あなたは、/壁をゼロにすることを/本当に願っていますか?/他者の喜びを/自分の喜びとしたいなら、/他者の苦しみも/自分の苦しみとしなければ/道理が合いません。/共に生きることは、/生半可なことではないのです。(16ページ)
私たちは、/他者から何かを伝えられ、/それに呼応する/言葉がなくてもいいし、/自分だけの言葉を/他者に語る必要もありません。/大きな壁の中では、私たちは、/秘密をたくさん持っていて/構わないのです。(44ページ)
誰かに「勇気をあたえたい」と思うあなたは、強者で賢者です。/だから、あなたに「ワタシを守る壁」なんて必要ありません。/私は、ワタシを守るために「仏教的なるもの」が必要でした。(188ページ)
〇筆者(阪野)は今中博之(ソーシャルデザイナー。敬称略)から、「名刺代わり」のご高著『壁はいらない(心のバリアフリー)、って言われても』(河出書房新社、2020年7月。以下[本書])のご恵贈を賜った。今中がいう「名刺代わり」とは、自らの人生を綴った自分史であり、怒りや安らぎを、その時々の心情を吐露した本でもある、という意味であろうか。また、今中は、本書は「少し毒気(どくけ)のある生き方エッセイ」であるという。誰をやり込め、傷つける「毒気」なのか。その対象は、「あなた」(「壁の中に籠りがちなあなた」「壁を壊して外に出たがるあなた」、「マジョリティのあなた」「マイノリティのあなた」、「中・高生のあなた」「大人のあなた」、しかも「見て見ぬふりをするあなた」「見ぬふりをして見るあなた」)なのか、「既成の知や制度化された知」(208ページ)なのか、あるいはもしかして今中、あなた自身なのか。
〇そんなことよりも、今中がそのような「気負い」をなくすきっかけは何だったのか。筆者は、その答えのひとつを次の一節に見出したい。「壁をコントロールできるなら、すべきだと書いてきました。無理やりにでも、意図的にそうすべきだとも書きました。でも、こうも思うのです。私は何さまだ‥‥‥自惚(うぬぼ)れるんじゃない、と。/仏教は、私に『無常』を教えてくれました。『無常』の『常』とは、『ずっとそのまま』ということです。それに『無』がつくと、『ずっとそのままは無いよ』となります。つまり『うつりかわる』ということです。うつりかわるものは、『すべてのもの』です」(183、184ページ)。「ずっとそのままは無いよ」は、「あなた」へのメッセージであり、愛娘(まなむすめ)へのそれでもある。
〇筆者は、本書を読み始めて早々に、何故か(本当に何故か)、子どものころに遊んだ摩訶不思議な世界である「万華鏡」を思い出した。3枚の鏡を組み合わせたもので、その内部に封入された対象物(オブジェクト)は次の三つである。「デザイン学・仏教学(仏教的なるもの)・社会福祉学」「デザイン(企て)・人生(生き方)・自分史(内省)」「哲学(生き方)・価値(選択基準)・思想(考え方)」。これらが、「一人ひとりで、共に」という理念・原理に基づいて「ソーシャル・イノベーション」(社会変革)をもたらす。そして、今中のほどほどでない“憤り”や“怒り”と、「仏教的なるもの」による“優しさ”や“安らぎ”を映し出す(図1参照)。今中の憤りや怒りは数知れないであろうが、筆者自身も優しさや安らぎを覚えるのは次の一節である。「愛する人を守るためには、私はワタシを守らなければならない。そのために壁の中に籠ることを肯定したい。けっして心のバリアフリーだけが幸せになる行為ではない」(217ページ)。
〇以下で、筆者が注目したい今中の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
「壊すべき壁」と「自分を守ってくれる壁」―「障壁」と「防壁」―
そもそも壁は二つあります。それは、「壊すべき壁」と「自分を守ってくれる壁」です。壁をゼロにしたからといって共生(きょうせい)が叶うわけではありません。大きな壁に囲まれているから孤独になる? そうとも限りません。壁は壊すものばかりではなく、自分の手で積まなけれはならないものもあるのです。/大きな心の壁は、豊潤(ほうじゅん)な孤独をあたえてくれるし、沈黙の中で生きる意味、死する意味を学ぶことができます。小さな心の壁は、他者と適度な距離感をあたえ共生には欠かせない存在です。一方で、壊すべき壁を完全にフラットにするなんて不可能です、きっと。(1、2ページ)
「弱さ」の分だけ「強さ」がある―「イーブンの法則」―
