「義理を果たす」
87歳のばーさまは 14、5年前に 連れ合いが死んでから
あの家で 気丈に独り暮らしをしていたんだよ。
子どもらは 村を出ていって 家さ帰ってくることは 滅多にない。
でも若いときから よく村のために尽くしてくれた夫婦だった。
お人好しで 何でも二つ返事で引き受けてくれたもんだよ。
身体が動いて元気なときは 若妻会だといって
サロンに 歩いてよく通ってきてた。
昔話に花を咲かせていたり ゲームや体操したりして
楽しそうに身体を動かしてさ みんなと笑っていたっけ。
小さな畑さこしらえて 一人ではもうこれっくらいが丁度いいって
毎日飽きずに 畑仕事をしていたっけ。
冬支度にかかる頃には 畑の始末も上手かったね。
裏山から薪さ背負ってきては まてい(丁寧)に軒下に積んでいた。
そうなんだ 灯油は 銭っこかかるっていってね
薪ストーブ焚いていたんだわ。
薪はそれでも 知り合いに頼んで割ってもらってたね。
年金だって 月たった3~4万円だったよ。
だから よく辛抱していたね。
明るい人だったから 愚痴ってるのを あんまり聞いたことなかったけど
一度 ぽつんと しゃべったことがあったわ。
「義理は欠けないね」
「どうしたの?」
「いやいや また世話になった人が 亡くなったって知らせがきて
香典包まねばなんないのさ」
「物入りだね」
「うんだ。この歳になると 世話をかけた人がみんな先に死んでいく。
じさまの葬式もみんなにお世話になって出させてもらったしね。
じさまの親戚やわしの親戚 知り合いや隣近所にも ずいぶん世話になってきた。
恩のある人もまだまだいる。
だけど そろそろお迎えのくる歳に みんななってきたんだわ。
わしより若く亡くなった人もいてね。長生きすればするほど、見送らねばなんない。
知らせがくるたんびに 義理欠くわけにはいかないしょ」
「それは大変だね」
「浮世の義理さ欠いて あの世さ行ったときに じさまに会わせる顔がない。
死んでまでも肩身の狭い思いさ かけたくないしょ。
これがわしの最後のお勤めなんや」
と寂しげに笑った。
よほど やりくりが苦しかったのかも知れない。
年に十度ほど 香典を包むという。
葬儀には出ることは出来ないが 香典だけは欠かさない。
いままでお世話になった恩返しに 香典を包む。
義理を果たすことで 報われると信じている。
暮らし向きは厳しいけれども 自分が辛抱することで 義理を果たそうとする気概。
世間に後ろ指を指されぬよう じさまにあの世でよくやったと褒めてもらえるよう
世間の習わしのなかで 懸命に生きてきたのだ。
務めを終えた その安らかな表情に 南無阿弥陀仏と唱え 合掌した。
夫婦の今生での義理を欠くことなく 浄土へと旅立った。
村の会館での葬儀のおかげで みんな最期の別れもできた。
喪主の子も 老齢期を迎えていた。
母親が この村に残した人とのぬくもりを きっと感じていたであろう。
その義理を果たすことはできないと 親不孝を恥じ入るかもしれない。
失って初めて知らされる 母の温情と恩情が漂う しめやかな葬儀となった。
付記
贈与慣行は互酬という性格をもっているために、一種の相互扶助の感情を生み出すことになる。吉本隆明はこのような共同体のあり方についてつぎのようにいう。
そこでの共同体のあり方は、人類の理想といえる面をもっているのです。なぜならば、そこにおける村落共同体のあり方のなかには、相互扶助共生感情と、相互の親和感が豊かにあります。人間が人間として孤立している。民衆が相互に孤立をしたり矛盾しあったりする。そういう近代社会の病理とは遠い平安もあります。
「世間」の贈与・互酬という関係は、同時に「相互扶助共生感情」つまり「助け合いの精神」が宿る関係でもある。ただしそれは「無償」の助け合いではなく、いわば「有償」の助け合いである。それは義理・人情とよんでもいい。
(佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月、47ページ)
〔鳥居一頼/2019年6月18日〕
「原則論の正体」
