携帯の着信音がした。
「大家さん、いたかい」
「三日とあけずに、どうしたい」
「大家さんの怖い話を、角のご隠居に話してみたら、もっと怖い話を聞きましてね」
「おやおや、わざわざ会いに行ったのかい」
「吉祥寺の駅前に繰り出すようなバカな真似はいたしません」
「ニュースじゃ、アーケード街の混雑ぶりはいつも以上だって。まったく極楽とんぼが、集団発生しているようなもんだね」
「ほんとに、何にも考えていないか、他人様のことより自分は大丈夫って自信なんですかね。今日一緒に歩いていた友だちが高熱出してひっくり返ったら、大変だって騒ぎ出すのが目に見える」
「いまさえよければ明日の事なんぞどうなろうと知ったことかと、まるで尻をまくって啖呵を切るヤクザのようだね。それがいまの安倍さんの支持者だってさ」
「世も末ってよく言ってたけれど、ここんところの世の中見てると、危ねえってあっしでも思いますね」
「ところで、怖い話っての聞かせておくれ」
「はいはい。あっしは、去年の暮れから民生委員を拝命いたしましてね」
「なんだい、初耳だよ」
「コロナのお陰で、ご挨拶にも行けずすみません。訪問すれば、このご時世迷惑をおかけするということで、流行る前から訪問活動は自主的に自重しましょうということで」
「ほう、民生委員とはご苦労なことでありがたいね。昔は地元の名士が名誉でしていたようだったが、いまではあんたでも大事なお役目いただけるとは、嬉しいね」
「ほめてんだか、けなしているんだか、どっちなんです?」
「いやいや、けなすどころか困った人にはあんたみたいに情の深い人がそばにいればどんなに助かるもんだか、そう思うと嬉しいね。私もそろそろお世話になるからよろしく頼みますよ」
「大家さんの言ってることも一理ありかな。あっしは新米のペイペイだから、何十年もしていて偉そうにしている人に逆らうなんてあり得ない。従うことしかできない空気が充満していて、好き勝手いってるあっしでも、借りてきた猫のようにおとなしくしてますよ」
「そうかい、それは世渡りの大事な心がけだ。決して生言っちゃいけませんよ」
「はいはい。文句があっても口には出さず、大家さんに接するように猫かぶります」
「言ってくれるね。爪は出さずに研いときな。ただし私には決して向けちゃいけないよ」
「さすが大家さん。今日も話の道筋をつけていただきました」
「なんだい?」
「研いだ爪をいつ出すか、ってことです」
「それとご隠居の話が絡むのかい?」
「お察しの通り。国のお偉い人がえばっているのは国の金を自由に差配できるからでしょ。麻生のじいさんも、自分の金でもないのに出し渋る。財務大臣やってきて、あのじいさんが何かお国のお役の役に立ってきた? デフレをなんちゃらしますって、結局何一つできずに、いまだ頭の悪さをそのままに居座り続けてるのも、安倍さんと同じでどうでもいい存在だから、若い連中には無視できる。でも無視できない御仁がいらっしゃったというわけ」
「それでどうした?」
「急がせないで、話は序の口。いまの民生委員は心配事の御用聞き。暮らしや身体に不安を抱えている人に少しでも安心してもらいたい。何かあったら助け船を出しますよって、顔を見ながら訪問するんだけれど、いまは電話でどうしていますか、困ってることありますかって、声の御用聞きをしてるんです」
「ほう、それはいいね。皆さんさぞ心細い思いで暮らしていなさる。大事なことだね」
「ご隠居さんも、数年前に奥さんに先立たれ、その後軽くあたって外出が不自由だから、ときどき用足しのお手伝してあげてるところ」
「うん、なかなかできることじゃない。私も気にはかかっていたんだが、そこまで手は出せなくてね。ありがたいね」
「褒められて恐縮しますが、こないだの大家さんとの話を世間話のかわりにしましたら、電話口で堰を切ったようにしゃべくるんです。もともと口数の少ない人が、バンバン怒りをぶつけてくるので閉口しました」
「そりゃよっぽど腹にすえかねたことがあったんだろうね」
「あっしも黙って聞くしかなかったんですがね。そもそもリーマンショックのときに、麻生のじいさんが首相をしてたそのときに、会社が倒産。そこを追い出されて、近所に越してきたといういきさつを話しながら、今度の30万円がなんで幻になったのかって、語ってくれたという次第」
「あれは不評をかこって、安倍さんも外堀埋められ引っ込めざるを得なくなった。全国一斉に非常事態宣言したので、その迷惑料だと10万円に差し替えたって、この間の話だね」
