
目 次

Ⅰ
新美一志
福祉教育における「当事者性」と「相互主体性」に関する一考察
―松岡広路、阪野 貢、鯨岡 峻の言説をめぐって―
******************************************************************
はじめに
〇超少子高齢・人口減少・多死社会と評される現代社会は、少子高齢化の進展をはじめ、貧困や社会格差の拡大、SNSトラブルの多発、環境破壊や災害の激甚化、グローバル化の進行、ダイバーシティ(多様性)の推進などによる複雑・多様な社会福祉問題に直面している。このような状況において、個々人がそれらの問題に主体的・自律的に関与し、共生社会を築き上げていくための教育、すなわち「福祉教育」の役割は一層その重要性を増している。この文脈において、「当事者性」と「相互主体性」という2つの概念は、福祉教育の理念と実践を深く規定する核心的な要素として位置づけられる。当事者性は、ある問題に直面する個人の経験や視点を尊重し、その問題への意識的な関与を促すものである。相互主体性は、他者との関係性のなかで自己と社会を認識し、共に課題解決を図る姿勢を育む基盤となる。
〇本稿では、福祉教育におけるこれら2つの概念の重要性を踏まえ、「当事者性」を説く松岡広路、「当事者性」や「他者性」に言及する阪野貢、そして「関係発達論」を提唱する鯨岡峻の3氏の言説を検討する。すなわち、それぞれの概念に対する3氏の独自のアプローチを明らかにし、それを通して福祉教育における当事者性と相互主体性の多角的な理解を深め、今後の実践と研究に資する知見を得ることをめざす。
Ⅰ 福祉教育における「当事者性」の概念と意義
1) 当事者性の概念規定と歴史的背景
〇「当事者」という言葉は、一般的には、ある問題に直面している人々を指すものとして理解される。「当事者性」という言葉は、単に問題に直面しているという事実だけでなく、その問題への関わり方や意識のあり方を質的に表現する概念である。例えば、障がい者の問題について言えば、障害のある人やその家族は第一義的な当事者として認識される。しかし、障害の社会モデルの視点から見れば、障害は個人の特性に起因するものではなく、社会の構造や環境が作り出す問題であるため、社会全体がその問題の当事者であると捉えることができる 。
〇中西正司・上野千鶴子は、その著書『当事者主権』(岩波新書、2003年10月)において、当事者を「ニーズを自覚している人たち」と規定した。この規定は、本人のニーズを専門家などの他者が本人に代わって規定することを許さないという立場から、重要な意味を持つ。しかし、この規定には、社会的な問題を特定の人に固有の問題として囲い込む「当事者/非当事者」という二項対立を生む危険性や、自覚していない当事者の存在を軽視あるいは無視してしまう可能性が指摘されよう。
〇福祉教育における当事者性は、単に問題に直面している事実だけでなく、その問題に対する当事者意識を持ち、課題解決に向けて自覚的に行動していく過程として捉えられる。この認識は、社会的格差と不平等、社会的分断と排除などが拡大・深刻化する現代社会の危機的状況を背景とする。そのような状況下で、社会の矛盾を的確に把握し、変革への道筋をつけることができるのは、先ずは不利益を意識化している人たち、すなわち自分たちの生命や生活が脅かされている人たちである。そして、彼らの主張に耳を傾け、共感し、連帯・協働(共働)することは社会の正義であり責務であるという認識が、当事者性の重要性を一層高めることになる。
2) 松岡広路の当事者性論:相対的尺度としての理解
〇松岡広路は、当事者性を固定的な実体概念としてではなく、より動的かつ関係的な視点から捉える。松岡によれば、当事者性とは「個人や集団の当事者としての特性を示す実体概念というよりも、『当事者』またはその問題的事象と学習者との距離感を示す相対的な尺度」、「『当事者』またはその問題との心理的・物理的な関係の深まりを示す度合い」と規定される(松岡広路「福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』Vol.11、万葉舎、2006年11月)。
〇松岡の研究テーマは、ジェンダー、子育て支援、インクルージョン、地域福祉、共生など多岐にわたり、松岡の当事者性論はこれらの広範な領域における関係性の深化を志向するものである。また、当事者性を相対的な尺度として捉える松岡の視点は、福祉教育において極めて重要な意味を持つ。この視点は、当事者性を固定的な属性としてではなく、学習者の問題、あるいは当事者との関係性の深まりとして認識することを促す。これは、学習者が非当事者から当事者へと一方向的に変化するのではなく、多様なレベルでの関与や理解の深化を許容する柔軟な枠組みを提供する。この相対的な理解は、学習者が自身の問題への関わり方を内省し、他者の経験を多角的に理解する余地を生み出すのである。
〇また、松岡の言説は、従来の当事者/非当事者という二項対立的な思考が持つ硬直性を緩和し、グラデーションのある関わり方を促進する効果が期待される。これにより、学習者が「自分は当事者ではないから」という理由で社会福祉問題から距離を置くことを防ぎ、誰もが何らかの形で問題に関わる可能性を提示する。こうした当事者性の相対的理解は、学習者の心理的・物理的距離感の意識化を促し、多様な関わり方の模索と受容へと繋がる。そして、結果として社会福祉問題への関与・参加の障壁の低減に貢献する。すなわち、インクルーシブな社会を形成するうえで、個々の住民・市民が自身の立ち位置を自覚しつつ、他者の当事者性を尊重し、共に行動するための基盤となる。そして、福祉教育において、学習者が当事者の経験を追体験するだけでなく、自身の生活のなかでの当事者性を発見するきっかけを提供し、エンパワメントへと繋がる可能性を秘めているのである。
3) 阪野貢の当事者性・他者性論:二項対立を超えて
〇阪野貢は、福祉教育における「共感」と「当事者性」、そして「他者性」という3つの概念に留意し、その相互関係を考察する。そのなかで阪野は、福祉教育における情動的な共感の強要に警鐘を鳴らす。すなわち、アメリカのポール・ブルーム(Paul Bloom)の言説から「共感には善玉と悪玉がある」「共感は道徳的指針としては不適切である」ことを指摘し、情動的共感が時に限定的・排他的なものとなり、他者の固有性を無視した一方的な思いやりにつながる危険性があることを強調する(<雑感>(185)阪野貢/「共感」再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―/2023年8月23日/本文 )。
〇また、阪野は、当事者/非当事者という二項対立的な思考が議論を硬直化させ、思考停止を生む危険性があると批判する 。そのうえで、当事者が抱える問題は当事者だけで引き受けるべき問題ではなく、現代社会の問題であり、社会全体で引き受けるべきものであるとし、「すべての人が当事者」であるという視点の重要性を強調する。そして、例えば学校福祉教育における障がい者などとの訪問・交流活動の場においては、子どもも障がい者も、教師も施設職員も、それぞれの立場として当事者であり当事者性を持つと同時に、互いに異なる視点・視座を持つ他者であるとする。そして、この訪問・交流の場で問われるのは、子どもと障がい者の「知識と経験」、教師と施設職員の「専門性と経験」の「相互補完性」であると強調する。ここでいう「経験」は、「体験」が行為そのものを指すのに対し、それを通して得られた気づきや学び、知識や技能・技術などの総体を指す(<雑感>(223)阪野貢/再掲/福祉教育における「共感」と「当事者性」 ―ワンポイントメモ―/2025年2月10日/本文)。
〇こうして、阪野の、すべての人が当事者であるという主張は、当事者性の概念を個別の問題から社会全体の問題へと拡張するものである。これは、社会福祉問題が一部の「困っている人」の問題ではなく、社会構造全体の問題であるという社会モデルの視点を強く反映している。とともに、他者性の認識を強調することで、画一的な共感の押し付けを避け、異なる視点を持つ他者との対等な関係性のなかで相互理解を深めることの重要性を示唆している。阪野の議論は、当事者性を問題への関与の度合いとして相対化する松岡の視点をさらに発展させ、社会全体を当事者として捉えることによって、福祉教育の対象と責任範囲を広げるものである(「包括的福祉教育」とでも言えようか)。また、情動的共感の限界を指摘し、他者性を尊重する姿勢は、相互主体性の基盤となる「対等な関係性」の構築に不可欠なものである、と言えよう。
〇別言すれば、阪野の言説では、当事者/非当事者という二項対立の批判から、すべての人が当事者であるという認識の深化、そして他者性の尊重と相互補完性の重視へと繋がることで、より包括的で対等な福祉教育実践の実現が期待される。この思想は、福祉教育が単に弱者支援の知識を教えるだけでなく、社会全体の問題として福祉を捉え、多様な人々がそれぞれの立場から社会変革の主体となることを促す、より主体的・自律的で包括的な福祉教育へと進化すべきであるという強いメッセージを含んでいる。阪野が基本的・継続的に追究する「まちづくりと市民福祉教育」のねらいや意義はここにある。また阪野は、特に「対話」や「共働」、「リフレクション」などを通じて知識や技能・技術を習得・共有することの重要性を強調しており、これは相互主体性の実践的側面を明示するものでもある。
