「老爺心お節介情報」第83号
地域福祉研究者の皆様
社会福祉協議会関係者の皆様
天候が安定しない日々ですが、皆様にはお変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第83号を送ります。ご笑覧下さい。
2026年3月28日 大橋 謙策
〇いよいよ年度末。皆さんは、年度末の事業報告作成でお忙しいことでしょう。他方、人事異動の情報も寄せられてきて、長年頑張ってきた行政の職員、社会福祉協議会の職員で退職される人、新たな職場に異動される人、まさに「人生いろいろ」ですね。
〇長年勤務され、この3月末で退職される方本当にご苦労様でした。一人一人名前を挙げることはしませんが、日本の地域福祉推進、社会福祉協議会活動強化のためにご尽力されましたことに心より感謝とお礼を、この紙上を借りて申し上げます。本当にありがとうございました。
〇私の方は、そんな世界からは縁遠い生活を楽しんでいます。
〇我が家の庭には朱海棠、ミツバツツジ、スズラン水仙、レンギョウが咲いています。冬野菜を作った猫の額ほどの畑を掘り返し、石灰と肥料を撒き、夏野菜の準備をしました。小さな畑での作業ですが、歳を感ずる畑仕事でした。
〇今号では、「そのときの出逢いが」➆を送ります。筆者の1990年代後半の出逢いと実践・研究の素描です。
(2026年3月28日記)
「そのときの出逢いが」―私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』➆
Ⅰ 1990年代後半―日本地域福祉研究所及び日本福祉教育・ボランティア学習学会創設
〇1990年代後半は、年齢的にも50歳代前半で、自分で言うのもおかしいが、今振り返ってみても、私の人生の中で最も充実した教育・研究ができていた時期である。
〇この時期は、➀日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催、②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催、③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設、④東京都及び文部省、厚生省の各種委員会での政策形成への関与、⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化、⑥地域福祉実践及び研究成果の出版化、⑦イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究、を挙げることができる。
①日本地域福祉研究所の創設と全国地域福祉実践研究セミナーの開催
〇日本地域福祉研究所は、1994年の12月23日に設立された。
〇1989年に日本社会事業大学大学院修士課程が設置され、私も地域福祉の授業を担当することになった。当初は、研究指導の教員としては認められてなかったが、実質的には地域福祉の授業は講義とともにゼミの機能を有していた。その第2期生に渡邊洋一さん(後に淑徳大学、青森県立保健福祉大学教授)、上地武昭さん(後の沖縄大学教授)や青山登志夫さん(後に静岡英和大学、静岡福祉大学教授)が学びに来ていた。
〇彼らが終了する際に、現役の院生と大学院修了者の継続教育の組織として「はしの会」を立ち上げた。他方、全社協の「地域福祉活動指導員」の養成課程で知り合った現場の社会福祉協議会職員の継続教育の機会を作りたいということで、「日本地域福祉研究所」が設立された。設立に際しては、青山登志夫さんが尽力してくれた。事務所は、新宿区本塩町においた。それは、筆者が1970年の東京都教育庁の市民が作る社会教育講座の受講生で、後に板橋区区議会の議長を務める手嶋喜美子さんの紹介で、東洋堂企画出版の尾関とよ子社長と知り合い、そのビルに空き部屋があるということで、口利きしてくれて、事務所を構えることになった。事務所開設に当たっては、尾関社長になにかとお世話になった。
〇その後、後述するように、東洋堂企画出版社(後に社名変更での万葉舎)からは、日本地域福祉研究所関係の本を多数出版させて頂いた。
〇日本地域福祉研究所の設立の経緯は、2014年12月に刊行された『日本地域福祉研究所20年の軌跡』に詳しいので参照頂きたい。
〇日本地域福祉研究所の運営に当たっては、鷹野吉章さん、染野享子さん、阿部晴美さん、高橋信幸さんらの事務局長によって支えられ、かつ在学中の日本社会事業大学の院生、宮城孝先生のゼミ生である法政大学大学院の院生が、運営に協力してくれた。運営の責任を持つ理事には、日本社会事業大学の大学院を修了した教え子たちが担ってくれた。設立当初には、三浦文夫先生、右田紀久恵先生、後には永田幹夫先生、上野谷加代子先生、牧里毎治先生等地域福祉研究の第一人者の方々に顧問にご就任頂いた。
