阪野 貢/「共感的利他主義」と「多元的思考」―渡邉雅子著『共感の論理』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、渡邉雅子著『共感の論理――日本から始まる教育改革』(岩波新書、2025年9月。以下[1])がある。渡邉にあっては、近代を牽引したのは、資本主義、科学主義、民主主義、国家主義という4つの原理である。その内の資本主義の成長と拡大は、自然破壊と経済格差を生み出した。経済の「拡大・成長」から「持続可能な低成長」への移行が進んでいる現在、「人間と自然との関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要がある。そしてこの新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが、今、世界的に求められている」(ⅶページ)。そして、時代は、各人がそれぞれの価値観に基づいて生きる「多元的社会」へ移行しており、そこでは「状況に応じて、あるいは自己の信じる価値観に従って、複数の思考方法を柔軟に選択する能力」、すなわち「多元的思考」が不可欠となる(ⅷページ)。こうした考えに基づいて[1]で渡邉は、「共感的利他主義」を社会原理の基盤に置きながら、「多元的思考」を育む教育のあり方を提言する。

〇先ず、「共感的利他主義」についてである。渡邉にあっては、利他主義には、「合理的利他主義」「理性的利他主義」「効果的利他主義」「法・原理的利他主義」の4つの形がある。合理的利他主義は、「自己利益を利他の行為の動機」にし、利他を「課題解決のための合理的な手段」として考えるものである。理性的利他主義は、利他の具体的な行為を、「理性によって個人よりも大きな社会全体の利益や共通善のために起こす」ものである。効果的利他主義は、開発途上国への援助(寄付)のように、「効率性と費用対効果の最大化」を目的とするものである。法・原理的利他主義は、「宗教の教義や法律によって定められた義務」として行われるものである(97~99ページ)。これらの利他は、「『自然と切り離された人間』という前提のもと、まず『利己主義』を第一の選択肢として捉えた上で、その後に『利他』を実行しようとするものである。したがって、それは必然的に利己主義を土台とした利他にならざるを得ない」(103ページ)。
〇そのうえで渡邉は、「共感的利他主義」について次のように説述する。

共感に基づく利他主義(共感的利他主義)は、誰かが苦しんだり悲しんだりしているのを見た時、その人の状況に身を置き、自分ごととして苦しみや悲しみを感じて手を差し伸べる。現代では多様なメディアによって被災地の様子やさまざまな理由で苦しんでいる人が報じられると、身近な人のみならず苦しんでいる「知らない誰か」のもとにもボランティアが駆けつけ、それぞれの人ができる多様な援助が行われる。この利他のあり方は、相手からの見返りを期待したり、将来利他の行為の結果を取り戻す戦略を練ったり、計算・評価して効率的かつ費用対効果の大きい行為を選択したり(経済原理)、全体の利益となる法律や制度的仕組みを理性的に作ったり(政治原理)、個人の外側から善悪の判断によって定められたり(法技術原理)、ましてや自己実現を目指して行われるのではない。日常における他者との経験の積み重ねを通して、その時々の状況を捉えながら、私欲をとりはらって相手が何を望んでいるのかを瞬時に感じ取る、共感に依る利他である。相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他である。(99~100ページ)

〇そして、渡邉にあっては、「共感に基づくこの態度を社会で生きていく上のしつけとして、倫理として育んでいるのが日本の学校教育である」(100ページ)。日本以外の利他主義は、利己主義を土台にしたそれであり、自然を収奪の対象とする資本主義を中心的な原理とする「近代」の価値観から脱却できていない。「脱近代」(ポストモダン)を実現できるのは日本の利他主義とそれを含む教育である。新しいパラダイム(思考の枠組みや規範)においては、「日本の教育が育んできた利他のあり方こそ、改めて評価されるべきである」(95ページ)。
〇続いて、渡邉はいう。「共感を育む教育は、国語の読解方法の中に、そして綴方の伝統を受け継いだ感想文の中にあり、特別活動や多様な教科において共通して見られる教授法の中にも見つけることができる」(100ページ)。そして、具体的には、「五感を働かせた体験に基づいて感情を伝え合い、共感を育む日本の国語教育(読解、作文)は、世界から遅れた弱みではなく、AI時代にこそ強みとなる」(カバーそで)。すなわち、「共感の論理」は、AIにできない人間特有の能力を育むための土台となる。これが[1]における核心な主張である。