〇以上を要するに、松岡と阪野の当事者性論を対比すると、こうである。松岡は学習者の視点から見た当事者との距離感という相対性に焦点を当てる。阪野は社会全体が当事者であるという視点と他者性の重要性を強調する。両者の言説は一見異なるが、共通して当事者/非当事者という固定的な二項対立を乗り越えようとする志向がみられる。松岡は学習者の内的な関係性の深化を、阪野は社会的な関係性における相互補完性を重視しており、これは当事者性理解の多層性を示唆する。そして、このような異なる視点・視座の提示は、概念の多義性を認識させるとともに、福祉教育実践における多様なアプローチの可能性を示唆するものでもある。この対比は、福祉教育が単に、当事者が抱える日常的な生活問題や苦悩などを理解するに留まらず、学習者自身の立ち位置を問い直し、社会全体で問題解決にコミットする当事者意識を育むための多様な道筋があることを示している。また、情動的共感に依存しない、より客観的で相互関係性に基づいた当事者性へのアプローチの必要性を浮き彫りにしている、といえよう。
Ⅱ 福祉教育における「相互主体性」の概念と意義
1) 相互主体性の概念規定と関係性への視点
〇「相互主体性」は、複数の主体(人間)が互いを単なる対象(客体)としてではなく、主体性を持ったそれぞれの存在として認識し、互いに影響し合うなかで形成される関係性や、その関係性のなかでの自己認識のあり方を指す概念である 。福祉教育において相互主体性の議論が重視されるべき根拠は、次のようなところにある。①福祉教育は、障害の有無や背景に関わらず、すべての人が地域社会の一員として尊重され、多様なつながりを再生・創造する共生社会の実現をめざす。②福祉教育は、地域住民が社会福祉問題を「自分ごと」として捉え、その課題解決に主体的・自律的に取り組むことを促す。③福祉教育では、すべての地域住民がその年齢や立場を超えて相互に学び合う関係性が重視され、多様な主体が関わるなかで新たな価値が創出され、地域社会の変革(「まちづくり」)へとつながる実践が意図される、などがそれである。すなわち、福祉教育における相互主体性の追求は、従来の、主体が客体に一方的に働きかける対立的なモデルから脱却し、主体と主体の関係性が重視される、すなわち誰もが主体性を持ち、互いを尊重し、共に学び、共に生きる社会を築いていくための重要なアプローチである。
2) 鯨岡峻の関係発達論と相互主体性:人間理解の深化
〇鯨岡峻は、従来の発達観である個体能力主義に対し、「育てる者―育てられる者」の相互的なやり取りのなかで両者が生涯に亘り変容していく過程として人の育ちを捉える「関係発達論」を提唱する。そこでの重要な概念のひとつが「相互主体性」(intersubjectivity)である。鯨岡にあっては、相互主体性は、多面多肢的な概念であるが、「間主観性」「共同主観性」「相互主体性」の3つの意味がある。「間主観性」(間主観性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」のそれぞれ独立した主観が、互いに異なることを認めつつ、両者の主観(「私」は「あなた」の主観、「あなた」は「私」の主観)が部分的に共有され理解される状態をいう。すなわち、「私」と「あなた」の「共感」の基盤となるものである。「共同主観性」(共同主観性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」がある目標や体験を共有するなかで、あたかもひとつの主体であるかのように振る舞い協働することをいう。すなわち、「私」と「あなた」の共通の目標設定や価値観の共有、さらには集団としての合意形成に繋がるものである。「相互主体性」(相互主体性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」が主体としての存在そのものを深く認め合い、影響し合い、共に変容していく、より能動的で発展的な関係性をいう。すなわち、その過程を通して、「私」と「あなた」が共に新たな主体性を形成し、「私は私」という閉塞的な主体から「私は私たち」という開放的な関係性へと開かれることになる。要するに、間主観性は最も根源的な心の通い合い(共感)を、共同主観性は共通理解と協働の基盤を、そして相互主体性は自己と他者の境界を超えた関係性のなかでの変容と成長を示唆するのである(鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性―』ミネルヴァ書房、2006年7月)。
〇鯨岡が相互主体性に与える3つの意味は、単なる共感や理解を超えた、より動的で生成的・共働的な人間関係のあり方を示している。特に、相互主体性が「私は私」から「私は私たち」への変容を促すという点は、福祉教育がめざす共生の深い意味合いを提示する。これは、個人の自立だけでなく、他者との関係性のなかで自己を再構築し、共に生きる力を育むという福祉教育の目標に直接的に貢献するものである。鯨岡の理論は、発達を固定的な能力獲得ではなく、関係性のなかでの絶え間ない変容と捉える。この視点は、福祉教育において、子どもや障がい者などを「未完成な」あるいは「不完全な」存在と見なすのではなく、共に学び、共に成長する「相互理解」と「相互変容」のプロセスとして捉えることを促す。これは、阪野が説く相互補完性に通底するものである。
Ⅲ 松岡・阪野・鯨岡の言説にみる当事者性と相互主体性の統合的考察
1) 各言説の共通点と相違点:概念の多層的理解
〇松岡・阪野・鯨岡の各言説を統合的に考察すると、福祉教育における当事者性と相互主体性に関する多層的な理解が浮かび上がる。
〇共通点としてまず、3氏ともに、当事者/非当事者といった固定的な二項対立的な思考や、一方的な支援関係からの脱却をめざしている点が挙げられる。松岡は当事者性を相対的尺度として捉え、阪野はすべての人が当事者であるという視点と他者性の尊重を強調し、鯨岡は「私は私」という閉塞的な主体観から「私は私たち」への主体変容を説くことで、いずれも従来の枠組みを超えようとしている。次に、福祉教育に関連づけて言えば、個人の内面だけでなく、他者との関係性のなかで主体性や人間理解が深まることを重視している点も共通する。松岡の「距離感の深まり」、阪野の「相互補完性」、鯨岡の「関係発達論」は、いずれも関係性が教育的営みの核心にあることを示唆する。さらに、3氏の議論は、単なる概念論に留まらず、実際の福祉教育やフィールドワーク実践からの示唆や、実践への応用可能性を意識している点も共通している、といえよう。
〇相違点としては、当事者性の捉え方に違いが見られる。松岡が学習者と当事者との心理的・物理的距離感に焦点を当てるのに対し、阪野は社会全体が当事者であるという視点から、より広範な社会的責任と他者性の認識を強調する。鯨岡は関係発達論という発達心理学的な視点から、人間関係における深い心の交流と相互変容のプロセスを多層的に分析する。一方、阪野は、福祉教育実践論のなかで、対話や共働を通じた相互補完性やエンパワメントの実現を相互主体性の実践的側面として位置づける。松岡の言説は、共生やインクルージョンについての論究から、相互主体的な関係性の構築を前提としていると解釈される。
〇3氏の議論を重ね合わせると、当事者性は個人の内面的な意識や関与の度合いを指し、それが相互主体性という他者との関係性のなかで深化し、変容していく動的なプロセスとして捉えられる。つまり、当事者意識が芽生えることで他者との関わりが始まり、その相互作用を通じてより深い相互主体的な関係が築かれ、それがさらに個人の当事者性を再構築するという循環的な関係が見出される。松岡の相対的な当事者性、阪野のすべての人が当事者であるという視点と他者性、そして鯨岡の「私は私たち」への変容は、それぞれ異なる角度からこの動態的な関係性を捉えるものである。松岡は「入り口」としての当事者性の相対的な深まりを、阪野は「広がり」としての社会全体への当事者性の拡張と他者との対等な関係性を、鯨岡は「深化」としての相互変容のプロセスを描いている、と言えようか。
〇以上のように、松岡の当事者性の意識化から、阪野の他者性(他者との関係性における自己と他者の認識)、そして鯨岡の相互主体性(相互作用を通じた主体変容)へと繋がることで、より包括的な当事者意識の醸成と共生社会の実現が期待される。それはすなわち、「当事者性」と「他者性」と「相互主体性」の各概念は、それぞれが独立して存在するのではなく、互いに影響し合い、補完し合う関係にあるといえる。そして、こうした統合的な理解は、現代の社会福祉問題が複雑化・多様化さらには多層化するなかで、福祉教育は個人の単なる意識変革に留まるものではない。個人の内面的な変容(当事者性の深化)と他者との関係性における質的向上(相互主体性の構築)、そして社会構造への働きかけ(社会変革の促進)を同時にめざすべきである、という複合的な目標を明確にするものである。従ってそれは、単一ではなく、多角的な理論的・実践的アプローチが求められることになる。