〇私の“思い”としては、全社協とは別に、地域福祉関係者の拠り所になればという“思い”もあり、日本地域福祉研究所として事務所とは別にワンフロアーを借りて、地域福祉関係者の「福祉サロン」づくりも試みた。残念ながら、この「福祉サロン」は必ずしも成功したとは言えなかった。
〇日本地域福祉研究所は、1995年に島根県瑞穂町で第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催した。
〇島根県瑞穂町は、1980年代から福祉教育に熱心に取り組んでいる社会福祉協議会で、その事務局長をされていた日高政恵さんから、1995年5月に瑞穂町で開催された「ふるさと山野草を食べる会」(?)の催しの際に招聘され、その折に第一回の「地域福祉実践研究セミナー」を開催してもらえないかとお願いをした。瑞穂町には、大人数が泊まれる宿泊施設がないので、ゴルフ場のゲストハウスやスキー客用の民宿等に分散宿泊してセミナーが行われた。参加者は約100名で、フィールドにも入って行われた。瑞穂町には天然記念物の「オオサンショウウオ」が生息していて、それを始めて見させていただいた。
〇「地域福祉実践研究セミナー」は、筆者が「関係人口」の一人として、あるいは「バッテリー型」実践・研究のフィールドとして関わってきた市町村、市町村社会福祉協議会を舞台に全国各地で開催されてきた。2023年に佐賀県で行われた第28回「地域福祉実践研究セミナー」をもって終了した。
〇この「地域福祉実践研究セミナー」は日本地域福祉学会の理念でもある「研究と実践の循環」を文字通り実現できたセミナーだったと自負している。
②韓国との学術交流と韓国地域福祉研究セミナーの開催
〇日本社会事業大学の社会福祉学部、大学院に1980年代末から韓国からの留学生が多く学びに来ていた。しかしながら、私はどうしても韓国を訪問することができなかった。戦前の日本が韓国を併合し、住民の『創氏改正』を強要するという人権蹂躙の行為への贖罪感があり、訪問をすることができなかった。1995年に当時の村山富一郎首相が“謝罪談話”を発出してくれたことで韓国を訪問したいと考えた。
〇韓国からの留学生、とりわけ金玄勲さん、崔太子さん、趙晤衍さん等の多大な尽力により、第1回の韓国地域福祉研究セミナー(日韓社会福祉学術交流会)を1997年にソウル市で開催できた。その際に、韓国でいち早く日本の地域福祉に関心を寄せてくれた大邱大学の朴先生や当時、ソウルの在宅老人福祉サービス協会の会長をしていた超南畝さん等が協力、支援してくれた。
〇韓国地域福祉研究セミナーは、その後釜山市で、釜山大学の愼燮重先生の協力を得ておこなわれた。光州市では光州大学の李英哲先生の協力があった。結果的に、韓国で5回の地域福祉研究セミナーを開催できた。第5回目のソウル市でのセミナーには当時、ソウル市の市長だった李明博市長(後の韓国大統領)が出席してくれ、挨拶を頂戴できた。
〇韓国との学術交流は、韓国が日本の介護保険制度と同じような長期療養保険制度を創設するということで、韓国の保健福祉部(日本の厚生労働省)の高官たちが日本社会事業大学を拠点して学びに来ることでより深まった。韓国保健福祉部の高官で後に部長(日本の厚生労働大臣)をされた車奉文先生や保健福祉部の局長をされた朴寿天先生や張炳元先生等が日本社会事業大学のゲストハウスを利用しながら、日本の介護保険の状況を厚生省の高官との交流だけでなく、岩手県遠野市や長野県茅野市等まで足を延ばし、調査研究をされた。
〇このような縁で、筆者は韓国の社会福祉系大学の研究者との交流が深まり、結果として梨花女子大学、ソウル大学、延世大学、釜山大学などで講演する機会が与えられた。
〇少し時期は後になるが、筆者が日本社会福祉学会の会長の時の2002年に、梨花女子大学教授で韓国社会福祉学会会長の金聖二先生と日韓学術交流協定を結ぶことができた。
〇その金聖二先生が韓国社会福祉協議会の会長をされていた2025年8月に金聖二先生から「感謝碑」を贈呈された(感謝碑の銘文は「大橋謙策様におかれましては、長きにわたり高貴な人類愛と福祉の心をもって国際社会福祉の発展に多大なる貢献をされました。特に、1997年より韓国における地域福祉の持続的な発展と日韓間の民間社会福祉交流のために物質的な面と精神的な面にわたりご尽力を、受け賜りました。これまでのご苦労に感謝申し上げ、そのご功績を記憶にとどめるべく私たちの感謝の気持ちをこの盾に込めて贈呈いたします」)。
〇韓国との交流は、日本社会福祉学会のみならず、日本地域福祉学会も学術交流協定を結び、毎年お互いの学会の大会に招聘しあって交流を進めている。
〇韓国との学術交流の礎を切り開いた一人が、釜山大学の愼燮重先生で、釜山大学の在外研究で日本社会事業大学の客員研究員をし、1990年代度々日本に来られ、釜山大学退職後は広島国際大学など日本の大学でも教鞭をとられた。愼燮重先生の釜山大学の教え子たちも何人か日本社会事業大学大学院に留学し、日韓の学術交流を強めてくれた。
