「老爺心お節介情報」第10号
Ⅰ 障害者の幸福追求権、“社会参加”とスポーツ
2020年8月17日、日本経済新聞の夕刊の「こころの玉手箱」に昔懐かしい人の名前を見つけた。大阪市長居障がい者スポーツセンターの館長をされ、元パラリンピック日本選手団長をされた藤原進一郎さんの名前である。藤原さんは、「心の玉手箱」に8月17日から21日まで、全5回に亘って連載された。
私と藤原進一郎さんとの出会いは、雑誌「月刊社会教育」(国土社)の1981年4月号で、私が編集担当者として“国際障害者年と社会教育”の特集を組むにあたって、大阪市身体障害者スポーツセンターを訪問すると共に寄稿して頂いたことが契機である。
その当時、障害者自立支援を“救貧的対応”ではなく、憲法第13条に基づきその人の幸福追求、自己実現を基軸に展開すべきではないかと考え、当時、社会福祉行政では殆ど取り組んでいなかった障害者の学習・文化、スポーツ・レクリエーションの推進こそがその突破口になるのではないかと論陣を張り、その推進に関わっていた。当時、東京オリンピックの際に行われたパラリンピックを契機にチャンピオンシップ的なスポートは始められていたが、私が求めてたのは市町村レベルでの市井の人である障害者の自己実現と生活圏、生活文化の拡大の取り組みであった。
それは、ある意味福祉教育にもつながる活動として位置付けた。障害を有している人が多様な学習、文化、スポーツ活動を行うことで、障害者への差別、偏見、蔑視が取り除かれる契機になるのではと考えたからである。
当時の大阪市身体障害者スポーツセンターを訪問し、視覚障害者向けのボーリングが考案されていたことに驚くと共に、自分の障害者観の“視野狭窄”について思い知らされた。、
Ⅱ 伊能忠敬を素材にした井上ひさし著『四千万歩の男』(講談社文庫全5巻、1986年初刊行)を読んで
大学教員を退職したことと、新型コロナウイルスによる“自粛生活”が相俟って、研究上、精神的にも、時間的にも追われることなく本が読めるようになり、とても楽しい日々が送れている。これが、“私の新しい生活スタイル”になるのであろうと思うと嬉しい。
そのような中、山本七平著『日本人とは何か』の後に詠み始めたのが、井上ひさし著『四千万歩の男』である。四国歩きお遍路の中で、伊能忠敬が1808年に、現在の高知県香南市赤坂地区が北緯33度33分33秒であることの正さを顕彰した記念碑をみていたので、いつか読みたいと思っていたが、読んでいくうちに、驚くことが多く、かつ自分の知識のなさに愕然とする記述が沢山出てくる。自分の博識の無さに愕然とする。井上ひさしの構想力の豊かさと博学に驚くばかりである。未だ途中であるが、そのいくつかを紹介しよう。
(1)伊能忠敬は、「麻田剛立(1724年~1799年、コペルニクスの地動説に基づく天文学者、医者、杵築藩)――高橋至時――伊能忠敬」という系列に位置するが、山本七平が評価していた麻田剛立(1724年~1799年)がよく出てくる。と同時に、和算さんの大家と言われる「関孝和――本田利明――最上徳内」の系列の話が天文学との関わりで出てくる。最上徳内は、教科書で習った蝦夷(北海道)の探検家であり、1985年択捉島、国後島にも渡り、日本国の標柱を立てたと教えられきた。これらの人物も、山本七平著「日本人とは何か」で取り上げられている。
(2)コペルニクスの学説を「地動説」と訳語した人物が志築忠雄で、志築忠雄は、「弾力」、「重力」、「求心力」、「加速」という用語も訳語したという。
(3)伊能忠敬は、「一間を二歩」の歩幅で歩測したが、他方「歩時計」(今でいう万歩計)が作られており、それを併用したという。
(4)蝦夷及び秋田藩を巡行し、民俗学的記録を残した江戸時代の民俗学者「菅江真澄」(1754年=1829年)も登場する。
(5)山本七平著「日本人とは何か」にも取り上げられている山片幡桃等も出てくる。
(6)私が常々教え子たちに述べてきた「研究者にとっての“教育”の位置」について、全く同じことを井上ひさしが展開していることが嬉しい。
天文台長の高橋至時が伊能忠敬に述べている場面(P101)
「他人に教える段になってはじめてはたと自分の知識が、学問がいかにあやふやなものであったかに気付かされるものでしてな。学問を志すものはだれでもすくなくとも一度や二度は、このときの苦い気持ちを味わっておくべきでしょう。加えて他人に教えることによって自分の学問の基礎がかたまります。これはまちがったことを教えてはならぬと思い、基本から再吟味するせいでしょう。さらに、向上心に燃える弟子と共に基本に戻ると、自分がその学問を始めたころの情熱が思い出されてくる。つまり、労なくして初心に戻れるわけで、初心を取り戻すことによって現在の研究に対するいっそうの気迫が得られる。」
(2020年8月30日記)