共感の世界:「教育は集団的営為であり、市民的成熟に資することである」ということ―内田樹著『サル化する世界』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は「鳥居一頼の世界」(本ブログの「鳥居一頼の世語り」)が好きである。その理由は、切れ味の良い厳しい言葉とともに、多くの発言内容に「共感」することにある。とりわけ、これまで積み重ねられた地域・生活経験や知識・知性に基づく尖鋭(せんえい)で確かな批判的言説、にである。鳥居は、多岐にわたる地域・生活の実相を多角的に鋭く分析し、的確に評価する。問題点を深掘りし、課題を容赦なく抉(えぐ)り出す。そして、それらを「散文詩」に乗せる。そのジャンルは、福祉や教育、政治、経済、社会、文化などと広い。また、たまに登場するウイットに富んだ一節も面白い。
〇鳥居は、詩作の際には、時に仏の顔になり、時に鬼の形相(ぎょうそう)になっているのであろう。しかも、その過程で鳥居がとる立ち位置や姿勢は、多様な地域・生活課題を「我が事」として引き受け、自分の言葉に体を張る、というところにある。また、その基底には、人間の実存すなわち、いまをよりよく生きようとする人たちへのこだわりと覚悟があり、その人たちとの相互実現がある。
〇鳥居にあっては、その人たちとは、人間の尊厳が踏みにじられ、地域・社会から邪険(じゃけん)に扱われ、切り捨てられる人たちである。「鳥居一頼の世界」を別言すれば、「人間愛」の世界であり、「福祉と教育の思想」である。
〇筆者は「内田樹の世界」への旅を重ねてきた。今回は内田の新刊書『サル化する世界』(文藝春秋、2020年2月。以下[1])を旅することにした。[1]は、雑誌のコラムや講演録、対談やインタビューなどを加筆修正し、再構成したものである。内田にあっては、挑発的なタイトルの「サル化」とは、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という時間意識の縮減や自己同一性の委縮した人たちが主人公になっている歴史的趨勢(過程)のことを言う。「サル」は、中国の「朝三暮四」(ちょうさんぼし)という説話に由来する(補遺① 参照)。
〇日本社会ではいま、「身の丈(たけ)にあった」「期待される」「自分らしい」生き方が推奨あるいは強制されている。それは、生き方の定型化・固定化を促すものである。「成熟」とは多様に「変化」し「複雑化」することであるが、それを認めないのが現代社会である。人びとが感じている「生きづらさ」や「息苦しさ」の原因のひとつは、ここにある。そのような視点から、内田は[1]で、自分の身の丈を超えて自由に多様に生きることを提案する。人間は、成長するにつれて、「考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙(ごい)が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる」(8ページ)。それが「成熟」である(「なんだかよくわからないまえがき」)。
〇以下に、[1]で筆者が「共感」する2つの視点・言説に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

教育の主体は集団であり、「共同体の存続」をめざす営為である
教育する主体は集団である。そして、教育の受益者も集団である。教育は集団の義務である。教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものである。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。(216ページ)。
「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」をめざすものだからである。(219ページ)
教育政策の適否を計る基準は一つしかない。それはその政策を実行することが子どもたちの市民的成熟に資するかどうか、それだけである。市民的成熟に関係のないこと、それを阻(はば)むものは教育の場に入り込ませてはいけない。そういう基準で教育政策の適否を判定する習慣をわれわれは失って久しい。それが現在の日本の教育の混乱と退廃をもたらしている。(219ページ)

相互扶助的な共同体は「持ち出し」覚悟の私人から立ち上がる
地域社会の相互扶助的なマインドは簡単に無くなってしまった。共同体は簡単に崩れてしまう。これから先、日本社会はゆるやかに定常経済に移行してゆく。そんななかで、相互扶助的な共同体を再生する必要がある。(260、261ページ)
相互支援の共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなく、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業である。「持ち出し」である。私人たちが持ち寄った「持ち出し」の総和から「公共」が立ち上がる。はじめから「公的なもの」が自存するわけではない。公的なものは私人が作り出すのである。(269、270ページ)
今、市民たちはどうやって「公的なもの」から私権・私物を取り出すことができるかを競っている。政府は、国民に対して「私権を抑制しろ、私有財産を差し出せ」とうるさく命令している。逆である。国民が自発的に私権を抑制し、私有財産を贈与するときに、そこに公共が立ち上がる。(270ページ。補遺② 参照)