③日本福祉教育・ボランティア学習学会の創設
〇日本福祉教育・ボランティア学習学会は、1995年10月29日に設立された。その設立の詳細は、原田正樹著「日本福祉教育・ボランティア学会の20年の軌跡と基軸」(『福祉教育・ボランティア学習の新機軸』大学図書出版、2014年)や阪野貢先生のブログ等に収録されている阪野貢論文に詳しいので参照して頂きたい。
〇筆者が、この学会を設立したいと思った背景は4点ある。
〇第1は、イギリスのぺドレイが書いて、日本福祉大学の山口幸男先生(東大教育学部の宮原研究室の先輩で、家庭裁判所調査官の経歴)が翻訳された『socio-education』を1970年代から原著も、翻訳版も含めて読んできて、温めてきた「教育と社会福祉」の学際研究のあり方がある。
〇第2には、全社協が福祉教育の推進を全国の市町村社会福祉協議会で推進してくれていて、その実践の理論化、体系化を図りたいと考えたことである。とりわけ、福祉教育の原理、哲学について体系化が必要だと思った。
〇第3には、イギリスのアリック・ディクソン先生(先生には、日本社会事業大学で講演もして頂いたし、イギリスのご自宅にも訪問させて頂いた。国連では「ボランティアの父」と呼称している)が1962年からコミュニティ・サービス・ボランティア活動を進めており、日本でも日本青年奉仕協会がアリック・ディクソンさんと交流していた。
〇これらの活動の背景には、イギリスで1963年に出された中央教育審議会報告書「Half Our Future」がある。その報告書は、イギリスの青少年の半数は発達に歪みがあり、これを改善するのには多様な社会体験としてのコミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要であるという提言である。筆者は、この「Half Our Future」を東大大学院の宮原先生のゼミで読まされていた。
〇日本でも、コミュニティ・サービス・ボランティア活動が必要で、全社協の福祉教育の範疇だけでは括れないと考えて「日本福祉教育・ボランティア学習学会」となった。
〇第4には、高校福祉科が設立され、高校生向けの専門職養成の取組が始まったが、筆者は高校福祉科にはそれだけでなく、人格形成上の役割もあるし、“リベラルアーツ”的普通高校崇拝の高校教育にあって、実学的産業教育の必要性とそれを踏まえた青年期の人格形成のことを広く研究、実践してもらいたいと考えたからである(この点は、拙著「高校における福祉教育の位置と高校福祉科」、『福祉科指導法入門』2002年、中央法規所収参照)。
〇日本福祉教育・ボランティア学習学会の運営のあり方については、学会員による3年間の共同研究システムとして「課題別研究」という仕組みをつくった。
〇これは、日本社会教育学会が学会創設時から行っていた仕組みで、学会理事会で論議しテーマを決め、担当理事が責任者として研究チームを作り、毎年学会の大会で研究成果を発表し、その集大成を本として刊行するという仕組みである。この考え方を日本福祉教育・ボランティア学習学会にも導入し、若手の会員も、地方在住の会員も参加しやすい研究環境を創ろうと考えた。私自身、日本社会教育学会でおこなわれたこの仕組みを活用して多くの論文を書けたし、本の編集実務などを学ぶことができた。
〇1999年10月に筆者は日本社会福祉学会の会長に選出された。社会福祉学界の学会数がいまだ少なかった時代だったので、全社協の和田敏明さんに相談したら、日本福祉教育・ボランティア学習学会の会長は辞任して副会長で学会を支えたらどうかと言われ、1999年11月の理事会選挙でトップ当選したが会長は辞退し、明治学院大学の山崎美貴子先生に会長に就任して頂いた。
④東京都及び文部省、厚生省の各種委員の任命と政策形成への関与
(イ)東京都
〇1980年代から東京都児童福祉審議会委員、専門部会長(1981年~1994年)や東京都社会福祉審議会委員(1990年~2006年)を務めてきていたが、1990年代後半は、より多面的に東京都の各種審議会、委員会に任命され、政策形成に関与することになった。
〇その一つ一つの委員会の詳細を述べられないが、3つほどエピソードを書いておきたい。
〇第1には、「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」において、障害者向け、高齢者向けの集合住宅を造るならば、期間限定でいいので、少なくとも5年間、新しく造る集合住宅に、コミュニティソーシャルワーカーを配置して欲しいと当時の青島知事に要望した。