2) 福祉教育実践への示唆と今後の研究課題
〇松岡・阪野・鯨岡の各言説を統合的に考察することで、福祉教育の実践と今後の研究における重要な方向性が導き出される。
〇まず、福祉教育実践への示唆として、当事者性の多層的理解の促進が挙げられる。学習者が自身の生活のなかで当事者性を発見し、他者の当事者性を相対的に理解する機会を提供することが重要となる。単なる社会的弱者としての当事者理解に留まらず、すべての人が当事者であるという視点から、社会全体の問題として社会福祉問題を捉える教育が必要とされる。
〇次に、情動的共感から理性的な他者理解への移行が求められる。安易な情動的共感を強要するのではなく、他者の他者性を尊重し、異なる視点や経験を理性的に理解し、相互補完性を図る教育実践が重要となる(ここで、イギリスのアルフレッド・マーシャル(Alfread Marshaii)が提唱した「冷たい頭と熱い心」(cool head and warm heart )という言葉を思い起こしたい)。さらに、鯨岡が提唱する相互主体性の概念に基づき、相互変容を促す関係性の構築を重視した教育プログラムの開発が不可欠となる。子どもや教師、障がい者や高齢者、保護者や地域住民などが「育てる者―育てられる者」として相互に変容し、共に成長する関係性を重視する視点を取り入れることで、より深遠な学びが期待される 。
〇さらに、阪野が強調する対話、共働、リフレクションなどを教育プロセスに積極的に取り入れ、それを通じた主体形成を促進することが重要となる。当事者や多様なステークホルダーが共に知識や技能・技術を獲得・共有し、それを利活用する場を創出することは、地域福祉における住民主体とその育成の推進にも繋がる 。
〇これらの点は、現代の福祉教育が単に知識の伝達や技能・技術の取得に留まらず、学習者の内面的な変容、他者との関係性の質的向上、そして社会全体のシステム変革を同時にめざすという、より包括的な役割を担っていることを示している。松岡・阪野・鯨岡の言説は、この複雑な役割を果たすための多面的な視点を提供している、といえよう。
〇今後の研究課題としてはまず、当事者性と相互主体性の動態的関係性の実証的研究が挙げられる。松岡・阪野・鯨岡の言説が示唆する当事者性と相互主体性の循環的・動態的関係性を、実際の福祉教育実践においてどのように測定し、実証していくかという課題である。特に、例えば外国籍の子どもや地域住民との多文化共生や、多様なニーズを持つ子どもたちとの交流活動における当事者性と相互主体性の関係を深掘りする研究が期待される。
〇次に、阪野が規定する「経験」(体験を通して得られた気づきや学び)の質をどのように評価し、それが当事者性や相互主体性の深化にどのように寄与するのかを、人々が語る物語(ナラティブ)の分析や質的調査などを通じて明らかにする必要がある 。
〇さらに、AIやオンラインコミュニケーションが普及するなかで、当事者性や相互主体性の概念がどのように変化し得るのか、新たなテクノロジーが福祉教育における関係性構築に与える影響等についての考察も必要となる。
〇またさらに、これはすでに自明のことであるが、地域福祉やまちづくりにおける住民主体を掲げながらも、地域住民の多くが無関心であったり、差別や偏見を抱く現実に対して、当事者性と相互主体性の視点からどのようにアプローチし、より多くの人々を福祉教育(阪野が言う「まちづくりと市民福祉教育」)に巻き込むことができるのか、実践的な研究が求められる。
〇以上の諸点は、福祉教育実践・研究を 単なる机上の空論ではなく、複雑化・多様化さらには多層化する現代社会において、福祉課題の解決に貢献し、未来の福祉教育の方向性を指し示すものとなろう。特に、情動的共感に依存しない理性的な他者理解、相互変容を促す関係性の構築、そして対話と共働を通じた主体形成を重視した福祉教育実践を展開していく必要がある。そして、「当事者性」と「相互主体性」という概念は、個人のエンパワメントから社会全体の共生文化の醸成に至るまで、幅広い実践領域において不可欠な要素である。この点を改めて強調しておきたい。
Ⅱ
新美一志
福祉教育の理論と実践と研究に関する一考察
―大橋謙策と阪野 貢、原田正樹の言説をめぐって(素描)―
******************************************************************
[Ⅰ]
〇福祉教育の理論(わかる)と実践(できる)と研究(さがす)において多大な貢献をしてきた者に、大橋謙策と阪野貢、原田正樹がいる。なかでも大橋は、周知の通り、日本における地域福祉および福祉教育研究の草分け的存在であり、その貢献度は極めて高い。大橋は、1970年代以降(本格的には1980年前後から)、現場で生じる「問題としての事実」に学び、その実践的な解決をめざす「実践的研究」を志向する。 初期の著作である『地域福祉の展開と福祉教育』(全国社会福祉協議会、1986年9月)は今日においても、「実践的研究書」としての輝きを失っていない。生涯学習の視点に基づく福祉教育の実践・研究の推進と、「日本地域福祉研究所」などによる全国的規模での「福祉でまちづくり」の取り組みは特筆される。
〇阪野は、福祉教育の歴史研究を基盤にしながら、大橋の福祉教育論を継承し発展させつつ、「まちづくりと市民福祉教育」という概念を提示してその理論化・体系化を図る。そのひとつの集大成でもある『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』(みらい、2009年10月)は、従来の学校福祉教育や地域を基盤とした福祉教育の枠を超え、「まちづくり」とそのための「市民」の育成をめざす福祉教育のあり方を探究する。「ふくし」を「ふだんの くらしの しあわせ」というフレーズで捉えて表示するのは、1990年代中頃からである。「市民福祉教育研究所」(オンライン組織)での取り組みも特筆に値する。
〇原田は、地域福祉の主体形成に関わる地域福祉実践研究法について考察し、その理論化・体系化を図る。その著作『地域福祉の基盤づくり―推進主体の形成―』(中央法規出版、2014年10月)は、大橋の上記の著作の「今日的な続編でありたい」とするものでもある。福祉教育については、福祉教育の理論と実践の乖離を指摘し、それを克服するために、学際的・総合的かつ実践的なアプローチによって福祉教育の新たな理念の構築と実践構造の再検討を進める。原田にあっては、「共に生きること 共に学び合うこと」は、福祉教育が大切にしてきた・大切にすべきメッセージである。原田の、全国社会福祉協議会主催の「全国福祉教育推進委員会」などでの取り組みは特筆されるべきものである。
[Ⅱ]
〇ここで、大橋と阪野・原田の福祉教育論の要点のいくつかを素描する。まず大橋のそれである。大橋は「福祉教育」の概念を次のように規定する。すなわち、福祉教育とは「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(第2次福祉教育研究委員会(委員長:大橋謙策)『学校外における福祉教育のあり方と推進』全国社会福祉協議会、1983年9月)。
〇この概念規定は40年以上も前のものであるが、今日においてもしばしば引用される。それは、阪野によると、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因する。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的な定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのである。また阪野は、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて障がい者や高齢者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視点・視座に注目しないとその定義や言説を読み解くことはできないことを指摘する。
〇大橋はまた、学校教育において「自由と平等」は教えられてきたが、「博愛」精神の教育が欠けていたことを指摘する 。そして、障害を持つ人々や社会的な支援を必要とする人々の幸福追求権(憲法第13条)と、社会全体で担う「博愛」の精神を公教育で再構築する必要性を強く訴える 。この「博愛」の再構築という主張は、単なる倫理的な呼びかけに留まらない。大橋は、日本の文化的・歴史的背景、特に閉鎖性や儒教的な排除の論理が福祉の理念形成に与える負の影響を深く見据え、その克服のために「博愛」という普遍的価値観を福祉教育の根幹に据える必要性を論じるのである。これは、福祉教育は単なる知識や技術・技能の伝達や個人の意識変革を図るだけではない。社会全体の文化や規範を「博愛」の精神に基づいて再構築することを通じて、社会の根深い構造的差別や排除の論理に抗する「価値観の変革」をめざすべきだという、極めて本質的で哲学的な課題提起である。深く留意したいところである。
