〇本稿は、先の拙稿――<雑感>(138)「『時間』と『空間』の座標・尺度で『生きる』ということについて考えるために―建築家・内藤廣の『ちから』3部作に学ぶ―」(2021年6月21日投稿)の追記である。
〇図1は、内藤廣と加藤周一の言説から、未完(未定稿)ながら「時間と空間の座標」を示したものである。ここではひとまず、「現在(今=ここ)」を起点に時間の流れと空間の広がりを捉える。時間と空間は相対的なものであり、本質的に一体不可分のもの(「時空」)である。「時空」のなかの一点(今=ここ)から、歴史上の過去を振り返り、歴史上の未来を志向する。自然や季節との関りのなかで回帰・循環し、関係的に存在する時間と空間がある、という点について留意しておきたい。
〇「隣り百姓」という言葉がある。フランス文学者・評論家の多田道太郎(ただ・みちたろう。1924年~2007年)は、『しぐさの日本文化』(筑摩書房、1972年7月)という本のなかで次のように説明している。「隣りが田植えをすればわが家も田植えし、隣りがとりいれをはじめればわが家も急いでとりいれする。要するに『自主性』がないのである。独立の計画というものがない、といわれる」(18~19ページ)。
〇家庭菜園者を気取っている筆者(阪野)は、一面ではまさに「隣り百姓」的である。しかしそれは、模倣あるいは同調できる環境や状況下にあることによるものであり、また家庭菜園の作業の全てがそうであるとは限らない。ときには「真似(まね)ぶ」ことすなわち「学ぶ」ことを通して、自主性や計画性さらには独創性を生み出すことにもなる。
〇この「隣り百姓」について、『日本人とユダヤ人』(角川書店、1971年9月)の著者である評論家のイザヤ・ベンダサン(山本七平〈やまもと・しちへい〉。1921年~1991年)は、合理性をもった行動様式であるという。ベンダサンによると、「自ら隣り(模範)を選び、その通りにやるのは立派な一つの自主性であり、しかも的確にまねができるということは、等しい技量をもたねば不可能であるから、その技量に到達するよう自らを訓練することも自主性である」(54ページ)。日本人は、全員が一致して一定の方向に向かう組織的な同一行動(キャンペーン)がとれる民族である。日本の農業はまさにキャンペーンであり、「キャンペーン型稲作」(50ページ)と名づけることができる。それはさらに、もうひとつの決定的な特徴を日本人に与えている。「天の時、地の利、人の和」がそれである。「かつては、全日本人の85パーセントが、ある時期(天の時)になると一斉に同一行動を起した(人の和)。田植の時には全日本人が田植えをしなければならない。ゴーイング・マイ・ウェイなどとうそぶいていれば、確実に餓死するか他人様(ひとさま)のごやっかいにならねばならぬ」(53~54ページ)のである。
〇模倣すなわち「写し」について、内藤廣は『空間のちから』(王国社、2021年)のなかで次のように述べている。「オリジナリティこそが個人を支える価値だと考えられている近代社会では、わが国が伝統的に継承してきた『写し』という概念は遺棄されたに等しい。個人の表現こそが創造の意味そのものであり、近代的な自我の在処を保証するものである、と誰もが思い込んでいる。(中略)『写し』は、写されるたびに解釈され、意味を加えられ、咀嚼される。それぞれの時代に合わせて変容していく。(中略)クラシック音楽がよい例だが、変奏曲というのはよくある話だ。(中略)(それは)作曲家の残したオリジナルに対する『写し』と見ることもできる。否、作曲家当人でない限り、あらゆる演奏家は、オリジナルを理解し、解釈し、修練し、聞き手に向けて『写し』を披露しているのである」(164~165ページ)。ここで、「コピー・アンド・ペーストは悪である」という考え方も揺らぐ。
〇筆者は、「今=ここ」に住む地域で、とりわけ「隣り家庭菜園者」を自認してからは「郷に入っては郷に従え」「出る杭は打たれる」を痛感させられてきた。「天の時、地の利、人の和」の難しさも何度となく味わってきた。遠いよその地域ではなく、「我が身を置く我が地域」においてである(ここで、老舗和菓子屋「虎屋」17代目当主・黒川光博の「伝統とは革新の連続である」という言葉が思い出される。『空間のちから』66ページ)。そんななかで、「隣り百姓」は模倣と協調、写しと変容、共同性と独創性を含意する言葉であり、良かれ悪しかれそれが日本の地域社会やコミュニティのあり方や文化(「時間と空間」)を形づくってきた、と理解したい。