〇新しい集合住宅に「コミュニティ」を形成しない限り、障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動を展開するのは難しい。外からボランティアを派遣するのではなく、集合住宅の「コミュニティ」としての自治会の組織化と障害者や高齢者の日常的支援のボランティア活動の組織化をコミュニティソーシャルワーカーが担えるのではないかと考えての提案であった。これは、オランダへ調査研究に行った際に頂いたヒントであった。
〇第2には、「東京都障害者施策推進協議会専門委員」の際の経験である。都内で広く当事者団体活動を展開している9の障害者団体からのヒヤリングをした時である。夕方から始まった推進協議会は何と夜11時近くまでかかった。各団体ともノーマライゼーションの具現化を強く求めた発言をしていながら、障害者センターは各障害者団体ごとに、かつ区内と三多摩に一つづつ欲しいという要望であった。
〇私がノーマライゼーションと言っているのだから、区内と三多摩にひとつづつ作り、相互交流のセンターにしたらどうかと発言したら、明治学院大学を卒業した青い芝の会(脳性マヒの障害当事者の会)会員の人が、“大橋謙策さんが育てるソーシャルワーカーに自分の世話はしてもらいたくないと”怒って発言したのが忘れられない。
〇第3には、「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」の時に、モデル的に望ましいケアプランを作成する事業を都内のいくつかの自治体にお願いすることになった。委員長として、そのプランは3つ作って欲しいと要望し、委員会で受け入れられた。
〇(ⅰ)予想される介護保険制度のサービスを使っての望ましいケアプラン、(ⅱ)その自治体が既に有しているサービス及び新しくできる介護保険サービスを最大限生かしたケアプラン、(ⅲ)今後あったらいいなと思えるサービスも含めて、住民の生活支援上望ましいケアプランの3通りのケアプランを作るモデル事業をして頂いた。
〇というのも、介護保険制度で予定されているサービスの中から、かつ要支援者の介護度の利用額の範囲内でのケアプランは本来のケアマネジメントではないと認識して欲しかったからである。案の定、(ⅰ)のプランが他に比べて“貧弱なプラン”になっていた。
〇筆者は、デンマーク、スウエーデンでケアマネジメントの考え方、それが展開できるシステムを学んでいたので、日本の介護保険制度での介護支援専門員のケアプランは「介護保険のサービスマネジメント」であり、「介護保険内でのコストマネジメント」であって、それは本来のケアマネジメントとは違うということを認識して欲しかったからである。この委員会に、東京都医師会の代表として野中猛先生(後に、日本福祉大学教授)も参加していて、ケアマネジメントの考え方で意気投合したのが懐かしい。
〇東京都関係で関わった各種委員会は、以下の通りである。
・「東京都21世紀行財政あり方検討委員会委員」(1995年~97年)
・「東京都地域福祉財団評議員」(1995年~2002年)
・「東京都障害者施策推進協議会専門委員」(1995年~2002年)
・「都から区市町村への分権化のあり方検討委員会委員」(1996年~1997 年)
・「東京都生涯学習審議会委員、会長」(1996年~2009年)
・「東京都高齢者事業振興財団理事」(1997年~2001年)
・「東京都都民のための都政改革を考える会委員」(1997年~1998年)
・「東京都福祉施策研究会委員長」(1997年~1998年)
・「東京都介護保険事業支援計画作成委員会委員長」(1998年~2000年)
・「東京都社会教育委員の会議会長」(2002年~2006年)
(ロ)文部省
〇文部省関係は、3つの分野からの関わりである。その第一は、1980年代末の「高校福祉科」創設の時からの関り、それとの関係で学習指導要領の改訂作業や教育助成局での教育職員資格試験の委員も担当した。
〇もう一つは、日本社会事業学校連盟の業務との関係で、大学設置・学校法人審議会専門委員を務めたことである。
〇エピソードとしては、高校福祉科は産業教育の領域に位置づけられているので、日本の産業教育100周年の際に、時の有馬朗人文部大臣(元東大総長、理化学研究所理事長)と対談したことである。人間の形成・発達には普通教育高校に見られる「演繹型の生徒」と職業高校の生徒のように体験して学ぶという「帰納型の生徒」がおり、どちらが一方的にいいということではないということで意気投合したことが思い出にある。
〇もう一つは、1989年に厚生省から出された「高齢者保健福祉10か年計画」(ゴールドプラン)に基づき、介護人材の養成が社会的に喫緊の課題になった。それを受けて、社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。文部省は、大学の新設を規制していたのが、社会福祉は看護とともに例外扱いになった。