〇こうした点を含めて、大橋の福祉教育論の概要や評価などについてはひとまず、阪野のブログ記事――阪野貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて(Ⅵ)―大橋謙策の「福祉教育原論」に関する研究メモ―/2022年10月25日/本文を参照されたい。
〇次に阪野のそれである。阪野は「市民福祉教育」を次のように規定する。「市民福祉教育とは、福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人間の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」(ウェブサイト「市民福祉教育研究所」フロントページ/本文)。
〇阪野が提唱する市民福祉教育は、「人間の尊厳」「自由・平等・友愛」「平和・民主主義・人権」といった普遍的な人間観と社会観に基づいている。また、現代社会において子どもと大人、障がい者や高齢者などすべての人の「自立・共生・自治」が問われるなかで、「まちづくり」に参加(参集、参与、参画)する主体的・自律的な「市民」の育成を図る市民福祉教育の重要性を認識し指摘するものである。すなわちそれは、「ふくし」は社会的支援を要求する・必要とする人や専門家だけの問題ではなく、市民一人ひとりの日常生活(「ふだんの くらしの しあわせ」)と社会全体の平和・安寧・福祉(「みんなが 満足していて 楽しいこと」)に関わる普遍的な課題であるという視点・視座に基づくものである。それはまた、大橋が指摘する「博愛」の欠如や社会の閉鎖性といった問題意識を、より普遍的な市民社会の形成という視点から継承・発展させるものであるとも言える。
〇また阪野は、「福祉文化」の概念を、一番ヶ瀬康子の言説を引用し「福祉の文化化」と「文化の福祉化」が統合されたものとして捉える。前者は、社会福祉は質・量ともに豊かで快適な人間らしい生活を保障するものであること、後者は、障がい者や高齢者を含むすべての人が文化創造の担い手であることを含意する。そのうえで、「福祉」が単なるサービス提供や社会的支援に留まらず(憲法第25条)、人々の生活そのものを豊かに快適にし(憲法第13条)、社会全体の文化、人間の豊かな創造性や感性を育む福祉文化として根づくかせるべきものである主張する。
〇さらに阪野は、「協働」(collaboration)と「共働」(co-action)の概念を明確に区別し、「対抗」から「共働」へのプロセスを支援学の視点から提示して市民自治とまちづくりの立ち位置とプロセスを考察する 。「協働」は往々にして、行政主導や専門家主導の枠組みのなかで行われる「協力」に近いニュアンスを持つ。それに対して「共働」は、市民が主体的・自律的に、対等な立場で互いに働きかけ、共に新たな価値を創造していく能動的な関係性を意味すると考えられる。この区別は、単に市民を行政の活動に「参加させる」だけでなく、市民自身が「主体」として福祉を「つくりあげる」という、市民参加(参画)の質的向上への強い志向を示すものである。これは、福祉教育が市民のエンパワーメントを通じて、真の市民社会を構築するための重要な手段(「思想的武器」)となる・ならなければならないという阪野の思想を反映していると言えよう。
〇そして原田である。原田らにあっては、地域ぐるみの福祉教育が必要かつ重要となるなかで、「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動」である(福祉教育推進検討委員会(委員長:大橋謙策)『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』全国社会福祉協議会、2005年11月)。この規定における鍵概念のひとつ、すなわち原田福祉教育論のそれは「協同実践」である。原田はいう。「福祉教育における『協同実践』においては、専門的な知識や技術の伝達ではなく、福祉の魅力や難しさをみんなで考える。その時には、子ども同士だけではなく、福祉教育実践に関わる大人も含めて相互の学び合いが必要になってくる」(原田正樹『福祉教育の理論と実践方法―共に生きる力を育むために―』全国社会福祉協議会、2022年3月)。さらにそれは、学校や地域だけでなく、また障がい者や高齢者、地域のボランティアだけでなく、さまざまな関係者や関係機関・団体を福祉教育に巻き込み、「サービスラーニング」の視点による福祉教育実践を協同実践として成立させための組織(「福祉教育推進プラットホーム」)やコーディネーター(「福祉教育推進員」)を求める。とともに、その実践を「内省」(かえりみて見直すこと)し「省察」(ふりかえり考えめぐらすこと)する効果的・総合的かつ創造的なふりかえり(「リフレクション」)を不可欠とする。
〇原田福祉教育論の、もうひとつの鍵概念に「相互依存的自己実現」がある。それは、人間の脆弱性を前提としたうえで、個人の自立や自己実現だけでなく、それを乗り越え、関係性のなかで互いに支え合いながらより良く生きること、社会全体の「共に生きる力」の育成を図ることをめざす視点である。すなわちそれは、福祉教育は地域福祉の下位概念・従属概念ではなく、個人の福祉意識を変容させ(「貧困的な福祉観の再生産」の克服)、地域を変革する力の育成を図る営為である、という主張に通底するものである。要するに、「相互依存的自己実現」という概念は、超少子高齢化問題や多様で複雑な福祉課題を抱える現代社会において、従来の自立支援の限界を乗り越え、より包括的で持続可能な地域社会を構築するための新たなパラダイムを提供するものである。
〇この点を別言すれば、原田は、その主著『地域福祉の基盤づくり』で、「地域福祉を福祉教育によって支えあうことができる社会、ケアリングコミュニティをどう構築していくことができるかを問うことが『地域福祉の基盤づくり』である」という。これは、福祉教育と地域福祉が単なる補完関係ではなく、相互に影響し合い、変革を促すダイナミックな関係にあることを示唆するものである。すなわち、福祉教育は地域変革の主体化を図り、個人の意識変革を促す一方で、地域福祉の実践はその意識変革をさらに深化させるのである。そして、ここでいう「ケアリングコミュニティ」とは、原田にあっては、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。それは、地域福祉の基盤づくりである。そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度・政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。
〇上述の大橋は、ケアリングコミュニティの実現には「地域福祉の4つの主体形成」が重要であるという。➀地方自治体においてどういう福祉サービスを整備するべきかという地域福祉計画策定主体の形成、➁制度化された福祉サービスをどう有効に、合理的に、過不足なく利用するかという地域福祉サービス利用主体の形成、➂地域から差別・偏見をなくし、福祉サービスを必要としている人を支える福祉コミュニティをどうつくるかという地域福祉実践主体の形成、➃対人サービスとしての社会福祉を支える社会保険制度をどうつくるかという社会保険制度の契約主体の形成、がそれである。この言説と併せて、原田のケアリングコミュニティの5つの構成要素についての議論は、阪野がいう「まちづくりと市民福祉教育」の理念や構造、内容や方法に繋がるものでもある。
〇ここで、大橋と阪野・原田がともに、福祉教育実践(体験学習)における「疑似体験」の危険性について言及していることをあえて付記しておきたい。3氏は特に、目的やねらいが吟味されない形だけの障害・高齢の疑似体験(車椅子体験、アイマスク体験、高齢者疑似体験など)は、障がい者や高齢者への誤解やステレオタイプを強化する可能性があることを厳しく批判する。形骸化した体験活動は「障がい者は不幸である」「施設にいるべきである」といった固定観念を強化し、真の理解や共生を妨げる可能性がある、と警鐘を鳴らすのである。それは、地域・地元の福祉課題を素材化(教材化)しない、地域・住民との連携・協働を欠いた、形だけの「まちづくり」や「ケアリングコミュニティ」づくりに関しても同様である。
〇なお、「疑似体験」については、「疑似体験はあくまでも疑似であり、ほとんど意味のない学習である」とう意見がある。疑似体験のあり方を追求すべきなのか、疑似体験に代わる学習方法を開発すべきなのか、ひとつの問題提起であることに留意したい。
[Ⅲ]
