私は、「地域・福祉・教育」と「つながり」という言葉を大切にしてきました。
大学卒業時、学校ではなく、地域での仕事を選びました。当時は、就学猶予・免除という名のもとに、教育を受けられない障害児たちが地域にたくさんいたからです。けれど、東京都の職員としてはすぐに障害のある子どもたちに関わることができず、とりあえず児童館職員となりました。初めは異動希望を出していましたが、そのうち児童館での課題、やりがいも見えてきて続けるうちに、いつの間にか児童館から離れられなくなっていました。
結果的には、定年まで、児童館職員として勤務しました。子どもたち、保護者、地域の皆さんとの毎日はとても充実していました。退職後は、北区の区民相談室での勤務後、放課後子ども教室の放課後コーデイネーターの仕事をしながら、地域で絵本の読み聞かせや工作指導などのボランティアをしてきました。
コロナ禍では、高齢者はステイホームといわれ、ボランティアもできなくなりました。やがて、ステイホームも長くなり改めて何かしたいと思うようになりました。 75歳のとき、「日本語教師養成講座420時間」を受講し、無事修了しました。
現在、公立小学校で日本語を母語としない児童への日本語指導をしています。日本語教師になりたかったのは、児童館勤務だったとき、外国籍の子どもが来館してもなかなか力になってあげられなくて、彼らに日本語を教えてあげられたら、と思っていたからです。やり残したこと?をやりたいと思ったのです。
児童館時代に出会った子どもたちとの思い出はたくさんあります。でもそれらは、もう、20年以上も前のことになります。
児童館には様々な子どもたちが自分の意志でやってきます。障害のある子ども、虐待を受けている子ども、発達障害に苦しむ子ども、貧困家庭で育つ子ども、親の期待から塾や習い事に追われ「時間が怖いよ」という子ども、など、など。
保護者が子育ての様々な悩みを抱えていることも見えてきました。児童館で何ができるか。しなければならないのか。地域での子育てをどうすればいいのか。学校、保健センター、児童相談所、地域の方々などとの連携をどのように取ればよいのか。先輩たちからは、理論と実践は車の両輪だといわれましたが、両輪を支える車軸は何かなど、理論不足の私にはわからないことだらけでした。
特別支援学級が特殊学級といわれていた頃から、なぜかどの児童館へ異動しても、私の周りにはその学級に在籍する子どもたちがいました。なんとなくお互いに引き合っていたのかもしれません。児童館がそんな彼らの居場所になって欲しいと思っていました。絵本を持って彼らの学級におじゃまして、読み聞かせをしたり、一緒に給食を食べたこともありました。下校後、彼らの地域での居場所として児童館を知って欲しかったのです。
ネグレクト、虐待されている子どものことも忘れられません。夏休みなどは、子どもたちは昼食のために、12時から1時までは自宅へ帰ります。その間は私たち職員の昼食、休憩時間でした。ところが、家に帰ったはずの子どもが、30分もしないうちに児童館の玄関前にやって来るのです。暑いなか、外で待たせるのはしのびないので、冷房の効いた玄関に座って待たせることになるのですが、お昼ごはんを食べてきたわけではないのです。
それが、続くと、見かねてコンビニでおにぎりを買ってきて食べさせたこともありました。彼は1年生でした。そんな彼をいつも気にかけてはいたのですが、ある日、ランドセルを背負って来館し、「きょうはよろしくおねがいします」とお母さんが書いたメモを私に渡すのです。児童館へは学校から家に帰ってから遊びに来ることになっていたので、学童クラブの子ども以外はランドセルを背負ったまま児童館に来ることはないのです。
たまたま、子どもを送って児童館に来た保護者の方が、彼のお母さんの事情を知っていて、とりあえず彼をそのまま受け入れました。お母さんは、いろいろな事情があり、精神的に治療が必要であることを知りました。当時私は館長職であり、地域の学校、保健センター、保育園などとの「つながり」を大切にしていましたので、学校と保健センター、彼の在籍していた保育園に連絡して相談しました。彼のこれからのことを考えると、一度関係者が集まって話し合うことが必要だと思いました。
小学校の校長に相談すると快く、学校でその会議を開くことを了承してくださいました。保健センターとは、乳幼児活動を児童館でもしていたので、日常的に保健師さんと顔の見える関係を築いていました。
学校(校長、担任)、保健センター(保健師)、保育園(園長)、北区立ほっと館(母親への支援、児童相談所との連携をしている児童館。館長)、地域の児童委員(子育て相談員として児童館に来ていただいていた)、そして私(児童館長)が集まり、それぞれが情報提供し今後のことを話し合いました。
その結果、彼が学校にいるときは、学校が見守り、スクールカウンセラーも彼への面接などで状況を把握する。放課後は児童館が彼を見守り、何かあれば他機関と連携を取る。保健センターは、母親のケアをする。ほっと館、児童相談所はネグレクトなどが心配されるときは対策を進める。地域の児童委員は、家庭訪問のときに見ていた彼女の生活態度などを非難するのではなく、保健師さんと一緒になって見守っていこうということを言ってくれました。
私は、彼が3年生になるとき、この児童館で定年退職となりました。その後気にかけてはいましたが、連絡を取り合うことはありませんでした。けれど、その後、生活保護を受けていた家庭の彼が国立大学に進学した、ということを聞きました。おそらく、世帯分離をして、経済的にも学業的にも大変ななかでがんばったのだと思います。
すごくうれしかったです。皆さんに見守られ、彼もがんばって大学に進学できたのですから。現在はきっと、社会人として自立して頑張っていると思います。
いま、私は、日本語適応指導員として、中国、ネパール、バングラデシュの子どもを担当しています。子どもたちの抱える課題は様々ですが、自ら望んできたわけではない異文化の日本で、日本語学習を頑張っています。日本語教室が、彼らにとって楽しい場であるように、彼らに明るい未来が開けるように、子どもたちに寄り添って少しでも力になれればうれしいです。これからも、子どもたちと、彼らの未来と「つながり」続けられることを願っています。