〇筆者が、日本社会事業学校連盟の事務局をしていた1980年代末は36校だったのが、あれよあれよと社会福祉系大学の設置認可申請が相次いだ。当時の雨宮高等教育局長に、このように認めていいのだろうかと苦言を呈したことがある。社会福祉教育は実習を伴う実学的なところがあり、マスプロ教育には馴染まない。社会福祉士と介護福祉士の国家試験に受かればいいというものではなく、例外扱いを見直すべきだと申し入れしたことがある。
〇筆者は、大学設置・学校法人審議会専門委員として、教員審査やカリキュラム審査などで多くの社会福祉系大学の審査で関わることになった。
〇3つ目の関わりは、21世紀医学・医療懇談会で、当時の医学界の第一人者が綺羅星の如く並んでいる懇談会で、臓器別に専門分化してきた診療科目では限界で、総合診療内科を創る必要性や、介護、福祉との連携が欠かせなくなってきているInter Professional Educationの必要性が論議され、報告書の中に介護・福祉教育の連携の必要性が書き込まれた(「21世紀に向けた介護関係人材育成の在り方について」1997年2月、21世紀医学・医療懇談会第2次報告参照)。
〇文部省関係の各種委員は以下の通りである。
・「文部省大学設置・学校法人審議会専門委員」(1994年~1999年)
・「文部省21世紀医学・医療懇談会教育部会協力者」(1996年~1997年)
・「文部省幼稚園・小学校・中学校・高等学校・盲学校・聾学校及び養護学校の学習指導要領等の改善に関する調査研究協力者」(1998年~1999年)
・「文部省教育助成局高等学校教員資格認定試験委員・専門委員」(2000年~2003年)
・「文部省教育職員養成審議会臨時委員」(2000年~2001年)
〇この他、文部省が発刊している雑誌「産業教育」(1988年、No453)や「大学と学生」(1997年、第387号)に寄稿を求められ執筆もしている。
(ハ)厚生省
〇厚生省との関りは、日本社会事業大学の清瀬移転の業務を担当したので、その折に本当にいろいろな方にお世話になった。
〇また、前述したように1990年の「生活支援事業研究会」の座長も務めさせていただいた。
〇それ以外での厚生省との関りは、2000年以降も含めて以下の通りである。その関わりは主に3つある。
〇第1には、厚生省医政局関係の仕事である。この関わりは、筆者が1990年に東京都目黒区の老人保健福祉計画を拡大して、地域福祉計画として策定する際に社会福祉と地域保健との有機化、統合化を行ったことが反映されているのではないかと推測している。
〇第2には、2001年に導入されたICF(国際生活機能分類)の関りである。
〇第3には、今日の「地域共生社会政策」の前史ともいえる2008年の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」(座長大橋謙策)で、「地域における新たな「支え合い」を求めて―住民と行政の協働による新たな福祉」を出したことである。
・「厚生省地域保健基本問題検討会委員」(1994年)
・「厚生省公衆衛生審議会専門委員」(1994年~1996年)
・「厚生省保健医療福祉地域総合調査研究企画委員」(1994年~1997年)
・「厚生省必要病床等に関する検討会委員」(1997年~1998年)
・「厚生省大臣官房障害保健福祉部福祉用具給付制度等検討会委員」(1998年~1999年)
・「厚生労働省社会・援護局国際障害者分類の仮訳作成のための検討委員会」(2001年~2002年)
・「厚生労働省厚生科学研究費選考委員」(2003年~2005年)
・「厚生労働省社会保障審議会統計分科会生活機能分類専門委員会委員」(2006年)
・「厚生労働省これからの地域福祉のあり方に関する研究会座長」(2007年~2008年)
・「国立保健医療科学院評価委員会委員長代理」(2013年~2017年)
〇エピソードとしては、ICF(国際生活機能分類)の仮訳作業する部会で、ICFの日本語訳を「国際生活機能障害分類」とすべきだと、作業部会長として提案した。その際、オブザーバーで参加していた東京大学名誉教授で、リハビテーション医学の見地からWHOと関わり、ICFの必要性を厚生労働省はじめ関係機関に働き掛けてきた上田敏先生が、その用語がいいと言ってくれた。
〇しかしながら、その用語を日本医師会代表が頑として受け入れず、結果として「国際生活機能分類」に落ち着いた。今でも、筆者は、生活上の機能障害の方が今日的状況を反映していると思っている。
〇もう一つは、「必要病床等に関する検討会」において、医療・保健・福祉の連携、協働、有機化をする包括支援を考えるならば、医療計画の中に社会福祉のことをもっと盛り込むことが必要だし、医療圏と社会福祉サービス圏とが大きく乖離している状況を改善しないと、言葉だけ医療、介護、保健、福祉の連携といってもうまくいかないと強く要望したが、受け入れられず、医療計画のその他の事項にそれらを盛り込むことで決着させられた。
