言葉にもプライドあれば怒れるや 例えば真摯、例えば丁寧
〇この歌は、2017年9月4日の「朝日歌壇」に掲載された押田久美子のものである(八巻和彦編著『「ポスト真実」にどう向き合うか』3ページ)。
〇政治の世界ではいま、「民意の尊重」「心に寄り添う」「真摯な対応」「十分な議論」「丁寧な説明」等々の言行齟齬の言葉が闊歩している。また、口当たりのよい言葉を多用し、不誠実で欺瞞的な政策が強行されている。「地方創生」(地方の切り捨てと拠点都市の形成)、「働き方改革」(残業代ゼロ制度と労働環境の悪化)、「全世代型社会保障改革」(社会保障費の抑制と受益者・負担者の分断)、「地域共生社会(我が事・丸ごと)」(国家・自治体責任の曖昧化と地域「強制」社会の推進)、そして「積極的平和主義」(軍事力の拡充と集団的自衛権の行使)、などがそれである。しかも、これらの言葉や政策はいとも簡単に、「新しい判断」(消費増税再延期を表明した際の安倍首相の言葉。2016年6月)によって変転する。
〇それらの背景や原因は、先ずその言葉(嘘)を発する側に見出される。政治家や官僚は平然と嘘をつくが、「嘘も百回言えば真実になる」。しかし、それ以上に「読解と熟議」を経ないで、感情や信条によってその言葉(嘘)を受け入れ、社会的に共感され許容されている状況に問題がある。「新しい判断」に世論も動かない。国家が暴走するなかで、国民・住民自らが市民社会と民主主義を危機的状況に追いやっている。
〇2016年以降、アメリカのトランプ大統領の選挙とその後の過激発言、イギリスのEU離脱とその国民投票、そして日本の安倍首相の強権政治と世論操作などに関して、「ポスト真実」(post-truth)という言葉が注目されている。「ポスト真実」は、現代社会を分析するための「キーワード」(津田大介)であり、日本は「ポスト真実の先進国」(日比嘉高)である、と言われる。
〇「ポスト真実」に関係する本は、筆者(阪野)の手もとに5冊ある(しかない)。
(1)小森陽一『心脳コントロール社会』(ちくま新書)筑摩書房、2006年7月
(2)大塚英志『感情化する社会』太田出版、2016年10月
(3)津田大介・日比嘉高『「ポスト真実」の時代―「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか―』祥伝社、2017年7月
(4)八巻和彦編著『「ポスト真実」にどう向き合うか―「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座2017―』成文堂、2017年12月
(5)小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか―ウソが罷り通る時代に―』新日本出版社、2018年4月
〇本稿では、以上のうちから、注目あるいは留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
小森陽一『心脳コントロール社会』
心脳マーケティングと心脳操作社会
「心脳」という概念は、認知神経学に基づくもので、「人間の心とは脳が活動することである」という脳科学的認識を前提にした専門用語です。(42ページ)
「心―脳―体―社会」の相互関係の中で消費行動を操作する、というのが「心脳マーケティング」の基本です。統計学をベースにしたこれまでのマーケティングとはまったく異なった人間の心の操作術が、編み出されていくわけです。そして、この「心脳マーケティング」の基本的な手法と考え方の中に、二一世紀の「心脳」操作社会の在り方があらわれているのです。(43ページ。一部の読点を削除)
マインド・マネジメントと犯罪
「心脳マーケティング」理論に基づくマインド・マネジメント(心の調教)は、それぞれの人間が、自分の成長過程において個別にかかわってきた周囲の大人たちが使っていた言葉によって構築された社会規準としての倫理観や道徳観や宗教観、つまりは〈やってよいこと〉と〈やってはいけないこと〉を区別する全体系を、本人にそうとは意識させずに、マス・メディアで報道されたことをめぐる記憶だけによって別な体系に組み替えてしまうという、人間の「良心の自由」に対する最も許しがたい犯罪なのです。