「そこで、是非この話を大家さんにもしておくれって頼まれましてね。嘘か誠かはともかく俺の推察ではと語り始めたんです。俺も小さな会社を経営してきたから裏の経理の抜け道くらい知っておかないと、日銭を稼ぐ仕事は難しい。それに百人もの従業員の生活がかかっている以上、自分だけなんとかなるって考えるのは愚の骨頂。それでもリーマンショックで体力持たず、従業員とも泣く泣く別れてきたっていうんだね。そこで、30万円の最初の提案では、ここ数ヶ月の内収入が半減した給与の明細書を持ってきたら支給するって言ったでしょ」
「そうそう。それでその給与の年収だの月収だの額に応じて出すだの出さないだの、手続きがめんどちいって言うんで批判が起こって、今度の10万円という流れだろう」
「そこで、30万円がそのまま支給されることになったとしたら、このコロナ不況に乗じてあくどい経営者は、どうするかというのが、ご隠居の怒りの元なんです」
「どうするんだね?」
「あっしらみたいに額面通りに、はいそうですかって、偉い人に言われたら素直に従いますが、ここで大事なのが〈半減した給与の明細書〉。それを会社が偽って発行し、従業員が申請して受け取る。給料は正規に払われるから実質の損害は全くない。もらった30万円を山分けする。給与の半額が30万円なんてことはないから、お互い損はない。会社の経理をごまかすことができれば、この非常事態時、事は暴かれることはない」
「おいおい、それも怖い話だね」
「問題はこれから。30万円の件は回避できても、次の10万円。これも考えようでは、悪知恵を働かせて、銀行振り込み詐欺の要領でもらえない人が出てくることもあながち否定できないって」
「う~ん。金がつきまとうとろくでもないことを考える輩が必ず出てくる。これも世の習いか。そこで怒りの矛先は、その悪い奴らなのかい」
「それもそうだけど、それ以上にいま困っている人を助けるための対策を講じられない、いまのだらしない政府への不満と不信という次第」
「私のように世の中のことをさも知ったかぶりをして、何食わぬ顔をしている者に較べたら、ご隠居の怒りはリーマンショックの辛さを身にしみて知ってるだけに、麻生さんの失敗とあわせて、安倍さんの数々の失敗は心底許せないんだろうね」
「ほんとに困っている人に、いまお金を渡すことができなかったら、何のための国なのか。困っていない連中が牛耳るこの国に未来はないと、そう嘆いていました。返す言葉もありません」
「いまこの国を護っているのは、命をかけた本物の人間。〈人でなし〉の化けの皮を剥がす時がようやく来たね。60年代、70年代の安保闘争をしてきた世代、日本の高度経済成長を支えてきた世代の多くが年寄りになっている。その連中がこぞって〈反乱〉を起こす時が来たかも知れない。大きな時代の変わり目に黙って世相を見てるなんぞいかがなものか。年寄りを侮ってはいけないよって」
「おっと、過激な発言!」
「世の中にもの申すことが、最後のご奉公。高齢者の投票率が高い以上、政権をひっくり返す力はあるが、それにしても不甲斐ないのが野党の面々。小粒ばかりで落ち目もいいとこ。政権なんぞ夢のまた夢。結託してぶちかます熱い思いも政策もなく、蚊帳の外で騒ぐばかりの烏合の衆」
「ご隠居も、身の程をわきまえて暮らしてきたけど、もう我慢ならないと」
「安倍さんたちにその身の程を押しつけられ、10万円もの施しを与えるのだから黙って受け取れとばかりの傲慢さ。もう堪え切れなくなったのは、その世代が自律した生き方をしてきたご隠居のような人たちだからじゃないかね」
「年寄りの我慢ならないちいちゃな怒りが、津々浦々に広まっていくと、ほんとに〈反乱〉
が起こるかもしれませんね」
「それはね、まず〈人でなし〉の政治から、人間らしさを取り戻すということだね。日本のことだけに執着してはいけない。このコロナウイルスをやっつけることは、人類の生き残りをかけた今世紀最大の戦い。全人類が病原菌に晒される前で、思想・信条・宗教・性差・年齢・地域・国を論じて何になる。悪夢ではなく、現実に起こっていること。人種差別のひどかったときに活躍した黒人大リーガーのジャッキー・ロビンソンが〈不可能の反対語は可能ではない。挑戦だ〉と語って、黒人の公民権運動に大きな影響を与えたというけど、不可能を可能にするための挑戦権は、年寄りにも10万円以上の価値として与えられているのが、民主主義という社会なんだよ。」
「お見それしました。大家さんの研いだ爪初めて見せていただきました。あっしの10万円、授業料代わりに納めたいほどのご高説、ありがたく拝聴しました」
「それじゃ後で請求書を届けるから、10万円忘れず入金してください」
「おっと、支払いは勘弁してください。安倍さんとは早々に縁は切っても、あっしとは金の切れ目が縁の切れ目にならぬようお付き合いください。また電話します」
〔2020年4月19日書き下ろし。民主主義的反乱を起こすには、どんな手立てがあるのやら。年寄りの死んだふりは、そろそろ止めにしませんか〉