目 次
NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置
NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造
NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践
NO.4 智頭町地域づくりのステップ
NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦
NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩
NO.7 1986・7年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間
NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 ⇒ 集団で起こす
NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場
NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>
NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践
NO.12 講義-1. 1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント
NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】⇒ 連携10策
NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案
NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト
NO.16 論文-1. 1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス
NO.17 1996年 ゼロイチ運動企画コンセプト
NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす
NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒ 落は活性化計画を実行
No.20 地域運営から地域経営へ
NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争
NO.22 中原集落の導入効果
NO.23 早瀬集落の導入時
NO.24 早瀬集落の10年後
NO.25 論文-3. 2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年
NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント
NO.27 2008年 地区振興協議会設立⇒ 過疎化の起爆装置
NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置
NO.29 論文-5. 2013年 旧村を住民自治の舞台に
NO.30 論文 旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ
NO.31 論文-6. 2008年 百人委員会スタート
NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍
NO.33 智頭町もりのようちえん
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NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置
1980年代、過疎化・高齢化・少子化が現実となって押し迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外になく、他に存在はない。住民は時代の波に抗うことができない。ただ流れに身を任せている。このままでは地域はなるべくして疲弊する。1984年、決然と一歩を起こした。
1989年に改選が行われ、議長候補が多数派工作をして議員に金を配り、議員の半数が逮捕された。町会議長は2年交代が慣例化していた。町会議員の選挙違反が発覚した。そして、その議員が執行猶予にも係わらず1993年に町長選挙に立候補して当選した。また、元町長が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕された。町の封建的な体質に問題がある。智頭町に住んでいることが屈辱であった。
智頭町の活性化は、役場職員の覚醒化と住民の依存体質にある。どうすれば役場職員を覚醒化できるか、また、住民の規範を革新することができるのか、苦悶した。そして、英知を結集し秘策を練った。1997年にゼロイチ運動(仕組み)がスタート、起爆装置となって創発規範を醸し、智頭町は変わった。杉しかない町から誇りある町へと転身した。
秘訣は、社会システム(仕組み)の創造と、社会科学による調査・検証による。それらは住民にとって学習機会となった。
NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造
1. 封建的依存体質~規範の革新
2. 社会科学・行動科学の実践
1969年 ピーターの法則(著)ローレンス・J・ピーター他
《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》
1979年 リーダーシップ論(著)松本順⇒次P4掲載
1983年 帰郷、一匹のメダカの理論に挑戦、よき理論はより実践的である。小集団 活動、孫氏の兵法、経営管理(マズローの欲求概念等)
1993年 かや(規範)の理論の講義、吸着誘導法
3. 社会システム(仕組み)の力
1991年 四面会議システムを考案~参加型集団企画技法
1994年 ひまわりシステムを発案~高齢者買い物代行
1995年 グランドデザインを策定~ゼロ(0)からイチ(1)、無から有
1996年 村おこしコーディネーター会議発足~計画実行システム策定
1997年 日本・ゼロ分のイチ村おこし運動~集落振興協議会の設立
2008年 領域自治システム~地区振興協議会の設立
4. 政策提案システム~2008年 住民と役場職員で協働
NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践
リーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」
《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験 をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。
私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。