〇内田の新刊書に、平川克己との対談本『沈黙する知性』(夜間飛行、2019年11月。以下[2])がある。対談のテーマや内容は、言葉や世論にはじまり、日本社会の衰退やグローバリズムの終焉、そして村上春樹や吉本隆明等々、多面的かつ多層的である。ここでは、[2]における次の3つの言説だけを再認識しておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

言葉に対する怯えや覚悟
何かを語ろうとしてる人間はみな「自分が発信している言葉は、誰かの言葉をパラフレーズ(言い換え、置き換え)しているだけかもしれない」ということを自覚しておく必要がある。その自覚がないから、自分たちの思考がパターン化した思考の枠組みをなぞっているだけだという自覚もないし、逆に、お気楽に傲慢で攻撃的な言葉を発することができるとも言える。言葉に対して、怯(おび)えや覚悟というものがあってもよい。(平川:35ページ)

身体感覚と生活実感のある言葉
「ほんとうのこと」「本音」を言うためには、命を賭けなければならない。生身の身体(身体性)や現実生活の常識から乖離した言葉には、説得力がない。一方で、身体感覚に裏付けられた言葉だけではなく、抽象度の高い言葉を使っていかないと思想は形成できない。そこで、抽象度の高い言葉を、生活実感のある言葉で裏打ちしていく作業(「伝わる言葉」への変換)が必要になる。(平川:57、58、305ページ)

孤独な沈黙のなかでの知性
見聞の狭い人間は、目の前の現実を見てすぐに「前代未聞」だと浮き足立ったり、有頂天になったりする。知識人は逆に、何を見ても「これはどこかで見たことがあるんじゃないかな」というところから吟味(ぎんみ)をする。そして、どういう文脈で「こういうこと」が起きたのか、過去の事例を参照しながら理解しようとする。知識人の、この孤独な沈黙のなかでの営為が、未来を切り拓く。これが本物の知性である。(内田:106、109ページ)

〇なお、筆者はかつて、「まちづくり」のための市民性形成(市民的資質・能力の育成)と市民運動に関して、次のように述べたことがある。「市民運動は通常、自らの、あるいは他者の尊厳や生命・生活が脅かされるときに、多くの市民が集合し、集合行為として展開される。その際、その運動は、必ずしも環境や立場を同じにする人びとが集まって展開されるものではない。運動に参加する人びと(運動主体)は多様であり、運動の目的も直接的に自らの利益や地位向上などのための利己的なものではない。運動主体の多くは、利己主義を超える人間観や社会観をもっており、社会的な事象や出来事に積極的に関与し、自己決定し、共通認識のもとに連帯して行動する自発的で能動的かつ自律的な個人である。また、その個々人は、運動展開の過程で他者理解を深め、自己を再発見し、自己変容・変革を促す。それを通して、他者との相互連携がより深化・発展するのである。」(<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿)。これは、まちづくりのための市民運動や市民福祉教育についての理念的な管見である。本稿のサブタイトルに関して付記しておくことにする。

補遺 ①
中国の春秋時代の宗(の国)にサルを飼う人がいた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌(きゅうじ)していたが、手元不如意(てもとふにょい。家計が苦しく金がないこと)になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」とわかっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。([1]22ページ)

補遺 ②
スモールサイズの「顔の見える共同体」で、地域・住民自らが医療や福祉・介護などに関するサービスや事業活動を相互支援的に手作り・手売り・手渡しし、自律的なコミュニティをつくることが肝要である。「こんなところで小さくやったって社会は変わらないよ」ではなく、逆に「小さくやるから変われる」のである([1]324~325、326ページ)。
次の新聞記事を紹介しておきたい(『岐阜新聞』2020年1月18日付朝刊)。キーワードのひとつは「覚悟を決める」「便利や割安を我慢する」(持ち出す、身銭を切る)である。