弟二人は大学に行かせてもらえたようなものだが、“貧困と侮蔑”という暮らしぶりは大きく変わったとは思えなかった。暮らし向きは多少よくなったとはいえ、冬になると相変わらず、両親の手はひびやあかぎれでズタズタに切り裂かれていた。所詮(しょせん)、百姓は百姓であった。そして、「ものいわぬ百姓」のまま老いて、鬼籍に入った。その人生は弱々しくも、したたかであった。“百姓にだけはなるんじゃないぞ”、明治生まれの父の言葉がいまも耳に残る。
〇筆者はいま、毎日「日曜人」(にちようびと。毎日サンデー?)である。「百姓仕事」(宇根豊)とは到底言えないが、2畝(せ)20歩(ぶ)、約80坪の畑で“百姓もどき”の「作業」をしている。年のせいで鍬(くわ)やスコップで土を耕すことが辛(つら)くなり、昨年、大枚をはたいて小さな耕運機を購入した。これまでと比して土は細かく、柔らかくなり、作業は楽になった。作土が深まり、違った生きもの(「有情」:宇根)と出会うことにもなった。何よりも、自分の畑で、自分の作業によって「とれた」「できた」野菜は格別である。とはいえ、「百姓仕事は天地有情(てんちうじょう)のなかでの心地よい仕事」(宇根)、「時間は円環の回転運動をし、春が戻ってくる・帰ってくる」(内山節。本ブログ「ディスカッションルーム」(38)2014年7月13日投稿参照)などと感じたり、思ったりすることは未だできないでいる。百姓仕事はきつく、春からはその度合いが増す。“百姓にだけは”の思考停止がいまだに続いている。
〇そんななかで、積ん読になっていた『「農業を株式会社化する」という無理―これからの農業論―』(家の光協会、2018年7月。以下[1])を読んだ。内田樹、藤山浩、宇根豊、平川克美の4つの論考と内田と養老孟司の対談が収録されている。そうそうたる顔ぶれである。
〇「農は人間の情愛のふるさとである」(『農本主義へのいざない』創森社、2014年7月)、「農の営みにこそ未来がある」(『農本主義が未来を耕す―自然に生きる人間の原理―』現代書館、2014年8月)、と宇根は言う。本稿は、宇根の「農の精神性や思想性」に留意しながら、“百姓にだけは”の思考停止から抜け出すための「ローカリズム」考である。[1]から、新たに理解を深めたり再認識した論点や言説をはじめ、言語化できないでいる管見にも通底する分かりやすい言葉や言い回しなどをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。筆者が「アンダーライン」(エピグラフ/冒頭の引用文)を引いたところでもある。
「農業を株式会社化する」という無理/内田樹
農業の存在理由と国策
農業の存在理由は人間を飢えから守ることです。それに尽くされる。(10ページ)
農産物を他の商品と同列に論じることはできない(中略)。農産物について、まず最優先に配慮すべきは、長期にわたって自給できる体制を整備することです。それが最優先します。(11~12ページ)
一国の政府ができるのは、消費者の嗜好(しこう)の変化や病気の蔓延や為替の変動などの、外的な要因とかかわりなく主食を安定的に自給できる体制を整備することまでです。(15ページ)
農業をまるごと市場に委ねている国なんか、世界のどこにもありません。農作物の安定的な供給は最優先の国策課題だからです。だから、アメリカもEU(欧州連合)も農家に対する政府の補助は手厚い。市場に任せたりはしていない。「国民を飢えさせない」、それが政府の第一の仕事です。(15~16ページ)
「不払い労働」と農業
生産性が高い産業というのは要するに人件費コストの削減に成功した産業ということです。(29~30ページ)
農業を営利企業のつもりでやった場合、たぶん失敗する。それは、農業という産業が成立するためには、その前提として膨大な「不払い労働」が存在するからです。それなしでは農業そのものが成り立たない仕事がある。(28ページ)
不払い労働というのは、山林の管理や道路水路の補修、祭礼や伝統芸能の継承などです。集団が存続し続けるためには、求心力がなければいけない。祭礼や伝統芸能はその求心力を補給する装置です。(中略)そういう周辺的なことも全部含めて初めて農業が成立している。(中略)そのために割かれる時間と手間は実は農業を可能にするために彼らが負担しているコストなんです。
「強い農業」論者は農地を統合して、機械化して、収量を増やして、人件費コストを削減すれば、儲けが出ると電卓を叩(たた)いてるかもしれませんが、彼らは祭礼や伝統芸能も農業のためには必要だということはたぶんわかっていない。(30~31ページ)
自然からの贈与と「反対給付」
農業が他の産業と一番違うのは、その成果の多くが自然からの贈与に拠っているということです。(37ページ)
