〇筆者(阪野)の手もとに、野澤和弘著『弱さを愛せる社会へ――分断の時代を超える「令和の幸福論」』(中央法規、2023年9月。以下[1])という本がある。野澤は、著名なジャーナリスト(新聞社の社会部記者、論説委員)であり、大学教員でもある。
〇[1]で野澤は、報道の現場で向き合ってきた少年犯罪の厳罰化、いじめ、ひきこもり、自殺、津久井やまゆり園事件、障がい者の身体拘束、ALS(筋萎縮側索硬化症)嘱託殺人、(ギャンブルや薬物等の)依存症、虐待する親たちの増加、正社員の解体等々の社会問題(生活問題)の本質を深く鋭く抉り出す。そして、「社会の劣化」「社会の崩落」を訴え、これからの時代に必要な価値観の転換を説く。
〇そこには、「孤独だった」「異質な存在だった」(22、23ページ)と述懐するひとりのジャーナリストとしての正義感とそれに基づく批判精神、ひとりの大人(重度知的障がい者の父親)としての自覚とそれ故の確信、そして「令和の時代に幸福な社会をもたらすヒントを見つけたい」(32ページ)という願いと過去に学び未来を拓く覚悟がある。そこに通底するのは「真摯」であり、野澤の言葉は厳しく重い。
〇「社会的弱者に寄り添う記事」を書き続け、「社会的弱者を支える実践」に取り組み続ける野澤の言説から、そのいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
1995年に日本社会は転換しその翌年に小さなやさしい風が吹いた
バブル崩壊(バブル景気:1981年~1991年頃、バブル崩壊:1991年~1993年頃)から今日まで経済の停滞と社会の劣化は続く。/特に1995年に起きた地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災は社会の崩落を象徴するものとして歴史に刻まれることになった。(2ページ)/日本経営者団体連盟(日経連)が「新時代の『日本的経営』――挑戦すべき方向とその具体策」を発表し、非正規雇用の増大を促し一億総中流社会を放棄する路線を示した。/1995年に起きた空前絶後の震災と犯罪、そして日本型経営(「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別労働組合」)の大転換。運命的なものを感じさせられる。(18ページ)/未曽有の震災や事件がもたらした戦慄と混乱は日本社会の変質を決定づけたが、今振り返ってみると絶望ばかりが社会を覆っていたわけではない。(2ページ)/阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件の翌年、小さなやさしい風が吹いた。/これまで見向きもされなかった社会的弱者といわれる人々に社会や政治が手を差し伸べたのである。薬害エイズ訴訟の和解、らい予防法や優生保護法の廃止、障害者虐待の報道はいずれも1996年に起きた。/ただの偶然かもしれない。しかし、社会が崩落していくなかで、私たちは自らのなかにある弱さを見つめ、やさしさを抱きしめようとしたのだ。そうした人々の心が風を起こした。騒乱にかき消されてしまうほどの小さな風ではあったが、報道の現場で私は確かに感じた。(3ページ)
未来をすりつぶす社会の希望は過去から吹いてくる風が教えてくれる
予想を超える勢いで少子高齢化が進み、社会全体の地盤が沈んでいくのが今の日本だ。(10ページ)/報道の現場で、いじめ、ひきこもり、子どもや障害者の虐待などの記事を私は書いてきた。ジャーナリズムは歴史の最初の記録者といわれる。目の前で起きていることを記録するだけでなく、声なき声を聞き、埋もれている時代の真実を社会に伝え(「課題設定」の機能:67ページ)、政治や行政を動かす役割を担っている。今日の危機的な状況に対する責任はジャーナリズムにもある。それゆえ、私自身が未来に対する不作為の加害者でもあるのだ。(10~11ページ)/私たちは未来がすりつぶされていくことへの罪を自覚すべきだ。地図にはない暗い道を歩きながら、希望を見つけなければならない。どこかにあるはずだ。得体の知れない不安におびえ、目の前の安心にしがみついていたのでは見えないだけで、過去から吹いてくる風が教えてくれるはずである。(11ページ)
個人の暮らしに焦点を当て生身の人間の苦悩と幸福について社会化する
いじめ、ひきこもりの記事に対する読者からの反響は大きかったが、新聞社内でこうしたテーマが主流になることはなかった。政治や世界経済の動きを追い、権力を監視することがジャーナリズムの本分と信じられていた。/やはり私は主流から外れた記者だった。/真実を追っているときは孤独を感じる。ただ、国家権力を監視したり、統治する側の視点で社会を眺望したりするのとは違い、個人の私生活に焦点を当て、生身の人間の苦悩と幸福について社会化することにやりがいを感じることはできた。(16ページ)/社会が成熟してくると、政府や公的機関の役割は次第に限定的なものになり、一人ひとりの暮らしに関心の比重は高まってくる。個人の自由と多様性を享受できる社会を実現するためには、ジャーナリズムはこれまでとは違う役割が求められているのだと思う。(16~17ページ)