同時に、この手法は、その人が何が好きで何が嫌いか、何が良くて何が「イヤ」なのかという、個人の尊厳の最も要となる人格を形成する価値観(感)自体を、本人にそうとは意識させずに組み替えてしまおうとしているのですから、言葉を操(あやつ)る生きものとしての人間それ自体を崩(くず)し、動物化させる犯罪なのです。(126ページ。一部の読点を削除)
大塚英志『感情化する社会』
感情化と共感の社会システム
「感情化」とはあらゆる人々の自己表出が「感情」という形で外化することを互いに欲求しあう関係のことを意味する。理性や合理でなく、感情の交換が社会を動かす唯一のエンジンとなり、何よりも人は「感情」以外のコミュニケーションを忌避(きひ)する。(8~9ページ)
その結果、私たちは「感情」に対して理性的でありえることばを政治からジャーナリズム、文学にいたるまでことごとく葬(ほうむ)っている。私たちは私たちに心地良い感情を提供することばしか、政治にもジャーナリズムにも文学にも求めず、そのユーザーの要求に彼らはいとも簡単に屈した。(47ページ)
このような「感情」が私たちの価値判断の最上位に来て、「感情」による「共感」が社会システムとして機能する事態を本書では「感情化」と呼ぶ。(13ページ)
感情労働(感情の商品化)とその諸相
ホックシールド(Arlie Russell Hochschild、アメリカの社会学者、「感情労働」論)は、(現代社会では)「労働」は単純な「身体労働」や「頭脳労働」に対して、「感情労働」という領域が見えない形で成立している、とする。かつてマクドナルドが日本に上陸したとき、メニュー表に「スマイル0円」と記されていた。(27ページ)
「感情労働」が問題になるのは、一つは個人の内的なものの発露をサービスとして提供することを求められることで、身体どころか精神までが資本主義システムに組み込まれてしまうこと、そしてそれがしばしば無償労働である、ということの二点だ。(28ページ)
私たちは感情労働を消費することに慣れ切っているから、被災地になされるのは「勇気」を届けることで、同時に、被災者はそうでない人々に対して「感情労働」を求められる。被災者に対しても支援者は自らが「元気をもらう」ことを求めるほどに貪欲だ。だから、被災者もボランティアも呪文のように互いに「勇気」や「元気」をもらったと繰り返す。それに対して福島に対しても熊本に対しても、復興の政治的選択は「共感」されない。
なぜなら、不快なことの多くは「感情」の外にある「現実」だからだ。だから歴史的現実をいまも過度に生きる沖縄は「不快」さの対象となる。(47~48ページ)
介護や福祉の対象となる人々は、自分たちに「感情労働」を求めてくるように思えて、それが「正義」に反するという被害者意識さえ生まれる。相模原の大量殺人の背景にあるのはこういう「感情」だろう。あの事件を起こした人物は未だ自分の正義を疑わない。
このように、私たちは無意識のうちに他人に「感情労働」を求め、それがおこなわれない場合や、おこないえない人々を「悪」と見なす。他国に対する態度も同様であり、私たちが他国という他者をどう理解するかではなく、「外国人」が私たちをいかに心地良くしてくれる言動をとるかで判断される。「おもてなし」という「感情」の見返りを求めている。(48~49ページ)
津田大介・日比嘉高『「ポスト真実」の時代』
「ポスト真実」とは何か
2016年の「今年の言葉」として、オックスフォード英語辞書は「ポスト真実 post-truth」を選んだ。同辞書はこの言葉を次のように定義した。
“世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況”について言及したり表わしたりする形容詞(日比:14ページ)
また、「ポスト~」という接頭語について、もともとある状況や出来事の「後」を指している言葉にすぎなかったものが、「ある概念がもはや重要でなくなったり適切でなくなったりしたような時期に属している」というニュアンスで用いられることが増えていると指摘している。(日比:15ページ)
つまり「ポスト真実」とは、いまや現代は「真実」がもはや重要でも適切でもなくなった時期に属している、というわけである。(日比:15ページ)
「ポスト真実」は、真実や事実が曖昧(あいまい)になっている状況を捉えた言葉だ。(日比:16ページ)
「ポスト真実の時代」とはいかなる時代か
ポスト真実の時代とは、(中略)信頼できない事実が出回る時代だ。あからさまな虚偽(きょぎ)がまかり通るだけでなく、真偽(しんぎ)が不確かな情報も数多く生み出され共有される。(日比:19ページ)
