〇筆者(阪野)の手もとに、鷲田清一(わしだ・きよかず。臨床哲学)が著した『しんがりの思想―反リーダーシップ論―』(〈角川新書〉KADOKAWA、2015年4月。以下[1])という本がある。[1]で鷲田はいう。「縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである」。いま、「新しい市民のかたち」「自由と責任の新しいかたち」が問われている([1]カバー「そで」、「帯」)。
〇鷲田の論はこうである。日本は、高度経済成長の「右肩上がり」の時代から「右肩下がり」の時代に移行し、人口減少や少子高齢化などによる「縮小社会」が進行している。しかしいまだに、この国の政治・経済は「成長」を至上命題として考え、多くの人は拡大思考から解放されないでいる。
〇かつて出産から子育て・教育、看護や介護、看取りと葬送(そうそう)、もめ事解決、防犯・防災などの基本的な生活活動(生命に深く関わる「いのちの世話」)は、地域社会で住民が共同で担ってきた。しかし、高度消費社会の進展が図られるなかで、それらの活動も、納税やサービス料を支払うことによって、行政や専門家、サービス企業に責任放棄・転嫁(「押しつけ」)され、委託(「おまかせ」)されている。別言すれば、市民が「顧客」や「消費者」という受け身の存在に成りさがっている(「市民の受動化」)。それは、「責任を負う」ということをめぐっての、この社会の「劣化」であり、市民の「無能力化」を意味する。
〇いま、こうした「右肩下がり」の時代を見据えて、いかにダウンサイジング(downsizing、縮小化)していくかが問われている。そこで求められるのは、人や組織を引っ張っていく強いリーダーシップ(リーダー)ではなく、社会全体への気遣い・目配りや周到な判断ができ、「退却戦」もいとわないフォロワーシップ(フォロワー)である。それが「しんがりの思想」である。これこそが、市民が受動性から脱して「市民性」(シティズンシップ)を回復させ、それを成熟させる前提になる。「市民性」とは、「地域社会のなかで、みなの暮らしにかかわる公共的なことがらについてともに考える、そしてそれぞれの事情に応じて公共の務めを引き受ける、そんな市民・公民としての基礎的な能力」([1]88ページ)をいう。
〇そして、鷲田にあっては、「市民性の回復」すなわち(対抗的な)「押し返し」の活動は、たとえばボランティアやNPOの活動、Uターン、Iターンの動きなどに見ることができる。リーダーや市民にはいま、「しんがり」の務めと「押し返し」のアクションを行なうことが求められている。その際に重要なのは、リーダーシップではなくフォロワーシップである。
〇鷲田は[1]で、梅棹忠夫(うめさお・さだお。1920年~2010年。民俗学者)の「請(こ)われれば一差し舞える人物になれ」([1]215ページ)という一言を引いて本文を閉じる。「成熟した市民」「賢いフォロワーとなる市民」の姿である。
〇筆者の手もとにもう一冊、駒村康平(こまむら・こうへい。経済学者)が編んだ『社会のしんがり』(新泉社、2020年3月。以下[2])という本がある。[2]は、2014年度から2018年度まで慶應義塾大学で行われた全労済協会寄附講座「生活保障の再構築―自ら選択する福祉社会」をもとに、さまざまな分野や地域で、変化する社会経済が引き起こす諸課題を克服すべく格闘している「しんがり」たちの活動をまとめたものである([2]8ページ)。
〇駒村の思い・願いは、すなわちこうである。「しんがり(殿軍:でんぐん)」とは、戦いに敗れて撤退する本隊を守るために最後まで戦場に残り、敵を食い止める部隊のことである。社会や地域が大きく変化し、その対応に既存の諸制度が対応できないときに、起きている問題に格闘する人や組織は必ず必要である。そうした人々や組織を「しんがり」と呼び、「先駆け(先駆者)」だけが褒(ほ)めそやされる時代に、「しんがり」の活躍にも光を当てたい([2]8~9ページ)。
〇駒村はいう。今日の日本社会は、人口減少や格差の拡大などによる社会の劣化が進んでいる。また、戦前・戦中の適者生存や優生思想が強まり、再び危機の時代を迎えている。LGBT(性的少数者)をめぐる生産性の議論や相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)などがそれである。そんななかで、地域社会を維持するために自ら社会問題を考え、構想し、地域の問題は住民自身で解決するという意識のもとで行動できる市民を育てる。また、平和のために時代や場所を超えて他者の困窮(困りごと)を想像し、共感できる市民を増やす、それが強く求められる。駒村が期待する「市民」は次のようなものである([2]23~24ページ)。