〇大橋と阪野・原田の福祉教育論を分析・検討(素描)すると、3氏はともに「地域福祉と福祉教育の不可分性と有機的連携」「主体形成の重視と市民参加の促進」「まちづくり・社会変革の推進と地域共生社会の実現」「実践と理論の往還的関係の重視と実践研究の推進」などを強調している。そして、3氏のそれは個別の研究ではなく、相互に影響し合い、継続的に取り組まれ、学術的な系譜を形成していることが分かる。この学術的な連続性は、そこに生み出された相乗効果として、単なる知識の継承に留まらず、先行研究の課題意識を共有し、福祉教育を取り巻く時代状況や背景に対応しながら福祉教育の理論と実践を深化させてきた、と言ってよい。阪野が大橋福祉教育論の再考を試み、原田が大橋の著作の「続編」を意図した点から、阪野と原田は大橋理論の単なる継承者ではなく、批判的・発展的継承者として新たな視点や概念を導入し、福祉教育学界の活性化に貢献してきた、とも言えようか。また、大橋を中心に阪野と原田の3氏が日本福祉教育・ボランティア学習学会の設立に大きな役割を果たしたことは、衆目の一致するところである。
〇その学会は、設立されて30年が経っている。言うまでもなく学会は、学術コミュニティの発展と社会貢献の両面で重要な役割を果たすべき組織である。その学会では、福祉教育の実践・研究の使命や目的、価値などを考えると、単なる研究発表や研究者の知の錬成の場としてのそれではなく、とりわけネットワーク機能(実践家と研究者による共同研究、異分野交流・国際的連携など)とソーシャルアクション機能(政策提言、市民社会への普及啓発など)がこれまで以上に重視されるべきである。
〇大橋と阪野・原田の連なり、すなわち「協働研究」は、福祉教育の実践や研究の質を高めるだけでなく、学術コミュニティ内での知識の創造、共有、そして発展を促進するひとつのケースである。それはまた、大橋と阪野とりわけ原田との、大橋がいう「バッテリー型研究」のもうひとつの姿であろう。また、福祉教育の学術的・学際的な深化と、実践者と研究者の協働研究による「実践研究」の今後の方向性を示すものでもあろう。なお、協働研究を平易に別言すれば、単に一緒に行う(共同)、あるいは力を合わせて行う(協同)研究ではなく、それぞれの強み・専門性を活かしながら対等な立場で協力し合って行う研究をいう。
〇また、福祉教育の実践・研究においてときに、➀概念が抽象的で情感的になりがちであり、それゆえに議論が曖昧なものになる。➁高尚な理念や理想主義的な理論が先行しがちであり、それゆえに実践への落とし込みが難しい。そして➂多様なアクター(主体)との連携・協働の深化や、社会変革に向けた「ソーシャルアクション」機能(問題提起や政策提言、権利擁護など)の強化をどう図るか。➃実践研究の質の向上と実践評価の理論と方法論をどのように構築するか、などが問われる。こうした点に留意しつつ、グローバルな社会課題(気候変動、貧困、紛争など)の深刻化、AIやデジタル技術の進展といった文脈のなかで、新たな福祉教育の実践・研究はどのような理念や構造(システムや目的・内容・方法・対象)を持つものとして再構築あるいは再創造されるべきか、さらなる探究が求められよう。とりわけ、福祉教育の理論と実践と研究における「学際性」と「グローカル性」「変革性」、そして「哲学性」についてである。
Ⅲ
花房 愛
新美一志氏の論考
「福祉教育の理論と実践と研究に関する一考察」を読んで
******************************************************************
〇新美一志氏の論考「福祉教育の理論と実践と研究に関する一考察 ―大橋謙策と阪野貢、原田正樹の言説をめぐって(素描)―」を読ませていただきました。日本の福祉教育学界における主要な論客である大橋謙策、阪野貢、原田正樹の3氏の言説を、その学術的系譜と相互関連性に着目して分析した、示唆に富む論考だと感じました。とりわけ、「素描」であることの限界はありますが、➀先行研究の引用と解釈、➁学術的系譜の提示、➂いくつかの問題提起、においてです。
感想と評価
〇本論考の強みは、単に個々の研究者の業績を羅列するのではなく、彼らの研究が「学術的な連続性」と「相乗効果」を生み出し、福祉教育学界を活性化させてきた過程を浮き彫りにしている点にあります。特に、阪野氏と原田氏を大橋理論の単なる継承者ではなく、「批判的・発展的継承者」と位置づけている視点は重要です。これは、学問の発展が、先行研究の踏襲だけでなく、時代状況や新たな課題意識に基づいて再構築されることで深化していく様を示しています。
〇また、福祉教育実践における「疑似体験」の危険性について、3氏が共通して警鐘を鳴らしている点をあえて付記しているのも、実践や実践研究に携わる者にとって重要な示唆を与えています。形骸化した活動が逆効果を生む可能性を明確に指摘することで、今後の福祉教育実践の質的向上に向けた問題提起を行っていると評価できます。なお、この点については、新美氏の別の論考「福祉教育における『当事者性』と『相互主体性』に関する一考察 ―松岡広路、阪野貢、鯨岡峻の言説をめぐって―」も参考になりました。
〇さらに、日本福祉教育・ボランティア学習学会の設立における3氏の役割に触れ、学会が果たすべきネットワーク機能やソーシャルアクション機能のさらなる強化を提言している点は、学術団体としての社会貢献のあり方を再考させるものと言えるでしょう。
問題点と課題
〇本論考の問題点(限界)は次のような点でしょうか。それらはひとつは「素描」に起因するとも思われます。
➀論考の副題「素描」の範囲と深度が不明確であり、それゆえに期待される詳細な分析や網羅的な考察が十分に行われないままに留まっていると思います。
➁3氏の言説を丁寧に紹介し、その共通点や学術的系譜を論じていますが、個々の言説に対する批判的な視点や具体的な課題提起がやや弱いと思います。
➂重要な視点や概念がいくつか提示されていますが、それぞれがどのような福祉教育実践や研究に結びつくのかについての踏み込んだ議論が少ないと思います。
➃「バッテリー型研究」や「協働研究」の重要性は理解できますが、それをより効果的に推進するための具体的な提言が不足しているように思います。
〇本論考で示された今後の福祉教育研究の課題は、非常に本質的かつ今日的なものです。
➀理論と実践の乖離克服と実践研究の深化: 理念が高尚すぎたり、概念が抽象的・情感的すぎたりすることで実践への落とし込みが難しいという課題は、これまで福祉教育分野で指摘されてきました。本論考で言及されている、大橋氏がいう「バッテリー型研究」や「協働研究」の推進は、この課題を克服し、実践の場で生きた理論を構築するための有効なアプローチとなるでしょう。また、実践研究の質的向上と評価方法の確立は、今後の研究の基盤となります。
➁多様なアクターとの連携とソーシャルアクション機能の強化: 福祉教育が単なる学習活動にとどまらず、社会変革の「思想的武器」となるためには、多様な主体との連携を深め、政策提言や権利擁護といったソーシャルアクション機能を強化していくことが不可欠です。具体的な連携モデルや、効果的なソーシャルアクションの戦略を構築していくことが求められます。
➂深遠な哲学性の探究: 大橋氏の「博愛」の精神や阪野氏の「まちづくりと市民福祉教育」、原田氏の「相互依存的自己実現」といった概念を通じて、福祉教育が単なる知識や技術の伝達に留まらず、地域変革(まちづくり)や社会全体の価値観の変革、人間のあり方を問い直す哲学的な営みであるという深遠な視点を提供しています。これは、福祉教育の意義を再認識させる上で非常に重要だと思います。
➃グローバル化とテクノロジーの進展への対応: 気候変動、貧困、紛争といったグローバルな社会課題や、AI、デジタル技術の進展は、従来の福祉のあり方や教育の枠組みを大きく変えつつあります。こうした中で、福祉教育が「学際性」「グローカル性」「変革性」「哲学性」といった視点を再認識し、どのように再構築・再創造されるべきか、具体的なロードマップを示すことが今後の重要な課題となります。特に、AI時代におけるデジタル技術を活用した新たな学習方法や、深刻で多様な課題が浮き彫りになっている新グローバル時代における異文化間理解を促進する福祉教育のあり方など、具体的な研究テーマが考えられます。
〇これらの課題は、日本の福祉教育が直面する本質的な問いであり、新美氏が提示した3氏の言説を手がかりに、今後の研究がさらに発展していくことを期待します。
Ⅳ
阪野 貢
辻 浩の「福祉と教育」による「地域づくり」を読む
―辻 浩著『現代教育福祉論』等のワンポイントメモ―
******************************************************************
〇筆者(阪野)の手もとに、辻浩(つじ・ゆたか)の本が7冊ある(しかない)。
(1)辻浩著『住民参加型福祉と生涯学習―福祉のまちづくりへの主体形成を求めて―』ミネルヴァ書房、2003年12月(以下[1])
(2)辻浩著『現代教育福祉論―子ども・若者の自立支援と地域づくり―』ミネルヴァ書房、2017年10月(以下[2])
(3)辻浩著『<共生と自治>の社会教育―教育福祉と地域づくりのポリフォニー』旬報社、2022年10月(以下[3])
(4)島田修一・辻浩編『自治体の自立と社会教育―住民と職員の学びが拓くもの―』ミネルヴァ書房、2008年8月
