〇本稿は、本ブログの<雑感>(134)「『贈与』再考メモ―コミュニズムとアナキズム―」(2021年4月28日投稿)で説く「アナキズム」に追記するものである。
〇人は甚大な被害に見舞われた際、とりわけいま新型コロナウイルス禍で、「国家」を意識する。国家はときに、無力で無能な制度と化し、人びとの平和な暮らしを脅かすことがある。国家は人びとにとって強くて大きい存在であり、国家を維持するために国民を犠牲にすることすらある。そもそも国家は、国民全員の生活を十全に支援し、保障する仕組みとして準備(形成)されているものではない。そういう国家のもとで暮らす人びと(弱い存在である生活者)は、国家から一定の距離をとり、ふだんの暮らしのなかで互いに助け合う意識を持ち、その論理を展開する(展開してきた)。そして、国家・社会によって「当たり前」とされているモノやコトを揺さぶり、問い直し、新たな知恵や技法を編み出す(編み出してきた)。そしてそこに、希望と可能性(力)を見出す(見出してきた)。
〇身の回りの出来事や社会的な問題に対処するのは、政治家や行政職員だけではない。その重要な役割を果たすのはむしろ、日々の暮らしを営んでいる一人ひとりの生活者である。政治や行政は、人びとの現実の暮らしのなかにこそ見出される。その点において、現実生活から遊離した観念的で固定的な思考や知識に基づく、しかも「次の選挙を考える」政治家(政治屋)や「前例・横並び主義」に汲々とする行政職員は不要となる。
〇筆者(阪野)の手もとに、松村圭一郎(まつむら・けいいちろう。文化人類学専攻)の『くらしのアナキズム』(ミシマ社、2021年10月。)がある。「アナキズム」というと、「無政府主義」「革命」「暴力」「無秩序」等々のイメージがつきまとう。文化人類学者の松村はいう。アナキズムの本来の意味は、普通の生活者がふだんの暮らしのなかで、国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決していく点にある。その解決のためには日頃から、「人と人が問題を共有し、手をさしのべられる関係や場」を「耕し」ておくことが肝要となる(176、177ページ)。またそこでは、「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)の論理や「対話」と「同意」の技法などが必要かつ重要となる。
〇松村の「くらしのアナキズム」に関する論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
ふだんの・くらしの・アナキズム、その理念と思想
鶴見俊輔は、アナキズムを「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」と定義した。(24ページ)/人と人が問題を共有し、手をさしのべられる関係や場を準備しておく。それは政治家や経営者がやれる仕事ではない。むしろふつうの人こそがやっているし、できる仕事だ。(176ページ)/ぼくらはつねに匿名のシステムに依存して生きている。そのシステムが壊れたとき、たよりになるのは、それぞれがつながってきた顔のみえる社会関係だけだ。(それが「くらしのアナキズム」である。)(180ページ)
政治と暮らしが連続線上にあることを自覚する。政治を政治家まかせにしてもなにも変わらない。政治をぼくらの手の届かないものにしてしまった固定的な境界を揺さぶり、越境し、自分たちの日々の生活が政治そのものであると意識する。生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること。それが「くらしのアナキズム」の核心にある。(61ページ)
だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。(227ページ)/くらしのアナキズムは、目のまえの苦しい現実をいかに改善していくか、その改善をうながす力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚にねざしている。/よりよいルールに変えるには、ときにその既存のルールを破らないといけない。サボったり、怒りをぶつけたり、逸脱することも重要な手段になる。それなら、ぼくらにもできそうな気がする。自分の思いに素直になればいいのだから。(226ページ)
「国家なき社会」における普通の生活者による「公共」
21世紀のアナキストは政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。(12ページ)/「公(おおやけ)」とか「公共」といえば、お上(かみ)のやることだと信じられてきた。今度はそれを企業など別のだれかにゆだねようとしている。ぼくらはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。でも、ほんとうにそれはふつうの生活者には手の届かないものなのか。アナキズムには、国にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができるという確信がある。(13ページ)/この無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ。(13ページ)/「国家なき社会」とは国家と無縁の社会ではない。国家に包摂され、近接しながらもなお、それに抗(あらが)い、自律的な空間を保持しようとした(する)社会だ。(148ページ)
不完全性を肯定し異質性を包摂する「コンヴィヴィアリティ」
世界は流動的で、つねに変化しつづけている。そこでの「人間」は、いつも不完全な存在にすぎない、でも、不完全だからこそ、同じく不完全な他者との交わりのなかに無限の変化の可能性が生まれる。(198~199ページ)/不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉することのうち(裡)にある論理を「コンヴィヴィアリティ(conviviality:共生的実践、自立共生、自律共働)という。(199ページ)/コンヴィヴィアル(convivial)な世界(共に生きる世界)では、「改宗」を迫るのではなく、「対話」をすることが異なるものに対処する方法となる。異質なものをすべて包摂することが、その秩序の根幹をなす。自分とは異なる存在は、脅威ではなく、むしろ魅力的なものとして積極的に受け入れられる。(200ページ)/「コンヴィヴィアリティは、異なる人びとや空間、場所を架橋し互いに結びつける。また互いに思想を豊かにし合い、想像力を刺激し、あらゆる人びとが善き生活を求め確かなものとするための革新的な方法をもたらす」(現代のアフリカを代表する人類学者のフランシス・ニャムンジョの言)。(201ページ)
民主主義の根幹であり生活者がなすべき「対話」と「同意」
いまアナキズムを考えることは、どうしたら身のまわりの問題を自分たちで解決できるのか、そのためになにが必要かを考えることでもある。(151ページ)/国や政治家よりも、むしろ自分たち生活者のほうが問題に対処する鍵を握っている。その自覚が民主主義を成り立たせる根幹にある。結局だれもが政治参加だと信じてきた多数決による投票は、政治とやらに参加している感をだす仕組みにすぎなかった。たぶんそこに「政治」はない。そうやって政治について誤解したまま、時間のかかる面倒なコンセンサス(同意)をとることを避け、みずから問題に対処することをやめてきた。それが結果として政治家たちをつけあがらせてきたのだ。(151~152ページ)/(多数決には少数派に沈黙と妥協を強いる危険性がある。)(納得いくまで話しあい、)異なる意見を調停し、妥協をうながしていく(地味で地道な)対話(コミュニケーション)の技法。それこそが民主的な自治の核心にある。(158ページ)(なお、ここでいう)「自治」は、(自助を求める)国家(政府)を補完するような自治ではない。むしろ国の動きをけん制し、分け与えるよう求め、主導権をとりもどすためのものだ。国によりよき状態を要求し、その力への抵抗の足場をつくる。(222ページ)