2018年9月6日、胆振東部地震発生。
突然、停電になった。
水が出ない。断水だ。
ポンプアップしているから、停電になると地下水を汲み出せない。
役場の広報車が回ってきた。
「今日午後3時、地区会館に給水車が来ます。水を入れる容器を持って来てください」
広報車は、繰り返し給水車が来ることをふれ回る。
3時、部落の人たちが給水車を囲んだ。
口々に停電が復旧しないことに、愚痴をこぼす。
給水に張り付いていた役場の職員に、
「そこのおうちのおばあさん、足も腰も悪くて、ここまで水を取りにくることできないの。悪いけど、そこのお宅まで水を届けてあげてください」
丁寧にお願いした。
「それはできないね。給水車のところまでこれないと、水をあげるわけにはいかない。
それが決まりなので」
「それじゃ、歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人、みんなここには来られないわ。その人たちにここまで来て持っていけって言うの。それって、本当に規則なの。困っている人を少しでも楽にしてあげるのが、役場の仕事でないの」
「そう言われても、ルールはルールなので」
上から目線で、規則だと繰り返す職員と押し問答が続く。
一向に埒(らち)があかない。
非常事態にこそ機転を利かし、動かなければならないのに……失望。
あきらめて、そこで汲んだ水をおすそ分けした。
気分は最悪。
公僕も、ただの木偶坊(でくのぼう)になったというつまらないお話……ではなかった。
もつれた糸が解けたように、はたと気づいた。ここが分水界(ぶんすいかい)だったと。
歩けない人、病気で寝ている人、腰が悪くて重たいものを持てない人。
水を取りに、来られない人たちと来られる人の分水界。
ここまで水は運んでやるよ。
ここから先は、行政の仕事じゃない。
決まりがある以上、一線越えたら、みんなに公平にサービスしなきゃならないだろう。
そんなことしたら、人手もお金もパンクする。
だから住民の裁量で、どうぞお好きにやってください。
非常事態こそ、「住民の助け合い」を実現するチャンス。
心を鬼にして、規則遵守して仕事しているだけなので、責めないでください。
「われわれは施しを与えている」のだからという、高飛車な態度も意に介さない。
いままで行政がしてきたことの、延長線上にしかない対応の根っこにあるのは、
暮らしの実態や市民意識との乖離(かいり)だと、ようやく悟った。
彼らもまた、地域で暮らす者たちにも関わらず、
仕事への虚(むな)しさをなぜ覚えないのか、不思議に感じたが、
お上に庇護(ひご)された安定した暮らしがあるからだと、納得する。
役場だけではない。お国の事情も同じ。
役人は権力者に忖度(そんたく)し、民をほっぽり出していても、誰の文句も届かない。
権力者は、金がない、人手もかかる、だからみんなで助け合えと、法の下に号令をかける。
上流の水が濁(にご)れば、下流の水も濁る。
納めた税金が、施しの水に変わったとしても、
もらえる人ともらえない人がいる、歪んだ再配分という悪しき事態が、これからも続く。
情けないと、自らをさいなむあきらめ顔の、不条理な国に生きる心優しき民たち。
しかし、思考停止してはならない。
刹那主義(せつなしゅぎ)に陥ってはならない。
利己主義に陥ってはならない。
いまこそ利他主義に立つ、民の底力が試される。
お上の尊大な態度ややり方に、泣き寝入りはできない。
現状に我慢し、耐え忍ぶことを、美徳とはしない。
あきらめず、めげず、果敢に問題に立ち向かう。
解決には、民の才知と才覚を集めるしか道はない。
そこが、お上の思う壺であろう。
それでも、無作為に放置したら、後世まで悔(く)いる。
だから、やるしかない。
たった一度の人生、その主役は、自分。
追い込まれても、追い込まれても、負けない、負けたくない。
同じ思いを持つ、一人でも多くの心優しき民たちよ、
こころ一つにして、この世に、この地に、したたかでしなやかな民の力を集めよう。
誰もが人として、ここで幸せに生きるために。
〔鳥居一頼/2019年6月19日〕