⑤コミュニティソーシャルワーク実践・研究の体系化
〇1982年にイギリスで出された「バークレイ報告」でコミュニティソーシャルワークという考え方が打ち出された。それは、行政と住民の協働による地域自立生活支援を考える理念であり、システムであった。
〇「バークレイ報告」については前述しているので、ここではコミュニティソーシャルワークの理念の日本への導入について述べておきたい。
〇日本の公式文書でコミュニティソーシャルワークという用語が正式に使用されたのは、1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告ではないかと思う。
〇それまで、地域づくりに関する方法論として、アメリカのコミュニティオーガニゼーション、イギリスのコミュニティワークという用語を使用していたが、生活のしづらさを抱えている人の地域での自立生活を支援していくためには、従来のコミュニティオーガニゼーションやコミュニティワークでは不十分である。
〇生活のしづらさを抱えている人への個別支援と同時に、その人を地域から排除することなく、その人の地域生活を支え、包含できる地域づくりとを統合的に展開する活動が必要であり、その方法論がコミュニティソーシャルワークである。
〇1990年の「生活支援事業研究会」の中間報告でその必要性が打ち出され、1991年から大型補助金の「ふれあいのまちづくり事業」が展開されたが、その活動成果は「生活支援事業研究会」の中間報告で述べたような考え方が展開できたとは筆者には思えなかった。そのことについては先述した通りである。
〇コミュニティソーシャルワーク機能の理念はいいが、その具現化は日本でも無理なのであろうかと考えている矢先に、岩手県湯田町(現西和賀町)の社会福祉協議会でヘルパーとして働いている菊地多美子さんの実践を知ることができた。
〇筆者は、1970年代から、「自分たちで生命を守った村」の実践で有名な岩手県沢内村に出入りし、太田祖電村長や深沢昌子事務局長、高橋典成さんらと交流してきた。1990年には、沢内村の地域福祉活動計画づくりを行い、「コーリム(CO―LYM)大学」を創設し、住民参画の村づくりを目指した。子どもと高齢者を女性、青年、壮年男子が支える村づくりを目指した。
〇この作業の過程で、高橋典成さんが新幹線の北上駅まで迎えに来れないとき、菊池多美子さんが高橋典成さんに頼まれて自動車で迎えに来てくれた。この送迎の車中、菊池多美子さんのホームヘルパー実践を聞いて、実質的にコミュニティソーシャルワーク機能を発揮しているし、具現化していることを知る。それは、まさに菊地多美子さんの本『ウンダナ―ヘルパー奮戦記・福祉の鐘を鳴らすまち』に詳しく記述されている。コミュニティソーシャルワーク機能のアウトリーチ型ニーズ把握、制度がなければ新しいサービスを開発する、役場、民生・児童委員、自治会、老人クラブ、保健師を巻き込んでの多機関協働のカンファレンス等展開していた。
〇この実践を聞いて、かつその実践に何回か参加させて頂いて、日本でもコミュニティソーシャルワークを展開できる可能性があると考えるようになった。
〇ただ、菊池多美子さんの実践は多分に“個人的職人芸”として展開されており、湯田町社会福祉協議会がコミュニティソーシャルワークを組織として展開する状況ではなかった。
〇この点から、職員個々人はコミュニティソーシャルワーク機能を十分理解し、それを展開できる力量を身につけなければならないが、その実践を社会福祉協議会等の組織がバックアップできる、コミュニティソーシャルワークを展開できるシステムを同時に作らなければならないと思った。この点は、デンマークやスウエーデンの個別支援のマネジメントとそのケアマネジメントを財源的にも、組織的にもバックアップするシステムの重要性から学んだことである。
〇「ふれあいのまちづくり事業」の展開が、私の目にははかばかしくないと思え、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化は難しいかとやや意気消沈している中で、菊地多美子さんの実践を見聞きし、再度コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を図ろうと気を取り直した。
〇そんな折、長野県茅野市矢崎市長から福祉アドバイザーに任命された。諏訪中央病院の院長をしていた鎌田實先生と茅野市医師会の会長をしていた土橋善蔵先生が私の考え方を全面的に支援してくれた。特に、鎌田實先生は、佐久病院の若月俊一先生から地域医療を学び、集英社から『がんばらない』という地域医療の実践の本を出していて、地域医療の第一人者であるが、その鎌田先生から、地域医療は限界がある、地域での自立生活を支援するためには地域福祉が重要だ。全面的に支援するから地域福祉のシステムをしっかりと創って欲しいと励まされた。
