阪野 貢/「5つの物語」再考―「共感の論理」の再構築と「構造変革の教育」への昇華―

〇本稿は、『阪野ブックレット 5つの物語:その思想とメッセージと覚悟―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ―』2025年12月15日/本編、の補遺である。

「共事者」という視点:当事者と傍観者のあいだ
〇人はしばしば、ある事柄に対して当事者か非当事者(部外者、傍観者)かという二項対立に陥りがちである。当事者でなければ口を出してはいけないという自制や、当事者ではないことへの後ろめたさが、人々の関わりを阻害してしまうことも少なくない。小松理虔は、震災の被災地でありながら直接の被害が少なかった福島県いわき市小名浜での出来事や活動から、「中途半端さ」や「共事者」という概念を提唱する。この概念は、特定の専門家や熱心な活動家だけでなく、曖昧な立ち位置にいる多くの市民が「事を共にする」可能性を示唆するものである。自分自身の中途半端さを引き受け、当事者の傍らで関心を寄せ続ける「弱いつながり」こそが、強固な分断を溶かし、多様な人々を結びつける新しいコミュニティ(地域共生社会)の基盤となるのである。ほどよい距離感で関わり続ける「関心の継続」にこそ、新しいコミュニティの可能性があると言えるのである。

「依存」の再定義:依存を豊かにする編集術
〇白石正明や上野千鶴子の言説が示す通り、自立とは「依存先を分散し、豊かにすること」である。これを実現するためには、渡邉雅子が提唱する「多元的思考」を駆使し、現代社会を構成する「経済」「政治」「法技術(法、規範)」「社会」の異なる論理を柔軟に使い分けながら、目の前の困難を個人的な問題から社会的な「編集」(白石)の対象へと転記していく作業が求められる。また、梅川由紀が論じる「ゴミ屋敷問題」にみられるように、社会規範から逸脱した「傾き」を排除せず、その個別の文脈を尊重しながら周りの環境や構成を変える・整えるという作業・行為が肝要となる。そして、小松が説くように、「だれかの悲しみのよそ者」であることを自覚し、その「寄り添えなさ」に向き合いながら細い糸を手繰(たぐ)り寄せるように社会を編み直していくのである。

「共感の論理」の再構築:不可解性の受容
〇奥田知志が提唱する「不可解性」の受容は、他者理解を根底から覆す。人はお互いが「共感不可能」のなかに生きていることを認めることが、真の共生の出発点である。「あなたを完全には理解できないが、共にここにいる」のである。また、小松が説く「共事者」のように、中途半端で曖昧な関わりを許容する緩やかなネットワークを地域に張り巡らすことが肝要となる。このネットワークのなかで、人々は「支援者/被支援者」という二分法的な立場を脱却し、共に事にあたる『共事者』へと変容する。そこでは、「助けること」と「助けられること」が循環し、「受援」が特別な弱さではなく、共生のための作法として共有される。また、渡邉が言う「共感の論理」は、単なる同一化(かわいそうに思うこと)ではなく、相手の背景にある異なる論理を理解しようとする「多元的思考」と表裏一体のものである。それは情動に終わらず、誰もが「助けて」と言い合える社会の土壌を育み、一人ひとりが守られているという確かな安心感へと昇華されるのである。」

「構造変革の教育」への昇華:市民福祉教育の視座
〇従来の「福祉教育」は、ともすれば個人の内面や道徳心に訴えかける「思いやり教育」に重きが置かれてきた。しかし、個人の善意のみに依拠するアプローチは、現状の社会構造を温存させ、かえって「助ける側(強者)」と「助けられる側(弱者)」の分断を固定化する危うさを孕んでいる。
〇渡邉雅子が説く「共感的利他主義」(共感に基づく利他主義)は、相手の苦しみや悲しみを「自分ごと」として感じて手を差し伸べる、日本的な倫理観に基づく行動原理である。これは、辺見庸が吐露した「ケアされる側の激しい憤り」とセットで考えられなければならない。「明るいの反対はなーに?」という無邪気な問いかけが、一人の人間の尊厳を「かれらなんか」という枠に押し込める暴力となり得るのである。そこで、辺見がまた指摘した街角の「オババ」に対する無知や無関心を問い直し、不可視化された存在を地域という文脈のなかに再構成(編集)する知性が必要となる。
〇「市民福祉教育」は、単なる「思いやり」や「優しさ」を教えるのではなく、他者の不可侵の尊厳(権利)に触れる際の、震えるような緊張感を教える場であるべきである。すなわち、市民福祉教育は、個人の「弱さ」や「依存」を人間存在の普遍的な姿として捉え直し、その条件のままに生きられるよう、白石がいう社会の「分母」(生産性至上主義、自己責任論)を問い直し新しい価値観を創造する「構造変革の教育」へと昇華させる必要がある。
〇別言すれば、市民福祉教育とは、地域に潜在する「弱さ」を「輝き」に変えるための「社会の編集術」(白石)を習得するプロセスである。 「思いやり」という内面的なアプローチから脱却し、エイジズムや能力主義という社会構造を問い直す権利意識を育むこと。辺見の痛切な叫びや小松の誠実な葛藤を指針として、情動的な「共感」を論理的な「多元的思考」と連携させ、誰もが安心して依存できる「希望のまち(みんながつながるまち)」(奥田)を再設計すること。 「わたしがいる、あなたがいる、なんとかなる」という確信を、個人の心ではなく地域の「構造」のなかに根付かせること。この構造変革こそが「ふだんの くらしの しあわせ」(阪野)を支える土台となる。こういった新たな「視座」を提示することが、市民福祉教育の本質であると言えよう。