阪野 貢/「不可解性の受容」に基づく「なんとかなる」「希望のまち」づくりの社会哲学―奥田知志著『わたしがいる あなたがいる なんとかなる』のワンポイントメモ―

「生きる意味のない “いのち”」なんて、あってたまるもんか

〇筆者(阪野)はかつて、本ブログに<雑感>(70)「“助けて”と言えない無縁社会」×「“違った意見”が言えない統制社会」:気がつけば民主主義が民主的な手続きによって内側から壊れている―奥田知志を読む―/2018年12月25日/本文 をアップした。今回、久しぶりに、奥田知志の新刊『わたしがいる あなたがいる なんとかなる―「希望のまち」のつくりかた―』(西日本新聞社、2025年8月。以下[1])を読んだ。
〇奥田は、北九州市において、30年以上にわたり生活困窮者支援の最前線に立ち続けてきた。[1]は、その活動の歩みから、支援の現場で培われた思想・哲学、そして誰も取り残さない「まち」をめざす未来への提言までを綴った随筆を集成したものである。それは、北九州市の特定危険指定暴力団の本部事務所の跡地という「怖いまち」の象徴だった場所を、「なんとかなる」「希望のまち」に再生する物語である。
〇いま、孤立と分断、困窮と格差、偏見と差別が常態化している。自己責任や身内の責任が必要以上に強要され、「助けて」と言えない人が増えている。自分だけ良ければいいという「自分病」(79ページ)が蔓延している。そんな構造的な問題を抱える現代社会にあって、奥田が理事長を務める認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」では、人と人との横の「つながり」を大切にし、「出会いから看取りまで」という伴走型支援を実施してきた。そしていま、「誰もひとりにしない」まち、「なんちゃって家族」のまち、「助けて」と言えるまち、の実現をめざして、(「なんとかする」ではなく)「なんとかなる」を合言葉(モットー・哲学)に「希望のまち」プロジェクトの推進を図っている。奥田は言う。「『希望のまち』は、『縦の成長』を羨望しつつも『横の成長』で共存するまちでありたい」(235ページ)。
〇「誰もひとりにしない」まちは、「ハウスレス(経済的困窮)」のみならず「ホームレス(社会的孤立)」の解消を最大の目標とする(174ページ)。「なんちゃって家族」のまちは、「家族機能の社会化」によって、家族でもなんでもない赤の他人が温かく緩やかにつながって日常を共に過ごす新しい家族の形を築く場をめざす(224~226ページ)。「助けて」と言えるまちは、誰もが「助けて」と言え、「助けて」と言われる相互扶助・支援や相互実現の関係性が機能する社会の実現をめざす(240ページ)。そして、「希望のまち」は、「助ける」と「助けられる」という営みが「いいかげん(ちょうど良い加減)」になるなかで創られ、どんな人も取り残すことのない「地域共生社会」を言う(245ページ)。
〇その「地域共生社会」について奥田はこう言う。それは奥田からの愛あるメッセージであり、奥田の確かな覚悟である。

われわれは、お互いが「共感不可能」の中に生きている。それを認めることが「共生」の始まりだ。いわば「共感不可能性の共感」である。/今、世界は「わかりやすさ」を軽薄に求めているように見える。「敵か味方か」「白人か有色人種か」。性的マイノリティーを侮辱し、多様性を否定し、他の民族や文化をヘイトする。「意味のないいのちと意味のあるいのち」と簡単に言う。「わかりやすい分類」は「分断」に過ぎない。/「別の人間」が「別の人間」として共存する。そのとき「別の人間である」あなたを尊重し、出会いを喜ぶことができるか。「わかりにくさ」、つまり「不可解性への耐性」が今求められている。それこそが相互豊穣の契機となる。/抱樸が創る「希望のまち」は「別の人間」が集まる場所。「別人」であることを喜べる場所。自分は自分のまま生きていてよい場所。わかりにくいが、面白い場所。(中略)そんなまちを創りたい。(267~268ページ)

〇およそ以上が、奥田の主張・言説のひとつのポイントである。それを、「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて一言(別言)しておきたい。
〇奥田にあっては、人はその複雑さゆえに、互いの存在を完全に理解するには限界がある。人を安易に二項対立的に分類したり、ある概念に押し込めることはできない。それぞれが、それぞれの違いを認め合い、理解できないそれぞれの部分も受け入れることが真の「共生」の土台となる。この考え方を市民福祉教育の観点から捉え直せば、真の共生を実現するための市民福祉教育は、この「不可解性」を学ぶ教育でなければならない。その目的は、自分にとって「不可解」な他者を排除せず、その存在を尊重できる市民的資質・能力を育成すること(市民性形成)にある。これは、「多様性」や「共生」を表面上・抽象的に語る姿勢を超え、生きづらさが社会構造的に常態化している現実と対峙することに繋がる。そして、この「不可解性の受容」を出発点として、誰もが生きやすい土壌を地域に耕し、構造的な変革としての「まちづくり」を推進することが、いま、真に求められているのである。「対峙」とはただ向き合うことだけではない。自分をつくり変え(再構築)、まちをつくり変える(再設計)、「創造のプロセス」を言う。
〇奥田はいま、「誰もひとりにしないまち」の実現をめざして、「希望のまち」づくりを進める。建物・施設としての「希望のまち」は、救護施設や交流スペースなどの複合的な機能を内包しながら、「地域の中に施設がある。施設の中に地域がある」(259ページ)という、日常に開かれた空間をめざすものである。この「まち」の重要な機能は、「なんちゃって家族」の関係性の創出であり、「助けて」と言い合えるコミュニティを地域に根差した日常の生活圏で構築することにある。この思想は、特別な活動ではなく、誰もが孤立しない何気ない日常を創り出すことにある。この点を市民福祉教育に落とし込むならば、そのための教育的営為(市民福祉教育)は、特定の施設・機関や活動のなかだけにあるのではなく、日常の生活圏全体を学びのフィールドとして、みんなの生涯にわたる “ふだんのくらし” のなかでこそ育まれるべきものである。
〇また、奥田が言う「なんとかなる」は、無責任・無批判な楽観論ではない。また、「なんとかする」という自己完結的な責任論でもない。それは、「わたしがいる あなたがいる」から「なんとかなる」という、他者への信頼を基盤とし、人と人との関係性(「つながり」)のなかで共同体的な問題解決を志向するものである。市民福祉教育の文脈では、市民一人ひとりが困難に直面した際に、自己責任論に陥ることなく、誰かとつながっていれば「なんとかなる」と信じられる地域的な安心感を醸成する営みと言える。この安心感こそが、誰もが「助けて」と言える「希望のまち」(みんながつながるまち)を築く土台となるのである。

補遺
本ブログの<雑感>(235)に、新美一志/福祉教育における「当事者性」と「相互主体性」に関する一考察―松岡広路、阪野貢、鯨岡峻の言説をめぐって―/2025年6月22日/本文 がアップされている。併せて参照されたい。