実際に自分の体を使って、太陽を浴びて、雨に濡れて、風に吹かれて労働した後に、その成果として青々とした作物が実り、それを収穫して、食べて美味しかったということの感動は、他の仕事では得られないものだと言います。そして、それが「贈与」であると実感したら、人々は「反対給付」の義務を感じる。当然のことなんです。誰かに贈り物をしてもらったら、「お返し」をしないと気が済まないというのは、人間として当然のことだからです。(中略)贈与されたら返礼する。農作物は部分的には天からの贈与です。(39ページ)
一昔前までは、製造業でもサービス業でも、(中略)「売り手よし、買い手よし、世間よし」(近江商人の経営理念の一つ。三方よしの精神)というように、企業活動においても「贈与と反対給付」のマインドが生きていましたけれど、現在のグローバル資本主義にはもうそういうマインドは生きていません。その結果、(中略)世界中で富の偏在が起きている。(中略)「贈与」の感覚が農業ではまだ生きている。(40ページ)
若者の「逃(のが)れのまち」
「地方創生」の実態は「地方の切り捨て」です。「コンパクトシティ」構想は、「行政コストのカットのための居住地制限」です。日本の里山のほとんどはいずれ無住の荒野になる。(50、51、52ページ)
いま、多くの若者が地方に移住して帰農し始めています。(46ページ)
一時のブームとか流行とかじゃない。そういう地殻変動の流れはもう始まっていて、感受性の鋭い部位から順番に動き始めている。(66ページ)
もっと静かで、もっと穏やかで、あえて言えば人間の弱さや壊れやすさをベースにした運動のように見えます。それだから持続するんじゃないかと思います。(68ページ)
年に1%ずつで田園回帰はできる/藤山浩
「田舎の田舎」の1%戦略
私たちは人口減少、高齢化、地域の過疎化という予測と、それがもたらすさまざまな困難を甘んじて受け入れるしかないのかというと、そうではありません。(72ページ)
データを分析するさいに、今後も東京一極集中型の社会が継続するという仮定を前提にしているため、「田舎の(中の)田舎」のような地域に関しては、どんなに頑張っていても、悲観的な予測値が出てしまいます。(73ページ)
こうしたデータをよそから示されて慌てるのではなく、地元ごとに、しっかり自分たちでデータをとって具体的な戦略を持たないといけません。(74ページ)
私は「人口1%取り戻しビジョン」を示しています。これはつまり、毎年人口の1%、100人につき1人の定住者を増やしていけば人口が安定する、というものです。(74ページ)
人口を取り戻すときに必ずセットで考えなければいけないのが、所得です。単純に地元の人口が1%増えれば、必要な所得も1%増えるわけなので、所得を毎年1%取り戻していく戦略を同時に立てていく必要があります。(80ページ)
循環型社会の創造
これから目指すべきものは、ひと言で言えば循環型社会です。規模拡大をひたすら目指すのではなく、足元の暮らしや所得の流れを見つめなおして、経済も地域内で循環するような社会をつくっていく必要があります。(81ページ)
「規模の経済」より「循環型の経済」といった価値観に、今の30代以下の人は目覚めつつあると思います。若い世代の人たちは実際に「田舎の田舎」に移住して、持続可能な生き方を模索している一方で、50代、60代の人たちは、まだ成長の幻想の中にいるような感じがします。(中略)30代以下の人たちは、「いままでの延長戦上には未来はない」ということを理解して、もう一回端っこから地元をつくりなおしていくしかないと気づいています。(104ページ)
農本主義が再発見されたワケ/宇根豊
「農本」と「農本主義」
「農本」という言葉は、「国家の土台は農業だ」という意味にとられていますが、「おれたちが国家を担うんだ」という気持ちよりも、むしろ「在所(ざいしょ。住んでいる所)、村、パトリオティズム(愛郷心。あいきょうしん)のほうがナショナリズムの土台にある」という考えなわけだから、ほんとうはそんなにえらそうな感覚ではなかったはずなのです。つまり、心持ちとしてはおそらく、かなり謙虚だった。(121ページ)
「農本主義は国体思想に取り込まれ、ファシズムの母体となった」という、あまり良くないイメージを持つ人が少なくありません。しかし、これは戦後にそういうレッテルを貼られたのであって、実際には、昭和初期の農本主義者たちは、日中戦争や満蒙開拓などに反対していた人も少なくありませんでした。まして、日本が「農本主義国家」になったことは一度としてありません。
日本の歴史ではじめて、百姓が百姓仕事の中から紡ぎだした思想が「農本主義」です。彼らの「農とは、人間が天地と一体になることだ」という考えは、農の本質をつかんでいます。結果ばかりを追いかける現代でこそ、より深い意味を持つもつのだと私は思っています。(116ページ)
農業の3つの特徴