本書では、自治体の自立には住民と職員の「学び」が不可欠であるという考えのもとに、住民と職員の協働による地域づくりの実践を取り上げ、自治の主体に育っていく姿を明らかにする。
(5)上田幸夫・辻浩編著『現代の貧困と社会教育―地域に根ざす生涯学習―』国土社、2009年8月
本書では、「社会教育は社会問題教育である」(小川利夫)という考えのもとに、社会教育の本質を再認識し、今日の深刻な問題を解決するのに社会教育が有効であることを示す。
(6)辻浩・細山俊男・石井山竜平編『地方自治の未来をひらく社会教育』自治体研究社、2023年3月
本書では、優れた実践の創造と職員の働き方は循環しながら発展していかなければならないという考えのもとに、社会教育職員の取り組みを紹介し、そのための適切な社会教育労働(公務労働)のあり方を論究する。
(7)辻浩編『高度経済成長と社会教育』大空社出版、2024年1月
本書では、1950年代半ばから70年代初めにかけての高度経済成長期における社会教育の実践的・理論的課題をおさえながら、「地域社会教育実践史」を描く。
〇本稿では以上のうちから、辻の単著である3冊([1]から[3])を取り上げ、そこでの論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。例によってそれは、限定的で我田引水のものになることを断っておきたい。
(1)辻 浩著『住民参加型福祉と生涯学習』
〇[1]のテーマは、生涯学習の視点から、「福祉のまちづくりを住民の主体的な参加ですすめるための視点や方法を明らかにする」(1ページ)ことにある。そこで辻は、住民参加による福祉のまちづくりの課題として、①批判精神と創造的情熱を統合すること、②困難を抱えている住民の参加を考えること、③住民参加を社会構造や社会規範のなかでとらえ実践的に解決すること、の3点を指摘する(1~3ページ)。そして、「当事者主体」「学習の自由の尊重」「住民と社会教育職員の学び」に焦点を当てて社会教育・生涯学習の歴史と理論と実践を提示する。その際辻は、これらの課題とめざすべき方向性について、抽象化・体系化された一般論として提起することよりも、実践者にその「苦悩や喜び」(4ページ)を語らせる(実践者の文章を引用する)というスタイルを取る。そこから、実践者とその実践に対して真摯に・誠実に向き合う辻の熱い姿勢が見て取れる。
〇併せて辻は「福祉のまちづくり」は、社会参加や自己実現を含むノーマライゼーションをめざして展開される必要がある。また、無償のボランティア活動に加えて非営利活動・市民活動も含めて住民の連帯に依拠して進められる必要がある。それはまた、住民によるインフォーマルサービスと自治体によるフォーマルサービスの関連を視野に入れて議論する必要がある。さらに、「福祉と教育」の共同性の追求とそこから生まれるその公共性のあり方を考える必要がある、という。こうしたことなどから辻は、「福祉のまちづくり」、その中心課題である「福祉に関する住民の理解を深め、誰もが社会に参加し豊かな交流がもてる地域社会をつくること」(18ページ)を、「社会参加を軸とした主体形成をめざす生涯学習」の視点(24ページ)から考察することになる。
〇その際辻は、「福祉と教育」(「教育福祉」と「福祉教育」)の関連(連携)をその歴史と実践から問い、住民の生活実態や人権問題に注目しながら追究する(論を進める)。
今日、違いが尊重される「共生」文化の育成と「協同」による地域社会経済発展に基づく地域づくりが求められる
今日、経済のグローバル化のなかで、一般労働者や「周辺地域」における貧困が深刻になってきている。構造的な失業に典型的に現れる「社会的排除」を克服するためには、地域社会経済発展の戦略が必要であり、そのための協同活動が求められている。/社会教育と社会福祉の関連を考える際、まずは社会教育の場面に参加していない人への機会の提供と、そこでの学習の内容や方法が問題となるであろう。しかし注意しなければならないのは、学習を通して住民の同質化を強要する結果になることであり、違いが尊重される共生の文化を育むことが大切である。また、経済的要因による社会的排除の問題が深刻になっているなかにあって、協同による地域社会経済発展という戦略のもとで人権問題を考えることが必要になってきている。(43ページ)
福祉教育プログラムが開発されればされるほど、「行為の中の省察」を行える「反省的実践家」が強調されなければならない
福祉教育のプログラム開発は、たんなる便利な教材づくりではなく、それを活用する視点を同時に提案してきた。しかし、プログラムが魅力的であればあるほど、福祉教育の実践者がそれに頼ってしまうという傾向も見られる。その意味で、福祉教育プログラムの活用と福祉教育の実践場面での実践者の主体的判断をどう組み合わせるかが課題となる。/そこで注目されるのが、ドナルド・ショーン(Donald Alan Schön)が提起する「行為の中の省察」(reflection-in-action)や「反省的実践家」(reflective practitioner)という視点である。(190ページ)/福祉教育プログラムが開発されればされるほど、実践者は実践を通じて「状況との対話」や「自己との対話」を行い、(自分の行為や考え方を振り返り、その改善を図りながら成長していく:阪野)「反省的実践家」が求められる。(191ページ)
困難を抱えた住民が社会参加するためにはまず、人と人が語り合い受け止め合える地域社会をつくることが必要である
現代社会は困難を抱えた人たちが社会から孤立し、存在証明を喪失するという現実を生み出している。また、そのような現実を生み出す装置として「世間」が機能し、困難を抱える人たちの異議申し立てを許さない精神的な構造がつくられている。さらに、そのような「世間」に向かって異議申し立てをした場合には、自分とは別の困難を抱えた人を差別する結果に陥ることが多いということも重要である。これらの議論から見えてくる現代社会の課題は、困難を抱えた人々が自分たちで語りあい、受けとめあえる関係をつくり、その関係を地域社会が認め、そこから何かを学ぶことではないだろうか。(217ページ)/福祉教育が主催者の意図に反して差別意識の助長につながる可能性があることは時に指摘されるが、その歯止めをどのようにかけるは難しい。住民誰もが自分らしく生きることのできる地域をつくるためには、一足飛びに人権や共生という価値やそれを実現する方法を提起するのではなく、困難を抱えた住民がまずは親密圏をつくり、そこでの話し合いや活動を地域が認めていくことが、遠回りに見えて意外に近道なのではないだろうか。(218ページ)
大人が地域の福祉に参加しながら共同意志を形成し、子どもとの関係をつくる教育改革が求められる
障害をもつ人への差別意識や偏見をなくすためにはできるだけ早い時期に障害をもつ子どもともたない子どもが触れ合うことが大切だといわれ、「総合的な学習の時間」の導入にともなって、子どもへの福祉教育の機会が増えてきている。(222ページ)/今日の教育改革に関する中央教育審議会の議論は、子どもを学校教育、社会教育、家庭教育でどのようにしていくかに議論が偏り、大人の学習や成長が子どもの発達や地域の教育力を高めるという文脈はほとんど見られない。しかも、子どもへの期待の核心は、経済のグローバル化のなかでますます激しくなる競争にうち勝つ「たくましい日本人」である。(223ページ)/このように、子どもの意見を聞かず、社会の退廃への有効な手立てを示さないまま、一部の大人が特定の価値にもとづいて、未来の国民像を議論しているところに、今日の教育改革に関する議論の欠陥がある。/まずは大人が地域の福祉に参加しながら、地球的な課題を考え、他者の声を「聴く」ことをはじめれば、そのことをもって、子どもとの対話が生まれ、大人と子どもの共同の関係が築けるのではないだろうか。(224ページ)
(2)辻 浩著『現代教育福祉論』
〇[2]の課題は、「教育と福祉が連携して、すべての子ども・若者の豊かな人間発達を保障する道筋を明らかにすること」(ⅰページ)にある。その際、「子ども・若者の自立支援と地域づくり」というサブタイルが示すように、「困難をかかえた子ども・若者の自立支援の一環で、教育の機会均等を実現するための方策に思われがちな教育福祉から、人間発達にかかわる教育的価値と誰をも排除しない地域づくりにかかわる教育福祉にまで視野を広げて検討する」(ⅲページ)。そこで辻は、教育福祉を次のように定義する。「教育福祉とは、教育と福祉が連携して、子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす概念である。しかしそれは、静態的なものではなく、社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なものである。教育福祉は、困難をかかえる子どもにも等しく教育の機会を提供するためのものと見なされがちであるが、それだけではなく、教育全体のあり方を見直す視点であり、さらには、地域づくりの視点を提供するものでもある」(1ページ)。