人々の暮らしや内面世界に安寧と潤いをもたらす価値観の転換が求められる
バブル後の30年、社会の格差は広がり、会社や地域社会のつながりは薄れ、家族すら分解されていくなかで、大人たちもまた孤立と疎外に苦しめられている。/1995年に未曽有の震災や事件の危機に直撃されたとき、自らの弱さや脆さに直面した人々のなかにやさしい風が吹いた。(中略)時の流れとともに、いつしか忘れてしまったが、今日の社会が直面している地球規模の気候変動や資本主義の行き詰まり、急激な現役世代の減少は1995年当時の危機よりもさらに大きなものである。慢性的に進行しているのでリアルに感じられないだけだ。(133ページ)/個人の力ではどうにも解決できない大きな危機に見舞われても、人々の暮らしの幸せや充足感をかみしめられる社会にしなくてはならない。(中略)この時代に生きている人々の価値観を変えなければ世界は破綻する。とりわけ社会に直接的な影響力をもたらし得る大人たちの価値観の転換が求められている。/人間の小ささや愚かさを自覚し、内面世界に安寧と潤いを運ぶやさしい風を今こそ起こさなければならないと思う。(134ページ)
過去の出来事の深層に踏み込み歴史を加筆修正していくことが重要である
バブルのあとの日本社会に起きたことを夢中になって報道してきたが、今振り返ってみるとあらゆるものが必然の糸でつながっているように思える。ジャーナリズムは歴史の最初の記録者ではあるが、歴史の真実は後の世にならなければわからないことがある。社会の最前線で目撃した者がその後の経過を追いながら過去の出来事を意味づけし、歴史を加筆修正していくことも重要な役割ではないか。「スロージャーナリズム」と私はそれを呼んでいる。/誰がどのような角度で見るかによって一つの出来事も異なる色彩を帯びて見えてくる。中立公正、不偏不党の客観報道にこだわるよりは、自らの立場を明らかにしたうえでじっくり時間をかけて深層へ踏み込んでいくことも「スロージャーナリズム」の役割と思っている。社会が多様化し、個人と社会をつなぐ情報の回路が無数に存在するようになった時代だからこそ、発信者のアイデンティティの明示が求められているのだと思う。(277ページ)
〇1995年は、筆者にとっても特別に思い出深い年である。その10月、「日本福祉教育・ボランティア学習学会」が設立された。翌1996年の11月に開催された第2回大会の基調講演では、会長の大橋謙策によって「福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題」が提示された。福祉教育・ボランティア学習の世界に「新しい風」が吹いたのである。
〇あれからおよそ30年。その後も “ 劣化 ” し続ける日本社会(格差と分断と孤立の社会)にあって、その風は「追い風」になったのであろうか。現実的・実態的には、新しい風が「人々の内面世界へ吹き渡り、新しい価値観に世界を染めていく」(273ページ)ための課題は多様化・複雑化し、深刻な問題が生じてもいる。それは、福祉教育・ボランティア学習の実践と研究の劣化と空洞化が進んでいる、ともいえる。
〇ここで、いま一度原点に立ち戻ってその歴史を振り返り、福祉教育・ボランティア学習の実践と研究の今後のあり方を問うために、そしてそのための視座を再確認あるいは再構築するために、次の二つの資料を提示しておきたい。大橋による課題提起(理論的枠組みとその構造)は、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして‥‥‥」という書き出しで始まる大橋の福祉教育の概念規定(神奈川県・ともしび運動促進研究会:1982年3月、全社協・福祉教育研究委員会:1983年9月)による限り、今後も「足元を照らすランプ」「進む道を照らす光」(旧約聖書・詩編119:105)たりうるのであろうか。
〇実践と研究の「後進」には、歴史を単に「鵜吞みにする」「説明する」のではなく、新しい視点・視座で歴史を読み解き、意味づけることが求められる。そのためには、歴史に向き合う自分の感性と知性を「磨く」「変える」ことが必要不可欠となる。
阪野貢「日本福祉教育・ボランティア学習学会設立」『月刊福祉』第79巻1号、1996年1月、108~109ページ
大橋謙策「福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題」『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』1996年11月、5~9ページ