(1)充実した熟議ができるような市民になってほしい
社会や国に影響を及ぼす大きな政治的な諸問題について、伝統にも権威にも屈従することなく、よく考え、検証し、省察し、議論を闘わせる市民になってほしい。
(2)他者への敬意を払うような市民になってほしい
自分たちとは人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティが異なっていたとしても、他の市民を自分と同等の権利を持った人間と考え、敬意を持って接するようになってほしい。
(3)他者、他国の人の気持ちを想像、共感できる市民になってほしい
さまざまな政策が自分そして自国民のみならず他国の人々にとってどのような意味、影響を持つかを想像、理解できるようになってほしい。
(4)人の「物語」を聞くことにより、人生の意義を広く、深く理解できる市民になってほしい
幼年期、思春期、家族関係、病気、死、その他、さまざまな人生の出来事について、単に統計・データとして見るのではなく、一人ひとりの人生の「物語」として、理解することによって、多様な生き方に共感できるようになってほしい。
(5)政治的に難しい問題でも自ら考え、判断できる市民になってほしい
政治的な指導者たちを批判的に、しかし同時に彼らの手にある選択肢を詳細にかつ現実的に理解したうえで、判断するようになってほしい。
(6)世界市民として自覚し、社会全体の「善」に想いをはせてほしい
自分の属する集団にとってだけではなく、社会、人類全体にとっての「善」について考えてほしい。複雑な世界秩序の一部として自分、自国の役割を理解し、人類が抱えている国境を超えた、複雑で知的な熟議が必要とされる多様な諸問題の解決を考えてほしい。
〇言うまでもなく、地域の問題は地域住民の問題であり、住民自身で解決するという意識が重要である。その地域社会(まち)のありようを最終的に決めるのは、「市民」でなければならない。その点で市民には、鷲田がいう「市民性の回復と成熟」、駒村がいう(1)から(6)の「市民性」(市民としての資質・能力)の形成が求められる。地域の問題はまた、複雑化・複合化し、多様化、困難化している。その点で市民には、多領域の専門家との「共働」が肝要となる。先ずは問題把握や解決に向けて「熟議」する公共的な“場”の構築であろう。さらに市民には、政治や行政に対する一辺倒な批判だけでなく、まちの将来展望を踏まえた課題解決活動や運動の取り組みが求められる。これらは、筆者がいう「市民福祉教育」に通底する。
〇なお、鷲田は[1]で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の一節、「一人にて主客二様の職を勤むべき者なり」(岩波文庫、1978年1月、64ページ)を引く。それは、「ふだんは公共のことがらを、市民のいわば代理として担う議会や役所にまかせておいてもいいが、そのシステムに致命的な不具合が露呈したとき、あるいはサービスが決定的に劣化したときには、いつでも、対案を示す、あるいはその業務をじぶんたちで引き取るというかたちで、人民が『主』に戻れる可能性を担保しておかなければならないということである」([1]197~198ページ)。これは、「顧客」「消費者」としての市民の、鷲田がいう「押し返し」である。世間から押しつけられるものではなく、地べたから立ち上がる、「責任」の新しいかたち(感覚)であ。得意げに口汚くののしるだけの市民(クレーマー)は無用であり、ときに有害でもある。付記しておきたい。
追補
(1)社会保障制度の「しんがり」としての生活困窮者自立支援制度に関するメモ
〇社会保障制度の「しんがり」として、2015年4月、旧来からの「生活保護制度」に加えて、「生活困窮者自立支援制度」が施行された。この制度は、いわゆる「第2のセーフティネット」として、「生活困窮者の自立と尊厳の確保」と「生活困窮者支援を通じた地域づくり」を図ろうとするものである。
〇生活困窮者自立支援制度は、「現に経済的に困窮し、最低限度の生活を維持することができなくなるおそれのある者」(生活困窮者自立支援法第2条)、すなわち生活保護に至っていない「生活困窮者」に対して、「自立の支援に関する措置を講ずることにより、生活困窮者の自立の促進を図ることを目的とする」(同法第1条)。実施される事業は、必須事業の「自立相談支援事業」と「住居確保給付金の支給」、任意事業の就労準備支援、一時生活支援、家計相談支援、子どもの学習支援、就労訓練などである。
