1977年 小学校で青少年赤十字(JRC)の担当者になった
校内で 福祉教育やボランティア学習を論ずる
研究者ではないから 理論は軽薄かつ軟弱
理論研究するには 専門的知見に欠けた
理論武装は非力で 共感的理解を得ることは難しかった
暗中模索の中 文献を書き写し資料づくりに精を出した
全校の年間活動計画は その裏付けになる理論と実践の展望を提起した
反論もなく受け入れられ させられているという事態が続いた
学担の意識格差で 子どもの動きは全く違った
孤立無援 地団駄を踏みながら あがき続けた
ただ書くことだけは 怠らなかった
実践の拙い記録が 唯一の自己存在の証だった
転機が訪れた
1985年 札幌で開催された「ボランティア愛ランドフェスティバル」で出会った
世界のボランティアの父 アレクディクソンに教えを乞う
エピソードから 伝えるべきメッセージを導き出せと
実践の現場を持ちながら 学ばなければならないことを
学び得ていない事実を 突きつけられたのだった
才学に貧しい者が 人前で話す機会が多くなった
難しい言葉を並べて 知ったかぶりして語ることをやめた
書き物にも エピソードから学んだ福祉やボランティアのエキスを盛った
子どもとの学びの世界に 福祉教育の大きな可能性を見出していった
小さな世界に籠もっていることが 苦痛になった
1986年 道社協福祉教育専門委員会の委員を委嘱された
普及啓発に道内を 時には道外に飛んだ
話のネタはカードに記録し いまも4千枚万ほど手元に残る
依頼された原稿の資料にも 活用した
講演のテープ起こしで 不足部分を追記して原稿を書き上げた
多くは冊子や記事となり 福祉や教育の関係者の目に触れていった
北海道新聞で「ボランティアいろは塾」というコラムも連載した
たった三人で「北海道ワークキャンプ研究会」を立ち上げた
ワークキャンプの普及啓発と指導者のネットワークづくりを目指して
情報誌二千部の発行と 全道ワークキャンプ指導者セミナーを運営した
時には道日赤に依頼され 日本で初めてボランティアを全面に出した
「全道日赤ボランティアセミナー」の企画と運営を担った
92年 釧路根室管内の子どもたちを主人公に 彼らが企画運営する
「道東圏ヤングボランティアフォーラム」(通称ヤンボラ)を開催した
2003年 12年続けた事業にピリオドを打った
実行委員長だった子は 福祉を研究する大学人となった
その流れは 99年秋田県北の大館・比内・小坂・鹿角のヤンボラ開催につながり
全国でも稀な広域事業として 17年間続いた
95年1月阪神淡路大震災が起こり「ボランティア元年」と言われた
8月「ボランティア愛ランド北海道in札幌」が開催された
七百名のキャパを埋め尽くした大ホールで 参加型のワークショップを展開した
全道各地から集まったボランティアを 歓喜の渦に巻き込んだ
98年「第30回全国ボランティア研究集会」 札幌を中心に全道各地で開催した
「わたし発ボランティア文化の創造」をテーマに 三千人近い参加を得た
その運営を担ったのは 96年札幌市民を中心に草の根運動を立ち上げた
「ボランティアネットワーク自遊人」の面々と
全道各地の社協マン そしてボランティアだった
99年1月「自遊人」を発展的に解消した
それらの運動の集大成として 全道のボランティア振興の核になる
ボランティアコーディネーターの資質の向上とネットワークを目指し
全国に先駆けて「北海道ボランティアコーディネーター協会」を設立した
2013年 ボランティアで運営してきたNPO法人を取得していた協会を解散
ボランティア振興の一時代にピリオドを打ち 一市民に戻った
理論研究者にはなれなかった
実践者ではあった
ただ覚醒したのは 市民運動へのモチベーションだった
関係団体や機関に助言し事業を企画する
市民として福祉やボランティアを学び まちづくりへの主人公となる
市民を巻き込み 市民が動き 市民に育てる
市民運動として 40年携わってきたこと
それが 自分の本分だった
社会福祉や教育に 弱い風を送り 小さな波を起こす
一人では出来ないから 一人でも始める
共感する仲間が集まり 共に動き出す
輪は大きくなり 意識変革運動となる
喜んで参画し そこで自らを輝かせ自己実現をはかる
その成長する姿を見ることこそ 男冥利に尽きるのかも知れない
まだ余力の残っているうちに 為さねばならない事がある
余人を以(もつ)て代えがたい事のケジメを つけなければならない
〔2020年12月27日書き下ろし。理論、実践、運動の三つを兼ね備えることは難しい。ただその流れの中から確固たる運動は生まれてくる。まだ続けるエネルギーを多くの仲間からいただいていることにただただ感謝するのみである〕