〇次に、「多元的思考」についてである。渡邉にあっては、「近代の成り立ちを歴史の大きな流れの中で捉えると、かつては宗教があらゆる領域を支配していたが、やがて『世俗化』が進み、宗教からまず政治が切り離され、次に法と科学が分離し、最後に経済が宗教と道徳から解放されて、それぞれが独立した機能を果たすようになった」(3~4ページ)。「近代における四領域への機能分化」である。そして現代社会は、「経済」「政治」「法技術」「社会」という異なる論理を持つ四領域によって構成されている。
〇それぞれについて渡邉はいう。「経済」領域では、「効率性の追求」を中心的な価値観に持ち、「経済活動を支える労働者・生産者の育成」を教育の目的とする。「政治」領域では、「公共の利益の追求」を中心的な価値観に持ち、「自律した政治的主体としての市民の育成」を教育の目的とする。「法技術」(「法」「規範」)領域では、「摂理と規範の伝授」(絶対的な知識や規範の伝授)を中心的な価値観に持ち、「宗教的、思想的、科学的に確立した『真理』を『規範』として伝えること」を教育の目的とする。「社会」領域では、「共感による連帯」を中心的な価値観に持ち、「他者および自己とのコミュニケーションを通じて社会秩序を成り立たせる道徳心を『自己形成』の一環として養うこと」を教育の目的とする(70~73ページ)。
〇そして、渡邉は、不確実性が増す現代社会においては、単一の「論理的思考法」に依存するのではなく、複数の異なる価値観に基づく思考を柔軟に使い分ける「多元的思考」が課題解決に不可欠である、という。すなわち、「多元的思考」は、「共感の論理」(共感的利他主義)を土台にして活かす実践的な能力である。[1]の、いまひとつの核心的な主張である。

〇以上の「共感的利他主義」と「多元的思考」の言説については、例えば、①人間と自然の関係性/人間と自然の関係論(環境倫理学)は多様であり、単に人間を自然の一部と捉える発想は、宗教や科学、文化を生み出した人間の独自性・特殊性を矮小化することにならないか、②利己・利他の二元論/利己主義と利他主義の二元論的な対比は単純に過ぎ、多様な利他主義の動機を過小評価あるいは等閑視することにならないか、③利他の情動性と社会性/「相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他」という「共感的利他主義」は、情動性が強調されるあまり、複合的に影響し合う社会的・継続的な地域課題の解決に向けた原理になりえないのではないか、④多元的思考の方法とプロセス/「多元的思考」は「柔軟に使い分ける」ことが求められるが、その具体的な方法やプロセス、評価基準などについての説明が不十分であり、どう考えるか、⑤感情と論理の連携/情動的な「共感」と論理的な「多元的思考」という性質の異なる能力は、どのように連携・統合され、課題解決のための実践的な能力になりうるのか、⑥教育目的の限定性/四領域における教育目的の指摘は、極めて狭く限定的で、偏りがあり、「教育の道具化」という批判を招かないか、⑦日本の学校教育現場の実態/いじめや不登校、教員の加重労働などの深刻な問題を抱える日本の学校教育現場は、国語教育(感想文)や特別活動によって共感を生む土台(場)たりうるのか、などが問われようか。
〇これらの点についての検討は、別の機会に委ね、ここでは例によって、以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言しておきたい。それは、「共感的利他主義」と「多元的思考」が、複雑で多様な地域課題の解決と市民が主体的・自律的に参加・共働する地域共生社会の実現に重要なひとつの論理的基盤となる、ということである。すなわち、具体的には、地域課題の解決や地域共生社会の実現に向けて「共感的利他主義」(人間的な温かさや倫理観)は市民の思考や対応にどう活かされるか、「多元的思考」(多元的に思考し判断する能力)は課題解決の実践方法やプロセスにどう貢献するか、が問われることになる。