なぜ農業は資本主義に合わないかは、「労働」ではなく百姓仕事の内実を考えていくとわかってきます。まず、百姓仕事は自然の中で行われますし、生きもの相手です。それは「自分(人間)」対「相手(生きもの)」という関係ではありません。生きもの全体、自然全体に自分も含まれるというものです。また、自分といっても自分一人だけではなくて、村の共同体などの広がりを持っています。そういう、人と人、人と自然とが切り離せない世界というのは、そもそも資本主義には扱えないし、近代化になじまないのではないかと考えて、農業の特徴は、おおまかに3つに整理できるな、と気づいたのです。
農業というものはつまり、「生きものが相手」で、「天地自然という共同体が母体」であり、つまり「人間の欲望に合わせて肥大するものではない」ということです。ところがこれまでの農業は、資本主義に合わせるために、近代化を図ったきました。そのために、「生きものを操作対象として見て」、「天地自然の制約を克服し」、「人間だけの都合を優先させて」近代化されてきたのです。それはやはり無理があるというものです。(118~119ページ)。
百姓への「環境支払い」
今は農本主義の考えとはまったく違う方向である「農業の成長産業化」ということがしきりに言われます。(中略)「他産業並みにする」ために所得を上げる、反収を上げる、生産の効率を上げる、資本主義の発達に遅れないようにする、という方向性は一貫してあったわけです。(123ページ)
資本主義は早晩、破綻するでしょう。(中略)資本主義以後への準備はいろんなところで始まっていると思います。(125ページ)
それでは、農業は具体的にどうすけばよいかという話になれますが、現時点で、すぐに資本主義を否定するのは無理です。そうであけば、農業の半分を資本主義から外したらどうか、と私は主張しているのです。半分は資本主義に乗っかって市場経済でやってもいいかもしれないけど、もう半分は市場から完全に外すという政策を始めればいい。(125ページ)
その一つの方法が、百姓への「環境支払い」(直接支払い)です。EU(欧州連合)諸国では、百姓の所得の七十数%は直接支払いです。(中略)ドイツでも50%を超えています。それは言ってみれば、農業の半分以上は資本主義から外して、あとは国民負担つまり税金からまかなうということです。(126ページ)
直接支払いというと、日本では「それは生活保護に近いのではないか」という見方をする風潮が、おおいにあります。(中略)「この支援金は、カネにならない自然環境や風景を守っている対価として国民が支払うのですよ‥‥‥」という共通認識が世論となれば、受け取る百姓も税金を納める国民も納得できるはずです。(126~127ページ)
「天地有情」の感覚
私は、「天地有情」(天地自然は生きもので満ちていること)を農本主義の新しい土台思想にしようと考えているのです。(144ページ)
食べものは天地のめぐみだという感覚を取り戻す思想を百姓が語らないなら、誰が語るのでしょうか。人間は資本主義の価値観だけで生きているのではないことを、百姓は天地有情の世界で示していく、そういう時代がそこまで来ています。(157ページ)
贈与のモラルは再び根づくか/平川克美
強欲のグローバリズム
グローバリズムとは、国家の統治システムに対して、市場原理を優先させるという考え方です。(165ページ)
お金持ちがお金儲けをするために最適化されたシステムが市場原理主義であり、グローバリズムだということです。再分配のための税金は少なく、ビジネスに規制はなく、資金移動も自由で、稼いだ分はすべて自分のふところに入ってくるようなシステムです。究極の企業優先の論理であり、勝ったものが総取りできるシステムです。弱者にハンディキャップを与えるなんていう無駄を省き、自己責任で競争させるシステムを肯定しているのですから。(166ページ)
共感のグローバリズム
グローバリズム、市場原理主義から、人間を回復するために何が可能なのでしょうか。その答えはナショナリズムの回復ではないだろうと思います。(169ページ)
一つの答えは、共感のグローバリズムへのシフトです。市場原理主義に最も欠けているものこそ、他者への信頼であり、弱者への共感です。ちよっと、大きく構えれば、わたしは、国境を越え、時間を超えるような共感のグローバリズムをつくりだせるかどうかが、人類の未来にかかっていると思います。そして、それを可能にするのは、政府や財界ではなく、選択と集中、分断と排斥のベクトルを、共感と連帯のベクトルへと転換させようとするひとりひとりの力の結集以外にはありません。(170ページ)
経済の定常化と農村
日本はすでに総人口が減り始めていますが、(中略)長い時間スパンの中で経済がゆるやかな成長過程を経てその後にある定常化という着地点に向かっているんだということです。(173、175ページ)
ここで問題なのは、もうすでに定常化が起きてしまっているのに、企業人のマインドセット(思考様式)のほうはまだ経済成長モデルに執着しているということです。(175ページ)