〇そして辻は、この定義に基づいて教育福祉における4つの論点を提起する。①すべての子ども・若者にかかわる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題だけではなく、すべての子どもの幸せにつながる教育のあり方を全体的に検討することが必要である)。②「地域と教育」という視点からの教育福祉(教育福祉は学校内に限定されるものではなく、学校と地域が連携するなかで子ども・若者にかかわる多様な人々が共通に学ぶべきものであると考える必要がある)。③まちづくりにつながる教育福祉(教育福祉は困難をかかえた子ども・若者の課題解決のためにまちづくりと連動する必要があるが、それだけではなくまちづくりをすすめる契機としても考えることが必要である)。④社会教育・生涯学習の本質としての教育福祉(教育福祉は社会教育・生涯学習に内包されるが、その意義が大きくなるなかで教育改革と地域づくりに迫ることが必要である)、がそれである(4~9ページ)。こうした広く・新しい視野・枠組みのもとで辻は、これまでの教育福祉の歴史的・理論的な展開を丁寧かつ誠実に振り返り、そして今日的な課題に焦点を当てながら「現代」教育福祉論を展開する。
「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められる
教育福祉は便宜上、学校を中心に行われる「学校教育福祉」と地域を中心に行われる「地域教育福祉」に区分され、それぞれに個別領域の中で実践するタイプと領域横断的に実践するタイプがある。(34ページ)/「開かれた学校づくりにおける教育福祉」を追求する学校教育福祉と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」を追求する地域教育福祉は連携できることが多い。困難をかかえた子どもに対して社会的な制度や地域の力も活用して支援しようというスクールソーシャルワークと、住民やNPOが地域の現実を見つめ学習しながら子どもを支援する実践をつくってきていることが連携することで、今日の教育の全体を見直し、「学習権保障論としての教育福祉論」を大きく発展させることができる。/個別領域を重視した「学校・学級経営の中での教育福祉」や「成人教育の機会均等をめざす教育福祉」は課題が単純でわかりやすい。しかし、子ども・若者の生きづらさが問題となり、その解決が切実な社会の課題になっている中で、多機関連携重視の教育福祉論の発展がめざされている。すなわち、「開かれた学校づくりにおける教育福祉」と「生活と地域からの教育改革としての教育福祉」をつなぐ理論的探求が求められているのである。(36ページ)
社会福祉のなかには具体的に問題を解決する「教育福祉」よりも、意識改革で問題を乗り切る「福祉教育」を重視する発想がないとは言い切れない
小川利夫の教育福祉論は、「教育福祉と福祉教育の関連」について、一つに、福祉教育が現実の教育福祉問題から切り離されてはならないこと(現実は切り離されていることが多いことへの批判を含む)、二つに、教育福祉と関連する福祉教育は、国家権力が支持するものと困難をかかえた民衆が支持するもののせめぎ合いの中で展開されていることを指摘した。(51ページ)/今日では学校教育と並んで車の両輪のように見られることが多い社会教育であるが、歴史的には学校教育を刺激し改革するものとして社会教育が存在した。それは社会の民主化と関連することであるが、必ずしもそうでないこともあった(近代日本の感化救済事業や社会事業は、生活支援のための「物質的救済」には消極的で、「精神的救済」に重要な位置が与えられた:53ページ)。このことは社会福祉が教育福祉を軽視して福祉教育に力を入れることを警戒しなければならないという指摘につながる。具体的に問題を解決する教育福祉よりも、意識改革で問題を乗り切る福祉教育を重視する発想が、今日の日本の社会福祉の中にないとはいいきれない状況の中で忘れてはならないことである。(53ページ)
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている
今日、教育福祉は「教育運動」と「当事者主体」と「地域づくり」の交わりによって展開されるようになっている(図1:162ページ)。ここでは、一つに、教育運動を当事者が中心となって展開するようになってきていることが注目される(①の領域)。二つに、当事者が自らの権利を行使できるようになることを支援する地域での取り組みが見られることが注目される(②の領域)。三つに、ボランティア活動やNPOの力で、福祉のまちづくりとして子ども・若者の困難と教育にかかわる実践が展開されるようになってきていることが注目される(③の領域)。(そして)これらの根底に、自治の力による教育福祉のまちづくりがある(④の領域)。(161~163ページ)
図1 教育福祉をめぐる重層構造

教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりを進めることによって、真に自治的な地域づくりが可能になる
今日、高齢社会や生活困窮者の増加、過疎化、地域保全などに対応するために、政策として「行政と住民の協働(公私協働)」の必要が強く求められている。それは当初、財政的に厳しい中で地域課題を解決しなければならないという側面と、住民が自分たちのくらしを見つめかかわることの大切さという側面が融合したものであったが、今日、それに加えて、日本の国づくりの方向に積極的に協力する国民形成という色合いが強くなってきているように思われる。/このような福祉のまちづくりと「公私協働」の複雑な状況の中で、政策に振り回されない歯止めが求められている。そして<図1>のように、教育運動や当事者主体と結びついた地域づくりをすすめることは、一つの歯止めになると考えられる。切実な課題をもった人のことを念頭におき、その人たちの発達を中心に地域づくりをすすめれば、国づくりの方向性に疑問が生じることもあり、真に自治的な地域づくりが可能になる。(163ページ)
(3)辻 浩著『<共生と自治>の社会教育』
〇[3]の目的は、「すべての人が社会に参加して人間らしく生きることができる地域社会を、住民と職員(社会教育職員)の学びに依拠してつくるための実践的な課題を明らかにすること」(3ページ)にある。その際の視座は、「社会教育」をはじめ「共生」「自治」「教育福祉」「地域づくり」というキーワーで表される。辻はいう。「教育福祉と地域づくりの取り組みに含まれる学習を通して、人びとは<共生と自治>の力を身につけ、社会教育(「権利としての社会教育」)はそこで重要な役割を果たす」(5ページ)。「教育福祉」とは、「困難をかかえた人に対して、教育と福祉、すなわち豊かな人間発達の保障と生活基盤の安定をともに追求することである」(3ページ)。<共生と自治>は、「共生のために自治が必要であり、共生によって自治が高まる」(5ページ)という関係にある。こうした思考に基づいて辻は、<共生と自治>の視点から、戦後日本の社会教育論と社会教育実践を問題史的通史として跡づける。加えて、今日的な社会教育実践について、自らの理論的・実践的探究を丁寧かつ真摯に振り返りながら論究する(6ページ)。
「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められる
戦後日本の学習と教育の権利保障の動き(自己教育と条件整備を求める動き:阪野)は、1950年代後半から、その運動にかかわる住民と職員、研究者の間で「権利としての社会教育」と呼ばれるようになった。/「権利としての社会教育」は近代社会の中で確立した自由権と社会権を求めるものだったが、1970年代にユネスコで(自由権と社会権に続く:阪野)第三世代の人権(連帯の権利)が議論され、80年代に入って日本の社会教育でもそれに依拠した議論がはじまる。競争に苛(さいな)まれて人と人とがつながれなくなる一方で、障害のある人たちの社会参加が唱えられ、新たに定住する外国人が増えてくる中で、「連帯の権利」は社会教育を考える新しい視点となった。/しかし今日の状況を見ると、施設の貸し出しや講師の選定、展示内容、配架図書などをめぐって自由が侵害される事案が生じ、争いが起きないようにあらかじめ自己規制することも多くなっているように思われる。また、所得格差が他の要因とも絡(から)んで意欲格差にまで及んでいる中で、等しく教育機会を保障するとはどういうことかが問われている。したがって、社会教育研究は自由権と社会権の追求をないがしろにするわけにはいかない。「権利としての社会教育」では「学習の自由」と「教育の機会均等」と「人びとのつながり」を追求することが求められている。(30~31ページ)
住民参加による福祉のまちづくりはその実践が住民の統制や動員に転じないかを見極めることが重要である