〇そのようなこともあり、茅野市では地域福祉計画『福祉21ビーナスプラン』の策定で、2000年から市内を4つの在宅福祉サービス地区に分け、その各々に保健福祉サービスセンターと診療所を併設設置した。保健福祉サービスセンターには、市役所にいた福祉事務所の職員と保健師を4つのセンターに配属し、かつ社会福祉協議会の職員も配属した。保健福祉センターは、住民にとって「福祉アクセシビリティ」の良い、総合相談窓口になると同時に、社会福祉協議会職員を中心にしたアウトリーチ型ニーズキャッチが展開され、コミュニティソーシャルワーク機能を発揮できるようになった。この茅野市の保健福祉サービスセンターシステムと実践が2006年に介護保険制度で導入された地域包括支援センターのモデルである。
〇この間、筆者は、日本社会事業大学社会福祉学部地域福祉計画学科の教員(大橋謙策、手島陸久、辻浩、千葉和夫)と大学院の院生及び修了者(田中英樹、宮城孝、野川とも江、小野敏明、原田正樹、國光登志子、鷹野吉章)を組織し、実践現場としては富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん、岩手県湯田町社会福祉協議会の菊池多美子さん、東京都狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん、山形県鶴岡市社会福祉協議会の佐藤豊継さん、島根県瑞穂町の日高政恵さん等にも参加して頂き、「コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス」を研究実践テーマとして、厚生省老人保健健康増進等事業の研究助成を活用して実践的研究を行ってきた。「自己実現サービス」を入れたのは、社会福祉現場雄の社会福祉観の貧困、生活観の貧困を払しょくし、憲法第13条の理念を社会福祉分野でも確立したいと考えて入れた。
〇その研究助成事業の成果は、2000年8月に『コミュニティソーシャルワークと自己実現サ―ビス』(編著、万葉舎、2000年8月)として万葉舎から上梓された。
〇この実践的研究が筆者に日本でも十分コミュニティソーシャルワークを展開できると自信が持てるようになった。筆者のコミュニティソーシャルワークの日本的定義はこの研究活動の中でほぼ完成した。
➅地域福祉実践及び研究の成果の出版化
〇1990年代後半は、研究成果を発表する論文、編著、単著等の刊行が相次いだ。それは大きく分けて6つに分類できる。
〇第1には、1987年に創設した日本地域福祉学会における共同研究をまとめる編集を担ったことである。
〇安田火災保険福祉財団から研究助成を頂き、学会の北海道支部、関東支部、関西支部で「地方地域福祉史研究」の共同研究ができた。その成果が『地域福祉史研究序説』(編著、1993年、中央法規)である。本を出版するだけでなく、研究セミナーも開催することができた。当時、社会福祉学界ではあまり共同研究のスタイルが確立しておらず、それができたことは嬉しかった。この研究が継続できていれば、各都道府県ごとの地域福祉史研究が進むと考えていたが、財源的にそれは無理であった。
〇また、右田紀久恵先生と一緒に編集業務に携わった『地域福祉事典』(編著、中央法規、1997年9月)の編集も思い出で深いものがある。この事典で、地域福祉に関わる実践的、研究的課題について整理することができ、社会福祉分野において地域福祉というものの実践、研究を確立できたと思った。右田紀久恵先生は、当時大阪府立大学を定年になり、東京国際大学に転職されており、東武東上線の北朝霞駅で待ち合わせして編集したのも懐かしい。
〇第2には、放送大学のテキストを執筆したことである。『地域福祉論』(単著、放送大学教育振興会、1995年)と新訂版の『地域福祉』(単著、放送大学教育振興会、1999年)を単独で執筆した。この当時はラジオで録音したものを流していた。後の2008年には仲村優一先生の後を継いで「新訂社会福祉論」を出し、2012年には『改訂新版社会福祉入門』を執筆した。いずれも筆者単独で執筆した。「社会福祉入門」はテレビで放映された。
〇第3には、私が関わって作成した市町村の地域福祉計画、あるいは生涯学習計画についての成果を上梓した。地域福祉計画だけでは“画に描いた餅”になりかねないので、計画に基づく実践がきちんと展開されていることを踏まえて本として上梓した。