わたしたちは、定常化後の社会というものを構想する必要があるのです。では、その定常化のヒントがどこにあるのかといったら、わたしはそれは第一次産業にあると思うのです。第一次産業がもともと持っている、毎年決まった量を、できるだけ長期にわたって収穫するという考え方そのものが、定常化の概念だからです。(176ページ)
農村部に若い人が戻りつつあるという現象は、全体給付や、相互扶助的なものが社会も自分も救済することになると直感しているからではないでしょうか。(中略)消費化し、人工化した都市部の現状が、あまりにもそこから離れてしまったから。自然の恵み、自然からの贈与を相手にするという、農村のモラルに惹かれる人が増えるというのは、とても健全なことだと思います。(190ページ)
帰農という流れが持続的に続いていくためには、現在の競争経済の中で、再分配のシステムをどういうふうに構築して確保していくのか、人が生き延びていくための制度資本が整備されてからだと思います。たとえば教育、医療、介護などが無償化していく。(中略)もう一つは、ある意味で強引に、つまりベーシックインカム(全ての国民に対して無条件で必要最低限の所得を保障する制度)のようなものが導入されるということです。(193ページ)
贈与の3つのパターン
贈与のシステムというのは、贈与されたら、その返礼は必ず第三者へのパスというかたちをとるということです。こうした、第三者への贈与の迂回によって、全体給付が実現する。あるいは、親から子、子から孫へと順送りにする贈与があります。第三者に渡すか、順送りにしていくか。その「送っている」つまりパスで回すというのが贈与の一番のポイントです。だから、贈与に返礼というものはありません。もう一つのパターンがあるとすれば、贈与合戦のようになって物質を使い果たしてしまう、蕩尽(とうじん)というものがあります。つまり贈与には「順送り」「第三者へのパス」「蕩尽」という3つのパターンがあるということです。(195ページ)
今の社会から次の社会のあり方に移行していくためには、モラルがまず揺らがないと変わらない。いま優勢な「借りたものは返さなくてはいけない」という貨幣経済モデルのモラルがまず揺らがないと、贈与的な相互扶助社会が実現していかない。ただのチャリティーになってしまう。(196ページ)
〇[1]は、「これからの農業論」にとどまっていない。政府や財界が主導する、限界や矛盾が露呈する経済・社会の現状を斬り、未来社会を切り拓く本である。そこに通底する視点や論点は、あえて3つに絞(しぼ)れば、「定常」(経済「成長」から「定常」経済へ)、「循環」(「規模」の経済から「循環」の経済へ)、「贈与」(等価「交換」から「贈与」交換へ)であろうか。
〇内田、藤山、宇根、そして平川の4人の言説をさらに学ぶためには、最近の著作として、例えば次のものが参考になる。グローバル資本主義の終焉と「守るべきはお金よりも山河」であると説く内田樹の『ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ―』(デコ、2018年1月。以下[2])。「田園回帰」を全国へと広げていくためのビジョンや戦略を大胆に提案する藤山浩の『田園回帰1%戦略―地元に人と仕事を取り戻す―』(農山漁村文化協会、2015年6月。以下[3])。「天地有情」と「在所」や「農」への強い情愛に基づきパトリオティズム(愛郷心)を打ち立てる宇根豊の『愛国心と愛郷心―新しい農本主義の可能性―』(農山漁村文化協会、2015年3月。以下[4])。2つの価値観を楕円として捉えてこれからの時代について軽妙に哲学する平川克美の『21世紀の楕円幻想論―その日暮らしの哲学―』(ミシマ社、2018年2月。以下[5])、がそれである。
〇各言説の詳細は原典にあたっていただくとして、ここでは、内田の[2]の章題と副題を記しておく。ローカリズムについての思考の枠組みや施策の方向性が示されている。加えて、現代「社会認識」の内容や方法として留意したい、藤山の[3]と宇根の[4]、そして平川の[5]の核心部分を付記しておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
田園回帰と循環型社会の社会技術/藤山浩
21世紀において求められる循環型社会に向けて、(中略)「自然」「経済」「暮らし」の本来の関係を取り戻す舞台となる地域社会の構築こそ、田園回帰のなかで進めるべき「地元」の創り直しなのです。(225ページ)
新たな「地元」とは、田園回帰と循環型社会の基本単位となる一次的な生活圏に相当するものです。その人口規模は地形条件などにより大きな幅がありますが、現状から考えて、おおむね300人から3000人程度、平均1500人程度と想定されます。(221ページ)
