阪野 貢/「挨拶できるように生きる」「挨拶に生きがいを感得すべきである」という一章―鳥越覚生著『挨拶の哲学』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、鳥越覚生(とりごえ・かくせい)著『挨拶の哲学』(春風社、2024年6月。以下[1])がある。鳥越にあっては、「挨拶は他者に対して無関心(indifferent/gleichgültig)になっていないこと、それどころか他者の苦しみの傍に立つことを告げる祈りである」(17ページ)。そしていう。私たちは現代社会において「挨拶を交わす共生共苦の知をいつしか忘れ、事物を分別する世知(せち)に聡(さと)くなる。ものごとに囚われ、執着する。社交辞令の挨拶で満足するようになる」(7ページ)。それでも、だからこそ、「無明(むみょう)に覆われた人生に美しい瞬間があるとすれば、それは身内や他者と心から挨拶を交わせた瞬間なのではないか」。「人は森羅万象と挨拶をするために生まれて来たのではないか」(8ページ)。人は「誰でも生きている限り、地上で立ち止り、利害関心を離れさえすればできるという意味で挨拶は『易しい』。それと同時に、利己心を否定し、身を低めるという意味で挨拶は『優しい』。この人間の<やさしさ>にこそ、未来を賭(か)けたい」(226~227ページ)。すなわち、鳥越は[1]で、挨拶という現象の意義を解明するなかで、挨拶に生きがいを感得し、「挨拶できるように生きる」ことの重要性を説くのである。
〇なお、鳥越は、「哲学」についてこういう。「西洋哲学の源流に遡れば、哲学は『よく生きる』ための知恵を愛する学問である」(153ページ)。「残念ながら、現代において利益に直結しない『よく生きること』を学問的に考えられるのは哲学しかない」(154ページ)。
〇[1]において鳥越は、「挨拶という事象の基本」について次のように指摘する(154~155ページ)。

・挨拶は一人ではできない。必ず相手が要る。この相手が私に先立つ。
・挨拶は強制ではない。声をかけるのも、それに応えるのも私たち次第である。
・挨拶は価値をもたない。無償の奉仕であり、祈りである。

〇挨拶は、一人ではできない、強制ではない、価値をもたない。鳥越はこの3点を明らかにする「挨拶論」を進める。その際、人はか弱く生身の存在であるがゆえに利害関心に囚われ、「どうでもよいもの」「余計なもの」に無関心になるというその姿(「人間の無関心」)や、人は大自然に養われ、生かされ、感応するという人間のあり方(人間存在)などを問う。そして、鳥越にあっては、利己の否定、利害関心からの離脱や、大自然への感応が、挨拶するために不可欠な契機となる(195ページ)。
〇鳥越の言説の要点(総括)のひとつをメモっておくことにする(抜き書き。見出しは筆者)。

挨拶は「共に生きる言葉」である
道をてくてく歩いていて、知り合いと出会(でくわ)したとする。/もしも立ち止まり、おじぎをして「こんにちは」と挨拶できたなら、私は私であって、私ではない。利害関心に囚われて働いていた足が止まると、心身ともに一息つく。浮き足だっていた足が地につき、落ち着くのだ。そして、相手と対面して、頭を下げる。身体中に指令を出していた頭が下がる。それは身を低めることであり、利己心から離れることでもある。同じ大地の上で、二人の人間が地に足をつけて頭を下げ合うことは、他者を排除したり、他者を利用する自我を否定し、他者を迎え入れる「自己」になることである。そのとき、自己は利他を志向している。こうして、ま心の通いが準備される。一度、身を低めて、わたしとあなたが同じ大地の上で向かい合うことにより、挨拶の場が開ける。/その時その場で生まれる言葉は、「共に生きる言葉」である。それは、二人で一人、一人で二人の関係をつなぐ言葉である。(195~196ページ)

挨拶は人間の生きがいとなりうる
人生の不朽(ふきゅう)の喜びは何か。人生の悲惨、その軽さや不条理は人口に膾炙(かいしゃ)している。生きていることが重荷となり得ることも否定できない。それは、後期高齢化社会に生きる私たちが肌で感じていることでもあろう。人生に疲れ、夜と霧に惑(まど)い、迷う人にとって、他者は確かに余計な重荷となる。余計なものにみえることもある。けれども、その暗がりの中だからこそ、「本当に大切なもの」が輝きだす。どうしようもない人間同士が、互いに思いやり、挨拶することができる奇跡。ま心を通わせる喜びは、お金では買えないものである。何よりも、それは自分一人ではどうにもならない。他者がいるからこそ、それも自分の意のままにはならない自由な他者がいるからこそ、挨拶は喜ばしい。/労多く幸薄い人生に不朽の喜びと呼べるものがあるとしたら、それは、相手さえいれば、誰でもいつでもできる挨拶の他にあるまい。挨拶は、互いに無関心になってしまうどうしようもない私たちを、互いの名前を呼び、存在を肯定し、ま心を通わせるかけがえのない存在に高めるのである。/少なくとも、挨拶が生きがいである限り、他者は腹の底から湧き出てくる不朽の喜びを私に与えてくれる「かけがえのない存在」である。(219~220ページ)

〇文脈上に齟齬(そご)があることを承知のうえで、聖書(フィリピ2:3、4)がいう「謙遜」について引いておきたい。「対抗心を抱いたり、自己中心的になったりしてはなりません。謙遜になり、自分より他の人の方が上だと考えてください。自分のことばかり考えずに、他の人のことにも気を配りましょう」(新世界訳)。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(新共同訳)。人より自分を低くみる「謙遜」の類義語に、「慎(つつし)み」がある。「慎み」とは、自分自身を正しく評価すること、自分の限界をわきまえることを言う。「知恵は、慎みのある人たちと共にある」(箴言11:2/新世界訳)。謙遜と慎みは、挨拶するに際し、お互いに求められる態度・姿勢でもあろうか。