〇2024年11月13日、「生きる」を問う珠玉の言葉を紡ぎ続けた詩人・谷川俊太郎が逝った。享年92。「もちろんぼくは詩とははるかに距(へだ)たった所にいる」(「理想的な詩の初歩的な説明」『世間知ラズ』思潮社、1993年5月)が、世間では谷川に対する感謝とその死を悼(いた)む声が絶えない。
〇1952年6月に刊行された谷川の最初の詩集『二十億光年の孤独』(創元社)、そのなかの詩句――「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」を思い出す。人は本質的に不安や孤独のなかに生きる。それゆえに他者を求め、引き寄せ合って生きる、というのであろう。人はひとりでは生きられない。誰かとつながり合って生きている、のである。
〇金子みすゞの詩句――「鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」(「私と小鳥と鈴と」『金子みすゞ全集』JULA出版局、1984年2月)もいい。または、歌人・俵万智の短歌 ――「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」(『サラダ記念日』河出書房新社、1987年5月)もいい。
〇それよりも、谷川俊太郎の、「生まれた」 ぼくが “ いま ” を “ ただ ” 「生きる」、の方がなおいい。次の4篇の作品を通してだけからでも、唯一無二である命(いのち)の大切さや尊さ、生きることの豊かさや意味、そして支え合って生きることの素晴らしさやありがたさについて、改めて思う。併せて、言葉は生きる力を生み出し、人と人をつなぎ、そして未来(あす)を拓くことに、改めて気づく。
生まれたよ ぼく
~『子どもたちの遺言』(田淵章三・写真、佼成出版社、2009年1月)より~
生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか
だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを
いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい
そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい
一人きり
~『子どもたちの遺言』(田淵章三・写真、佼成出版社、2009年1月)より~
ぼくはぼくなんだ ぼくは君じゃない
この地球の上にぼくは一人しかいない
もしかする半径百三十七億光年の宇宙で
ぼくは一人きり
生れる前もぼくはぼくだったのか
死んだ後もぼくはぼくなのか
どこへ行ってもぼくはぼく
いつまでたってもぼくはぼく
ぼくはぼくが不思議でしかたがない
ぼくはいま本を読んでいる
ぼくは息をしている
妹はいま大声で泣いている
妹も息をしている
いまから千年前
ここには誰がいたんだろう
いまから千年後
ここには誰がいるだろう
生きる
~『生きる』(岡本よしろう・絵、福音館書店、2017年3月)より~
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
ただ生きる
~『詩の本』(集英社、2009年9月)より~
立てなくなってはじめて学ぶ
立つことの複雑さ
立つことの不思議
重力のむごさ優しさ
支えられてはじめて気づく
一歩の重み 一歩の喜び
支えてくれる手のぬくみ
独りではないと知る安らぎ
ただ立っていること
ふるさとの星の上に
ただ歩くこと 陽をあびて
ただ生きること 今日を
ひとつのいのちであること
人とともに 鳥やけものとともに
草木とともに 星々とともに
息深く 息長く
ただいのちであることの
そのありがたさに へりくだる
〇シンガーソングライター・さだまさしの「いのちの理由」もいい。はじめてコンサートに行って聴いた詞(うた)、心の琴線にふれる言葉が紡がれる(ルビは筆者)。
いのちの理由
~オリジナル・アルバム『美しい朝』(ユーキャン、2009年6月)より~
〇そして、思う。生まれることは生きること、生まれることでそのすべてが始まる。人は、きのう(過去)を振り返り、あす(未来)を想い描き、きょう(現在)を思い考える。そして人は、自分の体験や人生のなかに、幸と不幸を見出す。それが、喜びや悲しみをもたらす。また人は、支え合って、いま・ここで・わたしを生きる。それが、安らぎや豊かさをもたらす。ときに、苦しみや困難をもたらす。あなたもわたしも、これからもずっと。‥‥‥ということを。
〇そして、気づく。わたしはいま、ひとまずすべてを飲み込んだことにして、幸か不幸かではなく、自分らしくわたしを生きてきたかどうか、その証(あかし)を探し求めている。それは例えば、エーリッヒ・フロムがいう「もつこと」か「あること」か(※)ではなく、その混沌のなかに、である。‥‥‥ということに。
※「もつこと」と「あること」
人間の存在(あり方)には、「もつこと:to hove」と「あること:to be」の2つの様式がある。「持つ存在様式は財産と利益を中心とした態度であって、必然的に力への欲求――というよりは必要――を生み出す。(中略)ある様式においては、それは愛すること、分かち合うこと、与えることの中にある」(117~118ページ)。すなわち、「もつ様式」は、富や名声や権力などを持つことを指向する存在様式をいい、「ある様式」は、何ものにも束縛されず自分らしく生きることを指向する存在様式をいう。(エーリッヒ・フロム、佐野哲郎訳『生きるということ』(原題:To Have or to Be?)紀伊國屋書店、1977年7月)
追記
〇谷川俊太郎の詩を改めて読む・味わうなかで、「言葉は生きる力を生み出す」ことを改めて認識した。そんななかで併せて、ノンフィクション作家の柳田邦男の『言葉の力、生きる力』(新潮文庫、2005年7月)を読み返した。その本の最後で、柳田はいう。「人生後半に入っている今は、自分の心の座標軸を次のように明確に語ることができる。/<私の心には自分の境遇を幸福か不幸かという次元で色分けする観念も意識もない。あるのは、内面の成熟か未熟かという意識だ。そして、内面において様々な未成熟な部分があっても、あせることなく、人生の終点に到達する頃に、少しでも成熟度を増していればよしとしよう>――と」(272ページ)。柳田が65歳の時に書いた「『成熟』という心の座標軸」(2001年9月)の一節である。
〇「わたしを生きる」ことと「内面の成熟と未熟」とは、どのようにかかわるのであろうか。人生の最期を迎える頃に、わたしを生きたことのいくらかでも認識できれば、それでよしとするのであろうか。(2024年12月4日記)