「あそこの奥さん、認知症だってほんと?」
「そうらしいわね。この間ゴミステーションで会ったんだけど、燃えないゴミの日なのに燃えるゴミを持ってきててね、今日は燃えないゴミの日よって教えてあげたら、なんだかムッとして怒った顔して、ゴミ袋を持って戻っていったわ。なんか意地悪したような気持ちになって、気分がいまいち…」
「やっぱりね。気にはかかっていたんだけど、お店で会って挨拶したら知らんぷりされて変だなって思っていたのよ。何か気に障ったことしただろうかって、考えたんだけど心当たりもないし、もしかしてと思ってね。それで合点がいったわ。でも長い間ご近所で、お付き合いもあるし、これからどうしたらいいの?」
「このご時世、プライバシーがあるからって。みんな無関心を装っているけど、本当は気にかかって仕方がないっていうのが、本音じゃない」
「ひとり暮らしでいるだけに、何かあってからでは遅いしね。子どもらも離れていて滅多(めった)に帰ってくることもないし、気がもめるだけだわ」
「そういえば、民生委員が、昨日様子を見に行ってくれたって聞いたわよ」
「それはありがたいわね。民生委員が行ってくれたんなら、ほっとしたわ」
これで二人は、気にかかっていたことから解放され、その問題は一件落着したのでした。
さて、これで本当に解決したのでしょうか。
個人情報保護法は、情報化社会における個人のプライバシーを護るためにつくられた法律ですが、この法律が出来たばかりに、とんでもない事態が起こっていたのです。
当初は、決して悪意があったわけではありません。
でもそれが、世間で問題のある人には関わらなくてもいい、関わらない方がいいという孤立化を正当化する「方便(ほうべん)」に使われ出したって、知っていましたか?
瞬(またた)く間に広まって、相手のプライバシーを侵害(おかす)ことになるから、気にはかかっていても、それ以上は踏み込まない、心配なことや家の事情などなど、知ってはならないことを、知ろうとしてはいけないことになったのです。
立ち話ぐらいにしておいほうが、相手から憎まれることもなく、面倒に巻き込まれることもないから、まずは御身安泰(おんみあんたい)です。
そう考える人が増えてきて、世間の人情は、急速に冷えていきました。
お節介は嫌がられ、自分や家族のことだけに、執着(しゅうちゃく)しだしたのです。
他人(ひと)とは、もめぬようもつれぬよう暮らすことが一番だと、信じ始めました。
プライバシー保護は、相手と深く関わらぬように暮らすための、「適法」となってしまったのです。
そして、世間の“人と人とのつながり”が、バラバラに断ち切られていくのでした。
こんな冷たい世間はおかしい。
公然と弱い立場の人が、どんどん世間の淵に追いやられていく、現代の村八分。
そう気がついた人たちが、少なからずいました。
このままでは、人の道を全うできない、“人でなし”の世の中になる。
自分が生きている地域(ここ)で、こんな世の中をつくってはならない。
いまそっぽを向いている人も、いずれは行く道、辿(たど)る道。
世の移(うつ)ろいで変わらぬもの、それは人の道。
それをいま自分が動かねば、世は廃(すた)ると感じたのです。
人が突き動かされるのは、大義名分よりも情感です。
このままほってはおけないという、“おもいの熱さ”です。
もちろん、はじめからそんな熱いおもいや強い憤り、そして正義感があったわけではありません。
そのきっかけとなったのが、若いときからお世話になった先輩からの誘いでした。
「いま世間の弱い立場にいる人たちから一番求められているは、誰だか知ってるかい?
俺たち一人ひとりが、どんなに世の中を憂(うれ)い、何とかしたいと思っても、大した力にはならない。俺も人並みに、そこそこ稼いではきたが、ひと様、世間様に一肌脱ぐってことはね、何ひとつしてこなかった。なんだか、空(むな)しい気持ちになっていたときに、『恩はいただいた方に返すのではなく、世間にお返しなさい』と、若い頃にお世話になった人に諭(さと)されたことを、ふっと思い出して、心が動いたんだ。そこで、まだまだ動けるうちに、俺にも何か出来ることがあればと、知り合いに相談してみたら、民生委員を勧められて引き受けることにしたわけさ」
「受けた恩は世間にお返しする、ですか」
「どこまで返せたかは、お釈迦様(しゃかさま)しかわからないだろうが、それでもこの仕事にやりがいを感じているよ。だから、君にも一緒にやってもらえないかと内心期待しているんだ」
それから3年、仲間の支えや助言をいただきながら、微力ながら活動を続けている。
プライバシー保護の壁を越えて、地域の福祉の問題を、無関心な人たちと結びつけていく。それが、地域のぬくもりを取り戻す大きな課題、“きずな”づくりだ。
時に、活動が実を結ばず徒労となることも、しばしばあった。
陰口を叩かれ、無視されると、気力、体力、知力も消え失せる。
でも、活動を続けるうちに、協力しましょうと理解してくれる人や、ご苦労様、頑張ってと励ましてくれる人も、一人二人と増えてきた。
一番の支えは、「ありがとう」という感謝の言葉。
どんなにか勇気づけられたことだろう。
そしていま、痛みや喜びをわかちあう“融和の心”を、地域(ここ)に根付かせることが、大きな目標となった。
先輩らの頑張っている姿を見ながら、身の丈に見合った応分の仕事を続けよう。
そして、いつか「人生の恩返し」という民生委員・児童委員のおもいのバトンを、“あついまなざし”をもつ次の世代に、力強く手渡したい。
※個人情報保護法:氏名、生年月日、性別、住所など個人を特定し得る情報を扱う企業・団体、自治体などに対して、適正な取り扱い方法などを定めた法律。2005年4月に全面施行された。相次ぐ個人情報の不正利用や情報漏えいに対する社会的不安を軽減し、個人の権利と利益を保護するのが狙い。個人情報の適正な管理、利用目的の明確化、不正取得の禁止などが定められているほか、本人による情報の開示、訂正、削除等の権利行使も認めている。違反した場合は行政命令の対象となり、これに従わない場合には罰則規定(6カ月以下の懲役か、30万円以下の罰金)がある。
〔2019年5月6日書き下ろし。2019年度北海道民生児童委員専門研修会講義発表〕