〇筆者(阪野)の手もとに、梅川由紀著『ごみと暮らしの社会学―モノとごみの境界を歩く―』(青弓社、2025年5月。以下[1])がある。[1]では、ごみを単なる解決すべき環境「問題」としてではなく、日常生活に密着した「生活文化」として捉える(「問題としてのごみの研究」から「生活文化としてのごみの研究」へ)。そのうえで、「現代日本の都市部に住む人々にとって、家庭から排出されるごみはどのような存在なのか」を明らかにする(27ページ)。具体的には、「ごみとモノの境界がどこにあるのか、時代によってその境界がどう揺れ動いてきたのか、ごみとモノの価値の違いとは何なのか」などについて、多くの雑誌や資料の分析、ごみ屋敷におけるフィールドワークを通して論述する(カバーそで)。
〇その際、梅川にあっては、モノには、「機能的価値」、「心情的価値」、「可能性的価値」という3つの価値が存在する。「機能的価値」とは「モノがもつ機能面に対する価値」(279ページ)、「心情的価値」とは「モノに与えた個人的な思い出や意味に対する価値」(281ページ)、「可能性的価値」とは「モノを所有することで得られるだろう未来の可能性に対する価値」(282ページ)をいう。モノは、この「3つの価値のいずれか、あるいは複数の価値をもつ対象(物品)」である。一方、ごみは、「モノの3つの価値を失ったもの、あるいは価値を放棄した対象(物品)」である(293ページ)。そして、梅川は、「モノとごみの間に存在し、完全にモノやごみとは言いきれない、あいまいな価値をもつ状態」(54ページ)、別言すれば「モノの3つの価値の一部を有し、一部を失った対象(物品)」(293ページ)として「マージナルな対象(物品)」というカテゴリーを想定する。それは要するに、モノとごみとの曖昧な境界領域(マージナル)に存在する中古品やリユース品などである。
〇また、梅川は[1]で、高度経済成長期の生活様式の変化によってごみと人間の関係、ごみとモノの境界がどのように変化したか、その社会的プロセスを追究する。例えば、掃除機の普及によって、掃除の仕方が「掃き出す」から「吸い取る」へ変わり、チリやホコリがごみとして意識されるようになる。その背景には、住宅構造の変化などがある。冷蔵庫の普及によって、食品を「冷やす」だけでなく「保管」することが可能になり、買いすぎや作りすぎなどによる余剰品を生み出すことになる。その背景には、食の洋風化や女性のライフスタイルの変化、マイカーの普及などがある(181ページ)。また、プラスチック製品の普及によって、モノの「古さ、汚れ、傷」を「味や風合い」ではなく劣化と捉え、使い捨ての行動を加速させることになる(210ページ)。その背景には、大量生産・大量消費の経済システムの確立や、耐久性よりも利便性や衛生・清潔を重視する社会意識の変化などがある。
〇続いて梅川は、こうしたモノとごみの境界が曖昧になり、モノの価値を放棄できない人々が抱える問題として、「ごみ屋敷」問題に焦点を当てて論を展開する。すなわちこうである。1968年には存在していたと考えられるごみ屋敷という現象が、大きく社会問題化したのは2006年頃からである(221ページ)。その問題性については、①防災・防犯機能の低下、②ごみなどの不法投棄の誘発、③火災の発生の誘発、④土壌汚染や水質汚濁のおそれ、⑤病害虫・悪臭の発生、⑥風景・景観の悪化、などが指摘されている(辻山幸宣。224~225ページ)。
〇ごみ屋敷の住人にとって、堆積された物品はごみではなく、上述の心情的価値や可能性的価値を放棄できずにいるマージナルな対象(物品)であるケースが多い。現代社会は物質的な豊かさと情報過多を特徴とし、物品やサービスの効率的な消費や短期間での更新(アップグレード)が絶えず求められる。その結果、たとえそのモノに潜在的な価値が残っていたとしても「価値を放棄する能力」(断捨離や整理能力)が社会的な規範として強く求められている(291~292ページ)。従って現代社会では、ごみ屋敷に堆積するこうしたマージナルな対象を「廃棄物=ごみ」と見なし、公的な介入による処分を促す。また、そのような合理的な行動をとることが「ふつう」と理解され、社会の機能維持に不可欠な規範として作用するのである(294ページ)。
〇すなわち、ごみ屋敷の住人は、現代社会の支配的な価値観(社会規範)、すなわちモノとごみを厳密に区別し(「モノとごみの二極化」303ページ)、廃棄することを前提とする消費社会に対して対抗的に応答する人である。その人がモノの価値を放棄できない要因は、社会的孤立やセルフ・ネグレクト(自己放任)といった生活上の課題、精神疾患(「ためこみ症」)や認知機能の低下などが複合的に絡み合って生じている(226~232ページ)。そして、この問題のより深い背景には、現代社会が抱える大量生産・大量廃棄の構造的な問題が横たわっており、ごみ屋敷は社会のひずみが個人に表れた現象として理解されるべきである。
〇およそ以上が、梅川の主張・言説のひとつのポイントである。ここから、ごみ屋敷の問題は、単なる個人的な迷惑行為ではなく、また単に「ごみを片づける」という表層的な対処に留まるものではない。そこには、その住人の価値観を尊重し、生活に寄り添いながら、生活支援や精神的ケア、地域とのつながりの再構築などを図る「福祉的対応」(238~239ページ)が不可欠となる。そして、持続可能で実効性のあるそのような支援を地域全体で実現するためには、「まちづくりと市民福祉教育」の視点・視座が重要となる。すなわち、「ごみ屋敷」問題は、地域社会全体で支え合うべき「まちづくり」の課題である。とともに、モノとごみに対する社会意識(すなわち生活文化)を変革し、住人に対する偏見やスティグマの解消を図って地域共生社会の基盤を築くための「市民福祉教育」の課題でもあるのである。