私たちは、なにかしら生活に困りごとをもっています。完璧に健康な人間などいません。永遠に続く富者(ふしゃ)がいないのと同じです。つまり、弱さのない人間などいません。逆に、私たちには、強さが必ずあるということです。ただ、強さが弱さを消すわけではありません。弱さを抱えて生きるから強さが発見できるのです。/弱い自分なんて嫌いだと言わないでください。弱さがなくなれば、あなたの強さもなくなります。それが、イーブンの法則というものです。/アトリエ インカーブ(知的に障がいのあるアーティストとデザイナーであるスタッフが協働する公的なデザイン事務所)のアーティストたちと20年近く暮らしてきて、この法則、案外当たります。(3、26ページ)
共に寄り添う前に、一人でいることを肯定する―「一人ひとりで、共に」―
当事者研究のスローガンの中に「一人ひとりで、共に」という言葉あるんです。「一人ひとり」は「壁を作りましょう」という意味で、「共に」という言葉はそれと矛盾するようですけど、「壁に籠っている人同士でやりとりをしましょう」という、そういう両価的なメッセージです。(熊谷晋一郎)/異なる価値観をもつ人々が共に生きるには、個々に壁を立てながらもつながっていく態度が必要ですね。壁に籠りながらも、つながりをもつ。/誰一人同じ価値観をもつ人はいません。それでも共に生きる。「一人ひとりで、共に」は、これからの共生社会の原理ではないでしょうか。(135、136、157~158ページ)
〇今中がいう重要な言葉や言説のひとつに、「観点変更」がある。「ヒトもモノもコトも、見る角度によって、美しくも、醜くも、優しくも、冷たくもなることを知った。少なくともアトリエ インカーブのアーティストに出会うまでは、私の見る角度は既成概念という鎖で固定されていた。/鎖がからだから溶け出してからは、ヒトもモノもコトも、見る角度や高さを少しずつコントロールすることができるようになってきた。私はそれを『観点変更』と呼ぶ」(今中博之『観点変更―なぜ、アトリエ インカーブは生まれたか―』創元社、2009年9月、273ページ)。これがそれである。本書を読んで「観点変更」について改めて認識したとき(28ページ)、何故か(本当に何故か)、秋竜山の「福祉マンガ」の次の4コマ漫画を思い出した(秋竜山『福祉マンガNo.2 みんないいひと みんないいこと』相模原市社協、1985年3月、48~49ページ。図2参照)。多言を要しないであろう(含蓄のある作品である)。
〇いまひとつ留意すべき今中の言葉(作法)に、「閉じながら開く」がある。今中はこう説明する。困っている人の存在やその人の悩みを「知って欲しい」と思う人が、多すぎる。その人たちは「いいひと」であり、悪意のない善意の持ち主である(89ページ)。しかし、「開きっぱなしだと害虫が侵入し(疲弊する)、閉じっぱなしだとカビ臭くなる(脆弱になる)」。そこで、「壁の中に籠りながら、時が来たら壁の上から顔を出す」(91ページ)。それが「閉じながら開く」である、という。前述の万華鏡は、そのオブジェクト(今中の思考の枠組み)によって、固定概念を覆(くつがえ)す新しい世界(壁のなかで繰り広げられる世界)をそのウチに開く。そして、ひと工夫加えることによって、万華鏡は外の景色を取り込み、ソトの世界を無限に広げるのである(本稿のタイトルの意味はここにある)。
〇例によって我田引水のそしりを免(まぬが)れないが、今中の言説から、「市民福祉教育」にかかわるであろう一節を抜き出すと、例えば次のようなものがある。「マジョリティ(多数派)には、(きっと)悪意はありません。ただ、悪意のない善意ほどややこしいものはない」(21ページ)。「多様性はややこしいのです。/初めて見る規格外は恐怖です。でも、それが多様性です。/もし、あなたが、つまずくことを躊躇するなら、多様性のある社会を実現したいなんて言ってはダメです。つまづくことを覚悟するしか、多様性のある社会は実現できないのですから」(108ページ)。「私たちは、見えない障壁に囲まれて生活しているようなものです。一見、自由が保障されているようで、その実、コントロールされています。/障壁は強く強靭(きょうじん)です。抵抗しても、歯が立ちそうにない」(165ページ)。
〇これらの「ややこしさ」について、文部科学省が2020年度からその充実を図るという「心のバリアフリー」教育は、どのように認識しているのか。市民福祉教育はどのように向き合い、どのような事業・活動や運動を展開しようとしているのか。(敗戦後の混迷期のように)政治・経済・社会のすべてが「劣化」した日本のいまの在り様は、それらの教育実践の拠り所である(新しい)「哲学・価値・思想」の必要性について強く迫っている。今中の本書は、それに応えてくれる一冊でもある。
付記
「アトリエ インカーブ」と今中博之、神谷梢の言説については、<雑感>(73)/2019年1月28日/本文、(95)/2019年9月19日/本文、(112)/2020年7月8日/本文、を参照されたい。