福祉のまちづくりは、困難をかかえた人が地域とかかわりながら自己実現をめざすノーマライゼーションの理念にかなうものであるが、一方で、高齢化によって福祉予算の増額が必要であるにもかかわらず、財政構造を抜本的に改革できないことから、「自助」と「共助」で乗り切ろうとする側面がある。また、「地域包括ケアシステム」をつくるには住民への説明が必要であるが、はじめから政策的にゴールが設定され、そこに辿(たど)り着くことが求められる学習は主体的な学習ということはできない。福祉のまちづくりをめぐって、地域課題を学び実践することでかかわった人びとの人格や能力が豊かに形成されるのか、それとも地域課題への動員的な参加が恒常化し義務的な雰囲気にすらなっていくのか、それを見極めることが重要である。(73ページ)
「学習の自由」「教育の機会均等」の実現と「関係形成」「相互承認」を結びつけた社会教育論の展開が求められる
今日、多様な価値観を認めあってともに生きることができる社会をめざすことが求められ、仲間とともに主体的に課題に取り組むことも大切なことと考えられている。このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」への関心をもたず、(障害のある人とない人、高齢の人と若い人というように、立場の違う人が交流し、共感することができる:142ページ)「関係形成」や「相互承認」のみに注目する社会教育の考え方もある。(81ページ)/このような中で、「学習の自由」や「教育の機会均等」という課題を捨象して「関係形成」や「相互承認」を追求する社会教育論は、一つに、今日起きている問題に目を閉ざしている点で、二つに、課題は残っているとはいえ今日の状況をつくってきた歴史的な努力に思いを馳(は)せない点で、三つに、これまで関係形成や相互承認ができなかったことが個人の責任にされてしまう点で、気づかないうちに今日的な新しい権力的統制に追随することにならないだろか。「学習の自由」と「教育の機会均等」を今日的な状況の中で実現することと「関係形成」「相互承認」を結びつけた自己教育運動に注目した社会教育論が求められる。(82ページ)
地域・自治体づくりには、学習をはじめ、住民のエネルギーとネットワーク、住民と職員の協働、一般住民の理解と合意などを生み出す仕組みや仕掛けが必要である
(「住民主体」で地域・自治体づくりをすすめる)長野県阿智村では、さまざまな課題をもつ住民が学習を通して共通認識をつくり、そこで出てきた課題を自治体職員もともに考える仕組みがある。地区の計画づくりや広報説明会、村の予算概要の配布を通して、住民が地域課題を自覚して、それを職員とともに考えることができ、公民館や社会教育研究集会で取り上げられることで、その課題を全村的に共有し、解決に取り組もうとする住民の出会いが生まれる。そして、具体的な活動は村づくり委員会や地域自治組織で取り組まれ、協働活動推進課がそれを後押しして、議会は政策をつくる。このようなことを通して、課題に取り組む住民のエネルギーが蓄積され、職員も住民とともに活動する意識をもち、そのことが労働組合で交流されている。(193~194ページ)/ここで注目すべきことは、このような学習と計画策定と情報発信を通して、地域の中で多くの住民から理解を得て合意をつくっていくということである。また、活動にかかわる住民のネットワークが形成され、そのことで当初の目的を達成した後も新しい展開があることも注目される。(194ページ)
アクション・リーチでは➀実践の流れを阻害しない、②実践者の執筆を支援する、③研究を受け止めてもらえる基盤をつくることが重要となる。
社会教育を研究する者の多くが、研究と実践のかかわりを求めて、フィールドをもって研究に取り組み、その方法論(アクション・リサーチ)をめぐる議論もなされている。(157ページ)/実践にかかわる研究者は、細かい事情を理解して鮮明な課題を提起するようになっていく実践者に対して、「負い目」を感じることもある。(161ページ)/実践の根幹にせまるアクション・リサーチのためには、(現在の取り組みだけに注目するのではなく)その実践が生まれる歴史的背景や社会的文脈を知らなければならないし、実践をつぶさに把握している実践者に学ばなければならない。(162、163ページ)/(研究者が実践者とアクション・リサーチを進めるためには、次のようなことが必要かつ重要となる:阪野)第一に、実践をリードする気持ちを抑えて、実践の流れを阻害しないようにするということである。研究者が実践の流れの中に身を置き、求められることに何とか応えていく中で、その先駆性や意義を察知して、それを住民や職員に伝えていくことは、研究者の認識の変容をともなう研究につながると考えられる。(210、211ページ)第二に、実践者が研究者に先立って論稿を書き、場合によっては実践者が執筆できる機会をつくったり、執筆を支援したりすることが大切であるということである。優れた実践を展開しそこに研究者を巻き込むのは力量の高い実践者であり、実践の経緯やその中で感じ取ったことを発信する力ももっている。実践をつぶさに知っている実践者や住民が先に執筆してこそ、研究者が書くべきことが見えてくる。(211ページ)第三に、アクション・リサーチを受け止めてもらえる基盤をつくりながら研究をすすめることが必要であるということである。研究の成果は本来、直接的であれ、間接的であれ、新しい政策の立案や優れた実践の広がりに貢献するものでなければならない。(そのためには)自分の研究を受け止めてもらえる状況を意識的につくることが必要になってきている。(212ページ)
〇以上の限定的なメモからではあるが、辻の言説は「生涯学習と社会教育と教育福祉」「社会教育と地域福祉と地域づくり」「学校教育と社会教育と地域づくり」「共生と自治と社会教育」「歴史と理論と実践」「研究者と実践者と住民」などの視点や枠組みのもとに、また「歴史研究と社会調査とアクション・リサーチ」の手法を用いた多面的・多角的な思考によって展開される、と言えよう。そこに通底するのは、「子ども・若者あるいは成人が安定した生活基盤のもとで豊かな人間発達を実現することをめざす」([2]1ページ)地域づくりについての熱い思いと真摯な姿勢である。
〇また、[1]から[3]を時系列に沿って見ると、辻の「生涯学習論」やそのひとつの側面である「地域づくり教育論」や「教育福祉論」の形成過程、すなわち社会教育や生涯学習の実践や研究の抽象化・体系化の方法と過程がわかる。それは、戦後日本の社会教育研究や生涯学習研究の到達点(成果)でもあり、次の新たな実践や研究への展望を開くものであると言えよう。辻は、研究者の立ち位置や方法について、地域住民や現場職員の「学習」による認識や行動を重視し、その「歴史と実践のなかから苦悩と喜びをともなって立ちのぼってくるような記述をめざしている」([14ページ])とする。強く意識したい。
〇辻の言説の特徴のひとつは、批判的精神と創造的情熱の統合と、困難を抱える住民の社会参加の重視(「当事者主体」)の姿勢にある。そしてその言説は、「社会構造の中で生み出される問題を見据え、制度・政策を求め、実践を展開する動態的なもの」([2]1ページ)である。そこでは、当事者が中心となって展開する「教育運動」が重視される。しかも辻は、「学習権保障としての教育福祉」 を主軸(前提)に、教育全体のあり方を見直す教育改革の視点とともに、主体的・自律的な住民(子ども・若者や成人)による「地域づくり」に視座を置いて「論」を展開する。例によって唐突ではあるが、これらは「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に課せられたものでもある。強く再認識したい。
追記
辻浩先生の「現代教育福祉論」理解を福祉教育の視点・視座から広げ深めるために、原田正樹先生の「福祉と教育の接近性」についての論稿を紹介しておきたい。『ふくしと教育』通巻34号、大学図書出版、2023年2月、2~3ページに収録されている。転載をご許可いただいた原田正樹先生に感謝申し上げます。


【一言】
―「まちづくりと市民福祉教育」の視点から―
******************************************************************
〇「まちづくり」において「哲学性」は不可欠な要素である。「まちづくり」は、単なるインフラ整備や制度設計のみを指すのではなく、また短期的な開発事業を意味するのではない。それは、地域に生きる多様な主体が、互いの「他者性」を認め合い、「対話」を通じて「私は私」という閉鎖性から「私は私たち」(鯨岡峻)という開放的な関係性を編み直すプロセスをいう。
〇このような「哲学性」を欠いた「まちづくり」は、「市民福祉教育」を単なる「課題解決の手段」や「合意形成の技法」に矮小化してしまう危険を孕(はら)む。「市民福祉教育」は、人間がどのように他者と関わり、「市民」としてどのような「まち」を創り、どのような「社会生活」を営むのかという根源的な問いを地域のなかで共有する場である。この問いを育て続けることが、短期的成果に左右されない、長期的で持続可能な「まちづくり」を可能にする。
「言説」考
福祉教育と教育福祉とまちづくり
発 行:2025年12月25日
著 者:阪野 貢
発行者:田村禎章、三ツ石行宏
発行所:市民福祉教育研究所