〇狛江市の『地域福祉計画策定の視点と実践』(編著、1996年、第一法規出版)、長崎県鹿町の地域福祉計画を長崎国際大学の高橋信幸先生や長崎県社会福祉協議会の事務局の山本力さんなどと協働して取り組んだ成果の『総合支援型社協への挑戦』(編著、2000年12月、中央法規)、岩手県遠野市の『21世紀型トータルケアシステムの構築―遠野ハートフルプランの展開』(編著、2002年9月、万葉舎)、茅野市の『福祉21ビーナスプランの挑戦』(編著、中央法規、2003年)、山口県宇部市の生涯学習計画『いきがい発見のまち』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、富山市山室中部小学校での3年間に亘る福祉教育実践のまとめとしての『福祉の心が輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達』(編著、1999年、東洋堂企画出版)等である。
〇第4には、日本地域福祉研究所の所員、研究員に執筆の機会を提供したいと考えて共同研究を進め、その成果を上梓した。
〇『地域福祉実践の課題と展開』(編著、東洋堂企画出版、1997年)、『社会福祉基礎構造改革と地域福祉の実践』(編著、東洋堂企画出版、1998年)、『介護保険と地域福祉実践』(編著、東洋堂企画出版、1999年)、『地域福祉計画と地域福祉実践』(編著、2001年、万葉舎)等が該当する。
〇第5には、前号で述べた『高校生が学ぶ社会福祉シリーズ第一巻 社会福祉基礎』(単著、1996年8月)である。
〇第6には、日本社会事業大学の田辺敦子先生と共著で、『保母・社会福祉主事になるには』を1976年に出して以降、『社会福祉士・保母』、『社会福祉士・介護福祉士になるには』を経て、1990年代後半では社会福祉士を独立させることになり、ぺりかん社の「なるにはシリーズ」の一巻として『社会福祉士になるには』(単著、ぺりかん社、1999年)を書いた。このぺりかん社の本はよく売れた。
〇第7には、日本社会事業学校連盟の『戦後社会福祉教育の50年』(共著、ミネルヴァ書房、1998年)である。実質的には東洋大学の大友信勝先生が中心になり、編集された。当時の日本社会事業学校連盟の会長は東洋大学の一番ケ瀬康子先生であった。
〇この本の論文では、戦前の社会事業主事制度から戦後の社会福祉主事制度、大学の教育課程の認証制度、日本社会事業学校連盟の専門職員養成ガイドライン等について書いた。
➆イギリス、アメリカ等寄付文化の調査研究
〇筆者は、1980年代末に、日本には冠婚葬祭に代表される限られた関係での相互扶助制度はあるが、見ず知らずの社会的に困窮している人への「博愛」はなく、それに伴う「寄付の文化」が育っていないと指摘してきた。
〇筆者は、1990年に雨宮時枝論文を読み、日本の社会福祉研究の狭隘さを痛感させられたことは前号でも述べた。
〇筆者は、1994年に中央共同募金会が設置した「21世紀を迎える共同募金のあり方検討委員会」の委員長に任命され、1996年に「新しい『寄付の文化』の創造をめざして」と題する報告書を出した。
〇この報告書では、共同募金の配分の仕方を社会福祉施設や生活保護世帯へ配分するのではなく、在宅福祉サービスの充実強化と地域福祉推進への配分を増やし、共同募金をコミュニティ・ファンドに替えるべきことを提言する。と同時に、日本、アメリカ、イギリスの3か国の寄付のあり方について調査研究すべきだと提案した。
〇中央共同募金会は、財団法人車両競技公益資金記念財団の研究助成を受託し、1996年に調査研究(委員長大橋謙策)を行い、1997年3月に『日米英民間財源比較調査研究報告書』を出す。この調査研究は、2003年にも継続して第2次調査研究が行われた。
〇筆者は、この活動を通して、日本の社会福祉界に「寄付の文化」という用語とその重要性を提起できたと思っている。
〇筆者、かねがね、日本はアメリカのUnited Wayに学ぶより、イギリスのCharities Aid Foundationに学ぶべきではないかと言ってきた。日本の共同募金はアメリカ占領下の影響もあって、アメリカのUnited Wayをモデルにしてきたが、この調査研究を通して、今後はイギリスのチャリティの考え方、歴史に学ぶべきだとその感がより強まった。イギリスの1601年制定の「慈善信託法」、それに関わる1960年新法制定、1989年大改正のチャリティの歴史に学ぶべきだと考えた。
〇この調査研究には、読売新聞論説委員の小谷直道さんやアメリカ三菱電機の社長をし、病院ボランティア活動をしていた渡辺一雄(後に川崎医療大学教授)さん、安田火災記念財団専務の堀内生太郎さん、上智大学助教授の栃本一三郎さん、中央共同募金会の清水義久さん、阿部陽一郎さんたちとともに、日本社会事業大学大学院の修了者、在学生の宮城孝さん、長谷川真司(後に山口県立大学教授)さん、当時は慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科院生の永田祐さんなどにも参加してもらった。宮城孝さんは、このイギリス調査からの知見を活かして博士論文『イギリス民間ボランタリ―セクター』を書き、本として上梓している。
(2026年3月27日記)