政治家だけでなく、一般の人々の生活においても、不確かな情報に接することが増える。不確かな情報の拡散を後押ししているのが、ソーシャルメディア(ツイッターやフェイスブック、LINEなど)である。ポスト真実の時代は、ソーシャルメディアが拡散させるデマ情報の時代でもある。(日比:19ページ)
ポスト真実の時代を特徴づける「信頼できない事実」は、一般的な意味でいう嘘ではないということに注意が必要である。通常の嘘はその背後に真実や事実を伴っている。(日比:20ページ)
一方、ポスト真実の時代で問題となる「嘘」は、その背後に「真実」や「事実」がない。それは、本当か嘘かではなく、信じるか信じないか、という基準において秤(はかり)にかけられるのである。(日比:20ページ)
ポスト真実の時代におけるもう一つの特徴は、事実の供給過剰である。(中略)私たちの時代は、事実が多すぎる時代である。(中略)多すぎる専門家による多すぎる知見と多すぎる情報によって、事実は過剰に供給されすぎているのである。(日比:22ページ)
知識がない者は、その前で戸惑うばかりだ。結果、一部の人々は自分にとって口当たりの良い真実に、本当らしさを見いだしていく。ポスト真実の世界では、「データのつまみ食い」が特徴だともいわれるのは、このためである。
それゆえ、ポスト真実の時代は、「事実」や「真実」の危機の時代であると同時に「信頼性」の危機の時代でもある。(日比:22~23ページ)
「ポスト真実の時代」を構成している要素
ポスト真実の時代を構成している要素は次の四つに整理できる。(1)ソーシャルメディアの影響、(2)事実の軽視、(3)感情の優越、(4)分断の感覚、である。
(1)ソーシャルメディアの影響/ソーシャルメディアは、参加者同士の結びつきを奨励するが、それによって人々は自分自身の快適な「島宇宙」に閉じこもるようになった。
(2)事実の軽視/自らの主張に合った、都合のよい情報や事実だけを取捨選択するようになり、合理的な判断や理性的な議論ができなくなった。
(3)感情の優越/多すぎる情報や事実のなかで、その真偽(本当か嘘か)よりも、感情や個人的な心情が優先されるようになった。
(4)分断の感覚/ネット文化によってもたらされる人々の分断や対立を自覚し、互いに互いを嘘つきだと罵(ののし)りながら、分断を加速させている。(日比:26~42ページ要約)
「ポスト真実の時代」に大切なこと
事実に基づかない国の舵取りは、危険である。感情に流される組織的判断は、あまりに危うい。一部の政治家や市民は誤った事実、自分自身の感覚に寄り添うような「事実」だけを受け入れ、不都合な事実に向き合おうとしない。反事実・反科学の風潮が高まり、感情と結びついた「事実」が跋扈(ばっこ)するこの危うさに、今後どのようにして私たちは向き合っていけばいいのだろうか。(日比:50ページ)
感情と結びついた情報に曝(さら)される「普通の人びと」をターゲットにしながら、事実に基づいた思考、事実に基づいた社会の運用が大切であることを示し続ける。そのための根拠となる事実を示し続ける。嘘を、暴(あば)き続ける。事実に基づいた政治を行うように求め、事実を正しく記録し管理するような制度を守る。いたずらに危機をあおる言葉や、敵愾心(てきがいしん)を燃え立たせるような言説に注意し、感情の政治に巻き込まれすぎないようにする。それがポスト真実の時代に大切なことではないだろうか。(日比:54ページ)
本当の危機と「非国民」
本当の危機、嘘らしい嘘が厚顔に社会を通過していく時代の次にこそ来る。政府は事実を知らせず、メディアは国民が読みたいニュースを粉飾し、人々は聞きたい情報だけを手に入れ、脅威は誇大され、恐怖は煽(あお)られ、人々は結束して「危機」に立ち向かおうと集団の論理から外れるものを指弾し、こう言い始める。「非国民」と。(日比:114ページ)
嘘がまかり通り続けていくときに進行するのは、嘘を受容する側の感度の摩滅(まめつ)である。嘘に対する怒り、事実が隠蔽されることへの恐怖、虚偽を押し通した者たちへの忿懣(ふんまん)を、次第に失っていくこと。そんなのはいつものことだ、昔から繰り返されてきたことだ、今はそういう時代なのだ、その嘘もその隠蔽も大したことではないではないか、という冷笑や無関心やあきらめが社会全体を覆いつくしたとき、本当の危機がやってくる。