量的な拡大には限界がありますが、分子構造や生物同士の共生関係に見られるように、多様な要素のつなぎ方の進化には、無限の可能性があります。地域ごとの多様性と地域内の多角性を損なうことなく、分野を横断して複合的そして地域を横断して重層的につないでいく結節機能を創設することが、21世紀の循環型社会において求められる社会技術となることでしょう。そうした結節機能を支える人材・組織・拠点・ネットワーク・制度を進化させていくことが、社会の持続性回復と田園回帰が表裏一体で進む原動力となります。(226ページ)
イギリスでは、近年、マス・ローカリズム(mass localism)と称して、地域の主体性・個性に基づいた取り組みを同時進行させ、その成果を広く共有することで国全体としても大きな成果を達成するボトムアップ的な地域政策手法が注目されています。(中略)現場発のチャレンジを同時多発的にするなかで、共通する阻害要因や促進要因を抽出し、それらを全国的な共通政策として基盤整備や制度改革を行なうのです。また、多様な地域特性を持つ地域の成功や失敗が広く共有されることで、地域相互の学び合いが促進され、上からの押し付けではなく、自ら選び取る手法が促されます。(216、217ページ。図1参照)
ナショナリズムとパトリオティズム/宇根豊
私が重視するのは、ナショナリズム(愛国心)よりも(愛郷心)です。国益よりも在所の価値です。(47ページ)
国民国家がナショナリズムを意図的に国民に植え付けるときに最も役立ったのは「戦争」だと言われています。(中略)こういう誰の心にもはっきり意識できるものを「意識的で強いナショナリズム〈A〉」としておきます。(48ページ)
私たちはいつの間にか「日本人」になっています。この「無意識に」日本の国民だと思う「意識」は、私たちが「国民化」されたからこそ身につけたものです。これを私は「無意識のナショナリズム〈a〉」と呼びます。「ガンバレ! ニッポン」という励ましは、このことを証明しています。(47~48ページ)
私はナショナリズムと対抗する、拮抗するものとしてのパトリオティズムを打ち立てようとしています。これが自覚的で尖鋭化された「意識的で強いパトリオティズム〈B〉」というものです。その内容は、(中略)国民国家が切り捨てようとしている世界を、意識的に守ろうとする情愛と情念を思想化したものです。天地有情の共同体を支えてきた在所の人間の気概の表出です。(49ページ)
パトリオティズムは普段は意識しないものがほとんとです。「日本に生まれてよかった」と思うときもありますが、それは若い頃のふるさとの思い出が多いのは、ナショナリズムというよりも「無意識のパトリオティズム〈b〉」でしょう。これはナショナリズムに回収され、包含されてしまっています。(48~49ページ。表1参照)
真円的思考と楕円的思考/平川克美
花田清輝が書いたエッセイの中の一つである「楕円幻想」の意味は、相反するかに見える二項、(中略)「縁」と「無縁」、田舎と都会、敬虔(けいけん)と猥雑(わいざつ)、死と生、あるいは権威主義と民主主義という二項は、同じ一つのことの、異なる現れであり、そのどちらもが、反発し合いながら、必要としているということです。
どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢と言ってもいいかもしれません。(206ページ)
「楕円も、円とおなじ、一つの中心と、明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、円は、むしろ楕円のなかのきわめて特殊の場合である」と、花田は言っています。
にもかかわらず、ひとは真円(しんえん。完全な円、つまり一つの中心しか持たず、その中心から等距離にある点が描く図形)の潔癖性に憧れる。
しかし、真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽(いんぺい)し、初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。
真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、それは田舎か都会か、科学と信仰か、権威主義か民主主義か、個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、どちらを選ぶのかと二者択一を迫ることです。(206、207~208ページ。図2参照。本ブログ「雑感」(58)2017年12月25日投稿参照)
補遺
藤山の[3]から、「規模の経済」と「循環の経済」に関する言説(表・図)を紹介しておくことにする(表2:44ページ、図3:41ページ)。
追記
宇根豊の「農本主義3部作」を改めて記しておく。
(1)『農本主義へのいざない』創森社、2014年7月
(2)『農本主義が未来を耕す―自然に生きる人間の原理―』現代書館、2014年8月
(3)『愛国心と愛郷心―新しい農本主義の可能性―』農山漁村文化協会、2015年3月