〇これらの事業は、経済的・社会的自立に向けた相談支援の提供であり、現金給付はない。唯一経済給付がある「住居確保給付金の支給」とて、臨時的・緊急的なものであり、対象者や給付期間、給付要件について限定的である。また、多くが任意事業であることによって、支援事業の実施や支援内容に地域間格差が生じる恐れが大きい。
〇要するに、生活困窮者自立支援制度は、就労自立を強調・強制するものであり、福祉の目的を就労の拡大におき、福祉の受給条件として就労を求める。すなわち、就労(work)と福祉(welfare)を組み合わせる「ワークフェア(workfare)」を志向・強化するものである。それはまた、ワーキングプア(働く貧困層)や過重労働を生み出し、就労困難者を事業対象から排除することになる。
〇しかも、貧困の自己責任を前提に、「自立支援」の名のもとで、生活困窮者の私生活への介入が拡大される。そして何よりも、生活困窮者に対する新たな相談窓口が、「就労・自立支援の強化」と生活保護の「不正受給への厳正な対処」(生活保護法改正)等により、生活保護の抑制的な運用(「水際作戦」などの違法行為)を推し進めることになる。
〇さらに、生活困窮者自立支援制度では、行政や関係機関、民間団体、地域住民などによって、経済的困窮と社会的孤立の特徴をもつ生活困窮者の包括的・早期的・創造的な支援を行う「地域づくり」に取り組むことが求められている。それは、困窮(「困りごと」)や経済的貧困の問題を生活困窮者・貧困者の生き方の問題にすり替えたり、生活困窮支援や生活保護についての国家責任を地域・住民に転化したり、地域・社会に生きる生活困窮者の人権や尊厳、生存権を脅かす、そういう恐れがある。
〇いずれにしろ、「自立支援」の考え方は、貧困の原因を個人の怠惰に帰す古典的な理解に基づくものである。経済的困窮や社会的孤立の問題は公的責任に基づく対応が必要不可欠であり、そのもとでこそ地域・住民による主体的・自律的活動が可能となる。生活困窮や貧困の問題を地域・住民の善意に基づく「共助」に引き受けさせることは、社会の不安と分断を拡大させるだけである。
〇別言すれば、「しんがり」(生活困窮者自立支援制度)のなかの“しんがり”のあり方が問われる、ということである。その“しんがり”は、多様な専門家と「共働」しながら、地域経済社会の事象や問題・課題を構造的に把握し、政策・制度や行政の問題や限界を明らかにする。そのうえで、地べたをはって地域づくりに取り組む、そういう市民である。その“しんがり”にこそ、「一差し舞える主(主人)」、すなわち真のリーダーシップ(「先駆け」)を期待したい。
(2)生活困窮者支援を通じた地域づくりと「ケアリングコミュニティ」
〇「生活困窮者支援を通じた地域づくり」に関して「ケアリングコミュニティ」のことが指摘される。ケアリングコミュニティについて筆者(阪野)はかつて、仮説的に次のように述べたことがある。参考に供しておくことにする。
〇筆者(阪野)は、管見ながら、しかもその一部に過ぎないが、人と人が共に生き、共に支え合うこと(「相互依存」interdependence)によって自己成長と相互成長、自己実現と相互実現を促す地域社会、すなわち「ケアリングコミュニティ」(caring community)に関して次のように考えている。(1)地域のあらゆる住民が「安心」して暮らせるまちは、「安全」と「信頼」と「責任」のまちである。安心=安全×信頼×責任、である。(2)まちづくりは、そこに暮らす住民が相互に支援し合う(「相互支援」の)地域コミュニティを創造するために、意識と思考と行動の変革を図ることから始まる。まちづくりは相互支援であり福祉教育である。(3)「自立」(「依存的自立」)は、自己選択と自己決定、そして自己責任に基づく自己実現の過程を通して達成される。それは、個人的なものにとどまらず、歴史的・社会的・文化的状況や背景によって規定される。自立は自己実現のための手段であり、歴史的社会的性格(特徴)を持つ。(4) 自己決定と自己実現は、個人的営為ではなく、自分と他者との相互の認識と行動に基づいた自己成長と相互成長を通じて初めて可能となる。自己実現は「相互実現」である。(5)現在の日本社会では、格差社会や管理社会が進展するなかで、持続可能な相互支援型社会を如何に形成するかが問われている。管理は画一化や受動化を促進し、支援は多様性や能動性を尊重する。地域共生社会は相互支援型社会である。なお、これらとともに、またこれらを可能にするためには、まちづくりや地域福祉についての多様な政策・制度的対応や専門機関・専門家による対応などが必要かつ重要であることは言うまでもない。(<ディスカッションルーム>(68)「支援学」ノート/2017年6月1日投稿)