やってくる怪物を止めるものがいなくなるのではない。そのときには私たち自身が、その怪物の一部になっているのである。(日比:115ページ)
八巻和彦編著『「ポスト真実」にどう向き合うか』
「生きる世界の巨大化」「私の巨大化」「反知性主義」
われわれは、生活用品の産地が遠くなり、交通手段や通信技術が発達することによって「生きる世界の巨大化」を意識せざるを得ない。そういうなかで個人は不安感に苛(さいな)まれ、逆に自分の住み慣れた「小さな世界」に立てこもり、その内部を自分(たち)という「私」的存在で埋め尽くそうとしている。その事象(「私の巨大化」)は、スマートフォンやSNSに頼る生活との親和性が極めて高い。その結果として、「ポスト真実」的傾向とも親和性が高いことになる。その「小さな世界」の住民たちは、そのなかで必死に自己肯定が実現することを求めて、真実が何であるかという判断よりも、感情的(感覚的)快(こころよ)さを生み出す言動が優先されることになる。(八巻:5~11ページ要約)
日本社会では、国民の声が理性的な言論で整理され要求としてまとめ上げられて、政治の場で政策化されて実現されるという回路が、ほとんど絶たれている。ますます「反知性主義」(知的な権威に懐疑的・批判的で、自分が欲するように物事を理解しようとする主義・思想:阪野)の風潮が強まっている。国民はそれに同調するとともに、国民の間にもある種の反知性主義が醸成されている。(八巻:11~15ページ要約)
〇日比は言う。「事実を重視せず、感情に流される社会は、不安定で危険な社会である」(津田大介・日比嘉高、前掲書、54ページ)。「ポスト真実の時代において、嘘に対抗するためには、基礎的なリテラシーは絶対に重要である。あらためて問われているのは、人間の読解力なのである」(同上書、102ページ)。また、小森は、「心脳コントロール社会」において「快」か「不快」かの感情的な二者択一の選択に対抗できる人間の営為は、「熟議」以外にない。「対面的な討議の場を、どれだけ市民の運動として構築していけるかどうかが、今、あらためて鋭く問われている」(小森陽一編著、前掲書、216ページ)、と言う。要するに、「ポスト真実」に向き合い,その時代を超えるためには「読解と熟議」、その「力」の育成・向上(教育営為)が絶対的に必要不可欠である、ということである。なお、読解力と熟議力は、「馬の鼻先の人参」に惑わされる基礎自治体にも強く求められる。平成の大合併(1999年4月~2010年3月)や、2007年3月に財政破綻した夕張市(「国家政策の犠牲者」「見せしめのまち」)に学んだはずである。
〇また、八巻は、「ポスト真実」の危機的状況を乗り越えていくために、ジャーナリズムに「ニュース報道」ではなく、「調査報道」(Investigative journalism:花田達朗)を強く求める。それは、「政治的・経済的・社会的権力が隠していること、つまり不正や腐敗や暴走や不作為などの事実を『探査』によって摑(つか)み、それを白日のもとに晒(さら)していくことである」(八巻和彦編著、前掲書、16ページ)。
〇筆者はいま、本ブログの雑感(31)「『1984年』と『茶色の朝』、そして“いま”―読後メモ―」(2015年9月8日投稿)を思い出している。『1984年』(高橋和久訳、早川書房、2009年7月)は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説である。読み進めると“緊張と憂鬱と恐怖”が襲う。『茶色の朝』(藤本一勇訳、大月書店、2003年12月)は、フランスとブルガリアの二重国籍をもつ心理学者フランク・パヴロフによって書かれた寓話である。自己保身や他者への無関心などの日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を生み出すことを描きだしている。
〇最後に、『1984年』の次の一節を付記しておくことにする(293ページ)。
大衆が、読み書きを習得し、自分で考えることを学ぶようになってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速(すみ)やかに廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえないのだ。