〇筆者(阪野)の手もとに、貴戸理恵著『「生きづらさ」を聴く――不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』(日本評論社、2022年10月。以下[1])という本がある。貴戸は、不登校やひきこもりを経験した「当事者が集う対話の場」である「生きづらさからの当事者研究会」(通称:「づら研」)にコーディネーターとして関わりながら、「生きづらさ」についてのフィードワークを重ねている。そこでの実践は、誰もが「生きづらさ」を抱えうる現代社会にあって、「違和を表明できる場や関係性を生み出し続けるプロセスのなかに、新たな連帯を見いだす」(298ページ)というものである。
〇[1]では、「づら研」のフィールドワークを通じて「『生きづらさ』を抱えた人の意味世界に迫るとともに、『生きづらさ』を、『自分には関係ない』と感じている人びとも含めた社会全体の連帯の基礎として、捉え直すことを目指す」(4~5ページ)。即ち換言すれば、「『生きづらさ』に基づく共同性の有り様を探る」(13ページ)のである。その際に貴戸は、「生きづらさ」を「個人化した『社会からの漏(も)れ落ち』の痛み」(14ページ)と定義する。なお、[1]のサブタイトルの「エスノグラフィ」(民族誌)とは、調査対象者(「生きづらさ」を抱えた人)と同じ場(「づら研」)に身をおき、ともに行動(対話)しながら(参与)観察やインタビューを行い記録する調査手法をいう。
〇[1]における貴戸の言説のうちから、そのいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約)。
「生きづらさ」からの脱却は、差別・不平等・貧困という社会構造的要因に目を配りながら、当事者の主観的な現実から出発することが必須である
個々の人びとが抱く「独自の人生を切り抜け、歩んできた」という実感は、「他でもない自分の人生」という圧倒的なリアリティのもとで、「社会のせいにしたくない」という誇りや、「数字など平板な記述によって解釈されうるものではない」という足元の複雑性の手放しがたさを帰結する。こうした社会構造的要因の指摘においそれとは説得されない人びとの素朴な感覚は、「自分の人生を定義するのは自分だ」という主体的な意識を下地としている。その下地に働きかけることなしに本人の認識を変えよとする営みは、「上から目線」の「啓発」「教育」にならざるをえないだろう。/社会構造的要因に目を配りながら、当事者による状況定義から出発することが必要だ。そのとき、人びとの足元に転がっている「生きづらさ」という言葉は一つの足がかりになると考えられる。(39ページ)
「生きづらさ」は10の構成要素に分節化されるが、それを組み合わせて記述することによって「生きづらさ」が明確化され、ポジティブな効果を持ちうる
(「生きづらさ」は、その構成要素として10項目に分節化される。)①無業および失業、②不安定就労、③社会的排除、④貧困、⑤格差・不平等、⑥差別、⑦トラウマ的な被害経験、⑧個々の心身のままならなさ、⑨対人関係上の困難、⑩実存的な苦しみ、である。(146ページ)/これらは相互に関連し合っており、個別に取り出せるものではない。ただ、個々の「生きづらさ」は、これらの項目の固有の濃度や絡(から)まり合いのなかで独自に存在している。(153ページ)/これらの構成要素を見定め、これらの10要素の組み合わせによって記述することで、「生きづらさ」という漠然とした言葉に一定の輪郭が生まれてくる。こうした記述は、複合的な困難を抱える個人と、それをとりまく社会環境とのあいだのコミュニケーションを回復させることに役立ち、いくつかのポジティブな効果を持ちうる。(153~154ページ)/第一に、複合的な困難を抱える個人が適切な支援を探索していく一助となりうる。第二に、「生きづらさ」を特別な事情を抱えた人だけの問題とするのではなく、濃淡はあれ現代社会に生きる多くの人に関わりのある事柄として捉え直すことが可能になる。(154~156ページ)
自分の「生きづらさ」を理解することを通して他者の「生きづらさ」を想像することができ、自分と他者がつながるなかで社会構造が見えてくる
「生きづらさ」と言う言葉には両義性があり、「限界」と「希望」をともにはらんでいる。/「限界」は、降りかかる困難を個人の感覚に押し込めることで、問題の個人化傾向を一層推し進める点だ。目の前の苦しい気持ちは、それだけにフォーカスしていると、自責や自己嫌悪が膨らみ、恵まれて見える他者への恨みや、救いのない社会への憎悪などが募っていく。(287ページ)/他方で「希望」もある。「生きづらさ」は、それを抱えている人自身が問題に取り組み、個人的な事情の向こうに構造の問題を見通していく契機にもなりうるのだ。「生きづらさ」という言葉を通じて自己の特徴や傾向を理解することで、「自分の人生を生きる」うえでのある種の「落ち着き」のようなものを得ていくことがある。「落ち着き」とは、諦めや絶望ではなく、「過去を消すことはできず、この人生の延長を生きるしかない」と腹をくくることであり、あがきや落ち込みも含めて、一筋縄ではいかない自己を受け容れていく態度である。そのように自己の「生きづらさ」を理解することで、他者の「生きづらさ」に想像をめぐらせることができるようになり、それらの向こうに共通の構造を見通すことにも開かれていく。/「生きづらさ」という言葉が、「限界」へ向かうか、「希望」の方向へ舵を切るかの分岐点は、第一に、本人がみずからの「生きづらさ」について探求すること、第二に他者との共同性のなかで取り組むこと、である。(288ページ)
「同じであるからつながれる」のではなく、個々の「生きづらさ」に基づく「つながれなさを通じたつながり」のなかに新たな共同性や連帯を見出すことができる
(「づら研」の)参加者が持ち寄る個々多様な「生きづらさ」は、「私とあなたと同じではない」「容易にはつながれない」という感覚をたびたび突きつける。だが、そうした違和感を、抱くたびに表明することができ、それをしても排除されることはないということについては、共通の信頼感を醸成していくことができる。それはいわば「つながれなさを通じたつながり」ともいうべきものである。(298ページ)/これを象徴するエピソードがある。かつてある参加者が、「自分はここにいていいのかな、と思ってしまうことがある」と「づら研」での居心地の悪さを漏らした。さまざまな参加者の経験を聴いていると、「無業ではない自分には、暴力被害を経験していない自分には、ここにいる資格がないのではないか」と思えてしまう、というのである。この発言に対して、「自分もそう思う」とその場の多くの参加者が共感を表した。「自分は「私たち」に含まれていない」というつながれなさの感覚は、まさにそれについて共感し合うことを通じて、つながりの感覚へと接続されていったのだ。(298~299ページ)
〇繰り返しになるが、以上は要するにこうである。「生きづらさ」からの脱却は、「自分の生きづらさ」について主観的・自律的(自分だけで問題に取り組む「自立」ではない)に考え、語ることがスタートとなる。「生きづらさ」は、「当事者が集う対話」の場や関係性を通じて他者とともに語り合い、探求することで対象化される。「自分はここにいていいのか」という否定的な問いかけに対しては、「ここにいていい」という存在承認ではなく、「自分もそう思う」と共感し、不安を共有することを通じて存在論的安心感の醸成をもたらす。そして、そこに新たな連帯や共同性を見出すことになる。これが[1]のひとつの議論(主張)である。
〇筆者の手もとにもう1冊、貴戸の近著がある。『10代から知っておきたい あなたを丸めこむ「ずるい言葉」』(WAVE出版、2023年7月。以下[2])がそれである。[2]は、日本社会に充満する空気(「同調圧力」)を批判的に捉え、日常的な場面において同調圧力に流されず、それから抜け出すための「10代から知っておきたい」実用書である。
〇貴戸にあっては、「同調圧力」とは、「周囲の人びとが『こうだろう』と期待する通りにみずから考え、行動するよう迫(せま)ってくる圧力」(4ページ)のことである。その不思議さは、「だれが期待や命令を発しているのか、どこに納得の根拠があるのかわからないのに、人びとが勝手に排除の恐怖を感じ取ってみずから従ってしまう」(4~5ページ)というところにある。そして、その問題点は、①「みんなで意見を出し合って合意していくプロセスがゆがむこと」、②「異質な存在が排除されること」、③「排除の不安から『集団』に同調することでいっそう同調圧力を高め、ますます排除の不安を強化してしまう、という悪循環があること」にある(6~7ページ)。
〇貴戸はいう。「同調圧力の強い社会は、多様性を認めずマイノリティ(社会的な少数派)を排除する不寛容さと表裏一体である。同調圧力に注目することは、マジョリティ(社会的な多数派)の側がそのような社会の変革を『自分ごと』としてとらえるひとつのきっかけになりえる。同調圧力にさらされる自分自身の生きづらさに、きちんと目を凝(こ)らすことを通じて、この社会から排除された人びとの苦境を想像し、マジョリティの側から変化に向けた一歩を踏み出すことを、展望してみることができる」(9~10ページ。語尾変換)。
〇[2]では、「あなたを丸めこむ」即ちその「場」の空気に従わせようとする「ずるい言葉」として、次の24の場面が登場する。参考までに列挙しておく。
(1)親密さを利用する言葉
➀「わたしたち友達でしょ」、②「仲間だろ」、③「みんなでやることに意味がある」
(2)連帯責任を利用する言葉
④「真面目か!」、⑤「みんなが迷惑してるよ」、⑥「どうせ無駄だからやめときなよ」
(3)親切を装った言葉
⑦「どうなっても知りませんよ」、⑧「仲良くしたいなら守ってね」、⑨「悪いところをみんなで教えてあげたの」
(4)人格否定の言葉
⑩「どうしてあなただけわがままいうの?」、⑪「そんなこと思うなんておかしいよ」、⑫「ノリ悪!」
(5)集団の秩序を利用する言葉
⑬「みんなが混乱してしまうよ」、⑭「世の中そういうものでしょ」、⑮「合わせる顔がない」
(6)裏切りと思わせる言葉
⑯「よくあんな恰好できるね」、⑰「ひとりだけずるいよ」、⑱「調子に乗ってない?」
(7)排除の恐怖をにおわせる言葉
⑲「同じようにできないなら必要ない」、⑳「いいよ、別の人に頼むから」、㉑「できないなら次はあなたの番だよ」
(8)「勝ち残ること」を強要する言葉
㉒「もっとポジティブじゃないと」、㉓「今どきはこのくらいできなきゃ」、㉔「個性として活かすべき」
〇いずれにしろ、例えば、「今どき」の「世の中」で「みんな」が「自由」にやっている「普通」のこと、等々の言葉に他者の意思や行動をコントロールする同調圧力が潜んでいることに留意したい(「今どき」は「時代遅れ」、「世の中」は「仲間外れ」、「みんな」は「だれか」、「自由」は「自分勝手」、「普通」は「わがまま」であろうか)。それらは、時間や空間、人間関係などの規模や範囲の境界線を曖昧にしたまま、意図的にその数や強さなどを誇示するときに使われる。先ずはその点に関して同調圧力による自分の「生きづらさ」を見据えることによって、同調圧力に流されず、他者と繋がりながら主観的・自律的に生きることが可能になる。そしてそれが、社会を変えるはじめの一歩になる。
付記
<雑感>(87)「生きづらさ」再考―一昔前と変わらぬ “いま ” を考えるためのメモ―/2019年7月7日投稿/本文(⇦クリック)、を参照されたい。