この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》
NO.4 智頭町地域づくりのステップ
1. 胎動・内発期:住民による突破型プロジェクト【1984~1994年】
1984年 一歩を起こす
1988年 CCPTを設立
2. 連携・融合期:CCPTと役場の協働プロジェクト【1994~1997年】
1994年 小集団による10策のプロジェクト
3. 行政・参加期:ゼロイチ運動により行政参加【1997年~2008年】
1997年 ゼロイチ運動スタート
4. 起業・発展期:移住者・若者による起業【2008年~現在】
2008年 地区振興協議会(旧村単位)スタート
2008年 智頭町百人委員会スタート
2009年 もりのようちえん開園
NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦
1984年 杉板はがき発案
1985年 杉名刺開発
1986年 鳥取県イメージアップ懇話会委員、とっとりingsマン=積極人間
1987年 木づくり遊便コンテスト
1988年 智頭町活性化プロジェクト集団(CCPT)設立
1988年 智頭杉日本の家設計コンテスト
1988年 智頭町活性化基金設立
1988年 社会システム思考講義 鳥取大学工学部教授 岡田憲夫先生
1988年 八河谷集落、住民と離村者実態調査(鳥取大学工学部)
1989年 智頭杉ログハウス建築事業
1989年 杉下村塾開講
1990年 世代別住民意識調査(環文研=近鉄)
1990年 大学生との交流“鳥になって智頭の空を飛ぼう“
1991年 四面会議システム考案、土木学会発表
1993年 講義「かや(規範)の理論」 京都大学助教授 杉万俊夫先生
NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩
NO.7 1986・7年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間
鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだと思った。懇話会での出会いが人財ネットワークとなった。一寸の虫も五分の魂である。地域戦略ソフト機関をイメージした。
1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に、決意を寄稿している。
《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》
NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 ⇒ 集団で起こす
智頭町活性化プロジェクト集団を設立
(Chizu Creative Project Team略称CCPT)
木材加工グループ等の集合体としてスタート
学習・企画・実践集団を目指す
厳しいバッシング
故前橋代表 「谷川の一滴の水も、掬う手を乗り越え、大河に通じる」
メンバーは30人、あえて非公開とした
活動はフクロウ(夜)集団
リーダーシップはエディターシップ(水平型ネットワーク)
臨機応変、変幻自在に展開する
役場や助成団体の下請けはしない
NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場
岡田憲夫先生指導<鳥取大学工学部社会開発システム工学科>
1) ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。
2)活性化プロセス
ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。
覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。
次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。
NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>
1988年 八河谷集落住民実態調査/可能性ゼロ
1989年 ログハウス建築事業
NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践
鳥取県イメージアップ懇話会と社会科学の学び
テーマは「地域経営」 1989年~1998年(10年×10回)
2泊3日 場所:最奥部八河谷集落 「杉の木村」
地域リーダー、行政職員、科学者、研究者約40人
講師無料 受講生の受講料3万円
座学と議論、模造紙会議から四面会議システムの演習
《智頭町で実現のため、塾後CCPTで検討し関係機関等と連携してプロジェクトを 立ち上げた》
智頭町・地域戦略ソフト機関を目指す
NO.12 講義-1. 1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント
京都大学助教授 杉万俊夫先生
1993年4月4日 講義から学ぶ(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)
《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》
《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》
《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろ んなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をす る。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残 りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》
NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】⇒ 連携10策
1994年8月 親水公園連絡協議会設立
1994年8月 郵便局と役場の連携プロジェクト
1995年1月 グランドデザイン策定プロジェクト
1995年5月 はくと・はるか・関空シンポジウム
1995年4月 さわやかサービス職員接遇研修
1995年12月 地域と科学の出会い館建設
1996年4月 村おこしコーディネーター会議
1997年4月 ゼロイチ運動担当者会議
1997年9月 ゼロイチ運動集落振興協議会連絡会
1997年12月 千代川流域圏会議
NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案
役場と郵便局で連携プロジェクト
NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト
1995.1.14~智頭町グランドデザイン策定プロジェクトスタート
第6回杉下村塾(1994.10)「智頭町のグランドデザインとは何か?」
報告書:杉トピア(杉源境)ちづ構想⇒ゼロイチ運動を発案
マイステージは「住民自治」・ユアステージは「交流情報」・
フォレストステージは「地域経営」と意訳、ゼロイチ運動に3本の柱
チームリーダー役場助役 故前橋伍一氏
各課横断的に職員 7人
アドバイザー等
京都大学教授 岡田憲夫先生
企業コンサルタント 福田征四郎氏
地域コンサルタント 平山京子氏
コーディネーター 寺谷篤志
1996.4.12~村おこしコーディネーター会議スタート
ゼロイチ運動企画書等住民5人と役場職員で策定
NO.16 論文-1. 1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス
智頭町の活性化運動10年について
京都大学助教授杉万俊夫
「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」
(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)から抜粋⇒集落が経営感覚を持ち、創出された新しい総事
《・・・「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘めされていると考えることはできないだろうか。・・・》
NO.17 1996年 ゼロイチ運動企画コンセプト
1. 集落が手を上げ、住民と各種団体を包摂する集落振興協議会を組織し、地域計画 を策定して、10年間実行する。
2. 従来の集落運営方式は残しつつ、個人の資格でだれでも参加できる新しいボラン ティア方式を採用した。
3. 集落振興協議会を智頭町の認定法人(みなし法人)とした。
4 .助成金は初年度と2年度は各50万円、3~10年は各25万円=合計300万円とした。
5. 計画のステップは、早瀬集落をモデルとし、四面会議システムで策定した。
【企画書の趣旨】⇒村おこしは、無(0)から有(1)への挑戦
その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。
NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす
NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒ 落は活性化計画を実行
1. 村の誇り(宝)を創造する。(村の誇り(宝)づくり)
2. 住民自らの一歩による村づくりと絆づくりを行う。(住民自治)
3. 村の将来を見据えた計画をつくる。(計画策定)
4. 外の社会(海外や都市)との交流を図る。(国内外交流)
5. 村の生活・地域文化の再評価を行い、付加価値を図る。(地域経営)
【導入集落】 16集落
市 瀬 …市瀬自慢の田舎料理、しめなわづくり他
本 折 …花見会、ミニ傘作り、壁画作成他
中 田 …蛇の輪の復元、スイートコーン作り他
波 多 …集落大運動会、ギボウシ作り他
中 原 …そば作り、かずら細工、花作り他
白 坪 …みそ、福神漬け、吟醸付け作り他
新 田 …集落NPO化、カルチャー講座他
早 瀬 …竹炭、竹酢、みそ製造、東屋作り他
五月田 …考え地蔵まつり、椎茸原木作り他
上 町…智頭宿イベント、ふれあい広場づくり他
中 島…城跡遊歩道整備、紅梅管理他
岩 神…休耕田開放による野菜づくり、城跡整備他
早 野…高齢者給食サービス、草木染め他
奥 西…紅茶づくり、ヤーコン作り、視察他
浅 見…ログハウス作り、ほたるの復活事業他
芦 津…麒麟獅子舞伝承、地酒作り他
No.20 地域運営から地域経営へ
住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごと価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営で捉えられてきた。発想の転換である。
つまり、地域経営とは、その地に住む全ての人々(住民も行政マンも、また地域外の賛同者も)が、主体的に住民自治を行い。地域を経営する視点に立って、内在する、人、モノ、コト、技術、文化、社会システム など。あらゆる資源の価値を引き出し、持続可能な社会の実現に向け、地域の誇りの創造を目指す、ゼロ(無)イチ(有)運動である。
企業経営は、社会的使命と利潤の追求にある。ところが地域経営は、コミュニティの復興、地域経済の創造、主体(人財)形成など、一体的に地域実現を図る豊かさの営みによって、ウェルビーイング(幸せ・誇り) を手繰り寄せた。
NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争
1997年 ゼロイチ運動スタート(集落)
(導入16集落/達成15集落) 2011年助成期間終了
1997年 元寺谷町長就任
2004年 元寺谷町長辞職
2004年 議会が単独決議
2005年 中国社会科学院羅紅光先生要請、ゼロイチ運動集落代表北京訪問
2007年 北京外国語大学「智頭の杜果樹基金」設立10年
2008年 山形地区・山郷地区振興協議会設立
2008年 元寺谷町長再選
2008年 智頭町百人委員会スタート
NO.22 中原集落の導入効果
創発的営み第2章「地区振興協議会で「創造的昔帰り」
中澤皓次氏
《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》
《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》
《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取 り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにし ても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活 力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けと なった。》
NO.23 早瀬集落の導入時
1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
会長 長石昭太郎氏
《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者 不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣 根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集 落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》
NO.24 早瀬集落の10年後
2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代会長 長石昭太郎氏
《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》
NO.25 論文-3. 2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年
鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」
京都大学教授 杉万俊夫
(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)要約抜粋 ⇒ 活動による知恵
《・・・1987年から、最小コミュニティ単位である集落ごとに、長らく根づいた保守性、閉鎖性、有力者支配を打破し、地域を経営の視点で見直し、集落外と積極的に交流しつつ、住民自治を育む運動が開始された。智頭町における89集落のうち15集落が、この運動に参加した。・・・》
《・・・その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使いわけていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言が増したことが見出された。同時に、10年間エネルギーを発揮し続けた裏返しとして。「この辺りで一服」という正直な気持ちもあること。・・・》
論文-3 考察から抜粋⇒人口減少を衰退指標にしない
《・・・このような10年間に、2-3割の人は、ゼロイチ運動によって新しい自己実現の場を手にした。それとともに、明るい将来展望も芽生えつつある。女性たちも徐々に発言力を増しつつある。別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。
もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、 2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減 少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。・・・》
NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント
2006年末には早瀬集落振興協議会の総括資料と、また、杉万先生からアンケート調査結果の事前説明を受けた。そこから、本命である地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。
地区版の構想ポイントは、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点を目指す。⑧運営要領等(企画書と規約以外)の仕組みづくりを委ねる。コンセプトの要点を整理した。
NO.27 2008年 地区振興協議会設立⇒ 過疎化の起爆装置
企画書「2.運動の意義(次代の要請)」~「創造的昔帰り」「偉大な創造」
《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》
規約案の第1条(目的)~「ゼロに帰するか、イチを守るか」
《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》
地区振興協議会の規約第2条基本方針
1.地区の将来を見越した計画をつくる。(計画の策定)
2.地区経営ビジネスモデルをつくる。(地産地消の実現)
3.地域資源として人財バンクをつくる。(地域内外とのネットワーク)
4.地区統治モデルをつくる。(旧村の自治復興)>
NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置
領域自治の拠点
NO.29 論文-5. 2013年 旧村を住民自治の舞台に
鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例
京都大学教授 杉万俊夫
(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)5考察から抜粋 ⇒ 社会システム(仕組み)創造の企図
《・・・本論文で紹介した3つの地区振興協議会の事例、また、山田・樂木・杉万(2013)が報告した山形地区の事例、さらには、地区ゼロイチ運動に先立つ集落ゼロイチ運動の事例は、「自分の地域を何とかする」ことが可能であることを教えてくれる。同時に、それらの事例は、「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。・・・》
NO.30 論文 旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ
集団力学研究所、2021年第38巻 pp.20-34
樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部准教授)
《論文要約から~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。
本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》
NO.31 論文-6. 2008年 百人委員会スタート
政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)要約から抜粋、京都大学教授杉万俊夫 ⇒ 政策提案システム
《地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。
①百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。
②商工・観光・生活・環境・保健・福祉・医療・農林業・ 教育・文化な ど。③百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政 策の実行・実現にも当たる。》
NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍
2009年 もりのようちえん開園
2010年 自伐型林業「皐月屋」創業
2011年 那岐地区振興協議会設立
2012年 小学校統合
2012年 土師地区・富沢地区振興協議会設立
2015年 田舎のパン屋タルマーリ―開業
2015年 智頭ノ森ノ学ビ舎林業技術習得塾開講
2015年 おせっかいまちづくり宣言スタート
2016年 山林バンク/北京の杜10年達成
2017年 中国厦門市院前社と山形地区振興協議会交流
2019年 内閣府「SDGs未来都市」認定
2019年 『創発的営み』出版
2020年 おせっかい奨学金スタート
2021年 『ゼロイチ運動と「かやの理論」』出版、ゼロイチ教室開講
2021年 横浜市立大学吉永ゼミ等と交流 2022年 『ギブ&ギブ』出版
2022年 智頭町まちづくりレガシー館開設
2022年 北京外国語大学主催、東アジア「農村地域の過疎化の発見と復興の可能性」シンポ
2023年 「過疎化SDGs・社会システム(仕組み)の力」執筆
2023年 「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店、春オープン(旧那岐小学校「那岐の風」)
NO.33 智頭町もりのようちえん
百人委員会から生まれた!